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2008年5月25日 (日)

イザヤ47-49章 「このわたしはあなたを忘れない」

  多くの人の愛唱聖句に、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」というのがあります。この聖句が出てくる背景を話しながら、あらためて、神との対話、神の語りかけを聞きながら生きるという意味を考えました。
 少し前に流行った曲に、「世界にひとつだけの花・・・ナンバーワンではなくオンリーワン」というのがありますが、ほんとうにそれはそのとおりなのですが、これを自分で言い張ることの危険もわきまえる必要があります。
私たちは、それを神からの語りかけとして聞く必要があります。そのときに、そこには常に、「使命」が伴っています。
 使命感を忘れたオンリーワンはナルシズムにつながります。人に真の意味での関心を持つことができないというナルシズムは愛の交わりにとっての毒です。ただし、「それは私の問題ではなく、あの人の問題だ・・・」と思う方こそ、特に注意が必要かもしれません。この問題が自分の中にあると自覚している人を、神様はあわれんでくださり、新しい交わりを築かせてくださいます。                                                  

 人には、「私だけは特別だ・・」と思っていたい、またそのように思われたいという願望があります。しかし、その欲求に身を任し始めると、際限のない「心の渇き」が生まれます。それは依存症の罠であり、それを背後で操っているのがサタンです。ところがあなたは、どんなに自己中心的な人間だとしても、何かに夢中になることによって、自分を忘れるときがあるのではないでしょうか。イザヤの壮大な預言には、そのような力があります。そこには世界の始まりから終わりにいたる神のご計画が記されています。

イエスもそこにご自分に対する神の語りかけが記されていることを発見し、感動したのではないでしょうか。そして、私たちも同じです。創造主ご自身が、「このわたしはあなたを忘れない」と語ってくださることを味わう結果として、自分を忘れることができます。私は自意識過剰になる自分を恥じて、それから解放されたいと思っていましたが、そのように願えば願うほど、かえって自意識過剰になりました。しかし、「わたしはあなたを忘れない」という神の語りかけを聞くたびに、この空回りから自由になることができる気がしています。

詩篇407節に、「巻き物の書(聖書)に私のことが書いてあります」とありますが、私は聖書に私個人の失敗や挫折、そして希望、私に対する神のご期待が書いてあることが分かり、本当に気持ちが楽になりました。それと同時に、何度失敗しても、神との対話のうちにやり直す勇気と力をいただくことができています。

1.「『私だけは特別だ・・・』と言う者よ・・・わざわいがあなたを見舞う」

47章には、これからイスラエルを滅ぼすバビロン帝国の傲慢に対するさばきが記されています。神ご自身がイスラエルの民をさばくためにバビロンをご自身の道具として用いられたのですが、バビロンは自分の力を誇って、自分こそ世界の中心であるとおごり高ぶりました。

それに対して主は、「だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ・・・』と言う者よ」(8)と呼びかけられます。「私だけは特別だ」とは、新改訳の脚注にあるように「私だけで、ほかにはいない」というのが直訳です。これは455,6,18,21節で繰り返された「わたしが主(ヤハウェ)である。ほかにはいない」という神ご自身の宣言を、人間に過ぎない者が自分に当てはめ、自分を神の立場に置くことばです。それは1412-15節に記されたバビロンの王に対するさばき(サタンのことを示唆しているとしばしば解釈される箇所)に通じる表現です。ところが、このように自分を誇るバビロンの女が「子を失うことと、やもめになること」の二つの悲劇を一日のうちに体験するというのです。

10節に「あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はいない』と言う」とありますが、これは9節の呪術を行い、呪文を唱えながら、他の人の気持ちなどをまったく無視して、自分の願望をかなえることばかりを追求する態度です。「あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた」とは、有能さが仇になるということです。「だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ』」とは、先の8節と同じ表現で、自分を神とする宣言です。それに対して、「わざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることはできない」(11)とあるように、彼らは自分の無知と無能を思い知らされることになります。

12節は、「さあ、立ち上がれ・・呪文や・・呪術を使って」という皮肉から始まります。続く、「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている」とは、多神教に対する最高の皮肉です。多くの神々を持つことと、自分を神とすることは相反するようで、同じことです。それは、自分を世界の中心において、自分に都合の良い教えだけを集め、自分の中で統合しようとする試みです。この世界はそのような勧めで満ちています。あなたの周りにも、「あの先生はこう言ってるけれど、この先生はこのように言っていた」などと、情報を知っていても、「では、あなたは自分が何をすべきと思うのか・・」と聞くと、答えられない・・という人がいるのではないでしょうか。

私たちに本当に必要な知識は、たった二つだけであると言われます。それは、「創造主を知ることと、自分を知ること」です。その二つが聖書に記されています。私が今取り組んでいること、それは、聖書を通して読みながら、そこにおいて自分の人生をとらえなおすという試みです。いろんな先生が書いた断片的な知識の書は次から次と出てきては消えてゆきます。しかし、聖書全体を通して読むための手引きは何と少ないことでしょうか。

「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている」というのは、いろんな有名な先生の話を聞きながら、聖書を通読もせず、今、自分が何をすべきかを答えることができない多くのキリスト者の姿であるかもしれません。聖霊がみことばを通してあなたにパーソナルに語ってくださったという原点を忘れてはなりません。

そして、続けて、「さあ、あなたを救わせてみよ。天を観測する者、星を見る者・・・に」(13)と言われます。それは、この世の知者や哲学者に、あなたを救わせてみよ・・・という訴えでもあります。そして、「彼らは・・・自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない」(14)と言われます。なぜなら、神の審判の炎は、身を暖める暖炉の火のようなものではないからです。

本当の知者とは、自分の無力さと愚かさを知っている人、イエス・キリスト以外に私たちを救うことができないということを知っている人、また、あなたにイエスご自身を指し示してくれる人です。いろんな助言者がいますが、神が遣わされる真の助言者とは御霊の働きを知る人です。それは、イエスがあなた個人の人生に表れてくださったことに気づくことを助け、あなたとイエスとの固有の出会いを深めることを助けてくれる人ではないでしょうか。

2.「わたしに聞け・・・わたしがそれだ(I am He)・・・わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」

48章ではイスラエルの歴史が、主(ヤハウェ)の御手の中で進んでいると記されます。特にイザヤの活躍したダビデ王国の没落の過程では、ユダ王国の民は、アッシリヤ、バビロンやエジプトのような大国のご機嫌を取りながら、それらの大国の偶像にも敬意を払うようなことをしていました。バビロンの支配が広がるとバビロンの神が、ペルシャ帝国が支配権を持つと、ペルシャの神があがめられるというのは当時の世界の常識でした。しかし、これらすべての出来事の流れが既にモーセ五書に記されていることであることがわかるなら、イスラエルの民は、バビロンの没落からペルシャ帝国の繁栄にいたる過程の中でも、イスラエルの神、主(ヤハウェ)により頼むことができます。

「わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう」(6)とは、ペルシャの王クロスによってもたらされる救いのことです。申命記304節などには、「たとい、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主(ヤハウェ)は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す」と記されています。それにしても、主がペルシャ帝国の王を動かすことによって、予め預言されたご自身の計画を成し遂げられるなどとは、誰も予想もできないことでした。そのような預言が意味あることばとしてイスラエルの耳に届くのは、彼らがエルサレムの滅亡を外国の偶像の神の勝利ではなく、イスラエルの神によるさばきであるということが理解できてからです。

それらのことを前提に、主は、「ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった」(8)と語っています。彼らはモーセを通して明確に語られた警告を軽蔑したため、このような悲劇に会ってしまいます。ただそれは主にとって想定外のことではありませんでした。そのことが、「わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれることを知っていたからだ」と言われます。たとえば、何かの失敗をしたとき、「私としたことが・・・」とか、「やはりあの人は・・」などと失望しますが、私たちの反抗は神にとって意外なものではなく、それによって神のご計画が無に帰することはありません。残念ながら人は、どのようにすばらしい教えを受け、恵みを体験し続けていても、自分自身で痛い目に会うまで、自分の生き方を変えようとは思いません。それで神は、人が自分で破滅を選び取っているという現実を予め知らせることで、人が神に立ち返ることができるようにされたのです。

しかも、神は、ご自身の栄光を目に見えるイスラエルという民を通して現そうとしておられたので、「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために・・あなたを断ち滅ぼさなかった」(9)と言われます。彼らを滅ぼすことは、世界の人々の目にはイスラエルの神の敗北にしか見えないからです。そして、「わたしは悩みの炉であなたを試みた。わたしのために、わたしのためにこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者に与えはしない」(10,11)と記されますが、神はイスラエルが苦難を通して神に立ち返ること、それによって神の栄光が全世界であがめられることを願っておられたのです。

神の救いのご計画は、私たち自身のしあわせというより、神ご自身の栄光のためにあるということは、なかなか理解しにくいことです。しかし、それこそ、私たちが自分自身から自由にされる道、神の平和が世界に広がる道なのです。神が私たちを救ってくださる理由が、私たちの応答の姿勢にあるとしたら、繰り返し神を失望させる者に望みはありません。しかし、神が、私たちの状況に無関係に、ご自身の理由で私たちを守りとおしてくださるなら、希望を持つことができます。

「わたしに聞け・・わたしはそれだ(I am He。わたしは初めであり、また終わりである」(12)とは、4310節、446節を合わせたみことばで、主(ヤハウェ)こそが歴史の支配者であることを改めて強調する表現です。そして、「主(ヤハウェ)に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンに仕向ける・・・」(14)とは、主がペルシャ王クロスを用いてバビロンを滅ぼすことを意味します。「わたしに近づいて、これを聞け(16)とは、イザヤの預言を聞く者すべて、つまり、私たちへの語りかけです。そして、「今、神である主(主であるヤハウェ)は私を、その御霊とともに遣わされた」とは私たちのなすべき応答です。そして今、イエスを主と告白する人のうちに神の御霊が宿っています。

そして17-19節は、私たちがそのまま暗誦すべき神の語りかけです。その初めは、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」と記され、十のことばの初めのことばと同じで、天地万物の創造主があなたにとってのパーソナルな神となってくださったことを意味します。「わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」とは、私たちが右か左の選択に悩むときに、どちらが良いかが示されるというよりは、日々の生活において何を優先するかという問いです。そして、「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえするならば・・」とありますが、それは、何かの具体的な義務を果たすというより、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛する」(申命記6:5)という心のあり方を指しています。それは戒律で自分を窮屈にするということではなく、それぞれの自由にゆだねられた極めて創造的な、いのちの喜びが満ち溢れるような生き方です。そして、そのことが、「あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに・・・」と約束されています。

その上で、「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ・・」(20節)は、神がクロスを通してイスラエルをバビロン帝国のくびきから解放することに対して、喜びをもって応答するようにとの勧めです。聖書が示す第一の救いは、出エジプトのできごとです。そして、バビロン帝国からの解放は第二の出エジプトです。第一の出エジプトのときは、彼らはモーセに率いられ、まとまって約束の地に向かいましたが、この第二のこと、出バビロンはそれぞれの自主的な判断に任されていました。

「住めば都」と言われるように、彼らはバビロンにおいて生活の基盤を作っていましたし、ペルシャ帝国による少数民族保護政策によってかなりの自由が与えられたからです。彼らの居住地はアブラハムの出身地にウルに極めて近い所です。主は、アブラハムに語りかけたように、イスラエルの残りの民に向かって約束の地に向かって旅をすることを勧めています。そして、第一の出エジプトのときに、神が渇いた地において岩から水をほとばしり出させたように、神は約束の地への旅を祝福してくださるというのです。そして、最後に、「『悪者には平安(シャローム)がない』と主(ヤハウェ)は仰せられる」(22)と記されますが、これは、48章全体のまとめのことばと言えましょう。私たちは主の友と呼ばれたアブラハムの原点に立ち返るように常に召されているのです。

3.「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」

491-6節は、421-9節に続く、第二の「主(ヤハウェ)のしもべの歌」です。この書き出しは、原文で、「聞きなさい、島々よ。私に。耳を傾けなさい、遠い国々の民よ」となっています。全世界に向かって、「私に聞け・・」という書き出しは極めて異例です。しかし、それは、「主(ヤハウェ)は、生まれる前から私を召し・・・私の口を鋭い剣・・とぎすました矢として・・私を隠した」とあるように、世の人々が決して耳を傾けたいと思わないメッセージを取り次ぐという嫌な仕事への召しと表裏一体となっています。そして、主はこの人をイスラエルの代表と見た上で、「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちにわたしの栄光を現す」(3)と語りかけます。

しかし、それに対して、彼は、「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした」(4節)と、主の語りかけを真実と思うことができない自分の気持ちを正直に表現します。それは、人々が待ち望んだダビデ王国の復興とは程遠い状況しか目の前に見ることができないからです。これは、イエスが十字架上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことばに通じます。

ただ、その直後に、「それでも、私の正しい訴えは、主(ヤハウェ)とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある」と、主への信頼を告白します。主に向かって自分の正直な気持ちを告白した直後に、主への信頼のことばが発せられるというのは詩篇の祈りの基本的なパターンです。そこに理性を超えた神の御霊の働きが見られます。

「今、主(ヤハウェ)は仰せられる」とは、この「私」という「主のしもべ」に託されたメッセージです。それはモーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したように、主は彼を用いて地の果てに散らされたイスラエルを「ご自分のもとに帰らせ・・ご自分のもとに集める」(5)ということです。なお、ここでは約束の地に戻すということよりも、主のもとに立ち返らせるという真の信仰の回復がテーマとされています。そして、この働きを全うすることができるために、「私は主(ヤハウェ)に尊ばれ、私の神は私の力となられた」(5)というのです。

