ヨハネ3:1ー21 「神は世を愛された」
2007年10月21日
不条理な苦しみに出会うとき、「神がおられるなら、どうして・・」と考えがちです。しかし、聖書によると、神が世を愛されたからこそ、この世に悪が残されたままにされていると考えることができます。そして、「救い」とは、目の前から問題がなくなることではなく、問題に直面する力が得られることではないでしょうか。なすべき問いとは、「神を信じることなくして、どうしてこの世で誠実な生き方を全うすることができようか・・・」というものかもしれません。人は、損得勘定だけで態度を変えるような信念のない人を軽蔑します。自分の幸せしか考えないような人とだれが結婚したいと思うでしょう。結婚の誓約とは、何があろうともあなたに寄り添い、いのちも差し出しますと約束することです。キリスト教式の結婚式が流行っているのは、人がそのような愛を求めているからでしょう。しかし、私たちは弱いものです。自分で自分が信じられないようなところがあります。だからこそ、キリストは私たちに真の愛を教え、愛する力をもお与えくださるのです。
1。 神の国を待ち望んでいたニコデモ
ニコデモは、神の教えに熱心なパリサイ人で、ユダヤ人の指導者でしたが、彼は人目をはばかって夜イエスを訪ねました。彼が求めていたことは「神の国」の実現でした。当時のイスラエルの民は、ローマ帝国の支配のもとで重い税金を課せられ、自由も制限されて苦しんでいました。人々の期待した「神の国」とは、神がイスラエルをローマ帝国の支配から解放し、愛と平和に満ちた国に変えてくださることを意味しました。しかし、イスラエルの民は、互いの足をひっぱり合うような争いを続けていました。特に、パリサイ人たちは、取税人や遊女たちを軽蔑し、「あんな奴らがいるから、いつまでたっても神の国は実現しないのだ・・・」と自分たちの基準に達しない人々を排除しようとしていました。彼らは、神のみわざよりも、人間の行いに目を向けていたのです。
ニコデモは、当時の指導者としてはめずらしく、イエスのみわざに感銘を受けてはいたのですが、イエスを「神のもとから来られた教師」としてしか見ていませんでした。彼はイエスに、「神の国を実現させるため、何をすべきか?」ということを聞きたかったのでしょう。それに対し、イエスは不思議にも、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません・・」(3節)と言いました。それは簡単に言うと、「このままの人間がどんなに努力しても無理・・」という意味です。それでニコデモは、「もう一度、母の胎にはいって?」などと言いますが、それは、「そんな雲をつかむような話ではなく、もっと具体的な・・・」という気持ちだったと思われます。それに対してイエスは、「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません」(5節)と、すべては、神の一方的な働きであることを強調したのです。
ニコデモは、人から隠れて夜イエスを訪ね、また、イエスの前でも自分の問題を隠して議論をしていました。彼は、なぜ、人目を恐れていたのでしょう。それは彼には失うべきものが多くあり、自分の身を守ることで頭が一杯だったからではないでしょうか。確かに、国の現実に本当に心を痛めているのですが、自分自身が根本的に神によって変えられる必要があるとは分かっていません。どこかで評論家的になり、自分の問題と向き合おうとはしていません。
彼は、世界の問題が、神にとってもご自身の御子を犠牲にしなければならないほどに根深いものだとは思いもよりませんでした。事実、神の国の実現のためには、何よりも人間の心がまず変えられる必要があったのです。なぜなら、神がせっかく理想的な世界を創造されたとしても、今のままの人間がそこに住めば、その世界を再び腐敗させてしまうからです。そして、イエスが行なわれたしるしは、単にご自身の教えを権威づけるためのものではなく、神が今まさに、イエスによって決定的に世界を新しくし、救い出そうとしていることを証しするためだったのです。
2。 「モーセが荒野で蛇を上げたように・・・」
イエスは、「新しく生まれなければならない・・・御霊によって生まれる」(7節)と言いましたが、ニコデモは、「どうしてそのようなことがありうるのでしょう」(9節)と答えます。それに対して、イエスは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」(10節)と厳しく応答します。なぜなら、エレミヤ(31:33等)もエゼキエルも(36:26等)、終わりの日に御霊が人の心にくだることを預言していたからです。しかし、イエスは彼を責めながらも、彼ひとりだけに向かって、愛と忍耐をもって、人の想像を超える天上のことを話します。
