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2008年8月31日 (日)

エレミヤ4章5節~6章30節「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」

                                                2008831

  ヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神科医は、アウシュビッツ強制収容所で、寒さに凍えながら強制労働に駆り立てられながら、ふと、愛する妻の面影を思い浮かべ、空想の中で彼女と対話し、彼女の微笑を見ることができました。人はどんな悲惨の中でも、愛する人の精神的な像を想像して自らを満たすことができるのです。そのとたん、彼は、彼女の眼差しの中で、人間の存在の目的を、「愛による、そして、愛の中の被造物の救い」であると悟り、「あなたの心に私を印として置いてください・・・愛は死のように強いのですから」(雅歌8:8私訳)の意味が分かったとのことです。それは伴侶でなくても、父でも母でも、またその他の大切な方の面影でも同じでしょう。

1.「主(ヤハウェ)の燃える怒りが、私たちから去らないから」

 ユダの国々に告げるように命じられたことば、集まれ。城壁のある町に行こう」(4:5)とは、難攻不落のエルサレム城内に逃れよとの勧めです。それは主が、わたしがわざわいを北からもたらし、大いなる破滅をもたらす」とご自身で予告しておられるからです。そして、「獅子はその茂みから上って来、国々を滅ぼす者は彼らの国から進み出た」とは、バビロン帝国が北から迫っていることを指します(4:6,7)。なお、バビロンを動かしておられるのは主ご自身であるからこそ、「荒布をまとい、悲しみ嘆け。主(ヤハウェ)の燃える怒りが、私たちから去らないからだ」(4:8)という悔い改めの祈りが求められています。そして、「主(ヤハウェ)の燃える怒り」とは、聖書を貫くテーマです。

主は、「十のことば」で、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。わたしはヤハウェ、あなたの神、ねたむ神である。わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・」(出エジ20:4,5)と言われましたが、主の燃える怒りは、この「ねたみ」から生まれます。そして「ねたみ」は主の燃えるような愛と表裏一体です。雅歌の作者は、愛は死のように強くねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません」(8:6,7)と語っています。私たちは神の前における『罪』という概念をあまりにも道徳的に考えていないでしょうか。多くの人の道徳観念からしたら、偶像礼拝と殺人を比べたら、殺人のほうがはるかに重い罪でしょうが、主は違った見方をされます。たとえば、あなたが殺人の罪を犯して刑務所に入ったとしても、あなたの伴侶は哀れみの心をもって訪ねて来るでしょう。しかし、あなたが別の異性に浮気していると分かったら、あなたは伴侶の哀れみを期待することはできません。「愛」とは抽象的な概念ではなく具体的な交わりです。愛とは情熱です。それを裏切る者には、「燃える怒り」が向けられます。それは、私たちとの親密な交わりを求める情熱の現れです。愛の反対概念は、「怒り」ではなく、無関心です。主は、親が子を待つように、ご自身に背を向けた者が振り返るの待っておられます。

そして、エルサレムが敵に包囲される日には指導者たちが希望を失いますが、その中でエレミヤは、「ああ、主、ヤハウェよ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを全く欺かれました──『あなたがたには平和が来る』と仰せられて。それなのに、剣が私ののどに触れています」(4:10)と主に向かって率直に疑問を投げかけます。敬虔な祈りは、主のみこころをわかったように言うことではなく、疑問を正直に訴えることです。しかし主はその問いに答える代わりに、ご自身のさばきを、「荒野にある裸の丘の熱風が、わたしの民の娘のほうに吹いて来る」(4:11)と表現します。その風は、「吹き分けるためでもなく、清めるためでもない」とあるように農作業に役立「風」ではなく、逃れようのないさばきをもたらす激しい風です。主のさばきは、「ねたみ」から生まれるからこそ、「熱風」で表現されます。ただ、主はご自身の怒りの対象を、「わたしの民の娘」と、あわれみの対象としても表現しておられます

なお、主(ヤハウェ)は、ご自身の民に関して、「実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。彼らは悪事を働くのに賢くて、善を行うことを知らない」(4:22)と描いておられます。私たちも、この世を生き抜く上での「賢さ」ばかりを身に着けようとして、最も大切な真理を忘れてはいないでしょうか。「愚か者」「ばかな子」「悟りがない」ということばが並ぶのは珍しいことで、彼らの霊的暗黒を示します。

 その上で、再びエレミヤに示されたユダ王国の悲惨が、「私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった」と描かれます(4:23)。これは、世界が原初の状態に戻るということをイメージした表現です。しかし、だからこそ、そこにはさばきとともに、世界の再創造という希望を読み取ることができるのではないでしょうか。主は「燃える怒り」によって世界をさばかれますが、その際、「全地は荒れ果てる。しかし、わたしはことごとくは滅ぼさないという希望を表現しながら、同時に、「このために、地は嘆き悲しみ、上の天も暗くなる。わたしが語り、わたしが企てたからだ。わたしは悔いず、取りやめもしない」と、さばきが避けがたいということも示されます(4:26-28)。そして、偶像礼拝という浮気をするエルサレムに向かって、踏みにじられた女よ。あなたが緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたてても、それが何の役に立とう・・・恋人たちは、あなたをうとみ、あなたのいのちを取ろうとしている(4:30)と、彼らが偶像を拝むことによって、かえって偶像に虐げられ、殺されると語っています。

  この世の偶像は、常に、私たちの肉の願望をかなえる神々として自分を表します。ですから、偶像礼拝とは自分の欲望を神にすることに他なりません。そして人の滅亡は、常に、自分の欲望の奴隷になることに始まります。

2.「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」

主はエレミヤに、「エルサレムの・・広場で探して中で、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう」(5:1)と仰せられます。これは主がソドムとゴモラを硫黄の火で滅ぼす前に、アブラハムに向かって、たとい義人が十人でもいたら、町を滅ぼさないと言われたことを思い起こさせます(創世記18章)。ところが、エルサレムの堕落はソドムより悪くなっているというのです。後に預言者エゼキエルも、「あなたの妹ソドムとその娘たちは決して、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことはしなかった」(16:48)と記しています。

そして5章2節以降はエレミヤの応答のことばと理解できます。「主(ヤハウェ)よ。あなたの目は、真実に向けられていないのでしょうか」(5:3)とは、主は確かに彼らの偽善を見抜かれるという思いが込められています。そして、その救いようのない現実が、彼らの心はあまりにも頑なになっていたので、主に「打たれたのに、痛みもしない」、また、主がエルサレムを「絶ち滅ぼそうとされた」ということを聞きながら、「懲らしめを受けようとも」せず、「顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした」と描かれます。多くの人は、「打たれ強く」なることを求めています。しかし、「懲らしめ」を受けても「痛い!」と感じなくなってしまっては、人は変わりようがなくなるのです。「強い心」とは、無感動になることではなく、ナイーブなほどに物事に反応しながら、「しなやか」であることではないでしょうか。

そしてエレミヤは、エルサレムの救いようのない現実を、「彼らは、実に卑しい愚か者だ。主(ヤハウェ)の道も、神のさばきも知りもしない(5:4)と嘆いています。しかも、彼は、「身分の高い者たち」が、「主(ヤハウェ)の道も、神のさばきも知っている」と期待していたのですが、「彼らもみな、くびきを砕き、なわめを断ち切って」しまったというのです(5:5)。それで、主はバビロンを、「森の獅子」「荒れた地の狼」「ひょう」にたとえ、「町から出る者をみな、引き裂こう」と言われます。それは、「彼らが多くの罪を犯し、その背信がはなはだしかったから」です(5:6)。

そして主は、「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」(5:7)とエルサレムの罪が、許容範囲を超えていると言われます。主は、彼らの忘恩を、「あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。わたしが彼らを満ち足らせたときも、彼らは姦通をし・・」(5:7)と指摘しておられます。主が彼らを忍耐をもって守り導き、あらゆる良いもので満たしてきましたが、彼らは生活が安定すると、「肥え太ってさかりのついた馬のように、おのおの隣の妻を慕っていななく」ようになりました。彼らは、自分を支配する神ではなく、刺激や興奮などという快楽ばかりを約束するカナンの神々を慕うようになったのです。これはまるで、夫の愛を受けて何の不自由もない生活をできるようになった妻が、その恵まれた生活を退屈に感じて、夫を「捨ててしまう」ような行動です。主は、ご自分がイスラエルの民に捨てられてしまったと感じておられるのです。これは、「恩を仇で返す」ということ以上の背信行為です。そして、主は、「このような国に、わたしが復讐しないだろうか」(5:9)と語っておられます。

