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2008年7月20日 (日)

イザヤ59章14節~63章6節 「主(ヤハウェ)の光に満ちた世界に向かって」

2008年7月20日

世界の最初は、「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」(1:2)という不思議な状態でした。その上で、「神は仰せられた」と、おことばひとつで、「光」が創造されます。そして、神は、光と闇とを区別されました。そして、この世界の完成は、光に満ちた世界です。ですから、この世界に、「やみ」に支配されていると思えるときがあったとしても、それを私たちは、新しい恵みの世界が生み出される前触れと見ることができます。私たちの人生の中に何が起ころうとも、それは「やみから光へ」という変化の一プロセスに過ぎません。しかも、創世記では、その日ごとに、「夕があり朝があった」と記されます。聖書の民にとっての一日の始まりは、日没にありましたが、それぞれの日の創造のわざに、やみから光へというリズムが見られるのです。そして、私たち今も、神のことばによって創造された世界に、希望をもって目覚めさせていただくというリズムを感じ取ることができます。それゆえに、私たちは、明日のことを思い煩う必要がありません。今日なすべきことを力いっぱいやって、後は、お祈りして寝るだけですが、神にあっての一日は、この夜の休みから始まっているというのです。

                                                       

1.「主は・・・ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされる」

主は、「見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(59:1,2)と言われました。つまり、イスラエルの苦しみは、イスラエルの神、主(ヤハウェ)が無力だからではなく、彼らの側から、主が助けることができないような状況を作り出したからだというのです。それに対し、イザヤは、「私たちは、そむいて、【主】を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている」(59:13、14)と告白しています。イザヤはイスラエルを代表して自分たちの罪を主に告白し、自分たちが神の怒りを受けて当然であることを認めますが、同時に、民はその声に耳を傾けず、それは民全体の告白とはなっていないというのです。

それに対し、「【主】はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされる」(59:15,16)という不思議な救いをもたらすというのです。ここには神ご自身の心の痛みが描かれています。神は民を救いたいと願っておられるのですが、彼らの真の悔い改めがなされないまま、安易に救いの御手をさし伸ばすことは、彼らの罪を助長することになります。それで、神ご自身の方から、「とりなす者」としての「救いの御腕」をまず伸ばしてくださるというのです。そして、使徒ヨハネは、イエスこそが「主(ヤハウェ)の御腕」(イザヤ53:1、ヨハネ12:38)であると明言しています。またバプテスマのヨハネはイエスを、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました(ヨハネ1:29)。イエスはイスラエルの罪ばかりか、全人類のすべての罪をその身に負って、父なる神にとりなしをしてくださいました。私たちはイエスの十字架に、罪に対する神の怒りとさばきを見ると同時に、神がご自身の御子を犠牲にして私たちの罪をご自身の側から赦してくださろうとする、燃えるような愛を見ることができます。

  

2.「起きよ。光を放て」⇒「あなたの太陽はもう沈まず・・・【主】があなたの永遠の光となり・・」、

60章の初めで、突然、「起きよ。光を放て」と語られます。これは廃墟とされたエルサレムへの語りかけです。それは、人の想像を超えた神の力が働くからです。そのことが続けて、「あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ・・・見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き・・・国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」と描かれます。

イエスは、これをもとに、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)と言われました。この世界は、今も「やみ」におおわれています。しかし、イエスはすでにこの世界を照らしています。やみが深く見えるのは、光が強いほど陰も濃くなるのと同じです。イエスは、この世界の結婚関係を変え、すべてのいのちが同じように尊いという価値観を、既にこの世界に根付かしてくださいました。二千年前の世界と現代の世界の倫理観の違いは、福音が広まった結果です。そして、さらに、イエスは私たちひとりひとりの心を照らしていてくださいます。私たちはイエスを知る前は自分のこころの闇にあまり気づいてはいませんでしたが、イエスを深く知るにつれ、自分の中に住む罪の性質に唖然とするようになります。自分の内側の汚れが照らし出されることを恐れる必要はありません。罪を照らす光は、同時に、罪によって病んでいるアダムの子孫をいやす光でもあります。そして、その光は、今、私たちが何を第一にし、どこに向かって歩むべきかを指し示す光でもあります。私たちはイエスに向かって、「シャイン・ジーザス・シャイン・・」(イエスよ、照らし出してください)と祈るべきではないでしょうか。そして、イエスの光が私たちを照らすとき、私たち自身がイエスの代理として、この世界を照らすことができます。イエスは、「あなたがたは世の光です」と断定してくださったのですから。

  そして、「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る・・・そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ・・・」(60:5、6)とありますが、これがイエス・キリストにおいて成就しました。なぜなら、今、イエスは世界中で、「王の王、主の主」としてあがめられているからです。そして、イエスの国は今も広がり続けています。

それが完成するときの様子が、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである」(60:11)と描かれています。これは新しいエルサレムにおいて成就します。そのときのことが黙示録では、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである・・都の門は一日中決して閉じられることがない。そこには夜がないからである。こうして人々は諸国の栄光と誉れとをそこに携えて来ると描かれています(21:23-26)。

そして、この60章14-20節では、バビロンによって滅ぼされた神の都エルサレムが諸国民の上に高く立てられることが預言されています。その成就がこの黙示録における「新しいエルサレム」の姿であり、それは既に、ここでイザヤが、「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、【主】があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。【主】があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである」(60:19、20)と預言していたことでした。

先に、「起きよ、光を放て」と目覚めさせられた光の輝きが増し加わり、やがて、主が再びおいでになるときには、主ご自身が全世界を照らす光となってくださるというのです。もちろん、世の終わりに近づくにつれ、この世界の混乱がなお増し加わるという現実もあります。しかし、同時に、キリストが支配する神の国は、今も成長過程にあり、完成に向かっているということを忘れてはなりません。義人の道は、あけぼのの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない」(箴言4:18、19)と、あるように私たちは何につまずくかを知らされながら、いよいよ輝きを増すという神のご支配の中に生かされています。

