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2008年8月31日 (日)

エレミヤ4章5節~6章30節「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」

                                                2008831

  ヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神科医は、アウシュビッツ強制収容所で、寒さに凍えながら強制労働に駆り立てられながら、ふと、愛する妻の面影を思い浮かべ、空想の中で彼女と対話し、彼女の微笑を見ることができました。人はどんな悲惨の中でも、愛する人の精神的な像を想像して自らを満たすことができるのです。そのとたん、彼は、彼女の眼差しの中で、人間の存在の目的を、「愛による、そして、愛の中の被造物の救い」であると悟り、「あなたの心に私を印として置いてください・・・愛は死のように強いのですから」(雅歌8:8私訳)の意味が分かったとのことです。それは伴侶でなくても、父でも母でも、またその他の大切な方の面影でも同じでしょう。

1.「主(ヤハウェ)の燃える怒りが、私たちから去らないから」

 ユダの国々に告げるように命じられたことば、集まれ。城壁のある町に行こう」(4:5)とは、難攻不落のエルサレム城内に逃れよとの勧めです。それは主が、わたしがわざわいを北からもたらし、大いなる破滅をもたらす」とご自身で予告しておられるからです。そして、「獅子はその茂みから上って来、国々を滅ぼす者は彼らの国から進み出た」とは、バビロン帝国が北から迫っていることを指します(4:6,7)。なお、バビロンを動かしておられるのは主ご自身であるからこそ、「荒布をまとい、悲しみ嘆け。主(ヤハウェ)の燃える怒りが、私たちから去らないからだ」(4:8)という悔い改めの祈りが求められています。そして、「主(ヤハウェ)の燃える怒り」とは、聖書を貫くテーマです。

主は、「十のことば」で、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。わたしはヤハウェ、あなたの神、ねたむ神である。わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・」(出エジ20:4,5)と言われましたが、主の燃える怒りは、この「ねたみ」から生まれます。そして「ねたみ」は主の燃えるような愛と表裏一体です。雅歌の作者は、愛は死のように強くねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません」(8:6,7)と語っています。私たちは神の前における『罪』という概念をあまりにも道徳的に考えていないでしょうか。多くの人の道徳観念からしたら、偶像礼拝と殺人を比べたら、殺人のほうがはるかに重い罪でしょうが、主は違った見方をされます。たとえば、あなたが殺人の罪を犯して刑務所に入ったとしても、あなたの伴侶は哀れみの心をもって訪ねて来るでしょう。しかし、あなたが別の異性に浮気していると分かったら、あなたは伴侶の哀れみを期待することはできません。「愛」とは抽象的な概念ではなく具体的な交わりです。愛とは情熱です。それを裏切る者には、「燃える怒り」が向けられます。それは、私たちとの親密な交わりを求める情熱の現れです。愛の反対概念は、「怒り」ではなく、無関心です。主は、親が子を待つように、ご自身に背を向けた者が振り返るの待っておられます。

そして、エルサレムが敵に包囲される日には指導者たちが希望を失いますが、その中でエレミヤは、「ああ、主、ヤハウェよ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを全く欺かれました──『あなたがたには平和が来る』と仰せられて。それなのに、剣が私ののどに触れています」(4:10)と主に向かって率直に疑問を投げかけます。敬虔な祈りは、主のみこころをわかったように言うことではなく、疑問を正直に訴えることです。しかし主はその問いに答える代わりに、ご自身のさばきを、「荒野にある裸の丘の熱風が、わたしの民の娘のほうに吹いて来る」(4:11)と表現します。その風は、「吹き分けるためでもなく、清めるためでもない」とあるように農作業に役立「風」ではなく、逃れようのないさばきをもたらす激しい風です。主のさばきは、「ねたみ」から生まれるからこそ、「熱風」で表現されます。ただ、主はご自身の怒りの対象を、「わたしの民の娘」と、あわれみの対象としても表現しておられます

なお、主(ヤハウェ)は、ご自身の民に関して、「実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。彼らは悪事を働くのに賢くて、善を行うことを知らない」(4:22)と描いておられます。私たちも、この世を生き抜く上での「賢さ」ばかりを身に着けようとして、最も大切な真理を忘れてはいないでしょうか。「愚か者」「ばかな子」「悟りがない」ということばが並ぶのは珍しいことで、彼らの霊的暗黒を示します。

