« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月26日 (月)

詩篇69篇 「あなたがたの心は生き返ります!」 

   詩篇69篇 

                 指揮者のため、ユリの調べに合わせ、ダビデによる

救ってください!神よ。                              (1)

水が喉元にまで迫っています。              

私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。                (2)

大水の底に沈み、奔流に押し流されています。

叫ぶことに疲れ果て、喉は涸(か)れ、                       (3)

この目は、私の神を待ちわび、衰え果てました。               

ゆえなく私を憎む者は髪の毛よりも多く、                   (4)

 あざむいて滅ぼそうとする敵は強いのです。

それで私は、盗まなかった物さえも、

返さなければならないのでしょうか。     

神よ。あなたは、私の愚かさをご存じで、                   (5)

過ちの数々も隠されようもありません。   

あなたを待ち望む人々が、私のことで恥を見ませんように。        (6)

万軍の(ヤハウェ)、主(主人)よ。 

あなたを慕い求める人々が、私のことで卑しめられませんように。

 イスラエルの神よ。

あなたのために 私がそしりを負い、                         (7)

この顔は侮辱に覆われていますから。 

私の兄弟からは、のけ者にされ、                          (8)

同じ母の子らにさえ、私はよそ者です。

あなたの家に対する情熱が、私を食い尽くし、                   (9)

あなたをそしる者たちのそしりが、私に降りかかりました。

断食をしてたましいが泣き悲しむと、そのことでそしりを受け、       (10)                

荒布を衣とすると、それがまた、物笑いの種となりました。         (11)

町の有力な人々は、私のうわさをし、                      (12)

私は酔いどれの歌にされました。                 

私、私の祈りはあなたに!(ヤハウェ)よ。みこころの時に、         (13)                          

 神よ。豊かな真実の愛と御救いのまことによって、答えてください。

私を泥沼から救い出し、沈まないようにしてください。             (14)

 私を憎む者から、大水の底から、助け出してください。

奔流に押し流されず、深みに呑み込まれないようにして、           (15)

 私の上で、穴の口が閉じられないようにしてください。

答えてください!(ヤハウェ)よ。真実の愛のいつくしみのゆえに。      (16)

豊かなあわれみによって、御顔を私に向けてください。

あなたのしもべから御顔を隠さないでください。                    (17)

私は苦しんでいます。早く答えてください。

私のたましいに近づいて、あがない、                          (18)      

  敵の手から、私を買い戻してください。

あなたは、私が受けている そしり、恥、侮辱をご存じです。             (19)

 私に敵対する者はみな、御前にいるのですから。

そしりが 心を打ち砕き、                                (20)

私はひどく傷ついています。                         

理解してくれる人を待ち望んでも、誰もなく、

慰めてくれる人も、見いだせませんでした。

彼らは食物の代わりに苦味をよこし、                           (21)

 渇いたときには酢を飲ませたのです。        

        

彼らの前の食卓はわなとなり、平和が落し穴となりますように。         (22)                

 彼らの目が暗くされ見えなくなり、腰がいつもよろけますように。          (23)

あなたの憤りを彼らに注ぎ、燃える怒りで圧倒してください。           (24)

その陣営は荒れ果て、宿営には住む者もなくなりますように。         (25)

それは、あなたご自身が打たれた人を、彼らはなおも迫害し、           (26)

  あなたが刺し通された人の痛みを語りぐさにするからです。

彼らの咎に咎を加え、あなたの義の中に入れることなく、              (27)

 いのちの書から消し去り、正しい者と並べ記さないでください。           (28)

私は、卑しめられ、痛んでいます。                             (29)

神よ。御救いが私を高く上げてくださいますように。 

神の御名を、歌をもって私はたたえ、                         (30)

感謝をもってあがめます。                 

それこそ、雄牛にまさって、(ヤハウェ)に喜ばれましょう。             (31)

角と割れたひずめを持つ若い雄牛にまさって。       

悩んでいる人々は、これを見て、喜びます。                       (32)

神を尋ね求める人々よ。あなたがたの心は生き返ります。

(ヤハウェ)は、貧しい人々に耳を傾け、                         (33)

その捕われ人らをさげすまれないのだから。

天と地は、主(彼)をほめたたえよ。                               (34)

 海とその中に動くすべてのものも。 

確かに神は、シオンを救い、ユダの町々を建てられる。               (35)

彼らはそこに住み、その地を治める。

(彼)のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、                     (36)

御名を愛する人々はそこに住み着こう。       

                         (交読のための詩篇 翻訳責任 高橋秀典)               

注:タイトルの「ゆり」と訳されることばは調べの名称だと思われるが、意味は不明、詩篇45,60,80にも同じ名が出てくる。

12節の「町の有力な人々」とは原文で「町の門に座る人々」となっているが、それはさばきつかさたちが座る場所。

13節は、転換を表わす最も短い接続詞(ワウ)の後、「私」という代名詞が敢えて強調され、その後、「私の祈り」「あなたに」と続き、「ヤハウェ」という主の御名が出てくる。

また、同節の「真実の愛」はヘブル語のヘセッド(契約の愛)、「まこと」はヘブル語の「エメット」で、「アーメン」(それはほんとうです)と同じ由来の言葉。

20節の「ひどく傷ついています」ということばは、聖書中、ここにしかないことばで、「ひどく病む」、「絶望する」「無力になる」「気力を失う」などとも訳されることがある。

31節の「角と割れたひずめを持つ若い雄牛」とは、最上のいけにえを表現するためのことば。

2007年3月25日                                             

  多くの日本人は、罪責感に悩むよりも、「恥をかく」ことを恐れます。未信者の家庭に生まれた私もそうでしたが、一方で、人の目を意識する自分が本当に厭で、「恥じる自分を恥じて」もいました。しかし、この詩篇に出会ったとき、「ここに僕の気持ちが書いてある!」と驚き、何とも言えず、ほっとしました。しかも、ここに記されているのはイエスのお気持ちでもあると分かったとき、不思議に、傷つき悩むこのままの自分が神に受け入れられていると感じられました。そして、マイナスの感情を受け入れるにつれ、日々の小さな出来事に対する感動が増し加わって来たような気がします。私は、今、生きていることが喜びです。その転換の鍵こそ、この詩篇にありました。

イエスは生涯を通してこれを味わっておられました。パウロもこれを引用しつつイエスの御苦しみの意味を説明し、またこれはダビデの預言であるとも語っています。多くの学者はこの詩篇の内容はバビロン捕囚以後の時代を反映していると主張しますが、私たちはパウロの証言の方を信じ、これがダビデによって記され、またイエスご自身がここに記されている不当な苦しみを敢えて積極的に引き受けようとされたと理解すべきでしょう。ただし、ダビデがどのような状況下でこれを記したかは不明ですが、何度も自分の同胞から見捨てられた悲しみが表現されていることは間違いありません。彼は、息子アブシャロムの反乱の際には、信頼していた顧問アヒトフェルに裏切られ、都落ちの際はベニヤミン人のシムイからのろいのことばを浴びせられ、アブシャロムの死を泣き悲しんでいるときには将軍ヨアブから、「あなたは・・・あなたの家来たち全部に、きょう、恥をかかせました」(Ⅱサムエル19:5)となじられました。彼は、誰にも理解してもらえない、やり場のない怒りと悲しみを、神に向かって注ぎだしているのです。

1。泥沼に沈んだような気持ちの時の切迫した祈り

1-4節でダビデは自分の絶望的な状況を詩的に表現します。人の相談にのりながらのこの箇所をお読みすると、「それこそ私が表現したかった気持ちです!」と急に心を開いてくださるということが何度もありました。それは、イエスが一緒に「深い泥沼に沈んで(2節)くださる方であることを覚え、闇の中に光を見ることができるからです。しかも、「叫ぶことに疲れ果て、喉は涸れ、この目は、私の神を待ちわび、衰え果てました」(3節)という祈りを聞くとき、「私の祈りは全然かなえられない・・・」という焦る気持ちから、「これは私だけではなく、すべての信仰者が一時的に通らされる現実なのだ・・・」と落ち着くことができます。そして、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に合わせることはなさいません」(Ⅰコリント10:13)という慰めを感じることができるでしょう。しかも、イエスご自身が、当時の宗教指導者のから憎まれていることの意味を、「ゆえなく私を憎む者」(4節)というみことばの成就だと引用されました(ヨハネ15:25)。そして、「私は、盗まなかった物さえも、返さなければならないのでしょうか?」とは、自分の責任ではないことの責任を取らされる不条理を嘆いたものです。みな人生のどこかでこの気持ちを味わったことがあるのではないでしょうか。しかし、そこで私たちは、「キリストの苦しみにあずかる」(Ⅰペテロ4:13)という誇りを抱くことができます。

  5,6節でダビデは、自分が自業自得の苦しみにあっていることを認めながらも、神が自分の苦しみを放置し続けることは、「万軍の主(ヤハウェ)、主(主人)、イスラエルの神」というご自身の御名を汚し、また神に従おうとするすべての人にとってのつまずきになると訴えています。人が神を知るきっかけは、目に見える信仰者を通してです。ですから、私たちも、「私をこの悲惨から救い出すことは、あなたの栄光のためです」と大胆に祈ることができます。

