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2008年6月29日 (日)

イザヤ52章13節~53章12節 『彼の打ち傷によって、私たちはいやされた』

 

イザヤ52章13節~53章12節 「主(ヤハウェ)のしもべの歌」

                                                  <主(ヤハウェ)>

見よ。わたしのしもべは 栄える。                               (52:13)       

  高められ、上げられ、はるかにあがめられる。

多くの者があなたを見ておびえるほどに、その顔だちはそこなわれ、           (14)

  人の子の面影もないほどだったのだが。

そのように、彼は多くの民を驚かせ、王たちはその前で口をつぐむ。            (15)

  彼らは、告げられなかったことを見、聞いたこともないことを悟るからだ。

                                                 <私たち>  

だれが私たちへの知らせを信じ得ようか。                          (53:1) 

  【主】(ヤハウェ)の御腕が、だれに現れたのかを。

彼は御前で 若枝のように芽生え、砂漠から出る根のように育った。            (2)

  見とれるような姿も、輝きもなく、慕うような見ばえもない。

さげすまれ、のけ者にされ、 悲しみの人で病(弱さ)を知っていた。             (3)

  顔をそむけられるほど さげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

                                                  <私たち> 

まことに、彼は 私たちの病(弱さ)を負い、悲しみ(痛み)をになった。             (4)

  だが、私たちは、彼が 神に打たれ、罰せられ、苦しめられたのだと思った。

しかし、彼は、私たちの そむきために刺し通され、                       (5)    

私たちの咎(とが)のために砕かれた。

彼への 懲らしめが 私たちに 平安をもたらし、                           

彼の 打ち傷によって、私たちは いやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ勝手な道に向かって行った。        (6)

  しかし、【主】(ヤハウェ)は、私たちすべての咎(とが)を、彼に負わせた。

                                                  <主(ヤハウェ)>

彼は苦しめられても、へりくだって、ほふり場に引かれる小羊のように口を開かない。  (7)

  毛を刈る者の前で黙っている雌(め)羊のように、彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。                        (8)

それを彼の時代のだれが思い巡らしたことだろう。

生ける者の地から絶たれた彼は、わたしの民のそむきのために打たれたことを。        

彼の墓は悪者どもとともに設けられた。                          (9)

しかし、彼は富む者とともに葬られた。

  それは、彼が暴虐を行わず、その口に欺きはなかったから。

                                                  <私たち>   

彼を砕き、病とする(弱くする)ことは、【主】(ヤハウェ)のみこころであった。          (10)

  もし彼が、いのちを 罪過のためのいけにえとするなら、末長く、子孫を見る。

【主】(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる。

  いのちの激しい苦しみのあとで、彼は見て、満足する。                 (11)  

                                                 <主(ヤハウェ)>

彼の知識で、わたしの義(ただ)しい しもべは、多くの人を義とする。

  彼らの咎(とが)を 彼自身がになう。

それゆえ、わたしは、多くの人々の間で彼に分け与え、                    (12)

  彼は 強い者たちに 戦利品を分け与える。

それは、彼が いのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたから。

  彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

 (交読、または、主:司会者、私たち:会衆で読む 翻訳責任高橋秀典)

 私たちは、不摂生によって不死の病にかかったと思うとき、後悔の思いに苛まれることでしょう。しかし、イエス・キリストに繋がる者にとって取り返しのつかない失敗はありません。私たちはみな、いやされるからです。足や手の不自由な人も、肝臓や腎臓の悪い人も、みなキリストの打ち傷によっていやされます。もちろん、地上の生涯では、最終的に何らかの病名が付けられて死ぬことになりますが、私たちには朽ちることのない復活の身体が保障されています。それをいつも思い浮かべながら生きるとき、私たちはこの世の困難に向かう勇気が与えられます。 

イザヤ40章は、「エルサレムに優しく語りかけ・・・呼びかけよ。『その労苦は終わり、その咎は償われた・・』と」から始まりますが、廃墟とされたエルサレムを復興し、捕囚とされた神の民を救い出すのが「主のしもべ」で、その姿が四回にわたって預言されます。そしてその最高の歌が5213節から5312節です。そして、「主のしもべ」は、イスラエルの咎ばかりか全人類の咎を償ってくださり、私たちを罪と死ののろいから救い出してくださいました。しかも55章には、世界全体の完成の様子が預言されています。私たちはこの地上に様々な不条理を見ています。しかし、神はあなた自身をいやすように、世界全体のやまいを、キリストの打ち傷によっていやしてくださいます。

  

1.「彼は私たちの病を負い、悲しみをになった」

  初代教会の時代にはまだ新約聖書がありませんでした。その時代の人々にとっての最高の福音書とは、イザヤ書5213節から5312節の「主のしもべの歌」でした。映画パッションで鞭打ちの苦しみに焦点が当てられたのも、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた」(535)というみことばを描くためでした。私たちと同じ不自由な身体を持っておられたイエスご自身も、天からの直接啓示を受ける以前に、この箇所を心の底から味わいつつ、ご自分に対する「主のみこころ」(53:10)を確信したことでしょう。

エチオピアの宦官がイエスを救い主と信じたのも(使徒8:32-34)、また現代の多くのユダヤ人がイエスを信じるのもこのみことばです。なぜならここには、その七百年後に現れた救い主の姿が、生き生きと描写されているからです。これこそ、最高のキリスト預言です。なお、これは、5213節から始まるひとつの詩であり、苦しみの描写以前に、「見よ。わたしのしもべは栄える。高められ、上げられ、はるかにあがめられる」という復活預言から始まっています。復活を抜きに十字架を語るなら、イエスは悲劇の主人公に過ぎません。しかし、イエスは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに・・十字架を忍ばれた」(ヘブル12:2)と描かれています。将来の栄光を思いながら苦しみに耐えるということは、運動選手が栄冠を夢見ながら、苦しくても練習に励むことに似ている面があります。

  それにしてもイエスの十字架は、「木にかけられる者はすべてのろわれた者である」(ガラテヤ3:13、申命記21:23)とあるように、神ののろいを受けたしるしとしか見えませんでした。十字架にかけられた人を「私たちの主」として拝むなどとは狂気の沙汰でした。その驚きと恐れが、「多くの者が・・おびえる・・・王たちはその前で口をつぐむ」(52:14,15)と預言されます。「人はうわべを見る」(Ⅰサムエル16:7)のが常だからです。しかも、「主(ヤハウェ)の御腕」が現されたのは、「砂漠から出る根」のようにひ弱に見えて内なる力に満ちた方で、彼は、「輝き」「見ばえもない」ばかりか、「さげすまれ、のけ者にされ、悲しみの人で病(弱さ)を知って」いました(53:1-3)。多くの人々は、苦しみは神からの罰であるなどと思いますが、神の力は、「弱さのうちに(こそ)完全に現れる」(Ⅱコリント12:9)ものなのです。強がっている人は、もろさを秘めています。苦しむことができる力こそ、神の賜物ではないでしょうか。

