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2006年8月28日 (月)

ルカ11:14-32「話し、祈り、聴くことすべてがイエスによって・・」

                                                    2006年8月27日

  この世界は、実質のない、誇大宣伝のことばが氾濫しています。私たちもその流れに影響されてはいないでしょうか。ことばが多すぎることを反省しながら、ザカリヤのように一度、口をきけないようにしてもらい、その上で、イエスが与えてくださることばを話すことができるようになったら、と考えさせられました。

1. イエスのみわざを、悪霊どものかしらによると解釈する愚かしさ

  「イエスは悪霊を追い出しておられた、それも口をきけなくする・・」(14節)と記されます。その結果、「口がきけなかった者がものを言い始めた」というのです。ただし、「口がきけない」状態は悪霊の働きとは限りません。この書の初めで、バプテスマのヨハネの父ザカリヤが、御使いガブリエルのことばを信じられずに、口をきけなくされたとあります(1:20)。それは神のさばきであるとともに、彼と妻エリザベツにとっての静まりのときとされました。「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの」(箴言10:19)とも言われるように、神は敢えて、私たちの口を閉じられることがあるかもしれません。ですから奇跡自体よりも、その意味を知ることが大切です。これはイザヤを通して預言された神の国の成就のしるしであり、そこには、「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる・・・神は来て、あなたがたを救われる・・そのとき足のなえた者は鹿のようにとびはね、口をきけない者の舌は喜び歌う」(35:1、4、6)と記されています。ですから、この癒された人の口からは、神への賛美のことばが生まれたに違いありません。この人は、主によって口が開かれ、主から与えられたことばによって神を賛美したのです。

  しかし、その様子を皮肉に見ていた宗教指導者が、「悪霊どものかしらベルゼベルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」(15節)と言いました。彼らは「天からのしるし」(16節)を求めていながら、この不思議を、悪霊の親分によると解釈したのです。まさに、信じたいという心のない人には、信じないためのあらゆる理屈が成り立つことの実例でしょう。しかし、それにしても彼らのことばは余りにも実質のないものなので、イエスはそれを指摘します。彼らは「サタンの国」を甘く見過ぎています。サタンが仲間割れするぐらいなら自滅するだけで、悪霊追い出しなど必要なかったはずです。ところで当時の宗教指導者は弟子たち(新改訳では「仲間」(原文では「子ら」)に悪霊追い出しをさせており、それは二千年前の医療の一環のようなものでもありました。すると彼らも悪霊の親分に頼っているという理屈にならないでしょうか。

その上でイエスは、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです(20節)と言いました。つまり、これを「神の国」の預言の成就という聖書全体の救いのストーリーの中で理解することの必要性を説かれたのです。それと同時に、イエスはこのみわざを、それを証明する手段としたわけではないということも忘れてはなりません。イエスのいやしの動機は、ただひとつ「神のあわれみ」でした。イエスは、この口がきけなかった人を、かわいそうに思われたから、その人の痛みをご自身の痛みとして、はらわたを震わせたからこそ、このみわざを行なわれたのです。

2. イエスの味方とされるか、知らずにサタンの支配下に生きるか

  「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには・・」(21節)とはサタンの支配を指します。そして「もっと強い者が襲ってきて・・」(22節)とは、イエスがサタンの支配を砕くことを意味します。事実、主が、「弟子たちに、すべての悪霊を従える力と権威を授けて、人々の病を癒す」(9:1)ことさえできたのは、「サタンがいなずまのように天から落ちた」(10:19)ことの現れでした。そして、主は、ご自身とサタンとの戦いに中立がありえないことを、「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者」(23節)と言われました。主はかつて弟子たちに、「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です」(9:50)と言われました。つまり、あいまいなままの信仰でもイエスの味方と見ていただけるのですが、イエスのみわざを悪霊の親分の働きと皮肉る者は、「ともに集める」代わりに「散らす」者となり、結果的にサタンの手下としての働いていることになるというのです。残念ながら地上の教会は信仰の理解を巡って様々に分かれていますが、私たちも、他教会で起こっている神のみわざを皮肉な目で観ることだけは避けるべきではないでしょうか。

  ただし、イエスは、悪霊を追い出し、病を癒すことが最終ゴールではないことを明快なたとえで話されます。「汚れた霊が人から出て行って」という「癒し」が起こっても、悪霊は、休み場を捜しながら見つけられなくて、「出てきた自分の家に帰ろう」とします(24節)。すると、「家は、掃除をしてきちんとかたづいていた」(25節)というのです。それは、人が、「私の問題は解決した!もう自分ひとりでも大丈夫だ・・」と思っているような状態です。彼は、自分には神も教会も必要ないと思っていますから、これほど悪霊に住み心地の良い場所はありません。それで、悪霊は、「自分より悪いほかの霊を七つ連れてきて、みな入り込んでそこに住みつく」(26節)ので、「その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなる」というのです。たとえば、アドルフ・ヒトラーは30歳頃、第一大戦の敗北の衝撃から立ち直る過程で、自信に満ち溢れた人間になりました。彼は清潔で、質素で、礼儀正しく、秘書たちからも尊敬されました。ただ、自分は善意に満ちた人間だと思いこみ、悪いことは徹底的に他人のせい、特にユダヤ人のせいだと思い込みました。彼は正義感?に燃えて600万人ものユダヤ人を強制収容所で虐殺し、戦争で何千万人もの人々を死に至らしめた張本人です。彼の中には、七つの悪霊どころか、一個師団の悪霊レギオン以上のものが宿っていました。誤解をしてはなりません。聖書は、キリストの霊を受けていない者たちはすべて、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいる」(エペソ2:2)と断言しています。人間の心の家の主人は、キリストかサタンかのどちらかでしかない、中間はないのです。そして、地獄は、皮肉にも、「私は良い人間だ・・」と思い込んでいた人々で満ち溢れているのです。