そして、その働きは、「イスラエルのとどめられている者たちを帰らせる(立ち返らせる)ことにとどまらず、「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てまでもわたしの救いをもたらすものとする」(6)という世界全体を主(ヤハウェ)のもとに立ち返らせることにまで及ぶというのです。イエスご自身が、「ここに私の使命が記されている・・」と確信して十字架への道を歩まれたと言えましょう。

イスラエルの民は、世界の光になるように召されながら、それに失敗しました。それで主は、ひとりの「しもべ」を立たせ、彼をイスラエルの代表者とし、彼のうちにご自身の栄光を現したばかりか(3)、彼によってイスラエルの残りの民をご自身のもとに回復し、そして、彼を用いて、世界をご自身のもとに回復させるというのです。

この第二の「主のしもべの歌」は、その最初と最後に、世界のことが記され、このしもべをイスラエルの代表者としている点で、これほど力強いキリスト預言はないと言えましょう。私たちはイエスが、イスラエルの王であるとともに世界全体の救い主であることを告白していますが、そのことがここに記されています。イエスご自身がこの歌の不思議を何度も味わいながら、ご自身に対する主のみこころを確信したのではないでしょうか。

13節の、「天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ・・」という呼びかけは、「主(ヤハウェ)がご自分の民を慰め・・・あわれまれる」というイスラエルの救いをもとに、全被造物が主を賛美する様子を描いています。しかし、現実に「シオン」と呼ばれるエルサレムの置かれる現実は、「主(ヤハウェ)は私を見捨てた。主は私を忘れた」と言わざるを得ないような絶望的な状況です(14)。そのような中で、主はイスラエルに対するご自身の思いを、「女が自分の乳飲み子を忘れようか・・・」と言いながら、さらに、「たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」と表現します。ここでは「このわたしは・・」と神の断固とした意思が強調されています。飢饉でパニックに陥った女が自分の子を忘れるようなことさえありますが、神の愛は母親の愛にまさるというのです(15)

そればかりか、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」と記されます(16)。文語訳は、「われ掌(たなごころ)になんぢを彫刻(きざ)めり」です。それは恋人の名を手のひらに刻むように、主が私たちを恋い慕ってご自身の手のひらにひとりひとりの名を刻んでくださるということです。

そして、「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」とは、目に見えるエルサレムの城壁が崩れ去っている中で、なお神ご自身が目に見えない私たちの城壁となっておられることをあらわしています。

その上で、1718節では、「あなたを滅ぼし、あなたを廃墟とした者は、あなたのところから出て行く」という敵の退散と対照的に、「あなたの子どもたちは急いでくる・・・彼らはみな集まって、あなたのところに来る・・あなたは必ず、彼らを飾り物として身につけ・・・」と、主の祝福の様子が、散らされていた家族が集められ、家族が爆発的に増加することとして表現されます。その結果、新しい時代に生まれた子らが、「この場所は、私たちには狭すぎる」というほど家族が増えるというのです(20)。そして、「私は子に死なれた女、うまずめ、亡命のさすらい人であったのに・・・」(21)と過去の苦しみを振り返りながら、主の祝福の大きさを喜ぶようになります。

そして、「主であるヤハウェ」が、「わたしの旗を国々の民に向かって揚げる」と言われると、国々の民はイスラエルの息子や娘たちをふところに抱いたり肩に負いながら運んでくるというのです。そしてそのとき、「王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたのうばとなる」という地位の逆転が起き、かつての支配者たちが「顔を地につけて・・伏し拝み、あなたの足のちりをなめる」ようになります(23)。そして、この結論として、「あなたはわたしが主(ヤハウェ)であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがないと記されます。多くの人々は、この地で「恥を見る」ようになることを恐れ、みんなから遅れを取ることがないようにと競争しています。しかし、主を待ち望む者は、最終的に勝利者となることが約束されているというのです。

多くの人は、自己嫌悪に陥る中で、「わたしは手のひらにあなたを刻んだ」という親密な愛の語りかけに安らぎを発見します。しかし、「私は特別だ・・」という思いは、サタンのささやきでもあり得るということも決して忘れてはなりません。その分かれ道は、「わたしに聞け」「見よ」と私たちに語りかけてくださる方が、どのような方であるかを知ることです。神の視点から、自分を見る、神の眼差しの中に自分を置くということが大切です。主があなたをユニークに創造してくださったのは、あなたが「人が何と言おうと、そんなの関係ない。私は自分のやりたいようにやるんだ・・・」という居直りを許すためではなく、あなたがあなたに固有な方法で神に仕えることができるためです。使命から離れた自己認識ほど危険なものはありません。あなたの栄光ではなく、主の栄光こそが世界の存在の意味です。そして、主の栄光を第一にして生きている時、自分が主の栄光にとらえられている幸いを体験できます。

Hidenori Takahashi
tachikawa evangelical free church

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2008年5月18日 (日)

イザヤ44:24-46:13 「期待はずれの現実の中に神の救いを見る」

                                              2008518

 大地震やサイクロン被害など、「神がおられるなら、なぜこんなことが・・・」と思える悲惨が次から次と起こっています。しかし不思議に、そのような中にこそ、人の勇気や善意が輝いて見えるということもあるのではないでしょうか。問われているのは、様々な痛みへの対応の仕方です。先日、私は肩を痛めてしまいましたが、運動の専門家から、「身体が歪むことがないように、痛みに耳を傾けながらも、周辺の筋肉を鍛え、新しいバランスを目指すように・・」と助言をいただきました。これは、期待はずれの現実への対処法を示唆する一般原則となりそうに思えました。

1. 「わたしは主(ヤハウェ)、これらすべてを造る者」

イザヤは北王国イスラエルがアッシリヤ帝国に滅ぼされた直後、ユダとエルサレムも国を失う苦しみを通して回復するという希望を告げますが、不思議にもここに、イザヤの死後、約150年たって登場するペルシャ帝国の王の具体的な名が記されます。多くの学者は、これを記したのはイザヤよりずっと後の人物であると言い切りますが、そのような一見合理的な解釈は、この預言を無意味なものにします。しかも、ここには「クロス」という王の名の他は、具体的な救いのプロセスは何も記されていません。後の時代の人なら、もっと別の書き方ができたのではないでしょうか。しかも、現実には、ユダヤ人はエルサレム神殿を失いバビロンに捕囚とされるという絶望を通して神の民として整えられました。それは、彼らが、自分たちを具体的に救ってくれたクロス大王の背後にイスラエルの神、主(ヤハウェ)を認めることができました。それは、イザヤの預言があったからこそ可能になったとはいえないでしょうか。