  イエスの生涯の秘訣は、「彼は私たちの病(弱さ)を負い、悲しみ(痛み)をになった」(53:4)ことにありました。マタイは、イエスのいやしの働きも、このみことばの成就であると報じています(マタイ8:17)。主は、世界の創造主であり苦しむ必要のない方でありながら、私たちすべての人間の「病」「弱さ」を引き受け、「悲しみ」「痛み」を担うために、敢えて私たちと同じ肉体をとられたのです。正統的な教会においては、イエスが完全な神であり、同時に完全な人であり、このふたつの性質は混ざることも分離することもないという神秘を告白します。この神秘のゆえに、主は罪のゆえに死の裁きに定められた人間性全体を余すことなくその身に引き受けてることができたのです。

  あなたは人々から「さげすまれ、のけものにされること」を恐れてはいませんか?「悲しむ」ことや「病」にかかることを恐れてはいませんか?多くの人の生きる悩みは、人間関係や災いに会うことへの恐れから生まれます。しかし、それらすべてを、イエスは私たちに先立って体験されました。そして今イエスは、ご自身の御霊をあなたに遣わし、すべての病と弱さ、痛みと悲しみをともに担っていてくださいます。あなたは勝利を約束されたものとして、一時的な痛みを味わっているに過ぎません。私たちは順風満帆な人生を願いますが、そこに愛の交わりが生まれるでしょうか。人は、自分が傷つき苦しんで初めて人の痛みに心から共感することができるというのが現実です。

2.彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた

  キリスト教会のシンボルは、古代世界で最も忌まわしい死刑の手段であった十字架です。まるで絞首刑台やギロチン台を飾るようなものです。それは、「彼は、私たちのそむきのために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(53:5)ということを覚えられるからです。イエスの十字架こそ、「平安」「いやし」のシンボルになったのです。レビ記には、動物を私たちの罪の身代わりとして神にささげることが命じられていましたが、イエスは、私たちの代表者である王として、ご自身の聖い身体をささげてくださいました。それはたとえば、会長の心が社長の自殺によって動かされるというのではなく、社長が部下の全責任をになって刑に服するときに部下の刑事責任が免除されることに似ています。

  私たちは、人を人とも思わない人や自分の欲望のために人を踏みつけるような人に対して怒りを燃やします。そのような悪人は裁きを受けて当然であると思います。しかし、それらはすべて、自分のことしか考えない自己中心から始まっており、私たちにも同じような罪の根があるのではないでしょうか。そのことが、「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分かってな道に向かっていった」(53:6)と述べられます。この世を悪くするのは、狼のような犯罪人ばかりではなく、人の痛みを見ても見なかったふりをしている羊のように臆病な人間であり、また群れの中の羊のように人と自分を比べて勝手に思い上がったり落ち込んだりして、神のみこころを忘れて生きている人々です。彼らはまた羊のように近視眼で、世界の対する神のみこころなど知ろうともしません

しかし、福音の核心とは、「主(ヤハウェ)は、私たちすべての咎を彼に負わせた」とあるように、「神の怒り」が、御子の苦しみによって「なだめられた」ことです。神はもはや、信仰によってイエスに結びつく私たちを怒ってはおられません。人が自己中心になるのは、「恐れ」にとらえられた結果であり、真実の愛を体験することができなかった結果です。その心を変えるために必要なのは、罰によって「恐れ」を抱かせ従わせることではなく、「愛」を体験してもらうことです。そのために神は、ご自身の愛を、御子の犠牲を通して示してくださいました。

3.主(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる

  「彼は・・口を開かない」(53:7)と繰り返されますが、その前半の意味は、ご自分を「過ぎ越しのいけにえの小羊」とする謙遜と服従のしるしであり、後半は、毛を刈られる雌羊が飼い主に身を任せているように、「主のしもべ」が主(ヤハウェ)に信頼している姿を表しています。イエスはこのみことばを思い巡らしながら、総督ピラトの前で沈黙を守りました。そこには、謙遜に神に服従する姿と同時に、自分のいのちを守ってくれる神への信頼が表されています。同時に、これは、私たちが、しばしば自己弁護をしようとするあまり人を攻撃することへの戒めでもあります。

  また、「彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた(53:9)とは、十字架にかけられた犯罪人は、本来、共同墓地に捨てられるはずであったのに、イエスの身体は、まだ使っていないアリマタヤのヨセフの大きな墓に葬られましたが、そのことを預言したものと言えましょう。そして、「それは、彼が暴虐を行わず、その口に何の欺きはなかったから。」とあるように、神ご自身がイエスの誠実な歩みに最後に報いてくださった証しでもあります。そして、この富む者の墓に葬られることこそ、復活への最高の備えとなったのです。

  その上で、「彼を砕き、病とするのは、(ヤハウェ)のみこころであった・・・(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる」(53:10)と繰り返されます。私たちは、「みこころ」ということばを余りに都合よく解釈してはいないでしょうか。主のしもべ」にとっての「みこころ」とは「自分のいのちを罪過(つぐない)のためのいけにえとする」ことでした。救い主は返済しきれないほど大きな私たちの負債を代わりに支払ってくださり、それによって私たちは奴隷の状態から解放され、自由な神の子供、イエスの弟、妹とされました。「主(ヤハウェ)のみこころ」は、何よりも、この世界を新しく造り変えることです。あなたはそのために召され、この世ではイエスの代理人としての名誉ある使命が与えられています。結婚も仕事も、あなた自身の幸せのため以前に、あなたが神の世界に仕えるための手段です。

「主のしもべ」は、ご自分の「いのちの激しい苦しみのあとで、それを見て、満足しておられます(53:11)。それはイエスが死人の中から復活したからであり、またご自身の贖いのみわざが豊かな実を結び、神の家族が広がっているからです。そればかりか私たちは、主のしもべの「義」によって「義」とされ、「わたし」()「彼(キリスト)に分け与えた」戦利品を、「彼」が私たちを「強い者たち」と呼びつつ、「御霊の賜物」として分かち合ってくださいます(53:12、エペソ4:8参照)私たちは神の国の豊かさの共同相続人とされました。それは、「彼がいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからです」(53:12)。つまり、イエスが罪人の仲間となったのは、罪人を神の子とするためだったのです。そしてイエスは今、神の右の座について私たちのためにとりなしておられます。

  「主のしもべ」の歌はキリスト預言であると同時に、私たち自身が「主のしもべ」として世に遣わされ、キリストの勝利を私たちの勝利とするという約束でもあります。キリスト者の生涯の目的は、キリストの生涯をこの地で再現することです。それは、自分を神のようにし、神の競争者となってしまったアダムの罪を逆転させるものです。私たちは、イエスが罪人の仲間に数えられるまでご自分を低くされた姿に習うように召されています。あなたは自己満足に浸るためではなく、新しい使命に生きるために召されました。そこにこそ、「いのちの喜び」が生まれます。

