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2006年4月 5日 (水)

詩篇55篇「あなたの重荷を主(ヤーウェ)にゆだねよ」

「神に委ねることなどできません!」と、末期ガンに苦しむご婦人が言いました。残されるふたりの少年のことを思いながら「神よ。どうして!」とうめいていました。しかし、詩篇の中にその同じ気持ちが記されていること発見したとき、彼女は不思議な平安に包まれました。

最も神を必要とする時に、神が見えなくなったとしても、そこから新しい祈りが始まります。

 

1.  「私は不安にとらわれ、心に休みなく、混乱しています」

  著者は、親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいます。1-5節のような気持ちは無縁と思う人もいるでしょう。しかし、感情は説明し難いものです。ヘンリ・ナウエンは、50代半ばの頃、心の奥底を分かち合える友に出会い、急速に依存して行きました。しかし、あまりにも多くを求め過ぎたため友情は破綻しました。彼は、世界が崩れたと感じ、眠られず、食欲もなく、生きる気力を失いました。彼はその鋭い霊的洞察力によって世界中の人々から尊敬されていましたが、その信仰が何の助けにもならないと感じました。別に、友が裏切って命を狙ったわけではないのですが、彼はこの詩篇にあるとの同じ気持ちを味わったのです。私たちは、失恋でも、失業でも、夫婦喧嘩や約束の時間に遅れた時でさえ、「私は不安にとらわれ、心に休みなく、混乱しています」(2節私訳)という感情を味わうかもしれません。

私たちは、その混乱したままの気持ちを、この詩篇を用いて神に訴えることが許されています。その時、ゲッセマネの園で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:37)と悶え苦しまれたイエスに出会うことができます。イエスご自身も、孤独でした。愛弟子のユダに裏切られ、弟子たちが逃げ去ることが分かっていたからです。そして、イエスは、私たちの心が些細なことで混乱することを、軽蔑することなく、いっしょに悲しんでくださいます。

心の内側に湧き起こった感情を、自分で制御しようとして、混乱を深めたことがないでしょうか?不安こそ、怒りの源泉ですが、それで周りの人を傷つけたり、また、自分を責めて鬱状態になることがあります。この人は、自分の心の状態を、分析することも、言い訳することもなく、そのまま言葉にしています。それは感情に振り回されないためのステップです。彼は、「私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。恐れとおののきが私に臨み、私はひどくおびえています」(45節私訳)という四つの並行文で、自分の恐怖心を認め、その中に入りこみます。あの勇気に満ちたダビデが、自分の気持ちを、ひとりぼっちで身体を震わしている少女のように描いています。彼はその気持ちを静かに味わい尽くそうとしています。

自分の感情を、あるがままに味わってみましょう!それは、心の奥底で神との交わりを体験する機会です。ナウエンは、その繊細さのゆえに生き難さを抱えましたが、同時に、多くの人々への慰めを語ることができました。自分の気持ちを受けとめられない人は、人の気持ちをも受けとめることができません。そして、神との交わりも浅いものにとどまってしまいます。

目の前の問題を解決しようと必死になる前に、自分の気持ちを優しく受けとめ、それをそのまま神に差し出すことができます。そして、それこそ御霊に導かれた祈りです。

2. 「鳩のように翼があったなら・・・」

  しかも、この人は「この問題から逃げ出そうとせずに、しっかりと向き合え!」などと自分を励ます代わりに、「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら飛び去って、休むものを・・」(6)と、逃げ出したい気持ちにも優しく寄り添っています。その上で、逃げ場のない現実を描いて行きます。彼の住む町の中には、「暴虐と争い」、「罪悪と害毒」、「虐待と詐欺」が満ちています(9-11)。人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。

そればかりか、最も近しい人が最も恐ろしい敵となっているというのです。たとえば家庭で精神的な虐待を受けるなら、どこに逃げ場があるでしょう。しかも、そんな敵にかぎって、「滑らか」で「優しい」言葉を用いて語りかけます(21)。その結果、「やはり、私が悪いんだ・・」などと思わざるを得なくなります。それは、あなたの逃げ場を塞ぐ、巧妙な攻撃です。

