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2007年12月30日 (日)

イザヤ65:17ー25「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」

                                              2007年12月30日 

今年を振り返って、「私の労苦が正当な実を結ぶことができた・・・」と満足できる方はおられるでしょうか?確かに何らかの成果を出すことができて嬉しいと思うこともある反面、「一生懸命やったのに、どうしてこんなことになるのだろう・・・」と思ったこともあるのではないでしょうか。そんな時、しばしば、「地に住み、誠実を養え・・・彼らは地を受け継ごう」(詩篇37:3ー9)という約束が慰めになります。天国が「あの世」のような所なら、この地で誠実を養うことが空しくなるかも知れません。しかし、私たちはその人生のゴールにおいて、「新しいエルサレムが・・・神のみもとを出て、天から下って来るのを見た」(黙示21:2)という状況になると記されています。

つまり、天国が地に下ってくるのがこの世界の完成だというのです。神は、この世を愛し(ヨハネ3:16)、この地を新しくし、受け継がせてくださいます。ですから、歳を重ねて、思い通りにならない頭や身体を嘆きながら、「早く死んで天国に行きたい・・・」などとつぶやくのではなく、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13)と告白しつつ、この地で生かされている限り、地の平和のために祈り、労すべきではないでしょうか。

1。 「わたしを見よ。」と言われる方

「見よ。わたしは・・・」(17、18節)と繰り返されますが、厳密には、「わたしを見よ。わたしは・・・創造する」と記されています。それは、バビロン帝国によってエルサレム神殿が破壊され、バビロンへの捕囚とされたイスラエルの民に向かっての招きです。彼らはアッシリヤやバビロンとエジプトという巨大帝国にはさまれて、力の均衡ばかりを考え、神を仰ぎ見ることを忘れていました。しかし、神は遠い昔からモーセを通して、神に背を向けて歩むことの結果を予告しておられました。そこでは、「あなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み・・・わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる」(レビ26:27-31)と記され、また、「主(ヤーウェ)は、遠く地の果てから、わしがとびかかるように、ひとつの国民にあなたを襲わせる・・・あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏のため・・・息子や娘の肉を食w)€「戮襦・・・ぢ申命記28:49ー55)とまで詳しく預言されていました。そして、「哀歌」にはその警告が文字通り実現した様子が描かれています。

モーセはイスラエルの民に、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と繰り返し語っていました。それなのに彼らはのろいを選んでしまいました。まさに、彼らの苦しみは自業自得です。ところが、そんな彼らを神は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」(45:22)と招かれたのです。

  その上で、神は、「わたしを見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する・・・」(17節)と、壮大な救いのご計画を啓示されました。これは、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の冒頭のことばに対応する世界の完成の姿です。しばしば、多くの方々は、「そんな遠い約束よりは、来月からの自分の立場が気になる・・・」というのが現実かもしれません。しかし、明日への不安は、何よりも自分の人生のゴールを知らないところから生まれているのではないでしょうか。常田美香さんのフォトエッセー集にこんなエッセーがありました。

「小さい頃、ベッドに入ると毎晩のように考えた。

『死ぬ』ってどういうことだろうって。あの小さな頭で、来る日も来る日も・・・。

とうとう、その日がやってきた。『死』という意味が子供なりに分かったのだ。

それは、まるで自分が宇宙の暗闇の中に浮いているイメージだった。

声を出そうと思っても出せない。

真っ暗で何も見えない、終わりのない空間と時間を、皆から切り離されて・・・浮遊している。

誰も助けに来れない。両親さえも・・・。

自分の存在も記憶もなくなる・・・なんと恐ろしい結末が待っているのだろうか!

しかも、誰もそこから逃げることができない。悲しすぎる・・・。

『死』つまり、『永遠』という意味の恐ろしさに直面して、私は枕に顔を伏せて

「いやだ、いやだ!こんなの酷(ひど)すぎる!」と言いながら号泣してしまった。

あれから数十年が経った。

私は今、絶望から希望へ、闇から光へと変わった『永遠』の中で生きている。」

 

そして、これとセットに次の曲が記されていました。

「あなたの言葉は私を照らし(とらえ) 導き続ける光です あなたの言葉は私に語り 導き続ける光です

 誰が私をあなたの愛から 引き離すことができるでしょう 過去の痛みや未来の不安で 私が心を閉ざしても

 あなたの愛は諦めず 待ち続ける私を」

  「過去の痛みや未来の不安で、私が心を閉ざしても・・・」という表現から、私はアウグスチヌスの「告白」を思い出しました。彼は神に背き続けた自分の愚かさを「告白」しながら、最後には神の創造のみわざへの賛美に向かいます。そこで彼は、「時間」を、神の被造物として分析します。

時には、過去と現在と未来があると言われますが、過去とは現在の記憶のなかに、未来は現在の期待の中にだけ存在するものです。真の意味で存在しているのは、この一瞬一瞬です。ところが人の心は、この過去と未来に心が分散してしまい、今、自分の手の中にあるこのときに心を集中することができなくなります。そして、しばしば、自分で将来の悲惨を招きよせてしまいます。今を生きることができない結果が、永遠の死につながるのです。

一方、今このときが、「永遠の神」の御手にあることを覚えるとき、私たちはすでに「永遠のいのち」の喜びを体験し始めることができます。あなたの過去の失敗など、あのダビデと比べたら「かわいい」ものではないでしょうか。しかし、ダビデは赦し難い罪の中で「永遠の神」を見上げ、神の都エルサレムの基礎を建てる者とされました。

神は、今もあなたに、「わたしを仰ぎ見て救われよ」と招いておられます。そして、神の壮大な救いのご計画の中で、自分の人生を捉えなおすことができるとき、今このときを誠実に生きる力が沸いてきます。そして、そこからあなたの将来が開けてきます。「新しい天と新しい地」の福音は、現在のいのちの喜びに直結しています。 

2。 新しい天と新しい地、新しいエルサレムの姿

  「先の事は思い出されず、心に上ることもない」(17節)とは、全ての苦しみが遠い夢のように思える状態です。人の心が過去の痛みにとらわれるのは、現在を喜ぶことができていないことの結果に過ぎないのかも知れません。人は自分の記憶を自分で選び編集を加えているからです。ですから、神に希望を置くことができない結果として、過去の恨みにとらわれるという心の状態が生まれているという構造があることも忘れてはなりません。しばしば、自分が向き合うべきことは過去の恨みである以上に、今ここでの神のみわざではなのではないでしょうか。

その上で、神は、「だから、わたし(強調形)の創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」(18節)とご自身の愛を込めて断固として語ってくださいます。それは神が今すでになしおられる新しい創造のみわざを喜ぶことから始まります。それは新しい肉のいのちの誕生から新しい一日の始まりに至るまでのすべてのことです。それは同時に、「エデン(喜び)の園」で、アダムが楽しみ喜んでいた状態を、神ご自身が回復してくださることに及びます。

しかも、神は、「わたしを見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と保障してくださいました。私たちは信仰によって、それが実現したかのようにこの地で生きることができます。つまり、「永遠のいのち」とは、「新しい天と新しい地」での「新しいエルサレム」の「いのち」を、今から体験することなのです。

神はここで、「わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ」(19節)と敢えて繰り返しておられます。神はかつてご自身の民イスラエルの不従順に怒りを発せられ、彼らの堕落を悲しんでおられました。その時代が過ぎ去り、神がエルサレをご自身の住まわれる都とし、またイエス・キリストにつながる私たちをご自身の民として楽しんでくださるというのです。それは、神がご自身の聖霊によって私たちを内側から造り替えてくださるからです。

  「そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない」(19節)とは、それ以降の文章の要約でもあります。なお、「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる・・・」から、新しいエルサレムにも死があると考える必要はありません。これらは全て、預言された神のさばき(申命記28:15ー48、参照レビ26:14ー39)との対比で考えられるべきです。バビロン捕囚によって、「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる・・・あなたの身から生まれる者も・・のろわれる・・主は、疫病をあなたの身にまといつかせ・・あなたを打たれる」(申命28:16ー22)という「のろい」の預言が実現しました。それに対し、のろいの時代が過ぎ去り、「数日しか生きない乳飲み子も、寿命に満ちない老人もない」(20節)という「祝福」の時代が来ようとしているという約束です。

また、のろいの時代には、「あなたが・・・家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・・地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう」(申命記28:30ー33節)という預言が成就しました。それと対照的に、ここでは、新しい「祝福」の時代は、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが食べて他人が食べることはない」(21、22節)と描かれているのです。これは自分の労働の実を、自分で楽しむことができるという状態です。そして、悲劇の預言が成就したことは、祝福の約束が成就することの何よりの証しとなりました

  「わたしの民の寿命は木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができる」(22節)とは、このような「祝福」は、神ご自身が選んでくださった神の民に実現するという意味です。私たちが自分の力で理想郷を実現するのではなく、神の一方的なあわれみによって祝福がもたらされるのです。

そこでは、「彼らはむだに労することもなく」と、労苦が実を結ぶことが保障されます。そして、「彼らは主(ヤハウェ)に祝福された者のすえ」(23節)と呼ばれます。しかも、そのとき、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(「わたし」は強調形、24節)とあるように、神と人との関係が母親と赤ちゃんの間以上に親密になるというのです。そして、現在の私たちに与えられた救いとは、キリストの十字架によって私たちの全ての罪が赦され、そのような親密な関係が既に実現したということです。そして、これらもレビ記に預言されていたのろいの状態、「彼らが敵の国にいる間、彼らの心におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ・・・追いかける者もいないのにつまずき倒れる」(26:36、37)という「おびえ」にとらわれた状態と対照的w)€「任后・椎阿覆・蕁∈・癲⊃世箸慮鬚錣蠅鮹里蕕此△い弔皺燭・魘韻┐覆・蘋犬④討い訖佑・い泙后・・種咋昭・咋昭・仭両鹿仂w)斜€礦゚齠粛齒麗鴉瘡€丘繽A輿卩瀕込壱・壱・稲・€メ努圻瀕津淋込臼頸・堙慥㌔棉芭込跂胄・逑鎰赱尞・㊦鱸筬瘡蜃邵€・弱Z€・順・゚鬮蜴粤銓㏍阨銓込窺飴€g縄湜梔キ庚乙頸◇w)瘡蜃扈跂胄昭嗤僧€丘繽A届淋㎎冨添€ッ艶・€ト藁圻徳揺儲込・ぢMS P明朝'; mso-font-kerning: 0pt; mso-ansi-language: JA">

