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2006年4月 7日 (金)

詩篇22篇「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」

詩篇22篇    指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べに合わせて。ダビデの賛歌

<私と神の沈黙>

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。      (マタイ27:46)(1)

  私の救いからも、うめきのことばからも、遠く離れておられるのですか。

わが神よ。昼、私が叫んでも、答えてくださいません。             (2)

  夜も、私には、静寂がありません。

<沈黙の後、「あなた」(神)とイスラエルの歴史>

あなたこそは、聖であられ、                         (3)

  イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。                   (4)

  信頼した彼らを、あなたは助け出されました。

彼らはあなたに叫び、助け出されました。                   (5) 

  彼らはあなたに信頼し、恥を見ませんでした。

      <沈黙の後、人から見捨てられた者として「私」>

この私は、虫けら、人間ではありません。(そのように見られています)     (6)

  人のそしり、民のさげすみです。

私を見る者は、みな、私をあざけり、                     (7)

  口をとがらせ、頭をふります。                   (マタイ27:39)

「主(ヤーウェ)に身をまかせ、助けてもらえ。                    (8)

  救ってもらえ。お気に入りなのだから。」              (マタイ27:42,43)

           <沈黙の後、「あなた」(神)と私の命の歴史>

あなたこそは、私を母の胎から取り出した方。                 (9)

  母の乳房に、拠り頼ませた方。

生まれる前から、私はあなた(のふところ)にゆだねられました。         (10)

  母の胎内にいた時から、あなたこそは、私の神です。

      <沈黙の後、「私」を滅ぼす敵>

どうか、私から遠く離れないでください。                   (11)

  苦しみが近づき、助け手がいないのです。

数多い雄牛が、私を取り囲み、                        (12)

  バシャンの強いものが、私を囲みました。

彼らは私に向かって、その口を開きました。                  (13)

  引き裂き、ほえたける獅子のように。                (Ⅰペテロ5:8)

私は 水のように捨て流され、骨々はみな はずれ、                (14)

  心は、私の身体の中で、ろうのように溶け、

力は 焼き物のかけらのように 渇ききり、舌は 上あごについています。    (15)

  あなたは私を、死のちりの上に 置いておられます。

犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが 囲み、                (16)

  私の両手と両足を 突き刺しました。

私の骨をみな、私は数えることができるほどです。               (17)

  彼らは私をながめ、私をただ見ています。

私の着物を互いに分け合い、                         (18)

  私のひとつの着物を くじ引きにします。(彼らの関心は、私ではなく私の着物です) (マタイ27:35)
      <「あなた」(神)に向かっての「私」の叫び>

あなただけは、主(ヤーウェ)よ。遠く離れないでください。              (19)

  私の力よ、急いで私を助けてください。

救い出してください。私のたましいを 剣から、いのちを 犬の手から。       (20)

救ってください。獅子の口から、野牛の角から。                            (21)

             <しばしの沈黙の後、神の救いを宣言>

あなたは私に答えてくださいました。(答えてくださいます)

私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、                   (22)

    会衆(教会)の中で、あなたを賛美しましょう。                    (ヘブル2:14)

(ヤーウェ)を恐れる人々よ。主を賛美せよ。                                      (23)

    ヤコブの すべてのすえよ。主をあがめよ。

    イスラエルの すべてのすえよ。主の前におののけ。

まことに、主は、悩む者の悩みを、さげすむことなく、厭うことなく、        (24)

  御顔を隠されもしなかった。                      (ヘブル5:7)

    むしろ、助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

        <主への賛美の広がり、感謝の祭り>

大会衆の中での私の賛美は あなたから出たものです。             (25)

  私は、誓いを 果たします。(主への感謝のいけにえをささげます)               (詩篇50:14、66:13-15)

    主を恐れる人々の前で。

悩む者たちは、食べて、満ち足り、                      (26)

  尋ね求める人々は、主(ヤーウェ)を賛美しましょう。

    あなたがたの心が、いつまでも生きるように!