「天から下った者はいます。すなわち人の子です」(13節)とは、ダニエルが「見よ。人の子のような方が天の雲によって来られ・・」(ダニエル7:13)と預言した救い主のことです。つまり、イエスは、ご自分こそが、旧約聖書で預言されていた救い主だと語ったのです。そのことばの意味は、少なくとも表面上はニコデモにも分かったことでしょう。
しかし、「人の子もまた上げられなければなりません」(14節)ということばの意味をどうして理解できたでしょう。それはご自身の十字架を示唆したもので、ニコデモは、それを後になって初めて分かったに違いありません。それは、神の国の実現が、神の側の一方的な犠牲によらなければ実現しないことを意味しました。
なお、「モーセが荒野で蛇を上げた」(14節)とは、民数記21章にある記事です。イスラエルの民は、天からの特別なパンであるマナによって養われていました。彼らは、40年ぶりのカナン人への勝利を体験し、今まさに約束の地に入ろうとしていたのですが、その矢先に忍耐の限界に達し、「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」(民21:5)と言いました。彼らは既に始まった新しいことではなく、まだ変わっていない現実に目を奪われたからです。私たちもしばしば、目の前の状況が変わり始めた頃、かえって変化のスピードの遅さにしびれを切らし、「何も変わっていない・・・」という気持ちになることがあります。期待を持たなければ、不満も生じません。そのとき、「私は期待を抱くことができるところまで導かれた・・・」という点にこそ目を向けるべきでしょう。たとえば、あなたの身近な人が「変わりだそう・・」としているなら、変わっていない部分ではなく、その人に期待を抱くことができていること自体を感謝すべきです。
主はそんな恩知らずな民に、燃える蛇を送られ、それによって多くの人々が死にました。彼らはモーセに、「私たちは主(ヤハウェ)とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主(ヤハウェ)に祈ってください」(民21:7)と言いました。しかし、その時、主は何と、蛇を取り去るのではなく、「燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば生きる」(民21:8)という不思議な救いを与えられました。彼らに与えられた救いは、蛇という問題をなくすことではなく、かまれた後の癒しを備えることでした。「噛まれても生きる」というのが彼らに与えられた救いでした。ニコデモもパリサイ人として、神の国を待ち望みながら、人々の罪に苛立ち、「彼らを取り去ってください・・」と願っていたことでしょう。しかし、イエスの目からはそのような発想自体が問題であり、彼こそが神の国を阻んでいる張本人なのです。しばしば、愛や平和という理想に熱くなって、まわりの人々を非難ばかりする人がいます。彼らは、人を非難することで、自分自身が愛の交わりを壊しているということに気づきません。しかし、イエスは、このニコデモひとりに真剣に向き合い、ご自身の愛を示しておられます。決して、「お前こそが問題なのだ!」と責めるのではなく、時がきたら自分の罪を自分で認めることができるようにと配慮しておられます。
私たちはだれも自分の命が明日どうなるかを知ることはできません。しかし、人はそれを忘れて生きています。そして、悲惨なできごとに遭遇して初めて、「生きていられるのは決して当たり前ではない・・」と悟ることができます。ですから、残念ながら、この世には常に、適度な苦しみが必要なのです。しかも、ひとつの問題の解決は、必ず次の問題を生みだすというのが現実です。ですから、目の前の問題の解決ばかりを願う人は、この世では一生、平安を味わうことができなくなります。それに対して、神の救いは、死の危険が目の前にあるにも関わらず、今、ここで神に守られているという平安を味わうことができるようにすることにあります。ニコデモを初めとするパリサイ人たちは、この世から罪をなくそうと頑張ることによって、かえって社会全体を息苦しくしていました。