そして、そのとき、神の民も内側から造りかえられています。そのことが、「あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現す、わたしの植えた枝」(60:21)と描かれます。神の民は、すべて、キリストに似た者に変えられているからです。そして、なおここでは、「最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる」(60:22)と述べられていますが、そのことが黙示録では、「そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る・・・神である主が彼らを照らされる・・・彼らは永遠に王である(黙示22:3-5)と記されます。そして最後に、「時が来れば、わたし、【主】が、すみやかにそれをする」(60:22)とありますが、イエスは、「しかり、わたしはすぐに来る」(22:20)と言っておられます。私たちはこの世界を少しでも住みやすくするように努力すべきではありますが、光と同時にやみも強くなることを忘れてはなりません。政治は所詮、様々な利害関係を調整する仕組みに過ぎません。この世界が変わるためには、人間が変えられなくてはなりません。それこそまさに福音の力です。そして、キリストの再臨のとき、この世界が新しくされるという以前に、私たち自身が新しくされているのです。

3.貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすため

61章では最初に、「神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

【主】の恵みの年・・を告げ」と記されますが、このみことばは、ルカ福音書4章によると、イエスが宣教の初めに、ナザレの会堂で朗読された箇所で、主は、これの解説としてたったひとこと、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたの聞いたとおり実現しました(ルカ4:21)と言われました。それはこのみことばにこそ、イエスのみわざの核心が記されているからです。初代教会の時代に読まれた福音書とは、イザヤ書であったということもできます。彼らは、この書を読みながら、イエスがこれらの預言をひとつひとつ成就してくださったことを知って、神をあがめたのです。ただし、主はこのとき、イザヤ書には記されている「われわれの神の復讐の日を告げ」の前で、朗読を止めておられます。それは「神の復讐」は、ご自身の十字架と復活の後の、再臨で成し遂げられることだからです。

       

「わたしは【主】によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ」(61:10)とは、主に油注がれた救い主のことばとして記されています。イザヤ50章や53章での「主のしもべの歌」では、救い主の苦難が描かれましたが、ここではそれと対照的な「喜び」が強調されます。それは、「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」と記されている通りです。なお、「衣」「外套」(ローブ)は、たとえば裁判官が着るローブのように、その働きに任じることを示し、花婿の栄冠とか花嫁の宝玉とは、最高の喜びの祝宴のイメージです。ヘブル書の著者は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と言いつつ、その直後に、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(ヘブル12:2)と記しています。イエスは、神から与えられた使命に伴う苦しみと同時に喜びをも味わっておられました。喜びの伴わない使命感は、人を息苦しくさせるだけです。僕は、伝道者への召しを受けたと感じ、ヨーロッパ日本人キリスト者の集いの準備会もかねたリトリートで、十字架の犠牲の尊さを熱く長々と語りました。でも、そのときの信仰の友の不快そうな表情が今も忘れられません。それは僕が余りにも押し付けがましかったからでした。救いは喜びとして伝わってゆくということを忘れてはなりません。そのように福音が広まる様子が、「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ」(61:11)と描かれます。

「シオンのために、わたしは黙っていない(働くことをやめない)。エルサレムのために、黙りこまない(休まない)(62:1)と記されますが、ふたつの動詞とも、活動をやめないというのが中心的な意味であり、先に主のしもべが「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない」(42:2)といわれていたのと矛盾するものではありません。そこに込められた意味の中心は、エルサレムの救いを全うするという断固たる意思ではないでしょうか。その希望が、「その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」と表現されています。

そして、「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、【主】の口が名づける新しい名で呼ばれよう」(62:2)とは、エルサレムが神の義と栄光を表わす都となり、それは「新しい名」で呼ばれるというのですが、それはバビロン捕囚の際に、「見捨てられている」とか、「荒れ果てている」と呼ばれたことの対照であり、その新しい名には、「わたしの喜びは、彼女にある」という意味が込められています(62:4)。

アブラハムもヤコブも、主によって「新しい名」を与えられました。私たちにも、「主(ヤハウェ)の口が名づける新しい名」があるのではないでしょうか。イエスが洗礼のときに、天の父なる神から、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と言われたように、イエスの御霊を宿す私たちに対しても、「あなたの神はあなたを喜ぶ」(62:5)と言われます。私たちはもちろん、自分の罪深さを認めて、それに涙を流す必要がありますが、それと同時に、イエス・キリストによって与えられた新しいアイデンティティーを発見し、喜ぶべきでしょう。

「新しい名」とは、たとえば、「鈍感に対する敏感」「恩知らずに対する感謝の心」「自己中心に対する愛の人」などのように、自分の問題点を逆転させるような努力目標ではありません。神が一方的な恵みによって与えてくださった新しいアイデンティティーです。たとえば、私は、「不安と孤独」に動かされている自分を発見し、「愛と平安」に満たされる状態を憧れ、それを「新しい名」としていただきたいと思ったことがあります。しかし、それでは、今もなお、不安と孤独感に襲われる自分の気持ちとの戦いを強化し、自己嫌悪を増すということになりました。しかし、このままの自分が神にとらえられ、支えられていると分かったとき、その葛藤から少しは自由にされたような気がします。そのような私にとっての新しい名とは、「抱擁されている者」とか「支えられている者」という名でした。

4.「見よ。あなたの救いが来る」「わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来た」

62章11節で、主(ヤハウェ)ご自身が「地の果てまで聞こえるように」「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と」(62:11)仰せられたと記されます。イエスのエルサレム入城は、この約束がイエスにおいて成就したことを表すものでした(マタイ21:5)。ただそのとき、「彼らは、聖なる民、【主】に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる」(62:12)とありますが、イエスの入城によって目に見えるエルサレムの救いが実現したわけではありませんでした。それどころか、それから四十年後、エルサレムはローマ帝国によって滅ぼされ、神殿も廃墟とされました。

同じような現実が私たちにも起こるのではないでしょうか。救い主があなたの心の中に、またあなたの家庭に来てくださったと喜んだのも束の間、かえって苦しみが増し加わっているようにさえ見えることがあります。「あなたはイエスを信じて、救われたのです・・」と言われても、それが嘘のように思えるときさえあるかもしれません。それは、神が、神の民に敵対する勢力をまだ滅びしていないからです。あなたの周りにはサタンに動かされているとしか思えないような人がたくさんいて、あなたに攻撃を仕掛けています。それに対する答えが63章に記されます。

