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2006年7月25日 (火)

ルカ10章29~42節 「どうしても必要なものはただ一つだけです」

                                           2006年7月23日

「善きサマリヤ人のたとえ」は、教会の歴史の中で、単なる「隣人愛の模範」としてひとり歩きするようになり、そのうちに、その人がどのような神々を信じていようとも、隣人愛を実践できているかどうかの方が大切であるとの解釈さえ生まれました。しかし、著者ルカは、この直後に、「マルタとマリヤ」のことを記し、主のみこころを聞くことを後回しにした熱心さによって主を悲しませた実例を紹介します。それは、主の御前に静まり、主の御声を聞くことこそ、すべての隣人愛の原点とならなければならないからです。

1. 「愛されている者らしく、神にならう者となりなさい」

   イエスのたとえは何よりも、「自分の正しさを示そう」とした律法学者が、「では、私の隣人とは、だれのことですか」と尋ねたことへの答えです(29節)。彼は、隣人の範囲を限定することによって、「私は隣人を愛しています」という「正しさ」を示そうとしていました。ですから、たとえの目的は、「私は責任を果たしています・・」という自己正当化を砕くことにありました。そこで、主は、強盗から半殺しにされた人の横を、祭司もレビ人も通り過ぎて行った中で、軽蔑されている異教徒のサマリヤ人が最高の愛を尽くしたという例を語ります。その上で、主は、「この三人の中でだれが・・隣人となったと思いますか」(36節)と尋ね、「隣人とは、だれか」という問いを、「隣人となるとは?」という問いに発想の転換を迫ったのでした。

  そしてこの背後には、主のイスラエルに対する愛を描いたみことば、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」(申命記32:10)があるように思われます。つまり、これは、「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(エペソ5:1)とあるように、自分の限界を自分で設定せずに、神の無限の愛にならうようにとの勧めなのです。ただし、そこから、たとえば、アメリカの救急医療の現場を描いたドラマのような、「どこまでやってもきりがない・・」という、礼拝する時間もなくなるほどに殺人的に忙しい生活への駆りたてが生まれる可能性があります。

イエスは、このたとえを、注意深く描いています。それは、祭司もレビ人も、「エルサレムからエリコに下る道で・・その道を下ってきたが・・・」(30,31節)とあるように、エルサレム神殿で神への礼拝をささげてきたその礼拝の帰り道で、半殺しにされた人に出会うという場面設定です。つまり、ここには、神に仕え、神の愛を受けたはずの宗教家が、その帰りに、今にも死にそうな人の横を知らん振りして通り過ぎたという矛盾が描かれているのです。これは、「神の愛にならう」生き方に真っ向から反します。

それにしても、人によっては、神を愛することと、隣人を愛することの狭間で心が揺れる人もいるかもしれませんが、イエスの答えはその点において極めて明確です。隣人愛の基本は、父母との関係から始まりますが、イエスは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(10:37)と言われたばかりか、自分の肉の父を葬るよりもイエスに従うことを優先しなさいと命じられ(9:59,60)、常に、主との関係こそ第一である断言されました。それは、私たち罪人は、神の愛を知ることなしに、本当の意味で父母を敬うことも、また自分の隣人を自分自身のように愛することもできないからです。

2. 「主よ。何ともお思いにならないのでしょうか・・・」と不満をぶつけたマルタ

 「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えし」(10:38)ますが、彼女の家は、エルサレムから東に3kmほどのベタニヤにありました(ヨハネ11:18)。しかし、ここでは村の名前さえも省かれています。17:11では、イエスはまだサマリヤとガリラヤの境にいますから、この記事は、時間的な順番を越えてここに挿入されたということだと思われます。つまり、この福音書の著者はこの記事を「善きサマリヤ人へのたとえ」とセットで読まれることを望んでいるのです。

  「マルタという女が喜んで家にお迎えした」(10:38)とあるように、この家の主人はマルタでした。そこで、「彼女にはマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」(39節)と記されます。これは当時の常識ではありえないことでした。女性は客を接待するために動き回ることが期待されていたのに、彼女は、既にイエスの身近な弟子であるかのように「主のことばに聞き入っていた」というのですから・・・。姉のマルタは、そのマリヤの態度にキレてしまいました。たぶん、「あなたは何様のつもりをしているの・・・」という感じだったことでしょう。当時の文化でマルタがそう思うのは当然でした。

それにしても、マルタはマリヤへの不満を何と、客であるイエスにぶつけて、「主よ。何ともお思いにならないのでしょうか?妹が私だけにおもてなしをさせているのを・・」(40節)と言いました。彼女は、マリヤが何も動こうとしないことを怒ってはいるのですが、この状況を許しマリヤの常識外れの態度を喜んでみことばを語っておられるイエスにも腹を立てたのです。マルタは、本来イエスに喜んでいただきたいと忙しく動き回っていたはずなのですが、イエスを悲しませることばを発してしまいました。マルタは、自分にも注目して欲しいと内心で思ったのかもしれませんが、このことばは何とも失礼の極みです。

