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2006年6月18日 (日)

勇士サムソンの孤独

 士師記13~16章 「孤独なナジル人サムソン」 

       2006年6月18

サムソンの身体は驚くほど強いのに、心はどうしてこうも弱いのかと思われます。しかし、それにまさって不思議なのは、彼がイスラエルの民から完全に浮いていたことです。神の御霊に動かされながら、これほど孤独だった人がいるでしょうか。彼がこれほど女性の誘惑に弱い原因は、孤独かもしれません。孤独はアダムの原罪の結果です。しかし神は、ヤコブの孤独の中に現れ、彼をイスラエルとされました。サムソンの物語の中に、神の民の物語を、そして、キリストの苦悩を読むことができないでしょうか。

1. 「主(ヤハウェ)の霊は・・彼を揺り動かし始めた」

サムソンはダン族の出身です。彼らに本来、割当てられた地は、現在のエルサレムからテルアビブに下る方面でしたが、地中海沿岸に侵入してきたペリシテ人が勢力を広げたため、彼らの多くは、カナンの地の最北部に移住しました。サムソンは、その不遇な部族の、しかもその残された氏族の中に生まれたのです。ただ、その誕生のプロセスは、イサクやヤコブの場合のように奇跡的なものでした(参照:創世記171825章)。このとき、主の使いはまずマノアの妻に現われ、男の子の誕生を告げます。その際、主は、「見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める」(13:5)と言われました。そして、これは夫のマノアに対しても告げられます(13:13,14)

「ナジル」の語源は「分離」で、一般の民が一定期間、自主的に主への奉仕に身を献げる誓願をすることです。その間は、ぶどう酒を飲まない、死体に近づかないことと合わせて、髪の毛を伸ばすままにする必要がありました。ただサムソンは、母の胎内から死ぬまでナジル人であり続けることが定められており、彼の不思議な力は、神の一方的な選びに由来します。神に選ばれ、愛されながら、その愛を忘れ、自分の肉の衝動のままに生き、誘惑に負け、ナジル人のおきての全てを破り、苦しみを受けるという彼の姿は、イスラエルの民の歴史の要約とも言えます。彼の歩みは、神の民のサンプルのようなものです。

不思議なのは、神の幕屋もレビ記の礼拝規定もあるこの時代に、祭司でもないマノアが自分の畑で、「全焼のいけにえを・・主(ヤハウェ)にささげる」(13:16)ことが許されたことです。これは、イスラエルの信仰共同体としての機能が麻痺しヤコブの時代の原点からやり直す必要があったことを示します。その後、生まれた子は大きくなり、主は彼を祝福され・・(ヤハウェ)の霊は・・彼を揺り動かし始めた」(13:25)と記されます。これらすべては、主がイスラエルをあわれまれた故ですが、彼らはそれにまったく気づきません。

サムソンはナジル人でありながら、ペリシテ人の妻をめとろうとします。それは罪ですが、主はそれを、「ペリシテ人と事を起こす機会」とされました(14:4)。そして一頭の若い獅子が彼を襲ったとき、「主(ヤハウェ)の霊が激しく彼の上に下って」(14:6)、彼は素手のままそれを打ち殺します。その後しばらくして、彼はナジル人でありながらその死体に近づき、その中に「蜜蜂の群れと蜜」を見つけ、死体で汚れた物を食べます(14:8,9)。その後、ナジル人でありながら、ペリシテ人の習慣に合わせた婚礼の祝宴を催し、ぶどう酒をたくさん飲んだことでしょう。彼に付き添った30人はペリシテ人ばかりでした。しかも、余興のなぞかけの解き明かしを巡って、妻の懇願に負け、彼らへの賭けの支払いが必要になります。ところがここで、「主の霊が激しくサムソンの上に下った」(14:19)ので、彼は、別のペリシテの地のアシュケロンの住民30人から力ずくで奪い取ることができたと記されます。彼の行為は、ナジル人の掟に反しますが、主はそれをも用いて、「最強の野の獣も、ペリシテ人も、恐れる必要はない!」と語っておられるようです。

神は、恐れに囚われて自滅に向っているご自身の民を救おうとされました。主の霊は、敬虔な人に授けられるという以前に、野蛮で不敬虔な人をも生かして用いる、神の御手の現われなのです。

