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2008年4月29日 (火)

「世界の始まりと、世界のゴール」  

                                           2008年4月   高橋秀典

「初めに、神が天と地を創造した・・」以降の聖書の最初の記事は、多くの人々の人生観を変え続けてきました。そして、このみことばに対応するように、聖書には世界のゴールが描かれています。私は最初それが分かりませんでしたが、それがわかったとき聖書の読み方が変えられました。

それは、聖書の最後、黙示録211節の、「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない・・・」という一連の預言です。しかも、それは既にイザヤ書6517節で預言されていたことを基にして記されています。そこでは、主ご自身が、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だからわたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べと語っておられます。そこは弱肉強食や争いがすべて過ぎ去った、神の平和(シャローム)が支配する世界です。

私たちはこの世界がどのように始まり、どこに向かっているのかを理解するときに本当の意味で自分に与えられたいのちを燃焼させ、与えられた賜物を生かしあうことができるのではないでしょうか。

アメリカの動物園で、猛獣の檻の中に入る際に、猛獣をおとなしくするためによく用いられる道具があるそうです。それは西部劇などにも良く出てくる、背もたれのない四本足の背の高い丸椅子です。たとえば猛獣使いがライオンの檻に入るときに、四本足の部分をライオンの顔の前に静かに出してゆくと、ライオンは四本の足の先を一度にとらえようとして、焦点が合わなくなり、力を出せなくなるということです。

同じようなことが福音的なクリスチャンの間にも起きることがあります。様々な聖書解釈を聞き、また聖書の様々な部分の細かな記事に囚われすぎて、福音の中心点を、聖書の最初から最後まで貫かれている中心点を見失ってしまいます。その結果、何のために、どこに向かって生きるのかという焦点がボケてしまい、主のために生きるという情熱が沸かなくなるのです。

たとえば、創世記一章の解釈でも、これとビッグ・バンの関係はとか、ここに記されている一日の長さはどれくらいか、生物が進化するということを全面的に否定してよいのか・・・などと、十人の学者が集まると十通りの解釈が生まれます。そんな中で、私はとっても嬉しいことを体験しました。一昨年、出版させていただいたモーセ五書の解説ですが、創世記の解釈に関しては、創造科学の主催者の牧師からも、また創造科学という考え方に批判的な福音的な信仰に立つ科学者の両方から、ほぼ完全に同意できると評価をいただくことができました。それはなぜでしょうか?それは私が、古山先生を初めとするこの福音自由教会の交わりで訓練を受けたおかげではないかと思います。それは、何か議論があるとき、「聖書はどのように語っているか・・」という原点に立ち返り、聖書で明確には語られていないことに関しては意見の相違を尊重するという姿勢が養われてきたからです。

またこの世界の終わりへのプロセスでも、特に千年王国の解釈などを巡って驚くほど多様な解釈があります。しかし、この世界のゴールが、神の平和が支配する「新しい天と新しい地」にあるということに関しては、すべての福音的な信仰者が一致できるのです。

私たちの信仰も、椅子の四つの足を一度に見ようとして麻痺してしまうライオンのようであってはありません。この世界が、どなたによって始められ、どなたによって完成に導かれるかにおいて、私たちは完全に一致できます「初めに、神が天と地を創造した」という出来事と、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」という世界の完成に向かっての、途上の時代に、私たちはみな立たせていただいています。この中心線をいつも心に置くときに、私たちは様々な混乱の只中でも、信仰の焦点を定めて生きることができるのではないでしょうか。

世界のゴールは、「新しい天と新しい地」です。そこは、光に満ちた、やみのない、「もはや海もない」世界です(黙示21:1)。また、太陽も不要になり、神ご自身が地を照らされます。そのとき私たちは、目に見える恵みの背後におられる神を、直接に仰ぎ見ます。つまり、世界は今も完成への途上にあるのです。

  何と不思議な記述でしょう。世界の最初は、「やみ」でした。神はそこに光を創造され、光とやみとを区別されました。そして、この世界の完成は、光に満ちた世界です。現在の私たちの世界は、やみと光が共存する世界です。

また世界の最初は、海ばかりでした。神は、水のただ中に、空と陸とを区別されました。当時の海には危険が満ちた不毛の地に見られていましたが、そこが豊かな植物を育てる大地と青い大空に満ちた世界へと変えられます。そして現在の私たちの世界は、予知できない危険と、神にある安心が共存する世界です。

ですから、私たちは、この世界が不毛な状態、「やみ」に支配されていると思えるとき、それを、新しい恵みの世界が生み出される前触れとして見ることができます。現在の人生の中に何が起ころうとも、それはやみから光へ、危険から安全へという変化の一プロセスに過ぎません。

しかも、創世記1章では、「夕があり朝があった」と、それぞれの日を振り返るような表現が繰り返されます。そこに、私たちは、神のことばによって創造された世界に、希望をもって目覚めさせていただくというリズムを感じ取ることができるのではないでしょうか。「やみから光へ」、「不毛な地からいのちに満ちた地へ」という希望に満ちたリズムを神は支配しておられるのです。

私たちは、この神にあるダイナミックな創造のリズムの中で、この世界が「神の平和(シャローム)で満たされる日を期待しつつ、この世界に少しでも神の平和を広げるために、地の塩、世の光として遣わされるのです。ひとりひとりが小さなキリストとして、神の平和の実現のために用いられることができるのです。

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2008年4月27日 (日)

ルカによる福音書17章1-19節 「私たちは・・・なすべきことをしただけです」

                                               2008427

 「古人言く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照す。これ則ち国宝なり、と」は、比叡山の開祖、最澄が日本に広めたことばです。私は高校の修学旅行のとき、根本中堂でこのことばを聞き、いたく感動しました。これは直径が一寸(3.03cm)もある宝石十個よりも、自分に与えられた場で全力を尽くす人こそが国の宝であるという意味です。私も「一隅を照らす人」でありたいとそのとき思ったものです。しかし、私の心の中には、そのような慎み深い生き方よりも、その中国の原点に並行して記されているという「千里を照らす将軍」でありたいという思いがありました。しかも、そのような目立ち根性を、「さもしい!」と恥じる自分もいて、心が空回りを起こしていました。そのような中で、イエスの魅力にとらえられました。それでもしばしば、自分の分を超えた働きをし、「もっと多くの人から感謝されてみたい・・・」という思いが芽生えます。しかし、イエスはそんな心の定まらない私を含めて、「あなたがたは、世界の光です」(マタイ5:14)と語ってくださいました。私ではなく、キリストが私を通して輝くことができるからです。

1.「悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても・・・」

イエスはまず、「つまずきが起こるのは避けられない」(1)と言われました。牧師をしていると、「僕が牧師でなければ、あの人はつまずかなかったかもしれない・・・」という気持ちになることがありますので、このみことばは慰めになります。私は、その人がその人自身の問題でつまずくことにまで責任を感じなくても良いと思えるからです。

ただ、同時に、「だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。この小さい者たちのひとりに、つまづきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」(2)とイエスは厳しく警告されました。「石臼」とは麦の粒を粉につぶすために使うもので、これを首にゆわえつけられたら、何の抵抗もできないまま海に沈んでしまいます。それと同じように、あなたの言動が、その人のサタンの誘惑への抵抗力を失わせ、その人を滅びに導くようになるぐらいなら、生きていないほうが良かったというのです。

