« 詩篇8篇 「人とは何者なのでしょう」 | トップページ | ルカ8:40-56「恐れないで、ただ信じなさい」 »

2006年4月 5日 (水)

詩篇77篇 「慰めがないときの慰め」

詩篇77篇

                   指揮者のために。エドトンの調べによって。アサフの賛歌

私は神に向かって声をあげ、そして、叫ぶ。                        (1)

 私は神に向かって声をあげる。すると、神は聴いてくださる。

苦難の日に、主を尋ね求め、夜には、疲れも知らず手を差し伸ばしながら、    (2)

 私のたましいは慰めを拒んだ。

私は 神を思い起こし(remember)、そして、嘆く。                       (3)

 思いを巡らし(meditate)、私の霊は衰え果てる。                セラ

あなたは、私のまぶたを閉じさせない。                           (4)

 私の心は乱れて、もの言うこともできない。

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した(consider)。                 (5)

  夜には、私の歌を思い起こす(remember)                              (6)

私は 心のうちで思いを巡らし(meditate)

私の霊は、(答えを)探り求める。

   

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。                           (7)

 もう決して、目をかけてくださらないのだろうか。

主の恵み(ヘセッド、unfailing love)は、永久に絶たれたのだろうか。            (8)

  約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

神は、いつくしみを忘れたのだろうか。                            (9)

  もしや、怒って、あわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」 セラ

                                                 

そして、私は言った。「私が苦しんでいるのはこれだ。(My sorrow is this:         (10) 

  いと高き方の右の手(のわざ)が変わるからだ。」 the changing of the right hand of the Most High!)

私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう(remember)。                     (11)

 まことに、昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう(remember)

私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ(reflect)、               (12)

 あなたの大いなるみわざ(恐ろしいさばき)に、思いを巡らそう(meditate)

神よ。あなたの道は聖です。                                 (13)

 神のように偉大な神が、ほかにありましょうか。

あなたこそは、不思議なみわざを行われる神、                      (14)

 国々の民の中に御力を現される方です。

あなたは御腕をもって、ご自分の民を贖われました。                  (15)

 ヤコブとヨセフの子らを                         セラ

             

水は見ました。神よ。水はあなたを見て、わななきました。               (16)

   大いなる水(創世記1:2原文「テホーム」)さえもまた、震え上がりました。

雲は水を注ぎ出し、雷雲(らいうん)は声を上げ、                        (17)

 あなたの矢もまた、ひらめき飛びました。

あなたの雷(いかずち)の声は、いくさ車のように鳴り、                   (18)

 いなずまは世界を照らし、地は震え、揺れ動きました。

あなたの道は海の中に、その小道は大水の中にありました。              (19)

  それで、あなたの足跡(footprints)を見た者はありません。

あなたは、ご自分の民を、羊の群れのように導かれました。               (20)

  モーセとアロンの手によって。

                          (2006年高橋改訳 へブル語原文から、英語はあくまでも参考) 

人はしばしば、苦しみに合うと、「どうしてこんなことに・・・」と原因を探りながら、過去のことを後悔して自分を責め、ますます落ち込んでゆくという空回りに陥ります。そして、将来への不安から呼吸さえも浅くなることがあります。本来、そんなときこそ、神に必死に祈るべきなのでしょうが、こころの内側には神への不信が沸き起こっており、祈る気力すら湧かないということになります。どうしたら良いのでしょう?