 その上で、再びエレミヤに示されたユダ王国の悲惨が、「私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった」と描かれます(4:23)。これは、世界が原初の状態に戻るということをイメージした表現です。しかし、だからこそ、そこにはさばきとともに、世界の再創造という希望を読み取ることができるのではないでしょうか。主は「燃える怒り」によって世界をさばかれますが、その際、「全地は荒れ果てる。しかし、わたしはことごとくは滅ぼさないという希望を表現しながら、同時に、「このために、地は嘆き悲しみ、上の天も暗くなる。わたしが語り、わたしが企てたからだ。わたしは悔いず、取りやめもしない」と、さばきが避けがたいということも示されます(4:26-28)。そして、偶像礼拝という浮気をするエルサレムに向かって、踏みにじられた女よ。あなたが緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたてても、それが何の役に立とう・・・恋人たちは、あなたをうとみ、あなたのいのちを取ろうとしている(4:30)と、彼らが偶像を拝むことによって、かえって偶像に虐げられ、殺されると語っています。

  この世の偶像は、常に、私たちの肉の願望をかなえる神々として自分を表します。ですから、偶像礼拝とは自分の欲望を神にすることに他なりません。そして人の滅亡は、常に、自分の欲望の奴隷になることに始まります。

2.「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」

主はエレミヤに、「エルサレムの・・広場で探して中で、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう」(5:1)と仰せられます。これは主がソドムとゴモラを硫黄の火で滅ぼす前に、アブラハムに向かって、たとい義人が十人でもいたら、町を滅ぼさないと言われたことを思い起こさせます(創世記18章)。ところが、エルサレムの堕落はソドムより悪くなっているというのです。後に預言者エゼキエルも、「あなたの妹ソドムとその娘たちは決して、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことはしなかった」(16:48)と記しています。

そして5章2節以降はエレミヤの応答のことばと理解できます。「主(ヤハウェ)よ。あなたの目は、真実に向けられていないのでしょうか」(5:3)とは、主は確かに彼らの偽善を見抜かれるという思いが込められています。そして、その救いようのない現実が、彼らの心はあまりにも頑なになっていたので、主に「打たれたのに、痛みもしない」、また、主がエルサレムを「絶ち滅ぼそうとされた」ということを聞きながら、「懲らしめを受けようとも」せず、「顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした」と描かれます。多くの人は、「打たれ強く」なることを求めています。しかし、「懲らしめ」を受けても「痛い!」と感じなくなってしまっては、人は変わりようがなくなるのです。「強い心」とは、無感動になることではなく、ナイーブなほどに物事に反応しながら、「しなやか」であることではないでしょうか。

そしてエレミヤは、エルサレムの救いようのない現実を、「彼らは、実に卑しい愚か者だ。主(ヤハウェ)の道も、神のさばきも知りもしない(5:4)と嘆いています。しかも、彼は、「身分の高い者たち」が、「主(ヤハウェ)の道も、神のさばきも知っている」と期待していたのですが、「彼らもみな、くびきを砕き、なわめを断ち切って」しまったというのです(5:5)。それで、主はバビロンを、「森の獅子」「荒れた地の狼」「ひょう」にたとえ、「町から出る者をみな、引き裂こう」と言われます。それは、「彼らが多くの罪を犯し、その背信がはなはだしかったから」です(5:6)。

そして主は、「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」(5:7)とエルサレムの罪が、許容範囲を超えていると言われます。主は、彼らの忘恩を、「あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。わたしが彼らを満ち足らせたときも、彼らは姦通をし・・」(5:7)と指摘しておられます。主が彼らを忍耐をもって守り導き、あらゆる良いもので満たしてきましたが、彼らは生活が安定すると、「肥え太ってさかりのついた馬のように、おのおの隣の妻を慕っていななく」ようになりました。彼らは、自分を支配する神ではなく、刺激や興奮などという快楽ばかりを約束するカナンの神々を慕うようになったのです。これはまるで、夫の愛を受けて何の不自由もない生活をできるようになった妻が、その恵まれた生活を退屈に感じて、夫を「捨ててしまう」ような行動です。主は、ご自分がイスラエルの民に捨てられてしまったと感じておられるのです。これは、「恩を仇で返す」ということ以上の背信行為です。そして、主は、「このような国に、わたしが復讐しないだろうか」(5:9)と語っておられます。