今、私たちは二つの国の国籍を持っています。私たちは信仰において新しいエルサレムの市民とされ、私たちは神との親密な関係に入れられています。しかし、私たちの身体は、なお敵の国に置かれています。そこで私たちの労苦の実がしばしば掠め取られ、「おくびょうの霊」(Ⅱテモテ1:7)の影響下にあります。

しかし、イエスは、神の民の祝福を逆説的に、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(マタイ5:4)と言われました。それは、神が、母親以上の愛で私たちを愛し、その涙を見過ごすことなく、やがて時が来たら御自身の愛の御手を差し伸べ、「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(黙示21:4)方だからです。

私は、長い間、泣く必要のないほどに心が安定することに憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を赦せなくなるだけでした。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。私たちは、赤ちゃんに向かって「泣くな!」と説教すると同じように愚かな態度を自分や人に対して持つことがありますが、赤ちゃんを安定させるのは母親の愛情なのです。

私たちが神を忘れても、神は私たちを忘れません。全能の神が、「あなたの行く所どこにでも、あなたとともにある」(ヨシュア1:9)と約束しておられるのですから、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、あなたの人生の障害とはなりません。あなたの身は敵の国に置かれているようでも、その国も、神のご支配の中にあるからです。

3。 キリストの復活によって実現しつつある世界

  「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし・・」(25節)とは、他の動物を餌食とする動物が、「聖なる山」、つまり「新しいエルサレム」では、「害することも滅ぼすこともなくなる」(25節別訳)ことです。弱肉強食はなくなり、エデンの園での調和が回復します。11章6ー9節では、「ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子供がこれを追ってゆく・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」という情景が加わっています。

そして、その理由が、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」(11:9)と説明されています。それは、主(ヤハウェ)こそが全地の支配者であることが明らかにされ、神の平和が目に見える形で実現するときを指しています。そのような平和は、救い主の出現とともに実現すると期待されていたことでした。

しかし、その「神の平和」(シャローム)は今、長い時間をかけて成就しつつあることなのです。その手始めに、全世界の創造主が、人となって私たちの間に住んでくださいました。福音記者ヨハネは、その目的を、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1:18)と語っています。今、イエスを通して私たちは「主(ヤハウェ)を知る」ようにさせていただくことができたのです。

  バビロン帝国によってエルサレムが破壊されたのは、神の栄光が神殿を立ち去った結果でした。それに対し、イエスのエルサレム入城は、「主(ヤハウェ)がシオンに帰られる」(イザヤ52:8)という預言が成就したことのしるしでした。そして主の十字架と復活こそは、真のエルサレム神殿の復興を意味しました(ヨハネ2:19)。

つまり、主(ヤハウェ)が、「わたしは新しい天と新しい地を創造する・・・わたしはエルサレムを創造して喜びとし・・」と語られたことは、キリストによって既に実現し始めたことなのです。それは、真冬の寒い時に、梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。

そして、新しい天と新しい地のつぼみこそ、このキリストの教会です。今既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっています。ですから、パウロは、キリストの復活の説明の結論として、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と語ったのです。むだに労するという「のろい」の時代はすでに過ぎ去りました。私たちはすでにキリストにあって、「むだに労することもなく・・・主(ヤハウェ)に祝福された者のすえ」とされているのです。

 聖書を読んでも、多くの場合、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」のという疑問は解けないままかもしれません。しかし、「神を愛する人々・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)という真理は、今からいつでもどこでも大胆に告白することができます。この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って平和を創造されるのです。

「新しい天と新しい地」は目の前にあります。そこで私たちは、神の御顔を直接仰ぎ見て、喜びに満ちた賛美をささげます。また互いの美しさに感動して愛し合うことができます。労働は苦しみではなく創造性を発揮する喜びの機会となります。そして、私たちは、今、キリストのオーケストラや合唱団の一員として、天で演奏されているその曲に耳を傾け、その美しさに魅了されて、未熟なために不協和音や雑音をたてながら、それを世界に聞かようと一所懸命に演奏します。私たちは、ここで、地の塩、世の光として、新しいエルサレムの音楽を、先取りして奏でるのです。それは、私たちが、イエスの弟、妹として、父なる神を愛し、人を愛し、地を愛する生活を続けることです。このように私たちは、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことで、この地で生きる勇気をいただくことができます。主は今も、目の前の世界が音をたてて崩れるような絶望を味わった人にw)€カ・韻董◆峺・茵・錣燭靴録靴靴せ・鬚垢襦・・┫該厩・ぢという約束を与えておられます。神の新しいみわざに心を向けましょう。

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2007年12月23日 (日)

ヘンデル・メサイア「イエス・キリストの王国」

                    ヘンデル作 メサイア第一部 テキスト           org..text 1741年 Charles Jennens

Sinfony

1. イザヤ40:1-3 Comfort ye 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。

「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた・・・。」

 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」

2. イザヤ40:4  すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

3. イザヤ40:5 コーラス  【主】の栄光が現される。すると、すべての者が共にこれを見る。【主】の御口が語られたから。

4. ハガイ2:6,7 まことに、万軍の【主】はこう仰せられる。「しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。

わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の望みが来る。」

5. マラキ3:1   「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。

あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の【主】は仰せられる。

6. マラキ3:2   だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。

まことに、この方は、精錬する者の火・・のようだ。

7. マラキ3:3 コーラス He shall purify この方は・・レビの子らをきよめ・・彼らは、【主】に、義のささげ物をささげる者となる

8. イザヤ7:14  見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

(神は私たちとともにおられる)マタイ1:23

9. イザヤ40:9 O thou that tellest シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える

者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。 「見よ。あなたがたの神を。」

10. イザヤ60:1  起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いている。

11. イザヤ40:9,60:1 コーラス  シオンに良い知らせを伝える者よ。起きよ!ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」

「見よ。 【主】の栄光があなたの上に輝いている」

12. イザヤ60:2,3  見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。

しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。

国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

13. イザヤ9:2   やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

14. イザヤ9:6 コーラス  ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる

主権はその肩にあり、その名は「不思議、カウンセラー、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる

   Sinfonia pastorale   

15. ルカ2:8、9    さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

16. ルカ2:10,11  御使いは彼らに言った。 「恐れることはありません。

今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

17. ルカ2:13    すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。

18. ルカ2:14 コーラス 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。 地の上に平和が、人々にあわれみがあるように。」

19. ゼカリヤ9:9,10   Rejoice 大いに喜べ、シオンの娘よ。 喜び叫べ、エルサレムの娘よ。

見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

              この方は正しい救い主で、諸国の民に平和を告げる。

20. イザヤ35:5,6    そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。

21. イザヤ40:11デュエット  He shall feed 主は羊飼いのように、その群れを飼う

御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く

22. マタイ11:28、29  すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、彼のところに来なさい。彼があなたがたを休ませてくださいます。彼は心優しく、へりくだっておられるから、あなたがたも彼のくびきを負って、彼から学びなさい。

そうすればたましいに安らぎが来ます。

23. マタイ11:30 コーラス  彼のくびきは負いやすく、彼の荷は軽いのですから

                                                         2007年12月23日

  二千年前に救い主がユダヤのベツレヘムにお生まれになったことが世界中で祝われています。しかし、イエスがどのような意味での「救い」をもたらしてくださったのでしょう。

イザヤ11章では、救い主が、最終的に、弱肉強食のない「神の平和」をもたらすと明言されています。すべての人の心には失われた理想郷のイメージが残っていると言われます。それは、「神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝道者3:11)とある通りです。だからこそ、人は、今の世の中にある不条理を受け入れ難く思い、心の中で、「何かがおかしい・・・」、「何かが足りない・・・」と思っているのではないでしょうか。

  ヘンデル作曲のメサイヤは聖書のみことばだけを、何の解説もなしに引用しながら、救い主の待望と誕生のことが、三部構成の第一部で歌われています。これは1741年にチャールズ・ジェネンズという舞台作家がヘンデルによる作曲を期待して編集したもので、当時の英国国教会の礼拝式文が参考にしながら生まれたと言われます。

そこには特に、今から二千年前、イエスがどのような意味での救い主(キリスト)として現れてくださったのかを理解する鍵がきされています。それは、「救い主が現れても、何も変わっていはいない・・・」と失望する人に大きな励ましとなることでしょう。

1.「主の栄光が現わされると・・・」

紀元前586年、神の都エルサレムは、バビロン帝国によって滅ぼされ、神の住まいと呼ばれた神殿が跡形もなく破壊され、その住民の多くが現在のイラクの地に捕囚として連行されました。ダビデ、ソロモンの時代に繁栄を極めた地上における神の国としてのイスラエル王国が消えてしまったのです。

国がなくなるという感覚は、日本人には理解し難いことでしょうが、日本は過去、朝鮮半島に同じような苦しみを与えています。ですから、これは遠い話ではありません。

最初にイザヤ40:1-3からComfort ye 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた・・・。』」と告げられます。

バビロンによって国が滅ぼされたのは、彼らが自分たちより強く優秀な民族だったからではなく、イスラエルの神がご自身の民の度重なる反抗に対してさばきを下されたからです。そして、神はご自分の民を捨て去ってしまわれたのではなく、回復しようとして優しく招いておられます。

しかも、神殿が廃墟とされたのは、主が無力なのではなく、「主(ヤウェ)の栄光」が去ったからであって、主が再びエルサレムに戻ってくるなら国が回復するというのです。そのため、王である主が戻ってくる道を整えるようにと、「荒野に呼ばわる者の声が、『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』と」呼びかけがなされます。そして、イザヤ40:4ではそれに応じて、「すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる」と、王が帰ってくる道が整えられる様子が描かれます。

そしてイザヤ40:5で、【主】の栄光が現される。すると、すべての者が共にこれを見る。【主】の御口が語られたからという合唱が歌われます。これは、王が戻ってくるとともにすべての状況が変わることを意味します。

それは、ハガイ2:6,7では、「まことに、万軍の【主】はこう仰せられる。『しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の望みが来る』」と描かれます。このように預言されたのは、バビロン捕囚から帰還した民が建てた神殿が、昔のソロモンの神殿と比べてあまりにもわびしく見えたからですが、そこに主(ヤハウェ)の栄光」が戻ってきて、昔以上の繁栄が実現するというのです。