そうなったのはマルタが、「いろいろともてなしのために気が落ち着かなかった(40節)からです。これは、仕事が能力の限界を超えた(overcapacityになった)という意味です。ただ、この家の主人はマルタですから、それは彼女自身の責任です。彼女は、粗末な接待では自分を許せなかったのでしょうか、最高のもてなしでイエスを迎えたいと願って自分を駆り立てたあげく、パニックになり、言ってはならないことを口走ったのです。もちろん、彼女の予定ではマリヤが手伝うはずだったことでしょうが、もし、イエスがマリヤの当時としては常識はずれの行動を喜んでおられるなら、それを受け止めて予定を変更すべきでした。しかし、彼女は自分の理想と社会常識に縛られ、イエスのこころを聞くことができませんでした。

親切の押し売りとも言われる、相手を喜ばせようと頑張ったあげく不快にするという落とし穴があります。それは、自分自身の理想に縛られ、相手が何を望んでいるかを聞いていないことから起こります。

3. 「マリヤはその良いほうを選んだのです」

  この失礼な態度に対して、イエスは、「あなたは自分勝手に忙しくなっている・・」と責める代わりに、「マルタ、マルタ」と優しく名前を呼びつつ、「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています」と彼女の気持ちに寄り添うことばかけをします(41節)。それは彼女の善意を受け止め、彼女が味わっている「心配」「混乱」の気持ちを、軽蔑することなく、まずあるがままに受け入れようとすることばです。

それに続く言葉は、脚注にあるように、多くの写本では、「どうしても必要なものはただひとつだけです」(42節)と記されています。それは、彼女が、「いろいろなことに気を使って、心配している」ことに対して、なくてはならないことは」、ご自身のみことばに耳を傾けることであると諭すことです。本来なら、「見よ。聞くことは、いけにえにまさる」(Ⅰサムエル15:22)とひとこと言えば済むことでしょうが、それではマルタの立場がなくなります。それでイエスは、「マリヤはその良いほうを選んだのです」と言いました。本来、マルタがイエスをもてなすことができるのも、彼女自身の「義務」というよりは「特権」です。実際、彼女は、イエスに仕えることに喜びを感じていました。しかし、動いているうちにそれが彼女にとっての負担になってしまい、そこからつぶやきと怒りが生まれてしまったのです。そして「彼女からそれを取り上げてはいけません」と付け加えたのは、マルタをこの家の主人として認め、マリヤへの寛容を促すことばです。

このことばは、彼女の無礼を責める代わりに、信仰の原点に立ち返らせるものです。「もてなすこと」よりも「聞くこと」の方が大切なのです。それは、イスラエルの民全体の問題でもありました。先の会話でも明らかな律法の核心は、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(27節)でしたが、その原点となる申命記では、その前に何よりも、「聞きなさい!イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神・・」(6:4)と命じられ、「聞くこと」こそがすべての命令の始まりとなっています。

マルタとマリヤの対比を、活動と黙想の生活の対比の理解にとどめてはなりません。ここでは「聞く」ことを忘れた「奉仕」の悲劇が語られているのです。イエスの時代の律法学者は律法の原点を忘れていました。それは、主が、愛される価値のないイスラエルを一方的に「恋い慕って・・選ばれた」(申命記7:7)ということです。しかし彼らは、その主の愛を味わう前に、主に仕える(「もてなす」と同じことば)ばかりに夢中になっていました。彼らは、「神に対して熱心」でしたが、それは「知識に基づくものではありません」でした(ローマ10:2)。「愛する」ことの基本は何よりも「聞くこと」です。そこから初めて、「主に喜ばれる行い」が生まれます。このときイエスのことばにじっと耳を傾けていたマリヤは、どの弟子よりも敏感に主の痛みを察知しできました。主が十字架の死を迎える一週間前のことです。彼女は、三百デナリ(一年分の給与)に匹敵する高価な香油を、イエスの足に塗り、主のみこころを真に慰めることができました(ヨハネ12:1-8)。

マルタは、今、イエスにとって何が一番大切かを誤解していました。イエスは「おいしい食べ物」よりも、「聞いてくれる耳」をこそ求めていたのです。それは十二使徒のなかにも見出すことはできませんでした。イエスは、ご自身の地上の生活が限られていることを知っていました。それで主は、マリヤのように、「みことばに聞き入る」人を求めていたのです。あなたはどうでしょうか。世の中を生き難くしているのは、無力な人ではなく、有能な人々です。ある人は正義感に燃えて戦争を起こし、ある人は、隣人愛に燃えて人を叱咤激励し人をつぶすかもしれません。世の中はますます生きにくくなっています。それは互いが互いの声を聞く余裕がなくなったからではないでしょうか。愛する」ことは「聞く」ことから始まります