「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか・・・」(63:1)とは、主(ヤハウェ)が遣わす救い主が、イスラエルに敵対し続けるエサウの子孫、エドムとその首都ボツラをさばいてくださったという記述です。「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか」という問いに対して、「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ・・・わたしは怒って彼らを踏み・・・それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ」(63:3,4)と残酷な表現があります。これは、主がイスラエルの味方となり、その敵を滅ぼしてくださるということを意味します。かつて、イエスは、イザヤ書を朗読したとき、「われわれの神の復讐の日を告げ」(61:2)の手前で止められました。それは、イエスが神のさばきの日を、ご自身の再臨のときまで遅らせるという意味でした。

なお続けて、「わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した」(63:5,6)と記されますが、これは59章16節の「ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義をささえとされた」というみことばを、主の復讐と言う面に焦点を当てて、再度述べたものです。つまり、神の民の救いと神の民の敵の滅亡は神の目にはセットになっているのです。

イエス・キリストの再臨の様子は、黙示録19章15、16節では、「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶを踏まれると描かれます。それはこのイザヤ63章の要約のような表現です。そしてその黙示録の箇所では、それに続けて、「その着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が記されていた」と描かれています。イエス・キリストは、今、すでに、「王の王、主の主」としてこの地を支配しておられます。それがあの有名なヘンデル作のオラトリオ「メサイヤ」の「ハレルヤ・コーラス」で歌われています。私たちの目には、何も変わっていないように見えても、イエスは確かに、この世界を変え始めておられます。ただ、それはあなたが期待するように、またあなたの都合の良いようには進んでいないといだけのことです。神は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(Ⅱペテロ3:9)ために、さばきを遅らせているのです。この地上の不条理がなくならないのは、神が罪人たちに忍耐をしておられるという神のあわれみの現れでもあります

ところで、ローマ帝国によってエルサレムが再び廃墟とされたことは、福音が世界に広がるきっかけになりました。イエスが十字架と復活で、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったので、私たちはもうエルサレム神殿を必要とはしません。それによって、今、私たちは、いつでもどこでも、このように集まって主を礼拝することができるようになりました。しかも、黙示録によると、エルサレムに対するイザヤの預言は、イエスの再臨のときに必ず成就するのです。私たちの人生のゴール、それは新しいエルサレムです。イザヤの預言はひとつひとつ確実に成就しました。そして、残されている預言も成就します。私たちは、主(ヤハウェ)の光に満ちた世界へと招きいれられるのです。

この世界は不条理が満ちています。しかし、よく見ると、何も変わっていないということはありません。確かに、主の光は私たちを既に照らし出しているのです。やみが深く見えるのは、光が生み出す陰に過ぎません。また汚れが目立つようになったのは、光が輝いてことの結果です。すでに、あなたの心に希望が生まれました。しかも、ずっと振り返ってみてください。神はどれだけあなたにいつくしみ深く、あなたに優しくしてくださったことでしょう。目の前が暗いときこそ、主の恵みを数えなければなりません。「光がやみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(Ⅱコリント4:6,7)とパウロは述べましたが、主ご自身が私たちの心を照らし、主(ヤハウェ)の栄光を知らせてくださいました。私たちは今、キリストを通してその栄光を見ています。私たちは、主(ヤハウェ)の光に満ちた世界に向かっています。目の前に様々な暗やみがあっても、人生のゴールを忘れてはなりません。

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2008年7月13日 (日)

ルカ18章1~14節「イエスが喜ばれる信仰」

                                                         2008年7月13日

  キリストの教会においては、どこにおいても十字架がシンボルになっています。それは私たちの主イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして神のさばきを受けてくださったことを意味します。福音の中心とは「罪の赦し」です。それによって私たちは死んでも天国に行くことができます。しかし、私たちの当面の課題は天国行きのこと以前に、毎日の生活にあります。私たちは、「罪の赦しは、何のため・・・」という問いかけが必要ではないでしょうか。  

先週読んだイザヤ59章1,2節に、「見よ。主(ヤハウェ)の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と記されていましたが、イエスの十字架はまさに神と人との仕切りを取り去って、このままの私たちを神の子どもとするためでした。私たちの信仰とは、私たちがイエスと同じ神の子どもの立場に入れられたことを覚えることです。天地万物の創造主はあなたの個人的な「パーソナルな父」となってくださいました。そしてその喜びは毎日の祈りの生活の中で体験できます。信仰とは、祈りの生活に他なりません。

1.「神は・・選民のために・・・正しいさばきをしてくださいます」

イエスは、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」、ご自分の弟子たちに「たとえを話され」ました。ここで、「いつでも祈るべき」と記されているのは、たとえば、日に三度、エルサレムに向かってひざまずいて祈るというような、形の整った祈りではなく、生活のすべてが祈りになるべきことを指すと思われます。私たちは困ったときにも、嬉しいときにも、一瞬一瞬、仕事に集中しながらでも、「主よ!」と御名を呼ぶことができます。また、「失望してはならない」とは、「あきらめない、投げ出さない」ということを意味します。

このたとえは、何とも不思議で、以下のようなものです。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った」

  私たちの悩みの最も多くは人間関係に関わることです。そのようなとき私たちが最も多く取る態度は、身近な人に自分の不満を聞いてもらい、慰めてもらうようなことです。また悩みが高じたときには、自分に害を加える人に影響力を発揮できる権威を持つ人に、自分の置かれている不当な現状を訴えます。そのようなとき普通なら、神を恐れず、人を人とも思わない」ような裁判官には近づきません。しかし、この「やもめ」は、この「裁判官」こそが、この問題にさばきをつけることができる立場にあることを見極め、何度拒絶されても訴え続けていたというのです。そして、ついには彼も重い腰を上げざるを得なくなります。それは、「うるさくてしかたがないから」だというのです。

