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2006年9月24日 (日)

ルカ11:53-12:12 「神を恐れる者が体験する自由」

                                                    2006年9月24日

  聖書は、この世に人間の尊厳を教えてくれました。しかし、同時に、人々が聖書を「道徳の書」かのように受け取るようになったとき、最も大切な真理が見過ごされることになりました。それは、全宇宙の創造主が、私たちを恋い慕ってくださり、私たちの一途な愛の応答を求めておられるという、愛の関係です。

1. 「隠されているもので、知られずに済むものはありません」

  イエスはパリサイ人や律法学者を厳しく非難しました。それは彼らが聖書の教えをゆがめて、神の国に「入ろうとする人々を妨げた」からです(11:52)。そのため彼らも「イエスに対する激しい敵対」の思いを抱き、「イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った」(11:54)のです。イエスは、それを知っておられ、弟子たちに、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(12:1)と言われました。パン種は、古いパンを発酵させ、新しいパンを膨らませるために用いますが、そのように彼らは見せかけを良くすることに長けています。「偽善」は英語でhypocrisyと呼ばれ、それはここで用いられているギリシャ語に由来し、目に見える姿とその下に隠されているものが正反対になっている状態を指します。事実、彼らはイエスのまわりに多くの人々が集まってくると、公然と非難する代わりに、表面的に好意を示して食事に招いて訴える材料を探したり、またスパイを用いたりしていました。

  イエスはそれを背景に、「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません」(12:2)と言われました。キルケゴールは神のさばきについて、人は罪を犯すたびに自分自身でその報告書を書いている、それは神秘なインクなので、永遠の世界での光にかざされる時はっきり見えるようになる、しかもそれは自分の良心が認識しているので神の前で弁明の余地がなくなる、また、神の前から逃走しようと急ぐほど、その報告書が顕わにされるときが早くなると説明しました。イエスはパリサイ人の内に隠されているものを顕わにすることで、彼らが永遠のさばきを今から意識できるように計っておられます。それは彼らを永遠のさばきから救い出そうとする「愛」です。

  なお、彼らはその偽善によって、イエスと弟子たちをこの地上の裁判の席に引き出そうとしています。それによって、「あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められる(12:3)というのです。たといイエスの弟子たちが人々の攻撃を恐れて「隠れキリシタン」として生きようとしても、彼らの信仰は必ず顕わにされます。それはたとえば、あなたが人々から仲間はずれになることを恐れて自分の信仰を隠しても、周りの人が既に、「あの人、ちょっとおかしくない。何かクリスチャンらしいわよ・・」とうわさしているということかもしれません。ですからマタイは、自分を守ろうとする代わりに積極的に、イエスが、「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい(10:27)と命じられたことを記録しています。

キルケゴールは、世の道徳を説くキリスト教は、罪の反対を「徳」(善行)と描くが、キリストご自身は、罪の反対を「信仰」として描いていると指摘していますが、そのことがここに表されています。つまり、「現され・・知られる」ことになるのは、隠されたパリサイ人の罪であるとともに、弟子たちの信仰なのです。

2. 「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。」

そして、イエスは弟子たちを、「わたしの友」(12:4)と呼びながら、「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい」(12:4,5)と、「恐れる」という言葉を四回も繰り返して印象的に語っておられます。あなたは誰の前にひれ伏すのか、誰にすがるのか、誰のことばを重んじるのかが問われます。たとえば、私たちは、自分が心から尊敬する人のことばは、ひとことも聞き漏らすまいと集中するように、神を「恐れる」なら、みことばを真剣に心で聴くはずです。また、人よりも神のさばき「恐れる」なら、神に必死にすがりつくという姿勢が生まれるはずです。しかし、パリサイ人たちは、神に向かって自分の敬虔さをアピールするばかりで、「主にすがる」(申命記10:20、30:20)という謙遜さが見られませんでした。

 「五羽の雀は二アサリオン(一アサリオンは一デナリ《労働者の一日分の賃金》の十六分の一、直径三cmぐらいの銅貨)で売っているでしょう」とは、「五匹のいわしが二百円」のように、一羽で売られないほど無価値という意味です。そして、「そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえもみな数えられています。恐れることはありません。あなたがたはたくさんの雀よりすぐれた(区別された)ものです」(12:6,7)と言われます。頭の毛は約14万本もあると言われますが、それを神は数えておられます。そして、雀の一羽一羽の命を守っておられる神は、私たちひとりひとりを特別な存在として見分けておられるので、あなたがたの父のお許しなしには」(マタイ10:29)、誰も危害を加えることはできないというのです。私たちが、どんな悲劇や困難に出会ったとしても、それは神のご支配の中にある災いです。そして、神は、どんな悲惨をも、将来の益に変えることがおできになるのです。

  そしてイエスは、明確な対比表現で、「だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」(12:8,9)と言われました。この後に、人々の前で「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白することで命を失うような大迫害の時代がやってきます。イエスは、それを見越された上で、神はそれをも支配しておられることを覚えさせ、ご自身への誠実を第一とするように警告されました。

