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2007年4月23日 (月)

Ⅱサムエル21章~24章「天の王に従う地の王として生きる」 

                            2007422

多くの方の愛唱歌に、「主よ、今ここに誓いを立て、しもべとなりて仕えまつる」(讃美歌338)というのがあります。これは、右の頬を打たれたら左の頬を向け、不当な苦しみに耐えながら、奴隷として神と人とに仕え続けるという決意を歌ったものです。キリスト者はどうしてこんな自虐的とも言える歌を好きになれるのでしょうか?しかし、その背後には、天地万物の創造主である神から、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)という語りかけを聴き続けているという王者の余裕があるのではないでしょうか。マルティン・ルターは宗教改革の原動力となった伝道文書「キリスト者の自由」で、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であり、誰の下にも置かれていない。キリスト者はすべてのものに仕える奴隷であって、誰の下にも置かれている」という不思議な対比がキリスト者にあって両立していると言いました。つまり、キリスト者とは「王であると同時に奴隷」なのです。その不思議を私たちはダビデの生涯に見ることができます。彼はサウル王から命を狙われて逃げ続け、息子アブシャロムに追われているとき、神の助けを誰よりも身近に感じ、その心は誰にもまさって高貴な王でした。しかし、この世的な意味での王として高ぶりの思いを持ったとき誰よりも卑怯な人間に成り下がりました。しかし、彼は、神の前にへりくだっているとき誰よりも美しい祈りをささげ、後の世のすべての慰めとなりました。

私たちもこの地を治める王としての責任が委ねられています。その際、ダビデは、この地に生きる私たちにとっての模範と限界を指し示します。21章~24章には、彼の生涯をひとくくりにまとめるような構成が見られます。第一に神罰とそれへの対処(21:1-14)、第二にダビデを助けた人々21:15-22)、第三にダビデの賛美(22章)、第四に再びダビデの賛美(23:1-7)、第五に再びダビデの勇士たち(23:8-39)、第六に再び神罰とそれへの対処です。これはヘブル詩に多くあるABCC’B’A’の形です。そして最初と最後の物語の結論は、「神(主)はこの国の祈りに心を動かされた」(21:14,24:25)と記され、最後の祈りの場はエルサレム神殿につながります(Ⅰ歴代誌21:26、22:1)。それぞれの記事がいつの時期かは分りませんが、このような構成を通して、著者が伝えようとした核心が浮き彫りにされます。

第一の記事は、前王サウルの失政の後始末です。あるとき三年間のききんが続きましたが、それは神の怒りの現われだと思われました(参照:申命記11:17)。ダビデは、「主(ヤハウェ)のみこころを伺い」ますが、すると主は、サウルがギブオン人との契約を破って彼らを殺したことが原因だと言われました(21:1,2)。これは数百年前にヨシュアが約束の地に入って間もなく結んだ契約です(ヨシュア9章)。それは本来の主のみこころではなかったにしても、主の名によって結んだ契約を破ることは、「主の怒り」を買う許されない行為でもありました。しかしサウルは、誤った熱心さによって、この契約を軽蔑し、その結果がダビデの時代に現されたというのです。それで彼はギブオン人の怒りをなだめるために何をすべきかを彼らに尋ねます。そして彼らはサウルの子供七人の引き渡させ、「主の前に、さらし者にする」ことを要求します(21:6,9)。ただし、人身御供はカナンの慣習で、神はそれを禁じておられました。つまり、ダビデが主の怒りではなく、ギブオン人の怒りをなだめようと動いたためにこのような悲劇が起きたのです。

ここでは特に、サウルのめかけだったリツパのふたりの息子たちへの思いが印象的です。さらし者にされるというのがさばきでしたから、彼女には、死体の傍らに座って、「昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないように」(21:10)することしかできませんでした。それは決して短い期間ではなかったことでしょう。その母親の心の痛みがダビデの心を動かしました。彼はサウルとヨナタンの骨をヨルダン川の東ヤベシュ・ギルアデの人々から引き取りに行きました。ふたりもかつてはペリシテ人によってさらし者にされていましたが、ヤベシュの人々はサウルの恩に報いようと命がけでふたりの遺骸を盗み、彼らの土地に葬っていました。そして、今回の王の姿勢を見た人々は、「さらし者にされた者たちの骨を集め」、ともにベニヤミンの地のサウル家の墓に丁重に葬ったのでした。そして、「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」(21:14)と記されます。これは神が、人間のいけにえにではなく、リツパの母としての姿、またダビデとその家臣たちの謙遜な姿勢に心を動かされたという意味です。神は「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(マタイ9:13)と言われるからです。確かに死んだ者の身体は何の力も持っていません。しかしだからこそ、それに対する姿勢に、日頃抱き続けてきた心の隠された思いが表われます。

  第二の記事はペリシテ人との戦いに関することです。これがいつのことかは分りません。8章1節では、「ダビデはペリシテ人を打ってこれを屈服させ」ましたが、ここでは「ダビデは疲れていた」と敢えて記され、「ラファの子孫のひとりであったイシュビ・ベノムは、ダビデを殺そうと考えた」と続きます(21:15,16)。ラファとは巨人とも訳される言葉で、彼の持っていた槍の穂先の重さは約3.5㎏でした(ゴリヤテの場合はその二倍の重さ)。「しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺し」たのでした(21:17)。この際ダビデは部下たちから、「もう・・戦いに出ないでください」と要請されます。その後も、フシャイ人シベカイの活躍、またベツレヘム人エルハナンがゴリヤテの兄弟を、またダビデの甥のヨナタンが手足の指六本ずつを持つ巨人を倒したことが記されます。つまり、ダビデは、ひとりで戦ったのではなく、ペリシテの巨人にまさる勇士たちに囲まれていたのです。私たちも自分の弱さを覚え、危険にさらされることがありますが、神は目に見える人を助け手として遣わしてくださいます。

  第三の記事は、詩篇18篇と同じです。その中心テーマは、「主(ヤハウェ)を呼び求めると・・・主は天を押し曲げて降りて来られ・・・御手を伸べて私を捕らえ・・・広い所に連れ出し」てくださった。それは、「主が私を喜びとされたから」というのです22:4,10,17,20)ダビデは自分の救いが、善行への報酬ではなく、主の一方的な恵みであることを深く自覚していました。そして、彼は、敵が迫ってくる中で、「あなたの謙遜は、私を大きくされます・・・戦いのために、私に力を帯びさせ・・・民の争いから、私を助け出し・・国々のかしらとして保たれます」(22:36,40,44)と告白します。これは自分の勝利も支配権も、神から力を受けた結果であると認めることです。つまり、彼は自分がイスラエルの王でありながら、真の王は、主(ヤハウェ)ご自身であることを心の底から告白していたのです。私たちもこの世の生活で様々な苦しみに会いますが、私たちの救いは、神の一方的なあわれみと御力によるのです。

第四の記事は、もうひとつの賛美で、「ダビデの最後のことば」(23:1)と記されています。そこで、彼は「主(ヤハウェ)の霊は、私を通して語り・・」と、自分が神の道具として立てられていることを認め、国を治める原点は「神を恐れる」ことにあると告白します(23:2,3)。それこそ、ダビデの子イエスの生き方でした。そして、自分の家が立ち続けるのは、人の力ではなく、「とこしえの契約が私に立てられている」結果であると認めます。この契約とは、神が一方的にダビデに約束されたもので、彼の罪によっても反故にされませんでした。それで彼は、「まことに神は、私の救いと願いとを、すべて育て上げてくださる」(23:5)と神のみわざを要約しつつ、自分の家が主ご自身によって育てられ、立てられていることを謙遜に認めています。そしてこのふたつの賛美とも、私たちにとって祈りでもあります。

第五の記事は、再びダビデの勇士たちの紹介です。三勇士のトップはショブアムで「彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した」と記されます(23:8)。次はエルアザルで、「手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺し」ました(23:10)。またシャマは、「民がペリシテ人の前から逃げたとき・・・畑の真ん中に踏みとどまって、これを救い」と記されます。そしてこのふたつの場合とも、「こうして、主(ヤハウェ)は大勝利をもたらされた」(23:10,12)と強調されます。つまり、三勇士とも、ひとりでイスラエルの戦いの形勢を逆転させるほどのめざましい働きをしたのですが、その背後に神がおられたというのです。その上で、三勇士とダビデとの心の結びつきが描かれます。それはアドラムのほら穴時代から始まるもので、ダビデがベツレヘムの井戸水を飲みたいと言ったときに、彼らが命がけでその願いを聞き届けたほどでした(23:13-17)。その際、ダビデも、自分がそれを飲むなどというのはもったいないと言って、この尊い水を「注いで主(ヤハウェ)にささげ」(23:16)彼ら自身を自分ではなく主に結びつけます。