        <神の国の広がりと完成> 

地の果て果てもみな、思い起こし、主(ヤーウェ)に帰ってくるでしょう。    (使徒1:8)(27)

  国々の民もみな、あなたの御顔に、伏し拝みましょう。

    まことに、王権は主(ヤーウェ)のもの。主は国々を統べ治めておられる。    (28)

地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、                      (29)

  ちりに下る者もみな、御顔に、ひれ伏す。

    おのれのいのちを保つことができない人さえも。

子孫たちも主に仕え、私の主(主人)のことが、次ぎの世代に語り告げられよう。    (30)

彼らは来て、生まれて来る民に、主の義を 告げ知らせよう。               (31)

        主がなしてくださったことを。

<はじめに> 

   私は大学での英語の授業で宣教師に出会ったのをきっかけに聖書を読むようになりました。イエスによる様々な癒しの奇跡の記事を読みながら、「よくこんなこと信じられるな」と思ったものです。

そしてなおも読み進むと、不思議なことばに出会いました。それは、イエスが十字架上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだということです。

そのとき私は、「何と往生際の悪いことか。やはりこれは信じるに値しない。」と思ったものでした。私は、宗教とは、自分の心を自分で制御できるようになるための道、どんなときにも平安でいられる道だと思っていましたから、この嘆きは受け入れがたく思えたのです。

ところが、今は、イエスの十字架上でのその叫びが、私の心に何よりの平安をもたらすようになりました。それは、そのことばが、今お読みいただいた詩篇22篇の初めのことばそのものだということが分かり、そこに記されている心の微妙な揺れが何とも身近に感じられるようになってきたからです。なお、この詩篇はイエスの一千年前の王ダビデによって記されたものです。

私は小さい頃から、人の目がいつも気になり、寂しがりやで臆病であることを恥じていました。もっと人の反応やまわりのできごとに左右されない不動の心を持ちたいと願っていました。その渇きがあったので、大学生の頃、聖書を読みたいという気になったのかと思います。

今や世間的にはプロの宗教家になってしまい、年齢も五十を超えましたが、相も変わらず自分の心は不安定なままです。誉められると良い気になり、批判されると落ち込みます。最近はまた、パソコンが言うことを聞いてくれないことにむしょうに腹が立ちます。いわゆる悟りの境地からは程遠い状況です。

しかし、今、私が目指し続けている信仰の成長とは、不動の心を持つようになることではなく、神との「祈りの交わり」において成長することです。事実、私の心は信仰の歩みとともに、いろんな出来事にかえって敏感に反応するようになり、傷つきやすくなっている面さえあります。それはこのままの自分が神の愛に包まれているということが分かるに連れ、自分で自分を守ろうとする構えから自由になったからかも知れません。そして、今、私の抱える様々な不安や葛藤や孤独感は、世の多くの人々が抱える心の痛みを理解する窓とされています。

その同じ思いが、星野富弘さんの詩に記されています。

「わたしは傷を持っている

              でも、その傷のところから

              あなたのやさしさがしみてくる」

   ここにおられるおひとりおひとりも、様々な心の傷を抱えながら生きて来られたことでしょう。ある人は、その心の傷を見ながら、親を恨むことさえあるかもしれません。

しかし、その傷は、創造主であられる神様の優しさがしみてくる泉となるのです。そして、それは同時に、人の心の傷にやさしく寄り添う愛の泉とさえ変えられるのです。

   私は、この年になってつくづく、生まれる前から神に愛され、神のご計画の中で、この地に住む両親の元に誕生させられたということが分かりました。そこに生まれる告白こそ、本日のテーマ、「母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」という感謝に満ちた理解です。

1.「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」

私は、今から五十年余り前の3月31日に、東川町の開拓農民の家の長男として生まれました。この誕生のときにはじまり、何においてもすべてが遅れがちで、小学校三年生の担任などからは「とろい、とろい」と繰り返されるほどで、ソフトボールの仲間にも入れてもらえませんでした。

ところが小学校の高学年から、勉強するたびに成績が上がるようになり、それが嬉しくなり、いろいろありましたが、この地元の東高を経て北大に入り、経済学部時代に約一年間、国費の交換留学生としてアメリカで勉強することも許されました。この世的には、右肩上がりの歩みでした。

しかし、心の中は、いつも何とも言えない「恐れ」にとらわれていました。それは何かを失うことの恐れであり、また、バカにされ、仲間外れにされ、拒絶されることへの恐れかもしれません。最近は、それが「見捨てられ不安」と呼ばれ、多くの日本人が抱える根本的な病理であるとも言われます。

