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2006年8月28日 (月)

ルカ11:14-32「話し、祈り、聴くことすべてがイエスによって・・」

                                                    2006年8月27日

  この世界は、実質のない、誇大宣伝のことばが氾濫しています。私たちもその流れに影響されてはいないでしょうか。ことばが多すぎることを反省しながら、ザカリヤのように一度、口をきけないようにしてもらい、その上で、イエスが与えてくださることばを話すことができるようになったら、と考えさせられました。

1. イエスのみわざを、悪霊どものかしらによると解釈する愚かしさ

  「イエスは悪霊を追い出しておられた、それも口をきけなくする・・」(14節)と記されます。その結果、「口がきけなかった者がものを言い始めた」というのです。ただし、「口がきけない」状態は悪霊の働きとは限りません。この書の初めで、バプテスマのヨハネの父ザカリヤが、御使いガブリエルのことばを信じられずに、口をきけなくされたとあります(1:20)。それは神のさばきであるとともに、彼と妻エリザベツにとっての静まりのときとされました。「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの」(箴言10:19)とも言われるように、神は敢えて、私たちの口を閉じられることがあるかもしれません。ですから奇跡自体よりも、その意味を知ることが大切です。これはイザヤを通して預言された神の国の成就のしるしであり、そこには、「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる・・・神は来て、あなたがたを救われる・・そのとき足のなえた者は鹿のようにとびはね、口をきけない者の舌は喜び歌う」(35:1、4、6)と記されています。ですから、この癒された人の口からは、神への賛美のことばが生まれたに違いありません。この人は、主によって口が開かれ、主から与えられたことばによって神を賛美したのです。

  しかし、その様子を皮肉に見ていた宗教指導者が、「悪霊どものかしらベルゼベルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」(15節)と言いました。彼らは「天からのしるし」(16節)を求めていながら、この不思議を、悪霊の親分によると解釈したのです。まさに、信じたいという心のない人には、信じないためのあらゆる理屈が成り立つことの実例でしょう。しかし、それにしても彼らのことばは余りにも実質のないものなので、イエスはそれを指摘します。彼らは「サタンの国」を甘く見過ぎています。サタンが仲間割れするぐらいなら自滅するだけで、悪霊追い出しなど必要なかったはずです。ところで当時の宗教指導者は弟子たち(新改訳では「仲間」(原文では「子ら」)に悪霊追い出しをさせており、それは二千年前の医療の一環のようなものでもありました。すると彼らも悪霊の親分に頼っているという理屈にならないでしょうか。

その上でイエスは、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです(20節)と言いました。つまり、これを「神の国」の預言の成就という聖書全体の救いのストーリーの中で理解することの必要性を説かれたのです。それと同時に、イエスはこのみわざを、それを証明する手段としたわけではないということも忘れてはなりません。イエスのいやしの動機は、ただひとつ「神のあわれみ」でした。イエスは、この口がきけなかった人を、かわいそうに思われたから、その人の痛みをご自身の痛みとして、はらわたを震わせたからこそ、このみわざを行なわれたのです。

2. イエスの味方とされるか、知らずにサタンの支配下に生きるか

  「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには・・」(21節)とはサタンの支配を指します。そして「もっと強い者が襲ってきて・・」(22節)とは、イエスがサタンの支配を砕くことを意味します。事実、主が、「弟子たちに、すべての悪霊を従える力と権威を授けて、人々の病を癒す」(9:1)ことさえできたのは、「サタンがいなずまのように天から落ちた」(10:19)ことの現れでした。そして、主は、ご自身とサタンとの戦いに中立がありえないことを、「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者」(23節)と言われました。主はかつて弟子たちに、「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です」(9:50)と言われました。つまり、あいまいなままの信仰でもイエスの味方と見ていただけるのですが、イエスのみわざを悪霊の親分の働きと皮肉る者は、「ともに集める」代わりに「散らす」者となり、結果的にサタンの手下としての働いていることになるというのです。残念ながら地上の教会は信仰の理解を巡って様々に分かれていますが、私たちも、他教会で起こっている神のみわざを皮肉な目で観ることだけは避けるべきではないでしょうか。

  ただし、イエスは、悪霊を追い出し、病を癒すことが最終ゴールではないことを明快なたとえで話されます。「汚れた霊が人から出て行って」という「癒し」が起こっても、悪霊は、休み場を捜しながら見つけられなくて、「出てきた自分の家に帰ろう」とします(24節)。すると、「家は、掃除をしてきちんとかたづいていた」(25節)というのです。それは、人が、「私の問題は解決した!もう自分ひとりでも大丈夫だ・・」と思っているような状態です。彼は、自分には神も教会も必要ないと思っていますから、これほど悪霊に住み心地の良い場所はありません。それで、悪霊は、「自分より悪いほかの霊を七つ連れてきて、みな入り込んでそこに住みつく」(26節)ので、「その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなる」というのです。たとえば、アドルフ・ヒトラーは30歳頃、第一大戦の敗北の衝撃から立ち直る過程で、自信に満ち溢れた人間になりました。彼は清潔で、質素で、礼儀正しく、秘書たちからも尊敬されました。ただ、自分は善意に満ちた人間だと思いこみ、悪いことは徹底的に他人のせい、特にユダヤ人のせいだと思い込みました。彼は正義感?に燃えて600万人ものユダヤ人を強制収容所で虐殺し、戦争で何千万人もの人々を死に至らしめた張本人です。彼の中には、七つの悪霊どころか、一個師団の悪霊レギオン以上のものが宿っていました。誤解をしてはなりません。聖書は、キリストの霊を受けていない者たちはすべて、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいる」(エペソ2:2)と断言しています。人間の心の家の主人は、キリストかサタンかのどちらかでしかない、中間はないのです。そして、地獄は、皮肉にも、「私は良い人間だ・・」と思い込んでいた人々で満ち溢れているのです。