  ところで、悩める魂の相談に乗ることは伝統的に教会の大切な働きの一部でしたが、今や、世のカウンセリング技術の発展とともに、その有効性が疑問視される傾向さえ生まれています。確かに、目の前の問題解決という点では、世に多くの有能な専門家がいます。しかし、それは主の例話にあるように、七つの悪霊を歓迎する家を備える働きに陥る可能性があります。一方、教会で行なってきた伝統的な「魂のケアー」とは、その人の心にあるうめきの声を聴いて、それを神の前での嘆き、つまり「祈り」へと導くことです。実際、詩篇では、あらゆる種類の心の悩みが、祈りへと変えられているのを見ることができます。たとえば私は、未信者の方の悩みを聞く機会も多くありますが、心の痛みを理解することに何よりも集中し、何かの助言を与える前に、「私の神に、お祈りさせてください・・」と申し上げます。そして、その深刻な悩みを、その人に代わって切々と主に向って祈るときに、しばしば、涙とともに不思議な変化が生まれます。世的には、問題が何も解決していないようでも、祈ることの恵みをともに体験できるからでしょう。主のみこころは、何よりも、その人が、問題のただ中で、イエスの御名によって祈る者へと変えられることです。

3. しるしによってではなく、みことばのみによる悔い改め

  この話に感動したある女が、「イエスを腹に宿し、乳を飲ませた者は幸い」という趣旨のことを叫びました(27節)。それに対し主は、「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人です」(28節)と言いました。それは母と幼児の関係を、神のことばが心の中に宿り、それが自分を動かすまで大切に守ることに比べるたとえです。その上で、イエスは、「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが・・・」と、彼らがイエスに「天からのしるし」(16節)ばかり求めていることを非難しました。それは、イスラエルが荒野で、天から降ってくるマナによって養われたようなことを指します(ヨハネ6:30,31)。確かに、主は、紅海を二つに分けることで、またマナによって、また岩から水を湧き出させることによって彼らを救ってくださいましたが、それがなければ生きられなかったからです。それは、すべて神のあわれみから生まれたものでした。

一方、すでに申命記の段階で、約束の地に入って満ち足りた生活を味わった後に、しるしと不思議によって」人々が他の神々のもとに誘惑されると警告されていました(申命記13:1-3)。それは、飢えから解放されたとたん、人が見世物を求めるようなものです。そして、イエスもご自身の働きの初めに悪魔の誘惑を受けました。そのひとつこそ、エルサレム神殿の頂から飛び降りて見せるというものでした。人々が求めるしるしは、この世の退屈、空虚感から逃れるための一時しのぎの安らぎに過ぎなかったのです。

  イエスは、「ヨナのしるし」を語ります。ヨナは神の命令に逆らい、海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれ、その中から神を呼び求めました。救い出された彼は、当時最も栄えた都市ニネベに遣わされて神の裁きを告げました。彼らは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたことを見てはいませんでしたが、彼の説教を聴いて悔い改めました。また、南の女王、シェバの女王は、ソロモンの知恵を確かめるために遠い国からエルサレムに来ましたが、彼の知恵に満ちたことばに何よりも感動しました(Ⅰ列王記10章)。それは神ご自身から与えられたものでした。つまり、南の女王も、ニネベの人々も、「聴く」という一点で満足し悔い改めたということで、しるし」ばかりを求める者たちを罪に定める側に立つというのです。

  そして、イエスはご自身を、「ソロモン・・ヨナよりもまさった者」と呼ばれましたが、私たちはその方のみことばを預かっているのです。今、イエスは、みことばによって私たちのうちに住んでくださいます。

   

私たちは、何より、みことばによってイエスにつながります。たとえば、私たちは自分のこころの痛みがそのまま詩篇に記されていることに感動しますが、それはイエスご自身も用いられた祈りでもあります。ですから、自分の心を注ぎだして祈る中で、イエスとの不思議な一体感を味わうことができるのです。そして、その後生まれる沈黙の中で、みことばが不思議に心の底に落ちてくるということがあります。そこから、私たちが真に語るべきことばが生まれます。私たちの信仰とは、何においてもイエスに頼る生き方に変えられることです。話すことも、心を注ぎだして祈ることも、聴くことも、すべてイエスから生まれます。

