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2007年2月26日 (月)

詩篇38篇 「神の御前でのためいき」

    詩篇38

ダビデの歌、記念のため

(ヤハウェ)よ。憤りによって、責めないでください。     (1)  

 激怒のあまり、私を懲らしめないでください。

あなたの矢が 私を刺し抜き、             (2) 

 御手が私の上に重くのしかかりました。

御怒りのため、私の肉には健全なところがありません。 (3)

 私の罪のため、骨にもやすらぎ(シャローム)がありません。

私の咎(とが)が、この頭を圧倒し、                        (4)

  重過ぎる重荷のようになっています。

私の傷は うみただれ、悪臭を放ちました。              (5)     

  それは私の愚かさのせいです。          

私はうなだれ、ひどく打ちのめされ、                  (6)

一日中、嘆きながら歩いています。               

腰は焼けるような痛みに満ち、                            (7)

私の肉には健全なところがありません。                     

私は衰え果て、ひどく砕かれ、                         (8)

心の乱れによって、うめいています。

(主人)よ。私の願いは すべて御前にあり、                 (9)

 私のためいきは あなたに隠されてはいません。

私の心は動転し、力は失せ去り、                          (10)

目の光さえもなくなりました。

愛する者や友も 私の災難から目を背けて立ち、             (11)

私の近親者も 遠く離れて立っています。

私のいのちを狙う者は 罠をしかけ、                       (12)

  災いを求める者は私の破滅を告げ、

裏切りを一日中思い巡らしています。

しかし、この私は、耳の聞こえない者のように聞かず、         (13)

  話せない者かのように、口を開きません。

まるで私は、聞くことができない者、                        (14)

  口で抗議できない者のようになりました。  

それは、主(ヤウェ)よ。あなたを私は待ち望んでいるからです。   (15)

  私の神、主(主人)よ。 あなたは、答えてくださいます。

私は申しました。「この足がよろけるとき、彼らに喜ばせず、    (16)

  私に向って高ぶらせないようにしてください。」

この私は、今にも 崩れそうで、                      (17)

痛みが、いつも、ともにあるからです。          

私は自分の咎(とが)を言い表し、                    (18) 

罪のゆえに不安になっています。                

私の敵は、活気に満ちて強く、                    (19)

ゆえもなく私を憎む者は多くいます。                                               

善に代えて悪を報いる者たちは、                         (20)

私が善を求めることで、かえって敵となっています。       

見捨てないでください。主(ヤウェ)よ。                     (21)

私の神よ。遠く離れないでください。

急いで、助けてください。                                 (22)

  主(主人)よ。私の救いよ。

                                    

2007年 高橋秀典訳

1節の「憤り」とは、「怒り」の類語の中で最も激しいものを表わすことば。

「激怒」とは、怒りの感情の中でも特に「熱さ」を表現するもの。

2節の「重くのしかかり」の「重く」は原文にはないことば。

3節の「御怒り」とは、罪へのさばきの面を強調した「怒り」の類語

3節と7節で「健全なところ」と訳されていることばは、原文では「完全」と記されている。

身体中すべてが病気になっていることを強調しつつ、重ねて表現したもの。

3節の「やすらぎ」は原文でシャロームで、「平和」と一般的には訳されることば

4節の「重過ぎる」とは、原文で「重い」ということばが繰り返されている。

12節だけは三行詩になっているが、他の節はそれぞれが二行に分けられる。

15節は「答えてください」という嘆願にも訳せるが、「あなたは」ということばが特に強調され

ていることからしても、「答えてくださる」という断定形として訳すべきかと思われる。

17節は「私」という主語が強調され、「今にも崩れそう」とは、原文では「倒れることが定まっ

ている」と記されているが、文脈から、神の支えを期待した表現とした。

詩篇38篇 「神の御前でのためいき」

                                                          2007年2月25日

  先日、原因不明のしゃっくりが一週間近く続き、「息が詰まる」苦しみまで体験しました。「楽に呼吸できるのは、何という恵みか・・」と実感できました。その秘訣は、「息を吐く」ことにあります。同じように、人は、しばしば明日の希望が見えない中で、「息が詰まる」体験をしますが、回復の始まりは何より、「絶望感を吐き出す」ことにあります。よく、「ためいきをついたら、幸せが逃げる」と言われます。それは、暗い気持ちが人を遠ざけるという意味で本当でしょう。しかし、ためいきとは長く息を吐き出すという行為で、極めて自然な癒しのプロセスではないでしょうか。神は、あなたの「ためいき」を喜んで引き受けてくださいます。そればかりか「御霊の初穂」を受けた者は、世界の苦しみを身に引き受けて、「心の中でうめく(ためいきをつく)」と記され、そのとき、御霊ご自身がことばにならない「うめき(ためいき)」によって父なる神にとりなしてくださると約束されています(ローマ8:22-26)。神の御前でため息をつくことができるというのが真実な祈りの始まりです。自分の気持ちを自分で整理つけようとすると心が空回りを起こし、しまいに病んでしまいます。御霊に導かれたことばを用いて、絶望感を主に訴えることを学んでみましょう。

1.この詩の背景と特徴

この詩篇は、七つ悔い改めの詩篇(6,32,38,51,102,130,143)のひとつで、別名、「病者の祈り」とも呼ばれます。標題の「記念のため」とは、レビ2:2の「穀物のささげ物」に用いられていることばで、神のあわれみを「記念」するものでした。キリスト教会では、この詩篇はキリストの受難の「記念」と理解され、伝統的に、受難節の始まりの聖灰水曜日に朗読されてきました(今年は2月21日、なお今年の受難日は4月6日、復活祭は4月8日)。この期間の日曜日を除く40日間、断食をしつつ、キリストの受難を思い起こすという習慣が守られたこともあったようです。