  「あなたのために私がそしりを負い・・・」(7節)以降の記述は、私たちが神への信仰のゆえに誤解されあざけりを受ける現実が記されていますが、それは何よりも私たちの救い主イエスが受けた苦しみそのものでした。たとえば、「あなたの家に対する情熱が、私を食い尽くし」(9節)とは、イエスが神の神殿から商売人を追い出されることに関して述べていると弟子たちは理解しました(ヨハネ2:17)。そしてパウロは、「キリストでさえご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ローマ15:3)と言いつつ、イエスご自身がこの9節2行目の、「あなたをそしる者たちのそしりが、私に降りかかりました」というみことばをご自身に当てはめていたと解説しています。つまり、イエスが受けた「そしり」は父なる神への「そしり」であるというのです。イエスは十字架上で、「今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」(15:32)とあざけられましたが、それは人々が自分の期待通りに動いてくださる神だけを信じようとすることの現われです。今も、世の人々は、「私の理想を実現し、私の必要を満たしてくださる神」だけを求め、神が創造主、絶対者であり、私たちにどんな命令をくだすこともできるかたであるということを忘れています。人々は、神にもあなたにも、身勝手な要求を押し付けてきます。それをわきまえて私たちは生きるべきでしょう。

しかも、その際、私たちは、人の誤解を解こうなどと頑張る前に、「私、私の祈りはあなたに!主(ヤハウェ)よ・・・答えてください」(13節)と祈ることが大切です。残念ながら、人々から不当な「そしり」「侮辱」を受け、村八分にされながら、「神のみこころは私たちが苦しみに耐えること・・・」と思い込み、神に向かって大胆に叫ぶことができない人がいます。それでは、「運命だと思って諦めよう!」という世の人々と同じ発想ではないでしょうか。神は絶対者であられますが、意地悪な方ではありません。私たちが、1-3節に描かれ、また14,15節で繰り返されている切羽詰った状況をから「救い出し・・助け出してください」と必死に願うことを喜んでくださいます。興味深いのは、13節でのみこころのときに・・・答えてください」という控えめな祈りは、16節では「答えてください!主(ヤハウェ)よ」という叫びになり、17節では、早く答えてください」という性急な訴えになっている点です。また16節では、神の「真実の愛・・・豊かなあわれみ」とあるように、神が私たちにいつも目を留めておられると告白されていながら、17節では、「あなたのしもべから御顔を隠さないでください」と、神がよそ見をしておられるかのような訴えがされています。これは、私たちの感覚からすると、極めて、お行儀の悪い、無礼な願い方かも知れません。確かにこの世で人にものを頼むときには、一定の手順があり、相手の意向に反する願い方をすれば聞いてもらうことはできません。しかし、神は、幼い子供が親に願うときのような率直さや正直さを何よりも喜んでくださいます。人間の心は不思議です。忍耐できない気持ちを表現できて初めて、「必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36)と納得できるようになるからです。

. イエスに知られている「そしり」と「恥」と「侮辱」を受ける苦しみ

私たちの喜びは、多くの場合、誰かと心が通じ合う中に感じられ、反対に、悲しみは、理解して欲しいと思っていた人から誤解され、いわれのない非難を受けたときに生まれるのではないでしょうか。人の基本的な悩み、痛みは交わりの中から生まれますが、そのことが19節で、三つのことばで言い表されます。それはこの詩全体で繰り返されていることばであり、また詩的に婉曲的に表現されている概念の本質です。その意味は基本において重なっていますが、敢えて説明すると次のように定義することができます。第一の、「そしり」(ハラプ)とは、人格を傷つけるような中傷、あざけりで、「尊敬」の反対語です。第二の、「恥」(ボーシュ)とは、面目を失う、期待が裏切られる、立場がなくなること等の痛みを意味します。第三の、「侮辱」(カラム)とは、いやしめられ、プライドが傷つくこと、恥ずかしい思いをすることを意味します。日本語の「はぢ」にはこれらすべてを含めるような意味があると思われ、「はぢ」はしばしば、「恨み」に転じます。不思議に、そのような心の動きは22-28節にも見られます。そして、この「はぢ」の痛みは、創世記によると、アダムが自分を神のようにして、神から離れてしまった結果として生まれた痛みです。私は昔、「キリスト教は恥ではなく、罪を問題にする」という説明に違和感を覚えたことがあります。それは多くの日本人にとって、罪責感よりも恥の方が根源的な痛みだからです。しかし、創世記ではまさに恥をより根源的な痛みと描いています。つまり、福音は、罪からばかりでなく、恥からも語ることができるのです。

19節では「あなたは」ということばを強調しつつ「ご存知です」と断定し、また、「私に敵対する者」は、「みな御前にいるのですから」と言いながら、なお、自分の痛みを赤裸々に表現します。ダビデは、「すべて主に知られているから訴える必要がない・・」ではなく、「だからこそ遠慮なく言える」と思いました。私たちは人のことばに傷ついた時、自分の傷つきやすさを責めることがありますが、ダビデは、「そしりが心を打ち砕き、私はひどく傷ついています」(20節)と、生きる気力を失ったほどの痛みを率直に表現します。ダビデはライオンと戦うほどに勇敢な人ですが、同時に驚くほど繊細で感受性が豊かな人でした。自分の感性を恥じる必要はありません。しかも、彼は、「理解してくれる人」、つまり「一緒に泣いてくれる」ような人を求めますが「誰もなく」、また、「慰めてくれる人」、つまり母親が泣く子を抱くように(イザヤ66:12ー14)寄り添ってくれる人を「見出せなかった」という孤独を味わったと訴えています。「人の同情などを求めてはならない!」と自分に言い聞かせながら空回りするのではなく、正直に祈っています。

そればかりか、悲しんだことで、傷口に塩を塗るような批判を受けてしまった痛みが、「彼らは食物の代わりに、苦味(または毒)を与え」「渇いたときには酢を飲ませた」(21節)と表現されています。アブシャロムの死を泣き悲しむダビデに投げかけられたヨアブのことばはそのように彼の心に響いたのではないでしょうか。多くの牧師たちは、社会や教会のルールを守ることができないような人にも真剣に寄り添い、彼らが神を見上げることができるようにと労苦していますが、その対応が「甘すぎる・・」、「教会の聖さを傷つける」と非難の対象になることがあります。しかも、事情を説明することも許されません。私も牧師になって間もなくの頃、そのような孤独感に圧倒されたことがありました。そして、そんなとき、20,21節に自分の気持ちが記されているのに深い慰めを見いだすことができました。

それは、何よりも、イエスご自身が十字架で味わった痛みであることが分ったからです。福音記者ヨハネは、イエスが十字架上で「わたしは渇く」とおっしゃって、「酸いぶどう酒を受けられた」のは、この詩篇のことばが成就するためであったと解説しています(ヨハネ19:28ー30)。イエスはそのとき、「水」ばかりか「愛」に渇いておられたのです。

イエスの十字架は、絶対的な孤独のシンボルです。イエスは私たちに先立ってその苦しみを通りぬけられました。だからこそ、私たちの心が深く傷つき、孤独を味わっているとき、イエスは私たちを慰めることができるのです。

イエスは、私たちの心の痛みを軽蔑することなく、まず、一緒に泣いてくださる方であることを覚えたいものです。

3.神のさばきと救いを祈ることができる者が味わう自由

  22ー28節を読むと一瞬、「こんなことを祈ってよいのだろうか?」という気持ちになります。しかし、「彼らの前の食卓はわなとなり、平和が落し穴となりますように。彼らの目が暗くされ見えなくなり、腰がいつもよろけますように」(22,23節)は、ダビデがイスラエルに対する神のさばきは預言したものだと解説しています(ローマ11:9,10)。また「その陣営は荒れ果て、宿営には住む者もなくなる」(25節)とは、イエスご自身がエルサレムへのさばきの預言としてとして理解しておられました(マタイ23:38、ルカ13:35)。またイエス昇天後はペテロが、イスカリオテのユダに対する神のさばきを、「実は詩篇には、こう書いてあるのです」(使徒1:20)と言いつつ、この同じ箇所を引用しました。そればかりか、28節では「いのちの書」という言葉が聖書中初めて出ますが、これは黙示録の鍵の言葉で、神の御前に悔い改めた者に関して、再臨のイエスが、「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」(3:5)と約束する際に用いられており、福音の核心を表現する言葉となっています。つまり、私たちが飛ばして読みたくなるような箇所を、イエスもパウロもヨハネも他の弟子たちも深く思い巡らしていたという現実があるのです。

  「あなたの憤り・・燃える怒り」(24節)とあるように、神は罪に対して怒られる方です。そして、神のかたちに造られた私たちも、怒りの感情を持つ者として造られています。私たちの真の問題は、怒ってしまうことではなく、怒るべきことに怒らず、怒らなくてもよいことに怒ってしまうことではないでしょうか?確かにイエスは、十字架上で、この詩篇を祈る代わりに、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました(ルカ23:34)。しかし、それは、自分を十字架につけた者たちが、父なる神からどれだけ厳しいさばきを受けるかを知っておられたからだということを忘れてはなりません。イエスはそのために25節を引用され、また、この祈りの前に、「彼らが生木(イエス)にこのようなことをするなら、枯れ木(宗教指導者)には、いったい何が起こるでしょう。」と語っておられるのですから(ルカ23:27ー34)

私たちが他の人から深く傷つけられ、怒りが押さえられないとき、自分に向かって「怒ってはならない!」と言い聞かせるよりは、まずこの詩篇に従って祈ってみるとよいのかもしれません。それは、いじめにあった子供が「お父ちゃん・・」と泣き叫ぶような気持ちを訴えるものです。そのとき、私たちは、神の目がふし穴ではなく、聖徒たちのためにすみやかに復讐をしてくださる方であることを知ることができます(黙示6:10)。そして、私たちは、神の復讐の恐ろしさを理解したとき初めて、真実に、「父よ。彼らをお赦しください。」と祈ることができるようになるのではないでしょうか。祈りの基本は、私たちの心の底にある気持ちを神に聞いていただくことにあります。しかも、さばきを下すかどうかは、神がお決めになることなのですから、何でも自由に打ち明けたら良いのではないでしょうか。