後にパウロは、コリント教会に宛てた手紙で、「偶像にささげられた肉」を食べてよいかどうかに関して、その第一の手紙の8章から10章まで、非常に長い議論を展開します。彼はそこで白黒明確なルールを作る代わりに、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を高めます」(Ⅰコリント8:1)という原則に立ち返るように進めました。簡単に言うと、「こんなことでつまずくのは、つまずくほうが無知だからだ・・・」などと、人の良心を軽蔑するような動機で自分の行動を決めてはならないという意味です。それはたとえば、アルコール依存症から立ち直ろうとしている人の前で、敢えてお酒を飲むような行為や、子供の見ている前で赤信号をわたるような行為です。私たちには日々のいろんな事に関しての戒律のようなものはありませんが、自分の行動が隣人にどのような影響を与えるかということをよくわきまえて、すべてを隣人への愛の動機から決めるようにということです。何が隣人への愛になるかに関しては、だれも一律の答えを言うことはできません。問われているのは、あなたの心の内側にある動機だからです。

「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい」(3)とは、自分の兄弟が滅びに向かっているとき、それを警告する責任を問うものです。人の目には、「余計なお世話・・」と見えるようなことでも、警告しなかったという責任を問われて、あなた自身が「いのちを失う」ことすらあるというのです(エゼキエル3:18参照)

「そして、悔い改めれば、赦しなさい」とは、キリストの御名によって神の赦しを宣言することです。被造物にすぎないあなた自身に罪を赦す権威などあるわけはありません。しかし、復活のイエスは、ご自身の弟子たちを世に遣わすにあたって、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(ヨハネ20:22,23)と言われました。あなたは隣人に対しイエスの代理、イエスの大使として生きるように召されています。そのときたとえば、その人の罪の告白を聞きながら、Ⅰヨハネ1:9-2:2のみことば「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。・・・もし、だれかが罪を犯すことがあれば、私たちには御父の前で弁護する方がいます・・この方こそ、私たちの罪のための・・・なだめの供え物です」を読み上げて差し上げるのが良いでしょう。それを受け入れるものに神の赦しが伝わります。これは牧師だけの働きではありません。

その上で、「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来る(戻る)なら、赦してやりなさい」と命じられます(4)。なお、「悔い改める」とは、「立ち返る」とも訳されることばで、行動の変化よりも、心の方向を変えることが中心です。つまり、あなたの目には、「口先だけ・・・また同じことをするに違いない・・・」と見えても、あなたに頭を下げているということ自体を受け入れるようにという勧めです。あなたに罪を犯す人が、あなたとの交わりをなお求めているということがどれだけ大きなことかを忘れてはなりません。

「一日に七度罪を犯しながら、なお赦しを乞う」などという人は確かに口先だけとしか見えないことでしょうが、それを裁くのは神の主権に属することであって、あなたの責任はその人を赦すことです。私たちが人を赦すことができないのは、神のさばきを信じていないからではないでしょうか。パウロも、「すべての人と平和を保ちなさい」と勧めながら、「自分で復讐してはなりません。神の怒りに任せなさい」(ローマ12:18,19)と言っています。人からひどい目に会わされた方が、「神の目はふし穴ではない!」と言いながら、「神がご自身のときがきたらさばいてくださるのだから、私はもうこの責任を問わない・・・」と心から搾り出すように言っていたことがあります。さばきは神の責任で、あなたの責任は、人を赦すことです。しかも、そうすることで、あなた自身が神の赦しを心の底から味わうことができます。人を赦せない心には苦々しさが蓄積されます。ある意味で、人から不当な苦しみを受けるのは、人生で避けられないことです。しかし、それに囚われていると、自分の心が病んできます。それは二重に被害を受けることです。しかし、この二つ目の被害からは、神によってしか解放されません。そして、あなたの心が人に毒を撒き散らす「にがよもぎ」(黙示8:11)のような状態から解放されるとき、あなたを通して神の愛が人に届きます。「世界の光」となるための第一ステップは、人を赦すことから始まります。その祈りを、イエスは導いてくださいます。

2.「私たちの信仰を増してください」

使徒たちはイエスに、「私たちの信仰を増してください」(5)と願いましたが、そこには、無限に隣人を赦し続けることから、人々の病を癒すことまで、イエスに似た魅力的な人に成長したいという動機があったことでしょう。しかし、そこには同時に、「現在の私たちの信仰のレベルではだめだ・・・」と、与えられた信仰を卑下する思いもあったのではないでしょうか。しかし、信仰は、神の力を取り次ぐ媒体に過ぎません。事を動かすのは、神の力であって、人間の信仰の力ではありません。私たちもしばしば、「私は信仰が弱いから・・・」「あの人の信仰は強いから・・・」などと、信仰を計りあい、信仰を人間的な能力と同じようなレベルで見るような傾向がないでしょうか。

それに対して、イエスは、「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」(6)と言われました。「からし種」は、「どんな種よりも小さいのですが、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」(マタイ13:32)とあるように、その中に偉大な力が隠されているものの象徴です。イエスは、神の国の驚くべき成長力を表現するためにからし種のたとえを用いました。つまり、信仰は、増し加えられたり減少したりするようなものというよりは、どんなに小さく、弱いものに見えても、神はそれを通して不可能を可能にすることができるというのです。イエスは、このたとえによって、弟子たちの目を、人が持っている「信仰」ではなく、神の力へと向けられたのです。

なお、イエスは別のところで、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」(マタイ13:20)と言われました。これも基本的に同じです。信仰の大きさが問題なら、「柿の種のような信仰があるなら・・」、「鶏の卵のような信仰があるなら・・」と言っても良いでしょう。しかし、どのような小さな信仰でも、神の御力は働くことができるのです。信仰とは神を見上げることです。そこで、見上げている自分の姿勢の方に目が向かうなら、それこそ本末転倒です。

その上でイエスは、「耕作か羊飼いをするしもべ」(7)が野の仕事から帰ってきたとき、そのしもべの食事の世話をするような主人はどこにもいないばかりか、かえって、疲れているしもべに、さらに自分の食事の世話を要求するのが人間の主人であるという、当時の常識に目を向けさせます。そして、「そのしもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか」(9)と、感謝されることを求める心を戒められました。

その上で、「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい(10)と、神のしもべとしての生き方を教えられました。これは神が私たちを役に立たない者と見ているとか、奴隷のように酷使するという意味ではありません。イエスは、1235-38節では、主人の帰りを目を覚まして待っていたしもべに、主人のほうからしもべを接待するというたとえを話しています。イエスはそのように弟子たちに仕える者となってくださいました(22:27)

しかし、だからといって、イエスが私たちに仕え、ねぎらってくださることをこちらから期待しては本末転倒です。私たちの中にはいつも、自分を重要な人物であると思い込みたいという誘惑があります。しかし、「私がいなければ神様が困るはずだ・・・」などと思うと、無意識に人を振り回すような生き方をしてしまいます。事実は常に、あなたがやらなくても、神は別の人をご自身の働きに用いることができるということです。日本のどこかの会社に「俺がやらねば誰がやる」という標語が掲げてあったのに、「誰が」の「が」の点々を消して、「俺がやらねば誰かやる」になっていた、という笑い話があるそうです。いくらでも神の目には代わりがあるのに、神は敢えてそれほど役に立たないあなたを選んで働きの場を与えてくださいました。それ自体を感謝すべきでしょう。