そして、再びツェルヤの子アビシャイが登場しますが、彼が「三人のかしらであった?(23:18)という原文は確定できるものではありません。興味深いのは、彼ですら三勇士には及ばないと記された上、兄のヨアブの名が省かれているという点です。人間の歴史の中ではヨアブは常に一番に出てくるダビデの大将軍なのですが、彼は、神からの名誉のリストから省かれているのです。神は人が見るようには人をはかりはしないことの証しでしょう。

祭司エホヤダの子ベナヤは、ケレテ人とペレテ人という外人部隊を指導し、ダビデの護衛長として活躍し、ソロモンの王権の確立にまで力を発揮します。そして、三十一人に及ぶ名前が記されますが、ここには異邦人の名も出てくるばかりか、その最後にヘテ人ウリヤの名も記され、ダビデが謀殺した者の名誉が守られています。これらを通して、ダビデの支配権は、彼ひとりの能力ではなく、人と人との交わりのうちに立てられたと描かれています。

第六の記事の書き出しは、「再び主(ヤハウェ)の怒りが、イスラエルに向って燃え上がった」(24:1)です。そして、その原因は、主ご自身が、「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と「ダビデを動かし」たからというのです。歴代誌では、「サタンが・・・ダビデを誘い込んで」(Ⅰ歴代21:1)と描かれますが、ここではサタンも神の支配下にあるという意味で、ダビデが神の御手の中で罪を犯したと強調されているのだと思われます。ただし、そこにはダビデの強い意思がありました。彼がこれを将軍ヨアブに命じたとき、ヨアブは王に思いとどまるように説得を試みますが(歴代誌参照)「しかし王は、ヨアブと将校たちを説き伏せた(23:4)と記されているからです。彼らはイスラエルの占領地をヨルダン川東側から北の果てまで行きめぐり、イスラエルには剣を使う兵士が八十万人、ユダには五十万人がいると報告します(24:9)。それはダビデの力の象徴でした。彼はかつて、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主(ヤハウェ)の御名を誇ろう」(詩篇20:7)と告白していましたが、今、自分の軍事力を誇ろうとしたのです。確かに、民数記では神ご自身が民を数えるように命じられましたが、ここではダビデが神の民を私物化したことが問題にされています。「人はうわべを見るが、主(ヤハウェ)は心を見る(Ⅰサムエル16:7)とあるように神はダビデの傲慢な思いに対して怒りを発せられました。そして、「主はダビデを動かし・・」とは、神が彼の心が高ぶるのをそのままに放置されたという意味だと思われます。私たちも、すべてが順調に行くとき心が高ぶり、それが行過ぎて大きな失敗をすることがあります。それは自業自得ですが、それを神のさばきということもできます。イエスは、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と言われましたが、すべてのできごとに神を認めることは、どんな失敗も益に変えられることを信じることでもあります。

「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じ」、主に向って罪を告白するとともに、「あなたのしもべの咎を見のがしてくださいと嘆願します。しかし、主は預言者ガドを遣わして、三つのわざわいの中から選ぶように迫ります(24:10-13)。多くの翻訳は歴代誌の記述に習って、「七年間の飢饉」ではなく三年間の飢饉」と訳し、その後、三ヶ月の逃亡生活三日間の疫病と、期間と悲惨さが反比例するパターンが強調されています。彼は二番目を選択すべきだったのかもしれませんが、「人の手には陥りたくない」(24:14)と答えます。そのため神は三日間に及ぶ疫病を下し、七万人が死にます。民はダビデの身代わりにさばかれたかのようです。これは不条理ですが、人間の歴史の常でもあります。王の失政によって誰よりも先に傷つくのは弱い民だからです。ただ、このときダビデは、エルサレムを滅ぼそうとする主の御使いが「エブス人アラウナの打ち場のかたわらに立っている」のを見て、罪を犯したのは、この私です・・・この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を私と私の一家に下してください」と応答します(24:16,17)。神はこのことばを喜ばれ、ガドを通して、「主(ヤハウェ)のために祭壇を築く」ことを命じます。ダビデはこの異邦人アラウナから、「神罰が民に及ばないようになるため」(24:21)と言いつつ、正当な代金を払って地所を買い、そこで「全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ」ます。すると、「主(ヤハウェ)が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった」のです(24:25)

そして、このダビデの悔い改めと民への責任の自覚の現われとしての祭壇が、エルサレム神殿の基礎となります。その意味で、神はダビデの罪をさえ支配され、民全体のための益に用いられたと言えます。ダビデの罪は、民を自分の権力を行使する手段としたことでした。そして、神のさばきは、民がダビデの身代わりとなることでした。しかし、それはダビデが自分の権力を行使したときに当然起こるはずだった民の犠牲でもありました。彼は、そのことに気づき、民を「この羊の群れ」と呼び、王としての責任を自覚し、そこに祈りの家としての神殿が生まれます。

 これら六つのエピソードを通して、ダビデの信仰と彼の限界が示されます。イスラエルの王は、真の王である天の父なる神に忠実であることが何より求められていましたが、ダビデは傲慢になりました。しかしその罪の記念碑に神殿が建てられました。しかも、彼の祈りはイエスの祈りとなり、イエスは父なる神に忠実な王の姿を実現しました。それこそ私たちの模範です。私たちの人生の支配者は神であり、神が必要な助け手を与えてくださいます。私たちに求められるのは、何よりも天の真の王に忠実に従いながら、この世界を平和に治めるということです。

  そして、この原則は自分自身に対しても当てはめることができます。私は自分の歩みを振り返りながら、何としばしば自分の感情の奴隷になっていたことかと反省させられます。私は、自分の孤独感や不安感に振り回されてきました。しかし、私は自分の心の声にやさしく耳を傾けながらも、自分の感情に対する王として、それを治める必要があったのです。被害者意識に流されることはすべての過ちのみなもとでした。そんなとき、詩篇18篇の祈りが迫ってきました。主は、私のために、「天を押し曲げて降りて来られ・・・私を広い所(自由な空間)に連れ出し、助けてくださった。それは、主が私を喜びとされたから・・・」(詩篇18:10,20)。そして、このみことばこそ本日のダビデの生涯の中心にあるものでした(Ⅱサムエル22章)。私たちは王としての誇りを持って、自分の肉をも治めるのです。

詩篇 18篇 (1-19、32-36節私訳) 

      指揮者のために。主(ヤハウェ)のしもべダビデが、主(ヤハウェ)に向ってこの歌のことばを語った。

主が彼のすべての敵の手とサウルの手から彼を救い出された日に、彼はこう言った。

主(ヤハウェ)、私の力よ。あなたを私は慕う。                              (1)

主(ヤハウェ)は、私の大岩、砦(とりで)、救い主、                           (2)   

私の神、身を避ける岩、盾、救いの角、砦の塔(とう)。

 このように誉むべき方、主(ヤハウェ)を呼び求めると、私は敵から救われる。        (3)

死の綱が私にからみつき、滅びの川は恐怖をもたらし、                            (4)

よみの綱は取り囲み、死のわなが迫ってきた。                          (5) 

その苦しみの中で、主(ヤハウェ)を、私の神を呼び、助けを求めた。                   (6)           

 主はその宮でこの声を聞かれ、叫びは御前に、御(おん)耳に届いた。

すると地は揺れ動き、山々の基(もとい)も震え揺れた。主がお怒りになったのだ。       (7)   

  煙は鼻から立ち上り、御口からの火が焼き尽くし、炭火が燃え上がった。         (8)       

主は、天を曲げ、降りて来られた。暗やみを足台として。                    (9)

 ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられ、                    (10)      

やみを隠れ家としてめぐらし、暗い雨雲、濃い雲を仮住まいとされる。           (11)

 御前の(栄光の)輝きから、蜜雲が雹(ひょう)と火の炭を伴って突き進む。          (12)

主(ヤハウェ)は天に雷鳴を響かせ、                                  (13)