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2006年8月21日 (月)

Ⅰサムエル4-7章 「礼拝の場を壊して礼拝を建て上げる神」

今日の箇所は、今までの流れを背景に読んでゆくと何とも言えないほどショッキングな記事です。神がご自身の契約の箱を一時的にせよ敵の手に渡してしまったというのですから・・・モーセ五書の流れから見たら、本当に信じられないような話です。そこに神様の激しい痛みを見ることができるような気がします。
  実は、モーセ五書をまとめた本をいのちのことば社から発売していただくことになり最終原稿を先週ついに仕上げました。うまくゆけば9月末には発売されます。お祈りいただければ幸いです。

                                                    2006年8月20日

  ドラキュラは十字架を怖がるというのは作り話です。シンボルは大切ですが、それは主のみことばを生かす器にはなっても、それに代わることはできません。真の力がどこにあるかを覚えたいものです。

 1. 契約の箱が奪われ、祭司エリの家が滅びるという悲劇

  「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ・・・」(4:1)という表現に、神の不思議なご計画が見られます。少年サムエルが祭司エリのもとで主(ヤハウェ)に仕え始めた頃、「主(ヤハウェ)のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(3:1)のですが、そのようなとき主はサムエルにご自身を現わされました。彼が、「お話しください。しもべは聞いております」(3:10)という中で語られたのは、何と、祭司エリの家を永遠にさばくということでした(3:11-14)。そしてその後、「サムエルは成長した。(ヤハウェ)は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった・・(ヤハウェ)は再び(続けて)シロで現れた。主(ヤハウェ)のことばによって・・・」(3:19-21)と記され、その後、みことばが意外な形で成就してゆく様子が描かれます。

  そしてその頃、「イスラエルはペリシテ人を迎え撃つために戦いに出て・・・打ち負かされ、約四千人が野の陣地で打たれ」(4:1,2)ました。そのとき長老たちは「なぜ(ヤハウェ)は、きょう・・われわれを打ったのだろう・・」と言いますが、これは主のみわざを認めるように見えても、「なぜ・・」と尋ねながら、真に「主に聴こう」としてはいません。彼らは、「シロから主(ヤハウェ)の契約の箱を・・持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう」(4:3)と言います。不思議にも、「主(ヤハウェ)」というよりも、「契約の箱」自体が自分たちを敵の手から救うかのような曖昧な表現になっています。

  契約の箱はシロから陣営まで約30km余りの距離を運ばれましたが、それが着いたとき、全イスラエルは大歓声をあげます。ペリシテ人は恐れおののきながら、かえって勇気を持って戦います。イスラエルは打ち負かされたばかりか、非常に激しい疫病に襲われ、歩兵三万人が倒れます。それは彼らの敗北が、ペリシテ人の勇気によってではなく、主のさばきによるものであることを明らかにするためでした。そして、何と「神の箱は奪われ、エリのふたりの息子・・は死」に(4:11)、その報せを聞いたエリも死に、息子の嫁も出産しつつ、「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから」(4:22)と言います。

契約の箱は、主がともにおられることのしるしでした。しかし、「主はサムエルとともにいた」のですが、このとき主はイスラエルとともにはいませんでした。主の栄光が去ったのは、契約の箱が奪われたからではなく、彼らが主のことばに聴こうとしなくなったことの結果でした。実際、契約の箱に収められていたのは、主ご自身の手で記された「十のことば」であり、この箱自体に神秘的な力が込められているというわけではありません。それは主のことばによって、主がご自身を・・現される(3:21)ことのしるしでした。ですから、主のみことばを聴こうとする姿勢のない人々の中に、主の栄光はとどまってはくださいません。

エリの家は、契約の箱があるからこそ、礼拝を導く祭司として、様々な特権を享受できました。ですから、その家が滅ぶことと、契約の箱が奪われることは同時に起きました。後に、主はエレミヤを通して、「さあ、シロにあったわたしの住まいに、先にわたしの名を住まわせた所に行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ(エレミヤ7:12)と言われました。不思議にも、主はご自身の臨在のシンボルを失わせることによって、みことばに聞くことの大切さを教えてくださったのです。

2. 主ご自身が、ご自身の契約の箱を動かされる

ペリシテ人は、神の箱をさらに35kmぐらい南にあるアシュドテのダゴンの宮に運びます。すると、翌日、ダゴンの偶像が「主(ヤハウェ)の箱」の前に、うつぶせに倒れ、次の日には、頭と両腕が切り離されていました(5:3,4)。それは偶像が、主の御前にひざまずくしかない存在であり、頭も手もない無能な者であることを思い知らせるためでした。そればかりか(ヤハウェ)の手(5:6)は、アシュドテの人たちの上に重くのしかかり・・・彼らを腫物で打って脅かします。その後、神の箱はガテに移されますが、そこでも「主(ヤハウェ)の手はこの町に下り・・この町の人々を・・みな打ったので、彼らに腫物ができた」(5:9)のでした。

