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2007年8月 6日 (月)

Ⅰ列王記18、19章「外に出て、主(ヤハウェ)の前に立てー神の沈黙の声とは―」

本日の記事は、聖書のもっとも劇的な物語のひとつです。エリヤの驚くべき勇気とその後に起こった激しいうつ状態の対比が興味深く感じられます。燃え尽きとか「うつ」ということばが多用されていますが、三千年前の信仰の勇士に起こった心の揺れは、そのまま現代の私たちへの慰めと導きになります。

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 ひとりひとりが使命を大きくとらえるのでなければ、二歳児がバスに取り残されたまま熱射病で死ぬなどという悲劇が繰り返されかねません。一方、「ただ私だけが・・」という意識が高じてしまうと、自分が息詰まるか、まわりの人が息詰まるかのどちらかになります。この調和の鍵は、自分の外に出て、主の前に立つことではないでしょうか。それとともに、カルメル山では天からの「主(ヤハウェ)の火」をもってエリヤの祈りに答えられた神が、シナイ山では「かすかな細い(沈黙の)声」で憔悴したエリヤに語りかけられたという不思議をセットにして覚えたいと思います。この対照的とも言える神の栄光の現われの中にどのような調和が見られるのか、私は今まで気がつきませんでした。

1.「私が仕えている万軍の主(ヤハウェ)は生きておられます。」

 エリヤはツァレファテのやもめによって養われながら、その一人息子を主によって生き返らせました。それから三年目、主はエリヤに、「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう」(18:1)と言われます。その頃アハブ王と王宮をつかさどるオバデヤは、長い飢饉への対処として、手分けして家畜の牧草地を捜しに出かけました。「オバデヤは非常に主(ヤハウェ)を恐れ」(18:3)る人で、女王イゼベルによる迫害の中で、主(ヤハウェ)の預言者百人をパンと水とで養っていたほどでした。そのオバデヤの巡回中に、「エリヤが彼に会いに来」(18:7)て、アハブへの取次ぎを求めます。そのときオバデヤは、自分がそのことでアハブ王の逆恨みを受けることを恐れます。それは主がエリヤをアハブの攻撃から守っておられることを知っていたからです。彼はエリヤに「あなたの神、主(ヤハウェ)は生きておられます」(18:10)と言いつつ、自分がエリヤの居場所を教えても主がエリヤを隠すので、自分が王の怒りを受け命の危険にさらされると言います。なおその際、オバデヤ自身の口を通して、彼が主の預言者百人を匿ったことが繰り返し記されます。著者はこのことで、預言者はエリヤだけではなかったことを強調しようとしています。

 これに対しエリヤは、「私が仕えている万軍の主(ヤハウェ)は生きておられます」と言いつつ、この会見は主にあって彼自身が望み主導することを強調し、「必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう」(18:15)と告げ、安心させます。主の命令に従うなら、誰も恐れる必要がないからです。それに応じてアハブはエリヤに会うためにやって来、開口一番、「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの」(18:17)と言います。それは、エリヤのことばによってイスラエルに三年間も雨が止まり、国中が飢饉に苦しんでいると思ったからです。アハブはエリヤが仕えている主(ヤハウェ)が生きて働いておられることを認めずに、彼を災いの元凶と見ました。これに対しエリヤは、アハブとその父の家こそイスラエルを煩わしている根源であると大胆に語ります。なぜならこの飢饉は、アハブが主の命令を捨て、バアルを礼拝していることへのさばきであるからです。その上でエリヤは王であるアハブに命令を下すかのように、「イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシュラの預言者」カルメル山に集めさせます。そこはイスラエルの穀倉地帯イズレエル平原の西北、地中海に面する600メートルぐらいの高さの山です。エリヤはイスラエルの民を集めさせ、彼らに向って「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか」(18:21)と言いつつ、主(ヤハウェ)とバアルのどちらが真の神であるかを示そうとします。彼らは、バアルとヤウェの両方を神としてあがめるという混合宗教に陥っていたからです。これはまさに一般的な日本人の意識と同じです。

武力を持つアハブ王はエリヤに対しては驚くほど無力でした。オバデヤさえも自分の命を守ることに必死でした。しかし、エリヤは死の脅しを軽蔑するかのように、大胆に王の前に現れ、多数のバアルの預言者たちを集めさせます。それは、「主(ヤウェ)は生きておられる」ことを確信したからです。エリヤは主からの使命に生きていました。だれも彼の代わりになる人はいません。私たちもひとりで異教徒たちの前に立たなければならないことがあります。そのとき逃げの体制に入るのではなく、主にあっての主導権を発揮することが大切です。昔、ひぐまと出会ったら死んだふりをすれば良いという話がありましたが、その有効性は実証されていません。もちろん、背を向けて逃げるのは最悪の選択です。逃げるものを追いかけるのは動物の本能だからです。何より効果的なのは、そこにいる全員で、ひぐまと「にらめっこ」することです。ただ、ひとりでも眼を背け、逃げ腰になるとひぐまは自分の優位を確信して襲いかかる可能性があるとのことです。同じように、私たちは自分を迫害する者に逃げ腰になってはなりません。あなたが仕える神は、生きておられます。偶像の神々はあなたに対して何の力も持ってはいません。

2.「しかし、何の声もなく、答える者もなかった」

エリヤは民に向い、「私ひとりが主(ヤハウェ)の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ」(18:22)と言いつつ、二頭の雄牛を用意させ、どちらのいけにえに火が下るかを見させようとします。「私ひとりが・・」という告白には危なさもありますが、このような自覚こそ全体の流れを変える力になります。日本人にはこのような意識が弱いため組織の自浄能力が欠けがちだと言われます。バアルの預言者たちは朝から真昼までバアルの名を呼びます。「しかし、何の声もなく、答える者もなかったので、エリヤは彼らをからかい、「もっと大きな声で叫んでみよ・・・もしかすると、寝ているのかもしれないから・・」と言います。それで、「彼らはますます大きな声で呼ばわり・・・剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけ」ます。このような騒ぎが、「ささげ物をささげる時」と呼ばれる夕方まで続きますが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった」のでした(18:26-29)。

  一方、エリヤは民全体を自分のそばに近寄らせ、壊れていた主(ヤハウェ)の祭壇を立て直します。その際、イスラエルの十二部族にちなんだ十二の石を用い、その上にたきぎを並べ、切り裂いた一頭の雄牛を置きます。そして、四つのかめに水を満たさせ、それを三度にわたって、いけにえとたきぎの上に注がせます。つまり、水がない中で、かめで十二杯もの水を用いて、火がつきにくい状態を作り出します(12杯も12部族に通じる)。そして、水は、祭壇の周りに掘った水に満ちます。これは誤魔化しようも後戻りのしようもない状況を作り出すことを意味します。

  その上でエリヤは、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主(ヤウェ)よ・・・私に答えてください」とバアルの預言者とは対照的に静かに「この民が、あなたこそ・・神であることを・・知るように」と祈ります。19世紀のドイツの音楽家メンデルスゾーンは、38歳で天に召される年、このエリヤの生涯をオラトリオとして描きますが、バアルの預言者たちの熱い祈りと、エリヤの静かな祈りの対比を効果的な音楽で表現しました。ここに私たちにとっての祈りの模範があります。主(ヤハウェ)は私たちの熱意に受動的に反応する方ではなく、何物に支配されない自由な主権によってこの世界の歴史を動かしておられる方です。ですから私たちも世界に対する神の救いのご計画に心を合わせるように祈ることが大切です。情熱以前に、それを願う心の動機が問われているのではないでしょうか。

主の答えは対照的に激しく、(ヤウェ)の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くし」ました。(18:36-38)。これを見た民は、「主(ヤウェ)こそ神です」と繰り返し告白します。それでエリヤは彼らにバアルの預言者たちを殺させます。それから、アハブに「上って行って飲み食いしなさい」と言いますが、それは王を主(ヤハウェ)の食卓に招き、信仰の回復を願ったことだと思われます。一方、エリヤはカルメル山の頂上に登り、「地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめ」ながら、雨を求めて祈ります(18:41,42)。そして若い者に何度も様子を見させると、七度目に「小さな雲が海(西)から上ってくる」のが見られました。それでエリヤはアハブに「大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい」と伝えます(18:44,45)。しばらくすると、激しい大雨が降りますが、「主(ヤウェ)の手がエリヤの上にくだり」、彼はイズレエルにあるここから27kmも離れたアハブの夏の宮殿まで、王の車の前を超人的なスピードで走り続けることができました(18:46)。

  アハブは王でありながら、エリヤに受動的に従うばかりでした。それは主の手がエリヤに下り続け、主がエリヤをご自身のしもべとして用いられたからです。バアル神もアハブ王も、ともにエリヤの挑戦に「何の声もない」という点で同じです。仏教の葬式では多数の僧侶がお経を唱えることに価値を見いだすことがありますが、何も答えることのできない神々に向かってどんな多数で大声を合わせても意味はありません。私たちの主(ヤハウェ)は、あなたが御子イエスの御名によって祈るなら、たったひとりの訴えにも誠実に答えてくださいます。人間の信仰の熱心さが奇跡を生むのではありません。どんな奇跡を行なうことができる神ご自身が不可能を可能にしてくださるのです。

3.「火のあとに、かすかな細い声があった」

 アハブは妻のイゼベルにすべてのことを報告します。このシドンの王女こそがバアル礼拝推進の中心人物でしたから、彼女は激しく怒り、「あすの今ごろまでに」、エリヤをバアルの祭司たちのように殺すと通告します。彼女はイスラエルの民の手前、即座に殺す代わりに、彼が逃げ出すのを期待したのだと思われます。ところがエリヤは、それまでとは打って変わって「恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」ばかりか、南王国ユダの最南端ベエル・シェバまで逃れ、自分の死を願って、「主(ヤウェ)よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」とまで願います(19:1-4)。このエリヤの心境は、しばしば燃え尽き症候群とも解説されます。国全体が主に立ち返ることを期待し、バアルの預言者たちと全精力を傾けて戦い勝利したはずなのに、イゼベルは迫害の手を強めただけでした。自分の労苦が実を結んでいないと思われ、それまでの緊張感の反動で、彼の心は萎えてしまったのでしょう。メンデルスゾーンは多くの詩篇を音楽にし、そこでしばしば、主が沈黙のうちにご自身の御顔を隠しておられると思える中での信仰者の祈りを表現しますが、ここでもエリヤの絶望感をチェロの低音で始めながら、彼が自分の気持ちを激しく表現する曲へと調子へと変化させます。自分で自分の命を断とうとすることと、死にたいほどの気持ちを神に訴えるのは天地の差があります。彼は絶望感を祈ることで神の働きに心を開いているのです。

  彼が「えにしだの木(当地によくある3mぐらいの高さの木)の下で」疲れ果てて眠っていると、ひとりの御使いが優しく寄り添うように触れて、「起きて、食べなさい。」と言って、パンと水を用意してくれました。彼がそれを食べて飲んで、また横になると、「主(ヤハウェ)の使い」はもう一度戻ってきて、優しく彼を起こしながら、「旅はまだ遠いのだから」と言います。すると彼は「この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブ(シナイ山)に着いた」というのです(19:5-8)。興味深いことに、エリヤは最初、恐れにとらわれて逃げたに過ぎなかったのですが、神はその逃亡の旅を、イスラエルの信仰の原点、律法が与えられた山への積極的な旅へと変えてくださいました。

  エリヤはそこに到着すると洞穴に入って一夜を過ごします。すると主は、「エリヤよ。ここで何をしているのか」と問いかけられます。それは彼の逃げの姿勢を責めるもののようでありながら、自分の気持ちを表現するのを助ける問いでもあります。彼は、「私は・・主(ヤハウェ)に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々は・・」と、自分と彼らの姿勢を比較した上で、「私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを・・狙っています」と、物事を事実以上に誇張し、悲観的に表現しています(18:9,10)。彼の頭からは、オバデヤが百人の預言者たちを匿ったことも、主が火を降らせてバアルの預言者たちに勝利されたことも抜けてしまっているかのようです。しばしば、人は、うつ状態に陥ったとき、彼と同じように、悪いことばかりを思い出し、自分の現実を事実以上に悲観的に見てしまいます。

 それに対し主は、外に出て、山の上で(ヤハウェ)の前に立て見よ。主(ヤハウェ)が通り過ぎるからと招かれます。(19:11私訳)。かつてモーセはイスラエルの不従順に苦しみ抜き、「主がともに歩まれる」ことのしるしを求め、それに主は答えてご自身の栄光を見せられましたが、それが再びここで起きるという意味でしょう(出エジ33:18-34:7)。そして、「主(ヤハウェ)の前」で、激しい大風が山々を裂きますが、「風の中に(ヤハウェ)はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも(ヤハウェ)はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも(ヤハウェ)はおられなかったと繰り返されます。それはかつて主がシナイ山に下りて来られたときを思い起こさせる栄光の現れですが(出エジ19:18)、主は今、そのような目に見える力の中におられなかったというのです。これは主が敢えてご自身を隠しておられるというメッセージです。そして最後に、「火のあとに、かすかな細い声(「原文「沈黙の声」英語NRS訳はa sound of sheer silence)があった」と記されます(19:12)。つまり、カルメル山で主は天からの燃える火でご自身の栄光を現されましたが、今は、沈黙の中にご自身を現しておられるというのです。エリヤは今、神の沈黙に苦しんでいましたが、主は疲れた彼に寄り添うように、その沈黙を通してエリヤを招いておられたのです。ですから、「エリヤはこれを聞くと初めて「外套で顔をおおい」ながらも、外に出て、主の前に立つことができました(19:13)。不思議に、この沈黙?の声は、エリヤに「聞く」ことができたのですが、それは、詩篇27篇8節にあるように、わたしの顔を、慕い求めよ」との神の招きの声が、心の奥底に語りかけられることに似ているでしょう。

今から40年前、サイモンとガーファンクルによるsound of silenceという曲がヒットしましたが、その名の由来がここにあるかのようです。そこには言葉にならない人の心の声に耳を傾けて欲しいとの訴えが込められており、それが多くの人々の共感を誘ったのだと思われます。同じように、神は沈黙?の声」を通して私たちをご自身のみもとに招いておられます。メンデルスゾーンは、「主(ヤハウェ)が通り過ぎられ」という力強い三回の合唱に合わせ、激しい大風と地震と火を描きつつ、「その中に主(ヤハウェ)はおられなかった」と繰り返し、最後に、主がエデンの園で罪を犯して木の間に身を隠すアダムにご自身の方から優しく音をたてながら近づいて来られたことを思い起こさせるようにこの神の神秘的な招きを表現しました。私はその音楽を聴きながら、神がどれほど、私たちの傷つき易い心をいたわり、優しく寄り添ってくださるのかと、深い感動に満たされました。あなたの心も様々なことで傷つき、心が萎えてしまうことがあるでしょうが、神はご自身の力を抑えながら、静かに優しくあなたを招いておられるのです。  

ところで主は再び、明確なことばで、エリヤに先と同じ質問をし、彼は以前とまったく同じ悲観的な答えをします。それは主が、エリヤの悲しみを正面から受け止められた証しでした。なお、この箇所は、主は私たちに「かすかな細い声」で語られると解釈されがちですが、主はエリヤに明確な声で語られたということを忘れてはなりません。沈黙の中で主の御前に静まることの勧めが、聖書のことばにとって代わるようなことはあってはならないからです。

  そして主は、不思議な命令を下します。それは、はるか北に向い、北王国イスラエルの北の国アラムに行って、イスラエルを脅かす異教徒を王に立てること、またアハブの家を滅ぼすイスラエルの王としてニムシの子エフーを立てること、そして、彼自身に代わる預言者としてエリシャに油を注ぐようにという命令でした。それは神が、ご自身を隠しながらも、この世の王たちをご自身の意思で立て、またさばくという意味です。その上で、主は、「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく・・・」19:18)と、バアル礼拝に屈しない信仰者を保つと約束されます。そして、これこそが、「ただ、私だけ・・」というエリヤの被害者意識に対する答えだったのです。なお使徒パウロは後に、この箇所を引用しつつ、「神の知恵と知識の富は、何と底知れず深いことでしょう」と言いつつ、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」と結んでいます(ローマ11:2-4,33,36)。エリヤのうつ状態の原因のひとつは自意識過剰にあっか可能性があります。彼は、天から火を降らしてくださる神の圧倒的な力ばかりか、人と人との争いや協力の中に、「沈黙の声」を発せられる目に見えない神のご支配を認める必要があったのです。

 私たちは責任から逃れるような気持ちで、「だれか他の人が・・」と言いたくなることがあります。しかし、それは敵に背を向けるという敗北の始まりになります。そのようなとき、「私ひとりが・・」という気持ちで主にすがるなら、主は不思議な解決をもたらしてくださいます。しかし、これが自意識過剰になるとき、主は、「わたしは七千人を残しておく」という主の民との協力関係をも思い起こさせてくださいます。確かに、ひぐまを前にひとりひとりがしっかりと立つという例に倣うのでなければ、敵は引き下がりませんが、自分の力が尽きても神は別の人を立ててくださるという謙遜さも持っていなければ、自分自身が燃え尽きるか、人を振り回すかのどちらかになります。その際、すべてを支配される主(ヤハウェ)の前に立つことこそが、「ひとりでいる」ことと「ともにいる」ことの調和の原点でしょう。そのため主は、「天に雷鳴を響かせ」(詩篇18:13)、また「沈黙」のうちにと、ときに対照的な姿で近づいてくださいます。

 ずっと列王記を駆け足で解き明かしていますが、主が私たちに「かすかな細い声で語られる」ということの由来として19章12節が引用されますが、その解釈の危なさに関して、間接的に以前聞いたことがあり、今回その理由が納得できたしだいです。本当に聖書は、厳密に丁寧に読まないと誤解をしてしまうものですね。とにかく本当に大切なことが改めて教えられました。

 実は、最終的に解釈の上で役に立ったのは、19世紀初めのドイツの作曲家メンデルスゾーンによるオラトリオ「エリヤ」です。今回は、異例の試みでメッセージの中で三回そのオラトリオのCDをみなで聴きました。

 それと個人的には40年前のヒットしたサイモンとガーファンクルの名曲「sound of silence]を何度も聴きながらこの箇所の解釈に関するインスピレーションを受けることができました。歌に表現された心の揺れや葛藤は、現代人の心理を理解する上で本当に参考になります。

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