遠藤周作は、「沈黙」という小説で、1633年に日本の代理管区長という重責を担ったフェレイラ神父が迫害を受けて転んだ(信仰を捨てた)という実話に基づきながら、「イエスは、人の命を助けるためならご自身を否認することを勧めてくださる・・」という物語を創作しています。しかし、それはこの聖書の教えに真っ向から反するばかりか、その後の重大な結末を省いています。フェレイラ神父は、その直後「顕偽録」という反キリスト文書を書かされ、日本人と結婚させられ、キリシタンを発見して棄教させる働きを担わされます。彼は結果的に、誰よりも多くの日本人を霊的な死に追いやることに加担させられたのです。これは、やくざの脅しに負けて金を出すと、骨までしゃぶりつくされるということにも似ているかもしれません。イエスは私たちをそのような悲劇の結末から守るために、脅しに負けることを厳しく戒められたのです。

3. 「聖霊をけがす者は赦されません。」

 ところで、世界で最初に、人の前でイエスのことを知らないと言ったのは誰でしょう。それは一番弟子のペテロに他なりません。それを知っておられた主は、まるでセーフティーネットを張るように、「人の子をそしる(に反する)ことばを使う者があっても、赦されます」(12:10)と付け加えます。それは、「神の御使いたちの前」に出る前に悔い改めることができるためです。実際ペテロはその直後に「激しく泣いた」(22:62)のでした。それは、イエスが、彼の信仰がなくならないように、あらかじめ祈ってくださったことの結果でした(22:32)。そして今、「弱い私たちを助け・・・深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」方が「聖霊」です(ローマ8:26)。ですからイエスはここで、「聖霊をけがす者は赦されません」(12:10)と付け加えます。遠藤は神の「沈黙」につまずきました。しかしそのとき、神の御霊ご自身が、私たちの内側で、うめき叫んでおられたのです。それに耳を塞ぐことこそ「聖霊を汚す罪」ではないでしょうか。神の御許しなしには一羽の雀さえ地に落ちないのなら、絶望的な状況とは、神の圧倒的な勝利を体験するための舞台に過ぎないと断言できます。そして、神は、私たちが聖霊に導かれて叫ぶのを待っておられます。

何より注意すべきなのは、罪を犯してしまうこと以上に、「私は取り返しようのない罪を犯してしまった・・・」と、自分の罪に絶望することです。それは、「私は、本当は善人なのに・・」と思いたい気持ちの裏返しにすぎないかも知れません。「主を恐れる」とは、自分の罪が隠しようもなく、御前から逃げようもないことを認めることです。残された道は、ただ「主にすがる」こと、大胆に赦しを願うことしかありません。それにしても私たちは、心から「ごめんなさい!」と言ったら、自分の存在自体を失ってしまうような恐怖心を心の奥底に持っています。アダムが最初の罪の後に謝罪できなかったように、赦しを願うことは私たちには極めて難しいことなのです。ですから、神は、そのような私たちのかたくなさをご覧になられて、ご自身の御子を十字架にかけてまで、ご自身の「赦し」をあらかじめ私たちに明らかにしてくださいました。

聖霊は創造主でもあられ、私たちの冷めた心の奥底にイエスの贖いのみわざを悟らせ、イエスへの愛を燃え立たせてくださいます。そして、私たちがこの聖霊に導かれて「イエスは主です」と告白し続けるなら、どんな悲惨な体験も無駄にならず、神はすべてを働かせて益としてくださいます(ローマ8:28)。

それにしても、「私は迫害にあったら耐えられるだろうか?」などと心配する必要はありません。それをイエスは、「人々が・・会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」(12:11,12)と保証してくださいました。あなたを守るのは、あなたの信仰心ではなく、聖霊ご自身です。

   キルケゴールは、世の道徳宗教を批判し、自分の罪への絶望こそが「死にいたる病」であると説きつつ、「信仰者とは、世の最も熱烈に恋する者にまさって、恋する者である」と述べました。「主よ、人の望みの喜びよ」はイエスへの恋愛の歌です。バッハは当時の賛美歌をアレンジして、「心と口と行いと生命をもって」というカンタータを作りました。そこにはイエスを否認する者へのさばきの警告と、全身全霊をもって主を恋い慕うことの喜びが歌われています。主から恋い慕われて主を恋するという関係の中で生きるとき、あなたは、神に創造されたままの姿で、そのいのちを輝かせて生きることができるのです。

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2006年9月17日 (日)

Ⅰサムエル13~15章 「神の御声を聞く代わりに、人の顔色を見たサウルの悲劇」

                                                                                                                                                      2006年9月17日

  豊臣秀吉が朝鮮半島から中国に攻め入ろうとした動機を、「彼は、自分には大名たちを従える権威がないことを良く知っており、そのために常に戦う相手が必要なのだ」と説明した人がいます。サウルの王権は目に見えない神が立てたものでしたが、人間的な意味での権力の基盤は何もありませんでした。