  ただし、その際、主は、ご自身が遣わす北からの敵に向かって、「ぶどう畑の石垣に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。そのつるを除け。それらは主(ヤハウェ)のものではないからだ」(5:10)とエルサレムとユダ王国に対する攻撃に制限を加えておられます。このことを再び主はご自身のことばで、「わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない」(5:18)と言われ、強国バビロンがイスラエルの民を絶滅することはないと保障されます。

それは、主がダビデに対し、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16)と約束されたその約束に真実なためです。

 そして、残された民は、何のために、私たちの神、主(ヤハウェ)は、これらすべての事を私たちにしたのか」と尋ねながら、「あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる」と答えるように命じられます(5:19)。主が彼らを捨てたのではなく、彼らがまず主を捨てたのです。そして、イスラエルの民は、後のバビロン捕囚の時代に、このことばを繰り返しながら、アブの月(現在の7月か8月)の9日には神殿の崩壊を悲しみ、断食をしながら哀歌を朗読したと言われます。イスラエルの民は、このエレミヤの明確な預言のことばのゆえに、バビロン捕囚をイスラエルの神ヤハウェの敗北ととらえず、かえって、主に立ち返ることができました。彼らは、北王国イスラエルが滅びたときにも、本当の意味で神に立ち返ることができませんでしたが、エレミヤの預言がその通り成就したのを見て、神に立ち返ることができたのです。

その上で、主は、ご自身の創造のみわざの不思議さを思い起こさせるように、「わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない」(5:22)と描きます。「砂」はすぐに崩れそうなものの象徴ですが、主はそのような弱いものを通して、海の脅威からイスラエルの地を守っておられるのです。主は荒海さえも優しく治められます。ところが彼らは、主の恵みをまったく理解しようともせずに、「さあ、私たちの神、主(ヤハウェ)を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる」言おうともしなかったというのです(5:24)。しかも、イスラエルの指導者たちは、主への感謝を忘れる一方で、「肥えて、つややかになり」ながら、「みなしごのためにさばいて幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しない」というように社会的弱者を抑圧していました(5:28)。

残念ながら、人は、力による脅しに弱く、受けた恵みはすべて当然の既得権益と思ってしまいがちです。優しい指導者の前ではつけ上がり、脅しをかける者の前では萎縮し、服従をする、そんな奴隷根性が見られます。そして、そのような人にかぎって、弱い人に対しては強圧的になります。それを主は悲しんでおられるのです。

3.平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている

 6章ではエルサレムに破滅が迫っていることが預言されますが、8節において、主は、「エルサレムよ。戒めを受けよ」と、苦しみを正面から受け止めるようにと勧めます。それは、「さもないと・・」とあるように、主ご自身の心がエルサレムから完全に離れ、永遠に「荒れ果てた地」とすることがないためです。そのような中で、「万軍のヤハウェ」はエレミヤに、「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。ぶどうを収穫する者のように、あなたの手をもう一度、その枝に伸ばせ」(6:9)と命じます。それは、バビロンと戦う代わりに、これを主の懲らしめとして受け入れ、残された神の民の上に、主のみわざが表わされるように希望を託すことの勧めでした。

ところがエルサレムでは、「身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行って」いました。それは真の悔い改めを阻む、偽善の行いでした。彼らは、「わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」(6:13、14)というのです。それは、癌に侵されている身体に、ただ痛み止めを打って、「もう大丈夫!」と言うことに似ています。「痛み」は、身体の中に何かが起こっていることを知らせるための神が与えてくださったサインです。たとえば、火災報知機が鳴っているときに求められていることは、そのうるさい音を消すことではなく、どこか見えないところに火災が発生していないかを徹底的に調べることです。そのときに、自分の見える範囲が大丈夫だから、すべてが大丈夫と判断することは危険です。

