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2008年9月28日 (日)

箴言10章、11章 「主の祝福の中を大胆に生きる」

                                               2008年9月24日

先週はエレミヤ書から、現実から遊離した理想や根拠のない楽観主義の危険を話しました。ただ、それが人生を悲観的に見ることにつながっては本末転倒です。今から百年ほど前のボーア戦争のとき、南アフリカのひとりの兵士が、「落胆させる罪」という罪名で起訴されたことがあるそうです。彼はある小さな町がイギリスの攻撃を受けていたとき、町を守る兵士たちの間に、あらゆる否定的な情報や不平不満を吹聴しました。彼はイギリス軍の強さばかりを一面的に語り、町が陥落するしかない理由をまくしたてて歩き、そのことばは、銃よりも強い武器となり、町を防衛する兵士たちの戦意を挫いてしまいました。否定的な言葉と落胆は、人を滅ぼす武器になります。しかし、肯定的な言葉と希望は、人を生かす武器になります(Durano Japan リビングライフ 9月号 p101、ただし事実関係の詳細は不明)。聖書の箴言には、真理を簡潔に言い表す言葉に満ちています。ただ、一見、脈絡のないと思われる表現が並び、互いに相矛盾すると思われる言葉もありますので、聖書全体から理解する必要があります。

今回は10、11章から、特に、富と人間関係に焦点を合わせてみます。多くの人にとっての悩みは、お金のことか人間関係に関わることではないでしょうか。その際、様々に入り組んだ問題の本質を見極めることが大切です。

1.「不義によって得た財宝は役に立たない」「無精者の手は人を貧乏にし・・・」

「知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである」(10:1)とありますが、それはこの世の「知恵」とは異なり、「主(ヤハウェ)を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(9:10)とあるように、創造主との関係で言われることです。この世の知恵があっても、神の前に愚かな者になってはなりません。反対に、この世においては「愚か」と見られながら、神の前に「知恵ある者」とされているのが、キリスト者のあるべき姿でしょう。たとえばロシアの文豪ドストエフスキーは、カラマーゾフの兄弟のアリョーシャの生き方にそれを描こうとしました。まったくジャンルは違いますがアルプスの少女ハイジなどもそうです。この人たちは、人に騙され、振り回されているようでありながら、神と人を信頼することができています。不思議に、悪人と思われる人でさえ、この人たちの前ではしだいに優しくなってしまいます。そのため、お金に驚くほど無頓着でありながら、すべての必要が満たされます。

「不義によって得た財宝は役に立たない」(10:2)とは、経済活動で何よりも心に留めるべきことです。「財宝」自体は決して悪くはなく、大切なものです。それだけに「目的のためには手段を選ばない」ということが起きがちです。しかし、「財宝」は私たちの幸せを保証するものではなく、それ自体が手段に過ぎません。実際、多くの財宝を手にしていながら、不安と孤独に苛まれている人も多くいます。「いのち」は主(ヤハウェ)の御手の中にあります。神に逆らって豊かになっても、あなたのいのちの保障はありません。これとセットで、「しかし正義は人を死から救い出す」と言われます。「正義」とは、英語でrighteousnessと記されますが、これはright relatedness(正しい関係)と言いかえることもできます。「私は正しい!」と言い張る人ではなく、イエスの十字架なしには救われないということを自覚する罪人こそが、「正しい者」です。自分の心の貧しさを悲しむ人を、主(ヤハウェ)は守り通してくださいます

「主(ヤハウェ)は正しい者を飢えさせない。しかし悪者の願いを突き放す」(10:3)とは、来るべき世までをも含めて理解すべきことです。イエスは、終わりの日に、「主の名によって預言し、悪霊を追い出し、奇蹟をたくさん行った人」が、主から、「わたしは、あなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れ去れ」と退けられることがあり得ると警告しておられます(マタイ7:22,23)。この世の成功の尺度で人生を計ることはできません

ただし、「不義によって得た財産」ということばを、狭く解釈してはなりません。しばしば、直接の生産に関わらない金融業や商業は軽蔑される傾向があります。しかし、市場経済のもとで得る利益は基本的に、その働きが消費者の必要を満たすことができたこと、つまり、人の役に立ったことの証しであると言うこともできます。この世の経済活動を斜に構えて見ながら、自分は汗も流さず、リスクも取らない人を、聖書は、「無精者」と呼びます

「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である」(10:4、5)とは勤労の大切さを語ったものですが、これは、主にあって勤勉に働いて富を得ることを前面肯定したことばと言えましょう。この世の仕事を軽蔑してはなりません。主は、ひとりひとりに、仕事を与えておられます。それを誠実に成し遂げて、結果的に富を得ることができるのは良いことです。すべての仕事は、主に対する奉仕になり得るものです。その報酬を堂々と楽しんでよいのです。

そのことが、15節では、「富む者の財産はその堅固な城。貧民の滅びは彼らの貧困」と言われます。財産は、この世では「堅固な城」として機能しえるものです。貧困は、貧しい人を追い詰め、滅びに至らせることがあります。しかし、財産は、それほどすばらしいもので、役立つからこそ、神の代りに尊ばれる危険があります。

「財産」は私たちの人生を守り、豊かにできる神からの賜物です。それを否定することは、旧約聖書を否定することになります。しかし、だからと言って、「貧しさ」を神のさばきと見るのは誤りです。それを背景に、イエスは、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」(ルカ6:20)という逆説を述べられました。「貧しさ」はひとつの悲劇です。しかし、神は、それさえも祝福の原因に変えることができます。たしかに、神を忘れずに豊かさを享受できるのが最も良いことかもしれませんが、財産は、手段に過ぎないということは、決して忘れてはなりません。