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2006年7月17日 (月)

ルツ記

ルツ記(全部)「のろわれた民の娘から祝福された王家の母へ」

                                                   2006年7月16日    

激しい苦しみの中で、「生まれてこなければよかったのに・・」と思う人がいます。しかし、このルツ記は、どんなハンディを背負った人でも、神を愛することによって人生が変えられるという希望を教えます。

 

1.「あなたの神は私の神」と告白したモアブの娘

「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった」(1:1)とは、イスラエルの民の「心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え」た結果、主の怒りが燃え上がり、主が天を閉ざし・・雨が降らなく」なったために起こった悲惨でした(申命記11:16,17)。そのときユダのベツレヘムに住むエリメレクは、主から与えられた相続地を離れ、モアブの地に下り、そこで死にます。申命記には、「モアブの・・十代目の子孫さえ、決して、主(ヤハウェ)の集会に、はいることはできない」(23:3)とあり、彼らと分離せよとの命令に反したことへのさばきと言えましょう。しかも、ふたりの息子は、モアブの娘を妻に迎え、そして、死んでしまいます。その後、ナオミは、(ヤハウェ)がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いて」(1:6)、ユダの地に戻る決意をします。彼女は自分の悲惨が、「主(ヤハウェ)の御手が私に下った」(1:13)、自業自得の結果である謙遜に受け止めていますが、同時に、今、主のあわれみに必死にすがろうとしています。そして、主もまた彼女が約束の地に戻るのを待っておられました・・・。主のあわれみは尽きないからです。 

ナオミはふたりの嫁に実家に帰るように勧め、ルツには、「あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところに帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい」(1:15)と言いましたが、ルツはそれを退け、彼女に向かって、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(1:16)と答えました。彼女は、この告白によって、神の目には、モアブの娘から神の民イスラエルの娘となったのです。後に天才パスカルは自分の回心が、自分の知恵によるものでないことをこのことばで表現しました。私たちは多くの場合、キリスト者との出会いから信仰に導かれますが、その際、これが自分の告白となっているのです。

モアブの起源は、ロトとその娘との父娘相姦という忌まわしいものです(創世記19:36,37)。彼らはモーセに率いられたイスラエルを、バラムを雇ってのろわせようと計り、またモアブの娘たちはイスラエルを偶像礼拝に誘いました(民数記25:2)。これらの結果、彼らは「のろわれた民」となったのです。しかし、この物語で興味深いのは、かつてはイスラエルを偶像礼拝に誘ったモアブの娘が、暗黒時代のイスラエルに信仰者としての模範を残そうとしているという点です。一方、このとき姑のナオミも、「全能者が私をひどい苦しみに合わせた・・主は私を卑しくし。全能者が私をつらい目にあわせられました」(1:20,21)と、この苦しみを、神のさばきと謙遜に受け止めました。主は、「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:39)と仰せられました。主のさばきを知り、人に対して自分を誇れる理由を持たない者こそが、創造主だけが生かし、いやす方であることを腹の底で理解できるのではないでしょうか。主は、人間的な希望が見えないところにこそ、ご自身の栄光と御力を現してくださるからです。

2. 「はからずも・・」、「その翼の下に避け所を求めて来た」、「恥ずかしい思いをさせてはならない」

ベツレヘムに着いたルツは、糧を得るために落ち穂を拾いに出かけますが、「それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった」(2:3)と記されます。「はからずも」とは、「偶然」とも訳せることばですが、その背後に神の御手があることがさりげなく示されています。私たちにも、「はからずも」ということが起きますが、それを神の御手の中での「必然」と受け止めるなら希望が生まれます。

そして、その様子を「はからずも」見たボアズは、彼女に親切を尽くします。それは、ルツが自分の国を離れて、姑のナオミに、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」と言いながら真実を尽くしているのを聞いていたからです。彼は、彼女のうわべではなく心を見たのでした。そして彼は彼女に、「主(ヤハウェ)があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主(ヤハウェ)から、豊かな報いがあるように」(2:12)と語りました。これこそこの書のテーマです。神は、あなたの出生や、過去に関りなく、今の真実な思いに豊かに報いてくださる方です。

  そして、ボアズは若者たちに彼女がなるべく多くの落ち穂を拾うことができるようなさりげない配慮を命じ、その際、「あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない」(2:15)と言います。実は、このさりげないことばに、神の律法の精神が反映されています。申命記では、「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない」(24:20)と命じられます。またレビ記では、「刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない」(19:9)と命じられ、その上で、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(19:18)という聖書の核心のことばが記されていました。日本の生活保護は、支出まで管理されるようですが、社会的弱者への援助は、彼らが卑屈にならずに済むように、彼らが自分の手で働いて収穫できる場を、さりげなく残す形でなされるべきなのです。

