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2006年4月30日 (日)

立ち返って静かにすれば救われる

イザヤ30:15ー21「立ち返って静かにすれば・・・・」

                                 

 クリスチャンになるとは、祈る人になることです。ただし、自分の祈りの貧しさに失望する必要はありません。祈りは義務ではなく特権なのですから。私たちは歩きながらでも、電車に乗りながらでも、トイレでも、どこでも、一瞬のうちに、心を静め祈ることができます。その恵みが分かると、自然のうちに、祈りの時間を長く取りたいという思いが湧きます。「もっと祈らなければ・・・」から、「祈らせていただける。」と、三位一体の神にとらえられている幸いを体験できます。祈っているとき、御霊が私たちを導き、イエスが私たちの傍らにおられ、父なる神が私たちの祈りに耳を傾けておられるのです。

1。力を得るために

 紀元前721年北王国イスラエルはアッシリア帝国によって滅ぼされ、多くの住民は、その後決して立ち上がることができないようにと遠い国々に散らされました。南王国ユダは、アッシリアの攻撃をどうにか避けていましたが、滅亡も目前と思われました。そのような中で、預言者イザヤはエルサレムに向かって「ああ。反逆の子ら。」(1節)と語りかけます。それは、彼らが、この緊急のとき、イスラエルの聖なる神、彼らの主により頼むのではなく、当時の国際政治の常識にしたがって、北からの脅威に対しては、南のエジプトの力に頼って生き延びようとしたからです(2、3節)。

 それに対して、神は、エジプトではなく、彼らの主、イスラエルを選んでおられる聖なる方に「立ち返る」ことを命じます。それは、回心を迫る招きであり、放蕩息子の帰還を待つ父親の気持ちに通じます。「静まる」とは、「休む、憩う」(28:12)とも訳せることばで、エジプトの代わりに、全能の神の御翼の陰に安らぐことの勧めであり、放蕩息子が父親の抱擁に身を委ねる姿でもあります。そして、そうすることによって、彼らの神が、彼らを救ってくださるというのです。

 続けて、「落ち着いて」とは、まわりの状況に振り回されずに気持ちを鎮めることであり、「信頼する」とは、信仰というより望みをかけるという意味です。そうすると、「あなたがたは力を得」て、あのアッシリア帝国にさえ立ち向かえるというのです。ところが、彼らはそれを望まず、絶望的な状況から逃亡することばかりを考えていました。それを皮肉ったのが16、17節ですが、それは、律法の書に、主に信頼する者に対して、「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる」(レビ26:8)一方で、主のさばきは「ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させる」(申命32:30)と記されていることを思い起させるためでした。

 なお、「立ち返って静かに・・・」とは、決して現実逃避ではありません。ヒゼキヤ王は、アッシリアの使者から受け取った脅迫状を、「_主_の前に広げ」(37:14)、全能の主に信頼する祈りをささげました。その時、主はイザヤを通して希望を語ってくださったばかりか、寝ている間に、「_主_の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、十八万五千人を打ち殺し」(37:36)、主をそしったアッシリア王はその子供に暗殺されたのでした。

 私たちも同じようにして、主にある勝利を体験させていただくことができます。世の人々の間でも、しばしば、忙しく動き回るよりも、じっくり腰を落ち着け確信に満ちた行動で道が開かれるという原則が尊重されますが、私たちの場合は、それ以上に、すべてを支配される神が、私たちのために働いてくださることを期待できるのです。

2。恵もうと待ち焦がれている神

 「_主_は、あなたがたに恵もうと待っておられ」(18節)とは、心を震わす表現です。_主_は、イスラエルの民が、ご自身のもとに立ち返るのを待ち焦がれ、特別な恩恵を施したいと願っておられるのです。そればかりか、放蕩息子の姿を遠く見つけた父が「走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)ように、「あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」のです。その理由が、「_主_は正義の神であるからだ。」と記されておりますが、それは、正義の神だから罪に目をつむることができないというのではなく、彼らの父祖アブラハムへの契約に誠実であり続けるという意味です。なお、この契約関係の成立の条件は、人と人との間の契約と異なり、互いの利益のために相互に責任を果たし合うというようなものではなく、ただ、「主を待ち望む」という点にあるのです。

 神の恵みは良い働きへの報酬であるかのように考える人がいつもいますが、何か特別なことができたとしても、それは、神の恵みの結果であり、私たちの功績ではありません。自分の働きを持ち出して神に自分をアピールしたパリサイ人は退けられましたが、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)と自分の胸をたたいて言った取税人は神のあわれみを受けたのです。ですから、信仰の出発点は、自分のみじめさを神の御前に言い表わすことです。しばしば、不必要なプライドを捨てきれずに人の好意を無にしてしまう人がいますが、神の御前でそのような愚かな振る舞いをしてはいけません。神は、あなたに特別な恩恵を与えたいと待ち焦がれているのですから。

3。「これが道だ。これに歩め。」とのみ声を聞く

 「あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み」(19節)とありますが、私たちの生活には、叫び声をあげざるを得ないことが絶えません。しかし、神は、それに即座に答えてくださるのです。「必ずあなたに恵み」とは、特別な強調表現です。確かに、主は、「乏しいパンとしいたげの水」(20節)という苦難を与えられることはあるにしても、教師たちがいなくなるということはありません。「教師」とは、複数表現で、当時で言えば預言者たちを、現在で言えば、信仰の兄弟姉妹や牧師を意味します。イスラエルの民が偶像礼拝に走ったとき、彼らの間から教師も消えましたが、今の時代は、御霊の賜物がそれぞれの人に与えられるので、私たちは求めさえすれば教師を見続けることができるのです。

 「あなたが右に行くにも左に行くにも・・・」(21節)とありますが、これは、歩もうとする前から導きの声が聞こえるというのでも、悩まなくて良いように右か左かがいつも教えられるという意味でもありません。私たちが迷いながらも、未知の世界に信仰を持って一歩踏み出す時に、「これが道だ。これに歩め。」という確信を与えられるという意味です。何と多くの人が、自分の足で一歩踏み出すことを躊躇して、みこころがわからないと言ったり、他の人の歩みに安易に従おうとすることでしょうか。イエスが、「滅びに至る門は大きく、その道は広い」(マタイ7:13)と言われたことを忘れてはなりません。

 「いつくしみ深き友なるイエス」の原歌詞には、次のように記されております。

「イエスは私たちにとって何とすばらしい友でしょう。

 彼は私たちのすべての罪と悲しみをになってくださるのですから。

 すべてのことを祈りによって神に告げさせていただけるのは何という特権でしょう。

 それなのに、何としばしば平安を失い、不必要な痛みを負ってしまうことでしょう。

 それはすべて、祈りによってすべてのことを神に打ち明けないからなのです。」

私たちの目の前に、いつも何かの問題があるのは当然のことです。それは、神が私たちをあわれみ、ご自身との会話に導くために置かれていることです。それなのに、私たちは、そのような問題の原因となった人を責め、自分の過去の判断を悔やみ、目の前から問題が消えることばかりを望んでしまいます。しかし、その時、神は、私たちを恵もうと待っておられ、私たちをあわれもうと立ち上がられるのです。確かにそれでも、目の前の道が心細く思える時もあります。しかし、勇気を持って一歩を踏み出すなら、そこで、神のみ声を背後から聞くことができ、目の前の道はどんどん広くなって来るのです。新たな千年期の始まりに、日々、主の御前に静まることを優先することを心に決めましょう。

   下記のURLによる宣伝の部分は当教会とは関係ありません。ご了承ください。

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2006年4月 7日 (金)

詩篇22篇「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」

詩篇22篇    指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べに合わせて。ダビデの賛歌

<私と神の沈黙>

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。      (マタイ27:46)(1)

  私の救いからも、うめきのことばからも、遠く離れておられるのですか。

わが神よ。昼、私が叫んでも、答えてくださいません。             (2)

  夜も、私には、静寂がありません。

<沈黙の後、「あなた」(神)とイスラエルの歴史>

あなたこそは、聖であられ、                         (3)

  イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。                   (4)

  信頼した彼らを、あなたは助け出されました。

彼らはあなたに叫び、助け出されました。                   (5) 

  彼らはあなたに信頼し、恥を見ませんでした。

      <沈黙の後、人から見捨てられた者として「私」>

この私は、虫けら、人間ではありません。(そのように見られています)     (6)

  人のそしり、民のさげすみです。

私を見る者は、みな、私をあざけり、                     (7)

  口をとがらせ、頭をふります。                   (マタイ27:39)

「主(ヤーウェ)に身をまかせ、助けてもらえ。                    (8)

  救ってもらえ。お気に入りなのだから。」              (マタイ27:42,43)

           <沈黙の後、「あなた」(神)と私の命の歴史>

あなたこそは、私を母の胎から取り出した方。                 (9)

  母の乳房に、拠り頼ませた方。

生まれる前から、私はあなた(のふところ)にゆだねられました。         (10)

  母の胎内にいた時から、あなたこそは、私の神です。

      <沈黙の後、「私」を滅ぼす敵>

どうか、私から遠く離れないでください。                   (11)

  苦しみが近づき、助け手がいないのです。

数多い雄牛が、私を取り囲み、                        (12)

  バシャンの強いものが、私を囲みました。

彼らは私に向かって、その口を開きました。                  (13)

  引き裂き、ほえたける獅子のように。                (Ⅰペテロ5:8)

私は 水のように捨て流され、骨々はみな はずれ、                (14)

  心は、私の身体の中で、ろうのように溶け、

力は 焼き物のかけらのように 渇ききり、舌は 上あごについています。    (15)

  あなたは私を、死のちりの上に 置いておられます。

犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが 囲み、                (16)

  私の両手と両足を 突き刺しました。

私の骨をみな、私は数えることができるほどです。               (17)

  彼らは私をながめ、私をただ見ています。

私の着物を互いに分け合い、                         (18)

  私のひとつの着物を くじ引きにします。(彼らの関心は、私ではなく私の着物です) (マタイ27:35)
      <「あなた」(神)に向かっての「私」の叫び>

あなただけは、主(ヤーウェ)よ。遠く離れないでください。              (19)

  私の力よ、急いで私を助けてください。

救い出してください。私のたましいを 剣から、いのちを 犬の手から。       (20)

救ってください。獅子の口から、野牛の角から。                            (21)

             <しばしの沈黙の後、神の救いを宣言>

あなたは私に答えてくださいました。(答えてくださいます)

私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、                   (22)

    会衆(教会)の中で、あなたを賛美しましょう。                    (ヘブル2:14)

(ヤーウェ)を恐れる人々よ。主を賛美せよ。                                      (23)

    ヤコブの すべてのすえよ。主をあがめよ。

    イスラエルの すべてのすえよ。主の前におののけ。

まことに、主は、悩む者の悩みを、さげすむことなく、厭うことなく、        (24)

  御顔を隠されもしなかった。                      (ヘブル5:7)

    むしろ、助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

        <主への賛美の広がり、感謝の祭り>

大会衆の中での私の賛美は あなたから出たものです。             (25)

  私は、誓いを 果たします。(主への感謝のいけにえをささげます)               (詩篇50:14、66:13-15)

    主を恐れる人々の前で。

悩む者たちは、食べて、満ち足り、                      (26)

  尋ね求める人々は、主(ヤーウェ)を賛美しましょう。

    あなたがたの心が、いつまでも生きるように!