   私は、アメリカ留学中に、多くの輝いたクリスチャンに出会うことができました。彼らは人の目を意識せずに神から与えられた人生を、それぞれ自由に生きていました。そのとき、何とも不思議に、まるで女性に恋をするように、イエス様を信じたいという気持ちになりました。

罪責感に悩んだからでも、大きな挫折を体験したからでも、また聖書の教えがよく納得できたからでもありません。ただ、いろんな意味で、「心が自由にされる」ことへの憧れがあったように思います。

  その後、帰国して札幌のあるルター派の教会に導かれ、洗礼を受け、結婚しました。ただ、就職に関しては、野村證券の札幌支店の営業に配属されてはや三日目に、「神様のみこころを読み間違えてしまった!拓銀のほうがずっと良かったのでは・・」などと深く後悔しました。

でも辞めても行き先はありませんでした。仕方がなく、営業ノルマを達成できるように、トイレでも喫茶店でも、所構わず、必死に祈り続けました。答えがなくても、この詩篇にあるように「私は黙っていられなかった」のです。とにかく、「神様。この苦しみから救い出してください!」という思いでした。また、ノルマを果たすために、良心が傷むような仕事もしましたが、日曜日ごとの礼拝では、「神様ごめんなさい!」と懺悔の祈りをささげました。でも、説教が始まると疲れのあまり眠ってばかりでした。

ただ、神様はそんな身勝手な祈りに耳を傾けてくださり、どう考えても証券営業には不向きな私にそれなりの結果を出させてくださり、社費でドイツに留学する道が開かれました。

当時は、天にも昇るような気持ちになるばかりでしたが、今振り返ると、それこそ、私にとっての「祈りの学校」であったかと思います。少なくとも、支店営業時代の私は、自分の無力さに圧倒されるばかりで、自分が正しい人間だなどと思いようもなく、ただ主のあわれみにすがるしかありませんでした。

今になって思うと、神様が「遠く離れている」と思いながら必死に叫んでいたとき、神様は身を低くしてこの私の叫びに耳を傾けておられたのでした。私は、みこころから離れた場にいたと思っていましたが、神様の側から証券営業の現場に降りてきてくださり、私とともにいてくださったのでした。

ところで、イエスの名は、聖書で「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる)とも呼ばれますが(マタイ1:23)、何と、その方が十字架で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。つまり、「神はともにおられる」という名の方が、「神はともおられない」と叫んだのです!何という矛盾でしょう?

しかし、イエスは十字架で、全世界の罪を負い、誰よりも醜い罪人となって、父なる神から見捨てられていることを味わっておられたのです。イエスにとって何よりも辛かったのは、十字架の釘の痛み以上に、最愛の父なる神から見捨てられていると感じざるを得ない点にありました。

ですから、イエスの叫びは、決して、「往生際が悪い」者の叫びとは次元が異なります。しかも、これが詩篇22篇のことばそのものであることが分かるとき、「神に見捨てられた」と一時的に感じることと、「神は私とともにおられる」と告白することには矛盾がないという信仰の真理を理解する鍵となります。

それにしても、この叫びが、私の心をとらえて離さなかったのは、私の中にある「見捨てられ不安」がそれに共鳴したためだったように思えるのです。今、この詩篇の文脈全体からこれを見ることを学んだとき、私は感動とともに分かったことがあります。それは、イエスが、神に見捨てられていると失望する者たちの代表者となるために十字架にかかってくださったということです。

イエスは、「どうして私を見捨てたのですか!」と恨みがましく叫んだわけではありません。この中心的な意味は、神から見捨てられたと感じざるを得ない状況の中で、なお、「わが神、わが神」と、その神を私自身の神であると告白し、「どうか見捨てないでください!」とあきらめずに祈り続けたことにあるのです。

1,2節にあるように、この詩篇の作者は、神が沈黙しておられる中でも、なお繰り返し叫び続けています。心は乱れて夜も眠ることができないほどなのですが、なおも神を呼び求めています。

その上で、3節から、神に向かって「あなた」と呼びかけつつ、イスラエルの歴史に現わされた神のみわざを思い起こします。ここには、自分の状況をそのまま訴える「私」の視点と、沈黙を経て、神のみわざを思い起こす「あなた」の視点が交互に描かれているのです。