4424節は、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」という書き出しとともに、「その方は、あなたを贖い、あなたを胎内で形造った」と紹介され、その方のことばが、「わたしは主(ヤハウェ)、わたしはすべてを造った。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただわたしだけで、地を押し広げた」と記されています。そして、4578節それぞれの終わりで、それとほぼ同じ意味をもつことばが、「わたしは主(ヤハウェ)、これらすべてを造る者」「わたしは主(ヤハウェ)、わたしがこれを創造した」と繰り返されます。そのような枠の中で、4428節と451節で、エルサレムとユダを解放し再建する王の名が、「クロス」と紹介されます。それと同時に、主は、「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる」(44:26)と、ご自身が預言者にことばを授け、それをご自身が成就するという原則を強調されます。主ご自身が、ユダの町々の再建、廃墟の復興を導き、帰還を妨げる海()や川々を支配しておられるのです(26,27)。その上で、「クロス」が、第一には、わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる」(44:28)者として紹介されます。なお、「エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う」のは、主である前に、クロス自身であると解釈できます。事実、エズラ記の初めには、エルサレム神殿の再建を、ペルシャの王クロスが主(ヤハウェ)の霊に動かされて命じたということが記されています。

 そして451節では、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。油そそがれた者、クロスに」と記されます。そして、そのクロスについての説明が、「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じないようにする」と描かれます。彼はペルシャの王であり、異教徒であり、偶像礼拝者です。その彼を、主ご自身が世界の王としての任職の油を注ぎ、彼を通して世界を支配するというのです。

そして、2節から7節は、(ヤハウェ)ご自身からクロスへの語りかけのことばです。その第一は、「わたしはあなたの前に進んで・・・」と、クロスの進軍の道を開くということです。そして、第二は、「わたしは・・財宝と・・・宝をあなたに与える」というものです。そうされるのは、「わたしが主(ヤハウェ)、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ」とあるように、主ご自身がクロスの名を呼んで召し出したこと、また主がイスラエルの神であるということを、クロス自身が認識できるようになるためです。つまり、主は、イスラエルを救い出すという目的のために、クロスの名を呼ぶというのです。しかも興味深いことに、「あなたはわたしを知らないが・・」45節で繰り返しながら、「あなたに肩書きを与え・・力を帯びさせる」と言われます。つまり、クロスは、自分が誰によって立てられ、誰によって力を与えられているかをまったく知らないままに主の働きのために用いられているというのです。

たとえば、自分の生涯を振り返るときに、私が主を知る前から、主が私の名を呼び、私を導き、私を通してご自身のみわざを進めておられたと思えるときがあります。つまり、不信仰な者をさえ、主は用いることができるのです。私たちの信仰とは、その事実に気づくということに他なりません。多くの信仰者は、「私は信仰が弱いから、主は私を用いることができないのでは・・・」と自分を卑下しますが、信仰の出発点とは、バプテスマのヨハネが言ったように、「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」ということを信じることです(マタイ3:9)。自分の信仰に頼るのではなく、力を抜いて主の真実にゆだねること、自分を忘れることこそが出発点です。

自分の信仰如何に関わらず、主のみわざが進むということを知るとは、この世界が自分の期待通りには進まないことを受け入れることでもあります。そのことを、主ご自身が、「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主(ヤハウェ)、これらすべてを造る者」(7)と言われます。私たちは、明日の自分に何が起こるかを知らなくても、明日を支配しておられる主ご自身が、この私を高価で尊いものと見てくださるということに信頼することができるので、目の前の「やみ」「わざわい」の中でも、誠実な生き方を全うする勇気を持つことができます。また、これは同時に、私自身がイスラエルのように罪深く、自業自得で苦しみに会っているとしても、主は、クロスのような異教徒を用いてさえ、私たちを救い出すことができるということを信じることでもあります。

「天よ・・・雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義をともに芽生えさせよ。わたしは・・・」(8)とは、主ご自身が、天と地に語りかけて、イスラエルのために救いを、そして正義を実現してくださるということです。私は無力でも、主はこの世界のすべてを導いて、この地に正義と平和を実現してくださいます。ですから私はこの世の様々な不条理にいきり立って、不条理を引き起こす人々に怒りを燃やす必要はありません。

2.「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」

イスラエルの民が期待した「救い」は、ダビデのような王が再び現れ、自由と繁栄を実現してくれることでしたから、主が異教の王を用いてエルサレム神殿を復興するというのは受け入れ難いことです。それは、イスラエルがなおも外国の支配に屈するままに置かれることを意味するからです。しかし、そのような不満は、陶器が陶器師に抗議したり、粘土が形造る者に「何を作るのか」と言い、また、子供が父や母に、「どうして自分を産んだのか・・・」と抗議することと同じく、愚かで無意味な疑問であると説明されます(910節)。私たちも、自分の創造主に対して、「これから起こる事を・・・尋ねようとする」ことも、「命じる」こともできません(11)。ただ、主がすべてのことを支配し、異教の王のクロスを用いて「捕囚の民を解放する(13)という期待はずれの救いを受け入れるしかありません。しかも、そこに何らかの裏取引があるわけもなく、すべては主のみこころのままに進んでいるというのです。

14節では、エジプトやその南のクシュとセバがイスラエルに服従する様子が語られますが、これはイスラエルが北からのアッシリヤやバビロンの攻撃に対して、常に、南のエジプトの力に頼ろうとしていたことの愚かさを指摘する意味があります。彼らはそのときエジプトを自分たちの救い主かのように求めたのですが、エジプトの方から反対に、「神はただあなたのところだけにおられ・・・ほかに神々はいない」と告白するようになるというのです。

その上で、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神(15)という不思議な記述がなされます。エルサレムの再建は、人間の目には、ペルシャの王クロスの働きであって、主の救いとは見られないからです。同じようなことが私たちの日常生活に起きています。主は、ご自身をこの世で起こる様々な出来事の背後に隠しておられます。ですから、人々が「神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのか・・・」と思うのは当然です。そのような中で、人々は偶像礼拝に走りますが、彼らは恥を見ることになります。しかし、この方は、「地を・・・茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方」であり、その方は、「わたしは隠れた所、やみの地の場所で語らなかった。荒地(茫漠の中)で、ヤコブの子らにわたしを尋ね求めよと言わなかった」と記されます(1819)。この中心は、「むなしく(茫漠に)創造せず・・・むなしさ(茫漠)の中に・・尋ね求めよとは言わなかった」と訳すことができます。それは、神が初めに世界を豊かに創造され、人の罪で混乱させられた世界をなおも導き完成してくださるという神の善意を、私たちはみことばの中に見ることができるという意味です。また、「ご自身を隠す神、「隠れた所、やみ・・で語らなかった」という表現によって、ご自身を隠す神は、みことばを通してご自身を現されたという事実がかえって強調されます。「みことばは、あなたのごく身近にある」(申命記30:14)からです。