      

1.サウルの臆病と息子ヨナタンの勇気

「サウルは三十歳で王となり、十二年間・・王であった」(13:1)とは、脚注のように原文が定かでなく、その生涯はなぞに満ちています。彼は東の敵アモン人(ロトの子孫)との戦いに勝利し、王権の創設宣言が喜びのうちになされたのも束の間(11:14,15)、すぐ地中海岸からのペリシテ人との戦いに直面します。彼らは鉄器を独占し(13:19-22)、まだ青銅器時代のイスラエルには勝ち目がありません。しかし、サウルの息子ヨナタンは、ペリシテの守備隊長をベニヤミンの中心地ゲバで殺し(13:3)、彼らの怒りを買ってしまい、大軍の攻撃にさらされます。イスラエルの民は臆病にも、洞穴などに隠れながら、ヨルダン川を背にした最後の防衛線ギルガルに陣を敷きます。そのようなとき、「サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが・・・来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした(13:8)というのです。サムエルはかつてペリシテに勝利し、平和を保ってきた霊的指導者なので、到着の遅れは大きな不安となりました。それで、サウルは焦り、神がサムエルに与えた祭司の働きの領分を犯し、自分の手で主にいけにえをささげました。サムエルが到着してこれを見たとき、「あなたは愚かなことをしたものだ・・・今は、あなたの王国は立たない・・」(13:13,14)と、サウルの王権を主が取り上げると通告しました。サウルの行為は、主が立てられた権威を侮ることでした。それは、主ご自身を退けるのと同じ意味を持っていました。しかし、彼の関心は、主ご自身を求めることよりも、人心が自分から離れるのを防ぐことにあったのです。

このとき、サウルのもとに残ったのはたった六百人でした(13:15)。それでもサウルは王として逃げるわけには行かず、おびえながら前線のゲバに陣を敷きます。そのような中で息子のヨナタンは、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、(ヤハウェ)がお救いになるのに妨げになるものは何もない」(14:6)と言い、たったひとりの道具持ちの若者を引き連れ、主のみこころを確認した上でペリシテ人を奇襲攻撃しました。彼らが最初に殺したのは約20人だけですが(14:14)、これによってペリシテの陣営に恐れが起こり、それは「神の恐れ」(14:15原文)となりました。その様子を知ったサウルが軍を進めると、ペリシテ人は「剣をもって同士討ちをしており、非常な大恐慌が起こっていた」(14:20)のでした。イスラエルは鉄の剣をもっていなかったのに、ペリシテ人が自分の剣で互いに殺しあってくれたというのです。その様子を見てペリシテ人に従っていたヘブル人もイスラエルの陣営に戻り、また山地に隠れていた者たちも出てきてペリシテ人の追撃に加わりました。これはまさに主が与えてくださった勝利でした(14:23)。

サウルは民の心を掌握するためには、主が立てた祭司の権威さえ犯しました。一方、息子のヨナタンは、ただ主(ヤハウェ)だけを見上げ、これを主の戦いと見て、主の勝利のきっかけとなることができました。親子なのに、その姿勢は何と対照的なことでしょう。私たちもヨナタンの勇気に習いたいものです。

2. サウルの不必要な誓願と祭司権の侵害

  それを見たサウルは民に、「のろい」をかけて「誓わせ」、食べ物を断たせましたが、それは敬虔なようでも、彼は、「夕方、私が敵に復讐するまで・・」(14:24)と、この戦いを私の復讐」と位置づけています。

森には「蜜がしたたっていた」のですが、彼らは「のろい」を恐れて、口にしませんでした。一方、ヨナタンはそれを聞いていなかったため、それを取って食べました。民のひとりがそのことを告げると、彼は、「父はこの国を悩ませている・・」(14:29)と言い切ります。それは戦略の過ちを批判しただけのようで、予言的な意味があります。サウルは、この後自分の権威を立てるために、国を悩ませ続けるからです。

イスラエルはペリシテ人の国境まで追い詰めますが、空腹のため力が尽きます。そればかりか、分捕り物に飛びかかり、羊や牛をその場でほふり、血のままで食べるという罪を犯します。そのときサウルは、大きな石を用意させて、「めいめい・・私のところに連れて来て、ここでほふって食べなさい。血のままで食べて主(ヤハウェ)に罪を犯してはならない」と言いますが(14:34)、ここにも信仰の指導者を振舞う姿勢が見られます。そして、祭司でもない彼が「主(ヤハウェ)のために祭壇を築き」ます(14:35)。サウルは、サムエルの叱責を受けて悔い改める代わりに、彼の権威を犯し続けています。事実彼は、神がかつて退けたはずのエリの家系(3:13)を祭司に立てて、「神の箱」を戦いに再び持ち出そうとさえしています(14:3,18)。