1.「私のたましいは慰めを拒んだ・・・ 主の恵みは・・絶たれたのだろうか・・・」

  私は神に向かって声をあげ、そして、叫ぶ・・・。すると、神は聴いてくださる」(1)とは、信仰の基本です。キリストですら、大きな叫び声と涙とをもって、祈りと願いとをささげられた」(ヘブル5:7)からです。ただ、そのように、「苦難の日に、主を尋ね求め、夜には、疲れも知らず手を差し伸ばす」ようにして必死に主の助けを求めながら、「私のたましいは慰めを拒む(2)ということがあり得ます。たとえば、「主は、あわれみ深く、情け深い」(出エジプト34:6)と言われるのを聞きながら、「それでは、なぜこんな不条理がまかり通るのですか・・」と訴えたいと思うことがあります。しかも、落ち込んでいるとき、問題の解決以前に、ただ悲しみをそのまま受け止めて欲しいと願うのは、人としての当然の感情です。イエスですら、十字架にかけられる直前の日に、ナルドの香油をご自分の頭に注いでもらうことで深い慰めを受けられたのですから。「優しさ」という字が、「人」が「憂い」の傍らに立つこととして描かれるように、愛は痛みに共感することから始まります。人は、落ち込むとき、「自分は何でこうも弱いのか・・」と自分を責めて、悪循環に陥ってしまいがちですが、そんなときに、その人の自己嫌悪に拍車をかけるようなことをしてはなりません。

この著者は、「神を思い起こすことが、賛美ではなく、「嘆き」を生み出し(3)、また、静まって思いを巡らすことが、かえって「私の霊は衰え果てる」原因になると訴えます。実際、私たちも、主の御前に静まることで葛藤が増し加わることがあります。しかし、そこに希望があります。それは、その人の「嘆き」、出口のない空回りではなく、主に向っているからです。多くの人は、この詩篇を読み、「私の気持ちがここに記されている!」と不思議な感動を覚えます。それは、不安と悲しみで「息が詰まっている」たましいが、主に向って呼吸を始めるきっかけになります。祈りの基本は、主に向っての「呼吸」なのですから・・。

人は、悩みが深くなると、眠ることができなくなります。そんなときに、自分の弱さを責める代わりに、神に向かって、「あなたは、私のまぶたを閉じさせない・・」(4)と訴えるとは、何とも不思議です。しかも、「昔の日々」(5)の恵みや自分の心を震わせた「歌を思い起こす(6)ことで、感謝ではなく、神への不満が引き出されるとは何とも皮肉です。それは、目の前の現実が、昔と比べてあまりにも悲惨だからです。ただ、この作者は、「心のうちで思いを巡らし」たことを、自分で飲み込む代わりに、その不敬虔とも言える気持ちを正直に表現します(7-9節)。「もう決して、目をかけてくださらないのだろうか」とは、神の選びへの疑問であり、「主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか・・」とは、神の真実な約束への「疑い」を真っ向から表現するものです。「もしや、怒って・・」とは、自分に原因があると思う中で、絶望して行く様子です。しかし、神に対する疑いを、神に向かってぶつけることこそ、信頼の証しかも知れません。

2.  「私が苦しんでいるのは・・・いと高き方の右の手が変わるから」

そのような中で、著者は突然、「私が苦しんでいるのはこれだ。いと高き方の右の手(のわざ)が変わるからだ」(10)と言います。これは神への不満の表現のようでありながら、同時に、自分が理解できない神のみこころの神秘への信頼でもあります。まさに信仰と不信仰が交差するこの詩篇の転換点です。

たとえば、ヨブがあまりも不条理な苦しみにあったのは、神がサタンにそれを許された結果でした。まるでヨブが、「いと高き方の右の手」の中で、もてあそばれているかのようです。しかも、彼にはその理由を知ることは許されていません。それでも、彼は、神の語りかけを聞くという体験を通して、自分の苦しみが、神のさばきではなく、あわれみに満ちた選びから始まっていることが分かり、「あなたには、すべてができること。どんな計画も成し遂げられることを知りました」(42:2)という告白へと導かれます。また哀歌の著者も、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(3:38)と告白しますが、それが神への信頼の表現であるのは、みことばをとおして神の救いのご計画が理解できた結果でした。

私たちは多くの場合、わざわいの原因も分からなければ、わざわいを避けることもできませんが、それがすべて、神の御手の中で起こっていることだと受け止められるなら、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と告白して安心することができます。

しかも、それは最終的には、私たちの地上の生涯の枠を越えた時間の中で起こることでもあります。人生は、「露と落ち、露と消え行く」ほどに、はかないものですが、この地上のいのちを、神の救いのご計画の全体像から見直すときに、私たちは究極の慰めを受けることができます。日本の歴史だって1500年前ぐらいの記録しかないというのに、三千数百年前に記された聖書の中には、人間がどのように誕生し、どのように堕落し、今、どこに向かっているのかという全体像を見ることができるからです。しかも、その確かさは、星の数ほどの多くの人々の人生を導き、生かしてきたという実績で証明されています。