        <神の国の広がりと完成> 

地の果て果てもみな、思い起こし、主(ヤーウェ)に帰ってくるでしょう。    (使徒1:8)(27)

  国々の民もみな、あなたの御顔に、伏し拝みましょう。

    まことに、王権は主(ヤーウェ)のもの。主は国々を統べ治めておられる。    (28)

地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、                      (29)

  ちりに下る者もみな、御顔に、ひれ伏す。

    おのれのいのちを保つことができない人さえも。

子孫たちも主に仕え、私の主(主人)のことが、次ぎの世代に語り告げられよう。    (30)

彼らは来て、生まれて来る民に、主の義を 告げ知らせよう。               (31)

        主がなしてくださったことを。

<はじめに> 

   私は大学での英語の授業で宣教師に出会ったのをきっかけに聖書を読むようになりました。イエスによる様々な癒しの奇跡の記事を読みながら、「よくこんなこと信じられるな」と思ったものです。

そしてなおも読み進むと、不思議なことばに出会いました。それは、イエスが十字架上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだということです。

そのとき私は、「何と往生際の悪いことか。やはりこれは信じるに値しない。」と思ったものでした。私は、宗教とは、自分の心を自分で制御できるようになるための道、どんなときにも平安でいられる道だと思っていましたから、この嘆きは受け入れがたく思えたのです。

ところが、今は、イエスの十字架上でのその叫びが、私の心に何よりの平安をもたらすようになりました。それは、そのことばが、今お読みいただいた詩篇22篇の初めのことばそのものだということが分かり、そこに記されている心の微妙な揺れが何とも身近に感じられるようになってきたからです。なお、この詩篇はイエスの一千年前の王ダビデによって記されたものです。

私は小さい頃から、人の目がいつも気になり、寂しがりやで臆病であることを恥じていました。もっと人の反応やまわりのできごとに左右されない不動の心を持ちたいと願っていました。その渇きがあったので、大学生の頃、聖書を読みたいという気になったのかと思います。

今や世間的にはプロの宗教家になってしまい、年齢も五十を超えましたが、相も変わらず自分の心は不安定なままです。誉められると良い気になり、批判されると落ち込みます。最近はまた、パソコンが言うことを聞いてくれないことにむしょうに腹が立ちます。いわゆる悟りの境地からは程遠い状況です。

しかし、今、私が目指し続けている信仰の成長とは、不動の心を持つようになることではなく、神との「祈りの交わり」において成長することです。事実、私の心は信仰の歩みとともに、いろんな出来事にかえって敏感に反応するようになり、傷つきやすくなっている面さえあります。それはこのままの自分が神の愛に包まれているということが分かるに連れ、自分で自分を守ろうとする構えから自由になったからかも知れません。そして、今、私の抱える様々な不安や葛藤や孤独感は、世の多くの人々が抱える心の痛みを理解する窓とされています。

その同じ思いが、星野富弘さんの詩に記されています。

「わたしは傷を持っている

              でも、その傷のところから

              あなたのやさしさがしみてくる」

   ここにおられるおひとりおひとりも、様々な心の傷を抱えながら生きて来られたことでしょう。ある人は、その心の傷を見ながら、親を恨むことさえあるかもしれません。

しかし、その傷は、創造主であられる神様の優しさがしみてくる泉となるのです。そして、それは同時に、人の心の傷にやさしく寄り添う愛の泉とさえ変えられるのです。

   私は、この年になってつくづく、生まれる前から神に愛され、神のご計画の中で、この地に住む両親の元に誕生させられたということが分かりました。そこに生まれる告白こそ、本日のテーマ、「母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」という感謝に満ちた理解です。

1.「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」

私は、今から五十年余り前の3月31日に、東川町の開拓農民の家の長男として生まれました。この誕生のときにはじまり、何においてもすべてが遅れがちで、小学校三年生の担任などからは「とろい、とろい」と繰り返されるほどで、ソフトボールの仲間にも入れてもらえませんでした。

ところが小学校の高学年から、勉強するたびに成績が上がるようになり、それが嬉しくなり、いろいろありましたが、この地元の東高を経て北大に入り、経済学部時代に約一年間、国費の交換留学生としてアメリカで勉強することも許されました。この世的には、右肩上がりの歩みでした。

しかし、心の中は、いつも何とも言えない「恐れ」にとらわれていました。それは何かを失うことの恐れであり、また、バカにされ、仲間外れにされ、拒絶されることへの恐れかもしれません。最近は、それが「見捨てられ不安」と呼ばれ、多くの日本人が抱える根本的な病理であるとも言われます。

   私は、アメリカ留学中に、多くの輝いたクリスチャンに出会うことができました。彼らは人の目を意識せずに神から与えられた人生を、それぞれ自由に生きていました。そのとき、何とも不思議に、まるで女性に恋をするように、イエス様を信じたいという気持ちになりました。

罪責感に悩んだからでも、大きな挫折を体験したからでも、また聖書の教えがよく納得できたからでもありません。ただ、いろんな意味で、「心が自由にされる」ことへの憧れがあったように思います。

  その後、帰国して札幌のあるルター派の教会に導かれ、洗礼を受け、結婚しました。ただ、就職に関しては、野村證券の札幌支店の営業に配属されてはや三日目に、「神様のみこころを読み間違えてしまった!拓銀のほうがずっと良かったのでは・・」などと深く後悔しました。

でも辞めても行き先はありませんでした。仕方がなく、営業ノルマを達成できるように、トイレでも喫茶店でも、所構わず、必死に祈り続けました。答えがなくても、この詩篇にあるように「私は黙っていられなかった」のです。とにかく、「神様。この苦しみから救い出してください!」という思いでした。また、ノルマを果たすために、良心が傷むような仕事もしましたが、日曜日ごとの礼拝では、「神様ごめんなさい!」と懺悔の祈りをささげました。でも、説教が始まると疲れのあまり眠ってばかりでした。

ただ、神様はそんな身勝手な祈りに耳を傾けてくださり、どう考えても証券営業には不向きな私にそれなりの結果を出させてくださり、社費でドイツに留学する道が開かれました。

当時は、天にも昇るような気持ちになるばかりでしたが、今振り返ると、それこそ、私にとっての「祈りの学校」であったかと思います。少なくとも、支店営業時代の私は、自分の無力さに圧倒されるばかりで、自分が正しい人間だなどと思いようもなく、ただ主のあわれみにすがるしかありませんでした。

今になって思うと、神様が「遠く離れている」と思いながら必死に叫んでいたとき、神様は身を低くしてこの私の叫びに耳を傾けておられたのでした。私は、みこころから離れた場にいたと思っていましたが、神様の側から証券営業の現場に降りてきてくださり、私とともにいてくださったのでした。

ところで、イエスの名は、聖書で「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる)とも呼ばれますが(マタイ1:23)、何と、その方が十字架で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。つまり、「神はともにおられる」という名の方が、「神はともおられない」と叫んだのです!何という矛盾でしょう?

しかし、イエスは十字架で、全世界の罪を負い、誰よりも醜い罪人となって、父なる神から見捨てられていることを味わっておられたのです。イエスにとって何よりも辛かったのは、十字架の釘の痛み以上に、最愛の父なる神から見捨てられていると感じざるを得ない点にありました。

ですから、イエスの叫びは、決して、「往生際が悪い」者の叫びとは次元が異なります。しかも、これが詩篇22篇のことばそのものであることが分かるとき、「神に見捨てられた」と一時的に感じることと、「神は私とともにおられる」と告白することには矛盾がないという信仰の真理を理解する鍵となります。

それにしても、この叫びが、私の心をとらえて離さなかったのは、私の中にある「見捨てられ不安」がそれに共鳴したためだったように思えるのです。今、この詩篇の文脈全体からこれを見ることを学んだとき、私は感動とともに分かったことがあります。それは、イエスが、神に見捨てられていると失望する者たちの代表者となるために十字架にかかってくださったということです。

イエスは、「どうして私を見捨てたのですか!」と恨みがましく叫んだわけではありません。この中心的な意味は、神から見捨てられたと感じざるを得ない状況の中で、なお、「わが神、わが神」と、その神を私自身の神であると告白し、「どうか見捨てないでください!」とあきらめずに祈り続けたことにあるのです。

1,2節にあるように、この詩篇の作者は、神が沈黙しておられる中でも、なお繰り返し叫び続けています。心は乱れて夜も眠ることができないほどなのですが、なおも神を呼び求めています。

その上で、3節から、神に向かって「あなた」と呼びかけつつ、イスラエルの歴史に現わされた神のみわざを思い起こします。ここには、自分の状況をそのまま訴える「私」の視点と、沈黙を経て、神のみわざを思い起こす「あなた」の視点が交互に描かれているのです。

4,5節には、「信頼」ということばが三度も繰り返され、神への信頼が究極的には必ず報われることを告白します。これは私たちが聖書から学ぶことです。

しかし現実は、それとはかけ離れているように見えます。6節にあるように、「私」は、人間の尊厳を奪われ「虫けら」のように扱われています。神を呼び求める姿が、物笑いの種とされ、8節にあるように、「主に身をまかせ、助けてもらえ。救ってもらえ。神のお気に入りなのだから」とあざけられます。

イエスが、私たちのために十字架にかかられた時、まさにこれと同じあざけりを受けたのでした。目の前の人々の罪を負って、その身代わりに苦しんでおられるというのに・・・。

私たちは、何よりも、人の誤解や中傷に傷つきますが、その苦しみを、イエスは誰よりも深く味わってくださったのです。

人はしばしば、信仰と幻想を混同します。私達がこの地に住む限り、孤独と暗闇のときを通らなければならないというは避けがたい現実です。「こんなはずではなかった!」と思うときが、必ず来るものです。しかし、そのとき、それは、すべての信仰者が必ず通るべき道であると納得するとき、あわてふためく必要がなくなります。イエス様ご自身が私達の代表として既に通られた道なのですから・・・。

2.「あなたは私を母の胎から取り出した方、生まれる前から・・あなたは私の神です」

その上で詩篇作者は、沈黙の後、9,10節で次のように告白されます。ご一緒に読んでみましょう。 

「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。  母の乳房に拠り頼ませた方。

生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。

母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。」

ここで再び、神を「あなた」と呼びかけ、「私」の誕生の場に神がおられたことを覚えます。そして、神様が何と、有能な産婆さんに例えられたのです。

私はよく母から、「お前は頭が大きかったから、出産が大変だった。」と言われてきました。当時は、病院ではなく、産婆さんに助けてもらうのが普通でしたが、その産婆さんを使って僕の大きな頭を狭苦しい産道から引き出し、母の乳房を吸わせたのは神ご自身だったというのです。

難産だったのは、私が安全な母の胎から出されることを本能的に恐れ、抵抗していたからかも知れません。そして、実際、この世界は決して住みやすいところではなく、争いと不安に満ちています。それで、多くの生き難さを抱えた人の中に、この母体に戻ることへの憧れがあるとさえ言われます。

しかし、この苦しみの始まりを導いたのは神ご自身でした。神こそが「私を・・母の乳房に拠り頼ませた方」であり、私は、母のふところに憩う前から、神の「ふところにゆだねられていた」というのです。

人によっては、「私は母によって傷つけられたけれど、その後、神を信じて救われた」と考えますが、ここでは、「母の胎内にいた時から、あなたこそは、私の神です」と告白されます。

私はいろんな意味での生き難さを抱えており、それは基本的に出生に由来します。しかし、「母」以前に「私の神」が、あの大雪山の麓の貧しい農家での私の誕生を、計画され、喜んでおられたと感じられた時、世界が変わりました。様々な痛みは、神と人との交わりを築くために用いられるからです。

   ところで、それにしても、証券営業は、開拓農民育ちの私にはどうもしっくりきませんでした。ドイツの教会に集い、そこで出会った日本人と家庭集会を開く中で、自分の十字架を負ってイエスに従う道が問われ、「より苦しみ甲斐のある人生」を望んでキリスト教会に仕える道を望みました。

また同時に、本当に逆説的なのですが、そこでの物理学の最先端の科学者との出会いから、聖書の奇跡をそのまま信じることができるようになりました。私は、科学の限界を知らないから、聖書をそのまま神のことばと信じることを躊躇していたのだと示されました。

いのちの誕生の神秘をあまりにも軽く見すぎてはいないでしょうか?あの精子と卵子の結びつきから、どうしてこのように驚くほど精密で複雑な生命体ができるのでしょう?あの不思議な遺伝子の組み合わせは、自然にできるものなのでしょうか?学校では進化論が科学かのように教えられますが、どの科学者が、アミーバーから人間に至る遺伝子の進化のプロセスを解明できたというのでしょう?