そしてそのときを、マラキ3:1では、「『あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている』と万軍の【主】は仰せられる。」と告げられます。イスラエルの神、「主(ヤウェ)の栄光」が、思いもよらない形で戻ってくるというのです。

イエスの登場前の時代、ヘロデ大王はローマ帝国からイスラエルの支配を任されていました。ヘロデはみすぼらしかった神殿の大修復工事を行い、ソロモンにまさる大きな神殿にしました。それは、当時の人々が息を呑むほどの輝いた外観になりましたが、そこには見せかけの礼拝しかありませんでした。祭司たちはそこを生活の糧を得る場とし、商人たちを神殿の庭に入れて商売をさせ、あがりをとっていました。

ですから、イエスがエルサレム神殿に来られたとき、そこから商売人たちを追い出したのです。神の宮は、聖なる場で、私利私欲を満たす場にしてはいけないからです。

かつて、「主(ヤウェ)の栄光」が神殿に満ちたとき、その栄光の輝きのゆえに誰も近づくことができませんでした。そのように主の栄光で宮が包まれたとき、国も繁栄を極めました。国を失った民は、そのような繁栄の時代が戻ってくるのを待っていました。しかし、ヘロデがやったように神殿を黄金で覆うことと、主の栄光が戻ってことは無縁でした。「主(ヤハウェ)の栄光」は、神のみわざでしか戻ることはありません。「救い」は一方的な主のみわざなのです。

そして、今、主の栄光は、救い主キリストを通して世に現されました。人間の努力によってではなく、神の主導権によってのみ「主(ヤハウェ)の栄光はあらわされる」のです。「主の栄光が現されると・・・」というみことばとともに、主の御前に静まって、主がなしてくださるみわざの偉大さに心を留めたいと思います。自分の期待が実現するのを待つのではなく、主の栄光が現されるのを待つなら、新しい世界が見えてくることでしょう。

2.「この方は・・・きよめ、主の栄光があなたの上に輝く」

  しかし、主の栄光が戻ってくるというのは、同時に、恐怖でもあります。それが、マラキ3:2では、「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火・・のようだ。」と告白されます。

ところが、救い主は、私たちの罪をさばくまえに、私たちを内側からきよめ、神に仕えるレビ人として整えてくださいます。そのことが、マラキ3:3のコーラスで「He shall purify この方は・・レビの子らをきよめ・・彼らは、【主】に、義のささげ物をささげる者となると歌われます。救い主は、何よりも私たちのこころをきよめてくださる方です。

  そのために、その方は、私たちの傷つきやすい心に寄り添うために、天使の軍勢を引き連れて天から降りて来られるのではなく、不思議にも、ひ弱な赤ちゃんとして、ひとりの処女から生まれるというのです。そのことをイザヤ7:14では、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」と預言されます。

このインマヌエルとは、「神は私たちとともにおられる」という意味だとマタイ1:23では説明されています。ヨセフは許婚のお腹が大きくなって困惑したとき、このみことばを聞きました。

 

 この救いの到来は、イザヤ40:9においては「O thou that tellest シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。 『見よ。あなたがたの神を。』」と告げられます。それはまさに新しい時代を神が開いてくださるときなのです。

それはまた、イザヤ60:1で「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いている。」と言われます。主の栄光はエルサレム神殿というより、何とあなたの上に輝くというのです。

そして、これらのことばを縮めた形で、シオンに良い知らせを伝える者よ。起きよ!ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」「見よ。 【主】の栄光があなたの上に輝いているという合唱が歌われます。

「主の栄光」が「あなたの上に輝く」とは何ということでしょう。あなたにも、何も状況が変わっていないのに突然世界が違って見えたというときがあったのではないでしょうか。そのことが、イザヤ60:2,3で「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」と述べられます。

たとえば、第二次大戦中ナチスに反対して殉教の死を遂げたディートリッヒ・ボンヘッファーは、「刑務所の中では、むしろ、クリスマスという名のみで祝われる多くの場合より、はるかに意味深い、より本質的なクリスマスが祝われていると言えます。悲惨、苦しみ、貧困、孤独、失望、そして罪が、神の目には人間の裁きとはまったく別の意味を持つこと、また、人が目を背けようとするまさにその場所に神は目を向けたもうこと・・を囚人たちは他の人よりもより深く理解するのです・・こうして、獄舎の壁はその意味を失うのです」と語っています。

暗闇が世界を覆う中で、キリスト者の上には主の栄光が照らされていました。彼自身、牢獄のクリスマスで、「この頃になって僕はあの『飼い葉おけの傍らに』という歌をやっと初めて自分のものとして理解できたと思います・・・この歌を理解し、自分のものとするためには長い間ひとりでいて、黙想しつつ読まなければならないようです。ことばひとつひとつに特別な含みがあり、美しい・・・」と書いています。

「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」とありますが、イエスを主と告白するキリスト者は、どこにおいても光を放つことができます。ヒトラーは恐るべき破壊力を持っていました。

しかし、その後のドイツの歴史を導いたのはボンヘッファーのような信仰者ではないでしょうか。この世の権力者は、死をも恐れないキリスト者に常に最終的には屈服せざるを得なくなるのです。壊すことしかできない者たちを恐れる必要はありません。

なお、「しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる・・・」とは、誰よりもまず、キリストご自身に見られたことです。そして、それは同時に、キリストに従うすべてのキリスト者のうちに実現したことでもあります。

そのことが、イザヤ9:2「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と述べられます。そして、ひとりの処女から生まれる救い主の誕生のことが、イザヤ9:6コーラスで、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議、助言者(カウンセラー)、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と歌われます。

かつてサムソンの父に対し、主の使いはご自身の名をわたしの名は不思議という」と言われました(士師13:18)。また救い主は私たちにとって最高のカウンセラーであると同時に「力ある神」です。イエスは男だけで五千人の人々の腹を満たすことができました。「永遠の父」と呼ばれるのは、イエスが「父なる神である」という意味ではなく、私たちが心から信頼することができる権威者であるという意味です。

「平和の君」とは、イエスこそがこの世界に最終的な平和をもたらすという意味です。それはイザヤ書11章に記されているように、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」(6-8節)と言われるような完全な平和をこの方が実現してくださるからです。

私たちは、救い主のみわざをあまりにも小さくとらえているのではないでしょうか。イエスによって世界はすでに変わりました。そして、主のみわざは今も続いています。そして、それは「神の平和」という完成に向かっているのです。

3.彼のくびきは負いやすく、彼の荷は軽い

救い主の誕生は、誰よりもまず、最も貧しい羊飼いたちに知らされました。その様子が、ルカ2:8-11で、「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」と描かれています。当時の人々は、エルサレム神殿で礼拝をしながら、「主の栄光」の現れを待ち続けていました。しかし、その栄光は、そのような礼拝を守ることができない貧しく孤独な羊飼いたちに現されたというのです。何という不思議でしょう。

御使いは彼らに、「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と言いました。「ダビデの町」とはベツレヘムのことですが、救い主は、新しいダビデとして生まれ、新しい神の国を建ててくださる方だというのです。キリストとはヘブル語のメシヤ、油注がれた王という意味です。イエスは、新しい神の民全体の王となるためにダビデの町に生まれられたのです。

そして、この知らせとともに、ルカ2:13「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った」というのです。天の大軍勢の賛美が、羊飼いたちに向かって演奏されました。

その内容は、ルカ2:14コーラスのいと高き所に、栄光が、神にあるように。 地の上に平和が、人々にあわれみが下るようにです。ヘンデルのメサイヤでは、「栄光が神に」と並行して、「地に平和が」と歌われます。「地の平和」の鍵は、世界中で神があがめられことだからです。

しかも、それは単に戦争がない状態ではなく、人々の上に神のあわれみが下され、ひとりひとりが平安に満たされる状態を指します。それは、「みこころにかなう立派な人々に平安がある」というのではなく、羊飼いのように軽蔑されていた人々に主のあわれみがくだることです。イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言いました。主のあわれみは、誰よりも自分の惨めさを自覚する人の上に下るのです。

そして、ゼカリヤ9:9,10をもとにした「Rejoice 大いに喜べ、シオンの娘よ。 喜び叫べ、エルサレムの娘よ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい救い主で、諸国の民に平和を告げる」と歌われます。イエスがエルサレムにロバに乗って入場されたとき、このみことばが成就しました。

あなたの王が、あなたの家に、あなたの職場にも入ってこられ、そこに平和をもたらしてくださるというのです。私たちは平和を求めながら戦いを作り出してしまいます。人類が起こしてきたすべての戦いには、「平和の実現!」という名目があることでしょう。あなたまわりでも、自分の力で平和を実現しようとする人が争いの原因となっていないでしょうか。平和をもたらすのは、救い主ご自身のみわざです。

そればかりか、この「神の平和」は、イザヤ35:5,6で、「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」と描かれます。

平和は、軍事力によってではなく、私たちを圧迫する様々な病や災いから解放されるという「喜び」とともに実現するというのです。イエスが数多くの病を癒され、悪霊を追い出されたのは、喜びに満ちた平和を実現する救い主であるというしるしなのです。

 

 私たちは頑固で遠くを見渡すことができない羊のような者ですが、イザヤ40:11でHe shall feed 主は羊飼いのように、その群れを飼う。御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」と歌われるように、あなたは弱くても、力強い羊飼いが守ってくれます。

「救い」とは、弱い人間が強くなるということではありません。私たちはたとい愚かで頑迷でひ弱な羊であっても、そのままで平和を味わうことができますそれは羊飼いの働きなのです。

  私たちはこの世で様々な苦しみを味わっていますが、そんな私たちをイエスは招いておられます。このヘンデルのメサイアでは、イエスが「わたし」といわれたことばを、「彼」と言い換えて、私たちの目をイエスご自身のみわざに向けさせようとしています。それが、マタイ11:28、29「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、彼のところに来なさい。彼があなたがたを休ませてくださいます。彼は心優しく、へりくだっておられるから、あなたがたも彼のくびきを負って、彼から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」です。

「休み」を得るとは、働きがなくなることではありません。それは退屈というもうひとつの地獄へと人の心を追いやるだけです。私たちはイエスのくびきを負うことによってのみ、「休み」または、「平安」を体験できます。これは私たちが自分に課せられた使命を、人からではなくイエスご自身から与えられたものとしてとらえなおし、人を喜ばせるためではなく、イエスを喜ばせるために働くことができるようになることです。

 そして、第一部の最後にマタイ11:30コーラス彼のくびきは負いやすく、彼の荷は軽いから。」と歌われます。それは私たちがイエスを自分の王として受け入れることを指し示します。私たちは、「王」としてのイエスをお迎えするのがクリスマスの意味です。あなたの王は誰なのでしょう。自分を王とするものは傲慢なもので、どこかで躓きます。人を王とするものは奴隷となり、人の目を気にしながら生きざるを得ません。あなたの王、それはイエス・キリストです。

二千年前に、あなたの王がこの地に、人として下って来られました。そして、あなたは神の栄光にとらえられて、「イエスは私の主です」と告白することができました。それは、全世界の創造主があなたの心の中に住んでくださったことを意味します。

そして、「神の平和」とは、あなたの心の中から、あなたのまわりの世界へと広がり続けています。あなたがどんなに大きな失敗や罪を犯したとしても、その弱さが現される中にこそ、イエスの支配は認められるのです。

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2007年12月16日 (日)

哀歌3章40節~5章22節「哀歌からクリスマスへ」

 百万人の福音一月号の特集は「祈れない時にー知らなかった豊かな世界」と題して、小生の詩篇の翻訳交読文を含め六ページにわたって記載していただきました。十数年前に、詩篇の中にある「うめきの祈り」に深く感動して、それを熱く語ったとき、「そんな暗い話ばかり聞きたくない・・・」という反応が多かったのですが、時代が変わってきた感じがします。
 当教会のクリスマス・イヴ音楽礼拝は24日(月)午後4時半開始です。ドイツ系の深い味わいのクリスマスの賛美歌を含め有名な英米系のクリスマスキャロルやクリスマスの古典的な曲を、弦楽四重奏、ソプラノ、味わい深いリードオルガンの演奏で味わい、分かりやすいメッセージもあります。どなたでも歓迎します。
 今回の拙著「心を生かす祈り」の巻末に、ルターやパウル・ゲルハルドのクリスマスコラール、それぞれ15番までとか9番までを歌えるように訳しています。ぜひ味わってみていただければ幸いです。今回のメッセージの最後にも少し解説を載せています。
列王記からイスラエル王国の滅亡までの歩みを見た後、二回にわたって哀歌を読んでいます。バビロン捕囚の悲しみを歌ったものですが、
現代の人々は、富の欲望の帝国「大バビロン」の捕囚となっているともいえるのではないでしょうか。本当に多くの人々の心の余裕がなくなっています。
「クリスマスのお祝いの季節に哀歌を読むなんて・・・皮肉みたい」という声が聞こえそうですが、聖書からするとその連続性は驚くほど明確です。バビロン捕囚という異教の帝国の支配はローマ帝国に至り、人々はその支配からの解放を望んでいました。今も、世の多くの人々は黙示録が語る「大バビロン」という富の欲望の帝国の支配下で捕囚とされ、真の心の自由を求めてうめいています。世界のうめきを聞くことなくして、イエス・キリストがもたらしてくださった救いの喜びは分かりません多くの人は、「喜びとは悲しみのないことであり、悲しみとは喜びのないこと」だと考えがちです。しかし、神の子イエスは、悲しみのお方であり、また完全なる喜びのお方でもあります。

ヘンリ・ナウエンは、喜びと排除しあう関係にあるのは、悲しみではなく、「皮肉」であると言いました。皮肉屋はどこへ行っても闇を探し出し、小さな喜びへの感動を軽蔑するからです。これは本日の箇所では、「横着な心」とも呼ばれます。自分の罪を悲しむことに横着な心は、神の赦しを喜ぶことにも横着になることでしょう。

バビロン捕囚の悲しみを歌った哀歌を、私たちの救い主イエスご自身が口ずさみました。そればかりか、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3)と預言されたように、彼はエルサレムで起こった人々の悲しみをご自分で体験するために神でありながら人となってくださいました。

クリスマスは、神が人の悲しみをご自分で体験するために人となってくださったことを記念するときです。「私が悲しんでいるとき、神はどこにいるのか・・」と問いかける人に、神は、「わたしはあなたの心の中で、あなた以上に悲しんでいる」と言われるのではないでしょうか。それを知るときに、何も状況が変わっていないのに、そこに希望があふれているのが分かるでしょう。

1.「主(ヤハウェ)のみもとに立ち返ろう」

哀歌の作者は、エルサレムの悲劇を、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(3:38)と、全能の神のみわざと受け止めています。その上で、「私たちの道を尋ね調べ・・・よう」(3:40)と、「尋ねる」と「調べる」の両方の訴えがなされます。これは、この世的な意味での「反省」ではありません。

人は、何か悪いことが起こったとき、その原因を探り求め、「あの人のせいで・・・」とか、「あのことのせいで・・・」という結論を引き出します。たとえば、この世の歴史家は、エルサレムが廃墟とされたことを「外交政策の失敗」と位置づけることでしょう。しかし、聖書は、そのような発想自体が神の怒りを買っていると言います。

それで、著者は、「道を尋ね調べる」方向を、「主(ヤハウェ)のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも、天におられる神に向けて上げよう」(3:40)と訴えます。

「立ち返る」とは「悔い改める」とも訳されることばですが、このわざわいが神によってもたらされたからこそ、神にすがり、手と心を神に向けてあげて祈ることが解決になるというのです。私たちも何かのわざわいに直面したとき、人間的な原因探しをする以前に、神に「立ち返る」ことが何よりも大切ではないでしょうか。

たとえば、家庭や共同体の中では、誰かを悪者に仕立てようとする自称「善い人」自身が、最大の癌であるということがよくあります。しかも人は、自分が苦しみに会ったとき、誰かを悪者にしなければ自分が成り立たないようなところがあります。しかし、そのようなとき、何よりも大切なのは、起こっているできごとを神との関係から見直すことではないでしょうか。

その上で著者は、「私たちはそむいて逆らいました・・・」(3:42)と告白します。しかし、よく考えると、罪を犯したのは、彼ではなく、彼の父祖であり、また彼の同胞です。ところが著者は、自分がその共同体の一員であるという現実を重く受け止め、その代表者であるかのように、神に祈っています

たとえば、子供は、親に与えられた豊かさを享受し、親の遺産を受け継ぐのは当然の権利であると考えますが、それなら反対に、親が残した不の遺産に対しても責任を果たすのが当然であるとも言えましょう。

「それは私のせいではない!」という前に、自分がその共同体の中で生かされているという現実を覚え、共同体の罪の赦しを神に願うという姿勢も大切でしょう。

なお、「あなたは私たちを赦してくださいませんでした・・・御怒りを身にまとい、私たちを追い、容赦なく殺されました・・・」(3:42,43)という訴えは、神を非難するというより、わざわいの意味を神の視点から冷静に認めようとする姿勢です。これが神の御怒りによるのであれば、それが「なだめられる」ようにあわれみを乞うしかないからです。

そして、著者は、エルサレムを滅ぼした敵の傲慢さを訴えるとともに、「私の民の娘の破滅のために、私の目から涙が川のように流れ、私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、主(ヤハウェ)が天から見おろして、顧みてくださるときまで続く」(3:48-50)と、涙を流しながら主のあわれみの御手を差し伸べてくださるのを待ち望んでいます。

彼は、「もう絶望だ」(3:54)と言いますが、そのとたん不思議な展開が起こり、「主(ヤハウェ)よ。私は深い穴から御名を呼びました。あなたは私の声を聞かれました・・・私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました」(3:55-58)という感謝へと導かれます。

私たちも、「もう終わりだ・・」と思ったとたん、「まだ、私は生きている!」と感動したことがないでしょうか。私たちが自分の悲しみ、まわりの人々の悲しみに涙を流すことは大切ですが、それで終わらずに、「今、なお、生かされている」ということ自体を、神の救いのみわざと感謝を持って受け止める必要もあります。わざわいをもたらす神は、同時に、道のない所に道を開くことができる方でもあります。人は、生きている限り、希望があります。

最後に、「主(ヤハウェ)よ。あなたは・・・ご覧になりました。どうか、私の訴えを正しくさばいてください・・・あなたは聞かれました・・・・私は彼らのからかいの歌になっています」(3:59-63)と、自分たちが虐げられ、嘲られていることを切々と訴えながら、同時に、そのようなわざわいを直接的にもたらした敵の傲慢を砕くように訴えます。

その際、「横着な心を彼らに与え、彼らにのろいを下してください」(3:65)と言います。「横着な心」とは、「覆いをかぶされた心」とも訳すことができることばです。彼らの心が繊細で柔らかいなら、彼らはすぐに神に悔い改めます。するとあわれみ深い神は、彼らを赦してしまいます。それでは期待していた神の復讐が実現しません。それで彼は被害者の正直な気持ちとして、「彼らが傲慢のままいて、神にさばかれる」ということを願ったのです。

この著者は同胞の痛みや敵のからかいに深く傷つく「繊細な心」をもって主に祈っていますが、それこそ神の賜物といえましょう。あなたは「横着な心」と繊細な心のどちらを望んでいるでしょうか。

2.私たちは・・見張った。救いをもたらさない国の来るのを・・・」

  4章は再び各節の頭文字がヘブル語のアルファベットの順番にならべられた詩になっています。「ああ、金は曇り・・」(4:1)とはエルサレム神殿が滅ぼされた様子だと思われます。「ジャッカルさえも・・・乳を飲ませるのに、私の民の娘は、荒野のだちょうのように無慈悲になった・・・」(4:3)とは、母親が自分の空腹を満たすのに精一杯になり、野の獣よりも無慈悲になっている様子が訴えられています。それはまた、「私の民の娘の咎は、ソドムの罪より大きい」(4:6)とも評されます。何と、神の民イスラエルが、堕落と退廃の代名詞の町よりも罪深いというのです。

また、「そのナジル人は雪よりもきよく・・・その姿はサファイヤのようであった。しかし、彼らの顔は、すすよりも黒くなり・・・かわいて枯れ木のようになった」(4:7,8)とは、神に自分の身を聖別した人が、どれほど惨めな状態に落とされたかを表現しています。神殿が廃墟とされたとき、神殿を頼りに生きている人はすべてを失いました。

そして、「剣で殺される者は、飢え死にする者よりもしあわせであった」(4:9)とは、バビロンに包囲されたエルサレムの飢餓の激しさを描いています。そして、220節に続いて、「あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子供を煮て、自分たちの食物とした」(4:10)いう悲劇が再び描かれます。これは、レビ記26:29、申命記28:53、エレミヤ19:9などで繰り返し警告されていた悲劇です。しかし、彼らはその警告を真剣に受け止めませんでした。

そして、「主(ヤハウェ)は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、シオンに火をつけられたので、火はその礎までも焼き尽くした」(4:11)と、主ご自身が主の宮を廃墟とされたと描かれます。

そして、その理由が、「これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである・・・」(4:13)と描かれます。彼らは神殿を自分の生活の手段に貶めました。そこでは、神のみことばの名目で、人をさばき、自分の身を守ることが正当化されました。しかし、神のことばが正しく語られない神殿などは存在意味がないばかりか害にしかなりません。それで神はこの空虚とされたご自身の宮をご自身で滅ぼされたのです。

使徒パウロも若い牧師のテモテに向かって、「敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じる」(6:5)と警告しています。みことばを取り次いで糧を得ている教師は、特に自分を厳しく律する必要があります。聖職者と見られた人が、「あっちへ行け。汚れた者」(4:15)と軽蔑されることにならないために。

「私たちの目は、衰え果てた。助けを求めたが、むなしかった。私たちは・・見張った。救いをもたらさない国の来るのを・・・」(4:17)とは、エルサレムの人々が、南の国エジプトに頼って、北のバビロン軍に立ち向かおうとした愚かさが描かれています。

しかし、「私たちを追う者は、大空の鷲よりも早く、山々の上まで追い迫り・・・主(ヤハウェ)に油注がれた者までも、彼らの落とし穴で捕らえられた」(4:19,20)と、主に油注がれた王の惨めな最後が描かれます。

最後の王ゼデキヤは、預言者エレミヤのことばを何度も聞きました。彼がそれに聞き従っていたら、多くのユダヤ人たちはこのような悲惨に会わずに生き延びることができたはずでした。神の民の指導者の頑迷さと堕落ほど神の民にとって有害なものはありません。そして、ゼデキヤは、息子の死を見た直後に、その目をえぐりとられます。それは、主ご自身が、「主(ヤハウェ)に油注がれた者」であるイスラエルの最後の王にくだしたさばきでした。

預言者イザヤは、「神である主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたはそれを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう』それなら、あなたがたは逃げてみよ・・・」(イザヤ30:15)と言っています。

ここで「立ち返る」とは「悔い改める」こと、「信頼する」とは「待ち望む」とも訳されることばです。つまり、目の前の危険は、神に立ち返ること、神を待ち望むことを迫る神からの招きなのです。それを無視して逃げることを考えても、わざわいをもたらす根本原因が神であるならば、誰も逃げおおせることはできません。

4章の最後に、ユダ王国の滅亡を、その隣国エドムが何よりも喜ぶ様子が描かれます。しかし、それと同時に、「シオンの娘。あなたの刑罰は果たされた。主はもう、あなたをとらえ移さない」(4:22)と、エルサレムに対する主のさばきが終えられることが預言される一方で、その滅亡を喜んだエドムへのさばきが宣告されます。エドムとイスラエルは兄弟でしたが、互いにその子孫の世代までも争い続けました。しかし、兄弟の悲劇を喜んだ「エドムの娘」は、「主はその咎を罰する。主はあなたの不義をあばく」と、神のさばきが公平にくだされることが語られます。

3.「主(ヤハウェ)よ。あなたのみもとに帰らせてください・・私たちの日を昔のように新しくしてください」

  「主(ヤハウェ)よ。私たちに起こったことを思い出してください・・・私たちの相続地は他国人の手に渡り・・・私たちはくびきを負って、追い立てられ、疲れ果てても、休むことができません」(5:1-5)とは、このバビロン捕囚以後のイスラエルの民の嘆きを要約するような表現です。「私たちの先祖は罪を犯しました・・彼らの咎を私たちが背負いました・・」(5:7)とは、それ以降のすべてのユダヤ人たちの告白になっています。

「女たちはシオンで・・はずかしめられました。首長たちは彼らの手でつるされ・・・幼い者たちはたきぎを背負ってよろめき・・・私たちの心から喜びは消え、踊りは喪に変わり、私たちの頭から冠も落ちました」(5:11-16)とは、自分たちの国を失うことの悲劇をあらわしています。ユダヤ人はこの苦しみを味わい続け、今も、約束の地を完全に支配することに憧れています。

 

 「ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです」(5:16,17)とは、神のさばきを真正面から受けようとする姿勢です。バビロン捕囚のときのユダヤ人はこの姿勢によって、旧約聖書をまとめることができました。それがイエス・キリストの出現への備えとなりました。

そして、イエスは十字架にかけられるとき、「没薬を混ぜたぶどう酒」が差し出されてもそれをお飲みにならずに、痛みを真正面から受けられました。それによって私たちの罪があがなわれたのです。

 

 「シオンの山は荒れ果て、狐がそこを歩き回っているからです」(5:18)という嘆きは、エルサレム神殿の復興への待望へと結びつきます。イエスの時代の壮麗な神殿はヘロデ大王が完成したものでしたが、その栄光は見せかけばかりでした。イエスは、自己保身に汲々としているヘロデの息子、国主ヘロデ・アンテパスを、「あの狐」(ルカ13:32)とさえ呼びましたが、主の目には当時の壮麗な神殿の立つ「シオンの山」はなお「狐の歩き回る所」と見えたかのようです。そして、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)と言われました。それはご自身の十字架と復活で、人々に永遠の罪の赦しを与える真の神殿を完成するという意味でした。

 

 「しかし、主(ヤハウェ)よ。あなたはとこしえに御座に着き・・」とは、神がこのバビロン捕囚の悲劇をもご自身の御手の中に治めておられ、「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり・・将来と希望を与えるためのもの」(エレミヤ29:11)と呼んでおられるからです。それにしても、ユダヤ人たちは、その苦しみの中で、「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主(ヤハウェ)よ。あなたのみもとに帰らせてください・・私たちの日を昔のように新しくしてください」(5:20,21)と訴え続けていました。

それは当時のユダヤ人にとっては、ダビデ王国の栄光がこの地に再び実現することを意味しました。そして、救い主は、それに応える方としてダビデの町のベツレヘムにお生まれになったのです。そしてイエスは新しい意味でのダビデ王国、真の「神の国」を建ててくださいました。それは今も成長を続け、神の平和という完成のときへと向かっています。

  私たちの救い主は、二千年前、当時のユダヤ人をバビロン捕囚から救い出すために来てくださいました。目に見えるバビロン帝国はなくなっても新たなバビロン、ローマ帝国が来たからです。そして、今も、世界中の人々が、富と権力の国、「大バビロン」(黙示18:2)の圧政下で苦しんでいます。その人の持つ富と権力によって人間の価値が測られるような社会で、人は休みのない競争に駆り立てられています。自分のペースでゆっくりと仕事をしようと願っても、かなえられません。インターネットの普及で社会が驚くほど便利になったはずなのに、かえって余裕がなくなっているかのようです。まるで互いが互いの首を絞めあっているようなのが現代社会ではないでしょうか。

イエス・キリストはそんな私たちをこの大バビロンの捕囚状態から救い出すために来てくださったのです。それは、私たちをこのままで、目に見える現実を超えた永遠の神のご支配の中に招き入れるためです。そのことをパウロは、「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)と言い、ヘブル書の著者は、「私たちはこの地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」(13:14)と言い、またペテロは、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいるのです」(Ⅱペテロ3:13)と言いました。

  

私たちは物質的な意味では、哀歌の著者が憧れたような平和と繁栄をすでに手にしています。ダビデやソロモンがいたら目を丸くして驚くような豊かさの中に住んでいます。ですから、約束の地の回復こそが神の民の祝福の鍵だという幻想はそれだけでも明らかになります。哀歌の最後は、「それとも、あなたはほんとうに私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか」(5:22)となっています。どれだけ物質的な豊かさを体験していても、神から退けられ、怒られていると感じるような中では、何の平安も生まれません

 哀歌の中心にあるみことばは、「主(ヤハウェ)こそ、私の受ける分です」(3:24)という告白です。イエスは私たちを「神の子」とするために人となり、十字架にかかり、三日目によみがえられました。

「主よ、人の望みの喜びよ」の原歌詞は、「イエスを持つ私は何と幸いなことでしょう・・・」という歌詞から始まっています。それにまさる幸いはありません。

またマルティン・ルターが貧しさの中で子供たちへのクリスマスプレゼントとして作った賛美歌、「天より来たりて」(拙著P348)の歌詞には、飼い葉おけのなかにあふれる主の栄光のことが歌われ、私たちの心がイエスをおいれする飼い葉おけになるという不思議が歌われています。私たちは自分の心の闇を恐れる必要はありません。神の御子の御霊が私たちのからだをご自身の住まいとしてくださったからです。そこには、世界の痛みを見て涙を流す繊細な心と、まわりの状況に関わりなく喜ぶことのできる心とが同時に存在しています。この世はいつも私たちを新たな欲望へと駆り立てます。しかし、神ご自身を自分の財産とした者は、今、ここで平安を得られるのです。

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2007年12月 9日 (日)

哀歌1:1-3:39「苦しみが意味するもの」

イスラエルの歴史でエルサレムの陥落とバビロン捕囚がなければ救い主への待望が生まれませんでした。
先週までで列王記が終わりましたが、バビロン捕囚の悲しみがほとんど表現されていませんでした。それで今回は二回にわたって哀歌を取り上げ、エルサレムが廃墟とされた悲しみに思いを向けたいと思います。イスラエルは毎年、アブの月の九日(真夏の日)に、一日中断食をして、哀歌を歌い、この紀元前586年に起きた悲劇を思い起こし続けています。
 哀歌とクリスマスは、実は密接な関係があるのです。
ところで、今週発売になる百万人の福音一月号には、小生の詩篇の私訳と解説が六ページにわたって掲載されます。ぜひお読みいただければ幸いです。それは、今回出版させていただいた「心を生かす祈り」二十の詩篇の私訳交読文と解説ーの一部が抜粋されているものでもあります。その本も、合わせてお読みいただければ幸いです。

                             2007129日 

 映画「マリア」では、その最初と最後で、ヘロデ大王によってベツレヘム近郊の幼児が虐殺されるという「嘆き」が描かれています。それは、神の御子が、世界の嘆きのただなかに降りてきてくださったことを意味します。救いとは、苦しみがなくなること以前に、苦しみのただ中に「愛、喜び、平安・・」(ガラテヤ5:22)が見出されることにあるからです。そして、その暗い中にひときわ輝いているのが、ヨセフとマリヤの愛の交わりでした。この世の暗さやさみしさは、神の光を輝かせる舞台となっています。すでに、「光はやみの中に輝いている」(ヨハネ1:5)のですから・・・。

1.「主(ヤハウェ)よ。ご覧ください。私は苦しみ・・・」

哀歌は紀元前586年のエルサレム陥落の悲劇を歌っています。Ⅱ列王記25章は淡々とこの悲劇を、町がバビロン軍に包囲される中で、ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなった。そのとき、町が破られ、戦士たちはみな夜のうちに・・・町を出た、またバビロンの王の家来は、主(ヤハウェ)の宮とエルサレムのすべての家を焼き・・・エルサレムの回りの城壁を取りこわした・・・主の宮のすべての・・・器具・・・を奪った・・・こうして、ユダはその国から捕らえ移されたと描きます。そして、この悲劇を感情面に焦点を当てて描いたのが「哀歌」です。それは、はるかに遠い昔の遠い地の出来事のようでありながら、現代の私たちが味わう何らかの喪失体験と結びつきます。

最初のことばは、「ああ」という嘆きから始まります。これこそが五つの章全体を貫くテーマです。1,2章ともそれぞれの節の始まりの単語は、ヘブル語のアルファベットの順番に並んでいます。それは悲しみを残すことなく包括的に表現しようとする意図の表れかもしれません。「諸州のうちの女王は、苦役に服した」とは、天地万物の創造主によって女王のように大切にされ飾られた都が、廃墟とされたという意味です。そして続けて「彼女は・・・」という表現とともにエルサレムの嘆きが表現されます。また、バビロン捕囚のことが、「ユダは悩みと多くの労役のうちに捕らえ移された」(1:3)と描かれます。シオンへの道は喪に服し・・・」とは神殿が廃墟とされた痛みの表現です。

そして、それらの原因が、「エルサレムは罪に罪を重ねて、汚らわしいものとなった」(1:8)と、この悲劇が神のさばきによってもたらされたものであると描かれます。しかし同時に、「主(ヤハウェ)よ。私の悩みを顧みてください。敵は勝ち誇っています」(1:9)と、この悲劇を直接的にもたらした敵の傲慢さに目を留めてくださるように訴えます。

ここに聖書が示す世界観の核心があります。当時の常識では、エルサレムの陥落は、イスラエルの神、主(ヤハウェ)が、バビロンの神々の力に負けたことを意味します。しかし、イスラエルの敗北は、その神が弱かったためではなく、主(ヤハウェ)が敵の国を用いてイスラエルの不誠実をさばかれたという意味なのです。そのことが、「道行くみなの人よ。よく見よ。主(ヤハウェ)が燃える怒りの日に私を悩まし、私をひどいめに会わされた」(1:12)と描かれます。

そして、それはまた、「主(ヤハウェ)は正義を行われる。しかし、私は主の命令に逆らった」(1:18)という告白です。それと同時に、主(ヤハウェ)よ。ご覧ください。私は苦しみ、私のはらわたは煮え返り、私の心は私のうちで転倒しています・・・私の敵はみな、私のわざわいを聞いて、喜びました・・・彼らのすべての悪を御前に出させ・・・彼らにも報い返してください。私のため息は大きく、私の心は痛みます」(1:20-22)と、自分の苦しみを主に訴え、自分を苦しめた者へのさばきを、自分を懲らしめているはずの主に訴えています。ここで興味深いのは、自分を懲らしめている張本人は、神であると言いながら、なおも神にすがろうとしていることです。多くの人は、自分をいじめる者からは離れようとします。しかし、この人は、その方にすがるばかりか、敵へのさばきまでを訴えています。そこにあるのは、主(ヤハウェ)こそがこの世界の真の支配者、すべての根源であるという信仰告白です。

私たちはこの世界で様々な苦しみに会います。しかも、それをもたらすのは、多くの場合、まわりの人々の裏切りとか不誠実などの罪です。しかし、それは私たちの神が無力であることのしるしではありません。なぜなら、私たちが直面するすべての痛み悲しみは、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)とある通り、神の御手の中で起こっていることだからです。

神が苦しみをもたらすのに、三つの理由があると言われます。第一は、自業自得の苦しみです。それはこの世の常識的な考えであり、それは、「罪に対する罰」という意味です。この六百年あまり前に記されたはずのレビ記や申命記には、既にバビロン捕囚のことが警告されています。イスラエルの民がこの悲惨を通して、自分たちの神が無力だったと思う代わりに、神に立ち返ることができたのは、そのことが事前に何度も警告されていたからです。

そして、第二は、「平安な義の実を結ばせる」(ヘブル12:11)という「訓練」のためで、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」(同12:6)からです。しばしば、「風が強い崖っぷちに生えた木は、根を深く伸ばしている」と言われるとの同じように、信仰が根付くためには試練が必要なのです。

第三は、脅しの力(サタン)への勝利のためです。義人ヨブは、自分の苦しみの理由を知りはしませんでしたが、主から目を背けず、主に向かって嘆き続けることで、サタンに打ち勝ちました。たとえば暴力団が、脅しをかけながら用心棒料を請求するように、サタンは「俺にひざまずくならわざわいを取り去って幸せを与える」と誘惑します。しかし、パウロが、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか・・・」(ローマ8:35)と問いかけたように、どのようなわざわいも私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なう力はありません。人は心の底で、死の脅しにも屈することのない永遠の愛への憧れを抱いています。事実、古代キリスト教会の急成長の鍵は、キリスト者のいのちが、苦しみのただ中でも輝いていたからです。苦しみには、神の救いのみわざを成就する力が秘められています

そして、バビロン捕囚にはこれら三つの要素が含まれています。イスラエルの民は、この苦しみを経て初めて、唯一の神、主(ヤハウェ)だけを拝む民とされました。このとき以降、ユダヤ人は原則、決して偶像の前にひざまずくことがなくなりました。それが行過ぎて誤った選民意識という傲慢になったという面はありますが、この点は高く評価できます。また、ユダヤ人たちが苦しみを通して、ますます神を慕い求めるようになったからこそ、聖書が世界中で読まれるようになったのです。不思議に彼らは、このバビロン捕囚を通して、世界に唯一の神を示したのです。

2.「シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。」

2章も各節の頭の文字がヘブル語のアルファベットの順番に並んでおり、「ああ・・」という嘆きから始まります。そして、「主は・・・燃える怒りをもって・・・敵のように、弓を張り・・・敵のようになってイスラエルを滅ぼし」(2:3,4,5)と、主がイスラエルの敵となられたかのように描かれます。しかし、それに続いて、「主(ヤハウェ)はシオンでの例祭と安息日を忘れさせ・・・その祭壇を拒み、聖所を汚し・・・」(2:6,7)と不思議な記述があります。それはまるで、主が、ご自身が大切にしておられたものを投げ捨て、ご自身を傷つけられているかのような表現です。ここに神ご自身の痛みが伝わってきます。これは、親が涙を流しながら子供にむちを加えているような情景です。真の親なら、子供を打つ自分の手が痛んでたまらないのではないでしょうか。愛」の反対は、「怒り」ではなく、無関心と言われます。神はご自身の民を心から愛され、無関心になることができないからこそ燃える「怒り」を発せられるのです。

そして、この作者自身が、「私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の傷を見て、地に注ぎだされた」(2:11)と、自分の痛みを心のそこから味わいつつ、それをことばとして表現しています。人は、しばしば、激しい苦しみに会うとき、自分の感覚を麻痺させると言われますが、痛みの感覚を麻痺させるものは、喜びの感覚をも麻痺させてしまいます。涙と笑いは矛盾するものではありません。それを誰よりよく知っているのは古典落語家でしょう。悲しみにブレーキをかけると、それだけ回復が遅れてしまうという現実があります。

そして、現実に目を閉ざさせ、「恐れ」の感覚を麻痺させたのが、何よりも偽預言者たちの罪です。そのことは、「あなたの預言者たちは、あなたのためにむなしい、ごまかしばかりを預言して、あなたの繁栄を元通りにするため、あなたの咎をあばこうともせず、あなたのために、むなしい、人を惑わす預言をした」(2:14)と記されます。偽預言者は、威勢の良いことばかりを言って、迫りくる危険を軽く見させ、民の被害を拡大させました。これはC型肝炎の感染の告知を怠って、見当違いの治療を進めさせるのに任せた製薬会社や厚生労働省のようなものです。

確かに、災いの原因を遡っても無意味なこともあります。しかしこの作者は、「主(ヤハウェ)は企てたことを行い、昔から告げておいたみことばを成し遂げられた」(2:17)と語っています。なぜなら、ヨシヤ王が律法の書を発見したときに、荒布を着て主にすがったという記述があるように、エルサレム陥落の三十年余り前には、偶像礼拝に対するさばきが来ることが国民全体に知れ渡っていました。それにもかかわらず、ヨシヤの後の時代の人々は、場当たり的な対応を続け、その問題に直面することを避けさせてしまいました。目の前の危険やわざわいは、私たちの存在の根本に立ち返らせてくれます。それは、たとえば、心臓疾患を患っている人が、心臓の規則的な鼓動を聞きながら、それ自体が奇跡であると感動するようなことです。いのちは不思議に満ちています。私たちは吹けば飛ぶようなひ弱な存在ですが、創造主によって生かされている存在です。それを思うとき、いのちの喜びを味わうための大前提は、何よりも、あなたの創造主を知り、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛する」ことであることが分かります。しかし、何としばしば私たちは優先順位を忘れてしまうことでしょう。

 しかし、それでも私たちは、目の前の問題に圧倒され、原点を忘れて、自業自得で災いを招くことあります。そのときに必要なのは、自分の心の「城壁」を守ろうと自己弁護に走ることではありません。ただ悔い改めの涙を流すことです。それが、「シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。ぼんやりしてはならない。目を閉じてはならない。夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」(2:18,19)という訴えです。それは自己憐憫の涙ではありません。災難の中で、真っ先に被害を受けるのは、あなたのまわりの社会的な弱者です。ですから、「主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子のために祈れという訴えがなされ、その上ですでに起こっている悲惨を、主(ヤハウェ)よ。ご覧ください。顧みてください・・・女が、自分の産んだ子、養い育てた幼子を食べてよいのでしょうか」(2:20)と祈っています。私たちは、耐え難い悲惨を見たとき、「神がおられるなら、なぜ・・」という疑問を持ちます。しかし、それは傍観者的な神学論議になっている可能性があります。私たちに求められているのは、何よりもまず、「主よ。ご覧ください!」と、目の前の悲惨を主の前に訴えることです。ことばに表すことのできない幼子の叫びを自分の叫びとして声に出して訴えることです。

3.主の真実は力強い

3章は、三つの節ずつがセットになっています。最初は、「アニー(私は)」という嘆きから始まっています。1節は、「私は主の激しい怒りのむちを受けて悩みに会った者」から始まり、六番目の段落の終わりは、「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた」という絶望で終わっています。そして、19,20節では、「悩みとさすらいの思い出」を「思い出し・・思い返す」ということばが強調されています。この七番目の段落こそが転換点です。私たちは「嫌なことは早く忘れる!」ということで心の安定を保つことができます。しかし、「これを思い出しては沈む」というような苦しみの歴史を記念し続けるということも必要なことがあります。イスラエルの民はどのような迫害にも耐えて、主を待ち望み続けていますが、その秘訣は、エルサレム陥落の日を永遠の記念日としたことにあります。

その根拠が、八番目の段落の、「主(ヤハウェ)の恵み(ヘセッド)のゆえに、私たちは滅び失せなかった」という宣言です。この「恵み(ヘセッド)」こそ聖書を貫くテーマです。それは神が、イスラエルの不従順にもかかわらず、アブラハムとダビデに対する契約を守り通してくださることを意味します。それとともに、「主のあわれみは尽きない」とありますが、「あわれみ」とは、民の嘆きに合わせて主のはらわたが震えるような感情をあらわします。主は、苦しんでいる民を、ただ見下ろしているような方ではありません。そして、「それは」とは「それらは」とも訳すべきで、「主の恵み(ヘセッド)とあわれみ」が、「朝ごとに新しい」と歌われます。また、それが変わることのない「真実」であることが、「あなたの真実は力強い」と言い換えられます。これは英語では、「great is thy faithfullness」と訳され、Ⅱ賛美歌191「主のまことは」という賛美がここから生まれています。なお、「真実」とは「アーメン」と同じ語根のことばです。

最後に、「主(ヤハウェ)こそ私の受ける分です」とは、すべてを失うほどのわざわいに会っても、主との交わりさえ保たれているなら、何も恐れる必要はなく、すべての必要が満たされるという意味です。それとは反対に、どれほどこの世の富を得ていても、主との交わりがなければ最終的にすべてを失うことになるという意味でもあります。

そして25節からは九番目の段落が三節とも、「トーブ(良い)」で始まります。最初の「良い」は、「いつくしみ深い」と訳されていますが、主のすばらしさを味わう何よりの秘訣は、ただ黙って、主の救いを待ち望むことにあります。しかも、「人が、若い時に、くびきを負うのは良い」と、若いときの苦しみこそ、後の人生を豊かにする秘訣であると、苦しみを積極的に評価しています。そして、「口をちりにつけよ」とは、顔を地につけ、奴隷としての姿を受け入れることです。また、「自分を打つ者に頬を与え、十分にそしりを受けよ」(3:30)という勧めをもとに、イエスは、「右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われました。それは、「主は、いつまでも見放してはおられない・・・主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられない」(3:31,33)とあるように、主の救いが期待できるからです。主は、あなたに代わって、あなたの敵に復讐してくださいます。その上で、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口からでるのではないか」(3:38)と、すべてが主の支配下にあることが告白されます。

そして、「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか」(3:39)とは、「生きている」ことを「つぶやく」のではなく、「生かされている!」という感謝の心を持つ勧めです。それは、22,23節にあった「主の恵みとあわれみが朝ごとに新しい」ことへの感動です。そして、私たちがつぶやく」べき対象は、神ではなく、自分自身の罪深さではないでしょうか。それは涙を十分に流して泣いた後に起こるべき、人生の振り返りの勧めです。

私たちは、全宇宙の創造主であられる神の御子が、父なる神に信頼して徹底的にご自分を低くされた姿に習うように召されています。イエスの誕生の貧しさに、神の救いの不思議さが現されています。この世には様々な不条理があり、また自業自得の苦しみもあります。しかし、そのような中で、主の前で「嘆く」なら、そこに不思議な慰めが生まれます。ある方は、夫があまりにも早く癌で召されたとき、「なぜ・・」と問いながら答えを見出せない中で、「わたしは・・知っている」という神の御声を聞き、深い慰めを得ることができました。主は、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・・それはわざわいではなく、平安と希望を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ」(エレミヤ29:11)と語っておられます。これこそ、聖書が語る苦しみの意味です。

Hidenori Takahashi
tachikawa evangelical free church

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2007年12月 2日 (日)

Ⅱ列王記23章28節~25章30節「エルサレムの陥落の意味」

今日は待降節の第一主日です。神の民イスラエルが救い主の到来を待つようになったのは、彼らが紀元前586年に自分の国を失ったからです。その滅亡に至る過程が以下の箇所です。順番に聖書を読んできて、ちょうど待降節に始まりにこの箇所にくることができたのは感謝です。
 国や組織がつぶれる過程には多くの共通点があります。しかし、同時に、イスラエルのこのような滅亡がなければ、聖書信仰が生まれることもありませんでしたし、救い主を待ち望むという待望も生まれませんでした。どうしようもない暗闇に突入するということは、実は、真の救いへの入り口です。
 この季節のたびに、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(イザヤ9:2)という箇所が読まれ、救い主の降誕が喜ばれます。しかし、闇への突入の過程を素通りして、救い主の意味を本当に知ることができるのかと思います。
 もしあなたが、「今、やみの中を歩んでいる・・・」と思われるなら、それこそ、クリスマスを祝う最大の理由があります。
 
Ⅱ列王記2328節~2530節「エルサレムの陥落の意味」

                                             20071128

  神の御子が処女マリヤを通して人となろうとされたとき、世界はかえって暗くなったように見えました。マリヤは結婚もしていないのにお腹が大きくなり、婚約者のヨセフも困惑のあげく、苦しい旅を強いられます。ふたりは周りからよそ者として扱われ、彼らを迎える宿もありませんでした。しかも、救い主の誕生を聞いたヘロデ大王はバツレヘム近郊の二歳以下の男子をみな殺します。幼子のイエスはマリヤとヨセフに抱えられてエジプトに逃げざるを得ませんでした。これはすべて、神が救い主を処女マリヤから生まれさせるなどという途方もないことを計画したためです。しかし、それはすべて、既にあった悪があぶりだされただけのことではないでしょうか。私たちの周りには、一見、闇が増し加わるように見えるときがあります。しかし、それこそ救いが近づいているしるしかもしれません。神の御子は邪悪な世界のただ中に住むために人となってくださいました。そこに希望が生まれました。

1.神のみことばを聞きながら、失敗をする王たち

イスラエル、ユダ王国を通して、神への真実さにおいてダビデに次ぐのがヨシヤでした。しかし、その最後は悲劇です。紀元前609年、エジプトの王パロ・ネコは滅亡直前のアッシリヤ帝国を支えて新興国バビロンと戦うためユーフラテス河畔のカルケミッシュに向かいます。その途上、イスラエル領土を通過せざるを得ませんが、ヨシヤはネコの通過を阻もうと、エルサレムから百キロも北のイズレエル平原の町メギドで迎え撃とうとします。しかし、戦力の圧倒的な劣勢の中、ヨシヤは戦死します。これは徳川家康が武田信玄の上京を三方が原で阻止しようとして大敗北を喫したことに似ています。戦う必然性がないのにも関わらず勝ち目のない戦いになぜ挑んだのか、後代の歴史家は首を傾げます。それは、ヨシヤが、「信仰の落とし穴・・」に落ちたのではないでしょうか。彼は自分が主(ヤハウェ)に熱心であることを自負していました。そのような人は、しばしば、自分の心の思いを神のみこころと誤解します。それは信仰に熱心な米国のブッシュ大統領の戦争政策の過ちなのかもしれません。歴代誌の並行箇所では、「ヨシヤは・・・神の御口から出たネコのことばを聞かなかった」(Ⅱ歴35:22)と描かれています。神は神の民の敵と思われる人の口を通しても語ってくださいます。その意味で、自己義認こそ信仰の落とし穴でしょう。

その後、彼の子のエホアハズが王位を継ぎます。しかし、即位の三ヵ月後に彼は、ネコに捉えられ、アラムのダマスコよりはるか北の町リブラに幽閉され、その後エジプトに連行されて死にます(23:33,34)。彼は偉大な父の庇護のもとで苦労を知らずに育ち、主を恐れることも民をあわれむことも、外交政策も知らずに自滅したのでしょう。

エジプトの王は、もうひとりのヨシヤの子エルヤキム(神は確立した)の名をエホヤキム(は確立した)に改めさせ、傀儡政権とします。しかし、それから三年目の紀元前605年頃、バビロン帝国のネブカデネザルは、カルケミッシュでエジプト軍を打ち破り、エルサレムにまで攻め上って来ました。エホヤキムは彼に屈服し、神殿の宝物を渡します。このときバビロンに連行された貴族のひとりに預言者ダニエルもいます(ダニエル1:1)。これが第一次バビロン捕囚です。エホヤキムは三年間、ネブカデネザルに仕えますが、ここに主のみこころがあることを認めず、反逆の機会を狙い続けます。この間、預言者エレミヤは、主がバビロンを用いてエルサレムをさばこうとしていると語り続け、反逆などを考えずに、主に立ち返ることを第一にするように勧め続けますが、エホヤキムは何と、エレミヤを通して与えられた主のみこころを記した巻物を暖炉の火に投げ入れて燃やしてしまいます(エレミヤ36)