  ただし、その際、主は、ご自身が遣わす北からの敵に向かって、「ぶどう畑の石垣に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。そのつるを除け。それらは主(ヤハウェ)のものではないからだ」(5:10)とエルサレムとユダ王国に対する攻撃に制限を加えておられます。このことを再び主はご自身のことばで、「わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない」(5:18)と言われ、強国バビロンがイスラエルの民を絶滅することはないと保障されます。

それは、主がダビデに対し、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16)と約束されたその約束に真実なためです。

 そして、残された民は、何のために、私たちの神、主(ヤハウェ)は、これらすべての事を私たちにしたのか」と尋ねながら、「あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる」と答えるように命じられます(5:19)。主が彼らを捨てたのではなく、彼らがまず主を捨てたのです。そして、イスラエルの民は、後のバビロン捕囚の時代に、このことばを繰り返しながら、アブの月(現在の7月か8月)の9日には神殿の崩壊を悲しみ、断食をしながら哀歌を朗読したと言われます。イスラエルの民は、このエレミヤの明確な預言のことばのゆえに、バビロン捕囚をイスラエルの神ヤハウェの敗北ととらえず、かえって、主に立ち返ることができました。彼らは、北王国イスラエルが滅びたときにも、本当の意味で神に立ち返ることができませんでしたが、エレミヤの預言がその通り成就したのを見て、神に立ち返ることができたのです。

その上で、主は、ご自身の創造のみわざの不思議さを思い起こさせるように、「わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない」(5:22)と描きます。「砂」はすぐに崩れそうなものの象徴ですが、主はそのような弱いものを通して、海の脅威からイスラエルの地を守っておられるのです。主は荒海さえも優しく治められます。ところが彼らは、主の恵みをまったく理解しようともせずに、「さあ、私たちの神、主(ヤハウェ)を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる」言おうともしなかったというのです(5:24)。しかも、イスラエルの指導者たちは、主への感謝を忘れる一方で、「肥えて、つややかになり」ながら、「みなしごのためにさばいて幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しない」というように社会的弱者を抑圧していました(5:28)。

残念ながら、人は、力による脅しに弱く、受けた恵みはすべて当然の既得権益と思ってしまいがちです。優しい指導者の前ではつけ上がり、脅しをかける者の前では萎縮し、服従をする、そんな奴隷根性が見られます。そして、そのような人にかぎって、弱い人に対しては強圧的になります。それを主は悲しんでおられるのです。

3.平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている

 6章ではエルサレムに破滅が迫っていることが預言されますが、8節において、主は、「エルサレムよ。戒めを受けよ」と、苦しみを正面から受け止めるようにと勧めます。それは、「さもないと・・」とあるように、主ご自身の心がエルサレムから完全に離れ、永遠に「荒れ果てた地」とすることがないためです。そのような中で、「万軍のヤハウェ」はエレミヤに、「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。ぶどうを収穫する者のように、あなたの手をもう一度、その枝に伸ばせ」(6:9)と命じます。それは、バビロンと戦う代わりに、これを主の懲らしめとして受け入れ、残された神の民の上に、主のみわざが表わされるように希望を託すことの勧めでした。

ところがエルサレムでは、「身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行って」いました。それは真の悔い改めを阻む、偽善の行いでした。彼らは、「わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」(6:13、14)というのです。それは、癌に侵されている身体に、ただ痛み止めを打って、「もう大丈夫!」と言うことに似ています。「痛み」は、身体の中に何かが起こっていることを知らせるための神が与えてくださったサインです。たとえば、火災報知機が鳴っているときに求められていることは、そのうるさい音を消すことではなく、どこか見えないところに火災が発生していないかを徹底的に調べることです。そのときに、自分の見える範囲が大丈夫だから、すべてが大丈夫と判断することは危険です。

たとえば、家族関係に隠された問題があり、それが弱い子どもに表れるというようなことがあります。そのとき、「問題なのは、あの子だけで、あとはみんな平和に満たされています」などと言うような親がいたとしたらどうでしょう。親が光に照らされている中で、子どもが親の影を引き受けて苦しんでいるという家庭があります。それはどのような共同体の中でも起き得ることです。その代表者が、社会的には評価され、平和に満ちた共同体を導いているように見えながら、その内側では隠された矛盾や痛みがひそかに進行しているなどということがあり得ます。

そのことが、「彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない」(6:15)と描かれます。問題がありながら、また自分で問題を起こしながら、それに何の葛藤も感じないことほど恐ろしいことはありません。しかし、主は時が来たらそれを顕にされます。そのことを主は、「わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる」と仰せられます。この世で「強い人」と呼ばれる人は、しばしば、人を傷つけながら、自分は平安を味わっています。しかし、主は、そのような人にも、時が来たら、その危なさを思い知らせてくださいます。

  そして主は、来るべき悲惨を、「見よ。一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。彼らは弓と投げ槍を堅く握り、残忍で、あわれみがない」と具体的に述べられます(6:22、23)。それに対しエレミヤは、

「私の民の娘よ。荒布を身にまとい、灰の中をころび回れ」(6:26)と、主の御前に徹底的に遜り、主のあわれみを請うようにと訴えます。絶体絶命に置かれたとき必要なのは、解決策を考える前に、ただ主にすがることです。

主は、またエレミヤに向かって、「わたしはあなたを、わたしの民の中で、ためす者とし、試みる者とした。彼らの行いを知り、これをためせ」(6:27)と、エルサレムの指導者たちが聞きたがらないことを語り続けるように命じました。そのような中で、彼は、イスラエルの堕落の現実を、精錬の効果がないほどに救いがたいものであることを認識します。そして、彼らを「廃物の銀」と呼ばざるを得ませんでした。そして、それは「主(ヤハウェ)が彼らを退けたからだ」とありますが、「退ける」「廃物」とは同じヘブル語が使われています。彼らの問題は、痛みを感じるべきところで感じることができなくなったこと、したがって、訓練のしようもなくなったことにあります。しかし、主は、彼らを完全にあきらめたわけではありませんでした。表面的な主の拒絶の背後には、主の燃えるような愛があります。

彼らは中途半端な苦しみでは立ち直らないほどに堕落していました。それゆえ主は、彼らを絶滅寸前に至るまで苦しめ、それによって彼らが主に立ち返るように仕向けたのでした。これはしばしば、依存症の治療で言われることです。ある母親が、アルコール依存の息子を癒すために、医者から、息子がとことん苦しむのをただ黙って見守るようにと命じられました。それまで、息子に厳しく言いながら、結局は、困ったときに助けていたことが悪循環につながっていたということが分かったからです。その母親は、その体験を通して、「私が何よりも辛かったのは、息子が苦しんでいるのをただ見ながら、助けの手を差しのばしたいという思いをこらえ続けることだった」と言っています。人との関係で、私たちにもそのようなことがあり得ます。ただ、苦しむのをじっと見ざるを得ない、それはとてつもなく苦しいことです。主はそのような気持ちを味わっておられました。主は、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11:8)とご自身のお気持ちを表現しておられます。

  自分の心の醜さに唖然としながら、また、「自分で自分を赦すことができない・・」というような失敗をしながら、「どの面下げて、教会に行けよう・・」などと思うことがあるかもしれません。しかし、主が何よりもあなたに求めておられるのは、あなたが誰からも尊敬される模範的な人間になることではなく、あなたとの親密な愛の交わりを築くことです。主があなたに苦しみを与えるとしても、それは、あなたの心の目をご自身に向けさせようとする「燃える愛」の現れです。主が何よりも悲しまれるのは、私たちが何かとんでもない失敗をして主の御名を汚すこと以前に、主の愛に背を向けることです。主は何よりも、あなたとの対話を求めておられます。また本当に困ったときに、私たちは「どのように祈ってよいかわからない」(ローマ8:26)という状況になると、使徒パウロ自身も断言しています。祈り方が分かるというのはかえって危ないのかもしれません。必要なのは、ただ、主の前で「うめく」ことです。そのとき、聖霊ご自身が、「言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」と断言されています。

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2008年8月17日 (日)