そして、主は、今、私たち地のすべての者に対して、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」(22)と語りかけておられます。しかも、「すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は・・・『ただ、主(ヤハウェ)にだけ、正義と力がある』と言う」という表現を、パウロは言い換え、「すべてがひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10,11)というキリスト賛歌を記します。それは、イエスこそが、すべての者が仰ぎ見て救われるべき主(ヤハウェ)であるという意味です。

世の人々は、この世的な成功や繁栄の中に、神を見出したいと願います。しかし、そのような人々に対して、主は「ご自身を隠され」ます。それに対し、パウロのキリスト賛歌では、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・自分を卑しくし・・・十字架の死にまでも従う」という中に、神の栄光が現されたと歌われます(ピリピ2:7,8)。パウロの宣教によって生まれたピリピの教会には分裂がありました。それで彼は、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」と言いつつ、キリストの姿に習うように勧め、そこからこの賛歌が生まれました。そして、その書き出しは、「キリストは神の御姿であるので、神のあり方を捨てることができないとは考えず」と訳すべきでしょう。つまり、キリストが神であることは、何よりも、アダムとは逆に、自分を低くする自由があるという中に見られるというのです。たとえば、ハワイのモロカイ島には、今から百三十年余り前、ハンセン氏病の方が隔離されていましたが、そこにダミアン神父がひとりで入り込み、彼らの世話を始めました。彼はやがて自分自身が感染しますが、それによってかえって、この働きに献身する人々が次から次と起こされました。その島を後にアメリカの小説家スティーブンソンがこの島を訪ねたとき、このような詩を残しました。

「ライの惨ましさを一目見れば、愚かな人々は神の存在を否定しよう。

しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう」

つまり、神の栄光は、世界から不条理な病や悲惨がなくなるということよりは、自分の利害を超えて人に尽くすことができるという心に現されるのです。世界が自分にとって都合良く動いて欲しいと願う中から、際限のない自己主張と争いが生まれますが、まわりの状況に左右されない心の平安からは、この地の平和が始まります。

3.「あながたがたしらがになっても、わたしは背負う・・・わたしは背負って、救い出そう」

 46章に記された、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ」とは、バビロン帝国の主神である「ベル(バアル)」とその息子で知恵の神である「ネボ」が、荷車に載せられ、荷台の動きに合わせ、ひざまずいたりかがんでいるように見える様子を皮肉った表現です。これらの偶像は、人を救うどころか、「疲れた獣の重荷となる」ことしかできません。

それと対照的なのが、イスラエルの神、主(ヤハウェ)です。主(ヤハウェ)は、荷物として運ばれるような方ではなく、反対に、ご自分の民を担い(荷物と同じことば)、運んでくださる方です。なお、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ」(3節)とは、バビロン捕囚という苦しみを潜り抜けてきた民を指します。そして、「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ」とは、この苦しみのときを、主ご自身が守り通してくださったという意味です。そして、4節においては五回にわたって「わたし」という代名詞が敢えて用いられ、イスラエルの残りの者を守り通したのが、主ご自身の働きであることが強調されながら、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あながたがたしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」という全能の主の断固な意思に基づく約束が記されています。

多くの人に親しまれている「フットプリント」という詩は、このみことばをもとに作られました。そこで著者は神に「私の人生でいちばんつらく、悲しいとき・・・、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません・・」と訴えましたが、そのとき神は、「わたしの大切な子よ・・・足跡がひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた」と語られたというのです。その神の足跡を、霊の目で見るときに、私たちの人生は変わります。

その上で、主は改めて、「わたしをだれになぞらえて比べるのか・・・」(5節)と、偶像とイスラエルの神、主(ヤハウェ)を比べる者の愚かさを指摘します。当時は、それぞれの国ごとにあがめられている神が違いました。そして、バビロンが中東世界を統一したときにはベルがあがめられ、ペルシャ帝国が支配したときにはアフラ・マズダーがあがめられました。この神は、自動車会社マツダの英語名がmazdaと記される謂われであるとされ、またペルシャ帝国で栄えたゾロアスター教は、現存する世界最古の宗教の一つと呼ばれます。19世紀の哲学者ニーチェはこの教祖の名のドイツ語読みツァラトゥストラを用いて独自の哲学を主張しました。当時の感覚では、イスラエル王国の滅亡は、イスラエルの神、主(ヤハウェ)の敗北ととらえられ、ペルシャ帝国のもとでエルサレム神殿が復興することは、イスラエルの神、主(ヤハウェ)が、アフラ・マズダーのあわれみを受けていると解釈されました。しかし、イスラエルの神の特徴は何よりも、金や銀で目に見える姿に表現してはならないという点にあり、それは主(ヤハウェ)が目に見えるすべての世界の創造主であり、支配者であることの現れでした。「イスラエルの神・・はご自身を隠す神」であるとは、目に見える成功や繁栄ばかりを求めるご利益宗教と対極にある教えです。しばしば新興宗教は絢爛豪華な礼拝堂の魅力によって人を引きつけようとしますが、その本尊は、罪と死の支配から人々を解放することはできません。そのことが、「これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない」(7節)と言われます。今、主は、ご自身を、この貧しい会堂の中というよりは、あなたがたお一人お一人の身体をご自身の住まいとしてくださいました。目に見える姿に描かれることを拒絶された神は、今、あなた自身の生き様を通して、ご自身を表そうとしておられるのではないでしょうか。パウロは私たちを、「キリストの手紙」であると呼びました(Ⅱコリント3:3)。とにかく、ペルシャの王クロスのお情けによって国を復興できたユダヤ人が、ゾロアスター教を初めとする当時の宗教を断固拒絶して、イスラエルの神、主(ヤハウェ)をのみ礼拝する民になったということは人間的には奇跡です。それは、イザヤの預言が、挫折体験を通して初めて、ユダヤ人の残りの民に届いた結果です。

8,9節では、「思い出せ」という命令が繰り返されています。「そむく者らよ。心に思い返せ」とは、神に立ち返ることは、歴史に表された神のみわざを思い起こすことから始まるからです。「遠い大昔の事を思い出せ・・・」とは、アブラハムへの約束がひとつひとつ成就したからです。「わたしは、終わりの事を初めから告げ」とは、創世記の冒頭の「初めに、神が天と地を創造した」という記事に、既に、「新しい天と新しい地」の創造の事が示唆されているからです。そして、このイザヤ書には「終わりの事」が繰り返し明らかにされています。また、「まだなされていない事を昔から告げ」とありますが、これから起こるバビロン捕囚のことは、その六百年前のモーセによって既に預言されていたことでもありました。そして、「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる」(10節)と言われる神のご支配の中で、「東からの猛禽(わし)」としてのクロス王を、「わたしのはかりごと」を行う者として呼ぶというのです。これはたとえば、あなたを助けるために、主は、創価学会の代表者をさえ用いることができるという意味です。パウロはあの皇帝ネロの時代に、「人は、みな上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1)と言いました。神が歴史を支配しておられるとは、神はこの世の政治をも支配しておられるということを意味します。