これはダビデの最も暗い時代の祈りだと思われます。彼は家来の妻を奪ったあげくその家来を計略にかけて死に至らしめたところからすべてが狂いだしました。長男アムノンは腹違いの妹タマルを強姦し、その復讐として彼女の実の兄アブシャロムがアムノンを殺し、アブシャロムはダビデから憎まれていると思い込んでクーデターを実行し、ダビデをエルサレムから追い出すという一連の悲劇が11年間の間に起こりました。この間、ダビデはただ手をこまねいて、引き篭もっていたかのようです。彼はその悲劇のクライマックスでこの詩篇を記したのではないかと思われます。詩篇のほとんどは、絶望感の訴えのまま終わることなく、そこに全能の神への信頼の告白と感謝に満ちた賛美へと移行します。しかし、この詩篇は、それが見られません。それは、絶望したたましいは、容易に慰めを受け入れることができないからです。彼は今、徹底的に無力な者となり、神にただすがりつこうとしています。

2.神の怒りを受けて苦しんでいると訴える中から生まれる希望

  ダビデは、神の「憤り」、「激怒」、「御怒り」という三つの類語を用いて、自分の苦しみが神の「怒り」によってもたらされたと嘆いています(1、3節)。彼は自分の子供たちが互いに傷つけあい滅びてゆくことに深く心を痛めました。それがストレスになって身体全体が病み、自分の骨(身体を支える核心部分)から、神のシャローム(平安)が去ったと言います(3節)。家の悲劇の直接の原因は、人間の罪ですが、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)という意味で、彼はすべての苦しみ中に、「神の怒り」を見ています。そして、そのような悲劇の引き金は、「私の罪」(3節)、また「私の愚かさ」(5節)にあると認めています。つまり、ダビデは、自分の苦しみが自業自得であること、また神のさばきの結果であることを認めながら、なお、必死に神にすがっているのです。それは、父親に激しく叱られながら、なお、すがりつこうとする子供の姿に似ています。

  ダビデは「私の傷が、うみただれ、悪臭を放ち」(5節)と言います。ほんの一瞬、ひとりの女性の美しさに心を奪われたという小さな傷を放っておいたら、化膿してしまい、家族全体の忌まわしいスキャンダルにまで広がりました。彼はそれを見て、ひどく打ちのめされ、一日中、嘆いて歩くことしかできません(6節)「腰は焼けるような痛みに満ち」(7節)とは、感情の座が「腰」にあると理解されていたため、彼の良心が痛んで、自尊心を失っている様子を示していると思われます。そして「私の肉には健全なところがありません」(3,7節)という繰り返しによって、自分の罪が、身体全体を重い病気に陥らせていると言っています。彼は今、生きる気力さえ失い、心は乱れ、判断力を失い、うめくことしかできません(8節)。そのような落ち込みのため、ダビデは、長男アムノンが娘タマルを犯したときにも、アブシャロムがアムノンを殺したときにも、父親としての責任を果たすことができませんでした。私たちの人生にも、小さな誘惑に負けたところから、すべて狂いだし、「途方に暮れるばかり・・・」ということがあるかも知れません。

  そんな中でダビデは、神を自分の主人と呼び、「私の願いはすべて御前にあり、私のためいきは、あなたに隠されていません」(9節)と告白します。これは、自分でどうしたらよいか、また、どのように祈ったらよいかも分らない心の状態を指します。彼は今、神の前でためいきをつくことしかできません。しかも、彼の心はさらに動転するばかりで(10節)、目の光も失われ、まさに生ける屍のようになっています。ただ、不思議なのは、彼はその自分の状況をこれほど多様なことばで言い表していることです。これは神の霊が、彼の心のうちに働き、ことばにならない絶望感を言い表すように助けてくださった結果です。それこそ、神の御前での呼吸、つまり祈りの本質です。多くの人は、自分の苦しみが、自業自得のものと思ったとき、神にも人にも、何も言えなくなってしまいます。原因結果が明らかであるほど、そこに神のみわざを期待できなくなります。ダビデは、自分の上に起こった悲惨を、神の怒りの現われと見ることで、神がみこころを変えてくださるならすべてが変わるという希望を持つことができました。あなたの悲劇の直接の原因は、人間の罪であっても、神はその状況すべてを支配し、それを益に変えることがおできになります。あなたの救いは、この世に向ってためいきをつく代わりに、神の御前にためいきをつくことから始まります。

3.すべての人から見捨てられたと感じる孤独の中で、神に信頼する

  ところで、「愛する者や友も、私の災難から目を背け・・遠く離れて立っている」(11節)と、ダビデは苦しみの中で深い孤独を訴えています。しばしば、私たちも、災いに会う中で、人の非難や、冷たさになお深く傷つきます。イエスも十字架への道を歩んだとき、弟子たちが逃げ去るという孤独を体験しました。ダビデの場合は、この機会に、彼を王座から追い落とす計略が進んでいました(12節)。その首謀者は何と息子のアブシャロムでしたが、それが一時的にも成功するのは、ダビデに従っていた多くの人々が、彼のあまりの落ち込みを見て、裏切りを決意したからに他なりません。人は、力を恐れ、力に屈服しますから、権力者が弱くなると権力を握りたいと思う者が出ます。

