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2006年10月30日 (月)

Ⅰサムエル22~24章 「恐れを祈りに変えたダビデ

                                                                                                                                                   2006年10月29日

  私たちはみんな心の中に何らかの「恐れ」を隠し持っています。それにどのように向
き合うかがその人の生き方の大きな差になって現れます。サウルとダビデはその点で
極めて対照的です。それと、ダビデはかつて立琴の演奏で恐れの霊にとらわれたサウ
ルのこころを落ち着かせましたが、ここでは捨て身の態度とことばによって、サウル
のこころを落ち着かせています。人の心を変えるのは、一方的に真理を語ることでは
なく、神と人との前での真実さであることを思わされます。

あなたは「恐れ」の感情に圧倒されたとき、どうするでしょうか。サウルはその原因を、力で取り除こうとして墓穴を掘ってゆきました。一方、ダビデは「恐れ」の中で、神と人との交わりを深めて行きました。どちらが善人でどちらが悪人かというより、主の御前に静まるかどうかこそが、ふたりの明暗の差でしょう。  

1.ダビデのもとに人々が次々と集まる一方、味方をも敵にしてしまうサウル

ダビデは、ペリシテの町ガテで気が狂ったふりをし、命からがらベツレヘムへの道の中間点、アドラムの洞穴に避難しました。するとそこに、自分の父の家の者たちが避難してきました。そればかりか、彼のもとに、「困窮して(迫害されて)いる者、負債のある者、不満(魂の痛み)のある者たちもみな」集まってきて(22:2)、約四百人の集団になりました。サウルはかつて、「民が私から離れ去って行こう」としているのを見て恐れ(13:11)、主のみこころに反する行動を取りましたが、ひとりで逃亡したダビデのもとには次々と人が集ってきました。彼らは、損得を超越したダビデの生き方に共鳴した人々で、いのちがけで彼に仕えた三勇士もこのときに加わりました(Ⅱサムエル23:13)。なお、ダビデはこのとき年老いた両親を死海の対岸に住むモアブ王のもとに預けました。彼らはイスラエルと争う民でしたが、ダビデの父エッサイは、モアブの娘ルツの孫でもありました。彼は初めから当時の民族的常識の枠を超えた交わりを築いていました。

一方、サウルは、同族ベニヤミンに、自分が血縁関係を優遇してきたのに息子ヨナタンがダビデの側に立っていると嘆きながら、「だれも私のことを思って心を痛めない」(22:8)と訴えます。彼は、恩賞をちらつかせると同時に、人々の同情を引こうとしていました。そんな彼に擦り寄って来たのは、エドム人ドエグという神を恐れない者でした。彼は祭司アヒメレクがダビデにパンと剣を与えたことばかりを強調しました。またサウルも、祭司の弁明に耳を傾けず、近衛兵の躊躇を振り切ってドエグを使って85人の祭司を殺し、その町ノブの住民を乳飲み子に至るまで虐殺します。既に預言者サムエルを敵にした彼にとって祭司アヒメレクの一族こそ頼りになるはずでした。しかし、この非道な振る舞いで、民衆の心はますます離れてゆきます。彼は「おくびょうの霊」(Ⅱテモテ1:7)に支配され、自分の王位を失うのを恐れるあまり、神と人とを敵に回しました。彼は「不安の種」を消すことばかりに夢中になり、神から与えられた使命を忘れてしまいました。しかし、彼が向き合うべき相手は、ダビデではなく、彼を立てた神ご自身であったのです。

この直後、アヒメレクの息子エブヤタルがひとり逃れてダビデにこの悲劇を知らせました。彼は、「私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ」(22:22)と言いながら、詩篇52篇の標題にあるように、その「怒り」を神への「祈り」へと変えました。ダビデはそこで、「おのれの悪に強がる」者への神のさばきと、「私は、世々限りなく、神の恵みにより頼む」と歌います(7,8節)。その上で彼はエブヤタルに、「私といっしょにいなさい。恐れることはない。」(22:23)と言えましたが、それこそ祈りから生まれたことばでした。

栄光から地獄へと転がり落ちるサウルと、どん底から栄光へと導かれるダビデ、その両方の心が私たちにもあるのではないでしょうか。その違いは、不安の中で神と向き合っているのかという一点でした。

2.善意が実を結ばず、味方からも裏切られる中で

  ダビデは、アドラムの洞穴の南のユダの町、ケイラがペリシテ人の攻撃を受けていると知らせを受けます。人間的にはダビデの側に助ける余裕はありませんし、その救援は王であるサウルの責任でもあります。しかし、ダビデは二度に渡って「主(ヤハウェ)に伺って」(23:2,4)、主から「わたしがペリシテ人をあなたの手にわたす」という保証を得て出陣し、町を救いました。ところが、それを聞いたサウルは、何とダビデをケイラの町ともども滅ぼそうと迫って来ました。このとき彼は神に今後の予測を尋ねます。主は彼の動機の真実さを見て、サウルが攻撃してくること、またケイラの者たちがダビデたちをサウルに引き渡すという明確な答えを示されました。ダビデは自分が助けたこの町を力ずくで従える代わりに、彼と「その部下およそ六百人はすぐにケイラから出て行き、そここことさまよった」(23:13)というのです。それでサウルもケイラの町への攻撃をやめました。こうしてダビデは、何の報酬もなしに二度にわたってケイラを救いました。