そして最後に、「わたしに聞け」とイスラエルの民に向かって語られます(12節)。それは外国の王のもとでの平和という屈辱的な現実の中に、目に見えない神のご支配を見るようにとの勧めです。「わたしは勝利を近づける・・わたしの救いは遅れることはながない。わたしは・・イスラエルにわたしの光栄を与える」(13節)とは、神がもたらしてくださる「救い」は、私たちの常識や期待をはるかに超えたものであるということを意味しています。

「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」というみことばは、旧約と新約をつなぐ鍵です。イエスを十字架にかけた人々は、ローマ帝国の支配に不満を覚え、目に見えるダビデ王国の実現を待ち望んでいた人々でした。イエスを支持していたユダヤ人の群集も、イエスが無抵抗にローマ総督のもとに引き出されたこと自体に失望し、それが怒りに代わって、「十字架につけろ!」と大合唱をしました。イエスがダビデの子なら、ローマ帝国からの独立運動を導く勝利者になるはずだと思われたからです。当時の人々が、神は異教徒の国ペルシャ帝国の大王クロスを用いてエルサレムを復興したということを心から理解していたなら、その後、ローマ帝国に逆らう独立戦争を起こしはしなかったでしょうし、ユダヤ人が二千年間の流浪の民になる必要もありませんでした。人の心の中に生まれる理想は、しばしば、絶え間のない争いの原因になります。宗教戦争も、そこから生まれます。私たちも、今、ここで、期待はずれのままの現実に中に、神の救いを見出すことができるなら、この世界にさらなる争いが起きるのを防ぎ、私たちのまわりに神の平和が広がるのを見ることができるのではないでしょうか。

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2008年5月 5日 (月)

イザヤ42章18節~44章23節 「わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったから」

今日の箇所は旧約聖書でもっとも親しまれているところのひとつです。「イスラエル」とか「ヤコブ」という部分を自分の名前に置き換えて読んでみてはいかがでしょう。それこそが、旧約を今の時代の私の文脈から読むということにつながります。聖書の歴史を、あなた自身のパーソナルな人生の文脈で読みことの大切さを思わされています。信仰者としての模範的な「生き方」を教えるのではなく、天地万物の創造主からのかたりかけをパーソナルに聞きながら生きるという生きるというのが、新約時代の恵みです。

  私たちのまわりには、様々な「How to」(どのようにしたらよいか・・・)という情報が満ちています。そして、教会に来られる方も、「生き方」を教えて欲しいという願望があるように思えます。しかし、「他人の成功例を真似できるぐらいだったら世話がない・・・」のではないでしょうか?それどころか、聖書には、神の民の失敗例ばかりが記されていると言っても良いほどです。「このように生きたら・・・このような結果が生まれる・・」というのは、創造主を抜きにしても考えられることです。聖書は、そのような発想に慣れている人に、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(イザヤ40:26)と問いかけます。また、自己嫌悪に陥っている人に向かって、創造主である方は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださいます。私たちのなすべき問いは、「どのように」という以前に、「神はどのようなお方で、私はだれか・・」という、「だれ・・」ではないでしょうか。

1.「だれが、ヤコブを・・・かすめ奪う者に渡したのか」 ― 悲劇を支配しておられる主(ヤハウェ) 

 神は私たち異邦人を「耳の聞こえない者たち」「目の見えない者たち」と呼びながらも、イスラエルに起こった悲劇を、「目をこらして見よ」と勧めています(42:18)。神はアダムの子孫である人間の愚かさイスラエルというサンプルを通して見せようとしておられます。神はイスラエルを「わたしのしもべ」と呼びながらも、彼らが「多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない」と嘆いておられます(42:19,20)。主は、彼らを通してご自身の「みおしえ(トーラー)を広め、これを輝かすことを望まれた」のですが、この民はそれに従うことでみおしえのすばらしさを証しするのとは反対に、「かすめ奪われ、略奪され・・・獄屋に閉じ込められた」のです(42:21,22)。

  これは今で言えば、せっかくクリスチャンホームに生まれ、みことばを聞き続けて来たのに、それが心の底に落ちることがなく、かえって自業自得で苦むばかりで、主のみおしえのすばらしさを証しできないことに似ています。

そして、「だれが、これに耳を傾け・・・注意して聞くだろうか」「だれが、ヤコブを・・イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか」という問いかけがなされます(42:24)。人は原因と結果という観点から歴史を見ることに慣れ、いつも「なぜ?」と尋ねますが、何よりも大切なのは、「だれが?」という問いかけです。イスラエルを苦しめるのはアッシリヤ帝国やバビロン帝国で、悲劇の原因は外交政策の失敗のように見えます。しかし、その背後で、「だれが」これを起こしたのかを、「だれが」聞くのかと問われています。それは主(ヤハウェ)ではないか。この方に、私たちは罪を犯し・・・そのおしえに聞き従わなかった。そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず・・・心に留めなかった」と記されます。ここでは、「主が」これらすべての悲劇を起こしたということ、神の民イスラエルが聞こうとも、心に留めようともしなかったことが強調されています。

 私たちは、この世界に起こる様々なできごとの原因と結果を、客観的な知識として知ることよりも、主(ヤハウェ)こそがすべてを支配しておられるということを、自分のこととしてパーソナルに知ることが求められています。私たちは科学万能の夢から覚めた時代に住んでいます。今、問われているのはパーソナルに、心で悟ることです。

2.「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」― 私たちはどのような存在かー

 43章1節では、「だが、今、主(ヤハウェ)はこう仰せられる。ヤコブよ。この方はあなたを造り出した方。イスラエルよ。この方はあなたを形造った方」と記されます。つまり、主(ヤハウェ)は、全宇宙の創造主である以上に、神の民ひとりひとりの個人的な創造主であるというのです。この方の最初のメッセージは、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」です。これは出エジプトを思い起こさせると同時に後のバビロンからの解放を告げることだと思われます。

そして、神を見失った民に、神の側から、「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの・・わたしは(強調形)あなたとともにいる・・水の中を過ぎる時も・・火の中を歩いても・・・」と慰め、ご自身のことを、「わたしが(強調形)、あなたの神、主(ヤハウェ)、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ」と紹介してくださいました。その上で、具体的な救いの方法を、「わたしは、エジプトをあなたの身代金とし・・・」(3節)と語りました。イスラエルは、目前に迫る北の国々の脅威に対し、南のエジプトの力を借りて対抗することばかり考えましたが、神は、その頼りのエジプトの犠牲によって、彼らを救い出すと奇想天外なことを言われました。あなたが心ならずも頼りにせざるを得ない権力者がいるようなとき、あなたが突然、その権力者を抑える立場に抜擢されるようなものです。人のご機嫌を取りながら地位を守ろうとしなくても、全宇宙の創造主があなたを特別な立場を与えてくださいます

