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2008年2月24日 (日)

イザヤの預言は、絶望と希望が交互に描かれます。まるで私たちの心の鏡のようです。硬くなっている心が柔らかくされるような気がします。

イザヤ21章~27章 「主(ヤハウェ)と和(シャローム)を結ぶ」

                                                         2008224

  ある小学生の男の子が、クラスの中で、ひとりだけ自分の将来の夢を語ることができなくて、それが原因で皆にからかわれ、しょげていました。そのことを忘れようとすればするほど、情けない気持ちになってしまいました。父親は、その子を自分の職場の映画スタジオに連れて行き、大きな撮影用のカメラがついた移動式の椅子に座らせました。父親に促されてカメラを覗き込んだこの子は、恐ろしい形相の怪獣が見えたので、思わず叫びました。父親は、「どんなに恐くても目をそらすんじゃないぞ」と励ましながら、少しずつカメラを後退させました。すると怪獣の全体像が見え、ついにはまわりの映画セット全体が見えました。男の子はずっと気分が楽になりました。その上で父親は、「恐いこと、嫌なことに圧倒されたら、じっと一点ばかりを見つめていないで、もっと下がって全体を眺めてごらん。将来の夢だって、そのうち分かるよ。大切なのは、今、言えない自分を悩むのではなく、自分の視界を広げ続けることだ・・・」と言いました。イザヤの預言は、私たちの視野を広げるものです。この世界に様々な痛みや苦しみがあります。それを神の救いのご計画の全体像から見られるようになることこそが信仰の成長です。私たちはわからなくても、私たちの主は、この歴史すべてを支配しておられます。私たちは何度も失敗しますが、私たちの主は、それをすべて益に変えることができます。何より大切なのは、その全能の主との交わりを築くことです。

1.バビロンに対する宣告

  「海の荒野に対する宣告」(21:1)とは、9節にあるようにバビロンに対するさばきで、そこがペルシャ湾という広大な海に面していることを皮肉った表現です。「エラム(ペルシャの西部)よ、上れ。メディヤ(その北西部)よ、囲め」(21:2)とは、紀元前539年のバビロン陥落(13)であるよりは、紀元前689年にアッシリヤ王セナケリブがバビロンを征服したときのことを指していると思われます。エラムとメディヤはそのときアッシリヤの連合国でした。なおセナケリブは紀元前701年にエルサレムを包囲して陥落させることができませんでした。それ以降、ユダの王ヒゼキヤはバビロンと盟約を結んでアッシリヤに対抗しようとしますが、それに先立って、主はイザヤを通してバビロンが当てにならないことを示しておられたのだと思われます。「それゆえ・・・苦しみが私をとらえた・・・私が恋い慕っていたたそがれも、私にとっては恐れになった」(21:3,4)とは、イザヤがこれを記しているときには、アッシリヤがエルサレムに迫りつつあるときで、新興国のバビロンがアッシリヤの東から攻撃をし、そこに「たそがれ」をもたらしてくれることがエルサレムの唯一の救いと見られていたからです。「彼らは食卓を整え・・・」(21:5)とは、対アッシリヤ連合を結ぶ首長たちの宴会の様子です。彼らは根拠のない望みを抱いて互いに励まし合おうとしているだけでした。

それに対し、主はイザヤに「見たことを告げる」ように命じます(21:6)。ろばやらくだの動きに「注意を払わせよ」(21:7)とあるのはそれらを用いる遊牧民の軍隊の動きを指しています。「すると獅子が叫んだ」(21:8)とは預言者イザヤ自身が、「見張り」として、バビロンの陥落を告げるということだと思われます(21:8,9)。そして、「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ・・・」(21:10)とは、人間的なすべての望みが消えていることを嘆いたものです。

「ドマに対する宣告・・・」(21:1112)とは、「セイルから」とあるようにエドムに対するものです。ドマは、沈黙(ドゥーム)とエドムをかけたことばで、アッシリヤの支配という「夜」がいつ終わるのかという問いに、その時期を答えないまま、「朝が来、また夜も来る」と、敵の国が滅びても、また必ず別の敵が生まれるという永遠の現実を語りました。

続く「アラビアに対する宣告」(21:13)では、「デダン」とか「テマ」というオアシスの町に、避難民を受け入れるように訴えられます。「ケダル」(21:16)はアラビアの砂漠の北西部、先のふたつの町を含む地域ですが、「もう一年のうちに、ケダルのすべての栄光は尽き果て」(21:16)とあるように、アッシリヤの支配に屈するというのです。

つまり、これらを通して、イスラエルにとっての目に見える夜明けの希望は次々と消えていることが表現されています。私たちも、自分が期待していた救いの期待が裏切られ、失望することがあるかもしれません。

2.エルサレムに対する宣告

22章はエルサレムに対する宣告です。これが「幻の谷」(22:1)と呼ばれるのは、輝く神殿が立っているシオンの山に対する皮肉だと思われます。2,3節ではエルサレム陥落の様子が預言されます。それは、自分の身の安全ばかりを考えていた首長たちが、住民たちの飢え死にを見過ごしたあげく、城壁が崩れそうになると責任を放棄し、一目散に逃げ、捕らえられてしまうという悲劇です。実際、これから約150年後に起きたエルサレムの陥落はそのとおりになりました。しかし、それは多くの町や国の陥落に共通します。国や組織は、必ず、内側から腐敗し、滅びてゆくものだからです。そこでは民の命を守るためのリーダーが、民を破滅に追いやっているのです。

5-8節ではエルサレムがエレムとキルというバビロンのさらに東の国の軍によって包囲される様子を示しています。つまり、地の果ての国も攻撃に加わっているという絶望的な状況を表すものです。そのような中で、主は、「おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て・・・城壁を補強し・・・貯水池を造って、古い池の水を引いた。しかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった」(22:10,11)と非難します。ヒゼキヤが城壁の補強や地下トンネルを掘って水の補給路を確保したこと自体が悪いのではなく、敵の攻撃やエルサレムの弱点すべてを支配しておられる創造主を見上げることを忘れていることが問題なのです。「ダビデの町の破れの多い」状態は、神が「なさり」また「計画」されたことでもあります。それはその致命的な弱点を通して、神の助けを求めさせるためです。祈りを忘れて、人間的な対応が先走ってはなりません。

私たちの心にもいろんな「破れ」があります。その弱さを自覚し、それを補強しようとすることは当然です。しかし、欠点のない人など、どこにもいません。欠点を抱えたままで、すべての人は、神のユニークな作品です。しかも、人は、自分の弱さを自覚しなければ神の救いを求めようとも思いません。ですから、自分の欠けを恥じる必要はありません。それどころか、パウロのように、自分の肉体のとげが取り去られることを願いながら、その中で主が、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われるのを聞き、驚くべき逆説として、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょうと告白することができます(Ⅱコリント12:9)。私たちの弱さは、神と自分の結び目です。それは私たちの祈りの出発点です。弱さを恥じる暇があったら、その弱さを与えた神助けを求めて祈るべきなのです。

なお、自分の弱さのゆえに危機的状況に陥ったときに、私たちは現実から目を背ける傾向があることを12節から14節は語っています。「その日、万軍の神、主(ヤハウェ)は、『泣け。悲しめ・・・』と呼びかけられたのに、なんとおまえたちは楽しみ喜び・・・肉を食らい、ぶどう酒を飲み、『飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから』と言っている」というのです。危機の中で人間的な対処に走ることの正反対に、「あきらめ」と「居直り」があります。それが人を、刹那的な宴会に走らせます。しかし、そのような心の態度に対して、主は、「この罪は、お前たちが死ぬまで決して赦されない」と言われます。神が赦すことができない罪とは、私たちが神の赦しと助けを求めないことです。