4.「怒りがあふれてほんのしばらく、わたしの顔を・・隠したが、永遠に変わらぬ愛をもってあなたをあわれむ」

  54章最初の、「子を産まない不妊の女よ・・・」とは、エルサレム神殿が廃墟とされ、神の民の信仰の基盤がなくなるという悲劇を前提に、その後の希望を語ったものです。それは「主のしもべ」によって実現する祝福でした。その確信のゆえに、「喜びの歌声をあげて叫べ」(1)と勧められます。「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多い」とは、神に捨てられたという悲劇の後に生まれる神の民は、その前よりも多くなることを意味します。今、主の民は三千年前には想像もできなかったほどに世界に広がっています。そして、それを前提に、「あなたの天幕の場所を広げ・・」(2節)と勧められ、「あなたは右と左にふえ広がり・・」(3)という約束が語られます。

その上で、「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから・・(4)という慰めが語られますが、それは、バビロン捕囚で徹底的な「はずかしめを受け」、それから解放された後の約束です。それは、「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」49:23)という約束の繰り返しでもあります。そして、「あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さないとは、主の豊かな祝福を味わうことができる結果、バビロン捕囚の苦しみが遠い昔の束の間のできごとにしか思えないようになるからです。

「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主(ヤハウェ)・・」(5)と述べられるのは、イスラエルが神にとっての花嫁であるからです。「主(ヤハウェ)は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが」(6節)とは、主が一時的にバビロン捕囚でイスラエルを捨てたように見えたからです。しかし、「若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあるように、主はご自身の花嫁イスラエルを決して見捨てたままにはなさいません

そして、その主ご自身のかたりかけが、「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める・・・」(7節)です。ここでは続けて、「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」(8)と述べられますが、ここで怒りが短期間であることと、愛の永遠性が対比されます。「変わらぬ愛」は原文で「ヘセッド」で、新改訳では原則、「恵み」と訳されており、神が、ご自身の契約を守り通してくださる「真実」を言い表しています。そして、そのことがなお、ノアの日の大洪水が二度とこの地を襲うことがないという神の誓いと結び付けられます。それが、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」10節)と言い換えられます。ここでの「変わらぬ愛」というのも先の「ヘセッド」の訳で、この美しいことばの意味を何よりも言い表しています。

私たちの人生にも、祈りが答えられないように感じ、神が御顔を隠しておられるようにしか思えないときがあります。しかし、あの恩知らずなイスラエルの民を見捨てなかった神は、キリストのうちにとらえられている私たちを見捨てることなどあり得ません。私たちを襲う苦しみは、神の目から見たらほんの一瞬のできごとに過ぎません。パウロは福音を宣べ伝えるために想像を絶する苦しみに会いましたが、そのなかで彼は、今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(Ⅱコリント4:17)と語りました。また主ご自身が、わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない(ヘブル13:5)と保障してくださいました。

1112節では、崩されてしまったエルサレムの城壁が、美しい宝石で覆われる様子が描かれています。そして、これを前提に黙示録2118-21節の、数々の宝石で飾られた「新しいエルサレム」の様子が後に描かれます。そして、14から17節では、エルサレムが二度と敵の攻撃に怯える必要がないという約束が記されます。

5.わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なる

55章では、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」という呼びかけから始まりますが、54章ではエルサレムへの語りかけであったのが、ここでは、「みな」とあるように、それが全世界への招きとなっています。イエスはこれをもとに、だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい(ヨハネ7:37)と言われました。それは世の多くの人々が、この世の富や成功を求めて、かえって渇きを激しくしているからです。「わたしに聞き従い、良いものを食べよ」(2)とありますが、厳密には「従い」との言葉は原文にはなく、神に心から聞くということで私たちの身体が自然に神に向かう様子を示しています。神こそがすべての良いものを与えてくださる方だからです。

そしてそれがまた、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」(3)と言い換えられます。そして、「わたしはあなたがたととこしえの契約を結ぶ」と、「ダビデへの変わらない愛(ヘセッド)の契約」が、異邦人である私たちにまで広がることが示唆されています。「見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした」(4)とは、ダビデの子孫としての「主のしもべ」を指すと思われます。詩篇18:43,44でダビデは、「あなたは、民の争いから、私を助け出し、私を国々のかしらに任ぜられました。わたしの知らなかった民が私に仕えます」と告白しますが、それがここで、「主のしもべ」に適用されます。それはキリストのことであり、また主に従う私たちのことです。なお5節で「見よ・・あなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る」とあるのは、主のしもべの命令が人々を動かすという王の権威を現しています。そのことが黙示録では、「キリストとともに、千年の間王となる」(20:4,6)と、私たちに約束されています。

「主(ヤハウェ)を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ(6)とは、どの人の人生にも、「私の神」が、「私をお見捨てになった・・私の・・うめき・・から・・遠く離れておられる」と感じざるを得ないとき(詩篇22:1)が必ずあるからです。そして、「悪者」「不法者」に対して、「主(ヤハウェ)に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(7)と、優しく希望に満ちた招きが記されます。

わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道あなたがたの道と異なるからだ・・天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(89)とは、神の救いのご計画が私たちの想像をはるかに超えたものであるとの宣言です。当時の人々にとって、イスラエルの神が、ご自身の神殿を捨てることを通して、神の民を真の悔い改めに導くなどという救いのご計画は決して理解できないことでした。これは、放蕩息子のたとえに通じます。父は弟息子が放蕩三昧をして一文無しになるのを見越した上で、彼の失敗を見守ろうとしました。挫折を味うことによってしか分からない恵みがあるからです。

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ・・・パンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしくわたしに帰っては来ない。必ずわたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる」(10,11)とは、イザヤを通して主が語ったことが、当時の誰にも理解されなかったのに、その後の歴史を動かしているという事実に証明されています。イザヤは神がエルサレムをさばかれることを預言しました。当時の人々は、それを理解しかなったばかりか、ヒゼキヤの後継者マナセは、イザヤをのこぎりでひき殺したほどでした。ところが、イザヤの預言の意味は、バビロン捕囚の中で理解されるようになりました。そして、イエス・キリストご自身が、このイザヤのことば、「主のしもべ」としての生き方を文字通りに生きられました。つまり、イザヤのことばがイエスを動かし、私たちのための救いを成し遂げたのです。先に、「彼の知識で、わたしの義(ただ)しいしもべは、多くの人を義とする」(53:11)と述べられていたのは、それを指し示しています。

「まことにあなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く」(12)とは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻る様子を示しています。これは現在は、私たちがサタンの支配から解放されて「新しいエルサレム」に向かって旅をすることを意味します。そのときの希望が、「山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」12,13節)と描かれますが、それは私たちの救いが、全被造物の救いにつながるからです。それはアダムの罪によってのろわれた地が、神の祝福に満たされるという希望の表現です。パウロはこのことを踏まえ、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです・・・被造物自体も滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」(ローマ8:19,21)と語っています。私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和に満たされるという希望です。