  ダビデは、そのような中で、何も聞こえない、何も言えない者のように振舞うことしかできませんでした(13,14節)。それは息子の反抗の原因が、自分のふがいなさにあると思うから、また息子を失いたくないあまり、厳しく接することができなかったからかもしれません。その意味での、彼の父として沈黙はかえって問題を複雑にしています。しかし、一般的には、自分を裏切ろうと心を決めている敵に対しては沈黙しているのが最善ということもあります。

  ただ、ここでダビデは初めて、「主(ヤハウェ)よ。あなたを私は待ち望んでいる」(15節)と、神への信頼を告白します。彼の人々の前での沈黙は、その現われでもあったのです。攻撃は最大の防御とも言われるように、人は恐怖に圧倒されるからこそ沈黙していることができなくなりますが、彼は、「私の神、主(主人)よ。あなたは、答えてくださいます」と、すべての問題の解決を、神にゆだねます。これは多くの翻訳では、神への嘆願というより、信頼の表現と解釈しています。人は、絶望の淵で、突然、神の救いを期待できるようになるというのが多くの信仰者の常だからです。神は、無からすべての見えるものを、暗闇のただなかに光を創造される方です。そして、私たちが自分の力や人の力に頼ろうとしているうちは、その神のみわざに対して心を開くことができないという現実があります。

  そして、ダビデは、自分の敵が勝ち誇ることのないようにと、神に訴えます。そして、神の助けがなければ、自分は「崩れる」しかなく、「痛みが、いつも、ともにある」と訴えます(17節)。その際、彼は「私は・・・自分の罪のゆえに不安になっています」(18節)と言いながら、自分の側に正義はなく、ただ、神のあわれみにすがるしかないと告白します。私たちは、「私は正しい!」と思うことで自分を主張する勇気を持ちますが、それが神のあわれみを見えなくすることがあります。パリサイ人たちは自分の義を立てようとして、神の御子を十字架にかけたことを忘れてはなりません(ローマ10:3)。私たちが頼るべきは、自分の正義ではなく、神の正義、神のあわれみなのですから。

  

4.イエスは、罪人の代表者となられ、「見捨てないでください」と祈られた

今、「私の敵」の方は、良心の呵責も感じない結果として、はるかに活力に満ちているという現実があります(19節)。彼らは図々しく、自分の罪に居直って、自分の都合だけを正当化し、善に代えて悪を報いてきます(20節)

ダビデはそのような中で、ただひたすら、見捨てないでください。主(ヤハウェ)よ。私の神よ。遠く離れないでください」(21節)と訴えます。イエスが十字架で叫んだ「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですかは、詩篇22篇の始まりのことばですが、それはこれを「どうして・・・」という疑問形に変えた表現で、その意味はまったく同じです。そしてイエスは、十字架で、「急いで、助けてください。主よ、私の救いよ」(22節)という気持ちを込めて父なる神に訴えました。そして、その訴えに、父なる神は奇想天外な方法で答えられました。人々の見ている前でイエスを十字架の苦しみから救い出す代わりに、誰も使ったことがない墓の中に葬らせた上で、三日目に彼を死人の中からよみがえらせました。それによって、イエスは死の力に最終的な勝利を宣言されたのです。

 宗教改革者マルティン・ルターは、「この詩篇を、キリストは、ご自身の御苦しみと嘆きの中で祈られた。それは私たちの罪のためであった。」と簡潔に表現しました。ここにこそ福音の神秘があります。まったく罪のない方が、私たちすべての罪をその身に担い、罪まみれの罪人の代表者となって、この詩篇を必死に祈られたのです。

私たちも、一見、暗いだけのこの詩篇に、自分の心の奥底に隠されている絶望感を照らし合わせて祈るときに、不思議な慰めを体験することでしょう。神の怒りをイエスは私たちの身代わりに受けてくださいました。ですから、十字架を仰ぐ者は、神の怒りの背後に、神の燃えるような愛を見ることができます。神がなお私たちに苦しみを与えられるのは、私たちの癒しのためです。残念ながら、私たちは痛い目に会わなければ自分の行動を改めようとしないからです。しかも、あなたが神の怒りを感じながら、なお祈っているとき、イエスがあなたとともに祈っておられます。それがわかるとき、私たちは、どんな自業自得の苦しみの中にも、神の救いの御手をみることができます。

  

  神の御前に祈るとは、自分で自分の心を慰め、励ますことではありません。答えが見えないまま、ただ、自分の心の奥底にある絶望感を正直に受け止め、それを神の御前に注ぎだすことが祈りの始まりです。また、あなたが人のためいきのようなうめきの声を聞いたときには、その原因を分析したり、解決の方法をアドバイスする以前に、その人が神の御前で「息をつく」ことができるというその一点に心を集中すべきではないでしょうか。祈ることさえできなくなっている人に代わって、あなたが御霊の導きを求め、その人のことばにならないうめきに心を合わせ、ともにあなたの心を震わせ、そして、それを神への祈りと変えること、それこそがキリスト者の最大の使命だと思われます。伝道の基本とは、人のためいきを引き受けて、神の前でのためいき、うめきとすることではないでしょうか。      

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2007年2月18日 (日)

Ⅱサムエル13章20節~15章18節「ダビデの沈黙が生んだ悲劇」

                                                    2007年2月11日          

 あなたの父親、またあなたの夫が、肝心のときに黙り込んでしまって、責任を果たそうとしないということがないでしょうか。そんなとき人は、「男らしくない!」と非難しますが、実は、それは、「ああ、彼は男なんだな。アダムの子孫なんだな・・」と言うことができるかもしれません。食べてはならないと言われた木の実を最初に取って食べたのは女でした。しかし、そのときいっしょにいたはずのアダムは、沈黙したままでした。女の勧めにしたがって自分も食べたあげく、後で、「この女が・・」と責任を回避しました。その同じ姿をダビデも危機の中で繰り返します。