ある人は、「自分の過ちを隠そうと策略することに比べたら、私たちが犯すほとんどの過ちははるかに許しやすいものである」と言っています。事実、自分の過ちの言い訳を考え出す者は、自分を正当化し、自分を被害者とし、神と人との関係を壊してしまいます。しかし、自分の過ちを素直に認め、神と人とに謝罪する者は、そこで神と人との交わりを深めることができます。主は、七の七十倍まで、つまり無限に、私たちの過ちを赦してくださる方です。

ところで、パウロは、このみことばを引用しながら、「もしこの死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです」(Ⅰコリント15:32)と語っています。それはつまり、私たちの身体が復活し、平安と喜びのうちに主の前に立たせていただけるという最終的な希望こそが、あきらめと居直りという刹那主義的快楽への歯止めになるというのです。希望こそが、人間をあらゆる堕落から守る最後の砦です。希望を持っている人は信頼できます。私たちの救いは、「希望を持つ」こと自体の中にあります。それは、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち私たちの身体の贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです」(ローマ8:23)とあるとおりです。

  15節から25節では、「宮廷をつかさどる執事」のことが記されています。ここには36章に登場するヒゼキヤ王のふたりの補佐官の名がでてきます。「執事」というタイトルが出てくるのは旧約聖書中ここだけですが、これは新約聖書時代の教会の「執事」にも通じることです。22章の最初には、バビロン捕囚の時代のことが記され、ここではその百数十年前の人の名が出てくるのは何とも不思議ですが、預言者イザヤはここで具体的な時代のことよりも国の指導者一般のことを語っているのだと思われます。最初の「執事シェブナ」はその傲慢さのゆえに、「主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し・・・引き降ろす」(22:18,19)と言われます。そして、「ヒルキヤの子エルヤキム」を、その交代に立てると言われます(22:20,21)。彼はダビデの家を力強く管理し、栄光で満たされると言われます。しかし、「確かな場所に打ち込まれたひとつの釘は抜き取られ・・・」(22:25)とあるように、このダビデの家の要としての立場も、やがて廃されると預言されます。これはエルサレムの滅亡を指していると思われます。つまり、主は、エルサレムの指導者を立て、また廃することで、この国の政治を支配しているというのです。国の将来は指導者によって決まりますが、その指導者を神ご自身が支配しておられるのです。

3.ツロに対する宣告

  「ツロに対する宣告」(23:1)では、「タルシュシュの船よ、泣きわめけ」と、スペインとの交易で栄えたこの町が滅亡する様子が描かれています。それと合わせて、その北にあったシドンへのさばきも並行して記されます。ツロの王はかつて、ダビデやソロモンを支えたほどの力強い存在でした。しかし、「万軍の主(ヤハウェ)が・・・すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた」(23:9)と、主がこの世の富を誇る者へのさばきを告げられます。そして、「タルシュシュの娘よ・・・自分の国にあふれよ」23:10)とは、スペインと思われる最果ての地がツロの支配から脱する様子を表しています。「主は命令を下してカナンのとりでを滅ぼした」(23:11)とはツロの滅亡を指しています。

12,13節はアッシリヤ帝国がこの地中海岸の地域から東のカルデヤ人の国(バビロン)までの広大な地域を征服し、地中海貿易も衰えるようすが描かれます。1,12節のキティムとはキプロス島を指しています。

「その日になると・・・ツロは七十年の間忘れられる」とは、アッシリア王セナケリブが紀元前701年にツロを滅ぼし、アッシリヤ帝国がこの地の支配権を失う630年までを指していると思われます。そして、「七十年がたつと、主はツロを顧みられるので・・・」(23:7)とは、ツロの再出発も主のみわざであることが記されます。なお、そのツロの富は、「遊女の報酬」(23:17)と軽蔑されながらも、それが「主にささげられ」(23:17)と描かれます。これはダビデやソロモンのときに、ツロの富がエルサレムの繁栄を支えたときと同じ状態が回復されるという意味です。

4.全地へのさばきと、主の救いのご計画が成就するという希望

  24章から27章は「イザヤの黙示録」とも呼ばれ、これまでのように具体的な国に対するさばきよりは、この全世界に対するさばきが記されています。24章初め、「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と・・・」とは、この世の秩序が崩されると共に、一人一人が裸で神のさばきの前に立つことを示しています。そのことが、「地はその住民によって汚された・・・それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる」(24:5,6)と記されます。そして、「心楽しむ者はみな、ため息をつく・・・」(24:7)とあるような、悲しみの時代が到来するという預言です。それは「都はこわされて荒地のようになり、すべての家は閉ざされて、入れない」(24:10)ような破壊が富の中心地にもたらされるからです。

しかし、それは、「ぶどうの取り入れ・・取り残しの実を集めるとき」(24:13)でもあります。それはさばきの後に救いが実現するときでもあります。ですから、14節では突然、「彼らは声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。それゆえ東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ」(24:1415)という賛美が広がる様子が描かれています。

ただ、そのような中で、イザヤは、「私はだめだ、私はだめだ」(24:16)と、この賛美に加わることができない痛みを表現します。それは「裏切る者は裏切り、裏切り者は、裏切り裏切った」とあるように自分の周りの人々が、それぞれの弱さにゆえに、主を忘れ、滅びに向かっているのを見ているからです。そのことが、「そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない」(24:14)という絶望として表現されます。

 ところで、「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。彼らは・・・牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる」(24:21,22)と、サタンとその勢力に対するさばきと地上の権力者に対するさばきが執行されることが預言されます。神はご自身に敵対する勢力を必ず罰せられるからです。

 

一方、それと同時に、「月もはずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主(ヤハウェ)がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝く(24:23)とは、新約の最後のヨハネの黙示録「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(21:23)、また、「そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。もはや夜がない。神である主(ヤハウェ)が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽もいらない。彼らは永遠に王である」(22:3-5)の原点になっていると思われます。

 25章の初めに、「あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに忠実に成し遂げられました」と記されますが、神の創造のみわざは、闇が満ちた世界に光を、茫漠として何もなかった世界に、植物を生えさせることとして始まりました。そして、この世界は、神の光で満ちた世界、失われたエデンの園の調和が回復するという神の平和(シャローム)の完成に向かっています。この地の悪に対するさばきは、その一過程に過ぎません。そして、「城壁のある町が廃墟とされる・・」(25:2)とは、創造主を忘れた人間の傲慢が砕かれるということです。そのとき、「横暴な国々の都も、あなたを恐れます」(25:3)とあるように、この世の権力者が神を恐れ、「弱っている者」「貧しい者」を虐げるということができなくなります。そして、「万軍の主(ヤハウェ)はこの山の上で万民のために・・宴会を催される」ばかりか、「永久に死を滅ぼされる」というのです(25:6-8)。エデンの園で人間が蛇の誘惑に負けたとき、世界に「死」が入ってきましたが、「死」が滅ぼされ、「いのち」に呑み込まれることこそ救いの完成です。そのとき、「神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる」(25:8)というのです。

  このように見てくると、24章の終わりから25章の記述は、すべてヨハネの黙示録に繰り返されるイメージです。それどころか、使徒ヨハネはこのイザヤ書を読みながら慰めを受け、御霊に導かれて、この世で厳しい迫害を受けているキリスト者に、目に見える不条理の背後にある神のご計画に目を向けさせたと言えましょう。

5.「志の堅固な者を、あなたはまったき平安のうちに守られます」―復活の希望

261節から271節までは、「その日、ユダの国で、この歌が歌われる」(26:1)というエルサレムの最終的な救いの希望の歌です。その際、「志の堅固な者を、あなたはまったき平安のうちに守られます」(26:3)とありますが、「志」とは、心の「傾きを意味します。かつて、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのご覧になった」(創世記6:5)ことの結果として、大洪水を起こされ、地をさばかれました。問われているのは、心が神に向かうか、悪に傾くかという一瞬一瞬の心の方向です。「志の堅固な者」とは、自説に固執する「頑固な者」とは違います。「志」とは、かえって日々揺れる心かもしれません。大切なのは、悲しみや苦しみの中でも、いつでも心の中の羅針盤の針が、主に向かっているということです。そこから、「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)という勧めがうまれます。そして、そうする者は、「まったき平安のうちに守られる」のですが、「まったき平安」とは、原文で、平和(シャローム)ということばが二回繰り返されています。このことが、「いつまでも主(ヤハウェ)に信頼せよ。ヤハ、主(ヤハウェ)は、とこしえの岩だから」(26:4)というように言い変えられます。「信頼」というのも、「心が動じない」というより、自分の心の醜さや揺れを隠すことなく、正直に打ち明けることができるような安心感を意味することばです。「主がとこしえの岩」であられるからこそ、自分の心が揺れていても大丈夫なのです。

不思議にも、14節では「死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません」と述べられ、19節は、「あなたの死人は生き返り・・・地は死者の霊を生き返らせます」と反対のことが述べられます。旧約では、「死者の復活」に関しては稀にしか記されません、それは目に見える約束の地での生き方が中心主題だからです。14節は、地上の多くの君主が神の民を迫害してきたことを覚え、たとえばエジプトでは王のなきがらは、ミイラとされピラミッドに保存され、なおこの地への支配権をアピールしていることを皮肉ったものと言えましょう。神は、この世の権力者や悪人が、死後に私たちを脅すという恐怖を一掃されました。彼らは2422節にあったように神の牢獄に閉じ込められています。このことは同時に、神のさばきはこの地上での私たちの生き方に対して決定されるということ、終わった人生のやり直しは効かないということ、「セカンドチャンスはない!」ということを意味します。

 一方、19節は、何よりも、この地上で不条理な苦しみに耐え、また誠実な行いが報われなかった場合の慰めとして記されています。「主(ヤハウェ)は生きておられる」というのが私たちの信仰の確信です。それであるならば、この永遠の主に結びついている私たちも永遠のいのちが保証されているのです。ここでは、「あなたの死人・・あなたの露」とあるように、私たちのはかないいのちが、神に結びついているということが強調されています。

 2620節から271節では、「ほんのしばらく身を隠せ」と強調されるように、神がこの地の悪や傲慢な獣をさばかれるためにそなえられた苦しみのときは、すぐに過ぎ去るということが強調されます。私たちの目には、この世の悪の力が、いつまでもさばかれないことで希望を失いがちですが、それはすぐに決着がつくのです。

6.「わたし、主(ヤハウェ)は、それを見守る者」

272節から13節では、イスラエルが「麗しいぶどう畑」、主(ヤハウェ)がその主人として描かれます(5:7参照)「わたし、主(ヤハウェ)は、それを見守る者」(27:3)と記されているのは、主ご自身が断固とした意思を持って、イスラエルの家を育て、実を結ばせるということを表現するためです。「わたしはもう怒らない」(27:4)とあるのは、「主(ヤハウェ)の怒りが、その民に向かって燃え・・・それでも御怒りは去らず・・」(5:25)という時代が過ぎ去ったことを意味します。主の怒りは、ご自身の民を滅ぼすためではなく、育てるための愛の表れだからです。箴言の著者も、「憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴言27:5,6)と語っています。

主は、ここで「わたしと和(シャローム)を結ぶがよい。和(シャローム)をわたしと結ぶがよい」(27:5)と、民との和解を求めておられます。それは、「ときが来ればヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の表に実を満たす」(27:6)と、イスラエルの家が主のぶどう畑として豊かな実を結ぶことができるための前提だからです。

「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれるだろうか・・・」(27:7)とは、イスラエルは神ご自身が恋い慕い、選ばれた神の民なので、アッシリヤやバビロンをさばくのと同じような絶滅をもたらしはしないという意味です。その上で、「それゆえ次のことによってヤコブの不義は赦される・・・」(27:9)とあるように、あらゆる偶像礼拝から遠ざかりさえしたら、主はご自身の民を赦してくださるというのです。主は私たちのこの世での過ちや失敗に対してというよりは、私たちが別の神を慕い求めることを何よりも怒っておられます。この世の道徳やどれだけの成果を収めているかの基準ではなく、主ご自身の基準を私たちは心に刻むべきでしょう。

「城壁のある町は、ひとりさみしく・・・」(27:10)とは、イスラエルを苦しめた超大国の都が廃墟とされるとの預言です。一方、「イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる・・・失われていた者・・散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する」(27:12,13)と、神の民の最終的な希望が語られます。

「私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています・・・私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:1,8)とありますが、神との平和を築く主導権は、私たちの信仰以前に、神の御子の犠牲に成り立っているのです。「主にまかせよ。なが身を、主は喜び助けまさん」(賛美歌291)というのがありますが、あなたの創造主は、あなたのすべての弱さを知って、そこにおいてご自身の栄光を表したいと願っておられます。居直りでも、あきらめでもなく、いつでもどこでも、あなたの将来を開くことができる主にすがり、信頼して歩み出しましょう。

Hidenori Takahashi
tachikawa evangelical free church

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2008年2月17日 (日)

イザヤ13章~20章「愚かな誇りと持つべき誇り」

                                               2008217

 キリスト教会では「謙遜」が最大の美徳と呼ばれます。しかし、そのために「誇り」の大切さを忘れてはいないでしょうか。牧師の集まりなどで感じるのは、「謙遜」よりも、それぞれの強烈なまでの「誇り」です。だからこそ、なかなか意見がまとまらないということがあります。そしてあのパウロも、「私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです」(Ⅰコリント9:15)と言っているほど、自分の誇りを大切にしていました。カール・バルトは、「栄誉」を「最高の地上的な財宝」と呼び、「栄誉を失うならば、すべてを失う」とまで言いました。実際、「誇り」を持っていない人に、あなたは何かを任せることができるでしょうか。誇りのない人は、自分の都合で約束を平気で破るのではないでしょうか。ただし、「誇り」は、創造主を忘れさせる最大の力ともなります。本日の箇所では、「宣告」ということばが五回繰り返され(13:114:2815:117:1,19:1)、それぞれにおいて、神がこの世の王国の誇りを砕かれるという趣旨のことが記されます。それを通して、神に敵対する「誇り」が何なのかを覚えたいと思います。

1. 力と富を誇るバビロンへのさばき 

131節から1427節まではバビロンに対するさばきの宣告です。預言者イザヤの時代の超大国はアッシリヤ帝国であり、バビロンはその東でどうにか独立を保っているような国でしたが、そこはかつてバベルの塔が建てられたシヌアルの地でもありました(創世記11:1-9)。神はイザヤを通して、バビロンこそがアッシリヤよりもはるかに恐れるべき国であると告げられながら、同時に、その国もやがて神の御手にあって滅びることをあらかじめ知らせてくださいました。「はげ山の上に旗を掲げ・・貴族の門に、入らせよ」(13:2)とは、バビロンが全面降伏して首都の正面ゲートが敵の征服者に開かれる様子を表しています。それは、神はご自身の「怒りを晴らす」(13:3)ために「聖別」した者としてのペルシャ帝国を立てたことによってやがて実現します。それが、アッシリヤ帝国が全盛期を迎える前から予言されているのは何という不思議でしょう。当時の「全世界」(13:5)とはバビロンからエジプトに至る世界ですが、その東果ての国が「主の憤りの器」(13:5)として用いられるのです。それが、「主(ヤハウェ)の日」(13:6,9)として描かれます。なお、最終的な「主(ヤハウェ)の日」は、「天の星」、「太陽」、「月」光が失われるとき、「世」「悪者」「罰する日であり、そのとき「人間」の数は、純金よりも・・・「少なく」なるというのです(13:9-12)

そのことをまとめるように、「わたしは天を震わせ・・大地はその基から揺れ動く」(13:13)と描かれます。それは、人間がすべてのあわれみを捨て、「幼子たち」さえ「八つ裂きに」するほど野蛮になる日でもあります(13:16)神のさばきは、天からの火としてよりは、人と人とが互いに殺しあうままに放置されることとして表されています。主は、「わたしはメディヤ人を奮い立たせる」(13:17)と言われますが、それはペルシャ帝国の先駆けとしてその連合国のメディヤの王ダリヨスがバビロンを滅ぼすことを示唆しています(ダニエル5:30,31)。そこでも「胎児」「子ども」などの社会的弱者が誰よりも苦しむ様子が描かれています。それにしても、「彼らは胎児をもあわれまず」(13:18)とあるのは驚くべきことです。それは残虐さの象徴ですが、平和なはずの日本で同じ残虐がまかり通っています。

 「こうして、王国の誉れ・・バビロンは、神がソドムとゴモラを滅ぼした時のようになる」(13:19)とは、神のさばきが天からの火ではなく、人と人との戦いを通して実現するということを表しています。それと同時に、栄華を極めた都から住む人がいなくなり、軽蔑された獣の住まいとなるという悲劇が強調されています(13:20-22)

そして、「まことに、主(ヤハウェ)はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる」(14:1)と、バビロンへのさばきとイスラエルの再興がセットになって描かれています。つまり、主は、アッシリヤの攻撃を恐れている民に、はるかその後のことまで知らせて励ましておられるのです。そして、それは、「主(ヤハウェ)が・・あなたへの激しい怒りを除く」(14:3)からなのですが、同時に、それはバビロンの王の「横暴」「憤り」をさばくことによってもたらされるというのです(14:4-6)。そして、それを「全地は・・喜びの声を上げる」(14:7)と、世界の解放と結びつけています。つまり、どのような悲惨も、すべてが神の御手の中にあって起こっているというのです。

一方、「下界のよみ」(14:9)では、それまでに滅びたすべての王たちが、権勢を誇ったバビロンの王を「迎えようとざわめき」ます。それは人の栄華がいかにむなしく、神のさばきがいかに厳しいかを確認するためです。

 「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか」(14:12)は、しばしばサタンの由来として引用されます。ただし、文脈は明らかに、バビロンのことを述べています。旧約においては神の絶対的な主権を強調するためサタンへの言及は少なく、神の御許しの範囲内でしか動くことができない存在として描かれます。なお、創世記3章で、蛇が人に、「あなたがたがそれを食べるその時・・・神のようになる」(創世記3:5)と誘惑したことは、サタンと私たちの思いがいかに似ているかを指し示しているとも言えましょう。そして、私たちの堕落もサタンの堕落も、「私は天に上ろう・・・いと高き方のようになろうと」(14:13,14)と願うことへのさばきという点では同じです。

なお、「北の果てにある会合の山」(14:13)とは、神々が高い山の上にいて地上の人間を治めるという当時の人々の観念を表したものです。サタンもバビロン王も、神の被造物であり、神のさばきを執行するために特別の力が与えられただけです。しかし、彼らは自分の力に酔って創造主に逆らい、さばきを受けるというのです。その際、「しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」(14:15)と描かれますが、これはサタンばかりかサタンのように自分を誇るすべての者の末路です。上昇志向がサタンへの道となることがないように注意したいものです。

これに対し、私たちの主イエス・キリストの歩みは、「神の御姿でありながら・・・ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられ・・・自分を卑しくし・・十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:6-9)と描かれます。つまり、イエスはご自分を低くすることによって、神によって高くされた方なのです。これこそ私たちが従うべき模範です。

「あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる・・・」(14:16)とは、バビロン帝国の最後がどの国よりも悲惨なものになるからです。その理由が、「あなたは・・・自分の民を虐殺したからだ」(14:20)と説明されます。そして、改めて、「万軍の主(ヤハウェ)は、「わたしは彼らに向かって立ち上がる・・・バビロンからその名と・・子孫とを断ち滅ぼす」と仰せになられます。しかも、「万軍の主(ヤハウェ)なる方は、「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する」(14:24)と言われた上で、「わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。アッシリヤのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれる」(11:25)と、1027節の表現を繰り返しつつ、アッシリヤへのさばきも成就すると言われます。

そして、最後に、「万軍の主(ヤハウェ)が立てられたことを、だれが破りえよう・・・」(14:27)と、神の「はかりごと」が必ず成就すると締めくくられます。たとえば、ヨブは不条理な苦しみの原因が分からずに悩みますが、最後に神の御声を聞くことで、「あなたには、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」という告白に導かれました(ヨブ42:2)。私たちは自分を世界の中心に置きながら、目の前の不条理の意味が分からず、「神なんか信じられない!」と不信仰に陥りがちです。しかし、ヨブは、自分の疑問を神に訴えながら、最終的に神のみことばに慰めを見出しました。そのような告白をしたヨブに、神は失ったものすべての二倍のものを回復してくださいました。私たちの目も、この世の力に惑わされます。しかし、神が歴史の真の支配者であることを認め、神にすがり続けるなら、神がすべてのことを働かせて益に変えてくださるというのが私たちの確信です。しかし、この世の不条理を自分の力で正そうとする者は、自分自身が力の虜になり、最後にさばかれてしまいます。

この世の権力者バビロンへのさばきは、「天と地」が滅びるという「主の日」の前触れです。黙示録では、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」(17:15)がキリスト者を迫害すると記されています。私たちのまわりには今も、富と力を神とあがめる人々が満ち、その偶像礼拝に参加しない者が居場所を奪われるという迫害があります。しかし、力と富の支配は滅びに向かっていることが定まっています。私たちは、過ぎ去るものではなく、「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13)。その神の計画は必ず成就するのです。

2. この世の弱者が持っている危険なプライド

1428節では、再び、「宣告」ということばとともにペリシテの地へのさばきが告げられます。「喜ぶな。ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折れたからと言って」とは、アッシリヤに媚を売っていたアハズ王の死と共にユダ王国の没落が目前に迫り、そのことをペリシテ人が喜んだからです。しかし、アロンの杖が蛇になり、おなじような蛇になったエジプトの呪術者の杖を飲み込んだように、ダビデの子孫はペリシテにとっての「燃える蛇」のような存在であり続けると言われます。そして、続けて、ユダの「貧しい者はやすらかに伏す」(14:30)と描かれる一方で、ペリシテの子孫は「飢えで、死なせ」、北からのアッシリヤ軍の前に滅びることが告げられます。しかも、「主(ヤハウェ)はシオンの礎を据えられた」とあるように、エルサレムはアッシリヤの攻撃から守られるという確信が与えられます。

151節から16章の終わりまでは「モアブ」に対する「宣告」です。モアブは死海の東側の国でロトの子孫、ルツの故郷です。彼らはダビデのときもウジヤのときもユダ王国に服従していました。それで主は、モアブが北のアッシリヤからの攻撃によって滅びそうな様子をご覧になり、「わたしの心はモアブのために叫ぶ」(15:5)と言われます。その中で、モアブは、「子羊を、この国の支配者に送れ・・シオンの娘の山に」(16:1)とエルサレムに助けを求めます。彼らは「荒らす者」であるアッシリヤ帝国から「逃れて来る者の隠れ家となれ」と要請しますが、それは軍事的な保護を求めるものでした。しかし、イザヤはこれに対し、「しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、ひとつの王座が恵みによって堅く立てられ・・・」と目先の危急の後に来る、ダビデ王国の完成の預言を語ります。これはつまり、ユダとの軍事同盟よりも、イスラエルの神ヤウェに救いを求めるようにとの信仰的な訴えです。目に見える国よりも、それを超えた神の国、神のご支配にこそ目を向けるべきなのです。

ところが、モアブは、「高ぶり」「高慢」、「誇り」「おごり」のゆえに、ヤウェの前にへりくだることができません(16:6)。そのことは、この章の終わりに、「モアブが高き所に詣でて身を疲れさせても・・もうむだだ」という記述から分かります(16:12)。そして、モアブは、モアブ自身のために泣きわめくような悲惨に陥ります(16:6,7)。これに対し、主は、「わたしのはらわたはモアブのために・・立て琴のようにわななく」(16:11)と描かれます。しかし、彼らの悔い改めのなさにより、彼らの栄光は三年のうちに失われると、その危急性が告げられます(16:14)

ペリシテもモアブもイスラエルに屈服した国です。しかし、彼らは力に屈服しただけであり、イスラエルの神を求めていたわけではありません。私たちのまわりにも、ただ具体的な援助だけを求めるような人がいるかもしれません。しかし、私たちに預けられているわずかな富や力を一時的に提供しても、彼らに真の救い主を紹介できないならすべてはむなしく終わります。やがて彼らは、私たちがその要求に応えられなくなると共に、私たちを非難して去って行くかも知れません。人に媚を売るような人は、人を利用することを考えているだけで、心のうちには高慢があります。彼らは自分の責任を直視する代わりに、自分を被害者に仕立てているだけです。モアブのように保護を求める人が、高慢と誇りに満ちていると言われるのは、何とも不思議ですが、それが心の現実でしょう。残念ながら、今も昔も、自分の弱さをアピールして人を振り回すような人がいます。彼らは悲劇の主人公になることによって、自分を世界の中心に置こうとしています。彼らは神にすがる代わりに、まわりの人を支配しようとしているだけです。

使徒ペテロは、エルサレム神殿の入り口で、足のなえた人から施しを求められたとき、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせました(使徒3:3-7)。私たちの何よりの使命は、イエスの御名を伝えることです。私たちの力ではなく、イエスご自身がひとりひとりの心の中に働きかけ、生きる気力を与えてくださいます。イエスご自身が困難に向かって立ち上がる勇気を与えてくださいます。パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と言い、「誇る者は、主を誇りなさい(Ⅱコリント10:17)と言いました。それこそ真の誇りです。

3.諸国との協力ばかりに頼る者の危うさ 

17,18章は「ダマスコに対する宣告」から始まり、「クシュ」(エチオピア)(18:1)のことに及びます。「ダマスコは・・廃墟となる・・エフライムは要塞を失い」(17:13)とは、ユダの王アハズが、アラム、イスラエル連合を恐れてアッシリヤと手を結んだことへの答えです。預言者イザヤは、そのような人間的な外交政策で国を守ろうとする姿勢を非難し続けていました(7:4)「アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる(17:3)とは、アラムと北王国イスラエルが同じようにアッシリヤ帝国によって滅ぼされることを語っています。そして、彼らはその繁栄を失うことを通して、「自分を造られた方・・・イスラエルの聖なる方」(17:7)に立ち返るというのです。それは、彼らが自分たちの悲惨は、「救いの神を忘れ・・力の岩を覚えていなかった」(17:10)ことの結果であると認めるからです。

「ああ、多くの国々の民がざわめき・・・騒いでいる。しかし、それをしかると、遠くへ逃げる。山の上で風に吹かれるもみがらのよう・・・夕暮れには、見よ。突然の恐怖・・・(17:12)とは、ユダ王国を取り囲む国々に対する神のさばきの結果を表現したものです。これらの国々に共通するのは、アッシリヤのような超大国の攻撃に、小さな王国の連合で立ち向かおうとすることです。しかし、力に対し、力の連合で立ち向かおうとする者は、いつも自分たちの同盟国がいつ裏切るか分からないという疑心暗鬼の不安の中に置かれるのではないでしょうか。

そのような中で、はるか遠く、エジプトの南の「クシュ」から使者がきます(18:1)。このころのエジプトは、その南の現在のエチオピアの王朝に支配されていました。彼らはパピルス製の早舟を送り、パレスチナの国々に、「すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに」(18:2)と、エチオピアとの同盟に誘います「多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国」とはエチオピアを指すと思われますが、ユダ王国はアッシリヤの脅威に対してこの南の国との連合によって対抗しようとしました。それに対し、主は、「わたしは静まって、わたしのところからながめよう・・・」(18:4)と言われます。それは、主が、高いところから国と国が互いに戦い、滅んでゆく様子をご覧になっておられるという意味です。エルサレムの民は、自分たちの軍事力の弱さを嘆き、はるか南の国にまで援助を請いますが、真に頼りになる方は、もっとも身近なところにいます。南の国はやがてそれを知るようになり、彼らの方からエルサレム神殿に贈り物を届けに来るようになるというのです(18:7)。つまり、イスラエルの神こそ歴史の支配者であられ、またその住まいであるエルサレム神殿こそが世界の中心であるというのです。

ユダ王国も、北王国イスラエルも、南のエジプト、北のアッシリヤやバビロンという超大国にはさまれ、大国の顔色を見ながら国の独立を図るという政策を続け、真の支配者であられるイスラエルの神をあがめることを忘れて自滅しました。これは私たちにも当てはまることではないでしょうか。人との協力関係を築くことは仕事のうえで何よりも大切です。多くの企業が新規採用を考える際に何よりも重んじるのが、協力を築き上げる能力であると言われます。それはこの世の常識ではありますが、私たちはその中で、さらに大切なことを忘れてはなりません。それは、(ヤハウェ)こそが、すべての権威のみなもとであるということです。人との関係を築く能力も私たちにとっての愚かな誇りとなり得ます。私たちの信仰は、孤独の中でこそ養われるということを決して忘れてはなりません。

4. この世の知恵と伝統を誇るエジプトへのさばき

19章、20章は「エジプトに対する宣告」です。「見よ。主(ヤハウェ)は早い雲によってエジプトに来る」という書き出しと共に、「わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる」(19:2)と言われます。実際、これ以降のエジプトは常に内戦によって国力を落としてゆきました。その中で、「彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる」(19:3)とあるのは、彼らがピラミッドに象徴される死者崇拝に生きていたからです。

そして、主は、「わたしは、エジプト人を厳しい主人の手に引き渡す」(19:4)と言われますが、こののちエジプトはアッシリヤやバビロンに敗北するばかりか、その後のペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国の支配下に入ってゆくことを示唆するものです。それとともにエジプトの豊かさのみなもとであるナイル川が、流れをせき止められたり干上がったりするような自然災害に襲われると言われます。

「ツォアンの首長たち」(19:11)とはナイル河口デルタの北東部の町、エジプトの主要都市でなされる政治が「まったく愚か」と言われ、パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする」と言われます(19:11)。そして、「あなたの知恵ある者たちはいったいどこに・・・」と問われます。当時、エジプトは文化の中心で、彼らは受け継がれ蓄積されてきた知恵を誇っていました。しかし、「主(ヤハウェ)が、彼ら(諸族のかしらたち)の中に、よろめく霊を吹き入れられたので、彼らはあらゆることでエジプトを迷わせる」(19:14)というのです。そればかりか、エジプトにおいて、彼らが軽蔑するカナン語が五つの町で話され(19:18)、そこではイスラエルの神、主(ヤハウェ)に誓いが立てられるばかりか、その一つの町は、イル・ハヘレス(滅びの町)と呼ばれるようになります。

そして、「その日」には、ピラミッド等の巨大建造物で有名なエジプトの真ん中に、主(ヤハウェ)のために、ひとつの祭壇が立てられ、その国境のそばには、主(ヤハウェ)のために一つの石の柱が立てられ」(19:19)と言われます。

つまり、エジプトが主(ヤハウェ)を礼拝する国になるというのです。これは、日本で言えば、宗教的な伝統と慣習に縛られた天皇家がクリスチャンになるというようなものです。それは、「主(ヤハウェ)はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる」(19:21,22)とあるように、伝統文化に安住する彼らの誇りを打ち砕き、主にすがらざるを得なくなるという状況を作ることによってです。

  そして、そのとき、「エジプトからアッシリヤへの大路ができ」(19:23)とあるように全世界に平和が実現し、国境がなくなり、二つの超大国にはさまれて苦しんでいたイスラエルこそが世界の中心となると言われます。

  20章ではアッシリヤ帝国がペリシテ人の地アシュドテを征服したとき、主はイザヤに、腰をはだけはだしで歩くことを通して、エジプトに訪れる悲劇を告げ知らせるように命じられます。この四、五十年後、エジプトにアッシリヤが攻め入り、預言は成就します。そのとき「海辺の住民」は、エジプトを頼みとする愚かさに気づくのです(20:6)

  私たちのまわりにも伝統文化に通じ、知恵に満ちた人がいます。その前で、しばしば自分の信仰を恥じるようなことがあるかもしれません。しかし、(ヤハウェ)を知らない彼らこそ、最も大切な人生の真理に無知であるということを忘れてはなりません。聖書なしに、誰が、世界の、また人生の始まりと終わりを知ることができるでしょう。

  主は、預言者エレミヤを通して、エジプトとバビロンの間で揺れ動くユダの人々に対して、「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」(エレミヤ9:23,24)と言われました。私たちは神と人に対して謙遜になることが求められていますが、それは自分の意思を殺した奴隷になることではありません。私たちは神に恋い慕われ、愛されているという誇りのゆえに、必要ならば自分の権利を捨て不当な非難に耐えることができるのです。主は預言者イザヤを通して、イスラエルの民がこの世の力のはざまで、神の民としての誇りを失っていることを非難しているのではないでしょうか。この世の王国はすべて滅びます。大切なのは、この世の王国の上にあってすべてを支配しておられる主(ヤハウェ)を礼拝することです。世の終わりには、世界中のすべての人々が、主を礼拝しにやってきます。私たちはその主を、まわりに人々よりも先に知らせていただいたのです。私たちは愚かなプライドに縛られてはならず、神と人とに対して謙遜にならなければなりません。しかし、謙遜になるための秘訣は、私たちが真の誇りに満たされることではないでしょうか。多くの人は、心の余裕がない結果として頭を下げることができないのです。

Hidenori Takahashi
tachikawa evangelical free church

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2008年2月 3日 (日)

イザヤ9章8節~12章6節 「暗闇迫る中で、『I have a dream!』と叫ぶ力」

                                                2008年2月3日 

  四、五十年前の日本と現在の違いは、「夢」にあるのかもしれません。昔の夢は、今から見れば愚かしい面もあったかもしれません。しかし、どんな夢であれ、夢を持っていた時代には人々に活気があり、人情も豊かだったのではないでしょうか。夢には力があります。ナチスドイツによるアウシュビッツ虐殺収容所を生き延びたユダヤ人精神科医のフランクルは、「ひとつの未来を信じることができなかった人間は収容所で滅亡していった。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」と語っています。そして、「繊細な性質の人間がしばしば、頑丈な身体の人間よりも、収容所の生活をよりよく耐え得たと・・なぜなら、彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである」とも語っています。心の中に、夢を持っている人は、逆境の中でなお自分を保つことができます。ユダヤ人の強さは、イザヤ書などを通して、暗闇が迫れば迫るほど、神の救いが近いことを確信したということにあるように思います。目の前の状況が変わっても、失望に変わることのない永遠の夢を持ち続けることができる人は何と幸いでしょう。

1.北王国イスラエル(サマリア)へのさばき 9:8-10:4)

  「主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた」(9:8)とは、北王国イスラエルに対する神のさばきがアモスやホセアという預言者を通して伝えられ、それが実現し始めたことを指します。9章12、17、21節、10章4節で「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」と四度繰り返されますが、すべてのわざわいの背後に、主の怒りの御手があることを思い起こさせるためです。ところが、「この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主(ヤハウェ)を求めなかった」(9:13)と記されます。士師記の時代、彼らは自業自得で苦しむたびに、主を呼び求め、それに応えるように主が「さばきつかさ」を送られましたが、このときは、そのように主に立ち返る動きはありませんでした。私たちも注意が必要です。苦しみに会うときに求められているのは、人間的な原因を探って反省すること以前に、主を呼び求めることです。神は私たちが神に向かって叫ぶのを待っておられます。

「悪は火のように燃えさかり・・・」(9:18)とは、罪が恐ろしい感染症のように広がる様子です。それに対し、「万軍の主(ヤハウェ)の激しい怒りによって地は焼かれ・・・」(9:19)とは、病原菌をすみやかに焼き尽くそうとするかのような主の働きです。つまり、「悪」「主の怒り」が、同時に燃え広がるというのです。何という恐怖でしょう。そのような中で、人々は自分を守るのに忙しく、互いの間の愛が冷えます。これはたとえばパニックに陥った人々が人を踏みつけてでも逃げようとする姿に似ています。神のさばきが、神の民の間に争いを起こすことになるというのです。

国が滅びるときは内側から滅びてゆきます。指導者が腐敗し、民も互いに傷つけ合い、自滅してゆきます。そこでは人間の「悪」が火のように燃えさかり広がってゆきます。そして、そのただ中に置かれた人はますます互いの罪を非難しあうという悪循環に陥り、神が見えなくなります。しかし、そこでこそ神は、ご自身の栄光を現すことができるようにと、私たちの祈りを待っておられます。互いに非難し合うことは、溺れる者が身体を硬直させ、自分で沈んで行くのと同じです。そこに求められているのは、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)という主の語りかけを聞くことです。溺れそうだからこそ、力を抜くことのです。すると、主が浮かび上がらせてくださいます。人の罪しか見えないようなそのとき、主は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」(45:22)と、招いておられるのです。

2.アッシリアへのさばき10:5-19)と、イスラエルの残りのものの回復(10:20-34)

  アッシリヤは、神の道具としての、「怒りの杖」「憤りのむち」(10:5)に過ぎないとまず記されます。しかし、「彼自身は・・・そうは考えない。彼の心にあるのは滅ぼすこと・・断ち滅ぼすことだ」(10:7)とあるように、アッシリヤ自身は、破壊自体を喜び楽しんでいるというのです。それで、主は、「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることはできようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか・・・」(10:15)と語って、主ご自身が人を動かすのでなければ何も起きないと、彼らの高慢を責めました。そして、アッシリヤを用いてイスラエルをさばいた主ご自身が、今度はその当のアッシリヤ自体を滅ぼしつくすと預言されています(10:18,19)。

  神は私たちの能力を用いてご自身のみわざを進められます。私たちは神の御手の中のひとつの道具に過ぎません。もし、その立場を忘れ、傲慢になって自分を神の立場に置くことがあるなら、主はそれまでのようにご自分の道具を用いることができなくなります。ですから、私たちは主のみこころに従う柔軟さを保つ必要があります。

  「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は・・・イスラエルの聖なる方、主(ヤハウェ)にまことをもって、たよる。残りの者・・・は力ある神に立ち返る」(10:20、21)とは、彼らが国を失って初めて、自分の愚かさを反省し神に立ち返るというのです。なおその際、「壊滅はすでに定められており・・・すでに定められた全滅を・・・」(10:22,23)とあるように、神のさばきの計画はひるがえる可能性のないところまで来ており、残りの者の救いも、さばきの後に起こると言われます。そのことのゆえに、「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな」(10:24)と語られます。それは歴史の支配者は、超大国ではなく、イスラエルの神ご自身であるからです。

  「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる」(10:27)とは、ユダがやがてアッシリヤの圧迫から解放されるときを指しています。ただし、「その日、彼はノブで立ちとどまり、シオンの山、エルサレムの丘に向かってこぶしをあげる」(10:32)とは、エルサレムの陥落が目前に迫ったことのしるしです。ところが、そのときになって「見よ。万軍の主(ヤハウェ)、主(アドナイ)が恐ろしい勢いで枝を切り払う」(10:33)というのです。これは後にアッシリヤ軍が、主の御使いによって混乱させられ敗走することを預言したものです。そして、やがて、「主は林の茂みを斧で切り落とし・・・」(10:34)とは、主の「斧」として用いられたアッシリヤ軍が、別の「斧」であるバビロン帝国によって滅ぼされることを指していると思われます。

  つまり、エルサレムの住民にとって、滅びが迫っているとしか見えない状況は、救いが近づいているしるしだというのです。目の前の危機が、神のさばきによるものならば、それが全うされることによって、新しい時代が出現するからです。イエスの十字架は、神が私たちの罪に対して怒りを発しておられるしるしです。しかし、それを通して、死の力が打ち破られ、主の復活による新しい時代が実現することになりました。自業自得で苦しむとしても、そこで主を見上げるなら、さばきは救いの始まりとなります。パウロは、「夜はふけて、昼が近づきました」(ロマ13:12)と言いましたが、それは、暗闇が増し加わると見えることは、光が近づいているしるしだと解釈できるからです。

4.救い主が実現する平和(シャローム) (11章)

11章では、驚くべきことに、クリスマス預言と新天新地の預言がセットになっています。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証と見られているのです。

「エッサイの根株から新芽が生え」(11:1)とありますが、エッサイはダビデの父です。彼は羊飼いであり、決して王家になるような家ではありませんでした。ダビデの根株ではなく、「エッサイの根株」と呼ぶ中に、救い主の誕生の貧しさが示唆されています。それは、「主の救い」が、絶望の後で初めて実現することを意味するかのようです。

  救い主は、人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、彼の上に、「主の霊がとどまる」(11:2)というのです。そしてイエスは、公の働きを、ユダヤ人の会堂で、「わたしの上に主の御霊がおられる・・」(ルカ4:18、イザヤ61:1)と宣言することから始められました。そして、ここには理想的な王を導く三つの御霊の働きが描かれます。

第一の、「知恵と悟り」とは、3,4節にあるような、正しいさばき、公正な判決を下すためのものです。第二の、「はかりごとと能力」とは、4節にあるように、外の敵と、内側の敵に適正に対処する計画力と実行力を意味します。決して口先だけの政治家の約束ではなく、その口から出ることばが、必ず結果を生み出すような王となるということです。そして、三番目は原文では「主を知り恐れる霊」となっていますが、「知る」とは、主との生きた交わりを意味し、「恐れる」とは、自分の心にではなく主のみこころに徹底的に服従する姿勢を表します。これは、理想の王が、日々主との豊かな交わりのうちに生き、その生涯を通して父なる神のみこころに従順である姿勢を現します。

そして、この理想の王は、「正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」(11:5)とあるように、帯をしっかりとしめて働きをまっとうし、正義と真実で世界を治め、この地に理想の世界をもたらすというのです。

ところで、神は、エデンの園という理想的な環境を造り、それを人に管理させましたが、アダムは神に従う代わりに自分を神とし、この地に荒廃をもたらしました。残念ながら、アブラハムの子孫たちも、乳と蜜の流れる豊かな約束の地を治めることに失敗してしまいました。そこで、神である方ご自身が、人となり、自らこの地に平和をもたらそうとしたのです。11章6節からはダビデの子として生まれた救い主が、エルサレムに完全な平和を実現し、エデンの園を再興すると語られます。この世界こそが、65:17-25によると、「新しい天と新しい地」と呼ばれます。

  「狼と小羊、ひょうと子やぎ、子牛と若獅子」(11:6)とは、食べる側食べられる側の関係ですが、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。「小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園での、人が動物を治めるという信頼関係が回復されることです。

そして、続けて、「熊」「獅子」も、「牛」と同じように草を食べると描かれるのは(11:7)、神が遣わしてくださる救い主は、そのような原初の平和(シャローム)を回復してくださるという意味です。人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っており、肉食は必要なかったからです。そして、「その子らはともに伏し」とあるように、その平和は一時的なものではなく、それぞれの子らにも受け継がれるというのです。

また、「乳飲み子」「乳離れした子」が、コブラやまむしのような毒蛇と遊ぶことができるというのは(11:8)、「女の子孫」「蛇の子孫」との間の敵意(創世記3:15)が取り去られ「蛇」がサタンの手先になる以前の状態に回復することです。なお、「わたしの聖なる山」(11:9)とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、それが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの象徴的な町になるというのです。現在のエルサレムは、残念ながら民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれが異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ので、宗教戦争などはなくなります。預言者エレミヤは、この終わりの日のことを、神がご自身の律法を人々の心の中に書き記すので、もはや「主を知れ」と互いに教える必要もなくなると預言しています(エレミヤ31:33、34)。

そして、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩う所は栄光に輝く」(11:10)とは、このような神の完全な平和シャロームは、イエスが世界中で「全地の王」「主」としてあがめられることによって実現するという意味です。私たちはすでにそのような世界に一歩足を踏み入れています。

私たちに対しては今、「あなたがたも…約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます」(エペソ1:13,14)と語られています。それは、私たちのうちに、何とキリストご自身を導いたと同じ聖霊ご自身が住んでおられることを意味します。これこそが最大の奇跡です。それゆえ、キリストが王であられたと同じように、私たちひとりひとりも、小さなキリスト、小さな王として、この世に平和を実現するために労することができます。そして、その働きは、キリストにあって成功が約束されているものなのです。

1963年8月28日のワシントン市のリンカーン記念堂において、マルティン・ルーサー・キングは、「I have a dream」という有名な演説を行いました。彼は自分がいつか暗殺されることを意識しながら、「夢」を語りました。彼は、その夢、白人と黒人との平和を、「狼は子羊とともに・・・」のレトリックを用いて表現しています。

「友よ。私は今日、皆さんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでも私にはなお夢がある・・・・私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤い丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである。

私には夢がある。それは、いつの日か、不正義と抑圧の暑さにうだっているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに変えられる事である・・・・

私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。私は、今日、夢を持っている。

私には夢がある。それは悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か、幼い黒人の男の子と女の子が、白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである・・・」

それに続いて、彼は、「私は今日、夢を持っている」と言いつつ、それを、「このようにして、(ヤハウェ)の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る」というイザヤ40章4,5節の夢に結び付けます。そして、「これが私の希望なのである・・・こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることができるのである」と語っています。イザヤの預言こそ、死を超えた希望を持つことができた根拠でした。それから五年後、彼はメンフィスで暗殺されますが、その前日、自分の死を予感しつつ次のように語ります。

「過去何年もの間、人々は戦争と平和について語ってきた。だがもはや、ただそれを語っているだけでは済まされない。それはもはや、この世での暴力か、非暴力かの選択の問題ではなく、非暴力か、非存在かの問題なのである・・・早急に手を打たなければ世界は破滅する・・・この挑戦の時代に、アメリカを本来あるべき国にするために前進しようではないか・・・私だって、ほかの人と同じように長生きはしたいと思う。長寿もそれなりの意味があるから。しかし、神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地を見た。私はみなさんと一緒にその地に到達することができないかもしれない。しかし、今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちはひとつの民として、その約束の地に至ることができるということを・・・。だから、私は今夜、幸せだ。もう不安なことはない。私はだれをも恐れていない。この目で、主が来られる栄光を見たのだから」

それから40年たったアメリカで、当時誰も予期しなかったこと、あるひとりの黒人と白人との間に生まれた子が有力な大統領候補になっています。それはキング牧師の言った「夢」が、現実になっている一つのしるしではないでしょうか。主の再臨によって実現する「夢」と、目の前の平和の夢は切り離せない関係にあります。それどころか、イザヤの預言が成就することを信じているからこそ、私たちは目の前の問題に、平和の使者として向かってゆくことができます。永遠の夢を持つからこそ、私たちの中に、この世の悪に屈しないための力が生まれるのです。

5.救いの完成を先取りした歌 (12章)

イザヤ12章は、1-12章の結論部分で、礼拝で言えば最後の頌栄の部分に相当します。そこには、神のさばきによってもたらされた暗黒の時代が過ぎ去り、神の救いを全身全霊で歌うことができる喜びが満ちています。

  「その日」(1節)とは、11章の神の救いが完成する日です。神はイスラエルの罪に対して「怒りを燃やされ」、外国を用いてイスラエルを廃墟としますが、その「怒りをひるがえし」、苦しんだ民を「慰めてくださいました」

  それが、「神は私の救い」「主(ヤハウェ)こそ・・私の救い」と心から告白されます(12:2)。そして、主の救いは、何よりも、「喜びながら水を汲む」こととして表現されます。エルサレムは山の上にある町で、城壁の中には泉がありませんでした。ですから敵に包囲されたとき、水がないために死の苦しみが待っていました。しかし、水が確保されている限り、エルサレムは天然の要害として敵の攻撃を退けることができました。水は救いの象徴だったのです。

  たとえば、後の時代に、仮庵の祭りの最中、祭司たちは七日間の間、毎日、シロアムの池から水を汲み、約1kmの道を上り、神殿の祭壇に水を注ぎましたが、その際、このイザヤ書12章が全会衆によって朗誦されました。

そして、そのような祭りのクライマックスのとき、イエスは神殿の真ん中に立って大声で、「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい・・」(ヨハネ7:37)と驚くべきことを言われたのです。この12章3節では、「救いの泉から」と追記されていますが、「救い」ということばはヘブル語で「ヨシュア」、それを、ギリシャ語にすると「イエス」です。つまり、イエスは、終わりの日の預言の成就とは、イエスの泉から水を飲むことだと言ったのです。

  マイム・マイムという有名なフォークダンスがありますが、これはこの三節のみことばをそのまま歌ったものです。私たちは、「イエスの泉から、喜びながら、水を汲む」者としてこれを踊ることができます。

  「その日、あなたがたは言う」(12:4)とは、先の個人の告白が、共同体の告白へと広がることを意味します。そして、私たちは、主の救いの「みわざが、国々の民の間で知られるように」と、「語り告げる」ことが求められますが、それは世界中で主(ヤハウェ)の「御名があがめられるように」なるためです。賛美の広がりこそ、宣教の目的です。

そして、またその宣教の働きは、「歌え!主(ヤハウェ)を」とあるように、主への賛美を通してなされるというのです。なぜなら、「主がなさったすばらしいことが全世界で知られるように(5節)、そのために、「歌え!」と命じられているからです。つまり、賛美こそ宣教の手段であり、また宣教の目的も、賛美の輪が世界に広がることなのです。

そして、その宣教の賛美は、「大声をあげて、喜び歌う」ことを通して伝わります。「救い(イエス)の泉」から生まれる「喜び」こそが、賛美による宣教の原動力です。喜びのない宣教は、力のない教訓に過ぎません。

  そして最後に、「大いなる方」、人々の想像を超えた偉大な救いをもたらす方、本来、汚れた民の真ん中に住むことができない「イスラエルの聖なる方が、「あなたの中におられるというのです。そうです、全宇宙の創造主は、今、聖霊によってあなたの中に住んでおられます。それこそ、イエスが語られたこと、「生ける水の川が」、イエスを信じる者の「心の奥底から流れ出る」(ヨハネ7:38)と言われたことだったのです。イエスを信じるすべての人の心の奥底には、既に、この生ける水の川の泉が与えられています。私たちは、しばしば、この世的な恐れにとらわれ、またこの世的な発想に縛られて、この泉に自分でふたをして、流れ出ないようにはしていないでしょうか。その泉のふたをあけることができるためにも、ときには、はじけ飛んでマイム・マイムと踊ったら良いのかもしれません。

  キング牧師は、I have a dream! と、イザヤ書に約束されている平和の「夢」、白人と黒人の平和という身近な「夢」に置き換えて訴えることによってアメリカを動かしました。私たちの目の前に、こじれにこじれ、解決が見えないという大きな山が見えるかもしれません。何の希望もないと思えることがあるかもしれません。しかし、私たちの救い主は、神から見捨てられたという罪の暗闇の中を通り過ぎてくださいました。暗闇の中で私たちは十字架のイエスに出会うことができます。そして、十字架のイエスに出会ったものは、復活のイエスにも出会っています。私たちはどんなに弱くても、イエスが私たちとともに歩み、力を与えてくださいます。死の力に打ち勝たれたイエスがともにいてくださるのがわかるから、「私は恐れることなく、明日に向かって生きることができる」と告白できるのです。  

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