私のいのち、そして、あなたのいのちは、神の最高傑作です。あなたの創造主は、父でも母でもなく、神ご自身なのです。ただ、神はそのために父と母を用いてくださったに過ぎません。

信仰とは、目に見える現実を超えた神のご計画を知ることです。あなたの誕生は決して、偶然でも、間違いでもありませんでした。苦しみは、誕生の瞬間から私たちの人生の一部なのですから、それを避けようとするのではなく、かえって、それを正面から引き受け、「苦しみ甲斐のある人生」を歩むべきでしょう。神は、目的を持って、あなたを特別にユニークに創造してくださったのですから。

3.「あなたは私に答えてくださいます」

ところで、私は牧師になって改めて、イエスの十字架上の痛みの本質が分かるようになりました。愚かにも私は、自分が牧師になったら教会はすぐに成長するぐらいに思っていました。ところが、牧師の働きは、人間の複雑なたましいを相手にしますから、努力と結果は、なかなか結びつきはしません。

それどころか、誰よりも多くの時間をかけ、誰よりも気を使ったはずの信者に限って、教会を去ってゆくという逆説を見ることがあります。そのような方は、人との関係を築くのがとっても下手で、すぐに被害者意識に流れる傾向があります。こちらが真剣になればなるほど、自分がコントロールされているように感じ、息苦しくなって去ってゆくということがあるのかも知れません。

でも、恥ずかしい話ですが、そんなとき、その人の傷みを思う以前に、自分自身が被害者意識に流されそうになります。そして、自己憐憫に陥りそうになることがあります。

しかし、イエス様でさえ、一番弟子のペテロから三度、「知らない」と言われ、そればかりか、手塩にかけて育てた弟子のユダから裏切られたのです・・・・。それを思うとき、私の心の目は、自分自身からイエス様に向けられます。イエス様こそは、誰よりも深く孤独の痛みに苦しんでおられたからです。

その孤独感が、この詩篇の6-8節に続いて、11節-18節でも詩的に表現されています。特に18節は実際にイエスの十字架で起こったことです。その基本は、人生の最も暗いときに、そこに当人がいないかのように、完全にその存在を無視されるという痛みです。

そして、19-21節では、神に向かっての必死の祈りが、「遠く離れないでください」「急いで助けてください。」「救い出してください」「私を救ってください」と四回も繰り返されます。

その上で、21節の終わりに、突然、「あなたは私に答えてくださいます」という宣言があります。実は、神のみわざは、しばしば「もうだめだ!」と思った瞬間、圧倒的に迫って来るものなのです。

信仰は理屈を超えています1,11,19節で三回も繰り返された、神が「遠く離れておられる」と感じられる現実は、24節にある告白、「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを呼び求めたとき、聞いてくださった」(24節)ということを、腹の底から確信するために不可欠なのです。それこそ、私が証券営業時代に体験した第一のことであり、またそれは私の幼児期の現実でもあったようです。

母は、私を産んで間もなく、私を籠に入れて水田のあぜに置き、田植をしなければなりませんでした。そんな時、私は水田の中に落ち、鼻の頭だけを出し、叫ぶこともできずに死にそうになりました。ふと母は、心配になり、水田から上がって来ました。私を見つけるなり、嘆き叫びながら、呼吸がとまりかけ冷たくなった私を必死で抱き暖めました。私は息を吹き返しました。

私が瀕死の時、母は「遠く離れて」いましたが、この出来事は、不思議に私の心の中では、母が、そして後には、神が、いつも「私とともにいる」という実感につながっています。

イエスの十字架と復活の関係も、そのように、父なる神と御子なるイエスとの永遠の愛の交わりの観点から見ることができます。イエス様が、十字架で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ三日目に、イエス様は死人の中からよみがえられました。そして、イエスの復活こそが、「あなたは私に答えてくださいます」という祈りの「答え」になっているのです。

そして、22節では、「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しましょう」と告白されます。新約聖書へブル人への手紙では、これが引用され、復活の主は、私たちをご自分の弟、妹として呼ぶことを恥としないと解説されます(ヘブル2:11,12)。

そして、復活したイエス様は、私たちをご自身の弟、妹として集め、教会を造ってくださいました。それで私たちは日曜日ごとに、イエスに導かれて、イエスの父なる神に感謝の祈りをささげるのです。

イエス様は、今、慈しみ深い兄として私たちの前を歩き、どのような暗闇の中にも希望を与えて下さいます。私たちは、今、イエス様の弟、妹とされた者として、イエスの父なる神に向かって祈ることができます。そして、「あなたは私に答えてくださいます」と告白することができるのです。

どうか、これを本当に心に留めてください。私達が「もうだめだ!」とピンチに陥ることは、神の圧倒的なみわざを体験するチャンスなのです。ですから、決してあきらめずに待ち望んでください。

4.「大会衆の中での私の賛美は、あなたからのものです」

その上で、神への賛美が、「私」から民族や世代を超えて広がって行く様子が描かれています。22節での、「会衆の中で・・賛美」は、25節では、「大会衆の中・・」へと成長しています。そして、それは神から「出たもの」だと告白されます。そして、その賛美の輪が、全世界に広がり、また世代を超えて広がる様子がこの詩篇の終わりに向って描かれています。

このように、神に見捨てられたと感じた者が、神のみわざを証しし、神への賛美を導く者へと変えられて行くプロセスは、今も、繰り返し、あなたのまわりでもあなた自身にも起きているのです。

私たちが母の胎から取り出され、様々な困難の中でも守られてきたのは、神が私たちを生かしたいと願っておられるからです。それゆえ、私たちひとりひとりには固有の使命が与えられています。

よく「このままで良いんですね」と尋ねられることがありますが、答えは、「はい」であり、また、「いいえ」です。聖書の教えは、「そのままの姿でイエスについて行きなさい」ということです。イエスに従ってゆくときに、あなたの過去のすべての苦しみや痛みが、異なった意味を持つようになり、すべてのことが益になっていることが分かるということです。

私は、幸い、牧師になったことを後悔したことや牧師を辞めたいと思ったことは一度もありません。しかし、神が私に与えてくださったユニークさが理解できず、自分らしくないやり方に固執して、数々の失敗をしてしまったことは反省しています。

理想的な教会形成の方法なども学び、それを実践しようとしましたが、自分にはしっくり来ませんでした。そして分かったことは、やはり、僕は、「この父の息子」だということです。どうも、チームワークを作るのが下手で、人間関係を器用に築くことはできません。

それでも、家内からは、「あなたは、よく懲りもせずに、難しい人と向き合うわね・・」と感心されます。そんな中で、ふと私は、父からどうしようもない不器用さを受け継ぐと同時に、働きを途中で投げ出すことをしないための忍耐力をも受け継がせていただいていることを感謝できるようになっていました。

父は、現在の水田の土を良くする為に(客土といいますが・・)、良い土を別のところから馬橇で運んで、三ヘクタールの水田すべてを覆いました。それを私は幼い頃手伝ったことがあります。あまりにも途方もない作業なのでそれをやり遂げる人は稀ですし、人からなかなか理解もされません。私は、なかなか働きの結果が見えなくてあせるとき、この父の姿を思い浮かべて励まされます。

あなたは親から受け継いだ様々な負の遺産を嘆くことがあるかもしれません。しかし、神は、それとセットで、それを補ってあまりある様々な能力を恵みとして与えておられるのです。それらが組み合わされて、あなた固有の人格を作り上げています。

そして、神は、あなたを様々な試練を与えながらも、それを通してご自身の救いを示して、「わたしはお前が生まれる前からお前の神だ。わたしこそがそのままのお前を生かすことができる」と語りかけておられるのです。

私たちは挫折を繰り返すたびに、神に創造されたままの自分らしい生き方に目覚めることができるのかも知れません。そして、自分には、自分にしかできない働きがあることが分かるとき、本当に、生かされてきたことの恵みを、神に感謝できるようになります。

つまり、すべてが神から始まり、神への賛美と変えられるのです。

私は昔、自分の田舎は好きではありませんでした。世界にはばたきたいと思っていました。しかし、今、この大雪山を仰ぎ見る風景が好きでたまりません。私がキリストに従う決心をしたとき、宣教師の方から、今、天では天使があなたの回心を喜び歌っていると言ってくれました。それはその通りです。

しかし、私は今、つくづく、私が神を知るずっと前から、神は私を知っておられ、ご自身の栄光に用いるために、敢えて、東川の今の両親のもとに誕生させてくださったと信じています。

私は今、本当に、「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」と告白できることが嬉しくてたまりません。神が与えてくださった親、兄弟、友人、この風景、それらがすべて宝物に思えています。

あなたはどうでしょうか?自分の生涯を、神の眼差しから見直すとき、すべてが変わります。

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ルカ7章24節~50節「イエスとの交わりから生まれる奇跡」

人と人とが協力し合うためには一定のルールとか利害の調整が必要です。そのことを先週の申命記で学びました。ところが、バプテスマのヨハネやイエスの働きは、当時のまじめな信仰者の目には、その大切な慣習を破壊するものと見られました。その大胆さには、私たちさえ眉をひそめることでしょう。

1. バプテスマのヨハネ

  イエスは群集にバプテスマのヨハネについて、「風に揺れる葦」のように人の意見に左右される者でも、また、「柔らかい着物を着た人」のように権力に取り入って「贅沢に暮らす」ような人ではないと言います(7:24,25)。彼こそは、「預言者よりもすぐれた者」であり、旧約最後の預言書マラキ3:1にある「万軍の主」の到来を告げる「使者」です。ヨハネは主の到来を、神の公正な裁きの実現のときと理解し、「その方は・・麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」(3:17)と警告しました。彼は、見せかけだけの人の偽善を指摘し、国主ヘロデの悪事を責めて、牢に閉じ込められました。イエスはその率直さを賞賛し、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりすぐれた人は、ひとりもいません」(7:28)と言いました。しかし同時に、「神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」と言いました。それは、彼のように立派な人でも、自分の力で神の国に入ることはできず、神のあわれみにすがるしかないからです。ヨハネもそれを理解したからこそ、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ」(3:3)を授けたのでした。