 このたとえ話をもとに、主は、「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」(6-8節)と言われました。

  これは、神が貧しい私たちの味方となって「さばきをつけ、あなたを襲う不条理を正してくださるという意味です。なお、イエスは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われましたが、それに親しんでいる方は、ここで、「さばきをつける」ということばに違和感を持つかもしれません。しかし、私たちが不当な仕打ちを受けたときに、まず最初に出てくる正直な気持ちは、「私の相手をさばいて、私を守ってください」という訴えではないでしょうか。実際、あなたが不当な仕打ちを受けたとき、身近な人に訴えるのは、自分の被害者感情であって、「どのようにあの人を愛するべきでしょう・・」という問いかけではないと思います。ところが、しばしば、私たちは神にお祈りするとき、「あの人の罪を許すことができますように・・」などと祈ります。しかし、それは傲慢にも、自分を裁判官の立場に置いている祈りではないでしょうか。詩篇などに圧倒的に多い祈りは、主の公平なさばきを訴える祈りです。それはたとえば、「ゆえなく私を憎む者は髪の毛よりも多く、あざむいて滅ぼそうとする敵は強いのです。それで私は、盗まなかった物さえも、返さなければならないのでしょうか・・・あなたの憤りを彼らに注ぎ、燃える怒りで圧倒してください・・・彼らの咎に咎を加え・・いのちの書から消し去り、正しい者と並べ記さないでください」(詩篇69:4,24,27,28私訳)というようなさばきを求める祈りです。私たちは身近な人に対しては、その立場をわきまえてもっと節度ある話し方をする必要がある一方、神に対してはもっと正直になるべきではないでしょうか。

 イエスが、「自分の敵を愛しなさい」と言われたのは、悪人をさばくのは、神の専権事項であるということを前提としています。しかも、「迫害する者のために祈る」のは、神のさばきを目の当たりに思い浮かべる結果です。しばしば、「さばきをつけてください!」と真剣に祈った結果、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです」という祈りが生まれて来るのではないでしょうか。それは自分のやり場のない怒りの感情を神に正直に訴えた結果として、聖霊によって与えられる祈りです。それは心が開かれた結果生まれるものです。ところが、多くの人は、本来、神の霊がなしてくださる働きを自分の意思でしようとして、空周りを起こしています。

イエスは、「神は・・選民のために・・・正しいさばきをしてくださいます」と言われました。神はあなたを選んでくださいました。それは創造主が、あなたのパーソナルな神になることによってご自身をあかしするためです。そのことをパウロは、神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と断言しました。しばしば人は、信仰を何かの法則のようにとらえ、「正しい祈りをすると、期待した答えが返ってくる」などと言いますが、そこでは「神との親密な交わり」などという関係の概念はなく、祈りが聞かれるかどうかは私たちの信仰次第と解釈されています。しかし、神はご自身を、アブラハムを初めとする信仰者との個人的な関係の中でご自身を現そうとしておられます。そして、聖書には、神がアブラハム、イサク、ヤコブの味方になってくださったということが記されています。それは愛に満ちた神は、ご自身との親密な交わりを人と築くことを、何よりも求めておられるからです。

2.人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか

イエスはその上で、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(8節)と不思議な問いかけをされました。それはこの「やもめ」のように、自分の訴えが無視されていると見える中でも、あきらめずに訴え続ける信仰であり、また神が最終的に、この地に公平なさばきをつけてくださるということを信じる信仰です。

「人の子が来たとき・・」とは、キリストの再臨によってこの世界に、目に見える形で、神の国が実現するときを指します。主は、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)と約束しておられますが、私たちの信仰の内容が、「神の平和」の完成を確信するという再臨信仰に結びついているかが問われています。

「境界線」とか「クリスチャンの成長をはばむ12の誤解」の著者として有名なヘンリー・クラウド博士は、私たちの信仰の成長に四つの段階があると言っておられるとのことです(中村佐知さんのブログからの孫引きで自分なりに解釈)。その第一は、「信仰を持っていない」(Non- Faith)段階、第二は、「制度的な信仰」(Institutional Faith)の段階、第三は「砂漠」(Desert)の段階、第四は、「神秘的で現実的」(Mystical&Practical)な段階です。

第一の「信仰を持っていない」というのは、私たち信仰者の心の中にも、ときに起きる現実ではないでしょうか。

第二番目は、原因結果が明らかな信仰の段階です。たとえば、「神を全身全霊で愛するなら、あなたの人生は祝福される。父母を敬うなら、しあわせになり、地上で長生きができる(エペソ6:3)。夫婦が互いに愛し合うと、子どもは安定して育つ」というような聖書に一貫して記されている原則です。それを生活の中で具体化することによって、私たちは良い結果を見ることができます。しかも、神はしばしば、信仰生活の初期には、私たちを本当に甘やかしてくださり、祈りが次々と聞かれるという体験もできます。イエスを信じることによって人間関係も仕事もほんとうに変わったと思え、神は私たちの祈りを本当によく聞いてくださると感じ、信仰生活がバラ色に見えてきます。ただ注意しないと、この段階に生きている人は、困難を抱えている人を見るとやたら、アドバイスをしたくなります。

ところがそのうち、信仰が壁にぶつかったように思える、信仰生活が「砂漠」のように思えるときがきます。「祈っても、何の答えもない・・・神が遠く離れているように感じる」という段階です。そのようなときに、人は、「私は何か方法が間違ったのか・・・」と反省します。また苦しみにあっている人に、「このようにしたら良いよ・・」と、How to式の教えをします。しかし、詩篇の祈りの多くの部分は、期待通りに行かない中で、「神よ。なぜ、いつまでも拒まれるのですか・・・」などと(詩篇74:1)、その原因が神の側にあるように訴えています。ヨブが理由もなく不当な苦しみにあったとき、彼の友人は、その原因がヨブの側にあるに違いないと迫りました。しかし、それはヨブをさらに苦しめ、またヨブの神を怒らせただけでした。ところがヨブは、目に見える状況は何も変わらないのに、「あなたにはすべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」(ヨブ42:2)と神に告白できました。ヨブは人生の砂漠を通して、神とのパーソナルな交わりを知ったからです。私たちは自分の人生が順調なとき、世界が自分を中心に動いているような錯覚を抱きます。しかし、神は私たちの期待に答える為に存在しておられる方ではありません。神は世界の救いという大きな目標の中で、私たちひとりひとりに使命を与えておられます。