エレミヤ1:1-4:4 「背信の子らよ。帰れ」

                                                2008年8月17日

  オリンピックでは不思議に愛国心が刺激されます。そして、金メダルという結果がでると自分のことのように嬉しくなります。しかし、私たちは「結果」よりも「過程(プロセス)」を何よりも大切にする必要があります。本日からエレミヤ書に入ります。前々から正直、気が重い部分がありました。なぜなら、その中心メッセージはエルサレムの大多数の預言者が、「神の都はバビロンに負けることはない!」と言っている中で、ただ一人、エルサレムの滅亡を語り続けることにあったからです。敗北を語るほどに疲れることはありません。今から七十年前、日本の中国への侵略戦争を批判し、「このような国はまず滅びなければいけない!」と言って、東大教授の地位を解かれたキリスト者がいます。矢内原忠雄です。彼は無教会の指導者でした。それはかつて日本の教会が欧米の宣教団体から援助を受け、言うがままになっていることに反発し、聖書信仰の原点に立ち返ろうとした内村鑑三から始まる信仰の流れで、そこには健全な意味で愛国心が見られます。矢内原は終戦から一ヶ月も経っていない集会で、「私は長い戦争の間、日本の国が戦争に勝つようにと一度も祈った事がありません。しかし、戦争に負けるようにと祈った事もありません。私が祈っていたのは、日本の国が義しい国になるようにということと、この戦争の国民に対する禍が軽いようにという事を祈っていたのであります」と語っています(矢内原忠雄「山中湖聖書講習会講話」新地書房1991年p323,324)。これこそエレミヤが当時のエルサレムに対して祈っていたことでもありました。矢内原は同じ講演の中で、日本の最大の罪は、「神ならざるものを神としたという事」にあると言っています。そして、当時の天皇がまず率先して、日本の罪を創造主である神の前に告白しなければいけないと説き、同時に、広島と長崎に原爆を落としたアメリカも創造主の前に悔い改めなければいけないと説いています。私たちは、「結果がすべて・・」と言われるような社会に生きています。一瞬一瞬、自分の行動を神の前で吟味することこそ大切ではないでしょうか。

1.エレミヤ書の時代と日本の歩み

紀元前723年北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされました。その後、アッシリヤは南王国ユダに攻め入り、紀元前701年にエルサレムを包囲します。そのときユダの王ヒゼキヤは預言者イザヤの励ましを受けながら、アッシリヤの脅しに屈しませんでした。アッシリヤはその後、エジプトまでを支配しますが、エルサレムは奇跡的に独立を保っていました。しかし、その間、エルサレムではマナセが王となっていましたが、彼は徹底的にアッシリヤのご機嫌をとりながら、エルサレム神殿にさえ偶像礼拝を持ち込み、批判する預言者イザヤを惨殺しました。彼の支配は55年間も続き、その間、南王国ユダは信仰的に徹底的な堕落を遂げていました。そして、紀元前640年にヨシヤが8歳で王に立てられます。それはマナセの政策に反対する愛国主義者たちの政権でした。彼らは、主がヒゼキヤ王に勝利を与えてくださった恵みの時代に立ち返ろうとしました。そして、そのようなヨシヤ王の支配の13年に祭司の家系から生まれたエレミヤに預言者としての召命が与えられます。そして彼の預言活動はエルサレムの滅亡のときにまで続きます。なお、エレミヤが預言者として召し出されたとき、南王国ユダは急速に主(ヤハウェ)に立ち返っており、それから五年後には律法の書が神殿で再発見され、ユダ王国の信仰のリバイバルが起きるときですから、主(ヤハウェ)がエレミヤに語った内容は、それほど真に迫った警告とは受け取られなかったことでしょう。

これは、日本の歴史で言えば1905年の日露戦争勝利から20年後の1925年に普通選挙法が施行され、大正デモクラシーと呼ばれた民主主義が勝利を収めたと思われたときのようなものです。しかし、それから間もなく、日本は軍国主義者に支配され、第二次世界大戦の悲劇にまっしぐらに進みます。ヨシヤ王が宗教改革を進めることができた時期は、アッシリヤ帝国が滅亡する時期と重なります。それは、目前の敵の脅威がなくなる中での愛国主義運動という面もあります。ヨシヤはアッシリヤの勢力が消えてゆく中で、ダビデ王国時代の領土を回復し、サマリヤから偶像礼拝を取り除くことまでできました。しかし、一見、すべてが順調に進んでいると思えるときに、実は、それまでの積もり積もった問題が内にこもり、ますます深刻化しているということがあります。それは1914年から1918年の第一次大戦下を経て一流国の仲間入りをしたと思い上がった日本の現実と似ています。信仰面でも生活面でも、すべてのことが順調に進んでいると思えるようなときに、エレミヤのような暗い話しは聞き入れられません。しかし、神の目からすると、そのようなときこそ、信仰の原点に立ち返って、神の御前にへりくだる時期なのです。

2.「わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいる」

この時期、主(ヤハウェ)はエレミヤに、「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」(1:4)と語りかけられます。聖書の教えで最も神秘に満ち、理解し難いのが、「神の選び」です。人は無意識のうちに、「自分の信仰深さに応じて、神は祝福してくださる」などと、信仰の初めを自分に置きます。感動的な救いの証に憧れ、時には自分の信仰の歩みに妙な劣等感を抱きます。しかし、それは大きな間違いです。私たち一人一人の信仰も、神から始まっているからです。使徒パウロが、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1:4,5)と語る通りです。神は目的を持って私たちを召しておられます。何よりも大切なのは、自分の信仰をはかること以上に、一人一人に対する神の期待に気づくことです。

そのときエレミヤが、「ああ、主、ヤハウェよ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と答えると、主(ヤハウェ)は、「まだ若い、と言うな。わたしが・・遣わすどんな所へでも行き・・あなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すから」と言われました(1:6-8)。神の召しを感じながら、「でも、そんなこと私には無理では・・・」と言いたくなっても、「神は私たちとともにおられる」(ヘブル語:インマヌエル)という約束の前では、人の評価を恐れずに前に進む必要があります。それを示すために、「主(ヤハウェ)は御手を伸ばして」、エレミヤの「口に触れ」「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる」と、恐るべき権威を授けられました(1:9,10)。これはイエスがご自分の弟子たちに聖霊をお授けになり、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(ヨハネ20:23)と言われたことと同じです。

 その上で主はエレミヤにふたつのビジョンを見せます。第一のものを見たとき、彼は、「私は(強調形)アーモンドの枝を見ています」と答えます。アーモンドは1、2月頃白い花を咲かせ、春の訪れを告げる象徴です。それに対し主も、「わたしのことばを実現しようと、わたしは(強調形)見張っているからだ」と答えました(1:11,12)。ここで「アーモンド」「見張る」は同じ語根のことばで、ここには一種の言葉遊びが見られます。主はエレミヤに、「ときを見る」ことを教えられたのです。しかも、それは既に、神ご自身が聖書で繰り返し語っておられる「とき」のことでした。

 第二のビジョンは、「煮え立っているかま」で、それは、「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる」ことを意味しました(1:13、14)。当時はアッシリヤの脅威がなくなりユダ王国が希望に胸を膨らませているときでしたが、主は、「今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけている」(1:15)と、別の脅威が迫っていることを告げられたのです。それは具体的には、バビロン帝国がアッシリヤを滅ぼし、さらに南下してエルサレムに迫ることを意味しました。神は、異教徒の国を用いてご自身の民をさばくというのです。その理由が、「彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだから」(1:16)と説明されます。

そして改めて主はエレミヤに、「腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。彼らの顔におびえるな」と言われますが、同時に、「さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く」という警告も加えられます(1:17)。そしてさらに彼を励ます約束として、「ユダの王たち、首長たち、祭司たち」が、「あなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて・・・あなたを救い出すからだ」と言われます(1:18、19)

 エレミヤはしばしば、「涙の預言者」と呼ばれます。彼は人々が楽観的になっているときに、その幻想を打ち砕き、現実を見させ、主の前にひたすらへりくだることの大切さを勧めるように命じられました。バビロン帝国という野蛮な国が攻めてくるときに、「ただ、主の前に悔い改めの祈りをささげよ」という趣旨の訴えばかりをしました。これは、先の第二次世界大戦のとき、「アメリカと戦っても勝てない」と言い続けるようなものでした。しかし、当時の日本のキリスト教会は、そろって国策に協力しました。1941年6月に日本の全てのプロテスタント諸教会は日本基督教団として合同しましたが、その設立文書には、「国体の本義に徹し、大東亜戦争の目的完遂に邁進すべし・・・忠君愛国の涵養に努め信徒をして滅私奉公の実践者たらしむこと」などと記されていました。そのような流れに矢内原忠雄は、ひとり、預言書から大胆に国の方針を批判し続けました。彼は1937年の夏、中国侵略を嘘で固めて正当化する政府を批判し、「今日は、虚偽の世において、我々のかくも愛したる日本の国の理想、あるいは理想を失った日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、もし私の申したことがおわかりになったならば、日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください」と記し、東大教授の職を解かれました。彼が沈黙することなく、聖書の預言書から語り続け、時の流れに警告を発し続けました。彼が投獄されなかったのは奇跡と言って良いほどです。その姿勢が認められて戦後は東京大学の総長に抜擢されました。時流に逆らって、語ることはいのちの危険が伴いますが、私たちの「いのち」は、神の御手の中にあります。

