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2006年11月26日 (日)

詩篇 18篇 

      指揮者のために。主(ヤハウェ)のしもべダビデが、主(ヤハウェ)に向ってこの歌のことばを語った。

主が彼のすべての敵の手とサウルの手から彼を救い出された日に、彼はこう言った。

主(ヤハウェ)、私の力よ。あなたを私は慕う。                              (1)

主(ヤハウェ)は、私の大岩、砦(とりで)、救い主、                           (2)   

私の神、身を避ける岩、盾、救いの角、砦の塔(とう)。

 このように誉むべき方、主(ヤハウェ)を呼び求めると、私は敵から救われる。        (3)

死の綱が私にからみつき、滅びの川は恐怖をもたらし、                            (4)

よみの綱は取り囲み、死のわなが迫ってきた。                          (5) 

その苦しみの中で、主(ヤハウェ)を、私の神を呼び、助けを求めた。                   (6)           

 主はその宮でこの声を聞かれ、叫びは御前に、御(おん)耳に届いた。

すると地は揺れ動き、山々の基(もとい)も震え揺れた。主がお怒りになったのだ。       (7)   

  煙は鼻から立ち上り、御口からの火が焼き尽くし、炭火が燃え上がった。         (8)       

主は、天を曲げ、降りて来られた。暗やみを足台として。                    (9)

 ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられ、                    (10)      

やみを隠れ家としてめぐらし、暗い雨雲、濃い雲を仮住まいとされる。           (11)

 御前の(栄光の)輝きから、蜜雲が雹(ひょう)と火の炭を伴って突き進む。         (12)

主(ヤハウェ)は天に雷鳴を響かせ、                                  (13)

 いと高き方は、雹(ひょう)と火の炭を伴い御声を発せられた。

主は、矢を放ち、彼らを激しい稲妻でかき乱された。                      (14)   

 主(ヤハウェ)の叱責、鼻の激しい息吹で、水の底が現れ、地の基があらわにされた。   (15)

 

主は、はるかに高い所から御手を伸べて私をつかみ、                      (16)

深い大水の中から引き上げ、             

強い敵と私を憎む者から、救い出してくださった。                         (17) 

彼らは、私には強過ぎたから。     

彼らは、災いの日に私に立ち向かって来た。                            (18) 

しかし、主(ヤハウェ)は、私の支えであった。        

主は私を広い所に連れ出し、助けてくださった。                          (19)

それは、主が私を喜びとされたから。 

主(ヤハウェ)は、私の義に応じて報い、手のきよさに応じて返してくださった。         (20)

  それは、私が主(ヤハウェ)の道を守り、私の神に対し悪を行わなかったから。          (21)   

主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけなかった。            (22)

  私は主の前に完全であり、罪から身を守った。                                 (23)

主(ヤハウェ)は、私の義に応じて、                                           (24)   

(おん)目の前の私の手のきよさに応じて、返してくださった。   

あなたは、真実な者には真実であられ、完全な者には完全であられ、           (25) 

  きよい者にはきよく、ひねた者にはご自身を隠される。                  (26) 

あなたは、貧しい民を救ってくださるが、                            (27)

高ぶる目は、低くされる。 

              

あなたは私の灯火(ともしび)を灯され、                                (28)

主(ヤハウェ)、私の神は、私のやみを光とされる。     

あなたによって私は軍勢に立ち向って走り、                            (29)  

 私の神によって城壁を飛び越える。

神の道は完全、主(ヤハウェ)のみことばは純粋。                           (30)     

 主は、主に身を避けるすべての者の盾。                                          

まことに、主(ヤハウェ)のほかに、だれが神であろうか。                      (31) 

 私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。

神こそ、私に力を帯びさせ、私の道を完全にし、                               (32)

  私の足を雌鹿(めじか)のようにして高い所に立たせ、                     (33)

戦いのために私の手を鍛(きた)え、                                   (34)                                              

 私の腕を青銅の弓をも引けるようにしてくださる。

あなたは救いの盾を私に授け、右の御手で私を支え、                      (35)   

私を大きくするために低くなってくださった。

あなたは私の歩幅を広くしてくださった。                                        (36)

私のくるぶしはよろけず、                  

私は敵を追って捕らえ、絶ち滅ぼすまでは引き返さず、                      (37)

彼らが立てないほどに打ち砕き、足もとに倒れさせた。                  (38)

あなたは私に戦いのための力を帯びさせ、立ち向かう者をひれ伏させ、           (39)

敵が私に背を向けるようにされたので、私は私を憎む者を滅ぼした。            (40)

彼らが叫んでも救う者はなく、                                               (41)

主(ヤハウェ)に叫んでも、答えはなかった。

私は、彼らを風の前のちりのように打ち、                                      (42)

 道のどろのように除き去った。

あなたは、民の攻撃から私を助け出し、国々のかしらに任じてくださった。           (43)

 私の知らなかった民が私に仕える。

彼らは耳で聞くとすぐ私に聞き従い、外国人らは私にへつらう。                   (44)

  外国人らは気力を失い、砦から震えて出て来る。                             (45)

主(ヤハウェ)は、生きておられる。                                             (46)

私の岩が誉められ、私の救いの神があがめられるように。

神は、私のために復讐し、諸国の民を私のもとに従わせ、                       (47)

 敵から助け出し、攻め来る者より高く上げ、暴虐から私を救い出してくださる。       (48)

それゆえ、国々の中で私はあなたをほめたたえ、                          (49)    

主(ヤハウェ)よ、御名を、ほめ歌う。                        

主は、王の勝利を大きくし、                                       (50) 

 油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに真実を示してくださる。

                                              (2006年 高橋秀典訳)  

注:23,25節の「完全」は、この世的な完全さとは異なるが、原文のもっとも直接的な訳語として採用した。

25節の「真実」とはヘブル語の「ヘセッド」に対応し、「恵み」とか「慈しみ」とも訳されるが、本来持っている契約を守り続ける愛を表現するためにこのように訳した。

26節の原文は、「ひねた(曲がった)者は、曲がりくねらせる」だが、その前の三つの対応と異なり、似た意味の異なったことばを対応させている。それで、ここでは「ご自身を隠される」と意訳してみた。

詩篇18篇 「主が私を喜びとされたから」

                                                          2006年11月26日

 私たちは聖書の教えをこの世を超越したきれいごとにしてしまうことがないでしょうか。天国への希望を語り合うことは何よりも大切ですが、それがこの世へのあきらめとなり、人から不当な仕打ちを受けながらも、その痛みを心から神に訴えることができなくなるとしたら残念です。主はあなたの現実の中に降りてきてくださったのですから。