2.「主(ヤハウェ)の祝福そのものが人を富ませ・・・」

一方で、22節の「主(ヤハウェ)の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」というみことばは、人の労苦をあざ笑い、先のことばと矛盾するように感じられます。しかし、これはこの世的な富を既に得た人に向けてのことばです。イスラエルの民は、約束の地での祝福を味わうときに、「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためだ」(申命記8:17,18)というみことばを心に刻むように命じられていました。

私たちの働く環境は、基本的に、獲得したものではなく、与えられたものです。しかも、「富を築き上げる力」や「苦労する力」を与えてくださったのも、主ご自身です。たとえば私は自分の忍耐心を誇っていたことがあります。しかし、それは私の要領の悪さやバランスの悪さをカバーするために神によって与えられた恵みだと分かりました。要領の悪さと忍耐心は、セットとなっていることが分かったとき、自分の弱さを卑下する必要も、また自分の強さを誇る必要もなくなりました。長所と短所を併せ持った私自身に神の祝福があると分かり嬉しくなりました。私たちは自分が生まれた環境も、基本的な気質も体型も、選ぶことができませんでした。そこには疎ましく思えるような様々な様子がありますが、それらすべてを神から与えられた祝福と受け止めるとき、世界が変わって見えます

ただし、富自体を主の祝福の現れとして喜ぶことの危険も改めて記されます。それが、11章4節の「財産は激しい怒りの日には役に立たない」です。パリサイ人は、豊かさ自体を神の祝福のしるしとして受け止め、自分の罪深さを忘れていました。「激しい怒りの日」とは、神が私たちの罪をさばかれるときです。そのとき、財産は何の役にも立ちません。頼りになるのはイエス・キリストの十字架の血潮だけです。それと並行する、「正義は人を死から救い出す」とは10章2節と同じ表現です。私の正義ではなく、イエスの正義が私たちの救いです。パウロは、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに・・・すべてのものを・・・ちりあくたと思っています」(ピリピ3:8)と言いました。この世で誇ることができるすべての宝が、キリストを知っていることに比べたらすべてがむなしく見えるというのです。私たちの救い主は、この世界を創造し、すべての富も力をも保有しておられる方です。

私たちの目が、富よりも、創造主に向けられるべきことが11章24-28節で再び繰り返されます。24節の、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」とは、けち臭い生き方への警告です。ドイツで仕事をしていたとき、資産運用の専門家が、「お金は、水のように、流れ行く場所を求めている」という名言を言っていました。お金は、最終的に、お金の使い方を知っている人のもとに流れて来ます。ですから、お金を貯めることばかり考えている人は、自分で自分の首を絞めることになるのです。パウロはこのみことばをもとに、「少しだけ蒔くものは、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります(Ⅱコリント9:6)と語りました。パウロはこれを献金の勧めに用いましたが、本来はこの箴言にあるようなこの世の経済活動の話でした。つまり、この世での投資と神の国の献金の原則には共通項があります。何にしても、けちる者は豊かになれません。

26,27節の「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある」とは、すべての商取引の基本は、人と人との信頼関係によって成り立っているという原則を示します。取引相手を後で後悔させるような取引を続けていると、結局は人の信頼を失い、相手にされなくなります。しかも、私たち信仰者は、人が私たちの善意を誤解したり、感謝してくれなかったりしても、神がすべてを支配しておられることに信頼することができます。そのことが最後に、「熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者には悪が来る。自分の富に拠り頼む者は倒れる。しかし正しい者は若葉のように芽を出す」(11:27、28)と記されます。この世の経済活動の背後に、神がおられるということを決して忘れてはなりません。富を軽蔑するのでもなく、富に望みをかけるのでもなく、富を支配しておられる神に信頼することこそが私たちの信仰です。「正しい者」、つまり、父なる神との正しい関係をキリストにあって持っている者は、一時的にしおれるように見えることがあっても、必ず、「若葉のように芽を出す」ことができるのです。

3.「正しい者の口はいのちの泉。・・・愛はすべてのそむきの罪をおおう」

 人間関係の基本は、口から出ることばによります。そのことが、「正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す」(10:11)と述べられます。詩篇作者は神に向かって、「彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。いのちの泉はあなたにあり・・」(詩篇36:8,9)と描きますが、ここでは神ではなく、「正しい者の口」が、「いのちの泉」であると言われます。それは私たちの口から神の愛が取り次がれることによります。私たちの口から出ることばが、人に生きる力と喜びを生み出すものであるためには、どのようにしたら良いでしょうか。ある方は、人に会う前に必ず主に向かって祈ると言っておられました。それは、神ご自身が私たちに、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と語ってくださるのと同じ思いで、その人を見ることができるように祈ることです。多くの日本人は、人の欠点を指摘して正してやることが親切だと思っています。しかし、私が相談に乗ってきたほとんどすべての人は、自分の欠点が分かりながら、変えられない自分に悩んでいるというのが現実でした。問題を指摘するよりは、問題に直面する「いのちの泉」が必要です。

「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう」(10:12)とありますが、この「愛は・・罪をおおう」という表現は新約聖書で三回も引用されます(Ⅰペテロ4:8、Ⅰコリント13:7別訳、ヤコブ5:20)。

ここで、「愛」とは、「そむきの罪」露にするものではなく、「おおう」と記されています。これはセットになっている「争いを引き起こす(目覚めさせる)」方向に働く「憎しみ」との対比でより意味が明確になります。たとえば、私たちが人を憎んでいるとき、その人を憎むことを正当化できるあらゆる欠点が目につきます。そして、それを指摘することによって、自分の側に正義があるという優位を確認したくなります。しかし、それは必ず相手の反撃を招き、反対に相手が自分の欠点を指摘して争いが激化する方向に働きます。ところが、「そむきの罪」の基本は「反抗」ですが、私たちが人を、「愛はすべてをおおう」というⅠコリント13:7(別訳)の原則で「愛するとき」は、「そむきの罪」を無力化できます。それは何よりもまず、その人が指摘されることを恐れている「そむきの罪」を、敢えて気づかないふりをするということです。これは、親にひとつひとつ反抗を見せる子供に対し、そのひとつひとつの反抗の愚かさを指摘する代わりに、何も言わずに、「抱擁する」ことに似ています。無条件の愛は、「そむく」理由を無くさせます。しかも、ここで、「愛」は、部分的にではなく、「すべて」の「そむきの罪」を、「おおう」力があると言われます。