 いと高き方は、雹(ひょう)と火の炭を伴い御声を発せられた。

主は、矢を放ち、彼らを激しい稲妻でかき乱された。                      (14)   

 主(ヤハウェ)の叱責、鼻の激しい息吹で、水の底が現れ、地の基があらわにされた。   (15)

 

主は、はるかに高い所から御手を伸べて私をつかみ、                      (16)

深い大水の中から引き上げ、             

強い敵と私を憎む者から、救い出してくださった。                         (17) 

彼らは、私には強過ぎたから。     

彼らは、災いの日に私に立ち向かって来た。                            (18) 

しかし、主(ヤハウェ)は、私の支えであった。         

主は私を広い所に連れ出し、助けてくださった。                          (19)

それは、主が私を喜びとされたから。 

・・・・

神こそ、私に力を帯びさせ、私の道を完全にし、                                 (32)

  私の足を雌鹿(めじか)のようにして高い所に立たせ、                     (33)

戦いのために私の手を鍛(きた)え、                                   (34)                                              

 私の腕を青銅の弓をも引けるようにしてくださる。

あなたは救いの盾を私に授け、右の御手で私を支え、                      (35)   

私を大きくするために低くなってくださった。

あなたは私の歩幅を広くしてくださった。                                        (36)

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2007年4月16日 (月)

ヨハネ20:19-31「信じない者を信じる者に変えて遣わしてくださるイエス」

                                           2007年4月15日

  自分の利益のために生きている人と、自分の身を削りながら何かの使命に生きている人と、どちらが美しく輝いているかは、だれの目にも明らかではないでしょうか。蝋燭の光のやさしさは、自分の身を与えているところにあります。しかし、それを頭で分かっていても、身体は無意識に自分の利害を守る方向へと動きがちです。それは私達の信仰が本当の意味で腹の底に落ちていないからかもしれません。ただ、「信じなさい!」と命じられ、そうできるぐらいなら、旧約聖書にあるようなイスラエルの悲惨はありませんでした。彼らは主のみわざを何度見てもすぐに不信仰に流れたからです。ではイエスは、信仰の光が今にも消えてしまいそうな人にどのように接してくださったでしょう。

1.  恐れる弟子たちに与えられた平安

  「その日」(19節)とは、「新しい時代の初めの日」です。イエスは、既にマグダラのマリヤばかりか少なくとも他の二人の女たちに(ルカ24:10)、また、エマオ途上のふたりの弟子とペテロとにご自身を現しておられました(ルカ24:13-34)。つまり、復活の知らせが、弟子たちの間を駆け巡った結果、「その日の夕方」、彼らは一つの場所に集ることができていました。ただ、それにも関わらず、彼らはなお、「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」(20:19)というのです。

  ところがイエスは、そんな弟子たちの真中に突然立って、彼らの不信仰や臆病さを責める代わりに、「平安があなたがたにあるように」と言われました。恐れにとらわれて、「戸をしめて」いたにも関わらず、復活のイエスは入って来ることができたというのです。それは、イエスの復活のからだが、それまでとは全く異なる性質のからだに変えられていたからです。そして、主は、心を閉ざしていたあなたのうちにも入ってこられ、平安を与えて下さいました。

  その際、イエスは、「その手とわき腹を彼らに示され」(20節)ました。手には大きな釘の跡、わき腹には手を差し入れられるほどの槍の穴がありました。本来、栄光のからだは、「聖く傷のない」(エペソ5:22)はずですが、不思議にも、主は敢えてその傷跡を残しておられました。それを見た「弟子たちは、主を見て喜び」(20節)ました。それは目の前にいるイエスが、真実に、十字架にかかられ、死の力に打ち勝たれた方であることの何よりの証拠となったからです。弟子たちは、もう自分を守るために戸を堅く閉ざす必要がなくなったという意味での「平安」が与えられたのです。

  「イエスはもう一度」、「平安があなたがたにあるように」と言われました(21節)。この二つ目の「平安」は、患難に満ちた世に「派遣」されるための平安です。その前提としてイエスは、「父がわたしを遣わしたように」と言われました。この「遣わす」(原文:アポストロー、大使として)を、イエスはこの書でご自分を神から遣わされた者として繰り返し紹介しています(17回)。その上でイエスは、「わたしもあなたがたを遣わします(原文:ペンポー、先のことばより一般的)と言われました。主はこの動詞を用いて、父なる神を、「わたしを遣わした方」と繰り返し紹介しています(25回)。これらの「遣わす」ということばこそ、この福音書のキーワードです。たとえば、「愛する」という動詞はこの書に16回ありますが(御父または御子が主語のケース)、それよりもはるかに多いからです。これらによってイエスは、ご自分を通して父なる神を見るようにと私たちを招いておられます。そして、そのイエスが、私たちを世に遣わされるのは、世の人々が、私たちを通してイエスを見るようになるためなのです。イエスの生涯の秘訣は、この父なる神から派遣された者としての生き方にあります。同じように、キリスト者の生涯は、キリストにより遣わされた者としての生き方に他なりません。その点で、すべてのキリスト者は、例外なく、広い意味でのキリストの「使徒」(アポストロス)なのです。

その際、イエスは、「彼らに息を吹きかけて」、「聖霊を受けなさい」(22節)と言われました。これは、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」(創世記2:7)という創造のみわざを思い起こさせます。彼らは、今、御霊によって新しく生まれ、再創造された者として、この地でイエスの代理としての使命を果たすように召されたのです。ところで、イエスは、「あなたがたを」という複数形で語っています。つまり、私たちはひとりで世に遣わされるのではなく、交わりのうちに生きる者として遣わされるのです。

その上で、イエスは、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら・・・」(23節)と、ご自身の教会に「罪の赦し」を与える権威を委ねました。これは教会の秘蹟というより、福音を宣べ、信じるように導き、交わりに受け入れることを示しています。つまり、現実の教会が、罪人を受け入れなければ、それぞれの「罪はそのまま残り」、彼らは神のさばきに会うのです。だれも教会を素通りしては神の子供とされません。何という重大な使命を担っていることでしょうか。

神は、罪に満ちた世を愛されたために、ご自分の御子を世に遣わされました。そしてイエスは、閉ざされた私たちの心に「平安」を与えてくださいました。「平安」とは「平和」とも訳されることばです。イエスが私たちをこの地に遣わされるのは、この罪に満ちた世に、神の平和を実現するためなのです。その際、求められるのは、自分自身を主張することではなく、私たちを通して、私たちを遣わされたイエスご自身の姿が見られるようになることです。

  

2. 「トマス、十二弟子のひとりなのだが・・・」 

  ところで、復活のイエスが弟子たちにご自身を現された時、トマスはその場にいませんでした。そのことを記す24節は、原文で、「トマス、十二弟子のひとりなのだが・・」という不気味な表現で始まっています。これはあのイスカリオテのユダを紹介する書き出し方と同じです(6:71,12:4)。トマスは物事を暗く見る傾向があります。イエスがユダヤ人たちからいのちを狙われている中で、ラザロの死を悟られ、彼を「眠りからさましに行く」(11:11)と言われたとき、トマスは、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(11:16)と仲間に語りかけます。主が「光」について話したのに、彼は「闇」に目を奪われていました。また、最後の晩餐で、イエスが「わたしの行く道はあなたがたも知っています(14:4)と十字架を示唆しつつ言われたとき、トマスは「主よ・・私たちには分かりません。どうして、その道が私たちに分かりましょう」と応答しました。イエスが彼らに自分で考えるように仕向けたにも関わらず、彼はいかなる曖昧さも許せないと迫ったのです。彼はその場の雰囲気を読むことができない人です。それで、弟子たちの中でも浮いていたのかもしれません。彼がイエスの復活の日に同席していなかったのはそのためではないでしょうか。

そのような彼を、他の弟子たちが探したのではないかとも思われますが、彼らはトマスに、「私たちは主を見た」(25節)と言いました。ところが彼は、半信半疑の様子を見せるならまだしも、その仲間の証しを真っ向から拒絶しました。彼は、露骨に「釘の跡(ところ)」ということばを繰り返し、それを「見る」だけでは不十分で、私の指」「差し入れ」てみなければ、また、主の「わき腹」にも、私の手を差し入れてみなければ、決して信じませんと言ったのです。無神経な表現で、人の証しも、自分の視覚さえも信じないと主張しました。これでは対話の余地もありません。