3.「わたしは・・・婚約時代の愛・・を覚えている」

  ついで主は、「エルサレムの人々」に、「わたしは、あなたの若かったころの誠実(ヘセッド)婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主(ヤハウェ)の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ」と言われます(2:1,2)。たとえば、イスラエルの民が荒野を旅している時、アマレク人が突然襲いかかってきました。そのとき主は、彼らをすぐに撃退したばかりか、「わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう」とさえ言われました(出エジ17:14)。私たちも、主と初めて出会ったときの「初めの愛」を忘れてはいないでしょうか。聖書のみことばひとつひとつが慰めをもって迫ってきたようなとき、主への献身の思いを誓ったようなときがあったのではないでしょうか。ヨハネの黙示録において、主はエペソの教会に向けて、彼らが誤った教えを見分けることができたことを賞賛しながらも、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それでどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(2:4,5)と叱責されました。信仰の歩みが長くなるにつれ、知識は増えても「初めの感動」が失われるということがあるのではないでしょうか。イスラエルの民の場合は、それどころか、神の明確なさばきが遅れていることを良いことに、罪に居直り、神を悲しませていながら、それに心を動かされることもなくなっていました。

主はさらに、彼らがどれだけ偶像礼拝に熱心になってしまっていたかを、 「雌のらくだ」「野ろば」「発情期」にたとえ、彼らの偶像への抑えられない情熱を「あきらめられません。私は他国の男たちが好きです。それについて行きたいのです」と描きます(2:23-25)。そして、彼らが「木」「私の父」と呼び、「石」「私を生んだ」と言って、創造主である神に背を向けていながら、わざわいのときには、「立って、私たちを救ってください」という図々しさを非難し、「では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ。あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるからだ」と彼らの節操のなさを皮肉っています(2:26-28)。

 そして、ユダの民は今、確かにヨシヤ王のもとで偶像礼拝から遠ざかっているように見えますが、真の意味で過去を反省しているわけではなく、アッシリヤの脅威が過ぎ去ったことでほっとしながら、「私には罪がない。確かに、御怒りは私から去った」と言い張っています。それに対して主は、『私は罪を犯さなかった』と言うから、今、わたしはあなたをさばく。なんと、簡単に自分の道を変えることか。あなたはアッシリヤによってはずかしめられたと同様に、エジプトによってもはずかしめられる」と彼らの節操のなさに対するさばきを宣告されます(2:34-37)。

これは、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」ということわざと同じです。これは、日本の教会に向けてそのまま当てはまることばではないでしょうか。戦争が終わったことで安心し、自分たちも神社参拝をし、天皇を神として崇めたという過去の過ちを真に反省しようともしませんでした。日本の教会が戦後もこれほど無力なのはそのためではないでしょうか。韓国の多くのクリスチャンは、戦前は神社参拝の要求にいのちがけで抵抗し、戦後は、妥協した人々は真剣に悔い改めたと聞いています。現代の私たちも、その場限りの逃げ道を探し、節操のない生き方を正当化してはいないでしょうか。しかし、目の前の問題が過ぎ去ったときこそ、自分の態度を反省すべきです。

主は、「初めの愛」に立ち返ることを求めておられます。たとえば、若い時の恋愛の体験を思い起こしてみてはいかがでしょう。恋する人と、会話ができること自体が感動でした。たとえ相手が期待したときと場所に現れなくても、忍耐をもって待ち続け、その事情を優しく受け止めることができました。ところが、今は、何と図々しくなっていることでしょう。顔と顔とを合わせて会話することを、まるで時間の無駄かのように思っていることはないでしょうか。この世の刺激に慣れてはいけません。神との親密な関係をこそ思い起こすべきです。あなたがたとえば、最初に、主に向かって真剣に祈り、その祈りに主が答えてくださったときの感動を忘れてはいないでしょうか。そのうち、「あれは偶然だった・・」「私の努力が報われたのだ・・」とか、自分に都合の良いように解釈をしてしまいます。

4.「背信の子らよ。帰れ・・・わたしが、あなたがたの夫になるからだ。

  「もし、人が自分の妻を去らせ・・ほかの男のものになれば、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか」(3:1)とは、申命記24章1-4節を背景に記されています。そこでは、「その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである」と記されています。つまり、イスラエルの民は、自分で夫である主(ヤハウェ)を捨てて、別の夫の妻となってしまったのだから、もう戻ってくることはできないはずだというのです。それなのに、彼らの口先だけの反省のことばを繰り返し、「父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。いつまでも怒られるのですか。永久に怒り続けるのですか」と、図々しくも、一方的に赦しを求めてくると非難しています(3:4、5)。

 ところが、「ヨシヤ王の時代に」(3:6)、主は、「背信の女イスラエル」が偶像礼拝を熱心に行い、その後で「わたしに帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった」と嘆いています(3:7)。これは、主が本来、赦す対象にもなりえない浮気女の帰りを待ち続けていたことを意味します。その上で、「また裏切る女、妹のユダも」、主が「背信の女イスラエル」の浮気に耐えられなくなってついに、「離婚状を渡してこれを追い出した」こと、つまり、主がイスラエルをアッシリヤに売り渡したことを見ながら、「恐れもせず、自分も行って、淫行を行った」ばかりか、その後も、「心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった」と非難しておられます(3:8-10)。神はイスラエルをさばきながら、それを見てユダが主を恐れ、悔い改めることができるようにと心より待っておられたとういうのです。

  それでエレミヤに、「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった」(3:11)と、あの堕落した北王国イスラエルの方が、ユダの現在の堕落よりもまだましであったと、驚くべきことを言っておられます。そして、主はエレミヤを通して、「背信の女イスラエル。帰れ・・・わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深い(ヘセッド)から・・・わたしは、いつまでも怒ってはいない。ただ、あなたは自分の咎を知れ(3:12,13)と招いておられます。

  そして、重ねて主は、「背信の子らよ。帰れ」と招いておられますが、その際、「わたしがあなたの夫となるからだ」と言っておられます(3:14)。「夫」は原文で「バアル」と記されており、主はここで、偶像ではなく、「わたし」こそが、「あなたのバアル」であると彼らの思い違いを正しておられるのです。私たちキリスト者は、キリストと結婚した者です。それによって、キリストのすべての富と聖さが私たちのもとになり、私たちの貧しさと汚れがキリストのものとなりました。私たちは富自体を求めなくても、すべての富の源である方に結びつけられたことで安心できるのです。そして、私たちの救いの完成の姿が、「そのとき、エルサレムは『主(ヤハウェ)の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主(ヤハウェ)の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない」と描かれます。そのとき、何度も主を裏切った神の民の心も内側から造りかえられているからです。

また、主はイスラエルを苦しめましたが、「イスラエルの子らの哀願の泣き声」を聞いて、「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう(3:19-22)と招いておられるというのです。私たちも自業自得の苦しみに会うことがあります。そして変わりたくても変われない自分の不信仰に嘆きます。しかし、主は、私たちの心を完全にいやしてくださり、主に背くことがあり得ないように変えてくださいます。このエレミヤ書で繰り返される「背信」ということばは、英語でbackslidingと訳されます。これは、せっかく創造主である神に人生の方向転換をしたのに、もう一度、この世に向きを変えなおすことを意味します。「私の人生は180度変わりました!」と言いながら、また、180度回転して「もとの木阿弥」になる人がいます。そんな人に、神はもう一度180度の方向転換へと招いておられ、最後には、もとの世界に戻ることに魅力を感じないように心を変えてくださいます。それが聖霊のみわざです。

そのような回心の様子が、「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主(ヤハウェ)だからです。確かに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主に、イスラエルの救いがあります」と描かれます(3:22,23)。そして、バアル礼拝のむなしさに目覚めた姿が、「バアル(直訳は「恥ずべき者」が、私たちの先祖の勤労の実・・羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしました」(3:24)と描かれます。それは麻薬に溺れて人生を駄目にしたあげく、初めて自分が依存症の罠にはまっていたことに気づくようなものです。