「信仰を増してください」という願いの中には、「より強い、より影響力のある信仰者になりたい・・・」という思いが込められがちです。人の心には、「目立ちたい、ほめられたい、感謝されたい」という気持ちが渦巻いています。それは人間として当然ですが、それは結果として与えられることであって、それ自体が生きる目的となることがあっては、神も人も、自分の内側にある承認欲求を満たす手段とすることになりかねません。信仰の本質とは、主の祈りにあるように、自分を忘れて、神の御名が崇められ、神のご支配が実現し、神のみこころが行われることを願うことです。「一隅を照らす」という生き方は、イエスに由来する教えといえないでしょうか。イエスは、あなたを「世界の光」と呼んでくださいましたが、それは、あなたのもっとも身近な世界を照らすことから始まります。大きな光になることを求めるのではなく、今、ここで、神から与えられている責任を、ただ忠実に、黙々と果たすことこそが神のみこころです。しかも、私たちはそれをイエスとの交わりの中で行うのです。そのとき、イエスは私たちを奴隷のように酷使する方ではなく、私たちを慰め、励まし、しかも、期待を超えた報酬までくださる方であることがわかります。

3.「あなたの信仰が、あなたを救った」とは?

 「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られ」(11)ましたが、ある村で、十人のツァラアトに冒された人が、遠くから声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうぞあわれんでください」と叫びました。「ツァラアト」とは、「らい病」とも「重い皮膚病」とも訳されることばですが、その実態は良く分かりません。とにかく彼らは、町の外に住み、人の前では、「汚れている、汚れている」自分で叫ばなければならないような惨めな立場に追いやられていました(レビ13:45,46)。ところが、イエスはこれを見て、「行きなさい。そして、自分を祭司に見せなさい」と簡潔な癒しの方法を言われました(14)。それは祭司だけが、この病から癒された人の社会復帰への道を導く権威が与えられていたからでした(レビ14)。彼らがイエスに向かって叫び、またイエスの命令に従ったという中に彼らの信仰が表されています。そして、「彼らは行く途中できよめられた」のです(14)。彼らは確かに、信仰によってイエスの命令に従うことによって、この奇跡的ないやしを体験することができたのです。

ところが、そのうちのひとりだけが「大声で神をほめたたえながら引き返してきて、イエスの足もとにひれふして感謝した」というのです(15,16)。しかも、その人は、ユダヤ人から軽蔑されていたサマリヤ人でした。それを見てイエスは、「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻ってきた者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」と言われました(17,18)。そこにはイエスの悲しみの思いが込められていたのではないでしょうか。九人はエルサレム神殿の祭司のもとに行き、そこで「きよい」という宣言を受けて、七日間の後、ユダヤ人の社会に復帰することができたのでしょうが、彼らはそれによってイエスに敵対する者たちの交わりに加わることになったかもしれません。しかし、彼らにはイエスの敵の仲間になるなどという意識はなかったことでしょう。彼らはただ、自分たちの社会復帰のことばかりを急ぎ、どなたが自分たちをいやしてくれたかということは忘れていたのです。これは困ったときだけ礼拝に来るという多くの人の意識に似ているのではないでしょうか。しかし、それで損しているのは、その人自身です。いのちの交わりの機会を自分で閉じているのですから・・・

 イエスのみもとに戻ってきたのは、外国人であるサマリヤ人だけでした。彼らはエルサレム神殿を中心としたユダヤ人の交わりから排除されているという意味で、イエスのみもとに来やすかったのかもしれません。それにしても、イエスは、この人の信仰を喜び、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直した(救った)のです」と言われました(19)。イエスは、ここで、この人の信仰が癒される原因であったかのように語っていますが、実際は、恩知らずな他の九人も癒されたのでした。実際、ここは、「あなたの信仰が、あなたを救った」(新共同訳)と訳すことができ、この人のうちに起こったことは、肉体の癒しばかりかたましいの救いを含んだことばとして理解されるべきかと思われます。つまり、この人の「信仰」とは、いやしの奇跡の原因であったというのではなくこの人のうちに芽生えたイエスへの感謝の心自体が、イエスが喜ばれた「信仰」なのです。彼が「イエスの足もとにひれ伏し」たことは、「暗やみの圧制から救い出され・・・御子のご支配の中に移された」(コロサイ1:13)ことのしるしです。先には、信仰とは、神への忠実さであるという点に注目されましたが、ここでは、信仰とは、イエスのへの感謝の気持ちであるというのです。私たちはそれぞれイエスの光を受けて救われました。救われるための信仰とは、あなたがどれだけ一途に信じきることができるかというようなことではなく、イエスのみわざにただ感謝することから始まります。つまり、「もっと輝いていたい・・・」などと願う前に、神のみわざに感謝することこそ「信仰」の核心です。

 千里を照らす将軍ではなく、一隅を照らす者としての慎み深い生き方の基本は、イエスとの交わりにあります。イエスはあなたを通してご自身の赦しを伝えようとしておられます。それによってあなた自身の心が苦々しい思いから解放されます。イエスは、他の有能な人の代わりに、あなたをご自身の働きに召してくださいました。そこにあなたの生きがいが生まれます。そして、信仰の本質とは、あなたの信念である前に、感謝の心です。しかも何よりも、イエスの貧しさのうちに神にとらえられた者としての喜びがあふれています。私たちが、「もっと、もっと・・」という駆り立てから自由になり、自分も幸せになり、人も幸せになるという生き方の鍵が、以下の詩にあります。 

この詩は、ニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられており、「病者の祈り」または、「苦しみを超えて」という題でもよく知られています。今から百五十年ほど前の米国の内戦、南北戦争で、南部連合軍の傷病兵士が残したと言われています。  

 

私は神に 大きなことを成し遂げるようにと 強さを求めたのに、 
    慎み深く従うことを学ぶようにと 弱い者とされた
   より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに  
    より良いことができるようにと 病弱さをいただいた。           
   幸せになれるようにと 豊かさを求めたのに     
    賢明であるようにと  貧しさをいただいた  
   人の称賛を得られるようにと 力を求めたのに  
    神の必要を感じるようにと 弱さをいただいた        
   いのちを楽しむことができるようにと あらゆるものを求めたのに     
    あらゆることを楽しめるようにと いのちをいただいた     
   求めたものは 何一つ得られなかったが 

心の願いは すべてかなえられた
   このような私であるにも関わらず 

ことばにならない祈りはすべてかなえられた 
   私は あらゆる人の中で 

最も豊かに祝福されたのだ。 

翻訳 高橋秀典

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2008年4月20日 (日)

イザヤ40章1節~42章17節 「主を待ち望む者は新しく力を得る」

私たちは基本的に自分の力を、他の人との比較で計ります。そのため人の心の中には、以下の詩にあるような醜い思いがあるのではないでしょうか。

「もし私の隣人が 私より強いならば、私はその人を怖れる。/ 

もしその人が 私より弱ければ、私はその人を軽蔑する。/

もし私とその人とが 同じであれば、私は詭計に訴える。/

私がどのような動機をもっていたら、その人に服従することができ、/

私にどのような理由があったら、その人を愛することができるのだろうか」(ジャン・ド・ルージュモン)