多くの人々が、期待はずれの人生の中で、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」(55:8)というみことばに慰めと希望を見出しています。そして、それは、「主のみことば」こそが、人のこころを動かし、歴史を変えて行ったという歴史に現されています。イエスのことばは、世界の結婚制度を変えました。イエスのことばはひとりひとりのいのちの尊さを教えました。たとえば、仏教はこの世から抜け出ることを教えますが、聖書は、この世をキリストの愛で満たし、この世を変えることを教えます。赤十字を代表に、ほとんどすべての慈善団体は、聖書のみことばに動かされた個人によって始められています。そして、何と、私たちの主ご自身が、イザヤ書の「主のしもべの歌」に動かされて十字架の苦しみに向かったのです。そして、そこには、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」という不思議が描かれています。それは、ひとりひとりのたましいを天国に導くということ以上に、この世界を根本から造り変え、世界をいやすという救いのみわざです。私たちはすでに最終的な「いやし」を保障された者として、この世の困難の中に遣わされ、神の平和を実現するのです。

                                       

                      

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2008年6月16日 (月)

ルカ17章20-37節「目の前にある神の国」

                                            2008615

  私たちの生活では、ジェットコースターのような上がり下がりがあるかもしれません。そのようなときに、常に心に留めるべきことは、神の国には、すでに実現しているという側面(already)と、まだ実現していない(not yet)という両面があるということです。そして、そのふたつをつなぐのが、イエスを見上げて生きるということです。神の国はイエスのうちにあります。ですからイエスにつながっている者のうちにはすでに神の国が実現しています。一方、この目に見える世界は消え去ってゆくものですから、それに心を捕らわれてはなりません。ですから、私たちは神の国の完成を待ち望みながら、この世にあっては旅人、寄留者として生きるように召されています。この世での最高の喜びに憧れると、かえって不満を抱えることになります。平安の祈りで、「神様、私にお与えください。変えられないことを受け入れる平静な心を・・」に始まりながら、「この世のいのちにおいては、適度に幸せに、来たるべき世界においては・・・最高に幸せになることができますように」という祈りで閉じられていることの意味を考えてみましょう。

1.「神の国は、あなたがたのただなかにあるのです」

パリサイ人たちが、「神の国はいつ来るのか」と聞いたとき(20)、当時の人々の意識の中にはダニエル書7章がありました。そこでは、「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(1314)と記され、また最後にこの世の帝国が滅ぼされ、「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」(27)と記されています。パウロは、内輪もめをして異教徒の裁判官に訴えていたコリント教会に対し、「あなたがたは、聖徒が世界をさばくことになるのを知らないのですか・・・私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないのですか」(Ⅰコリント6:2,3)と訴えましたが、その根拠がここにありました。また黙示録では、迫害に耐え抜く信仰者の希望を、「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間王となった(20:4,6)と描かれています。そこには「神の国」の完成の姿が描かれています。

この地で、神の民が異教徒たちに虐げられ、いのちの危険にさらされていたとき、初代教会の信仰者たちは、自分たちがキリストとともにこの世界を治め、そのとき平和と繁栄が世界に実現すると期待していました。私たちが主の祈りで、「御国が来ますように」と祈っているのはそのためです。神の国とは、地上的な領土を持つ国ではありません。この世界はすべて神のご支配の下にありますが、人間が自分たちを神としているために神のご支配が隠されてしまっています。しかし、神のご支配は、やがて目に見える形で完成すると約束されているのです。

  当時のユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配下で苦しみながら、ダビデの子としての救い主が現れ、イスラエル王国を復興し、その王国が世界を治めるということを夢見ていました。それを実現するのが、ダニエル713節に預言された「人の子」でした。その意味で、当時のユダヤ人とイエスの弟子たちが待ち望んでいた「神の国」には共通点があります。ただ、ユダヤ人たちは、「人の子」がローマ帝国との具体的な戦いを勝利に導く軍事的な指導者でもあると期待していたために、イエスが無力に捕らえられたとき、人々の気持ちは失望から怒りに変わりました。イエスの弱い姿は、彼が救い主と自称していただけの偽者に過ぎないというしるしに他なりませんでした。   

  ところで、イエスがユダヤ人の宗教指導者のもとでの裁判で死刑を宣告された直接の原因は、大祭司から「あなたは神の子、キリストなのか」と問われたときに、「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」と、ご自分がダニエル713節に預言された「人の子」であること言われたことにあります。大祭司はこれを聞き、「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか」と、即座に死刑を宣告でき、人々も納得しました(マタイ26:63-65)。イエスはまた弟子たちに対しても、ご自身の栄光の現れに関して、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見ることになる」(ルカ21:27)と、ダニエル713節を引用されました。つまり、「神の国」に関しても、「人の子」に関しても、ダニエル7章を抜きに解釈することはできないのです。

  ダビデ、ソロモンのときに繁栄したイスラエル王国は、バビロン帝国によってエルサレムが滅ぼされた後、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国の支配下に置かれて苦しみました。不思議なのは、紀元前600年から540年ごろに実在したダニエルが、その二百年余り後のアレキサンダー大王に導かれたギリシャ帝国やイエスの時代のローマ帝国の世界支配を明らかに預言していることです。ダニエル七章には四頭の大きな獣が出てきますが、それがバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国を指しているように読むことができます。それならば、ローマ帝国の滅亡こそが「神の国」の実現を意味すると解釈されますから、イエスの時代のユダヤ人たちは、ダニエル書に励まされながら、武力闘争によってでも神の国の成就を早めようと血気に流行っていました。パリサイ人たちがイエスに、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたとき、ローマ帝国との闘争の展望を聞いたのではないかと思われます。それによって、イエスをユダヤ独立運動の指導者としてローマ総督に訴えることができる口実が得られるからです。

  それに対してイエスは、「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そらここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません」(2021)と答えられました。それは、たとえば、ここで起こっている独立運動、あそこで起こっている独立運動が、神の国の萌芽であるなどとは言えないという意味です。その上で、イエスは、「神の国は、あなたがたのただなかにある」(21)と言われました。これは、ローマ帝国との関係を気遣っているパリサイ人に、「あなたがたのところから独立運動が始まる・・」と言っているように聞こえることばです。しかし、イエスは、ご自身が今、彼らのただなかにおられるという現実を前提に、彼らの目の前に神の国がすでに来ていると言われたのです。なぜなら、「神の国」とは、イエスの国、ご支配に他ならないからです。