 そして、主は重ねて、「イスラエルよ。もし帰るのなら・・・わたしのところに帰って来い」と招かれ、「あなたが真実と公義と正義とによって『主(ヤハウェ)は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う」と、平和と祝福に満ちた世界に入れていただける鍵が、あなた自身の信仰にかかっていると告げられます(4:1,2)。そして、今改めて、主は、「ユダの人とエルサレムの住民よ。主(ヤハウェ)のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう」(4:4)と警告とともに招いておられます。パウロはそれをもとに「御霊による、心の割礼こそ割礼です」(ローマ2:29)と記します。何よりも大切なのは、あなたの弱く、貧しい心を主に差し出すことです。主のみわざがあなたの内側になされるように、自分の弱さ、罪深さと向き合い、それを主に告白することです。目の前の困難が過ぎ去る度に自分の罪を振り返り、過去から学ぶことです。何もなかったかのように新しい歩みをすることを、主は望んでおられません。自分がどれだけ主を悲しませ、主の愛を軽んじてきたという事実を認める必要があります。

Amaizing Grace という有名な賛美歌の作者ジョン・ニュートンは、幼い頃、敬虔な母親のもとで聖書を学びましたが、七歳のとき母が天に召され、それから人生が狂い出しました。彼は奴隷商人の仲間になり、自業自得で奴隷以下のひもじさを味わうまで身を落しました。その後、難破しそうな船の中で、ふと、幼い頃に暗誦したみことばが思い浮かびました。それは、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力を味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです」(6:4-6)というみことばです。これは、「背信者、背教者(backslider)には望みがない」と言われているようなものです。ジョンは、自分のような者は、地獄に落ちるしかないと、恐怖に圧倒されました。でも同時に、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう」(ルカ11:13)というみことばが迫って来ました。人にはできないことを、聖霊様がなしてくださるということがわかりました。主は、霊的な浮気ばかりをしているイスラエルに向かって、「背信の子ら(Backslider)よ。帰れ」と招いておられるからです。主のさばきのご計画は変えられ得るものです。なぜなら、主ご自身が、ご自分のご計画を「悔い」「思い直す」と語っておられるからです。主は、エレミヤ18章8節で、「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す(18:8)と語っておられます。悔い改めるのに遅すぎることはありません。

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2008年8月10日 (日)

ルカ18章15-30節「富と力の中にある罠」

                            2008810

  イエスは山上の説教で、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われました(マタイ6:24)。ところが、このイエスのみことばほど理解し難い、腹に落ちにくいことばはありません。旧約聖書で意味する「祝福」とは、豊かさや力を持つこと、子どもが増えることを意味しまし、イエスの教えは、旧約聖書と矛盾するものではないはずだからです。お金も、地位も能力も大切です。今回の箇所の最後でもイエスはご自身に従う者への豊かな報酬を約束しておられます。イエスのお話は逆説的です。富も力も、手段に過ぎません。それを目的としてしまうとき、人生で最も大切なものを忘れるからでしょう。

1.「神の国は、このような者たちのものです」

「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった」(18:15)とありますが、「幼子」とは「幼児」とも訳される言葉で、弟子たちが幼子を連れてきた人々を「しかった」ことにも一理あります。マタイの並行記事を見ると、イエスはこのときパリサイたちと、「結婚」に関する重要な議論をしていたからです(マタイ19:13)。しかも、幼子は、自分で来たのではなく「人々がその幼子たちを・・連れて来た」のです。彼らはイエスに自分の子を祝福して欲しかったのでしょうが、場の空気を読んでいません。ところがマルコでは、イエスがこのときの弟子の対応に対して、「それをご覧になり、憤った」(10:14)とさえ記されています。イエスは、人々を「しかった」という弟子たちの対応に、「憤慨」されるほど、こころを痛められたのです。

そしてイエスは、ご自分の方から「幼子たちを呼び寄せ」、弟子たちに向かって、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」と言われました(16節)。「神の国」とは、神ご自身が「王」としてご自分の民を守ってくださるという当時の人々の憧れの世界です。ただ、当時の人々は、失われたダビデ王国の再興を願っており、そこに入れていただくためにはローマ帝国の支配に屈しない命がけの覚悟が必要だと思われていました。ところが、イエスは、自分の意思でイエスに近づこうとしたわけでもない幼子たちを指して「神の国はこのような者たちのもの」と言われたのです。私たちの常識でも、「神の国は、信じる者だけが入ることができる」と言われます。ところがイエスは、「神の国」は、大人に連れられなければイエスに近づくことができないような「幼子」のためのものだと言われました。神の国は、自分の弱さを自覚せざるを得ない者たちのために開かれているのです。それは先のパリサイ人と取税人のたとえに通じます。

イエスは続いて、「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」(17節)と、何よりも、子どもの姿勢に習うようにと勧められました。子どもが大人に勝っている点は何でしょう?それは、与えられたものを素直に受け止めるということではないでしょうか。しかも、子どもは、どんな厳しい環境の中にも、喜びを発見する天才です。子どもは柔道でいう「受身」の天才かもしれません。信仰の醍醐味は、自分を受動的な者として神に積極的に差し出すという、「能動的受動性」にあります

ただ、これは知性や主体性を否定するような勧めとして誤解される可能性もあります。イエスは私たちに愚かで盲目になることを勧めておられるのでしょうか?パウロは後に、「知性」を用いて分かることばで教えることの大切さを強調しながら、「物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし、考え方においてはおとなになりなさい」と言いました(Ⅰコリント14:19,20)。しかも、イエスご自身が、何よりも「ことば」を大切にし、無学な群集の心に分かるように語っておられました。ですから、ここには当時の宗教指導者たちを意識した逆説が込められています。彼らは、聖書を良く学び、神学の議論がよくできましたが、「木を見て、森を見ず」のような状態の人で、聖書の中心テーマを誤解したばかりか、まったく逆のことを自分で教えていました。

私たちも、最も大切な真理は、「受け入れる」しかありません。どんなに科学が進歩しても、宇宙の誕生の瞬間を解明することはできません。科学かのように語られていることは、推測であって、証明できた真理ではありません。また、宇宙の創造主がどのような方であるのか人間の知恵で知ろうとすることは、「あり」「象」を分析しようとするようなものです。ところが、しばしば世の宗教家は、自分が真理を会得したようなことを言って、三千年前から人々を導いてきた聖書の教えを否定さえします。たとえば、すべてのいのちに固有の価値があるという教えだって聖書以前にはなかった教えです。それはこの百年の日本の歴史を見れば分かることです。私自身、聖書が、誤りなき神のことばであると信じられない時期がありました。しかし、これは証明の対象とすべきことではなく、受け入れるべき前提であるということが分かったとき、深い感動を味わうことができるようになりました。しかも、それで科学を否定したり、この世の様々な学問的な発見に目をつぶる必要があるなどと思ったことは一度もありません。敢えていうと、私は科学の方法論に無知であったときに、聖書を信じることに躊躇を感じてしまったとさえ言えます。

2.ある役人が、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるか」と尋ねたことの矛盾

 「ある役人が、イエスに質問して言った」(18節)とありますが、マタイは、この人は「青年」として描きますが、ルカは、社会的な立場により注目をします。これは厳密には、「ある指導者」と訳すべきで、若くしてユダヤ人議会(サンヘドリン)の「議員」に選ばれていたのだと思われます(新共同訳では「議員」と訳している)。まるで若い時のパウロのような立場でした。そして、この人は、「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と尋ねました。「尊い」とは、本来、「良い」とか「立派な」というような広い意味のことばです。そして、質問の中心は、「永遠のいのち」「受け継ぐ」ために「何をする」べきかというものです。「永遠のいのちを受け継ぐ」とは、「神の国に入る」(25節)ということとほとんど同じ意味です。彼はこの地上でも既に良い地位を勝ち得ていましたが、聖書に預言された「神の国」に入れていただけるという「救いの確信」がなかったのでしょう。これは、先にイエスが、「神の国は、このような者たちのもの」と、大人に連れて来られた幼児たち指し示したのと正反対の考え方です。マタイでもマルコでも、この金持ちの青年の話と幼子を受け入れる話はセットになっています。

それに対してイエスは、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません」という不思議な答えをします(19節)。それはこの役人の目を、ご自分ではなく、天の父なる神に目を向けさせることにありました。そして、イエスは、「戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え』」(20節)とごく当たり前のことを言われました。これは、この「役人」が、イエスに何か目新しい教えとか秘訣を求めていることに対して、神の教えは、すべての人に十分に明らかになっているということを印象付けることばでもありました。この役人の問題は、このような質問をすることによって、神は、最も大切な教えを、意地悪にも、人々の目から隠している方であるかのように思っていたということではないでしょうか。しかし、モーセは、律法の締めくくりとして、「この命令は、遠くかけ離れたものでも・・天にあるのでも・・海のかなたにあるものでもない・・・みことばは、あなたがこれを行うように、ごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたのこころにある(申命記30:11-14私訳)と言っていたのです。

