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2008年1月27日 (日)

ルカによる福音書16章1-13節 「小さいことに忠実であること」

                                       2008年1月27日

私は十年間証券会社に勤め、主に営業畑を歩み、退職して牧師になりました。証券会社のことをよく知っている人は、しばしば、「あんなあこぎな商売から早く足を洗って良かったね・・・」とか、「あんな恐ろしい会社をやめて良かったね・・・」はなどと言ってくれます。それを聞くたびに、何か複雑な気持ちになります。私は、証券市場は大切だと思っていますし、あの会社にいた多くの人々を今も好きだからです。それでふと思いました。取税人をやっていたマタイも、同じような複雑な思いを味わっていたかもしれないと・・・。

そんな彼の気持ちになると、今日の記事の意味がわかるのではないでしょうか。マタイは、「取税所にすわっている」ときにイエスから声をかけられ、すぐに弟子となりました(5:27)。彼は、税金を取り立てる仕事の最中に声をかけられたのです。イエスはその仕事を軽蔑したというよりは、その働き振りを評価して、ご自分のメッセージを書き留めさせるための弟子として選ばれたと考えることもできるかもしれません。

当時の宗教指導者は取税人の仕事を軽蔑していました。しかし、イエスはそうではありませんでした。イエスは今日のところで、主人の財産を抜け目なく利用して、自分の将来の就職先を確保したような人を賞賛しているかのように思えるからです。イエスは、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」(16:9)と驚くべきことを言われました。つまり、イエスはこの商才に長けた人を、「小さい事に忠実な人」と見てくださったのです。ここには、この世の商売で頭を使って儲ける人への励ましか記されているように思えます。実際、イエスは、弟子たちを伝道の働きに使わす際にも、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイ10:16)と言われました。

1.切羽詰った中で生まれた合法的な知恵

 1節の「乱費」ということばは、15章13節の放蕩息子が「財産を使ってしまった」というときと同じことばです。この「不正な管理人」は、主人の財産を自分の遊興のために使ったのでしょう。その姿は、ルカ12章41-48節の「不忠実な管理人」と同じです。彼は、主人から「もう管理を任せておくことはできない」(16:2)と、解雇を言い渡され、今までの「会計の報告を出す」ように命じられました。彼は切羽詰った状況に立たされました。彼はこの仕事を取り上げられたら生活の目処が立ちません。彼はその絶望的な状況を、心の中で、「土を掘るには力がないし、物乞いをするのは恥ずかしいし」(16:3)と表現します。つまり、彼が自分の生計を立てるためには、この管理人の仕事以外の選択肢は考えられなかったのです。私たちもこのような切羽詰った状況に立たされることがあるでしょう。

彼は、ここで自分の置かれている現実を冷静に見ています。そして、今の自分に何ができるかを真剣に考えました。彼は、奴隷ではなく、大きな裁量権がゆだねられていました。しかも、報告書を出すまで、なおしばらくは職務上の権利を行使することが許されていました。ついに、彼は、主人の債務者の債務を合法的に大幅に減らしてあげることを思いつきました。ここでは二人の債務者が描かれ、それぞれ油百バテと小麦百コルの借財があったとのことです。これはかなりの金額に相当します。「油百バテ」とは、注にあるように3,700リットルに相当します。これは、一斗樽では二百樽あまり、146本のオリーブの木を必要とするほどの大きな分量だと言われます。また「小麦百コル」というのも3万7千リットル、米俵にすると五百俵あまりです。これは明らかに商業取引の規模です。

ところで当時、律法によれば、彼らは同胞に貸すとき、利息をとってはならないことになっていましたが、現実には、利息という名前を避けながら、借りた者の商売の果実のある部分を受け取ることを条件に貸していたのが当たり前でした。そして、この管理人には、主人の財産をどのような条件で貸すのかの裁量権が与えられていたのです。油の債務を半額にするのはやりすぎと思われるかもしれませんが、当時の世界では油の貸し借りに関する限り年率百パーセントなどは法外な利息ではなかったことでしょう。なぜなら、液体の純粋さを保つことは容易ではなかったからです。また小麦の場合は保存が容易ですから、二割程度の利息ということもあったことでしょう。つまり、彼は、利息に相当する部分の債務を帳消しにし、債務を元本と同額にまで減らしたとも考えられます。

そして、ここには建前と本音の違いがあるのだと思われます。主人は、律法の解釈を超えた商取引の常識にしたがって利息を取って貸すことを期待していました。そしてこの不正な管理人はある意味で主人の暗黙の意を汲むのと引き換えに、この財産管理から得た利益を自分のために用いていたことでしょう。これは当時の取税人の生計の立て方と同じです。取税人は、ローマ帝国から決まった賃金を受け取っていたわけではなく、集めた税金と政府に収めた税金の差額を合法的に自分の財産としていました。つまり、この管理人も取税人も驚くほどの自由裁量が与えられ、厳密な報告などは求められなかったのが普通だったと思います。

ただ、この管理人はそれをあまりにも無節操にやったことが問われたのです。ですから、この管理人が、突然、会計の報告を求められたとき、「私は今までのやり方を反省し、律法に従って、利息を取ることをやめました。油五十パテ、小麦八十コルが、それぞれ彼らに貸した量です」と言うなら、主人は管理人を責めることができなくなります。もちろん、この管理人が油の証文を半分にしたことには、主人も気を悪くすることは明らかです。しかし、この管理人は自分の生活がかかっていますから、主人の不興を買うことを十分承知の上で、大胆な行動に出ました。そして、彼がやったことは法律的な見地からは、まったく非難されようがなかったことでした。

2.「賢さ」の肯定―「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなく(賢く)やったことをほめた」 

「主人は、不正な管理人がこうも抜けなくやったことをほめた(16:8)とありますが、「抜け目なく」とは原文では「賢さ」を表す良いことばでもあります。そして原文では、その後に、イエスはそれを一般化して、「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子よりも賢いのだから」と付け加えたのです。つまり主は、「光の子」であるご自分の弟子たちに、この世における財産管理を「賢く」行うことを命じておられるのです。そして、イエスはこの話の結論として、「不正の富で、自分のために友を作りなさい」と言われましたが、この「不正の富」とは当時のパリサイ人たちの言葉遣いであって、「この世の富」と言い換えることができると思われます。たとえば日本でも、昔は、生産活動自体ではなく、商業的な取引や金融業から生まれた富を軽蔑した時代があり、それらが「不正な富」とみられることもありましたが、その感覚と似ていることでしょう。それは経済を知らない人が勝手につけたことばです。

 残念ながら、今も昔も、キリスト教会には「賢さ」を軽蔑する風潮があるように思われます。牧師の息子として生まれ五歳で父を亡くしたニーチェは、その風潮に強く反発しました。そして、キリスト教道徳においては、「善」と「愚かさ」を互いに近づけようとする傾向があり、人に恐れを感じさせるような「強さ」は「悪」と見なされがちであると分析し(「善悪の彼岸」261節)、それは、人間の生きる力を失わせ、成長を阻む教えであると強く非難しました。確かにイエスは「貧しい者は幸いです・・・富む者はあわれです」(6:20,24)と不思議なことを言われ、特にルカはイエスが社会的弱者や軽蔑された取税人にいかに優しく、金持ちや権力者に厳しかったかという面を強調しています。それにしても、暑い最中のぶどう園で一日中働いた人と一時間しか働かなかった人に同じ賃金が支払われるなど、そう簡単に納得できる教えではありません(マタイ20章1-16節)。ですから、新約の教えには人の向上心や賢さ、情熱などをくじき、弱さや怠慢への居直りを助長する恐れがあるという解釈が生まれるのも無理はありません。

一方、ニーチェは、「神は死んだ」などと言いながらも、「旧約聖書には・・・ギリシャやインドの文書に比肩すべきものがないほど大規模な人間、事物および言説が存在する」と評価していました(「善悪の彼岸」52節)。そこでは、神が人の知恵、勇気、誠実さ、忍耐心などに豊かに報いてくださることが強調されており、善悪の枠を超えるような人の情熱や生きる知恵が肯定され、驚くほどの人間的なドラマが描かれているからです。そのことに目を向けながら、ニーチェは、「新約聖書を、旧約聖書とともに糊づけしてしまった」ことを「最大の破廉恥」だと罵りました。もちろんニーチェに同意することなどできませんが、旧約聖書と新約聖書の関係を理解しない者は、信仰の破船に会うという反面教師として彼のことばに耳を傾ける必要もあるかもしれません。その点から考えると、「新約聖書は分かるけれど、旧約聖書にはつまずきを覚えるばかり・・・」などという人は、「生きる」ことの現実を冷静に見てはいないのかも知れません。この「不正な管理人」のたとえは、新約聖書しか知らない人にとっては、「道徳」に反するつまずきなように見えるかもしれませんが、旧約聖書の流れからすれば、極めて自然な教えだと思われます。たとえばエリコの遊女ラハブは敵将ヨシュアの二人のスパイを匿い逃がすことで神の民に受け入れられましたが、エリコから見たら国を売った悪女の代表となりかねません。この世の善悪の判断を超えた視点が提示されています。

イエスが「貧しい者は幸いです」と言われたのは、当時の価値観を逆転させる逆説であり、宗教指導者たちが、社会的弱者や社会の枠からはずれた人たちを神にのろわれた存在とみなしていたことへの反撃でした。福音は人の知恵や力を軽蔑するものではありません。使徒パウロも、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と語りました。あなたには、神にあって無限の可能性が開けているのです。

3.「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」とは?