その後、サウルは、戦略の過ちを挽回するために、夜通しペリシテ人を攻め立てることを提案します。民は同意しますが、祭司はそれを差し止めて、「ここで、われわれは神の前に出ましょう」と提案します(14:36)。サウルは神に伺いますが、何の答えも得られません。神の怒りを感じた彼は、誓いを最初に破ったのは誰かを確かめるため「ウリムによるさばき」(民数記27:21)を用いて、神に二者択一の答えを求めたのだと思われます(14:40-42)。その結果、戦いを勝利に導いた息子ヨナタンに死刑を宣言するはめになります。民の仲裁で彼を殺さずには済んだものの、サウルの霊的な暗黒が際立ちます。彼は占いに似た目先の判断を主に尋ねましたが、このときこそ自分がサムエルを通して王に立てられたという原点に立ち返り、沈黙される主の御前に静まり、どこで自分が主のみこころに反したかを思い巡らすべきでした。

  その後、「サウルは・・勇気を奮って・・イスラエル人を略奪者の手から救い出し・・・一生の間、ペリシテ人との戦いがあった・・勇気のある者や、力のある者を・・みな、召しかかえた」(14:47-52)と描かれます。つまり、彼はこの世的には極めて有能な王で、責任を果たしたのです。ただサムエルの時は、「主(ヤハウェ)の手がペリシテ人を防いでいた」と記されます。しかし、「イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった」(9:2)とあるようにサウルは自分の才能に酔って、主こそが王であることを忘れたのだと思われます。 

3.悔いることのないはずの主が、サウルを王に任じたことを悔いたという不思議

この後サムエルは、サウルにアマレク人を聖絶せよとの主の命令を伝えます。彼らはカナンの南側を支配し、イスラエルがエジプトから出てすぐに攻めかかった敵でした。その時、主は、「わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう」(出エジプト17:14)と宣言され、その後も、彼らを断ち滅ぼすご計画を繰り返して示しておられました(申命記25:19)。サウルはその主の思いに心を向ける代わりに、目先の自分の計算で、王をいけどりにするとともに、肥えた家畜を惜しみ、値打ちのないものだけ聖絶したのでした(15:9)。これを見た主(ヤハウェ)は、「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる」(15:10)とサムエルに語ります。サムエルは王を選ぶことに最初から反対しながら、主の命でサウルを任職せざるを得なかったのですから、彼が「怒り、夜通し主(ヤハウェ)に向かって叫んだ」のも当然とも言えないでしょうか。

一方、サウルは、「自分のために記念碑」まで立て(15:12)、「私は主(ヤハウェ)のことばを守りました」(15:13)と豪語し、残した羊や牛は主へのいけにえのためと言い逃れをしました。それでサムエルは、「主(ヤハウェ)は主(ヤハウェ)の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえ・・を喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり・・」(15:22)と語ります。原文では「従う」というより「聞く」という心の姿勢こそが強調されています。そして、サムエルはサウルに「あなたが主(ヤハウェ)のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と言い切りました。再度の宣告を受けた彼は恐怖に捕われ、「私は罪を犯しました」(15:24)と告白しつつ、「私は民を恐れて、彼らの声に(聞き)従った」と自分の根本的な問題を認めました。

その後サウルは、「私といっしょに帰ってください。私は主(ヤハウェ)を礼拝いたします」(15:25)と懇願しますが、サムエルはそれを断り、「イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない(15:29)と言います。これは、サウルの罪によって神のご計画が無に帰するということがなく、主が新たな王を立てて御旨を成し遂げるという意味です。ところが、サウルはそれを聞いて自分の罪を心から悲しみ嘆くのではなく、「どうか今は、私の民と長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」(15:30)などと言い、王位にしがみつこうとします。これは、ふたりの最終的な決別になり、「サムエルはサウルのことで悲しんだ。主(ヤハウェ)もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた」15:35)と記されます。悔いることがないはずの主が、二度も「悔やまれた」のです。

「悔やまれた」とは、サウルのことで主が心を痛められたという感情表現で、本来、「深く呼吸する」という意味の派生語です。一方、彼は自分の立場ばかりを気にして、自分の罪を真に悲しんではいません。主は、後に、「もし・・その民が悔い改める(立ち返る)なら、わたしは・・・わざわいを思い直す(原文:悔いる)」(エレミヤ18:8)と言われ、ご自身のさばきの計画は変えられる余地があると約束しておられます。彼の根本的な問題は、主の前に静まり、主の痛みを理解する代わりに人間的な解決策を急いだことでした。

 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)とありますが、サウロは、神やサムエルの悲しみを知ろうともせず、民の歓心を買おうとして自滅しました。彼は神に特別に目をかけられて王とされ、それを心から喜んでいたのに、神の御声を聴く誉れを忘れ、人の声ばかりを聴いてしまいました。これはすべての指導者を陥れる誘惑ではないでしょうか。あなたは神を見ているのか、人の顔色を見ているのかが、今問われています。

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2006年9月10日 (日)