  ところで、悩める魂の相談に乗ることは伝統的に教会の大切な働きの一部でしたが、今や、世のカウンセリング技術の発展とともに、その有効性が疑問視される傾向さえ生まれています。確かに、目の前の問題解決という点では、世に多くの有能な専門家がいます。しかし、それは主の例話にあるように、七つの悪霊を歓迎する家を備える働きに陥る可能性があります。一方、教会で行なってきた伝統的な「魂のケアー」とは、その人の心にあるうめきの声を聴いて、それを神の前での嘆き、つまり「祈り」へと導くことです。実際、詩篇では、あらゆる種類の心の悩みが、祈りへと変えられているのを見ることができます。たとえば私は、未信者の方の悩みを聞く機会も多くありますが、心の痛みを理解することに何よりも集中し、何かの助言を与える前に、「私の神に、お祈りさせてください・・」と申し上げます。そして、その深刻な悩みを、その人に代わって切々と主に向って祈るときに、しばしば、涙とともに不思議な変化が生まれます。世的には、問題が何も解決していないようでも、祈ることの恵みをともに体験できるからでしょう。主のみこころは、何よりも、その人が、問題のただ中で、イエスの御名によって祈る者へと変えられることです。

3. しるしによってではなく、みことばのみによる悔い改め

  この話に感動したある女が、「イエスを腹に宿し、乳を飲ませた者は幸い」という趣旨のことを叫びました(27節)。それに対し主は、「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人です」(28節)と言いました。それは母と幼児の関係を、神のことばが心の中に宿り、それが自分を動かすまで大切に守ることに比べるたとえです。その上で、イエスは、「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが・・・」と、彼らがイエスに「天からのしるし」(16節)ばかり求めていることを非難しました。それは、イスラエルが荒野で、天から降ってくるマナによって養われたようなことを指します(ヨハネ6:30,31)。確かに、主は、紅海を二つに分けることで、またマナによって、また岩から水を湧き出させることによって彼らを救ってくださいましたが、それがなければ生きられなかったからです。それは、すべて神のあわれみから生まれたものでした。

一方、すでに申命記の段階で、約束の地に入って満ち足りた生活を味わった後に、しるしと不思議によって」人々が他の神々のもとに誘惑されると警告されていました(申命記13:1-3)。それは、飢えから解放されたとたん、人が見世物を求めるようなものです。そして、イエスもご自身の働きの初めに悪魔の誘惑を受けました。そのひとつこそ、エルサレム神殿の頂から飛び降りて見せるというものでした。人々が求めるしるしは、この世の退屈、空虚感から逃れるための一時しのぎの安らぎに過ぎなかったのです。

  イエスは、「ヨナのしるし」を語ります。ヨナは神の命令に逆らい、海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれ、その中から神を呼び求めました。救い出された彼は、当時最も栄えた都市ニネベに遣わされて神の裁きを告げました。彼らは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたことを見てはいませんでしたが、彼の説教を聴いて悔い改めました。また、南の女王、シェバの女王は、ソロモンの知恵を確かめるために遠い国からエルサレムに来ましたが、彼の知恵に満ちたことばに何よりも感動しました(Ⅰ列王記10章)。それは神ご自身から与えられたものでした。つまり、南の女王も、ニネベの人々も、「聴く」という一点で満足し悔い改めたということで、しるし」ばかりを求める者たちを罪に定める側に立つというのです。

  そして、イエスはご自身を、「ソロモン・・ヨナよりもまさった者」と呼ばれましたが、私たちはその方のみことばを預かっているのです。今、イエスは、みことばによって私たちのうちに住んでくださいます。

   

私たちは、何より、みことばによってイエスにつながります。たとえば、私たちは自分のこころの痛みがそのまま詩篇に記されていることに感動しますが、それはイエスご自身も用いられた祈りでもあります。ですから、自分の心を注ぎだして祈る中で、イエスとの不思議な一体感を味わうことができるのです。そして、その後生まれる沈黙の中で、みことばが不思議に心の底に落ちてくるということがあります。そこから、私たちが真に語るべきことばが生まれます。私たちの信仰とは、何においてもイエスに頼る生き方に変えられることです。話すことも、心を注ぎだして祈ることも、聴くことも、すべてイエスから生まれます。

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