ところでイエスは、「不正の富で友をつくる」ことで、「富がなくなったとき、彼らはあなたがたを永遠の住まいに迎えるのです」(16:9)と不思議なことを言われました。「富がなくなったとき」とは、厳密には「終わったとき」と記され、この地上の命がなくなるときを指すと思われます。この「不正な管理人」は、解雇された後で、債務を免じられた「人がその家に私を迎えてくれるだろう」(16:4)と期待していたのですが、イエスはそれを「永遠の住まいに迎える」という視点に置き換えて話しました。たとえば、イエスは、「これらのわたしの兄弟たち、しかも、最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)と、隣人を助けることと神に仕えることが切り離せない関係にあることを語っておられますが、ここでもその同じ原則が適用されます。確かに、この不正な管理人は、自分が解雇されたときの就職先という意味でしか考えていなかったかもしれませんが、イエスはその行為を、任された権威を有効に用いて隣人を助けることとして理解してくださったのです。

このたとえは16章19節から31節に続く「金持ちとラザロ」のたとえと対照的です。それはこの「不正な管理人」のたとえを聞いた、「金の好きなパリサイ人たちが・・あざ笑っていた」(16:14)ことに対してのたとえでしたが、パリサイ人が「金が好き」と記されているのは猛烈な皮肉です。彼らは、「不正の富」を軽蔑すると公言しながら、内心はお金が大好きでした。しかも、その富を隣人のために用いようとは考えていないということを、金持ちとその門の前に座っている物乞いのラザロとの関係から語りました。物乞いのラザロは天国に行き、金持ちはハデス(よみ)の苦しみに落とされたというのです。これは、「不正の富で、自分のために友をつくろうとしなかった人」の悲劇です。

そしてイエスは、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(16:10)と言われました。このみことばは、私たちの生活のあらゆる部分に適用できる教えで、「小事は大事」ということわざにも通じますが、ここでは、「小さい事」とは、まず第一に、「不正の富」(16:11)の管理を指しています。昔から、聖俗二元論という考え方があります。それは、この世の仕事は俗なもの、低級なもので、教会での働きは聖なるものであるという考え方です。イエスはご自身の弟子たちの中核に、エルサレムで聖書をよく学んでいる人ではなく、ガリラヤ湖で魚をとっている人を置きました。イエスの目には、彼ら漁師こそ、「小さい事に忠実な人」と見えたのです。また、イエスは取税所に座るという「小さい事」に忠実だったマタイに、とてつもなく「大きいこと」つまり、ご自身の五つの長い説教を書き留めさせることを任されました。それはまさに、「まことの富を任せる」(16:11)ということを意味しました。取税人に神のことばの管理を委ねるなど、当時の誰が想像できたでしょう。

4.「他人のものに忠実」とは?

そして、「小さい事」とは、第二に、「他人のもの」(16:12)の管理を指しています。この「不正な管理人」は、主人の財産に対しては極めて「不忠実」であったというのが常識的な見方です。しかし、この主人は、この不正な管理人が賢くふるまったこと自体を「ほめた」のです。主人がほめたのは、彼が自分の頭を使ってよく考えたことです。

ニーチェは、自分が神を否定する理由を、「神はとどのつまり、『あなたがたは考えてはならない!』とわれわれに向け発せられたひとつの大きな禁止令にすぎないと言えよう」(「この人を見よ」(第二部1節)と述べていますが、それこそとんでもない誤解です。神は私たちが与えられた能力を生かしてよく考えることを喜んでおられます

なお、ここで「他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」というのは、矛盾のように思えます。なぜなら、人は誰でも自分のものを持っており、自分のものを管理できて初めて他人のものまで任せてもらえると思うからです。しかし、私たちの「富」は、実は、自分のものではなく、神から預けられているものに過ぎません。パウロも自分の能力を誇るコリントの人に、「あなたがたには、何かもらったものでないものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7)と戒めました。これは、すべてのものを、神から任されているもの、いわば「他人のもの」と見る勧めです。

お金や能力は、罠となります。それは、自分を世界の中心にし、自分を誇らせ、自分が神と人の助けなしには生きることができないひ弱な存在であることを忘れさせるからです。それで、イエスは、「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません・・・神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(16:13)と言われました。

私たちがこの世界で生きていることは、神のしもべとして、神からあずけられたものを管理する働きをすることと言い換えることができます。ペテロはそれを、「それぞれが賜物を受けているのですから、神の恵みの良い管理者として、互いに仕えあいなさい」(Ⅰペテロ4:10)と励ましました。お金は非常に大切なものですが、それはあくまでも神と人に仕える「手段」に過ぎません。ところがしばしば、「手段」に過ぎないはずのものが「目的」となり、お金を賢く使うことよりも、お金儲けのために神と人とを利用するということになりかねません。そのとき、人は、お金の奴隷になっているのです。そして、そのようになった人は、お金を持っているようでいながら、欲望に駆り立てられ、お金が与える豊かさを真の意味では味わってはいないのかもしれません。つまり、自分のものを持っているようで、それを真に自分のものにはできていないのです。しかし、神のしもべとして生きる人には、最高の自分のものとしての、「永遠のいのち」、すなわち、「神との生きた交わり」自分のものとして持たせていただくことができます。

イエスは、タラントのたとえの結論として、「だれでも持っている者は、与えらて豊かになり、持たない者は、持っているものまで取り上げられる」(マタイ25:29)と言われました。あなたが自分に預けられた能力や富を、神のために用いるなら、神は、「あなたがたのもの」としての「いのち」の喜びをさらに豊かに増し加えてくださるのです。

私たちの信仰の目的は決してこの世的な成功ではありません。しかし、だからといって、この世的に成功することを軽蔑するようなことがあってはなりません。「成功すること」も「神の恵み」のひとつです。問われているのは、あなたの真の主人は、富でも名声でもなく神であるのかということです。決して「負け犬の遠吠え」のようなこの世を軽蔑した信仰にならないようにしたいものです。この世に誠実に仕えることは、「小さい事に忠実」であるという証しです。この世の成功は「小さい事」ではありますが、神の栄光のために大きく用いられる宝でもあります。

あなたにもこの世で任されている権威があることでしょう。それを利用して、この地上の主人の意に反して伝道に使うというようなことを勧めるという小さな発想ではなく、「地上の主人」の上におられる「天の主人」の観点から自分の仕事を見直し、自分の仕事を、神の国の管理者の立場から見直すという広い視点が求められているのです。

パウロは、「堅くたって、揺るがされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と励ましましたが、これは、いわゆる人々が思うところの霊的な働きに限定されることではありません。あなたの日々の仕事すべてが、主にあっての働きになるのです。いのちを窒息させる生き方ではなく、失敗を恐れず、大胆に、任された富と能力を賢く用いましょう。日陰のもやしのような信仰生活ではなく、光の創造主である方に向かって力強く生かさせていただきましょう。

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2008年1月20日 (日)

イザヤ7章1節~9章7節「御顔を隠しておられる方への信頼」

今日のメッセージは長くなってしまいました。でも、テーマは、インスタントな解決思考の信仰の落とし穴でしたから、簡単な結論が見えにくいメッセージにも意味があるのではとも思います。お時間のない方は導入と結論だけでもお読みください。

 中身では「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる」ということの誤解が解かれています。その関連でニーチェを引用しました。彼は周知の通り、「神は死んだ」と言った無神論者ですが、彼の主張の中心は、「人間の理性が作り出した神、哲学者の神は死んだ」とも言い換えることができるように思います。
 彼は近代合理主義の危なさを今から百数十年前に説いていました。現代もインスタントな解決を求める社会です。彼のことばは、私たちが自分の置かれている現実を直視しながら神を信じるという原点に立ち返らせることができるように思います。あの北米の福音派で尊敬されているユージンピーターソンも本のタイトルに彼のことばを引用しているというのが何とも驚きでした。

2008120

  「神が私たちとともにおられる」というなら、なぜこんな不条理が放置されているのでしょう。なぜ神はすみやかに私たちの祈りに答えてくださらないのでしょう。そのような気持ちの中で、神を礼拝しに来るのが苦痛になっている人がいます。「何も変わりはしない・・こんな人生に何の意味があるのか・・・」と思って失望する信仰者がいます。しかし、ユージン・ピーターソンはベストセラーとなった信仰の旅路に関する詩篇の解説書のタイトルを「a long obedience in the same direction」としましたが、これは無神論者フリードリッヒ・ニーチェのことば、「この天と地において本質的なことは、同じ方向への長い忠実さが必要だということ、それを通してこそ結果が生まれ、それは常に長い期間を通して実現されることである。それこそ、人生を生きるに値するものにするのである」から引用したものです。

牧師の息子として生まれたニーチェは、そのように人生を豊かにする「生きる力」を、キリスト教会の中に見ることができませんでした。教会は幻想を教え、弱さに妥協する傾向を助長しているとしか思えなかったのです。私たちの教会もそのようなつまずきを与えないように注意深くありたいものです。しかし、イザヤのメッセージは、当時の人々の幻想を破り、あらゆる妥協を退ける強さに満ちていました。ニーチェもこれを理解していたら、あれほど聖書の教えを、怨念を誤魔化すための弱者の道徳などと非難することはなかったことでしょう。そのことばは恐ろしいほどに悲観的に見えながら、希望に満ちています。破壊的なようでありながら建設的です。争いを助長するようで、平和をもたらします。その逆説を味わってみましょう。

