« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »

2007年1月29日 (月)

Ⅱサムエル11章~13章19節 「ダビデの恐ろしい罪と神の赦し」

2007年1月28日

失敗をした言い訳に、「ストレスを受けていたから・・」と言われることがありますが、人が道を踏み外すのは順調であるときの方が多いかもしれません。だからこそダビデは詩篇19篇で「このしもべの高慢を抑え、支配させないでください。それで私は完全にされ、重い罪からきよめられます」と祈っています。それは彼の反省から生まれているのでしょうが、不思議にも、ここでは彼が犯した恐ろしい罪の動機はほとんど分析されていないかのようです。

           

1.ダビデが犯した罪の重大性(姦淫、偽証、殺人・・・)

ダビデはヨルダン川東のアモン人に真実を尽くそうとしましたが、彼らはダビデの使者を辱めた上で、北のアラム(現在のシリア)に助けを求めました。しかし、「主(ヤハウェ)は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」(Ⅱサムエル8:6)とあるように、彼はこの強国アラムをたちどころに打ち破り、その結果、主がアブラハムに約束されたユーフラテス川に至る広大な土地がダビデに服従しました(10:19)。ですから11章にあるアモン人との戦いは勝利が保証されたようなものでした。ダビデはヨアブとイスラエル全軍を戦いに出しながら、自分はエルサレムにとどまり、昼寝を貪るような生活をしていました。彼にとってすべてが順風満帆と思え、心の中から「恐れ」が消えていました。

不思議にここでは、ダビデに何の心の葛藤もなかったかのように「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが見えた。その女は非常に美しかった」(11:2)と描かれます。そして、彼はこの女が家来の妻であることを承知の上で、「使いの者をやって、その女を召し入れた」(11:3)と簡単に記されます。彼をこの姦淫の罪に駆り立てた唯一の動機は、彼女の「美しさ」にあったようです。しかも、彼女が水浴びをしていたのは、七日間の月のさわりの状態からのきよめの儀式であり(レビ15:19)、男を誘惑する意図などはなかったと思われます。そして、彼女には王の命令に逆らう余地はありません。ダビデも王としての権力を使うことの緊張感を失っていたかのようです。彼はこれがどのような結果を生むかを何も考えなかったかのようですが、この時期に彼女が妊娠することになるのは当然の帰結と言えましょう。彼女の名はバテ・シェバで、その夫は異邦人であるヘテ人ウリヤでした。彼はヨアブにしたがってアモン人掃討作戦に出征していました。

彼女の知らせを聞いたダビデは慌てて、偽装工作を思いつきます。なぜなら、彼は、神を恐れ、家来を大切にするということで人々から信頼されていたからです。それで、ウリヤを呼び寄せ、彼を妻のもとに帰らせて夜をともに過ごさせ、生まれた子がウリヤの子であるかのように見せようとしました。ところが彼は極めて律儀な性格で、戦友たちが戦場で野営しているのに自分だけ良い思いをすることはできないと思い、妻のもとには帰りませんでした。その際、彼は「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み・・」(11:11)という表現を使います。まるでこの外国人の方が、神の箱と国の行く末を案じているかのようで、安逸を貪っていたダビデとの対比が際立って描かれます。

ダビデはそれでも諦めずに、ウリヤを食事に招いて酔わせますが、彼は妻のもとに行こうとしませんでした。それでダビデはヨアブへの手紙をしたため彼に持たせます。そこには「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ」(11:15)と記されていました。ウリヤは国のことを思い、妻と一夜を過したい思いを抑えて、王の書状を自分の主君ヨアブに命がけで届けたのでしょうが、そこには自分を死に至らしめる策略が記されているのです。何という裏切り、何という不条理でしょう。ヨアブも、ダビデに恭順を示したアブネルを欺いて殺したような人間ですから、王の命令をひそかに実行に移し、使者を通して知らせます。ダビデもウリヤの死は戦争の常であるかのように言って、家来の未亡人にあわれみを施す王であるかのように、バテ・シェバを自分の多くの妻のひとりとして迎えます。そして彼女は男の子を産みます(11:27)。つまりダビデは約一年近くの間、家来を大切にする敬虔な王であるかのように振舞っていたのです。しかし、裏では、あのヨアブなどよりもはるかに非道なことを行なっていました。ヨアブは復讐心からから行動しましたが、ダビデは自分の評判を守るだけのために、何の恨みもない人の、その誠実さを逆手に利用して殺してしまったのです。これほどの偽善があるでしょうか。

「人間は、天使でもけだものでもない。そして不幸なことには、天使のまねをしようと思うと、けだものになってしまう」(パスカル・パンセ359)と言われますが、これは明らかな悪人よりも、善良に見える人の方が、恐ろしい罪を犯し得ることの実例ともいえましょう。歴史上、ダビデほどに神を恐れ、人に誠実を尽くし続けた王はいません。しかし、彼でさえ、こうも簡単に罪の罠に落ちました。それはすべての人の心にある闇の深さを示す代表例と言えましょう。

2. 主はダビデを立ち返らせるために預言者ナタンを遣わされた。

(ヤハウェ)は一年近くもの間、ダビデが自分の罪を告白してくるのを待っておられたのだと思われます。しかし、ついに預言者ナタンを遣わして、彼を悔い改めに導こうとされました。主ご自身が交わりの回復を計られたのです。自分を神のようにしたアダム以来、人の何よりの問題とは、自分の罪を認められなくなったということです。よく「あなたが謝罪したら赦してあげるのに・・」と迫る人がいますが、それは人の心を分っていない人かもしれません。

ナタンは神からの知恵によって、他の人のことを相談するような雰囲気でたとえを話します(12:1-4)。それは、ある貧しい人が娘のように大切にしていた子羊を、金持ちが取り上げて旅人にご馳走するという話です。その金持ちは、「自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ」(12:4)と描かれます。それなら肉をご馳走しなければ良いはずですが、自分の体面を保つために貧しい人の宝物を力ずくで取り上げたのでしょう。しかし、ダビデは自分のことを棚にあげ、「主(ヤハウェ)は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」(12:5)と怒りを燃やします。

それを聞いてナタンは、「あなたがその男です」と断言し(12:7)、ダビデこそウリヤを殺した真犯人であると指摘しました。その際、主はナタンを通して、ダビデに対してどれだけ多くのものを与えたかを思い起こさせながらも、「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう」(12:8)と言います。主は、不思議にも、ここでダビデの心の中にある欲望ではなく、「主(ヤハウェ)のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なった」(12:9)ことを問題にしています。彼はそのとき言葉を発するだけで必要が満たされるという立場にありました。権力は人を酔わせます。しかも、一度手にすると離せなくなります。だからこそダビデは評判を気にしたのでしょう。彼はこのとき情欲に負けたという罪の出発点よりも、ウリヤに対する横暴をこそ責められており、その根本は、「主を恐れる」代わりに、「主をさげんすだ」(12:10)こととして描かれています。彼は、「主(ヤハウェ)は王である」(詩篇96:10)という自分の王権の原点を忘れていたのです。このように見ると、ダビデの罪は特殊なことというより、私たちに極めて身近な問題です。私たちも自分こそが王であるかのように自分の基準で人をはかり、心の中で人を殺しているようなことがあるからです。これに対して、王なる主は、「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない・・・わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす」(12:10、11)というさばきを宣告されます。

ダビデが、「私は主(ヤハウェ)に対して罪を犯した」(12:13)と告白したとき、ナタンはすぐに、「主(ヤハウェ)もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」(12:13)と宣言しました。それは、主がダビデを赦すために彼の罪を指摘していたということが明らかだったからです。ただ続いて、「あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主(ヤハウェ)の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる(た)子は必ず死ぬ」(12:13,14)と、「死なない」「必ず死ぬ」という表現をセットに、生まれて間もない子がダビデの身代わりになると宣告されます。そして、主はその子を打たれ、病気にしますが、ダビデは、「主(ヤハウェ)が自分をあわれみ、子供が生きるかもしれない」(12:22)と、七日間断食して祈ります。その後、「ダビデは妻バテ・シェバを慰め・・彼女が男の子を産んだとき・・その子をソロモンと名づけた」(12:24)のですが、不思議にも、「主はその子を愛されたので・・・その名をエディデヤ(主に愛される者)と名づけさせた」(12:25)と記されます。主はダビデの深い悲しみを見て、この関係から生まれた次の子を、豊かに祝福されたからです。主は不倫から始まった関係を正式な結婚として認めたばかりか、それを救い主の系図に入れました。それは主が、どんな忌まわしい罪さえ、恵みのきっかけに変えることができることを意味します。

3.ダビデの罪の結果が息子たちの姦淫と殺人に現れる。

  ところがこの間に、戦いの方は予想通りに勝利をおさめようとしていました。そのとき将軍ヨアブは、最終的な勝利の栄誉を自分が受け取ってしまってはまずいと、ダビデに気を使い、彼に最終的な詰めを委ねます。この点では、ダビデの支配権は順調に強化されており、彼の罪の結果はどこにも現れていないかのようです。しかし、一方で、「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります(ガラテヤ6:7)という現実もあります。そして、家庭の罪は、家庭に問題を起こします。彼の長男アムノンは、腹違いの妹のタマルに恋い焦がれます。彼はそのことで悩んだあげく、悪い友人の勧めにしたがって、ダビデとタマルをだまし、「力づくで、彼女をはずかしめ」(13:14)ました。そればかりか、目的を果たした彼は、「ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よりもひどかった」(13:15)というのです。それは先の罪よりもなおひどく彼女を傷つけました。処女を奪った者は、その責任を一生取り続けるというのがみこころだからです(出エジ22:16)。父の姦淫の罪を長男は真似ましたが、父とは違い犯した相手の責任を取ろうとはしませんでした。そして今度は、タマルの実の兄アブシャロムがアムノンに復讐を果たします。父の姦淫と殺人の罪を、ふたりの息子がそれぞれ受け継ぎ、さらに罪深い方法で実行してしまいました。それは主がダビデに、「わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす」12:11)と言われた通りでした。ただ、これは何よりも、ダビデが蒔いた種です。