 

 「私は卑しめられ、痛んでいます」(29節)という告白は、それまでのすべてを総括することばですが、その後、この詩篇の調子は、感謝と喜びに大きく転換します。それは、「心を神の御前に注ぎ出」(詩篇62:8)した結果です。しかも、キリスト者は、痛みの中で、イエスが「私たちの病を負い、私たちの痛みをになって」(イザヤ53:4)十字架にかかられたこと、そして三日目に、「御救いが私を高く上げてくださいますように」という祈りの結果として、死人の中からよみがえられたことを知ることができます。それは私たちのどんな苦しみにも出口があることの保証です。

30,31節では、「神の御名」を、賛美することこそが、どのような高価な犠牲にもまさって神に喜ばれると表現されます。御名とは神の「真実の愛」、「まこと」、「あわれみ」などのご性質を表わすものです。つまり、ここでは17節とは反対に、神がご自身の「しもべから御顔を隠す」ということが決してない方であることが歌われているのです。

32節は、祈りとして訳すこともできますが、「悩んでいる者たちは、これを見て、喜びます。神を尋ね求める人々よ。あなたがたの心は生き返ります」という断定形に訳す方が、前節、また33節の「主(ヤハウェ)は・・貧しい人々に耳を傾けられるのだから」という説明と整合性があると思われます。ここで語られているのは、「喜べ」「生かせ」という励ましよりは、私たちにとっては、キリストの復活が、「悩む者たちを・・喜ばせ・・生き返らせる(revive)」という約束ではないでしょうか。私たちの心が萎えて、生きる気力を失ってしまうようなとき、自分で自分を励まそうとするのではなく、主に自分の気持ちを奥底から訴えることで、主ご自身が私たちのこころを生き返らせてくださるのです。それこそ、まさにイエスが私たちにお送りくださった聖霊のみわざです。「何でこんなことで自分は悩んでいるのだろう・・」と悩む自分を責めたり、また、悩んでいる人に、「あなたは何でそんなことぐらいでくよくよ悩むの?」などと蔑むような言い方をしてはなりません。イエスは決してそのように私たちを見ることはなさらないからです。しかも、イエスは私たちを落ち込んだままにはしておかれず、私たちに再び生きる活力を与えてくださいます。

イエスは父なる神に従った結果として、「そしりと恥と侮辱」に襲われているということを訴えるように、「私は卑しめられ、痛んでいます」と言われました。私たちは、「平安(シャローム)がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」(エレミヤ8:11)ということがあるかもしれません。しかし、その「平和(シャローム)が落とし穴」(22節)となることがあります。ですから、自分の心の痛みを偽ることなく、それと正直に向き合いを、詩篇の祈りを通して、主に取り扱っていただく必要があるのではないでしょうか。イエスご自身が、苦しみの中でこの詩篇を祈って、高く上げられたのですから。

| | コメント (0)

2007年3月19日 (月)

Ⅱサムエル18~20章 「最も身近な人が苦しみの原因となる」

                                                         2007年3月18日

  しばしば私たちにとっての最大のストレスは最も身近な人間関係から生まれます。ダビデが私をののしる者が敵ではありません。それなら忍べたでしょう。私に高ぶる者が仇(あだ)ではありません。それなら彼から身を隠したでしょう。しかし、おまえが。私と同等の者、私の友、私の親友が・・・」(詩篇55:12,13)と嘆いたときは、彼にはヨアブとの関係で深く悩んでいたのかもしれません。しかし、彼は生涯ヨアブとの関係を保ち、神にさばきを委ねていました。

1.「そのとき、あなたは知らぬ顔をなさるでしょう」と言われたヨアブとアブシャロムの記念碑

ダビデは息子アブシャロムの反乱によってエルサレムから落ち延びざるを得ませんでした。その際、彼は自分の顧問の裏切りを知って、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(15:31)と嘆願しました。そして主は、この絶体絶命のとき、ダビデに様々な助け手を送り、軍事力回復のための時間と力を与えました。

ダビデは軍を三つに分け、それぞれをヨアブ、その兄弟アビシャイ、ペリシテから従ってきたガテ人イタイに任せます(18:1)。ただし、彼は自分があくまでも軍の先頭に立ちたいという思いを明らかにします(18:2)。彼はウリヤのことで罪を犯しましたが、本来、自分の身を守るために家来を犠牲にするような王ではなく軍には一体感がありました。一方アブシャロムの軍隊は、利害で動く烏合の衆のようなものでその勢いに明らかな差がありました。

ダビデは三人の将軍に、「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」(18:5)と願いました。戦いはヨルダン川の東に広がるエフライムの森で行なわれましたが、一気に決着がつきます(18:6-8)。アブシャロムは逃げる途中で樫の木に宙づりになります(18:9)。彼は自分の頭髪の豊かさを誇っていましたが(14:26)、その余りにも多い髪の毛が樫の木に引っかかったのだと思われます(18:9)。ひとりの男がそれを見つけてヨアブ報告しました。ヨアブは彼に、「なぜその場で地に打ち落とさなかったのか」(18:11)と尋ねますが、彼は、王が「若者アブシャロムに手を出すな」とヨアブたちに命じていたのを聞いたと応答します(18:12)。そして彼は、自分がヨアブの意向に沿って王命に逆らってアブシャロムを打っても、「王には何も隠すことができません。そのとき、あなたは知らぬ顔をなさるでしょう(18:13)と面と向って言います。これは、「いざとなったら、あなたは私を見捨てる方です・・」という意味です。ヨアブは平気で人をだまし討ちにするところがあったからです。彼はダビデからも、「私にとっては手ごわすぎる」(3:39)と言われるほどの勇猛な将軍でしたが、家来の心を捉えていたのはダビデでした。そこにダビデ軍の強さの秘密がありました。将軍ヨアブは、ダビデの甥であり、最初から最後まで彼の側にいましたが、その心は対照的でした。ヨアブは、目的のためには手段を選ばないという点で、極めて合理的で冷徹な人でした。

ヨアブはアブシャロムの心臓を槍で突き通したばかりか、その十人の手下が彼をいたぶるままにし、ついには森の中の深い穴に投げ込みました。それはアブシャロムを神にのろわれた者とみなす仕打ちで、アカンへのさばきを思い起こさせる行為です(ヨシュア7:26)。ヨアブはかつて、ダビデにアブシャロムの赦免を嘆願したことを後悔していたのかもしれません。ただし、ヨアブがこの後、同族イスラエルを深追いさせることを即座にやめさせたところを見ると、内乱の原因となった首謀者を厳しく処罰することでイエスラエルの一致を回復するという大義があったとも思えます。しかし、そこには、個々の人の痛みに寄り添うことができない全体主義の匂いが感じられます。

ところで、アブシャロムは存命中に、「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから(18:18)と言って、自分のための記念碑を立てていたというのです。彼はおだてに乗せられて戦略を誤り、自滅しました。それは、人の愛に渇くあまり道を誤った「なれのはて」とも言えましょう。しかし私たちの残すべき記念碑とは、「私たちに中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません」(ローマ14:7)という生き様そのものではないでしょうか。それにしても、やはり、人間にとっての最後の願いは、「私を覚えて欲しい」に尽きるのだと思われます。イエスとともに十字架にかけられた強盗の願いも、「イエス様・・・私を思い出してください」(ルカ23:42)でしたが、彼は何の良い働きも残せなかったようでも、イエスのみを見上げることで救われました。

2.ダビデの嘆きとヨアブとの確執

  この戦いの勝利を祭司ツァドクの息子アヒアマツは、すぐに知らせたいと願います。その心は、(ヤハウェ)が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされた(18:19)という純粋な動機でした。彼はかつてアヒトフェルによるダビデ追討計画を命がけで知らせた人であり、ダビデが「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう」(18:27)と言ったのも無理がありません。しかし、彼はアブシャロムの死をダビデに告げることができませんでした。一方、ヨアブは敢えて、ダビデの気持ちを察することができない異邦人であるクシュ人によって、王子の死を知らせました。それは彼であれば、アブシャロムの死を、王の敵の当然の報いと報告すると思われたからです。

  知らせを聞いたダビデは、身震いしつつ号泣します。ここで、「わが子よ」ということばが五回、アブシャロムという名も三回も繰り返され、彼は、「私がお前に変わって死ねばよかったのに」とさえ言います(18:33)。アブシャロムが反乱を起こしたのは、自分がダビデから疎まれ、憎まれていると思い込んでいたからですが、まさに「親の心、子知らず」ということわざの通りです。残念ながら、多くの人が神の燃えるような愛を知らずに、自分勝手な道に迷い込んでいます。後に、神は、ご自身への反抗を繰り返したエフライムに向って、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない」(ホセア11:8,9)と言われますが、その愛のゆえに神はご自身の御子を世に遣わしてくださいました。息子に命を狙われながら、自分が身代わりになりたかったと泣いた父ダビデと同じお気持ちを、神は私たちひとりひとりに対して持っておられるのです。

  ただし、この場合、ダビデがその死を悼んでいるのは敵の大将であって、これでは命をかけて戦って帰って来た兵士たちの労は報われません。ヨアブはその気持ちを代弁するかのように、「あなたは、きょう、あなたのいのち・・・を救ったあなたの家来たち全部に・・恥をかかせました・・・もしアブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなっていたのでしょう」(19:5,6)とまで言いながら、王が顔を見せて、家来たちの労をねぎらわなければ、皆が今夜中に去ってゆくと警告します。ヨアブの激しいことばの背後には、自分の手でアブシャロムを虐殺したという負い目があったのかも知れませんが、彼のことばは極めて合理的だったと思われます。ダビデは多くの美しい詩篇を残すほど感受性が豊かでしたが、それが仇になることもあり、ヨアブの冷徹さも必要としていたと言えましょう。しかし、ダビデがヨアブのようであったなら、人々の信頼を得ることもできませんでした。