聖書の「愛」(アガペー)に最も近いことばは「尊敬」です。神は、尊敬に値しない罪人を、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言って、ご自身の御子を罪の身代わりとしてくださいました。目の前の人を見て、「これさえ改めてくれれば、好きになることができるのに・・」などというのは、聖書の「愛」に反します。多くの人は心の内側で自分を軽蔑しています。あなたの愛の語りかけは、その人に生きる力を与える「いのちの泉」になり得るのです。愛は、「あなたがいてくれて嬉しい」というような、その人の存在自体を喜ぶことばから始まります。

4.「憎しみを隠す者は偽りのくちびるを持ち・・・ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの」

10章18節では、「憎しみを隠す(おおう)者は偽りのくちびるを持ち」と言われますが、これは、たとえば、心の底でその人を憎んでいながら、「私はあなたを愛しています」という「偽り」を言うことです。しかし、先には、「愛」は、愛するに価しない人を尊敬しようとする意思であると言いましたが、それと矛盾するかのようです。ただ、それは、決して、偽善的になることではありません。あくまでも問われているのは、私たちの心の底にある動機です。世の中には、自分の立場を守るだけのために、心の内側の憎しみを隠しながら、その人の好意を得ることができるような耳障りの良いことばを発し続ける人がいますが、そのような態度を戒めたものです。ただ、同時に、ここではそれを補うかのように、「そしりを口に出す者は愚かな者である」と記されています。自分の思いを正直にことばにすることが良いわけではありません。たとえば、自分の思ったままを口に出し、「私はあなたが嫌いです」などと言うことは、相手の敵意を買うだけです。それは愚かなばかりか、愛の原則に真っ向から反することです。

そして、「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある」(10:19)とは、ことばのもととなる、心を神に取り扱っていただく必要を示すものです。しばしば、「ことば数が多い」人は、先のように「憎しみを隠す」という思いがあるとか、「自分の正当性ばかりを主張する」とか、「人を自分の期待通りに動かす」という思いを隠している場合があります。それが、「そむきの罪がつきもの」という説明の理由ではないでしょうか。それにしても、「自分のくちびるを制する」ために、特に、嫌な人の前に出る前には、祈りが必要です。嘘をいうのではなく、神の目からみたその人の価値を発見し、それを簡潔に口にできるようにと祈る必要があります。

詩篇19篇では、「天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを告げる・・・主(ヤハウェ)のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ」と、歌った後に、最後に、「この口のことばと心の思いとが御前に喜ばれますように」という祈りが記されています。神のみわざ、神のみことばを賛美するその同じ「口のことばと心の思い」とが、偽善や口先ではなく、あなたの隣人の徳を高めることばとなるように、日々祈り続ける必要があります。

  11章9節では、「神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする」とありますが、それは何よりも私たちのこころの奥底の動機を問うものです。私たちの心が、隣人の滅びを願っているのか、救いを願っているのかは、神の前に明らかになっています。箴言のことばは、こころの動機から見てゆくとき、互いに矛盾しあっているように見えることばが、互いに補い合っていることが分かります。

「町は、正しい者が栄えると、こおどりし、悪者が滅びると、喜びの声をあげる」(11:10)で描かれる、「悪者の滅びを喜ぶ」とは、弱者を虐げている権力者がいなくなることを喜ぶという自然な感情です。それとセットに記されているのが、「直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、悪者の口によって、滅ぼされる」(11:11)です。「悪者の口」は、町全体を滅ぼす力がある一方、神にまっすぐな人の「祝福」のことばは、町の繁栄のもとになります。

そして、「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る」(11:12)とは、「隣人をさげすむ」ことによって、人は優越感を感じ、自分の存在を喜ぶことができますが、それは「思慮に欠けた」発想です。しかし、「英知のある者」は、人を蔑んだり、自分の自慢をしたりするようなことばを発しないという意味です。

「沈黙は金」と、沈黙自体を美化する風潮がありますが、「正しい者の口はいのちの泉」ということもあるのですから、私たちには沈黙してはいけないときがあるのです。しかし、人の批判や、自分の自慢を語るのは、自分の前に神を置いていないことの証しに過ぎません。そのことが再び、「歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める」(11:13)と言われます。これは、先の、「愛はすべてのそむきの罪をおおう」とのことばと並行して理解すべきでしょう。人の過ちを「秘める」ことは、「そむきの罪をおおう」ことと同じです。

ヤコブは、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱにできる完全な人です・・・しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコブ3:2,8)と言っています。私たちは、必ずどこかで、ことばで失敗をします。そのとき大切なのは、それは誰にも制御できない罪の根本であることを謙虚に認め、自己弁明をせずにすなおに謝罪することです。しかも、その後、自己嫌悪に浸っていずに、過ちを覆ってあまりある愛を実践することです。それはペテロが、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」(Ⅰペテロ4:8)と言ったとおりです。「罪をおおう」力は、自己弁護や自己正当化ではなく、「愛」にあります。また、ヤコブは「罪人を迷いの道から引き戻す者は・多くの罪をおおうのだということを・・知っていなさい」と、人に関わり続けることを勧めています(ヤコブ5:20)「また、失敗をするのでは・・」と、自分にブレーキをかけるのは本末転倒です。