 しかし、私たちの基準をキリストにおくとき、徹底的に自分の弱さを受け入れると共に、必要ならばどんな苦しみをも引き受ける勇気をいただくことができるのではないでしょうか。

1.「そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた」

  イザヤ39章はバビロン捕囚の預言で終わり、それを前提として「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、神が語りかけられます(1)。これからヘンデル作「メサイア」の冒頭の歌が作られますが、神は自業自得で苦しむ民を慰めるために、救い主を遣わしてくだるのです。

「労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた」(2)とは、借金証書が返済完了の印に二つ折りに壁に鋲で留められると同時に、借金と同額が贈り物として与えられるという奇想天外な恵みです。そして、そこで「荒野に呼ばわる者の声」(3)「呼ばわれと言う者の声」(6)「シオンに良い知らせを伝える者」(9)という三重の福音が語られます。

 第一の声は「主の道を整えよ・・」ですが、これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することです。あなたの心には、主をお迎えする道が備えられているでしょうか?自己満足にひたり、心の渇きの声に耳をふさいでいるなら、どんなに福音が分かりやすく語られても理解することはできません

 第二の「呼ばわれ」という者の声は、「人の栄光は・・野の花のように・・枯れ・・しぼむ、だが私たちの神のことばは永遠に立つ(6-8)という永遠の真理を告げるように命じます。「人の栄光」の空しさを覚えると同時に、すべてを支配する創造主は忘れられてはなりません。明日何が起こるかを予想することは、株価予想のように当てになりませんが、この世界が「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)に向かっていることを確信できるなら、自分の労苦が無に帰するように見える中でも堅く立ち続けることができます。

  第三の「良い知らせ」の声は、「見よ。あなたがたの神・・は力をもって来られ、その御腕で統べ治める」(10)という福音を告げます。「主の御腕」は、力強さとともに優しさの象徴とされ、「子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(11)と描かれます。旧約の民は、外国の軍隊を打ち破ることができるような力強い「御腕」ばかりを求めていました。しかし、主がもたらされた「二倍のもの」とは、まさに、主の御前に立つことがとうていできないような者を、あわれみをもって招き、内側から作り変える愛に満ちた「御腕」のことでした。

  私たちも自業自得の苦しみの中で、後悔に囚われることがあるかもしれません。しかし、そこで主の御前にへりくだり、あわれみを求めるとき、ここにあるような三重の慰めの声を聞き、罪の赦しばかりか、その大きさに倍する祝福を受け取ることができるのです。神の懲らしめは、決して、脅しによって私たちを矯正しようとするものではなく、私たちを謙遜にし、神の救いを求めさせようとするあわれみの表れなのです。

2.「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」

  17節では、どんなに強い国々も「主の前では無に等しいと描かれます。当時のユダヤはアッシリヤ帝国とエジプトの狭間でかろうじて生き残っていましたが、「主にとっては」それらの巨大な帝国も「むなしく形もないもの」に見えるというのです。これは、現代のアメリカ合衆国のコンピューターを駆使した大軍事力が、主の目には、太平洋に浮かぶ小島トンガ王国の王宮警備隊にまさりはしないというようなものです。

  「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから告げられなかったのか」(21)とは、人間的な知恵を横に置き、「創世記」の原点に立ち返る勧めです。「地の基がどうしておかれたか」とは、「宇宙のはじまり」に思いを向けることですが、いかなる科学も、それに関して仮説は立てられても、実証することは不可能です。

しばしば、人がアミーバーからの進化の歴史の頂点に立つという大胆な仮説が、科学的事実であるかのように教えられますが、それが事実なら、優秀な遺伝子を持つ者が支配権を握ってより多くの子孫を残す社会システムが正当化されないでしょうか。

しかし、「主は地をおおう天蓋の上に住まわれ」(22)とあるように、全宇宙を超越しておられる方です。創造主の目には、人が知性や美貌で優劣を競い合っている姿は、「いなご」の競争のようなものにすぎません。ですから、主は、「君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされ」(23)るというのです。

今、このとき、イエス・キリストこそが、「王たちの王。主たちの主」(黙示17:14)として全地を支配しておられます。そして、その方はご自身を無力さの象徴の「小羊」として紹介されながら、人が自分の力を誇る姿を笑っておられます。

  「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26)とは、大宇宙に目を向けることの勧めです。神は、すべての星を区別して「一つ一つ、その名をもって、呼ばれる」方ですが、同時に「この方は勢力に満ち、その力は強い」ので、「いなご」に等しい私たち一人一人をも「その名をもって、呼ばれる」というのです。私は何をしても良い結果が出ないと落ち込んでいたとき、このみことばを友人から贈られて深い感動を覚えたことがあります。

  「ヤコブよ。なぜ言うのか・・」(27)とは、「神の民」がこの地であまりにも惨めで、「私の道は主(ヤハウェ)に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」と嘆かざるを得ない現実が目の前にあるからです。

敬虔な信仰者にとっても、肝心のときに神を遠く感じざるをえないというのは、避けがたい現実でもあります。私たちはそんなとき、心が萎え気力を失います。

しかし、私たちの主イエスもそのような神の不在を体験されました。しかし、その主の御苦しみによって全世界の罪が贖われました。まさに主は、「その英知は測り知れない」(28)方です。

ここでイザヤは、「主(ヤハウェ)は永遠の神、地の果てまで創造された方」(28)と、私たちを創造の原点に導き戻しますが、同時に、新約の時代に生きる私たちは、神を遠く感じるたびに、神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったという原点に立ち帰ることができます。その神が、私たちのうちに、聖霊、いのちの息を吹き入れてくださいました。

そして、「主は・・疲れることなく、たゆむことなく」という表現は、「若者も疲れ、たゆみ」(30)と対比されるとともに、主を待ち望む者は「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(31)というクライマックスの表現に結びつきます。つまり、「主を待ち望む者」は、疲れることも、たゆむこともない主に似せられてゆくというのです。

「たゆむ」とは、心がたるんだ弓の糸のようになり、気力が湧かなくなる状態です。それは、私たちの肉体の自然な反応ですが、主は「疲れた者には力を与える」と同時に、心がたゆみ、「精力のない者には活気をつける」ことのできる方です。そのために必要なのは、外からの刺激にただ反応し、時間を惜しむように動き回ることではなく、「主(ヤハウェ)を待ち望む」ことです。

それは、「主(ヤハウェ)の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(詩篇37:7)とあるように、すべての働きを、主のみ前で静まるということから始め、まず何よりも、主からの力を受け、その上で動き出すということです。そうする人こそ、この世においても主の祝福を受けるというのです。

しかも、「新しく力を得る」とは、食べて寝て元気を回復するという生物学的な力ではなく、鷲の翼が生え変わってより高く舞い上がるような、内側からの変化です。これは英語で、Changeではなく、Transformationとして表現される「新しさ」です。それが肉体の現実を超えた変化だからこそ、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」と表現されるのです。

今、「主を待ち望む者」の心のうちに、「主(ヤハウェ)ご自身が入って来てくださいました。パウロはこれを、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いつつ、「自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘している」と告白しました(コロサイ1:27,29)