  ところで、敗北して逃げていた北のイスラエル十部族は、自分たちの無節操さを恥じもせず、「われわれが油を注いで王としたアブシャロムは、戦いで死んでしまった」(19:10)と言いながら、再びダビデを自分たちの王にすぐに担ぎ上げようとします。この変わり身の早い人々に頼ることは危険極まりません。それに気づいたダビデは、ユダ部族に、「あなたがたは、なぜ王を王宮に連れ戻すのにためらっているのか」(19:11)と言いつつ、まず同族との関係の修復を願います。その際、何と、アブシャロムの将軍だったアマサをヨアブの代わりに立てると約束します。アマサはダビデの甥であり、ヨアブのいとこですが、ダビデの敵をまとめていた人ですから、彼を味方につけることは大きな意味があります。これらのことを通して、「こうしてダビデは、すべてのユダの人々を、あたかもひとりの人の心のように自分になびかせた」(19:14)と記されます。ダビデは利害よりも信頼関係の回復を優先しました。

  ここでダビデはヨアブを解任しています。それはアブシャロムの最後を聞いたからでしょう。ダビデはヨアブの乱暴さに我慢を重ねてきましたが、どんなに有能でも、家来たちの前で王命に真っ向から背く態度を看過することはできません。ヨアブは人の心に無頓着すぎます。彼は自分こそダビデを支えているという誇りをもっていたことでしょうが、ダビデの死後すぐに自滅します。ダビデが人々の心を捉えていなければ、ヨアブは家来たちを信服させることができなかったのです。最も身近な人との関係で悩むというのが人間の常です。それは近くにいるほど、発想の違いが耐え難いものに感じられるからです。しかし、それは互いが必要としていることのしるしかもしれません。

3. イスラエル王国の一致のために和解を最優先したダビデ

  ところでダビデを最初に迎えた人として描かれているのは、かつてダビデを激しくのろったシムイでした。彼は千人のベニヤミン族を引き連れてダビデの赦しを請います。ヨアブの兄弟アビシャイは、彼は「死に価する」と主張しますが、ダビデは戦いの終結を宣言し、シムイに「あなたを殺さない」と誓います(19:16-23)。続いてサウルの子メフィボシェテが来て、自分が王に従えなかった理由を、家来ツィバに欺かれ、捨て置かれたと弁解します。ダビデは事の真偽を確かめようともせずに、メフィボシェテとツィバの両者が並び立つように財産の折半を命じます(19:24-30)突き詰めても分らないことは、両者が並び立つように計るのが交わりを保つ秘訣だからです。

  次に登場するバルジライは、ダビデが最も辛く貧しかったときに養い続けてくれた恩人です。ダビデは恩返しをさせて欲しいと願いますが、彼は自分が高齢すぎて重荷になることを恐れ、息子のキムハムを託します。

  ところがダビデがヨルダン川を渡ったところで、北イスラエルの十部族とダビデの部族ユダとの間で、王家の主導権争いが生じます。その中で、「ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばよりも激しかった」(19:43)ことの結果、シェバというベニヤミン人が、「ダビデには、われわれのための割り当て地がない」(20:1)と北の十部族に訴えます。そこで、「そのため、すべてのイスラエル人は、ダビデから離れて、ビクリの子シェバに従って行った」(20:2)という変節ぶりにはあきれるばかりですが、ここには、後の北王国イスラエルと南王国ユダの分裂のはしりをみることができます。ダビデはその危険をすぐに察知し、アマサに、「私のためにユダの人々を三日のうちに召集し・・」(20:4)と命じます。しかし、彼は期限に間に合わなかったため、ダビデはヨアブの弟アビシャイにシェバの討伐を命じます。そのような中で、ヨアブはアマサに出会い、彼に挨拶をするふりをし、不意をついて左手をつかって剣で殺します。ヨアブはアマサが自分の代わりとされたことを逆恨みしたのでしょう。他の家来たちが唖然としている中で、ヨアブの従者が、「ヨアブにつく者、ダビデに味方するものは、ヨアブに従え」(20:11)シェバ追討作戦のどさくさにまぎれてヨアブの将軍復帰を宣言し、人々はその勢いに引きずられるようにヨアブに従います。

  シェバはイスラエルの北の果ての町アベルに逃げ込みますが、ひとりの知恵ある女が、シェバを差し出すことと条件に軍隊の撤退を願います。これによって反乱の張本人の血を流すだけで町が救われました(20:14-22)。このことをもとに、ソロモンは、「知恵は力にまさる。知恵は武器にまさる(伝道者9:16、18)と言ったのだと思われます。

それにしても、ヨアブはこれによって「イスラエルの全軍の長」(20:23)としての立場に戻りました。この際、ダビデはヨアブのアマサ殺害の責任を問いませんでした。ダビデはイスラエル王国の確立という神からの使命のために、自分の怒りを抑えました。物事を突き詰めてしまっては争いになるだけというときが私たちにもあるものです。

  ダビデは使命のために、個人的な恨みを押さえ、人と人との和解を成り立たせ、ヨアブの横暴にも耐えました。バルジライは謙遜な気持ちで、「私は今、八十歳です。私はもう善悪をわきまえることができません(19:35)と言いましたが、実際には、誰よりも神のご計画をわきまえ、一貫した態度を保っています。それは年を重ねることの恵みかもしれません。善悪を厳しく問うことがかえって交わりを壊し、より大きな問題を起こすということもあるからです。 「愛は寛容であり、愛は親切です」(Ⅰコリント13:4)とありますが、「寛容」とは不当な仕打ちに耐えることを、「親切」とは、そのような人になお積極的に救いの手を差し伸べることを意味します。それこそ神の平和の基礎となります。                    

| | コメント (0)

Ⅱサムエル18~20章 「最も身近な人が苦しみの原因となる」

                                                         2007年3月18日

  しばしば私たちにとっての最大のストレスは最も身近な人間関係から生まれます。ダビデが私をののしる者が敵ではありません。それなら忍べたでしょう。私に高ぶる者が仇(あだ)ではありません。それなら彼から身を隠したでしょう。しかし、おまえが。私と同等の者、私の友、私の親友が・・・」(詩篇55:12,13)と嘆いたときは、彼にはヨアブとの関係で深く悩んでいたのかもしれません。しかし、彼は生涯ヨアブとの関係を保ち、神にさばきを委ねていました。

1.「そのとき、あなたは知らぬ顔をなさるでしょう」と言われたヨアブとアブシャロムの記念碑

ダビデは息子アブシャロムの反乱によってエルサレムから落ち延びざるを得ませんでした。その際、彼は自分の顧問の裏切りを知って、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(15:31)と嘆願しました。そして主は、この絶体絶命のとき、ダビデに様々な助け手を送り、軍事力回復のための時間と力を与えました。

ダビデは軍を三つに分け、それぞれをヨアブ、その兄弟アビシャイ、ペリシテから従ってきたガテ人イタイに任せます(18:1)。ただし、彼は自分があくまでも軍の先頭に立ちたいという思いを明らかにします(18:2)。彼はウリヤのことで罪を犯しましたが、本来、自分の身を守るために家来を犠牲にするような王ではなく軍には一体感がありました。一方アブシャロムの軍隊は、利害で動く烏合の衆のようなものでその勢いに明らかな差がありました。

ダビデは三人の将軍に、「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」(18:5)と願いました。戦いはヨルダン川の東に広がるエフライムの森で行なわれましたが、一気に決着がつきます(18:6-8)。アブシャロムは逃げる途中で樫の木に宙づりになります(18:9)。彼は自分の頭髪の豊かさを誇っていましたが(14:26)、その余りにも多い髪の毛が樫の木に引っかかったのだと思われます(18:9)。ひとりの男がそれを見つけてヨアブ報告しました。ヨアブは彼に、「なぜその場で地に打ち落とさなかったのか」(18:11)と尋ねますが、彼は、王が「若者アブシャロムに手を出すな」とヨアブたちに命じていたのを聞いたと応答します(18:12)。そして彼は、自分がヨアブの意向に沿って王命に逆らってアブシャロムを打っても、「王には何も隠すことができません。そのとき、あなたは知らぬ顔をなさるでしょう(18:13)と面と向って言います。これは、「いざとなったら、あなたは私を見捨てる方です・・」という意味です。ヨアブは平気で人をだまし討ちにするところがあったからです。彼はダビデからも、「私にとっては手ごわすぎる」(3:39)と言われるほどの勇猛な将軍でしたが、家来の心を捉えていたのはダビデでした。そこにダビデ軍の強さの秘密がありました。将軍ヨアブは、ダビデの甥であり、最初から最後まで彼の側にいましたが、その心は対照的でした。ヨアブは、目的のためには手段を選ばないという点で、極めて合理的で冷徹な人でした。

ヨアブはアブシャロムの心臓を槍で突き通したばかりか、その十人の手下が彼をいたぶるままにし、ついには森の中の深い穴に投げ込みました。それはアブシャロムを神にのろわれた者とみなす仕打ちで、アカンへのさばきを思い起こさせる行為です(ヨシュア7:26)。ヨアブはかつて、ダビデにアブシャロムの赦免を嘆願したことを後悔していたのかもしれません。ただし、ヨアブがこの後、同族イスラエルを深追いさせることを即座にやめさせたところを見ると、内乱の原因となった首謀者を厳しく処罰することでイエスラエルの一致を回復するという大義があったとも思えます。しかし、そこには、個々の人の痛みに寄り添うことができない全体主義の匂いが感じられます。