1.「主は、天を曲げ、降りて来られた」

  この詩篇の標題は異例に長いもので、同じ歌はⅡサムエル22章にもあり、ダビデの生涯の総まとめ的な意味があることが分ります。彼はサウル王に命を狙われ、同胞のユダ族からも裏切られ、明日の命が分らない緊張の中に長い間、放置されました。そのような中で彼は最初に、「あなたを私は慕う。主(ヤハウェ)、私の力よ。(英語ではしばしば、I love You, O Lord, my strengthと訳される」(1節)と歌います。そして、主こそが自分を強力な敵の攻撃から守ってくださることを様々なことばで表現します(2,3節)。そこには、彼が岩山や洞窟などに身を隠し続けてきた体験を垣間見ることができます。あなたの生活の中では、主の守りは、どのようなことばで表現できるでしょうか。

ダビデは死と隣り合わせに生きる恐怖の中で、(ヤハウェ)の救いを必死に求めます(6節)。そして、その叫びが天の主の宮に届いたとき、主はダビデの敵に対して地と山々を震わせるほどの「怒り」を発せられます(7節)。その激しさが擬人的に、鼻からの煙、口からの火と表現されます(8節)。このとき主は、「わたしの愛するダビデに向って、何ということをするのか!」と怒っておられるかのようです。それは、主がダビデの味方となっておられるからです。

そればかりか、天の上に座しておられる主が、この世界のただ中に、「降りて来られた」(9節)というのです。主の栄光は「真っ黒な雲」(出エジプト14:20)で現され、主がシナイ山に降りてこられたときには全山が火山になったように激しく震えましたが、主が近づいてこられるとき、人間の理解を超えた暗黒と輝き、雹と火の炭という相反する現象が同時に迫ってきます(11,12節)。そして、矢と稲妻による攻撃は、ダビデの敵の側に向けられます(14節)。そこには、主が、イスラエルのためにエジプト軍を海の底に沈めたことを思い起こさせる表現が用いられます(15節)。

多くの人々は、「神のさばき」を自分に向けられるものと考えがちです。しかし、イエスが不正な裁判官のたとえで教えておられることは(ルカ18:1-7)、社会的弱者であるひとりのやもめが、「私の相手をさばいて、私を守ってください」とひっきりなしに訴えるなら、「人を人とも思わない裁判官」であっても彼女を守るためにさばきを下すということでした。そして、それをもとイエスは、「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」と、祈る者への神の救いを保証されたのです。

私たちの住む世界には、今も昔も、権力者の横暴があり、様々な理不尽が蔓延してはいないでしょうか。そして、あなたが切羽詰ったとき、初めに誰に助けを求めるのでしょう?昔、私が会社を辞めようとしたとき同じ大学の出世頭の先輩が私を心配して訪ね、「誰か君に理不尽なことをする上司がいるのか?」と私から聞きだそうとしてくれました。伝道者になりたいなどということが理解できなかったからです。それにしても、私はそのとき、嬉しさと同時に恐ろしさを感じました。私の先輩はさばきをつける力を持っていましたが、それを通して親分子分の関係が強められることが分かっていたからです。私の先輩は公正な人でしたが、とんでもない親分に従って不正の片棒を担がされてしまう人がいるかも知れません。全能の神にまず訴え、神が遣わしてくださる人を見定めるべきでしょう。

私たちも、「苦しみの中で、主(ヤハウェ)を、私の神を呼び、助けを求め」(6節)ます。すると、「主は、天を曲げ、降りて来られる」のです(9節)。私たちの救い主イエスこそは、この世界の人々の叫びに応えて、天を曲げて降りてこられた方でした。しかし、そのとき救い主は、栄光の雲に包まれて降りてこられたのではなく、ひ弱な赤ちゃんとして処女マリヤから生まれてくださいました。それは罪人たちに対するさばきを遅らせるためでした。そればかりか、イエス・キリストご自身がこの世の権力者による不当なさばきを受け、父なる神に助けを求める立場になってくださいました。そして、イエスの十字架の死の苦しみからの叫びは父なる神に届き、彼は死の中から三日目によみがえったのです。イエスの復活こそは、この世のすべての理不尽な苦しみへの出口を指し示すものです。

2.「主は私を広いところに連れ出し・・・」

  主の救いは、「はるかに高い所から御手を伸べて私をつかみ、深い大水の中から引き上げる」16節)と表現されます。「大水」とは、敵対するこの世の力の比喩ですが、「彼らは私には強すぎ」るからこそ(17節)、主は無力な私たちを引き上げ、激しい迫害の中でも支えてくださいます(18節)。そしてそれらをまとめて、「主は私を広い所に連れ出し、助けてくださった」(19節)と表現されます。それはダビデにとって、洞窟に隠れる生活から、広い緑の野を自由に歩き回ることができるようになることでした。同じように私たちも、敵の攻撃から身を隠す必要のない自由の中に置いていただけます。そして、そのように主が私を特別に扱ってくださる理由が、「それは、主が私を喜びとされたから」(19節)と表現されます。これは「気に入る」とも訳されることばです。確かにダビデには驚くほどの心の素直さがありましたから気に入られて当然かもしれません。しかし、キリストにつながる私たちに対しても、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ4:5)と言われています。神の御霊によってイエスを主と告白している人はすべて、「神のお気に入り」なのです。そのことを前提にパウロはローマ人への手紙で、「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)と大胆に語っています。

  それにしても「主は、私の義に応じて報い、手のきよさに応じて返してくださった・・・私は主の前に完全であり、罪から身を守った」(20-24節)という告白は大胆です。これは特に、ダビデが二回もサウルの命を奪うことができる好機をつかみながら、彼を「主に油注がれた方」と呼んで、手を下さなかったことを指すと思われます(Ⅰサムエル24章、26章)。そのときダビデは、「主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます」(同26:23)と言って、主のさばきに委ねました。ただ、この後、彼がペリシテにまで逃亡せざるを得なかったことを考えると、これは損な選択でしたが、神はそれをあり余る形で「返してくださった」のです(24節)。それを前提に彼は、「あなたは真実な者には、真実あられ、完全な者には完全であられ」(25節)と告白します。とにかく彼は、神の前に何よりも真実であろうとしました。しかも主は、「ひねた者にはご自身を隠される」(26節)のですから、正直さこそ祝福の鍵でした。

  ところで、「完全」とは、いけにえとして神に受け入れられるような状態を指し、この世が期待する完全とは異なります。「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)とあるように、自分が神の助けなしには生きてゆけないという「弱さ」を自覚する心こそが「完全」です。ダビデは数々の過ちも犯しました。しかし、神に対する彼のまっすぐさを、神は喜んでくださったのです。そして、今、あなたも自分はイエスの十字架の赦しなしには受け入れられない罪人であるということを意識しているという意味で、「神のお気に入り」になっているのです。

  今あなたに問われていることは、「主が私を喜びとされた」という「愛」に応答して生きることです。あなたは、愛する人のために贈り物を選ぼうとするとき、愛する人の笑顔を思い浮かべながら、いろいろと迷いつつ思いを巡らすことでしょう。パウロは、「私たちの念願とするところは、主に喜ばれること」(Ⅱコリント5:9)と言いました。「神のお気に入り」とされているという誇りを持ちながら、何をすることが主に喜ばれることかを思い巡らすべきでしょう。

3.「あなたは、私を大きくするために、低くなってくださいました」

  神は私たちを造り変え、「私の灯火を灯し、私の闇を光と」(28節)され、「世界の光」としてくださいます。そればかりか、「私の足を雌鹿のようにして高い所に立たせ」「戦いのために私の手を鍛えて」くださいます(33,34節)。それで、私たちは、敵の前から軽やかに逃げることも、また反対に、愛する人を守るために命を賭けて戦うこともできます。パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです」(ピリピ4:13)と告白しました。

「あなたは・・私を大きくするために低くなってくださいました」(35節)、または「あなたの謙遜は、私を大きくされます」(同新改訳)とは、「主は、天を曲げ、降りて来られた」(9節)ことを指します。誤った謙遜によって、主があなたを「大きく」用いてくださることを忘れてはなりません。神の御子が、ご自身を貧しくしてこの地に降りて来られたことの目的は、あなたをご自身の代理大使として整えて世に遣わし、神の平和をこの地に実現するためです。そして、「あなたは私の歩幅を広くされました」(36節)での「広く」とは、19節の「広い所」と同じ語源の言葉です。神があなたを「広い所」に連れ出されるのは、「広い歩幅」で歩かせ、働きを全うさせるためです。37-40節の残酷な表現は、キリストが罪人のためいのちを捨てられた現在には適用できませんが、中心的な意味は、神から与えられた使命を中途半端に終わらせないということです。また、サタンとの戦いにおける妥協を戒めたものとも理解できます。神はあなたの「歩幅を広くして」くださったのですから、「私なんかどうせ・・」という発想から自由になりたいものです。

「彼らが叫んでも救う者はなく、主(ヤハウェ)に叫んでも答えはなかった」(41節)とは、サウルの悲劇を表わしています。彼は主の沈黙に耐えられなくなって霊媒師の助けまで求めて、自滅して行きました。一方、神に助けを求め続けたダビデは「国々のかしらに任ぜられ」(43節)、異教徒をもひざまずかせる権威を授けられました。そして主は私たちそれぞれをダビデの子孫とし、キリストとともにこの地を支配する王と定め「御使いたちをもさばくべき者」(Ⅰコリント6:3)としての権威を約束してくださいました。あなたはそれを理解しているでしょうか。自分を小さく見すぎることは、あなたを選び、あなたをこの世に派遣しておられるイエス・キリストに失礼な態度でもあるのです。

「主(ヤハウェ)は生きておられる」(46節)という告白を、ダビデがもっとも印象的に語っているのは、サウルを槍でひとさしにしようとしたアビシャイをとどめたときです(Ⅰサムエル26:10)。このときダビデはこのことばに続いて、「主(ヤハウェ)は、必ず彼を打たれる」と、自分が手を下さなくても、主が彼をさばいてくださると言いました。そして、これはあなたがこの世界で様々な矛盾の中に生かされ、神のご支配を疑わざるをえないようなときに、必死に神に向かって祈るなら、あなたが生かされている場で、生きて働いておられる神を体験することができるという約束でもあります。

この詩篇18篇は、出エジプト記からサムエル記に至る神の救いのストーリーを劇的に要約したものです。神の救いとは、あなたの日常生活のただ中で体験できるものです。あなたの目の前には、様々な不条理が横たわっているかもしれません。そのとき、「神がおられるなら、どうして・・」と問うのではなく、「全能の神に呼び求めることを知らないで、どうして私はこの世の悪に染まらずに生きることができようか?」と問い直してみてはいかがでしょう。

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2006年11月20日 (月)

詩篇1篇、2篇「幸いな人」

 原文から再翻訳した詩篇です。リズムと訳語の組みあわせ、並行法に気をつけました。

本来このふたつの詩篇はセットになったものだったと思われます。詩篇2篇はヘンデル作オラトリオ「メサイア」のハレルヤコーラスの前の四曲で歌われています。まさに聖書の核心を歌ったものです。

       詩篇1篇、2篇

幸いな人よ!                                (1:1)

  悪者の勧めを歩まず

  罪人の道に立たず

  おごる者の座に着かず

むしろ 主(ヤハウェ)の教え(トーラー)を 喜びとし            (2)

  昼も夜もその教え(トーラー)を 思い巡らす

その人は                                      (3)

  流れのほとりに植わった木のように

時が来ると実を結び その葉は枯れない

 行なうすべてが 繁栄をもたらす

悪者はそうではない                               (4)

 彼らは 風が飛ばす もみがら

 悪者は さばきの前に 立ちおおせない                 (5)

罪人も 正しい者の 集いには               

(ヤハウェ)は 正しい者の道を 知っておられる               (6)

 しかし、悪者の道は滅びる

なぜ国々は たくらみ                                 (2:1)

人々は むなしく 思い巡らし

地の王たちは 立ち構え                               (2)

支配者たちは 結束して

(ヤハウェ)と 油注がれた者(メシヤ)に逆らうのか?