イエスがあるパリサイ人の家に入ったとき、足を洗う水ももらえませんでした。そのとき、ひとりの罪深い女が、香油の入った石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、涙でイエスの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけをして、香油を塗ってくれました。これは、遊女の姿丸出しの品のない行為とも言えますが、パリサイ人のけち臭さに比べ、この女は、自分の涙と髪の毛でイエスの足を洗い、大切な香油を、イエスの足のために惜しげなく使いました。彼女こそ、箴言11:25「人を潤す者」、またパウロの言う「豊かに蒔く者」でした。しかもこのとき、イエスは彼女の心を見られ、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです」(ルカ7:47)と言われました。これこそ、「愛はすべてのそむきの罪をおおう」というみことばを劇的に表したものと言えましょう。

失敗を恐れて、小さく生きる人生ではなく、より豊かに蒔いて、より豊かに刈り取る・・・自分の口の失敗を後悔し、縮んだ生き方をするのではなく、より多く愛することで、罪の赦しを確信してゆく生き方を目指すべきでしょう。人は、あなたのことばの品のなさやお金の使い方の愚かさを非難するかもしれません。しかし、神はあなたのすべてを見ておられます。自分の小さな世界を見るのではなく、あなたの心の目を、いつも神の偉大な創造のみわざと変わることのないみことばに向け、「この口のことばと 心の思いとが 御前に喜ばれますように」と祈ってゆきましょう。

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2008年9月21日 (日)

エレミヤ7~9章 「悟りを得て主(ヤハウェ)を知るとは?」

                                                2008921

  19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続に他ならない・・・幸福な人生などというものは不可能である。人間の到達しうる最高のものは、英雄的な生涯である。そのような英雄的生涯を送る人というのは・・・酬いられるところが少なく・・・後世に・・英雄として崇められる」(Parerga und Paralipomena 172節補遺)、また、「本質的には、すべての生は苦しみである・・・このように生は、まるで振り子のように、実際は生の本来の構成部分である苦痛と退屈の間を行き来するのだ・・・人間は・・何千もの欲望のかたまりでもある・・・おのれの欲望と苦しみを除いてはいっさいが不確かなまま・・・毎日毎日出現する難題を抱えこみながらなんとかしておのれを保ってゆこうと憂慮することが、一般に人間の生活を成り立たせて行くものなのである」(「存在と苦悩」苦悩の生についてー生は苦しみである)と、悲観的なことを書いています。ただ、これは肉なる人間の現実を冷徹に描いたことばかもしれません。

私も、「これをやり遂げたら、またこの霊的訓練をやり遂げたら、平安と喜びの人生が開ける・・」と期待しながら、様々な勉強をして来ましたが、何の成長もしていないような気がして、愕然とすることがあります。しかも、「ここを乗り越えたら楽になれる・・・」と必死に頑張っても、その問題が解決されたとたん、取るに足りないと思われたことに心を悩まされてしまいます。要するに、大きな苦しみを抱えているときには、小さな苦しみに無感覚になることができていただけだったのです・・・。人は、案外、大きな苦しみを抱えているときの方が、余計な欲望や悩みに気をとられずに済んでいるのかもしれません。人は、しばしば、生活が便利になればなるほど、心の中には何とも言えないむなしさが生まれ、心の奥底に眠っていた欲望を目覚めさせるようになります。しかも、人は、一度手にしたものを失うことを極度に恐れます。その結果、苦しみに立ち向かう勇気が萎え、目覚めた欲望に足を掬われます。

神はイスラエルの民に対して、約束の地に入って生活が満たされるようになったときこそ、「気をつけて、あなたをエジプトの家、奴隷の家から連れ出された主(ヤハウェ)を忘れないようにしなさい」(申命記6:12)と警告しておられました。ところが、生活が満たされると、彼らは自分たちを奴隷状態から解放してくださった神に聴くということを忘れ、この世の幸せという幻想を約束する偶像の神々を拝んでしまいました。ですから私たちも、苦しみから逃げようとするのではなく、苦しみの中で、悟りを得て、主を知ることこそが何よりも大切ではないでしょうか。

1.主(ヤハウェ)の宮を強盗の巣にした者たちへのさばき

イスラエルの民は、バビロン帝国による攻撃が迫ってくる中で、エルサレム神殿を指しながら、「これは主(ヤハウェ)の住まいだから、主ご自身がこの町を守ってくださる!」という幻想を掲げて励ましあっていました。日本でも少し前、「神国日本は敵の攻撃から守られる。いざとなったら神風が吹く!」と言われていましたが、それと似ています。それに対し、主は、「あなたがたは『これは主(ヤハウェ)の宮、主(ヤハウェ)の宮、主(ヤハウェ)の宮だ』と言っている偽りのことばを信頼してはならない」と言われました(7:4)。主(ヤハウェ)は、主を恐れ、主を愛する人々の中に住んでくださるのであって、主の宮は人々の心の目を、主ご自身に向けさせるためのシンボルに過ぎません。主の宮自体に特別な力があるのではなく、主の宮で礼拝する民の心が神に喜ばれるかが問題だったのです。そのことを主は、「あなたがたの間で公義を行い、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう(7:5-7)と言われます。つまり、彼らがイスラエルの神ヤウェを愛し、隣人を自分自身のように愛するかどうかが、彼らの将来を決めるというのです。

その上で、主(ヤハウェ)は、「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた」(7:11)と驚くべき事を言われます。当時のエルサレム神殿はもはや「主(ヤハウェ)の家」ではなく、「強盗の巣」になってしまったというのです。これはイエスの宮清めの際に引用されたみことばです。イエスは、当時のエルサレム神殿の異邦人の庭が、「両替人」「鳩を売る者たち」によって騒々しくなり、遠方から来た異邦人が静かに祈ることができなくなっている様子に心を痛め、これらの商売人を追い出しました。その際、主は、「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』(イザヤ56:7)と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです」(マルコ11:17)と、人々の目をエレミヤ預言に向けさせました。