その後、神の箱がエクロンに送られると彼らは恐慌に陥り、ペリシテ人の領主を集めて、「主(ヤハウェ)の箱」をイスラエルに送り返す方法を検討します。彼らの祭司や占い師たちは、主への「償い」(6:3)のために「五つの金のねずみ」(6:4)を作って、それを添えて送り、「イスラエルの神に栄光を帰する」(6:5)ことを勧めます。ここでは彫像の意味を詮索するよりも、ペリシテ人が主(ヤハウェ)に償い、栄光を帰する必要を感じたことを注目すべきでしょう。しかも、「心をかたくなにする」(6:6)ことの危険さえ強調されています。

彼らは、一台の新しい車を仕立て、まだ乳を飲ませている二頭の雌牛に引かせ、主(ヤハウェ)の箱を載せます(6:7,8)。本来、雌牛は引き離された子牛に向うはずですが、彼らはイスラエルの領地 (「ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、泣きながら進み続けた」6:12)というのです。これは主ご自身が、雌牛の本能に反する道を歩ませ、ご自身の力でイスラエルに戻られたことを意味します。

イザヤ46章1,2節には、偶像の神は家畜に運ばれるだけだと記されますが、主はご自身の契約の箱をご自身の力で動かされたのです。同じように、主は、私たちの信仰心によって担われるような方ではなく、私たちの心を担い、動かし、信仰を生み出してくださる神です。主は私たちに向って、「胎内にいるときから担われており、生まれる前から運ばれた者よ・・あなたがしらがになってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(同46:3,4)と言われます。

ところで主はベテ・シェメシュの住民をも打たれました。ここはレビ族の町だったはずですが(ヨシュア21:16)、彼らが不敬虔にも「主の箱の中を見た」(6:19)からです。祭司以外の者はその外側さえ見ることができないと命じられていたのにも関わらず(民数記4:20)、何と主のみ教えに無知であったことでしょう。彼らは喜んで「主(ヤハウェ)の箱」を迎えたのにも関わらず(6:13)、今は、「だれがこの聖なる神、主(ヤハウェ)の前に立ちえよう」(6:20)と言わざるを得なくなり、「私たちのところから、だれのところに上って行かれるのか」とその動きを見守るしかありませんでした。彼らは初めに「主に聴く」という姿勢が求められていたのです。私たちにも、主がともにいてくださることを求める以前に、その謙遜さが問われます。また主は、雌牛を動かされたように、私たちの行き先を導くことができますが、人の心はいかなる生き物よりも「かたくな」ですから、主のみことばがこの心を動かすことができるように、力を抜いて待つことが何よりも大切でしょう。

3. 「ここまで主(ヤハウェ)が私たちを助けてくださった」

キルヤテ・エアリムの人々は恐れをもって主(ヤハウェ)の箱を運び上げ、ダビデのときまでそこにとどまり続けます(Ⅱサムエル6:2)。ただ、「二十年になった」というのが、箱がそこにとどまった全期間を指すのか、サムエルの登場までのときを指すのかは明らかではありません。どちらにしても、神の箱が戻ってきたことによってイスラエルが救われるのではありませんでした。それで、「イスラエルの全家は主(ヤハウェ)を慕い求めていた(求めて嘆いていた)」(7:2)と記され、その叫びに主が答えることから救いが始まります。

ここに再びサムエルが登場し、イスラエルの全家に対し、「心を尽くして主(ヤハウェ)に帰り、あなたがたの間から外国の神々・・を取り除き、心を主(ヤハウェ)に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます」(7:3)と迫ります。そして彼らがサムエルのことばを受け入れます。それで彼はイスラエル人をみなミツパに集めます。彼らは、断食をしつつ「私たちは主(ヤハウェ)に対して罪を犯しました」(7:2)と悔い改めました。そしてここで、「サムエルはイスラエルのために主(ヤハウェ)に叫んだ。それで主(ヤハウェ)は彼に答えられた」(7:9)という典型的な主の救いのパターンがしるされます。このときペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいてきたとき、主ご自身が「ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた」(7:10)というのです。

それを記念して、サムエルはひとつの石を取り、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主(ヤハウェ)が私たちを助けてくださった(7:12)と言います。そして、「サムエルの生きている間、主(ヤハウェ)の手がペリシテ人を防いでいた」(7:13)と記されます。彼は、各地を巡回して主のみことばを伝えましたが、「彼はまた、そこ(ラマ)に主(ヤハウェ)のためにひとつの祭壇を築いた」(7:17)とあるように、契約の箱を中心とした幕屋礼拝を復興はしていません。それを行なうのは、彼によって王の任職を受けたダビデでした。このときは、主のみことばに聞くことを教えることこそが先決だったからです。彼らは、契約の箱を前にした礼拝において罪を犯し続けたばかりか、それを偶像のように扱い、それがありさえしたら敵に勝てるなどと誤解したからです。彼らは主に聴き従うよりも、自分の欲望のために主を利用しようとしたからです。