しかし、ダビデはこれによって居場所を失い「恐れ」(23:15)を抱きます。それが詩篇55篇の背景かもしれません。彼は、「私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました」(4,5節)と、内側にある恐れの感情をあるがままに受け止め、それを神への祈りと変えています。そんな彼に、神はヨナタンを遣わします。彼はサウルの息子でありながら、「神の御名によってダビデを力づけ」(23:16)ます。その際、彼は「あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となることでしょう」(23:17)と言いますが、ここに彼のナイーブさが見られます。二つの王家が並立することはありえないからです。しかし、人間的な常識を超えた発想がふたりを結び付けています。  なお、ダビデはユダ族の中心地ヘブロンの南東に広がるジフの荒野に隠れていましたが、同じユダ族のジフ人が彼の隠れ家をサウルに知らせます。サウルもこれに乗じて、「さあ、行ってもっと確かめてくれ・・私はあなたがたといっしょに行こう。彼がこの地方にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を捜し出そう」(23:23)と、ダビデをユダ族から分離させようとします。軍事力の圧倒的な差を見た人々はこぞってサウルの側に馳せ参じました。詩篇54篇の標題にはこのときの状況を記しており、そこでダビデは、「あなたの権威によって、私を弁護してください・・横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです・・・あなたの真実をもって彼らを滅ぼしてください」(1,3,5節)と祈っています。私たちの人生にも、敵側に属するはずの人が味方になり、自分の味方だと思った人々が敵になるということがあるかもしれません。だからこそ人の顔色を見て悩む代わりに、神により頼むことが大切です。

  ダビデが、すぐその南のマオンの荒野を逃げていたときは、「サウルが山の一方側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ」(23:26)というところまで追い詰められましたが、そのときにペリシテ人のイスラエルに突入してきたという知らせが届き、サウルは転じてペリシテ人を迎え撃ちに出てゆきます。そしてこの危機一髪だった地が、「仕切りの岩」(23:28)と呼ばれます。これは偶然ではなく、主が生きて働いておられることのしるしです。そのような中で、ダビデは神の「真実」を、身を持って体験しました。

3.恐れと怒りにとらわれたサウルの心を和らげることができたダビデの言動

  ダビデが死海のほとりにあるエン・ゲディの要害に潜んでいるとき、サウルはイスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて捜しに来ます(24:2)。そして彼がある洞穴を見て、「用を足すため(直訳『足をおおうため』)にその中に入った(24:3)ときに、ダビデと部下たちは何とその穴の奥の方に隠れていたのです。家来はダビデに、今こそ、主(ヤハウェ)があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す・・』と言われた、そのときですと、サウルを殺すことを進言します(24:4)。彼は無防備な姿勢で屈み、その「上着」(王のマント)を広げていたからです。しかし、ダビデは、その「すそを、こっそり切り取る」ことにとどめ、それに対してさえ心を痛めたほどでした(24:4,5)。そして、襲いかかろうとする部下に向い、自分の命を狙うサウルのことを、「主(ヤハウェ)に油注がれた方、私の主君」(24:6)と呼び、彼に手を下すことは、彼を立てた主(ヤハウェ)に敵対することになると自制させました。サウルをさばくのは彼ではなく神の責任でした。

  その上で彼は、サウルの後から洞穴を出て地にひれ伏し、王は根拠のない噂に振り回されていると言います。それはサウルを直接に責める代わりに、彼の良心に訴える姿勢です。ダビデは、「主(ヤハウェ)が・・私の手にあなたをお渡しになったのに・・・」(24:10)と、自分の側に彼を殺す機会があったという事実を見せつつ、わが父よと呼びつつ「私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください」(24:11)と訴えます。そして、「私はあなたに手をかけることはしません」(24:12)と断言しつつ、イスラエルの王である者が、「死んだ犬、一匹の蚤」のような自分を恐れる必要はないと訴えます(24:14)。そして、「どうか主(ヤハウェ)が・・・正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように(24:15)と締めくくります。

  これに対して、サウルも「わが子ダビデよ」と呼びつつ「声をあげて泣いた」というのです(24:16)。まさにダビデのことばには、サウルを悪い霊から解放した「立琴」(16:23)と同じ効果がありました。人間的に見ると、このときダビデこそが大軍に取り囲まれ、サウルのひと言で命がなくなる状況でした。しかし、サウルの心は驚くほど穏やかになり「あなたは私によくしてくれたのに、私はあなたに悪い仕打ちをした」(24:17)と反省しています。彼は、「主(ヤハウェ)が私をあなたの手に渡された・・」とダビデに同意しつつ、万軍の主ご自身が、サウルではなくダビデ側に立っているという霊的な事実を認めました。そして、ダビデに向って、「主(ヤハウェ)があなたに幸いを与える・・・あなたの手によってイスラエル王国が確立する」(24:19,20)と断言します。そして、自分の家を根絶やしにしないことを、王であるサウルが何の立場もないダビデに懇願しているのです。それは、サウルが、現実を主の視点から見ることができるようになった結果です。

サウルがダビデの命を狙うようになったのは、王位を奪われるという「恐れ」の故でした。しかし彼はそれを正直に認める代わりに、自分の力で競争者を排除しようとしました。一方ダビデは、自分の恐れを正直に認め、主に訴えた結果、今、丸腰でサウルの前に身をさらしています。「恐れ」「祈り」に変えることによって、驚くほどの勇気が生まれたばかりか、恐れにとらわれたサウルの心をも和らげたのです。

  

ダビデはサウルからの不条理な攻撃を受けながら、またケイラの住民や同族の民から裏切られながら、「悪を行なう者に対して腹を立てるな・・地に住み、誠実を養え。主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:1、3,4)と歌ったのではないでしょうか。彼の苦しみから数多くの詩篇が生まれ、それが時空を超えた私たちに慰めと希望を生み出します。私たちも不条理な世の中で、「私はいつも、私の前に主(ヤハウェ)を置いた」(詩篇16:8)というダビデの告白に習いたいものです。

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2006年10月23日 (月)

詩篇19篇

この一週間、ひょんなことから、人間のこころの不思議さを考えていました。自分を含め、現代の教会は、神の最高傑作とも言える人間の心をあまりにも自虐的に見すぎているような気がしました。
 私たちのこころは、本当にとんでもない罪深い傾向に流れるものでもありますが、同時にその罪を自覚することができること自体がなんとも不思議です。しかも、美しいものに感動し、何ともいえないやさしいことを考えたりもします。心は、驚くほど繊細で、傷つき易く、同時に、とてつもない強さをも秘めています。こころの不思議
を感じながら、そのこころがみことばによって生かされ、方向付けられることの驚異を感じました。
 実は、今頃になって、改めて哲学者カントをほんの少しばかり読んでみたのがきっかけだったのですが・・・