ところが彼は、そのようなイエスの意図に気づくことなく、 「そのようなことはみな、小さい時から守っております」(21節)と答えてしまいます。彼は、律法を守ってきたという自負がありながら、なお、「永遠のいのち」「受け継いでいる」という確信がなかったのです。マルコは、この役人が、「イエスに走りよって、御前にひざまずいて」(10:17)尋ねたというほど切羽詰った様子を描いています。それは彼が、「自分の良い行い」と引き換えに、「永遠のいのち」を受け取るという発想に生きていたからです。そのとき彼は、「みことば」自体を神からの賜物として喜ぶのではなく、それを目的達成の「手段」におとしめていたのです。しかし、律法のみことばは、一方的な恵みとして与えられたものであり、それを喜び受け入れることのなかに「永遠のいのち」は含まれていたのです。私たちはいつも自意識過剰になりがちです。しかし、神のみことばにただ、受動的に心を開き、神の語りかけに感動しているとき、そこに「神の国」は実現しています。この神との生きた親密な交わりこそ「永遠のいのち」です。ところが彼は、聖なる神のみおしえを、「そのようなことはみな」と呼び、恵みではなく、常識かのように受け取っていました。

イエスはこれを聞いて、その人に、「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」(22節)と言われました。マルコは、このときの様子を、「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」(10:21)と描いています。つまり、イエスは、彼に自分の罪を思い知らせてやろうと敢えて意地悪を言ったわけではありません。なお、イエスはこの際、敢えて、「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります」と付け加えられました。それは、彼の目を、地上のことから、天に向けさせる意味がありました。しかもイエスは、「そのうえで、わたしについて来なさい」と、彼をご自分の弟子として招いておられます。これは主が、ペテロやヨハネやマタイを招いたときと同じことばです。この役人は、イエスの御前にひざまずいて教えを請うだけの思いがあったのですから、それは不可能ではありませんでした。ところが、「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである」(23節)と、彼の反応が記されています。マルコは、「すると彼は、このことばに顔を雲らせ、悲しみながら立ち去った」(10:22)と明確に記しています。

たぶん、彼がペテロのような貧しい漁師であったなら、またマタイのように人々から軽蔑されていた取税人であったなら、イエスの招きに応じるのはより易しかったことでしょう。しかし、彼の場合には失うものが多すぎました。

マザー・テレサは、「富は、悪ではなく、不幸である・・・富は人の気前のよさをなくし、心を閉ざし、窒息させてしまうからです」と言っていました。3億円の宝くじが当たった人の実話のテレビドラマがあったそうです。そこで、ほとんど大金を急に得た人は悲惨な人生を歩むようになるという統計が明らかにされていました。誰もが自分は大丈夫だと思います。しかし、人は弱いのです。無駄なものを買う、金額に鈍感になる、欲が出てくる、人が寄ってくる、人から騙される、ほとんど破滅の道に進んで行くとのことです。3億円あってもいつの間にかなくなります。いくら得たかではなく、人にどれだけ与えることができたかを大切にしなければなりません。パウロは「貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っている」(Ⅱコリント6:10)と言っています。

ただし、貧乏も確かに辛いものです。貧乏に苦労した若い牧師が、次のような詩を書いています。

「 貧乏はつらいもの 貧乏は人を縛りつけます 貧乏は人を変えます 性格までねじ曲げてしまいます

 貧乏が 『貧乏神』と呼ばれるゆえんは それなのでしょうか

  貧乏は 愛する人ができれば こたえます 病気をするとこたえます 子供ができれば身にしみてこたえます

 貧乏に負けてしまう人もいる つらかったことでしょう 貧乏のつらさは経験者でないとわからない 

(でも) 貧乏をしていると 人の心が見えてくる ものの声が聞こえてきます

貧乏をして 見えないものが見えてきた それまで知りえなかった すばらしいものが 見えてきた 

貧乏が 『貧乏神』と呼ばれるゆえんは それなのでしょうか 」 

感動的なのは、彼がここで、貧乏の辛さを語りながら、それを通して、「見えないものが見えてきた」と語っている点です。これはお金の問題に限りません。私たちのうちにある、自分の「知恵」に対する「誇り」なども同じです。「自分に知恵がある、能力がある・・」という人は危ない面を抱えています。イエスに必死に尋ねてきたこの青年は、お金も、能力も、知恵も、地位もあり過ぎました。それゆえ、それを捨てることができなかったのです。

3.「人にはできないことが、神にはできるのです」

イエスは彼を見て、「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(24、25節)と言われました。これは、「優秀な人は・・」、「人から尊敬されている立派な人は・・・」、「成功している人は・・」などと言い変えても良いことばです。自分の力で人生を切り開いてきたという自負がある人は、しばしば、「すべてが恵みである」ということが分かりません。パウロは自分の知恵を誇っている人に対し、「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7)と厳しく迫っています。たとえば、人の外見も知能指数も腕力も、遺伝子によって大部分が既に決まっているのではないでしょうか。それは、まさに「もらったもの」であって、誇るべきものではありません。それは、神から与えられた賜物です。私たちが問われていることは、それをどのように用いたかということです。

イエスは、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12:48)と言われました。ここから、フランス語の格言、noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)が生まれます。これは「貴族の責任(義務)」とも訳しえることば、日本語では「武士道」と訳すこともできましょう。たとえば、第一次世界大戦のとき、イギリスでは貴族の子弟の戦死者が非常に多かったと言われます。また、アメリカでは、裕福な人が何のボランティア活動もしていなければ白い目で見られるような風潮があります。それは、より豊かに与えられているほど、より厳しく責任が問われるということの実例です。ところが、人はしばしば、それを逆転して考えます。それは、「私が豊かで能力があるのは、神から特別に愛され、重く見られているしるしであって、私のいのちの価値は誰よりも重い。だから、人が私のために働くのは当然だ・・・」という特権意識です。そして、人は、基本的に、すべてを自分に都合よく考えようとします。イエスは、この青年の中に、「ノブレス・オブリージュ」を忘れた特権意識を見たのかもしれません。とにかく、この青年は、富も地位も手にした上で、「永遠のいのち」さえ、自分の手でつかみとろうとしていたことは確かです。彼は確かにこの世の成功者であり、努力家でしょうが、そこに罠があります。自分で成功を掴み取って来たと自負する人は、かえって、自分の願望に縛られてしまい、手放すことができなくなるからです。

ところで、イエスのことばを聞いた人々は、「それでは、だれが救われることができるでしょう」と尋ねました(26節)。それは、彼らも、誤った特権意識に捉えられていたからです。彼らは、「裕福であるのは、神から特別に愛される理由があったからであって、そのような人こそ、誰よりも神の国に近い」と考えていたからです。しかし、現実は、自分が豊かで、才能があり、自分の力で成功を掴み取ることができると自負する人は、神の必要を感じなくなってしまうのです。イスラエルは、約束の地に入って、生活に困らなくなったとたん、偶像礼拝に走ったのです。イスラエルの神は人に服従を求めましたが、カナンの宗教は、楽しいことばかりを約束してくれたからです。しかし、それは、恵まれた環境に生まれ育った人は、心に渇きがないから、救われようがないのでしょうか。

それに対し、イエスは「人にはできないことが、神にはできるのです」(27節)と言われました。その代表例はパウロです。彼は、自分の罪に悩んだあげく、救いを求めたのではありません。彼はクリスチャンを迫害することに情熱を傾けて、ダマスコに行く途上で、「突然、天からの光が彼を巡り照らし」、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたからこそ、イエスを信じることができたのです(使徒9:3,4)。彼は、自分で求めたのではなく、一方的に捉えられたのです。ただし、それは特権というより、福音のためにいのちをかけて働くためという、ノブレス・オブリージュへの招きでした。確かにパウロは特別でしょうが、しばしば、頭が良いと思われる人に限って、信仰に導かれるきっかけは単純なものです。昔から最も多いのは、恋愛が入信のきっかけになるというものです。自分に自信がある人は、恋愛でもしないと自分から自由になれないからでしょう。また、そうでなくても、神は、優秀な人であればあるほど、適度な試練を与えて、その高慢を打ち砕いてくださるということがあります。私たちはすべて、パウロと同じように、神に選ばれて、天地万物の創造主である神の子どもという貴族的な立場が与えられました。それは特権意識を味わうためではなく、「貴族としての責任」(ノブレス・オブリージュ)を果たすためです。