私たちは「罪の赦し」を、過去を消し去り、忘れ去ることだと誤解してはいないでしょうか。ダビデの罪は確かに赦されましたが、その罪の結果は、子供たちに現れ、彼がそれによって悩むばかりか、やがては自分がエルサレムから一時的に逃げ出さざるを得ないというところまで追いやられるのです。ですから、「罪を犯しても、赦してもらえる・・」とか、「罪を犯した人の方が赦しの恵みが分る・・」などと安易に言ってはなりません。ある人が、つくづく「確かに私は自分の罪が赦されたことの恵みを深く味わっているけれど、誰にも決して、自分と同じような歩みをして欲しいとは思わない。自分が蒔いた種を刈り取ることは、本当に大変だから・・・」と言っておられました。

では、罪の赦しには、どんな力があるのでしょうか。それは罪の結果を刈り取る過程で、神がいつもともにいて、ひとつひとつのことを益に変えてくださるということです。神が自分に向って微笑んでおられると感じられることは、明日に向って歩む何よりの力となります。どちらにしても、この世の人生には試練がつきものです。それを神とともに乗り越えることができるのと、ひとりで立ち向かわざるを得ないのとでは天地の差があるのではないでしょうか。

  ダビデは神の前に正直でまっすぐな人でしたが、その彼でさえ、目を覆いたくなるような恐ろしい罪を犯し、その結果を刈り取ることに苦しみました。ただし、ダビデは、そのあまりにも偽善に満ちた罪を後代のすべての人が知ることができるように公表し、多くの歌まで記したというのは驚くべきことです。それは自分の罪深さに嘆く私たちにとっての慰めとなっています。その点で、主はダビデの罪までも私たちのとっての益と変えてくださったのです。しかも、ダビデの悔い改めは自分からしたものではなく神から導かれたものでした。罪は恐ろしい連鎖を生みます。しかし、だれも失望する必要はありません。神の御子が十字架によってすべてを新しくしてくださったからです。 

| | コメント (0)

2007年1月22日 (月)

詩篇62 「ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ」

詩篇62篇(交読文)

            指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌

ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している。                 (1)

  この方から 私の救いが来る。

この方だけが 私の岩、救い、また砦の塔。                     (2)                       

  私は決して 揺るがされない。

いつまで おまえたちは人を襲うのか。                               (3)

  傾いた城壁か、ぐらつく石垣かのように、こぞって押し倒そうとしている。

彼らは 人の尊厳をおとしめることばかりを 計り、                       (4)

  偽りを喜び、口では祝福しながら内側ではのろっている。     セラ

ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ。                   (5)                     

  この方から 私の望みが来るからだ。

この方だけが 私の岩、救い、また砦の塔。                     (6)

   私は揺るがされない。

私の救いと私の栄光は 神のもとにある。                            (7)

  私の力の岩と避け所は 神のうちにある。

民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ。                           (8)

  あなたがたの心を御前に注ぎ出せ。 神は私たちの避け所。

まことに、人間の子らは 息のようなもの、                              (9)

  人の子らは 欺くもの。

はかりに載せると上に上がる。

  彼らを合わせても息よりも軽い。

暴力に信頼するな。略奪をむなしく誇るな。                            (10)

  強さが 結果を生んでも、それに心を留めるな。

神は、一度告げられた。                                            (11)

  二度、私はそれを聞いた。

力は 神のもの。

  主(「アドナイ」主人)よ。真実の愛(ヘセッド)も あなたのもの。            (12)

まことに、あなたは、報いてくださる。

  それぞれの人の行ないに応じて。

                                            (2007年 高橋秀典訳)

注:1.エドトンとはダビデから任命された聖歌隊の指揮者の名だと思われるが(Ⅰ歴代誌16:41)、調べまたは歌い方を指しているという解釈もある。

2.4節は厳密には「彼の高くされた状態から突き落とすことばかりを計る」と訳すこともできる。

3.9節は原文で「アダムの子ら・・」「人(男)の子ら・・」となっており、これを「身分の低い人々」「高い人々」と区別して訳する場合がある。ただ、それもひとつの解釈に過ぎず、ここでは原文のまま人間一般の言い換えと理解した。

詩篇62 「ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ」

                                  2007年1月21日

  多くの信仰者にとっての落とし穴とは、主ご自身を仰ぎ見ることよりも、自分の「生き方」に目が向ってしまうことではないでしょうか。また、キリストご自身以前に、他の信仰者の成功例に習いたいという誘惑もあります。

ある人が高校時代に放蕩三昧の生活に堕落して敬虔な両親を傷つけていましたが、深夜に帰宅し、そっと自分の部屋に入ろうとしたところ、親の寝室のただならぬ雰囲気に気づきました。母は涙を流しながら自分のために必死に祈っていたのです。彼はその様子を見て、瞬時に神に立ち返りました。ところが、その証を聞いたある父親は、その母親の模範に習おうと、自分の息子の帰宅が後れたときを見計らって、息子に聞こえるように大声を出して「私の息子を救ってください!」と叫びつつ祈ったとのことです。しかし、何も起きはしませんでした。その母親は明日の見通しがないまま、ただ必死に神に向かって心を注ぎだしていました。しかし、その模範に習おうとした父親は、「こうしたら、このような結果が生まれるはず・・・」という方法に身を委ねていたからです。

今回は、「沈黙の祈り」という昔大切にされ今は忘れられがちな祈りに目を向けますが、その際、「神に向かって」という沈黙の方向を忘れてはなりません。それは救いの時期も方法も「神の自由」に委ねることです。振り返ってみると、私は何よりも失敗することを恐れて生きてきました。そのため人の行動を予測し、管理したいような思いがあり、予想外の事態に腹を立てることがありました。その態度は神にも向けられていたような気がします。そのため、神から示された道もまた意外な恵みも数多く見逃してきたような気がします。あなたはどうでしょう?

1. 「ただ神に向かって・・沈黙している」

「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」1節)とダビデは告白しています。彼があれほど大きな神の祝福を体験できた鍵は、人間的な打算を超えて神に期待し続けたことにありました。しかも、彼は人間的な意味での成功も、すべてが神のみわざであることを認めていました。この「沈黙」「黙って・・待ち望む」と意訳されることもあります。「信頼」と「沈黙」は、表裏一体のもので、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。それは、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります」(詩篇131:2)と告白できる状態です。母親に必要を満たされた幼児は、目の前に母親がいること自体を喜んで、嵐の中でも安らいでいられることがあります。ですから神の御前に沈黙できることは、神への最高の愛の表現です。ではあなたは神の前でどれだけ沈黙できているでしょう?

イザヤは「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである」(57:20)と言いました。これは私たちの問題かもしれません。口先では「私は神に信頼している!」と言いながら、行動では、人の目を恐れ、人間的な力や富を頼りにして生きます。その心の分裂状態が、沈黙の中で顕わにされます。ですから、以前、私は、沈黙が恐怖で、敵意さへ感じました。心の底に押し殺していた不安や憎しみ、欲望が吹き出て、収集がつかなくなるように感じたからです。それを避けるため、心と身体を休みなく動かし続けてきたのかもしれません。しかし、マイナスの感情は、押し殺しても、腹の底に確かにあり、それが私を動かし続けたのです。その結果、些細なことにエネルギーを傾け、周りの人々までも振り回してきたことがあるような気がします。しかし、その一時的な混乱を通り越すなら、沈黙を通して、神への信頼が、たましいの奥底に根を張るという世界に入れられます。それは、もはや口先だけの信仰ではなく、神に焦点を合わせた行動が生まれます。

「ただ神に向かって」という沈黙の方向性こそが鍵です。羅針盤の針が常に北極を指すように、「私はいつも、目の前に主(ヤーウェ)を置く」(16:10)のです。心の目を、世の富や権力、人の評価などにではなく、ただ神に集中します。なぜなら「私の救い」は、この世の人や物の背後におられる「この方から・・来る」からです。あなたは解決の「方法」にばかり目が向って、神がどのような方かを忘れてはいないでしょうか。聖書を読んで不思議なのは、神の奇跡は毎回ユニークで同じ繰り返しがないことです。しかも、ひとつのみわざを通して驚くほど多くの人の生き方自体を変え続けて来ました。神の御前に静まりながら、自分の人生を神の救いの大きな物語の一部としてとらえ直してみましょう。あなたの身に起こる悲劇さえ、より大きな喜びの物語の一部とされます。ダビデは不当な苦しみを受け続けましたが、それを通して多くの詩篇が生み出され、苦しむ人々に希望を与えています。