つまり、私たちのうちには、死に打ち勝った「キリストの力」が働いているのであり、そのキリストこそ私たちにとっての「栄光の望み」であるというのです。私たちは自分を「いなご」のようにちっぽけな存在に感じることがあるかもしれませんが、主は「地をおおう天蓋の上に住んで」おられると同時に私たちの内に住んでおられます。

ですから、私たちは、今、私たちをとらえてくださった天におられる主のみもとに向かって、「鷲のように翼をかって上ることができる」のです。

3.「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」

418-20節では、無力なイスラエルに対する慰めが語られています。8,9節では、神がイスラエルを、「わたしのしもべ」と繰り返し呼びかけています。「しもべ」とは「奴隷」のことですが、そこには、全世界の創造主である方がイスラエルをかけがえのない財産と見て、世の権力者から守るという意思が込められます。

それは神がこれまでひとりのアブラハムからイスラエルという奇跡の民を造り出して下さったという歴史に現されています。その思いを込めて、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(10)と語られます。

今から16年余り前のことですが、あるご高齢の方に洗礼を授けさせていただきました。正直申しまして、イエス・キリストの贖いのみわざをどれだけご理解いただけたか不安でしたが、この10節のみことばを暗誦し、ただこのみことばによって神と出会っている姿に私は圧倒される思いでした。私ははるかに聖書を知っています。しかし、彼はほとんど聖書を知らないようでいて、私などより心の奥底で神と出会っているように感じさせられました。それは彼が人生の苦しみを通して自分の弱さを嫌というほど思い知らされてきたからです。

しかし、人間的な誇りにより頼む人は、「わたしのしもべ」と呼ばれること自体に喜びを感じることができません。そして、「わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る(10)という約束にすがることはできません。また、愚かなプライドに囚われている人は、「恐れるな。虫けらのヤコブ」(14)と言われて気分を害するばかりで、それに続く「わたしはあなたを助ける」ということばに励ましを見出すことはできません。

そして、自分の無力さに絶望している民に、「あなたは主(ヤハウェ)によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る」16節)と語られます。そして、主は渇きに苦しむ者に、わたし、主(ヤハウェ)、彼らに答え・・・裸の丘に川を開き・・・砂漠の地を水の源とする(18)と言いつつ、荒野や荒地を様々な木々で満たすと約束してくださいました(19)。その上で、「主(ヤハウェ)の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るため(20)とまとめられます。

21-24節は、「そうすれば、われわれが、あなたがたが神であることを知ろう」(23)とあるように、偶像の神々に、自分たちが神であることを証明してみよと迫るための議論です。

22節は、(偶像を)持ってこさせ・・告げさせてみよ。後に起こることを。先にあったことは何であったかを告げよ・・・」と訳すこともできますが、それは偶像の神々が何も語ることができないことを皮肉ったものです。

特に、「良いことでも、悪いことでもしてみよ・・・」(23)というのは極めて興味深い表現です。多くの人々が偶像を拝むのは、それが何かの良いことか、わざわいをもたらす力があると信じられているからですが、それらは何もできない「無に等しい」(24)存在に過ぎません。

このような偶像のむなしさの対比として、わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出るところからわたしの名を呼ぶ」(25)と言われます。東で起こされた王は、イスラエルの北から迫ってきますが、その異教の王が主の名を呼ぶというのです。

エズラ記の最初には、このイザヤのときから約百六十年後の事として、「主(ヤハウェ)はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので・・・・『天の神、主(ヤハウェ)は、地のすべての王国をわたしに賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることをゆだねられた』」と記され、第二神殿が、ペルシャ王クロスの命令がなければ立たなかったことを記しています。 

 27節は原文で、「シオンへの最初の事を、見よ、これを見よ」と記されており、これを新共同訳では、「見よ。シオンに初めから告げられていたことはここに実現した」と訳していますが、その方が新改訳よりも意味を伝えていると思われます。

つまり、(ヤハウェ)この世界を支配しておられるということは、イザヤの預言がひとつひとつ成就していることに表されていること、特に、異教の王クロスがエルサレム神殿の再建を命じるという不思議の中に現されています。

「イスラエル人は、昔の時を自分の『前にある』現実として見る・・それはちょうどボートの漕ぎ手のようなもので、未来の方へ背を向けて・・・前に見えるもの(過去)によって方向を取りながら目標に到達する」と言われます。今までの歴史を、またあなたの歩みを、主がどのように導いてくださったかを覚えることによって、未来の方向が決められるのです。日々の決断は私たちの記憶を基礎になされます。その記憶が神の光に照らされる必要があります。

4.彼は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる(衰え行く)燈芯を消すこともない

421-9節は、イザヤが記す四つの「主(ヤハウェ)のしもべの歌」(この他は49:1-9,50:4-952:13-53:12)の最初です。これは当然ながらキリスト預言でありますが、同時に、主のしもべとしてのイスラエルに、また私たちキリスト者に求められる生き方でもあります。そして、何よりも、人としてのイエスご自身がこれらの主のしもべの歌を心の底から味わい、そのみことばを実践されたということを忘れてはなりません。

マタイ12:15-21では、この主のしもべの歌の前半の部分が引用されていますが、そこでイエスが人々をいやしながらも、ご自身のことを知らせないように命じたのは、このみことばを成就するためであったと記されています。

「見よ。わたしのしもべを。―彼をわたしは支えているーわたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者。彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」(1節私訳)のみことばは、イエスがバプテスマを受けたときに、神の御霊が鳩のようにくだり、天から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶという声がしたときに成就しました(マタイ3:16,17)。私たちが御霊を受けてキリストの弟子となるとは、それが私たちへの語りかけになることを意味します。私たちの上に人間イエスを導いたのと同じ御霊が宿ってくださったとは何という驚きでしょう。

「彼は叫ばず・・・」とは、独立革命軍を指導するような者ではないという意味です。傷んだ葦」とは役に立たないものの象徴ですが、主のしもべは、社会の役に立たないと思われる人にもやさしく対応してくださるというのです。また「くすぶる(衰え行く)燈芯」も早く取り替えたほうが良いようなものですが、それさえも大切にして消すことがないというのです。これは現代的に言えば、後期高齢者と呼ばれるような人々への優しさを意味します。

そのことが、「彼はまことをもって公義をもたらす」3節)と記されます。これは、社会的弱者を守るという意味での正義を実現してくださるという意味です。イエスは当時の最下層の人々、取税人や遊女、罪人の友となってくださいました。

「彼は衰えることも、傷つき果てることもない」とは、「主(ヤハウェ)のしもべ」自身が、「傷んだ葦、衰え行く燈芯」と同じように見えながら、そこに驚くほどの強さが秘められていました。

イエスはゲッセマネの園で、「苦しみもだえ・・・汗が血のしずくのように地に落ちる」(ルカ22:44)ような祈りをささげた後、無抵抗で権力者に捕らえられ、不当な裁判でも何の弁明もされずに十字架にかけられました。その姿は、人々の目には弱さでも、そこには自分の身を守る必要を感じないという真の強さがあるのではないでしょうか。