  今、聖餐台に1545版のルター訳の聖書が飾られています。宗教改革とは、みことばの回復だったからです。その前の教会ではみことばは民衆が理解できないラテン語で朗読されるだけでした。ルターは次のように語っています。「私は免罪符と教皇制に反対したが、いささかも力ずくではしなかった。私は神のことばを伝え、説教し、そして書いただけである。それ以外何もしなかった。私が眠っている間に・・・みことばが全部行い、成就させた・・・」と。彼は、聖書翻訳に心血を注ぎました。その結果、みことばが人の心を動かし、教会を根底から変えたのです。私たちには、神のご臨在を現し、礼拝を豊かにするための様々な施設が必要かもしれません。しかし、「どうしても必要なものはただ一つだけです」(ルカ11:42)とあるように、みことばが教会堂を建てるのであって、建物があれば教会ができるわけではありません。また教会には秩序が大切ですが、ルールが礼拝者を整えるわけではありません。みことばが礼拝者を創造するのです。確かに私たちの教会にはいろんな欠けがあり、必要があります。しかし、みことばが正しく解き明かされ、正しく分かち合われている限り、私たちの交わりには無限の可能性が広がっています。 

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2006年8月13日 (日)

ルカ11:1-13 「主が教えてくださった祈り」

                                                    2006年8月13日

  「主の祈り」は、マタイ6:9-13を教会の礼拝で用いられるのが普通ですが、イエスはここでそれを、より簡略化し、強調点を変えた祈りも教えてくださっています。私は昔、マタイでの主の祈りの直前に、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」(6:8)と記されていることを誤解し、自分にとっての必要を必死に願うことの意味がよく分らなくなったことがあります。ルカはまるでそのような誤解を正すかのように、「主の祈り」の直後に、あつかましく頼み続けるような祈りの姿勢の重要性を教えています。一見、正反対のことを語っているようでありながら、私たちの目を、この地上のすべてを支配する「天の父」(11:13)に向けさせるという点で一致します。ここでは、マタイによる「主の祈り」と比べながら、イエスが教えてくださった祈りの本質に迫ってみましょう。

  マタイでの「主の祈り」は、ユダヤ人の宗教指導者の偽善の祈りや異邦人のご利益宗教の祈りとの対比で、みこころにかなった祈りを弟子たちに教えるのが趣旨でした。ここでは、「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちのひとりが・・・『私たちにも祈りを教えてください』」と言った、という背景が記されています。それは、ヨハネが弟子たちに教えたのと同じように、イエスが私たちと同じ人間として天の父に祈られた一端を垣間見せていただくものでした。イエスはここで私たちにとっての「兄」のようになりながら、「祈るときには、こう言いなさい」(11:2)と手取り足取り教えてくださいました。

  「父よ」とは、イエスがアラム語で父なる神を「アバ」と呼ばれたギリシャ語訳です。この書でのゲッセマネの祈りでは、「父よ。みこころならば、この杯を・・取りのけてください・・・わたしの願いではなく、みこころのとおりに・・」(22:42)と記されているものが、マルコでは「アバ、父よ・・」(14:36)と原文の響きを残しています。「アバ」とは、当時の幼児が「パパ!」と抱きつくときばかりか、父の権威に服従するときの呼びかけでもありました。日本語で、「お父ちゃん」と、「父上」の両方のニュアンスが込められたことばです。

この簡潔さに、福音の核心が込められています。私たちはイエスの父なる神、この世界の究極の支配者に向って、イエスが呼びかけたと同じ「アバ!」と呼びかけることが許されています。そこには信頼に満ちた自由な服従が生まれます。パウロは、かつて神の律法を誤解し、恐怖に駆り立てられながら不自由だったことを振り返り、福音の喜びを、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます」(ローマ8:15)と述べました。私たちも、主の祈りを、「アバ!」というひとことで始めてはいかがでしょう。

「御名があがめられますように」とは、厳密には「あなたのお名前が聖とされますように」という祈りです。罪の根本は、「神を神としてあがめず、感謝もせず・・神を侮る」ことです(ローマ1:21、2:23)。人がエデンの園の祝福を失った原因は、神の愛に満ちた命令を、意地悪と受け止めたことに始まります。続くイスラエルも自分たちの神を聖とする代わりに、富と快楽を約束するバアルにすがって破滅しました。それに対し、主は預言者エゼキエルを通し、「わたしが事を行なうのは・・・あなたがたが汚したわたしの聖なる名のためである」と、ご自身の救いの「動機」を示しつつ、またその目的も、「わたしの偉大な名の聖なることを示す」ためであると語ります(36:22,23)。そして、それを可能にするために、主は「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたに新しい霊を授ける」と約束されました(同36:26)。この世の苦しみは、神の御名が汚されたことから始まりました。そしてこの世界の救いとは、主の御名が私たちひとりひとりの心の中で、またこの私たちの交わりの中で「聖」とされることの中に実現します。そのために御霊が与えられました。