ところで、アブシャロムは存命中に、「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから(18:18)と言って、自分のための記念碑を立てていたというのです。彼はおだてに乗せられて戦略を誤り、自滅しました。それは、人の愛に渇くあまり道を誤った「なれのはて」とも言えましょう。しかし私たちの残すべき記念碑とは、「私たちに中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません」(ローマ14:7)という生き様そのものではないでしょうか。それにしても、やはり、人間にとっての最後の願いは、「私を覚えて欲しい」に尽きるのだと思われます。イエスとともに十字架にかけられた強盗の願いも、「イエス様・・・私を思い出してください」(ルカ23:42)でしたが、彼は何の良い働きも残せなかったようでも、イエスのみを見上げることで救われました。

2.ダビデの嘆きとヨアブとの確執

  この戦いの勝利を祭司ツァドクの息子アヒアマツは、すぐに知らせたいと願います。その心は、(ヤハウェ)が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされた(18:19)という純粋な動機でした。彼はかつてアヒトフェルによるダビデ追討計画を命がけで知らせた人であり、ダビデが「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう」(18:27)と言ったのも無理がありません。しかし、彼はアブシャロムの死をダビデに告げることができませんでした。一方、ヨアブは敢えて、ダビデの気持ちを察することができない異邦人であるクシュ人によって、王子の死を知らせました。それは彼であれば、アブシャロムの死を、王の敵の当然の報いと報告すると思われたからです。

  知らせを聞いたダビデは、身震いしつつ号泣します。ここで、「わが子よ」ということばが五回、アブシャロムという名も三回も繰り返され、彼は、「私がお前に変わって死ねばよかったのに」とさえ言います(18:33)。アブシャロムが反乱を起こしたのは、自分がダビデから疎まれ、憎まれていると思い込んでいたからですが、まさに「親の心、子知らず」ということわざの通りです。残念ながら、多くの人が神の燃えるような愛を知らずに、自分勝手な道に迷い込んでいます。後に、神は、ご自身への反抗を繰り返したエフライムに向って、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない」(ホセア11:8,9)と言われますが、その愛のゆえに神はご自身の御子を世に遣わしてくださいました。息子に命を狙われながら、自分が身代わりになりたかったと泣いた父ダビデと同じお気持ちを、神は私たちひとりひとりに対して持っておられるのです。

  ただし、この場合、ダビデがその死を悼んでいるのは敵の大将であって、これでは命をかけて戦って帰って来た兵士たちの労は報われません。ヨアブはその気持ちを代弁するかのように、「あなたは、きょう、あなたのいのち・・・を救ったあなたの家来たち全部に・・恥をかかせました・・・もしアブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなっていたのでしょう」(19:5,6)とまで言いながら、王が顔を見せて、家来たちの労をねぎらわなければ、皆が今夜中に去ってゆくと警告します。ヨアブの激しいことばの背後には、自分の手でアブシャロムを虐殺したという負い目があったのかも知れませんが、彼のことばは極めて合理的だったと思われます。ダビデは多くの美しい詩篇を残すほど感受性が豊かでしたが、それが仇になることもあり、ヨアブの冷徹さも必要としていたと言えましょう。しかし、ダビデがヨアブのようであったなら、人々の信頼を得ることもできませんでした。

  ところで、敗北して逃げていた北のイスラエル十部族は、自分たちの無節操さを恥じもせず、「われわれが油を注いで王としたアブシャロムは、戦いで死んでしまった」(19:10)と言いながら、再びダビデを自分たちの王にすぐに担ぎ上げようとします。この変わり身の早い人々に頼ることは危険極まりません。それに気づいたダビデは、ユダ部族に、「あなたがたは、なぜ王を王宮に連れ戻すのにためらっているのか」(19:11)と言いつつ、まず同族との関係の修復を願います。その際、何と、アブシャロムの将軍だったアマサをヨアブの代わりに立てると約束します。アマサはダビデの甥であり、ヨアブのいとこですが、ダビデの敵をまとめていた人ですから、彼を味方につけることは大きな意味があります。これらのことを通して、「こうしてダビデは、すべてのユダの人々を、あたかもひとりの人の心のように自分になびかせた」(19:14)と記されます。ダビデは利害よりも信頼関係の回復を優先しました。

  ここでダビデはヨアブを解任しています。それはアブシャロムの最後を聞いたからでしょう。ダビデはヨアブの乱暴さに我慢を重ねてきましたが、どんなに有能でも、家来たちの前で王命に真っ向から背く態度を看過することはできません。ヨアブは人の心に無頓着すぎます。彼は自分こそダビデを支えているという誇りをもっていたことでしょうが、ダビデの死後すぐに自滅します。ダビデが人々の心を捉えていなければ、ヨアブは家来たちを信服させることができなかったのです。最も身近な人との関係で悩むというのが人間の常です。それは近くにいるほど、発想の違いが耐え難いものに感じられるからです。しかし、それは互いが必要としていることのしるしかもしれません。

3. イスラエル王国の一致のために和解を最優先したダビデ

  ところでダビデを最初に迎えた人として描かれているのは、かつてダビデを激しくのろったシムイでした。彼は千人のベニヤミン族を引き連れてダビデの赦しを請います。ヨアブの兄弟アビシャイは、彼は「死に価する」と主張しますが、ダビデは戦いの終結を宣言し、シムイに「あなたを殺さない」と誓います(19:16-23)。続いてサウルの子メフィボシェテが来て、自分が王に従えなかった理由を、家来ツィバに欺かれ、捨て置かれたと弁解します。ダビデは事の真偽を確かめようともせずに、メフィボシェテとツィバの両者が並び立つように財産の折半を命じます(19:24-30)突き詰めても分らないことは、両者が並び立つように計るのが交わりを保つ秘訣だからです。

  次に登場するバルジライは、ダビデが最も辛く貧しかったときに養い続けてくれた恩人です。ダビデは恩返しをさせて欲しいと願いますが、彼は自分が高齢すぎて重荷になることを恐れ、息子のキムハムを託します。

  ところがダビデがヨルダン川を渡ったところで、北イスラエルの十部族とダビデの部族ユダとの間で、王家の主導権争いが生じます。その中で、「ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばよりも激しかった」(19:43)ことの結果、シェバというベニヤミン人が、「ダビデには、われわれのための割り当て地がない」(20:1)と北の十部族に訴えます。そこで、「そのため、すべてのイスラエル人は、ダビデから離れて、ビクリの子シェバに従って行った」(20:2)という変節ぶりにはあきれるばかりですが、ここには、後の北王国イスラエルと南王国ユダの分裂のはしりをみることができます。ダビデはその危険をすぐに察知し、アマサに、「私のためにユダの人々を三日のうちに召集し・・」(20:4)と命じます。しかし、彼は期限に間に合わなかったため、ダビデはヨアブの弟アビシャイにシェバの討伐を命じます。そのような中で、ヨアブはアマサに出会い、彼に挨拶をするふりをし、不意をついて左手をつかって剣で殺します。ヨアブはアマサが自分の代わりとされたことを逆恨みしたのでしょう。他の家来たちが唖然としている中で、ヨアブの従者が、「ヨアブにつく者、ダビデに味方するものは、ヨアブに従え」(20:11)シェバ追討作戦のどさくさにまぎれてヨアブの将軍復帰を宣言し、人々はその勢いに引きずられるようにヨアブに従います。

  シェバはイスラエルの北の果ての町アベルに逃げ込みますが、ひとりの知恵ある女が、シェバを差し出すことと条件に軍隊の撤退を願います。これによって反乱の張本人の血を流すだけで町が救われました(20:14-22)。このことをもとに、ソロモンは、「知恵は力にまさる。知恵は武器にまさる(伝道者9:16、18)と言ったのだと思われます。

それにしても、ヨアブはこれによって「イスラエルの全軍の長」(20:23)としての立場に戻りました。この際、ダビデはヨアブのアマサ殺害の責任を問いませんでした。ダビデはイスラエル王国の確立という神からの使命のために、自分の怒りを抑えました。物事を突き詰めてしまっては争いになるだけというときが私たちにもあるものです。

  ダビデは使命のために、個人的な恨みを押さえ、人と人との和解を成り立たせ、ヨアブの横暴にも耐えました。バルジライは謙遜な気持ちで、「私は今、八十歳です。私はもう善悪をわきまえることができません(19:35)と言いましたが、実際には、誰よりも神のご計画をわきまえ、一貫した態度を保っています。それは年を重ねることの恵みかもしれません。善悪を厳しく問うことがかえって交わりを壊し、より大きな問題を起こすということもあるからです。 「愛は寛容であり、愛は親切です」(Ⅰコリント13:4)とありますが、「寛容」とは不当な仕打ちに耐えることを、「親切」とは、そのような人になお積極的に救いの手を差し伸べることを意味します。それこそ神の平和の基礎となります。                    

| | コメント (0)

2007年3月11日 (日)

詩篇55篇 「あなたの重荷を主にゆだねよ」

詩篇55篇

           指揮者のため。弦楽器によって。ダビデのマスキール

聴いてください!神よ、この祈りを。                           (1)                 

 私の訴えから、身を隠さないでください。

御心を私に留め、答えてください。                           (2)                  

 私はうろたえ、うめき、わめくばかりです。

敵が叫び、悪者が迫っているのですから・・・                     (3)                               

彼らは災いで脅し、憤って攻めてきます。

私の心は奥底から悶(もだ)え、                              (4)                   

 死の恐怖に襲われています。

恐れとおののきにとらわれ、                                (5)                                              

 戦慄(せんりつ)に包まれました。

私は申しました。「ああ、鳩のような翼が私にあったなら、              (6)       

 そうしたら、飛び去って、休みを得ることができるのに・・・

本当に、はるか遠くに逃れ去り、                              (7)                   