4,5節には、「信頼」ということばが三度も繰り返され、神への信頼が究極的には必ず報われることを告白します。これは私たちが聖書から学ぶことです。

しかし現実は、それとはかけ離れているように見えます。6節にあるように、「私」は、人間の尊厳を奪われ「虫けら」のように扱われています。神を呼び求める姿が、物笑いの種とされ、8節にあるように、「主に身をまかせ、助けてもらえ。救ってもらえ。神のお気に入りなのだから」とあざけられます。

イエスが、私たちのために十字架にかかられた時、まさにこれと同じあざけりを受けたのでした。目の前の人々の罪を負って、その身代わりに苦しんでおられるというのに・・・。

私たちは、何よりも、人の誤解や中傷に傷つきますが、その苦しみを、イエスは誰よりも深く味わってくださったのです。

人はしばしば、信仰と幻想を混同します。私達がこの地に住む限り、孤独と暗闇のときを通らなければならないというは避けがたい現実です。「こんなはずではなかった!」と思うときが、必ず来るものです。しかし、そのとき、それは、すべての信仰者が必ず通るべき道であると納得するとき、あわてふためく必要がなくなります。イエス様ご自身が私達の代表として既に通られた道なのですから・・・。

2.「あなたは私を母の胎から取り出した方、生まれる前から・・あなたは私の神です」

その上で詩篇作者は、沈黙の後、9,10節で次のように告白されます。ご一緒に読んでみましょう。 

「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。  母の乳房に拠り頼ませた方。

生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。

母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。」

ここで再び、神を「あなた」と呼びかけ、「私」の誕生の場に神がおられたことを覚えます。そして、神様が何と、有能な産婆さんに例えられたのです。

私はよく母から、「お前は頭が大きかったから、出産が大変だった。」と言われてきました。当時は、病院ではなく、産婆さんに助けてもらうのが普通でしたが、その産婆さんを使って僕の大きな頭を狭苦しい産道から引き出し、母の乳房を吸わせたのは神ご自身だったというのです。

難産だったのは、私が安全な母の胎から出されることを本能的に恐れ、抵抗していたからかも知れません。そして、実際、この世界は決して住みやすいところではなく、争いと不安に満ちています。それで、多くの生き難さを抱えた人の中に、この母体に戻ることへの憧れがあるとさえ言われます。

しかし、この苦しみの始まりを導いたのは神ご自身でした。神こそが「私を・・母の乳房に拠り頼ませた方」であり、私は、母のふところに憩う前から、神の「ふところにゆだねられていた」というのです。

人によっては、「私は母によって傷つけられたけれど、その後、神を信じて救われた」と考えますが、ここでは、「母の胎内にいた時から、あなたこそは、私の神です」と告白されます。

私はいろんな意味での生き難さを抱えており、それは基本的に出生に由来します。しかし、「母」以前に「私の神」が、あの大雪山の麓の貧しい農家での私の誕生を、計画され、喜んでおられたと感じられた時、世界が変わりました。様々な痛みは、神と人との交わりを築くために用いられるからです。

   ところで、それにしても、証券営業は、開拓農民育ちの私にはどうもしっくりきませんでした。ドイツの教会に集い、そこで出会った日本人と家庭集会を開く中で、自分の十字架を負ってイエスに従う道が問われ、「より苦しみ甲斐のある人生」を望んでキリスト教会に仕える道を望みました。

また同時に、本当に逆説的なのですが、そこでの物理学の最先端の科学者との出会いから、聖書の奇跡をそのまま信じることができるようになりました。私は、科学の限界を知らないから、聖書をそのまま神のことばと信じることを躊躇していたのだと示されました。

いのちの誕生の神秘をあまりにも軽く見すぎてはいないでしょうか?あの精子と卵子の結びつきから、どうしてこのように驚くほど精密で複雑な生命体ができるのでしょう?あの不思議な遺伝子の組み合わせは、自然にできるものなのでしょうか?学校では進化論が科学かのように教えられますが、どの科学者が、アミーバーから人間に至る遺伝子の進化のプロセスを解明できたというのでしょう?