ところが、ほかの弟子たちは、こんな破壊的な言動を吐くトマスを受け入れています。これこそ、彼らがイエスから聖霊を受けたことの「実」と言えましょう。ここで「八日の後に」(26節)とは、当時の数え方で一週間後の日曜を指しますが、「弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた」からです。信仰が全くなければ疑いも生まれ得ませんが、彼が交わりの中に留まっていたことこそ信仰の現れだったとも言えるのではないでしょうか。その際、イエスはまた、「戸が閉じられていた」にも関わらず、入ることができ、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われ(26節)、ひとことも責めることなくトマスに語りかけます。その際、主は、「釘」という表現を避けながらあなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と優しく招きました(27節)。主は、「・・差し入れてみなければ、決して信じません」という気持ちに寄り添われたのです。事実、主は一週間前にも、彼らの会話やトマスの暴言を聞いておられました。戸がまた閉じられていたのは、トマスのことばで彼らの心が揺れていたのかも知れません。イエスはその様子を、忍耐をもって見守っておられたのです。そして今、主は、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と付け加えられました。イエスは徹底的にトマスに寄り添いながらその信仰の回復を願われたのです。これでトマスには十分でした。もう自分の指や手で傷跡の感触を感じる必要はありません。彼が心の底で求めていたのは、自分ではどうしようもない心の闇を受け入れてくれる愛だったのです。

トマスは、「私の主。私の神」と応答しました(28節)。これこそ最高の信仰告白です。彼は、自分の罪と不信仰のすべてがイエスに知られ、受け入れられていたことが分かり、イエスご自身こそが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6)であり、その方が「私の主。私の神」となったと告白したのです。私たちの信仰も、聖書の正しさが証明され、正当な教理が理解されれば良いというものではなく、「私の・・」という個人的な出会いが必要です。

3. 「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」

  イエスは、トマスの不信仰を用いながら、不信仰な私たちを導こうとしておられます。トマスは、ラザロの死を聞いて、「熱く死ぬこと」ばかりを考えましたが、イエスは、そんな彼をも意識しつつ、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」(11:40)と言われました。また、「・・どうして、その道が私たちに分かりましょう」との疑問に対し、永遠の真理のことば、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(14:6)をもって答えられました。そして、ここでは、不信仰な彼から「私の主、私の神」という信仰告白の模範を引き出しました。これは、後に、「イエスは、神として礼拝を受けるべき方か?」という三位一体論を巡っての論争が起こった時、異端者を沈黙させる証明となりました。

その上で、イエスは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(29節)と言われました。主は、彼を受け入れ、立ち直らせた後で、このような態度を取り続けることがないようにと警告されたのです。なぜなら、トマス以降の人は、パウロのような例外を除いて、「見ずに信じる者」とならなければならないからです。

その上で、この書の目的が、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」(31節)と記されます。トマスがいたからこそ、疑惑の泥沼の中で、もがいて沈みそうな人が救われ、「信じる者」とされ「イエスの御名によっていのちを得る」者とされたのです。この後、トマスを含む十一人の弟子は、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に上り、大宣教命令を授けられますが、この期に及んでなお、「ある者は疑った」(マタイ28:17)と記されています。これはこの地で私たちが、疑いから全く自由になることはないことを指し示しているのではないでしょうか。

トマスは疑いながらも交わりの中に留まっていました。私たちも自分の中に住むトマスを、また交わりの中にいるトマスを受け入れる必要があります。イエスはそのためにこそ、私たちに聖霊を与えてくださったのです。

トマスは、交わりを壊す危険人物になりかねないにも関わらず、「トマスの不信仰は、マグダラのマリヤの信仰と同様に、多くの益をもたらした」と言えます。実際、多くの人は、模範よりも、落ちこぼれがあわれみを受けることを見ることで、慰めと励ましを受けるからです。しかも、「正直な疑いの中には、信条を鵜呑みにしているよりも生きた信仰がある」というのも事実です。私自身、聖書を読みながら「これは作り話ではないか?」とか、「これらの間には明らかな矛盾がある!」とか、様々な疑問を感じつづけてきました。しかし、疑いをぶつけることで、隠された真理が見え、信仰が与えられ続けました。不信仰なトマスを受け入れたイエスが私を受け入れておられると分かったのです。

疑いを自分で鎮めようと頑張る必要はありません。映画「ベン・ハー」の原作者は、最初、キリストの救いを否定する決定的な小説を書こうと、証拠を集めましたが、かえって、イエスを主と告白する信仰に導かれました。私たちの信仰は、思い込みではありません。それは、イエスご自身が、私たちの心を変えてくださった結果なのです。

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2007年4月 8日 (日)

ヨハネ20:1-18「イエスのために泣き続けたマリヤへの祝福」

                                                  2007年4月8日

  現代はポスト・モダンの時代と言われ、合理性重視の陰で人の心情が軽んじられてきたことへの反省が起きています。17世紀のパスカルは、「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている」(パンセ277)との名言を吐きました。私は学生の頃、イエスの墓は空だったとの証明を聞いて、「私は理屈では信じません」と拒絶しました。しかし、米国留学中にイエスの愛が人の心を捉えている様子を見て、「信じたい!」という気になりました。この箇所には、墓が空であったことへの信仰と、泣いてばかりいた女にイエスが現われ、その名を呼んだという心の出会いが記されています。それらの背後に、弟子たちの信仰を育んだのは主ご自身との解説を見ることができます。

 

1. 「だれかが墓から主を取って行きました」

  「週の初めの日」とはカレンダーを変えた表現です。多くの人の感覚で、週の初めは月曜日です。しかし、キリストの復活を祝って、この日が休日となりました。しかも、これは聖書全体のストーリーに目を開かせます。この福音書は最初に、キリストこそがすべての創造主であることを宣言し、その方が人となられたと描きます(1:3,14)。そして主は、十字架で「完了した」(19:30)と宣言されました。これは、神が六日間で世界を創造され、七日目に「なさっていたわざの完成を告げられ・・すべてのわざを休まれた」(創世記2:2)ことに匹敵します。この福音書は、主が十字架で殺されたのではなく、世界の王として、みわざを完成し、休まれたという面を強調します。そして、過越しの安息日の翌日、墓を空にして復活しました。この「週の初めの日」は、世界の「新しい時代」の初めの日です。それは、私たちの生活が、常に、神にある休息、すなわち、いのちの回復から始まるというしるしです。

  「マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに、墓に来」(1節)ました。少なくとも他に二人の女が一緒でしたが(マルコ16:1)、この書は、客観的な事実よりもパーソナルな出会いに注目します。マリヤは、「墓から石が取り除けられているのを見」て、急いでペテロとヨハネのもとに行き「だれかが墓から主を取って行きました」(2節)と、飛躍した結論を知らせました。彼らは急いで墓に向かって走り、「亜麻布が置いてあるのを見」(5節)「頭に巻かれていた布切れは・・離れた所に巻かれたままになっているのを見」(7節)ました。これはイエスの身体だけが、包んでいたものからすっぽりと抜け出た様子を示しています。ところが彼らは、それを見ながら、「自分のところに帰って行った」(10節)というのです。それは彼らも、布が置かれている状態の不思議さを考える間もなく、マリヤの結論を信じてしまったからだと思われます。このとき、「もうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた」(20:8)とありますが、これはヨハネが、9節にあるように復活を理解しないままマリヤのことばを信じたという意味だと思われます。

アリマタヤのヨセフやニコデモが、イエスの死後、自分の信仰を顕にしたことを見るなら、ユダヤ人の指導者が、さらなる信仰の広がりを恐れ、イエスの遺体を墓から取り出し、さらし者にする計画を立てたとしても不思議ではありません。彼らの方がイエスの復活のうわさが広がるのを懸念していたからです(マタイ27:62-66)。それで、ペテロたちは、空の墓を見て、彼らの攻撃を恐れ、その場を立ち去ったのでしょう。それにしても、イエスの遺体を盗んだ者が、亜麻布や頭に巻かれていた布切れを、わざわざきれいに残して行くなどと、どうして考えることができたのでしょう。それほどに、彼らは復活の可能性など想像もできず、イエスのことばを聞き流し続け、「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」(9節)ということだと思われます。