ルカ11:33-52 「神よりも自分を見る信仰の愚かしさ」

                                            2006年9月10日

  私たち信仰者が陥り易い過ちは、創造主である神を愛するというより、自分の信仰の姿勢を見てしまうことではないでしょうか。それは、ある人を恋していると言いながら、その人のことを表面的にしか知らず、ただ「恋に恋している」ということと同じです。それはナルシズムであって、真の愛ではありません。

1. あなたの心の目は何を見ているのか。

  イエスは弟子たちに、「あなたがたは、(既に)世界の光です」(マタイ5:14)と言われました。同じように33-36節の核心でも、「あなたのうち」既に「光」があると保証されています(35節)。ですから「もっと輝かなければ・・」などと頑張るのではなく、イエスによって灯された光を隠さないようにすることこそが大切なのです(33節)。人によっては、「私がクリスチャンだなどと言ったら、イエス様のイメージを悪くしてしまいそう・・」などと、妙な謙遜さから信仰を隠す人がいますが、自分がどのように見られるかを心配するのではなく、「あなたの目が」「健全」(原文:「単純」)にイエスを見上げているなら「全身も明るい」という状態になるというのです(34節)。しかし、目を「悪いもの」に向けているなら、「からだも暗く」ります。つまり、ここで問われているのは、あなたの目の向けどころなのです。また「何の暗い部分もない」(36節)とは、「罪がない」という状態ではなく、あなたの様々な問題が「光」のもとに照らし出されている状態を指します。パウロは、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(Ⅱコリント4:7)と言いましたが、私たちの外側がいかに惨めな状態でも、内側に既にある「福音の光」こそが、世界を照らす光となるのです。ですから、「あなたのうちの光」が、あなたの闇を照らすことを恐れずに、輝くままにすることこそ大切です。

   この話の後で、ひとりのパリサイ人がイエスを食事に招きます。そのとき彼は、イエスが当時の宗教指導者なら当然守るはずの、言い伝えどおりに手を洗うということを省かれたことに驚きます。レビ記7章21節には、汚れた物に触れたままで主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者は民から断ち切られると警告されていましたが、彼らはその教えを、日常の食事にどのように適用するかを研究しました。本来、レビ記の核心は、聖なる神が汚れた民の真ん中に住んでくださるという恵みを、恐れをもって受け止めさせるための具体的な教えでした。しかし、彼らは、卵一個半程度の水の量や「こぶし」(マルコ7:3原文)で手のひらをこする作法などを守ることによって、人はあらゆる汚れからきよめられるかのように教えて、本来の趣旨を忘れさせてしまったのです。彼らは神よりも人間が作った規則ばかりを見てしまいました。

  イエスは、客として招かれながら、「しきたり」を敢えて破ることで、彼らの律法解釈の誤りを正そうとされました。イエスはここでアイロニーを語っています。私たちは誰でも「杯や大皿」の内側をきよめることに気を配りますが、彼らは、愚かにも器の「外側」をきよめることに夢中になっているというのです。しかし、律法には、私たちの「目」、自分自身ではなく、神の聖さに向けさせそれによって内側にある「強奪と邪悪」の思いをきよめようとの神の配慮が満ちています。しかも、イエスは、「うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが・・きよいものとなる」(41節)と言われました。レビ記で最も有名なのは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(19:18)ですが、神の前に聖くあることと隣人愛を実践することは不可分です。イエスは彼らをその原点に立ち返らせ、その目を隣の貧しい人に向けさせたのです。

クリスチャンらしい生き方とは、間違いを犯すことに臆病になることではありません。あなたの霊の目がイエスを見つめ、隣人を真心から愛そうとするときに、あなたは黙っていても輝くことができます。

2. みかけばかりを整えようとするパリサイ人の忌まわしさ

  イエスは、「わざわいだ(忌まわしいものだ)。パリサイ人・・」と繰り返しながら、厳しく彼らの偽善を指摘されます。彼らは、収穫の十分の一を主にささげるということに関しては、本当に細かいものに至るまで几帳面に計算しているが、「公義と神への愛」という心の部分はなおざりにしているというのです(42節)。ただ、イエスは念のために「ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません」とも付け加えます。確かに、神への愛は、形に表れてこそ真実なものになりますが、それが義務と認識され、それを果たしている自分は偉いなどと思うと本末転倒になります。よく、「十一献金は現在も適用される律法なのですか?」と問われますが、その質問自体にすでに「律法」に関しての誤解があります。それは「人から挨拶されたとき、挨拶を返すことは義務ですか?」と問うように愚かな質問かもしれません。神は私たちと愛の交わりを築こうとしておられます。献金は私たちの愛の応答の機会であり、それを通して私たちの心が神に向けられます。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)とイエスが言われたように、それは私たちの心がこの世の富から自由にされ、神に向けられるための教えでもあるのです。それは人間的には大変かもしれませんが、イエスを見上げつつ、思いきって実践してみるなら、人から微笑まれたとき、自然に微笑を返したくなるような自然な行為へと変えられます。あくまでも、献金は義務ではなく恵みです!