 ダビデは権力の絶頂期に、忠実な家来の妻を奪ったあげく、彼を計略にかけて死に至らしめ、自分は家臣思いの敬虔な王のふりをするという罪を犯しました。それに対する神のさばきは、「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの家にわざわいを引き起こす(12:11)でした。それは、神が直接に罰の災いを引き起こすというのではなく、ダビデの家の問題を放置し助けの御手を伸ばさないということだと思われます。それはパウロも、「神の怒り」の現われを、「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され・・・恥ずべき情欲に引き渡され・・・良くない思いに引き渡され(ローマ1:24,26,28)と表現したのと同じです。本日の箇所にはダビデの三男アブシャロムの謀反に至る11年間のことが記されています。そこには何の神のみわざも記されていません。これらすべての災いの原因は、神ではなく、人にあることが明らかです。しかも、ダビデ自身の対応のまずさが問題を拡大させています。

1. 子供同士の殺し合いの原因を作ったダビデ沈黙

  ダビデの長子アムノンは腹違いの妹のタマルを恋し、わずらうほどになりましたが、従兄弟のヨナダブの策略に従い、ダビデを巻き込んでタマルがひとりで自分の世話をしてくれる状況を作り出しました。アムノンは彼女を強姦したあげく、家の外に追い出してしまいした。それは彼女の全人格を否定し、生きながら葬り去るという蛮行でした。それを聞いた彼女の実の兄のアブシャロムは、「今は、黙っていなさい。あれはお前の兄なのだ。あのことで心配しなくてもよい」(13:20)と言いました。そこには、「これは家族全体の恥であり、王家の信頼を揺るがす一大事だ。父ダビデの適確な対処に期待しよう・・・」という思いが込められていたのだと思われます。ところが、「ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った(13:21)のですが、具体的には何のさばきも下しませんでした。いくつもの古い写本には「彼は自分の息子アムノンを罰しなかった。ダビデは彼を愛していたからである。彼に最初に生まれた子だったから。」という付加があります。これはダビデの心理を適確に言い表したものです。彼は類稀な豊かな感性を持ち、母親的な情の厚さがありました。そればかりか、自分の忌まわしい罪を思うと、息子を厳しくさばく勇気を持つことができなかったのでしょう。確かに、彼は、戦いに直面した際は極めて男らしく振舞いましたが、あまりに想定外のことが起こる中で、男の典型的な弱さも表わしたと言えないでしょうか。それは、理解できない事に直面する代わりに、逃げようとする態度です。これはあなたの父親やあなたの夫だけの問題ではありません。多くの男性は、自分が置かれた環境を把握しているということに安心を得ようとします。そのため、自分が理解できないことが起こると沈黙してしまいます。これは「アダムの沈黙」と呼ばれ、自分の弱さを隠すひとつの逃避行動です。

  アブシャロムは、父ダビデが沈黙を守っているのを見て、妹のために自分でアムノンに復讐することを思い巡らします。アブシャロムの沈黙は、怒りを隠す手段でした。「それから満二年たって」(13:23)、彼は復讐を実行に移します。彼は羊の毛の刈り取りの祝いという羊飼いにとっての最大の祭りにかこつけて、父ダビデを祝宴に招きたいと熱心に誘いつつ、アムノンが自分のもとに来やすい環境を整えます。アムノンは他の兄弟たちも一緒であることに安心し、祝宴で酔って上機嫌になりましたが、そのすきにアブシャロムの家臣たちが一斉にアムノンに打ってかかり、彼を殺しました。他の王子たちは逃げましたが、王のもとには王子たち全員が殺されたとの知らせがありました。その際、事の経緯を把握していたのは、かつてアムノンに悪知恵を授けたヨナダブでした(13:30-33)。彼はこの期に及んで、アブシャロムの思いを弁護するような言い方で保身をはかります。それを通して明らかになっているのは、ダビデがタマルの痛みもアブシャロムの憎しみも残念ながらまったく理解していないという、「父親失格!」の現実でした。彼ができたのは長子の死の知らせを聞いて「非常に激しく泣く」ということだけでした(13:36)

2. アブシャロムへの思いを表現できなかったダビデの沈黙

  アブシャロムは殺人者として母の実家に逃げます。そこはガリラヤ湖の東にあるゲシュルという小国でした。彼はそこで三年を過ごします。その間、ダビデの気持ちが変化します。13章39節と14章1節は、新改訳とは逆に、「ダビデ王はアブシャロムに立ち向かうことをやめた。アムノンの死に関し、自分の心を慰めたからである。ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブシャロムの上にあるのを知った」と訳すこともできます。この方が大多数の英語やドイツ語の訳とも調和します(新共同訳も同様)。要するに、ダビデの心は三年の歳月を経て、アブシャロムに対するあわれみで一杯になったのです。そうでなければ、ヨアブのように現実的な人間がアブシャロムを呼び寄せることに尽力するわけがありません。王が敵意を抱く王子に肩入れすることは反乱の兆しと見られかねませんから。