3.「私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう。」

著者は、ここで、自分の記憶にある「遠い昔の年々」(5)よりもはるか昔の、イスラエルが奴隷の地エジプトから解放されたときにまでさかのぼって、「私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう。まことに、昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ、あなたの大いなるみわざ(恐ろしいさばき)に、思いを巡らそう」(11、12節)と告白します。それは、神がご自身の民の叫びに耳を傾けられ、何と、天を押し曲げて降りてこられ(詩篇18:9)て、エジプトの大軍と戦い、神の民を救ってくださったという、歴史に現された具体的な生きた救いのみわざです。

そして、「神よ。あなたの道は聖です・・」とのことばで、私たちの目は、自分ではなく神に向けられ、神の視点から歴史を見るようにと導かれます。「神のように偉大な神が、ほかにありましょうか。あなたこそは、不思議なみわざを行われる神、国々の民の中に御力を現される方です。あなたは御腕をもって、ご自分の民を贖われました。ヤコブとヨセフの子らを」(13-15節)とは、神のみわざが、私たちの正しい行いに対する報いである以前に、不思議な神の選びとあわれみから生まれているという告白です。私たちの救いは、自分の信仰以前に、神の愛の眼差しから始まっています。そこに究極の慰めがあります。

「水は見ました・・」(16)とは、出エジプトの際、紅海の水が真っ二つに分けられたことを指します。しかも、「大いなる水」とは、創世記1章2節での全地を覆っていた水ですが、それさえも、神の御前で「震え上がる」というのです。そして、この著者は、かつて、「神に向かって声を上げ・・叫んで」いましたが、神は、はるかにまさる大きな「雷雲の(17)「雷の(18)を出しながら、救いの御手を、ご自身の民のために差し伸べてくださったというのです。そして、神にとって、その海にできた道は、「小道」(19)にしか過ぎないもの、神の小指のわざに過ぎません。そして、神の「足跡」(19)は、海の中に消えていますが、それは救われた民を通して確かに証しされています。それは、まさに多くの人に親しまれている「フットプリント」という詩に表わされているように、神が私たちを背負って歩んでくださった記憶でもあります。

しかも、これらのみわざの目的は、神がご自身の民を贖い・・ご自分の民を、羊の群れのように導く」(20)ことにあったのです。イエスも私たちに向って、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません(ヨハネ10:27,28)と約束してくださいました。そして、その神の御手は、同時に、イエスの御手であり、それらの御手の現われとして、「モーセとアロンのがあり、また、私たちの回りの目に見える人々の手があるのです。神が数々の不思議なみわざをしめしてくださったのは、私たちを奇跡の奴隷にするためではなく、この世界の毎日のすべての現実が、神の御手の中にあることを教えるためなのです。 

ドン・モーエンは、義理の妹夫婦が交通事故で9歳の息子を失い、三人の子供も重症を負ったという知らせを聞き、何の慰めも言えないという無力感に襲われます。そのとき、以下の歌が生まれました。この曲は、今、重度の鬱病になった人をはじめとして世界中の困難を抱えた方々の慰めになっています。

「神は、道を造ってくださる。道が何もないと見えるようなところにも。/神は、私たちが見えない方法で働かれ、私のために道を造ってくださる。/神は、私の導き手であり、私をご自身のふところに抱いて、愛と力を日々新しく与えてくださり、神は道を造ってくださる。神は、道を造ってくださる。/神が荒野の道に私を導かれることがあっても、私は砂漠の中に川を見ることさえできる。/やがて、この天と地は滅び失せる。しかし、神のみことばは永遠に残る。/神は、今日も、何か新しいみわざをなしてくださる。」

|

« 詩篇8篇 「人とは何者なのでしょう」 | トップページ | ルカ8:40-56「恐れないで、ただ信じなさい」 »