その後、エホヤキムの反逆を知ったネブカデネザルはユダ王国の周辺諸国にエルサレムを攻撃させます。歴代誌によるとエホヤキムは、青銅の足かせにつながれてバビロンに連行されます(Ⅱ歴代36:6参照)。ただ、彼が息を引き取ったのはエルサレムではないかと思われます(エレミヤ22:19)。エレミヤはエルサレムの住民の誰もが、この王の死を悲しまないと預言しています。彼は自分の身を守ることばかりを考え、民に重税を課しながら贅沢な生活を維持しつつ、エジプトやバビロンへの贈り物によって国の独立を保とうとしました。彼こそは国と国との信義を軽んじ、二股をかけて強い者に媚を売りながら下の者には横暴の限りを尽くす志のない悪王の代表です。神を知りながら神を恐れない者には、何の正義も期待できません。このような人は、「愛餐のしみ」(ユダ12)と呼ばれます。

聖書を読めば読むほど、信仰者であれば信頼できるという幻想が打ち砕かれます。人はみな、自分を中心にしか考えられません。そして、危機的な状況ではとんでもない過ちを犯すのが常です。信仰が増し加われば尊敬できる人間になれるというのは幻想です。信仰の核心とは、神のあわれみなしに生きられないことを悟ることです。

2. 平気で嘘をつく人たちの代表 ゼデキヤ

その後、その子のエホヤキンは18歳で即位して三ヶ月目にバビロン軍に包囲されますが、すぐに降伏します。それによって王は捕虜とされ、主の宮の財宝と王宮の財宝もすべて運びだされます。そればかりか「ネブカデネザルは・・・すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶屋もみな捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった」(24:14)とあるように、エルサレムから有能な人々はいなくなりました。これは、紀元前597年の第二次バビロン捕囚で、その中に預言者エゼキエルなどもいました。彼も、「主(ヤハウェ)の目の前に悪を行った」(24:9)のですが、バビロンにすぐに降伏した点では、主のみこころに従ったのかも知れません。彼は後にバビロンで釈放され、王宮で厚遇され、彼の名はイエス誕生の系図にエコニヤとして残されます(マタイ1:12)

そして、バビロンの王は21歳のエホヤキンのおじマタヌヤを王に立て、その名をゼデキヤと改めさせます。それはバビロンの王こそが彼の主人であるとのしるしでした。彼は十一年間王位にとどまりましたが、その第九年目の第十の月にバビロンの王に反逆します。それはエジプトの助けを得て国の独立を保とうとする偽預言者たちのことばに従ったためです。このことを歴代誌は、「彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主(ヤハウェ)に立ち返らなかった」(Ⅱ歴代36:13)と記しています。しかし、異教徒の王ネブカデネザルは、主の民の王よりはるかに誠実でした。彼は裏切り者には厳しくても、投降者には優しかったからです。

このとき主は、預言者エレミヤを通して、「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人に下る者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる」(エレミヤ21:89)と語られました。しかし、ゼデキヤはバビロンを裏切り、エルサレムに篭城して戦おうとします。それは、主が勝利を与えてくれるという偽預言者の声に従ったからですが、内心では自分の王位を守ることしか考えていなかったためです。

その少し前、ゼデキヤは主のみこころを求めようと、預言者エレミヤを召しだして尋ねました。エレミヤは、主(ヤハウェ)の御声に聞くこと、またバビロンのネブカデネザルとの契約を守ることを勧めますが、ゼデキヤは不思議にも、「私は、カルデヤ人に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない」(38:19)と答えます。彼は主(ヤハウェ)や敵の王ネブカデネザルよりも、同胞の民を恐れていました。それは、同胞こそがゼデキヤの変節によって苦しみ、この王が自分の身を守ることしか考えていないことに怒りを感じていたからです。今から十年ほど前に、米国の精神科医スコット・ペックが記した、「平気で嘘をつく人たち」という本がベストセラーになりました。ゼデキヤはまさにその本に出てくるような人間でした。彼は人々から嫌われたエホヤキムとは対照的に、良い人間と見られたいという欲求が強かったと思われます。人々の助言に従って預言者エレミヤの命を奪おうとしたり救おうとしたり、またエレミヤから主のみこころを聞こうとしたりなどと、いつも心が揺れているようですが、心の内側には何の真実も見られません。平気で人を裏切ることができました。

そして、約一年半の後、紀元前586年、町の中では飢饉が激しくなり、民衆に食物がなくなります(25:1-3)。このようなとき弱い者から順番に餓死します。そして、女が自分の子供を食べるという悲劇まで起きます(哀歌2:20)。そこに至っても、ゼデキヤは自分の身を守ることだけを考え、町から逃げ出します。しかし、彼はエリコの草原で、ついに家来に見捨てられ、とらえられます(25:4,5)かつてイスラエルが約束の地で最初の勝利を収めた場所が、イスラエル王家最後の場となったのです。バビロンの王はゼデキヤに子供の虐殺の様子を見させた上で、彼の目をつぶします。彼が最後に見たのは、息子が殺される様子だったというのは何という悲劇でしょう。これこそ、イエスが、「いのちを救おうとする者はそれを失う」(マタイ16:25)と言われた通りです。自分の保身を第一にし、民を省みなかった王は、誰よりも悲惨な最期を遂げたのです。神は不真実な者を、ご自身のときにさばかれます。

私たちはゼデキヤのような人に猛烈に腹が立ちます。それは当然のことです。しかし、パウロは、「あなたがたは、主が来られるまで、何についても先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠された事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」(Ⅰコリント4:4)と語っておられます。そして、ダビデは、「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。主(ヤハウェ)に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主(ヤハウェ)にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:1-4)と語っています。私たちの心が憎しみに捉えられると、知らないうちに憎むべき人と同じ発想に捉えられ自分自身が憎むべきことを行ってしまいかねません。今ここで、あなた自身が主に誠実を尽くすことこそが大切なのです。さばきは主に任せ、自分に今、課せられていることを黙々と行うのが主のみこころです。

3.「カルデヤ人を恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。」

そして、ネブカデネザルは、主の宮も王宮も、ことごとく火で焼き、エルサレムの城壁をすべて取り壊します。そして、町に残された住民と降伏した者たちはバビロンに捕らえ移されます。ただ貧民だけが残され、農夫としてぶどう畑で働かせます(25:9-12)。そして、主の宮の器具のすべてをバビロンに運びます(25:13)。その際、「ソロモンが主(ヤハウェ)の宮のために作った・・・すべての器具の青銅の重さは量りきれなかった」(25:16)とありますが、かつて(ヤハウェ)の栄光に包まれた主の宮は分解されてすべてバビロンに運ばれたのです。

なお、主の契約の箱についてついては不思議に、何の記述もありません。それは主がご自身の宮の中には住んでおられなかったということの象徴と言えましょう。主の宮が滅んだのは、主がその宮を捨てられたからです。そして、これらをまとめるように、「こうして、ユダはその国から捕らえ移された(25:21)と記されます。

主は、かつてソロモンが神殿を建てたとき、ほかの神々を拝むなら、「わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てよう。こうして、イスラエルはすべての国々の民の中で、物笑いとなり、なぶりものとなろう・・・」(Ⅰ列王記9:7)と警告しておられましたが、それがまさに文字通り実現してしまったのです。ユダ王国最後の四人王のすべてが、「主の目の前に悪を行った」と描かれています。この悲劇はそれに対するさばきなのです。

その後、ネブカデネザルは、ヨシヤの書記官として活躍したシャファンの孫のゲダルヤを総督として立てます。ゲダルヤは、「カルデヤ人を恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすればあなたがたは幸せになる」(25:24)と勧めましたが、これこそ預言者エレミヤが繰り返し伝えた主のみこころでした。ところが王族のひとりイシュマエルが謀反を起こし、ゲダルヤを殺します。しかし、そのイシュマエルも他の人々の復讐を受けて殺されます。そこに残ったユダヤ人はエレミヤがバビロン王への服従こそが主のみこころであると語っているのに、それを退けてエジプトに逃れ、そこで滅びます。そのとき預言者エレミヤも意に反して連行されます。

そのような中で、ユダの王エホヤキンは捕囚の37年目に釈放され、バビロンの王によって守られる立場になりました。列王記の最後は、「彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた」と記されています。これは(ヤハウェ)ご自身がネブカデネザルを用いてダビデの子孫の王を守られたという意味です。それは、彼の名がマタイの福音書の最初の系図に出ていることからも明らかです。そのような恵みに四人の悪王の中で唯一あずかることができたのは、彼の負けっぷりが一番良かったからです。

預言者エレミヤは、このプロセスの中で繰り返し、「バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この町が廃墟となってよかろう・・」(エレミヤ27:17)とすなおに降参することを勧めました。そればかりか、バビロンの繁栄を祈るようにと命じられ、「そこの繁栄は、あなたがたの繁栄となるからだ・・・」(29:7)と語り続けました。私たちの人生を豊かにするのは、「勝つこと」よりも、いかにしなやかに敗北を認められるかにかかっているのかも知れません。人は必ず、どこかで負けます。そのときこそ、その人の真価が問われます。負けを認めて、自分に勝った人の繁栄のために祈ることができるなら、あなたは真の友を得ることができることでしょう。なぜなら、「愛」とは、何よりも、目の前の人に向かって、「わたしの目には、あなたは高価で、尊い」(イザヤ43:4)と語り続けることだからです。

ヨシヤ王の最後の失敗から二十年後、坂道を転がりおちるようにイスラエルは滅亡に向かいました。彼の息子たちは、エジプトとバビロンを両てんびんにかけて、両方から見捨てられるように国が滅びました。力を頼むものは力に裏切られたのです。そして、エルサレムを廃墟としたバビロン帝国自身もそれから50年も経たないうちに滅亡します。その後の王国も同じように滅びます。主は、「暴力に信頼するな・・・強さが結果を生んでも、それに心を留めるな・・・力は神のもの」(詩篇62:10,11)と語っておられます。それに対して、神の御子は、全宇宙の創造主でありながら、あらゆる力を捨て、ひ弱な赤ちゃんとなられました。それは力の真の所有者を証するためでした。私たちの救い主が、無力に十字架で息を引き取られたとき、力を誇るサタンの敗北が永遠に定まったのです。

Hidenori Takahashi
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