2. 「神から、私の望み が来るからだ」

  ところが、私たちは「この方だけが私の岩、救い、また砦の塔。私は決して揺るがされない2節)と告白しても、すぐにまわりの状況に心が揺すぶられます。ダビデ自身も自分を攻撃する人々のことに心が奪われました。神が「私の・・砦の塔」と呼ばれるのは、敵の手の届かない高い所に、私は守られているとの告白ですが、人々にはその土台が、「傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように」(3節)見えます。ダビデもサウル王のもとで最初は輝かしい栄誉を受けていましたが、サウルから追われる立場になったとたんに、自分の同族であるユダの人々からさえも裏切られました。彼らは自分の身の安全ばかりを考え、「口では祝福しながら内側ではのろっている」ような人たちでした。私たちもダビデと同じように神に選ばれた者としての「尊厳」を与えられていますが、それを見る周りの人々はねたみに駆られ、私たちを「おとしめることばかりを計る」ようなことが現実に起きます。

  そんな中で、ダビデは自分の「たましい」に、沈黙せよ」と命じる必要がありました(5節)。1節の「沈黙」は名詞でしたが、ここは動詞形で、多くの翻訳は命令形と解釈しています。たましいはいつも何かに固着しようとしますから、黙っていると勝手な方向に走り出してしまいます。ですから、様々な思いが湧き起こっても、川の流れを見るように右から左に次々とただ流しながら、「ただ神に向かって・・沈黙せよ」と、自分のたましいに穏やかに優しく語りかけることが大切です。その際、分散した心を神に向ける鍵の言葉を持っていると助けになります。それは、「主よ!」のひとことでも、「主よ。あわれんでください」と繰り返すことでも、自分にあったパターンがあります。

そしてここでは、「私の救い」(1節)の代わりに「私の望み」(5節)が、この方から・来る」と告白されます。この沈黙の中で、たましいは、自分の願望からしだいに自由になり、神から与えられる「望み」を、「私の望み」とするように変えられます。マリヤは受胎告知を受け、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と祈り、「神の望み」「私の望み」としました。私は自分の願望に縛られ続けてきたように思います。しばしば、この世的な成功は、その構えをかえって強化させることになります。しかし、期待が強過ぎると、その通りにならない現実の中で失望し、疲れることも多くなります。しかも、自分の期待に縛られていると、その枠を外れたところに注がれている数多くの神の恵みに気づくことができなくなります。そして不満ばかりに目が向かうと、神からの恵みに心がますます鈍感になり、感謝の代わりに不満が鬱積するという悪循環に陥ります。しかし、沈黙の祈りはそれを逆転させ、日常生活の中に驚くほど多くの神の恵みのみわざを発見させる助けになります。

ダビデは徐々に力を抜いて、「この方だけが私の岩、救い、砦の塔。私は揺るがされない(6節)と受動態で希望を告白できるようになってきました。これは2節の繰り返しのようですが、嵐をくぐり抜けたことで、「決して」という「力み」が抜けています。それは、心が大きく揺るがされるのを体験した後に、そんな自分が神によって支えられていることを実感したからです。「私の救いと私の栄光」は、自分の努力以前に、すべて「神のもとにある」からです7節)。そして「私の力の岩と避け所」は、自分の信仰以前に、「神のうちにある」からです。

3. 「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」

  ダビデは、実体験を踏まえて、「民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ」(8節)と勧めます。しかも、その上で、「あなたがたの心を、御前に注ぎ出せ」と、一見、沈黙の反対とも思えることを勧めます。それは心の内側にある様々な混乱した思いを「私たちの避け所」である神に、正直に打ち明けることです。神への沈黙は、感情に蓋をすることではないからです。実際、「注ぎ出す」とは、「空にする」とも訳される言葉で、沈黙とは矛盾しません。湧きあがった不安や怒りや悲しみを、優しく受けとめた上で、たとえば「主よ。私は不安です・・・」と言いつつ、その気持ちを主にささげるのです。すると、感情の嵐は、しだいに落ち着きます。目の前のハエを追い払おうとするならハエは暴れます。しかし、無視するなら、ハエは静かに立ち去ります。それと同じかもしれません。

  9、10節は翻訳が困難ですが、人の力に頼ることのむなしさが語られていることは確かです。神は現在、天からパンを降らせる代わりに、人との協力から成り立つ仕事を通してパンを与えられます。しかし、目に見える現実に心が奪われ、神の前に静まることを素通りするなら、人の顔色ばかりを窺うような人間の奴隷になってしまいます。しかも、人は所詮自分の身を守ることに夢中で、いざとなったら「欺くもの」です。また、この世の権力者が人の目にどんなに重く見えても、神の目からは「息よりも軽い」存在に過ぎません。「暴力に信頼するな」(10節)とは、8節の「この方に信頼せよ」との対比表現です。人は「暴力」または「力による強制」に動かされがちで、短期的には効果的ですが、そこに落とし穴があります。それが、「強さが結果を生んでも、それに心を留めるな」という勧めです。富や力を基にした「強さ」は、麻薬のように人を依存させ目に見えない神を忘れさせるからです。

  「力は、神のもの」(11節)とあるように、目に見える力の背後におられる神にこそ目を向けるべきです。そして、王であるダビデは、「主(「アドナイ」主人)よ」と呼びかけつつ、「真実の愛(ヘセッド)も、あなたのもの」(12節)と、主がご自身の契約を守り通してくださる真実さを賛美します。「神を知る」という黙想の目的は、何よりも「神は真実です」(Ⅰコリント10:13)ということを腹の底に据えることです。そして最後に、主を「あなた」と呼びつつ、この世の因果律や方法論を越えて、ただ神だけが私たちの労苦に公平に「報いてくださる」方であると告白します。確かに、誤解を受け非難されることは本当に辛いことです。しかし、肉なる人間は誰も、あなたを完全に理解し、正しく評価することはできません。それなのに私たちは、「この人にだけは分ってもらいたい・・・」などと忙しく動き回ったあげく、主の御前に静まるという時間を亡くしてはいないでしょうか。私自身、人から誤解されたくないという思いに駆り立てられて、無駄な時間を過ごしたばかりか、問題を広げてしまったことすらあったことを反省しています。この世の不条理は常に目の前にあることを受け止め、この世の尺度を越えた神の視点にすがるべきなのです。

私たちは常に神に向かって生きるべきです。その始まりは、神の御前に心を注ぎ出し「空」にすることです。黙想の目的は、霊的な恍惚状態を体験することではありません。光は、ちりに反射することで見られるのですから、心のちりに驚く必要はありません。こころを透明に、空にすることで、「キリストの心」(Ⅰコリント2:16)が、「土の器」を通して生きることが可能になります。そのきっかけが神の前に沈黙することです。そしてその「実」は、しばしば黙想の中ではなく、日常生活に知らないうちに表わされます。「実」が見えないことに失望する必要はありません。

|

2007年1月 7日 (日)

Ⅱサムエル7章~10章 「神の真実とダビデの真実」

                                                       2007年1月7日

私たちの目の前には思いもよらないことが起きます。しかも、聖書の中心は三千数百年前のイスラエルの歴史を通して語られたことで、これも私たちの常識をはるかに超えたことです。そのため私たちはしばしば、神の救いのご計画の核心を見失ってしまいがちです。ダビデは、詩篇131篇で 「私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、くすしいことに私は深入りしません・・とこしえまで主(ヤハウェ)を待て」と歌いましたが、私たちは既に明らかにされていることから離れることなく、聖書の核心は何かを見るべきでしょう。それは、主がご自身の約束を真実に守り通してくださるというヘブル語の「ヘセッド」にまとめることができると思われます。

1.「わたしが、あなたのために家を建てる」という神の真実への応答

ダビデは、「この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまって」(7:1)という現実を恐れ多いことと思い、神殿を建設したいと願います。それに対し主は、被造物に過ぎない者が創造主の家を建てるという発想の滑稽さを指摘しながら、彼の発想を逆転させるように、「主(ヤハウェ)はあなたのために一つの家を造る・・・わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし・・・彼はわたしの名のためにひとつの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(7:11,12)と約束されました。そこにはダビデの家を建てるのも、神殿を建てるのも主ご自身であるとの宣言があります。それを実現したのは肉によるダビデの子、ソロモンである以上に、神がダビデの家系に人として生まれさせられたご自身の御子イエス・キリストであられるのです。

それを聞いたダビデは、「アドナイ(主人)、ヤウェよ」(新改訳では「神、主よ」と訳されている)という呼びかけを七回繰り返します(7:18,19,20,22,25,28,29)。それは、イスラエルの真の支配者、「王」は自分ではなく「ヤウェ」であられるという告白です。それは、何かの事業を営んでおられる方が、「真の社長は私ではなくヤウェです」と告白するようなものです。ダビデは、自分が王とされ、その家が永遠に続くという途方もない約束を受ける資格など自分には一切ないことを謙遜に認めます。そればかりか、「地上のどの国民があなたの民のよう、イスラエルのようでしょう。神ご自身が来られて、この民を贖い、これをご自身の民とし、これにご自身の名を置かれました・・・」(7:23)と、イスラエルの尊厳も神の一方的なあわれみによると告白します。そして彼は「イスラエルの神」「万軍の主(ヤハウェ)」と呼びつつ(7:26,27)、神ご自身による「わたしが、あなたのために家を建てる」という約束が成就されるようにと、「あなたのしもべの家を祝福して、とこしえに御前に続くようにしてください」と大胆に祈ります(7:27,28)。