2.「ひとりだけで千人を追う」という預言の成就と、主の前に静まること

その後サムソンは、妻が別のペリシテ人に嫁がされたことに腹をたて、ジャッカル三百匹を使ってペリシテ人の麦畑を焼きます。ペリシテは復讐としてユダ族を攻めます。その時、ユダは三千人でひとりのサムソンをとらえ、ペリシテ人に引き渡そうとします。そのとき彼らは、「あなたはペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか・・」(15:11)と言いますが、これこそ神の民の堕落の象徴です。しかしサムソンは、同じ神の民との争いは避けて、縛られるままになります。彼の心の激しい痛みが察せられます。

しかし、「主(ヤハウェ)の霊が激しく彼の上に下り」(15:14)、彼ひとりで「千人を打ち殺した」というのです。これは、主がともに戦ってくださるなら「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる」(ヨシュア23:10)預言されていたとおりのことでした。一方、後に預言者イザヤは、イスラエルが敗北して行く姿を、「ひとりのおどしによって千人が逃げ」(30:17)と描いています。そして、その直前に、「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」と描かれます(30:15)。

ここでサムソンは、「ひどく渇きを覚え、主(ヤハウェ)に呼び求め」あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました」と告白しつつ、「今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています」と訴えます(15:18)。人は、しばしば、大きな勝利の後、疲れを覚え、急に弱気になることがありますが、それは主との個人的な出会いの機会になります。そしてこの直後に、すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返ったと描かれます(15:19)。サムソンは、まさに、「主に立ち返る」ことによって、「生き返った」のでした。

しかし、他のイスラエル人は、「これを望まなかった」のでした。そんな中で、「こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間、イスラエルをさばいた。」(15:20)という記事が空しく響きます。彼は士師として立てられながら、イスラエルを治めることはなかったからです。彼は孤独な戦いを続けただけでした。

3.愛するデリラによって売り渡されたサムソン

サムソンはその後、デリラという「ひとりの女」を愛します。ペリシテ人の領主は、彼女に多額の報償金を約束しながら、サムソンの力の秘密を探り出そうとします。彼は、三度に渡って嘘の情報を教えながら、彼女が自分を縛るのに身を任せてしまいます。普通なら、この女の悪意に気づくはずですが、「恋は盲目」ということばのとおりになります。しかも彼は、過去の成功によって、自分の力を過信していました。

デリラは彼に、あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう」と言いながら、愛の証を求めます(16:15)本来、これは主(ヤハウェ)ご自身が彼に言いたい言葉でしょう・・。孤独なサムソンは「死ぬほどつらく」(16:16)なって、彼女を自分の神として、秘密を明かします。それは、髪の毛がそり落とされたらナジル人ではなくなり不思議な力を失うということでした(16:17)。デリラは、ペリシテ人の領主たちを呼びますが、そこで「彼らはその手に銀を持って上ってきた」と敢えて記されます(16:18)。それは、彼女が愛したのは、サムソンではなくお金であったことを示すためです。そして、「彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ・・・彼の髪の毛七ふさをそり落とさせます(16:19)。何という不気味な表現でしょう。私たちもサタンの誘惑の中で安眠を貪り、自分の身を滅ぼす恐れがあります。それにしても、サムソンは、かつて同胞によって、今度は最愛の人によって、売り渡されました。彼の孤独は、まさに後にイエスが味わうものと同じではないでしょうか。サムソンも孤独の中で、主との出会いを体験しましたが、それを生かすことができませんでした。彼には、さらなる孤独と挫折が必要でした。

力を失ったサムソンはペリシテ人にとらえられ、「目をえぐり出され」、青銅の足かせをつけられ、牢の中で臼を引く者にまで落ちぶれます(16:21)。しかし、次第に彼の頭の毛は伸びだします。不思議にもここに彼の心理描写は何もありません。ただ、髪が伸び始めるときが、神との交わりの回復のときとなったことは確かだと思われます。彼は、やがて、ダゴンの祭りで見世物にされ、その神殿に連れ出されますが、そこで自分から願って、宮を支える柱のもとに立たせてもらいます。そこで彼は、再び、「主(ヤハウェ)に呼ばわり」ます(16:28)。彼は三種の御名を用いて、「主(アドナイ)、ヤハウェよ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神(エロヒム)よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください」(16:28)と祈ります。そしてここでは、「主の霊が激しくくだり・・」という表現なしに、彼が宮を支える柱を動かした様子が描かれます。これは、主の霊が彼を動かしたというより、主が、彼の切なる祈り耳を傾けられたことを強調するためです。