  それにしてもヨアブは、直言することを避け、自分のふるさとの近くのテコアの女を呼んで、真に迫った芝居をさせます。それは、自分にふたりの息子があったが、「だれもふたりを仲裁する者がなかったので、ひとりが相手を打ち殺してしまい」(14:6)、親族全体が、残された息子の命を求めるというものでした。ダビデは、即座に、その兄弟殺しの息子の命を守る命令を下すと約束しました。この原則はすぐにアブシャロムにも適用できるもので、王は、意図せずに、彼の命を守ると宣言したことになります。彼女は、一歩進んで、「追放されている者を追放されたままにしておかない」(14:14)ことが、王の今回のさばきと一致すると詰めより、アブシャロムの帰還を許すことを明確に求めます。このときに至って、ダビデは、これがみな「ヨアブの指図による」ものと悟ります(14:19)。王はヨアブから直接言われれば、「殺人者を安易に赦すことはできない・・・」と返答せざるを得なかったと思われますから、彼がとった方法を苦々しく思いながらも、アブシャロムを呼び戻す口実が成り立ったことを心から喜んだことでしょう。

ただ、ここでダビデは、不思議にも、エルサレムに戻ったアブシャロムに、「あれは自分の家に引きこもっていなければならない。私の顔を見ることはならぬ」(14:24)と、法を司る王としての立場からのみ語ります。それは殺人という罪へのけじめのつもりだったのでしょうが、それと父親としての喜びを素直に伝えることとは矛盾しないはずです。彼は息子への愛を示しながら、同時に自分の葛藤を表現することだってできたはずです。しかし、アダムの子孫である男は自分の悩んでいる姿を見せることを躊躇します。ダビデはかつて王としての威厳など忘れて神を人々の前で喜び歌っていました。しかし、家族の危機の中では突然、心の自由を失っています。それは彼自身、これが自分の身から出たさびであると思うからこそ、ますます無能な頑固親父になってしまったかのようです。

3.イスラエルの各部族の信頼を失ったダビデの沈黙

  ここで、「さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった・・・」(14:25)と記されます。かつてサウルも、「イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった」(Ⅰサムエル9:2)と言われ、ダビデも、「目が美しく、姿も立派だった」(同16:12)と描かれているように、これは当時の王としての大切な資質と見られていました。ところが、「アブシャロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王には一度も会わなかった」(14:28)と記されます。彼はヨアブの仲介を望みますが、無視されます。ついにヨアブの畑に火をつけてまで、彼を自分のもとに呼び寄せ、こんな不安な状況に耐えられないことを伝えます。その際、アブシャロムは、「今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されても構わない」(14:32)とまで訴えます。それは、「無視されるよりは、怒りを買って殺される方がまだ耐えられる・・」という思いです。ここに至って初めて、王は彼を呼び寄せ、「口づけした」と記されます(14:33)。それは公に彼を赦すと宣言することでしたが、アブシャロムが切に求めていた心の交流はまったくありませんでした。ダビデは父親としての熱い情を隠し続けています。アブシャロムもダビデの心の葛藤を理解できません。彼は、「私は、父から疎んじられ、憎まれている・・・」としか思えなかったことでしょう。

  アブシャロムは、これを契機にエルサレムで目立った動きをします。「自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入れた」(15:1)とは、戦いへの備えではなく、王位継承者としての威厳をアピールするためです。それは彼の見栄えの良さと合わさって効果がありました。しかも、朝早く、門に通じる道のそばに立って、王に訴えに来たひとりひとりを呼び、「王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない」(15:3)と言います。これは彼の素直な気持ちでしょう。「息子をここまで無視する王が、イスラエルの小さな部族に気を配ることなどできはしない」と確信していたことでしょう。なお、彼は「ああ、誰かが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら・・」(15:4)と言いますが、彼は、「王」ということばを避けながら、自分の野心をあらわにします。しかし、これは、彼が公にダビデの後継者として立てられるなら、できることでもありますから、まだ反乱罪の対象にはなりません。たぶん、ダビデの目からは、彼が王位継承者レースを勝手に先走っている程度にしか見えなかったのかも知れません。

それにしても、アブシャロムは「四年」の歳月をかけて「イスラエル人の心を盗み」続けました(15:6,7)。そして、イスラエルの全部族にひそかに使いを送りながら、かつてダビデが王として立てられたヘブロンでの即位劇を準備します。彼はダビデを欺き、招いた二百人にさえも何をするかを隠したままでした。ただ、「アブシャロムがヘブロンで王になった」(15:10)という知らせがイスラエルの全部族にいっせいに駆け巡るように工作したのです。人々は、予期しないことが起きると、冷静な判断能力を失います。しかも、すでにアブシャロムがいけにえをささげているところに、「ダビデの議官(顧問)をしているアヒトフェル」(15:12)までもが来ました。事情の知らない二百人に関しては、周りの目からはこのクーデターの賛同者としか見られません。たぶん、皆が列車に乗り遅れたら大変というような気持ちでアブシャロムの側に付いて行ったことでしょう。ダビデは、この事情を聞くや否や、エルサレムから逃げ出すことを決意します(15:14)。彼は、サウルの追っ手から逃げ続けてきたように、逃げ方を良く知っていました。

不思議なのは、アブシャロムは自分の手勢の軍事力もほとんど持たないまま、人々の支持を集めることができたということです。それは、ダビデが人々の信頼を失っていたことのしるしでもあります。彼は最も信頼していたはずの議官アヒトフェルからも見限られました。これは、ダビデがアブシャロムに対するのと同じような煮え切らない態度を人々にも取っていたことを示唆します。国中が、彼の王としての統治能力、判断力を疑うようになっていたのでしょう。まるでこの反乱に至る11年間、ダビデはうつ状態に陥って、家の中に引きこもっていたかのようです。

それらすべてが、ウリヤの妻バテ・シェバへの欲情から始まりました。彼は、確かに詩篇51編のような模範的な祈りをささげながらも、その心は神の赦しを信じる気持ちと、信じられない気持ちの間を揺れていたのではないでしょうか。アムノンの強姦、アブシャロムによる殺人、そしてついには彼の謀反、これら一連の悲劇の中で、ダビデは、神の沈黙に苦しみ続けていたのだと思われます。その期間は、ダビデがエルサレムで王となっていた33年間の三分の一もの長期に及びました。これはすべての信仰者にとっての避けがたい現実なのかもしれません。