私のいのち、そして、あなたのいのちは、神の最高傑作です。あなたの創造主は、父でも母でもなく、神ご自身なのです。ただ、神はそのために父と母を用いてくださったに過ぎません。

信仰とは、目に見える現実を超えた神のご計画を知ることです。あなたの誕生は決して、偶然でも、間違いでもありませんでした。苦しみは、誕生の瞬間から私たちの人生の一部なのですから、それを避けようとするのではなく、かえって、それを正面から引き受け、「苦しみ甲斐のある人生」を歩むべきでしょう。神は、目的を持って、あなたを特別にユニークに創造してくださったのですから。

3.「あなたは私に答えてくださいます」

ところで、私は牧師になって改めて、イエスの十字架上の痛みの本質が分かるようになりました。愚かにも私は、自分が牧師になったら教会はすぐに成長するぐらいに思っていました。ところが、牧師の働きは、人間の複雑なたましいを相手にしますから、努力と結果は、なかなか結びつきはしません。

それどころか、誰よりも多くの時間をかけ、誰よりも気を使ったはずの信者に限って、教会を去ってゆくという逆説を見ることがあります。そのような方は、人との関係を築くのがとっても下手で、すぐに被害者意識に流れる傾向があります。こちらが真剣になればなるほど、自分がコントロールされているように感じ、息苦しくなって去ってゆくということがあるのかも知れません。

でも、恥ずかしい話ですが、そんなとき、その人の傷みを思う以前に、自分自身が被害者意識に流されそうになります。そして、自己憐憫に陥りそうになることがあります。

しかし、イエス様でさえ、一番弟子のペテロから三度、「知らない」と言われ、そればかりか、手塩にかけて育てた弟子のユダから裏切られたのです・・・・。それを思うとき、私の心の目は、自分自身からイエス様に向けられます。イエス様こそは、誰よりも深く孤独の痛みに苦しんでおられたからです。

その孤独感が、この詩篇の6-8節に続いて、11節-18節でも詩的に表現されています。特に18節は実際にイエスの十字架で起こったことです。その基本は、人生の最も暗いときに、そこに当人がいないかのように、完全にその存在を無視されるという痛みです。

そして、19-21節では、神に向かっての必死の祈りが、「遠く離れないでください」「急いで助けてください。」「救い出してください」「私を救ってください」と四回も繰り返されます。

その上で、21節の終わりに、突然、「あなたは私に答えてくださいます」という宣言があります。実は、神のみわざは、しばしば「もうだめだ!」と思った瞬間、圧倒的に迫って来るものなのです。

信仰は理屈を超えています1,11,19節で三回も繰り返された、神が「遠く離れておられる」と感じられる現実は、24節にある告白、「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを呼び求めたとき、聞いてくださった」(24節)ということを、腹の底から確信するために不可欠なのです。それこそ、私が証券営業時代に体験した第一のことであり、またそれは私の幼児期の現実でもあったようです。

母は、私を産んで間もなく、私を籠に入れて水田のあぜに置き、田植をしなければなりませんでした。そんな時、私は水田の中に落ち、鼻の頭だけを出し、叫ぶこともできずに死にそうになりました。ふと母は、心配になり、水田から上がって来ました。私を見つけるなり、嘆き叫びながら、呼吸がとまりかけ冷たくなった私を必死で抱き暖めました。私は息を吹き返しました。

私が瀕死の時、母は「遠く離れて」いましたが、この出来事は、不思議に私の心の中では、母が、そして後には、神が、いつも「私とともにいる」という実感につながっています。

イエスの十字架と復活の関係も、そのように、父なる神と御子なるイエスとの永遠の愛の交わりの観点から見ることができます。イエス様が、十字架で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ三日目に、イエス様は死人の中からよみがえられました。そして、イエスの復活こそが、「あなたは私に答えてくださいます」という祈りの「答え」になっているのです。

そして、22節では、「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しましょう」と告白されます。新約聖書へブル人への手紙では、これが引用され、復活の主は、私たちをご自分の弟、妹として呼ぶことを恥としないと解説されます(ヘブル2:11,12)。

そして、復活したイエス様は、私たちをご自身の弟、妹として集め、教会を造ってくださいました。それで私たちは日曜日ごとに、イエスに導かれて、イエスの父なる神に感謝の祈りをささげるのです。

イエス様は、今、慈しみ深い兄として私たちの前を歩き、どのような暗闇の中にも希望を与えて下さいます。私たちは、今、イエス様の弟、妹とされた者として、イエスの父なる神に向かって祈ることができます。そして、「あなたは私に答えてくださいます」と告白することができるのです。