荒野の中に、しばし宿ってみたい。       セラ                        

私の隠れ場に急いで行って                                 (8)                      

あらしと突風を避けてみたい。」                        

絶やしてください!主(主人)よ、彼らを。その舌を混乱させてください。      (9)                

私はこの町に暴力と争いを見ていますから。

昼も夜もそれらは城壁の上を巡り、その内側には不法と苦しみがあります。  (10)                        

破滅はその内側にあり、虐げと欺きとはその広場から離れません。      (11)                

私をののしる者が敵ではありません。それなら忍べたでしょう。          (12)

私に高ぶる者が仇(あだ)ではありません。それなら彼から身を隠したでしょう。   

しかし、おまえが。私と同等の者、私の友、私の親友が・・・。            (13)

 私たちは親しい交わりを楽しみ、神の家へと群れの中を歩いたのに・・・。  (14)

死が襲いかかればよい。生きたまま、よみに落ちればよい。                (15)

 悪が、彼らの住まいに、その内側にあるのだから。

私が、神に呼ばわると、                                 (16)                                           

 (ヤハウェ)は、私を救ってくださる。 

夕、朝、真昼、私はうめき、嘆く。                            (17)                                       

 すると、主(彼)は私の声を聞いてくださる。

迫り来る戦いから、このたましいを平和のうちに贖い出してくださる。        (18)

  たとい、私に立ち向かう者たちが、いかに多くいようとも。

神は聞いてくださる。昔から王座に着いておられ方は彼らを悩ませる。  セラ (19)

彼らは、改めず、神を恐れないから。

彼は自分と平和のうちにある者にまで手を伸ばし、                   (20)                   

その契約を破った。

彼の口はバターより滑らかだが、その心には戦いがある。              (21)              

彼のことばは香油よりも優しいが、それは抜き身の剣である。

ゆだねよ!(ヤハウェ)に、あなたの重荷を。                      (22)                  

(彼)は、あなたのことを心配してくださる。

(彼)は、正しい者がいつまでも揺るがされるままにはされない。

 しかし、神よ。あなたは、彼らを滅びの穴に落とされます。               (23)

血を流す者と欺く者どもは、自分の日数の半ばも生きられません。

 それゆえ、私は、あなたにより頼みます。

                                                       (2007年 高橋秀典)

訳注: 1節の「聴いてください」は、原文で、「耳」という単語から生まれた派生語で、「耳を傾けてください」と訳した方が適格かもしれないが、それだと叫びの雰囲気が弱くなるので、このように訳した。

また、「聴いてください!神よ」という語順は、9節では「絶やしてください!主よ」、また22節では「ゆだねよ!主に。」でも繰り返されており、その三つの「訴え」がこの詩の核心部分となっている。

2節の「うめき」は厳密には「うめきながら」だが、17節の「うめき」と同じことばであることを強調した。

4節「心は奥底から悶え」とは、「心が奥底において悶えている」と記されている。

9節の「絶やしてください!主よ、彼らを。」の「彼ら」は原文にはなく、何を絶やして欲しいと願っているかが曖昧にされている。「彼らの計画を絶やしてください」という解釈も文脈から可能と思われる。

10節の「昼も夜もそれらは・・」は「・・彼らは」とも訳され得るが、前の「暴力と争い」を指すと解釈した。

10、11,15節で、「内側」が三回繰り返され、城壁の内側での逃げ場のない状況が強調されている。

15,23節の「私」という主語はヘブル語ではなくても通じるのに、特に明記され、強調されている。

また23節の「神よ。あなたは」の「あなた」も同様に、特に明記され、強調されている。

18,20節の「平和のうちに」とは二つとも、ヘブル語の意味深い言葉「シャローム」が繰り返されている。

19節の「神は聞いてくださる」は、17節の「主は私の声を聞いてくださる」と同じ言葉が用いられているが、「私の訴え」に聞くとも、「私に立ち向かう者たち」の不当な攻撃を聞いておられるとも解釈され得る。

22節の「ゆだねよ」の中心的な意味は、「(石などを)放り投げる」ということで、自分の問題を神の御手にお任せすること。  また、「心配してくださる」とは、「(空の器を)満たしてくださる」というような意味が込められ、食べ物のない者に食べ物を与え、力のない者に力を与えてくださるような意味合いがある。それゆえ「支えてくださる」とも訳されることがある。

詩篇55篇 「あなたの重荷を主(ヤウェ)にゆだねよ」

                                                                 2007年3月11日 

  花粉症に苦しむ方が、「昨夜、私は鼻が詰まって眠られなかった・・」と言ったことに、シスター渡辺和子は、「あら、お薬をちゃんとお飲みになったの?」と応答してしまい、自分の配慮のなさを深く反省したとのことです。人は、誰でも、自分の気持ち、自分の辛さをわかって欲しいと願います。そのときに、苦しみの原因を分析されたのではかえって気が滅入るかもしれません。この詩には、人の味わうマイナスの感情が驚くほど豊かに表現されます。それは自分と人の気持ちに優しく寄り添いながら、神に心を注ぎだすことの第一歩ではないでしょうか。

 

1.  「私はうろたえ、うめき、わめくばかりです」

  ダビデはかつて何の落ち度もなかったのにサウル王から命を狙われ、死と隣り合わせの逃亡生活を続けざるを得ませんでした。そのとき同族の者たちからも裏切られました。また、王権が安定した後にも、息子アブシャロムの反乱によってエルサレムから逃げざるを得ないことがあり、そのときは自分の顧問であったアヒトフェルに裏切られ「主(ヤウェ)よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)と必死に祈ったほどです。この詩がいつ記されたかは分りませんが、そのような危機的な状況の中で生まれたことは確かです。

最初のことばは、「聴いてください!」という必死の叫びです。それは神が、「私の訴えから、身を隠している」ように感じられたからです。著者は、親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいるのですが、神は何もしてくださらないかのようです。1-5節のような気持ちは無縁と思う人もいるでしょう。しかし、感情は説明し難いものです。ヘンリ・ナウエンは、50代半ばの頃、心の奥底を分かち合える友に出会い、急速に依存して行きました。しかし、あまりにも多くを求め過ぎたため友情は破綻しました。彼は、世界が崩れたと感じ、眠られず、食欲もなく、生きる気力を失いました。彼はその鋭い霊的洞察力によって世界中の人々から尊敬されていましたが、その信仰が何の助けにもならないと感じました。別に、友が裏切って命を狙ったわけではないのですが、それでも彼はこの詩篇にあるとの同じ気持ちを味わったのです。私たちは、失恋でも、失業でも、夫婦喧嘩や約束の時間に遅れた時でさえ、「私はうろたえ、うめき、わめくばかりです」2節)という感情を味わうかもしれません。

そんなとき私たちは、その混乱したままの気持ちを、この詩篇を用いて神に訴えることが許されています。その時、ゲッセマネの園で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:37節)悶え苦しまれたイエスに出会うことができます。イエスご自身も、孤独でした。愛弟子のユダに裏切られ、弟子たちが逃げ去ることが分かっていたからです。その千年前、ダビデはアヒトフェルに同じように裏切られていました。それはいつの世にもある悲劇とも言えます。神の御子は、そのような悲しみをともに味わい、担うために人となられました。イザヤは、それを「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3)と預言しました。まさに、イエスは、私たちの心が些細なことで混乱することを、軽蔑することなく、いっしょに悲しんでくださる方なのです。

先に紹介したシスター渡辺和子が、50才の時にうつ病になったとのことです。一人のクリスチャンドクターは、「シスター、運命は冷たいこれども、摂理は暖かいものですよ。今、あなたが病気になったいうことは、運命ではない、神様のお計らいなのです」と言われました。そして、いつしか感謝に変わったというお話です。

あなたは、心の内側に湧き起こった感情を、自分で制御しようとして混乱を深めたことがないでしょうか?不安こそ、怒りの源泉と言われます。しかし、それを押し殺してばかりいると、不機嫌を撒き散らして周りの人を傷つけたり、また、自分を責めて鬱状態になることがあります。ところが、ダビデは、「私の心は奥底から悶え、死の恐怖に襲われています。恐れとおののきにとらわれ、戦慄に包まれました」(4、5節)という四つの並行文で、自分の恐怖心をやさしく受け止め、それを神に訴えています。彼は自分の心の状態を、分析することも、言い訳することもなく、そのまま言葉にしました。それこそ、感情に振り回されないためのステップではないでしょうか。ライオンの口から羊を救い出し、打ち殺したこともあるというあの勇気に満ちたダビデが、自分の気持ちを、ひとりぼっちで身体を震わしている少女のように描いているのです。彼はその微妙な感情を優しく丁寧に受け入れています。

感情を、いじるのではなく、自分のたましいに向って、「おまえは不安なんだね・・さみしいんだね」と言ってそれを優しく受け止めながら、しかも、「私って何て可愛そうなんでしょう!」などという自己憐憫に逃げ込むことなく、ただ、「主よ。私は不安です・・さみしいです」という祈りに変えてみてはいかがでしょう。それは、心の奥底で神との交わりを体験する絶好の機会です。それこそ御霊に導かれた祈りではないでしょうか。自分の気持ちを受けとめられない人は、人の気持ちも受けとめられないばかりか、神との交わりも浅いものに留まってしまいます。

2. 「鳩の翼が私にあったなら・・・」

  しかも、この人は「この問題から逃げ出そうとせずに、しっかりと向き合え!」などと自分を励ます代わりに、「ああ、私に鳩のような翼が私にあったなら。そうしたら飛び去って、休みを得ることができるのに・・」(6節)と、逃げ出したい気持ちにも優しく寄り添っています。しかもその上で、逃げ場のない自分の現実を描きます。彼の住む町の中には、「暴力と争い」、「不法と苦しみ」、「虐げとあざむき」が満ちているというのです(9-11節)。人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。逃げ出したくても、生活のためには逃げられません。