   ヨハネの父ザカリヤはエルサレム神殿での宗教儀式を誤りなく司る忠実な祭司でした。それは「罪の赦し」、つまり、神との和解を得るための神の方法のはずでした。ところがヨハネは、まるでそれが無意味であるかのように、人々を神殿から遠く離れたヨルダン川に導いてバプテスマを授けたのです。これは当時の宗教システムを破壊する革命とさえ言えます。パリサイ人や律法の専門家たちは、自分はまじめにお勤めを果たしているから神の裁きを免れると思っていたのに、ヨハネはその安心を砕きました。一方、取税人は、自分たちが当時の神殿では救われようがないことを分かっていましたから、ヨハネのバプテスマを受けて、神のあわれみにすがろうとしました。つまり、ヨハネは、儀式を守ること以前に、真心から神の前にへりくだることを説いたのです。律法も契約の箱も、聖なる神が汚れた民の真ん中に住むためのあわれみのしるしでした。神は、一方的なあわれみによって、彼らにヨルダン川を渡らせ、ご自身の国を建てようとされました。その原点に立ち返らせるのがヨルダン川でのバプテスマでした。そして、これがなければ、当時の人々がガリラヤ出身の大工のことばに耳を傾けることはあり得なかったはずです。

  それにしても彼らの心は、市場にすわっている子どもが、「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった」(7:32)と、結婚式ごっこや、葬式ごっこに乗ってくれない者に腹を立てているのに似ていました。彼らのルールに反してヨハネが禁欲的な生活をすると、「悪霊につかれている」(7:33)と非難し、人の子(イエス)の祝宴を見ると、「食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間」(7:34)と非難しました。現代の教会でも、それぞれの国の教会も文化の影響を受けた固有のルールが生まれがちです。私はアメリカで信仰の決心に導かれて帰国したときも、ドイツで伝道者への召しを受けて帰国したときも、戸惑いを覚えることがありましたが、それは信仰生活の常識を問い直す契機になりました。日本人はすべてを外形から入る傾向があります。信仰生活も神との個人的な交わりを築くということ以前に、クリスチャン生活の体裁を整えることに心を奪われ、それができることに安心するという傾向がないでしょうか。神はどんな小さな罪にも激しく怒るとともに、そんな罪を犯し続ける私たちを「ご自分のひとみ」のように大切に思っておられます。「そんな生活を続けていて良いの?」と厳しく問いかけながら、同時に、「赦し得ない大きな罪はないから、イエスのもとに来なさい」と招いておられます。

2. ひとりの罪深い女が・・・この女は罪深い者・・・

パリサイ人のシモンがイエスを食事に招きました。ただ、それはイエスを観察するためだったと思われます。何と彼は、当時の接待の常識としての「足を洗う水」さえイエスに出さないという非礼を働きました。当時の食事は、左ひじをついて足を投げ出して横たわりましたが、そのとき「ひとりの罪深い女が・・イエスのうしろで御足のそばに立ち」、何と「涙で御足をぬらし始めた」というのです(7:37,38)。ここでは、「始めた」という動詞が強調されますが、それはこの女の動作は差し止められて当然だからです。しかも、人前で自分の髪をほどいたり、足に口づけし続けるなどとは、自分を売春婦として宣伝しているようなものです。ところが、主は、このような恥ずべき行為に、身を任せました。それが何とも驚きでした。

  シモンは、これをイエスが人の罪を見分ける預言者の目を持っていないしるしと見ました。ここでは、彼女が今も、「罪深い女であり続けていた」(7:37)こと、また「この女は(今も)罪深い者であり続けている」(7:39)ということが強調されています。彼女は、バプテスマのヨハネのメッセージを伝え聞いて、神の裁きが迫っていることに身を震わせながらも、生活のために罪を止めることもできず、ただ夢中でイエスに近づいたのではないでしょうか。自分が、イエスの食事の交わりに加えられる資格がないことはあまりも明白と思われたので、ただ自分の宝物の「香油のはいった石膏のつぼを持って」来ました。そこで見たのは、足を洗う水さえ与えられないイエスの姿でした。その痛ましさと、自分の惨めさが重なり合い、涙が止らなくなり、とっさの判断で、自分の涙を、水の代わりにしたのではないでしょうか。あなたも、救いの意味に納得したからというより、自分の生き難さを抱えきれなくてイエスのもとに来るのではないでしょうか。

シモンの心を見ぬいたイエスは、借金が帳消しにされるたとえを話した上で、敢えて「その女の方を向いて」、「この女を見ましたか」とシモンに語りかけ(7:44)、彼女の心の真実を見るように招かれます。シモンは、王であるイエスを乞食のように扱いましたが、彼女は、水の代わりに自分の心の痛みを表わす涙を、タオルの代わりに女性の栄光の表れである髪を用い、頬に口付けする代わりに服従のしるしとして足に口付けし、高価な香油を、頭の代わりに足に塗りました。すべて社会儀礼に反する行為ですが、シモンの傲慢さと彼女の謙遜さが対比されます。彼女は自分にはイエスに近づく資格すらないと思っていましたが、イエスは彼女の行為を賞賛してくださったのです。そんな方は彼女の人生で初めてでした。

3. 「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。」

その上で、イエスは、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです」(7:47)と言われました。ここでは、愛が赦しの原因であるというよりも、「多くの罪」と「よけい(多く)愛する」ことの相関関係が注目されるべきです。愛することと赦されることには、鶏と卵のような関係があります。彼女には、自分の涙、髪の毛、口付け、香油のひとつひとつが受け入れられたことが、ひとつひとつの罪が赦されて行くことのように感じられたことでしょう。そして、その赦しを感じるたびに、イエスへの愛が生まれ、その愛を行動で表わしながら、さらなる赦しを体験したという循環が見られます。私たちも「罪の赦し」を理屈で考えずに、「多く愛し」「多く赦される」という好循環を実体験させていただきましょう。

そして主は女に、「あなたの罪は赦されています」(7:48)と言われましたが、ここには「既に赦している」という意味が込められています。罪深い女の口付けを受け入れ続けた(7:45)こと自体が、赦しの宣言だったからです。「いっしょに食卓にいた人たち」(7:49)が唖然としたのも無理がありません。イエスは神殿でのいけにえを飛び越えて、赦しの事実を宣言したからです。それはご自身を神と宣言することでした。

その上で主は、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(7:50)と言われました。彼女の「信仰」とは、罪を離れるという決意以前に、「罪深い女」のままで大胆にイエスに近づいて行ったことではないでしょうか。そして、主の優しい眼差しと語りかけを聞くことがでました。その主の愛こそが、罪深い生活から足を洗う勇気を生むのです。イエスの前で自分を取り繕うことこそ、不信仰なのです。

多くの人が、イエスは悪い行ないを捨てる決意を既にできた人だけを受け入れてくださるかのように誤解しています。しかし、それはパリサイ人の論理です。人は、しばしば、自分で自分の心や行動を変えようと努力すればするほど泥沼に落ちて行くという悪循環にはまります。しかし、イエスとの交わりの中で、自分が変えられて行くのです。もちろん、罪に居直る者に、イエスは厳しく立ち向かわれますが、心の底で変わりたいともがいている人を分かってくださいます。イエスはこの女に「安心して行きなさい」と言われました。そこには、「わたしはいつも、あなたの味方、友、神であり続ける」という保証が見られます。自分の世界の中で空回りし、身動きできなかった女が、前に向かって歩み出すことができたのです。

私たちは人の顔色を見ないバプテスマのヨハネのような率直さが求められています。しかし、彼の偉大さは、何よりも人々にキリストを指し示したことでした。それによって罪の中でもがいていたひとりの女は、神殿で門前払いを受ける代わりに、イエスのもとに来ることができました。現代の教会にもそれが求められています。それは私たちが、生き難さを抱えた人に、決断を迫る代わりに、祈りによってイエスとの交わりを教えることです。たとえば神は、不思議に、深い心の闇を抱えた方を私のもとに送ってくださいます。そして、そんな方の話を聞けば聞くほど、解決の道はないように思えてきます。しかし、心の葛藤をそのまま祈ることをお勧めする中で、何とも不思議な解決が与えられてきました。それらはすべて、この罪深い女に接した「イエスの心」が今も、正直に主に祈る者の心の闇の中に届いていることの証しです。

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ルカ8:22-39「嵐を静め、悪霊を追い出すイエスの権威」

関東を襲うかもしれない地震、人に災いをもたらす闇の力、それはあなたのすぐそばにあります。目を大きく開き、現実を直視するなら、この世界は不安の材料に事欠きません。人は、幻想に生きるか、天地万物の創造主を知るのでなければ、この不安には直面できないはずではないでしょうか?

1.嵐の中での平安

   ガリラヤ湖は南北21km、東西13kmの広さで、ヨルダン渓谷に位置し、湖面は海抜-210mの低さにあり、回りを海に囲まれた美しく豊かな湖です。ただ、この特殊な地形のため、夜になると突風が陸から海に向けて吹くことがありました。イエスは今、西の湖畔から東岸に移ろうと「さあ、湖の向こう岸に渡ろう」(8:22)と言われます。それは、「夕方になって」(マルコ4:35)のことでしたが、弟子たちが舟を出したところ、イエスはお疲れのためか「ぐっすりと眠ってしまわれ」(8:23)ました。主のお身体は私たちと同じ弱いものだったからです。ところが、そこに、舟を転覆させる恐れのあるほどの強い「突風が湖に吹きおろし」ました。「弟子たちは水をかぶって危険になった」ので、「近寄って行ってイエスを起こし」、「先生、先生(ヘブル語では『ラビ』)」と呼びかけ、「私たちはおぼれて死にそうです」(8:24)と訴えます。漁師の弟子たちがこれほど慌てるというのは、よほど大きな嵐だった証拠です。その際、「イエスは、起き上がって」とありますが、それまで主は、大胆にも、「とも(船尾)のほうで、枕をして眠っておられた(マルコ4:38)のでした。

私たちは、人生が制御できないと思うと、不安で眠られなくなります。しかし、イエスにとって、この嵐は制御不能ではありませんでした。主は、父なる神との深い交わりの中で安心しておられたからです。私たちも、眠りにつく前に、「主よ。この夜、私をお守りください。この身体、たましい、すべてのものをあなたの御手にゆだねます・・悪い敵が私を害しませんように」と祈ることができます。そして、イエスは、この嵐も父なる神の愛の御手のなかで起こっていることを知っておられました。それをイエスは、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と言われました。

イエスは起き上がってすぐに、「風と荒波とをしかりつけ」ます。すると何と「風も波も収まり、なぎになった」というのです(8:24)。なお、「しかる」とは、親が子供をしかるとか、悪霊を厳しく「責める」というようなときのことばです。それは、イエスのことばに「光があれ」と言って、光を創造された創造主の権威があったことを示します。その上でイエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」(8:25)と言われます。それは、彼らが、イエスも父なる神をも、本当には知っていなかったからです。タイタニックは沈まない船と言われていましたが、映画の中で、「鉄は沈む・・」と言われていたのが印象的でした。確かにどんな舟でも沈む可能性があります。しかし、この舟には神の御子イエスがいっしょに乗っているのです。それが沈むのを、父なる神が許すはずはありません。そして、弟子たちはこのことを通して、イエスが単なる律法の教師(ラビ)ではなく、「風も水も、お命じになれば従」わせる権威者だと知ったのです。