「神である主(ヤハウェ)はこう仰せられる」と述べられた後、その方は、「天を創造し、これを広げ、地と産物を押し広め、その上に住む人々に息を・・霊を授けると説明され、その語りかけとして、わたし、主(ヤハウェ)義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、異邦人の光とすると記されます。ここに(ヤハウェ)ご自身の主導権が強調されています。これは私たちにもそのまま適用されることばです。

「それは、盲人の目を開き、囚人を牢獄から自由にするため、闇の中に住む者を、その獄屋からも」(7節、私訳)と描かれますが、イエスの贖いのみわざは何よりも私たちをサタンの支配から自由にすることにありました。サタンは私たちを盲目にし、この世の成功しか見えなくさえ、死の力によって脅し、私たちの心を束縛します。しかし、イエス・キリストを信じる者の勝利は確定しました。私たちはその恵みを伝えることができます。

「わたしは(ヤハウェ)、それがわたしの名」(8節)とは、この名の由来、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:13)を指すと思われます。それは主が、この世界のすべてのみなもとであり、その栄光も栄誉も、この地上のものによって言い表すことができるようなものではないからです。

そして、先のことは、見よ。すでに起こった」(9)とは、主がアッシリヤを用いて北王国イスラエルを滅ぼし、またバビロン帝国を用いて南王国ユダを滅ぼしたことを指すと思われます。それらはイスラエルの神の無力を示すものではなく、はるか昔に記されたレビ記や申命記の預言が成就したことを意味します。

その上で、「わたしは、新しいことを告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう」と言われます。これはペルシャ帝国を用いてイスラエルの民を約束の地に戻すことであり、また、最終的には、ここに記された主のしもべによって世界を救うことを意味します。

て主は、「わたしは目の見えない者に・・知らない道を歩ませ・・知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする」(16)と約束されました。後に復活のイエスが使徒パウロを召しだされたとき、ご自身の光によって、彼を三日間、盲目としました(使徒9:3-18)

彼は人々に手を引いてもらってダマスコにいた見知らぬイエスの弟子アナニヤのもとに導かれ、そこで目が開かれましたが、このときパウロは自分にこのみことばが成就したことを悟ったのではないでしょうか。

彼は後に、アグリッパ王の前で自分の働きを、「彼ら(ユダヤ人と異邦人)目を開いて暗闇から光にサタンの支配から神に立ち返らせ、・・・彼らに罪の赦しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継がせる(使徒26:18)と紹介しましたが、そのとき彼はこのイザヤ書42章を思い起こしていたのだと思われます。

パウロは自分の目が見えていると思っていたときには神に逆らっていましたが、自分が霊的にも盲目であることを知ったときに、見知らぬ地へと福音を宣べ伝える者とされました。

 私たちは自分の弱さに直面させられる中で初めて、主が私に目を留めてくださったことの恵みが分かります。「地をおおう天蓋の上に住まわれる」主が「いなごのよう」な私たちひとりひとりに「力を与え、活気をつけ」てくださいます。それは何よりも、「わたしはあなたとともにいる・・・わたしがあなたの神だから」とひとりひとりに語りかけることによって起きます。そして、このように私たちが自分の弱さと同時に、主にある強さを体験できるとき、私たちは傲慢になることも自分を卑下することもなく、「あなたを・・国々の光とする」という約束を覚えることができます。

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2008年4月 6日 (日)

イザヤ36-39章「わたしが計画し、今、それを果たした」

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  私たちは自分でコントロールできることとできないこと、「変えられることと変えられないこと」の区別を明確にしているでしょうか。私たちの明日のことは主が支配しておられます。ですから、いつでもどこでも、主の前に静まり、主に向かって祈ることがすべての原点です。一方、私たちは様々な目の前の問題に、ほとんど条件反射的な、肉的な応答をしてしまいがちです。どのような立派な人間でも、とっさに、驚くほどに愚かな間違いを犯すことがあります。直感は、本当に大切です。しかし、一呼吸おいて、それを主の前で吟味することを忘れてはなりません。

 

1.すべては預言の通りに

紀元前723年頃、アッシリヤ帝国は三年間の包囲の後、サマリヤを陥落させ、その住民をハランの東のゴザンからニネベ近郊の町ハラフ、そしてそのまた東のメディヤの地にまで強制移住させました(Ⅱ列王18:10,11)。それから約22年後の紀元前701年だと思われますが、アッシリヤの王セナケリブが「ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った」(36:1)という絶体絶命の危機が迫りました。ヒゼキヤは、「彼はイスラエルの神、(ヤハウェ)に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」(Ⅱ列王記18:5)と評されたほどの人でしたが、このときは残念なことに、一時的に、「私は罪を犯しました」とアッシリヤ王に屈服し、大量の金銀を貢いでしまいました(Ⅱ列王18:14)。それは、パニックに陥ってとっさにこの世の常識の判断に身を任せたからでしょうが、それは途方もない無駄になりました。アッシリヤはそれに満足せずに、エルサレムに迫ってきたからです。先に非難されていたアッシリヤの「裏切り(33:1)とはそれを指していると思われます。

アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍をつけて、そのとき本拠地にしていたラキシュ(エルサレムの西南約50km)からエルサレムに遣わしました。ラブ・シャケがヒゼキヤの使者と会った場所、「布さらしの野への大路にある上の池の水道のそば」(36:2)とは、かつてヒゼキヤの父アハズがその不信仰をイザヤから指摘された場所です(7:3)。それはまたヒゼキヤが地下水路を掘った入り口でもあります(22:11、Ⅱ歴代誌32:2-4)。そして、ここに登場するヒゼキヤの使者のことに関しては、既に2215,20節に述べられていました。ラブ・シャケは、エジプトに頼ろうとしているヒゼキヤをあざけって(36:6-10)「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか・・・だれに拠り頼んで私に反逆するのか・・・」と問いつつ、エジプトを「あのいたんだ葦の杖と呼びました。そればかりか、「われわれの神、主(ヤハウェ)に拠り頼む」というヒゼキヤのことばを引用しつつ、「今、私がこの国に上って来たのは・・・(ヤハウェ)が私に、『この国に攻め上って、これを滅ぼせ』と言われたのだ」という不思議なことを述べます。ここまではまさに、主ご自身が語っておられることと矛盾はしません。イザヤはかつて、自分が告げる明確なことばをあざける者に対して、主は「もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる」と言いましたが(28:9-11)、それが部分的に成就したと言えましょう。イザヤが警告していたことと同じことを外国人の口を通して語られたからです。これを聞いたヒゼキヤの使者たちがあわてたのも無理がありません。あなたも聖書が言っているのと同じ意味のことばを未信者の隣人から聞くことがあるかもしれません。それは神があなたを恥じ入らせようとしているのではないでしょうか。

ところで、このときラブ・シャケは城壁の上にいる民が理解できるユダのことばで話しましたが、ヒゼキヤの使者はアラム語での対話を望みます。それに対し、彼はなおも、城壁の上にいる民に聞かせようと、「ヒゼキヤにごまかされるな」と言いながら、「主(ヤハウェ)は必ずわれわれを救い出してくださる・・・」というヒゼキヤのことばを信じてはならないと、全面降伏と他国への強制移住を受け入れるように迫りました(36:1617)。そして、今度はアッシリヤ王のことばとして、「国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主(ヤハウェ)がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか」(36:20)と、(ヤハウェ)を侮りました。