ダビデの弱さは反面教師であると同時に、自己嫌悪に陥る人にとっての慰めともなります。史上最高の王として尊敬される人にもこれほどの陰があったのですから。それは、彼が神の一方的なあわれみなしには生きられなかったという証しです。そして、神は彼をこのどん底から引き上げてくださいました。それはあなたにも起きています。

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2007年2月15日 (木)

詩篇51篇 「神の再創造のみわざ」

詩篇51          聖歌隊の指揮者のためのダビデの詩。

                ダビデがバテ・シェバに通じた後で、

                預言者ナタンが彼のもとに来たとき。

あわれんでください。神よ。あなたの真実の愛によって。         (1)

  豊かな情けによって、私のそむきの記録を拭い去ってください。

私の咎(とが)を、ことごとく洗い去り、                            (2)

  私の罪から、きよめてください。

まことに、この私は、自分のそむきを知っています。         (3)

  私の罪は、いつもこの目の前にあります。

あなたに、ただあなたに対して、私は罪を犯し、                   (4)

  御(おん)目に悪であることを、行ないました。

それで、あなたが宣告されるときは正しく、                              

  さばかれるとき、純粋であられます。

ああ、私は生まれたときから 咎(とが)の中にあり、         (5)                             

  母が私をみごもったときから罪の中にありました。

ああ、あなたは心の内側の真実を望まれ、                       (6)

  奥深い部分に、知恵を授けてくださいます。

ヒソプをもって罪を除いてください。そうすれば、きよくなれます。 (7)

  私を洗ってください。そうすれば、雪よりも白くなれます。

楽しみと喜びとを、私に聞かせ、                                 (8)

  あなたが砕かれた骨を、喜び踊らせてください。

御顔を、私の罪に、お向けにならないで、                         (9)

  すべての咎(とが)の記録を拭い去ってください。

神よ。きよい心を、私に創造し、                               (10)

  揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。

御顔の前から、私を投げ捨てず、                              (11)

  あなたの聖い霊を、私から取り去らないでください。

御救いの喜びを、回復させ、                                   (12)

  自由の霊が、私を支えますように。

私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。          (13)

   すると罪人たちは、あなたのもとに回復されましょう。

血の罪から助け出してください。神よ、私の救いの神よ。          (14)

この舌は、あなたの義を、高らかに歌います。

(主人)よ。この唇を開いてください。               (15)                   

   この口は、あなたへの賛美を知らせます。

今、私がささげても、いけにえを喜んでくださいません。           (16)

   全焼のいけにえにさえも、満足してくださいません。

神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれ、打ちひしがれた心。    (17) 

   神よ。あなたは、それをさげすまれません。

どうかシオンを受け入れ、そこにいつくしみをほどこし        (18)

   エルサレムの城壁を築いてください。

その時あなたは、義のいけにえ、全焼の完全なささげ物を喜びとされ、  (19)

   祭壇には、雄牛のいけにえがささげられることでしょう。

   

                                  (ヘブル語原文から再翻訳  2007年 高橋秀典)

1節の「真実の愛」とはヘブル語の「へセッド」、つまり契約を守り通す愛を指すことば。

5節は原文で、「私はとがのうちに生まれ、罪のうちに母は私をみごもった」と記されている。

1,9節の「記録を拭い去る」の「記録」は原文にはないことば。意味を明確にするために付加。本来、羊皮紙のインクを拭い去って記録をなくすることに由来することばだから。

10節の「聖い霊」は、イザヤ63:10,11で「聖なる御霊」とも訳されることがある。また、新約でもローマ1:4では「聖い御霊」という表現もある。

12節「自由の霊」の「自由」とは「高貴な」「強制されることのない」という意味。

16節の「今」は原文にはない付加。本来価値ある全焼のいけにえも、このときのダビデの力からすればほとんど何の犠牲も払わずにできることだったから。ここは、「あなたはいけにえを喜んでくださいません。私はささげたいのですが、あなたは全焼のいけにえにも満足してくださいません」とも訳すこともできる。

17節の「砕かれた」とは「粉々にされた」とも訳されることば。骨を砕かれたときのように自分の力で立つことができないほどの弱い状態。また「打ちひしがれた」とはしばしば「悔いた」とも訳されるが、本来は、圧倒的な力によって「押しつぶされ」、辱められた状態を指す。両方のことばとも、決して、尊敬される「徳」ではなく、軽蔑の対象とされる状態を指す。

詩篇51篇 「神の再創造のみわざ」

                                               2007年2月4日

  「この人は何という卑怯なことをしたことか。その子供たちが堕落し、自滅したのも無理がない・・・」と言われるような人、それこそダビデに他なりません。しかし、同時に、彼ほど神に愛され、喜ばれている人もいません。私たちの救い主も、「ダビデの子」と呼ばれ、ダビデが記した詩篇を生涯、愛唱しておられました。それは私たちすべてにとっての祈りの模範であるとともに癒しと慰めの源です。「最悪の罪人で、最高の信仰者」。この神秘の鍵がこの詩篇にあります。私たちはアダムの罪の影響、つまり「原罪」の根深さを本当の意味で知っているでしょうか。私たちはしばしば、「自分の意思の力で神に喜ばれる人になろう・・」と空回りを続けてはいないでしょうか。