2. アブラハムへの約束の成就

「ダビデはペリシテ人を打って・・屈服させ・・メテグ・ハアマをペリシテ人の手から奪った」(8:1)と記されますが、この地はⅠ歴代誌18:1によると「ガテとそれに属する村落」を指します。かつてダビデはガテの王アキシュの保護下にかろうじて生き延びたかのようでしたが(Ⅰサムエル27:2-7)、立場が完全に逆転しました。また、ダビデはかつてモアブの王に両親を保護してもらったことがありましたが(Ⅰサムエル22:4)、このときは縄を使いながら三分の二の兵士を無作為に選び、殺したかのようです。その理由を、モアブが両親を殺したからと説明されることもあるようですが、事実は分りません。ただ、ペリシテもモアブも、かつてダビデを助けたのは、サウルがより強い敵だったためであり、ダビデがイスラエルを統一した後は、一転して攻撃を仕掛けてきました。ダビデは、恩を仇で返すような人間ではありません。ここで強調されているのは、ダビデが頼った相手が、ダビデに服従したという立場の逆転です。

その後、ダビデは、ツォバの王が戦いを挑んできたとき、「彼を打った」(8:3)のですが、その中心都市はダマスコのさらに北にあるレボ・ハマテです。そこはかつてイスラエルがエジプトを出て間もなく、南からカナンに進入しようと、十二人の偵察隊を遣わして調べた約束の地の北の果てです(民数記13:21)。そして、ダビデは「ダマスコのアラム(シリヤ)に守備隊を置いた」(8:6)とあるように北の大国を完全に支配しました。その理由が、「こうして(ヤハウェ)は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」(8:6)と、これらがすべて主の勝利であることが強調されます。そればかりか、その北の強国ハマテの王トイは、ツォバからの攻撃に悩んでいたので、ダビデのこの勝利を祝い、貢物を携えてきたというのです。ハマテは、大河ユーフラテスの南に広がる国ですから、何とも驚くべきことです。

その後、ダビデは死海の南東をも制圧し、「エドム全土に守備隊を置いた」(8:14)というのです。この際も、「このように主(ヤハウェ)は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」とまとめられます。これによって、かつてのアブラハムへの約束「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテスまで(創世記15:18)が成就し、この広大な地が南から北の果てまでイスラエルの支配に服することになったのです。

かつて(ヤハウェ)は、イスラエルの民に契約の箱を与え、彼らの真ん中に住み、彼らをまっすぐに南から約束の地に導き上ろうとされました。そのとき、モーセは、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ・・恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記1:21)と言いましたが、彼らは主の約束を信頼せず、偵察隊の報告を聞いておびえ、エジプトに帰りたいと叫びました。それ以来、神は、約三百年間もの間、彼らの不従順に耐えながら、ついに約束の地を支配させ、アブラハムへの約束への真実を示されたのです。

3. ダビデの王としての統治と真実

「ダビデはイスラエルの全部を治め」(8:15)とありますが、「治める」とは王」ということばの動詞形です。ダビデは「ヤウェ」を真の王として仰ぐことによって、ユダ族ばかりか北の十部族をもまとめる「王」として機能できたのです。その統治の特徴は、「その民のすべての者にさばきと正義を行なう」(原文直訳)ことでした。彼は、部族間の争いに公正なさばきを下し、すべての部族が「正しい」と認めるような政策を実行することで、イスラエルにモーセやヨシュアの時代のような神の民としての一致が生み出しました。軍事的には甥のヨアブが力を持っており、二人の間には緊張関係がありましたが、ダビデは彼の能力を生かすことができました。「参議」は「記録官長」、「書記」は「秘書官長」とも訳される文官のトップです(8:16,17)。それにはさまれるように二人の祭司の名が記され、その働きがいかに尊重されたかが分ります。そしてエホヤダの子ベナヤは後に護衛長として描かれますが(23:23)、彼が指揮していたのは「ケレテ人とペレテ人」という外人傭兵部隊でした。つまり、ダビデは異民族を自分の護衛に用いたのです。なお、「ダビデの子らは祭司であった」(8:18)とありますが、これは「補佐役」と訳した方が良いかもしれません。ダビデは律法に従ってレビ人を神への奉仕に用いていたはずだからです。とにかく、ダビデの治世には、主を礼拝することが常にその中心にありました。それと同時に、他の部族を公平に扱い、異民族をも重用するという幅の広さが特徴でした。それは、神への愛と隣人愛を政治の中心に据えたということもできましょう。

9章ではダビデが亡くなった親友のヨナタンの家に誠実を尽くす様子が描かれます。その際、彼は、サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私は・・その者に恵みを施したい(9:1,3)と繰り返します。確かにサウルの子ヨナタンはダビデの家と契約を結んだとき、「私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵み(真実「ヘセッド」)をとこしえに私の家から断たないでください(Ⅰサムエル20:14,15)とダビデに願いましたが、ここでダビデは、ヨナタンではなく「サウルの家の者で・・」と言ったことは注目すべきです。これは、「私の命を不当に狙い続けた王の家に、憎しみの代わりに真実の愛を施したい」という願いです。そして、彼はまずサウル家の有力なしもべだったツィバを召し出し、彼を通してヨナタンの子、足が不自由なメフィボシェテを探し出します。彼はダビデを恐れて「ひれ伏して礼をした」のですが、ダビデは「恐れることはない。私はあなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい」と言います(9:6,7)。そして、彼の祖父サウルの地所を回復させ、その管理をサウルのしもべのツィバに全面的に任させ(9:9,10)るばかりか、彼を王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をする」(9:11)立場に引き上げました。彼にはすでにミカという息子がいましたから、これはダビデ家にとっての競争者サウル家を保護し、国の分裂の種を温存するような意味をもちました。しかし、ダビデはそのような打算を超えて行動しました。

その際の鍵のことばは、「恵みを施す」(9:1,3,7)です。これは10章1,2節では「真実を尽くす」とも訳され、ヘブル語で「ヘセッド」と発音され、聖書の中心的なことばです。それは「契約を守り通す愛」という意味です。ヨナタンは自分の父に逆らってまでダビデに真実を尽くしましたが、ダビデは今、彼が死んでも、その真実に応答しているのです。それは、ダビデの家を危険に陥れるように見えますが、ダビデの家を建てるのは、人間の力ではなく、神の真実でした。ダビデは、神が彼の家を永遠に立てると言われたことばの真実に信頼して行動したのです。

10章以降には、死海北東部のアモン人との戦いが描かれますが、これは8章の経緯を詳しく述べたものです。ここでは、ダビデが「真実を尽くそう」としたのに、それが仇で返されて争いになったという面が強調されています(10:2-4)。その際、北のアラムが挟み撃ちにしようと南下して来ましたが、ヨアブの冷静な判断と勇気ある行動によって戦いが勝利に導かれました(10:9-13)。ただ、それによって北の異民族が8章にあったツォバの王ハダデエゼルのもとに団結します(10:15,16)。それでダビデは「全イスラエルを集結し」(10:17)、北の強国アラムを打ち破ります。その後、8章にあったように、ハマテの王までもがダビデに服するようになり、アブラハムに約束された広大な支配地に神の平和がもたらされたのです。イスラエルという国の一致が、約束の地の安定をもたらしました。ダビデは、ヤハウェをイスラエルの真の王として建てたたことによって、約束の地全体をも支配できたのです。

 

神はアブラハムへの約束に真実であられたというのが、旧約聖書の要約のようなものです。そして、ダビデの繁栄の基礎も、彼が主の愛と親友の愛に真実に応答したということにあります。神の真実と人の真実が共鳴しあった結果として、ダビデ王国が築かれたのです。そして今日の箇所はその頂点で、その後、転落が始まります。Ⅱ讃美歌191 「主のまことは・・」は、リビングプレイズでは「父の神の真実は、とこしえまで変わらず、いつくしみとあわれみは尽きることがありません。すばらしい主、その真実は朝ごとに新しく・・」と訳されて歌われています。これこそ神のヘセッド(真実の愛)を簡潔に歌ったものでしょう。この曲は、哀歌3:22,23にある「私たちが滅びなかったのは主(ヤハウェ)の恵み(ヘセッド)による・・・あなたの真実は力強い」をもとに作られました。それは、イスラエルが神に背き、当然の報いとして国を失ったのに、神はその真実のゆえに彼らの国を回復させてくださるということを歌ったものです。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)と言われる主の愛に従いましょう。そして、私たちも、この地においてダビデに習って、状況がいかに変わろうとも、友への真実を守り抜きたいものです。

|

2007年1月 2日 (火)

詩篇16篇 「私はいつも、目の前に主(ヤハウェ)を置いた」

詩篇16

                   ダビデのミクタム

守ってください。神よ。                     (1) 

あなたに私は身を避ける。

(ヤハウェ)に私は申し上げた。                    (2)  

「あなたこそ私の主(アドナイ)。あなたに反して、私の幸いはない。」

地に住む聖徒、栄光ある者たちは、すべて私に好ましい。       (3) 

しかし、他の神々を追い求める者たちの痛みは増し加わる。           (4)

私は、彼らが注ぐ血の供え物を注がず、その名を口にもしない。

 

(ヤハウェ)こそ、私の割り当ての地、また私の杯。                    (5)

あなたは、私の運命を 握っておられる。

はかり縄は私の喜びの地に落ち、受け継ぐ地は美しい。             (6)

導いてくださった主(ヤハウェ)を ほめたたえよう。                     (7)

夜になっても、内なる思いが私をさとしてくれる。

私はいつも、目の前に主(ヤハウェ)を置いた。              (8)  

主が右におられ、私は揺るがされないから。

それゆえ、この心は楽しみ、私のいのちが喜び、           (9) 

この身体も安らかに落ち着いている。

それはあなたが私のたましいをよみに捨て置かず、          (10)    