  そして、パリサイ人の何よりの問題は、神への信仰を、人の尊敬を勝ち得る手段に変えてしまったことです(43節)。彼らは神を見ているのではなく、神を信じる自分の姿勢を見ており、またそれを人に見せようとしていました。しかし、しばしば言われるように、私たちの伝道とは、乞食が隣の乞食に、どこに行ったら食事にありつけるかを教えることに他ならないのです。そこで問われているのは乞食としての作法ではなく、どこに行くべきか、誰を頼るべきかということを自分自身の正直な体験を通して語ることです。

  そして、イエスは、彼らを「人目につかぬ墓のようだ」と言いました(44節)。当時は遺体を土葬するのが普通でしたから、墓石の下は、腐敗で満ちていました。そうして、彼らの解釈によれば、墓に触れることは身を汚すことになるのですが、彼らはただ表面をつくろうことに長けており、自分たちの内側にある罪こそが人を汚すということにまったく気づいていません。イエスは、彼らが軽蔑した取税人や遊女やサマリヤ人などよりも、ずっと人を汚す存在であるということを強烈な皮肉を持って言い切られたのです。

私たちの心の内側も、そのように醜いもので満ちていることでしょうが、それがないかのように振舞うことと、認めることでは、天地の差があります。それを主に差し出すなら、主はご自身の方法であなたを内側からきよめてくださいます。また、「私は大丈夫!」と思っている人こそ、回りの人を振り回し、息苦しくさせますが、「私は罪人の頭です」と自覚する人の周りには、自由な心からの愛の交わりが生まれます。

3. 知識の鍵を持ち去った律法の専門家

  このことばを聞いて、「ある律法の専門家が」、それは自分たちを侮辱したことばだと怒ったのは当然と言えましょう(45節)。しかし、それ以上に、イエスは彼らの偽善に満ちた教えに、心を痛め、怒っておられました。彼らは、「人々に負いきれない荷物を負わせ」ました(46節)。それはたとえば、安息日に労働をしてはならないということを具体的に規定して、歩行距離はどこまでは許されるとか、何をどのように持ち運ぶことが労働になるのかを細かく教えるものでしたが、社会的弱者はそれをいちいち気にしていては生活が成り立たないようなところがありました。律法の専門家は、神の教えを実生活に適用すると称して、その根本を曲げて伝え、聖書を神からの愛の手紙の代わりに、人々をさばく規範に変えてしまったのです。たとえば、モーセ五書は「トーラー」(みおしえ)とヘブル語では呼ばれていますが、それがギリシャ語で、「ノモス」(規範、法)と呼ばれるようになったのは、当時の律法学者やパリサイ人の解釈が影響していると思われます。神はご自身の民イスラエルを恋い慕っておられ、その愛の契りとして、様々なみおしえをお与えくださいました。それは神が私たちの幸せを何よりも願っていることの証しでした。

  イエスは、「おまえたちの父祖が預言者を殺した」と言いました(47節)。彼らは、自分たちは父祖のようではないと思いながら、預言者たちの記念碑を立てています。しかし、両者とも偽善者であるという点では一致します。預言者たちは、人々の見せかけの信仰を暴き、人がいかに無力であるかを訴えたことでひんしゅくを買い、殺されました。アベルのささげ物は、カインのものがみせかけであることを明らかにするきっかけになり、ザカリヤは南王国の王ヨアシュの堕落を戒めて何と、神殿の庭で殺されたのでした(Ⅱ歴代誌24:21)。そして、「この時代はその責任を問われる」(51節)とは、イエスも預言者たちと同じように、人々から憎まれ、殺されようとしていますが、それに対して神の厳しい裁きが下ることを警告しています。彼らが誇り、大切にしていたエルサレム神殿は、40年もたたないうちに彼らとともに滅ぼされるからです。 

「律法の専門家たち」「わざわい(忌まわしい)なのは、彼らが「知識のかぎ」を持っているように見えたからです(52節)。彼らはモーセの律法を暗記し、解き明かしていましたが、それによって、神の愛に満ちた教えを捻じ曲げて伝え、「神の国」、神のご支配をこの世の法の支配のように変えました。法律は、罰則によって人々を矯正しようとするため、しばしば過ちを犯した人を自暴自棄と絶望に駆り立てることがあります。しかし、モーセの教えの中心は、神は愛するに価しない罪人を一方的に選んで悲惨から救い出し、新しく神の民と造りかえるという希望に満ちたものでした。しかし、彼らは神のあわれみに自分からすがろうとしないばかりか、神のあわれみにすがろうとする人を妨げています。人を救うための教えを、人を殺すための教えに変えることほどに、神にとって忌まわしく、赦しがたい罪があるでしょうか。