   そして、ナオミは、ボアズの名を聞くと、「御恵みを惜しまれない主(ヤハウェ)」(2:20)と賛美しますが、それはルツをさりげなく助けてくれた彼が、「買戻しの権利のある私たちの親類のひとり」であり、ルツは「はからずも」そこで働いたのですが、そこに神の御手が働いていたことを知ったからでした。そして、ルツも、モアブの娘であるにも関わらず「畑でいじめられなくて済み」(2:22)、生活も守られたのでした。

3.「死んだ者の名をその相続地に起こすために」

「買戻し」(贖い)とは、「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない」(レビ25:25)に基づくことばで、他人の手に渡った神からの割り当て地を、元の家の所有に戻すことです。旧約においては、神の祝福は、目に見える土地の上に住む、目に見える家族に表わされるからです。これは日本の「お家再興」に似た面があるかも知れません。とにかく、ボアズは、ナオミの夫エリメレクの家を再興する権利のある親戚でした。

ルツは、ナオミの指示に従い、夜ひそかにボアズの寝床を訪ね、「あなたのおおい(翼)を広げて、このはしためをおおってください。あなたは買戻しの権利のある親類ですから」(3:9)と願います。それは彼がかつてルツを祝福してくれた言葉を用いながら自分との結婚を迫る大胆な願いです。ただし、彼女は、自分の身の安全ではなく、ナオミの家がモアブに逃れる前の状態に回復されること願ったのです。それを知った彼は、あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています(3:10)と言います。恥を忍んで男の床に忍び込んだ彼女の心に隠された真実を、何よりも認めたことばです。そしてボアズは、自分よりも近い買戻しの権利のある親類がいることを知らせ、彼が受け入れないとき初めて「私があなたを買い戻します」(3:13)と、人間的な情を超えて神の秩序を最優先すると約束します。その上で彼は、彼女を静かに寝かしつけ、朝まだ暗いうちに、彼女が自分の所を訪ねたことが人々に知られないようにと、そっと送り出しました。その際、姑への贈り物も持たせ、彼女が拒絶されたと思われないように配慮しました。

ボアズは、買戻しの権利のある親類をすぐに見つけ、意向を尋ねます。その人は、「モアブの女ルツ」を土地とともに買い取る必要があることが分ると、その権利を放棄しました。これを確認した、ボアズは町の長老たちの前で、死んだ者の名をその相続地に起こすために・・・モアブの女ルツを買って、私の妻としました」(4:10)と宣言しました。これによって、ルツは買い取られて、公に神の民とされました。これは人身売買ではなく、救いの表現、「贖い」に通じます。肉において異邦人であった私たちも、キリストの血によって贖われたことで初めて、聖徒たちと同じ国民、神の家族とされたからです(エペソ2:11-19)。ここで聖霊は、ボアズをキリストとして、ルツを私たち教会の代表として予め指し示しているように思われます。そして、このボアズとルツの結婚からダビデの祖父となるオベデが生まれたというのです(4:13-17)。モアブの女がイスラエル最高の王の祖父の母となるなどとは、当時の誰が想像できたでしょう!

私たちは今、互いの愛を前提として結婚することを常識とする世界に生きています。しかし、それが幸せにつながらないケースが何と多いことでしょう。ルツもボアズも神の民としての使命を果たすことを目的に結婚しました。私たちも、その観点から結婚を考え直す必要があるのではないでしょうか。あるふたりは、結婚の際、「私たちが共に歩むことで、互いを幸せにするばかりか、まわりの人をも幸せにできるように願います。そのために、御父と御子との間に見られる愛の交わりが、私たちの交わりのうちにも現されるように、聖霊の導きにおゆだねします」と誓約してくださいました。結婚は、神の愛を目に見える形で表すという目的のために聖定された制度です。ですから、結婚以前に、今ここで主に仕えることが、何よりも大切です。そして、そのような心構えこそがかえって幸せな結婚生活を生み出します。しかし、自分の幸せを第一に考えると、無意識にも相手を利用するという姿勢が生まれ、互いの関係が壊れます。

   

  のろわれた民モアブの娘ルツは、「はからずも」ナオミの息子から神の御旨に反して妻に迎えられたことで、主(ヤハウェ)を知るきっかけが与えられ、その後のナオミの悔い改めの姿勢に影響され、神の民に加わりました。人は自分の出生地も両親も遺伝子も選ぶことはできず、世の不条理に振り回されながら生きざるを得ないことがあります。しかし、ルツのように、心から主を第一とした生き方を始めるならすべてが変わります。彼女の真実は、神のしもべボアズに認められ、救い主の家系に名を連ねるようになりました。神は、出生や能力に関りなく、どんな人をもご自身の救いの計画に用いることがおできになります。                                    

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2006年7月 9日 (日)