そればかりか、最も近しいはずの人が最も恐ろしい敵となっているというのです。たとえば家庭で精神的な虐待を受けるなら、どこに逃げ場があるでしょう。彼らは自分の悪意を巧妙に隠しながら「滑らか」「優しい」言葉を用いて語りかけ(21節)、「私はあなたのためを思って・・・」となどと言いながら、実際には「そのままのあなたには生きている資格がない」いう隠されたメッセージを伝え、生きる気力を奪い取っているということがあります。

ところで、著者は何と、「荒野」「私の隠れ場」と描きます。それは人の目からは、誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所でしょうが、だからこそ「神だけが頼り」となります。つまり彼は、「翼が私にあったなら・・」という白昼夢に逃げているようでも「あらしと突風」(7節)のただ中で、そのたましいは神のみもとに引き上げられているのです。それは、今は、「密室の祈り」と呼ばれる一対一で神に向き合うときに体験できることかもしれません。  

五年前のビュルキ先生のセミナーのことが拙著の生島先生の推薦文に示唆されています。私があることへの感想を述べた時、それが自分の問題を他者のせいにしているような部分があったのを先生は鋭く察知し、厳しく突っ込んできました。私は皆の前で恥をかかされた気持ちになりました。その時、先生は、皆に向かって「彼に安易な慰めの言葉をかけてはならない」と命じられました。また私には、「湧いた感情をいじってはならない。自己弁護してはならない。受けるべきケアーを受けられなくなる・・」と言われました。しばらく悶々とした気持ちでいましたが、徐々に予期しない形で不思議な慰めが与えられ、一週間近く経って、黙想の時に読まれたみことばが、心の奥底に迫って来て、感動に満たされました。後で先生が、「説明は、多くの場合正しくない。弁解の延長線上にあるからだ。『自己弁護する者は、自分や人を非難している』“S’EXCUSE S’ACCUSE”(フランスの諺)」と語ってくださいました。私は、人に慰めを求めるか、自分で自分をカウンセリングばかりしてきたように思えます。本当の意味で、問題を抱えたまま神の御前に静まり、神の解決を待ち望むことができませんでした。

しかし、ダビデはこの祈りを通して、恐怖におびえた心を、そのまま神にささげました。その結果、彼の心は、まさに鳩のような翼を得て、神のみもとに引き上げられ、安らぐことができたのではないでしょうか。彼はサウルやアブシャロム手から逃れるときに、驚くほど冷静な判断を下し、明日への布石を打つことができました。

3. 「(ヤハウエ)は私を救ってくださる」

  「私が、神に呼ばわると、主(ヤハウェ)は私を救ってくださる」(16節)という文では、不思議に「神」「主(ヤハウェ)」という言葉の使い分けがされます。これは、「私」が、神のご性質を漠然としか知らないまま呼ばわっても、神は、「わたしは『わたしはある。』という者である」(出エジ3:14)というご自身の名を示しつつ、親しく私に答えてくださるという意味ではないでしょうか。そして、「夕、朝、真昼、私はうめき、嘆く。すると・・」(17節)とは、悲しみが夕方に始まり、神は私たちの訴えをじっと聴き続けた上で、初めて答えてくださるというリズムが強調されているかのようです。私たちは、「主は私の声を聞いてくださる」という実感を味わう前に、余りに性急な解決を求め、勝手に失望しているということがあるかもしれません。私たちの目の前には、神が「身を隠しておられる」(1節)と思える現実が繰り返し起こるかもしれません。しかし、ダビデは、苦しみのただ中でじっと祈り続けることを通して、自分の声が確かに神に届いていたことを確信できました。それは頭での理解ではなく、腹の底からの確信となりました。

  なお、「絶やしてください!主よ、彼らを・・・死が襲いかかれば良い」(9,15節)という表現は、「のろい」を祈っているように感じられます。しかし、それは、自分の気持ちを正直に神に述べ、公正な裁きを訴えたものであり、復讐ではありません。自分で戦わなくても神が「平和のうちに、贖い出してくださる」(18節)のですから・・・。私たちは、しばしば、神のさばきを信じることができないからこそ、敵を赦すことができないのではないでしょうか。

  そして、このような「私」を中心とした祈りの後に、突然、「ゆだねよ!主(ヤハウェ)に、あなたの重荷を」(22節)との他者への勧めが記されます。これは、神の沈黙に悩んでいたダビデが、「私の祈りは答えられた!」という実体験を経た上で、他の人に神への信頼を訴えるものです。しばしば、これに至るプロセスを飛び越えて、この「勧め」ばかりが強調される場合がありますが、それは人の心の繊細さや揺れを軽蔑した暴力になりかねません。そう簡単に目に見えない神にすべてを任せきることができるぐらいなら、神の御子が人となって十字架にかかる必要などありませんでした。イスラエルの民は、それを繰り返し聞きながら、実行できなかったということを忘れてはなりません。信仰は人のわざではなく神が生み出してくださるものです。しかも、「ゆだねる」の本来の意味は「放り投げる」ことで、自分の思い煩いや恐怖感を、そのまま全宇宙の支配者であるウェの御前に差し出すことです。「あなたの御心のままに・・」と祈る前に、自分の感情を注ぎ出す必要があるのではないでしょうか。

  「主は、あなたのことを心配してくださる」とは、何と優しい表現でしょう。これは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく重荷や思い患いを抱えたままのあなたを支えることなのです。そして、主の目に「正しい者」とは、主に向かって叫び続ける者のことです。その人を、主は「いつまでも揺るがされるまま」には放置されず、試練の中で立つことができるように支えてくださいます。しかし、神を忘れ、自分の強さを誇っている者は、死後のさばきを受けるか、人生の半ばで生きる力をなくしてしまいます。

病院で手術を受ける患者さんなどに、「大丈夫」と書かれた小石を手渡し、握らせながら、「あなたが願っているようになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫の小石なのですよ」と言ってくださる方がいたそうです。そのように不安に寄り添ってくれる人は、確かに支えになりますが、私たちの主イエス・キリストは死の力に打ち勝つことで、人生の途中に何が起ころうとも最終的な勝利が保証されていることを証ししてくださったのです。私たちは、そのことのゆえに、どんなときでも、「それゆえ、私は、あなたに、より頼みます」と告白できるのです。

  

キリスト者の交わりは、自分の不安や寂しさを、相手構わずぶちまけるような共依存的な関係になってはなりません。「ひとりでいることができない者は、交わりに入ることを用心しなさい。彼は自分自身と交わりをただ傷つけるだけである」(ボンヘッファー)という原則を忘れてはなりません。あなたの心は、いつでも、どこでも、鳩のような翼をもって神のもとに憩うことがでるからです。その神との交わりこそ、人との交わりの力の源泉であるべきでしょう。

| | コメント (1)

2007年3月10日 (土)

Ⅱサムエル15:13-17:29「主が、のろいに代えてしあわせを」

                                                         2007年3月4日

  アブシャロムがダビデをエルサレムから追い出すまでのプロセスを見るとき、「ダビデは何と愚かな父親なのだろう・・・」と唖然とする人もいることでしょう。しかし、その後のダビデの行動は、ほとんどすべて、私たち信仰者にとっての模範と見えるようなものです。それは確かにダビデの類稀な資質にもよりますが、それ以上に、主がダビデの罪を通して、彼を徹底的に砕き、神のあわれみにすがるしかないという思いにさせた結果ではないでしょうか。あなたはどうでしょうか?自分の力で生きているような錯覚に陥ることは、信仰の最大の危機かもしれません。

  

1.「もし、私が主(ヤハウェ)の恵みをいただくことができれば・・・」と言いつつ、現実的な備えをする

  ダビデはアブシャロムのクーデターを聞くと、すぐに逃げる決断をします。エルサレムは天然の要害で、ダビデはそこに留まって戦うこともできたはずですが、アブシャロムが「剣でこの町を打つといけないから」(15:14)と言って町を守ろうとします。そこに自分の王権にしがみつこうとしない潔さが見られます。また、「王宮の留守番に十人のそばめを残した」(15:16)のは、王宮を美しく保つためです。それは、アブシャロムを迎えさせるためとも、自分が再びここに戻ってくるときへの備えともとれます。彼はall or nothing」という発想から自由に町を去ろうとしています。

しかも、王は町はずれの家に一時的にとどまって、ひとりひとりに、王に従うかどうかの選択の自由を与えます。ケレテ人とペレテ人は王の護衛のための外人傭兵ですから当然ですが(23:20-23)、かつてのダビデの亡命先であったペリシテのガテから着いてきた六百人も自主的に従おうとします。ダビデは彼らの頭であるイタイに、「戻って、あの王のところにとどまりなさい」(15:19)と言います。それは「あなたをわれわれといっしょにさまよわせるのに忍びない」(15:20)との理由からです。その際ダビデは、「恵み(ヘセッド)とまこと(アーメンの原型)が、あなたとともにあるように」と祝福を与えますが、それに対してイタイは、「主(ヤハウェ)の前に誓います」(15:21)と言いつつ、最後までダビデと生死をともにすると約束します。この会話には、このペリシテ人が真の意味での主の民になっていることの証しを見ることができます。ダビデはその公平さのゆえに外国人から慕われ、彼らを神の民へと導いていたのです。