これも主があらかじめ言っておられたとおりです。主は、「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖・・わたしの憤りのむち・・・しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうとは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと・・・」(10:5,7)と言っておられました。彼らがイザヤのことばを借用したのは、エルサレムに内部分裂を起こさせるためでした。しかし、彼ら自身は、イスラエルの神、主を恐れる気持ちはまったくありません。それに対し、「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する」(10:12)とも告げられていました。それが成就する様子が次に描かれます。

イザヤ書36-39章は不思議な位置を占めています。詩文で書かれた預言の中に、突然、散文による歴史的な事実の記述がはさまっているからです。その目的は何よりも、主のことばが文字通り成就していることを示すことによって、世界の終わりに関する預言も必ず成就するということを保障するものです。私たちは自分の人生を手の中に把握していたいと思います。しかし、それは不可能であり、その期待を持ち続ける人は、過去の後悔と未来の不安で心が一杯になります。私たちの主はすべてを支配しておられます。その方に信頼すれば十分なのです。

2.ヒゼキヤの祈り

「ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、(ヤハウェ)の宮に入った(37:1)のですが、自分を恥じているのかパニックに陥ったのか、イザヤへの使いに託したことばに矛盾が見られます。彼は自分の無力さを、「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないのです」(37:3)と表現しますが、産み出すのは最初から主のみわざであるはずです。彼は自分の力で難局を乗り切ろうとしていたかのようです。またイザヤに、おそらくあなたの神、主(ヤハウェ)、ラブ・シャケのことばを聞かれたでしょう」(37:4)と言いながら、「まだいる残りの者のため、祈りをささげてください」と願いますが、「おそらく」という表現に若干の疑いが、「あなたの神」という表現に、神との微妙な距離感が表されています。これに対し、イザヤはそれに応じて祈ることも、また主のみこころを求めることもなく、すぐに主のみことばを伝えます。それは、ヒゼキヤの嘆願を聞く前から、すべてのことがイザヤに知らされていたからです。これは、主の目には、意外な展開など何もないということを意味します。

そして、主は、「あのことばを恐れるな。今、わたしは彼(アッシリヤ王)のうちにひとつの霊を入れる。彼はあるうわさを聞いて、自分の国に引き上げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す(37:7)という不思議な計画を告げられます。主は、戦う前にアッシリヤの王の心を動かすばかりか、彼がもっとも安全と思う場所で、彼の命を奪うというのです。ところで、その少し後のことだと思われますが、「ラブ・シャケは退いて、リブナ(ラキシュの約16km)を攻めていたアッシリヤの王と落ち合った」とあります(37:8)。それは当時のエジプトの支配者クシュの王ティルハカが迫ってきたという噂を聞いたからでした。それで、アッシリヤの王は、今度は手紙をもってヒゼキヤ王に、「おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな・・・」(37:10)と脅します。そこにはアッシリヤの王の焦りが見られます。

ところがこのときのヒゼキヤは、エジプトの出陣の可能性に望みを置く代わりに、その手紙を主(ヤハウェ)の宮に持って行き、「主(ヤハウェ)の前に広げ」(37:14)、自分自身のことばで主に向かって祈ります。これは先に、「自分の衣を裂き、荒布を身にまとい」ながらも、イザヤに祈ることを願ったのとは対照的に神に向かって大胆になっています。そこで彼は、「主(ヤハウェ)よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土を廃墟としたことは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石に過ぎなかったので滅ぼすことができたのです。私たちの神、主(ヤハウェ)よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主(ヤハウェ)よ、あなただけが神であることを知りましょう(37:18-20)と訴えました。イザヤに向かって「あなたの神、主(ヤハウェ)・・」と控え目に言っていた王が、民の代表として、「私たちの神」と語りかけています。

これこそ私たちが危機に陥ったときになすべき祈りでしょう。それに対し、主は預言者イザヤを通して、アッシリヤ王へのことばを告げます。その中心は、セナケリブが主(ヤハウェ)をののしったことばが、そのまま彼の上に降りかかるということです。アッシリヤは自分の勝利を誇っていますが、それは主ご自身が起こしたものだというのです。「あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしかことを」(37:26)とは、アッシリヤのイスラエル攻撃を動かしているのは、主ご自身であるということです。実際、レビ記26章や申命記28章には、主ご自身がイスラエルの不信仰をさばくために異教の国々を用いると警告されていました。イスラエルの敗北は、イスラエルの神、主(ヤハウェ)が無力なしるしではなく、主(ヤハウェ)が全世界を治めているしるしなのです。そして、その結論として、「あなたが座るのも、出てゆくのも、入るのもわたしは知っている・・・あなたの高ぶりがわたしの耳に届いたので・・あなたをもと来た道に引き戻そう」(37:28,29)と告げます。

そして、イザヤは、今度はヒゼキヤに対するしるしとして、「ことしは、落穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は種を蒔いて刈り入れ」(37:30)と五十年に一度のヨベルの年におきることを約束します(参照レビ25:21,22)。つまり、たといアッシリヤの占領によって種を蒔くことができなくても主に信頼するなら飢えることはないということです。敵に包囲されたとしても、飢えの心配がなければ持ちこたえることができるからです。その上で、後の日の繁栄のことが、「ユダの家ののがれて残った者は、下に根を張り、上に実を結ぶ」と預言され、そのことを、「万軍の主(ヤハウェ)の熱心がこれをする」と断言されます(37:31,32)。つまり、神の民は一時的に苦しむことがあっても、主が必ず救い出し、繁栄に導いてくださるというのです。これこそイザヤ書の中心テーマです。そして、主は最後に、「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために」37:35)と言われます。それは、主(ヤハウェ)がダビデ王国を守られるのは、何よりもダビデとの契約のゆえであるという意味です。それこそ神の愛の真実(ヘセッド)です。主の真実こそが私たちの砦なのです。

そして、その後、(ヤハウェ)の使いが来て、アッシリヤの陣営で十八万五千人を打ち殺した」という不思議なことが起こりました。そればかりか、「アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、ニネベに住んだ。彼がその神ニスロク・の宮で拝んでいたとき、その子は剣で彼を打ち殺し・・・」と、セナケリブが暗殺されることになったのです(紀元前681)。つまり、ヒゼキヤが軍を動かす間もなく、主はかつて予告していた通りのことをされました(37:7)。  

これらの経緯はⅡ列王記18,19章にもほぼ同じように記録され、Ⅱ歴代誌32章でも簡潔に記されます。同じことが三度も繰り返されるのは極めて異例で、これは主が紅海を分けてイスラエルの民を救い出したことにも匹敵します。それは詩篇46篇で歌われている通りの救いです。この詩はその約百五十年前のものと思われますが、ヒゼキヤはこれを聖歌隊に、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、すぐそこにある助け・・・」と歌わせたのではないでしょうか。すると文字通り、「神は、夜明け前に、これを助けられる・・・主は地上に驚異を置かれた。主は地の果てまで戦いをやめさせ、弓を折り、槍を砕き、戦車を焼かれた」ということが実現しました。この詩篇では、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(10)と、右往左往するのをやめて、主の前に静まることを訴えています。ヒゼキヤは、一度はパニックに陥ってアッシリヤに貢物を納め、彼らをなだめようとしたことを反省したことでしょう。