私たちの回りにも、様々な不安な材料があります。何よりも怖いのは、自然よりも、人間かもしれません。それは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」(エレミヤ17:9)とある通りです。しかし、イエスが、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」(マタイ10:28)と言われたように、真に恐るべき方は、神おひとりです。そして、神は、ご自身にすがってくる者を退けることはありません。しかも、私たちの傍らには、私たちのためにいのちを捨て、よみがえられたイエスがいてくださいます。主がともにおられるのですから、どんな人生の嵐に直面しようとも、私たちは恐れる必要はないのです。

2.イエスの前にひれ伏し、懇願するしかなかった悪霊レギオン

  イエスと弟子たちはガリラヤ湖の東岸のゲラサ人の地に着きます。彼らはまことの神を知らない異邦人でした。そして、主が陸にあがられるとすぐに、悪霊につかれている男に出会いました。「彼は、長い間着物もつけず、家には住まないで、墓場に住んでいた」(8:27)ほど、完全に悪霊の支配下に置かれ、人としての感覚を失っていました。そして、「彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏し」(8:28)ます。マルコは、「イエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し」(5:6)とさえ記しています。つまり、悪霊は、誰よりもイエスの権威と力を知っていて、逃げようがないとあきらめ、あわれみを恋うしかないと恐れたのです。イエスの弟子たちは、「いったいこの方はどういう方なのだろう」(8:25)と問いかけていましたが、皮肉にも悪霊こそが、この方を「いと高き神の子」(8:28)であると認めていたというのです。

   この人は、「鎖や足かせでつながれて看視される」(8:29)必要のあるほど危険な状態でしたが、悪霊の力は、「それらを断ち切って・・荒野に追いやる」ほどでした。主が悪霊の名を尋ねると、「レギオン」と答えますが、それは、ローマの軍団の単位で、六千人もの兵士から構成される大集団でした(日本語では「師団」)。そして、「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように・・・おびただしい豚の群れに・・入ることを許してくださいと願った」(8:31)のでした。これは、悪霊がイエスの権威に完全に服さざるを得ないことを示しています。イエスが許されると、「豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ」(8:33)のでした。なお、当時の神の民にとって、豚は汚れた動物の代名詞のような存在でしたから、豚の死は問題とは見られませんでした。しかし、豚の飼い主の異邦人たちはこのことに驚き、イエスの前から逃げ出しました。彼らは、悪霊よりも強いイエスを恐れたのです。

   この世の人々は、今も、悪霊の働きに怯えて生きています。彼らは確かに人を悲惨に陥れ、滅びに追いやる力を持っています。しかし、私たちはイエスの御名によって、その力に打ち勝つことができます。今も悪霊は生きて働いていますが、彼らはキリスト者を脅しはできても、支配はできないのです。

3. 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」

   その後、ゲラサの人々は、「イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた」(8:35)のを見ましたが、彼らは、それを感動する代わりに、「恐ろしくなった」ばかりでした。そればかりか、彼らは、「イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った」(8:37)というのです。彼らは、この悲惨な人の救いよりも、豚を失ったことの方に目が向ったのではないでしょうか。それとも彼らは、悪霊をことばひとつで従えるイエスを、悪霊の親分と見たのでしょうか。彼らは、レギオンに憑かれた人を見て悪霊におびえ、また、悪霊を追い出したイエスを見てさらにおびえました。共通するのは、自分たちの身に損害がもたらされることを避けようとする思いだけで、真理を求める心などはありません。

今も、多くの日本人は、ただ「たたり」を恐れ、偶像を拝み続けます。それは、暴力団のご機嫌をとりながら見せかけの平和を守るのと同じ生き方です。彼らは、自分たちが悪霊の脅しに屈しているのを知らないのです。それにしても、イエスの登場は、このゲラサの地でのように、見せかけの平和を壊します。しかし、それは、名医が、「がんと分かるのが怖いから、検査を受けない・・」というような人に現実を直面させるのと同じです。一時的な、外科手術を過ぎた後には、希望に満ちた人生が待っています。イエスは、私たちを、怯えて生きる人生から、問題に直面する勇気を持つ者へと変えてくださいます。

「そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願った」(8:38)のは、人の救いよりも豚の損失に目が向かう冷たい人々から離れたかったからでしょう。それに対し、主は、「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」(8:39)と命じました。それで「彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを町中に言い広めた」のでした。

ゲラサの人々にとってイエスはまぶし過ぎたのかもしれません。しかし、自分たちの仲間の証しには耳を傾けられます。それは、乞食が、隣の乞食に、どこに行ったら恵んでもらえるかを教えるようなものです。互いに乞食だから通じ合うことばや感覚があります。イエスは、罪人の仲間になるために、神であるのに人となってくださいましたが、それでもなお届くことができない人がいたのです。そして、あなたにも、あなたにしか届くことができない魂があり、あなたはその方に福音を分かち合うように召されているのではないでしょうか。神の国の福音は、何の資格もない、欠けだらけの人を用いてこそ広められるのです。

そして、イエスがこの人の中に起こしてくださった変化は、その人を悪霊の支配から解放するばかりか、その人が、自分よりも豚を気にかける冷たい人々のただ中に住み、その人々に福音を告げさせるということでした。つまり、誰の役にも立たなかった人が、その人でなければできないという働きを見いだすことができたのです。人は、誰しも、心の底で、生き甲斐のある人生を求めています。無用の存在として軽蔑されるのは、何よりも辛いことだからです。イエスの救いは、現実逃避をもたらすものではありません。かえって、私たちに働きの場を与えて、この世のただ中でいのちを輝かせるためのものです。

たったひとことで、嵐を静め、悪霊を追い出すことができる方が、あなたの人生の同伴者となってくださいました。何という恵みでしょう。イエスがともに歩んでくださるからこそ、私たちは人生の海の嵐のただ中に漕ぎ出すことができます。この世界は、見せかけの平和を求めますが、私たちは置かれている状況に関わりのない真の平和(シャローム)を、イエスとの交わりのなかに見いだすことができるのです。

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ルカ8:40-56「恐れないで、ただ信じなさい」

去って行くのが惜しまれる人、「いなくなってせいせいした!」と言われる人がいます。ここに登場するふたりの「娘」はまさにそんな対極にいたように思えますが、ここに誰も思いつかないような展開が見られます。それはイエスが、邪魔者扱いされる人の内に隠された心の真実(信仰)を見てくださったからです。

1. 「この女は、イエスのうしろに近寄って・・着物のふさにさわった」

「イエスが帰られると」(40節)とありますが、主はガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ人の地からカペナウムに戻ってきました。それを「群集は・・待ちわびて」いましたが、そこで、「ヤイロという・・会堂管理者」が、「イエスの足もとにひれ伏し」ます(8:41)。彼は、会堂での礼拝全体を管理し、説教者を決める権限のある人で(使徒13:15)、誰もが一目を置く町の有力者ですから、まさに前代未聞の情景です。それは、彼の「一人娘・・十二歳ぐらい」が「死にかけていた」からでした(42節)。ここでは、イエスが神の「ひとり子」であると言われるのと同じことばが用いられています。しかも、当時で言えば大人の一歩手前の年齢です。これは、町の人全体の同情を買うに値する一大事で、誰もがこの子の癒しを願ったことでしょう。そして、イエスがヤイロの家に向うとき、「群集がみもとに押し迫ってきた」というほどの集団移動が起こります。

そこに、「十二年の間長血をわずらった女がいた」(8:43)と、ヤイロの娘の年齢と同じ年月苦しみ続けた女が登場します。これは、肉体的な痛みばかりか精神的な孤独感に圧倒される病です。当時の律法では、女性は、月経の七日間は、「誰でも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる」と、引き篭もりが命じられましたが、「長い日数にわたって血の漏出がある場合・・彼女は月のさわりの間と同じく汚れる・・・その女のすわるすべてのものは・・・汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる」と言われていました(レビ15:19-27)。つまり、彼女は十二年間、汚れた女として、人々の冷たい視線を浴び続けなければいけなかったのです。マルコの並行箇所によると、彼女は、「多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」(5:25)ほどでしたから、まさに「生けるしかばね」と見られたことでしょう。このふたりの十二年には、まさに光と影の対照が見られました。しかし、今、ふたりとも絶望的です。

そんな中で、この女は、「イエスのうしろに近寄り」(8:44)ます。ヤイロはイエスの前にひれ伏すことができましたが、この女は自分の身を隠さなければ近寄れなかったのです!しかも、誰からも目を背けられる存在だからこそ、人々の心がヤイロの娘のことで一杯になっている今が、イエスに近づく千載一遇のチャンスでした。それにしても、その距離は何と長く思えたことでしょう。人々を押し分け、手を必死に伸ばしながら、ようやく、イエスの着物の「ふさ」までたどりつきました。これはタリスと呼ばれる祈りの装束の四隅についている「ふさ」で(民数記15:38,39)、イエスと父なる神との祈りの交わりの象徴的なものでした。彼女は、盲目的にイエスに近づいたのではなく、神からのいやしの力を受ける象徴を見ていたのです。

「すると、たちどころに出血が止まった」44節)と簡潔に記されていますが、それは、とうてい言葉では言い尽くせない大きなできごとでした。彼女の十二年間の念願が、今成就し、世界が変わったのです。それは、彼女が、どんなに騙され、軽蔑され、苦しんでも、神への望みを決して捨てなかったからです。

2. 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」

このときイエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」(45節)と問われます。人々は、自分が責められているかのように勝手に誤解し、ペテロも、その質問自体が愚かしいかのように、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言います。誰もイエスのみこころを理解できてはいません。

それで、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」(46節)と言われます。当時は、汚れた人に触れられると、汚れが乗り移ると考えられていましたが、イエスは反対に、ご自身のうちに宿っているきよめの力が引き出されたことを感じました。イエスに触れる人は、その汚れがイエスのきよさに呑み込まれるからです。これをルターは、「喜ばしき交換」と呼びました。それは丁度、結婚において夫のすべてのものが妻によって共有されることと同じです。この女は、信仰によってイエスと結びつき、イエスのきよさを自分のものとでき、その汚れから自由になれたのです。

それにしても、イエスは、背後から近づく人の思いまで感じ取られたのです。これは「注目の奇跡」と呼ばれます。私たちが目の前の人の痛みすら分からないのとは対照的です。それで、「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出」ます(47節)。イエスが単なる宗教家であれば、彼女に触れる人は、「夕方まで汚れる」(レビ15:19)はずですから、イエスは働きができなくなります。つまり、この女は、ヤイロの家に急ぐイエスを立ち止まらせたばかりか、その癒しのみわざさえできなくさせる可能性があったのです。身勝手な女と非難されても仕方がありません。だからこそ、この女は、怯えていたのではないでしょうか。しかし、彼女は、実際は、イエスご自身に触れることを避け、着物の「ふさ」に触れただけなのです。