たとえば、36歳で自殺した芥川龍之介は、24歳のとき、「周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目の当たりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまま生きることを強いられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は憎むべき嘲弄だ」と語っています。それにも関わらず、彼は神を求め続け、彼の最後の枕許には聖書がおいてありました。本当に悲しいことですが、彼にとってはイエスの十字架を仰ぎ見るだけで救われるという福音はあまりにも安易に思えたのではないでしょうか。それは、旧約聖書全体から、イスラエルの不従順にたいする神の痛み、神の葛藤という視点を見ることができなかったからだと思われます。
ここで、「信じる者がみな、永遠のいのちを持つ」(15節)とありますが、永遠のいのちとは、来たるべき神の国のいのちという意味です。ある人にとっては、永遠に生きることは拷問にしか聞こえないかもしれませんが、私たちの身体は終わりの日にまったく新しくされ、もう退屈を感じることもなくなります。それは、神との豊かな交わりのうちに生きる喜びの生活です。私たちは、そのいのちを、御霊によって、今この不条理に囲まれながら体験することができるのです。
3。 神は世を愛された
16節以降も、文章の流れから言えば、イエスのニコデモに対するメッセージの続きと考えられます。なぜなら、16節の「信じる者がみな・・永遠のいのちを持つ」ということばは、15節の同じ繰り返しであり、新しく深めるものだからです。
ニコデモは、罪人たちがいなくなれば神の国はすぐに実現されると思っていましたが、イエスは、「神は世を愛された」と語りました。その「世」とは罪人たちの集まりですから、ここは、「神は罪人を愛された」と解釈することができます。ニコデモは、イスラエルの現状を憂え、取税人や遊女の存在を心で裁き、彼らを否定していましたが、神はその彼らひとりひとりを愛しておられるというのです。しかもその愛の深さは、「ひとり子をお与えになったほどに」と説明されています。つまり、神は、罪に満ちた世をさばく代わりに、かけがえのない御子を犠牲とすることで、救おうとされたのです。なお、この福音書のはじめに、「世はこの方によって造られた」(1:10)と記されていますが、犠牲となられたのは、この世の創造主ご自身でした。だからこそ、そこに、「御子によって世が救われる」(17節)という保障があるのです。
ニコデモは、わざと夜になってイエスを訪ねました。それは「光よりも闇を愛した」(19節)生き方でした。彼は、取税人が私腹を肥やすために働いていることを非難しながら、自分自身が自分の身を守ることに夢中でした。しかし、後に十字架を見た彼は、「光のほうに来る」(21節)者へと変えられ、イエスを葬るために最大の貢献をする者へと変えられました。彼は、イエスが自分ひとりに、どれだけ真実に向き合ってくださったかが分かったのです。しかも、イエスは神の国について評論家的な議論をする代わりに、ご自身の身を犠牲にして、人の心を造り変えようとしておられるのです。イエスに信頼する者は、御霊によってすでに新しく生まれ、来たるべき神の国のいのち、永遠のいのちを得ています。それは、わざわいに会わないということではなく、問題のただ中でいのちが輝き出すという意味です。
試練の中に、いのちは輝きます。三浦綾子の小説に、「塩狩峠」というのがあります。今から約百年前、当時極めて急勾配だった峠で暴走した客車を、自分の身をなげうって止め、殉職した長野政雄さんの実話をもとにしています。キリスト教への誤解がはなはだしかった時代に、彼の自己犠牲のことを聞いた人々が数多く、イエスを信じるように変えられました。それは人々が、そのような真実の愛にあこがれているしるしでしょう。今も、三浦綾子のこの小説を読んで、信仰に導かれる多くの人がいます。神の愛は、今、この世から矛盾がなくなることとしてあらわされるのではなく、この矛盾に満ちた世の中で誠実に生きる力を与えるものです。その神の愛こそが、すべての人間関係を平和に導く鍵です。このままの自分がイエスの十字架の犠牲によって永遠のいのちへと入れられたことを信じる者は、目の前のかけだらけの人を、矛盾に満ちた社会を、なお大切に思うことができます。「神は世を愛された」とは、「神は罪人を愛された」という意味です。神の愛は、愛するに値しない者を、愛するに値する者に変えてくださることにあらわされます。