たとえば、家族関係に隠された問題があり、それが弱い子どもに表れるというようなことがあります。そのとき、「問題なのは、あの子だけで、あとはみんな平和に満たされています」などと言うような親がいたとしたらどうでしょう。親が光に照らされている中で、子どもが親の影を引き受けて苦しんでいるという家庭があります。それはどのような共同体の中でも起き得ることです。その代表者が、社会的には評価され、平和に満ちた共同体を導いているように見えながら、その内側では隠された矛盾や痛みがひそかに進行しているなどということがあり得ます。

そのことが、「彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない」(6:15)と描かれます。問題がありながら、また自分で問題を起こしながら、それに何の葛藤も感じないことほど恐ろしいことはありません。しかし、主は時が来たらそれを顕にされます。そのことを主は、「わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる」と仰せられます。この世で「強い人」と呼ばれる人は、しばしば、人を傷つけながら、自分は平安を味わっています。しかし、主は、そのような人にも、時が来たら、その危なさを思い知らせてくださいます。

  そして主は、来るべき悲惨を、「見よ。一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。彼らは弓と投げ槍を堅く握り、残忍で、あわれみがない」と具体的に述べられます(6:22、23)。それに対しエレミヤは、

「私の民の娘よ。荒布を身にまとい、灰の中をころび回れ」(6:26)と、主の御前に徹底的に遜り、主のあわれみを請うようにと訴えます。絶体絶命に置かれたとき必要なのは、解決策を考える前に、ただ主にすがることです。

主は、またエレミヤに向かって、「わたしはあなたを、わたしの民の中で、ためす者とし、試みる者とした。彼らの行いを知り、これをためせ」(6:27)と、エルサレムの指導者たちが聞きたがらないことを語り続けるように命じました。そのような中で、彼は、イスラエルの堕落の現実を、精錬の効果がないほどに救いがたいものであることを認識します。そして、彼らを「廃物の銀」と呼ばざるを得ませんでした。そして、それは「主(ヤハウェ)が彼らを退けたからだ」とありますが、「退ける」「廃物」とは同じヘブル語が使われています。彼らの問題は、痛みを感じるべきところで感じることができなくなったこと、したがって、訓練のしようもなくなったことにあります。しかし、主は、彼らを完全にあきらめたわけではありませんでした。表面的な主の拒絶の背後には、主の燃えるような愛があります。

彼らは中途半端な苦しみでは立ち直らないほどに堕落していました。それゆえ主は、彼らを絶滅寸前に至るまで苦しめ、それによって彼らが主に立ち返るように仕向けたのでした。これはしばしば、依存症の治療で言われることです。ある母親が、アルコール依存の息子を癒すために、医者から、息子がとことん苦しむのをただ黙って見守るようにと命じられました。それまで、息子に厳しく言いながら、結局は、困ったときに助けていたことが悪循環につながっていたということが分かったからです。その母親は、その体験を通して、「私が何よりも辛かったのは、息子が苦しんでいるのをただ見ながら、助けの手を差しのばしたいという思いをこらえ続けることだった」と言っています。人との関係で、私たちにもそのようなことがあり得ます。ただ、苦しむのをじっと見ざるを得ない、それはとてつもなく苦しいことです。主はそのような気持ちを味わっておられました。主は、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11:8)とご自身のお気持ちを表現しておられます。

  自分の心の醜さに唖然としながら、また、「自分で自分を赦すことができない・・」というような失敗をしながら、「どの面下げて、教会に行けよう・・」などと思うことがあるかもしれません。しかし、主が何よりもあなたに求めておられるのは、あなたが誰からも尊敬される模範的な人間になることではなく、あなたとの親密な愛の交わりを築くことです。主があなたに苦しみを与えるとしても、それは、あなたの心の目をご自身に向けさせようとする「燃える愛」の現れです。主が何よりも悲しまれるのは、私たちが何かとんでもない失敗をして主の御名を汚すこと以前に、主の愛に背を向けることです。主は何よりも、あなたとの対話を求めておられます。また本当に困ったときに、私たちは「どのように祈ってよいかわからない」(ローマ8:26)という状況になると、使徒パウロ自身も断言しています。祈り方が分かるというのはかえって危ないのかもしれません。必要なのは、ただ、主の前で「うめく」ことです。そのとき、聖霊ご自身が、「言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」と断言されています。

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