しかし、このとき初めて、彼女はイエスの「御前に」「進み出て」ひれ伏すことができ、「すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころに癒された次第とを話し」ます。何と、いつも身を隠しながら生きてきた人が、皆の前で、憧れの方と顔と顔とを合わせて語り合っているのです!このときイエスは、「娘よ。」と語りかけます。人々は、ヤイロの「ひとり娘」のことで心が一杯ですが、「あなたもかけがえのない神の娘だ」と言っているかのようです。そればかりかイエスは、「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」(48節)と言いました。当時の常識では、多くの人は、この長い苦しみを、不信仰のゆえに神ののろいを受けたためと解釈したことでしょう。しかしイエスは、正反対に、彼女の信仰が癒しを起こしたと断言しました。イエスの弟子の中に、これほどの賛辞を受けられた人はいません。それは彼女が、信仰の父アブラハム同様に、「死者を生かし、無い(無価値な)ものをある者のようにお呼びになる方」を信じ、また、「望みえないときに望みを抱いて信じた」からです(ローマ4:17,18)。この結果、彼女は、日陰で生きる者から社会の真ん中に生きる者へと変えられました。それこそイエスの癒しの目的です。

3. 「恐れないで、ただ信じなさい」

ところでこの間、ヤイロはさぞあせって、「私の娘は今にも死にそうなのです。この女の癒しとカウンセリングは後回しにしても良いのでは・・・」と思ったことでしょう。そんなとき、会堂管理者の家から、「あなたのお嬢さんはなくなりました」(49節)という知らせが届きます。人々も、「この女が、イエスを足止めしている間に・・・」と非難の目を注いだことでしょう。それにしても、この使いが、「もう、先生を煩わすことはありません」と言ったのは、余りに実務的です。イエスは、それに対し、ヤイロに向って、「恐れないで、ただ信じなさい(50節)と言います。これは、長血の女の信仰に習い、どんな暗やみの中にも神にあって希望を見続けるようにとの勧めです。「そうすれば娘は直ります」と言われるのは、イエスをお招きするのに遅すぎることはないからです。私たちも、愛する人が死んだ後で、なお信じ続けることができます。それは、キリストにつながるすべての人は、終わりの日によみがえり、新しい身体を受けることができるからです。それこそが、究極の癒しです。私たちはこの希望の故に、お葬式で心から主を賛美することができます。

   イエスは三人の弟子だけを伴ってヤイロの家に入ります。人々が泣き悲しんでいる中で、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです」(52節)と大胆に言います。しかし、「人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った」(53節)のでした。しかし、イエスは、神の目からこの娘の死を見ていたのです。私たちの肉体の死も、「イエスにあって眠った(Ⅰテサロニケ4:14)状態に過ぎません。

   イエスは、「子どもよ。起きなさい」と言われます。マルコによると、イエスはこの少女の手を取りながら、アラム語で「クーームィ」と言いつつ起き上がらせたのだと思われます(5:41)。同じように、神は終わりの日に、私たちひとりひとりの手を取って、死者の中からよみがえらせてくださるのではないでしょうか

   「すると、娘の霊が戻って」(55節)とは、神がアダムを土地のちりから創造されたとき、「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)ことを思い起こさせます。私たちは、神の御許しがなければ一瞬たりとも生きていることができない存在です。「両親がひどく驚いていると、イエスはこのできごとを誰にも話さないように・・」と命じます。それは、死んだはずの人が生き返ることはあくまでも例外であり、この少女もやがて地上の命を終えることがあるからです。私たちは、自分の希望を、この地上のいのちを越えた、終わりの日の復活に結びつける必要があります。それこそが、神のみこころです。人の心が奇跡ばかりに向かい、この地上の自然の営みを受け入れることができなくなるのは神の御心ではありません。

  マタイもマルコもヤイロの娘と長血の女の癒しをセットに記します。もし、ヤイロの娘が生き返らなかったら、長血の女の癒しは人々から祝福を受けることはできなかったに違いありません。一方、人々がヤイロの娘のことに心が向っていなければこの女はイエスの背後に近づくことはできませんでした。イエスは、この対照的な十二年を過ごしたふたりを、同じように「神の娘」として愛されたのです。そこに神の眼差しを思うことができます。それは、「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるために、じっと見つめておられました」(詩篇10:14)とある通りです。この出来事の後、この女とこの娘の間に、どんな交わりが生まれただろうかなどと思いめぐらすと楽しくなれます。同じように、過去や現在の状況があなたにどんなに暗く見えても、イエスは今も、「恐れないで、ただ信じなさい」と語っておられます。 

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2006年4月 5日 (水)

詩篇77篇 「慰めがないときの慰め」

詩篇77篇

                   指揮者のために。エドトンの調べによって。アサフの賛歌

私は神に向かって声をあげ、そして、叫ぶ。                        (1)

 私は神に向かって声をあげる。すると、神は聴いてくださる。

苦難の日に、主を尋ね求め、夜には、疲れも知らず手を差し伸ばしながら、    (2)

 私のたましいは慰めを拒んだ。

私は 神を思い起こし(remember)、そして、嘆く。                       (3)

 思いを巡らし(meditate)、私の霊は衰え果てる。                セラ

あなたは、私のまぶたを閉じさせない。                           (4)

 私の心は乱れて、もの言うこともできない。

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した(consider)。                 (5)

  夜には、私の歌を思い起こす(remember)                              (6)

私は 心のうちで思いを巡らし(meditate)

私の霊は、(答えを)探り求める。

   

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。                           (7)

 もう決して、目をかけてくださらないのだろうか。

主の恵み(ヘセッド、unfailing love)は、永久に絶たれたのだろうか。            (8)

  約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

神は、いつくしみを忘れたのだろうか。                            (9)

  もしや、怒って、あわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」 セラ

                                                 

そして、私は言った。「私が苦しんでいるのはこれだ。(My sorrow is this:         (10) 

  いと高き方の右の手(のわざ)が変わるからだ。」 the changing of the right hand of the Most High!)

私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう(remember)。                     (11)

 まことに、昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう(remember)

私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ(reflect)、               (12)

 あなたの大いなるみわざ(恐ろしいさばき)に、思いを巡らそう(meditate)

神よ。あなたの道は聖です。                                 (13)

 神のように偉大な神が、ほかにありましょうか。

あなたこそは、不思議なみわざを行われる神、                      (14)

 国々の民の中に御力を現される方です。

あなたは御腕をもって、ご自分の民を贖われました。                  (15)

 ヤコブとヨセフの子らを                         セラ

             

水は見ました。神よ。水はあなたを見て、わななきました。               (16)

   大いなる水(創世記1:2原文「テホーム」)さえもまた、震え上がりました。

雲は水を注ぎ出し、雷雲(らいうん)は声を上げ、                        (17)

 あなたの矢もまた、ひらめき飛びました。

あなたの雷(いかずち)の声は、いくさ車のように鳴り、                   (18)

 いなずまは世界を照らし、地は震え、揺れ動きました。

あなたの道は海の中に、その小道は大水の中にありました。              (19)

  それで、あなたの足跡(footprints)を見た者はありません。

あなたは、ご自分の民を、羊の群れのように導かれました。               (20)

  モーセとアロンの手によって。

                          (2006年高橋改訳 へブル語原文から、英語はあくまでも参考) 

人はしばしば、苦しみに合うと、「どうしてこんなことに・・・」と原因を探りながら、過去のことを後悔して自分を責め、ますます落ち込んでゆくという空回りに陥ります。そして、将来への不安から呼吸さえも浅くなることがあります。本来、そんなときこそ、神に必死に祈るべきなのでしょうが、こころの内側には神への不信が沸き起こっており、祈る気力すら湧かないということになります。どうしたら良いのでしょう?

1.「私のたましいは慰めを拒んだ・・・ 主の恵みは・・絶たれたのだろうか・・・」

  私は神に向かって声をあげ、そして、叫ぶ・・・。すると、神は聴いてくださる」(1)とは、信仰の基本です。キリストですら、大きな叫び声と涙とをもって、祈りと願いとをささげられた」(ヘブル5:7)からです。ただ、そのように、「苦難の日に、主を尋ね求め、夜には、疲れも知らず手を差し伸ばす」ようにして必死に主の助けを求めながら、「私のたましいは慰めを拒む(2)ということがあり得ます。たとえば、「主は、あわれみ深く、情け深い」(出エジプト34:6)と言われるのを聞きながら、「それでは、なぜこんな不条理がまかり通るのですか・・」と訴えたいと思うことがあります。しかも、落ち込んでいるとき、問題の解決以前に、ただ悲しみをそのまま受け止めて欲しいと願うのは、人としての当然の感情です。イエスですら、十字架にかけられる直前の日に、ナルドの香油をご自分の頭に注いでもらうことで深い慰めを受けられたのですから。「優しさ」という字が、「人」が「憂い」の傍らに立つこととして描かれるように、愛は痛みに共感することから始まります。人は、落ち込むとき、「自分は何でこうも弱いのか・・」と自分を責めて、悪循環に陥ってしまいがちですが、そんなときに、その人の自己嫌悪に拍車をかけるようなことをしてはなりません。

この著者は、「神を思い起こすことが、賛美ではなく、「嘆き」を生み出し(3)、また、静まって思いを巡らすことが、かえって「私の霊は衰え果てる」原因になると訴えます。実際、私たちも、主の御前に静まることで葛藤が増し加わることがあります。しかし、そこに希望があります。それは、その人の「嘆き」、出口のない空回りではなく、主に向っているからです。多くの人は、この詩篇を読み、「私の気持ちがここに記されている!」と不思議な感動を覚えます。それは、不安と悲しみで「息が詰まっている」たましいが、主に向って呼吸を始めるきっかけになります。祈りの基本は、主に向っての「呼吸」なのですから・・。

人は、悩みが深くなると、眠ることができなくなります。そんなときに、自分の弱さを責める代わりに、神に向かって、「あなたは、私のまぶたを閉じさせない・・」(4)と訴えるとは、何とも不思議です。しかも、「昔の日々」(5)の恵みや自分の心を震わせた「歌を思い起こす(6)ことで、感謝ではなく、神への不満が引き出されるとは何とも皮肉です。それは、目の前の現実が、昔と比べてあまりにも悲惨だからです。ただ、この作者は、「心のうちで思いを巡らし」たことを、自分で飲み込む代わりに、その不敬虔とも言える気持ちを正直に表現します(7-9節)。「もう決して、目をかけてくださらないのだろうか」とは、神の選びへの疑問であり、「主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか・・」とは、神の真実な約束への「疑い」を真っ向から表現するものです。「もしや、怒って・・」とは、自分に原因があると思う中で、絶望して行く様子です。しかし、神に対する疑いを、神に向かってぶつけることこそ、信頼の証しかも知れません。

2.  「私が苦しんでいるのは・・・いと高き方の右の手が変わるから」

そのような中で、著者は突然、「私が苦しんでいるのはこれだ。いと高き方の右の手(のわざ)が変わるからだ」(10)と言います。これは神への不満の表現のようでありながら、同時に、自分が理解できない神のみこころの神秘への信頼でもあります。まさに信仰と不信仰が交差するこの詩篇の転換点です。