「さあ かせを砕き  縄を 切り捨てよう!」と            (3) 

天に座す方はそれを笑う                             (4)

(アドナイ)は彼らをあざけり

燃える怒りでおののかせ                             (5)      

怒りをもって 彼らに語る

「わたしは わたしの王を聖なる山シオンに 立てた」         (6)

(ヤハウェ)の制定(布告)を 宣べよう                       (7)

(彼)は私に言われた

「あなたは わたしの子

わたしは きょう あなたを(新しく)生んだ

わたしに求めよ                                 (8)  

国々を あなたに受け継がせ

地の果てまで あなたのものとする

あなたは鉄の杖で彼らを打ち                           (9)

焼き物のように粉々にする」

それゆえ今 王たちよ 悟れ                        (10) 

地の支配者は 教えを受けよ

恐れつつ 主(ヤハウェ)に仕え                     (11)     

おののきつつ 喜べ

御子に口づけせよ                              (12)   

怒りを招き その道で 滅びないために

怒りは 今にも燃えようとしている

幸いなことよ すべて彼に身を避ける者は

                                (2006年 高橋訳)    

詩篇1篇、2篇 「幸いな人」

                                      20061119日     

  サラリーマン時代「主の教えを喜ぶ人は・・何をしても栄える」というみことばが、仕事の成功と結びついて嬉しく思えました。しかし、様々な悩みを抱えた方に接しているうちに、その詩篇1篇があまりにも楽天的に見えてきました。ところが、2篇とセットで読むようになったとき、その意味が納得できました。ここに聖書の初めと終わりの要約があります。ノー天気な信仰も危険ですが、暗いことばかりを見る信仰はもっと始末が悪いかもしれません。

1.「主(ヤハウェ)は正しい者の道を知っておられる」

  この詩篇は突然、「幸いな人よ」ということばから始まり、その生き方が2節までひとまとまりに描かれます。人間とは人の間で生きる存在ですから、誰と交わるかは、その人格の形成に決定的な影響を与えます。ですから、まず三つの否定形で、「幸いな人」は、神に敵対する者との交わりと一線を画していると描かれます。それとの対比で、「その人は、主(ヤハウェ)の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを、思い巡らしている(口ずさむ)」と、何よりも、聖書を神のみことばと信じるこの神の民の交わりの中に生きる人こそが幸いであると言われます。なお、「教え」とは原文では「トーラー」ですが、これは新約では「律法」と訳され、狭い意味ではモーセ五書を指しています。ある先輩の牧師が、今回の私の本に関し、「僕は以前、主の教え(律法)は蜂蜜のように甘く、それを喜ぶことができるという表現に違和感を覚えていたことがあった。だから、このような本が出版されたことを本当に嬉しく思う」と励ましてくださいました。なおこれに関し、主(ヤハウェ)はモーセの後継者ヨシュアに、この律法(トーラ)の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」(ヨシュア1:8)と語られました。

  その同じ「繁栄」ということばを用い、「その人は・・行うすべてが繁栄をもたらす」(3節)と断言され、その様子が、「流れのほとりに植わった木」にたとえられます。後の預言者エレミヤは、「【主】に信頼し、【主】を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる(エレミヤ17:7,8)と表現しています。

しかし、彼は同時に、人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、【主】が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる」(17:9,10)とも記しています。つまり、人はそれぞれの心の内側を見るなら、自分で自分を変えようとしても変えられない絶望的な状態にあり、神の最終的なさばきに耐えられないというのです。そのことが、ここでは、「悪者はそうではない・・・」(4節)と表現されます。「悪者」とは「創造主を恐れず、礼拝しない者」という意味で、反対に、「正しい者」とは、この世で尊敬されている人というより、「創造主を恐れる者」、また自分の罪深さを自覚し主にすがるすべてのキリスト者を指しています。確かにこの世の中には、本当に人間として尊敬できる「悪者」が多くいます。しかし、自分の力、自分の正しさにより頼んだ生き方は、「風がとばすもみがら」のように、はかないものだというのです。そして、「主の教えを喜びとし、思い巡らす」者は、心の内側から変えられ、さばきの日に、その違いは歴然として表されます。

  ところで、「滅びる」でひとつの詩が終わるのは異例です。著者が強調したいのは何よりも、「主(ヤハウェ)は、正しい者の道を知っておられるという点で、それこそが詩篇2篇に展開されていると考えられます。この世の人生のむなしさは何より、「正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きする」(伝道者7:15)という不条理にあります。そこにサタンがつけこみ不敬虔な生き方を刺激します。しかし、真の繁栄は、天地万物の創造主、すべての豊かさの源である方に結びついた生き方から生まれるのです。木村清松がナイアガラの滝を見ていると、あるアメリカ人が「このような偉大な滝があなたの国にあるか」と聞いたので、彼はすかさず、「これは私の父のものです」と答えたとのことです。私たちの幸いは、そのような創造主を「私の父」と呼ぶことができること自体の中にあります。

2. 「わたしは、わたしの王を・・立てた」

  2篇の初めの、「なぜ、国々はたくらみ・・・主(ヤハウェ)とメシヤに逆らうのか」は、使徒4:25ではダビデが千年後の救い主とその教会に対する迫害のことを預言的に記したものとして描かれます。また1-4節と9節はヘンデル作のオラトリオ「メサイア」で美しく歌われ、終わりの時代に生きるすべての者への力に満ちた慰めとなっています。

この世では、「神の民」は少数派に過ぎず、神に逆らう者たちの力の方が圧倒的に強く感じられます。そのような現実の中で、「人々は、むなしく思い巡らす」(2:1)というのです。これは「つぶやく」とも訳され、原文では「主の教えを思い巡らす」(2節)というときのことばと同じです。私たちは聖書にある神の救いのストーリーを思い巡らす代わりに、この世の不条理ばかりに目を留めて、「神がおられるなら、なぜ・・」とつぶやいてしまいます。しかし、聖書を読むことを忘れた「思い巡らし」は、時間の無駄であるばかりか、人を狂気に走らせることすらあります。しかし、私たちが「思い巡らす」べき「なぜ?」とは、この世の権力者が、なぜこれほどノー天気な生き方、つまり、自分の明日のことを支配する創造主を忘れた生き方ができるのか、実はそれこそが私たちが問うべき「なぜ?」でしょう。

聖書を通して私たちは、ダビデや救い主が受けた不当な苦しみのすべては、神のご計画であったと知ることができ、また私たちの人生も、この世にあっては様々な試練に満ちていると知ることができます。神の敵は、サタンに踊らされているだけです。彼らは隠された霊的な現実を見ることができないからこそ神に反抗できるのです。 

なおこの世の弱者が陥る過ちもあります。それは、「神の国(支配)」の民として生きることを、単に束縛ととらえ、創造主を否定した生き方に自由があると思い込むことです。しかし、彼らは自分の欲望の奴隷になっているだけです。人はみな視野が狭く、自己中心的ですから、互いの利害が対立し、ある人の成功が、ある人の失敗につながるということがあり、それを調整する権威がなければ争いに満ちた無政府状態に陥ります。ですから、使徒パウロも、あの悪名高いローマ皇帝ネロの時代に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1)と言っています。つまり、この世の権威を尊重することでこの地の平和が保たれますから、権威のみなもとに立ち返る必要があります。そして、神は今、天に座しておられ、ご自身の権威を否定する者たちのことを「笑い」、また「あざけって」おられるというのです(2:4)。ですからここでは、「ヤハウェ」という御名の代わりに、「主人」を意味する「アドナイ」と呼びかえられています。