あなたに忠実な者には墓の穴さえも見させないから。

あなたは私に、いのちの道筋を知らせてくださる。          (11)

御前には楽しみが満ち、その右には歓喜が絶えない。

                              翻訳:高橋秀典

注:ミクタムとは意味不明のことばで、刻まれた歌、黄金の歌、贖いの詩などという解釈がある

5節で「運命」と訳した言葉は、原文では土地を割り当てるときの「くじ」を指すことば

7節の「内なる思い」とは原文では「腎臓」と記され、そこに感情の座があると思われていた。

9節の「私のいのち」と訳した言葉は、原文では「私の栄光」となっており人の最も高貴な部分を指す

                                                                                                                                                         2007年1月1日

  この詩篇は今から三千年前にダビデによって記されたものですが、それから千年後のペンテコステのときにペテロがキリストの復活を語るときに用いた中心聖句です(使徒2:25-28)。また、パウロもキリストの復活を語るときにこの詩篇から解き明かしました。そして、この詩篇は現代の私たちにも信仰の基本を告白させるものです。

1. 「あなたこそ私の主(主人)、あなたに反して、私の幸いはない」

  この詩篇には全体として、神への信頼が力強く歌われ、希望に満ち溢れている調子が感じられますが、書き出しは、「守ってください!」という必死の叫びになっています。たぶんダビデはこれをサウル王に追われてユダの荒野をさ迷い歩き、またペリシテの地に亡命しているときに記したのではないでしょうか。彼は目の前の危険を見ないようにして自分に「私は大丈夫だ!」と言い聞かせようとしていたのではありません。私たちも自分の置かれている状況を冷静に判断するなら、日々、危険が満ち、何が起こるか予想もつきません。ですから、この単純な叫びを日々、口にすべきでしょう。そしてそれと同時に、人間的な安全策を図ろうとしたり、頼ってはならない人にたましいを売るような屈服をするのではなく、神に向かって、「あなたに私は身を避ける」とも告白すべきです。

  その際ダビデは、最初、「神よ」と呼びかけた方を、「ヤハウェ」として描きます(2節)。そこには、この方こそがすべての存在の源であり、全世界を治めておられるという意味が込められています。そして彼は、「あなたこそ、私の主(アドナイ)」と告白します。これは後に「ヤハウェ」と発音することをはばかって、「主人」という意味を込めて読み変えたことばで、ここでは、「私にとっての主人は、地上のだれでもなく、あなたご自身です」という思いが込められています。そして「あなたに反して、私の幸いはない」とは、厳密には、「私の幸いは、あなたの上にはない」と記されています。それは、自分を神の上に置き、願い事ばかり並べて神を御用聞きのように扱うときに自分の幸いもありえないという意味です。人間の最初の罪は、創造主を「私の主」とする代わりに、自分を神のようにし、欲望のおもむくままに神の命令を破ったことでした。それによって、人は、エデンの園での「幸せ」を失ったのでした。ですから、ここは、「私の幸いは、あなたを私の主人とすること以外にはありえません」と意訳することもできましょう。

その上で、ダビデは、3,4節で、自分が他者とどのような関係の中に生きるかを明確にします。まず彼は、自分以外のこの地の神の民をも「聖徒」、つまり「聖なるものとされた人々」と呼び(3節)、また王侯貴族であるかのように「栄光ある者たち」と呼び、彼らとの交わりをこそ自分の喜びとすると告白します。一方で、他の神々に走った者たちが、一見、うまく生きているように見えても、「痛みは増し加わる」(4節)という自滅に向っていることを冷静に見つめます。実際、サウルは、霊媒をする女に助けを求めて自滅しました。またダビデはペリシテ人の支配地に逃れますが、彼らの偶像礼拝の習慣の影響を受けることはありませんでした。私たちもこの地では、別の神々を追い求める人々の中に住まわざるを得ませんが、偶像礼拝に加わるようなことがあってはなりません。私たちにとっての何よりも「好ましい人々」こそは、同じ神を礼拝する聖徒なのです。使徒信条に、「聖徒の交わりを信ずる」という告白があります。人間的には、「クリスチャン以外の方が尊敬できる人々が多い」という現実があるかもしれません。しかし、キリストつながっている人々は、すべてそのままで、「聖なる者」であり、「栄光ある人々」なのです。そのように他のクリスチャンを神の基準で、「霊の目」で暖かく見ることができなくて、どうして自分を「高価で尊い」者と見ることができるでしょうか。私たちは目に見える現実を越えて、「聖徒の交わりを信じる」ように召されているのです。

  ヤハウェだけを「私の主」とすることこそが信仰の始まりですが、それは同時に、クリスチャンとの交わりをこの世の交わりに優先して生きることの始まりでもあります。私たちは他者との交わりの中で主を礼拝するのです。  

2. 「ヤハウェこそ、私の割り当ての地、また私の杯」

  ダビデは続けて、「ヤハウェこそ、私の割り当ての地、また私の杯」(5節)と告白しました。イスラエルにとっての「幸い」は、約束の地での生活の中にあり、その相続地は命賭けで守るべき宝でした。しかし、土地を与えてくださる主を見上げる代わりに、地上的な駆け引きや、人間の力によって自分の権益を守り通そうと必死になる時に、そこには争いが絶えなくなります。ダビデは自分の居場所を力づくで守ろうとするのではなく、サウルや同胞の裏切り者との争いを避けて逃げ続けました。それは、主こそが全地の支配者であると信じていたからです。また同時に、ダビデは「ヤハウェこそ、私の杯」と告白しました。それは、「ヤハウェこそが私の喜び」と言いかえることができます。「主よ、人の望みの喜びよ」という賛美歌は、キリストへの愛の告白です。最愛の人とともにいられることが喜びであるのと同じように、「主がくださる何か」ではなく、主ご自身との交わりをこそ私たちは第一に求めるべきです。

  「あなたは、私の運命を握っておられる」と訳した「運命」とは、原文で「くじ」と記されます。それは土地の分配を決める手段でした。日本ではおみくじで一年を占う習慣がありますが、神は明日のことを心配するよりも、明日を支配する神に信頼することを繰り返し命じます。私たちの人生における、偶然の出会いや偶然の事故または幸運ということすべての中に神の御手が働いています。私たちは自分の人生を本当の意味でコントロールすることはできませんが、私の主である方こそは、私の人生をコントロールすることがおできになるのです。イエスは、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイ10:29)と言われました。

  そのような中で、「はかり縄は私の喜びの地に落ち、受け継ぐ地は美しい」(6節)とダビデは告白します。この「はかり縄」は「境界線の縄」(バウンダリー・ライン)とも訳されることがあります。土地の境界線は、自分の財産というよりは、私たちが守るべき責任範囲と理解すべきだからです。それは家族や仕事であったりするでしょう。富の分配という観点からすると、人生は決して平等ではありません。自分の出生の惨めさを一生恨みながら生きざるを得ない人もいます。しかし、すべてを支配する神に信頼できる人にとっては、家族も仕事も環境もすべてが「美しい」ものと変えられるのです。そして人生の喜びは、与えられた責任を果たすというプロセスの中に生まれます。

  それは、ヤハウェが「導いてくださった」(7節)結果です。「夜になっても、内なる思いが私をさとしてくれる」というときの「内なる思い」とは原文で「腎臓」を意味します。これは私たちの最も奥深い思い、感情の奥にある部分ですが、そこが「私をさとしてくれ」、この人生全体を「神の賜物」として喜ぶことを可能にしてくれるというのです。

3. 「主が右におられ、私は揺るがされない」

  8節から終わりまでは、ペテロがペンテコステの日のメッセージに引用した箇所です。そのことばが旧約での詩篇と若干違っているのは、聖書のギリシャ語訳からの引用が記録されているからです。ダビデは何よりも、「私は目の前にヤハウェを置いた」と告白します。これは、ギリシャ語訳では「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた」となっています(使徒2:25)。多くの人々は、いつも誰かの顔色を伺い、他の人の期待に添うような生き方をしがちですが、私たちはいつも、すべてのことを主に向って行ない、主のご期待に添うことを考えなければなりません。

  不思議にも、そのようにできる理由が、「主が右におられ、私は揺るがされないから」と記されます。つまり、主が右にいて私を支えてくださるからこそ、「目の前に主(ヤハウェ)を置く」ことができるというのです。これは、位置関係ではなく、力関係を言い表したものです。人は、自分の支えとなる人の眼差しを意識し、その期待に添おうとするのが常ですが、目に見える助け手の背後におられる方こそが、主(ヤハウェ)です。ですから、私たちは常に、主の前に立たせられている者として、主に対する責任を果たすという気持ちですべてのことをなすべきなのです。

そうするとき、「この心は楽しむ」(9節)ことができます。多くの人の憧れは「楽しむ」ことにありますが、「主を目の前に置く」者こそが、真に楽しむことができるというのです。また私のいのちが喜び」は原文で、「私の栄光・・」と記され、ギリシャ語訳では「私の舌」、またしばしば「たましい」とか「全存在」と意訳されます。これは自分にとっての最も尊い部分が喜ぶことを意味します。最後に、「この身体も安らかに落ち着いている」と加えられ、心、たましい、肉体のすべてが、安心し、喜んでいる様子が描かれます。「目の前に主(ヤハウェ)を置く」とは、主の厳しいさばきを恐れるという意味ではありません。ダビデは詩篇18:19で「主が私を喜びとされたから」と告白しますが、私たちもキリストにあって大胆に同じ告白をすることができます。つまり、主がこの自分のことを楽しみ、喜んでおられるからこそ、私も目の前に主を置くことで、楽しみ、喜び、この身体をも安らかに落ち着かせることができるのです。