そのように、神ご自身のご計画の中で自分の人生を見直すというのが、この第四の段階の「神秘的で現実的」(Mystical&Practical)な信仰生活です。それは、ルールよりも関係によって動機付けられ、内側にキリストのいのちが形作られることによって支えられている信仰です。イエスは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)と言われました。僕は、自分はそれなりに真面目で能力があると自負していましたから、「イエスを離れては、何もできない」という断言の意味が長らく分かりませんでした。しかし、信仰的な「砂漠」を通り抜けたとき、その意味が少しは分かったような気がしました。私はそのとき、自分の責任ではないと思える問題の責任を負わざるを得なくなり、自分の無力さに圧倒されていたからです。私ちはアブラハムのように、自分に都合の良い生活の場を抜け出て、神に向かって生きるように召されています。ですから、自分の心地よい世界を抜け出て、砂漠を体験するのは、神のみこころです。そして、そこでこそ、自分の力の限界と「弱さのうちに働くキリストの力」を体験できます。しかし、自分の殻の中ばかりで生きていると、すぐに、イエスなしに何かをできるという気持ちになってしまいます。

そして、自分の信仰が、イエスが喜ばれるものになっているかどうかの試金石は、そこに人へのさばき心があるかどうかによって判断できるように思います。第二の「制度的な信仰」の段階にいる人は、物事がうまく進んでいないのは、本人に問題があるとしか思えません。だから人をさばくことができるのです。私たちはいつもこの信仰の四段階を、行きつ戻りつしていると言えるのではないでしょうか。これは信仰の進歩を計る手段ではありません。信仰生活をもっと神の視点から見ることを学ぶためです。「砂漠」のただ中にいるような中でも失望する必要はありません。イエスが再臨のときに、私たちのうちに見たいと願っておられる「信仰」とは何なのかを考えるべきでしょう。

3.「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」

イエスは、続けて、「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して」、以下のようなたとえを話されました。ここで、「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった」という場面が紹介されますが、これは驚くべき対照です。当時のパリサイ人」は人々から尊敬を集めていました。彼らは約束を守り、礼儀正しく、社会の規範を重んじていました。誰の目からも社会の模範と見られる人でした。一方、「取税人」は、お金のために自分のたましいをローマ帝国に売り渡したような人たちでした。彼らは現在の税務署の役人とは根本的に異なり、徴税請負人として、ローマ帝国の権力を傘に来て人々から強制的に税金を集め、政府に渡す税金と、集めた税金の差額を合法的に自分の収入とすることができました。普通の感覚の人間だと全うできないような働きで、当然、ユダヤ人からは最も忌み嫌われていた人間でした。

そして、「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します(原文:感謝します。私が他の人のようでないことを・・)。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』  あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

パリサイ人は何の嘘も言っていません。彼らはまさにそのような規律正しい生き方をしていました。何が問題なのでしょう・・・。彼らは、神に対して自分のアピールをしているだけで、祈っているわけではないのです。彼らにとっての宗教とは道徳でした。彼らは本当の意味では、神を必要とはしていません。しかも、最悪なのは、神の前で自分を誇り、「私はほかの人々のよう・・・ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」などと、取税人を初めとする他の人々の痛みを察することもなく、「人を人とも思わない」態度をとっていることです。もし、彼がこの取税人から個人的に不当な徴税をされ、苦しみの中で、「主よ。さばきをくだしてください」と祈るならずっと可愛いのですが、彼は自分を誇るために、取税人の人格を否定するように引き合いに出しているだけです。

一方、取税人はただ、神の前で、誇るべき何物も持っていません。彼は、神の正しいさばきが下されたなら、自分はたちどころに滅ぼされてしかるべき罪人であることを認めています。しかも、取税人をやめたら自分も家族も生きて行けません。「やめたくてもやめられない・・・」そんな葛藤の中で、ただ神にあわれみを請うしかできないのです。私たちはしばしば、神の御教えをルールブックのように見ていることがないでしょうか。しかし、旧約と新約の区別とは何よりも、「聖霊のみわざ」にあります。人は、神の御教えを自分の力で全うすることができなかったため、神はご自身の聖霊を私たちに授け、私たちの意志自体を動かし、私たちが神の御心を喜び、行うことができるように内側から変えていてくださるということです。そして、聖霊のみわざがなされるための最初の段階とは、自分の力に失望することです。自分の意思と力で良い行いができると思っていたパリサイ人はイエスを十字架にかけました。しかし、取税人は、イエスが神の御子キリストでなければ、自分に希望がないことを知っていたのです。

私たちは自分の生まれる環境を選ぶことはできません。パリサイ人は、たまたま、その出生のゆえに、自分が善人であると思えるような生き方ができたのです。しかし、神が求めておられたのは、彼らにとっての隣人の枠を超えて、困難を味わっている人の重荷をともに負うことでした。そして、彼らが自分の狭い枠を超えて、神と隣人とのために生きようとしたなら、取税人の葛藤が分かったことでしょう。人を愛そうとしない者は自分の罪も分かりません。

「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」というのは、教会での祈りの模範となりました。ラテン語の礼拝式文に、「キリエ・エレイソン」(主よ、あわれんでください)という祈りがあり、それはグレゴリオ聖歌などの中心の歌詞となっています。私たちも自分の祈りや賛美の中心に、この取税人の祈りを入れるべきではないでしょうか。

イエスの一番弟子のペテロも、自分と他の弟子たちとの信仰の違いを強調するかのように、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と豪語していましたが、彼は三度もイエスを知らないと否認したばかりか、三回目は「のろいをかけて」、つまり、「もし私がイエスの弟子ではないということが嘘であるなら、神のさばきを受けても構わない・・」というほど大胆に嘘をつきました。彼は自分が最低の弟子であることをあらわにしてしまいました。彼は、そのような自分を恥じながら、後に、「神は高ぶる者に敵対しへりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良いときに、あなたがたを高くしてくださるためです」(Ⅰペテロ5:5、6)と告白しました。