当時のユダヤ人たちは、イエスが口をきけなくする悪霊を追い出している様子を見て、「悪霊どものかしらベルゼベルによって、悪霊どもを追い出している」と解釈しましたが、そのときイエスは、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているなら、神の国はあなたがたに来ていると言われました(11:15,20)。それは、イエスがもたらす神の国は、ローマ帝国からの独立というようなものではなく、サタンと悪霊の支配からの解放であるという意味でした。ローマ帝国は、「服従しないと殺す」という剣の脅しで人の心を支配しましたが、そのような「死の力を持つ者」の頭こそ、サタンであり、「悪魔」でした(ヘブル2:14)。ですから、剣の力を信じて生きている人、またその力に屈している人はすべて悪魔の奴隷なのです。しかし、剣の力に左右されずに、今ここで、神を愛し、人を愛する生き方を全うできる人のもとにはすでに神の国が実現しているのです。イエスが、当時の社会的弱者に助けの手を差し伸べたのは、イエスに従う者に神の国がすでに実現していることを示すためでした。イエスはそのために、様々な病を持つ人を癒し、また、男だけで五千人にも及ぶ大群衆に有り余るほどのパンを与えられたのです。

今も、あなたの周りには、この世の権力者がいることでしょう。そこでは彼らのご機嫌を損ねては、自分の将来が危ういという無言の圧力がかかっています。しかし、そのようにこの世の権力者を恐れて右顧左眄(右を振り向き、左を流し目で見る)するような生き方をしている人に向かって、「神の国は、あなたがたのただなかにあるのです」と言われます。あなたがこの世的な力を持っていないことが問題なのではありません。問われているのは、あなたがたの心の中で、誰が主人とされているのかということです。「イエスは私の主です」「私の国籍は天にあります」と告白する者のうちにすでに神の国は実現しています。あなたは、今、ここで、神の国の祝福と平和を味わうことができます。その鍵は、あなたの心の方向にかかっています。軍事革命ではなく心の革命こそが大切なのです。

2.「人の子の日を・・・追いかける」のではなく、「今ここで、待ち望む」

 一方でイエスは弟子たちに対し、「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます」(22)と言われました。先にパリサイ人に、今、ここにある神の国について語ったのは、イエスご自身がそこにおられることを前提としていました。しかし、イエスには「天にあげられる日が近づいて」(9:51)いました。そのとき弟子たちは、イエスが見えない中で、厳しい迫害にさらされることになります。そのとき彼らは、「人の子」と呼ばれたイエスが目の前にいたときを懐かしみ、早くイエスが再び目に見える形で現れてくださる日を待ち望むことでしょう。

私たちにも、神の国の民とされた幸いを心から感謝できる日の後に、「イエス様を信じても、何の良いことがない・・・、何も変りはしない・・どうしてこうも悪いことばかりが続くのか・・」とつぶやきたくなる日々が訪れます。そのような暗い時代になると、「救い主が今現れようとしている」という偽預言者が影響力を持ち、「こちらだ」とか「あちらだ」とか言う声が聞こえてきます(23)。たとえば、劇的な生活の変化を求めて統一協会に流れる人がいるのはそのためです。しかし、そのような幻想を訴える話の、「あとを追いかけてはなりません」と戒められます。なぜなら、人の子の現れはひそかなものではなく、「いなずまが、ひらめいて、天の端から端に輝くように」(24)、すべての人に認められるものだからです。ある人は、人の子の現れについて、「誰もそれを予告することはできないが、同時に、すべての人がそれを見る」という二つの側面があることを忘れてはならないと強調しています。

黙示録の最初では、「見よ。彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く(1:7)と記されていますが、これはイエスの再臨は、誰よりもイエスを見たくないと思う人に見られるということです。ですから、私たちは、イエスの再臨が自分の知らないうちに実現するのではないかと、戦々恐々となる必要はありません。昔から、イエスの再臨が近いと言われるたびに、日々の生活を捨てて、集団生活に入り、祈りながら主の再臨を待ち望むというような運動が繰り返し起こりました。しかし、イエスの再臨を見過ごせるような人は誰もいないのですから、安心して、今、神から託されているこの世の務めに励んでいればよいのです。とにかく、イエスは、「神の国はいつ来るか」という質問に対しても、また、「人の子の日を・・見たいと願って・・追いかける」ような人に対しても、同じように、「こちらだ」とか「あちらだ」という表現を用いながら、探し回る必要がないことを強調されました(21,23)。私たちに問われているのは、今、ここでの生き方です。

ただし、イエスは、「しかし、人の子はまず、多くの人から苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません」(25)とも語られました。それは、日々の生き方を大切にするということが、「この世と調子を合わせる」ことになりかねないからです(ローマ12:2)。それで、「人の子の日に起こることは・・・」と、イエスの再臨のことが、大洪水が突然、ノアの時代の人々に襲ったことと比較して語られます。そのとき、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来てすべての人を滅ぼしてしまいました」(27)と記されます。つまり、神のさばきは突然、予想できない形で訪れるので、わざわいが襲ってから考えようとしても遅すぎるということです。これも、毎日の心の向け方に関することです。そして、それと同じことが、ロトの時代のさばきに関しても当てはまり、「ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降ってきて、すべての人を滅ぼしてしまいました」(29)と描かれます。そして改めて、「人の子の現れる日にも、全くそのとおりです」(30)と記されます。つまり、「人の子の日」を意識して生きるとは、神のさばきを意識して生きることに他なりません。

「なんでこんな嫌なことばかりが起こるのか?」と問う私たちの心の中に、単に、気楽な人生を求める心があるのではないでしょうか。そこには、人生への決定的な誤解があるのかもしれません。確かに、何も思い悩まずに、平穏な毎日を過ごしたいと願うのが人情ですが、聖書のどこにそのような信仰者の例があるでしょう。神に喜ばれる信仰者はすべて、不条理な苦しみを通らされています。どこに気楽に生きた人の信仰の模範例があるでしょう。ノアの時代にも、ロトの時代にも、気楽な生活に憧れた人が、一瞬のうちに神のさばきに会ってしまったのです。

しかも、不思議に、楽に生きたいと願い人は、日々を欲求不満のうちに暮らし、人生の苦しみを覚悟する人には、充実した日々が待っているという逆説がよく見られます。ですから、「人の子の日」を、恐れを持って「待ち望む」ことは、暗い気持ちで生きるのとは正反対に、生かされている喜びを感じながら生きることにつながるのです。

ロシアの小説家アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、ロシヤ共産党からの迫害に耐え、無神論者と妥協するロシヤ正教を公然と非難し、神と祖国を命がけで愛し続け、ノーベル文学賞を受賞しましたが、彼は、「この地上の存在の意味は、私たちが成長するとともに慣れ親しむ考え方である『繁栄』にあるのではなく、『たましいの発展』にある」と言いました。それは、人格の成長こそ、生かされている目的であるという意味です。ただし、そこで自分の人格的な成長を計ってしまうなら本末転倒です。パウロは、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」(ガラテヤ6:5)と言いました。人生は、楽をするためにではなく、使命を果たすために存在するのです。