その宮には、屋上だけでも三千人がいましたが、このとき「サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった」(16:30)のでした。そして、このときになって初めて、「彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下ってきて、彼を引き取り・・・父の墓に葬った」と、彼の仲間が登場します。彼は、自分の命を死に明け渡すことで、神の民の敵に決定的に勝利し、交わりを回復しました。不思議に、イエスとは似ても似つかない野蛮人サムソンに、イエスの十字架と埋葬が示唆されています。

新約でも、パウロはナジル人としての誓願を立ててそれを全うしたことが示唆されています(使徒18:1821:24)。そして、彼は、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:2)と命じました。私たちは無力でも、神は偉大な方です。しかも、神は罪人の頭のようなサムソンさえご自身のみわざのために用い、最後には信仰の勇士の仲間入りをさせてくださいました(ヘブル11:32)。できるなら、彼のように、孤独のゆえに誘惑に負けて、死ぬときになって初めて目覚めるような生き方ではなく、今、このときから、孤独の中で、主との交わりを深める者とさせていただきましょう。

讃美歌 333 原歌詞

Make me a captive Lord, and then I shall be free

私を捕われ人としてください。そのとき初めて、私は、自由になることでしょう。

Force me to render up my sword, and I shall conqueror be.

私が剣を捨てるように強いてください。すると私は、勝利者になることでしょう。

I sink in life’s alarms, when by myself I stand.

私は、自分ひとりで立っているときに、人生の危機の中に沈んでしまいます。

Imprison me within Thine arms, and strong shall be my hand.

私をあなたの御腕の中に捕えていてください。すると私の手は強くなっていることでしょう。 

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2006年6月11日 (日)

ルカ9:37-56 「この世の取るに足りない者を選ばれ、弟子とされたイエス」

   イエスは十二使徒を選ばれました。しかし、彼らは、人々から尊敬される人格者というよりは、「この世の取るに足りない者」(Ⅰコリント1:28)と呼ばれるにふさわしい者たちでした。しかし、その彼らによって、「教会」の基礎が作られたことは確かです。それはあなたにも、希望を与えることではないでしょうか。

1. 「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。」

  イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて山に登り、一時的に天の栄光の姿を表されました。ところが、山から降りると、残された弟子たちが人々に失望を与えていました。悪霊が、ある人のひとり息子に取り付き、「ひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしない」(9:39)のでした。これは、「てんかん」(マタイ17:15)と訳されることもありますが、マルコでは、「この霊は、彼を滅ぼそうとして」(9:22)とも描かれるように、この霊は、取りついた人を公衆の面前で激しく苦しめるものでした。悪霊は、この子を通して、人々を恐怖に落とし入れ、神よりも悪霊を恐れるように仕向けたのだと思われます。

  この父親はイエスに、「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした」(9:40)と失望を表現しています。それは、弟子たちがかつて、「すべての悪霊を制する力と権威を授け」ていただき、「病気を直す」ことができていたからです(9:1,6)。できたことができなくなったのはなぜでしょう?それでイエスは、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」(9:41)と言われました。

  「今の世」ということばに、弟子たちばかりか、そこにいるすべての人への叱責が込められています。それは神のみわざを人間的な能力ととりかえてしまう落とし穴です。そこにいる人々は、悪霊追い出しを神のみわざとしてよりは人間の働きかのように誤解していました。また弟子もかつての成功体験にあぐらをかいていたのかもしれません。彼らはイエスに後で、自分たちがどうして追い出せなかったかの理由を聞きますが、イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ・・」と答えられました(マルコ9:2829)

  イエスは、父親に、「あなたの子をここに連れて来なさい」と、その子をご自身のみもとに招き、「汚れた霊をしかって、その子をいやし」ましたが、その結果、「人々はみな、神のご威光に驚嘆した」というのです(9:41-43)。ここでは、人々の目が、イエスのご威光ではなく、父なる神に向かったということが何よりも驚きではないでしょうか。人々は、「神の国」、つまり、神のあわれみに満ちたご支配が、この地に戻ってきたことを感謝できたのです。それは、様々な預言者たちの預言が成就したことを意味します。

  私たちも「あの人の信仰が立派だから・・」などと、神のみわざ以前に、人の信仰心とか人格とか賜物にばかり目を向けて、「神のご威光」をともにあがめるというところに行き着かないことがないでしょうか。

2.「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」

  イエスは、このような神のみわざを示した直後、弟子たちに再び、「人の子は、今に人々の手に渡されます」(9:44)と、ご自身の受難を予告されました。ところが彼らは、それが理解できなかったばかりか、「このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた(9:45)というのです。しかし、いやなことから目を背け、現実を直視することができないような信仰は、知らないうちにこの世の力に流されてしまうのです。