この英語訳は、「Bow down, then, before the power of God now, so that He may raise you up in due time;」です。これを神への告白とすると、「You raise me up(あなたが私を高めてくださる)になります。この有名な曲の原歌詞は以下のようになっています。その趣旨は、神の前で自分の弱さを認めるとき、神が近づき、あなたに力を与えてくださるということですが、これは、先の信仰の第四段階、「神秘的で現実的」(Mystical&Practical)な生活に相当すると言えるのではないでしょうか。これは、第二段階の制度的なHow to 式の解決とは異なり、理屈で説明できるものではなく、体験しないと分からない神秘的な感覚です、しかし、それは同時に、極めて実践的なものでもあります。

「1.私が落ち込んで、魂がとても疲れているとき  困難にみまわれ、私の心が重荷を抱えているとき

私は立ち止まり、ここで静かに待ち望む    あなたが来て、そっと寄り添ってくださるまで

※ あなたが私を高くしてくださるから 私は(困難の)山々の上にも立っていられる
あなたが私を高くしてくださるから 私は(人生の)荒ぶる海にも歩み出られる
私は強くなることができる あなたが私を背負ってくださるなら  

あなたは私を高くしてくださる 私以上の私になれるまでに ※ 繰り返し

 2.渇きのないような人生などは どこにもない  休みのない心は 何と不規則に鼓動を繰り返すことか

しかし、あなたが来られ 不思議で満たしてくれるとき  私はときに 永遠を垣間見ているように思う

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2008年7月 6日 (日)

イザヤ56:1-59:13 「主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」

                                               20087月6日

  私たちプロテスタントの教会では、私たちが義と認められるのは、行いによってではなく信仰によるという「信仰義認」の教えが受け入れられています。しかし、それが、「信仰深い者は救われる」という教えにすりかわってしまうことがあるのではないでしょうか。そして、無意識のうちに、ある特定の枠にはまる人だけが救われるというように解釈し、人を排除するばかりか、自分自身のうちにある醜い不信仰な思いにも蓋をして、それを排除してはいないでしょうか。しかし、神は、私たちが救いようもない不信仰な者だからこそ、人となられたのです。

1.「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」

56章は、主ご自身による、「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ」という命令から始まります。「神のが、「神のさばき」ではなく「神の救いの言いかえになっているのが慰めであり、その希望が、「公正を守り、正義を行う」という善行の動機になります。その上で、「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず・・」(2節)という安息日の教えが突然述べられますが、そこでは不思議にも、「主に連なる外国人」とともに、「ああ、私は枯れ木だ」と嘆く「宦官」に対する慰めの招きが記されます(3節)。当時、主(ヤハウェ)はイスラエルの民だけの神であると理解されていました。まして、後宮に仕えるために男性器を切り取った宦官などが神の民に加えられるなどということは信じられないことでした。

たとえば「使徒の働き」に、エチオピアの女王の財産全部を管理していた「宦官」が、エルサレムに礼拝に来たことが記されていますが(8:27)、当時の規定では、彼は、多大な時間と労力をかけても、神殿の中庭に入れてもらえないばかりか、自分で祭壇にいけにえを献げることも許されず、異邦人の庭から神殿の中心を仰ぎ見ることが許されるだけでした。ただ、そこには、鳩を売る者、牛や羊を売る者たちが座り(ヨハネ2:14)、両替人もおり、大声で客を呼び寄せていたことでしょう。彼らは、「宦官」を軽蔑しながら、その謙遜な心を見もせずに、お金を取ることばかりを考えていました。イエスが神殿から商売人を追い出したという宮清めは、そのような神殿の仕組みへの抗議行動でした。主が神殿の中を歩まれた時、敬虔な心を持った外国人や身体障害者、子供たちが、礼拝の場から排除されているのをご覧になり、彼らがこのような喧騒の中でしか神を礼拝できないことに、心を痛められたに違いありません。イエスは、このときこのイザヤのみことばを思い巡らしていたことでしょう。そこには、神の民から排除されていた人々も、「わたしの安息日を守り・・契約を堅く保つ」ことで、「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(7節)と記されていました。それでイエスは、「宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒す」という実力行使をし、この7節を引用し、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と言われました(マルコ11:15-17)

当時としては宮での売買を認めることには合理的な面がありました。一般の硬貨はローマ皇帝の肖像が描かれていたため人々は両替して献金しましたし、神殿内部で売られた動物は保証つきで、いけにえとして不適格にされる心配はありませんでした。しかし、主を求める異邦人の礼拝者は、この利便性の追及の影で、静かな礼拝の場を奪われていたのです。一方、祭司たちは、この商売の許認可権によって特別収入も得られました。しばしば、イエスの宮清めの意味を誤解し、教会でバザーや信仰書の販売をしてはいけないという人がいますが、イエスの頭にあったのは何よりもイザヤ56章を成就させることでした。問題は、宮での商取引ではなく、自分たちのカルチャーに会わない人に静かな礼拝の場を提供することにあります。人を見かけで判断せずに、この教会が「すべての民の祈りの家」と呼ばれるようになることこそが、主のみこころです。使徒ペテロは後に、救いの広がりを、「主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2:32)というみことばで表現しました(使徒2:21)。