それがまた、「それはあなたがわたしのたましいをよみ(原文「シェオル」、ギリシャ語訳「ハデス」に捨て置かず、あなたに忠実な者に墓の穴さえも見させないから(10節)と説明されます。ルカは、ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちが、死んで葬られた後、ハデスの炎の中で苦しみもだえる様子を描きました(16:19-25)。イエスが十字架上で、悔い改めた強盗に、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)と約束されたように、イエスのたましいは「ハデス」ではなく「パラダイス」に引き上げられました。この箇所を、ペテロは、「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒2:24)ということの証明に、またパウロは、「神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした」(使徒13:37)ということの証明として引用しました。私たちも、イエスの御跡に従い、神に「忠実な者」として生きるときに、肉体的な死を恐れる必要はまったくありません。ただしそれは、「私は忠実です!」と言えるような生き方のことではなく、「不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)と、ただただイエスの真実にすがる生き方のことです。パリサイ人ではなく、自分の罪深さを認めた取税人こそが「忠実な者」と見られたということを決して忘れてはなりません。

そして、私たちが自分の足りなさを自覚するときに、「あなたは私に、いのちの道筋を教えてくださいます」(11節)と告白することができます。そして、「いのち」とは、「主の御前で楽しみ、主の右には歓喜が絶えない」と言えるような状態が永遠に続くことを意味します。それこそ私たちの人生のゴールです。私たちは、キリストにつながることによって、「主の右の座」にまで引き上げていただくことができるのです(ダニエル7:27、黙示22:5)。

ダビデが記したこの詩篇には三位一体の真理が隠されているように思えます。私の心が沈んでいるときに、私の「うちなる思い」を導き、私がイエスにすがるようにと「さとして」くださるのが聖霊です。そして、イエス・キリストが、「私の右」にいて私を支え、弁護してくださることがわかるからこそ、私は目の前に、恐れることなく「主(ヤハウェ)を置く」ことができるのです。私たちは三位一体の神の愛に取り囲まれて、永遠の「楽しみと歓喜」の世界に向って、この地上にある束の間の悲しみや苦しみに立ち向かって行くことができるのです。「守ってください」という叫びから始まった信仰者の歩みは、楽しみと歓喜に確実に向っているということを今年も心に留めて生きたいと思います。

| | コメント (0)

ルカによる福音書 12:35-59 「イエスを見上げながら生きる」

                                            20061231

 クリスマスには「救い主がこの地に来られた」と喜びますが、ふと、「しかし、何が変わったというのだろう?」と思うことがないでしょうか。旧約聖書の最後のマラキ書では、「その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる」というさばき「わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある」という救いが並行して記され(4:1,2)、当時の人々は、救い主がふたつを同時に実現すると期待しました。しかし、実際は、救い主は二回に分けて来られることになりました。一度目は二千年前にひ弱な赤ちゃんの姿で来られ、成人して神の国を述べ伝え、そして人々の罪を負って十字架にかかり、復活し、天の父なる神の右に着座されました。そして、二回目は、燃える炎のような目と、鋭い両刃の剣を口から出すさばき主として、この地に降りて来られます。このように主のさばきが遅らせられたことによって、主のご支配がこの地にまだ実現していないように見えるのです。

1. 「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」

 イエスはルカ12章で「恐れなければならない方・・恐れなさい」(5節)と命じ、愚かな金持ちのたとえから、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」(12節)と言いつつ、「何はともあれ、あなたがたは神の国を求めなさい」(31節)と命じました。これらの中心点は、あなたの心の目はどこに向けられているのかという問いです。その上でイエスは、主人の留守を守るしもべのたとえを話されます。ここでは留守の理由が「婚礼」です。当時の婚礼は一週間以上も続くことがあり、いつ終わるかは予測がつきませんでした。この間、それぞれのしもべの、主人への心の持ち方が問われます。あるしもべは「鬼のいぬ間に命の洗濯」などと、勝手気ままに振舞うかも知れません。しかし、日頃から主人との交わりを喜んでいる者は、主人の留守を寂しがって「腰に帯を締め、あかりをともし」ながら、「その帰りを待ち受け」ています(35,36節)。その姿を喜んだ主人は、自分がご馳走をたくさん食べてきたことを思いながら、何と、主人自ら「しもべたちを食卓に着かせ・・給仕してくれる」(37節)というのです。

イエスは主人の帰りが「真夜中」また「夜明け」になっても、準備こそが祝福になると強調したのですが(38節)、反対に、準備していないことが災いになる例として、どろぼうへの用心のことを話します。ただこれは、「人の子は思いがけない時に来る」(40節)ということの例に変わります。「人の子」とはイエスご自身のことを指すことは明らかですから、当時の弟子たちにとっては理解しがたいたとえでした。そこでペテロはその意味をイエスに尋ねます。

かつて弟子たちは二度に渡って、イエスの代理として「神の国」の福音を宣べ伝えるために派遣されましたが(9,10章)、今度は、イエスが遠くに行って、弟子たちが留守を守るという構図として、彼らの使命が語られます。弟子たちは、「その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人」(42節)であることが期待されています。これは、第一義的にはみことばをもって信徒を養う使徒たちに向けて語られたことですが、同時にすべてのキリスト者に向けてのことばでもあります。それは、私たちはすべて、イエスから使命を委ねられ、それを全うするために御霊の賜物を与えられているからです。忠実な奉仕を認められたしもべには、主人の全財産を管理するという自由が与えられます。それは私たちの働きが無限に広がる可能性を指しています。

反対に、与えられた特権を乱用し、委ねられた下男下女を打ちたたき、「食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます」(45,46節)と言われ、「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべはひどくむち打たれます・・・」(47節)と警告されます。後に使徒ヤコブは、これを根拠に、「私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」(ヤコブ3:1)と教会の指導者を戒めました。ただ、これもすべてのキリスト者に適用できることで、イエスはそれを一般原則化したことばとして、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(48節)と言われました。

人はそれぞれ異なった環境に生まれ育ち、異なった能力を与えられています。そして、恵みを多く受けた人々は、「より多く要求される」のです。それによって神はひとりひとりの公平をはかります。ただし、「私は少ししか与えられていないから・・」などと横比較をすることも危険です。世界には驚くほど悲惨な中に生まれ育っている人々がいます。彼らから見たら、私たちはだれも、「より多く与えられている者」であることを自覚する必要があります。あなたは主から大きな期待をかけられた「高価で尊い」存在です。日々、主の目を意識して生きてゆきましょう!

2. 「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。」

 イエスはその上で、「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」(49節)と言います。これは、イエスが「受けるバプテスマ」(50節)としての十字架との関係で理解されるべきです。つまり、「火が燃えている」とは、霊に燃えるということより、人と人との関係に火のさばきが生まれることを指します。未信者の方々に福音を宣べ伝えることは、人にさばきをもたらすことにもつながるからです。たとえば、私たちはイエスを救い主と信じることによって自分が救われ、神の子とされたと喜びます。しかし、それは一方で、イエスを信じていない人は、救われてもいないし、神の子にされてもいないと言っていることでもあります。実際、あなたの隣人が良い人であればあるほど、「あなたはイエスの身代わりの死を必要とするほどの罪人です」と言われて喜ぶことができるでしょうか。反発するのも当然といえましょう。ですから、イエスはここで、ご自身が、「地に平和を与えるため」以前に、「むしろ、分裂」をもたらすために来たと言われたのです(51節)。

もちろん、クリスマスの賛美歌にも繰り返されるように、イエスは「平和の君」として世に来られたことは確かです。しかし、「平和」は、苦しみを通して実現するというプロセスがあることを忘れてはなりません。そのため、「父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになる」(53節)という現実が、未信者の家族から誰かが信仰に導かれたときにしばしば起きます。実際、福音が広まる過程で、浮気を繰り返す妻に耐えていた夫が、クリスチャンになって貞淑な妻となったとたん離縁をし、また息子の放蕩に忍耐していた父親が、クリスチャンになって従順な息子になったとたん勘当したというような時代がありました。当時の人々は、クリスチャンよりは浮気女や不良息子の方がはるかにましだと思っていたのです。

ところで、イエスのこの厳しいことばにも福音が隠されています。多くの人は家族関係で深く傷つき、その癒しを求めてイエスにすがりますが、それによって家族関係がかえってこじれるように見えることがあります。しかし、イエスは、それが「あなたの対応が悪いから・・」などと責める代わりに、「それはわたしがもたらした分裂です。」と、その責任をご自身が担うと言っておられるのです。そこには、外科手術のような、痛みを通しての癒しの希望があります。多くの人は身近な人との摩擦を恐れながら、真理に直面することを避け、問題を先送りして臆病に生きています。しかし、主が起こされた問題は、主が必ず解決してくださいます。あなたの責任は主に従うことです。

3.「どうして今のこの時代を見分けることができないのですか?」

  その上でイエスは、「群集」(54節)を、「偽善者」(56節)と非難します。それは彼らが自分たちの罪の現実に直面しようともせず、イエスにある救いを求めようともしないからです。彼らは天候をうまく予測ができるのに、「今のこの時代を見分けることができない(56節)、つまり、イエスにおいて新しい時代が到来しているということを見ようはしないというのです。そればかりか、彼らは、目に前にイエスの様々なみわざを見ながら、「自分から進んで、何が正しいのかを判断しない」(56節)というのです。彼らは、宗教指導者の権威という体制に迎合しているだけで、真に国の行く末を心配してはいません。まさにそれは現代の日本の問題でもあります。当時、自分から進んでイエスにある救いを求めなかった人々は、それから約四十年後に、ローマ帝国への武力闘争に巻き込まれて滅びます。