  そして、この後すぐに、「弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」(9:46)というのです。イエスが繰り返しご自身の受難を示唆された後に、何ということでしょう!主の心の痛みが伝わってくる気がします。弟子たちにしたら、三人だけが山にお供を許されたこと、また、他の弟子たちが悪霊追い出しに失敗したことで、互いの競争心が刺激されたのかもしれませんが・・・。

   しかし、イエスはこのとき弟子たちに、「何とあさましい!」と叱責する代わりに、その隠された気持ちを受け止め、彼らの目の方向を逆転させます。人は、自分より少しでも能力が勝っている者に強い競争心を感じます。それで、主は、彼らより、はるかに能力が劣る子供(幼児)の手をとって自分のそばに立たせ、その子を「受け入れる」ことを勧めました。このことばは、客人を歓迎しもてなすことを意味します。

人は、自分に益をもたらす者を懸命にもてなします。影響力の強さによって料理にも差が出ます。ところがイエスは、何の見返りも期待できない幼児「もてなす」ことを命じたのです。そればかりか、幼児はしばしば、まわりの空気を読むことができずに、静寂を破ってしまいます。ですから弟子たちですら、イエスの説教の場から子供を退けようとしました。また多くの教会も大人だけで礼拝を守ろうとしました。しかし、では、この弟子たちを含め、大人たちはイエスの話を、本当に理解できていたのでしょうか?

イエスは、無力で理解力のない子供を「受け入れる」ことは、ご自身を「受け入れる」ことだと言われました(9:48)。そればかりか、イエスを受け入れることは、イエスを遣わされた父なる神を受け入れることだと言われました。それは、後に、イエスが犯罪人として捕らえられたときに弟子たちができなかったことです。自分の身に危険をもたらす人を、「主」として認め続けることは、決して容易なことではありません。

イエスはその上で、「あなたがたすべての中で一番小さい者一番偉いのです」と言われました。私たちは、無意識にも、「私とお付き合いすることはあなたの益となり・・」とか、「私を採用することはあなたの会社にとって得です・・」とアピールする思いがあるものです。しかし、イエスは、子供のように、誇るものを何も持たないものこそが、「一番偉い」と言われたのです。私の中には、「あなたは重要な存在です」と言ってもらいたい思いがあります。それで自分の有能さを証明しようと頑張っています。しかし、イエスは、この世的に能力の劣った「小さい者」にこそ、最も大きな存在の意味があると言われたのです。

子供は、直感的に、自分が人の助けなしには一瞬たりとも生きてゆけないことを知っています。ですからストレートに助けを求めます。同時に、身体全体で満足を表してくれます。子供は何よりも、大人に「誇り」を与え、比較地獄の中で緊張している心を和らげてくれるのではないでしょうか。その意味で、彼らの無力さや弱さこそが、最高の贈り物になり得るのです。反対に、見るからに立派な人の傍にいると、緊張し、劣等感に苛まれるという体験がないでしょうか。イエスに敵対したパイサイ人などはその典型で、神に対してさえも自分の信仰深さを誇っていました。しかし、神が私たちに何よりも望んでおられることは、私たちが自分の無力さを認め、幼児が親のふところに飛び込む姿に習うことではないでしょうか。

3. 「天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と口走ったヨハネ

  イエスのおことばに、「ヨハネが答えて言った」(9:49)とありますが、彼は何に応答したというのでしょう?たぶん、彼は、自分こそイエスを受け入れ、謙遜に仕えているとでも思ったのでしょう。彼は、イエスの御名によって悪霊を追い出している人をやめさせたことを報告しました。それは、その人が、「私たちとともに従おうとしていないから」(9:49別訳)というのです。それは確かにもっともです。イエスも、別のところで、イエスの御跡に従おうとしないで御名を利用する人に警告をしておられましたから・・(マタイ7:21-23)

  しかし、イエスはここで、「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です」(9:50)と言われました。それは、どっちつかずの人を、敢えて敵に回すことを戒めたものだと思われます。実際、イエスの御名を用いた後に、イエスを悪く言うことはできないでしょうし(マルコ9:39)、そのような人も、やがて挫折を味わい、イエスに従う必要を感じることでしょうから、そのときを優しく待つということかもしれません。

  その後、イエスは、ご自分の十字架が待つ

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