私たちは困難に陥ったとき、すぐに、「今、右に進むべきか、左に進むべきか」と地上的な知恵を求めます。しかし、もっとも大切なことは、「私たちの神、主(ヤハウェ)よ。救ってください」と祈ることです。そのことをイザヤは、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(30:15)と語っています。残念ながら、多くの信仰者が、「私はみこころがわからない・・・」と嘆きながら、時間と財を主に聖別するという、今明らかなみこころに従おうとはしていません。しかも、主の救いは、しばしば、人の思いもつかない奇想天外な方法でもたらされます。あなたも自分の歩みを振り返るとき、そのようなことがあったのではないでしょうか。

3.「あなたは私をまったく捨てておかれます・・・私の保証人となってください」

「その頃、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた」(38:1)とは、時間的には36章の前のできごとだと思われます。彼が、バビロンの使者に宝物倉の豊かさを見せることができたのは、アッシリヤに貢物を差し出す前のはずであり、種々の王の名前との関連からもヒゼキヤの死は紀元前687年頃であると推測されるからです。つまり、それまでヒゼキヤは、国の中からあらゆる偶像を取り除き、民をイスラエルの神、主(ヤハウェ)に立ち返らせるというすばらしい働きをしたにも関わらず、今、目の前にアッシリヤの脅威が迫り、国が滅びそうだという現実に心を弱らせていたのだと思われます。彼の病には多分に、ストレスが原因となっていたのではないでしょうか。そのような中で、預言者イザヤは、「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない』」と伝えに来ました(38:1)。これほどの不条理があるでしょうか。そのとき彼が、自分は熱心に主に仕えてきたと訴えつつ、大声で泣いた」(38:3)のは当然です。しかし、このとき、主が再びイザヤを通して、「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす・・・あなたの寿命にもう十五年を加えよう」とご自身のみこころを変えてくださいました(38:5)。それと同時に、「わたしはアッシリヤ王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る」(38:6)と約束してくださいました。このことが37章にあった主の不思議な救いとして実現したのです。

  その上で、主は彼にひとつのしるしを与えます。それは日時計の影を十度あとに戻すという不思議なことでした。これは地球を逆回転させるということではなく、影だけを戻すということで、光の創造主である方には、容易なことでしょう。全宇宙の創造主に難しすぎることなどないということを覚えたいと思います。実は、神にとって影を戻すことよりはるかに難しいのは、人の心を変えるということかもしれません。しかも、ここで主が、「わたしはアハズの日時計におりた日時計の影を、十度あとに戻す」38:8)と言われたことには大きな意味があります。アハズはヒゼキヤの父でしたが、ユダの王では最悪の王のひとりで、あらゆる偶像礼拝を持ち込み、エルサレム神殿を汚すことを行ったからです。本来ならそれによってユダ王国は神のさばきを受けてしかるべきでしたが、神がご自身のあわれみによってその時代をもとに戻してくださるという意味が込められているように思われます。

  そして、ヒゼキヤは病気からの回復後ひとつの歌を記します。彼は、「私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は残りの年を失ってしまった」(38:10)と言いつつ、その現実を、「あなたは昼も夜も私を全く捨てておかれます」と二回にわたって主に訴えます(38:12,13)。つまり、自分を生涯の半ばで病にし、死に追いやるのは、主のみわざであると言っているのです。ところが、それでもあきらめることなく「私の目は、上を仰いで衰えました。主よ、私はしいたげられています」と重ねて訴えながら、同時に、「私の保証人となってください」と嘆願しています(38:14)。彼は、まるで運命と戦っているかのようです。ある人が、「主のさばきから逃れる唯一の道は、主のふところに飛び込むことである」と言いましたが、彼はそれを実践しています。そして、彼は、「私を健やかにし、生かしてください」と願い、その直後に、「あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました・・・主(ヤハウェ)は私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主(ヤハウェ)の宮で琴をかなでよう」(38:17,20)と告白します。

  ところで、3821,22節の記述は不思議です。これは時間的には、38章の6節と7節の間に入るべきことだからです。しかし、イザヤはこのことを39章のヒゼキヤの愚かさとつなげようと、この部分を彼の歌の後にしるしたのだと思われます。ここでイザヤはいやされる方法を示しました。ところがヒゼキヤはそれをすなおに実行する前に、「しるし」を求めました。そればかりか、39章によると、彼はアッシリヤの向こうにあるバビロンの使者を迎えたとき、大喜びで自分の家と宝物倉にあるものすべてを見せてしまいます。それはアッシリヤに対抗するためバビロンとの友好関係を築くことの証しです。しかし、これは東京の暴力団に対抗するため広域暴力団との関係を結ぶことと同じです。イザヤはそのような彼の姿勢を批判して、「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日までたくわえてきたものがすべて、バビロンに運び去られる日が来ている・・・」(39:6)と警告します。しかし、ヒゼキヤはそれを真剣に受け止めず、自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか・・」(39:8)と思ってしまいます。つまり、ヒゼキヤはすばらしい祈りをささげている一方で、対話においては極めて愚かな反応をするのです。ほとんど無意識的な条件反射といえましょう。これは私たちが受け継いでいる肉の弱さに由来するものと言えましょう。

 信仰によって巨大帝国アッシリヤと戦ったヒゼキヤでさえ、世界の見方がこれほど近視眼的になるのは驚きです。それこそが多くの人の現実ではないでしょうか。たとえば、地球温暖化の危機が叫ばれていても、多くの人々には、「自分が生きている間、平和で安全であれば・・・」と子孫たちへの配慮が欠けています。しかし、そのような無責任、無関心こそが、罪の本質ではないでしょうか。イザヤはダビデ以降の最高の王でしたが、そこにも驚くべき弱さが見られました。それでイザヤ書40章以降は、神が理想的な王を立ててくださるという預言が記されます。

 マルティン・ルターは宗教改革に着手して十年後、精神的にも肉体的にも瀕死の状態に陥りました。その中で彼の何よりの慰めとなったのが詩篇46篇で、彼はそれをもとに「神はわが砦」という賛美歌を作りました。その二番目の歌詞は、「私たちの力によっては何もできない。このままでは私たちは敗北するしかない。私たちに代わって戦ってくださる方がおられる。その方は神ご自身が選んでくださった方。それはだれか。その方の名は、イエス・キリスト、万軍の主・・・」と歌われます。J.S.Bachはそれをもとにカンターターを記しましたが、ソプラノで「私たちは敗北するしかない・・・」と歌う中で、力強いバスの声で、「すべて神によって選ばれた者は、勝利者として選ばれている」と繰り返し歌われます。私たちは逃げるのでも巻き込まれるのでもなく、主に祈る中で勝利する者なのです。

ヒゼキヤは理想的な王ではありましたが、人間としての弱さを抱えていました。しかし、私たちのためにはイエス・キリストご自身が戦ってくださいます。主は私たちのうちにご自身の御霊をお送りくださり、全能の主への祈りを生み出してくださいます。私たちの心を守り、私たちの祈りを父なる神に向かってとりなしてくださいます。つまり、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)のです。私たちもヒゼキヤのような失敗と成功を繰り返しますが、いつでも、すべてを働かせて益としてくださる方に信頼して、希望を持つことができます。

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