たとえば、ヨブがあまりも不条理な苦しみにあったのは、神がサタンにそれを許された結果でした。まるでヨブが、「いと高き方の右の手」の中で、もてあそばれているかのようです。しかも、彼にはその理由を知ることは許されていません。それでも、彼は、神の語りかけを聞くという体験を通して、自分の苦しみが、神のさばきではなく、あわれみに満ちた選びから始まっていることが分かり、「あなたには、すべてができること。どんな計画も成し遂げられることを知りました」(42:2)という告白へと導かれます。また哀歌の著者も、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(3:38)と告白しますが、それが神への信頼の表現であるのは、みことばをとおして神の救いのご計画が理解できた結果でした。

私たちは多くの場合、わざわいの原因も分からなければ、わざわいを避けることもできませんが、それがすべて、神の御手の中で起こっていることだと受け止められるなら、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と告白して安心することができます。

しかも、それは最終的には、私たちの地上の生涯の枠を越えた時間の中で起こることでもあります。人生は、「露と落ち、露と消え行く」ほどに、はかないものですが、この地上のいのちを、神の救いのご計画の全体像から見直すときに、私たちは究極の慰めを受けることができます。日本の歴史だって1500年前ぐらいの記録しかないというのに、三千数百年前に記された聖書の中には、人間がどのように誕生し、どのように堕落し、今、どこに向かっているのかという全体像を見ることができるからです。しかも、その確かさは、星の数ほどの多くの人々の人生を導き、生かしてきたという実績で証明されています。

3.「私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう。」

著者は、ここで、自分の記憶にある「遠い昔の年々」(5)よりもはるか昔の、イスラエルが奴隷の地エジプトから解放されたときにまでさかのぼって、「私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう。まことに、昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ、あなたの大いなるみわざ(恐ろしいさばき)に、思いを巡らそう」(11、12節)と告白します。それは、神がご自身の民の叫びに耳を傾けられ、何と、天を押し曲げて降りてこられ(詩篇18:9)て、エジプトの大軍と戦い、神の民を救ってくださったという、歴史に現された具体的な生きた救いのみわざです。

そして、「神よ。あなたの道は聖です・・」とのことばで、私たちの目は、自分ではなく神に向けられ、神の視点から歴史を見るようにと導かれます。「神のように偉大な神が、ほかにありましょうか。あなたこそは、不思議なみわざを行われる神、国々の民の中に御力を現される方です。あなたは御腕をもって、ご自分の民を贖われました。ヤコブとヨセフの子らを」(13-15節)とは、神のみわざが、私たちの正しい行いに対する報いである以前に、不思議な神の選びとあわれみから生まれているという告白です。私たちの救いは、自分の信仰以前に、神の愛の眼差しから始まっています。そこに究極の慰めがあります。

「水は見ました・・」(16)とは、出エジプトの際、紅海の水が真っ二つに分けられたことを指します。しかも、「大いなる水」とは、創世記1章2節での全地を覆っていた水ですが、それさえも、神の御前で「震え上がる」というのです。そして、この著者は、かつて、「神に向かって声を上げ・・叫んで」いましたが、神は、はるかにまさる大きな「雷雲の(17)「雷の(18)を出しながら、救いの御手を、ご自身の民のために差し伸べてくださったというのです。そして、神にとって、その海にできた道は、「小道」(19)にしか過ぎないもの、神の小指のわざに過ぎません。そして、神の「足跡」(19)は、海の中に消えていますが、それは救われた民を通して確かに証しされています。それは、まさに多くの人に親しまれている「フットプリント」という詩に表わされているように、神が私たちを背負って歩んでくださった記憶でもあります。

しかも、これらのみわざの目的は、神がご自身の民を贖い・・ご自分の民を、羊の群れのように導く」(20)ことにあったのです。イエスも私たちに向って、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません(ヨハネ10:27,28)と約束してくださいました。そして、その神の御手は、同時に、イエスの御手であり、それらの御手の現われとして、「モーセとアロンのがあり、また、私たちの回りの目に見える人々の手があるのです。神が数々の不思議なみわざをしめしてくださったのは、私たちを奇跡の奴隷にするためではなく、この世界の毎日のすべての現実が、神の御手の中にあることを教えるためなのです。 

ドン・モーエンは、義理の妹夫婦が交通事故で9歳の息子を失い、三人の子供も重症を負ったという知らせを聞き、何の慰めも言えないという無力感に襲われます。そのとき、以下の歌が生まれました。この曲は、今、重度の鬱病になった人をはじめとして世界中の困難を抱えた方々の慰めになっています。

「神は、道を造ってくださる。道が何もないと見えるようなところにも。/神は、私たちが見えない方法で働かれ、私のために道を造ってくださる。/神は、私の導き手であり、私をご自身のふところに抱いて、愛と力を日々新しく与えてくださり、神は道を造ってくださる。神は、道を造ってくださる。/神が荒野の道に私を導かれることがあっても、私は砂漠の中に川を見ることさえできる。/やがて、この天と地は滅び失せる。しかし、神のみことばは永遠に残る。/神は、今日も、何か新しいみわざをなしてくださる。」

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詩篇8篇 「人とは何者なのでしょう」

詩篇8篇  (指揮者のために。ギデトの調べにあわせて。ダビデの賛歌)

主(ヤーウェ)よ。                                     (1)

私たちの主よ。

御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

あなたのご威光は天でたたえられています。

あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建て、        (2)

敵対する者、敵と復讐する者とをしずめようとされました。

あなたの指のわざである天を仰ぎ見、                     (3)

あなたが整えられた月や星を見ますのに、

人とは、何者なのでしょう。これを御心に留めてくださるとは。        (4)

人の子とは、何者なのでしょう。これを顧みてくださるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとされて、               (5)

栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいます。

あなたは御手の多くのわざを人に治めさせようと、               (6)

すべてのものを彼の足の下に置かれました。

すべて、羊も牛も、また、野の獣も、                        (7)

   空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

主(ヤーウェ)よ。私たちの主よ。                            (9)

御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

  私たちは人との比較で自分の価値をはかろうとしますが、神はひとりひとりの価値を、ご自身の基準ではかってくださいます。では、神は私たちひとりひとりをどのように見ておられるのでしょうか。

 

1.天に表わされた神の栄光

   この詩篇にはダビデによって記されました。万軍の主は、彼を「羊の群れを追う牧場からとり・・イスラエルの君主とし」(Ⅰ歴代誌17:7)たばかりか、ダビデ王家は永遠に続くと約束されました(それはイエスがダビデの子として生まれたことで成就)。それを聞いたダビデは、「神、【主】よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家について、はるか先のことまで告げてくださいました。神、【主】よ。あなたは私を、高い者として見ておられます。」(Ⅰ歴代誌17:16,17)と感謝の祈りをささげました。これこそ、詩篇8篇が記された背景です。そして、今、神は、キリストのうちにある私たちひとりひとりを、何と、ダビデのように「高い者」として見ておられるのです。

   ダビデはまず「主(ヤーウェ)よ」と、固有名詞で呼びかけます。後の時代には、主人を意味する「アドナイ」と読み替えましたが、この時は御名を発音していました。モーセが燃える柴の前で御名を尋ねたとき、神は「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14)とご自身を紹介されましたが、そこに御名の意味が表されています。近代合理主義の発想の基本は、デカルト(17世紀初め)の「われ思う故にわれあり」から始まっている面がありますが、同時代の敬虔な科学者パスカルは、「私はデカルトが許せない・・彼は、世界を動き出させるため、神にひとつの爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それから先は、神に用がないのだ・・」(パンセ77)と彼の理神論的な理解の本質を見抜きました。自分の意識を原点として神を知るのではなく、神を出発点として自分を見るのが聖書的な考え方だからです。自分の必要から神を求めるという発想を捨て、神が私を何のために創造し、何を期待しておられるかを常に考える必要があります。それが、「私たちの主(アドナイ)よ」という告白です。神の御許しがなければ私たちは一瞬たりとも生きることができません。その方を、私や隣人の主人と告白することこそすべての始まりです。

   そして、「わたしはある」と言われる方の名の意味は、「全地にわたり」、「力強く」証しされています。また、その方の「ご威光は天でたたえられています」。ところが、この地では、人が、自分を神のように誇っており、神をたたえるかわりに、神を踏み台にしてでも自分を高くしようと必死になっています。

ところで、イエスが神殿の中で盲人や足なえをいやしたのを見て、子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と賛美したとき、ユダヤ人の宗教指導者は、聖なる宮の中で神以外の方が賛美されるのは許せないと思って、それに抗議しました(マタイ21:14-16)。そのときイエスはこの詩篇から、「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」と語り、まさにご自身の「敵と復讐する者としずめ」られたのでした。律法学者は、理屈が先行して事の本質を見失ってしまいましたが、幼子たちは、自分の弱さを腹の底から感じているために、かえって神のみわざを認めることができます。私たちも、自分の疑いをしずめようと、神の存在や三位一体の神秘を理性で把握しようと必死になることがあります。しかし、それによってかえって本当の神の姿を見失うことがあるのです。ただ、力を抜いて、神がお造りになられた世界の美しさを鑑賞し、自分の無力さを認めながら、神に向かって祈ることの中で、神はご自身を表わしてくださいます。

2.「あなたの指のわざである天を仰ぎ見・・・」

  「あなたの指のわざである天を仰ぎ見、あなたが整えられた月や星をみますのに・・」とは、たとえば街灯のない田舎で夜空を見上げるとき直感的に感じられる驚きです。夏の夜空に輝く美しい天の川は、私たちが銀河系の中心を見ているものですが、その直径は、光の速度(一秒で地球を七周半まわる)で八万五千年もかかるほど大きなものです。しかも、そのような銀河が二千五百個も集まった銀河団もありその幅は光の速度で二千万年の広さにも及びます。銀河団が合わさって超銀河団が構成されますが、それは何と数億光年もの広がりがあります。それらすべてが、神の「指のわざ」に過ぎないというのです。

そのような大宇宙に思いを巡らすとき、「人とは何者なのでしょう。人の子とは何者なのでしょう」と問いたくなります。全宇宙の広さから人を見ると、蟻よりもはるかに小さく、吹けば飛ぶようなひ弱な存在に過ぎません。しかし、神はその小さなひとりひとりを「御心に留め」、また「顧みてくださる」というのです。パスカルは人の弱さと尊厳の関係を、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だがそれは考える葦である。・・蒸気や一滴の水でも彼を殺すには十分である。だがたとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては考えることの中にある・・・」(パンセ347)と言いました。(教科書では大切な部分が抜けて引用されます・・・)

   私たちは本能的に、自分の頼りなさを知り、孤独を、また見捨てられることを恐れています。しかし、それがゆえに、自分の知恵や能力を示し、「私は愛されるに値する存在です・・」とアピールします。そこから人と人との比較や競争が始まり、心の中で、「確かに私は弱く愚かだとしても、あの人よりはましだ・・・」と思うことで慰めを得ます。しかし、パスカルの言うように、自分の絶対的な頼りなさと真正面から向き合うことができることこそが、人間の尊厳である「考えること」の本質なのです。そして、私たちはその弱さを腹の底から感じるそのただなかでこそ、直感的に神の愛を体験するのです。それと同時に、そこから、私たちは、「人を愛する」ことなしに本当の意味で「生きる」ことはできないことが分かります。多くの人は、「どうしたら愛してもらえるか?」を必死に考えますが、神から問われているのは、「どのように人を愛することができるか?」なのです。「愛される」ことよりも、「愛する」ことの方がはるかに困難です。