そして主は、ご自身のときに新しい権力者を立てられます。それは、直接的にはダビデの戴冠の時として、主(ヤハウェ)が、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた」(2:6)と言われます。ダビデはサウルに命を狙われ、逃亡していたことを思い起こしながら、このみことばを喜んでいたのではないでしょうか。私たちには不条理としか思えないことも、神のご支配の中にあります。私たちはこの地の支配者が誰なのかを忘れてはなりません。

3. 「御子に口づけせよ」

  そして、主(ヤハウェ)はこの世界に対し「布告」を発せられます。それは、ダビデ王国の支配が全世界に広がることを意味しました。ただ現実には、彼の支配地は約束の地カナンに限られていましたから、その完全な成就は、「ダビデの子」としての救い主の出現を待つ必要がありました。イエスのバプテスマのとき、天からの声が、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と響いたのは、この預言の成就でした。また、「わたしは、きょう、あなたを生んだ」とは、「神はイエスをよみがえらせた」ことを指しますが(使徒13:33)、私たちも、イエスに結びついていることで、「あなたは、わたしの愛する子」と呼ばれ、「新しく生まれ」ているのです。そして、これはイエスが父なる神の右の座に着かれたことをも指しています(ヘブル1:3,5:5)。また、イエスが十字架にかけられるのが決定的になったのは、ご自分が全世界を治める王として、「天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになる」(マタイ26:64)と言われたからでしたが、そのことがここでは「地の果てまであなたのものとする」(8節)と歌われています。

  また、「鉄の杖で・・」(9節)は、黙示録で三回にも渡って(2:27,12:519:15)、再臨のキリストが力を持ってこの地を治めることとして引用されています。救い主は、二千年前はひ弱な赤ちゃんとしてこの地に来られ、神の優しさを示されましたが、今度は剣をもって神の敵を滅ぼすために来られるからです。つまり、ここにはキリストの誕生から再臨までが合わさって預言されています。そしてここには、今、私たちの救い主イエス・キリストが、すでに「王の王、主の主」としてこの地を治めておられるという霊的な現実があります(黙示11:15,19:16)。ですから、ヘンデルのハレルヤコーラスは、この詩篇2篇から導かれる必然的な帰結です。私たちの教会の群れの基礎を築いてくださった古山洋右先生は、ご自身の葬儀の際にはぜひこのハレルヤコーラスを歌って欲しいと切に願われ、今から11年前の最も悲しいときに、私たちは、目に見える現実を超えたキリストのご支配をともに高らかに歌いました。

  「御子に口づけせよ」(12節)とは、キリストに臣下としての礼をとることを意味します。そうでないと私たちは悪者どもとともに神の怒りを受け、滅ぼされます。そして、最後に、「幸いなことよ」と繰り返され、御子に身を避ける者の幸いが強調されます。イエスは、あなたの罪を担って十字架にかかってくださったからです。

  私たちキリストにつながる者は、「キリストとともに・・王となり」(黙示20:4)また「永遠に王となり」(同22:5)、そして「世界をさばく」(Ⅰコリント6:2)と保証されています。ですから、私たちはあらゆる「苦しみ、迫害、飢え、危険」に囲まれながらも、すでに「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)とされているのです。

  

  私たちの人生がどんなに厚い雲に覆われているように思えても、その上には太陽が輝いています。キリストに従う者は、この世界を平面的にではなく立体的に見ることができます。人は、自分の過去の苦しみをまったく違った観点から見られることがあります。それと同じように、私たちは、キリストの復活と再臨という霊的な枠からこの世界の現実を見るときに、「自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っている」(Ⅰコリント15:58)と言うことができます。そして、その意味で、「主の教えを喜びとする」者は確かに、「行なうすべてが繁栄をもたらす」と断言することができ、「主の教えを喜びとし・・思い巡らす」者は、永遠に「幸いな人」と呼ぶことができるのです。

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2006年11月13日 (月)

Ⅰサムエル27章~31章「主によって奮い立つダビデと自滅したサウル」

本日のメッセージはサムエル記第一の最終回です。
長い箇所をまとめて見ることによって、ダビデとサウルの対比がより明らかになります。
メッセージのあとで、何人かの方から、自分の中にもサウルのところがあるという感想をお聞きしました。
幸い、サウルのように霊媒に頼ったという人はいませんが・・・
 それにしても、この箇所での「霊媒」に関しては、本当に、「わけがわかんない!」というのが正直な感想です。ただ、サウルが霊媒に頼ったことが、彼ばかりかあの義人ヨナタンの滅亡の決定的な契機になったことは確かだと思われます。ここに起こった現象よりも、起こった結果にこそ、私たちは注目すべきなのでしょう。
 一方、ダビデが、ペリシテに助けを求めたことも、決して正当化できることではありません。しかし、神は、それが誤った選択だったとしても、彼を守り通してくださいました。
 私たちは人生で、どこかで誤った選択をするでしょう。しかし、それがサウルのように神が最も忌み嫌う選択でなければやり直しがききます。
 パウロが言ったように、「私が弱いときこそ、私は強い」という霊的な現実を受け止めながら生きてゆきたいと思わされました。

                                           2006年11月12日

  本日の箇所には、霊媒師が死んだサムエルの霊を呼び出して、主からのことばが伝えられるという、まるでオカルトのようなことが記されています。何とも不可解ですが、そこに大きな警告があります。

1.不安のあまり霊媒師を訪ねたサウロ

 ダビデは、サウルの野営地の真ん中に忍び込み、命賭けの説得をしました。しかし、サウルの心はすぐに変わります。それで彼はイスラエルの敵であるペリシテの地に逃れようと考えました(27:1)。これは単に、「敵の敵は味方」と言われる常識に従ったものです。ダビデは、以前ひとりでガテの王アキシュのもとに隠れようとして、その家来たちに気づかれ、気が狂ったふりをして命からがら逃げたことがありました(21:10-25)。しかし、今度は六百人の家来と家族を引き連れ、正々堂々と助けを求めました(27:2,3)。そして、サウルもそれを知ると、二度とダビデを追おうとしなかったのでした(27:4)。アキシュも、サウルこそが当面の敵でしたから、ダビデを保護することは敵を分断する上で役に立つと思ったのか、南部のユダとの国境地帯の町ツィケラグを与えます。そこは南のアマレクを中心とした異民族の攻撃にさらされている町でもあり、ダビデは彼らを襲い男も女も皆殺しにしました(27:9)。神はかつて約束の地のカナン人の聖絶を命じておられ(申命記2:34,7:2)、特にアマレクは神が「燃える御怒りをもって・・罰する」(28:18)ように命じられていました。サウルはそれに従わず、ダビデはそれに従いました。三千年前のことを現代の常識で判断はできません。これは、キリストが罪人のために死んでくださる前のことだったからです。