「御国が来ますように」とは、この世界が神の平和(シャローム)に満たされる完成を望むばかりか、「神の国(ご支配)」今ここに現されるための祈りでもあります。イエスは、弟子たちに「神の国が、あなたがたに近づいた」(10:9)と言いなさいと命じました。イエスが悪霊を追い出し、病気を直されたのは、神の国が到来したというしるしでした。そればかりか、イエスは弟子たちを用いて同じことを行わせ、神の国を広げておられました。ですから、この祈りには、私たちがこの世界に「地の塩」「世の光」として遣わされることも込められています。マタイでは、これを補足するように、みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますようにと祈るように命じられています。神がこの世界の真の王として認められるなら、その御意思は王のしもべによってそのまま実現することでしょう。それをもとに、イエスは後で、「神の国はいつ来るのか」と尋ねられたとき、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と言われたのです(17:20,21)。

  続く祈りは原文で、「パンを、私たちの日毎の必要を、毎日与え続けてください」というものです。マタイでは「今日もください」という切実さを強調する一方で、ここでは、「毎日与え続けてください」という継続性が強調されています。それはルカでは、「あきらめないで祈り続ける」ことがテーマだからです。共通するのは、自分ひとりのあり余る食物ではなく、「私たち」という共同体に目を留めた上で、その今日の必要が、日々、主によって満たされるようにとの願いです。貪欲こそあらゆる争いの原因だからです。

  「私たちの罪をお赦しください」とは、マタイで「負い目」と記されたことばが、「罪」と表現されます。両者とも、神との関係を隔てさせてしまうもので、意味に違いはありません。マタイでは、その直後に、「私たちも私たちに負い目ある人を赦すのと同じように・・」という付加があり、それは他人を赦した程度に応じて赦しを受けることができるという意味であると誤解されることがあります。しかし、ルカではそのような誤解を避けるように、「私たちも私たちに負い目ある人を赦し続けますという告白として述べられます。

人の心の現実では、「赦してください」という嘆願と、「赦します」という告白は、切り離せません。「あんな人は赦せません!でも、私の罪は赦してください!」というのは祈りにならないからです。しかも、私たちが赦すのは、人の「罪」ではなく、「負い目」です。罪を赦すことができるのは神だけであり、私たちができるのは、人が負い目を感じて心を閉ざすことがないように、和解の手を差し伸べ続けることです。あなたのまわりには、「もっと負い目を感じてくれるなら可愛いのに・・」と言いたくなるような人がいるかもしれません。しかし、それは私たちが無意識にせよ、「人を従わせたい・・」と願うことであり、愛に真っ向から反します。そして、その隣人への愛は、「神から負い目を赦された」という感動から生まれるものです。ですから、「人を赦すことができますように・・・」という祈りの形になっていません。それは傲慢です。自分の罪深さを心の底から自覚し、その赦しを願うなら、必然的に、「赦します」という告白が生まれるものです。

祈りの最後は、厳密には、「私たちを誘惑に陥らせないでください」と訳すべきでしょう。「誘惑」「試練(試み)」は、両方ともギリシャ語で「ペイラスモス」だからです。「試練」は私たちをキリストの似姿に変えるための神からの贈り物とも見られます。しかし、「誘惑」は私たちが「自分の欲に引かれ、おびき寄せられ」た結果です(ヤコブ1:15)。そして、その背後には、サタンの策略があります。それでマタイでは「悪(悪い者)からお救いください」と付加されます。エバは自分の知恵を過信して蛇の誘惑に負けました。ペテロは、「たとい全部の者がつまづいても、私はつまずきません」(マルコ14:29)と自分の信仰を過信して、三度イエスを否むことになりました。私たちは誰一人、自分の力によって誘惑に勝つことはできません。それを謙遜に認めて、自分自身のため、またあなたの兄弟のために日々、この祈りを祈るべきでしょう。

 ここでイエスは、「主の祈り」を教えた後で、不思議なたとえを話されます。それは、真夜中に隣人の家族をたたき起こしてでもパンをせがむ「あつかましさ」(11:8脚注)を描きながら、そのように主に向って祈るべきことを、「求め続けなさい・・捜し続けなさい・・たたき続けなさい・・・」と表現します(9-12節)。そして、あなたが悪い父であったとしても、子供には良いものを与えようとするという比較から、「なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう」(11:13)と約束します。つまり、聖霊こそ、父なる神が与えてくださる究極の贈り物なのです。実際、イエスの弟子たちが無一文のまま伝道旅行に出かけながら喜んで帰ってくることができたのは、すべての悪霊(デーモン)」を従える「力と権威(9:1)を授けていただていたからですが、それこそ聖霊のみわざでした。このとき彼らはイエスから聖霊を預けられることで、「神の国(神のご支配)が近づいた」(10:9)ことを人々に証しすることができたのです。

 ところが、私たちの内側にある思いは、神の名よりも自分の名を、神のご支配よりも自分の思いが実現することを、日ごとの私たちの必要よりも、個人的な富を求めます。そして、自分の罪の赦しよりも人の罪に腹を立て続け、サタンの誘惑の恐ろしさなど忘れて自分の力で生きてしまいます。そこから、この世界のすべての悲惨が生まれています。ですから、神からの聖霊を受けることなしに、本当の意味で、まごころからイエスから教えられた祈りを自分のものとすることはできません。つまり、主の祈りを真剣に祈り続ける中でこそ、私たちの中に聖霊への渇きが生まれ、そして聖霊によってのみ、この祈りを自分のものとして祈ることができるのです。教えられたこの祈りを、心から味わい、祈る者とさせていただきましょう。