主は、引き続き「主(ヤハウェ)の宮」の幻想に浸っている人に、「それなら、さあ、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住ませた所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ」(7:12)と言われます。これはサムエル記の最初にある記事を指します。祭司エリの息子たちは当時、シロにあった幕屋で人々が主にいけにえをささげて礼拝するシステムを、私腹を肥やす手段と変えてしまいました。それに対し、主は、何と、ご自身の契約の箱がペリシテ人に奪われることを許すことまでして、当時の礼拝システムをご自分で壊してしまわれたのです。契約の箱を中心とした幕屋礼拝こそ、律法の中心と思われていましたし、またそれを命じられたのは、主ご自身であられましたから、これは私たちの理解をはるかに超えるできごとです。

そして今、主は、今、あなたがたは、これらの事をみな行っている・・・わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかった。それで、あなたがたの頼みとするこの家、わたしの名がつけられているこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に、わたしはシロにしたのと同様なことを行おう」(7:13、14)というさばきを宣告されました。エルサレム神殿を建てられたのは、ソロモンである前に、主ご自身であられましたが、そのシステムが機能しなくなり、社会的弱者を虐げるようになったとき、主はこの大切なものを捨てることを自ら決められたのです。神殿で何よりも問われているのは、私たちが神に対してどれだけのいけにえをささげることができるかではなく、主ご自身の語りかけを、恐れをもって聞き、それに応答するということでした。神殿の心臓部に納められていたのは、主ご自身がご自分の手で書いてくださった「十のことば」でした。しかし、「主(ヤハウェ)のことば」に耳を傾けなくなってしまった者は、神の民であることを自分で捨てた者です。そのとき、神殿は、無用なものどころか、有害なものになったのです。

 ところで、主は、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった」(7:22)と、「いけにえ」は律法の中心ではなかったと言われました。これは新約の福音につながる驚くべきことばです。その上で、主ご自身がモーセ五書の核心をひとことで要約し、「わたしの声に聞き従え(聴きなさい)。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め」(7:23)と表現してくださいました。しかし、彼らは主のみことばに耳を傾けようとせず、自分の肉の欲望を満足させるようなことばかりを行いました。そればかりか、「自分の息子、娘を火で焼く」(7:31)という忌まわしいモレク礼拝をさえ行ってしまいました。

  イスラエルの民は、いけにえをささげる礼拝を、神の恵みへの応答ではなく、神を動かす手段、また祭司の特権を維持するシステムに変えてしまいました。人間のわざが前面に立つとき、目に見えない神のご支配の現実が忘れられ強い者や賢い者による、力の支配が正当化されます。人が、宗教やイデオロギーによって人の心を支配することの悲劇は、たとえば、20世紀の共産主義国において起こったことから明らかです。貧しい者の味方となるはずの共産党がどれほど、人々を虐げてきたことでしょう。指導者たちは、万人が平等になる国を作るという宗教的な理想をかかげたあげく、結局は生産力の増強の必要を感じ、人を奴隷のように動かそうとしました。残念ながら、現実から遊離した理想を掲げることは、必ずと言ってよいほど人間を抑圧するシステムに変わります

律法の中心は、いけにえではなく、神の教えをへりくだって聞き続け、神のみことばを思い巡らすことです。みことばを心から味わうということを素通りした教会の働きは、時が来ると必ず、ひずみを生み出します。忙しすぎる教会活動によって、また様々なことを単純化して断定する教会の教えによって、傷ついてしまうキリスト者が残念ながらいつの時代にもいます。主は、しばしば、そのように原点を忘れた教会を閉じてしまわれることがあります。

2.「知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる」

主は、イスラエルに対するご自身の厳しいさばきを宣告しつつ、エレミヤになおもご自身のメッセージを託します。それは、「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか・・・彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない」(8:4-6)と、彼らが自分の悪行を反省しなくなっていることを嘆いておられます。私たちもしばしば、とんでもない過ちを犯すものですが、「私はなんということをしたのか」反省しているうちは望みがあります。ところが、「彼らはみな、戦いに突入する馬のように、自分の走路に走り去る。空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主(ヤハウェ)の定めを知らない(8:6,7)という頑なさの中にいました。しばしば、自分の置かれている状況が不利になればなるほど、かえって力ずくで正面突破を計ろうとする人がいます。そのような人は多くの場合、問題をこじらせるばかりです。空の鳥でさえ自分の季節やときを知っているのですから、私たちも、静まって、「主(ヤハウェ)の定め(おきて、摂理)」を思い巡らすことです。日本的には、「引き際が肝心だ」ということにも似ていることでしょう。

その上で、彼らが、「私たちは知恵ある者だ。私たちには主(ヤハウェ)の律法がある」(8:8)と言っていることを引き合いにだしながら、「確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている」と、彼らが主の教えを捻じ曲げている現実を指摘しています。主の律法を持っていることに安心するのではなく、それを正しく理解する必要があります。そしてエレミヤは、「知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる」(8:9)という知識階級への神のさばきを宣告し、10-12節で彼らの問題を指摘しますが、これは6章12から15節にあったみことばとほとんど同じです。それほどに、エレミヤはこのみことばを敢えて強調したかったのだと思われます。

「彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ。平安だ』と言っている」(8:11)という状況は、すべての組織が滅びて行くときの原則です。つい数年前まで、だれが米国の大手証券会社や大手保険会社の倒産の危険を知っていたことでしょう。今から二十数年前、私は野村證券の十年次研修というのを受けていました。そのとき、安泰な会社などどこにも存在しないということを徹底的に教わりました。皮肉にも、人々に楽観的な見通しを語って株式投資を勧めていながら、自分の会社に関しては冷徹にリスクを回避する手段を講じている・・・何ともしたたかです。すべての組織は内側から壊れます。今回、倒産している会社も同じです。そして、当時のイスラエルもそうでした。エレミヤの百年前に、ヒゼキヤ王のもとでエルサレムは奇跡的にアッシリヤの攻撃を撃退することができました。当時の宗教指導者は、足元の問題を直視することをせずに、「神が、ま中にいまし、都は揺るがない。神は、夜明け前に、これを助けられる」(詩篇46:5私訳)のような勇ましいみことばを、空念仏のように繰り返していました。残念ながら、誤った信仰理解は、悲観論を力で押さえつける方向に働きます。

そして、18,19節はエレミヤ自身の嘆きのことばですが、「(ヤハウェ)はシオンにおられないのか。シオンの王はその中におられないのか(19)という叫びこそは、エルサレム陥落の本質を言い表しています。アッシリヤ帝国の大軍事力に包囲されながらエルサレムが奇跡的に守られてきたのは、実際に、主がシオンの中におられたからです。ところが、バビロンが攻めてきたとき、主はすでにシオンを離れ、神殿はあるじのいない空き家となっていました。だからこそ、神殿は敵の攻撃で崩れ去ったのです。しかし、主が真ん中におられるとは、イエスが、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と言われたように、私たちの心の中で、「ヤハウェは私の主です」と告白されていることが前提です。神は私たちの賛美を住まいとしておられるのですから(詩篇223)

その上でエレミヤの嘆きが、「私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。乳香はギルアデにないのか・・・なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか」(8:21、22)と描かれます。ギルアデの乳香には癒しの効果があることで有名でしたが、神の民の傷は、外面的なものではなく、彼らの信仰に関わることだったので、主のみことば以外の癒しは期待できないのです。私たちのまわりにも様々な癒しの手段があります。しかし、たましいの癒しは、私たちの創造主である方からの愛の語りかけを聴き続けること以外にはあり得ません。

3.「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟り得て、わたしを知っていることを」

 9章では、主ご自身の嘆きが、「まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない」(9:3)と記されます。パウロは、この表現を意識しながら、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18別訳)と言ったのではないでしょうか。これこそ、御霊を受けた私たちの特権です。

 その上で、「おのおの互いに警戒せよ。どの兄弟も信用するな。どの兄弟も人を押しのけ、どの友も中傷して歩き回るからだ」(9:4)という、私たちを不安に駆るような表現があります。「押しのけ」とは、原文で、「アコーブ・ヤコブ」と記され、かつてエサウが「彼の名がヤコブというのもこのためか。二度までも私を押しのけて(ヤクブニー)」(創世記12:36)と言ったように、民族の父ヤコブの名を思い起こさせる表現です。イスラエルとは、主がヤコブに与えてくださった「新しい名」です。聖書はイスラエル民族の始まりを、兄エサウを二度も騙し、長子の権利と祝福を騙し取った狡賢い人間として描いています。ヤコブが正直な生き方ができるようになったのは、彼が兄の攻撃をおそれてひとり母の実家に向かって旅をする中で、主ご自身が彼に現れ「わたしは、あなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」と約束してくださり(創世記28:15)、彼が母の兄ラバンによって何度も騙されながらも、主によって豊かにしていただいたからです。ところが、イスラエルの民は、自分たちの父が持っていた罪の性質を克服するどころか、ますます加速させてしまっているというのです。

 その上で主は、彼らの堕落した状態を、「彼らは・・・口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る(9:8)と描いておられます。ここには、主がイスラエルの民にこれほど目をかけ、育み育ててきたことが無駄になったという深い嘆きがあります。私たちの周りにも、「恩を仇で返す」ような人がたまにいるかもしれません。こちらが優しくすればするほど、こちらを「恐れる必要のない人間」と甘く見て、図々しい態度を取る人がいるかもしれません。しかし、神が育てようとした民は、そのような性質をもった人間でした。それを知ることは慰めになります。あなたが味わっている悔しさを、主ご自身が味わい続けて来られたということが分かるからです。

9章13~16節には、神の恵みを軽蔑したイスラエルの歴史と、それに対する神のさばきが簡潔に記されています。そこで特に、主が、「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる(15)と語っていることに私たちは恐怖を感じます。多くの人々は、わざわいをもたらすのは悪魔の力、またこの世の権力者であると誤解し、彼らを恐れます。昔、アフリカの奥地の住民が、ある宣教師に、「あなたがたの神は、どのようなわざわいをもたらすのか?」と聞いたとき、その宣教師が、「聖書の神は、あなたにわざわいをもたらすような方ではなく、あらゆる祝福で満たしてくださる方です」と答えたところ、その原住民は、「わざわいをもたらさない神をなぜ恐れ、礼拝をささげる必要があるのか・・」と答えたとのことです。それこそが、人間の現実ではないでしょうか。イエスは、この宣教師とは異なり、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と言われました。

923,24節はエレミヤ書の中でも最も愛されている聖句のひとつです。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。

つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな」とありますが、私たちは自分の「知恵」、「強さ」、「富」を誇りがちです。なお、「誇る」とは、「ハレルヤ!」の「ハルル」(賛美する)と同じことば、そこには「喜ぶ」の気持ちが込められています。私たちが何よりも誇り、喜ぶべきこと、それは福音を信じることができているということです。そのことを主は、「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟り得て、わたしを知っていることを」と言っておられます。私たちはこの世の人生において知るべきもっとも大切な知識を得させていただいています。その特権を、私たちは余りにも軽く考えすぎてはいないでしょうか。なお、その「悟り」は、自分で得たものではなく、神によって与えられたものです。しかも、「知る」ということばは、単なる知識ではありません。このことばは、性的な交わりにも使われることばで、個人的(パーソナル)な親密な関係が築かれることを意味します。律法の中心は、神の自己紹介の記録です。神が知らせてくださったように神を知ることが大切です。それは常に、「聴く」ことから始まります。