1. 「気をつけて、静かにしていなさい…」

  イザヤ7章の時代は、紀元前735年頃、北方からアッシリヤ帝国が勢力を増し加え、今まさに、北王国イスラエル(首都サマリヤ)とアラム(その北東の国、首都はダマスコ)を滅ぼそうとする時でした(紀元前732年ダマスコ陥落、紀元前723年サマリヤ陥落)。この危機に、イスラエルの王ペカとアラムの王レツィンは、南王国ユダ(首都エルサレム)を同盟に誘いましたが、ユダの王アハズはそれを拒絶したのだと思われます。それで、ペカとレツィンはユダに傀儡政権を樹立し、服従させようと攻撃しかけてきました(7:1)。エルサレムはその攻撃を退けることができましたが、「エフライム(サマリヤが中心)にはアラムがとどまり」二国連合の攻撃はなお続くことが明らかになりました。そのような政治状況の中で、アハズ王と民の心は、「林の木々が風で揺らぐように」、激しく動揺しました(7:2)。そしてその時、主はイザヤを通してアハズに語ります。

74節には、「気をつけて静かにしていなさい。恐れてはなりません。心を弱らせてはなりません」という三つの命令が続けられています。それはこの危機的な状況を人間的な知恵で解決しようとせず、静かにすることを心がけて動き回らず、また、恐れを祈りに変え、そして、心を弱らせずに神の救いを待ち続けるようにとの勧めです。

  このときアハズは、目先の恐怖に圧倒され、何とアッシリヤに助けを求めていました。それは、近隣のチンピラにおびえて、広域暴力団に助けを求めるのと同じことでした。一瞬の息をつけるようでも、逃げ場のない恐ろしい支配が待っています。現実を良く見るなら、エルサレムに攻めかかってくるふたりの王の燃える怒りなど、「木切れの煙る燃えさし」のようなもので、真の脅威こそ、ユダが助けを求めたアッシリヤ帝国でした。アハズは真の脅威を見ることができませんでしたが、恐怖が迫っているときこそ、より大きな問題を引き起こさないよう、静まり、冷静に状況を見る必要があったのです。

ふたりの王はエルサレムに傀儡政権を立てようとして攻めてきていますが、それに対し、「神である主(原文「アドナイ(主人)であるヤハウェ」)(77)は、「そのことは起こらないし、ありえない」と断言されました。そればかりか、65年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民でなくなる」(7:8)と、北王国イスラエルの中心の民が消えうせると預言されました。これはアッシリヤ王が、サマリヤを滅びして、その住民を遠くに移したばかりか、紀元前671年には別の民族をこの地に移住させ、イスラエルの帰還を不可能にしたことを指します。つまり、ふたりの王の計略など、アッシリヤの脅威に比べれば無視して良いほどのものだというのです。実際、その後、北の十部族は歴史の中から消え去ってしまわざるを得なくなりました。私たちの問題は、恐れるべきことを恐れず、恐れなくて良いことを恐れることにあります。恐れの見分けこそ鍵です。

   カール・バルトというスイスの神学者は、「勇気とは、祈りの中で述べられた恐れである」(Courage is fear that has said its prayers)という逆説を述べました。つまり、「恐れ」は恥ずべきことではなく、祈りを通して真の「勇気」の源泉となるというのです。私たちの生活にも、激しく動揺せざるを得ない危機がおとずれることがあります。そのとき、全能の神に祈り求めることさえ忘れてしまうかも知れません。しかし、それこそ、神が私たちに祈りを教えるための学校です。なぜなら、私たちが、「もう自分の力では解決できない・・・」と思ったときこそ、祈りが真実になるからです。そこでは、幼子が親に訴えるように、自分の葛藤や不安や怒りを、正直に神に訴えることが許されています。そしてそのとき、「神があなたがたのことを心配してくださる」とさえ約束されています(Ⅰペテロ5:7)。私たちはお祈りの後は、ぐっすりと眠って、明日の新しい展開を待つだけでよいのです。詩篇4610節では、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(文語訳は、「なんじらしづまりて、われの神たるを知れ。」)と記されています。パニックに陥ったとき、動き回るのを「やめる」ことが、しばしば何よりも大切だからです。

2. 「あなたの神、主からしるしを求めよ。」

  このとき、主はアハズに、「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」(7:9)と言われました。これは、「信じるか滅びるか、ふたつにひとつだ」という信仰の決断への招きです。ただし、同時に主は、信じることができないアハズに驚くべきあわれみを示されました。それは、ご自身を、あなたの神、主(ヤハウェ)である」と紹介されながら、「しるしを求めよ。」と招かれたことでした(7:11)。しかも、そのしるしは、「よみの深み、あるいは、上の高いところから」の、超自然的なものだというのです。その目的は、不信仰な彼に信仰を生み出させることにあります。それは、アハズの子ヒゼキヤが日時計におりた時計の影を十度あとに戻してもらったような奇跡(イザヤ38:3)によって約束が保証されることを指します。

  ところが、アハズは、神ご自身からの信仰への招きに、「私は求めません。主(ヤハウェ)を試みません」(7:12)と答えました。これは、一見、敬虔なようでありながら、文脈を無視してみことば引用するサタンの態度です(サタンは、イエスの荒野の誘惑に見られるように、みことばを用いて人を信仰の破船に合わせます)。しかし、「主を試みる罪」とは、「しるしを見せてくれなければ信じない」という態度を指します。それに対してここでは、主ご自身が、「しるしを見せてあげるから、信じる者になりなさい」と招かれたのです。ところがアハズの心の声は、「主を信じたら、今までの生き方を変えなければならない。しかし、それは嫌だ。もうすでに手がけていることがあるのだから・・」と語っていたのではないでしょうか。彼は、何よりも、「信じたくない!」という思いで一杯だったのです。これは、私たちの場合も同様です。「信じます。」とは、「私は自分の生き方を変えます。」と同じ意味を持つからです。多くの人の問題は、「信じられない!」ではなく、「信じたくない!」ということではないでしょうか。もし、「私は信じたい!」と心から願うなら、神は、不思議なかたちで、信仰を与えてくださることでしょう。

  アハズが、神の招きを拒絶したとき、イザヤは、「あなたがたは…私の神まで煩わすのか」(7:13)という表現で彼を非難しました。ここには、神は、イザヤの神ではあっても、もはやアハズの神ではないという意味が込められています。それは、アハズが、預言者たちの忍耐を軽蔑するばかりか、神の忍耐までも軽蔑したからです。そしてここでの、「それゆえ…(7:14)とは、神の慈愛に満ちた申し出を拒絶したのだからという意味です。そして、「あなたがたにひとつのしるしを与えられる」とは、ダビデの家(アハズの子孫たちを含む)に見せられるものですが、それは、もはや信仰を生み出すしるしではありません「見よ。処女がみごもっている…」と言われても、妊娠した人が処女であるなどと誰が信じることができましょうか。これは反対に、世の人々をつまずかせるためのしるしです。今も、「処女懐胎などと言わなければ信じられるのに・・」という人が後を断ちません。ところが、これこそ、自分の惨めさを知る人にとっては、神が悩む者の仲間となってくださったというしるしになります。なぜなら、救い主は、人々から誤解され中傷される誕生の方法を敢えて選びとられた理解できるからです。実際、たとえばイエスの誕生物語を思い巡らす人は、人々の嘲りに耐えたマリヤやヨセフの姿に慰めを受けることでしょう。

  その意味で、生まれた子は、「インマヌエル」の名づけられますが、それは「神は私たちとともにおられる。」という意味です。ここには神が悩む者、不安に耐える者の友であるという思いが込められています。実際、これから七百年後に処女マリヤから生まれたイエスを救い主として信じたのは、知恵と力を誇る王侯貴族ではなく、社会の底辺の羊飼いたちでした。彼らは現代のワーキングプアーと呼ばれるような人々で、神の真実により頼む以外に救いがないと思われる人でした。

  なお、715-17節は、インマヌエルと呼ばれる方が、「ふたりの王が滅ぼされる前に、アッシリヤの王が攻めてくる前に、すぐに生まれる・・」という意味にも理解されることがありますが、文脈からすれば、それは誤まった解釈だと思われます。ここには三つのことが記されています。第一は、その子が「悪を退け、善を選ぶことを知る」という年齢に成長するまで、「凝乳と蜂蜜」という貧しい砂漠の食物で育つということです(7:15)。つまり、ダビデの子孫である救い主は、王家が廃れた後の貧しさの中に生まれるという意味です。そして、第二に、その子が善悪を選択できるほどに成長する前に、「あなたが恐れているふたりの王の土地は捨てられる」ということ(7:16)、つまり、救い主は、アハズの危急に間に合うようには現れないという意味です。そして、第三に、主は、「エフライムがユダから離れた日(イスラエル王国が分裂しとき)以来、まだ来たこともない日」、つまり、国ができて以来の最大の「恐怖の日」として、アッシリヤ王の攻撃をもたらす(7:17)ということです。アハズが頼みとしたアッシリヤは、自分たちを救うどころか、エルサレムに最大の恐怖をもたらす者に変わるというのです。

  神の信仰への招きを拒絶したアハズに与えられたしるし、それは、希望ではなく、さらに大きな悲惨を迎えるというさばきの宣言でした。自分の知恵や力で問題を解決しようと思っている人は、救い主を求めることができません。そのため、神は、しばしば、その人に悲惨や苦しみを敢えて与えることで、その傲慢を砕かれます。事実、イエスを身ごもったマリヤは、大頌栄(マニフィカート)で、「主は・・心の思い高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし・・低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせる」(ルカ1:51-53)と歌っています。それは、もし、人が傲慢になるなら、主ご自身から裁かれるということ、しかし、私たちがへりくだるなら、主ご自身が引き上げてくだるということです。ですから、イエスは繰り返し、「だれでも自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされます」(マタイ23:12)と語られたのです。

3. 「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を」 

  718節~25節には、「その日」という名のもとに、アッシリア帝国がもたらす災いが述べられます。これはアッシリヤの救いを求めるアハズの過ちを正すためです。主はまず約束の地がエジプトとアッシリヤの二大強国の勢力争いの結果として災いがもたらされることを思い起こさせますが、それぞれを「あのはえ」とか「あの蜂」と呼びながら、神の御手にある小さな存在に過ぎないと言われます。その上でアッシリヤの王を「かみそり」と呼び、彼がイスラエルを辱める様子が、「頭」ばかりか、「足」(厳密には男性器を指すと思われる)の毛とひげをそり落とすと描かれます。そして、2122節は家畜を十分に飼うことができないほどの貧しさを、23,24節は「乳と蜜の流れる地」と呼ばれたところが荒地とされる様子が描かれます。

  そして81,3節に記された「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」とは、「速い餌食、急ぐ分捕り」という意味不明のことばです。これは、イザヤが女預言者を通して生んだ第二子がことばを覚えるその前に、アッシリヤ帝国がダマスコとサマリヤを滅ぼし、その宝を持ち去ることを預言する名前となります。それは滅びが目の前に迫っているということの警告です。

86節の「この民・・・」とは、ユダではなく北王国イスラエルの民を指すと思われます。先に、「エフライムがユダから離れた日」(7:17)という表現がありましたが、彼らは、「シロアハの水」として表現されるエルサレムをないがしろにして、自分たちの礼拝の場を作り、そして今は、アラムとの連合によって北の脅威に対抗する政策を喜んでいます。彼らは自分たちの国を守ろうとしてかえって神の怒りを買い、墓穴を掘っています。その結果、北の大河ユーフラテスを支配するアッシリヤ帝国からの洪水が北王国イスラエルの地を呑み込み、ついには「ユダにまで流れ込む」(8:8)というのです。しかし、そのとき、ユダはインマヌエルの国、つまり、神がともにおられる国として、広げられた神の御翼の下で生き延びることができるというのです。つまり、ここには北王国の滅亡と、南王国ユダが、ぎりぎりのところで守られることの二つが預言されています。

89節の「国々の民」とはイスラエルの神ヤウェを知らない人々を指しています。彼らは自分の力を誇り、ヤウェを侮り、神の国を滅ぼそうとしますが、そのはかりごとは成功しません。なぜなら、「神が、私たちとともにおられるから」(8:10)です。なお、このことばもヘブル語では「インマヌエル」と記されています。つまり、7:14,8:8,8:10と三回、「インマヌエル」ということばが用いられながら、神の救いはこの世の人々が理解できない形で実現することが預言されているのです。

その上で、811-16節まで、神が預言者イザヤに、神の民イスラエルを正すために、彼らから敢えて分離する生き方を全うすることを恐れないようにと励ましを与えます。「万軍の主(ヤハウェ)、この方を、聖なる方とし、・・恐れとし・・おののきとせよ」(8:13)というみことばは、人の顔色を伺いながら行動しがちな私たちすべてに対する警告です。

しかも神は、イザヤのメッセージが人々の心を閉ざす方向にしか働かないことも告げておられましたが(6:9,10参照)、ここでは彼の存在自体が、主を証すことになるどころか、「妨げの石とつまずきの岩・・落とし穴」(8:14)にしかならないと破壊的なことが預言されます。しかし、神が「わたしの弟子」と呼ぶ人々は皆無ではないとも示唆されます。そこでのイザヤの使命は、聞く耳のある人々の「心のうちに」みことばを「封じる」ことなのです(8:16)

これに対するイザヤの応答が、「私は主(ヤハウェ)を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける」(8:17)です。それは、主が今、イスラエルにわざわいをもたらそうとしていることを知っていながら、なお、この方に望みをかけるという意味です。そして続けてイザヤ自身が、「私と・・私の子たちは・・・しるしとなり、不思議となっている」と告白します。これは、主が信じることを拒絶したアハズや同じ立場をとる人々にとって、イザヤとその子の生き方こそが証しになるという意味です。そして、不思議なことに、ヘブル211-15では、このイザヤの告白がイエスご自身の告白となっていると記されています。イエスご自身が、父なる神に向かって「わたしは彼に信頼する」と告白しつつ苦難の道を歩み、またご自身に従う弟子たちを、「神がわたしに賜った子たち」と呼びながら、私たちと同じ不自由な肉体をとってくださいました。

つまり、イザヤは救い主の先駆けとして、当時の人々から拒絶され、あざけられ、つまずきとなり、救い主ご自身も、そのような孤独な歩みをする者の仲間となるために、「ひとりの処女」から敢えて誕生されたというのです。それを思うときに、私たちも、主が「御顔を隠しておられる」としか思えないような苦しみと孤独の中でも、なお、「この方に望みをかける」ことができます。そして、そのような信仰者の歩みの後には、なお多くの神の子たちが従うようになります。つまり、キリストにあっては、絶望が望みに、孤独が交わりに、苦しみが喜びに変えられるのです。それは幻想ではなく、キリスト者の確信です。

4.「ひとりのみどり子が私たちのために生まれる」 

そして、「霊媒や・・・口寄せなど」のような死んだ者の霊との交信を否定しながら、神のみことばから離れて生きる者には「夜明けがない」(8:20)と宣告されます。そして、ヘブル語聖書では91節は823節として記されていますが、そのように、821節から91節はひとつのまとまりととらえられ、アッシリヤ帝国によってもたらされる苦しみの時代を指すと解釈できます。「ゼブルンの地とナフタリの地」とは、肥沃なイズレエル平原からガリラヤ湖西岸に広がる肥沃な地を指し、ガリラヤ地方と呼ばれる地です。つまり、ここはアッシリヤによって異邦人の地とされてしまった絶望の地も、「光栄を受ける」という約束なのです。救い主は自業自得で苦しみ希望を失った人々に光を見させるために現れてくださいました。

そのことが、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(9:2)という美しい預言として表現されます。それは、「あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられた」という繁栄の時代がくるということですが、その様子は今から三千年前の人の感覚に通じるような喜びとして描かれており、現代人には馴染みにくいものかもしれません。しかし、その中心は、かつて収穫を奪われた地の民が収穫を喜び、自分たちの宝を分捕りものとして奪われた民が、分捕り物を分け合って喜ぶ立場に変わるという立場の逆転です。その理由の第一は、今までの圧制者に裁きが下されるからです。94節にある「ミデアンの日」とは、イスラエル北部がミデアン人によって圧迫されていたとき、主がギデオンを立て、イスラエルを解放したことを指します。そしてその理由の第二は、戦いの武具が必要なくなる平和の時代の実現が実現されるからです(9:5)

 その上で、そのような解放と平和をもたらす救い主の出現が、「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる」(9:6)として預言されます。これは、714節の「インマヌエル」の誕生のことを指します。両者に共通するのは、救い主は赤ちゃんとして生まれるので、救いの実現には時間がかかるということです。当時の人々は、救い主の登場と共に、すべての問題が解決すると期待していましたが、神のご計画はそうではありませんでした。そして、救い主の名はここでは、『不思議、助言者(カウンセラー)、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と呼ばれます。最初の「不思議」は独立した名詞としても解釈できます。かつてサムソンの父に対し、主の使いはご自身の名をわたしの名は不思議という」と言われました(士師13:18)。また8:18でも「不思議となる」とも言われました。また救い主は私たちにとって最高のカウンセラーであると同時に「力ある神」です。イエスは男だけで五千人の人々の腹を満たすことができました。さらに、「永遠の父」と呼ばれるのは、イエスが「父なる神である」という意味ではなく、私たちが心から信頼することができる権威者であるという意味です。

「平和の君」とは、イエスこそがこの世界に最終的な平和をもたらすという意味です。それはイザヤ書11章に記されているように、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」(6-8節)と言われるような完全な平和をこの方が実現してくださるからです。

私たちは、救い主のみわざをあまりにも小さくとらえているのではないでしょうか。イエスによって世界はすでに変わりました。そして、主のみわざは今も続いています。そして、それは「神の平和」という完成に向かっているのです。

その神の国の成長の様子が、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく」(9:7)と描かれます。そして、それをもたらす救い主は、「ダビデの王座について」と描かれ、今滅亡しようとしているダビデ王国が立て直されることとして表現されます。そして、最後に、「万軍の主(ヤハウェ)の熱心がこれを成し遂げる」と、それが父なる神の断固たる意思であることが改めて強調されます。つまり、主は、自業自得で失われようとしている国を、まったく新しい形で建て直してくださるというのです。

そしてこのキリスト預言がこの後、七百年後に実現しました。私たちの世界は今、平和の完成の途上にあります。ですから私たちは、今が、どれほど希望に満ちた時代なのかを、いつでもどこでも意識しながら生きる必要があります。

  私たちの人生には、神がご自身の御顔を隠しておられるようにしか思えないことがしばしばあることでしょう。しかし、それはイエスご自身が歩まれた道であり、すべての時代のキリスト者が体験してきたことでした。ニーチェの言うようにキリスト者は幻想を見ながら生きるものではなく、神の平和の実現という真のビジョンを見ながら、その方向へと旅をしている者たちです。御顔を隠していると思われる主に、なお信頼し続けているのがキリスト者の不思議です。それはひとりひとりが預言者イザヤのように、神にとらえられているからです。そしてそこで生きる意味と喜びを見出し続けているからです。アハズのような夢のない現実主義者は目先の解決に走り、より大きな悲劇への道を開きます。しかし、私たちは夢を掲げた現実主義者です。今、目の前に置かれている課題を、神の視点から見直し、神の求める道に進むものでありたいものです。

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2008年1月 7日 (月)

イザヤ1~6章「主(ヤハウェ)おひとりだけが高められる」

                           2008年1月6日

去る元旦のメッセージにあった、「死ぬことによって生きるのがキリストのいのちです」の意味を尋ねてこられたあるお子さんに、「それは難しい質問だね・・」としか答えられず、ずっと引っかかっていました。しかし、それはイザヤのメッセージに通じるものです。人生の時がくるまで「言語明瞭意味不明」にとどまるべきことなのかもしれません。

イザヤ書は新約聖書では、他の預言書のすべてを合わせたよりも数多く引用されているほどに重要な書です。イエスご自身がイザヤ書を熟読し、この書を生き、公生涯に初めにはご自分がこの預言を成就したと宣言されました(ルカ4:16-21)。またパウロなどは、復活後のイエスに出会ってキリスト者になりましたが、イエスのメッセージを生で聞く機会のなかった彼は、その後、何よりもイザヤ書を深く思い巡らしながら、イエスこそが預言された救い主であることを確認したことでしょう。実際、「使徒の働き」は、彼がイザヤ書6章のことばを引用したことで終わっています。また現代のユダヤ人がキリスト者に回心する際に最も影響力を持つのがこのイザヤ書だと言われています。

  今回は6章のイザヤの召命に焦点を合わせますが、それ以前に1-5章があることの意味をしばしば多くの人は忘れてはいないでしょうか。神のみわざ以前に、イザヤという人物に注目することは神のみこころではありません。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」という応答が一人歩きしてはいないかと思わされることもあります。

1.「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた・・・」

  この書は「幻(Vision)」という言葉から始まりますが、この書には神からのビジョンが満ちています。当教会もイザヤ書65章17節の「新しい天と新しい地」をビジョンに掲げています。

イザヤの活動は紀元前740年ごろ没したウジヤ王のときに始まりますが、ウジヤはダビデ王国全盛期の南の領土を回復した有能な王でした。そして、イザヤは、ヒゼキヤ王(687年頃没?)の後継者、悪王マナセのもとでの殉教の死を遂げたと言い伝えられています。マナセの時代は、アッシリヤ帝国が南のエジプトまで支配していた時期で、ユダ王国はその属国として独立をぎりぎりで保つほどに落ちぶれていました。つまり、イザヤは、国の最盛期から転落し存亡の危機を迎えるという時代背景の中で預言したのです。その意味で、この預言には、成長期から停滞期に入ったと言われる日本経済や教会の現状にそのまま適用できる教えが満ちているとも思われます。

なお、イザヤという名には、「ヤハウェは救い」という意味が込められています。彼の父のアモツは、王の弟であったとの伝承もあります。とにかくイザヤは王に直接語ることができる貴族の一人であったことは明らかです。

最初に主は、イスラエルをご自身の「子ら」「わたしの民」と呼びながら、彼らが「牛」「ろば」にも勝って恩知らずであることを嘆いています(1:2,3)。彼らの罪の基本とは、「彼らは主(ヤハウェ)を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った」(1:4)ことです。スイスの精神科医だったポール・トゥルニエは、「罪意識の構造」で、多くの人は劣等感と罪意識を混同しており、「人間は、自分に(社会的に)課せられた義務を果たすことに失敗するとそのたびに罪意識を経験する」(p120)が、それは聖書の語る「罪」とは異なると語っています。なぜなら、神は何よりも私たちが神の恵みを忘れ、自分の救い主を侮り、背を向けて歩くことに対して怒りを発しておられるからです。

  続けて、神はイスラエルに対して、「ああ」と嘆きながら、「あなたがたは、なおも、どこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷・・・」と訴えています(1:4-6)。人は基本的に苦しみに会わない限り自分の生き方の誤りを認めることができません。それで、神は深く心を痛めながら、彼らを「打つ」ことでご自身に立ち返るように招いています。彼らは天からの硫黄の火で焼かれて滅びたソドムとゴモラの住民と比べられるほどに堕落しきってしまっていたからです。それでいながら彼らは、自分の生き方を改めようともせずに、多くのいけにえをささげるという熱心さを表現して神の好意を勝ち取ろうとしました。それに対して神は、わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた・・・もうむなしいささげものを携えて来るな・・・これにわたしは耐えられない(1:10-13)と驚くべきことを言っています。かつて、いけにえを命じられた神が、彼らの礼拝を、「わたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた」(1:14)と言っておられるというのです。なぜなら、「あなたがたの手は血まみれだ」(1:15)とあるように、彼らの礼拝は偽善に満ち、社会的弱者から搾り取った金でいけにえをささげていたからです。残念ながら、今も昔も、多くの宗教が貧しい人々からお金を搾り取っています。それをもとに宗教指導者たちは安定した生活を送りながら、自分たちは義務を果たしているという自己満足に浸っていました。

それに対し主は、「洗え。身をきよめよ・・」と信仰の原点に立ち返るように命じます(1:16)。その上で、「来たれ。論じ合おう」と仰せられます。彼らは、罪の赦しを金で買い取ろうとする態度で神に近づいていました。しかし、神は、飢えているわけではなく、取引に応じる必要はまったくありません。罪の赦しは、全能の神の一方的なあわれみによって与えられるものです。それが、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし、喜んで聞こうとするなら、あなたがたはこの国の良い物を食べることができる」(1:18,19)という招きです。そして神はなおも、エルサレムに向かって、「どうして遊女になったのか、忠信な都が」と非難しつつ、そこでなされている偽善と搾取を指摘しています(1:21-31)。

イエスがパリサイ人や律法学者を驚くほど厳しく非難したのは彼らの偽善のためでした。彼らは自分たちの信仰を誇り、戒律を守ることができない「取税人や罪人」を軽蔑し、イエスが彼らとともに食事をしているのを見て、その寛容さを非難しました。それに対しイエスは、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』」とはどういう意味か、行って学んできなさい」と、旧約聖書を学びなおすように命じられ、その上で「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました(マタイ9:10-13)。

2.「鼻で息をする人間をたよりにするな。」

2章の書き出しは、「ことば、それはイザヤが見たもの」ですが、これから起こることが5章まで記されます。2-4節は、同時代の預言者ミカの記事とほぼ同じです(ミカ4:1-3)。それは神が、ふたりの預言者に同じように、これから訪れるさばきとセットで「終わりの日」の希望を語ったものです。それは「すべての国々」がエルサレム神殿を訪れ、そこで「主(ヤハウェ)のことば」を聞くようになり、その結果、「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(2:4)という神の平和が実現するという預言です。

聖書には、神がこの地の悪にさばきを下すと繰り返し警告されていますが、それと同時に、それを通して神の平和が実現するということもセットで記されてもいます。しばしば、教会によっては、このバランスが崩され、人々に恐怖を語りながら回心に導くという面があるかも知れませんが、最終ゴールを忘れた警告は人の心を萎縮させる脅しに終わってしまうのではないでしょうか。神の平和の実現という神の救いの目的を忘れてはなりません。

そして、そのゴールを見させながらイザヤは、「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主(ヤハウェ)の光に歩もう」(2:5)と呼びかけます。これは信仰の歩みの励ましが、常に、最終的なビジョンをともに見ることから始まるからです。

その上でイザヤは、神に向かって、「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブを捨てられた(2:6)と訴えますが、同時に、神のさばきが正しいことを、彼らが自分たちの富を用いて偶像の神々を拝むようになったからという趣旨で説明します。そして、終わりの日のさばきのことが11,17節で、「その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、(ヤハウェ)おひとりだけが高められると、ほとんど同じ表現が繰り返され、18節では「偽りの神々は消えうせる」とまとめられます。そして、「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主(ヤハウェ)の恐るべき御顔を避けて、岩のほら穴や、土の穴に入る」という表現が繰り返されながら(20,21節)、偶像のむなしさを訴えるとともに、それと合わせて、「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろう(22節)と結論付けられます。偶像礼拝とこの世の人の力を恐れることは神の目からは同じことだからです。世の人々は偶像を神のかたちとして拝んでいました。しかし、キリスト教国では、人間を神のかたちとして拝んでいるとも言われます。私たちも、神よりも、自分や人の信仰深さを見てしまうという落とし穴があることを忘れてはなりません。

3章では、「万軍の主(ヤハウェ)、主はエルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる」(3:1)と記されますが、これは国の指導者に関することです。神は、「わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる」(3:4)と、ご自身の国を滅ぼすために、指導者にふさわしくない者を敢えて立てられると言われます。

そして、「そのとき」指導者に飢えた民が、ふさわしくない人に向かって、「私たちの首領になってくれ」と叫び、また要請された人も、理由にならない理由をあげて要請を断るというのです(3:6,7)。

そして12節では、「女たちが彼を治める」と記され、16-26節では、高ぶる女たちへのさばきが宣告されます。どの国も、大奥とかハーレムが政治を裏から動かすようになるとき、滅亡に向かいます。そして、彼女たちの滅びも、「七人の女がひとりの男にすがりついて」(4:1)、保護を求めるような悲惨で現されます。それは女同士で争いながら国を裏から操っていた状態から、男の力に頼らざるを得ない状態への堕落を示します。

そして、この地が、人間の指導者に徹底的に失望を味わった「その日になって、(ヤハウェ)の若枝は、麗しく、栄光に輝き・・」という救い主が現れると預言されます(4:2)。これは一連の預言書の中での最初のメシヤ預言です。また、苦しみを潜り抜けた者を、「いのちの書に記された者」(4:3)と呼ぶのは黙示録の先駆けです。これは私たちが苦しみの中で信仰を全うできるのも、肉の力によるのではなく神の選びによるという告白です。また、主が、「さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い」(4:4)とは、預言書で初めての聖霊預言です。

その上で、「主(ヤハウェ)は創造する」(4:5)という天地創造を思い起こさせることばとともに、主が荒野でイスラエルの民の真ん中に住んで、「昼は雲の柱、夜は火の柱」(出エジ13:21,22)によって民を導いたときの回復が預言されます。エルサレムが滅びたのは、主の栄光が立ち去ったからですが、その栄光が再び戻ってくるのです。しかも、その主の臨在のしるしは、民を覆う仮庵となり、「昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避けどころと隠れ家になる」というのです(4:5,6)。先に、主の栄光の現れは、人々をほら穴や岩の割れ目に逃れさせましたが(2:19,21)、ここでは、人を守る陰となり隠れ家となるという変化が見られます。それは、私たち信仰者にとっては、救い主の現れは、恐れるべきものではなく、安全と喜びと繁栄の回復であるという意味が込められています。

ドストエフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の中で、サタンに魂を売った教会指導者に、「人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、譲り渡せる相手を見つけたいという、願いだけしか持っていない」と語らせています。それは彼が自分の心の闇と向きあった結果の卓越した洞察でしょう。エーリッヒ・フロムという社会心理学者は、ナチズムの台頭を、人々が「自由からの逃走」を願った結果であると語りました。実際、ナチスの宣伝相ゲッペルスは、「民衆は上品に支配されること以外なにも望まない」と断言しています。

神はひとりひとりをご自身のかたちに創造し、主体的に自分の意思で神を愛し、人を愛することができるようにされました。しかし、人は、この自由な責任を果たすことを拒否し、偶像と権力者に屈服することを望んだのです。実際、約束の地に導き入れられたイスラエルの民は、神に向かって、自分たちを治める王を求めました。

つまり、神がご自身のさばきとしてリーダーシップを混乱させたというのは、人の奴隷根性の流れるままに任せたということに他なりません。現代の人々も、自由に付随する孤独と不安をもてあまして、何でも断言してくれる宗教指導者を求めています。しかし、使徒パウロはコリントの自由市民に向かって、キリストのあがないのみわざを思い起こさせながら、「あなたがたは代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23)と勧めています。つまり、「主(ヤハウェ)の若枝」と呼ばれる預言された救い主は、ひとりひとりの心を神に向け、人を誤ったリーダーシップから解放するためにこの地に来られたとも言うことができます。

3.「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるのか」

 5章の1~7節は「ぶどう畑の歌」と呼ばれ、三つの福音書に記されているイエスの「ぶどう園のたとえ」のもととなっているものです。最初は、「わが愛する方のために私は歌おう」と、イザヤが主(ヤハウェ)を「わが愛する方」と呼びながら、主のために歌ったものと解釈できます。なぜなら3節にあるように、ぶどう畑の所有者は神ご自身であり、イスラエルはぶどう畑だからです。イザヤは、主の痛みを歌っているのではないでしょうか。それは、主が、「甘いぶどうのなるのを待ち望んで」なすべきすべてのことをしてくださったのに、期待が裏切られ、「酸いぶどうができてしまった」からです。それで、主は、「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるのか」(5:4)と問いかけながら、この畑を捨てる決意をされたというのです。同じように主はぶどう畑としての「イスラエルの家」に、ご自身の「喜び」としての「ユダの人」を植えたのに、「公正」の代わりに「流血」「正義」の代わりに「泣き叫び」が生まれてしまいました。主が愛情を注いだ畑に、悲しみをもたらす実しか生りませんでした(5:7)。

  ユダの人々は畑の真の所有者がどなたであるかを忘れて、我が物顔に、所狭しとその畑を占領しています。しかし、主がその畑を捨てられ結果、「必ず、多くの家は荒れすたれ・・・一ホメルの種が一エパを産する」(5:9,10)とあるような、種の十分の一の収穫しかない飢餓の時代が来るというのです。そして、このようにして、「人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる目も低くされる。しかし、万軍の主(ヤハウェ)は、さばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、みずから聖なることを示される」(5:16)というので。そして、そのときの状態が、「子羊は自分の牧場にいるように草を食べ、肥えた獣は廃墟にとどまって食をとる」(5:17)と描かれますが、これは今までの「家に家を連ね」(5:8)とあった人の住まいが、家畜と野獣の住まいとなるという意味だと思われます。

  そして、「ああ、うそを綱としてとがを引き寄せ」ている者たちとは、イザヤの預言をあざける偽善の宗教指導者のことです。彼らは、皮肉にも、汗を流しながら一生懸命に、「咎と罪」を自分のもとに引き寄せているばかりか、「イスラエルの聖なる方のはかりごとが近づけばよい。それを知りたいものだ」と、自分で主のさばきの日を呼び寄せているというのです。彼らは、神のご支配の代わりに、人間の力に目を向けさせました。彼らは善意に満ちて人の努力を励ますように見えたかもしれませんが、実際は、不信仰のゆえに神の怒りを買っていたのです。

続いてイザヤは彼らのことを、「ああ、悪を善、善を悪と言っている者たち・・・おのれを知恵ある者とみなし・・・わいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている」(5:20-23)と非難し、「このゆえに、主(ヤハウェ)の怒りが、その民に向かって燃え・・・」(5:25)と宣告します。そして、そのさばきは、「主が遠く離れた国に旗を揚げ・・・」(5:26)とあるように、主ご自身が、神の民の敵と思われる異教の国を用いることによって実現するというのです。その結果、訪れる暗黒の時代のことが、「その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声を上げる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえも雨雲の中で暗くなる」(5:30)と描かれます。

4.「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」

  6章になって初めて、イザヤの召命が記されます。「ウジヤ王が死んだ年」(6:1)とは、繁栄の時代の終焉を示唆します。ウジヤは自分の成功に酔ってしまって高ぶり、主を礼拝することにおいても自分のやり方を押し通そうとしました。彼は祭司にしか許されていないことを行って、主のさばきを受けらい病にかかったのです。それはユダ王国が苦しみの時代に入ることを示すものでもありました。そしてそのようなとき、それと対照的な「栄光」として、イザヤは、「高くあげられた王座に座しておられる主(アドナイ)を見た」(6:1)というのです。そして、六つの翼をもつ不思議な生き物、セラフィムたちが主の神殿の上を舞って、互いに、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主(ヤハウェ)。その栄光は全地に満つ」と叫んでいました。彼らがふたつの翼で顔を覆っているのは、彼らでさえ主を直接に仰ぎ見ることがないためであり、また足を覆っているのは、その動きの方向を隠すためだと思われます。

  このセラフィムの賛美の声のために、「敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた」(6:4)という恐怖が起きました。そのときイザヤは、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で・・・万軍の主である王をこの目で見たのだから」(6:5)と言います。すると、セラフィムのひとりが、燃え盛る炭をもって彼の口に触れ、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」(6:7)と宣言しました。これは、今まであったテーマの表れでもあります。そこには、人が、いけにえをささげるという務めを果たすことで聖くされるのではなく、主を恐れる者を主ご自身が聖めてくださるという意味が込められています。

そして、リーダーシップの不在に悩む民のために、主が、「誰を遣わそう。誰がわれわれのために行くだろう」と言っておられる声を聞いて、イザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください」(6:8)と応答します。これはイザヤが肉の身体のままで主を見ることができたこと、また自分のくちびるがきよめられ、罪が贖われたという自覚から生まれた必然的な応答であることを忘れてはなりません。一時の情熱に駆られて、「私を遣わしてください」と応答する人はかえって危ない場合があります。ここで強調されているのは、応答する側のすなおさや熱心さではなく、主の一方的な選びと主の一方的なきよめのわざです。

しかも、「行って、この民に言え」と命じられたメッセージは、「聞き続けよ(聞いて、聞け)。だが悟るな。見続けよ(見て、見よ)。だが知るな」(6:9)という矛盾したものです。それによって、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ」というのです。これは、「そんなの聞き飽きた!」といわれる状態を敢えて作り出すためです。しかも、その目的は、彼らが「自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないため」だというのです。つまり、彼らが、「私はみことばを注意深く聞いて、自分の力で悟った!」と思うことがない状態を作り出すことです。

この不思議なみことばは、四つの福音書すべて、また使徒の働きとローマ人への手紙の二箇所で引用されているほどで、イエスやパウロによって語られた福音が実を結ぶことのなかった理由の説明に用いられています。それによって「救い」は、人間の力ではなく、主ご自身の「恵みの選び」(ロマ11:5)によるということが明らかにされます。宣教に関しての私たちの使命は、結果を出すことではなく、みことばを分かち合うことです。イザヤの働きが、その時代には何の理解も得られず、その労苦は実を結ばなかったのは、主のみこころだったのです。

  

それに対しイザヤは、「主よ、いつまでですか」と問います。すると主は、まず、「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果てるまで」(6:11)と言われます。これはレビ記26章32,33節などにあった預言が成就することですが、そこには地が安息の年を取り戻すという神のご計画がありました。また続けて、「主(ヤハウェ)が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所が増えるまで」と言われますが、これは申命記28章58-68節などに預言されていた「のろいの誓い」が成就することで、それによって彼らは神を恐れることを、体験を通して学ぶようになるのです。イザヤは神の最終的な救いの完成を預言し続けますが、それは聖書に警告されていた神のさばきが成就して初めて実現することなのです。そして、イエスの十字架は、その神のさばきが全うされたことを意味します。それによって、私たちは祝福の時代に招き入れていただくことができたのです。イザヤの預言は、イエスの十字架と復活を通して初めて本当の意味で理解できるもので、それを深く味わいたいものです。

「そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた焼き払われる」とは、アッシリヤ帝国によって北王国の十部族が滅ぼされ、南のユダ王国しか残らない状況と、しかも、そのユダも後のバビロン帝国によって滅ぼされることを指しています。しかし、ここでそれは、「焼き払われる」と表現され、これが「火によるきよめ」のわざであることが示唆されています。しかも、そこには、「テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように・・・切り株」(6:13)が残されると記されます。これらの木は、切り株から新しい芽を育てる力があります。つまり、先にあったように「いのちの書に記された」ものは残され、そこに「聖なるすえ」としての「切り株」があるというのです。このあとに、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(11:1)という表現とともに救い主の誕生が明確に預言されますが、ここの表現はそれにつなぐ意味があります。神はご自身の民を単に苦しめ悩まそうとしておられるのではなく、彼らをきよめ、豊かな実を結ぶものへと造り変えようとしておられるのです。

主がイザヤに与えた逆説的なメッセージを見て、私は、「放蕩息子のたとえ」を思い起こしました。父は弟息子に愛のことばを語り続けたことでしょう。しかし、息子はその意味を知ろうともしなかったばかりか、父親が生きているというのに財産の分与を要求しました。父は悲しみながらそれに応じました。それは、この息子が苦しみを通してしか、父の家にあった祝福に気づくことがないとわかっていたからです。父は首を長くして息子が自分の心で気づき帰って来るのを待っていました。失ってみなければ分からない恵みがあります。ただ、そのときになって息子が父のもとに帰ってくることができたのは、それ以前に父の語りかけを耳にたこができるほど聞いていたからではないでしょうか。挫折を通して回心できるためには、聞く耳のない人になお、「聞き続けよ」と語り続ける必要があります。ユダヤ人が、バビロン捕囚の苦しみを通して、自分たちの神に失望する代わりに、神に立ち返ることができたのは、その苦しみが主の御手の中にあって起こったものであることを知ることができたからです。

 

  見せかけの繁栄の中で宗教に恐るべき偽善が生まれること、また真のリーダーシップが見られなくなっていること、それはまさに現代の問題です。そして、今、私たちに求められていることは、何よりも、自分の罪に泣き、主の前にへりくだることではないでしょうか。自分の信仰的な熱心さを誇るような姿勢は、イザヤの召命の記事の文脈に反します。私たちは本来、理解することができなかったはずのことを聖霊によって示された神の民です。自分で救いを獲得したのではありません。自分の肉の力に絶望することから驚くべき希望の光が見えてくるのです。イザヤのメッセージは不可解です。しかし、そのことばには、時が来ると豊かな実を結ぶ力が秘められています。

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2008年1月 1日 (火)

Ⅱコリント5:11-21「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」

                                                       200811

  「キリストの愛にやすらぎ、いやされ、成長する」という教会のビジョンを定めたとき、もうひとつの候補となっていたみことばが、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」でした。そこには私たちのいのちの原点、働きの動機があるからです。そして、私たちの人生のゴールは、「新しい天と新しい地」です。それは「平和」の完成です。年の初めにあたり、私たちは何によって動かされ、どこに向かって進んでいるのかを改めて考えたいと思います。

1.「私たちのことは神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです」

  コリント教会は様々な教師の教えを受けて混乱していました。そして多くの人々がパウロの使徒としての権威を疑い、彼が伝えた福音から離れそうになっていました。それに対し彼は必死に自分の使徒権を弁明します。なぜなら、パウロの教えを拒絶する者は、彼を召したキリストご自身を拒絶することにつながり、いのちを失うからです。そのことが、「私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです」(11)と言われます。

その際、彼は、「うわべのことで誇る人たち」(12)のことを意識しながら、「私たちのことは神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです」(11)と言います。人の行動の動機を知るのは神ご自身です。そして、キリストの福音は、何よりも「人間の最奥の聖所」(第二バチカン会議)とさえ呼ばれる「良心」において明らかになります。私たちは「罪の赦し」という福音を、「良心」において体験するのです。

パウロが伝える福音の正しさは、外面的な権威付けによって納得させられるものではなく、心の奥底での「神との和解」として体験させられるものです。この世の人々は、人の話を聞く前に、その人の肩書きや経歴を見ようとします。また、その人の話術の巧みさによって説得されたりします。その点パウロは、「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりはなっていない」(10:10)とさえ言われるような人であり、いわゆる名説教家ではありませんでした。しかし、パウロは、人の知性や感情というよりは、「良心」に届く福音を語ろうとしていたのではないでしょうか。それは彼自身が、自分の良心において体験した福音です。

年の初めにあたって、おひとりおひとりに心よりお願い申し上げます。それはこの私が、福音を自分の「良心」において体験し続けることができるように、そして、見せかけの権威や弁舌の巧みさによってではなく、自分で味わった福音を、ひとりひとりの「良心」に届くように伝えることができるように、切にお祈りいただきたいということです。

  「もし私たちが気が狂っているとしたら、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです」(13)と記されているのは、コリントの人々が神秘体験や恍惚になって「異言」を語ることに憧れていたからです。そのようなものは、人に見せたり自慢したりするものではなく、隠れた所でなされる神への愛の表現なのです。しかし、人に対しては、人の理解度に配慮しながら、分かる言葉で語るべきなのです。

  ここでパウロは、「あなたがたのため」ということばを強調しています。彼はかつて自分たちの愛の真実を、「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです」(1:6)とまで言っていました。ほとんどの人は、基本的に、「苦しみから逃れる」ことを求めています。また苦しみの中で、一時的な恍惚体験を信仰に求めている人々も多くいます。しかし、それは麻薬に溺れるのと似てはいないでしょうか。しかし、パウロは、福音は何よりも、「苦難に耐え抜く力」を与えるものだと言っています。なぜなら、愛とは、人のために苦しむことができる力として表現されるからです。この社会に愛が冷めているのは、苦しむ力が弱まった結果ではないでしょうか。現在は、インスタントな解決に人々の心が動かされる時代で、忍耐心がどんどん失われています。しかし、どのようにしたら、苦しむ力が養われるのでしょうか。

  そこでパウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる(新共同訳「駆り立てている」)からです」(14)と言いました。パウロはここで、「キリストの愛が逃れ場のないほどに押し迫ってきているので、あなたがたを愛さずにはいられない」と証しているのです。多くの日本人の心の中には、見捨てられ不安が根強く渦巻いていると言われますが、私自身も自分の愛の動機を探ってみると、現実にはしばしば、「愛されたいから、愛する」という計算にも似た思いが働いているように思えます。それは、恐れや打算に駆り立てられた生き方かもしれません。それに対し、キリストの愛が押し迫っているので愛さずにはいられなくなるというのが、私たちが目指すべき生き方でしょう。

2.「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」

その上でパウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」という霊的な事実の根拠を、「私たちはこう考え(判断してい)ます」と言いつつ、福音の本質を語ります。それは、「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」(14)という不思議な説明です。これは、パウロ自身の体験に遡ると理解しやすいと思われます。彼は自分の力でキリストを見出したのではありませんでした。それどころか彼は、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」(使徒9:1)いたほどでした。彼は自分の肉から生まれた理想に燃えて、反対者を葬り去ろうと決意していたのです。しかし、ダマスコへの途上で、「突然、天からの光が彼を巡り照らし・・・『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた」(9:3,4)とあるような予想外の展開でキリスト者とされました。つまり、彼が救いを求めていたのではなく、キリストが彼をとらえ、主のものとしたのです。

あなたも、真理を求めてやまない自分の誠実さによってキリスト者になったのでしょうか?たとえば、あまり表面には出ませんが、恋愛を契機に教会に来るようになったという人の割合は、昔から驚くほど多いのが現実です。以前は、無料の英会話によってとか、海外では日本食の交わりとか、ほとんどの人が、まさに何かに釣られるようにして教会につながっているのが現実です。それは神があなたを誇らせないようにするためです。パウロを選んだ神は、あなたをも選んでくださいました。クリスチャンホームなどは、まさに神の選びそのものです。

しかも、キリストはパウロに、弟子たちに対する迫害を、「わたしへの迫害」と言われ、ご自身と弟子たちを一体のものと表現しました。そしてパウロもやがて、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」(ガラテヤ2:20)と、キリストと一体とされていることを告白しました。そして、あなたを選んだキリストは、その選びのゆえに、あなたとご自分をも一体と見てくださるのです。

パウロは、そのように自分の身に起こったことを、「すべての人」に結び付けてここで語っています。なぜなら、キリストは私たちすべての創造主であり、王であり、私たちと一体となるために人となってくださったからです。すべての人間は、キリストの御手の中にあります。キリストはすべての人の代表者として、すべての人を背負って十字架にかかられました。そのとき、「すべての人が死んだ」(14)ということが起こったのです。何とも不思議な論理ですが、私たちはバプテスマにおいて水の中に全身を沈めて、キリストとともに死ぬということを体験します(ローマ6:4)。それはやがて肉体に訪れる死を、早めに実現させることでもあります。それによって、「私は、自分の身を守るために必死に生きなければ・・」という「恐れに取り囲まれる」思いから解放されます。これは「気を抜くと、お前の身は破滅するぞ・・・」という脅しから解放され、「キリストの愛に取り囲まれる」生き方へと変えられることです。

しかもそれは、死者の中から復活した「キリストにつぎ合わされ」(ローマ6:5)ることでもあります。私たちのいのちの責任をキリストご自身が担ってくださいました。それはたとえば、「あなたに必要な生活費は私がすべて面倒を見ますから、あなたはもうお金を得るために働く必要はありません。あなたは人の心を豊かにする芸術に専念していて良いんですよ・・・」と言われるようなものです。キリストこそがあなたの芸術活動のパトロンであり、最終的な評価を下してくださる方です。それは、先に、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受ける(10)と記されていた通りです。キリストは私たちの創造主であり、私たちの真の雇用主であり、最終的な評価を下してくださる方であり、私たちにとってのすべてです。

そして、私たちはキリストの愛が押し迫ってきた結果として、キリストのために生き始めます。あなたは最初の出会いを忘れ、心のどこかで、自分の求道心や信仰心によってキリスト者になったかのように誤解し、挙句の果てに、信仰生活を肉の力で全うしようとして疲れを覚えてしまうということがないでしょうか。そのような誤解は初代教会の時代からありましたが、パウロはそのような人に向かって、「あなたがたはどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」(ガラテヤ3:2,3)と熱く語り、原点に立ち返るようにと促しています。しかし、パウロの例にも明らかなように、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)とあなたが告白できるのは、主があなたをとらえてくださったことの結果に過ぎません。あなたは神の好意を勝ち取るために毎週礼拝に参加しているのではなく、神にとらえられ、愛されたことの現れとして礼拝に来ているのです。確かに、この世の誘惑を退け、様々な犠牲を払わなければ礼拝に出ることもできません。しかし、そのように礼拝を守ってきた人々は、自分がキリストの愛にとらえられ、押し迫られ、駆り立てられてきたという一様に告白することでしょう。

そのことが、「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(15)と記されます。キリストは私たちのためにご自分のいのちをささげてくださいました。それによって私たちに「永遠のいのち」が与えられました。ただし、それは自分だけを喜ばせるために与えられたいのちではありません。それどころか、自分のために生きようとするところではいのちは窒息し、いのちの喜びを体験することもできません。なぜなら、死ぬことによって生きるのがキリストのいのちだからです。それは蝋燭が自分の身を削りながら周りを照らすことに似ています。

3.「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」

「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」(16)とは、生きる方向が異なった結果として、自分や人の見方が変わるということではないでしょうか。「人間的な標準で」とは、原文では、「肉にしたがって」と記されています。私たちが自分を中心に人を見るとき、「あの人と親しくすると良いことがありそう・・・」とか、「私はあんな愚か者ではない・・・」とか、「あの人は私を必要としてくれる」などと、自分の価値を上げてくれる人か、反対に下げる人かというような基準で見ていないでしょうか。しかし、この世界を、キリストを中心に見てゆくときに、人間の能力や成功や失敗の尺度は根本から変わります。キリストはすべての人のために死んでくださったのであり、キリストはすべての人を神の栄光のために用いることがおできになるからです。

たとえば、ヘンリ・ナウエンは世界的な神学者としての名声を手にしたとき、何ともいえない空虚感を味わいました。しかし、知的障害者との共生施設、ラルシュ共同体に入ることで、いのちの喜びを心の底から体験できるようになったと証ししています。しばしば、人の目には、お世話すべき対象と見られる人々、社会のお荷物と見下されているような人にこそ、いのちの喜びを回復させる力が宿っているという場合があります。

そればかりかイエスは、人々から見捨てられることで、人を根本から建て直す者となられ、ご自分のことを、「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった」(マタイ21:42)と語っておられました。そして、パウロは、「人間的な標準でキリストを知っていた」(16)とき、キリストを迫害する者となっていましたが、その方こそが救い主キリストであると知らされたとき、イエスのためにいのちをかける者へと百八十度変えられたのです。

そして、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(17)という感動に満ちた宣言がなされます。「新しく造られた者です」は、同じ原文がガラテヤ615節では、「新しい創造です」と訳されています。この世界の始まりは、「初めに、神が天と地を創造された」と描かれ、この世界のゴールについて、神は、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)と約束しておられます。つまり、新しい天と新しい地に生きる「いのち」が、すでにこのときから始まっているというのが、ここでの「新しい創造」です。これはヨハネの福音書で、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(3:36)と言われるのとほとんど同じ意味を持っています。あなたは、今、そのままで、「キリストにつぎ合わされ」、一体とされ、キリストのいのちを生き始めているのです。

ですからこれを、「クリスチャンになったら、嫌な自分の性格や気質が変わるはず・・・」というような意味に誤解してはなりません。私は昔、「自分の中にある孤独感や不安感が信仰によって克服される・・・」というように願っていましたが、その期待は見事に裏切られました。それどころか、ますます感情が揺れやすく、涙もろく、傷つきやすくなってきている面さえあるように思えます。しかし、私はキリストに出会うことによって、自分の気質を喜ぶことができるようになり、自分の傷つきやすさは、人の痛みに共感する窓になってきているように感じます。自分の感性を、神からの賜物と受け止めることができるように徐々に変えられてきたのかと思わされています。拙著の詩篇139篇の解説で性格の分類のことを書いています。主は敢えて、異なったタイプの人々を弟子たちのリーダーとして召しだしておられます。「新しく造られた者」は、自分のいのちを神の視点から新しく見直すことができるのです。

つまり、私たちは「キリストのうちにある」ことによって、この世の基準に別れを告げるのです。そのことが、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と記されています。「新しい天と新しい地」とは、この世界が神にある平和と平安、愛と喜びという祝福で満たされるときを指します。これはヘブル語で「シャローム」と表現されます。世界はシャロームの完成に向かっていますが、私たちはその基準から、自分や人を見るようになるとき、それぞれの人をまったく異なった尺度で見ることができるのではないでしょうか。

たとえば、箱根駅伝というチームによるマラソンレースでは、走る力によって人をはかるのが当然です。企業では、ひとりひとりの生産性の違いによって給与に差がつけられるとき、その企業は公平な人事を行っていると言われます。しかし、もし、地上の教会の目標が、この世の会社と同じようなレベルで、達成度がはかられるような基準に置かれるとしたら、それは危険なことです。企業組織と教会組織は目指しているものが全く異なるからです。

教会のゴールは、神のシャロームの完成です。そこにはあらゆる民族が平和のうちに集められています。教会は、この地での「新しいエルサレム」を指し示す「つぼみ」です。ですから、逆説的に言うなら、「話の通じない」と思える人同士が集まっているところに存在意義があるのかもしれません。多様性を大切にすることで、場合によっては教会内で、口論が激しくなるように見えることがあるかも知れません。「もっと気持ちが通い合う者どうしが集まっているほうが、気が休まるのに・・」と思うこともあるかも知れません。しかし、それではこの世の仲良しサークルと同じです。教会に一時的な争いが起こることを悲観的に見すぎてはなりません。「ことばもきもちも通わない・・」と感じあうような人同士が、それでもともに集まり、同じ主を礼拝していること自体が、この世の奇跡なのですから。

それにしても、神にある平和という目標に焦点を合わせるなら、今、あなたが自分の身近な人を愛することができないということは、それに真っ向から反することです。話が通じない状態のままにとどまってはなりません。それは、「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました」(18)とある通り、「和解の務め」を与えられている者どうしが和解できていないことは自己矛盾だからです。ただし、その際、順番が何よりも大切です。あなた自身が、キリストによって、神との和解を、心の底から味わうということこそが、話の通じない人に向き合う前に何よりも必要なことです。私たちが人を赦すことができないのは、神の赦しを自分の中で十分に体験していないことの現れだからです。それこそイエスが弟子たちに教えた主の祈り、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目ある人を赦します」という祈りの核心です(マタイ6:12私訳)

しかも、その際、人を赦すことができない自分の不信仰を責めることも自己矛盾になりえます。それは、このことばの先に、「これらのことはすべて、神から出ているのです」と記されている通りです。先に述べたように、自分の信仰が神からの最高の賜物であることを振り返り、感謝し、味わうことこそがすべてに先立つべきだからです。

その上でパウロは、「私たちはキリストの使節なのです」と自分の使命に言及しながらも、「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい(20)と驚くべき表現を用います。神は、あなたの反省の程度によって赦してくださるというのではなく、神の側から、「わたしはおまえを赦したい。わたしの赦しを受け入れてくれ」と懇願しておられるというのです。

そして、最後に、「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(21)という「新しい創造」のことに再び目が向けられます。それは、何と、キリストが罪人となり、罪人である私たちが罪のないキリストと同じ立場にされるという驚くべき立場の交換を意味します。私たちが「神の子ども」とされるとは、私たちひとりひとりが小さなキリストにされることにほかなりません。私たちは罪人のままで、キリストのものとされています。そして神は、ご自身の御子キリストを見るように、私たちを義人と見てくださいます。その意味で、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と言われるのです。神がキリストによってどれほど偉大なことをしてくださったかを味わい続ける年でありたいものです。

  「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」というみことばは、「心機一転、昨年の嫌なことをすべてを忘れて、一からやり直そう!」というような意味ではありません。私たちは受け継いでいる福音の原点に立ち返り、自分に与えられている感性を受け入れ、自分の心の奥底の「良心」で福音を味わう必要があります。神にある心の平安こそが、家族の平和、教会の平和、社会の平和の基礎です。

その際、「平安の祈り」にあるように、「神様。私にお与えください。変えられないことを受け入れる平静な心を

変えられることを 変えて行く勇気を そして ふたつのものを 見分ける賢さを・・」と祈ることが大切ではないでしょうか。あなたには、「過去と他人は変えられない」という現実ばかりか、自分の基本的な体型も、基本的な気質も変えられません。あなたには変えられない弱さがあり、能力の欠けがあります。しかし、それはあなたに他の人の助けが必要であること、また他の人の様々な能力の大切さを教えるために与えられた「賜物としての弱さ」ではないでしょうか。一方、あなたは神と人とに対する行動を「変えて行く」ことができます。それには「勇気」が必要ですが、臆病なために自分のことばかりを最優先するあなたを、「キリストの愛が取り囲んでいる」のです。それこそ私たちの信仰の出発点です。そして、「神の和解を受け入れなさい」という勧めは、求道者や未信者ばかりに向けたことばではありません。これは、私たちが自分の「良心の呵責」を感じるたびに、立ち返るべき神の招きなのです。

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