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2006年8月11日 (金)

Ⅰサムエル1章~3章 「悩みから生まれた驚くべき救い」

                                                      2006年8月6日

サムエル記第一と第二は本来ひとつの書で、預言者サムエルによるイスラエルの信仰復興とダビデ王国の確立への過程が描かれています。それは列王記ともセットとなるイスラエル王国史の記録です。興味深いのはこの書があるひとりの女性の極めて日常的な悩みの記述から始まっているという点です。

1. 「万軍の主(ヤハウェ)よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて・・」

   サムエルは預言者であると同時に祭司でもあり、ダビデに王としての任職の油を注いだ人です。その働きはイエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネに匹敵します。1章ではサムエルの誕生が描かれますが、その父エルカナはエフライムの家に属していました。祭司職はアロンの子孫の特権であり、エフライムの出身者が祭司になることなどあり得ないはずでしたが、その道を開いたのが母ハンナの祈りです。

当時は一夫多妻であり、彼女にはペニンナという「競争者」(1:6「憎む」の別訳)がいました。彼女は夫から愛されながらも子供がいませんでした。これを著者は、「主(ヤハウェ)がハンナの胎を閉じておられたので」と繰り返します(1:5,6)。彼女はペニンナからあざけりを受け、心が痛む余り、シロにあった神の幕屋で礼拝したおり、(ヤハウェ)に祈って、激しく泣いた(1:10)のでした。これは、見ようによっては同じ夫をもつ妻同士の嫉妬心による争いに過ぎないかもしれませんが、当時、不妊の女は主ののろいを受けていると見られましたから、彼女の悩みは自分の存在自体が否定されていると思えるほどに深刻でした。

私たちそれぞれに固有の悩みがあり、多くは身近な人との関係から生まれます。しかも、そのようなことで苦しんでいること自体が人間として未熟であるしるし?と受けとめられることすらあります。しかし、ダビデは「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と訴えた詩篇22篇の中で、「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった」(24節)と告白しています。ハンナの悩みもある意味で低次元のここと受け止められかねないものですが、それこそが私たちにとっての祈りの模範となっているのです。

  彼女はまず、「万軍の主(ヤハウェ)よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて・・」(1:11)と祈ります。これは、「私の悩みをしっかりと見てください」という必死の嘆願です。続いて、それを、「私を心に留め(remember me)、このはしためを忘れず(not forget)」と言い換えます。しかも、自分を「あなたのはしため(奴隷)」と三回も呼んでいます。ここには、主の全能の力への信頼と、徹底的な謙遜さの両方が見られます。つまり、主が望みさえするなら不可能はなく、不妊の女と見られている自分にも男の子が授けられ得ると信頼しているのです。しかも、彼女は、生まれた子をナジル人として、主にささげるとの誓願を立ててまで必死に願っています。これは、生まれた子を手放す約束をすることで、彼女の嘆願の理由が、子供を育てることよりも、不妊の女としての惨めな立場から解放されることにあったことを意味します。

  ここでは、「主がハンナの胎を閉じた」ことの結果として、彼女が辱めを受けて苦しみ、必死に主に嘆願し、生まれた子を主にささげるという誓願に結びつくという展開が見られます。つまり、主がハンナに苦しみを与えたのは、彼女に切実な祈りを引き起こさせ、祭司の家系以外から新たな祭司を生む道を開かせ、イスラエルを救うためでした。主のみこころは、私たちが恥と苦しみの中で、主につぶやく代わりに、必死に嘆願することです。そして、そこから私たちの想像を超えた偉大な展開が生まれることでしょう。

  

2. 「主(ヤハウェ)は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる・・・」

ハンナの祈りを見ていた祭司エリにとって、彼女がまるで酒に酔っているように見えたというのは興味深い記述です。切実な祈りは酩酊状態に似ているということだからです。それは、ただ主だけを見上げて、まわりのことを忘れている姿勢です。そして、彼女はエリに、「私は心に悩みのある(霊が頑なになった)女です」(1:15)と不思議な紹介をします。彼女は決して自分の敬虔さを紹介しているのではなく、ただ、「私は主(ヤハウェ)の前に、私の心を注ぎだしていたのです・・・私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」(1:15,16)と、自分の痛んだ心を主に「注ぎ出している」状況を知らせ、祭司を神の代理と見て、「わが主」(1:15原文)と呼びつつすがっているのです。ここでのエリの応答は、「安心して行きなさい(シャロームのうちに歩みなさい)。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださいます(1:17)という「保証」として訳すことができます(英語ではその訳も多い)。ですから、その後、「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」(1:18)と、彼女の心に平安(シャローム)が生まれたのです。

私たちも、もし心に悩みがあるなら、それと真正面から向き合い、その「心を、主の前に注ぎだす」という祈りが必要です。そして、心の平安は、そのような必死の祈りの結果として与えられるものです。