ところでマタイ福音書では、イエスの宮清めの直後、「また(すると)、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」(21:14)という新しい展開が起こったことが記されています。主が世的な利便性の論理を排除した時、世で軽蔑されていた人々が前面に出て来ることができました。盲人や足なえは、神にのろわれた者と見られ、神殿に居場所がありませんでした。しかし、商売人が追い出されたとき、彼らはイエスのみもとに近づくことができ、癒されました。神殿は弱者を排除する場から、いやす場へと変えられたのです。これに続いてもう一つの大きな変化が起きました。それは、宮の中に子どもたちの、「ダビデの子にホサナ」という賛美が響き渡ったことです(21:15)。子どもは伝統や慣習から自由で、みわざを素直に感動しました。この地上のキリスト教会も、世的な利便性を追求しながら、様々な障害者の方や子どもたちを礼拝の場から締め出してきたということがないでしょうか?これは心の宮の問題でもあります。いけにえの動物が動き回っている所に盲人は安心して入ってこられません。同じように大きな理想を追及するあまり、自分の弱さを締め出してはいないでしょうか。精神的な弱さを覚える人を受けとめることは、自分の弱さを受け入れることでもあります。両替人の台に、子どもは邪魔者です。同じように、心が忙しすぎるなら、自分の中に住む子どもの声を窒息させ、喜びがなくなります。目の前の子どもを受け入れることは、自分の中にいる子どもの気持ちを受けとめることでもあります。「あなたがたのからだは・・神から受けた聖霊の宮である」(Ⅰコリント6:19)とありますが、神の前で沈黙によって心の宮清めをも行なう必要があります。その時、あなたの内側に、真心からの神への賛美と、自由な喜びが生まれます。

 

2. 「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」

  57章 3節から13節には、姦淫と偶像礼拝にふける人の姿が描かれています。特に10節では、彼らは偶像礼拝のための「長い旅に疲れても、『あきらめた』とは言わなかった・・・元気を回復し、弱らなかった」と記されます。これは、しばしば現代の元気に満ち溢れた偶像礼拝者に適用できることです。そして、このように偶像礼拝の習慣を混ぜ合わせて主を礼拝する人に対し、「わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか」(11節)と警告を発しておられます。そこには主のさばきが迫っていることが示唆されています。

その上で、私たちすべてに対する主のみ教えの核心として、「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」(15節)と語られます。なお、ここで「へりくだった人」とは、自分から謙遜になったというより、結果的に「低くされた人」を指します。福音が広まった結果、謙遜が美徳とされ、謙遜なふりをする人が多くなっていますが、神が目を留めてくださるのは、本当に自分の惨めさや弱さに打ちひしがれている人であり、自他共に認める尊敬されている人格者のことではありません。この世では、しばしば、10節にあったように、偶像礼拝者のほうが元気に見えるという現実があります。しかし、イエスはこのみことばを前提に、「こころ(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われました。人の目には低いところに「高く聖なる神」がいてくださるという神秘がイエス・キリストにおいて明らかにされました。それはまさにイザヤ53章に描かれていた「主(ヤハウェ)のしもべ」の姿です。

そして、主は「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから・・わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう(16-18節)と言われます。ここでは不思議にも、主の怒りを受けながら、自分の道を改めようとしない頑なな者をも主が癒してくださると約束されています。

その上で主は、「平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」(19節)と言われます。これは、「心砕かれて、へりくだった人」への語りかけです。それと正反対なのが「悪者ども」です。それはこの世的には有能な善人と見られるかもしれません。しかし、彼らは自分の力で生きようとして神を求めないという意味で「悪者ども」と呼ばれるのです。そして、「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。『悪者どもには平安がない』と私の神は仰せられる」と記されます(21節)。

私は信仰に導かれても、長い間、主の御前に静まることができませんでした。静まろうとすると、心の奥底に押し込めようとしていた不安や孤独、怒りやねたみなどのマイナスの感情が沸きあがって来るばかりでした。その頃の私は、「この世で成功することがクリスチャンとしての証になる・・」などと強がっていました。自分が善意で行動しながら人を傷つけてしまうような者であるということは分かっていませんでした。しかし、自分の中には神に喜ばれる信仰すらもないということが思い知らされ、静まることができない自分を、イエスにあって受け入れることができたとき、静まることが苦痛ではなくなりました。神の目からは、自分の気持ちに蓋をしていることができるようなこの世の善人こそが「悪者」なのです。その隠された正体は、静まろうとするときに明らかになります。しかし、そこで自分の心の貧しさを主のみ前で受けとめ、主にすがる者に、神の「平安」「いやし」が訪れてきます。

3. 「わたしの好む断食はこれではないか・・・」

58章では偽善に満ちた礼拝の問題が指摘されています。3節では、当時のイスラエルの民の神に対する不満が、「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか・・」という訴えとして描かれます。それに対して主は、「見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするため・・・わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」(3-7節)と仰せられます。ここで非難されている偽善者の礼拝とは、まさにイエスの時代のパリサイ人の姿そのものです。彼らは、主を全身全霊で愛しているように見せかけていますが、身近な人の苦しみを見て、「あれは自業自得だ・・神にのろわれているのだ・・」と軽蔑するばかりでした。しかし、主のあわれみを知ることこそが、主を愛することの核心ですから、主を愛することと隣人を愛することは、本来必ず並行して進むはずなのです。隣人愛の見られない信仰は、偽善に過ぎないということは、イエスが言われる前に、既に、イザヤ書のテーマであったのです。

そして、隣人愛の伴った礼拝をするときの希望が、「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる・・・そのとき、あなたが呼ぶと、主は・・『わたしはここにいる。』と仰せられる」という主との親密な交わりが回復されます(8、9節)。また、これらのことが、「もし・・・飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる」と言い換えられます(10節)。マザー・テレサなどは、このみことばをもとに「神の愛の宣教者会」を始めました。

しかも、「真昼のようになる」ことが、灼熱の太陽をイメージさせることがないように、「主(ヤハウェ)は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる」とも言われます(11節)。なお、ここで「思いを満たす」とは、原文で、「たましいを満足させる」と記されています。これは、どのような厳しい状況に置かれていても、神ご自身がたましいの奥底に喜びと潤いを与えてくださることを意味します。イエスはサマリヤを通り抜けられたとき、スカルの井戸で休みを取り、孤独なひとりの女性に、「この水を飲む者は、だれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:13,14)と言われました。私たちはいつでもどこでもイエスの御名を呼ぶときにいのちの喜びを体験することができます。いのちのみなもとである聖霊ご自身が宿ってくださっているからです。