1. 「私のそむきをぬぐい去り、私の咎を洗い去り、私の罪からきよめてください」

  この詩篇には明確な背景の説明があります(Ⅱサムエル11,12章参照)。ダビデは、忠実な家来ウリヤからその妻バテ・シェバを奪い取ったあげく、偽装工作に失敗すると、計略にかけて彼を死に至らしめ、約一年近くもの間、模範的な王のふりをしていました。彼は確かに、「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました・・」(詩篇32:3)と、良心の呵責に苦しんではいたのですが、自分から罪を認めることはできませんでした。神はそんな彼に預言者ナタンを遣わし、悔い改めに導きました。そこでこの詩篇が生まれました。

  その初めは、「あわれんでください」(お情けを!) との叫びです。彼は、何の弁解もせずに自分の罪を認め、「神よ」とすがりついています。その際、「あなたの真実の愛(ヘセッド)によって」と、自分の不真実を棚に上げるかのように、神がかつて彼に、「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(7:16)と言われた契約にすがろうとしています。そればかりか、「私のそむきの記録を拭い去ってください」と懇願します。「拭い去る」とは、表皮紙に記されたインクを洗い流して、記録をなくしてしまうことです。さらに彼は「私の咎(とが)を、ことごとく洗い去り、私の罪からきよめてください」(2節)と訴えます。これは、「あの過ちをなかったことにし、最初の親密な関係に戻させてください」と、不倫を忘れることを願うのと同じような図々しい訴えです。しかし、この大胆な祈りこそ、神のみこころです。なぜなら、「罪の赦し」とは、神が罪を忘れてくださることに他ならないからです。後に神はイスラエルの罪に対して、「わたしは・・あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない(イザヤ43:25)と言われ、また、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思いださない(エレミヤ31:34)と言っておられるからです。

  ところでダビデは、「そむき」(神の基準への反抗)、「咎」(基準をねじまげること、罰を含む概念)、「罪」(基準に到達しないこと)という三つの類語で、自分の過ちを多様に表現していますが、その基本は、神との関係を隔てるものを取り去って、神との親密な関係の回復を願うことにあります。ただし、彼は自分の記憶から過去を消そうとしているのではなく、「この私は、自分のそむきを知っています。私の罪は、いつもこの目の前にあります」(3節)とも告白しています。そればかりか、彼は自分の卑劣さを、世界中の人にオープンにしてしまいました。多くの人は罪の結果として自分の立場がなくなることを恐れますが、彼は神との関係だけを見ようとしています。

彼は、自分の罪を、何よりも創造主に対する反抗と認め、「あなたに・・罪を犯しました。それで、あなたが宣告されるときは正しく・・純粋です」(4節)と告白します。主はダビデの罪を指摘した際、「わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす・・・」(Ⅱサムエル12:11)と宣告されましたが、彼は息子アブシャロムによって都を追われるときにも、それを神のさばきの実現として謙遜に受け止めました。もちろん、ダビデはそうならないことを切に祈っていましたが、同時に、「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもする」(ガラテヤ6:7)という原則を受け入れました。殺人を犯した人は、自分の身をもって罪を償うのは当然のことです。しかし、神の赦しを確信した人は、たとえ死刑台に上っても、人々から罵詈雑言を浴びせられようとも、「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)という神の語りかけを心に聴き続けることができます。それゆえ、私たちはどんな愚かな過ちを犯そうとも、自暴自棄や自己嫌悪に陥らず、明日に向って誠実に生きることができます。たとい、あなたが自分の罪の実を刈り取らざるを得ないとしても、神はあなたとともに歩み、その刈り取りを助けてくださいます。全能の神があなたに微笑んでおられることに勝る恵みはありません。

2. 「神よ。きよい心を、私に創造し」

  「私は生まれたときからとがの中にあり、母が私をみごもったときから罪の中にありました」(5節)とは、自分の意思の力では、同じ過ちを繰り返さざるを得ない、根深い罪の性質が生まれながら宿っていることを認め、「心の内側・・奥深い部分」(6節)から造り変えられることを願ったものです。ダビデが罪を犯したきっかけは、「その女は非常に美しかった」(Ⅱサムエル11:2)としか描かれていません。つまり、私たちも何かのきっかけがあり、そこに社会的な歯止めがかからなければ、何をしてしまうか分らないところがあるのではないでしょうか。実際、私たちも心の中で姦淫や殺人を犯したことがあっても、結果を恐れて実行しないという面があるかもしれません。

「ヒソプ・・」(7節)は、過越しのいけにえの血を、かもいと門柱に塗る際に用いられた植物で、これは神の主導「私」「きよくなれる」ようにとの願いです。これは、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ1:7)というキリストの十字架を指し示しています。「そうすれば、雪よりも白くなれます」(7節)とは、そのみわざが徹底していることです。そのために神はまず罪を指摘し、私たちの「骨」を砕きます。それは「私は自分の力で立つことができる」という誇りを砕くことです。しかし、それは「喜び踊る」という根本的な変化を内側に起こすためです。私たちは不思議に、自分の罪を知れば知るほど、赦しの恵みの大きさに感動できるからです。3節の自分の罪の自覚の告白と、9節の「御顔を私の罪にお向けにならないで・・」という願いは信仰において矛盾しません。それは、私たちが自分の罪を忘れないときにこそ、神は私たちの罪を忘れてくださるという神秘です。