ところで、このときペテロが、「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました」(28節)と言いましたが、何という無神経で愚かな応答でしょう。彼はたまたま、この役人より、富も地位も、聖書知識も少なかったからこそ、イエスの招きに従うことができただけなのに、それがまるで自分の功績かのように誇っているからです。しかも、マタイの記録によると、このときペテロは、「私たちは何がいただけるのでしょうか」と(19:27)と、露骨に報酬を期待していたのです。彼も、金持ちの青年と、まったく同じ発想の中に生きていたことが明らかです。

ところがイエスは、それを叱責する代わりに、「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」(29,30節)と言われました。それは、彼らがイエスに従っているということ自体に価値があるからです。彼らはどちらにしても、自分の不信仰や愚かさを思い知らされることになります。それはことばで教えてわかるようなものではありません。人は、所詮、何かの報いなしには働くことができないほど自己中心な思いにとらわれているのが現実だからです。今、弟子たちに必要なのは、何があってもイエスのみもとにとどまり続けるということです。彼らは、どちらにしても、この直後、自分の愚かさや弱さのゆえにつまずいてしまいます。それは、目に見えない神よりも、目に見える人を恐れてしまうからです。だれの人生にも、挫折はつきものです。そのときに、支えになるのは、神が私たちの苦労に、正当な報いを与えてくださるという保障です。

 イエスは禁欲主義を教えたのではありません。イエスは私たちが富や力の奴隷になることを何よりも警告されたのです。この金持ちの役人がその後、どうなったかは分かりません。しかし、ここにパウロの姿を見ることもできるのではないでしょうか。ひよっとしたら、この人も、後に、復活のイエスに出会い、パウロのような働きができたかもしれません。しかし、そのたびごとに、彼は、イエスが自分にきっぱりと財産を捨てて従うように勧めてくれたことに、イエスの深い配慮を感じて感謝したことでしょう。イエスはこの青年を冷たく追い返したのではありません。イエスはこの青年をいつくしんでくださったのです。表面的な拒絶の背後に、イエスのあわれみに満ちた招きが見られます。聖歌582番の歌詞は、そのまま読むと、あまりにも過激な内容です。そんなこと心から歌うことは無理だと感じます。しかし、この歌詞が、スコットランド民謡「アニー・ローリー」のメロデイーに載せて歌われるとき、それが無理ではなく感じられます。もともとの歌詞は、「アニー・ローリー」という女性への恋いの歌です。その歌詞の最後は、「ダーク・ブルーの瞳の、かわいいアニー・ローリーのためなら僕は死んでもかまわない」というものです。恋する人のためにいのちをささげることができるなら、どうして、どんな富や地位や名誉にもまさって魅力的なイエスのために、すべてを捨てることができないことがありましょう。そんな恋い心を持って、この曲を味わってみましょう。

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2008年8月 3日 (日)

イザヤ63:7-66章24節(最終回)「神による新しい創造と報復」

                                                2008年8月3日

  私たちの社会では、自分で自分を律することが何よりも大切な徳とされます。確かにそれは大切なことですが、それはすべての宗教や道徳に共通する倫理基準に過ぎません。聖書の教えのユニークさはそれを超えたところにあるのではないでしょうか。主はイザヤを通して、最初から最後まで、偽善の礼拝者を非難していました。それはイエスがパリサイ人を非難したのと同じです。しかも、イザヤのメッセージは、国がなくなるまでイスラエルの人々には理解できない性質のものであると予め語っておられました(6:9-13)。これは私たちの現実では、自分自身に真に失望するまでは福音が心に届かないということを意味します。私たちは良い人間になりたいと思いながら、そうなれないから福音を求めたのです。それを忘れてはいないでしょうか。しかも、神のみこころを何よりも傷つけ、神が怒りを発せられるのは、神のあわれみを軽蔑し、神を求めない自称、「善人」たちです。

1.「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」

63章9節のみことばは多くの苦しむ人々にとっての何よりの慰めです。そこには、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身(御顔)の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(63:9)という主の「愛とあわれみ」が描かれます。主は、私たちの痛みを上から見下ろしておられる方ではなく、ともに「苦しみ」、また、「背負い、抱いて」来られた方だというのです。

  今から約三十年前、フィリップ・ヤンシーという米国のジャーナリストを有名にした本があります。そのタイトルは、「Where is God when it hurts」(痛むとき神はどこにおられるのか)でした。それは誰もが避けたいと願う「痛み」に創造的な価値があるということを解き明かした本として米国で絶賛されました。しかし、それは別に目新しい教えではなく、今から二千七百年前に、神がイザヤを通して語っていたことでした。イスラエルの民は、自分たちの痛みを通して、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」という霊的現実を体験できたのです。神を遠く感じるとき、神は私たちの最も身近におられるという逆説があるのです。

なお、ここで、「ご自身の使い」とは、原文で、「彼の顔の使い」と記されており、単に、ご自分の代理としての御使いを送ったというのではなく、主がご自身のあわれみの御顔を向けておられるということが強調されています。イスラエルの民がシナイの荒野に老いて金の子牛を作って拝んだ時、主(ヤハウェ)は、最初、「わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし・・・乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたの中にあっては上らないからである」と仰せられましたが、モーセは、「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください」と食い下がり、その結果として、主ご自身が彼らの真ん中に住み、彼らを約束の地に導かれました(出エジ33:2,3,15)。つまり、主は、御使いをイスラエルに遣わしたのではなく、民の反抗に耐えながら、ご自身が彼らの真ん中に住んで、彼らを救い出されたのです。

パウロは反抗的なコリントの教会に向かって、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることをあなた方は知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と語りましたが、今、主ご自身が私たちの交わりのただなかに住んでおられ、私たちを「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」へと導いておられます。私たちは誰も、「聖霊が宿っている」という教会の交わりを軽蔑して、約束の地に達する事はできません。

2.「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」

ところがそれにも関わらず、主の民は「逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」ので、「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」(63:10)というのです。これは、イスラエルの民のバビロン捕囚に至るまでの神のさばきの全体を表わしたものだと思われます。その過程で、主は、敢えて異教の国々を動かし、イスラエル攻撃に仕向けられました約束の地に至る過程では、主はイスラエル側に立たれて外国と戦っておられましたが、約束に地に入ってから、特にダビデ以降の時代は、神は外国の国々を用いてイスラエルを懲らしめられました。それはまるでイスラエルの神、主(ヤハウェ)が外国人の味方となり、イスラエルの敵となられたことを意味します。

そして、このような中で、「主の民は、いにしえのモーセの日を思い出し」ます。そして、「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか・・・彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか(63:11-13)と三度の疑問形が繰り返されながら、主が海をふたつに分けて彼らを救い出された「輝かしい御腕」のことが思い起こされます。そして、それをまとめて、「家畜が谷に下るように、主(ヤハウェ)の御霊が彼らをいこわせた」(63:14)と結論付けられます。なお、ここで、主のみわざが何よりも、主ご自身が彼らの真ん中に「聖なる御霊」を置かれ、「主(ヤハウェ)の御霊が彼らを憩わせた」という聖霊のみわざとして描かれています。これは旧約では極めて珍しい記述です。

  その上で、イザヤは、「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか(63:15)と、主ご自身が「たぎる思いとあわれみを」、今、敢えて、「押さえておられる」と表現します。それは、イスラエルの悲惨が、主の無力さのあらわれではなく、主ご自身のみわざによるものであり、主のみこころひとつで、すべてが変わるという希望を示すためです。そして、その上で、「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主(ヤハウェ)よ、あなたは私たちの父です(63:16)と告白されます。旧約において、「主(ヤハウェ)」「私たちの父」と呼ぶのは珍しいことです。

  パウロは、この箇所における「御霊」また「父)」という表現を用いて、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:14,15)と記したのではないでしょうか。

私たちも主の聖なる御霊を痛ませることによって、自分を神の敵としてしまうことがないように注意すべきでしょう。パウロも、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30)と言いました。それは「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなど」身を任せることをやめて、「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦しあいなさい」という愛を実践する事です(同4:31,32)。主がご自身のいのちをもって贖い取ってくださったキリストのからだなる教会を傷つけることにまさって神の御霊を悲しませる行為はありません。私たちは、主(ヤハウェ)を、「私の父」と告白するのではなく、「私たちの父」と告白するように召されています。信仰は確かに極めて個人的なものですが、キリスト信仰は何よりも、共同体の出来事として表されるということを忘れてはなりません。