その神が、これから苦しみに向かうイスラエルの民に向かって、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(4節)と語りかけます。「高価」とは希少価値のある宝石などに使われる表現で、「かけがえのない」とも訳されます。また、「尊い」とは、「尊ばれた」という動詞形で、「栄光」「重い」と同じ語源のことばです。目に見えるイスラエルの現実は大国の狭間で吹けば飛ぶような存在でしたが、神はイスラエルを「高価で尊い」ものとして見ているからこそ、敢えて試練を与えて、造り変えようとしておられるのです。あなたも自分のことを、いてもいなくても同じような、軽い存在だと感じることがあるかも知れません。しかし、神にとってあなたは、かけがえのない、重い存在なのです。

その上で、「わたしは(強調形)、あなたを愛している」と語られます。人は愛を求めていますが、誰の愛でも良いということはありません。どんな方から愛されているかが大切なのです。しかも、「愛の鞭」ということばがあるように、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加える」(ヘブル12:6)というのです。

そして、「恐れるな。わたしがあなたとともにいる・・・わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造ったと」まとめられます(5,7節)。私たちの人生には様々な試練や苦しみがありますが、それらすべてを通して、主(ヤハウェ)の栄光があがめられることこそ歴史の目的です。

3.「見よ。わたしは新しい事をする」 -苦しみの中に神のみわざを認めるー

43章9節で、「だれが・・・先のことをわれわれに聞かせることができようか」と問われますが、神の民イスラエルだけが主の救いのみわざを証しできます。神の救いは、パーソナルな体験としてしか証しできない面があります。歴史は客観的なようでも常に、数多くの出来事から編集者が選んで書き綴った主観的な記録です。それを前提に、「あなたがたはわたしの証人・・・わたしが選んだわたしのしもべである」(10節)と、神がご自分の民イスラエルに使命を思い起こさせます。続くことばは原文で、「これは、あなたがたが・・・『わたしこそ彼である』ことを悟るためだ」と記され、この「彼」のことが、「わたし、このわたしが、主(ヤハウェ)であって、わたしのほかに救い主はいない」(11節)と紹介されます。ところが、人は、アダム以来、創造主を求めるよりも、自分の目に好ましいものを慕い求めます。それは麻薬に溺れる心理と同じです。一時的な喜びや解放感を味わっても、現実は変わりません。この世界は、あなたの思い通りに動くようなところではありません。世の多くの人は、神に頼ることを現実逃避と見ます。しかし、まことの神から離れて生きようとすることこそ現実逃避に他ならないのです。そのことを思い起こさせるように、「わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(13節)と言われます。

16節初めは、(ヤハウェ)は、こう仰せられる」と記され、その主が、かつて海をふたつに分けてイスラエルの民を逃がし、エジプトの戦車と馬を海に沈めた方であると描かれます。そして、メッセージの内容が、「先の事どもを思い出すな。昔のことどもを考えるな。見よ。わたしは新しいことをする」(19節)です。それは、これから起こる神の救いのみわざが、海をふたつに分けることが色褪せて見えるほどに偉大で、奇想天外だからです。

神の救いのみわざは、ひとつひとつが極めてユニークです。ところが、たとえば、「日本は神国だからいざとなったら、元の来襲を退けた時と同じ神風が吹く」と真面目に言われていたように、彼らも「エルサレムが包囲されても、神はまた同じ奇跡を起こしてくださる」という幻想を自分たちの信仰としてしまい、神のさばきを見ようとはしなかったのです。しばしば、過去の成功は将来の失敗の原因になります。昔から、失敗には共通の法則を見出すことができるが、成功のパターンはそれぞれがユニークだと言われます。ですから、人の成功例は意外に参考になりません。しかし、失敗例からは多くを学ぶことができます。ただ、それは伝わり難いものです。しかし、聖書は失敗例の宝庫です。それらに共通することは、常に「高ぶり」ではないでしょうか。彼らは、常に、自分を正当化します。現実を直視する代わりに、自分の見たいように世界を見ようとします。本当に残念なことですが、誤った信仰理解こそが、最大の悲劇の原因となっています。それはエレミヤ書などに明らかです。しかし、主のさばきを受け入れ、(ヤハウェ)はこう仰せられる」という御声を聞き続ける者の上には、日々、ユニークなみわざが示されます。

「今、もうそれが起ころうとしている」(19節 新改訳)は、「今や、それは芽生えている」(新共同訳)とも訳されます。それは、ペルシャ帝国を用いての救いは、さらに大きな救いのみわざの萌芽だからです。主は、「見よ。わたしは新しい事をする」と言われましたが、それは、究極的には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)というみわざにつながります。そのとき、「確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける・・」(19、20節)とあるように、神は、赤茶けた岩ばかりの起伏の激しい危険に満ちた地に、真っ平らな道を開いてくださり、また、水のない乾いた荒れ地に川を造ってくださり、この地をエデンの園のように変えてくださるのです。

  「野の獣、ジャッカルやだちょうも、わたしをあがめる」とは、希望に満ちた表現です。ジャッカルは山犬とも訳され、他の動物の食べ残しをあさって食べる臆病な動物です。また、だちょうは、自分の産んだ卵を置き去りにし、ひなは、別のふ化しない卵をえさとして育つとも言われる無慈悲で、貪欲な動物の代名詞です。それらは荒野に生息する忌み嫌われた動物でしたが、新しい世界では、のろわれた動物さえも神を賛美するというのです。パウロは、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:22)と語りますが、新しい世界では、「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べる」(イザヤ65:25)ような平和が実現します。

  「わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう」(21節)とは、イスラエルが神のさばきを受けることによって新しくされることによって実現します。たとえば、バビロン捕囚は、神がイスラエルを新しくするためのみわざでした。彼らはこの後、一切の偶像礼拝を避け、どのような困難の中でも唯一の神をあがめ続けています。ですから、神がもたらす苦しみには、私たちの生き方を根本から変える創造的な力が秘められているのです。 

  「見よ。わたしは新しいことをする」と言われる方は、世界の創造主であり、私たちをキリストにあって選んでくださいました。これから起こる様々な出来事のなかに、すでに始まっている世界の再創造のみわざのつぼみを見出しましょう。もし、私たちの知恵や力では解決不能と見える問題が起こっても、それは、神の不在のしるしではなく、神の栄光をみさせていただくチャンスです。神はそれぞれの個人的な創造主であられ、ひとりひとりに「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけ、あなただけのために新しいことを、日々ユニークなことをなしてくださいます。過去の自分の成功や人の成功例などに習おうとする前に、目を大きく開いて厳しい現状を、また、自分の能力の限界を直視しましょう。その上で、全能の神を仰ぎ、祈り続けましょう!