弱さの自覚から、人を振り回すことを学ぶか、人を愛することを学ぶか、それこそ人生の分かれ道です。このままの自分が宇宙の創造主から心に留められ目をかけていただいていることが分かるとき、私たちはそれぞれのあり方で人を愛し、人に仕え、人の役に立つことができるということが分かるのです。

3. 「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとされて・・・」

  「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとされて・・・」とは、ひとりひとりが「神のかたち」に創造され、神と対話することができるという意味です。「栄光と誉れの冠」とは、人の知恵とか力などのような、生産能力への報酬ではなく、神と顔と顔とを合わせて語り合うことが許されるという関係を表わします。私たちの栄光は、自分から生まれるものではなく、神の栄光を映し出すことのなかに表わされます。そして、人は神との対話の中で、本来この地のすべてのものを治めることができるはずでした。しかし、人が神に逆らい、自分を神のようにして以来、人と自然との間には分裂が生じました。人が自然を破壊すると共に、自然界が人を傷つけるようになりました。私たちが創造主(ヤーウェ)を、「私たちの主(主人)」として認め、自分の弱さと向き合い、主を心から賛美しているとき、この世界は調和に満ちていたのでした。

  ヘブル人への手紙の2章では、詩篇8篇にある「人」に、人となられた神、イエスを当てはめて解釈しています。最初のアダムは、自分を神としてしまい、「神のかたち」としての生き方を捨ててしまいましたが、第二のアダムであるイエスは、しもべの姿となられ、真の「神のかたち」である「人」としての生き方を示してくださったからです。ただ、私たちはいつも「失うこと」「拒絶されること」への恐れに支配され、へりくだることがなかなかできません。それは私たちの肉の性質に真っ向から反するからです。しかし、イエスご自身が聖霊によって私たちのうちに住むとき、私たちはイエスに習うことができます。私たちは自分を高めることで神に近づくことができると思いがちですが、イエスはその反対に、十字架の死を味わうという人間としてこれ以下はない所まで降りることで、神の右の座にまで引き上げられ、今、全地の支配を任せられています。つまり、私たちは下に下がれば下がるほど神に近づくことができるというのです。

   神は、取るに足りない者を高く引き上げるということこそ、ダビデの感動でした。「あなたは御手の多くのわざを人に治めさせようと、すべてのものを彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも」とあるように、創造主はひ弱な私たちに、この地のすべてを任せておられます。それが実現しないのは、私たちが神を神としてあがめず、自分を神として互いに争い合ってしまい、互いに愛し合うという協力関係ができなくなっているからです。もし、私たちが、神にあって一つとされ、互いを尊敬し合い、生かし合うことができるなら、この地に恐れるものはありません。

  最後にダビデは、「主(ヤーウェ)よ。私たちの主(アドナイ)よ。御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」と繰り返します。ここに私たちを主への賛美に招こうとする彼の情熱を見ることができます。

   

キリスト者とは、ご自分を低くされたイエスの生き方に習いたいと願う者です。そこに御霊のみわざが表わされています。そのとき「幼子や乳飲み子たちの口によって、力を打ち建て」られる神が、私たちを通して、ご自身の栄光を表わしてくださるのです。強がりを捨て、幼子のように主にすがりましょう。

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詩篇55篇「あなたの重荷を主(ヤーウェ)にゆだねよ」

「神に委ねることなどできません!」と、末期ガンに苦しむご婦人が言いました。残されるふたりの少年のことを思いながら「神よ。どうして!」とうめいていました。しかし、詩篇の中にその同じ気持ちが記されていること発見したとき、彼女は不思議な平安に包まれました。

最も神を必要とする時に、神が見えなくなったとしても、そこから新しい祈りが始まります。

 

1.  「私は不安にとらわれ、心に休みなく、混乱しています」

  著者は、親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいます。1-5節のような気持ちは無縁と思う人もいるでしょう。しかし、感情は説明し難いものです。ヘンリ・ナウエンは、50代半ばの頃、心の奥底を分かち合える友に出会い、急速に依存して行きました。しかし、あまりにも多くを求め過ぎたため友情は破綻しました。彼は、世界が崩れたと感じ、眠られず、食欲もなく、生きる気力を失いました。彼はその鋭い霊的洞察力によって世界中の人々から尊敬されていましたが、その信仰が何の助けにもならないと感じました。別に、友が裏切って命を狙ったわけではないのですが、彼はこの詩篇にあるとの同じ気持ちを味わったのです。私たちは、失恋でも、失業でも、夫婦喧嘩や約束の時間に遅れた時でさえ、「私は不安にとらわれ、心に休みなく、混乱しています」(2節私訳)という感情を味わうかもしれません。

私たちは、その混乱したままの気持ちを、この詩篇を用いて神に訴えることが許されています。その時、ゲッセマネの園で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:37)と悶え苦しまれたイエスに出会うことができます。イエスご自身も、孤独でした。愛弟子のユダに裏切られ、弟子たちが逃げ去ることが分かっていたからです。そして、イエスは、私たちの心が些細なことで混乱することを、軽蔑することなく、いっしょに悲しんでくださいます。

心の内側に湧き起こった感情を、自分で制御しようとして、混乱を深めたことがないでしょうか?不安こそ、怒りの源泉ですが、それで周りの人を傷つけたり、また、自分を責めて鬱状態になることがあります。この人は、自分の心の状態を、分析することも、言い訳することもなく、そのまま言葉にしています。それは感情に振り回されないためのステップです。彼は、「私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。恐れとおののきが私に臨み、私はひどくおびえています」(45節私訳)という四つの並行文で、自分の恐怖心を認め、その中に入りこみます。あの勇気に満ちたダビデが、自分の気持ちを、ひとりぼっちで身体を震わしている少女のように描いています。彼はその気持ちを静かに味わい尽くそうとしています。

自分の感情を、あるがままに味わってみましょう!それは、心の奥底で神との交わりを体験する機会です。ナウエンは、その繊細さのゆえに生き難さを抱えましたが、同時に、多くの人々への慰めを語ることができました。自分の気持ちを受けとめられない人は、人の気持ちをも受けとめることができません。そして、神との交わりも浅いものにとどまってしまいます。

目の前の問題を解決しようと必死になる前に、自分の気持ちを優しく受けとめ、それをそのまま神に差し出すことができます。そして、それこそ御霊に導かれた祈りです。

2. 「鳩のように翼があったなら・・・」

  しかも、この人は「この問題から逃げ出そうとせずに、しっかりと向き合え!」などと自分を励ます代わりに、「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら飛び去って、休むものを・・」(6)と、逃げ出したい気持ちにも優しく寄り添っています。その上で、逃げ場のない現実を描いて行きます。彼の住む町の中には、「暴虐と争い」、「罪悪と害毒」、「虐待と詐欺」が満ちています(9-11)。人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。

そればかりか、最も近しい人が最も恐ろしい敵となっているというのです。たとえば家庭で精神的な虐待を受けるなら、どこに逃げ場があるでしょう。しかも、そんな敵にかぎって、「滑らか」で「優しい」言葉を用いて語りかけます(21)。その結果、「やはり、私が悪いんだ・・」などと思わざるを得なくなります。それは、あなたの逃げ場を塞ぐ、巧妙な攻撃です。

ところで、著者は、何と、「荒野」「私ののがれ場」と描いています。それは誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所です。しかし、だからこそ「神だけが頼り」となるのです。つまり、彼は「鳩のように翼があったなら・・」という白昼夢の世界に逃げているようでありながら、「あらしと突風」(7節)のただ中で、神との対話に安らぎを見出そうとしているのです。  

一昨年のビュルキ先生のセミナーでのことです。私があることへの感想を述べた時、それが自分の気持ちを隠した評論家的なものであったことを先生から突っ込まれました。私は皆の前で恥をかかされた気持ちになりました。その時、先生は、皆に向かって「彼に安易な慰めの言葉をかけてはならない」と命じられました。また私には、「湧いた感情をいじってはならない。自己弁護してはならない。受けるべきケアーを受けられなくなる・・」と言われました。徐々に予期しない形で不思議な慰めが与えられ、一週間近く経って、黙想の時に読まれたみことばが、心の奥底に迫って来て、感動に満たされました。後で先生が、「説明は、多くの場合正しくない。弁解の延長線上にあるからだ。『自己弁護する者は、自分や人を非難している』“S’EXCUSE S’ACCUSE”(フランスの諺)」と語ってくださいました。私は、しばしば、人に慰めを求めるか、自分で自分をカウンセリングばかりしてきたように思えます。本当の意味で、問題を抱えたまま神の御前に静まり、神の解決を待ち望むことができませんでした。

しかし、ダビデは恐怖におびえた心を、そのまま神にささげました。その結果、彼の心は、まさに鳩のような翼を得て、神のみもとに引き上げられ、安らぐことができたのです。

3. 「(ヤーウエ)は私を救ってくださる

  「私が、神に呼ばわると、主(ヤーウェ)は私を救ってくださる」(16)とありますが、私が天に向かって叫ぶと、神は「わたしは『わたしはある。』という者である(出エジ3:14)というご自身の名を示しつつ、親しく、私に答えてくださいます。そして、「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」(17)と証しされます。私たちの目の前には、神が「私の切なる願いから、身を隠しておられる」(1)と思える現実が起こり得ます。しかし、ダビデは、苦しみのただ中での祈りの体験を通して、自分の声が確かに神に届いていたことを確信できたのです。それは頭での理解ではなく、腹の底からの確信となりました。

  この詩篇には、「敵を愛する」代わりに「のろっている」ように思える表現があります。しかし、それは、自分の気持ちを正直に神に述べ、神の公正な裁きを訴えたものです。彼の側から敵に復讐しようという姿勢は一切ありません。彼が戦わなくても、神ご自身が「平和のうちに、贖い出してくださる」(18)のですから。私たちは、しばしば、神のさばきを信じることができないからこそ、敵を自分の側から赦すことができないのではないでしょうか。

  このような「私」を中心とした祈りの後に、突然、「あなたの・・」という勧めが入ってきます。これは、ダビデが他の人に神への信頼を訴えたものです。そこには体験に裏打ちされた説得力があります。「重荷を、主(ヤーウェ)にゆだねよ」(22)で、「ゆだねる」とは「放り投げる」という意味です。それは、自分の思い煩いや恐怖感を、そのままヤーウェの御前に差し出すことです。「あなたの御心のままに・・」と祈る前に、自分の感情を注ぎ出す必要があるのです。

  「主は、あなたのことを心配してくださる」とは、何と優しい表現でしょう。これは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく、重荷や思い患いを抱えたままのあなたを支えることです。主の目に「正しい者」とは、主に向かって叫び続ける者のことです。その人を、主は「ゆるがされるようにはなさらず」試練の中で立たせ続けてくださいます。私たちもこのダビデの祈りの世界に招き入れられている者として、いろんなことが起こる中で、「けれども、私は、あなたに、より頼みます」と告白しましょう。

  

キリスト者の交わりは、共依存的な関係ではありません。「ひとりでいることができない者は、交わりに入ることを用心しなさい。彼は自分自身と交わりをただ傷つけるだけである」(ボンヘッファー)という原則を忘れてはなりません。あなたの心は、いつでも、どこでも、鳩のような翼をもって、神のもとに憩うことができます。それこそ、人との交わりの力の源泉です。

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