ダビデの問題は別のところにあります。彼はペリシテ人のために戦わざるを得ない立場に自分を置いてしまったのです。彼はアマレク人を襲いながら同胞ユダの町を襲ったと偽ったばかりか(27:10)、ペリシテ人がイスラエルと戦おうと軍隊を召集したとき、彼はアキシュの護衛として共に出陣しなければなりませんでした(28:1,2)。彼はサウルを恐れるあまり、神の民の敵となってしまう危険に身をさらしています

  このときペリシテ軍はガリラヤ湖の西南30kmぐらいにあるイスラエルのへそとも言える戦略拠点イズレエルの北方に陣を敷き、決戦を挑んできました。サウルは全イスラエルを召集しながら、「ペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた」(28:5)のです。「それで、サウルは主(ヤハウェ)に伺ったが、主(ヤハウェ)が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった(28:6)とありますが、それはまさに自業自得です。かつてサウルに忠実だった祭司アヒメレクは、逃亡中のダビデにパンと剣を与えましたが、それを聞いたサウルは、アヒメレクの弁明を無視して殺したばかりか、つながる祭司85人を一度に虐殺したからです(22:14-19)。彼は、自分の思い通りにならないと、自分の助けとなった人々を次々と排除しました。それが、サムエルでありダビデでもあり、主(ヤハウェ)の祭司たちでした。

  不安に圧倒されたサウルは、かつて断ち滅ぼしたはずの霊媒師にまで助けを求めます。人は、不安に負けると、絶対と思われた善悪の基準さえも超えてしまうことの一例です。彼は変装をして霊媒師の女を訪ねます。レビ記によれば、神の民でありながら霊媒師に頼る者も、イスラエル内に住む霊媒師も「必ず殺されなければならない」と厳しく命じられていました(20:6、27)。それは死人の霊を呼び出して未来を尋ねることで(参照イザヤ8:19)、明日を支配する神に対する最大の不信の行為です。神は、私たちに未来のことを隠しながら、今ここで主に仕え、また人に仕えることに専念することを命じておられるからです。 

  

2.霊媒師に呼び出されたサムエルが告げたことば

不思議にも、この霊媒師の女の呼び出しに応じて、死んでいるサムエルが現実に現れた(28:13-15)ばかりか、主(ヤハウェ)ご自身のみこころがサウルに告げられます(28:17-19)。この女は本物の霊媒師なのでしょう。世には多く偽霊媒師がいますが、麻薬と同じように、本物こそ恐ろしい災いをもたらします。

ここでは、主ご自身が、霊媒師を通して、サウルの罪を改めて指摘するとともに、「あす、あなたも、あなたの息子たちも」ペリシテ人の手によって死ぬということが告げられます(28:19)。これは、未来のことが霊媒によって明らかにされたとも理解できますが、それ以上に、サウルが霊媒に頼ったということに対するさばきが下ったと考えることができないでしょうか。サウルはまさに墓穴を掘ってしまったのです。

サウルの息子で、ダビデの親友であったヨナタンの死は、主(ヤハウェ)ご自身が「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジプト20:5)と警告されていたことの成就とも言えます。つまり、サウルが霊媒に頼らなかったとしたら、ヨナタンが翌日死ぬ必要はなかったのかもしれません。

サウルはサムエルのことばを聞いて、「倒れて地上に棒のようになり」ます(28:20)。それは、「非常に恐れ」たからであるとともに、「一昼夜、何の食事もしていなかったので・・力が失せていた」からです。それを見た女は、肥えた子牛をほふり、パンをすぐに焼いてサウルに強いて食べさせます。皮肉にも、サウルは霊媒師のもてなしを受け、自分の死が待っている戦いに向って最後の力を受けたのでした(28:25)。

  

3.絶望的な状況下で、主にあって奮い立ったダビデ

一方、アキシュの保護を受けていたダビデは、ペリシテの軍隊とともに、はるか北のイズレエルに向かわざるを得なくなりました(29:1,2)。そのままでは神の民イスラエルを敵に回して戦うはめになります。しかし、幸いにも、そのときペリシテ人の首長たちはアキシュに対し、ダビデを同行させることに強く反対しました。それはダビデが戦いの最中に裏切る可能性と、彼の影響力の強さを警戒したからでした。それでアキシュはダビデに自分の領地に帰ることを依頼しますが、その際、異教徒である彼が、「主(ヤハウェ)は生きておられる」(29:6)と言っているのが印象的です。彼はダビデの忠誠を信じているという意味で言ったのですが、それはダビデには、主(ヤハウェ)ご自身がペリシテ人の領主たちを動かして、彼が参陣せずに済むようにしてくださったと思えたのではないでしょうか。彼は表面的には、アキシュに向ってわが主である王(原文)の敵と戦うために私が出陣できないとは」(29:8)と言っていますが、内心では、ふたりの主に仕える矛盾から、主(ヤハウェ)ご自身によって解放していただけたことを感謝していたことでしょう。

  ダビデが、三日目に自分の根拠地であるツィケラグに帰ってみると、アマレクの襲撃によって女たちも子どもたちも連れ去られたあとでした。ダビデも部下たちも、「声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった」(30:4)ほどでした。そればかりかその住民たちは、「ダビデを石で打ち殺そうと言い出し」(30:6)ました。ところが、ダビデは、その深い悩みの中で、「彼の神、主(ヤハウェ)によって奮い立ったというのです。彼は、悩みの中で、主(ヤハウェ)と出会っているからです。それは使徒パウロが「私が弱いときにこそ、私は強い」と告白した通りです(Ⅱコリント12:10)。これは、サウルが霊媒師によって力づけられたのと対照的です。