  私たちの意識はしばしば空回りを起こし、自意識過剰とか心配の種ばかり見つけるという状態に陥ります。自分の心臓の鼓動をじっと気にしていると不安になるかもしれませんが、それを忘れて前に向って動きだすと、それに合わせて鼓動のスピードは自ずと調整されます。それと同じように、そのままの姿で、ただ、神を愛し、人を愛するという生き方を目指すとき、すべてが変えられてくるのではないでしょうか。

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2006年9月 4日 (月)

Ⅰサムエル8章~12章 「主(ヤハウェ)こそが王である」

                                                      2006年9月3日

この世には、本来ずっと平穏な生活を享受できたはずなのに、恵まれた仕事や家庭を、一時の気迷いで失ってしまい、本人ばかりか回りの人も苦しむということがあります。「失われたチャンスは二度とやってこない。目の前には、最善から程遠い残り物の選択の可能性しかない・・」と思っているような人が多くいます。イスラエルが主に従い続けていたなら、約束の地に入ってすぐ平和と繁栄を享受できたはずでしたが、彼らはそれに失敗し、目の前には異民族の脅威と貧困ばかりです。彼らは、場当たり的な解決をはかることしか頭になくなり、自分たちがどこから落ちたかを振り返る余裕がなくなっていました。

1. 「ほかのすべての国民と同じように、私たちをさばく王を立ててください。」

「サムエルの生きている間、主(ヤハウェ)の手がペリシテ人を防いで」(7:13)いましたが、「年老いたとき」(8:1)後継者のことが心配になりました。彼はふたりの息子を「さばきつかさ」としました。それは申命記17:8-13に記されていた中央裁判所のような機能です。申命記12章では、約束の地での礼拝の場は、契約の箱が置かれた唯一の中央聖所に限るべきと記され、本来はそれと合わさって神の民の一致が守られるはずでした。しかし、祭司エリの家が主に裁かれ、聖所が破壊されて以来、主はサムエルを通して、まず主のみことばを聴くという原点に立ち返らせ、中央での幕屋礼拝が停止されていました。しかも、サムエルの息子たちは「わいろを取り、さばきを曲げて」(8:3)いました。つまり、イスラエルは既にあるべき姿から外れている中でどのように神の民としての一致を保つことができるかが問われています。それで彼らは、原点に立ち返る代わりに、対処療法的に、「ほかのすべての国民と同じように、私たちをさばく王を立ててください」(8:5)と願います。それはサムエルの気に入りませんでしたが、主は彼に、「この民は、あなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたし(原文「彼らの王であるわたし」)を退けたのだ」(8:7)と言いました。地上の王の権力は、外敵から国民を守り、土地の所有権を保証するということによって成り立ちますが、それをしておられたのは、真の王である主(ヤハウェ)ご自身であられたからです。

ところで、士師記には「その頃イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」(17:6,21:25)と、王の必要も示唆されていました。確かにモーセの教えが守られていたら、神の民の一致が守られて、周辺の偶像礼拝の民も持つことがなかったはずでしたが、彼らは今、敵に囲まれ、戦いを導く地上的な王を必要とする事態にまで落ちていました。しかも、主は、それを予測した上で、申命記17:14-20で、王制に関する教えを述べています。つまり、イスラエルの王政は、本来の主のみこころから外れたものであるとともに、主ご自身が、民のかたくなさのゆえに容認せざるを得ない可能性と見ておられたことでもあるのです。その意味で、主のみこころは計りがたいものと言えます。しかし、それは最悪の事態が既に起こっている中での選択に関することであって、私たちに日々問われているみこころは単純明快です。それは、「あなたは主(ヤハウェ)を全身全霊で愛しているか」という一点でした。

それにしても、彼らの問題は、「ほかのすべての国民と同じように」という発想です。それで主はサムエルに、「今、彼らの声を聞け。ただし、彼らに厳しく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」(8:9)と語り、この世の王制の残酷さを警告しました。彼らは、この世の国々と違う「神の国」を求めるべきで、それはすべての民が主の前に平等になる愛の共同体のはずでした。たとえば、主は50年毎のヨベル年には、奴隷になった者を解放し、借金を棒引きにするように命じておられましたが(レビ25章)、それは王を頂点としたピラミッド社会では不可能になるのではないでしょうか。しかし、彼らは、主の最高の恵みの教えを非現実的な理想論かのように軽蔑し、この世の常識に従った解決を求めました。あなたも、主が与えようとしてくださる最高のものを待つことができないで、目の前の問題を急いで取り除くことを望んではいないでしょうか?しかし、力の解決は、より大きな悪を招き入れる危険に満ちているのです。

2. 弱小民族ベニヤミンの中のまだ小さな家からサウルを王に立てる

  主は、民の願いを聞き入れ、サムエルを用いて王を立てます。ただし、この選択は誰の目にも意外なもので、主は、一度は絶滅しかかった弱小部族のベニヤミン(士師19-21章)から、無名の若者であるサウルを選びます。彼はあるとき父の命令で、いなくなった雌ろばを捜しに出かけます。捜しあぐねた彼はしもべの勧めで、預言者サムエルを尋ねます。サムエルはそのことを主から知らされていたので、サウルが説明する前に彼の事情を言い当てることができました。それでサウルは、サムエルが自分を王にしようとしていることを自分には理解しがたいことと言いながらも(9:21)、サムエルの導きに任せました。このように、イスラエルの王は、人の野心や政治的な判断ではなく、主の一方的な選びによって立てられたのです。