また祭司やレビ人たちは、「神の契約の箱をかついで」(15:24)、ダビデに従おうとしました。それは神がダビデの側にいてくださることの象徴となるはずでしたが、彼は、「神の箱を町に戻しなさい」(15:25)と命じました。かつて、イスラエルは神の箱をお守り代わりに利用してさばきを受けたからです。その際、ダビデは、「もし、私が主(ヤハウェ)の恵みをいただくことができれば・・・」と、自分が立つかどうかは、主のみこころ次第であると告白しました。ただし同時に、ふたりの祭司たちにエルサレムの情報を知らせるように依頼します。神に信頼することと、現実的な備えをすることはまったく矛盾していません。彼はこの点で極めて冷静でしたが、オリーブ山の坂を登るときは、「泣きながら・・・頭をおおい、はだしで登った」(15:30)のでした。これは神のあわれみに必死にすがろうという姿勢です。

また、ダビデはこのとき自分の議官(顧問)であった「アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している」という知らせを受け、(ヤハウェ)よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(15:31)と祈ります。このような祈りが記されているのはウリヤの妻を横取りして生まれた第一子が神に打たれて以来のことです。これは少なくとも12年ぶりの嘆願の記録です。もちろん、彼はその間も悔い改めの祈りをささげ、それが詩篇として残されてはいるのですが、彼にとって、神に具体的に願い、それがかなえられるというプロセスを見るのは久しぶりのことでした。

そこにダビデのフシャイが、悲嘆に暮れた姿をして会いに来ます(15:32)。ダビデはこの友に、アブシャロムに仕えるふりをして、アヒトフェルの助言を打ち壊すようにはかることと、政権内部の情報をエルサレムに残した二人の祭司を通して伝えるようにと依頼します。つまり、彼は、神に真剣に祈りながらも、自分が信頼できる人には危険な役割までを担うことを願っているのです。神に頼ることと、友に頼ることは、本来矛盾することではないからです。

ダビデは家族のことに関しては、「父親失格!」という状態でしたが、国家の危機に際しては、驚くほど柔軟に潔い決断を下し、現実的に対応しています。イエスも、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイ10:16)と言われました。残念ながら、信仰の名の下に、「一か八か」の危険な賭けをすることを正当化する人がいます。しかし、ダビデは、王権にしがみついて「エルサレムを死守しよう!」などとは言いませんでした。それは、神のみこころは自分には分らないと謙遜にわきまえていたからです。ただ、彼は、自分の願いを神に真剣に訴えつつ、同時に、エルサレムに戻ることができるためのあらゆる手段を講じていました。「あなたがたには、あすのことはわからないのです」(ヤコブ4:14)というのは信仰の基本です。だからこそ、私たちは期待通りに行かないときの備えもしておく必要があります。ただし、イエスが、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します(マタイ6:34)と言われたように、今日できる以上のことにまで気を使いすぎて心と身体を傷つけてもいけません。

2. シムイののろいのことばに、「主が彼に命じたのだから・・・」と応答したダビデの信仰

  ダビデがオリーブ山からヨルダン川に向けて下り始めたとき、ヨナタンの息子(サウルの孫)メフィボシェテに仕えるツィバが二頭のろば、大量の食料、ぶどう酒一袋を届けにきました(16:1)。彼は自分の主人がサウル家の復興を望み、ダビデの都落ちを喜んでいると伝えましたが(16:3)、このときダビデはそのことばを信じてしまいます。

そして、ダビデがなおも下ってゆくと、サウル家の一族のひとりシムイが、狭い谷を挟んだところから、盛んにダビデへののろいのことばを吐きながら石を投げつけてきました。彼はダビデを、「血まみれの男、よこしまな者。主(ヤハウェ)がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ・・・」(16:7,8)のろいました。アビシャイは彼の首をはねさせてくださいと願いますが、ダビデは、これは(ヤハウェ)が彼に『ダビデをのろえ』と言われたからだ」・・・「私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としてはなおさらのことだ・・・彼にのろわせなさい」と答えます(16:10,11)。後にイエスは、「あなたの右の頬を打つ(侮辱のしるし)ような者には左の頬も向けなさい(マタイ5:39)と言われました。ダビデは、息子の反乱が、バテシェバの夫ウリヤを計略にかけて死に至らしめたことに起因すると自覚しており、まさに自分が「血まみれ・・よこしま」であると認めざるを得ませんでした。シムイはサウル家の滅亡がダビデのせいだと誤解してはいたのですが、彼のことばには一面の真理がありました。

このときダビデは、「たぶん、主(ヤハウェ)私の心をご覧になり、主(ヤハウェ)は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」(16:12)と言いました。シムイは自分の断固たる意思で、命がけでダビデをのろっているわけで、主が彼をロボットのように動かしているわけではありません。その意味で、悪をもたらすのは悪人であって、神ではありません。しかし、ダビデは、「主(ヤハウェ)が彼に命じたのだから」(16:11)と敢えて言うことによって、すべてが主のご支配の中にあるという霊的な現実を見ています。それゆえ、彼は、自分で復讐する必要を感じずに、神のさばきに任せることができました。彼は、サウルに命を狙われながら同じ態度を貫き通しました。

それにしても、ダビデはシムイのことばに深く傷つきました。後に彼は死に臨んで後継者ソロモンに、「彼を罪のない者としてはならない」(Ⅰ列王記2:9)遺言したほどです。不当な非難でも、それが心に突き刺さるのは、恐れている自分の一面を鋭く突いているからです。ダビデはシムイのことばを聞きながら、神が自分にウリヤへの罪を思い起こさせようとしておられると感じました。彼は、自分の側に正義はなく、神のあわれみにすがるしかないと改めて示されたのです。私たちも、不当な非難を受けたとき、ダビデの応答を思い起こすべきではないでしょうか。

3.かつてのダビデの顧問、アヒトフェルの裏切りを無力なものにしてくださった神のみわざ

  アブシャロムが都に入ると、フシャイは彼を、「主(ヤハウェ)と、この民、イスラエルのすべての人が選んだ方・・・私の友の子」(16:18,19)とおだてます。彼は自尊心が満足され、フシャイをアヒトフェルと並ぶ顧問に任命します。

  アヒトフェルはアブシャロムに、「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにお入りください」(16:21)と言います。それは律法違反(レビ20:11)、父親を死んだ者と見なす侮辱ですが、アブシャロムがすべてのものを受け継いだことをアピールする効果があります。彼は王宮の屋上に天幕を張り、全イスラエルの前で父のそばめ十人のところに入ります。それは、民全体に、ダビデの時代は終わったことと、彼の男性的強さを印象付けました。これは、神がかつてダビデに、「あなたの妻たちを・・あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れてそれをしたが・・・」(12:11,12)と言われたさばきが成就したことを意味しました。

  そして、「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった」(16:23)と記されます。その彼は、自分に一万二千人の兵を選ばせて、ダビデを今夜中に追跡させて欲しいと願います。彼は、ダビデの逃げ足の速さを熟知し、殺すのは今しかないと分っていました。ところが、アブシャロムは念のためにフシャイの意見も聞きました。彼は、ダビデが戦いに慣れているからこそ、奇襲作戦は効果がないと進言し、全イスラエルを・・海辺の砂のように数多く・・集めて、あなた自身が戦いに出られ(17:11)と、人数で圧倒してダビデを包囲することを勧めます。アブシャロムはフシャイのはかりごとの方が良いと思います。それは自分のプライドを満足させる勧めだったからです。彼は、自分がダビデとは対照的に、実力ではなく人々の気分と幻想に訴えて王となっているに過ぎないことを忘れています。ダビデのまわりにはダビデために命をかける人々がいますが、アブシャロムのそばにいるのは烏合の衆に過ぎません。時間がたてば立つほど、その現実が明らかになるだけです。

  ここで、「これは主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった」(17:14)と記されます。アブシャロムは愚かなプライドに動かされ、誤った選択をしましたが、その背後に、主の御手があったのです。フシャイがやすやすと顧問になれたのもそのためです。彼はこの危機的状況を祭司の家族を通してダビデに伝えます(17:15-22)この知らせが間一髪で届けられたのも、主の導きです。そして、ダビデの一行はひとり残らずヨルダン川を渡りきりますます。そして、アヒトフェルは自分のはかりごとが行なわれないのを見て、アブシャロムの敗北を確信し、首をくくって死にます(17:23)。これはイエスを裏切ったユダの最後に通じるものがあります。そして、これらすべては、ダビデが、「アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(15:31)と祈ったことへの答えでした。アブシャロムの反乱に至る十一年間、神は沈黙しておられたかのようです。しかし、このときはダビデの願いをまっすぐにかなえておられます。私たちの人生にも、同じような変転があるのではないでしょうか。

  最後に、ダビデがヨルダン川東岸の奥地マハナイムに着いたとき、アブシャロムに率いられたイスラエル軍もヨルダン川を渡りました(17:24)。ところが、かつて敵対していたアモン人や、ここで初めて名前が出てくるふたりの異邦人と思われる人々が、ダビデに大量の贈り物を届けに来たのです。この三組の人たちは、ダビデの一行が「荒野で飢えて疲れ、渇いている(17:29)と思い、助けに来ました。ダビデは後に詩篇23篇で、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがわたしとともにおられ・・・敵の前で・・食事を整え、頭に香油を注いでくださいます」と告白しますが、その背景には、このときの体験があったのではないでしょうか。

  ダビデはアブシャロムの反乱に至る11年間、神を遠く感じていました。しかし神は、敢えてダビデ家の破滅の一歩手前まで沈黙を守られました。その間、ダビデは、自分が神のあわれみなしには滅びるしかない者であることを腹の底から感じました。そして、「もう絶望しかない・・」というときになって、神は力強くダビデを導いています。私たちの人生にも、最も身近な人から裏切られ、絶望するようなときがあるかも知れません。しかし、神は思ってもみなかった援助者をあなたの前に送り、危機的状況の中であなたのために祝宴を用意することができるのです。

| | コメント (0)

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »