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2008年3月31日 (月)

イザヤ31~35章「見よ。神は来て、あなたがたを救われる」

メッセージをしながら改めて思わされたイザヤ書の面白さがあります。それは目の前の危機的状況の解決から、「新しいエルサレム」へのイメージが膨らむということです。それは、たとえば、「祈りが聞かれた」というひとつの体験が、「私はもう天国にいるも同然!」という感動に結びつくようなものです。確かに目の前には、なお問題が山積してはいます。しかし、永遠のいのちを受けたものにとっては、すべての問題は、神の栄光を見させていただけるチャンスへと変えられています。それが、今、私たちが新約の時代に生かされているという恵みです。残念ながら、私たちに与えられた救いの偉大さを味わう前に、義務を果たすようにと駆り立てられている信仰者が多いように思えます。私たちは、今、預言者イザヤが夢見た救いの時代にすでに入れられているというイメージを膨らませることができるような福音が語られる必要を感じさせられています。
 「私たちは、キリストによって救われました」と福音的な信仰者は言いますが、その「救い」とは何を意味するのでしょうか?イザヤ書には驚くほど多面的な「救い」の表現があります。心に落ちる表現を探してみましょう。

28章から35章には六回にわたって、「ああ」という主の嘆きが記されています。それは281節、291節、2915節、301節、311節、331節です。つまり、3132章が第五番目の「ああ」という主の嘆きとしてもまとまり、また33章から34章が第六番目のまとまりと考えられます。それらの箇所では、主がご自身のみこころを痛めながら国々をさばく様子が記されています。そして、35章は、さばきが完了した後の、喜びと希望の歌です。バプテスマのヨハネが獄中から弟子を派遣して、イエスに、「おいでになるはずの方は、あなたですか」(マタイ11:3)と尋ねたとき、主は、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」と言い送りました(同11:4-6)。それは明らかにイザヤ書35章を意識してのことばであり、ご自身こそがこの預言を成就し、新しい主の恵みの時代をもたらす救い主であることを語ったものでした。私たちもかつては、主が「ああ」と嘆いたような存在でした。その私たちにどのような意味での「救い」が実現したのでしょう?

1.「あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ」

31章では、まず、北からのアッシリヤの攻撃に対して、「助けを求めてエジプトに下る者たち」へのさばきが述べられます(1)。彼らは、「イスラエルの聖なる方に目を向けず、主(ヤハウェ)を求めない」からです。目に見える力は人々の心を魅惑します。しかし、主に逆らう者は、「みな共に滅び果てる」(3)ことになるというのです。

4節ではアッシリヤ帝国が「獅子」または「若獅子」にたとえられています。獅子が羊の群れに向かってほえるとき、牧者が集められますが、獅子は牧者の声に、脅かされたり、動じたりすることはありません。それと同じように、エジプトが助けにきてもアッシリヤはひるむことはないというのです。「そのように、万軍の主(ヤハウェ)は下ってきて、シオンの山とその丘とを攻める」とは、アッシリヤによるエルサレム攻撃の背後に主ご自身がおられるという意味です(10:5,6参照)。ただ、同時に、エルサレムが滅亡の危機に瀕するそのときに、突然に方向を変え、「万軍の主(ヤハウェ)は飛びかける鳥のようにエルサレムを守り・・これを助けて解放する」というのです(5)。つまり、主はエルサレムを攻撃する方であり、同時に、守ってくださる方でもあるというのです。日本人の宗教観では、幸いをもたらす神とわざわいをもたらす神の両方がおり、それぞれの神々に役割分担があるかのようです。しかし、主はかつてモーセを通して、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:9)と言っておられます。わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出る」(哀歌3:38)のであれば、何かの問題に直面したとき、その解決策をいろいろ考える前に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(申命記6:5)という原点に立ち返ることが求められています。つまり、主の御前に静まり、主との関係を見直し、主にすがることがすべてに先立つべきなのです。

そのことを前提にして、「イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ(6)という悔い改めの招きが記されます。そして、「その日・・」とは、イスラエルが主に立ち返って、「偽りの神々を退ける」という日ですが、その日に、「アッシリヤは人間のものではない剣に倒れる」(8)という主の奇跡的な介入がなされ、アッシリヤが退却するというのです。このことはまもなく現実のこととして起きます。主は何よりも信仰的な浮気を嫌われます。聖書の神を信じていると言いながら、同時に、まるで保険をかけるように他の神々のご機嫌を取ろうとしたり、またこの世の権力者に媚を売ったりするようなことは、自分で自分の首を絞めていることになります。

2.「ついには、上からの霊が私たちに注がれ」

32章では、「見よ。ひとりの王が正義によって治め」という預言から始まります。これは9章、11章にあった救い主預言と基本的に同じです。イスラエルの堕落は指導者たちが私利私欲に走ったことから始まりましたが、預言された王が登場するとき、指導者たちは「みな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになる」(2)というのです。そのとき、「見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる」(34)というのです。たとえば、日光東照宮にある「見ざる、言わざる、聞かざる」の本来の意味は、「悪いことを見たり、聞いたり、言ったりしない」ことの勧めだったようですが、これが、権力者の意に沿わないことを「見たり、聞いたり、言ったりしない」という呪縛の効果を持ったような面がないでしょうか。キリストが支配する世界では、権力者や人の批判を恐れる必要はありません。私たちはこの世の悲惨にも「目を閉ざす」必要もなく、面倒な話にも「耳を傾け」、この世界をより良くするために言うべきことは「はっきり語る」ことが許されます。これは現代の教会において成就していることです。私たちが、互いをしっかりと見つめ合い、互いの痛みを聞き合い、本音で語り合うことができるという安心がどれほど大きな恵みかを忘れてはなりません。

「しれ者」(5)とは、原文で「ナバル」(アビガイルの夫の名と同じ)と記されています。「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」(詩篇14:1)と記されているのと同じ心の状態で、「愚か者」と訳されることばです。残念ながら、「愚か者」が王となり、「高貴な人」と呼ばれることから国の堕落が始まります。その「しれ者(愚か者)」の問題は6節で改めて描かれ、「愚か者は愚かなことを語る」という語呂合わせの後で、「主(ヤハウェ)に向かって、迷いごとを語る」と描かれます。この部分は新共同訳では「主について迷わすことを語る」と訳されていますが、その方が文脈にあっていると思われます。「愚か者」が指導者になるとき、人々の信仰が堕落してしまいます。しばしば、この世の基準で頭が良いと見られる人が、主の前でのとんでもない「愚か者」である場合があります。そして、それこそ神の民にとっての悲劇となります。また、しばしば、国が乱れる大本は、王の側近に「ならず者」がついて「上流の人」と呼ばれることから始まります(5)「ならず者」は、権力者に媚びへつらって自分の地位を得ますが、彼らは、7節にあるように、「貧しい者」「身分の低い者」に対しては極めて横暴に振舞い、彼らを虐げます。

これらと対極にあるのが「高貴な人」(8節)です。それは出生の良さよりは、神を恐れ、自分の命に代えてでも社会的弱者を守ろうとする真の指導者としての生き方を指します。私たちもキリストにあって高貴な人とされているのですから、「高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする」と言われる者でありたいものです。

9節から14節までは、「のんきな女たち」「うぬぼれている娘たち」への警告が記されていますが、原文では、それぞれ、「穏やかな女」「安心している娘」と、一般的には美徳と見られることばで表現されています。穏やかで心に安心感を持っている女性は、人との交わりを豊かにしてくれますが、半面、国が危機的な状況に陥っているときには対処を誤らせる力にもなります。ですから、ここでは、主ご自身が、「立ち上がって、わたしの声を聞け・・わたしの言うことに耳を傾けよ」(9)と訴えています。そして、彼女たちに、「おののけ」「わななけ」「胸を打って嘆け」と訴えられています(11,12)。それはエルサレムに危機的な状況が迫っていることを覚えさせるためです。私たちも「穏やかさ」「のんき」にならないように、また「安心」「うぬぼれ」にならないように注意すべきでしょう。

15節から20節では、それと対極の平和と繁栄の様子が描かれていますが、その始まりは、「上から霊が私たちに注がれ」るという神の一方的なめぐみのみわざです。現代の新約の時代は、このイザヤの預言が成就し、私たちのうちに神の御霊が宿ってくださったときです。「荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正が荒野に宿り、義は果樹園に住む」(15,16節)とは、この地に「エデンの園」が回復されることを指すと思われます。エデンの園は人の罪によって失われましたが、終わりの時代に主は、人にご自身の霊を授けることからこの地に祝福を回復されるというのです。それは人間の力ではなく、神の一方的な恵みとして実現することです。私たちに「上からの霊が注がれた」ということがどれだけ偉大なことかを忘れてはなりません。私たちはすでにエデンの園の入り口に立たせていただいているのです。「永遠のいのち」とは、その祝福が保障されたということを意味します。なお、ここで、「わたしの民は・・・安らかないこいの場に住む」(18)とありますが、私たちが真の意味で、穏やかで安心していられるためには、自分がどなたに属する民なのかをいつも覚えている必要があります。

なお、19節では、神を忘れた国々の繁栄の危うさが、「あの森」「あの町」として描かれます。イザヤ書では、神のさばきと神の祝福が繰り返し交互に描かれます。私たちはその両面をいつも心に留める必要があります。

3.「今、わたしは立ち上がる」と主(ヤハウェ)は仰せられる

33章では、神の民を虐げる国々へのさばきとエルサレムへの祝福の約束が交互に描かれます。1節は特に、アッシリヤがエルサレムからの貢物を受けながら、裏切って攻撃をしかけてくることが非難されていると思われます(Ⅱ列王記18:14-16参照)。そのような中で、突然、「主(ヤハウェ)よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます(2)という信仰告白が記されます。これは外交交渉が失敗に終わり、「万策尽きた・・」という状況になって初めて、主に必至にすがる様子です。そのとき、主は、「あなたがたの分捕り物は・・・集められ」(4)と、大国に貢物を贈っていた国が、反対に、その軍隊があわてて逃げた後に残した物で豊かにされる様子が描かれます。それは、「主(ヤハウェ)はいと高き方で、高い所に住み」(5)とあるように、主こそが「王の王。主の主」として世界を支配しておられるからです。そのことを前提に、「主(ヤハウェ)を恐れることが、その財宝である」(6)と述べられます。世の人は富を求めるのが常ですが、私たちは、主こそがすべての富の源であることを告白します。

「見よ。彼らの勇士たちはちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く」(7)とは、アッシリヤとの和平交渉が失敗し、北王国イスラエルも滅亡したからです。そのような危機的状況の中で、「今、わたしは立ち上がる・・・今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう」(10)と主ご自身が語られます。これは、ご自分を隠しておられた神が「今」と三回繰り返しながら、誰の目にも分かるような形でご自身の力を表されるということを宣言されたものです。そして、その結果として、アッシリヤの計略が「枯れ草をはらみ、わらを産む」ような無駄な労苦に終わり、「あなたがたの息はあなたがたを食い尽くす火だ」(11)と言われるような自滅に至ることが記されます。私たちの目にも、神に逆らう者たちが勝ち誇り、主がご自身を隠しておられるようにしか思えないときがあります。しかし、主は、やがて、「今、わたしは立ち上がる」と仰せられるときが必ず来るのです。たとえば、黙示録ではハルマゲドンでの戦いは、神に逆らう勢力が大結集するときですが、その直後に、「事は成就した」という神の勝利の宣言がなされます(16:14-17)。つまり、世界の終わりと思えるときこそ、神の民にとっての勝利のときなのです。

そして、「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け」(13)と異教の国々がイスラエルの神のみわざを聞くと同時に、「近くの者よ。わたしの力を知れ」と、エルサレムの住民に向かって語られます。14節で「罪人たち」とは、「神を敬わない者」と言い換えられています。彼らは、このときになって、「焼き尽くす火」「とこしえに燃える炉」のさばきを恐れるようになるというのです。それに対して、「正義を行う者、まっすぐに語る者・・・」は、敵の攻撃の届かない要害に住みながら、パンと水が確保されるというのです(15,16)。私たちの現実の生活の中では、主を恐れようと、身勝手に生きようと、その結果に変わらないと思われるときがあります。しかし、この世の快楽をすべて味わった者が見た真理とは、「結局のところ、もう、すべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(伝道者12:13,14)という一点にあります。私たちの誠実は必ず報われるということを覚えていたいものです。

「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る」(17)とは321節に記されていることと同じです。そのとき、人々は、敵の勢力の強さや横柄さ、理解し難さを思い起こしながら、目に見える人間よりも、イスラエルの神、主(ヤハウェ)をこそ恐れるべきであることを悟るのです。そして、主の救いが、「私たちの祝祭の都、シオンを見よ」(20)と描かれますが、興味深いのは、「そこには多くの川があり、広々とした川がある」と描かれていることです(21)。山の上にあるエルサレムに川が流れるというのは地理的にはあり得ないことですから、これは世界の完成のときに実現する「新しいエルサレム」を示唆するものです。そして、そこにおいては、「主(ヤハウェ)ご自身が、「さばく方」「立法者」「王」であるというのです。しかも、「そこに住む者は、だれも『私は病気だ』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される」(24)という神の民としての完成の姿が描かれます。つまり、17節から24節の表現は、黙示録22章につながるものといえましょう。そこには、「いのちの水の川」が流れ、その両岸には、諸国の民をいやす「いのちの木」が生え、「もはやのろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」と約束されています(1-4)

イザヤは、アッシリヤに対する主の勝利の話を、この世界のゴールに結び付けて話しています。私たちの場合も、この世で味わう様々な主のめぐみのみわざは、すべて「新しい天と新しい地」前味のようなものです。

34章は、国々に対する主のさばきが述べられます。これは33章の初めで、「ああ」と描かれた神のなげきの具体的な現れです。「主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し・・・」(2)とは何とも残酷な表現ですが、これは今から三千年近く前の人々に分かりやすい表現でした。戦争で負けた側が絶滅されるのは常識だったからです。現在の私たちが3-7節にあるような血なまぐさい情景に、嫌悪感を覚えるのは、イエス・キリストの教えが世界に広まり、いのちの尊厳をおぼえることができるようになった結果といえましょう。

ここでは特に、エサウの子孫であるエドムに対するさばきが生々しく描かれています。それはエドムが兄弟であるヤコブの子孫を繰り返し迫害し、裏切り続けてきたことへのさばきです。「それは主(ヤハウェ)の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である」(8)とあるように、主ご自身が私たちの訴えに耳を傾け、さばきを下す日です。そして、主の復讐を信じることは、私たちがこの世界で平和のために生きることと表裏一体のことでもあります。パウロは、「あなたがたは自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさいと勧めました。それは、神が復讐してくださるということを信じる結果として、「もしあなたの敵が飢えたら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」という教えを実行できるということなのです(ローマ12:18-20)。そして、そのときあなたの敵は燃える炭火を頭に積まれたようにあわてだし、その人の心も変えられるというようなことが起こりえます。またイエスご自身も、神の厳しいさばきを目の当たりに見ておられたからこそ、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られたのです。さばきのないところには赦しもあり得ません

「エドムの川がピッチに、その土が硫黄に変わり・・・」(9)とは、天からの火で焼かれたソドムとゴモラに対するさばきを思い起こさせる表現です。そして、そこが廃墟となる結果として、11-15節には廃墟を住まいとする忌み嫌われる動物の名前が出てきます。その上で、「それは主の口が命じ、主の御霊が、これらを集めたからである・・」と、繁栄を極めた町が、忌み嫌われた動物のねぐらとなることが、主のさばきのあらわれとして強調されます。エデンの園で、女が善悪の知識の木の実に手を伸ばしたのは、「それを食べるなら必ず死ぬ」という神の警告を、文字通り受け止めなかったからです。神のさばきを甘く見る者は、自分で自分を滅びに向かわせています。

4.「見よ。あなたがたの神を・・・神は来てあなたがたを救われる」

35章は34章とは対照的に、主の救いが美しく描かれています。ここには、出エジプトやバビロン捕囚からの帰還がテーマとして記されていると思われます。これは同時に、「新しいエルサレム」への旅の途上にある私たちにとっての慰めと希望でもあります。イスラエルの民が荒野を旅して約束の地に導かれたように、私たちも愛が欠けている不毛な世界を旅しますが、その途上で不思議な主の救いを体験することができます。

「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる・・・」(1)とは、何と美しい情景でしょう。「サフラン」の原文はクロッカスや薔薇とも訳されることがあり、雅歌で「私はシャロンのサフラン(薔薇)」(2:1)と言われるのはキリストを示唆すると伝統的に解釈されます。荒野に小さな花々が咲き誇るのは何とも喜びに満ちた救いの表現です。「主(ヤハウェ)の栄光」「神の威光」が、このような花として表現されるのは極めて異例と言えましょう。

「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ」と言われ、また心騒ぐ者たちに、「強くあれ、恐れるな」と言われることは(3,4)、決して、弱さや不安を否定することではありません。これは常に、「見よ。あなたがたの神を・・・神は来てあなたがたを救われる」(4)という約束とセットで受け止められる必要があります。弱さや不安を覚える中で、主を見上げることによって私たちは力を受けることができるのです。神がキリストにおいて私たちを迎えに来てくださいました。それは放蕩息子を迎えるために走り寄った父親の姿と同じです。

「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(6節)とは、当時の身体障害者の生活を覚えながらその意味を考えるべきでしょう。彼らはしばしば、神ののろいを受けたものとして軽蔑され、社会に貢献するという機会を奪われていました。すべての人から、「役立たず。社会のお荷物・・」と見られながら生きることは非常に辛いことです。イエスの救いは、何よりも、そのように道の傍らに座って乞食しかできなかった人を、道の真ん中を自分の力で歩くことができるように助けることにありました。今も、様々な障害を抱えている人がいます。しかし、彼らもイエスと出会ったとき、道の真ん中を歩んで、神と人とに使える道が開かれるということで、救いが実現しています。

反対に、この世的に頭脳が明晰で目が見えているようでも真理を見えていない人、様々な情報に敏感で耳が聞こえているようでも人の痛みが聞こえていない人、足があるのに動こうとしない人、口があるのに主への賛美も人への感謝のことばも発することができない人、そのような人々こそが、主の救いにあずかる必要があります。

 「荒野に水が湧き出し、荒地に川が流れる」(6)とは、人が内側から変えられるのと同じように、この世界に失われたエデンの園が回復されることが預言されています。聖書は、私たちが新しくされることと、世界が新しくされることを常に並行して記しています。「神は・・世を愛された」(ヨハネ3:16)とあるように、私たちはこの世界から抜け出るのではなく、この世界が変えられることを期待しながら、この世界に生きるように召されているのです。

そのとき先に廃墟がジャッカルのすみかとなったと記されたことの逆のことが、「焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の沸くところとなり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる」(7)と記されます。

「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる」(8)とは、「新しいエルサレム」に続く道です。なお、「汚れた者はそこを通れない」とは、自分の汚れを知っている者を排除することばではありません。それは同時に、「これは、贖われた者たちのもの」とあるように、主ご自身の主導によって、聖くされた者たちが歩む道です。イエスを主と告白する者はみな、「聖なる人」と神の目から見られているということを忘れてはなりません。「旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず・・・」との表現は、この世に誘惑や危険がないということではなく、新しいエルサレムへの道を歩みだした者を、主ご自身が確実に導いてくださるということを強調するものです。イエスご自身も、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去ることはできません」(ヨハネ10:28)と言われました。

 「主に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜びながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きは逃げ去る(10)とは、すべてが主ご自身のあわれみのみわざによるということを表現するものです。私たちもイエスに従い続けるとき、「嘆きが踊りに変えられ」、悲しみの荒布を着る者が喜びを着る者へと変えられると約束されています(詩篇30:11)

たとえば、「荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる」という情景を、満開の桜を見ながら思い浮かべてみてはいかがでしょう。この世界には、滅びに向かっているしるしが毎日のように見られますが、同時に、不思議な救いも日々発見することができます。その両方がおひとりの神から出ています。聖書に記された神の救いの物語という窓をとおして、私たちのまわりに起きているできごとを見ることができる「霊の目」を養っていただきましょう。

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2008年3月24日 (月)

Ⅰコリント15:12-28、50-58「終わりのラッパとともに、私たちは変えられる」(ヘンデル作 メサイア第二部、第三部 テキストから) 

                                                  2008年3月21日

  キリストの復活を文字通りの歴史的な事実と信じる必要はないという人々が数多くいます。私自身も昔、その影響を少しばかり受けていました。しかし、コリント人への手紙第一15章の生々しい表現に圧倒され、考えを改めました。パウロはそこで、そのような霊的な解釈は、「神について偽証」(15)になるばかりか、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者(19)だと断言します。

たとえば、遠藤周作は、「弟子たちにはイエスが死んでも、自分たちのそばにいるという生き生きとした感情が、いつのまにか生まれたに違いない。それは抽象的な観念ではなく、文字通り具体的な感情だった。」と記しています。しかし、遠藤は、それでは弟子たちの心の変化を説明しきれないということも同時に認めざるを得ませんでした。あの臆病な弟子たちが驚くほど見事に変えられ、イエスのためなら命をも賭けることができるようになりました。それはイエスの復活を目撃し、イエスの御霊によるダイナミックな力を受けることができたという以外に説明のしようがありません。

  イエスの復活は、現代の私たちの生き方をも変える決定的なメッセージです。それは歴史的な事実であると同時に、私たちの将来に消えることのない力強い希望をもたらすものでもあります。ヘンデル作のメサイヤの第二部は有名なハレルヤ・コーラスで終わりますが、その後の第三部では、キリストの復活が、私たちの身体の復活につながると歌われます。私は今まで、旧約聖書からの神の救いのストーリーを把握することの大切さを語り続けていましたが、それでは語りきれないのがこの希望です。新約はそれを語るためにこそ記されています。私は信仰に導かれても、しばらくその意味が理解できないでいました。その頃は、自分の信仰の成長の程度を自分で計って一喜一憂していました。

1.「ハレルヤ。全能の神である主は、支配しておられる」

メサイヤ第二部のクライマックスはハレルヤ・コーラスですが、それに至るプロセスで詩篇2篇からのみことばが四曲も歌われます。イエスの復活によってサタンの敗北は決まったはずなのですが、それによって戦いが止むどころか、かえって激しくなっている面があります。それはたとえば、第二次大戦でナチス・ドイツの敗北を決定的にしたのは19446月のノルマンディー上陸作戦の成功でしたが、ドイツの降伏は1945年の5月であり、その間の戦争はそれ以前よりはるかに悲惨なものになったのと同じです。太平洋戦争の場合もミッドウエー海戦で日本の敗北は決定的になりましたが、それを理解したのはごく一部の人でした。しかも、敗戦の兆候が強くなるほど戦いは激しさを増し、硫黄島、沖縄、広島、長崎の悲劇につながりました。つまり、現在、サタンの攻撃が激しくなり暗闇が増し加わっているように見えるのは、勝敗が決定的となったしるしなのです。

そのことを第一曲では、激しい戦いのイメージの音楽で、1,2から Why do the nations so furiously rage together, and why do the people imagine a vain thing? 「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやく(むなしいことを思い巡らす)のか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、【主】と、主に油をそそがれた者とに逆らう」と歌われます。これは、使徒4:25では、ダビデが、救い主とその教会に対する迫害のことを預言したものとして引用されます。この世では神に逆らう勢力の方が数多くいるように見えます。そのような中で、「人々は、むなしいことを思い巡らす」というのです。新改訳で「つぶやく」とも訳されている言葉は、「主の教えを思い巡らす」(詩篇1:2)というときと同じ原文です。

確かに、この世の不条理ばかりに目を留めると、「神なんかいない・・」と思えることがあるでしょう。しかし、聖書を読むことを忘れた「思い巡らし」、時間の無駄であるばかりか、人を狂気に走らせることすらあります。それよりも、私たちが「思い巡らす」べき「なぜ?」とは、この世の権力者が、なぜこれほどノー天気な生き方、つまり、自分の明日のことを支配する創造主を忘れた生き方ができるのかという不思議ではないでしょうか。それこそ真の疑問です。

聖書を通して私たちは、ダビデや救い主が受けた不当な苦しみのすべては、神のご計画であったと知ることができます。また、私たちの人生も、この世にあっては様々な試練に満ちていると知ることができます。神の敵は、サタンに踊らされているだけです。彼らは、隠された霊的な現実を見ることができないからこそ、神に反抗できるのです。 

第二曲の合唱では、3節からLet us break their bonds 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう」と歌われますが、これは、「神の国(支配)の民として生きることを、単に束縛ととらえ、創造主を否定した生き方に自由があると思い込むことを指します。しかし、彼らは自由なのではなく、自分の欲望の奴隷になっているだけです。

第三曲では、4節から、「天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる」と歌われます。神は今、天に座しておられ、ご自身の権威を否定する者たちのことを「笑い」、また「あざけって」おられるというのです。そして、主は、ご自身のみこころのときに、新しい権力者を立てられます。それは当時、直接的にはダビデの戴冠の時でした。そのとき主(ヤハウェ)は、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた」(6)と言われました。ダビデはサウルに命を狙われ、逃亡していたことを思い起こしながら、このみことばを喜んでいたのではないでしょうか。私たちには不条理としか思えないことも、神のご支配の中にあります。私たちはこの地の支配者がどなたなのかを忘れてはなりません。

第四曲では、9節からあなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」と歌われます。この表現は、黙示録で三回に渡り(2:27,12:5,19:15)再臨のキリストが力を持ってこの地を治めることとして引用されます。救い主は、二千年前はひ弱な赤子としてこの地に来られましたが、今度は剣をもって神の敵を滅ぼすために来られるのです。

これらはすべてダビデの子イエスの最終的な勝利を約束するみことばです。そしてそれを前提に、第五曲では黙示録のテキストをもとにしたハレルヤ・コーラスが歌われます。そこでは最初、黙示19:6 から、Hallelujah!For the Lord God omnipotent reigneth.「ハレルヤ。全能の神である主は、支配しておられる」と繰り返し歌われます。これは、この世の現実が悲しみと不条理に満ちているようなときの何よりの慰めです。私たちの教会の群れの基礎を築いてくださった古山洋右先生は、ご自身の葬儀の際にはぜひこのハレルヤ・コーラスを歌って欲しいと切に願われました。そして、今から11年前の最も悲しいときに、私たちはこのみことばから、目に見える現実を超えたキリストのご支配をともに高らかに歌いました。これこそ黙示録のテーマです。それは賛美と礼拝です。そして、その頃、私も武蔵野や東村山の牧会にも携わりながら、何とも言えない疲れと無力感を覚えていましたが、ある方からメサイヤのコンサートにご招待いただいたとき、この部分の賛美を聞きながら、ことばにできない感動に心が満たされました。それは、目の前の状況がコントロール不能と思われる中で、「全能の神である主は、この状況を支配しておられる」と確信できたからです。

そのことが、引き続き、黙示11:15から、The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord and of His Christ and He shall reign for ever and ever 「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」、また、黙示19:16から、King of Kings, and Lord of Lords 「王の王、主の主」と歌われます。つまり、この地上を支配しておられるのは、私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストご自身であられるというのです。私たちの救い主ご自身が、今、「王の王、主の主」としてこの地を治めておられるというのは何という慰めでしょう!なお、このヘンデルの指揮によるメサイアの演奏を聞いていたイギリス王、ジョージⅡ世は、この部分を聞いたとき、突然、起立したと言われます。それは、「王の王、主の主」であるキリストへの敬意の表現でした。それにならってすべての聴衆が起立し、それ以後の演奏会でも、聴衆がこの部分で起立するようになったと言われます。

2.「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」

第三部は、興味深いことに、あの不条理な苦しみの中で主に叫んだヨブの告白から始まります。それはヨブ19:25,26の、 I knothat my redeemer liveth・・・「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」をもとにしたソプラノのアリアです。ヨブは、何の落ち度もない義人であったのに、神の許可を得たサタンによって、死の苦しみに会います。彼の妻からは、「神をのろって死になさい」と言われ、親しい友人たちからは、「何かの罪のせいではないか・・」と悔い改めを迫られます。彼は、肉体の痛みばかりか人々の軽蔑を受けるという苦しみの中で、「私を贖う方」に思いを馳せ、その贖いによって、「私の肉から神を見る」という希望に満たされます。ヨブは、苦しみの中で、救い主の現れを預言したのです。

そして、「私を贖う方は生きておられる」というヨブの願望から生まれた預言が、キリストの復活によって保障されたという確信が、Ⅰコリント15:20から「なぜなら、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたからです」と上記のアリアの最後の部分で力強く歌われます。そしてこれ以降のテキストはすべて新約のみことばになります。

  旧約だけでは、キリストの復活が、現代の私たちにどのような希望をもたらすかを明確には語ることはできません。多くの人々が忘れている福音の核心、それは、キリストの復活は、私たちの復活の「初穂」であるということです。そのことが、第七番目の合唱曲で、コリント15:21,22から、Since by man came death というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」と歌われます。キリストの復活は、アダムによる最初の罪によって死が私たちを支配するようになった現実を逆転させるものなのです。私たちはこれによって、どのような脅しにも立ち向かって行くことができます。

たとい、サタンの勢力が私の身体をどれほど傷つけ、滅ぼそうとしても、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ・・」と告白することで、主から与えられた使命を全うする勇気が生まれます。確かに、肉体的な苦しみを避けたいのは人情ですが、それは一時的な外科手術のようなものです。キリストが死の中からよみがえったように、私たちはこの肉体の死を通して、復活の身体へと近づくのです。私たちの死は、青虫がさなぎになるのと同じです。時が来たら、私たちは新しい身体を受けて、蝶のように天を自由に羽ばたくことができます。キリストの復活は私たちの「初穂」として、そのことの保障です。

3.私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。

福音の奥義が、第八曲で、Ⅰコリント15:51,52から、Behold I tell you a mystery・・聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです」と歌われます。ここで、「終わりのラッパ」とは、神に敵対する勢力へのさばきと、世界の完成を告げ知らせる希望の調べです。そして、美しいトランペット独奏の音色と共に、The trumpet shall sound・・ラッパが鳴ると・・」と歌われた上で、and the dead shall be raised incorruptible, and we shall be changed「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです」(同52,53節)と、私たちの身体のよみがえりという希望が歌われます。そのことをパウロはここで、私たちが「朽ちないものを着る」、また「不死を着る」という表現を用いていますが、聖書の語る「救い」とは、たましいが肉体から解放されることではなく、新しい復活の身体をいただけることにあるのです。

それは、「みなが眠ってしまう」死後の話というよりは、キリストが再び来られる時、すぐに起きることです。たとえば今、主が来られるとするなら、私たちは、「たちまち・・雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と出会」(Ⅰテサロニケ4:17)うことができます。そのときに私たちはみな「変えられる」というのです。そのことを目の前に描きながら生きるというのが、私たちの信仰の核心です。どうか、年を重ねても、「私はもう棺桶に片足を突っ込んでいるような者です・・」などと言わないようにしてください。そうではなく、「私の目の前に、美しくしなやかな復活の身体が備えられています!」と告白し続けてください。そうするなら、あなたの身体は、いつまでも内側から湧き上がる不思議な輝きを増し加えることができることでしょう。私たちは年を重ねるとともに、この地上の基準で計ることができない美しさを身につけることができます。そしてそれは、人の努力によるものではなく、私たちのうちに住んでおられる創造主であられる御霊の働きです。

七年ほど前のことですが、上野の東京文化会館で、重見通典牧師の指揮によるメサイアの演奏会が大成功をおさめました。彼は、私たちがドイツで家庭集会を始めた頃洗礼を受けた音楽家で、十年ほど前から新宿でホームレス伝道をしています。また、トランペットを演奏したのは、その八年ほど前一時的にこの教会に集っていた尾崎浩之兄でした。私は、以前の彼ら二人を知っているだけに、「変えられるのです!」という賛美を重ねて聞きながら、「本当に、イエス様は私たちを変えてくださる!」という深い感動を味わうことができました。この変化は、キリストの再臨の時、一瞬のうちに起こることを確かに指したものではありますが、その予表は既に今から見えるものでもあります。

なお、エーリッヒ・フロムは、「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである」と言っています。実は、私たちの内側には、今からキリストのような愛の人には「変えられたくない・・」という思いがあるのではないでしょうか。正直に言いますと、少なくとも私の心の内側には、真実に神と人を愛そうとするなら、自分の現在の生活、富、時間、名誉、影響力等を失うのではないかという恐れがあります。単純に言うと、「めんどうなことに関わりたくない・・」というさもしい思いがあります。それは、「死への恐れ」とも言い換えることができます。なぜなら、肉体の死は、それらすべてを失い、裸にされることの象徴だからです。しかしパウロは、私たちは「裸の状態になることはない」(Ⅱコリント5:3)「キリストをその身に着る」(ガラテヤ4:27)ことになると言いました。私たちが失うのは、「朽ちるもの」に過ぎません。「失う」というより「不死を着る」のです。そして、それを心から願い、最終的な変化を今から先取りして生きる者は、神の国の完成の時に実現する喜びと平安を、ここで味わうことができるのです。

4.神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう・・・」

第九曲では、Ⅰコリント15:54から、then shall be brought・・そして、『死は勝利にのまれたとしるされている、みことばが実現します」と歌われます。これは、「ヤハウェは永久に死を滅ぼされる(イザヤ25:8)という神の国の目に見える完成を、文脈に添って劇的に表現したものです。「のむ」とは、くじらが小魚を飲み込むように、死が決定的に無力になったことを表します。そのことが引き続き、Ⅰコリント15:55,56から、O death, where is thy sting・・死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。 死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と歌われます。これはホセア134節からの引用で、そこでは、神が反逆の民イスラエルをあわれみ、彼らのすべての不義を赦し、新しくしてくださると約束されています。そして、ここで、「死のとげは罪」と言われるのは、罪がなければ人は死に支配されることはなかったからです。しかも、「罪の力は律法です」と、まるでモーセ五書の価値を否定するかのようなことが言われるのは、肉の人にとっては、律法が、「私は戒めを守っている」という傲慢か、「私は失敗者だ」という絶望かに追いやる作用を持ってしまうことがあるからです。人は自分の力で死の支配から自由になることができないのです。

第十の合唱では、Ⅰコリント15:57から、But thanks be to God who giveth us the victory・・しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいましたと歌われます。なぜなら、キリストの十字架によって、私たちのすべての罪が赦され、死の「とげ」は取り去られ、死は私たちを傷つける力を失ったからです。私たちは、自分の敬虔さで勝利を獲得するのではありません。神はキリストに勝利を与え、そのキリストを私たちがこの身に着るのです。私たちは無力でも、勝利者であるキリストがこの身を包んでくださるのです。

私はかつて信仰を誤解していました。私はもっと強い人間になれることを期待していました。そして今も、ふと、人から、「三十年もクリスチャンやって、何が変わったの・・・」と聞かれたら、何とも答えることができないような気がします。でも、最近はそんなことを考えるのをやめました。なぜなら、私は欠けだらけでも、私を包むキリストは完全だからです。

第十一の曲では、ローマ8:31,33,34からIf God be for us, who can be against us神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう・・・神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」と、私たちの信仰の核心が歌われます。私たちは、恐怖に捉えられ、イエスに従うことを躊躇しますが、「神が私たちの味方」となってくださったのですから、どのような脅しにもひるむ必要がありません。

そればかりか、イエスに従うことで、いわれのない非難を受けたとしても、「神に選ばれた人を・・神が義と認めてくださる」(33)という慰めを受けることができます。主ご自身が、「侮辱され・・つばきをかけられ・・訴えられ・・罪に定められ」(イザヤ50:6-9)ました。たとい、あなたが人から「罪に定められ」ても、それは十字架のイエスと同じ状態になることです。それこそ、「神に選ばれた」というしるしかもしれません。この世の尺度と、神の尺度は異なります。また世の価値観は神に敵対することがあるからです。しかも私たちはそこで、「死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが・・とりなしていてくださる」(34)という慰めを受けます。私たちは、自分の信心深さによって神の前に立つのではなく、イエスの信仰がうちに生きることによって、「アバ、父」と呼ぶことができるのです。

自分の不信仰を責める必要はありません。神は、私たち以上に私たちを愛し、受け入れてくださっています。私たちの存在の基盤は、何かを達成していること以前に、「神が私を愛してくださった・・・」という点にあるのです。

このことを受けて、第十二曲の合唱で、黙示5:12,13から、Worthy is the lamb that was slain・・・「ほふられ、ご自身の血によって、私たちを神のために贖ってくださった小羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」と歌われます。これこそ天上の賛美です。

私たちはこの世で、自分が無力で貧しく愚かでひ弱で軽蔑され惨めで・・・という絶望を味わうことがあるかもしれません。しかし、私たちはその正反対の性質に満たされている方に結ばれ、その方が私たちのうちに住んでおられるのです。私たちは、そのことを覚えながら、天の賛美に共鳴しながら、「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」と賛美を続けるのです。

最後に、これらすべてのことが真実であることを、私たちはすべての被造物ともに、「アーメン」と歌うことができます。メサイアの最後のアーメン・コーラスは、天上の「アーメン」という賛美に共鳴する地上の私たちの賛美です。

私たちはこの地において、肉体が抱える固有の弱さに縛られながら、自己保身の動機に駆り立てられがちです。しかし、この心が、聖書が語る真の希望に満たされるなら、自分自身から自由になることができるのではないでしょうか。残念ながら、多くのクリスチャンは、自分の「救い」を、「たましいが肉体の束縛から解放されて天国に憩うこと」という程度に捉えています。それは、「死んで極楽浄土に行く」という仏教徒の希望とどこが違うのでしょう。それは「たましい」と「肉体」を区別する二元論的な考え方であり、聖書的な発想ではありません。しかも、そのような希望には、「早くこの地上の面倒なことから離れて、自分だけの平和を楽しみたい」という現実逃避の匂いがあるのではないでしょうか。

しかし、「新しい天と新しい地」の希望、つまり、この世界も私たちの身体も造りかえられる途上にあるという聖書的な希望の告白からは、「私もこの地上の問題のただ中に敢えて身を置いて、神が造りだす新しい創造のみわざに参画させてもらいたい」という積極的な生き方が生まれるのではないでしょうか。この世界から愛が冷めているのは、人々が自分だけの平和を求めているからです。しかし、復活のイエスは、恐れ閉じこもっていた弟子たちの真ん中に現れ、「平安(平和)があなたがたにあるように」という祝福を祈りながら、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と言われました。キリストの平和は、世に派遣される中で味わうことができるものです。

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2008年3月16日 (日)

イザヤ52:13-53:6(ヘンデル作オラトリオ「メサイア」第二部のテキストから) 「のろいの十字架に隠された祝福」 

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イエス・キリストはこの世の中では、愛の模範として尊敬されています。それは福音書に描かれたイエスの姿をベースにしています。しかし、よく見ると、福音書では繰り返し、イエスにおいて旧約の預言が成就したと記されています。つまり、旧約聖書を飛び越えてイエスの人間としての生き方ばかりを見るように聖書は記されてはいないのです。

たとえばイザヤ書53章は、ユダヤ人がイエスを救い主として認めるようになる際の決定的なみことばです。しかし、この歌は、「見よ。わたしのしもべは栄える・・・非常に高くなる」(52:13)から始まっているものです。イエスは、人々から「さげすまれる」歩みが、父なる神のみもとに引き上げられる道であることを信じて、苦しみを忍ばれたのです。そのことをヘブル書の著者は、「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに・・十字架を忍び」(12:2)と記しています。つまり、旧約の預言は、栄光の復活が前面に出て、それに至る道として十字架が出てくるのです。しばしば、十字架ばかりを強調して、その贖いの有効性を保障するための付録かのように復活が描かれるような福音理解となんと対照的でしょうか。

ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイヤ」は、そのテキストは聖書のみことばだけですが、その第二部の救い主の御苦しみと復活に関しても、基本的に旧約のみことばだけが歌われます。それはある意味、画期的なことです。イエスの十字架を、旧約の視点から見てゆくときに、それは決して愛の模範に生きた人の悲劇にはなり得ないからです。かえって、そこに神の救いのご計画の成就が見られ、十字架の「のろい」の背後に、神の祝福のご計画を見ることができます。しかも、これは1741年にチャールズ・ジェネンズという舞台作家がヘンデルによる作曲を期待して編集したもので、当時の英国国教会の礼拝式文が参考にしながら生まれたと言われます。つまり、そのような伝統があったのです。

1.「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」

最初に、Behold the lamb of God「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)という悲しい調べの合唱曲から始まります。これはバプテスマのヨハネが、イエスが自分の方に来られるのを見て最初に発したことばです。イスラエルの民はかつて、奴隷の地エジプトから解放されるとき小羊をほふってその血を家のかもいと門柱につけました。そして、その家を神のさばきは過ぎ越しました。同じように、私たちもイエスの血によって、サタンと罪の奴隷状態から解放されます

第二曲目は、イエスの生涯がイザヤ書533節と506節のみことばを用いて描かれます。イエスご自身も、これらのみことばを心の底から味わったからこそ、十字架の苦しみを忍ぶがことができたのだと思われます。

当時の常識では、救い主は神の民の敵をご自身の力によって打ち砕く方として期待されていました。しかし、ここでは、He was despised・・彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(53:3)と記されているのです。そしてこの方は、「打つ者にその背中をまかせ、ひげを抜く者にその頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、その顔を隠さなかった」(50:6)とあるように、人々からの侮辱を甘んじて受けられたのでした。

それは単なる非暴力の模範を示すためではありませんでした。それはもっと創造的なこと、私たちと神との関係を決定的に変えるためでした。それが、第三曲目の美しい合唱曲で、Surely He has borne our grief 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。私たちに平安をもたらすための懲らしめ彼の上にあった」(イザヤ53:4,5)と歌われます。

たとえば、「いつくしみ深き友なるイエスは」の歌詞は、「イエスは何というすばらしい友でしょう。私たちのすべての罪と悲しみを担ってくださるとは・・・」と歌われています。私たちはいつも罪の赦しの福音を聞きますが、それと不可分なのが、イエスご自身が人間としての悲しみのすべて、「病と痛み」を担ってくださったということです。

多くの人は「罪の赦し」という最も大きな恵みを味わう前に、自分の身体の病と痛みに圧倒されてはいないでしょうか。それはすべてアダムの原罪から始まったことです。しかし、イエスは第二のアダムとして生まれ、第一のアダムの罪に起因するすべての病と痛みを背負ってくださいました。それによって、目に見える「病と痛み」が取り去られるというわけではないかもしれませんが、そこに新しい創造が生まれます。

たとえば、星野富広さんは首から下が動かなくなった中でイエスと出会い、「わたしは傷を持っている。でも、その傷のところから、あなたのやさしがしみてくる」と言いました。またファニー・クロスビーという数多くの慰めに満ちた賛美歌を書いた詩人は、生後まもなくやぶ医者の過ちによって盲目にされたのですが、彼女はそのことを、「創造主が私にしてくださった最も大きな祝福は、この肉体の目が閉じられるのを許されたことです。なぜなら、それによって私はいつも夢を抱いて生きることができるようになったから。私はいつも最も美しい情景を、人々の眼差しを思い浮かべることができたのです。主はご自身の働きに私を召しだすために、この目を閉じてくださったのです」とさえ言っています。

星野さんもファニー・クロスビーも、肉体的なもの以上の根本的ないやしが与えられました。それは人間的な損失と思えることが、祝福へのみなもとと変えられたということです。そのことが第四曲で、「And with His stripes we are healed 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:5)と歌われます。サタンは私たちの肉体を苦しめることによって神との交わりを断ち切ろうとしています。しかし、彼らはすでに無力なものとされました。私たちが受ける「いやし」、それは、人生の苦しみがなくなるというような卑しいものではありません。このままのあなたが、その能力とその弱さのままで、神の栄光のために用いられる、あなたの人生が、どのような苦しみの中でも輝くことができるという崇高な「いやし」です。

そのことが第五曲の合唱で、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ53:6)と歌われます。私たちは羊のように愚かでひ弱な者で、自分で進んで滅びに向かってしまうような者ですが、イエスは真の羊飼いとして、羊を守るために、また羊を生かすために、ご自身のいのちを捨ててくださいました「咎」とは、罪の報いとしての刑罰を含む概念です。私たちは自分で自分の責任を負うことができないような者ですが、イエスが羊飼いとして私たちのいのちに対しての責任を負ってくださいました。それは、私たちが過去の後悔や恨みに囚われた生き方から、明日に向かって新たな歩みができるためです。

2.「よく見よ。【主】が・・彼をひどいめに会わされた。このような痛みがほかにあるかどうかを」

イエスの十字架のシーンは、詩篇22篇と69篇から引用されています。私は最初、イエスの十字架上のことば、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか・・・」の意味が分からず、つまずきを感じたことがありましたが、これが詩篇22篇の最初のいのりのことばであるとわかったときから、このイエスの祈りを本当に身近に感じました。イエスはこれらの詩篇を心の底から味わいながら十字架への道を歩まれたのではないでしょうか。それは人々から見捨てられ、嘲りを受ける者の仲間となるためです。これらの詩篇はもともとダビデによって記されました。彼は深い孤独感の中で、神に叫び続けました。そしてイエスはダビデの子として、この詩篇に描かれている苦しみを味わってくださったのです。

第六曲の「彼を見る者はみな、彼をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振りながら、言います」(詩篇22:7)とは、詩篇での「わたし」「彼」と言い換えることによって、これがイエスの体験となったことを描きます。そして、第七曲の合唱で、イエスがまわりのすべての人々からあざけりを受けている様子が描かれ、「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。お気に入りなのだから」(詩篇 22:8)と歌われます。神に愛されている者がこのような苦しみに会うということはあり得ないことと思われたからです。事実、イエスはこのとき、「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」(マタイ27:42)とも嘲られました。しかし、イエスは、まさに他人を救いためにこそ、神のみこころに従ってこの苦しみを受けておられたのです。

私達も、信仰のゆえに嘲りを受けることがあるかもしれません。しかし、それはイエスご自身の苦しみをともに味わうこと、またイエスと一体化されるという祝福でもあります。ですからイエスは山上の説教で、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口をあびせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」(マタイ5:11,12)と言われました。それは、その苦しみを、天の父はわかっていてくださるということです。しかし、人々の誤解や中傷を恐れ、父なる神を忘れた生き方をすることは恥ずべきことです。

それにしても第八曲で、詩篇69:20が引用されるのは大きな慰めです。私が詩篇の祈りにある慰めに目覚めたのは、信頼していた人々からも誤解を受け、批判を受けたときでした。そのとき私は今の何倍もの重い責任を担っていました。正直に言うと、「本来、自分の責任でもなかったことでこれだけ苦労しているのに、その上、僕を批判するとは何事だ!」という感じの怒りと悲しみに圧倒され、深い孤独を味わっていました。そのような中で、この詩篇の嘆き、「そしりが私の心を打ち砕き、私はひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした」というみことばに、自分の気持ちがそのまま書いてあると感動したのです。

そのときの私は内心では同情者を待ち望んでいた一方で、そのような弱い自分を、「不信仰者!」と軽蔑していました。そのため心が空回りを起こしてしまい、息が詰まるような気持ちを味わっていました。しかし、この詩篇を読んで、「僕は同情者を待ち望んで良いのだ!」と気持ちが解放されたのです。そればかりか、この祈りは、十字架上のイエスご自身のお気持ちであったということがこの詩篇69篇の文脈とヨハネの福音書から確信できました。

このメサイアでも、これがイエスの十字架上の何よりの苦しみであることが描かれています。福音書は、十字架の苦しみを肉体的なものよりも、このような孤独感として描いています。それは人にとっての最大の苦しみは孤独感だからです。そして、ここでも、「わたし」を「彼」と言い換えて、人々の誤解と中傷こそがイエスの苦しみであることが描かれています。

そして、第九曲で、哀歌1:12から、「Behold and see よく見よ。【主】が・・彼をひどいめに会わされた。このような痛みがほかにあるかどうかを」と歌われます。これも原文の「わたし」を「彼」と言い換えています。哀歌では、エルサレムが擬人化されて、彼女が自業自得でバビロン捕囚という神のさばきを受けたことの嘆きが描かれています。イエスは、ユダヤ人の王として、彼らの自業自得の苦しみを担ってくださいました。それは彼らの身代わりのさばきを受けることで、神のさばきの時代を終わらせ、新しい祝福の時代をもたらすという意味がありました。イエスの十字架はバビロン捕囚を終わらせるという意味があったのです。これは私がカナダのリージェント・カレッジまで行って初めて気づいたことです。

正直、これによって聖書の読み方が変わりました。しかもそれは何かの新しい読み方ではなく、ヘンデルの時代の理解と同じだというのも驚きです。私たちも自業自得の苦しみに会うことがあるでしょう。しかし、そこで神は、「そら見たことか・・・」などと私たちを責める代わりに、「よく見よ。イエスの苦しみを・・」と語ってくださいます。私たちの罪に対する神のさばきは、既に終わっているのです。それゆえ今、私たちが出会う様々な苦しみは、罪への罰ではなく、「平安な義の実を結ばせ」るための、神からの愛に満ちた「訓練」と呼ぶことができます(ヘブル12:11)。この世的な感覚で、「ばちがあたった」などと言って、後悔をしている暇があったら、イエスの苦しみを「よく見よ・・・」という歌に心を向けてみましょう。

そして第十曲では、イエスの死の苦しみの意味が、「彼は生ける者の地から絶たれた。あなたの民のそむきの罪のために打たれた」(イザヤ53:8節)と、神の民のそむきの罪の身代わりであったと歌われます。興味深いのは、このイエスの死の歌がすぐに、「まことに、あなたは、彼のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」(詩篇16:10)という復活の歌につながっていることです。

私たちは十字架と復活を区別して見がちですが、イエスの十字架の死は、「死」という「のろい」の力に対する勝利でもありました。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました」(ガラテヤ3:13)とあるように、イエスが受けた「のろい」は、同時に神の救いのご計画でもありました。

ですから、神はイエスの死を「のろい」であるとともに、「神への従順」として見てくださったのです。「のろい」は「祝福」の始まりでした。イエスの十字架と復活は、常にセットのものとして見られるべきです。それは私たちが神に従って苦しむようなときの何よりの慰めになります。私たちが一時的に、神から見捨てられたように感じることがあっても決して心配ありません。神はご自分の聖徒に死の力への勝利を与えてくださいました。

シャガールはチューリッヒのステンドグラスで、イエスの十字架と復活をセットに描いています。イエスの頭が十字架から浮かびあがっているのです。私たちも不思議に、イエスの十字架の苦しみに思いを向ければ向けるほど、かえって気持ちが楽になるというようなことがあります。それは私たちのどのような苦しみも、すでにイエスが体験してくださっているということを知り、苦しみの中でイエスとの一体感を味わうと共に、その苦しみに出口があることが分かるからです。

3.「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。平和の福音を告げる人々の足は」

  第十一曲の合唱曲で、イエスの復活の喜びが力強く、「Lift up your heads・・門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある【主】。戦いに力ある【主】・・・万軍の【主】。これぞ、栄光の王」(詩篇24:7-10)と歌われます。これは復活のイエスを「栄光の王」と呼びながら神の都エルサレムに迎える歌です。エルサレムの城壁の外で辱めを受けて殺されたイエスは、三日目に墓の中からよみがえり、臆病に戸を閉じて閉じこもっている弟子たちの交わりの真ん中に現れました。

私たちも世の人々から仲間外れにされることを恐れ、心の中からイエスを締め出そうとするようなことがあるかもしれません。しかし、イエスこそは栄光の王、戦いに力ある万軍の主であられます。イエスはご自身の十字架によって、死を持って脅すサタンの力に打ち勝たれました。

第十二曲はごく短く、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と?」(ヘブル1:5)と歌われますが、これは詩篇2篇からの引用でもあります。詩篇1篇では、神に従う者の幸いが美しく歌われていました。イエスの十字架は、その原則に反するように見えましたが、詩篇2篇では、目に見える苦しみがあったとしても、この神の民の勝利の原則は変わらないということが保障されています。

「わたしがあなたを生んだ」とは、神がご自身の子を、王として即位させられる歌です。イエスの十字架には、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と記されていましたが、それはあざけりのようで、真実を表しています。十字架こそは、イエスの玉座でした。ヨハネの福音書におけるイエスの十字架は、王としての威厳に満ちています。イエスは神の民のすべての罪を負う王として、十字架に向かわれたのです。

バッハもマタイ受難曲とセットにヨハネ受難曲を描いています。その前奏曲では、「主よ、あなたは驚くべき低さの極みにおいて栄光を受けておられる」と歌われています。つまり、イエスの十字架は、王としての栄光の表れでもあるという点が強調されているのです。私たちも、イエスの御霊の力を受けることによって、同じように、どのような苦しみの中でも王としての威厳を保つことができます。福音は殉教者の血が流されるたびに広まりました。それはキリスト者がどのような脅しに屈することなく堂々としている様子を見て、迫害している者の方が恥じ入ってしまったからです。

第十三曲の合唱曲は、その勝利の祝福を、「神の御使いはみな、彼を拝め」(ヘブル1:6)と力強く歌ったものです。これは、イエスがこの地上においてばかりか、天においても礼拝の対象とされている様子です。イエスは復活によって、神と並んで礼拝の対象とされたのです。

  第十四曲は、「あなたは、いと高き所に上り、捕らわれた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために」(詩篇68:18)と歌われます。このみことばの解釈は困難ですが、パウロはこのみことばを引用しながら、「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」(エペソ4:7)と、私たちそれぞれに聖霊の賜物が与えられる約束が成就したと語ります。

確かに、私たちも、かっては「頑迷な者」、神の敵でしたが、聖霊を受けることによって、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白することができました。そして、御霊の賜物を受けて肉の力を超えた偉大な働きへと召されています。

そのことを、パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と言いました。私たちは、イエスが死の苦しみに囚われることで、かえって神の敵を虜(とりこ)にできたということを忘れてはなりません。目に見える敗北こそは、驚くことに、神にある勝利の始まりだったのです。それが御霊を受けた私たちにも同じように実現します。それが霊の目を持って現実を見るということです。

第十五曲の合唱は、「the Lord gave the word・・主はみことばを賜る。良いおとずれを告げる者たちは何と偉大なことよ」(詩篇68:11)とは、私たちそれぞれがこの神のよき知らせを告げ知らせるように召されているということです。私たちは神にある勝利をすでに得たものとして、「平和の福音」を世界に証することができるのです。

そのことが第十六曲で、「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。平和の福音を告げる人々の足は」(ローマ10:15)と歌われます。私たちは互いに争いながら「平和の福音」を告げ知らせることができるでしょうか?しばしば、「争い」は、自己弁護から始まります。自己弁護は多くの場合、人への非難を含むからです。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」(ローマ5:8)ということを心から味わうとき、私たちは自分の正義を主張する必要はなくなります。私たちは何度も失敗しますが、既にイエスと共に勝利者の行列に加えられた者として、余裕を持って、自分の生き方を通して「平和の福音」を知らせることができるのです。

しかも、このイエスの勝利の福音は、第十七曲の合唱で、「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた」(ローマ10:18、詩篇19:4)と高らかに歌われているように、既に全世界に知らされています。私たちがしなくても福音は広まります。私たちはただ成功が約束された働きに加わらせていただけるのです。この働きは、「私がやらなければ・・・」という悲壮感によってではなく、成功と祝福がすでに決まっている働きの仲間に入れていただけるという特権なのです。

  世の多くの人々は、イエスが全世界の罪を贖うために十字架にかかられたということを、宗教的な主張として受け入れ、それを犠牲愛の道徳の基礎の教えとして受け入れます。しかし、イエスは三日目に死人の中からよみがえって、この世界を今、王として治めておられるということになると、「そんな途方もないことは信じられない・・・」、「復活がなければ信じられるのに・・・」などという応答が見られます。しかし、旧約聖書から見た十字架は、いつも復活とセットにならざるを得ません。十字架だけでは、神のご計画の失敗にしかならないのです。

そして、このような見方は、信仰生活の持ち方にも影響を与えます。十字架で終わる福音は、死ぬこと自体を美化することになりかねません。犠牲愛が道徳とされるところでは、何かしらの息が詰まるような感じが出てこないでしょうか。たとえば、「イエス様はこれほど私たちのために苦しんでくださったのに、あなたはその犠牲にきちんと応答して生きていますか・・・」などと言われると、何か自己犠牲を強制されるような嫌な気持ちを味わうということがないでしょうか。

第二部は、ハレルヤコーラスで終わります。そこでは、「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。King of Kngs, and Lord of Lords(王の王、主の主)と、黙示録のみことばが歌われています。十字架には神の勝利が隠されています。十字架の「のろい」の背後に、神の祝福が見えます。私たちはいつもその喜びと、祝福を見ながら、信仰の旅路を歩むのです。

Hidenori Takahashi
tachikawa evangelical free church

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2008年3月10日 (月)

イザヤ28~30章 「困難の中に神を見る」

                                               200839

  目の前の問題に圧倒されていたとき見えなかったことが、ふとしたことで解決が見えたというようなことがないでしょうか。「知恵の輪」をはずすのと同じように、「何だ、こうすればよかったんだ・・」と思うようなことがあるかもしれません。熱くなりすぎたり、力づくになってしまうことは、かえって問題を複雑化させてしまいがちです。平安の祈りに、「一日一日を生き、今、このときを楽しみながら、困難を平和への道として受け入れさせてください」という祈りがあります。困難の背後に、またその中に、神がおられます。すべては神との交わりを豊かにする契機になります。

1.「見よ。わたしはシオンにひとつの石を礎として据える・・これを信じる者は、あわてることがない」

「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠・・・」(28:1)とは、北王国イスラエルがまるで酒に酔って正気を失っている様子、また、それによって自分を誇っている様子を、主が深く悲しんでいるものです。「見よ。主は強い、強いものを持っておられる」(28:2)とは、主がアッシリアを用いてエフライムをさばこうとしていることを表現したものです。しかし、「その日、万軍の主(ヤハウェ)は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり・・」(28:5)とは、さばきを通して謙遜にされたものへの祝福の約束です。つまり、酔いどれの愚かな誇りから自由にされた者にとっては、主ご自身が喜びと誉れ、また、「攻撃して来る者を・・追い返す・・力」(28:6)になってくださるというのです。

  ところが、エルサレムにおいても、「祭司も預言者も、強い酒のためによろめき・・混乱し・・ふらつき」(28:7)ながら、預言者イザヤをからかって「彼はだれに知識を与えようとしているのか・・乳離れした子にか・・」などと言いながら、イザヤのメッセージを嘲っています。10節の新共同訳は、わざと原文の発音を残して、「ツァウ・ラ・ツァウ(戒めに戒め)、ツァウ・ラ・ツァウ(戒めに戒め)、カウ・ラ・カウ(規則に規則)、カウ・ラ・カウ(規則に規則)と記しています。また、「ここに少し、あそこに少し」も原文では、「ツエル・シャム、ツエル・シャム」という繰り返しです。つまり、イザヤのメッセージは何の意味もない、口うるさいだけの幼児のことばであるかのように嘲っているのです。

  しかし、主がイザヤを通してエルサレムに語っておられたことの核心は、それとは正反対に、「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある」(28:12)という、父親が子供に優しく語りかけるような安息への招きでした。しかし、「彼らは聞こうとはしなかった」のでした。それで、主は、「もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる」というのですが、それはかつて彼らがイザヤを嘲ったという10節の意味不明のことばそのままの繰り返しです。つまり、主は聞く耳のない人へのさばきを実現するために、意味不明なことばを語られるというのです。ですから、「これは、彼らが・・・捕らえられるためである」(28:13)と記されています。主は預言者イザヤを召されたとき、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ・・・主が人を遠くに移し、国々の中に捨てられたところがふえるまで」(6:10-12)と不思議な命令を与えておられましたが、それが成就するのです。

  このイザヤの時代との対比で、「今は恵みのとき、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)と言われます。その現れとして、救い主イエスは無学な人にも分かることばで語られました。そして新約の福音は当時の国際語であるギリシャ語で記されました。神のことばが誰にでも分かるように記されたということ自体が救いなのです。

  ところでこのときエルサレムの支配者たちは、「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる」(28:15)と言ったと記されます。これは死者礼拝の盛んなエジプトとの同盟に活路を見出そうとした者たちへの猛烈な皮肉です。彼らは、「にわか水があふれて、超えて来ても、それは私たちには届かない」(28:15)と言いながら、アッシリヤからの攻撃が来てもエジプトが防波堤となってくれると期待しています。また、「私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきた」というのも彼らへの皮肉です。彼らは、エジプトが自分の利益で動いているだけで、約束を疑う必要があることは分かっていたはずです。国際政治とは、そこにある嘘を見抜きながら、なお相手を自分のために利用することだからです。しかし、それでも目に見えない神に信頼するより合理的だと思ったのでしょう。

  それに対し、神である主は、「見よ。わたしはシオンにひとつの石を礎として据える・・これを信じる者は、あわてることがない」(28:16)と言われます。これは主がご自身の約束をエルサレム神殿の礎に置かれたことを指します。ソロモンが神殿を完成したとき、主は、ソロモンとその子孫がダビデのように歩むなら、その王座は堅く立つと言われた一方で、ほかの神々に仕え拝むなら、この宮も廃墟となると言われました(Ⅱ列王記9:3-8)。後にペテロはこのみことばを引用しながら、イエス・キリストを「尊い礎石」と呼び、「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」と言いました(Ⅰペテロ2:6)。パウロも基本的にこれと同じように引用しています(ローマ9:33)。つまり、エルサレムの防衛の鍵は、人間的な解決策ではなく、主(ヤハウェ)の変わることのない約束に立ち返ることにあるのです。

  その上で主は、「わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする」(28:17)と、ご自身こそがエジプトなどよりもはるかに信頼できると言われつつ、「まやかしの避け所を一掃し・・隠れ家を押し流す。あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない」とエジプトとの同盟が何の頼りにもならないことを強調されました。

  「寝床は・・短すぎ・・・毛布も・・・狭すぎる」(28:20)とは、主ご自身が「ここにいこいがある・・ここに休みがある」(28:12)と言われたことを軽蔑したことへの報いです。また、「ペラツィムの山でのように・・・ギブオンの谷でのように・・・」(28:21)とは、かつて主がダビデやヨシュアに与えた勝利のシンボルが、今度はエルサレムを滅ぼす力のシンボルと変えられることを示しています。そして、イザヤは、「だから今、あなたがたはあざけり続けるな」(28:22)と戒めながら、主は既に、「全世界に下る決定的な全滅」について既に啓示が与えられたと告げ知らせています。

 2823-28節の農夫の働きのたとえの基本は、農夫が種まきから収穫までをよくわかっているのと同じように、主ご自身も計画をもって神の民イスラエルを導いておられるという意味です。そのことが、「これもまた、万軍の主(ヤハウェ)のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんばかりはすばらしい」(28:29)と言われます。

  私たちが何よりも注意しなければならないことは、歴史の支配者である神を敵にしてはならないということです。人の助けを頼むことは悪いことではありません。しかし、それは神への祈りの中から生まれる必要があるのです。

  

2.「私たちの気に入ることを語り、偽りを預言せよ・・・私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ」

29章最初の、「アリエル」とは、「祭壇の炉」(29:2、エゼキエル43:15)と同じ文字で、明らかにエルサレムの言いかえです。そこには主の臨在の約束と、火による主のさばきの両方の意味が込められています。「わたしはあなたの回りに陣を敷き」(29:3)とは、紀元前701年にエルサレムがアッシリヤによって包囲されることを指します。そのとき、エルサレムは、「死人の霊の声・・・ちりの中からのささやきのように」(29:4)壊滅寸前になりますが、そこで突然、万軍の主(ヤハウェ)は、「雷と地震・・・暴風と焼き尽くす炎をもって」(29:6)敵の陣営を乱し、彼らは退散します。その結果、彼らが夢の中で食べたり飲んだりしたように、彼らの勝利は夢や幻のように消えて亡くなります(29:7,8)

 「のろくなれ。驚け・・・主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ」(29:9,10)とは、主が彼らの霊の目を閉じられたので、彼らが主のみこころを理解できなくなるという意味です。事実、申命記やレビ記の終わりには、すでに神の民に対するさばきが明確に記されていましたが、彼らはそれをまったく理解できませんでした。主は、彼らの礼拝が、「くちびるでは・・あがめるが、その心は・・遠く離れている」(29:13)という偽善に満ちたものだったので、主は彼らが聖書を理解できないようにしてしまわれたというのです。

  「ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち」(29:15)とは、心の底で主(ヤハウェ)のご支配の現実を否定している見せかけの信仰者たちのことだと思われます。その特徴は、「ものを逆さに考えている」(29:16)ことです。彼らは陶器師である神を粘土と同じようにみなし、神のみわざを自分の基準で批判しているというのです。

そこで突然、「もうしばらくすれば」すべてが逆転し、「聞こえない者が・・聞き・・・見えない者の目が暗闇とやみから物を見る」と記されます(29:17,18)。そのとき、「へりくだる者は、主によっていよいよ喜び、貧しい人は・・楽しむ。横暴な者はいなくなり、あざける者は滅びてしまい」(29:19,20)という神のさばきが明確に実現します。

陶器師であられる主は、このように苦しみを通してイスラエルを練り直します。それは主ご自身が神の民のこころを内側から造りかえられるためです。その結果、「今からは、ヤコブは恥を見ることがない・・彼らはわたしの名を聖とし・・・心の迷っている者はさとりを得、つぶやく者も教えを学ぶ」(29:22-24)という真の信仰が生まれます。

今、私たちには「深い眠りの霊」(29:10)の代わりに、何と、「キリストの心」としての御霊を受けています。それは、使徒パウロが、「いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです」(Ⅰコリント2:16)と高らかに歌っている通りです。何という特権でしょう!

  そして、「ああ。反逆の子ら」(30:1)とは、アッシリア帝国の脅威が迫ってくるという危急のときに、「イスラエルの聖なる方、主(ヤハウェ)」により頼むのではなく、当時の国際政治の常識?にしたがって、北からの脅威に対しては、南のエジプトの力に頼って生き延びようとしか考えない者たちのことです(30:2)。それに対して、主は、「エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす」(30:3)と言われます。これは、「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」(詩篇91:1)と言われる霊的な現実と正反対です。そして、ここで主はエジプトを「役に立たない民」と呼び、そこに頼ろうとする者たちは、「恥となり、そしりとなる」と非難します(30:5)。

「ネゲブの獣に対する宣告」(30:6)とは、エルサレムからエジプトに遣わされた使者たちを皮肉った表現です。彼らは、エルサレムの南に広がるネゲブの荒野からペリシテ人の住む海沿いの地を経てエジプトに下りましたが、そこには獅子や蛇がいました。その危険な地を、彼らは多くの貢物を運んでエジプトの助けを求めに行きましたが、そのエジプトは、「何もしないラハブ」(30:7)と呼ばれます。ラハブとは当時の神話にあった海の怪獣を意味しますが、それは大きな口を空けて貢物ばかりを求め、何の役にも立たないエジプトを皮肉った表現です。

「今、行って、これを彼らの前で板に書き・・」(30:8)とは、30章1-7節の内容を書き記すようにという命令です。そうすべき理由が、9-14節まで説明されています。そこでは、エルサレムの民が、「反逆の民・・・主の教えを聞こうとしない子ら」と呼ばれ、心の奥底では、「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りを預言せよ・・・私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ」(30:10,11)と求めているというのです。これはいつの時代にも起こりえることです。聖書は人の罪や醜さを赤裸々に描きますが、多くの人々はそれが直接的に語られるよりも耳障りの良い言葉を語ってくれる教師を求めてしまいます。そこから神の民の堕落が始まります。

「それゆえ、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる・・・」(30:12)とは、聖なる方の警告を「ないがしろにし、しいたげと悪巧みに・・たよった」ことの必然的な帰結として、「あなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって」(30:13)、裂け目をもたらし、その城壁を内側から崩してしまうという意味です。エルサレムの真の城壁は、主ご自身であられるのに、それを捨ててしまってはどんな敵にも対処できなくなるのです。

この世の多くの人は、利害関係で動きます。だからと言って、露骨な便宜供与で人の心を買おうとする者は、自滅への道を歩んでいます。なぜなら、お金で動くような人は、あなたをお金で売るような人だからです。この世的に無力な人でも、また厳しいことを言う人でも、主との豊かな交わりのうちに生きている友をこそ求めるべきです。

3.「立ち返って静かにすればあなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」

そのような中で、神は、エジプトではなく、彼らの「主(アドナイ)である主(ヤウェ)、イスラエルの聖なる方」、つまり、イスラエルにとっての真の主人、その民を選んでおられる聖なる方に、「立ち返る」ことを命じます。それは、回心を迫る招きであり、放蕩息子の帰還を待つ父親の気持ちに通じます。「静まる」とは、「憩う」(28:12)とも訳せることばで、「エジプトの陰」(30:3)の代わりに、全能の神の御翼の陰に安らぐことの勧めであり、放蕩息子が父親の抱擁に身を委ねる姿でもあります。そして、そうすることによって、彼らの神が、彼らを「救って」くださるというのです。

 続く、「落ち着いて」とは、まわりの状況に振り回されずに気持ちを鎮めることであり、「信頼する」とは、信仰というより望みをかけるという意味です。そうすると、「あなたがたは力を得」て、アッシリア帝国にさえ立ち向かえるというのです。ところが、彼らはそれを望まず、絶望的な状況からの逃亡ばかりを考えていました。それを皮肉ったのが16、17節ですが、律法の書には、主に信頼する者に対して、「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる」(レビ26:8)一方で、主のさばきは、反対に、「ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させる」(申命32:30)と記されていたからです。

 なお、「立ち返って静かに・・・」とは、決して現実逃避ではありません。後にヒゼキヤ王は、アッシリアの使者から受け取った脅迫状を、「主(ヤハウェ)の前に広げ」(37:14)、全能の主に信頼する祈りをささげました。その時、主はイザヤを通して希望を語ってくださったばかりか、寝ている間に、「主(ヤハウェ)の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、十八万五千人を打ち殺し」(37:36)、主をそしったアッシリア王はその子供に暗殺されたのでした。

  私たちも同じようにして、主にある勝利を体験させていただくことができます。世の人々の間でも、しばしば、忙しく動き回るよりも、じっくり腰を落ち着け確信に満ちた行動で道が開かれるという原則が尊重されますが、私たちの場合は、それ以上に、すべてを支配される神が、私たちのために働いてくださることを期待できるのです。

「主(ヤハウェ)は、あなたがたに恵もうと待っておられ」(30:18)とは、心を震わす表現です。主(ヤハウェ)は、イスラエルの民が、ご自身のもとに立ち返るのを待ち焦がれ、特別な恩恵を施したいと願っておられるのです。そればかりか、放蕩息子の姿を遠く見つけた父が「走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)ように、主は「あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」というのです。その理由が、「主(ヤハウェ)は正義の神であるからだ」と記されます。「正義の神」であるとは、罪に目をつむることができないという意味ではなく、彼らの父祖アブラハムへの契約に誠実であり続けるという意味です。なお、この契約関係の成立の条件は、人と人との間の契約と異なり、互いの利益のために相互に責任を果たし合うというようなものではなく、ただ、「主を待ち望む」という一点にあるのです。

  神の恵みは良い働きへの報酬であるかのように考えられがちですが、忍耐心や努力できる力だって神からの一方的な賜物であることを忘れてはなりません。事実、自分の働きを自分の功績として誇り、それを神にアピールしたパリサイ人は退けられましたが、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と自分の胸をたたいて祈った取税人は神のあわれみを受けました。信仰の出発点は、自分のみじめさを神の御前に言い表わすことです。しばしば、不必要なプライドを捨てきれずに人の好意を無にしてしまう人がいますが、神の御前でそのような愚かな振る舞いをしてはいけません。神は、あなたに特別な恩恵を与えたいと待ち焦がれているのですから。

 「あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み」(30:19)とありますが、私たちの生活には、叫び声をあげざるを得ないことが絶えません。しかし、神は、それに即座に答えてくださるというのです。「必ずあなたに恵み」とは、「恵む」ということばを重ねた強調表現です。確かに、主は、「乏しいパンとしいたげの水」(30:20)という苦難を与えられることはあるにしても、私たちは既に恵みの中に置かれており、目の前から教師たちがいなくなるということはありません。「教師」とは、複数表現で、当時で言えば預言者たちを、現在で言えば、信仰の兄弟姉妹や牧師を意味します。イスラエルの民が偶像礼拝に走ったとき、彼らの間から教師も消えましたが、今の時代は、御霊の賜物がそれぞれの人に与えられるので、私たちは求めさえすれば教師を見続けることができるのです。

 「あなたが右に行くにも左に行くにも・・・」(30:21)とありますが、これは、歩もうとする前から導きの声が聞こえるとか、悩まなくてすむように指示が与えられるという意味ではありません。迷いながらも、未知の世界に信仰を持って一歩踏み出す時に「これが道だ。これに歩め」という確信を与えられるという意味です。多くの人は、自分の足で一歩踏み出すことを躊躇し、「みこころがわからない・・」と言ったり、また、他の人の歩みに安易に従おうとすることでしょう。イエスが、「滅びに至る門は大きく、その道は広い」(マタイ7:13)と言われたことを忘れてはなりません。

 

主との交わりを回復した者は、銀や金の偶像に向かって、「出て行け」と言うようになります(30:22)。そのとき主は、約束の地に豊かな雨を降らせ、地の産物を「豊かで滋養がある」ようにし、「家畜の群れは、広々とした牧場で草をはむ」ようにし、先の「乏しいパンとわずかな水」(30:20)とは正反対の豊かな祝福をもたらしてくださいます。

なお、「大いなる虐殺の日」(30:25)という恐ろしい表現があるのは、神の民にとっての救いの日が、同時に、神の民の敵にとってのさばきの日となるからです。とにかく、その日には「すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運河ができる」とあるように、水のないエルサレムに川が流れるというのです。しかも、「主(ヤハウェ)がその民の傷を包み・・・」といういやしが与えられます。そして、「日の光」も七倍になるとは、太陽が暑すぎるようになるということではなく、「主(ヤハウェ)があなたの永遠の光となる」(60:20)ということの別の表現です。

「見よ。主(ヤハウェ)の御名が遠くから来る。その怒りは燃え」(30:27)とは、アッシリヤがエルサレムの攻撃に来るその向こうから主のさばきが来るということを表しています。30章27,28節には神の民を虐げる国々に対する恐ろしい神のさばきが、そして、29,30節にはそれと対照的に神の民に祭りの喜びが帰ってくることが描かれています。

そして31-33節では、具体的に主ご自身がアッシリヤと戦ってくださることが預言されています。「すでにトフェテも整えられ」とは、神の民の敵を葬る場所(エレミヤ19:11)を指します。

 「いつくしみ深き友なるイエス」の原歌詞には、次のように記されております。

「イエスは私たちにとって何とすばらしい友でしょう。

     彼は私たちのすべての罪と悲しみをになってくださるのですから。

     すべてのことを祈りによって神に告げさせていただけるのは何という特権でしょう。

     それなのに、何としばしば平安を失い、不必要な痛みを負ってしまうことでしょう。

     それはすべて、祈りによってすべてのことを神に打ち明けないからなのです。」

私たちの目の前に、いつも何かの問題があるのは当然のことです。それは、神が私たちをあわれみ、ご自身との会話に導くために置かれていることです。ある人は、「解決策はつねにすぐそこに、問題の中にある・・・問題を無理やり抑え込むのではなく、解決策の生みの親になってもらうべきだ」と言っています。そのきっかけが、主の前に静まるということです。そして、それを通して、あなたの前に新しい世界が広がってきます。ところが私たちはそこにある恵みを忘れ、問題の原因となった人を責め、自分の過去の判断を悔やみ、目の前から問題が消えることばかりを望んではいないでしょうか。私たちが祈る前から、「主(ヤハウェ)は私たちを恵もうと待っておられ」、また、祈りを聞いて、「あわれもうと立ち上がられる」のです。確かに目の前の道が心細く思える時もありますが、勇気を持って一歩を踏み出すなら、神のみ声を背後から聞くことができ、目の前の道はどんどん広くなって来るのです。

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2008年3月 2日 (日)

ルカ16章14-31節「神の恵みをむだに受けないようにしてください」

                                                200832

私たちは様々な恵みの賜物を受けています。しかし、それは常に両刃の剣です。富が罠となるように、ある種の才能も罠になります。たとえば、「僕には、道産子の忍耐心がある!」などと自分を誇っていると、それは同時に、「融通の効かない頑固さ」として、人を振り回すことになってしまいます。しかし、ふと、「自分にとっての忍耐心とは、失敗したときに転がり墜ちるのを防ぐために神から与えられたセイフティーネットのようなもの・・」と思うと、他の人に与えられている様々な恵みの賜物も喜ぶことができるようになりました。同じように聖書の教えを、聖人君子になるための教えなどと思うとパリサイ人の傲慢になってしまいます。律法も預言者も、あなたの生き方を正すという以前に、神のあわれみを示すものではないでしょうか。神があなたに預けてくださった富や才能ばかりか聖書の教えさえも、その用い方が問われています。すべてが神と人との交わりの中で再評価される必要があるのです。

イエスは、「不正な管理人」のたとえで、この世の富の奴隷にならずに、それを賢く用いることを勧めました。しかし、「金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた」(16:14)というのです。パリサイ人が「金が好き」と記されているのは猛烈な皮肉です。彼らは、先にあった油や小麦を貸すことによる利益を、「不正の富」として軽蔑していたからです。その彼らに対して、19節から31節に続く「金持ちとラザロ」のたとえが語られました。彼らは「不正な管理人」とは対照的に、その富を隣人のために用いようとはまったく考えてはいませんでした。そこで、物乞いのラザロはアブラハムのもとにある平安の世界に行き、金持ちはハデス(よみ)の苦しみに落とされたというのです。これは、「不正の富で、自分のために友をつくろうとしなかった人」の悲劇と言えましょう。

1.「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です」

イエスは、まずこのパリサイ人たちに、「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です」(15)と言っています。そしてイエスは、彼らの偽善を指摘する意味で、「神は、あなたがたの心をご存知です」と言われた上で、「人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます」と驚くべき逆説を言われました。多くの人の心の内にある最後の願いは人から尊敬されることですが、それが人を偽善に駆り立てます。人から評判はほとんどの人にとってお金よりも大切です。ところが、パリサイ人たちは、この名誉欲の罠にあまりにも無防備なばかりか、自分の評判を正当化していました。しかし、富と名誉は、人間にとって何よりの偶像となってしまうものです。

「律法と預言者はヨハネまでです」(16)とは、バプテスマのヨハネに至るまで、預言者たちは旧約聖書に記された「神の国」の実現を待ち望みながら、人々に心からの悔い改めを強く迫っていたからです。旧約聖書最後のマラキ書では、「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と預言され、そのエリヤこそがバプテスマのヨハネであるとイエスは語りました。つまり、イエスの時代は、その待ち望まれた「神の国」が目の前に来たというときなのです。「それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています」(16)とは、イエスのもとに取税人や遊女たちが押しかけている様子を語ったものです。また、それは先に、「不正な管理人がこうも抜け目なくやった」(8)様子を指したものでもあります。

その上で、「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです」(17)とは、イエスを通して神の国に入る者は、一見、律法を軽んじているように見えたとしても、かえって律法の原点に立ち返っているということを示唆したのだと思われます。なぜなら、律法の核心とは、罪人に対する神のあわれみだからです。ところが、パリサイ人は、律法に極めて熱心でありながら、その文言ばかりに囚われて律法の基本を忘れていました。その実例として、離婚と再婚に関することが語られます。申命記24章には、「妻に何か恥ずべき事を発見したとき」には妻を離縁できるとも解釈され得る箇所があります。それをもとに当時の律法学者は、それは具体的にどのような状況を指すかを議論しました。多くの律法学者たちは、「妻が夫の食事を台無しにしたり、道で他の男と話したり、夫の親の悪口を言ったり、隣の家に聞こえる声でわめいた場合には、離婚が正当化される」などと大まじめに主張していました。しかし、この規定は、本来、女性を男性の気まぐれから守るための規定であったことは文脈から明らかです(拙著参照)。それが男性のきまぐれを正当化するための教えへと変えられていたのです。

そして、この当時、ユダヤの国主ヘロデ・アンテパスは、自分の妻を離縁して、自分の兄弟ピリポの妻になっていたヘロデヤを妻にしました。ヨハネはそのことを公然と非難したために捕らえられ、首をはねられたのでした(マタイ14:1-10)。つまり、この離婚に関する律法解釈は当時の最も熱い議論の的だったのです。そして、このときパリサイ人たちは、ヨハネのように命がけでヘロデの行動を非難する者はいなかったのだと思われます。それどころか、彼らの律法解釈は、ヘロデが自分の行動を正当化することに用いられたことでしょう。しかし、律法の原点である創世記に立ち返るとき、そこでは、創造主ご自身が、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」(2:18)と言われ、その上で彼らが一体になることができるようにと、女を男のあばら骨から創造され、「それゆえ男はその父と母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(2:24)と結婚を聖別されました。イエスは、それをもとに、「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マタイ19:6)離婚を創造主への反抗と断罪されました。つまり、結婚こそは最も基本的な創造の秩序なのです。その関係を自分の欲望のまま破壊することを正当化するようなことをしていながら、「自分たちは律法を守っている・・」などと言い張るのは何という図々しい神経でしょう。