 今回は特別に詩篇19篇を解き明かしました。ある専門家が、ヘブル語詩篇の翻訳はある意味で不可能への挑戦であると言っておられたようですが、実は、小生も、分をわきまえず、詩篇の翻訳に何ともいえないこだわりと情熱を感じており、今回、以前から当教会で交読用に使っていた詩篇19篇の翻訳を全面改訂しました。味わっていただければ幸いです。

   詩篇19篇

                 指揮者のために ダビデの賛歌

天は 神の栄光を 語り                     (1) 

大空は御手のわざを告げる

昼は昼へと 話を取り次ぎ                  (2)     

夜は夜へと 知識を伝える

話もなく ことばもなく                   (3)

その声も聞かれないのに

その響きは 全地を覆い                   (4)

そのことばは 世界の果てにおよぶ

太陽のため彼(神)は そこに幕屋を張られた

それは花婿が住まいを出るように              (5)  

勇士のようにその道を喜び走る

その昇るところは天の果てから                (6)

その軌道はその果てまでおよぶ

その熱をこうむらないものはない

(ヤハウェ)のみおしえ(トーラー)は完全で たましいを生き返らせ     (7)

(ヤハウェ)のあかし(十のことば)は確かで 無知な者を賢くする

(ヤハウェ)のさとし(指示)は正しくて 心を喜ばせ          (8) 

(ヤハウェ)の仰せ(命令)はきよらかで 目を明るくする

(ヤハウェ)を恐れる道は純粋で いつまでも続き          (9)  

(ヤハウェ)のさばきはまことで ことごとく正しい

金にまさり 多くの純金にまさって 慕わしく           (10)    

蜜よりも 蜂の巣のしたたりよりも 甘い

あなたのしもべは  これによって 教えられ           (11)

これを守る中に  大きな報いがある

だれが数々のあやまちに気づくことができるでしょう      (12) 

その隠されているものから 私をきよめてください

このしもべの高慢を抑え 支配させないでください       (13)    

それで私は完全にされ 重い罪からきよめられます

この口のことばと心の思いとが 御前に喜ばれますように     (14) 

(ヤハウェ)よ 私の岩 私の贖い主よ

詩篇19篇 「天は語り、みことばは生かす」

                                          2006年10月22日

  「ふたつのものがある。それに思いを巡らし心を集中させればさせるほど、この心をいつも新たな驚異と畏敬の念に満たしてやまない。それは私の上の星が輝く天と、私のうちにある道徳律である」とインマヌエル・カントは言いました。しかし、夜空を見上げることは何と少なく、また自分の心の内を見て失望することは何と多いことでしょう。そんな方のため、この詩は記されているのかもしれません。

この詩篇の美しさは比類のないものです。これに何かの説明を加えること自体が、かえって聖霊の語りかけを減じるようにさえ思われます。ここには言葉にならない語りかけと、人のことばを用いた神のかたりかけの二つが記され、私たちの心を創造主に向けさせます。

1. 天は神の栄光を語る

  「天は神の栄光を語り」とは、夏の夜空に輝く天の川を見て、驚異に身体が震えるような体験を指しています。宇宙が無言のことばで「神の栄光」を語っているというのです。街灯がない時代にはそのような感動の機会は今より多くあったことでしょう。天の川は私たちが銀河系の中心を見ているものですが、この地球がある太陽系は、銀河の端の方にあり、銀河の広さは光の速度で8万5千年の直径があります。ただそれも数億光年の広がりを持つ超銀河の一部に過ぎません。宇宙は広がり続けていると言われますが、その原初の巨大なエネルギーはどのように生まれたのでしょう?その始まりを解明できる科学者はいません。私たちは「自然」ということばを用いますが、宇宙が何もないところに自然に生まれるでしょうか。聖書は、大空に広がる広大な世界を、神の「御手のわざ」と呼びます。

  「昼は昼へと話を取り次ぎ」とは、夜になって今までの世界が暗やみに消えたように見えても、翌日には同じ状態が再び継続して見られることに驚異の念を覚えている表現です。それは、夜空の星に関しても同じことが言えます。私たちの世界では、車が急に動かなくなったり、愛する人が突然いなくなったり、リストラにあったり、会社が倒産したり、などということがあり、明日への不安を抱かざるを得ないことが多くあります。ところが、神の御手のわざは、変わることなく存在し続けています。

たとえば、私はエルサレムでイエスの十字架の道を歩んだとき、そこにある石畳や町並みに二千年前の姿を思い浮かべることはまったくできませんでした。しかし、イエスが歩んだかもしれない海辺で、地中海に沈む夕日を見ながら、イエスもまったく同じ風景を見ていたのだろうかと思い、何とも不思議な感動に包まれたことがあります。多くの人は、それを単なる自然現象と見るでしょうが、何の力も加えずに動き続けるものなどがどこにあるでしょう。

昼と夜の繰り返しは、自然ではなく、神の命令が今日から明日へと語り継がれているしるしです。このことを預言者エレミヤは、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる。もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られる」(33:20,21)と書き記しました。主は、昼と夜の繰り返しや季節の移り変わりを通して、ご自身の真実を私たちに語り続けておられるのです。

それは地球の自転によって起こっていることと説明されても、創造主がすべてを動かしているという現実に変わりはありません。当時の人々は、太陽が天の果てから昇ってきて、天の果てに沈み、夜の間、太陽はどこかに休んでいるように考えました。そればかりか、エジプトではこの太陽を神としてあがめていました。しかし、この詩篇作者は、「太陽のため・・幕屋を」世界の果てに用意された方がいると表現しています。しかも、この詩篇作者は、「神が」ということばを敢えて隠し、また「太陽」ということばも一度しか用いずに、その走る姿を、花嫁を迎えに行く花婿にたとえて、そこに喜びの歌を思い浮かべさせます。また、その熱が何にもさえぎられることなく全世界に及ぶ圧倒的な力に目が向けられます。

 夜空も太陽も無言のままですが、それらすべてが私たちに何らかの驚異の念を起こさせます。そして、この詩篇作者も、敢えて「神が・・」という主語を省いて、ことばを超えた神秘を味わうようにと招いています。世界は、ことばや理屈が多すぎます。何の説明もつけずに、この世界の驚異を味わうときが必要ではないでしょうか。自分が世界を把握しようとするのではなく、これらの被造物を通して、神が発しておられることばにならないことばを味わって見るべきでしょう。

あなたはこの一週間、何を見、また何を聞いてきたでしょうか?人間の知恵と力が作った巨大な建物、また、他の人の成功や失敗、またあなたへの賞賛や中傷ばかりに心を向けると、そこではあなたの存在価値が、まさに「どんぐりのせいくらべ」のなかでなされていることに気づくことでしょう。私たちは、人の働き以前に、神の御手のわざを、ただ静かに味わうときが必要なのではないでしょうか。

自分の歩みを振り返りながら、「何であんな些細なことに心を苛立たせていたのだろう」と思うことがあります。しかし、問題の渦中にいたとき、それが命を賭けるに値する大問題かのように思え、まわりの人を振り回し、愛の交わりを壊してしまったことがあったのかも知れないと思います。それは、この心の視野があまりにも狭くなっていたからです。そんなときは、人里離れたところに行って、神のみわざを見ながら、この詩篇の朗読するのが良いのではないでしょうか。

2.主(ヤハウェ)の語りかけを聴く者の幸い

それにしても人は、世界の驚異を感じるところから偶像礼拝に走る傾向があります。日本でも、人々は、山や太陽や月や星に向って祈りをささげ続けてきました。それで神は、ご自身のことを、聖書を通してしらせてくださいました。7-9節では神のみことばが六種類の表現で、「主(ヤハウェ)の・・」と描かれています。

第一は、「主(ヤハウェ)のみおしえ」です。これは原文で「トーラー」で、新約はそれを「律法」と訳していますが、多くの場合は聖書の始まりのモーセ五書を指すものでした。そこには神ご自身の自己紹介と恩知らずな人間への関わりの歴史が記されています。その中心は、天地万物の創造主がこの私を「恋い慕ってくださった」ということで、その語りかけには人のたましいを生き返らせる力があります。

第二は「主(ヤハウェ)のあかし」ですが、それは「あかしの幕屋、あかしの箱、あかしの板」ということばを連想させ、神ご自身が民に直接語りかけた「十のことば」を意味すると思われます。それはどんな無知な人も理解できる神のみこころの中心で、まさに、無知な者を賢くする力があります。

第三は、「主(ヤハウェ)のさとし」で、これは具体的な「指示」意味します。私たちが物事の本質が見えずに迷っているとき、主は私たちに発想の転換を示し、この心に感動を呼び起こすことができます。

第四は、「主(ヤハウェ)の仰せ」で、これは軍隊の「命令」などにも用いられることばです。世の王は、しばしば自分の身を守るために家臣を危険に追いやりますが、主の命令にはあらゆる私利私欲の汚れから自由な「きよらかさ」があり、私たちの目を明るくすることができます。

第五は、「主(ヤハウェ)への恐れ」で、それは私たちの生きる道を指していると思われます。「主(ヤハウェ)を恐れることは知恵の初め」(箴言1:7)と言われるように、それこそ永遠のいのちの原点です。

第六は「主(ヤハウェ)のさばき」です。人間の歴史の中で「さばき」は、しばしば、権力者に甘く、社会的弱者に厳しいもので賄賂によって曲げられました。しかし、主はやもめやみなしごの味方であると繰り返し語っておられます。自分の弱さを覚える者にとって、「主のさばき」こそは「救い」だったのです。

「金にまさり・・慕わしく、蜜よりも・・甘い」(10節)とは、これら六つの表現すべてにかかります。聖書こそ私たちにとっての最高の宝、心の最高の栄養、活力なのです。そして、「あなたのしもべ(奴隷)」(11節)ということばで、奴隷が主人のことばに絶対服従することとの比較が描かれます。人間の主人は、自分の益のために奴隷を用いますが、私たちの創造主は、これによって私たちを「教え」、ご自身との豊かな交わりを築かせ、そこに大きな報いを約束しておられるのです。

私は神学校で学び始め、涙ながらの感動的な証を聞いたとき、かえって「僕のような生ぬるい信仰者はここにいるべきではない・・」と悩みました。そのときその神学校の創立者がやさしく、「あなたはみことばに感動したことがありますか?」と聞いてくださいました。私は、「もちろんです。それで僕はここに来たのですが・・」と答えました。先生は、「それで十分ではないですか」と言ってくださいました。私の心はどんなに暗く、みじめでも、主(ヤハウェ)のみことばは、そこに愛の火を灯すことができるのです。

3. すべての罪の始めは高慢である

  「だれが数々のあやまちに気づくことができるでしょう」(12節)とは、無意識のうちに犯してしまう神と人とに対する罪とを指します。人は基本的に、他人の過ちには敏感なのに、自分は結構良い人間だと思いこみながら回りの人を振り回し、傷つけたりしていますが、そのことを思いながら、「その隠されているものから 私をきよめてください」と祈ります。

そして、「このしもべの高慢を抑え 支配させないでください」と祈ります。サタンは、「いと高き方のようになろう」(イザヤ14:3)と願って天から落ちた神の御使いのなれの果てであると言われます。また人は、「あなたがたは神のようになる」(創世記3:5)という誘惑に負けて食べてはならないという言われた木の実を取って食べました。ですから、「すべての罪の始めは高慢である」と言われることはまさに真実でしょう。

それにしても、「より強く、より美しく、より賢く、より豊かに・・」と願うこと自体は決して悪いことではありません。「糸の切れた凧」のようにならないように、しっかりと創造主につかまえていていただくかぎりは、そのような向上心こそ、神と人とのために豊かに用いていただくための成長の鍵となります。そこにある落とし穴は、「何のために」という人生の目的を忘れることにあります。人を見下し、神を忘れるような方向に向わないように、「高慢を抑え 支配させないでください」と祈る必要があるのです。そして、私たちがこの根源的な高慢の罪から守られ、自分が、神が創造された世界に包まれ、生かされている存在であることを意識し、また、神のみことばなしには、生きる意味も目的も理解できず、与えられたいのちを真の意味で輝かせることができないことが分かるなら、それこそ神が願う「完全に達したことになります。

そして、そのとき私は、無意識のあやまちばかりか、「重い(意図的な)罪」からも「きよめられ」ます。私たちは、何としばしば意図的に神に逆らい、また人を傷つけてしまうことでしょう。本当の意味で、神のみこころにかなったものを望みたくはない自分がいます。しかし、この詩篇作者は、私たちの心が変えられる根本は、何よりも、「高慢」の問題であると断言します。これさえ神によって取り扱われるなら、私たちの人生は変えられるのです。

そして最後に、「この口のことばと心の思いとが 御前に喜ばれますように」と祈りますが、作者ダビデは、別の詩篇で、神の御前に喜ばれるのは、何かの大きな働きよりも、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」(詩篇51:7)と述べています。高慢を砕かれた心こそが、神の御前で喜ばれるものなのです。思い通りにならなかった人間関係や様々な苦しみの中で、「どうして・・」と思うことも多くあります。しかし、それらがなければこの私は自分の罪も神の恵みも知ることができなかったように思います。最後に、「主(ヤハウェ)」の御名を七度目に呼びながら、その方こそが、私がより頼むべき「岩」、人生の基盤であり、また、私をこの罪と不条理に満ちた世界からの「贖い主」であると告白します。

ところで、私たちは自分の頭上に広がる広大な宇宙を見上げながら、「この銀河系は六十億年後にはもっとも近いアンドロメダ銀河と衝突することになる」などと、天体の法則を分ったようなつもりになって、なお高慢になることがあります。また、モーセ五書を読んで感動する代わりに、「私はこの難解な書の本質を理解し、良い本を書けた・・」などと高慢になることがあります。それは天に目を向ける代わりに、それを見ている自分を意識し、また聖書に没頭する代わりに、それを読む自分に目が向っているからです。

アシジのフランシスコは、父親から受け継ぐことができる財産をすべて放棄して、粗末な毛皮一枚の裸に近い状態になったときに、神が創造された世界の美しさに心から感動して、喜びに踊りだし、そればかりか、この世界全体が神への賛美を奏でているその声を聞くことができたといわれます。

私たちも、自分が持っているものではなく、神が一方的に日々与えてくださっている恵みにこそ目を向けたいものです。そのために、私たちは、これらの意味を頭で考えるよりは、この詩を口ずさみ、歌うべきではないでしょうか。

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2006年10月16日 (月)

Ⅰサムエル19-21章 「信仰と友情」

                                          2006年10月15日

  ヨナタンは、ダビデのゴリヤテとの戦いの様子を見て、友としての契約を結びました。それは王子である彼の主導で始まった恵みでした。「逢うは別れの始め」というように彼らの友情もはかないものに見えたかもしれませんが、それはダビデのその後の歩みに決定的な意味を持っていたのではないでしょうか。たとい友と別れたとしても、信頼関係を築くことができたという恵みの体験が明日への力となるからです。

1.「ダビデは逃げ、のがれて・・・」

  ダビデの評判が高まるにつれ、サウルは彼を恐れ、ついに「ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げ」(19:2)るに至ります。「しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデを非常に愛していた」ために、ダビデに身を隠すように勧めるとともに、父に向って、「彼が自分のいのちをかけて、ペリシテ人を打ったので、主(ヤハウェ)は大勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て、喜ばれました」(19:5)と、サウルがダビデの勝利を主の勝利と喜んでいたことを思い起こさせました。そのときサウルは、「主(ヤハウェ)は生きておられる。あれは殺されることはない」(19:6)と応答し、生ける主を恐れることを約束します。そして、このヨナタンのとりなしによって、ダビデは王宮に戻ることができました。

  ところがダビデがペリシテ人との戦いで戦果をあげると、「わざわいをもたらす、主(ヤハウェ)の霊(原文:「悪い、ヤハウェの霊」)がサウルに臨んだ」(19:9、参照16:14)というのです。それはサウルの心を恐怖心で満たすもので、神が彼に「わざわいをもたらす」ためというより、ご自身のもとに立ち返らせようとの招きとも言えます。事実、私たちは恐怖心を抱くときにこそ、真剣に神を呼び求めるということがあるからです。

このときダビデは、少し前、槍で突き刺されそうになったにも関わらず(18:10)、再び「琴を手にして」、サウルを慰めようとしました。彼は、自分の演奏がサウルから悪い霊を引き離すのに効果があったことを思いながら、命の危険を賭したのですが、サウルはまたも槍を向けました。その心は癒しがたいほど神から離れていたからです。ここに、ダビデの心の真実とサウルの不真実の対比が際立たせられます。

そして、ここからダビデの長い逃亡生活が始まります。彼は神に向かって、「彼らは、善にかえて悪を、私の愛にかえて憎しみを、私に報いました」(詩篇109:5)と祈ったことでしょう。しかし、ダビデの生涯を見るときに、そのような不条理も、すべて全能の神の御手の中で起こっていたことが明らかにされます。

そして、「ダビデは逃げ、のがれて」(19:18)という表現とともに、自分に油を注いでくれたサムエルのもとに行ったことが記されます。そこは王宮から5キロも離れていない危険な場所でしたが、それは苦しみの中で神を自分の「隠れ場」また「避け所」とした姿勢を表します(詩篇91篇)。不思議なのはサウルが彼らのもとに追っ手を遣わすと、三度に渡って遣わされた使者が「預言した」というのです(19:20,21)。そればかりか、サウル自身もそこに近づくと、「彼にも神の霊が臨み・・着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れ」(19:24)ました。サウルはいつも人の目を恐れ、尊敬されることを願っていましたが、このとき彼に臨んだ神の霊は、彼をそれから自由にできたのです。神はダビデを守るためにサウルの心を恍惚状態にしました。しかし、それはサウル自身が願ったことではなかったので、一時的な現象で終わってしまったのでしょう。私たちのこの世の人生には、苦しみや悩みはつきものですが、神を避けどころとするときに、神は私たちの敵の心から悪意を一時的にでも取り去ることができるのです。

2.「ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していた」

  ところでダビデは、自分がサウルから命を狙われる理由が納得できません。それで彼はヨナタンのもとに来て、「私がどんなことをし・・どんな咎があり、どんな罪を犯したので・・・」(20:1)と熱く尋ねます。ヨナタンは父サウルの善意をまだ信じ、安心させようとしますが、ダビデは「主(ヤハウェ)とあなたに誓います。私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」(20:3)と答えます。それにヨナタンは、「あなたの言われる(原文「欲する」)ことは、何でも・・しましょう」(20:4)と、愛の模範の応答をします。ダビデは、新月の祭りの大切な食事に、家臣でありながら欠席し、それに対するサウルの反応を、ヨナタンを通して知りたいと願います。ダビデは、まだサウルが一時的な気の迷いで自分のいのちを狙っていると信じたかったのかも知れません。その上で、「もし、私に咎があれば、あなたが私を殺してください」(20:8)とまで願います。それは真の友は、命をかけてでも友の過ちを正すという責任があることを示唆しています。

  ヨナタンは、ダビデに咎はないと信じた上で、サウルがダビデを害しようとするとき、「あなたを無事に逃がしてあげなかったなら、主(ヤハウェ)がこのヨナタンを幾重にも罰せられるように」(20:13)と誓います。その際、「主(ヤハウェ)が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように」という不思議な祝福を述べます。そこには、ダビデがイスラエルの王となることをも受け入れるという思いがあります。彼は、父サウルが咎のないダビデを敵にすることで神を敵とすることが分っていました。それで彼は、「主(ヤハウェ)の恵みを私に施し・・・あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください」と願いつつ、「ダビデの家と契約を結び」ます(20:14、15)。「恵み」とは「忠実な愛、変わらない愛」とも訳される言葉で、神の真実が人と人との関係に表されることを願うものです。また彼が誓った「主(ヤハウェ)がダビデの敵に血の責めを問われるように」(20:16)とは、ダビデの家の祝福を願うばかりか、自分の父の家に対する神のさばきを受け入れることばで、「ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していた」ことの証しです(20:17)。 

  ヨナタンはダビデに三本の矢を用いた印を約束します。ダビデが野に隠れ、ヨナタンが新月祭の食事に集うと、二日目にサウルはダビデの不在の理由をヨナタンに尋ねます。彼がダビデの弁明をすると、サウルは息子を口汚くののしりながら、「エッサイの子(ダビデ)がこの地上に生きているかぎり、おまえもおまえの王位も危うくなるのだ」(20:31)と言いました。それは利害関係の事実ではあっても、ヨナタンには受け入れ難いことばです。彼は「怒りに燃えて食卓から立ち上がり」(20:34)、約束通りダビデにこのことを知らせに来ます。ダビデは地にひれふし三度礼をし、「ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣きます」(20:41)。そのときヨナタンは、命がけでダビデを逃がす気持ちを込めて、「では、安心して行きなさい・・」(20:42)と別れを告げます。ダビデは後にヨナタンの死を悼んで、「あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった」(Ⅱサムエル1:26)と言います。最近の世は、男女の愛ばかりを称賛し、友情の価値を忘れているとも言われます。ふたりは結婚の誓約のように、「主(ヤハウェ)の御名によって誓った」(20:42)のですが、この友情こそがダビデ王国の基礎となりました。イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)と言われましたが、このような関係をこそ「求める」べきでしょう。

  ダビデはこの後、様々な試練の中で、主との交わりを深め、詩篇という永遠の宝を残すことができました。しかし、その背後に、ヨナタンが、自分の王位継承をあきらめ、肉親の情を犠牲にしてまでダビデを守ったという真実の愛があったことを忘れてはなりません。見えない神への愛は、見える人の愛によって育まれるという現実もあります。「ふたりはひとりよりもまさっている」(伝道者4:9)とは、本来結婚の勧めではなく、何よりも、友を持っていない人の悲惨を述べたことばでした。多くの人々は、結婚を願う以前に、真の友情を築くことをこそ願うべきではないでしょうか。その模範がダビデとヨナタンに見られます。

3. ダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい・・

 ダビデはその後、当時の神の幕屋が置かれていた町ノブを訪ね、祭司アヒメレクに対し自分が王から追われていることを隠しながら、パンを求めます(21:3)。アヒメレクは、本来祭司にしか食べることが許されないはずの聖別されたパンを彼に与えます(21:4)。イエスは後に、これを柔軟な律法解釈の模範として引用します(マタイ12:3,4)。神は、何よりもダビデの訴えに耳を傾けたいと願っておられたからです。しかも、そこにはゴリヤテの剣が置いてあり、祭司はそれをも彼に与えました。サウルは後にアヒメレクが彼に味方したことを理由にこの祭司の一族を殺しますが、それはダビデの嘘が生んだ悲劇でもあります。