弟子たちは、「空の墓」を、さらなる悲劇の始まりと見てしまいました。あなたも、目の前の出来事をすべて、そのようにただ悲観的にばかり見てはいないでしょうか。それは、この世の人の目には悪の勝利かもしれませんが、それこそ神の勝利の一過程ではないでしょうか。キリストの復活は、聖書に既に記されていたことの成就でした。それを読み、復活を心から納得するなら、私たちは、どんな暗いところにも希望の光を見出すことができるのです。

2. 「マリヤ」「ラボニ」

  ところがマリヤは、その場を去ることができず、ただ「たたずんで泣いていた」(11節)のです。彼女は、身の安全を考える前に、イエスの身体が奪われたという思いに圧倒されていました。それでも、泣きながら・・墓の中をのぞき込んだ」(11節)のですが、そのとき「ふたりの御使い」を見ます(12節)。ところが、彼女はそのまばゆい光景を恐れることもなく、御使いの「なぜ、泣いているのですか」(13節)という質問に、「だれかが私の主を取って行きました」と答えます。これは先の弟子たちへの報告の繰り返しのようでも、「私の主」という熱い思いが強調されています。彼女の応答は不合理ですが、そこには、「イエスへの愛」があらゆる「恐れ」を超えた様が見られます。

彼女は、十字架で無残な死を遂げ、もう何のご利益も下さらないはずの方を、なお「私の主」と告白し続けます。マリヤは「マグダラの女」と呼ばれ、「七つの悪霊」に憑かれていた(ルカ8:2)と記録されています。マグダラはユダヤ人から軽蔑されていた町で、そこで彼女は人として生きることが不可能な悲惨の中から、イエスによって救い出されました。彼女は誰よりも苦しんできたからこそ、誰よりもイエスを愛していました。彼女にとっては、自分の人生全体がイエスからの賜物と思われたことでしょう。まさに彼女は、自分を忘れてイエスだけを思っていました。

  そこで何と、復活のイエスご自身が彼女の後ろに立たれます。ただ、彼女にはそれが分からず、ひたすら泣き続けています。それで主は、「なぜ泣いているのですか」と同時に、「だれを捜しているのですか」(15節)と尋ねました。彼女は、不思議にも彼を「園の管理人だと思って」、「あなたがあの方を運んだのでしたら・・・私が引き取ります」と言います。園の管理人が、イエスの身体の布をはずして、どこかに運ぶなどと、どうして考えることができたのでしょう?しかも、彼女がひとりでそれを引き取るなどとは、不可能です。彼女は何と混乱していることでしょう!この世的に見るなら、このような不合理な発想をする人は、「信頼に値しない」と言われるのではないでしょうか。

しかしイエスは、彼女がこれほどの熱い思いで「イエスを捜している」、その気持ちを喜ばれ、たったひとこと、その名を呼びます。これは「アリアム」というアラム語の発音そのままの記録です(16節)。それは彼女を滅びの中から救い出し、生きる力を与え続けた、あの愛に満ちたなつかしい御声でした。それで十分でした。彼女の目は開かれ、「ラボニ」と応答しました。これもマリヤのアラム語の発音がそのままです(ヘブル語では「ラビ」(マタイ26:49ユダの呼びかけ)と呼ぶのが普通でした)。著者はこの驚くほどに短い会話を、ふたりの発音のそのままを記録し、その感動を私たちに伝えようとしています。ここにはことばを超えたパーソナルな心と心のふれあいがあります。

  エデンの園での、蛇と女との会話から、全人類の悲劇が始まりました。そこでは蛇が、「神は、本当に言われたのですか」(創3:1)と、神のみことばを自分の知恵で判断するように誘惑しました。それに対し、新しい時代の始まりの「園」で、イエスは知恵ではなく、パーソナルに名を呼ぶことからすべてを始められました。そして、主がお選びになった方は、誰からの尊敬も得られなかったようなひとりの女でした。神のようになることに憧れたエバは悲惨の基となり、ひたすらイエスご自身を求め続けたマリヤは、希望の基となりました。イエスは今も、ご自身を隠しながら、「何を」ではなく、「だれを捜しているのですか」と尋ねておられます。私は長い間、知識や力を求め続けてきましたが、心の奥底にあったのは「愛への渇き」でした。それは世的な成功によってではなく、イエスご自身からの語りかけによって満たされるものでした。あなたの信仰もそのようなパーソナルな出会いから始まっています。それは主の福音が、目に見える生身の人を通して伝えられたからです。しかも、それはしばしば、あなたが真理の探究に懸命だったときではなく、ただ、途方にくれ、泣くことしかできないようなときの出会いではなかったでしょうか。

3. 「わたしの兄弟たちのところに行って・・・告げなさい」

  このときマリヤは、イエスの御足にすがりついたのだと思われます。それで主は「わたしにすがり続けてはいけません(17節私訳)と言われました。そして、「わたしはまだ父のもとに上っていないからです」と言われ、彼女の心を天の父と、父から与えられた使命の方に向けさせました。イエスは父から遣わされ、父のもとに帰って行かれますが、同じように私たちがこの地におかれているのは、神から与えられた使命を果たすためだからです。

その上で主は、臆病な弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼び、彼女にご自分のことばを託し、ご自分を遣わされた方のことを、「わたしの父またあなたがたの父・・・」と呼びます。これは、イエスの父が、弟子たちの父でもあるという意味です。それこそ福音の核心です。その代表者は、三度にわたってイエスを否認したペテロです。主は彼を「弟」と呼んでおられます。ただ、これを彼らはこの無力なひとりの女から聞く必要があったという事実自体に深い意味があります。最初の女エバは、アダムを罪にひき入れましたが(Ⅰテモテ2:14)マグダラの女マリヤは、失敗者の使徒たちを生かす使徒とされました。それはマリヤの心がイエスへの愛でいっぱいだったからです。この事実を通して、主は弟子たちに、ご自身が彼らの知恵でも力でもなく、愛を求めておられることを示しました。

また、「わたしの神またあなたがたの神」とは、聖書全体を通しての「救い」の目的を表現します。神はモーセにイスラエルの民を救う目的を、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト6:7)と言われました。私たちの救いの目的も、「主(ヤハウェ)は私たちの神」(申命記6:4)と告白できるためです。その告白と、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(同6:5)という命令は不可分でした。信仰とは、霊的洞察力とか教義の理解力である以前に、神への愛なのです。イエスは全身全霊を傾けて父なる神を愛しておられました。イエスが十字架にかかられ私たちの罪の身代わりになられたのは、そのご自分の神を、「私たちの神」とするためでした。そして、イエスが伝えたいのは何よりもこの愛の交わりの連鎖であるからこそ、イエスへの愛以外の何も持っていないマリヤが最初の使徒として適任と思われたのでしょう。

  

イエスがとらえられたとき、「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」(マタイ26:56)のですが、この福音書では、主ご自身から名乗り出て、「もし、わたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」(18:8)と言われたという面が強調されます。それはイエスが御父から与えられた弟子たちを守り通した(17:12、18:9)ことのしるしでした。しかも、イエスはかつてご自身の十字架を指して、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」(12:32)と言われました。つまり、十字架は、神と人から見捨てられたしるしばかりか、私たちの王が両手を広げて罪人たちをご自身のもとに招くしるしでもあるのです。私たちはみな、目の前のいやなことを避けたいという思いがあります。しかし、災いを避けることで平安を得ようとするなら、待っているのは、「孤独」という無限地獄です。ドストエーフスキーは長老ゾシマの口を借りて「あなたは大きな悲しみを見るでしょう。しかし、その中で、あなたは幸せになるのです。これは最後のことばです。悲しみの中に幸せを探しなさい」と言い切りました。それは、人が、悲しみの中でこそ、本当の愛を発見できるからです。イエスは弟子たちに自分たちの無力さ、卑怯さを自覚させることによって、神の愛を教え、愛によって彼らの信仰を育まれました。確かに、私たちの心にはマグダラのマリヤのような愛がありません。しかし、マザー・テレサは、「神はいっぱいのものを満たすことができません。神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。イエスの呼びかけに『はい』と答えることは空っぽであること、あるいは空っぽになることの始まりです。与えるためにどれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが問題なのです」と言っています。私たちは自分のうちに愛がないことや問題に対処する力がないことを、社会や親の責任にして自己弁護を繰り返し、神の前で心からそれを嘆こうとはしていないのかもしれません。しかしイエスは、「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」(ルカ6:21)と言われました。

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2007年4月 1日 (日)

詩篇22篇「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」

詩篇22篇

               指揮者のため。「暁の雌鹿」による。ダビデの賛歌

私の神、私の神よ。なぜ、私をお見捨てになったのでしょう? (マタイ27:46)(1)

 私の救いとうめきのことばから、なぜ、遠く離れておられるのでしょう?

私の神よ。 昼、叫んでいるのに、答えてくださらず、            (2) 

 夜も、私には、静寂がありません。

あなたは、しかし、聖であられ、                         (3)

  イスラエルの賛美を住まいとされる方です。

私たちの先祖は、あなたに信頼し、                      (4)

  信頼した彼らを、助け出してくださいました。

彼らはあなたに叫び、助け出されました。                  (5)  

  あなたに信頼して、恥を見ませんでした。

この私は、ただ、虫けら、人間と見られていません。            (6)

  人のそしり、民の軽蔑の的(まと)です。

見る者はみな、私をあざけり、                         (7)

  口をとがらせ、頭をふります。               (マタイ27:39)    

「主(ヤハウェ)にまかせ、助けてもらえ。                     (8)

  救ってもらえ。お気に入りなのだから。」         (マタイ27:42,43)

本当に、あなたは、私を母の胎から取り出され、              (9)

  母の乳房に、拠り頼ませた方。

胎児のときから、私はあなたのふところにゆだねられました。       (10)

  母の胎内にいた時から、あなたは、私の神です。

遠く離れないでください。                            (11)

  苦しみが近づき、助けがないからです。

多くの雄牛が、私を包囲し、                          (12)

  バシャンの強いものが、取り囲みました。

彼らは私に向かって、その口を開きました。                (13)

  引き裂き、ほえたける獅子のように。           (Ⅰペテロ5:8)

私は水のように捨て流され、骨々はみな はずれ、            (14)

  心は、身体の中で、ろうのように溶け、

力は焼き物のかけらのように渇ききり、舌は上あごにくっつきました。 (15)

  あなたは私を、死のちりの上に置いておられます。

犬どもが包囲し、悪者どもの群れが取り巻き                (16)

  私の両手と両足を 突き刺しました。

私は自分の骨をみな、数えることができるほどです。               (17)

  彼らは私をながめ、ただ見ています。

私の上着を互いに分け合い、                               (18)

  この衣のために、くじを引きます。                   (マタイ27:35)

あなたは、主(ヤハウエ)よ。遠く離れないでください。                   (19)

  私の力よ、助けに急いでください。

救い出してください。このたましいを剣から、

  ただひとつのいのちを犬の手から。                        (20)

救ってください。獅子の口から、                              (21)

野牛の角から。           

                           

あなたは答えてくださいました。

私は、御名を兄弟たちに語り、                              (22)

   会衆(教会)の中で、あなたを賛美しましょう。                 (ヘブル2:14)

(ヤハウェ)を恐れる人々よ。主を賛美せよ。                           (23)

  ヤコブのすべての子孫たちよ。主をあがめよ。 

   イスラエルのすべての子孫たちよ。主の前におののけ。

本当に、主は、悩む者の悩みを、さげすむことなく、厭(いと)うことなく、       (24)   

  御顔を隠されもしなかった。                          (ヘブル5:7)    

    むしろ、助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

大きな会衆の中での私の賛美は あなたから生まれました。              (25)

  私は、誓いを 果たします。                       (詩篇50:14、66:13-15)

    主を恐れる人々の前で。

悩む者たちは、食べて、満ち足り、                                (26)

  尋ね求める人々は、主(ヤハウェ)を賛美しましょう。

   「あなたがたの心が、いつまでも生きるように!」

地の果てまでのすべての人が、覚えて、主(ヤハウェ)に帰ってくるでしょう。(使徒1:8)(27)

  国々の民もすべて、あなたの御顔を伏し拝みましょう。

    まことに、王権は主(ヤハウェ)のもの。主は国々を統べ治めておられる。    (28) 

地の裕福な者もすべて、食べて、伏し拝み、                       (29)   

  ちりに下る者もすべて、御顔に、ひれ伏す。 

    おのれのいのちを保つことができない人さえも。

子孫たちも主に仕え、主(主人)のことが、次ぎの世代に語られましょう。      (30)

彼らは来て、生まれて来る民に、主(彼)の義を 告げましょう。           (31)        

    (彼)がなしてくださったことを。                    (2007年高橋訳)

タイトルの「暁の雌鹿」は調子を表わすと解釈されるが、その意味は全く分らない

1節の「私の神」はヘブル語で「エリ」で、その発音がマタイ27:46に記されている。

 「なぜ、遠く離れておられるのでしょう」で、「なぜ」の繰り返しは原文にはない。

3,6,9節の始まりの接続詞は、沈黙の中に視点を変える意味が込められている。

6節の「人間と見られていません」は原文で「人間ではない」となっている。

10節「胎児のときから」とは原文で「胎内にいるときから」だが、9,10での「母の胎」とは異なったことばが用いられている。また、「あなたのふところ」の「ふところ」とは原文にないことば。

20節「ただひとつのいのち」とは原文で、「たったひとつのもの」と記されている。

21節C「あなたは答えてくださいました」はヘブル語で一語のことばで、ここから絶望から希望へと調子が180度転換している。そして、これ以降は基本的に三行詩のリズムに変わっていると思われる。

25節「(賛美は)あなたからうまれました」は原文で「あなたから」とのみ記されている。

26節の三行目は、互いのいのちを喜び合っている祝いのことば。

詩篇22篇「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」

                                                    2007年4月1日

  私は初めて聖書を読んだときに、イエスによる様々な癒しの奇跡の記事を読みながら、「よくこんなこと信じられるな・・・」と不思議に思ったものです。そしてなおも読み進むと、イエスが十字架上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだという記事に出会い、「何と往生際の悪いことか。やはりこれは信じるに値しない!」と思ったものでした。私は、宗教とは、自分の心を自分で制御できるようになるための道、どんなときにも平安でいられる道だと思っていましたから、この嘆きは受け入れがたく思えたのです。

ところが、今は、イエスの十字架上でのその叫びが、私の心に何よりの平安をもたらすようになりました。それは、そのことばが詩篇22篇の初めのことばそのものだということが分かり、そこに記されている心の微妙な揺れが何とも身近に感じられるようになってきたからです。なお、この詩篇はイエスの一千年前の王ダビデによって記されたものです。そして、イエスはダビデの子として、ダビデの痛みをご自身の痛みとして味わわれました。それは、イスラエルばかりか全人類の王、私たちの代表者として味わった苦しみでした。

私は小さい頃から、人の目がいつも気になり、寂しがりやで臆病であることを恥じていました。もっと人の反応やまわりのできごとに左右されない不動の心を持ちたいと願っていました。その渇きがあったので大学生の頃、聖書を読みたいという気になったのかと思います。しかし、今も、いわゆる悟りの境地からは程遠い状況です。

ただし、今、私が目指し続けている信仰の成長とは、不動の心を持つようになることではなく、神との「祈りの交わり」において成長することです。事実、私の心は信仰の歩みとともに、いろんな出来事にかえって敏感に反応するようになり、傷つきやすくなっている面さえあります。それはこのままの自分が神の愛に包まれているということが分かるに連れ、自分で自分を守ろうとする構えから自由になったからかも知れません。そして、今、私の抱える様々な不安や葛藤や孤独感は、世の多くの人々が抱える心の痛みを理解する窓とされています。

その同じ思いが、星野富弘さんの詩に記されています。

「わたしは傷を持っている

              でも、その傷のところから

              あなたのやさしさがしみてくる」

  あなたも様々な心の傷を抱えながら生きて来られたことでしょう。ある人は、そのため親を恨むことさえあるかもしれません。しかし、その傷は、創造主であられる神様の優しさがしみてくる泉となるのです。そして、それは同時に、人の心の傷にやさしく寄り添う愛の泉とさえ変えられます。私は、この年になってようやく、生まれる前から神に愛され、神のご計画の中で、大雪山のふもとの村に誕生させられたということが分かりました。そこに生まれるものこそ、本日のテーマ、「母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」という告白です。

1.「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」

私は、今から五十年余り前の年度末最後の日に、開拓農民の家の長男として生まれました。この誕生のときにはじまり、私は何においてもすべてが遅れがちで、小学校三年生の担任などからは「とろい、とろい」と繰り返されるほどで、ソフトボールの仲間にも入れてもらえませんでした。ところが小学校の高学年から、勉強するたびに成績が上がるようになり、いろいろありましたが、この世的には、右肩上がりの歩みになりました。

しかし、心の中は、いつも何とも言えない「恐れ」にとらわれていました。それは何かを失うことの恐れであり、また、バカにされ、仲間外れにされ、拒絶されることへの恐れかもしれません。最近は、それが「見捨てられ不安」と呼ばれ、多くの日本人が抱える根本的な病理であるとも言われます。

  ところで、イエスの名は、聖書で「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる)とも呼ばれますが(マタイ1:23)、何とその方が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたというのです。つまり、「神はともにおられる」という名の方が、「神はともおられない」と叫んだのです!何という矛盾でしょう?

しかし、イエスは十字架で、全世界の罪を負い、誰よりも醜い罪人となって、父なる神から見捨てられていることを味わっておられたのです。イエスにとって何よりも辛かったのは、十字架の釘の痛み以上に、最愛の父なる神から見捨てられていると感じざるを得ない点にありました。

ですから、イエスの叫びは、決して、「往生際が悪い」者の叫びとは次元が異なります。しかも、これが詩篇22篇のことばそのものであることが分かるとき、「神に見捨てられた」と一時的に感じることと、「神は私とともにおられる」と告白することには矛盾がないという信仰の真理を理解する鍵となります。

それにしても、この叫びが、私の心をとらえて離さなかったのは、私の中にある「見捨てられ不安」がそれに共鳴したためだったように思えるのです。今、この詩篇の文脈全体からこれを見ることを学んだとき、私は感動とともに分かったことがあります。それは、イエスが、神に見捨てられていると失望する者たちの代表者となるために十字架にかかってくださったということです。

しかも、イエスは、「どうして私を見捨てたのですか!」と恨みがましく叫んだわけではありません。この中心的な意味は、神から見捨てられたと感じざるを得ない状況の中で、なお、「私の神、私の神よ」と、その神を私自身の神であると告白し、「どうか見捨てないでください!」とあきらめずに祈り続けたことにあるのです。

1,2節にあるように、この詩篇の作者は、神が沈黙しておられる中でも、なお繰り返し叫び続けています。心は乱れて夜も眠ることができないほどなのですが、なおも神を呼び求めています。

その上で、3節から、神に向かって「あなた」と呼びかけつつ、イスラエルの歴史に現わされた神のみわざを思い起こします。ここには、自分の状況をそのまま訴える「私」の視点と、沈黙を経て、神のみわざを思い起こす「あなた」の視点が交互に描かれているのです。4,5節には、「信頼」ということばが三度も繰り返され、神への信頼が究極的には必ず報われることを告白します。これは私たちが聖書から学ぶことの核心です。

しかし現実は、それとはかけ離れているように見えます。6節にあるように、「この私」は、人間の尊厳を奪われ「虫けら」のように扱われています。神を呼び求める姿が、物笑いの種とされ、8節にあるように、「主(ヤハウェ)に身をまかせ、助けてもらえ。救ってもらえ。お気に入りなのだから」とあざけられます。マタイによる福音書では、イエスの十字架の苦しみ27章33~44節に描かれていますが、その中心は肉体的な痛みよりも、この詩篇の6-8節に記されているような「虫けら」のように扱われ、軽蔑の的となり、自分が身代わりになった罪人たちからとんでもない皮肉と罵声を浴びせられることとして描かれています。目の前の人々の罪を負って、その身代わりに苦しんでおられるというのに・・・。私たちは、何よりも、人の誤解や中傷に傷つきますが、その苦しみを、イエスは誰よりも深く味わってくださったのです。人はしばしば、信仰と幻想を混同します。私達がこの地に住む限り、孤独と暗闇のときを通らなければならないというは避けがたい現実です。「こんなはずではなかった!」と思うときが、必ず来るものです。しかしそのとき、それはすべての信仰者が必ず通るべき道であると納得できるなら、あわてふためく必要がなくなります。イエスご自身が私達の代表として既に通られた道なのですから・・・。

2.「あなたは私を母の胎から取り出した方、胎児のときから・・・あなたは私の神です」

その上で詩篇作者は、沈黙の後、9,10節で、再び、神を「あなた」と呼びかけ、「私」の誕生の場に神がおられたことを覚えます。そして、神様が何と、有能な産婆さんに例えられたのです。私はよく母から、「お前は頭が大きかったから、出産が大変だった。」と言われてきました。当時は、病院ではなく、産婆さんに助けてもらうのが普通でしたが、その産婆さんを使って僕の大きな頭を狭苦しい産道から引き出し、母の乳房を吸わせたのは神ご自身だったというのです。難産だったのは、私が安全な母の胎から出されることを本能的に恐れ、抵抗していたからかも知れません。そして、実際、この世界は決して住みやすいところではなく、争いと不安に満ちています。それで、多くの生き難さを抱えた人の中に、この母体に戻ることへの憧れがあるとさえ言われます。

しかし、この苦しみの始まりを導いたのは神ご自身でした。神こそが「私を・・母の乳房に、拠り頼ませた方」であり、私は、母のふところに憩う前から、神の「ふところにゆだねられていた」というのです。人によっては、「私は母によって傷つけられたけれど、その後、神を信じて救われた」と考えますが、ここでは、「母の胎内にいた時から、あなたは、私の神」と告白されます。私のいろんな意味での生き難さは、それは基本的に出生に由来します。しかし、「母」以前に「私の神」が、あの大雪山の麓の貧しい農家での私の誕生を、計画され、喜んでおられたと感じられた時、世界が変わりました。様々な痛みは、神と人との交わりを築くために用いられるからです。

  ところで私はドイツ駐在中の家庭集会で、物理学の最先端の科学者との出会い、自分は科学の限界を知らないからこそ、聖書をそのまま神のことばと信じることに躊躇していたのだと分りました。私たちはいのちの誕生の神秘をあまりにも軽く見すぎてはいないでしょうか?あの精子と卵子の結びつきから、どうしてこのように驚くほど精密で複雑な生命体ができるのでしょう?あの不思議な遺伝子の組み合わせは、自然にできるものなのでしょうか?学校では進化論が科学かのように教えられますが、どの科学者が、アミーバーから人間に至る遺伝子の進化のプロセスを解明できたというのでしょう?私のいのち、あなたのいのちは、神の最高傑作です。あなたの創造主は、父でも母でもなく、神ご自身なのです。ただ、神はそのために父と母を用いられたに過ぎません。

信仰とは、目に見える現実を超えた神のみわざ、またそのご計画を知ることです。あなたの誕生は決して、偶然でも、間違いでもありませんでした。苦しみは、誕生の瞬間から私たちの人生の一部なのですから、それを避けようとするのではなく、かえって、それを正面から引き受け、「苦しみ甲斐のある人生」を歩むべきではないでしょうか。神は、目的を持って、あなたを特別にユニークに創造してくださったのですから。

3.「あなたは私に答えてくださいます」

私は年とともにようやく、イエスの十字架上の痛みの本質が分かるようになりました。この働きは、人間の複雑なたましいを相手にしますから、努力と結果は、なかなか結びつきはしません。それどころか、こちらが真剣になればなるほど、自分がコントロールされているように誤解し、息苦しさを感じて去ってゆくという人さえもいます。そんなとき、その人の傷みを思う以前に、自分自身が被害者意識や自己憐憫に陥りそうになることがあります。

ところが、イエスでさえ、一番弟子のペテロから三度、「知らない」と言われ、そればかりか、手塩にかけて育てた弟子のユダから裏切られたのです・・・・。それを思うとき、私の心の目は、自分自身からイエス様に向けられます。イエス様こそは、誰よりも深く孤独の痛みに苦しんでおられたからです。その絶望的な状況が、6-8節に続いて、11節-18節でも、劇的にまた詩的に美しく表現されています。特に18節の「この衣のために、くじを引きます」と記されたのと同じことが、イエスが十字架にかけられてすぐに起きました。彼らは今、目の前で苦しんでおられるイエスよりも、彼の着ていた衣のほうに心が動いたのです。あなたの人生が最も絶望的なときに、そこに当人がいないかのような会話が交わされ、その存在を無視されたらどれほど辛いことでしょう。

そして、19-21節では、神に向かっての必死の祈りが、「遠く離れないでください」「助けに急いでください」「救い出してください」「救ってください」と四回も繰り返されます。ところが、21節の終わりに、突然、「あなたは私に答えてくださいました」という宣言があります。実は、神のみわざは、しばしば「もうだめだ!」と思った瞬間、圧倒的に迫って来るものなのです。信仰は理屈を超えています1,11,19節で三回も繰り返された、神が「遠く離れておられる」と感じられる現実は、24節にある告白、「本当に、主は、悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、助けを呼び求めたとき、聞いてくださった」(24)ということを、腹の底から確信するために不可欠なことだったのです。

私の母は出産間もなく私を籠に入れて水田のあぜに置き、田植をしなければなりませんでした。そんな時、私は水田の中に落ち、鼻の頭だけを出し、叫ぶこともできずに死にそうになりました。ふと母は、心配になり、水田から上がって来ました。私を見つけるなり、叫びながら、呼吸がとまりかけ冷たくなった私を必死で抱き暖めました。私は息を吹き返しました。私が瀕死の時、母は「遠く離れて」いましたが、この出来事は、不思議に私の心の中では、母が、そして後には、神が、いつも「私とともにいる」という実感につながっています。

イエスの十字架と復活の関係も、そのように、父なる神と御子なるイエスとの永遠の愛の交わりの観点から見ることができます。主が十字架で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ三日目に、主は死人の中からよみがえられました。そして、主の復活こそが、「あなたは私に答えてくださいました」とあるように、まさにこの叫びへの「答え」になっているのです。

そして、22節では、「私は、御名を私の兄弟たちに語り、会衆の中であなたを賛美しましょう」と告白されます。新約聖書へブル人への手紙では、これが引用され、復活の主は、私たちをご自分の弟、妹として呼ぶことを恥としないと解説されます(ヘブル2:11,12)。事実、復活したイエスは、裏切った弟子たちをご自身の弟、妹として集め、教会を造ってくださいました。それで私たちも、イエスの兄弟として、日曜日ごとにイエスに導かれて、イエスの父なる神に感謝の祈りをささげるのです。イエスは、今、慈しみ深い兄として私たちの前を歩き、どのような暗闇の中にも希望を与えて下さいます。ですから私たちは、どんなときにも、イエスに習って、「あなたは私に答えてくださいます」と告白することができます。私達が「もうだめだ!」とピンチに陥ることは、神の圧倒的なみわざを体験するチャンスなのです。

イエスが、全世界の罪を負い、神からのろわれた者となって、なお「私の神」と叫び続けた「祈りが答えられた」結果、今、あなたもイエスの父なる神を、「私の神」と告白できるようになりました。これこそ福音の核心です。

4.「大会衆の中での私の賛美は、あなたからのものです」

その上で、神への賛美が、「私」から民族や世代を超えて広がって行く様子が描かれています。22節での、「会衆の中で・・賛美」は、25節では、「大きな会衆の中・・」へと成長しています。そして、それは神から「生まれたもの」だと告白されます。そして、その賛美の輪が、全世界に広がり、また世代を超えて広がる様子がこの詩篇の終わりに向って描かれています。このように、神に見捨てられたと感じた者が、神のみわざを証し、神への賛美を導く者へと変えられて行くプロセスは、今も、あなたのまわりでもあなた自身にも起きているのです。

私たちが母の胎から取り出され、様々な困難の中でも守られてきたのは、神が私たちを生かしたいと願っておられるからです。それゆえ、私たちひとりひとりには固有の使命が与えられています。よく「このままで良いんですね」と尋ねられることがありますが、答えは、「はい」であり、また、「いいえ」です。聖書の教えは、「そのままの姿でイエスについて行きなさいということです。イエスに従ってゆくときに、あなたの過去のすべての苦しみや痛みが、異なった意味を持つようになり、すべてのことが益になっていることが分かるということです。

私は、幸い、牧師になったことを後悔したことや牧師を辞めたいと思ったことは一度もありません。しかし、神が私に与えてくださったユニークさが理解できず、自分らしくないやり方に固執して、数々の失敗をしてしまったことは反省しています。そして分かったことは、私は父からどうしようもない不器用さを受け継ぐと同時に、働きを途中で投げ出さないための忍耐力をも受け継がせていただいているということでした。父は、現在の水田の土を良くする為に(客土といいますが・・)、良い土を別のところから馬橇で運んで、三ヘクタールの水田すべてを覆いました。それを私は幼い頃手伝ったことがあります。途方もない作業なのでやり遂げる人は稀ですし、理解も得られません。私は、なかなか働きの結果が見えなくてあせるとき、この父の姿を思い浮かべて励まされます。

あなたは親から受け継いだ様々な負の遺産を嘆くことがあるかもしれません。しかし、神は、それとセットで、それを補ってあまりある様々な能力を恵みとして与えておられるのです。それらが組み合わされて、あなた固有の人格を作り上げています。そして、神は、あなたに様々な試練を与えながらも、それを通してご自身の救いを示して、「わたしはお前が生まれる前からお前の神だ。わたしこそがそのままのお前を生かすことができる」と語りかけておられます。私たちは挫折を繰り返すたびに、神に創造されたままの自分らしい生き方に目覚めることができるのかも知れません。そして、自分にしかできない働きがあることが分かるとき、本当に、生かされてきたことの恵みを、神に感謝できるようになります。つまり、すべてが神から始まり、神への賛美と変えられるのです。

私は昔、自分の田舎は好きではありませんでした。世界にはばたきたいと思っていました。しかし、今、この大雪山を仰ぎ見る風景が好きでたまりません。私がキリストに従う決心をしたとき、宣教師の方から、今、天では天使があなたの回心を喜び歌っていると言われました。しかし、今、私が神を知るずっと前から、神は私を知っておられ、ご自身の栄光に用いるために、敢えて、今の両親のもとに誕生させてくださったと信じています。

私は今、本当に、「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」と告白できることが嬉しくてたまりません。神が与えてくださった親、兄弟、友人、風景、それらがすべて宝物に思えます。あなたはどうでしょうか?自分の生涯を、神の眼差しから見直すとき、すべてが変わります。私の神が私の誕生を、またそれ以降の歩みを導いておられました。私は自分のことを好きではありませんでした。自分の傷つき易さを受け入れることができませんでした。しかし、私の救い主は、そんな私の痛みを担うために人となってくださいました。私のこころの痛みを、神は軽蔑されなかったばかりか、私が抱え込んでいる不安のゆえに起こしてしまう様々な過ちをまた罪をその身に負ってくださいました。私の救い主は、それほどまでに、この私に寄り添ってくださったのです。かつて「わが神、わが神・・」という祈りを軽蔑したとき、私はイエスではなく、自分を軽蔑していたのです。そして、今、この祈りを聞くたびに、イエスが私の王として、私の身代わりとして、この祈りを叫んでくださったと分ります。

私たちはこの世的な基準で自分の価値をはかります。そして、自分の期待をかなえてくれる神を求めます。しかし、人生には砂漠のような時期があります。そのとき、私たちは、神が遠く離れているように感じます。しかし、それを通して、私たちは神が与えてくださる富や名誉や力ではなく、神ご自身だけを求めることに目が向けられるのです。イエスはすべてを失った中で、「私の神よ・・・」と、神ご自身との交わりだけを求めました。しかも、すべてを失ったと思えたときこそ、神がイエスを通して世界を救うという圧倒的な勝利の入り口でした。それを通して、世界のすべてのものがイエスに任されました。私たちも神が遠く離れておられるように感じることがあったとしても、その貧しさを通して、神にある豊かさを体験することができるように変えられるのです。神以外の何ものも私に真の幸福を与えることはできません。もちろん、私たちは自分で進んで苦しむ必要はありません。しかし、どの人生にも苦しみはあります。私たちに問われているのは、苦しんだことが無駄にならないこと、それが神との交わりを深めるために用いられることではないでしょうか。私たちも、いつでもどこでも、人生がどんなに辛く、悲しく思えるようなときにも、イエスの父なく神を「私の神」と告白して、その置かれた場で喜びを体験できるのです。

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