  10-12節では、私たちを内側から造り変える聖霊のみわざが記されます。これは旧約の中に隠された新約の希望の福音です。これから四百年余り後、預言者エゼキエルは神ご自身の約束を「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」(36:26)と記していますが、新約の時代とは、その待ちに待った聖霊がすべてのキリスト者のうちに宿るときを指します。ダビデは最初に「きよいこころを創造し」と祈りますが、それは「光があれ。」との一言で光を創造された主による、再創造のみわざです。ただし、医者が患者の同意なしに手術を行なえないように、私たち自身がそれを心から願う必要があります。第一の「揺るがない」とは情欲や欲望に惑わされずに創造主を求める「霊」です。第二の「聖い」とは、「あなたがたの神、主(ヤウェ)であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なるものとならなければならない」(レビ19:2)とあるような神の聖さに習う「霊」です。そこでは隣人愛が説かれていますが、ダビデはこれに真っ向から反しました。それで彼は、「御顔の前から投げ捨て」られても仕方がない者でしたが、かつて主の油注ぎとともに受けた「主(ヤウェ)の霊」(Ⅰサムエル16:12,13)「取り去らないでください」と願いました。第三の「自由の」とは強制や報酬によってではなく、「救いの喜び」によって自主的な思いで神に仕えることができる「霊」が、自分を背後から支え、動かしてくれるようにとの願いです。

ダビデの罪はアダムの罪と基本は同じです。アダムは「神のかたち」に創造されながら、「神のようになる」という誘惑に負けました。ダビデは「主(ヤウェ)は王である」(詩篇96:10)と告白していたのに、神からあずかった権力を自分の欲望と名誉のために乱用しました。自分を世界の中心、善悪の基準に置くという点でまったく同じです。彼は自分の中にアダムが住んでいることを自分の罪を通して悟り、自分の罪の問題は自分の意思の力では解決できないことを悟ったのです。つまり、彼は自分の罪を通して、キリストの十字架による赦しと、聖霊による新生を預言するものとされたのです。私たちは残念ながら、同じ過ちを何度も繰り返します。しかし、ダビデはひとつの大きな罪によって、神の救いのご計画の全体像を見るように導かれました。私たちも自分の過ちを後悔するばかりでなく、真に自分の弱さ、罪深さを知り、神の霊に心を開くことが大切です。なお、この「霊」とはヘブル語で「ルーアッハ」ですが、発音するときに喉仏が振動することばです。そこに激しい息の響き、生命の躍動が表わされているとも言われます。つまり、「神の霊」のあるところには、真のいのちの喜びと躍動があるのです。

3. 「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、打ちひしがれた心」

ダビデが、「救いの喜びの回復」(12節)を願ったのは、自分だけのためではなく、「罪人たちの回復」(13節)のためでもあります。彼はその後、試練を受けながらも、神の御顔が自分に微笑んでいるのを確信できたからこそ、自分の恥をさらし、それを見本として「そむく者たちに(神への)道を教える」ことができたのではないでしょうか。

  14節の初めは、「助け出してください」という嘆願です。彼は、「このような流血の罪を二度としません」と約束する代わりに、誘惑に陥らないよう助けられることを願っています。しかも、神への賛美さえも、「(主人)」と呼びかけ、「この唇を開いてください」という願いから始め、自分の中に神のみわざがなされること望んだのです。

  16節は、いけにえを否定するものではなく、「今、私(ダビデ)がささげても・・」という前提があります。彼は、富と権力によって苦労せずに最上のものをささげることができましたが、その力のために恐ろしい罪を犯しました。それゆえ神は彼に、何よりも「砕かれた霊、砕かれ、打ちひしがれた心」(17節)を求められました。これは人間的には、「軽蔑」の対象に過ぎませんが、「神はそれをさげすまれない」というのです。私たちは自分が謙遜で敬虔な人であると見られたいという誘惑がありますが、そこから偽善が生まれます。しかし、ひとりの取税人が、神の聖所から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「こんな罪人の私をあわれんでください」と言ったとき、イエスはこの人を喜んでくださいました(ルカ18:13,14)。しばしば、「私は良い人間だ・・」と自他共に自負している人は、自分の力に頼って、自分の自我によって、聖霊の働きを阻害してしまいがちです。

そして神が契約の箱の置かれた「シオンを受け入れ、いつくしみを施してくださる」とき、「いけにえを喜びとされ」ます18、19節)。それはエルサレム神殿が建てられるときを指しますが、驚くべきことに神殿を完成したのは、バテ・シェバから生まれたソロモンでした。まるで神は、彼女がウリヤの妻だったことを忘れたかのようです。そこに神がダビデの「罪から御顔を隠し、咎の記録を拭い去ってくださった」(9節)ことの証を見ることができます。

イエスは、「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)と言われました。ダビデは自分の心の貧しさを痛感しましたが、神はそれをさげすむ代わりに受け入れ、彼が真の賛美といけにえをささげられるように変えてくださいました。神の息吹が私を生かすためには、まず私自身が自分に死ぬ必要があります。神の御前に沈黙しながら、自分の心の混乱が迫ってくることを恐れる必要はありません。それこそ、聖霊のみわざに心を開く出発点です。葛藤や怒り、不安を神に委ねるとき、神の息があなたのうちに息づきます。

パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた・・・私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と告白しましたが、「罪人かしらが、伝道者のかしらとされた」というのが、ダビデやパウロの記録です。ですから、私たちはどんな過ちを犯しても、「これで私の未来はなくなった・・」などと失望する必要はありません。何度でもやり直すことができます。イエスは兄弟の罪を、「七度を七十倍するまで」赦すように命じられましたが、それは神ご自身がそうしてくださるからです。私たちも、キリストなしには、無に等しい存在ですが、聖霊のみわざに身を委ねるなら、罪人たちに神の道を教え、神のみもとに回復させるほどの影響力を発揮できるのです。

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