ところで、ラマにしても祭司の町ノブにしても、王宮から半径五キロぐらいの近距離でした。それで彼は今度、仇敵であるペリシテの町ガテに逃げます。すると町の王アキシュの家来たちは、「この人は、あの国の王ダビデではありませんか」(21:11)と、逃亡者を「あの国の王」とさえ呼びました。ダビデはペリシテの地においてさえも評判になっており、隠れることができる町は、どこにもなくなっていたのです。そして今、勇士ダビデは、「気が違ったかのようにふるまい、とらえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したり」(22:13)します。アキシュはそれを見て、「私に気の狂った者が足りないとでもいうのか・・・」と家来に皮肉を言いながら彼を逃がします。彼は後に六百人の家来を連れてこの同じ王の下に身を寄せますが、このときほど孤独だった時期はなかったのではないでしょうか。

しかし、ダビデはこのときに詩篇34篇を記し、最も苦しかったときを思い起こしつつ、「私はあらゆるときに主(ヤハウェ)をほめたたえる」と歌い、また、よだれをたらして敵の目をあざむいたことを振り返りながら、「主を仰ぎ見る者は輝く」と歌い、また味方が誰もいなかった中でも「主の御使いは、主を恐れる者のまわりに陣を張り・・」と告白し、それをもとに「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」と訴えます。

ダビデは、主に信頼する姿勢においてヨナタンの心をとらえはしましたが、ヨナタンがダビデと友の契約を結び、その真実を示していなかったとしたら、彼があれほどの不安な状況に耐えつつ、人間的な打算を超えてサウルへの復讐を思いとどまりながら、目に見えない神への正直な訴えと信頼の歌を残すことはできなかったかもしれません。ダビデの信仰の背後に、ヨナタンの友情があります。この後、ダビデのもとには次々と新しい仲間が加わります。それは敵の家の息子とさえ真実な交わりを築くことができたことの実とも言えないでしょうか。神への信仰と人との友情は輪のように循環しながら成長するものです。

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2006年10月 1日 (日)

Ⅰサムエル16-18章 「おびえるサウルと主にまっすぐなダビデ」

                                                                                                                                                     2006年10月1日

   「悪霊」が、「神の霊」と呼ばれている箇所があります。何とも不可解ですが、聖書全体のストーリーの中でサウルの生涯を見ようとするとき、そこから深い真理を知るきっかけになります。一方、それと対照的なのがダビデです。彼は、人が見るようにではなく、主が見られるように、世界を見ることができました。

1. 主からの、わざわいの霊がサウルをおびえさせた

初代の王サウルは、自分が主の一方的な恵みによって選ばれ、立てられたことを忘れ、主を恐れるよりも民が離れることを恐れ(13:11)、主の御声よりも民の声に聞くことを優先しました(15:22,24)。それで主は彼を「王位から退けた」(15:26,16:1)のですが、人の目からは彼の王権は強くなるばかりで、任職したサムエルですら命の危険にさらされていました。そのような中で、主は彼に、「ベツレヘム人エッサイの・・息子たちの中に、わたしのために、王を見つけた」(16:1)と言い、新しい王を立てるために遣わされました。

サムエルは長男エリアブの「容貌や、背の高さ」(16:7)を見て、王にふさわしいと思いました。しかし、主は彼に、「わたしは・・人が見るようには見ない・・人はうわべを見るが、主(ヤハウェ)は心を見る」と言われます。確かに、サウルは「イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった」(9:2)のでしたが、そのとき主は、「うわべ」を見たのではなく、滅びかかったベニヤミン族から選ぶということにおいて、「人が見るようには見ない」ということを明らかにしておられました。

主は、今度は最大部族ユダの家から選びますが、ダビデは貧しいエッサイ家の八男、末子に過ぎず、父さえも「あれは今、羊の番をしています」(16:11)と食事の席に招かなかったほど「小さい者」でした。しかし、彼は、「血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱ」(16:12)という素質も見られました。そして、主はその彼を王として選び、彼の上に油を注がせます。すると「主(ヤハウェ)の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」(16:13)のですが、これはサウルの場合と同じでした(10:6、11:6)。つまり、ふたりの王とも、主の一方的な選びによって、主のための王として立てられ、主の霊を受けて王として整えられたのです。

ここで、「主(ヤハウェ)の霊はサウルを離れ、主からのわざわいの(原文『悪い』)霊が彼をおびえさせた」(16:14)と記されます。家来はそれを「悪い神の霊」(16:15、16原文)と呼び、著者も短く「神の霊」(16:23)とさえ呼びます。「悪い霊」が、「神の霊」と呼ばれるのは何とも不思議ですが、「主(ヤハウェ)の霊」、つまり「聖霊」とは明確に区別されています。実はこれはレビ記26章の預言、主は、「もし、あなたがたがわたしに聞き従わず・・わたしの契約を破るなら、わたしもまた・・あなたがたの上に恐怖を臨ませ・・心をすり減らさせる・・・吹き散らされる木の葉の音にさえ・・追い立てられる」(14-16,36節)が実現したものです。新約だけを読むと、悪霊の働きを神の敵とだけ見て、悪霊をおびえることがあるかもしれませんが、旧約では「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出る(哀歌3:38)と、主の絶対的な支配が何より強調されます。主のさばきの御手は、私たちに主だけを恐れるべきことを教え、みもとに招こうとする「愛」でもあります。

   これに対し家来は、「じょうずに立琴を弾く者を捜させてください。悪い(わざわいをもたらす)、神の霊があなたに臨むとき、その者が琴を弾けば、あなたは良くなられるでしょう」(16:16)という対処療法しか進言できませんでした。これは三千数百年前の音楽療法の起源とも言われます。ただその際、ダビデは、琴がじょうずで勇士であり、戦士です・・・」(16:18)と不思議な紹介をされ、演奏の技術ばかりではなく、「主(ヤハウェ)がこの人とともにおられる」ことのゆえに招かれているということを忘れてはなりません。そして、不思議にも、彼が「立琴」(リラ)を演奏すると、「サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの(悪い)霊は彼から離れた」(16:23)というのです。なお、「立琴に合わせて・・なぞを解き明かそう」(詩篇49:4)とあるように、ダビデは同時に、主のみわざを歌ったのではないでしょうか。つまり、彼の賛美に合わせて、サウルの心が主に向けられた結果として、元気を回復できたということではないでしょうか。悪霊は、主のご支配の下にあります。悪霊ではなく、主(ヤハウェ)を恐れ、主を賛美することこそすべてのいやしの元です。