ところで、著者は、何と、「荒野」「私ののがれ場」と描いています。それは誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所です。しかし、だからこそ「神だけが頼り」となるのです。つまり、彼は「鳩のように翼があったなら・・」という白昼夢の世界に逃げているようでありながら、「あらしと突風」(7節)のただ中で、神との対話に安らぎを見出そうとしているのです。  

一昨年のビュルキ先生のセミナーでのことです。私があることへの感想を述べた時、それが自分の気持ちを隠した評論家的なものであったことを先生から突っ込まれました。私は皆の前で恥をかかされた気持ちになりました。その時、先生は、皆に向かって「彼に安易な慰めの言葉をかけてはならない」と命じられました。また私には、「湧いた感情をいじってはならない。自己弁護してはならない。受けるべきケアーを受けられなくなる・・」と言われました。徐々に予期しない形で不思議な慰めが与えられ、一週間近く経って、黙想の時に読まれたみことばが、心の奥底に迫って来て、感動に満たされました。後で先生が、「説明は、多くの場合正しくない。弁解の延長線上にあるからだ。『自己弁護する者は、自分や人を非難している』“S’EXCUSE S’ACCUSE”(フランスの諺)」と語ってくださいました。私は、しばしば、人に慰めを求めるか、自分で自分をカウンセリングばかりしてきたように思えます。本当の意味で、問題を抱えたまま神の御前に静まり、神の解決を待ち望むことができませんでした。

しかし、ダビデは恐怖におびえた心を、そのまま神にささげました。その結果、彼の心は、まさに鳩のような翼を得て、神のみもとに引き上げられ、安らぐことができたのです。

3. 「(ヤーウエ)は私を救ってくださる

  「私が、神に呼ばわると、主(ヤーウェ)は私を救ってくださる」(16)とありますが、私が天に向かって叫ぶと、神は「わたしは『わたしはある。』という者である(出エジ3:14)というご自身の名を示しつつ、親しく、私に答えてくださいます。そして、「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」(17)と証しされます。私たちの目の前には、神が「私の切なる願いから、身を隠しておられる」(1)と思える現実が起こり得ます。しかし、ダビデは、苦しみのただ中での祈りの体験を通して、自分の声が確かに神に届いていたことを確信できたのです。それは頭での理解ではなく、腹の底からの確信となりました。

  この詩篇には、「敵を愛する」代わりに「のろっている」ように思える表現があります。しかし、それは、自分の気持ちを正直に神に述べ、神の公正な裁きを訴えたものです。彼の側から敵に復讐しようという姿勢は一切ありません。彼が戦わなくても、神ご自身が「平和のうちに、贖い出してくださる」(18)のですから。私たちは、しばしば、神のさばきを信じることができないからこそ、敵を自分の側から赦すことができないのではないでしょうか。

  このような「私」を中心とした祈りの後に、突然、「あなたの・・」という勧めが入ってきます。これは、ダビデが他の人に神への信頼を訴えたものです。そこには体験に裏打ちされた説得力があります。「重荷を、主(ヤーウェ)にゆだねよ」(22)で、「ゆだねる」とは「放り投げる」という意味です。それは、自分の思い煩いや恐怖感を、そのままヤーウェの御前に差し出すことです。「あなたの御心のままに・・」と祈る前に、自分の感情を注ぎ出す必要があるのです。

  「主は、あなたのことを心配してくださる」とは、何と優しい表現でしょう。これは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく、重荷や思い患いを抱えたままのあなたを支えることです。主の目に「正しい者」とは、主に向かって叫び続ける者のことです。その人を、主は「ゆるがされるようにはなさらず」試練の中で立たせ続けてくださいます。私たちもこのダビデの祈りの世界に招き入れられている者として、いろんなことが起こる中で、「けれども、私は、あなたに、より頼みます」と告白しましょう。

  

キリスト者の交わりは、共依存的な関係ではありません。「ひとりでいることができない者は、交わりに入ることを用心しなさい。彼は自分自身と交わりをただ傷つけるだけである」(ボンヘッファー)という原則を忘れてはなりません。あなたの心は、いつでも、どこでも、鳩のような翼をもって、神のもとに憩うことができます。それこそ、人との交わりの力の源泉です。

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