そして、主を知ることの内容がなお、「わたしは主(ヤハウェ)であって」と記されます。それはこの方がすべてに先立って存在し、すべてのものがこの方によって成り立っていることを意味します。そしてこの方は、地に恵みと公義と正義を行う者」であるとご自身を紹介しておられます。「恵み」とはヘセッド、神がご自身の契約を守り通される真実の愛を意味し、「公義」とは、公平な裁判におけるように、悪人がこの世でやりたい放題の事をやるというような状態がさばかれること、また「正義」とは、弱者の訴えが聞き届けられることを意味し、これはしばしば「救い」と同じ意味を持っています。確かに主はわざわいをも創造される神です。ただ、その究極の目的は、この地に公義と正義を行い、この地を神の平和で満たすことです。それが、「わたしがこれらのことを喜ぶ」からだと表現されます。主はこの地をさばくとき、ご自身で苦しんでおられます。それは何よりも、御子の十字架に現されています。神は私たちの罪をさばく代わりに、ご自身の御子を私たちの罪の身代わりとして、心を痛めながらさばかれたのです。

 その上で、主は、見よ。その日が来る・・・わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ・・・すべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ」(9:26)と言われます。イスラエルの民は、自分が神の民とされた肉のしるしである割礼を誇っていましたが、大切なのは「心の割礼」です(ローマ2:29)。それは、主との心の結びつきです。私たちの誇りはこの世のものとは異なります。それは、私たちが神に選ばれ、神からの知恵が与えられ、創造主である神を礼拝できるようになったこと、そればかりか、今は、その創造主である神の子供とされたという特権にあります。

 ショーペンハウエルは、「人間がすべての苦しみと悩みを地獄に追放したあとでは、天国にはただ退屈しか残らない」という皮肉を言いましたが、それは誤りです。神のご計画は、「肉体の苦しみから解放された、たましいの楽園」を創造する事ではなく、「新しい天と新しい地」を創造することです。それは神にある愛と平和が満ちた世界です。私たちの心も身体も造り変えられた上で、そこに入れていただけます。「人生は苦しみと退屈の繰り返しということから自由にされた、喜びが永続する世界です。イエスは父なる神への祈りの中で、永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と言われました。私たちが今、イエス・キリストの十字架の贖いによってすべての罪が赦され、イエスの父なる神に向かって、「アバ、父」と呼びかけることができる交わり自体が、既に「永遠のいのち」なのです。神とキリストを、より深く「知る」こと、体験すること、それこそ生きる意味です。神との愛の交わりの成長のためには苦しみも益とされます。

主が、イスラエルを傷つけ、苦しめたのは、彼らが悟りを得て、主(ヤハウェ)を知ることができるようになるためでした。彼らはバビロンに国が滅ぼされたとき、バビロンの神々を拝むのではなく、イスラエルの神ヤハウェに立ち返りました。異教徒たちから不当に苦しめられ、自分の知恵、富、力を誇ることができなくなって初めて、真に主を知ることができたのです。そればかりか、主こそがこの地に「恵みと公義と正義を行う」方であると分かったのです。私たちはもちろん、苦しみを避けたいと思います。しかし、少なくとも、苦しみを避けようとすることの中にある罠を、常に意識しているべきでしょう。人生の目的は、苦しみのない状態ではなく、主を知ることにあるのですから。

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2008年9月14日 (日)

ルカ18章31~43節 『主の道の真ん中を歩む』

                            2008914日                                   

 今から二百年近く前の米国でファニーという女の子が生まれましたが、ある感染症にかかったときの自称医者の誤った治療によって失明しました。母親はお金を貯めて五年後に有名な医者を尋ねますが、「かわいそうな女の子だね」とだけ言われ、すべての希望が失われました。そのとき彼女の祖母ユニケは、「祈ってもかなえられないものは、もち必要のないものだ。神はこの子を盲目のままご自身のみわざのために用いてくださる」と断言しました。そして、ファニー・クロスビーは、世界中の人々を励ます驚くほど多くの賛美歌の歌詞を残すことができました。

彼女が95歳の生涯を終えるとき、「創造主が私になしてくださった最も大きな恵みは、私の外の目を閉じてくださったことです。おかげで私はいつもであった人の最も美しい眼差し、輝いた顔、最高の景色を思い浮かべ、すばらしい夢を持ち続けることができました」と言いました。彼女は盲目のまま、主の道の真ん中を歩むことができました。

1.「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現される」

 イエスは、「十二弟子をそばに呼んで」、「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます」と言いました(18:31)が、これは弟子たちにとって誇りに満ちた喜びのときと思われたことでしょう。それは、人々が待ち望んでいた救い主が、エルサレムに入城し、ダビデの子、ユダヤ人の王として即位するときのはずでした。

事実、イエスはそれまで、「多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、多くの盲人を見えるようにされ」たばかりか、「足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」ということが起こったからです(7:21,22)。

イスラエルの貧しい人々は、イエスを聖書に預言された救い主として歓迎していました。しかし、当時の政治指導者にとっては、イエスは自分たちの権力基盤を脅かす存在として恐れをもたれていました。ですから、弟子たちは、イエスがエルサレムに向かうときに、そこに何らかの戦いが起こることは覚悟していました。当時のエルサレムはローマ帝国の支配下にありましたから、弟子たちは、イエスが今までの様々な不思議なわざによって、ローマ軍に勝利すると期待していました。