サムエルは、何の働きも見せていないサウルに油を注ぎ、王としてひそかに任職しました(10:1)。そしてサムエルは、主がすべてを支配しておられることを、その日にサウルが出会う三組の人のことをあらかじめ語ることで納得させます。そして三組目の預言者の一団に出会うとき、(ヤハウェ)の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです」(10:6、7)と言います。ただ同時に、サウルにギルガルで七日間サムエルの到着を待つようにも命じます。つまり、彼は何をやっても良いのですが、祭司としてのサムエルの働きだけは侵してはならなかったのです。

そして、「神はサウルの心を変えて新しくされた」(10:9)とあるように、それがことごとく成就します。そして、周囲の人々は、サウルに起こった変化を見て、「サウルもまた、預言者のひとりなのか」というようになります(10:12)。これは、人々がサウルを違った目で見始めるきっかけになりました。その上で、サムエルは、「民を主(ヤハウェ)のもとに呼び集め」(10:17)、くじを通して、主がサウルを王として選ばれたことを示します。ただ、このとき、サウルは、誰よりも背が高いのに「荷物の間に隠れていた」(10:22)ほどでした。  

サウルが新しくされ、また人々に前に王として紹介されたのは、油注がれた後でした。つまり、主の一方的な選びこそがすべてに先立っているのです。同じように、私たちの上に起こる変化も、自分の力である以前に、主の選びの結果だと言えないでしょうか。サウルは誰よりも美男子で、背が高かったとしても、それは選びの根拠ではありませんでした。主は敢えてこの世の無力な者を選びながら、王を立て、また退けるのはご自身であることを明確に示されたのです。しかも、主は、預言者サムエルを用いてサウルを王として民に示すことによって、イスラエルの王政をこの世のものと区別されました。主は本来のご自身のみこころに反して王を立てながら、なお、イスラエルをさらなる堕落から守ろうとしておられます。

3. サウルの王権の確立と、主がサムエルを通して与えた警告

 その後、イスラエルの東側からアモン人が、ヨルダン川東岸の町ヤベシュ・ギルアデを攻撃します。その救援の要請を聞いた時、神の霊がサウルの上に激しく下り(11:6)、また彼が民を戦いに招集したとき、主への恐れがこの民に下ったので、彼らはひとりの人のように(一致して)出てきました」(11:7)。つまり、主ご自身がサウルのもとに民を一致させることによって、彼らは戦いに勝ったのです。それはサウルの功績ではありませんでしたが、これによって彼が名実ともに全イスラエルの王として認められることになり、ここに「王権を創設する宣言」(11:14)がなされます。そしてこのとき、「サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ」(11:15)のでした。彼らは、自分たちの上に王が立てられたことによって国がまとまり、周辺の国に勝利できるようになったと思ったからでした。しかし、そこに落とし穴があります。

これはサムエルに代わってサウルが民の上に力を発揮して行く境目になります。それでサムエルは最後に、イスラエルの歴史を振り返りながら主を恐れることを教えました。今、イスラエルは周辺の国々と同じ政治制度を持つようになりましたが、それで彼らは、「あなたがたの神、(ヤハウェ)があなたがたの王である」(12:12)という現実を忘れる可能性があります。それで主は、季節違いの雷と雨とを下され、「民はみな、主とサムエルを非常に恐れた」(12:18)という状況を設定されます。このときになって彼らは、「あらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えた」12:19)と自分たちの非を認めましたが、それは遅すぎました

それで主は、新しく始まった王政のもとで、神の民として生きる道を教えられます。その基本は、それまでのモーセの教えとまったく同じでした。彼らは、他国の王政と違い、目に見える王を支配しておられる主(ヤハウェ)をこそ、第一に恐れるべきでした。それでサムエルは最後に、「ただ主(ヤハウェ)を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる」(12:24,25)と警告します。彼はこの後も影響力を残しますが、民全体に向かって語るのはこれが最後でした。

 この後、主は高慢になったサウルを退け、ダビデを新しい王として立てることで、契約の箱を中心とした本来の礼拝を復興します。主は、民のわがままを聞きながらもご自身の計画を進めておられました。ですから私たちも、地上の目に見える現実を越えて、(ヤハウェ)のご支配の現実を覚える必要があります。今、キリストご自身が、「王の王、主の主」として世界を治めておられます。そこで問われているのは、右か左かの選択以前に、「あなたの王、あなたの主はどなたなのか?」ということです。主を愛する者には、回り道をしているようなことがあっても、すべてのことが無駄にならず、益に変えていただけるからです。

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