その後、「主(ヤハウェ)は彼女を心に留められた(remembered her)」(1:19)という表現とともに、サムエルの誕生が描かれます。ハンナはサムエルが乳離れするまで待ちますが、それは当時、三歳になるまでの期間を指したと思われます。「三つ子の魂百まで」と言われるように、その後の彼の偉大な働きの基礎は、この短期間にハンナから十分な愛情を注がれたことで築かれたといえましょう。彼女には、「この子が(ヤハウェ)の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまで」(1:22)という明確な目的意識を持っていました。その後、「その子は幼かった」(1:24)にも関わらず、祭司エリに渡されます。その際、彼女は、「主(ヤハウェ)は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします」(1:28)と告白します。そして、「私はあなたの救いを喜ぶ」(2:1)と歌います。それは具体的には自分の「敵」であるペニンナの嘲りからの救いであり、「弱い者が力を帯び・・不妊の女が七人の子を産み」(2:4,5)という具体的なことでした。つまり、主の救いとは、極めて現実的な出来事なのです。

そして、「主(ヤハウェ)は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くする」(2:6,7)と歌います。これはまさに、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジ3:14)と表現される主の名前の由来を生き生きと表現したものです。つまり、主こそがすべての始まりであり、私たちは自分の働き以前に、何よりも主との関係を第一にしなければならないのです。今までの短い箇所に、「(ヤハウェ)」という御名が頻繁に出てきます。極めて日常的な「憂いといらだち」を味わっていたハンナの背後に、日常生活のただなかで生きて働いておられる主のみわざが存在しているのです。

3. 「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる」

 祭司エリのふたりの息子たちは、ハンナと対照的に、「よこしまな者で、(ヤハウエ)を知らず(2:12)と描かれます。彼らは、主にいけにえを献げている人に「祭司に、その焼く肉を渡しなさい」(2:15)と迫って、職権乱用で私腹を肥やしたばかりか、主のものである「最上の部分」(2:29)を横取りする態度を取りました(2:16)。そればかりか、会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ました(2:22)。エリは息子たちを矯正しようとしますがそれは遅過ぎました。それで主は直接語る代わりに、「神の人」をエリに遣わして、「あなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじた」(2:29)と責めました。そして、わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる(2:30)と言い、彼の家への永遠の裁きを宣告されました。

ところで、サムエルは「まだ幼い」段階から、祭司の栄光の式服である「エポデを身にまとい、主(ヤハウェ)の前に仕えてい」(2:18)ました。これはエリが、息子たちを頼れなかったからです。ハンナもサムエルを気遣い、主の幕屋に上るたびに、手作りの上着を持ってゆきました。そして、主もハンナを顧み、彼女はその後三人の息子と二人の娘を産みます(2:21)。そして、「少年サムエルはますます成長し、主(ヤハウェ)にも、人にも愛され」ます(2:26)。エリの家の没落とサムエルの成長は何と対照的でしょう。

 そして、「サムエルは、神の箱の安置されている主(ヤハウェ)の宮で寝ていた」(3:3)とあるように、目がかすんだエリは少年サムエルにつとめを任せていました(参照:出エジ27:20,21)。それはサムエルがエリの後継者として祭司の働きを勤めたことを意味します。そこで主はサムエルに直接語りかけられました。彼はエリから呼ばれたと誤解し続けます。三度目にエリは、それが主の御声であると気づき、今度呼ばれたら、「主よ。お話しください。しもべは聞いております(3:9)と答えるよう指導します。その後、四度目には(ヤハウェ)が来られ、そばに立って・・『サムエル、サムエル』と呼ばれ」(3:10)ます。主は辛抱強く語りかけられた上、最後にご自身で目の前に立たれました。それで彼は、「主(ヤハウェ)よ」という呼びかけを省き、ただ「お話しください。(あなたの)しもべは聞いております」と答えます(3:10)。そこで語られたことは、エリが子供たちを厳しく戒めなかった罪のために、この祭司の家を滅ぼすということでした。エリは、恐れるサムエルに正直に報告させて、「その方は主(ヤハウェ)だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」(3:18)と謙遜に認めました。エリは、自分が主のさばきを受けるという苦しみを通して、主を恐れることを後継者サムエルに身をもって証しすることを願いました。しかも、主がエリの家へのさばきを、彼を通して語られたことは、「サムエルが主(ヤハウェ)の預言者に任じられた」(3:20)ことを意味します。これらの過程を通して、サムエルはまさに主の一方的な選びによって誕生し、また働きに召されたということが明らかになります。

 

   救い主イエスは「ダビデの子」と呼ばれるほどに、ダビデ王朝は神の栄光のみわざの現れでした。そして、そのダビデの登場の舞台を用意し、任職の油を注いだのはサムエルです。そして、そのサムエルは、ハンナというごく普通の女がいじめに会って悩んだその祈りの結果として誕生しました。あなたの人生にあるごく日常的な悩みも、神が祈りと献身を教えるために敢えて与えているのかもしれません。

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