  そして、ダビデは、サウルが殺そうとした祭司アヒメレクの息子が持っていたエポデによって、主(ヤハウェ)に伺いをたて、明確な答えを受けることができました(30:8)。そして彼は、道案内をも見いだし、アマレクに追いつき、奪われたものを奪還するばかりか、新たに羊と牛をも獲得できました。それは、主ご自身が与えてくださった勝利でした。そして、彼はその分捕り物を自分の友人であるユダの長老たちに送り届けることができました。つまり、神ご自身が、サウル亡き後のダビデの立場を固めてくださったのです。 

4.サウルの悲劇的な死

その間、イスラエルはペリシテに大敗北を喫し、サウルの息子ヨナタンたちも打ち殺されました(31:2)。サウルは「ひどい傷を負った」とき、自分がペリシテ人たちに「なぶり者」にされることを恐れ(31:4)、道具持ちの者に自分を刺し殺してくれるように願いますが、「道具持ちは、非常に恐れて、とてもその気になれなかった」のでした。それでサウルは、自分の剣の上にうつぶせに倒れ、自害をします。彼は、惨めな死に方を避けたかったのでしょうが、神の目から見て、これほど惨めな死に方があるでしょうか。彼は最後まで、主を恐れる代わりに人を恐れ、結局、主のみこころに反する自殺で自滅しました。彼は、どんなに苦しくとも、最後の瞬間まで、神に向かって悔い改めの祈りをささげることができたはずだったのです。

そして、道具持ちの者も、サウルの遺体を葬る間がなかったからなのか、彼のそばで自害します。そしてペリシテ人は、サウルの遺体を見つけると、その首を切り、その武具を偶像の宮に陳列し、「死体をベテ・シャンの城壁にさらした」(31:10)というのです。その町はヨセフの子マナセの相続地にある大きな要塞都市で、これはイスラエル全体の敗北の象徴となりました。サウルは自分がこのようなさらしものにされることを恐れたからこそ、自害したはずなのに、かえってそうされることを自分で選び取ってしまったのでした。残念ながら、自分で自分を滅びに追いやるというのがサウルの生き方の中心でした。

ただ、以前サウルに助けてもらったヤベシュ・ギルアデの住民が勇士たちを送って、彼とその息子たちの遺体を奪い返し、手厚く葬ったことはせめてもの救いでした。伝道者の書に、「人が百人の子どもを持ち・・彼の年が多くなっても・・・墓にも葬られなかったなら・・死産の子の方が彼よりはましだ」(6:3)とあるように、神の民の中でも葬儀は非常に大切にされていたからです。サウルを王として立ててくださった主(ヤハウェ)は、ご自身が選び、油注いだ者が辱められたままに置くようなことはなさいませんでした。

不安に圧倒されて自分を滅びへと追いやったサウロ、不安の中で多くの詩篇を記し、主にあって奮い立ったダビデ、そこに見られる対比は、私たちの道しるべとなります。世の人々は災いを避けようとして霊媒や占いに頼ります。しかし、それこそ滅びへの道です。イエスは、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)と言われました。

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2006年11月 5日 (日)

Ⅰサムエル25、26章 「神の怒りに任せなさい」

                                                                                                                                                  2006年11月5日

  あなたは人から余りに不当なことばをかけられ、怒りのあまり後悔するような言動に走ったことがないでしょうか。人の悪には驚くほどの伝染力があります。それに感染しないためにはどうすべきでしょう。

 

1.「あの男は善に代えて悪を返した」

  24章では、ダビデの謙遜と勇気によってサウルの心がやわらかくされ、和解が一時的にせよ成立したことが描かれました。そのような中でサムエルの死と葬儀のことが報じられます(25:1)。もしサウルの心がダビデを殺すことに夢中になっているときであれば、イスラエル人がそろってサムエルの死を悲しむことはできなかったでしょう。人々はサムエルがダビデの側についているのを知っていたからです(19:18)。主は、サムエルのたましいをちょうど良いときにご自身のもとに引き上げてくださいました。

  その後、ダビデはユダの南部に広がるパランの荒野に下ります。ヘブロンの南10数キロの地マオンにいたナバルは「非常に裕福」で、ユダ族の英雄カレブの子孫ながらも「頑迷で行状が悪い」人でした(25:3)。しかし、妻アビガイルは対照的に、「聡明で美人」でした。ここに事件が起きます。ナバルが「羊の毛の刈り取りの祝い」をしているのを聞いたダビデは、若者十人を遣わし、彼の羊飼いを敵の攻撃から守り続けてきた返礼として、荒野に住む自分たちにも祝いの食べ物を分けて欲しいと頼みました。そこには同じユダ族として、それまでの協力関係をもとに同盟関係を確認するという意味がありました。ところがナバルは当然ダビデのことを知っているはずなのに「ダビデとは、いったい何者だ・・」(25:10)と言ったばかりか、彼をサウルという主人から脱走した奴隷かのように嘲って願いを拒絶しました。それを聞いたダビデは、四百人を引き連れてナバルを襲おうとします。なぜなら、これは彼がダビデの敵となるという意思の現われと受け止めるのが当然であり、放置すれば同胞の間のどこにも住めなくなるからです。

  ところがナバルはこのとき、私のパンと私の水、私の・・祝いのための・・私の肉」(25:11私訳)と言っているように、浅はかにも自分の目の前のことしか見ていなかっただけでした。ちなみに、「ナバル」とは「愚か者」という意味で(25:25)、彼に付けられたあだ名だと思われます。ダビデは詩篇14篇で、彼を意識しながら、「愚か者(ナバル)は心の中で『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしいことを行なっている」(1節)と歌ったのかもしれません。この男は、神のご計画にも人の痛みにも心を開くことがなく、彼のしもべたちも「だれも話したがらない」(25:17)という裸の王様の状況になっていました。そのことを聞いたナバルの妻アビガイルは、このままでは一族全員が滅びる危険にあることをすぐに理解し、六百人を養うに足るほどのパンとぶどう酒、料理した羊などを用意してダビデのもとを訪ねます。彼女が夫に事前にそれを相談しなかったのは、彼に聞く耳がなく、時間的な余裕もなかったからでしょう。

ダビデはこのときナバル一族を絶滅することこそ神のみこころであると確信して攻撃に向かおうとしていましたが(25:22)、実際はただ怒りの感情に身を任せていただけだと思われます。彼は詩篇109篇で、「彼らは、善にかえて悪を、私の愛にかえて憎しみを、私に報いました」(5節)と嘆きつつ、その家族と子孫すべてに対する神のさばきを訴えていますが、それこそこのときの彼の気持ちだったと思われます。