ルカ10:21-37 「愛されているとの自覚から生まれる愛」

                                                   2006年7月9日   生活習慣病にかかりそうだとの自覚は、健康的な生き方を始めるきっかけになります。同じように、「自分には愛がない」という自覚を持つことから、神の愛に動かされる隣人愛が生まれないでしょうか。 1. 「父がだれであるかは、だれも知る者がありません」   イエスは七十人の弟子たちが自分たちの働きの成果を喜んで報告したとき、「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(20節)と言われました。そして、「ちょうどこのとき」のことですが、イエスご自身が、「聖霊によって喜びにあふれて・・」(21節)と記されます。つまり、弟子たちの喜ぶべき根拠が神の一方的な恵みのみわざにあったように、イエスの喜びさえも聖霊によって与えられた恵みだったというのです。私たちは、自分で自分の感情をいじって空回りしていることが多いのではないでしょうか。真の喜びは、私たちの働きから生まれるのではなく、父なる神のみわざから生まれるなら、私たちのなすべきことは何よりも、この地上で何かを達成しようと頑張る以前に、主との交わりに目を向けることではないでしょうか。   そこでイエスは、弟子たちとの会話の中で急に、「父よ。あなたをほめたたえます」と言われます。生活自体が、父なる神との祈りの中にありましたから、会話と祈りに境目が見えません。これこそ私たちにとっての手本です。主はそこで、「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」(21節)と言われました。私たちのうちには、自分の知性によって神を理解しようとする姿勢がないでしょうか。少なくとも私の中にはそれが根強くあります。しかし、霊的な真理は、本を読むこともできないような「幼子」にこそ知らされているというのです。子どもたちは、まだ社会的に何の働きも成し遂げていませんし、経済力もまったくありません。しかし、神はそのような無力な者にこそ、ご自身を最初に現してくださいます。22節は原文で、「だれも知る者がありません。子がだれであるかは・・父がだれであるかは・・」と記されています。つまり、御父と御子を知るという信仰は、人にとって不可能なことであり、それでもあなたが信じることができているのは、「子が知らせようと心に定めた」結果であるというのです。あなたは今、自分の意思で、イエスの父なる神に信頼していると思っているかも知れませんが、実は、あなたの信仰自体が神の奇跡、今ここで礼拝をささげていること自体が神の御子の創造のみわざです。 私たちは、神と人から愛されるにふさわしい人になろうと日々努力することでしょう。しかし、それ以前に、あなたはそのままで、神によって愛されています。それでなければイエスの御名によってイエスの父なる神に祈ることすらできなかったはずなのです。当時の人々は、平安の源となるはずの全能の神との交わりの生活の中で、疲れを覚えていました。ですからマタイは、この直後イエスが、「すべて疲れた人(くたびれた人)、重荷を負っている人(負わされてしまっている人)はわたしのもとに来なさい」(11:28)と言われたことを記します。あなたも、毎日、様々な責任を与えられて疲れておられるかもしれません。また、その中で、自分自身を責めているかもしれません。しかし、そんなあなたをこそ、イエスは招いておられます。もちろん、世に生きる限り、なすべき多くの務めがありますが、「できなければ大変なことに・・」という不安ではなく、神に愛されているからこそ、それに応答したいという思いでなされるなら幸いです。 2.  「彼は、自分の正しさを示そうとして・・・」 それからイエスは、弟子たちにひそかに、「その目は幸いです」(23節)と言いながら、彼らが今見ているイエスのみわざや聞いているみことばは、多くの預言者や王たちが憧れていたことだと言いました。多くの人が旧約の預言者たちのように神から直接に語られる体験をしたいと願っていますが、実は、彼らがあこがれていた救いを、今、この私たちこそが手にしているということの恵みを知るべきでしょう。私たちが今、ここで聞いているイエスのみことばを預言者たちは待ち望んでいたのですから・・・。 そこに、ある律法の専門家がイエスを試す質問をします。それは、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのでしょう」(25節)という質問です。あなただったらどのように答えるでしょうか?実は、今の私たちにとって自明と思える答えは、この律法学者には理解不能なことでした。分かっていないにも関わらず、「私は知っている!」と思い込んでいる人は厄介です。それでイエスは、「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか?」(26節)と、彼が何を知っているかを尋ねます。彼は、申命記6章5節とレビ記19:18節から引用しつつ、全身全霊で主を愛することと、隣人を自分のように愛することと答えます。それは正しい答えではありますが、彼は、イスラエルの民がこの命令を何度も聞きながら、しかも実行できなかった原因がどこにあるのかを理解していません。私たちの場合も、「こうしたら良い・・」と分かっているのに、それができないということがあります。それは理解力や「やる気」の問題ではなく、心の内側がアダム以来の罪の累積によって腐敗し、無力になっているからです。