どうか、これを本当に心に留めてください。私達が「もうだめだ!」とピンチに陥ることは、神の圧倒的なみわざを体験するチャンスなのです。ですから、決してあきらめずに待ち望んでください。

4.「大会衆の中での私の賛美は、あなたからのものです」

その上で、神への賛美が、「私」から民族や世代を超えて広がって行く様子が描かれています。22節での、「会衆の中で・・賛美」は、25節では、「大会衆の中・・」へと成長しています。そして、それは神から「出たもの」だと告白されます。そして、その賛美の輪が、全世界に広がり、また世代を超えて広がる様子がこの詩篇の終わりに向って描かれています。

このように、神に見捨てられたと感じた者が、神のみわざを証しし、神への賛美を導く者へと変えられて行くプロセスは、今も、繰り返し、あなたのまわりでもあなた自身にも起きているのです。

私たちが母の胎から取り出され、様々な困難の中でも守られてきたのは、神が私たちを生かしたいと願っておられるからです。それゆえ、私たちひとりひとりには固有の使命が与えられています。

よく「このままで良いんですね」と尋ねられることがありますが、答えは、「はい」であり、また、「いいえ」です。聖書の教えは、「そのままの姿でイエスについて行きなさい」ということです。イエスに従ってゆくときに、あなたの過去のすべての苦しみや痛みが、異なった意味を持つようになり、すべてのことが益になっていることが分かるということです。

私は、幸い、牧師になったことを後悔したことや牧師を辞めたいと思ったことは一度もありません。しかし、神が私に与えてくださったユニークさが理解できず、自分らしくないやり方に固執して、数々の失敗をしてしまったことは反省しています。

理想的な教会形成の方法なども学び、それを実践しようとしましたが、自分にはしっくり来ませんでした。そして分かったことは、やはり、僕は、「この父の息子」だということです。どうも、チームワークを作るのが下手で、人間関係を器用に築くことはできません。

それでも、家内からは、「あなたは、よく懲りもせずに、難しい人と向き合うわね・・」と感心されます。そんな中で、ふと私は、父からどうしようもない不器用さを受け継ぐと同時に、働きを途中で投げ出すことをしないための忍耐力をも受け継がせていただいていることを感謝できるようになっていました。

父は、現在の水田の土を良くする為に(客土といいますが・・)、良い土を別のところから馬橇で運んで、三ヘクタールの水田すべてを覆いました。それを私は幼い頃手伝ったことがあります。あまりにも途方もない作業なのでそれをやり遂げる人は稀ですし、人からなかなか理解もされません。私は、なかなか働きの結果が見えなくてあせるとき、この父の姿を思い浮かべて励まされます。

あなたは親から受け継いだ様々な負の遺産を嘆くことがあるかもしれません。しかし、神は、それとセットで、それを補ってあまりある様々な能力を恵みとして与えておられるのです。それらが組み合わされて、あなた固有の人格を作り上げています。

そして、神は、あなたを様々な試練を与えながらも、それを通してご自身の救いを示して、「わたしはお前が生まれる前からお前の神だ。わたしこそがそのままのお前を生かすことができる」と語りかけておられるのです。

私たちは挫折を繰り返すたびに、神に創造されたままの自分らしい生き方に目覚めることができるのかも知れません。そして、自分には、自分にしかできない働きがあることが分かるとき、本当に、生かされてきたことの恵みを、神に感謝できるようになります。

つまり、すべてが神から始まり、神への賛美と変えられるのです。

私は昔、自分の田舎は好きではありませんでした。世界にはばたきたいと思っていました。しかし、今、この大雪山を仰ぎ見る風景が好きでたまりません。私がキリストに従う決心をしたとき、宣教師の方から、今、天では天使があなたの回心を喜び歌っていると言ってくれました。それはその通りです。

しかし、私は今、つくづく、私が神を知るずっと前から、神は私を知っておられ、ご自身の栄光に用いるために、敢えて、東川の今の両親のもとに誕生させてくださったと信じています。

私は今、本当に、「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」と告白できることが嬉しくてたまりません。神が与えてくださった親、兄弟、友人、この風景、それらがすべて宝物に思えています。

あなたはどうでしょうか?自分の生涯を、神の眼差しから見直すとき、すべてが変わります。

※下記の広告と当教会とは一切関係がありません。

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