2. 主の戦いとして、ゴリヤテを打ち倒したダビデ 

ペリシテとイスラエルの軍隊が、エルサレムの西25キロぐらいにある谷をはさんで対峙したときのこと、ペリシテの巨人ゴリヤテ(身長286cm、鎧の重さ57kg)がイスラエルを軽蔑し、挑戦者を求めてきました。そして、「サウルとイスラエルのすべては・・意気消沈し、非常に恐れた」という状況が四十日間も続きます(17:11,16)。そのとき、ダビデは、父の使いで、陣営の兄たちを訪ね、彼のあざけりの声を耳にして、「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは」(17:26)と言います。ダビデは、目の前の出来事を、「人が見るようには」ではなく、主の視点から見ることができていました。なお、長兄のエリアブの反応を見ると(17:28)、主が「彼を退けている」(16:7)と言われた理由がよくわかります。

これを伝え聞いたサウルはダビデを呼び寄せますが、彼は、「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう」(17:33)と言います。そのときサウルは、「あなたはまだ若い・・・」(17:33)と言いますが、ダビデは、自分が獅子や熊の口から羊を救い出してきた体験を、「生ける神」(17:36)の救いのわざと説明し、その同じ(ヤハウェ)は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます(17:37)と断言します。サウルは自分の鎧と剣を貸しますが、ダビデはそれに慣れていないからと脱いで、「自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて・・羊飼いの使う・・投石袋に入れ、石投げを手にして」、ゴリヤテに近づきます(17:40)。彼はそれを嘲りますが、ダビデにとって「この戦いは(ヤハウェ)の戦い(17:47)でした。そして彼は、「石投げとひとつの石で、このペリシテ人に勝った」(17:50)のです。私たちにとっての「五つのなめらかな石」とは何でしょうか。それは、「御霊の与える剣である、神のことば」です(エペソ6:17)。それは当時としては、モーセ五書を意味しました。

  とにかくダビデの勝利をきっかけにしてペリシテ人が敗走しますが、それはかつてのヨナタンのときと同じように、「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、(ヤハウェ)ご自身が・・・あなたがたのために戦われるからである」(ヨシュア23:10)という約束の真実を見ることができます。

  ところで、17章55節からサウルがダビデを知らないかのような表現がありますが、かつて「サウルは彼を非常に愛し、ダビデはサウルの道具持ちとなった」(16:21)と記されていたので何とも不思議ですが、サウルはゴリヤテを殺す者に王の娘を与え特別待遇を与えると約束していましたから(17:25)、この期に及んで真剣にダビデを知ろうとしたのかもしれません。サウルは、わざわいの霊でおびえると立琴を奏でる者を求め、ゴリヤテを見ると大きな報酬で勇士を募ろうとするように、場当たり的な解決しか考えません。彼は、目の前の問題ばかりを見て、琴を奏でて癒してくれる者を愛していたのであって、ダビデ自身を見てはいなかったのでしょう。一方、音楽による癒しと大きな敵との戦いという対照的な必要に応えられたのは若いダビデだけでした。彼の心はまっすぐに主に向けられ、行動には一貫性がみられました。

3. サウルはダビデを恐れた

  「ヨナタンの心はダビデの心に結びついた」(18:1)のは、ふたりの戦い方が似ていたからでしょう。しかも、「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」(18:1,3)ということばが繰り返され、「ヨナタンはダビデと契約を結んだ」と記されます。これは互いのために命を捨て合うという真の友としての約束だと思われます。そしてヨナタンは、自分の王子としての誇りの象徴、上着や武具のすべてをダビデに与えます。

  一方、サウルは彼を「戦士たちの長」として任じながら、女たちが、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌っているのを聞いて「非常に怒り・・ダビデを疑いの目で見るように」なります(18:5-9)。そればかりか、「悪い(わざわいをもたらす)、神の霊が激しくくだり、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが・・・サウルは槍を投げつけた」(18:11)というのです。息子ヨナタンは王子の誇りを分かち合うほどの友情を築く一方で、その父で王である者が家来ダビデの戦勝報告を聞いて「彼を恐れた」(18:12、15)というのです。それは「主(ヤハウェ)はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたから」(18:12)と記されます。彼は心の奥底でサムエルから告げられた主のさばきを恐れていたのかもしれませんが、それならば、彼が直面すべき相手はダビデではなく主ご自身でした。 

サウルはその後、ダビデの勝利への報酬を一度は反古にし、娘ミカルの花嫁料の代わりに、「ペリシテ人の陽の皮(割礼によって切り取る男性性器の包皮の皮)百だけを望んでいる」(18:25)と伝え、彼を敵の手で倒そうと計画します。しかし、彼はその二倍の要求をすぐに果たします。その結果、「サウルは、主(ヤハウェ)がダビデとともにおられ・・娘ミカルがダビデを愛しているのを、また、知った。それで・・ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった(18:28,29)というのです。サウルはダビデを恐れ、彼の敵となったのですが、それは彼自身が、主の代わりに人を恐れ、神を敵にまわしたことの結果でした。彼に求められていたのは、ダビデの成功をねたむ代わりに、神に立ち返ることだったのです。 

サウルは、「主からの」悪い霊によって「おびえ」、自滅への道を進みます。私たちがダビデと同じ「主(ヤハウェ)の霊」を受けたのは、「律法を行なったからではなく、信仰をもって聞いたから」(ガラテヤ3:3)です。サウルのような場当たり的な解決ではなく、信仰の原点、「聞く」ことに立ち返る必要があります。御霊はみことばを聴く中で働き始めます。そして、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(Ⅱテモテ1:7)とあるように、私たちはサウルをおびえさせた霊ではなく、ダビデを動かした主の御霊を受けており、すべての働きは、主の御霊によって完成に導かれるのです。 

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