2.「主(ヤハウェ)はこのしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった。」

アビガイルはダビデを見るやいないや、その激しい怒りを察し、ひれ伏して、「この私の上に、わが主よ、とがを置いてください」(25:24私訳)と懇願します。これは、家族や奴隷全員の身代わりとして自分の命を差し出すという捨て身の姿勢です。ダビデもこの美しい女性の気迫に圧倒されたことでしょう。しかも、彼女は夫を「愚か者」と蔑んでいるようでありながら、「この私は・・若者たちを見ませんでした」(25:25)と言いながら、自分こそ家の責任者としてさばくに価する存在だと訴えているのです。その上で、「わが主よ。主(ヤハウェ)は生きておられ、あなたのたましいも生きておられます。ですから主(ヤハウェ)は、あなたが血を流しに行かれるのを、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられました・・・」(25:26私訳)と、主(ヤハウェ)が自分をダビデのもとに遣わしたと大胆に迫っています。その上で初めて、贈り物を差し出しつつ、自分の罪を赦して欲しいと懇願します。そして、彼女は「怒り」に満ちた彼の心をやわらげ、余裕を回復させる宝石のようなことばを述べます。それが、「ご主人さまは主(ヤハウェ)の戦いを戦っておられる・・・そのいのちは・・・あなたの神、主(ヤハウェ)によって、いのちの袋にしまわれている・・・主(ヤハウェ)が・・あなたをイスラエルの君主に任じられたとき・・・むだに血を流したり・・自身の手で復讐したことが・・つまずきとなり・・こころのさまたげになりませんように・・・」(25:28-31)ですが、これはキリストとともに王とされる私たちすべてに適用できるものです。まさに聖霊ご自身がアビガイルを用いられたことの証でしょう。ひとりの女がこれほどのことを言えるとは、まさに奇跡です。ここに神のあわれみを見ることができます。そして、ダビデも主の御名を賛美しつつ、「私が血を流す罪を犯す」(25:33)ことから守られたことを感謝しました。

一方、ナバルは何も知らずに「王のような宴会を開いて」(25:36)いました。アビガイルは翌朝、「ナバルの酔いがさめたとき」になって初めて経緯を知らせます。すると、彼は「気を失って石のようになった・・・十日ほどたって、主(ヤハウェ)がナバルを打たれたので、彼は死んだ」(25:37,38)というのです。ダビデはそれを聞いて、「主(ヤハウェ)はこのしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった。主(ヤハウェ)はナバルの悪を、その頭上に返された」(25:39)と賛美します。なお先の詩篇109篇では、「私の賛美する神よ。黙っていないでください・・どうか悪者を彼に遣わしてください・・」(1,6節)と訴えていますが、このような乱暴とも言える正直な祈りこそが、自分で復讐することを押しとめる力になります。パウロはこのことを受けて「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」(ローマ12:19)と私たちに勧めています。

ダビデはアビガイルの知恵に感心し、三番目の妻に迎えます。それは当時としてはあわれみと見られました。またそれによってナバルに属していた膨大な財産がダビデのものとなったと思われます。これらすべてが、(ヤハウェ)がダビデを名実ともに王とするために格別な恵みを注いでいるしるしでした。

3.「主(ヤハウェ)は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます・・」

  26章では再びユダ族のジフ人がダビデの居場所をサウルに告げ、彼が三千人の精鋭からなるダビデ討伐軍を率いて来ます。そこでダビデはヨアブの弟のアビシャイをともなって、サウルが寝ている野営地の真ん中に忍び込みます。サウルの枕もとの槍を見たアビシャイは、「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました」(26:8)と言いつつ、刺し殺す許可を求めました。しかしダビデは、「殺してはならない。主(ヤハウェ)に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう」(26:9)と彼を差し止めます。そして、「主(ヤハウェ)は生きておられる。主(ヤハウェ)は、必ず彼を打たれる。彼の時が来て死ぬか(ナバルのような突然死)、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ」(26:10)と、主のさばきに委ねさせます。サウルは少し前、洞窟での事件を通して(24章)、主(ヤハウェ)がダビデを王とすることがわかったと認めたばかりなのに、すぐに心を変えて主に逆らっているからです。ダビデは、主ご自身がナバルへの復讐を差し止めてくださったことを感謝していましたから、サウルの度重なる不誠実に自分で復讐しようとは思いませんでした。

  ダビデはサウルの枕もとの槍と水差しを取って無事に立ち去りますが、それは、「主(ヤハウェ)が彼らを深い眠りに陥れられた」(26:12)からでした。そして、ダビデは以前と同じように、サウルを真っ向から責める代わりに、まずアブネルの怠慢を責め、そして、サウルが他の人にそそのかされていると言いつつ、彼ではなく、その者たち「のろわれますように」と言います(26:19)。それは彼らが自分を主(ヤハウェ)のゆずりの地から締め出し、他の神々に仕えさせようとしていることだと説明します。そして、「どうか、今、私が主の前から離れて、この血を地面に流すことがありませんように」(26:20私訳)と祈りますが、そこには自分が主から離れない限りは、主が自分のいのちを守り通してくださるという確信が込められています。

  そして、このときもサウルは「私は罪を犯した」と反省しますが(26:21)、それは前回のような真実さは見られません。ですからダビデもサウルの誘いには乗らずに、使いをよこさせて王の槍を返します。そしてダビデは、「主(ヤハウェ)は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます・・」(26:23)と言います。ここで彼は自分がサウルの手から救われるようにとは願わずに、主のさばきに委ねています。サウルもどこかでこれが最後の別れとなることを予期したのか、ダビデに「成功」が待っていることを告げます。

   私たちも善意が悪で報いられるようなときに、自分の怒りを制御できなくなりがちです。それは私たち自身の心と身体を害します。人の気まぐれがあなたを傷つけるのを許してはなりません。ただし自分で自分の気持ちを抑えようと頑張るのではなく、神に向かってその気持ちを正直に打ち明けることが大切です。そして怒りに身を任せる代わりに、「主(ヤハウェ)に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え(詩篇37:3)という命令に従うべきです。ピラトはイエスの無実を確信しながら十字架刑を宣告しました。それは人々が五日前に「ダビデの子にホサナ」と叫びつつイエスのエルサレム入場を歓迎した同じ群衆が、今、「十字架につけろ」と大合唱していることに圧倒され、「自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見た」からでした(マタイ27:23,24)。そして、イエスはその群集心理をよく知っておられました。あなたもそこにいたとしたら同じように行動したことでしょう。イエスは人間の身勝手な「怒り」を引き受けてくださいました。それはあなたが怒りに振り回されることなく、神を見上げて生きることができるためです。

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