3.「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから眼を離さないでいなさい」

「その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはなりません」(31)とは、続く、「ロトの妻を思い出しなさい」というみことばとつながっています。主の御使いは、ロトと家族を救い出すとき、「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけないと言われましたが、ロトの妻は、硫黄の火が天から降って、町々の住民とその地の植物がみな滅ぼされる様子に気を引かれて、主の命令に背いて、後ろを振り返ってしまいました。その結果、彼女はたちどころに、「塩の柱」になってしまったのです(創世記19:15-26)。そこでの問題は、主の命令に逆らって、後ろを振り返ってしまったことです。

ただし、人生の振り返りは必要です。黙示録では、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(2:4,5)と記されています。ロトの妻の「振り返り」は、後ろに置いてきた生活への未練の現れだったのではないでしょうか。つまり、主のあわれみを忘れて、この世の富や楽しみで自分の心を満たそうとすることが問題なのです。また、ロトの妻の「振り返り」は、神のさばきを目撃したいという好奇心の現れかもしれません。しかし、彼女が心に留めるべき事は、「神の命令」であり、彼女を逃がそうとしてくださる「神のあわれみ」でした。つまり、神を忘れた生き方こそがさばきの原因となるのですから、神のさばきを恐れるあまり後ろのことに目が向かうなどというのは、信仰が生きて働いていないしるしに他なりません。

その上で、「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」(33)と言われます。それは、神のことばよりも、自分の気持ちや都合を優先する生き方の矛盾です。私たちのいのちを保つのは、この世の財産である前に、神ご自身であられます。ですから私たちにとって何よりも大切なのは、神との関係です。多くの人が、神よりも自分の家族を、また神よりも自分の仕事を優先します。しかし、私たちは身近な人を心から愛することができないからこそ神を求めたのではないでしょうか。また、自分の仕事に行き詰まりを感じたからこそ神を求めたという面があるのではないでしょうか。神との関係を二の次に考える生き方は、短期的にはうまく行くように思えても、長期的には、家族も仕事も財産も、最終的には「いのち」さえ失うことにつながります

その上でイエスは、「あなたがたに言うが」と改めて注意を喚起しながら、「その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに粉をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます」(34,35)と言われました。これは、主の再臨に際して問われているのは、ひとりひとりの信仰であるという意味です。だれも、人の代わりに信じることはできません。ですから、家族を愛するからこそ、家族よりも神を第一とする生き方を選ぶ必要があります。主との関係を曖昧にする安易な生き方は、あなたの大切な人の信仰をかえって堕落させるきっかけになります。なお、弟子たちは、「主よ。どこでですか」と問いましたが、それは、このような「主の選び」が明らかになる場はどこにおいてなのかという問いかけです。それに対して、主は、「死体のあるところ、そこにはげたかも集まります」と不思議なことを言われました。これは、いのちのない、見せかけの信仰の状態が「死体」にたとえられているということではないでしょうか。つまり、「主の選び」が明らかになることを気にしながら生きることよりも、「生ける屍」のような生き方にならないことをこそ常に心がけるべきなのです。

なお、ここで「取られる」ということばの意味に関しては、主のもとに引き上げられる携挙を指すという見方と、反対に、はげたかのような力によっていのちを奪われることの正反対の解釈があります。ただ、どちらにしても、救われる者と滅びる者とが主の日に明確に分けられるということでは同じです。そこで問われているのは、どちらが正しい聖書解釈かと言う以前に、日々の生活で、心の焦点を主に合わせて生きるということです。聖書に関しても信仰の生活の現実に関しても、分からないことが本当に多くあるかもしれませんが、生きた信仰生活の核心は明らかで、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから眼を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)という勧めにあります。

  私たちは日々、イエスを見上げて生きる必要があります。それはひとりひとりに課せられた責任です。そして、神の国は、イエスを信じる者の心の中にすでに実現しています。また、神の国は、イエスを信じる者の交わりの中に実現していることでもあります。私たちは今、ここで、イエスとの交わりの中で、神の国の平安を体験し、それをまた兄弟姉妹の交わりの中で体験することができます。私たちはダニエルが預言したように、この世界をキリストとともに治めるように約束されています。自分をちっぽけに見すぎてはなりません。私たちはキリストとともに王とされるのですから・・・。そして、この世の様々なことに執着せずに、主イエス・キリストに目を向けましょう。キリストのうちにすべてがあります。それがやがて目に見える形で明らかにされます。それこそが神の国の完成のときです。         

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2008年6月 8日 (日)

イザヤ50章1節~52章12節 「さめよ。さめよ。」

                                                            20086月8日 

私たちは心の中に様々な「駆り立て」の言葉を聞き過ぎ、今、ここでの神の語りかけに耳を傾けることができなくなってしまいがちです。多くの人の心には、常に、「急ぎなさい」「もっと努力しなさい」「強くありなさい」「完全でありなさい」「人を喜ばせなさい」という五つの言葉のどれかが響いていると言われます。人によっては、これが「存在するな」という自己否定の言葉と結びついて、「人を喜ばせている限りは生きていて良い・・そうでなければ、生きている資格がない」というささやきを聞き続けるということになります。そして、人は自分の心に聞いている声を人に向かって語ります。人に意地悪な言葉が出てしまうのは、自分を責める言葉ばかりを聞いている結果です。そのような人は、「疲れた者をことばで励ます」(50:4)代わりに、落ち込ませてしまいます。そのような心は、恐れに敏感なようでも、信仰的には眠っているのではないでしょうか。私たちはこの世の価値観から生まれている語りかけと、神からの語りかけとを区別する必要があります。そのために聖霊によって、この心が目覚めさせられる必要があります。

          

1.「主であるヤハウェは・・・朝ごとに私を呼びさまし、私の耳を開かせ(呼びさまし)・・」

「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか」(50:2)とは、神が遣わした預言者の声を神の民イスラエルが無視し続けたことを表します。そして、「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか」(50:3)とは、神にすがろうとしなかったことは、神を軽蔑していたことに等しいと非難したものです。人間関係では、忙しい人の手を煩わすことは悪いこととされますが、神に対して遠慮しすぎることは、信頼の欠如として非難されます。申命記では、「主にすがる」ということばは、「主を愛する」ということばと並行して記されますが(11:2230:20)、主にすがろうとしないことこそが罪なのです。

5049節は、第三の「主のしもべの歌」です。その最初は、「主であるヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教えるです。「疲れた者をことばで励ます」とは、「頑張って!」などという言葉でないことは確かです。それは、「我を張る」から転じた言葉で自分の力を前面に出すことだからです。しかし、疲れた者に力が回復されるのは、人間の努力ではなく、神のみわざです。それは、(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」(40:31)とある通りです。その主への信頼を「励ます」ことができるのも、人間の知恵ではなく、主ご自身が「教え」てくださることばによります。そのために、主は、「朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせ(呼びさまし)、私が弟子のように聞くようにされる」というのです。つまり、先に、「わたしが呼んだのに、だれも答えなかった」と嘆いておられた主ご自身が、「私の耳を開いてくださった(5節)のです。その際、「私は逆らわず、うしろに退きもせず」とは、自分がそれに逆らうことも、臆することもないという意味です。