実際、人は親の欠点や愚かさはよく見えますが、自分も親と同じ過ちを繰り返していることに気づきます。そして、その親自身が、その前の親の影響を受けています。さかのぼるとアダムに辿りついてしまいます。   ですからイエスは、「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」(28節)と言い放つことでアダムの子孫としての限界を気づかせようとします。ところが彼はそれを理解できず、さらに「自分の正しさを示そうと」、「私の隣人とは、だれのことですか」と尋ねます(29節)。そこには、聖なる神の律法を人間レベルに引き下げて隣人の範囲を狭く限定し、「私は責任を果たしている!」と言い張る姿勢が見られます。 3. 「だれが隣人となったと思いますか」   それでイエスは彼にたとえを話されます。「ある人が、エルサレムからエリコにくだる道で、強盗に襲われた」(30節)とは、エルサレムは標高八百メートル、エリコは標高マイナス三百メートルぐらい、それをつなぐのは、荒れ野を巡る野獣がたむろする険しい道で、そこをひとりで歩む旅人が強盗団に襲われたということです。彼は着物を剥ぎ取られ半殺しにされました。その後、そこを祭司が通りましたが、「彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」(31節)というのです。要するに「見て、見ぬふり」です。そして、その後、レビ人も同じ態度を取りました。彼らは、「私は全身全霊で神を愛している。」と言い張る彼の仲間です。イエスはここで、「あなたならどうしますか?」と試しています。確かに、祭司は死体で身を汚してはならないという掟がありましたが(レビ21:1)、この人は死んではいません。しかも、彼らはエルサレム神殿から下る途中ですから、目の前の奉仕に穴を開ける心配はないのです。ただ、彼らはあらゆる汚れから身を遠ざけることに夢中でしたから、自分の隣人でもない人の面倒に巻き込まれたくはなかったのでしょう。   そこを通ったのが、「あるサマリヤ人」でしたが、律法学者は、彼らを宗教的な異端者、ユダヤ人の敵として軽蔑していました。ところがこの人は、「彼を見てかわいそうに思い、近寄って」(33節)、傷の手当てをし、「自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった」というのです。彼はこの負傷した人と一晩ともに過ごしたばかりか、宿屋の主人に、デナリ銀貨を二枚差し出して介抱を頼みます。これは当時の労働者二日分の給与でした。そればかりか、帰りに再び寄ってさらに必要な費用を支払うと約束して旅に向ったというのです。そして、イエスは、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」と尋ねます(36節)。律法学者は、隣人の「範囲」を聞いたのに、主は、「隣人になる」という発想の転換を迫ったのです。彼は、サマリヤ人ということばを出すことを避けて、「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えます(37節)。それに主は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われます。これこそ律法の趣旨でした。律法学者はレビ記から、汚れを遠ざける「きよめ」の教えばかりを引き出していましたが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)という命令こそレビ記の核心であり、その直後には、「在留異国人をあなた自身のように愛しなさい。あなたもエジプトで在留異国人だったのだから・・」(19:34)と記されています。これはあなたの社会で差別され迫害されている人を、自分自身のように愛しなさい、それこそが、神に習って、「聖なる者となる」(レビ19:2)という意味だったのです。   イエスは、このとき、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」(申命記32:10)というみことばを意識しておられたのではないでしょうか。律法の核心は、イスラエルに一方的に近づいてくださった神の愛を覚え、それに身を任すことでしたが、律法学者たちは、自分の力で神の愛を勝ち取ることを願って、神を奴隷の主人のように見てしまっていました。私たちも自分たちの勝手なイメージを聖書の神に当てはめて見てはいないでしょうか?  善きサマリヤ人のたとえは、新しい隣人愛の教えではなく、既に啓示されていた律法を解き明かしたものです。それは、「自分の正しさを示そう」とした律法学者の傲慢を砕き、彼を神の前での無力な幼子の自覚に導くための教えでした。ですから、私たちも、隣人愛の崇高な教えを人間的なレベルに引き下げて、「私は責任を果たしている!」と高ぶるのでもなく、また反対に、「それは私のような者には無理です!」と居直るのでもなく、「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りつつ、自分の心と身体を全能の主に明け渡し、神の愛が自分を動かしてくださるようにと祈るべきでしょう。私たちのすべての働きは、神が私たちを一方的に愛してくださったその「初めの愛」(黙示2:4)から始まっています。そして、「イエスは私の主です」と告白するあなたのうちに、既に創造主ご自身である聖霊が宿っているのですから。 