そして、最後に、主は安息日律法を回復するようにと勧め、「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日』と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主(ヤハウェ)をあなたの喜びとしよう・・・」と述べられます(13,14節)。これは、安息日を守ることによって、ダビデ王国が回復されると解釈できます。そのため、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、安息日を守ることに必至になり、たとえば、敵の攻撃を受けるような中でも礼拝をし続けて剣で殺されたということが美談になるほどでした。そのような中で、安息日に歩いて良い距離を規定したりと、禁止規定ばかりを一杯に作るようになりました。そのような中で、先の断食の場合と同じように、貧しい人々がかえって苦しむということが起こっていました。しかし、このイザヤの記述では、「喜びの日」「はえある日」という祝祭の面が強調されています。イエスが安息日に敢えて人々を癒されたのは、そのような安息日の喜びを回復するためでした。イエスは神が好まれる安息日を教えてくださったのです。

4.見よ。主の御手が短くて救えないのではない・・・あなたがたの咎が・・・神との仕切りとなり

59章の初めでは、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と、「救い」が何よりも、「咎」「罪」の問題が解決され、神との交わりが回復されることにかかっていると説明されます。絶望的な状況になったとき目の前の問題を解決することばかりに夢中になることがありますが、何よりも大切なのは、すべてを支配しておられる創造主との関係をきよく保つことにあります。神にとって不可能なことはありません。問われているのは、その方が味方になっておられるかという神との関係です。そして、イエス・キリストが十字架で成し遂げてくださった神との和解こそ、この問いに対する答えでした。

その上で、3-8節ではイスラエルの民の罪の現実が生々しく描かれています。特に、「正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく・・・」(4節)というのは、人々が自分の身を守ることばかりに夢中になり、人の権利が踏みにじられているのを見過ごすようになっている現代の日本にそのまま適用でします。使徒ヤコブも、「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です」(4:17)と語っています。積極的に人を傷つけはしない人でも、この点では自分の正義を主張できなくなる人が多いのではないでしょうか。しかし、そのような中でも、「むなしいこと(茫漠)にたより、うそを言い」(4節)とあるように、自分を正当化するための議論ならいくらでも出てきます。しかし、それは所詮、茫漠であって、何の正義も生み出しません。そして、「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず・・・」(7,8節)というみことばは、ローマ人への手紙3章15-17節で引用されます。そして、その結論として、すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3:23,24)と述べられます。

9-13節には、先の自己弁護とは正反対の、イスラエルの民のまっすぐな悔い改めが表現されます。そこでは、まず自分たちの悲惨が自業自得であるとの告白が、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている」(12節)と記されます。

そして、「私たちは、そむいて、主(ヤハウェ)を否み、私たちの神に従うことをやめ・・・心に偽りのことばを抱いてつぶやいている」(13節)とは、私たちにも起こりえることで、これこそが罪の根本です。しかし、このように自分の罪を認めることができることこそ、神による救いの始まりです。最初の人間アダムは、明白に神に背きながら、自分の罪を認めることができませんでした。イエスの時代のパリサイ人も、自分を正当化することに長けているばかりで、自分の罪を認めることができませんでした。主の御手を妨げる最大の罪とは、自己義認です。パウロは、同時代のユダヤ人について、「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします」と言いながら、「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」と嘆いています(ローマ10:2,3)。彼らは、自分の正義を主張することによって、キリストの十字架によって罪人を義とする神の義を拒絶してしまいました。つまり、自分の罪と咎を認めることができないことこそが、最大の救いの障害になるのです。

イエスは救われ難い私たちを招くために世に来てくださったという原点を、決して忘れてはなりません。私たちは無意識のうちに、「立派なクリスチャンになろう!」などと思いながら、自分の中に住む醜い思いに蓋をしていることがないでしょうか。自分の中に住む子どもの心を、傷ついた心を押し殺してはいないでしょうか。それは、静まりの中で表面に噴出してきます。しかし、恐れる必要はありません。イエスはサマリヤの女の乱れた生活を知っていながら、声をかけ、彼女に永遠のいのちへの水がわき出る泉を与えてくださいました。イエスは安息日の喜びを回復してくださいました。一方、イエスは当時の宗教指導者を驚くほど厳しく断罪されました。それは彼らが自分たちの罪を認めようとしなかったからです。自分が癒される必要のある人間だということを認めない人は神の救いを求めません。しかし、私たちが自分に神の救いが必要であることを認め、主(ヤハウェ)の御名を呼び求めるなら、私たちはどんな人でも救っていただけるのです。イエスこそ人となってくださったヤハウェです。

ただし、目に見える神の救いは余りにも遅く感じられることがあります。イザヤの預言の意味が真に理解されるようになったのは、それから七百年後に現れたイエス・キリストにおいてでした。神のご計画は私たちの想像を超える気の長いものです。たとえば、私は立川独立前の頃、今から十数年前の様々な出来事の中で、自分自身の問題に嫌というほど直面させられたことがあります。そのような中で出会ったひとりの宣教師が、「イエス、あなたのもとへ」というドイツで流行っている曲を紹介してくれました。私はそれに深く慰められ、それを日本語で歌えるように以下のように訳しました。そこには、福音の核心が分かりやすく歌われています。今になって、あのとき様々な傷を受けながら、主が不思議な慰めを与えてくださったことを懐かしく思い出すことができます。そして、今もいろんなことがありますが、ひとつひとつのできごとの中に、主のみわざを認めることができます。

1.イエス、あなたのもとへ 私は  このままの姿で 来よう

       もう 愛されようと つとめなくても あなたは十字架で すべてを赦して 

       とまどう私に その手を差し伸べ  「そのままおいで」と、招く。

2.イエス、あなたのあとを 私は  このままの姿で 歩もう

       もう醜い思い 隠さなくとも  あなたは私の すべてを知りつつ

       この身を用いて みわざを成そうと  「そのままおいで」と招く

3.イエス、あなたのもとで 私は  造り変えられて 行こう 

       もう 古い自分に 縛られなくとも  あなたは私に 御霊を遣わし

 暗い世を照らす 愛の光に  「必ず変えよう」と、招く。      繰り返し

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