4.「わたしは初めであり、わたしは終わりである。」  主は神の民の創造主であり贖い主、

  44章では、「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ」と呼びかけながら、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」と再び告げられ、その主が、「あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける方」と描かれます。これは43章1節に通じる表現です。つまり、私たち神の民は、自分たちの知恵によって、また功績によって、神の愛を勝ち取ったのではなく、神の一方的な創造、選び、あわれみによって神の民とされているのです。すべては、主ご自身から始まっているからこそ、「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ」と言われます。「エシュルン」とはイスラエルの愛称で、本来、「正しい者」という意味が込められていたと思われます(申命記32:15)。そして、「恐れる」必要のない理由を、「わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」(3節)と預言されます。つまり、神はご自身の民の罪を赦すばかりか、ご自身の「霊」を与え、内側から造り変えてくださるというのです。そして、4節では彼らの繁栄の様子が、5節では「主(ヤハウェ)の民」の枠が肉のイスラエルを超えて広がり、異邦人にまで及ぶことが示唆されています。これこそ新約の恵みです。

 そして、6節では再び、「主(ヤハウェ)は仰せられる」と告げられ、その主が、今度は、「イスラエルの王、これを贖う方、万軍の主(ヤハウェ)」として描かれます。そして、その主がご自身のことを、「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない」と紹介されます。これは、主(ヤハウェ)は世界の歴史を始めた方であり、また、歴史の完成を導く方であり、世界が存在する原因でありまた目的であるという意味が込められています。そして、7節はだれが、わたしのようであろうか」という問いかけから始まり、「このように宣言し、これを告げることができようか。わたしが永遠の民を起こしたときからのことを並べ立ててみよ。彼らに未来の事、来るべき事を告げさせてみよ」と記されています。永遠の民を起こしたときから・・」とは、神がご自身の民をひとりのアブラハムから創造されたことを指すと思われます。私たちも信仰においてアブラハムの子孫とされ、この神の永遠のご計画の中に招き入れられています。ここにおいても、何よりの問いかけは、「なぜ」ではなく、「だれが・・」「だれを」です。

人は、古来、「私は何のために生まれ、何のために生きているのか・・」と問い続けてきましたが、私たちが主(ヤハウェ)に結びつくとき、「この私は主(ヤハウェ)によって、高価で尊い者として創造され、主に愛され、罪を贖われ、主の民としてふさわしい存在に造り変えられる途上にある。近い将来のことは何も分からないけれど、人生のゴールは分かっている。それは神の平和(シャローム)が完成する愛に満ち溢れた世界だ!」ということを、感動を持っていうことができます。私たちは人生の意味や目的を、主(ヤハウェ)を離れては知ることができないのです。この世界の「初め」と「終わり(目的)」が、「だれ」のもとにあるかを知るものは、人生で最も大切なことを知っているのです。

5.「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」 偶像礼拝にある落とし穴

9節の「偶像を造る者はみな、むなしい」とは、20節まで続くこの箇所のテーマを言い表したような表現です。17節の、「その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたはわたしの神だから』と言う」とは、他の宗教に頼る人をあまりも侮辱したことばのように思えるかもしれませんが、そこには、偶像礼拝の恐ろしさが描かれています。それは、偶像を拝む者は、「だれが・・」という問いかけをやめてしまうからです。彼らは、人間の中にある永遠への憧れ、美や平和への憧れを熱心に表現しようとしますが、最も大切なことに対して、「彼らの目は堅くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって見ることができない」(18節)という状態に陥ります。そして、偶像礼拝の愚かしさを反省する感性さえも失われ、「あこがれる者の心は欺かれ、惑わされて・・・『私の右の手には偽りがないのだろうか』とさえ言わない」(20節)という心が停止する状態に陥るというのです。主は、かつて、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(40:26)と呼びかけられましたが、偶像を拝む者は、このような呼びかけに心の目と耳を自分で閉ざしてしまうのです。

そして、その上で、「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしがあなたがたを造り上げた」と言われ、またそれを繰り返すように、「あなたはわたし自身の(わたしに属する)しもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない」と言われます(44:21)。私たちはどこかで、神との関係が自分の主導権にあると誤解します。しかし、信仰とは、自分が神から目を留めていただき、忘れられることがないということを、思い起こすことから始まっているのです。しかも、主(ヤハウェ)は、「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(44:22)と、神の救いのみわざが語られます。私たちは自分の悔い改めの誠実さによって、罪を赦していただくのではありません。神が一方的に私たちの罪を赦してくださったという現実を受け入れる結果として、神に立ち返り、真の悔い改めの実を結ぶことができるのです。神の赦しが、私たちの悔い改めに先行するというのが福音の本質です。

「天よ。喜び歌え。主(ヤハウェ)がこれを成し遂げたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声を上げよ。林とそのすべての木も。主(ヤハウェ)がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現されるからだ」(44:23)とは、主の救いのみわざを、天も地も山々も林も、全被造物が喜び歌う姿です。神の救いのみわざ私たちのたましいを天国に入れることにとどまるものではありません。私たちのからだを栄光の姿に変えることばかりか、すべての被造物を新しくすること「ジャッカルやだちょう」(43:20)でさえも主を賛美するという全宇宙的な回復なのです。

私たちは神の救いのご計画をあまりにも小さくとらえてはいないでしょうか。J.S.バッハはクリマスオラトリオの最初で神の御子の驚くほど貧しい誕生を告げる福音書の朗読の前に、この箇所のみことばを、テインパニ、トランペットなどとともに壮麗な喜びの歌として表現しています。神の御子の貧しさ、地上の私たちの貧しさ、そのすべては、天上に響く喜びの歌声の下で一時的に起こっていることに過ぎません。全世界の創造主の驚くべき偉大な創造とあがないのみわざの中で、このつかの間の私たちの地上の人生を見るということこそが福音の核心です。

  聖書の神は、あなたの創造主であり、贖い主です。あなたが神をとらえたのではなく、神があなたを恋い慕い、あなたをとらえてくださいました。あなたはその結果として、創造主を礼拝しています。あなたがまだ罪人であったとき、神の御子キリストがあなたのために死んでくださいました。罪の赦しは、あなたの回心以前に、神の選びから始まっています。創造主である神の壮大な救いのご計画の中に、あなたは招き入れられています。その方の御手の中で、あなたに生きる目的が与えられます。そして、あなたの目に、自分が惨めに見えても、神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と語りかけてくださいます。あなたの目には明日の希望が見えなくても、神はあなたに、「見よ。わたしは新しいことをする」と語りかけてくださいます。あなたが自分勝手な道に歩んでいる時に、神は、「わたしに帰れ、わたしはあなたを贖ったからだ」と語りかけてくださいます。信仰生活とは、この「わたし」と言われる方の「あなた」への語りかけの中に生まれます。「どのように」から「だれ・・」という発想の転換が必要です。

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