イエスが律法を守ることの大切さを語ったとき、この離婚問題を語ったことには大きな意味があります。それは当時の社会的な弱者であった女性の立場を守るという大きな流れを作りました。イエスは、これによって一夫多妻から一夫一婦制という流れを作りました。また女性の社会的地位の向上という方向へ歴史を大きく動かしました。イエスは神の律法の原点に立ち返ることによって、人類のその後の歴史を決定的に変えることができたのです。その意味で、神のみことばこそが、歴史を動かし、この天と地を保っているということを覚えるべきでしょう。

2.腹を満たしたいと望んでいたラザロと、苦しみの中でアブラハムをはるかかなたに見た金持ち

19節から31節は、しばしば、死後の世界に関しての聖書の教えとして用いられますが、文脈から明確なように、イエスはこれを、死後の世界に関しての疑問を持っている人に向けてではなく、「金の好きなパリサイ人」また、「人の前で自分を正しいとする者」の生き方の矛盾を正すために語られたことが明らかです。つまり、自分に与えられた富と名誉を正当化することの問題を指摘したものといえましょう。ですから、この箇所を拡大解釈して「死者のたましいの状態」というような問題に深入りしないように注意すべきです。なぜなら、聖書は一貫して、この歴史のゴールが、「新しい天と新しい地」また、「新しいエルサレム」にあることを述べているからです。

このたとえは、「ある金持ちがいた」から始まりますが、その彼は、厳密には、「毎日を豪華に喜び楽しんでいた」と記されています。これは15章での父が放蕩息子のために祝宴を開いたことと同じような意味ですから、それ自体が悪いとは言えません。問題は、「その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた(望んでいた)」と描かれるほどの貧しい人の切実な願望がある中で、その隣人にまったく無関心であったことです。しかも、「犬もやって来ては、彼のおできをなめていた」とは、この貧しい人は犬を追い返す力もないほどに弱っていたことを表しています。当時の犬は人々から軽蔑されており、死体を食い漁ることもありました。彼の最後の願いは、犬のように残り物を漁ることだったというのに、それさえも適いませんでした。ここで強調されているのは、この金持ちがラザロを死んだ人間のように見なしていたという隣人への無関心と、このラザロの無力な願いです。金持ちは自分の富を自分のためだけに使っていました。

ところが、「この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた」という一方で、「金持ちは、死んで葬られ、ハデスで苦しみの中に置かれつつ、目を上げながら、アブラハムをはるかかなたに見ていた」(22,23節私訳)というのです。ここでは、貧しいラザロは人々から葬られることもなかったけれど御使いの迎えがきてアブラハムのふところという安らぎの世界に引き上げられたということと、その反対に、この金持ちは丁重に葬られながらも、地の下のハデスに落され、苦しみの中に置かれたという対比が強調されています。何という鮮やかな立場の逆転でしょう。かつてラザロは、金持ちの食べ物を、遠くに思い浮かべながら飢えの苦しみに耐えていました。一方、ハデスに落された金持ちは、ラザロの平安を、遠くに見ながら、苦しみに耐えているのです。金持ちにとっては、アブラハムがはるかかなたに見えること自体が、彼の憧れを刺激し、苦しみを増し加える要素となります。これは、かつてラザロが金持ちの門前で、金持ちの食べ物に憧れを抱き、無力感に苛まれていたことと対照的です。何という劇的な、鮮やかなコントラストでしょう。イエスは当時の人々の常識を逆転させました。

申命記などでは、主を愛する者には祝福が与えられ、主を憎む者には、のろいが与えられるという対比が繰り返し強調されています。それをもとに、パリサイ人は、自分が豊かであるのは神に愛され、祝福されているしるしであると受け止め、ラザロのような人は、神から「のろい」を受けた結果として、苦しんでいると解釈しました。貧しさが、神から憎まれている「しるし」であるならば、そのようなのろわれた人にあわれみを施す必要などありません。かえって、人々への見せしめとししながら、「神を愛さない者は、このようにのろわれる」という生きた教材にすべきと考えたのだと思われます。なぜなら今も昔も、「脅し」こそが、人々の心を動かす上で最も効果的だからです。

それに対しイエスは、「すべて、多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12:48)と、豊かさに伴う「責任」の方に目を向けさせました。私たちそれぞれには、異なった能力、異なった生活環境、異なった機会が与えられています。人生は、ある意味で、生まれながら不公平です。パリサイ人が、律法を学ぶことができ、それを守ることに集中できたのも、そのような能力と環境が与えられていたからに過ぎません。それなのに、彼らは貧しい人々や無学な人々を軽蔑し、自分の出生や能力を誇っていたのです。金持ちに与えられた富は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という律法の命令を果たすための手段に過ぎません。

一方、ラザロは何かの良い行いをしたわけでもなさそうなのに、アブラハムのふところに引き上げられたのは、彼には良い行いをする力も富も機会も与えられていなかったからに過ぎません。ラザロはただ、神のあわれみのゆえに救われたのです。そして、この原則こそ、信仰の核心です。アブラハム、イサク、ヤコブのすべては、ただ神のあわれみによって神の民として選ばれたに過ぎません。「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(Ⅰコリント1:29)とある通り、私たちは自分に生まれる前から与えられた恵みを誇ることはできません。ただ、私たちは、恵みをどのように受け止め、どのように用いたかという「責任」が最終的に問われるのです。

人が活躍する様子を見て、「神は私を何でこうも無能に造られたのか・・・」などと恨むような人は、反対にぜひ、豊かな人や有能な人が、どれだけ大きな責任を負わされ、危険なところに置かれているかを見てあげて、彼らのために祈って差し上げるべきでしょう。神は最終的に、それぞれに与えた恵みをどれだけ生かすことができたかを問うておられます。パウロは、「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください」(Ⅱコリント6:1)と豊かなコリントの人々に強く迫りました。

3.「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」

この金持ちは、はるか遠くに見えるアブラハムに向かって、「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」と叫びました(24)。これはかつてラザロが飢えの中で、この金持ちに向かって出した心の叫びと同じものではないでしょうか。地獄の存在を信じない人に、ある人は、「この世にこれほど恐ろしい地獄が現実にあるのに、どうして死後の世界をそれほど楽観的に見ることができるのか・・・」と言ったとのことですが、まさにその通りです。

それに対し、アブラハムは、「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、お前は苦しみもだえているのです」(25)と語り、私たちの人生の収支はこの世界だけでは決算が成立しないということを語りました。昔から多くの哲学者や宗教家が、「なぜ、人生はこうも不公平なのか?なぜこんな不条理が許されるか・・・」と、その原因を探り続けています。そのあげくある人は、「何十代前のご先祖様が、人殺しだった・・・」などという証明不能、荒唐無稽な理屈を考え出し、偶像礼拝に誘ったりするほどです。それに対し、福音の光は、このたった一言で、解決を示します。それは、「この生ののちにもう一つの生がある。その生においては、この世において罰せられず報われなかったことが、罰せられ、報われることになる」(ルター:「奴隷的意思」より)というものです。

しかも、アブラハムは、「そればかりでなく、私たちとお前たちの間には大きな淵があります。ここからそちらに渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらに越えて来ることもできないのです」(26)と語りました。これはつまり、この現在の生き方が、将来の居場所を決め、死後、その居場所を変えることはできないという意味です。仏教などで、死者の霊に向かって、お経を唱えるのは、彼らが生きている間に忙しすぎて学ぶことができなかった人生の真理を、時間ができた今になって教えて差し上げようというあわれみの心に基づくものです。しかし、聖書は、人生の真理は、死んだ後に学んだのでは遅すぎる、死後に悔い改めの機会はないと語っています。

それを聞いた金持ちは、「ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28)と懇願します。ある求道者の方は、「私の愛する人が、イエス様を信じないで地獄にいるかもしれないというなら、私も同じところに行きたいからイエスを信じることはできない」と言っていましたが、この箇所を見て、「もし、本当に、あの人が、苦しみの場所にいるなどということがあったとしたら、この金持ちと同じように、絶対、ここには来ないでほしい・・と願っていることでしょう」と分かったと言って、死んだ人の願いをかなえるためにも、イエス様を信じると決心しました。

なお、これに対し、アブラハムは、「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです」(29)と言いますが、この金持ちは、なおも、「だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったとしたら、彼らは悔い改めるに違いありません」30節)と主張します。ここでは、ラザロという名の代わりに、「だれかが・・」と言われ、イエスが、このたとえをご自身の後の復活に結び付けようとしていることが分かります。しかもイエスは、アブラハムの口で、「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない(説得されはしない)」(31)と言わせることによって、ご自身の復活によっても、パリサイ人たちはイエスのことばに聞こうとはしないと示唆しています。それは彼らが、「モーセと預言者」のことばを、「人の前で自分を正しい者とする」ためにばかり用いていたからです。しかし、このアブラハムのことばは、「もし、モーセと預言者との教えに耳を傾けるなら、だれかが死人の中から生き返るなら、彼らは聞き入れる(説得される)」と言い換えることができるのではないでしょうか。それはつまり、私たちがモーセと預言者との教えに真剣に耳を傾けるなら、自分があのイスラエルの民と同じように、救い難いほどに頑なで、恩知らずで、不信仰な者であり、神の特別なあわれみがなければアブラハムのふところに受け入れられることはできないと分かるということです。そして、そのように自分の罪を自覚し、自分の弱さに悩む者にとっては、イエスの十字架と復活の福音によって悔い改めることができるという意味です。つまり、旧約聖書と新約聖書はセットで私たちを神のもとに導くのです。

なお、ここでイエスが、死んだアブラハムが生きている人に語っているかのような表現を使っているのは、アブラハムを神の教師に仕立てるためではありません。アブラハムは結局、この金持ちの救いには何の役にも立っていないことを忘れてはなりません。それよりも、イエスは、イスラエルの選びの原点が、モーセの律法を実行するという以前に、アブラハムに対する神の一方的なあわれみにあるということを思い起こさせるためです。つまり、イエスは、律法の解釈を巡って議論を戦わしているパリサイ人たちに、律法を記したモーセ以上に、それ以前のアブラハムという信仰の父に焦点を当てることで、彼らを信仰の原点に立ち返らせるようにチャレンジしているのです。

神は、ご自身を忘れて破滅に向かっている世界を救うために、まずアブラハムひとりに目を留め、彼に語りかけ、対話の中で彼を神の友と呼ばれるまでに成長させてくださいました。それはモーセやダビデを初めとするすべての信仰の勇士たちに共通することです。神はご自身との対話によって、人の信仰を育み育ててこられました。

そして、彼らの信仰とは、ひとつひとつの神の恵みの賜物を、自分を誇るためにではなく、神と人とのために用いたという点にあります。そこには恵みが広がってゆく好循環のような過程が見られます。私たちもそれぞれ、神から様々な恵みの賜物を受けています。それを無駄に受けることがないように心がけたいものです。なお、聖書を通して自分の罪や愚かさが示され、また教会の交わりの中で自分の不信仰や弱さが示されても、驚く必要はありません。それは、イエス・キリストにある救いのすばらしさを心から受け止めることができるようになるための舞台に過ぎません。神の最大の恵みは、私たちの頑固な自我が砕かれる中でこそ体験できるからです。私たちが自分の生まれながらの肉の力によって、神の愛の律法を全うできないということがわかるからこそ、私たちはイエスの救いにすがります。そして、イエスは私たちが律法を全うできるようにとご自身の聖霊をお与えくださったのです。

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