そして、「打つ者に私の背中をまかせ」(6節)とは、不当な鞭打ちを甘んじて受けること、「ひげを抜く者に私の頬をまかせ」とは、ひげを抜くという当時の最大の侮辱にも抵抗しないことです。イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい(マタイ5:39)と言われましたが、右の頬を打つには右手の裏を使うので、これも侮辱を甘んじて受けるようにとの勧めでした。そのことが、「侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」という生き方として表現されます。そのような辱めに耐えることができるのは、「主であるウェは、私を助ける(7)という保障があるからです。それに続けて、「それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打ち石のようにした」と記され、それがまた、私は、恥を見ることがないと知っている7節私訳)と言い換えられます。これは、侮辱を感じないように心を麻痺させることではなく、主が私を助け、辱めから救い出してくださることを「知って」、苦しみに耐えるという意味です。そのことがまた、私を義とされる方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう・・・」(8)と記されます。

これはたとえば、まわりの人が私に侮辱を加え、罪に定めるような中で、神ご自身が私に、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と語りかけてくださることに、耳を開くということです。クリスチャンであるとは、父なる神からイエスへの語りかけが私への語りかけとなったということです。しかも、そのような声に耳を開くことができるのも、主のみわざに他なりません。人の声を聞かない者は、神の御声を聞くこともできなくなります。私たちが求めるべきことは、人からの嫌なことばにも耳を傾けながら、それ以上に、神からの愛の語りかけに耳を傾けることではないでしょうか。そして、それと同じような意味で、見よ。主であるヤウェが、私を助ける。誰が私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす」9節)と言われます。私に敵対する者に対する神のさばきを知っているからこそ、敵のあざけりや迫害に耐えることができるのです。

イエスは、ローマ総督ピラトのもとで裁判を受けたとき、祭司長、長老たちからの不利な証言が次々となされたときの様子が、「それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた(マタイ27:14)と描かれています。主はこのとき、このイザヤ50章の主のしもべの歌を、こころに思い巡らしていたのではないでしょうか。イエスは、嘘の証言をする者に対する神のさばきを知っておられ、また、神ご自身がイエスを義としておられることを知っていました。また、ユダヤ人の反乱を恐れて不当な判決を下す総督ピラトの臆病さをもよく知っておられました。イエスの沈黙は、神がご自身の傍らにおられることの余裕から生まれています。

イエスはこのイザヤ書504-9節を思い巡らしながら、人々からの罵詈雑言に黙って耐えておられました。私たちもその模範に習うように召されています。その模範とは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです(Ⅰペテロ2:22-24)とある通りです。ここにはイエスの沈黙とイエスの積極的ないやしのみわざが記されています。イエスはご自分が苦しみを担うことで人を生かしてくださいました。私たちは自分を生かそうとする余り、人を押しのけ、軽蔑してはいないでしょうか。それは私たちが自分を叱咤激励しようとする余り、自分を非難し、軽蔑するような言葉ばかりを心に聞いていることの結果です。主であるヤハウェは朝ごとに、私を呼び覚まし、耳を開かせ、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4)と語りかけてくださいます。そのことばに耳を開きながら、同じことばを隣人に語りかけたいものです。

2.「わたしに聞け・・あなたがたの・・掘り出された岩を見よ・・・・このわたしが、あなたを慰める」

51章の最初のことばは、「わたしに聞け」から始まります。その上で、「義を追い求める者、主(ヤハウェ)を尋ね求める者よ」(1)と言われます。彼らには、エルサレムの滅亡という悲劇の中で、神の義を見失い、神に失望する恐れがあったからです。イザヤは先に、「イスラエルの神、救い主よ。まことにあなたはご自身を隠す神」(45:15)と告白しましたが、神は、人の期待に反する姿でご自身を現されます。そのとき何よりも求められているのは、ただ心を透明にして神の語りかけに耳を傾けることです。そのとき、「隠されていることは、私たちの神、主(ヤハウェ)のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちのものである」(申命記29:29)とあるように、隠されていることに人間的な説明を加えようとすることを止め、既に啓示されていることに自分の心を集中すべきでしょう。

「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ・・・」1節)とは、神が、アブラハムとサラを、偶像礼拝の民の間から選び出し、「神の民」を創造されたという過程を振り返るものです。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫を増やしたことを・・・」2節)とは、アブラハムの信仰を導き、その子孫を増やして行ったすべての働きが、神の一方的なあわれみによるということを示すためです。そして、「まことに主(ヤハウェ)はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主(ヤハウェ)の園のようにするとは、主ご自身が神の都エルサレムを再興し、エデンの園のような祝福で満たしてくださるという約束です。神の民の歴史は、エデンの園から始まって黙示録に預言されている「新しいをエルサレム」として完成されるのです。

「わたしの民よ。わたしに心を留めよ・・・わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする」(4)とは、私たちが「世界の光」とされ、用いていただくために必要なことは、何よりもまず神の御教えに耳を傾けることから始まるという意味です。わたしの義は近い、わたしの救いはすでに出ている・・・」(5)とは、先のエルサレムに対する約束が既に実現に向かっていることを指します。

その上で、7節では、1節と同じように、「わたしに聞け」という訴えがなされます。そして神の民が、「義を知る者、心にわたしの教えを持つ民よ」と呼ばれます。ここでは、「義」「わたしの教え」と言い変えられています。「神の義」とは、神が私たちの罪をさばくということ以前に、神が、欠けだらけのアブラハムとその子孫である私たちに真実を尽くし、放蕩息子や娘を育てるように、私たちを成長させてくださるという真実さを意味します。そして、「人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな」と言われながら、その根拠が、「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ」(8節)と記され、神の義と神の救いの永遠性が再び強調されています。

「さめよ。さめよ。力をまとえ。主(ヤハウェ)の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように」(9節)とは不思議な表現です。これは救いをもたらす「主(ヤハウェ)の御腕」が眠っているように見えるからです。「さめよ」という動詞は、504節の「呼びさまし、(耳を)開かせ」と同じです。「ラハブを切り刻み、竜を刺し殺した」とは、エジプトに対する神のさばきを指していると思われます。「海と大いなる淵の水を干上がらせ・・・贖われた人を通らせた」とは、主の御腕がもたらした不思議な救いです。そのような全能の神の御腕が目を覚ます結果として、「主(ヤハウェ)に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り・・・」とバビロン捕囚の神の民がエルサレムに帰還する様子が描かれ、そのときには、「楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」(11)というのです。