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2006年7月 2日 (日)

士師記17章~21章「めいめいが自分の目に正しいことを行なう中での悲劇」

士師記17章~21「めいめいが自分の目に正しいことを行なう中での悲劇」

                                                     200672日        

  現代は、理想や権威に懐疑的になっている時代で、それぞれの「心の声」を尊重することが求められています。ただ、そこには歓迎すべき点ばかりではなく、危険もあるのではないでしょうか。めいめいが自分の目に正しいことを行なう中で、明らかな悪が放置され、共同体が機能不全に陥るということがあります。それは、約束の地に入り、豊かさを獲得できたイスラエルの民にとっての落とし穴でもありました。

1. 神の宮を自分の家の中に作ることの問題

17章以降には士師が登場しませんが、イスラエルの堕落の様子が生々しく描かれています。エフライムの山地に住むミカという人は、母の銀を盗みますが、母のかけたのろいのことばを聞き、あわててそれを返しました。それで母は、のろいを打ち消す祝福を、主の御名によって祈り、その銀を(ヤハウェ)にささげました。ところが、母はその銀で「わが子のために」、「彫像と鋳像を造った」というのです(17:3,4)。しかし、これは主が忌み嫌われることで、彼女は息子の「祝福」を求めながら、「のろい」を招いていることに気づいていません。そしてこのミカは、それで「神の宮」(17:5)を自分の家の中に造り、彼の息子を祭司にしました。これも、「契約の箱」が置かれた幕屋を唯一の礼拝の場所とする神のみこころに真っ向から反します。つまり、彼らは、(ヤハウェ)の御名を用いながら、主のみことばに聞こうとするのではなく自分たちだけの繁栄を祈り求めていたのです。これはカナンのバアル礼拝の習慣に毒された結果です。

このことが、「その頃、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」(17:6)と描かれます。この時代はダン族の移動と結びついていますから、約束の地に入ってそれほど長いときは経っていないと思われます。しかも、この家はかなりの豊かさを享受していましたが、それは、「あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」(申命記6:11,12)と警告されていたことを思い起こさせます。

しかも、ここにユダのベツレヘム出身のレビ人が登場します。彼は自分の町での生活が成り立たなくなり、滞在する所を求めて旅に出たあげく、ミカの自家製礼拝の祭司となります。これは社会全体が安息日の礼拝に集まって主を礼拝することを忘れ、レビ人の働きの場がなくなった結果と言えましょう。

そして、ミカは、「私は主が(ヤハウェ)が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから」(17:13)と言いました。何という皮肉でしょう。彼らは、「十のことば」の最初の四つの命令にことごとく反した罪を犯し、主ではなく富に仕え偶像を作って拝み主の御名をみだりにとなえ安息日を破っていながら、それにも関わらず、「主がわたしをしあわせにしてくださる」と喜んでいるのです。

2.ダン族は、ミカの造った彫像を自分たちのために立てた

そして、ここにあのサムソンの出身部族であるダン族が登場します。これはサムソンより前の時代だと思われますが、彼らは割り当てられたエモリ人の地を支配することに失敗し(ヨシュア19:40-48、士師1:34)、イスラエルの占領地の最北端に新しい土地を求めていました。五人の偵察隊はミカの家に立ち寄り、そこでこのレビ人の祭司に出会い、自分たちの旅が成功するかどうかを尋ねます。すると彼は期待通りの答えを出してくれ、またそのとおりに探索が進んだため、彼らはこの人を信頼します。

その後、ダン族は、六百人の戦士の集団で北方の地を攻め取るために進軍している途中に、ミカの家に立ち寄り、このレビ人と彫像等を奪って行きます。その際、彼もひとつの家からひとつの部族全体の祭司とされることに「心ははずんだ」(18:20)のでした。ミカは彼らの勢力に圧倒されて泣き寝入りしますが、本来、「盗んではならない」という主の命令は、このような力による略奪を禁じる教えのはずでした。

そして、ダン族はライシュの占領に成功し、「自分たちのための彫像を立てた」(18:30)というのです。しかも、ここで初めて、この偶像礼拝を導いたのはモーセ直系の祭司であると述べられます。そのことがさらに、この自家製礼拝に権威を授けます。そして、その子孫は「国の捕囚の日まで・・祭司であった」と悲劇が示唆されます。後にダビデ王国が分かれた際、北王国初代の王ヤロブアムは、この地を、南のベテルにならぶ北の礼拝の中心にし、それが国の滅亡の導火線になります(Ⅰ列王記12:29)。そしてここでは彼らの堕落が、「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立て(18:31)と締めくくられます。ここには、ひとつの家の罪が、ひとつの部族全体を動かしたことが描かれていますが、その偶像礼拝は拡大し、後にひとつの王国まで堕落させることになるのです。