  これは、現代の私たちにとって、キリストの再臨を待ち望むことを意味します。地球温暖化から家庭の破壊まで、いろんなところにこの世界の行き詰まりの兆候を見ることができます。確かに今までどの時代にも終わりのしるしがありました。しかし、神は私たちをあわれみ、忍耐をもって「さばき」を遅らしてくださったのです。キリストの十字架と復活以降、私たちは既に終わりの時代に突入しています。ですから、世界の問題を政治や力で解決しようと奔走する前に、最終的な解決は主の再臨にかかっていることを受け止め、主の前に静まり「自分から進んで」、主の目に「何が正しいのかを判断し」、今自分に課せられた責任を、静かに、果たし続けるという姿勢が大切です。

  「あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するように努めなさい」58節)とは、人から恨みを抱かれるようなことがあったら、それを謙虚に受け止めるようにとの勧めです。これは、先のイエスがもたらす分裂との関連で、バランスをもって受け止めるべきことばでしょう。神の前に自分が正しいと認められるということが、単なる独善に過ぎず、周りの人に迷惑をかけながらそれに気づこうともしないということが偽善者にはよくあるからです。私たちもその点で、イエスへの真実を表わすということ以外のことで隣人のひんしゅくや怒りを買うということがないように注意しなければなりません。イエスに従おうともせず、回りの人を怒らせたまま、独善的に、「私は赦されている・・」と思い込んだまま最後の審判の座に立つことがあっては手遅れになります。

  バッハの作品で、「シオンは物見らの歌う声を聞き」は、特別番組のバックや結婚式によく使われます。しかし、この原曲の由来を知る人はほとんどいません。今から約四百年前、フィリップ・ニコライというドイツの牧師は、ペストの流行によって1300人もの人々の葬式をあげるという深い悲しみの中で、天から主のあわれみの眼差しが自分に向けられていることを感じて、「真夜中とは、主の救いを待ち望むとき。」と歌いました(讃美歌174番)。そしてこの曲はドイツコラールの王と呼ばれ、バッハの編曲を通して、いたるところで奏でられ、闇の中に希望を生み出しています。私たちの目の前にも、「なぜこのようなことが・・」と思える出来事が起こります。しかし、主はその悲しみを既にご自身で担っておられます。それこそクリスマスのメッセージです。同時に、主はともに悲しむだけでなく、全能の力をもって今ここで、すべての問題を支配しておられ、再臨とともに最終的な解決を与えてくださいます。悩みのない人生など、どこにもありはしません。ですから、問題の原因をさぐって解決することには限界があります。何よりも大切なのは、「今、ここで、主を見上げ」、主の眼差しを意識しながら、誠実に一日一日を生きることです。

シオンはもの見らの歌声を聞き

シオン(神の民)は花婿到来を告げる夜警の歌声を聞く。

その心はその知らせを聞き、喜びに満たされて踊る。

おとめたちは目覚め、花婿を迎えようと急ぎ支度する。

待ち焦がれた友は、今、天から晴れやかに降りてくる。

あふれるばかりの恵みと、力強い真理に満ちた姿で。

シオン(神の民)の光は輝き、シオンの明星は今、昇る。

さあ来てください。栄光のかんむりをかぶった王よ。

主イエス。神の御子よ。ホシアナ(万歳!栄光あれ!)

われらはみな喜びの祝宴の広間へとついて行こう!

そして、そこで主の晩餐にあずからせていただこう!

| | コメント (0)

詩篇8篇 「人とは何者なのでしょう」

   詩篇8篇  

(指揮者のために。ギデトにあわせて。ダビデの賛歌)

主(ヤハウェ)よ。                                      (1)        

私たちの主(主人)よ。

御名は全地で、なんと威厳に満ちていることでしょう。

そのご威光は、天を越えたところに輝いています。

あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられ、      (2) 

刃向かう者を沈黙させ、敵と仇(あだ)とを動けなくさせました。 

あなたの指のわざである天を仰ぎ見、                     (3)   

あなたが配置された月や星を見ますのに、

人とは、何者なのでしょう。これを御心に留めてくださるとは。       (4) 

(アダム)の子とは、何者なのでしょう。これを顧みてくださるとは。

あなたは彼を、神よりわずかに低いものとされて、              (5)

栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいます。

あなたは御手のわざの数々を彼に治めさせようと、             (6)  

すべてのものを彼の足の下に置かれました。

すべて、羊も牛も、また、野の獣も、                       (7)

   空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

主(ヤハウェ)よ。私たちの主(主人)よ。                         (9)

御名は全地で、なんと威厳に満ちていることでしょう。

                              (2006年高橋訳)

注:ギテトの意味は諸説があり定かではないが、立琴の一種ではないかと思われる。

1節最後の行は原文で、「それ(御名)は、あなたの威光を諸天の上に置かれた」となっている。

2節の「(刃向かう者を)沈黙させ」は、「幼子と乳飲み子の口」との対比での意訳。

4節の二行目の「(人の子とは)何者なのでしょう」は、原文では省かれていることば。

5、6節の「彼」は、本来4節の「人」または「アダムの子」を指し人類全般を意味するが、

ヘブル2:7、Ⅰコリント15:27、エペソ1:22では「キリスト」を指す代名詞として理解されている。

5節、6節は、動詞の時制として、「低いものとされて」は完了(厳密にはワウ倒置未完了)、

「冠をかぶらせ」は未完了(未来的な意味)、「治めさせようと」は同じく未完了(未来)、

「置かれました」は完了という区別が敢えてつけられていると解釈できる。

詩篇8篇 「人とは何者なのでしょう」

                                                       2006年12月24日

  私は、クリスマスを、「イエス様のお誕生日」としてよりは、「太陽を造られた神が赤ちゃんとなった日」として描くのが好きです。ルカによる福音書ではイエスの誕生の記事は、臨月を迎えたマリヤが旅先で宿屋にも入れてもらえず、自分で産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせるというわびしいものに描かれています。マタイによる福音書では、時の権力者ヘロデ大王からいのちを狙われ、ヨセフが幼子イエスと母を連れてエジプトに逃れるという悲劇と結びつけて描かれます。しかし、そのひ弱な乳飲み子は全能の神によってしっかりと守られていました。そして、その弱さのうちに表わされた神の力を前に、世々の権力者たちは沈黙し、動くことができなくなったのです。私たちはより強く、より賢くなることを求めるのが常ですが、人の価値はそのような基準ではかれるのでしょうか?

 

1.天に表わされた神の栄光

  この詩篇にはダビデによって記されました。万軍の主は、彼を「羊の群れを追う牧場からとり・・イスラエルの君主とし」(Ⅰ歴代誌17:7)たばかりか、ダビデ王家は永遠に続くと約束されました。それを聞いたダビデは、「神、【主】よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家について、はるか先のことまで告げてくださいました。神、【主】よ。あなたは私を、高い者として見ておられます」(Ⅰ歴代誌17:16,17)という感謝の祈りをささげました。これこそ、詩篇8篇が記された背景です。そしてこれは、ダビデばかりか、イエスを自分の救い主として信じるすべての人にとってのかけがえのない告白となっています。それは、今、神が、キリストのうちにある私たちひとりひとりを、何と、ダビデのように「高い者」として見ておられるからです。

  ダビデはまず「主(ヤハウェ)よ」と、神のお名前を呼びかけます。神はご自身を、「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14)と紹介されました。多くの人々は、自分の必要から始まって神を求めます。私もそうでした。ただ、そうすると、「祈りがかなえられた。確かに神はおられる!」と感謝できることがあるかと思えば、そのうち、「あれは単に偶然が重なっただけ・・・この私が頑張ったから・・・」などと思ったり、期待はずれのことが起こると、「神を信じようと信じまいと、人生に大差はない・・・」などと思うことになりかねません。そればかりか、そこには本当の意味での「生きる目的」も生まれません。聖書は、ただ「初めに神が天と地を創造された」という宣言から始まります。つまり、すべてに先立って神がおられるという前提を信仰をもって受け止め、「神がおられるから世界が存在し、私が存在し、私が神を知ることができる」と考えるように求められているのです。そして、その創造主である神を、「私たちの主(主人)」と呼びかけます。これは、当時の奴隷が主人に向って使う表現です。もちろん、神は私たちを奴隷のように扱いはしませんが、神は、私たちのための御用聞きのような方として存在しているのではなく、私たちに自分の命を賭けてでも成し遂げる任務を与えることができる絶対者としておられるという告白です。多くの人は、何のために生きているのかが分らないという倦怠感の中にいますが、神は真の生き甲斐を与えてくださいます。

  そして、「わたしはある」と言われる方の名の意味は、「全地で、威厳に満ちた」ものとして既に証しされています。ですから、霊の目が開かれた人は、「世界は何と不思議に満ちていることか!」と感謝できるようになります。そして、その方の「ご威光は、天を越えたところに輝いています」(1節)とは、天の下に住む者には、天の上に輝く神の栄光は見られないという現実を指します。後に預言者イザヤは、「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ」(イザヤ40:22)と表現しました。いなごが人の心を理解できないのと同じように、人は「天蓋の上に住まわれる」神のことを知ることはできません。ただひとつの道は、創造主ご自身が私たちのレベルにまで降りてきてご自身のことを知らせてくださることです。ただ、この地の多くの人にはその語りかけを聴く耳を持っていません。彼らは自分の目、自分の知恵、自分の力に頼って生きることばかりを考えているからです。