そして、12節では、「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める」と、救いが神に一方的な主導権によるということが強調されます。その上で、彼らの罪が、まず、「あなたは主(ヤハウェ)を忘れた」ということにあると指摘され、その主とは「あなたを造り、天を引き延べ、地の基を定めた方」であると説明されています。つまり、創造主を忘れることこそ、罪の根本なのです。そして、その結果として、「一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている」という事態になります。創造主を恐れることを忘れた者は、この世の権力者を恐れるようになるからです。

昔いた会社では、「会社はきちんと君のことを見ているから、あせらなくても大丈夫・・・」などと言われましたが、日本の社会も流動化が進み、欧米のように、自分をアピールしなければ認めてもらえないようになってきているのかも知れません。しかし、それを信仰の世界でしてしまうとパリサイ人になってしまいます。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです(ローマ10:17)とあるように、神の救いのご計画に耳を傾けることこそが、すべての始まりです。私は長らく、自分の信仰を計りながら一喜一憂するという歩みをしていました。しかし、聖書を読めば読むほど、私の救いは神の一方的な選び、神のあわれみに始まるということがわかりました。私は自分の真実には信頼できません。しかし、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼には自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13)とあるように、神は不信仰、不真実な私に信仰を与え、それを完成へと導いてくださいます。そして、この世界もエデンの園の喜びと祝福の回復という完成に向かっています。そして、成長の原動力は、常に、自分で「掴み取る」という姿勢ではなく、「力を抜いて聞く」ことに始まるのです。

3.「さめよ。さめよ・・・あなたの神が王となる」

「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム」(17)とは、エルサレムが眠りから覚めるときが近いからです。ただそれは、主のさばきの後に聞かれることばです。そして、「あなたは、主(ヤハウェ)の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」とは、神の怒りを真っ向から受けることを意味します。 その上で、「それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ(21)と語りかけられますが、これは、先の、「憤りの杯・・を飲み干し」て、悩み苦しんでいるエルサレムの住民を指します。そして、22節では、あなたの主、ヤウェは、こう仰せられる」ということばから始まり、その方は、「ご自分の民を弁護するあなたの神」と描かれ、その方からの慰めのことばが、「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯を二度と飲むことはない」です。これはイスラエルに対する神のさばきが終わったことを指します。

イエスはゲッセマネの園で、「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころの通りになさってください」(マタイ26:42)と祈られましたが、これはイエスご自身がイスラエルの王として、主の憤りの杯を飲み干してくださったことを示しています。それはイエスが私たちの身代わりとしてこの「憤りの大杯」を飲んでくださったことを意味します。私たちはイエスにつながることによって、この「憤りの大杯」を二度と飲む必要はありません。私たちはそのしるしとして、イエスの契約の血としての祝福の杯を、聖餐式において受けさせていただきます。

52章初めでは、「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ・・・」と呼びかけられますが、これは、主のさばきを受けて、ちりの中に伏していたエルサレムを、喜びの祝宴へと招いている優しい語りかけです。「無割礼の汚れた者が、もう入って来ることはない・・・あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ」(1,2)とは、エルサレムが神の都としてすべての国々の上に立つことを意味します。これは、明らかにバビロンの支配から解放されることを意味しますが、現実には、エルサレムはその後も、ギリシャ帝国やローマ帝国の支配下で苦しみ続けました。イエスの時代の人々は、エルサレムが無割礼の汚れたローマ人の支配から解放されることを切望していました。そして黙示録では、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから出て、天から下ってくる(21:2)と記されますが、それこそこの預言が成就するときです。

そして、「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあってなんと美しいことよ」(7)と記されますが、「良い知らせ」の内容は、「あなたの神が王となる」というものです。それは当時としては、イスラエルの神がエルサレムからこの世界全体を治めるという意味に理解されましたが、パウロはそれを、イエスこそ預言された救い主であることを知らせるという意味に解釈しました(ローマ10:15)。そして、主は現在、まず私たちをイエスの弟子として召し、私たちを「国々の民の光とする」(51:4)ことによって、ご自身を世界に知らせてくださいます。それは、神がこの世界の歴史を確かに導いておられ、この世界にご自身の平和(シャローム)を必ず実現してくださるという福音です。

そして、「彼らは、(ヤハウェ)がシオンに帰られるのをまのあたりに見る」(8節)とありますが、イエスのエルサレム入城こそは、そのみことばの成就でした。住民はそのとき自ら預言を成就するかのように、「共に大声をあげて喜び歌い」ました。それはイエスがエルサレムをローマ帝国の支配から贖う救い主だと思われたからでした。しかし、神はそれ以上に、イエスの十字架と復活によって、「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放する(ヘブル2:14,15)という不思議な救いを実現してくださいました。

そして、「主(ヤハウェ)はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した」(10)とは、先の、「さめよ。さめよ・・主(ヤハウェ)の御腕よ」(51:9)に対応するものです。イエスの復活こそ、悪魔と罪と死の力に対する勝利です。そして、「地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」とは、福音が世界中に広がっていることで成就しています。

イエスは、最後の晩餐において契約の杯をお与えになった後で、「わたしの父の御国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26:29)と言われました。これはイエスによる断酒宣言ではありません。かえって、天の御国の祝宴が間近に迫っているという励ましのことばです。イエスご自身も私たちといっしょにこの天の祝宴を待ってくださっています。私たちが守る聖餐式は、天の祝宴を先取りして祝うものです。聖餐式のたびに、「はるかにそれを見て喜び迎える」(ヘブル11:13)という心の姿勢が問われています。そして、その契約の杯で覚えられることは、私たちの意志表明ではなく、イエスによる約束なのです。

「主であるヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教える」(50:4)という約束をイエスの御霊があなたのうちに成就してくださいます。そしてそれはあなたの耳が朝ごとに呼び覚まされることから始まります。「わたしに聞け・・あなたがたの掘り出された穴を見よ・・・」とあるように、私たちはこの世から受けている価値観と、神の救いのご計画を見分ける必要があります。主を最も悲しませる罪とは、何かとんでもない過ちをしでかすということ以前に、神を忘れることです。主があなたになしてくださった救いのみわざを、また主の期待を忘れることこそが最大の罪です。そして、イエスは私たちの身代わりに主の憤りの大杯を飲み干してくださいました。そして、あなたに主の救いが実現しました。その事実に目を覚ますことこそが、聖霊のみわざです。あなたの前には、新しいエルサレムの祝宴が待っています。世界は喜びの完成に向かっています。イエスを救い主として喜び迎える声は、今も世界中で聞こえています。霊の耳を開いて、それに耳を傾けましょう。イエスはすでに世界の歴史を変えてくださいました。私たちはすでに新しい世界に足を一歩踏み入れています。父なる神は、あなたをイエスの弟、妹と見て、あなたに向かって、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語っておられます。

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