3. ベニヤミン族の罪と彼らへのさばき

続いて、「イスラエルに王がなかった時代のこと」(19:1)と、18章と同じ書き出しのもとに恐ろしい悲劇が記されます。「ひとりのレビ人」が、「ユダのベツレヘムからひとりの女をめとった」のですが、彼女は彼との関係に不満を抱き、実家に逃げ帰ります。夫は「ねんごろに話して彼女を引き戻すために」(19:3)、ベツレヘムに出かけます。娘の父は彼を喜んで迎えますが、娘との別れを惜しむあまりか、接待を重ねて彼らの出発を遅らせます。この夫は、五日目の日が傾きだした時間になって妻を連れて出発し、途中でベニヤミンの町ギブアに泊まらざるを得なくなります。そこで彼らを迎えてくれたのはエフライム出身の老人だけでした。すると夜になって、この町のベニヤミン人の若者たちが家を取り囲み、何とソドムのように「あの男を引き出せ、あの男を知りたい」(19:22)と迫りました。彼はやむなく妻を差し出しますが、彼女はなぶり殺しに会います。彼は自分の家に着くと、イスラエルの国中に使いを送り、さばきを求めました。

それに応じて、「イスラエル人はみな・・こぞってミツパの主(ヤハウェ)のところに集まった」(20:1)のですが、これは直訳で、「ひとりの人のように」と記され、同じ言葉が8節でも繰り返され、また11節でも「イスラエル人はみな団結し、こぞってその町に集まって来た」と描かれます。彼らは、日頃の主への礼拝でひとりの人のようになったのではなく、スキャンダルをさばくことにおいて初めて一致したかのようです。

ところが、ベニヤミン族は、仲間の悪を取り除く代わりに、他のイスラエルの全部族に戦いを挑んでしまいました。彼らには精鋭がそろっていたからです。そのためイスラエルは一回目に22,000人、二回目には18,000人もの戦死者を出します。それで、彼らが「こぞってベテルにのぼって行って・・全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげ、主に伺い」ます(20:26,27)。それは「当時、神の契約の箱はそこにあった」とあるように、士師記の中でも早い時代の、契約の箱がシロに移る前の出来事だと思われます。とにかく、これを通して、主のみこころはベニヤミンをさばくことにあることが明らかにされますが、彼らはそれ以上に復讐心に駆られベニヤミンのすべての町を絶滅させることまで突き進みます(20:48)

4. ベニヤミン族を残すために払われた犠牲

その後、冷静になったイスラエルは、ベニヤミン族が絶ち切られることを避けようと、残されたリモンの岩に立てこもった六百人に妻を与える工夫をします。それは彼らが、自分たちの「娘をベニヤミンに嫁がせない」と誓っていたからでした(21:1)。また同時に彼らは、戦いに加わらない者を必ず殺すという「重い誓い」(21:5)までも立てていました。これらの誓いは人間的な思いから出たものですが、ふたつの誓いを一挙に果たすために、戦いに来なかったヨルダン川東のヤベシュ・ギルアデの町を滅ぼし、その町から四百人の処女を連れて来て、ベニヤミン人に嫁がせました。ただそれでも二百人足りなかったので、それを「シロの娘たち」が、「主(ヤハウェ)の祭り」に踊りに来るときを狙って、略奪結婚をさせるという策を立てました(21:19-21)。これは、「主の祭り」が、カナン的な享楽の場になっていたことを利用したものです。

彼らは、確かにひとつの悪をさばくために一致することができましたが、それによって、ひとつの部族を絶滅に近い状態に追い詰め、ひとつのヨルダン川東の同胞の町を滅ぼし、主への祭りにおいて略奪結婚を認めるというさらに大きな悪に手を染めてしまいました。ひとつの悪が、別の悪を生み出し、それが雪だるまのように大きくなる様子が描かれています。そのことが、「イスラエルに王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」(21:25)ためであると締めくくられます。エデンの園での最初の罪は、神こそが自分たちの王であることを忘れ、自分を王の立場に置いて善悪の基準とすることでした。そこから夫婦喧嘩が始まり、兄弟殺しが生まれ、民族の争いへと広がってきました。「めいめいが正しいと思えることをする」ことは、個性を尊重するかのようで、自滅への道だったのです。

ところで神は、後に、この絶滅に瀕したベニヤミン族から、初代のイスラエルの王を立てました。そして、彼を通して、その後外国から攻められたヤベシュ・ギルアデの町を救います。そこに神の深いあわれみを見ることができます。神は、悪を厳しくさばくと同時に、自業自得で傷ついた民をあわれみ、救いの御手を差し伸べてくださいます。そして、イエスは、自業自得で十字架にかかった犯罪人の仲間となり、彼をパラダイスへ導きました。私たちもイスラエルと同じように、悪をさばくことにおいては「ひとりの人のように」一致できることがありますが、犯罪人や失敗者に手を差し伸べることでは協力することができません。それは、日頃から自分の世界を守ることばかりを考え、主の眼差しでこの世界を見ようとしていないからです。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴言29:18)とあるように、「めいめいの思い」以前に、主のご計画にこそ思いを潜めなければなりません。自分にとっての主の「祝福」を必死に求めながら、主の怒りを買うような選択を重ねた挙句、互いが互いを傷つけ、自滅する神の民になってはなりません。

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