3.「主(ヤハウェ)よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか」

64章8,9節で、イザヤは不思議にも、「あなたは私たちから御顔を隠し・・・私たちを弱められました。しかし、主(ヤハウェ)よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です・・・主(ヤハウェ)よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください」(64:7-9)と告白します。これは、救いの主導権は、私たちの心以前に、陶器師である主のみこころにあるという告白です。だからこそ、主のあわれみに必至にすがることが大切なのです。

 そして、イザヤは自分達をやがて襲う悲惨を予見しつつ、「あなたの聖なる町々は荒野となって・・・私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました」と生々しく描きますが、そのときの主ご自身の葛藤を、不思議にも、主(ヤハウェ)よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですかと問いかけています(64:10-12)。主はご自身の民の悲惨を冷たく見下ろしておられるのではなく、彼らの痛み合わせてみこころを痛めながら、なお助けたい気持ちをこらえておられるというのです。これは放蕩息子の父親の気持ちを描いている表現と言えましょう。

4.「わたしは黙っていない。必ず報復する。」

65章3節では、イスラエルの罪が、「この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、『そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている』と言う」と描かれます(65:3-5)。彼らの問題は、自己認識の欠如にありました。彼らは、主のみこころに反してまったく汚れた者になっていながら、自分達は『聖なる』ものであると言い張っていたのです。それに対して主は、「わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する・・・報復すると三度も繰り返されます(65:6,7)。

その上で、「わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる」(65:9、10)と記されます。神はかつて、シャロンを荒地に(33:9)にし、アコルの谷にアカン一族を石で撃ち殺させ、石の山を築かせましたが(ヨシュア7:24-27)、今や、選び残された神の民にとって、「のろい」の時代が過ぎ去り、祝福の時代が始まるというのです。

そして、その祝福に関しては、「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」(65:16)と描かれますが、「この世」とは厳密には、「地において」と記され、この地における祝福と、霊的な祝福の格差がなくなることを意味します。それは、信仰者の歩みが、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していたのです」(ヘブル11:13)と描かれるような憧れに生きる状態が解消され、約束されたもの目の当たりに見るようになることを意味します。

5.「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。

 そして、神が新しく実現してくださる世界のことが、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ(65:17-19)と描かれます。「わたしは・・創造する」と三度も繰り返され、「新しい天と新しい地」の創造は、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の最初のことばに対応して記されます。その上で、失われた喜びの園「エデン」を回復するという意思を込めて、「わたしの創造するものを・・楽しみ喜べ」と勧められます。ここに、廃墟とされたエルサレムを主ご自身が新しく創造されるという断固たる意思が見られます。これは、黙示録の「新しいエルサレム」につながります。しかも、ここでは主ご自身が、「わたしの民を楽しむ」と繰り返しておられます。それは、主が天と地を新しくされる前に、私たち自身をも内側から造り変えてくださるからです。

  私たちは自分自身の進歩のなさ、この世の不条理がはびこる現実にしばしば失望を味わいます。しかし、聖書を通して読む事によって、私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことができるように召されています。私たちは、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」の理由を知ることはできません。しかし、「神を愛する人々・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と大胆に告白することができます。この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って、私たち自身を、そして世界を造り変えてくださるのです。

  今や、キリストの復活によって、その祝福の時代が既に実現し始めています。それは、真冬の寒い時に、梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。そして、新しい天と新しい地」のつぼみこそ、このキリストの教会です。だからこそサタンは必至に教会を壊そうとします。しかし今、既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっていることを忘れてはなりません

また、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(65:24)とは、主がご自身の民に対して御顔を隠しておられたという状態がなくなって、ご自身の御顔をいつも向けておられる親密な交わりが回復することを意味します。ここでは、わたしは答え・・わたしは聞く」という主ご自身の意思が強調されています。私は、長い間、泣く必要のないほどに心が安定することに憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を赦せなくなるだけでした。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。赤ちゃんに向かって、「泣くな!」と叱って、かえって大泣きさせるように、自分や人の感情を非難して空周りを起こすことがあります。母親の愛情が赤ちゃんを安定させることができるように、神の御前では、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、人生の障害とはなりません

  

6.「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」

66章の初めで、主(ヤハウェ)は、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ」と仰せられますが、これはソロモンが神殿を建てたときに、「神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮などなおさらのことです」(Ⅰ列王8:22)と祈ったことに対比される表現です。主は、主を恐れる者たちのただなかにしか「いこいの場」とすることができません。そのことを主は、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(66:2)と表現されます。

 それに対し、イスラエルの偽善に満ちた礼拝の姿が、「牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ」(66:3)として描かれます。彼らは主を喜ばせようとしているようでありながら、同時に、実際には、主の忌み嫌われることを平気で行っているというのです。それに対して、主は、わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす。わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行い、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ」(66:4)と応答されるというのです。彼ら自身が主の怒りを招いているからです。

一方で、エルサレムに訪れる祝福の事が、「すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。あなたは、彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ」(66:10、11)と、母親が乳飲み子を慰め、喜ばせることにたとえられます。そして、またエルサレムの繁栄の様子が、「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる」(66:12、13)と美しく表現されます。ここで、神の民に与えられる祝福が、母親のふところで慰められる子どもとして表現されるのは興味深い事です。

  五世紀のエジプトでのある修道院でのことです。そこの指導者のポイメン神父に、長老の幾人かが行って、「兄弟たちが時課祈祷や徹夜祈祷のとき居眠りしているのを見たら、目を覚ますように揺り起こすべきだとお考えですか」と尋ねました。それに対し、彼は、「私ならば、兄弟が居眠りをしているのを見たら、彼の頭を膝の上に置いて休ませる」と答えたとの事です(ポイメン92「砂漠の師父の言葉」引用:水垣渉著「初期キリスト教とその霊性」日本キリスト改革派西部中会文書委員会2008年p125)。そのような答えは、この箇所から生まれているように思います。幼児が母親のひざの上でかわいがられ、安心するように、神は私たちを慰めてくださるというのです。この世的に考えると、「主のことばにおののく」という観点と礼拝での居眠りは、決して相容れないものでしょう。しかし、疲れやその他の理由を抱えながら、なおも、礼拝に来られる方は、神の目には「主のことばにおののく者」に他なりません。

聖書の神は、私たちにとっての父であるとともに、慈愛に満ちた母のような方です。そして、このような新しい神のイメージをいただく事によって「あなたがたの骨は若草のように生き返る」(66:14)と約束されるのです。イエスは当時の人々の、忘れられていた母としての神のイメージを表してくださったのではないでしょうか。

  そして、主は最後に、新しい世界の永遠性について、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように・・・あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と記されます(66:22、23)。これこそ、主が喜ばれる礼拝の完成のときです。イエスはサマリヤの女との対話で、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」と言われましたが(ヨハネ4:23)、イエスの救いとは、何よりも、偽善に満ちた人間のわざとしての礼拝を退け、イエスが与える御霊と、「わたしが道であり、真理(まこと)であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われるイエスご自身を通して、イエスの父なる神を礼拝することに表されます。私たちはその意味で、すでに、新しい天と新しい地の住民、新しいエルサレムの市民とされているのです。

しかし、同時に、神の敵に対するさばきが最後に、「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる」(66:24)と警告されます。「神が愛であるならば、地獄は空になるはずだ」などと言う人がいますが、聖書はそのように語ってはいません。神を恐れる者に対する永遠の祝福と、神の敵に対する永遠のさばきはセットとして記されているのです。

  今回の箇所を通して、「へりくだって心砕かれ、主(ヤハウェ)のことばにおののく者」に対して、主が乳飲み子を慰める母親のような姿で現れてくださる一方で、自分は「聖なるものになっている」という偽善の礼拝者たちに対しては、「すべての人に、忌み嫌われる」という永遠ののろいが宣告されます。私たちはこのような対比に戸惑いを感じざるを得ません。しかし、パウロは、「多くの人々がキリストの十字架を敵として歩んでいる・・彼らの最後は滅びです・・彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ3:18,19)という厳しいさばきを宣告しながら、人間の肉の力によって神の好意を勝ち取ろうとする律法主義者たちに対し、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません・・・大事なのは新しい創造です(ガラテヤ6:15)と言いました。今、神は私たちの交わりの真ん中に御霊を遣わし、主を、「アバ、父」と呼ぶことを可能にしてくださり、私たちを内側から造り変え、また「新しい天と新しい地」を創造しようとしておられます。神の御霊による「新しい創造、これらすべてが、イエスの七百年前にイザヤが預言していたことでした。

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