「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられ」(2節)とは、この世の無力なものこそが神のみわざを理解できるということを指します。イエスが神殿の中で盲人や足なえをいやしたのを見て、子どもたちは、「ダビデの子にホサナ」と賛美しましたが、ユダヤ人の宗教指導者は、聖なる宮の中で神以外の方が賛美されるのは許せないと思って、それに抗議しました(マタイ21:14-16)。そのときイエスは、このみことばを引用され、ご自身と神に「刃向かう者を沈黙させ」ました。このように神は、この世の取るに足りない者をご自身の働きに用いられることによって、自分の力を誇っている「敵と仇と」を恥じ入らさせ、「動けなくさせ」られるのです。

神は今も、「私は賢い・・私には力がある・・」と思っている人々からご自身を隠されます。それは、「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Ⅰコリント1:27)とある通りです。私たちも、自分の知恵や力を証明しようと必死になることでかえって本当の神の姿を見失うことがあるかも知れません。ただ、力を抜いて、神がお造りになられた世界の美しさを鑑賞し、自分の無力さを認めながら、神に向かって祈ることの中で、神はご自身を表わしてくださいます。

2.「あなたの指のわざである天を仰ぎ見・・・」

  「あなたの指のわざである天を仰ぎ見、あなたが配置された月や星を見ますのに・・」(3節)とは、街灯のない暗い所で夜空を見上げるとき直感的に感じられる驚きです。夏の夜空に輝く美しい天の川は、銀河系の中心を見ているものですが、その直径は光の速度(一秒で地球を七周半まわる)で八万五千年もかかります。それも数億光年もの広がりがあると言われる全宇宙の中では豆粒のようなものです。それらすべてが、神の「指のわざ」に過ぎないというのです。そのような大宇宙に思いを巡らすとき、「人とは何者なのでしょう。人の子とは何者なのでしょう」(4節)と問いたくなります。その広さから人を見ると、蟻よりもはるかに小さく、吹けば飛ぶようなひ弱な存在に過ぎないからです。しかし、神はその小さなひとりひとりを「御心に留め」、また「顧みてくださる」というのです。「御心に留める」とは、しばしば「覚える」と訳されることばで、神が私たちひとりひとりを御心の中に覚えていてくださることを意味します。また「顧みてくださる」とは、高い地位にある人が無名の人に特別に目をかけるという文脈で使われる言葉です。ダビデは自分がイスラエルの王として選ばれた理由が、自分の能力や信仰が評価されたとは思っていませんでした。ただ、神が一方的に自分に目を留め、覚え、守り、引き上げてくださったと感謝していました。

パスカルはそのことを、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だがそれは考える葦である。」(パンセ347)と言いましたが、それは、人は、宇宙の巨大さと自分の頼りなさを知ることができるから尊いという意味です。私たちは、自分の頼りなさを知り、孤独を、また見捨てられることを恐れており、それがゆえに、自分の知恵や能力を示し、「私は愛されるに値する存在です・・」とアピールしようとします。そこから人と人との比較や競争が始まり、心の中で、「確かに私は弱く愚かだとしても、あの人よりはましだ・・・」と思うことで慰めを得ます。しかし、自分の絶対的な頼りなさと真正面から向き合うことこそ、人間の尊厳である「考えること」の本質なのです。

私は学生運動が行き詰まりになった時代に育ち、一つの思想信条に捕らわれることの危険を感じ、また「真理」ということばに隠された偽善を見抜くことを覚えさせられました。ですから、この私が聖書を真理と受け止め、牧師となっていること自体が奇跡とさえ思えます。私にとっての信仰とは、自分の側から始まったものではありません。自分に失望しているようなときに、ふと、私の創造主が私を「御心に留め」、また「顧みて」おられるということに気づかされたということに始まっています。まさに神への信仰は、上から与えられるものであるとつくづく思わされます。

3. 「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとされて・・・」

  「あなたは、彼を、神よりわずかに低いものされ」(5節)とは、人がすべて、「神のかたち」に創造され、神と対話することができるという意味です。「栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいます」とは、将来的な約束です。先の「人の子」とは原文で「アダムの子」と記されていますが、私たちはキリストあってアダムが失った祝福を再び受けるものとされました。「御手のわざの数々を人に治めさせようと」(6節)とは、神が人を創造された本来の目的です。しかし、人が神に逆らい、自分を神のようにして以来、人は反対に環境破壊の元凶になってしまいました。ただし、神は創造の秩序として、既にすべてのものを「彼の足の下」に置いておられます。それは、「羊も牛も、また野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うもの」(7節)すべてに及ぶことです。動物の世界にも広がる弱肉強食の争いは、アダムの罪によって起こったことで、本来の神の意図ではありませんでした。しかし、私たちが「栄光と誉れの冠を受ける」とき、この世界には、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し・・雌牛と熊とは共に草をはみ・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ・・」(イザヤ11:6-8)という平和が実現します。預言者たちはこのような世界をもたらすために救い主が来られると預言していました。それがクリスマスに実現し始めたのです。

 ヘブル人への手紙2章では、「彼を・・」の部分を、人となられた神、イエスを当てはめて解釈しています。最初のアダムは、「神よりわずかに低いものとされた」ことに満足せず、自分を神のように高くしようとして世界の悲惨の原因となりました。しかし、第二のアダムであるキリストは、父なる神と共に世界を創造された神でありながら、敢えてご自分を低くされ、すべての人の罪を負うための十字架の死の苦しみまで味わうところまでご自分を低くされました。そして、父なる神は、このキリストを死人の中からよみがえらせ、私たちの初穂とし「栄光と誉れの冠をかぶらせて」くださいました。そして今、神の右の座に置かれ、すべてのものをご自身の「足の下に置かれ」、「王の王、主の主」として「御手のわざを・・・治めて」おられます。そして、私たちもキリストの姿に習って自分を低くすることで、キリストとともに世界を治めるという使命を一歩一歩、この地にいるときから果たし始めることができるのです。創造主であるキリストが人となられたのは、私たちをご自身の「栄光と誉れ」にあずからせるためでした。また、この方が人々の侮辱に耐えられたのは、私たちが不滅のいのちを受け継ぐことができるためでした。神は、取るに足りない者を高く引き上げるということこそ、ダビデの感動でした。そして、ダビデは神の忠実なしもべとして国を治めました。あなたも同じように神によって選ばれ、神が委ねてくださる働きにつくように召されているのです。あなたは神の代理としてこの地を治める崇高な責任がゆだねられています。それは創造の秩序として既に始まっている責任であり、来るべき世界で完成する責任でもあります。イエスはその点で、私たちの初穂、模範であられます。

  最後にダビデは、「主(ヤハウェ)よ。私たちの主(主人)よ。御名は全地にわたり、なんと威厳に満ちていることでしょう」(9節)と繰り返します。ここに私たちを主への賛美に招こうとする彼の情熱を見ることができます。

   

キリスト者とは、ご自分を低くされたイエスの生き方に習いたいと願う者です。そこに御霊のみわざが表わされています。そのとき「幼子や乳飲み子たちの口によって、力を打ち建て」られる神が、私たちを通して、ご自身の栄光を表わしてくださるのです。強がりを捨て、幼子のように主にすがりましょう。そこから偉大なことが始まります。パウル・ゲルハルトは、イエスが生まれた飼い葉おけの傍らに自分が立っている姿を黙想します。自分の霊、感覚、心、たましい、思いのすべてがイエスからの贈り物であることを思い起こし、それを、自分を大きくするためではなく、飼い葉おけに眠るほど貧しくなられた方にささげようと決意します。そして、イエスが自分のために苦しまれたことを覚え、イエスを喜ばせるために仕え、自分のからだを新たな住まいとして用いていただきたいと祈ります。

「飼い葉おけ(まぶね)のかたわらに」

               1653Paul Gerhardt作 2006年高橋訳

1.きみがまぶねに われは来たり いのちの主イェ きみを想う

  受け入れたまえや わがこころすべて きみが賜物なり

2.この世にわれまだ 生まれぬ先 きみはわれ愛し 人となりぬ 

  いやしき姿で 罪人きよむる くしきみこころなり

3.暗闇包めど 望み失せじ 光 創りし主 われに住めば

  いのち 喜び 生み出す光 うちに満ちあふれぬ

4.うるわしき姿 仰ぎたくも この目に見えぬ きみが栄え

  ちいさきこころに 見させたまえや はかり知れぬ恵み

5.深き悲しみに 沈みしとき きみは慰め 語りたもう

  「われは汝が友 汝が罪すでに われはあがなえり」と

6.救いの星よ いといたわし わらと干し草に 追いやられぬ

  黄金(こがね)のゆりかご 絹の産着こそ きみにふさわしきを

7.干し草捨てよ わら取り去れ きみがため臥所(ふしど) われは作らん

  すみれ敷き詰め きみが上には かおりよき花びら

8.おのが喜び 望みまさず われらが幸い きみは求む

  われらに代わりて きみは苦しみ 恥を忍びましぬ

9.主よ わが願いを聞きたまえや 貧しきこの身に 宿りたまい

  きみがまぶねとし 生かしたまえや わが主 わが喜び

|

« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »