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2007年8月26日 (日)

ローマ人への手紙7:7-8:11「罪の律法?と生かす御霊」

                                               2007年8月26日

  約25年ほど前、ドイツが東と西に分かれていた頃、私は車で西ドイツの国境を抜け東ドイツに入りました。国境を越えてすぐの東ドイツの道路は広くまっすぐでした。でもすぐに警察に止められ、速度違反で罰金を払わされました。スピードを出しても安全な道路に、ほとんど見えないほどの速度制限の標識をつけながら、彼らは外貨を稼いでいました。それと同時に、自由に慣れた西側の人間を萎縮させ、従順にさせようとしたのでしょう。

同じような解釈を神の律法に当てはめる人がいないでしょうか。神は最初から守ることができない命令を与え、罰によって人間を萎縮させ、従順にさせようとしている、神は意地悪な方であると・・・私はかつて旧約聖書に対して同じような矛盾した気持ちを抱いていました。

たとえば、創世記2,3章の記事を読んで最初に疑問に感じたのは、「なぜ神は、人が食べたくなるような善悪の知識の木の実を園の中央に置いて、人をつまずかせたのだろう・・・」、「それとも神は、これによって人間を脅し、萎縮させようとしているのだろうか・・・。それにしても、神はなぜ、そのように、すぐに罪を犯したくなるような人間を造ったのだろう・・・神は人を欠陥品として造ったのだろうか・・」というような一連のことでした。

実は、それは私だけの疑問ではないようです。パウロがローマ人への手紙7章7節から25節を記した背景には、彼に投げかけられた二つの疑問があったと思われます。その第一は、「律法は罪なのでしょうか?」(7:7)というものであり、第二は、「人間は、生まれながら善ではなく悪ばかりを望んでいるのだろうか・・・」(7:18,19)というものです。つまり、「教えが悪いのか、人間が悪いのか」という疑問ですが、パウロはその両者を否定しています。

1.律法は罪なのでしょうか?

  キリストは私たちを律法の束縛から解放してくださいました。でも、そのように言われると、律法は何か悪いもののように聞こえます。それでパウロは、「律法は罪なのでしょうか?」と問いかけた後で、すぐに、「絶対にそんなことはありません」と強く否定し、律法を擁護します(7:7)。その上で、「私」ということばを敢えて用いながら、アダム以来の人間に共通する傾向を、読者への批判にならないように優しく語ります。

律法の核心は、十戒ですが、その第十番目は、「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」とまとめることができます。それがここでは、「むさぼってはならない・・」です。しかし、彼は、「罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」と不思議なことを言っています。

これは、善悪の知識の木の実の場合を考えると良く分かります。神は、「園のどの木からでも思いのまま食べてよいと豊かな祝福を与えながら、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と、ひとつの例外を設けることで、かえって、神の恵みを意識させようとされました。これは、空気がなくなるということを前提にして初めて、空気のありがたさが分るようなもので、この限界設定は、神のことばに従う中での自由と喜びを教える意味がありました。しかし、そこで蛇は、「この戒めによって機会をとらえ」て女を誘惑し、女の心に、その木の実を欲しくてたまらないという「むさぼりを引き起こし」たのでした。

 そのことが、「罪が私を欺き、戒めによって私を殺した」7:12)と言われます。蛇は、神が「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われた聖なる「戒め」を逆手に取って、人を死の力に服させてしまったのです。

同じことがイスラエルの歴史の中で起こりました。神はイスラエルを周りの国々の罪に染まらない理想的な国に育てようとし、そのために愛に満ちた「御教え」としての「律法」を、モーセを通して授けました。そして、最後にモーセは、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と、分り易い二者択一を迫りました。ところが、身近な異教の女たちはイスラエルの男たちを次々に堕落させ、ダビデの子ソロモンまで堕落させました。つまり、アダムもイスラエルも誘惑に負けて、死を選び取ってしまったのです。

パウロは、改めて、「この良いものが、私に死をもたらしたのですか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって極度に罪深いものになりました」(7:13)という論理を展開します。それは、「神の御教え」、つまり「律法」が人間に死をもたらしたのではなく、罪が人間に死をもたらしたということを敢えて強調するためです。私はモーセ五書、つまり、律法の解説の書のタイトルを、「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って」としました。それは申命記7章7節のみことばであり、律法の要約は、主がイスラエルを恋い慕って与えた愛の教えであるという意味です。しかし、それと同時に、神はかつて弟アベルに嫉妬しているカインに向って、罪は戸口であなたを待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(4:7)と言われました。つまり、神が私たちを恋い慕っておられることが明らかになればなるほど、罪が私たちを恋い慕って、私たちを殺そうとする力が働くというのです。

よく、私たちが新しい地に教会を建てると、必ずサタンも隣に悪霊の基地を建てると言われます。光は常に闇を浮かび上がらせる力があるように、模範的な親のもとでかえって不良が育つという現実さえあるのです。

2.「それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」

その上でパウロは、「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言います。つまり、律法が悪いのではなく、人間にその力がないのです(7:14)。

それでは次に出てくる疑問が、神がイスラエルに律法を与えたのは、「豚に真珠」というような無駄なことだったのだろうか・・ということです。それではイスラエルが悪いのではなく、選んだ神が悪いということになるからです。

しかし、イスラエルは豚のように、最初から律法を軽蔑したのではなく、神の愛のことばとして喜んでいました。そのイスラエルの現実をパウロは、「私」と合わせて覚えながら、「律法を良いものであることを認め」ながら、「私のうちに住みついている罪」が、私を、「したくない悪を行なう」ように駆り立てていると分析しています(7:16-19)。

たとえばあなたは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と聞いて良い気持ちになり、「あなたの罪がイエスを十字架にかけたのです」と言われて落ち込むということがないでしょうか。それは、聖書のメッセージが矛盾しているのではなく、あなたの心の中にある相矛盾する気持ちが反応を起こすのです。私は昔、仕事が思い通りにならなくて自己嫌悪に陥ると、ホテルのスカイラウンジなどに上って食事をしたくなりました。そこで束の間、世界が自分を中心に回っているような気持ちに浸りたかったのです。それは、「僕って、何て駄目なんだろう」と自分を卑下する気持ちと向き合うのが厭だったからでしょう。しかし、パウロはここで驚くほど冷静に、アダムの子孫としての「私」の現実に向き合っており、自分を救いがたい人間だと卑下しているわけではありません。

人によっては、「お前は生きている価値がない・・」という声を心の中に聴き続け、それを誤魔化すために幻想的な成功の夢へと駆り立てられ、失敗し、さらにひどく落ち込むということを繰り返す人がいます。自分を強がって見せる人は、内側に自己嫌悪の思いを隠しているものです。そのような人は、自分ばかりか周りの人を傷つけてしまいます。自己卑下や自己嫌悪は健全な信仰と相容れないものです。何か大きな失敗をしたとき、自分を責める代わりに、自分がアダムから受け継いでいる固有の罪の性質は何なのかを、距離を置いて分析してみると良いでしょう。ある人にとって簡単に自制できることが、あなたにはできないということがあるでしょう。また反対に、ある人にはとてもできない愛の小さな行為を、あなたはごく自然にできるかもしれません。あなたの中には、少なくとも聖書の教えを喜ぶ心が宿っています。しかし、あなたの中には同時に自分でどんなに頑張っても克服できない罪の性質が宿っているのです。あなたが悪いというより、アダム以来の罪の蓄積があなたのうちにあるのです。

なお、ここでパウロは、律法は「聖なるもの・・・霊的なもの」であると言っていながら、「罪の律法のとりこ」などと、別の律法があるかのような表現を用いています。それは、良い教えがかえってその人の絶望感を深めることにしか作用しないという逆説があるからです。あなたも人から正論を言われて、かえって落ち込むということがないでしょうか。教えが正しければ正しいほど、あなたの絶望感が深くなるということがあります。そして、絶望感はかえって、あなたを「罪のとりこ」にします。その意味で、「聖なる律法」が同時に「罪の律法」となっているというのです。

それはすべての人に適用できる原則でもあります。あなた自身が愛されるに価しないのではなく、あなたのうちに住んでいる「罪」が悪いのだと納得することがすべての始まりになります。そして、それがアダム以来から積もっている罪の性質であるならば、人間の力によって勝つことができないのはあまりにも明らかなことです。

「もし私が自分でしたくないことを行なっているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住み着く罪です(7:20)というみことばを心から味わって見ましょう。そこにあるのは、自分の責任を否定する思いではありません。また自分は救いがたい愚か者だという自己卑下や敗北主義でもありません。それは祈りの始まりです。自分で罪に勝つことができないからこそ、神の助けを求め、神にすがるのです。

実際、パウロはここで、「私はほんとうにみじめな人間です」と言いつつ、自分も他の人も、自分を罪の支配から解放することができないことを認めた上で、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」とキリストにある救いを喜び賛美しています(7:24,25)。

3.「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません!」(1節)とは、何という大胆な宣言でしょう。私たちは自分の肉の力によっては、罪の誘惑に打ち勝つことはできません。だからこそ、キリストは私たちを「ご自身のもの」として引き受けてくださいました。そのように私たちは自分を何よりも「キリスト・イエスにある者」として見る必要があります。そして、その者は、もうさばきを恐れる必要はないのです。

  8章2節は、「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法(御教え)が、罪と死の律法(御教え)から、あなたを解放したからです」と訳すことができます。新改訳で「原理」と訳されていることばは、原文では「律法」と同じで、ここだけ別に訳すのは不自然だと思われます。この意味は、私たちが古いアダムの性質に縛られていたときに、「律法」は本来「聖なるもの」なのに、かえって「罪を引き起こし、死をもたらした」(7:8-13)という意味で「罪と死の律法」(2節)になったということです。しかし、キリストはご自身の十字架と復活によって、「罪と死」の力に打ち勝ち、「律法」「罪と死」の力から解放し、それを「いのちの御霊の律法(御教え)に変えてくださいました。

たとえば、私にとって、聖書の最初の五つの書、つまり、モーセ五書は無味乾燥なばかりか自分を落ち込ませるだけの教えでした。しかし、今、それは、「主が私を恋い慕って」おられるという愛の教えに変わりました。同じ教えなのに、その意味が自分にとって百八十度変わったのです。同じことがあなたにも起きていることでしょう。

それは、神が私たちに御霊を遣わし、私たちを内側から造り変えてくださったからです。私たちは、今、御霊に導かれることによって、神の律法を喜び、それを行い、生きる者とされたのです。7章14節で、「律法が霊的なもの」とありましたが、それゆえ律法は神の霊によってしか全うすることができないのです。それは、申命記30:6、エレミヤ31:32,33、エゼキエル36:26,27などに、特に明確に預言されていた通りです。

そのために、神はまずご自身のほうから私たちに近づいてくださいました。それが、ご自分の御子を「罪深い肉と同じような形でお遣わしになり」(3節)ということです。神は私たちの罪をさばく代わりに、罪の根元にある不安や孤独、渇きなどをともに味わう所まで降りてくださいました。そればかりか、私たちのすべての罪を御子に負わせ、「肉において罪を処罰され」、私たちを「罪の奴隷」状態から解放してくださいました。愛は、愛によってしか生まれないからこそ、神はご自身の愛を私たちに溢れるばかりに注ぎ、私たちの内側に神と人への愛を生まれさせて下さったのです。私たちに今、求められていることは、何よりも、この神の恵みのみわざを思い起こすことです。

  ところで、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む・・・・」(4-8節)という教えは、「自分の肉の欲求と戦い、それを殺さなければ・・」という戒めとして読まれがちです。しかし、「御霊による思い」とは、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白させ、私たちのうちに神のみわざへの感謝と、神への愛を起こさせるものです。それに対し、「肉の思い」とは、心の目を自分に向けさせ、欠乏感を刺激するものです。「聖さ」への渇望感と、富や名誉や快楽への渇望感は、「空虚な自分を満たしたい」という自我の欲求という点では同じものかも知れません。

自分を見る前に、あなたを恋い慕ってくださったイエスを見上げ、イエスへの愛の告白を歌うことこそが御霊に満たされた歩みです。「イエスは私の喜び」という曲を記したヨハン・フランクは雅歌を読みながら、イエスとの愛の交わりに思いを潜めました。世が与えてくれる何かではなく、イエスご自身が「私の喜び」だというのです。私は物事が期待通り運ばず、暗い気持ちになるたびにこの歌を口ずさみます。すると世界が変わって見えるのです。

ですから、何よりも大切なのは、自分の欠けを見る代わりに、すでに「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」(9節)という事実を、感謝をもって受けとめることです。なお、9-11節に「もし・・」が続きますが、日本語では「あり得ないことを仮定する」という意味があるため、「もし、あなたが御霊を受けられたとしたなら・・」と読まれることがあります。しかし、この原文は「・・であれば・・である」という事実関係を述べているだけなのです。ここは、敢えてパウロの本来の意図を明確にするなら、次ぎのように訳すことができます。

「あなたがたは、肉の中にではなく、御霊の中にいます。確かに、神の御霊はあなたがたのうちに住んでおられるからです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではあり得ません。ところが、キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(9-11節)

私たちは「クリスチャンになる!」などと、信仰を自分の働きかのように表現しますが、聖書は、私たちの状態を「御霊の中にいる」「神の御霊が住んでいる」「キリストの御霊を持つ」「キリストがうちにいる」と表現します。

これは、キリストに起こったのと同じことが私たちにも実現することを意味します。私たちの目に見える肉体は滅びに向かっていたとしても、私たちの内側には、すでに新しい御霊のいのちが始まっています。私たちはもう、自分に失望する必要はありません。すでに始まった新しいことに、この身を委ねさえすれば良いのです。

イエスは私の喜び」  曲はJohann Crueger 1653  による

朗読  

     「私の愛する方。あなたはなんと美しく慕わしい方でしょう」 (雅歌1:16) 

「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う」   (7:10) 

  

会衆賛美

1.わが喜び わが慰め わが主 イエス      

            この地にあり 思い焦がれつ 主を求む    

 

           

神の小羊 いとしの花婿 わがすべてよ    

朗読

     

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が、罪に定められることはありません。

その人は、肉に従ってではなく、御霊によって歩んでいます。

なぜなら、キリスト・イエスにあって生かす御霊の律法が、罪と死の律法から、

あなたを解放したからです。」                   (ローマ8:1,2別訳) 

会衆賛美 

2.御手のもとに やすらぐわれに 敵はなし   

 

たとい悪魔 力を尽くし 脅すとも        

罪と地獄が われを脅すとも 主はわが盾       

3.悪しき力 たけり狂いて 迫るとも       

          われは立ちて こころ静かに 主に歌う          

       

神の御腕は 確かに伸ばされ われを包む    

朗読 

あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいます。神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに

住んでおられるからです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。           

          キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、

霊が、義のゆえに生きています。            

今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられる

        のです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおら

れるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」 (ローマ8:9-11私訳)                         

会衆賛美

4.別れ告げよ 世の誉れや 世の栄          

       主イエスこそは すべてにまさる わが誉れ     

 

        恥も悩みも われを主イエスより 引き離さじ   

5.とわに眠れ! この身駆り立つ 世の力     

          死からイエスを よみがえらせし 主の御霊     

 

          わが内に住み、死ぬべき身体を 生かしたもう。

 

6.  去れ!悲しみ。喜びの主 イエス来ます。    

          主を思わば 悩みのうちに 安きあり       

          わが苦しみを ともに担う主は わが喜び。

    

 “Jesu meine Freude” Johann Franck 1653 からの翻訳 みことばはJ.S.Bachのモテットを参照 高橋秀典

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2007年8月20日 (月)

箴言5-7章(朗読5:1-6:11)「ギャンブル的信仰」

                                                2007年8月19日

「信仰によって歩む」という中に、確かに、「不可能を可能としてくださる全能の神に信頼して、積極的に歩む・・」という意味が込められています。ただそれが、「最悪の事態にも備える」ということを否定する思いになると危険です。実際、少し前まで、保険への加入を「不信仰!」と否定する宣教団体があったとも聞いています。

誤った積極志向の信仰心ほど危険なものはありません。たとえば、第二次大戦中、もっとも愚かで悲惨な作戦の代表例はインパール作戦だと言われます。家内の父はそこからかろうじて帰還しました。それはビルマからインド東北部のインパール占領を目指した戦いでした。補給路も空輸力もない中、兵隊ひとりひとりに四十キロの弾薬と食料を携行させ、イラワジ支流のチンドウィン川を越え、標高二千メートルが連なるアラカン山系に踏み入らせ、一ヶ月で敵地を占領し、食糧は敵から奪うという無謀な作戦でした。牟田口司令官は、「本作戦は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戦である。食料は敵によることが本旨であるから、各軍団はその覚悟で奮闘せよ」と、慎重論を押さえ込みました。ところが奇襲攻撃のはずが、すべてのことが英軍に事前に知られ、大敗北を喫し、撤収作戦が作られます。それは、自決用の手榴弾と米半合を持たせて、各自の判断で生き延びさせるというものでした。その間、作戦参加の 85,600人中 7万人以上が、ほとんど餓死や病で命を落とし、日本軍の撤退路は白骨街道と後に呼ばれることになりました。

信仰は可能性にかけて無謀な冒険をすることとは違います。そのような信仰はギャンブルと同じではないでしょうか。イエスも、「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な費用があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちひとりでもあるでしょうか・・・」(ルカ14:28)と問われました。むしろ、「信仰」とは、報いが期待できないような中でなお、日々の勤めを誠実に果たす気力を与えるものです。それは、「主に信頼して善を行え、地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:3,4)とある通りです。

1.「あなたの終わりに・・あなたは嘆くだろう」

 箴言5章と6章20節から7章までは、若者が性的誘惑に負けて身を持ち崩すという危険が警告されます。最初に、「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりなめらかだ」(5:3)という魅力に負けて、家を滅ぼす悲劇が記されます。「他国の女」とは、厳密には「よその女」と記されていますから、異教徒の女を妻としたソロモンの思いと矛盾するわけではないのでしょうが、広い意味では、彼はここにある失敗をそのまま犯しました。彼は、多くの外国の女たちを「愛して、離れなかった」ために、その心が他の神々に向けられました。しかも神から二度も警告を受けながら、妻たちの神々から離れなかったため、さばきを受け、ダビデから受け継いだ王国を分裂させることになったからです(Ⅰ列王記11:1-8)。彼は分かっていながら止められませんでした

ソロモンはここで、あなたの終わりに、あなたの肉とからだが滅びるとき、あなたは嘆くだろう。そのときあなたは言おう。『ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。私は私の教師の声に聞き従わず、私を教える者に耳を傾けなかった。私は、集会、会衆のただ中で、ほとんど最悪の状態であった』と」(5:11-14)と言っていますが、この嘆きは彼の生涯の終わりに、彼自身のものとなったのではないでしょうか。彼は聖書に精通していましたから、自分の心に警告を受け続けていたはずです。しかし、彼は心の中で、「私は大丈夫だ!外国の女を召し抱えても、その神々に心を奪われるほど愚かではない・・・」と自負していたことでしょう。

すべての依存症は、「私はいざとなったら、自分の欲求を制御できる」と自負することから始まります。それに対し、依存症の癒しは、「私には自分の欲求を制御する力がない・・」と認め、神と人との助けを求めることから始まります。それはあの使徒パウロが、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行なっています・・私は本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう」自分の無力さを嘆きながら、しかし同時に、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と、主の救いを喜んだことと同じです(ローマ7:19-25)。

6章20節からは人妻の誘惑に負ける若者のことが描かれます。「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな」と記され、「これはあなたを悪い女から守り、見知らぬ女のなめらかな舌から守る」と言われます。私は北海道の大雪山のふもとの貧しい農家に生まれましたが、母はよく私に、「町の女に騙されないように気をつけなさい」と言っていました。そのことばが思い出されます。ただ、その町とは旭川市のことですが・・・。

7章7節からは、「思慮に欠けたひとりの若い者」が、人妻に誘惑される様子が描かれます。それは、「この女は彼をつかまえて口づけし、臆面もなく彼に言う・・・『夫は家にいません。遠くへ旅に出ていますから・・・満月になるまで帰ってきません』と・・彼はほふり場に引かれる牛のように・・ただちに女につき従い・・自分のいのちがかかっているのを知らない」という生々しい情景です(7:13-22)。そして、「彼女の家はよみへの道、死の部屋に下ってゆく」(7:27)と結論付けられます。彼は、ほんの一瞬だけ、はめをはずして楽しんでみようと思ったところから、完全な破滅に至ったのです。こんなとき、人は、「私は途中で引き返すことができる!」と自信を持っています。しかし、一度、誘惑に負けてしまったら、死に至るまで戻ることができないという道もあるのです。これは女性の誘惑に限りません。私たちは誰でも、何らかの誘惑に「はまってしまう」傾向を持っています。ソロモンのように豊かな知恵があっても、戻ることができませんでした。「私は大丈夫・・」という思いは、自分を過信するギャンブル的信仰でしょう。

2.「あなたの泉を祝福されたものとせよ」

誘惑への対策として、「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から」(5:15)と勧められます。具体的には、「あなたの若いときの妻と喜び楽しめ・・いつも彼女の愛に夢中になれ(5:18,19)ということです。それは、よその女の中に「新たな喜びを求める」のではなく、今ある妻との関係の中で、「喜びを深める」ことを意味します。「夫婦の幸せは、組み合わせがよければ自動的に生まれる・・・」というのは幻想に過ぎません。そう思う人は、次々と新たな伴侶を求めたくなることでしょう。そればかりか、「自分の幸せは相手次第・・」という発想の人は、自分で次々と関係を切って行きますから、やがて誰からも相手にされなくなります。「幸せ」は、永遠の愛を誓った伴侶を、愛し、尊敬する結果として、与えられるものです。これはすべてに適用できる原則です。自分の責任から逃れて幸せになれる人はいません。それが、「あなたの泉を祝福されたものとせよ!」という命令です(5:18)。

「あなたの泉」とは、今ある家族であり、友人であり、職場であり、教会ではないでしょうか。ある方がマザー・テレサに、「イエスが教会の代表者であるなら、教会は違った顔を見せ、もっと模範的になるべきではないでしょうか?」と尋ねたところ、マザーは、「それではお尋ねしますが、教会とは誰のことなのでしょうか?あなたたちや私なのです・・・教会とはイエスに従う人たちなのです・・私たちは愛に飢えた人たちに囲まれて暮らしています。私たちは彼らに愛を与えなければならないのです」と答えたとのことです。あなた自身に、「祝福されたものとせよ!」と命じられています。幸福の青い鳥は、遠い所ではなく身近な所にあるとの童話がありますが、私たちは、今ここで、幸せになることができます。与えられた泉を軽蔑し、よその泉から祝福を求めることはギャンブル的な信仰です。

3.「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる」

 「わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をし、あなたの口のことばによってあなた自身がわなにかかり・・捕らえられたなら・・」(6:1,2)とありますが、箴言では繰り返し、軽はずみに他人の保証人となることが戒められています。それは、「他国人の保証人となる者は苦しみを受け、保証をきらう者は安全だ」(11:15)とか、「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる」(17:18)、「あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない」(22:26)などと記されている通りです。

しかし一方で、「良きサマリヤ人」のたとえでは、他国人である彼が、強盗に襲われたユダヤ人を助け、宿屋に連れて行って介抱し、出がけに、十分な手当ての費用を宿屋の主人に払ったばかりか、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」保証した姿が、模範として記されます(ルカ10:35)。また、創世記では12部族の中でユダが主導権を持ったきっかけが記されています。エジプトの宰相となっていたヨセフは、正体を隠しながら、兄たちに弟のベニヤミンを連れて来なければ人質のシメオンを返さないし、食糧も与えないと脅します。しかし、父のヤコブはベニヤミンを連れて行かせることを渋りました。そのときユダは、「私自身が彼の保証となります(43:9)と言ったばかりか、ベニヤミンが捕らえられたとき、「このしもべをあの子の代わりに奴隷としてください」と身代わりを願い出ました。つまり、ユダ族繁栄は、ユダがベニヤミンの保証人、身代わりとなったことから始まったのです。

聖書は、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました・・ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっていることでしょう」(Ⅰヨハネ3:16)と記します。しかし、この場合の「愛」とは、見返りを期待せずに援助するということを意味しています。ところが、私たちが保証人となる場合、「いのちを捨てる」までの覚悟を決めて人を助けるというよりは、「この人は大丈夫・・・」という希望的観測があると思われます。ですから、裏切られたと思うときそれが恨みに転じます。

私たちは人との関係を築く際に、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない(心は何よりも欺くもので、癒しがたい)(エレミヤ17:9)というみことばをも、同時に覚えるべきでしょう。私たちはそれぞれ、「私の中には、いざとなったら何をしでかすか分らない罪の性質が宿っている・・」と自覚するからこそイエスにすがっています。それなのに、人を安易に信頼できるのでしょうか。覚悟を決めずに保証人となるのは、ギャンブルと同じでしょう。

4.「なまけ者よ。蟻のところに行き、そのやり方を見て知恵を得よ」

 「なまけ者よ。蟻のところに行き、そのやり方を見て知恵を得よ」(6:6)とありますが、蟻は、「夏のうちに食物を確保し」という準備を怠りません。蟻とキリギリスなどの童話にもあるように、蟻は暑い最中に働いて冬の分までの食料を確保するので、昔から「勤勉」の代名詞とされています。一方、「なまけ者」の行動については、26章13-16節にも記されています。そこで、怠け者は「道に獅子がいる」などと言い訳がすぐに口から出るとか、「なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも自分を知恵ある者と思う」と記されているのは見事な描写です。本当に、彼らの中では、「自分は働かなくても大丈夫・・」というそれなりの理由が成り立っているというのです。

ところで、「蟻には首領もつかさも支配者もいない」(6:7)という記述が疑問視されることがあります。蟻の社会には、女王蟻、働き蟻、兵隊蟻などのカースト制と呼ばれるような区分があり、一致して戦争もするからです。しかし、やはり、蟻の社会では統一行動のための命令系統があるわけではなく、それぞれが自分の役割を果たしながら自然に統制がとれているという不思議が確認されています。しかも、働き蟻の中にも、一定割合で働かない蟻がいて、それを除いてもまた次の働かない蟻が一定割合出てくるという不思議もあるようです。日本の集団性はしばしば、例外を認めない強制力がありますが、蟻は決して強制されて働いているわけではありません。ひょっとしたら、交代で休暇を取っているのでしょうか?とにかく、強制されることも脅されることもないのに準備を怠らない、それが蟻の不思議です。

 「なまけ者よ。いつまで寝ているのか」と言われますが、働かない「働き蟻」も、寝てはいません。そして、「しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む」という者に、「あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る」と警告されます。パウロも、キリストの再臨に関しての様々な空想的な議論をしている人々に対し、「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身をいれ、自分の手で働きなさい」(Ⅰテサロニケ4:11)と命じ、また、「働きたくない者は食べるな」と戒めています(Ⅱテサロニケ3:10)。また、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)と語っています。

  この世界では、いいかげんな生き方をしている人が豊かになり、まじめに働いても労苦が実を結ばないという不条理があります。それを見て、汗を流して地道に働くことを馬鹿らしく思う人や、働かずに暮らして行ける道を夢見る人も生まれます。しかし、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」(Ⅱコリント5:10)とあるように、私たちのためにいのちを捨ててくださった方は、それぞれの働きを正当に評価してくださいます。そして、それと同時に、「堅くたって、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と約束されています。ギャンブル的な信仰に別れを告げましょう。自分の弱さを自覚し、人に幻想的な期待も抱かず、蟻のように勤勉に生きて、「あなたの泉を祝福されたものとする」、それこそが、神から喜ばれる信仰生活です。

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2007年8月15日 (水)

Ⅰ列王記20章~22章 「主(ヤハウェ)の怒りを引き起こす生き方」

                                               2007年8月12日

  聖書に記される悪王の代表はアハブですが、彼が今の日本にいたら尊敬を集めたかもしれません。彼の罪に関しても、「手を下したのは奥さんだった」と言われたことでしょう。彼は北王国七代目の王で、王家が頻繁に代わり混乱していた王国に安定と繁栄をもたらしました。彼は、首都サマリヤに象牙の家を、またイズレエル平原にも冬の宮殿を建て、シドンの王女イゼベルを娶って地中海沿いの都市国家と同盟関係を強め、北のアラムとの二度の戦いに勝利し、また南のユダ王国の模範的な王ヨシャパテの家と縁を結び、そしてアッシリヤ王国の記録によると、紀元前853年のカルカルの戦いでアッシリヤの南下を阻止する中心勢力として活躍しました。そのような彼の成功の鍵は、何よりも周辺の国々との宗教的融和をはかり、その場の状況に柔軟に対応したからとも解釈できます。しかし、彼は最も恐ろしい方「主(ヤハウェ)の怒りを引き起こし」、北王国ばかりか南王国滅亡の道を開きました。

1.「わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから・・・」

 アハブは、近隣の豊かな国との同盟強化のため、シドンの王女イゼベルを娶り、その地に「行ってバアルに仕え、拝んだ」ばかりか、イスラエル王国の都サマリヤにバアルの宮と祭壇を築き、バアルと一対の関係にある女神アシュラの像も造りました。そのことを聖書は、「こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますます、イスラエルの神、主(ヤハウェ)の怒りを引き起こすようなことを行なった」と記しています(16:31-33)。その結果、三年間の飢饉が訪れました。その飢饉を終わらせたきっかけは、エリヤがカルメル山でバアルの預言者450人に劇的な勝利を修めたことにありましたが、エリヤのことばに従って彼らを集め、その舞台を設定したのはアハブ王自身でもありました。アハブはこのとき誰よりも、(ヤハウェ)の御力に圧倒されたことでしょう。しかし、彼がバアルの敗北を妻イゼベルに伝え、彼女がエリヤの命を狙ったとき、アハブは黙って妻に従ったように思われます。

ところでその頃、北王国イスラエルはその北の王国アラムからの攻撃に悩み続けていました(15:20)。そして、ついにアラムの王ベン・ハダテは首都サマリヤを包囲するまでに迫りました。このときアハブは自分の劣勢を素直に認め、無益な戦いを避けようと、「この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです」(20:4)と彼に服従を誓います。何と柔軟なことでしょう。しかしアラムの王は、「あすの今ごろ、私の家来を遣わす」と、好き放題に略奪することを通告します(20:6)。これでは国が立ち行きません。アハブは切羽詰り、国の長老たちを集め、アラムとの戦いを決意します(20:7、8)。アラムの王は、「サマリヤのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら・・」と、サマリヤが彼の家来によって跡形もなくされると警告し、アハブは、「武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない」と、戦いは終わってみないと分らないという趣旨の賢いことばで応じます(20:10、11)。アハブは愚かではありませんでした。一方、アラムの王は酒を飲みながら戦いの開始を告げるほどに傲慢でした。

  そこで、主(ヤハウェ)はひとりの預言者をアハブに遣わします。エリヤはかつて、「ただ私だけが残りましたが・・」と大げさに主に訴えていましたが(19:10,14)、主は別の預言者を確かに残しておられました。そして主は彼を通してアハブに、「あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主(ヤハウェ)であることを知ろうと言われます。彼が、「それはだれによってでしょうか」と尋ねると、「諸国の首長に属する若い者たちによって」という答えがありました(20:13、14)。「若い者」とは、かつてゴリヤテと戦ったときの「ダビデが若くて、紅顔の美少年であった・・」(Ⅰサムエル17:42)と呼ばれたような、未熟な者たちを指します。彼らの総数は232人で、その他の民の総数も七千人しかいませんでした。一方、アラムの軍は、32人の王と馬と戦車」という大軍勢でした。しかし、アラムの王は酔っ払いながら、イスラエル人をみな「生け捕りにせよ」という無理な要求を部下たちにするほど、彼らの戦力を侮っていました。一方、イスラエルの若い者たちは「おのおのその相手を打った」とあるように勇敢に戦い、その結果、「アラムは逃げ・・・ベン・ハダテは馬に乗り、騎兵たちといっしょに、逃れた」という大勝利になりました(20:18-20)。これはもちろん、主がもたらした勝利でしたが、アハブが素直に預言者のことばに従った結果とも言えましょう。彼の柔軟さは、何とも感心するほどです。

 その後、「あの預言者」がアハブに、来年の今ごろアラムが再び攻撃して来ることを告げます。一方、アラムの王の家来たちは、サマリヤの町が山の上にあったことから、「彼らの神々は山の神です」と言いつつ、平地で戦うなら勝利できると言います。そしてアラムの王は、より強力な指導体制を敷いて、ガリラヤ湖の東側のアフェクにまで陣を進めてきました(20:22-26)。これに対抗してイスラエルも陣を敷きますが、「ひとりの神の人」がアハブに、「アラムが、主(ヤハウェ)は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主(ヤハウェ)であることを知るであろう(20:28)と告げます。この最後の文は13節とほぼ同じで、ここに主がアハブとイスラエルを助けることの目的が記されています。

そして、両軍が向かい合って七日目になって、戦いが始まり、イスラエルは一日のうちにアラムの歩兵十万人を打ち殺したばかりか、生き残った二万七千人の上にアフェクの城壁がくずれ落ちるということがありました。これはかつてのエリコの戦いの再現のような大勝利でした。アラムの王はアハブに命乞いをします。このときアハブはこれが主(ヤハウェ)の戦い、主の勝利であったことを忘れます。彼は、相手の低姿勢に気をよくし、主のみこころを伺うことなく、勝手に和議を結びます(20:34)。それは奪われていた町々が帰ってくることと、アラムの首都ダマスコでイスラエルが市場を設けることができるという条件が魅力的だったからです。しかも、王を殺してしまってはアラムの国に混乱が起き、市場を設けて利益を得るということの障害になります。アハブは戦いの本来の意味などよりは、目の前の経済的な利益を優先して考えました。これは戦後の日本の政治の現実と重なっていないでしょうか。

  そこにひとりの預言者が、「主(ヤハウェ)の命令」によって登場し、自分の仲間に「私を打ってくれ」と願いますが、彼がそれを拒絶すると「あなたは主(ヤハウェ)の御声に従わなかったので・・すぐ獅子があなたを殺す」と警告し、その通りになります(20:35、36)。その後、この預言者は別の仲間に傷を負わせてもらい、目の上に包帯をし、通りかかった王に向って、戦争捕虜を逃がした罪がどのように裁かれるべきかを問います。アハブは問いの意味を理解しないまま、それが死刑に価すると断言します。するとこの預言者は、主(ヤハウェ)のことばとして、「わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる」という死の宣告を伝えます(20:42)。すると「王は不きげんになり、激しく怒って、自分の家に戻って行き、サマリヤに着いた」(20:43)というのです。彼の反応は極めて幼児的です。これだけ明確に自分の過ちが指摘され、また彼自身も自分の過ちを認めているはずなのに、主の御前にへりくだろうとはしません。ダビデが預言者ナタンから罪を指摘されたときとは正反対です。アハブは、かつてカルメル山で、恐るべき主からの火を見ても、またここではこれほど圧倒的な主の救いを見ても、イスラエルの真の王が主(ヤハウェ)であることを認めようとはしませんでした。主はアハブを助けることで、二度に渡って、「あなたは、わたしこそ主(ヤハウェ)であることを知ろう」と言われましたが、彼は自分の損得勘定を見ようとしかしていません。アハブは自分の身が危険にさらされていると思えるときは驚くほど柔軟に現実に対処します。しかし、主のあわれみによって与えられたものは、自分の力で獲得したと思い込んでしまいます。脅しには敏感に反応し、受けた恵みはすぐに忘れる。それこそがアハブでした。

2.「アハブのように、裏切って主(ヤハウェ)の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。」

  「このことがあって後のこと」(21:1)とは、アハブがアラムに対する二度の大勝利によって権力の絶頂期にあったときです。彼はイズレエルにある冬の宮殿のそばにあるナボテのぶどう畑が欲しくなり、取引を申し出ます。これは当時のカナンの王国の常識では聞き届けられるはずのことですが、ナボテは、「主(ヤハウェ)によって、私にはありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは」(21:3)と拒絶しました。イスラエルの真の土地の所有者は主(ヤハウェ)ご自身であり、それは家族ごとに管理を任せられていたに過ぎないもので、土地を商品のように扱うことは律法に反したからです。アハブは民衆の手前、それで何も言えなくなり、先と同じように幼児的な反応を示し、「不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家に入った」ばかりか「寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとしなかった」ほどでした(21:4)。それを見た妻のイゼベルは、まるで母親のように振る舞い、「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう・・・この私が・・・手に入れてあげましょう」(21:7)と即座に答えます。シドンの王女の感覚では、王が家臣の拒絶に黙って引き下がるなど、あってはならないことでした。

それにしても彼女は、ナボテを死刑にするためには、イスラエルの律法を巧妙に利用します。アハブの名でその町の長老たちに手紙を書き、ナボテを民の前に引き出し、偽証者をふたり立てさせ、「ナボテが神と王をのろった」と証言させ、彼を石打にして殺すように計ります(21:8-14)。これがその通り実行された後、アハブはナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行きます。この忌まわしい計画を立案し、実行したのはイゼベルです。彼が裁判に出たら、「私の妻がやったことなので・・」とでも言い訳したことでしょう。アハブは民衆の手前、ナボテが正論を言ったときそれを受け入れざるを得ませんでした。彼は自分の評判を気にし、徹底的な悪人であるとは見られたくなかったのでしょう。イゼベルはそのことばにならないことばを受け止め、悪役を買って出たのかもしれません。

この構造は、ダビデがウリヤを死に至らしめたときのことに似ています。彼はバテ・シェバが欲しくなり、彼女を自分のものにしました。しかし、民衆の手前、律法に公然と違反するわけにいきません。それで偽装工作を思いつきますが、失敗すると汚い計略を思い付き、それを将軍ヨアブ実行させ、その実だけは自分で受け取りました。

罪の構造にはすべて似た面があります。すべては、「隣人のものを欲しがってはならない」という十番目の教えに反したところから始まります。その上で、アハブの場合、「盗んではならない」という第八の教えを軽蔑し、自分たちの権力を乱用してナボテの土地を自分のものにしようとはかりました。十の教えは、何よりも、当時の国々の権力者が社会的弱者の権利を平気で侵すことを戒めることにありましたが、彼らは主のみこころをまったく理解していませんでした。しかも彼らはイスラエルの長老たちをこの罪の中に招きこみ、「偽りの証言をしてはならない」という第九番目の教えを破らせてナボテを罪に定め、「殺してはならない」という第六番の教えを他人の手を使って破りました。王が自分の権力を使って人に罪を犯させるなどというのは主(ヤハウェ)が最も忌み嫌われることです。

そのとき主のことばがエリヤにくだり、アハブに、「あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ・・犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる」(21:19)と告げるように命じられます。罪を実行したのはイゼベルですが、それはアハブの意に添ってのことで、彼はナボテのぶどう畑を最終的に自分のものにしようとしたからです。このときアハブはエリヤに会うと、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ」(21:20)と言います。本来、権力者であるアハブがエリヤを敵と呼ぶなら、「ついにお前を見つけたぞ!」と喜ぶはずなのに、彼は自分を見つけ出される側に置いています。それは彼がエリヤの力を恐れていたしるしです。アハブの心はいつも恐れにとらわれていました。しかし、もっとも恐れるべき方、主(ヤハウェ)を彼は忘れていたのです。エリヤはそれに対し、「あなたが裏切って主(ヤハウェ)の目の前に悪を行なったので、私は見つけたのだ」(21:20)と答えますが、この最後のことばは「主(ヤハウェ)」で終わっています。そして、21節からのことばでの「わたし」とは主ご自身がエリヤの口を通して語ったことです。そこにはアハブの家の滅亡と同時に、妻イゼベルの肉がイズレエルの領地で犬の餌となるという悲惨な預言が述べられ、それが後に、その通り実現します(Ⅱ列9:36)。

  そして「アハブのように、裏切って主(ヤハウェ)の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである」(21:25)と記されます。この夫婦はイスラエルでは悪人の代名詞のようになっています。しかも、罪の主導権は妻の方にあったというのが示唆に富んでいます。箴言の最後は、主(ヤハウェ)を恐れる女を妻とすることの幸いが描かれています。一見しっかりした男性も妻によってどうにでも変わるという現実があります。ただし、そこでも「しっかりした妻をだれが見つけることができよう」と男性の主導権が強調されています。

  ところが「アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また打ちしおれて歩いた」(21:27)とあるように、自分の罪を悔い改める姿勢を見せたというのです。彼は脅しには極めて敏感に、柔軟に反応するからです。彼は無節操な人間の典型でしょうが、敢えて言うと一貫性がないわけではありません。いつも目の前の恐怖に受動的に反応します。しかし、自分が何のために生かされているかというような使命感に関してはまったく無頓着ではないでしょうか。日本人に極めて多いパターかも知れません。

ところが、それを見た主は、この赦し難いアハブの罪に対して、それにふさわしい報復をすることを思いとどまるとエリヤに告げられました。まさに、「主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22,23)とある通りです。しかし、アハブはこの恵みを理解できたのでしょうか。ダビデの悔い改めとは対照的に、アハブの基本的な態度はその後も変わりません。彼は驚くほど主の恵みをたくさん受けますが、いつもそれを無駄にします。

3.「彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります」

 イスラエルがアラムと契約を結んで三年間、両国の戦いはありませんでしたが、アラムは二度の敗北にも関わらずヨルダン川東側にある国境の町ラモテ・ギルアデを返還してはいませんでした。それでアハブはユダの王ヨシャパテの助けを受けてアラムに戦いを挑みます。なおヨシャパテは「アサの心は一生涯、主とまったくひとつになっていた」(15:14)とまで描かれたアサの息子で、アハブの第四年に王となり、アハブと同時代を生きながら、「主(ヤハウェ)の目にかなうことを行い」(22:43)とあるように尊敬すべき王でした。ただ、北王国イスラエルとの友好関係を保つことに気を配りすぎて、アハブの娘を自分の息子のために娶るなどということをしてアハブに振り回されました。

彼はイスラエルを訪問したとき、アハブの提案を聞きますが、その際、「まず(ヤハウェ)のことばを伺ってみてください」(22:5)と頼みます。するとアハブは四百人の預言者を召し集めますが、これは主の預言者とは記されていず、カルメル山の戦いに出なかったアシェラの預言者である可能性もあります(18:19参照)。とにかく彼らはアハブが気に入ることだけを言うような者たちでした。それに気づいたヨシャパテは「ここには・・(ヤハウェ)の預言者がほかにいないのですか」と尋ねます。アハブは、「ほかにもうひとり、私たちが主(ヤハウェ)のみこころを求めることができる者がいます」と言いながら、「私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかり預言するからです」とも言います。それでもヨシャパテの要望を聞き入れ、イムラの子ミカヤを召し出します(22:7-9)。

そのとき「ケナアナの子ゼデキヤは、王のために鉄の角を作って」「主(ヤハウェ)はこう仰せられます」とアラムを絶滅することが主のみこころであると語り、他の預言者も似たような勇ましいことを語っていました。しかも、ミカヤを呼びに行った使いの者でさえ、「あなたもみなと全く同じように語り、良いことを述べてください」と依頼するほどでした(22:11-14)。しかし、都合の良いことだけを告げる預言にどんな意味があるというのでしょう。彼らは預言のことば自体に将来を開く力がある?と思っているかのようです。これは日本人にも馴染みのある「言霊(ことだま)思想」に似ているのかも知れません。語られたことばに力が宿って、その言葉通りのことが実現するという考え方です。しかし、それは預言者の使命が神のことばを伝えることにあるという基本から外れた堕落です。預言は何よりも人の過ちを正すことに意味がありますが、アハブは自分の意に添わないことにはすぐに「不機嫌になり、激しく怒ってしまう」というような態度を取り続けました。それゆえ彼は、自分から敢えて盲目になることを願ったと言えましょう。

  ミカヤはそれに対し、「主(ヤハウェ)は生きておられる。主(ヤハウェ)が私に告げられたことを、そのまま述べよう」と語りますが、王の前に出るとまず、不思議にも、明らかに他の預言者を真似た調子で、「攻め上って勝利を得なさい」と言います(22:14,15)。それは聞きたいことだけを聞こうとするアハブの姿勢を皮肉った調子だったことでしょう。アハブはそれを咎め、「いったい、私が何度あなたに誓わせたら・・主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか」と言います。それでミカヤが、「全イスラエルが・・飼い主のいない羊の群れのよう・・」と言うと、彼はヨシャパテに向って、「彼は私について・・悪いことばかり預言する・・」と自分の不満を分かちます(22:16-18)。彼のような人が身近にいないでしょうか。「私は真実を聴きたい・・」などと迫る人に限って、真実を聞く耳を持っていないということがあります。自分の真実を聞く用意のある人は、そんなことを口にしなくても、自分への諫言が聞こえてくるものです。たとえばダビデの場合は、家来たちが自由に彼に意見を言うことができる雰囲気がありました。

  それにしてもミカヤはここで、途方もないことを述べました。それは、主(ヤハウェ)ご自身が、「だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか」と提案し、それにしたがって、「ひとりの霊」が、「彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります」と答えたというのです(22:20-22)。つまり、ミカヤは先に敢えて、偽りを言う預言者として振舞って見せたということでした。これを聞いたゼデキヤはミカヤの頬を殴りつけます。彼が怒ったのも当然のことでしょう。神は偽りを敢えて言わせるというのでしょうか?かつてサウルに関して、「主(ヤハウェ)の霊はサウルを離れ、主(ヤハウェ)からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」(Ⅰサムエル16:14)という不思議な記述がありましたが、それと同じことが起こっています。これは、まるでサウルやアハブが主のきまぐれに振り回されているかのようですが、彼らは何よりもまず自分の方から主の語りかけに耳を塞いだということを忘れてはなりません。現実的には、アハブ自身が偽りの慰めを求め、主は彼の心の願いに答えられたに過ぎないのです。

  その後、アハブはヨシャパテに、「私は変装して戦いに行こう。でもあなたは、自分の王服を着ていてください」(22:30)という卑怯な提案をします。ヨシャパテはそれに従い、一度はイスラエルの王と間違われて攻撃を受けますが、主にあって逃げ切ることができました。一方、アハブには何気なく放たれた矢が鎧の隙間を突き抜け、致命傷となります。しかも彼の血は戦車の中に流れ、それをサマリヤの池で洗うことで、彼の血を犬がなめることになるというエリヤの預言が成就します。アハブはミカヤの預言を偽物と断じながらも、それを恐れていたのではないでしょうか。それなら、主にきちんと向き合うべきなのに、中途半端な偽装工作で主のことばから逃げようとしただけでした。しかし、だれが主の手から逃れることができるでしょう。それは預言者ヨナが主の御手から逃れようとして引き戻されたことと似ています。ただし、ヨナは悔い改めましたが、アハブの悔い改めはその場かぎりのことでした。

  アハブは、主のあわれみによって一時的な繁栄を享受しましたが、神の国の根幹を揺るがせました。彼はいつもその場かぎりの解決を求め、国の方向を見ていませんでした。彼の外交政策は後のアッシリヤ攻撃を招く要因になっています。また敬虔な王、南王国ユダのヨシャパテを通してユダ王国の堕落の原因ともなり、ヨシャパテの孫は、「彼もまたアハブの家にならって(ヤハウェ)の目の前に悪を行った」とさえ記されます(Ⅱ歴代誌22:4)。

アハブの心は私の中にも生きています。この世との融和を計って、主の怒りを買ってはすべての「のろい」の源となってしまうということを決して忘れてはなりません。アハブは、一時的な「みせかけの平和と繁栄」をもたらしましたが、その無節操さによって国の根本を歪めてしまったのです。この世の人々には理解されても、根本において「主の怒りを引き起こす」ような生き方は周りの人々により大きな悲惨をもたらします。アハブは身近な存在です。

  私たちの主イエスは、その公生涯の初めに四十日間の悪魔の誘惑を受けられました。それは創造主である神を忘れてパンを求めること、悪魔を拝むことと引き換えにこの世の権力と栄光を手にすること、また奇跡によって人々の称賛を得ようと、主人であるはずの神を、思い通りに動かそうとすることでした。これとは反対に、アハブは、飢饉になってパンがなくなっても神に立ち返ろうとはしませんでした。また、バアルを拝むことで権力と栄光を手にしようとしました。また、自分の望みどおりの預言を引き出して戦いに勝利しようと計りました。彼にとっては、経済的繁栄、この世の権力、人々の称賛の三つがすべてでした。そしてアハブは史上最悪の王として人々から忌み嫌われています。一方、私たちの主イエスは、自らすべてを失う十字架の苦しみを忍びました。しかし、神はイエスを三日目に死人の中からよみがえらせ、すべての名にまさる名を与え、彼を「王の王」、「主の主」として立ててくださいました。そして、「イエスを主」と告白するすべての人のうちには、このキリストの心が宿っているのです。 

私たちの内側には、アハブの心とキリストの心との戦いがないでしょうか?私たちの真の敵は、この心の内側に住んでいます。しかし、アハブの歩みを見ると、敵の実体が良く見えてきます。そして、私たちが「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」(ヘブル12:2)で生きるなら、最終的な勝利は保証されています。

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2007年8月 6日 (月)

Ⅰ列王記18、19章「外に出て、主(ヤハウェ)の前に立てー神の沈黙の声とは―」

本日の記事は、聖書のもっとも劇的な物語のひとつです。エリヤの驚くべき勇気とその後に起こった激しいうつ状態の対比が興味深く感じられます。燃え尽きとか「うつ」ということばが多用されていますが、三千年前の信仰の勇士に起こった心の揺れは、そのまま現代の私たちへの慰めと導きになります。

                                                                                                  2007年8月5日

 ひとりひとりが使命を大きくとらえるのでなければ、二歳児がバスに取り残されたまま熱射病で死ぬなどという悲劇が繰り返されかねません。一方、「ただ私だけが・・」という意識が高じてしまうと、自分が息詰まるか、まわりの人が息詰まるかのどちらかになります。この調和の鍵は、自分の外に出て、主の前に立つことではないでしょうか。それとともに、カルメル山では天からの「主(ヤハウェ)の火」をもってエリヤの祈りに答えられた神が、シナイ山では「かすかな細い(沈黙の)声」で憔悴したエリヤに語りかけられたという不思議をセットにして覚えたいと思います。この対照的とも言える神の栄光の現われの中にどのような調和が見られるのか、私は今まで気がつきませんでした。

1.「私が仕えている万軍の主(ヤハウェ)は生きておられます。」

 エリヤはツァレファテのやもめによって養われながら、その一人息子を主によって生き返らせました。それから三年目、主はエリヤに、「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう」(18:1)と言われます。その頃アハブ王と王宮をつかさどるオバデヤは、長い飢饉への対処として、手分けして家畜の牧草地を捜しに出かけました。「オバデヤは非常に主(ヤハウェ)を恐れ」(18:3)る人で、女王イゼベルによる迫害の中で、主(ヤハウェ)の預言者百人をパンと水とで養っていたほどでした。そのオバデヤの巡回中に、「エリヤが彼に会いに来」(18:7)て、アハブへの取次ぎを求めます。そのときオバデヤは、自分がそのことでアハブ王の逆恨みを受けることを恐れます。それは主がエリヤをアハブの攻撃から守っておられることを知っていたからです。彼はエリヤに「あなたの神、主(ヤハウェ)は生きておられます」(18:10)と言いつつ、自分がエリヤの居場所を教えても主がエリヤを隠すので、自分が王の怒りを受け命の危険にさらされると言います。なおその際、オバデヤ自身の口を通して、彼が主の預言者百人を匿ったことが繰り返し記されます。著者はこのことで、預言者はエリヤだけではなかったことを強調しようとしています。

 これに対しエリヤは、「私が仕えている万軍の主(ヤハウェ)は生きておられます」と言いつつ、この会見は主にあって彼自身が望み主導することを強調し、「必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう」(18:15)と告げ、安心させます。主の命令に従うなら、誰も恐れる必要がないからです。それに応じてアハブはエリヤに会うためにやって来、開口一番、「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの」(18:17)と言います。それは、エリヤのことばによってイスラエルに三年間も雨が止まり、国中が飢饉に苦しんでいると思ったからです。アハブはエリヤが仕えている主(ヤハウェ)が生きて働いておられることを認めずに、彼を災いの元凶と見ました。これに対しエリヤは、アハブとその父の家こそイスラエルを煩わしている根源であると大胆に語ります。なぜならこの飢饉は、アハブが主の命令を捨て、バアルを礼拝していることへのさばきであるからです。その上でエリヤは王であるアハブに命令を下すかのように、「イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシュラの預言者」カルメル山に集めさせます。そこはイスラエルの穀倉地帯イズレエル平原の西北、地中海に面する600メートルぐらいの高さの山です。エリヤはイスラエルの民を集めさせ、彼らに向って「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか」(18:21)と言いつつ、主(ヤハウェ)とバアルのどちらが真の神であるかを示そうとします。彼らは、バアルとヤウェの両方を神としてあがめるという混合宗教に陥っていたからです。これはまさに一般的な日本人の意識と同じです。

武力を持つアハブ王はエリヤに対しては驚くほど無力でした。オバデヤさえも自分の命を守ることに必死でした。しかし、エリヤは死の脅しを軽蔑するかのように、大胆に王の前に現れ、多数のバアルの預言者たちを集めさせます。それは、「主(ヤウェ)は生きておられる」ことを確信したからです。エリヤは主からの使命に生きていました。だれも彼の代わりになる人はいません。私たちもひとりで異教徒たちの前に立たなければならないことがあります。そのとき逃げの体制に入るのではなく、主にあっての主導権を発揮することが大切です。昔、ひぐまと出会ったら死んだふりをすれば良いという話がありましたが、その有効性は実証されていません。もちろん、背を向けて逃げるのは最悪の選択です。逃げるものを追いかけるのは動物の本能だからです。何より効果的なのは、そこにいる全員で、ひぐまと「にらめっこ」することです。ただ、ひとりでも眼を背け、逃げ腰になるとひぐまは自分の優位を確信して襲いかかる可能性があるとのことです。同じように、私たちは自分を迫害する者に逃げ腰になってはなりません。あなたが仕える神は、生きておられます。偶像の神々はあなたに対して何の力も持ってはいません。

2.「しかし、何の声もなく、答える者もなかった」

エリヤは民に向い、「私ひとりが主(ヤハウェ)の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ」(18:22)と言いつつ、二頭の雄牛を用意させ、どちらのいけにえに火が下るかを見させようとします。「私ひとりが・・」という告白には危なさもありますが、このような自覚こそ全体の流れを変える力になります。日本人にはこのような意識が弱いため組織の自浄能力が欠けがちだと言われます。バアルの預言者たちは朝から真昼までバアルの名を呼びます。「しかし、何の声もなく、答える者もなかったので、エリヤは彼らをからかい、「もっと大きな声で叫んでみよ・・・もしかすると、寝ているのかもしれないから・・」と言います。それで、「彼らはますます大きな声で呼ばわり・・・剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけ」ます。このような騒ぎが、「ささげ物をささげる時」と呼ばれる夕方まで続きますが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった」のでした(18:26-29)。

  一方、エリヤは民全体を自分のそばに近寄らせ、壊れていた主(ヤハウェ)の祭壇を立て直します。その際、イスラエルの十二部族にちなんだ十二の石を用い、その上にたきぎを並べ、切り裂いた一頭の雄牛を置きます。そして、四つのかめに水を満たさせ、それを三度にわたって、いけにえとたきぎの上に注がせます。つまり、水がない中で、かめで十二杯もの水を用いて、火がつきにくい状態を作り出します(12杯も12部族に通じる)。そして、水は、祭壇の周りに掘った水に満ちます。これは誤魔化しようも後戻りのしようもない状況を作り出すことを意味します。

  その上でエリヤは、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主(ヤウェ)よ・・・私に答えてください」とバアルの預言者とは対照的に静かに「この民が、あなたこそ・・神であることを・・知るように」と祈ります。19世紀のドイツの音楽家メンデルスゾーンは、38歳で天に召される年、このエリヤの生涯をオラトリオとして描きますが、バアルの預言者たちの熱い祈りと、エリヤの静かな祈りの対比を効果的な音楽で表現しました。ここに私たちにとっての祈りの模範があります。主(ヤハウェ)は私たちの熱意に受動的に反応する方ではなく、何物に支配されない自由な主権によってこの世界の歴史を動かしておられる方です。ですから私たちも世界に対する神の救いのご計画に心を合わせるように祈ることが大切です。情熱以前に、それを願う心の動機が問われているのではないでしょうか。

主の答えは対照的に激しく、(ヤウェ)の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くし」ました。(18:36-38)。これを見た民は、「主(ヤウェ)こそ神です」と繰り返し告白します。それでエリヤは彼らにバアルの預言者たちを殺させます。それから、アハブに「上って行って飲み食いしなさい」と言いますが、それは王を主(ヤハウェ)の食卓に招き、信仰の回復を願ったことだと思われます。一方、エリヤはカルメル山の頂上に登り、「地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめ」ながら、雨を求めて祈ります(18:41,42)。そして若い者に何度も様子を見させると、七度目に「小さな雲が海(西)から上ってくる」のが見られました。それでエリヤはアハブに「大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい」と伝えます(18:44,45)。しばらくすると、激しい大雨が降りますが、「主(ヤウェ)の手がエリヤの上にくだり」、彼はイズレエルにあるここから27kmも離れたアハブの夏の宮殿まで、王の車の前を超人的なスピードで走り続けることができました(18:46)。

  アハブは王でありながら、エリヤに受動的に従うばかりでした。それは主の手がエリヤに下り続け、主がエリヤをご自身のしもべとして用いられたからです。バアル神もアハブ王も、ともにエリヤの挑戦に「何の声もない」という点で同じです。仏教の葬式では多数の僧侶がお経を唱えることに価値を見いだすことがありますが、何も答えることのできない神々に向かってどんな多数で大声を合わせても意味はありません。私たちの主(ヤハウェ)は、あなたが御子イエスの御名によって祈るなら、たったひとりの訴えにも誠実に答えてくださいます。人間の信仰の熱心さが奇跡を生むのではありません。どんな奇跡を行なうことができる神ご自身が不可能を可能にしてくださるのです。

3.「火のあとに、かすかな細い声があった」

 アハブは妻のイゼベルにすべてのことを報告します。このシドンの王女こそがバアル礼拝推進の中心人物でしたから、彼女は激しく怒り、「あすの今ごろまでに」、エリヤをバアルの祭司たちのように殺すと通告します。彼女はイスラエルの民の手前、即座に殺す代わりに、彼が逃げ出すのを期待したのだと思われます。ところがエリヤは、それまでとは打って変わって「恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」ばかりか、南王国ユダの最南端ベエル・シェバまで逃れ、自分の死を願って、「主(ヤウェ)よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」とまで願います(19:1-4)。このエリヤの心境は、しばしば燃え尽き症候群とも解説されます。国全体が主に立ち返ることを期待し、バアルの預言者たちと全精力を傾けて戦い勝利したはずなのに、イゼベルは迫害の手を強めただけでした。自分の労苦が実を結んでいないと思われ、それまでの緊張感の反動で、彼の心は萎えてしまったのでしょう。メンデルスゾーンは多くの詩篇を音楽にし、そこでしばしば、主が沈黙のうちにご自身の御顔を隠しておられると思える中での信仰者の祈りを表現しますが、ここでもエリヤの絶望感をチェロの低音で始めながら、彼が自分の気持ちを激しく表現する曲へと調子へと変化させます。自分で自分の命を断とうとすることと、死にたいほどの気持ちを神に訴えるのは天地の差があります。彼は絶望感を祈ることで神の働きに心を開いているのです。

  彼が「えにしだの木(当地によくある3mぐらいの高さの木)の下で」疲れ果てて眠っていると、ひとりの御使いが優しく寄り添うように触れて、「起きて、食べなさい。」と言って、パンと水を用意してくれました。彼がそれを食べて飲んで、また横になると、「主(ヤハウェ)の使い」はもう一度戻ってきて、優しく彼を起こしながら、「旅はまだ遠いのだから」と言います。すると彼は「この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブ(シナイ山)に着いた」というのです(19:5-8)。興味深いことに、エリヤは最初、恐れにとらわれて逃げたに過ぎなかったのですが、神はその逃亡の旅を、イスラエルの信仰の原点、律法が与えられた山への積極的な旅へと変えてくださいました。

  エリヤはそこに到着すると洞穴に入って一夜を過ごします。すると主は、「エリヤよ。ここで何をしているのか」と問いかけられます。それは彼の逃げの姿勢を責めるもののようでありながら、自分の気持ちを表現するのを助ける問いでもあります。彼は、「私は・・主(ヤハウェ)に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々は・・」と、自分と彼らの姿勢を比較した上で、「私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを・・狙っています」と、物事を事実以上に誇張し、悲観的に表現しています(18:9,10)。彼の頭からは、オバデヤが百人の預言者たちを匿ったことも、主が火を降らせてバアルの預言者たちに勝利されたことも抜けてしまっているかのようです。しばしば、人は、うつ状態に陥ったとき、彼と同じように、悪いことばかりを思い出し、自分の現実を事実以上に悲観的に見てしまいます。

 それに対し主は、外に出て、山の上で(ヤハウェ)の前に立て見よ。主(ヤハウェ)が通り過ぎるからと招かれます。(19:11私訳)。かつてモーセはイスラエルの不従順に苦しみ抜き、「主がともに歩まれる」ことのしるしを求め、それに主は答えてご自身の栄光を見せられましたが、それが再びここで起きるという意味でしょう(出エジ33:18-34:7)。そして、「主(ヤハウェ)の前」で、激しい大風が山々を裂きますが、「風の中に(ヤハウェ)はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも(ヤハウェ)はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも(ヤハウェ)はおられなかったと繰り返されます。それはかつて主がシナイ山に下りて来られたときを思い起こさせる栄光の現れですが(出エジ19:18)、主は今、そのような目に見える力の中におられなかったというのです。これは主が敢えてご自身を隠しておられるというメッセージです。そして最後に、「火のあとに、かすかな細い声(「原文「沈黙の声」英語NRS訳はa sound of sheer silence)があった」と記されます(19:12)。つまり、カルメル山で主は天からの燃える火でご自身の栄光を現されましたが、今は、沈黙の中にご自身を現しておられるというのです。エリヤは今、神の沈黙に苦しんでいましたが、主は疲れた彼に寄り添うように、その沈黙を通してエリヤを招いておられたのです。ですから、「エリヤはこれを聞くと初めて「外套で顔をおおい」ながらも、外に出て、主の前に立つことができました(19:13)。不思議に、この沈黙?の声は、エリヤに「聞く」ことができたのですが、それは、詩篇27篇8節にあるように、わたしの顔を、慕い求めよ」との神の招きの声が、心の奥底に語りかけられることに似ているでしょう。

今から40年前、サイモンとガーファンクルによるsound of silenceという曲がヒットしましたが、その名の由来がここにあるかのようです。そこには言葉にならない人の心の声に耳を傾けて欲しいとの訴えが込められており、それが多くの人々の共感を誘ったのだと思われます。同じように、神は沈黙?の声」を通して私たちをご自身のみもとに招いておられます。メンデルスゾーンは、「主(ヤハウェ)が通り過ぎられ」という力強い三回の合唱に合わせ、激しい大風と地震と火を描きつつ、「その中に主(ヤハウェ)はおられなかった」と繰り返し、最後に、主がエデンの園で罪を犯して木の間に身を隠すアダムにご自身の方から優しく音をたてながら近づいて来られたことを思い起こさせるようにこの神の神秘的な招きを表現しました。私はその音楽を聴きながら、神がどれほど、私たちの傷つき易い心をいたわり、優しく寄り添ってくださるのかと、深い感動に満たされました。あなたの心も様々なことで傷つき、心が萎えてしまうことがあるでしょうが、神はご自身の力を抑えながら、静かに優しくあなたを招いておられるのです。  

ところで主は再び、明確なことばで、エリヤに先と同じ質問をし、彼は以前とまったく同じ悲観的な答えをします。それは主が、エリヤの悲しみを正面から受け止められた証しでした。なお、この箇所は、主は私たちに「かすかな細い声」で語られると解釈されがちですが、主はエリヤに明確な声で語られたということを忘れてはなりません。沈黙の中で主の御前に静まることの勧めが、聖書のことばにとって代わるようなことはあってはならないからです。

  そして主は、不思議な命令を下します。それは、はるか北に向い、北王国イスラエルの北の国アラムに行って、イスラエルを脅かす異教徒を王に立てること、またアハブの家を滅ぼすイスラエルの王としてニムシの子エフーを立てること、そして、彼自身に代わる預言者としてエリシャに油を注ぐようにという命令でした。それは神が、ご自身を隠しながらも、この世の王たちをご自身の意思で立て、またさばくという意味です。その上で、主は、「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく・・・」19:18)と、バアル礼拝に屈しない信仰者を保つと約束されます。そして、これこそが、「ただ、私だけ・・」というエリヤの被害者意識に対する答えだったのです。なお使徒パウロは後に、この箇所を引用しつつ、「神の知恵と知識の富は、何と底知れず深いことでしょう」と言いつつ、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」と結んでいます(ローマ11:2-4,33,36)。エリヤのうつ状態の原因のひとつは自意識過剰にあっか可能性があります。彼は、天から火を降らしてくださる神の圧倒的な力ばかりか、人と人との争いや協力の中に、「沈黙の声」を発せられる目に見えない神のご支配を認める必要があったのです。

 私たちは責任から逃れるような気持ちで、「だれか他の人が・・」と言いたくなることがあります。しかし、それは敵に背を向けるという敗北の始まりになります。そのようなとき、「私ひとりが・・」という気持ちで主にすがるなら、主は不思議な解決をもたらしてくださいます。しかし、これが自意識過剰になるとき、主は、「わたしは七千人を残しておく」という主の民との協力関係をも思い起こさせてくださいます。確かに、ひぐまを前にひとりひとりがしっかりと立つという例に倣うのでなければ、敵は引き下がりませんが、自分の力が尽きても神は別の人を立ててくださるという謙遜さも持っていなければ、自分自身が燃え尽きるか、人を振り回すかのどちらかになります。その際、すべてを支配される主(ヤハウェ)の前に立つことこそが、「ひとりでいる」ことと「ともにいる」ことの調和の原点でしょう。そのため主は、「天に雷鳴を響かせ」(詩篇18:13)、また「沈黙」のうちにと、ときに対照的な姿で近づいてくださいます。

 ずっと列王記を駆け足で解き明かしていますが、主が私たちに「かすかな細い声で語られる」ということの由来として19章12節が引用されますが、その解釈の危なさに関して、間接的に以前聞いたことがあり、今回その理由が納得できたしだいです。本当に聖書は、厳密に丁寧に読まないと誤解をしてしまうものですね。とにかく本当に大切なことが改めて教えられました。

 実は、最終的に解釈の上で役に立ったのは、19世紀初めのドイツの作曲家メンデルスゾーンによるオラトリオ「エリヤ」です。今回は、異例の試みでメッセージの中で三回そのオラトリオのCDをみなで聴きました。

 それと個人的には40年前のヒットしたサイモンとガーファンクルの名曲「sound of silence]を何度も聴きながらこの箇所の解釈に関するインスピレーションを受けることができました。歌に表現された心の揺れや葛藤は、現代人の心理を理解する上で本当に参考になります。

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