ところがイエスは、不思議にも、「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります」(18:31-33)と言われました。

そのとき、「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった」(18:34)と記されていますが、それも当然のことと言えましょう。

イエスは何度もご自身の十字架についての預言のことを弟子たちに話しています。その第一は、ペテロがイエスを預言されたキリスト(救い主)である告白したときです。そのときイエスは、人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです」(9:22)と言われました。マタイの記録によると、このときペテロは愚かにもイエスを引き寄せて、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と諌めてしまいました。それは到底理解できないことでした。イエスはそれに対し、「下がれ。サタン・・・あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」という厳しく叱責されました(16:22、23)。

なお、イエスはここで、「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現される」(18:31)と言っておられます。ですから、イエスがエルサレムに入場した後に、異邦人であるローマ軍に引き渡され、殺されるということは、イエスの悲劇ではなく、神の救いのご計画の成就のプロセスなのです。

私たちも多くの場合、苦しみの意味が分からなくて戸惑います。ファニーも11歳のとき、自分が普通の教育を受けられないことに深く悩み祈りました。そのとき、「時が来たら解決する」という不思議な平安に満たされます。彼女は老年になったとき、神の救いのご計画が、自分の幼児期の悲劇を通して実現していることを確信できました。

2.「その死によって・・・一生涯死の恐怖に奴隷になっている人々を解放してくださるため」

しかも、イエスの十字架と復活の預言は、ある特定の具体的なみことばというよりは、聖書全体のストーリーとして記されています。私は昔、イエスはどこからこれらのみことばを引用されたのかと不思議に思っていました。

イエスの時代の人々は、聖書を持ち歩くことはできず、ただひたすら会堂で読まれるみことばを暗記していました。会堂に置いてある巻物は宝物のように扱われていましたから、手軽に引用はできませんでした。

イエスは御霊の導きで、聖書をすべて暗記するとともに、大工のお仕事をしながら、それらを心で思い巡らしておられたのではないでしょうか。ちなみに、ファニー・クロスビーは幼いとき、毎日のように祖母ユニケから聖書を朗読してもらい、それをほとんど暗記してしまったということです。私たちもみことばをストーリーとして聞き、思い巡らすことが必要です。 

ところでイエスも少年時代から特に、イザヤ書に記されていた四つの「主(ヤハウェ)のしもべの歌」に心をとらえられ続けたのかもしれません。そこには主に選ばれた者の苦難が記されていました。

それは、42章1-9節の「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈芯を消すこともなく・・・」

49章1-6節の「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした」

50章4-9節の「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」

52章13節~53章12節の「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた・・・彼は私たちの病を負い、痛みをになった・・・彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」というみことばです。

また、詩篇22篇は、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」というイエスが十字架で引用された叫びから始まり、「彼らは私の着物を互いに分け合い、私のひとつの着物を、くじ引きにします。主(ヤハウェ)よ。あなたは、遠く離れないでください」という十字架の描写に移ります。

その他、詩篇69篇などにも明確に、「主のしもべ」の苦しみが描写されています。

イエスは、これらのみことばを読みながら、そこに、「主(ヤハウェ)のしもべ」としての自分の使命が記されていることに気づかれたことでしょう。また、救い主は「ダビデの子」と呼ばれますが、ダビデは驚くほどの不当な苦しみに耐えながらイスラエル王国を築きました。そして、イスラエルの祖先のアブラハム、ヤコブ、ヨセフも様々な苦しみに会いながら、神との交わりを深め、子孫に信仰者の歩むべき道を残しました。これらの箇所を読むときに、救い主は多くの苦しみを、また激しい苦しみを受けることによって救いの道を開くということがわかることでしょう。

しかも、先に引用したすべての箇所は、苦しみを通して、神の救いを体験し、世界に救いをもたらすということを、それぞれ、「国々の光とする」、「地の果てまで・・救いをもたらす」、「神である主が、私を助ける」「多くの人々を義とし・・そむいた者たちへのとりなしをする」「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむこともなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった」という勝利への歌と展開されてゆきます

イエスは、このルカ福音書においても、「彼ら(異邦人)は人の子をむちで打ってから殺しますと言われた直後に、「しかし、人の子は三日目によみがえります」と言っておられます(18:33)。

ローマ帝国は剣の力でイスラエルの民を隷属させていました。しかし、人の子が殺された後、三日目に、よみがえるということは、死の力を無力にすることを意味します。

そのことに関してヘブル書の著者は、神の子が私たちと同じ肉体を持つ人間となられたのは、「その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖に奴隷になっている人々を解放してくださるため」2:14,15)と語っています。神は死ぬことがありません。だからこそ、神は、死ぬことができる身体を持つために、処女マリヤを通して人となってくださったのです。神が人となってくださったことを示すのが処女降誕であり、神が死の力を滅ぼしてくださったことを示すのがイエスの復活です。このふたつのことは、この世の人々にもっとも躓きとなる不思議ですが、これこそが福音の核心なのです。

なおイエスは、復活後、弟子たちに現れたとき、「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です」と言われました。そこで述べられる、「罪の赦し」とは、「罪によって死が入り」(ローマ5:12)とあるように、死の支配の大元の原因を取り除くことです。私たちがイエスに信頼することによって「罪の赦し」を受けるとは、もう、「死の力」に屈する必要がなくなったということなのです。

パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリピ1:21)と言いましたが、彼にとって生きることとは、気楽な人生を過ごすことではなく、苦しみを引き受けられたキリストの生き方に習うことを意味しました。それはキリストの使命に生きることでした。しかし、彼自身の都合を考えるなら、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実は、その方がはるかにまさっています」(1:23)とあるように、この地上の命をすみやかに終えることの方が、はるかに幸せでした。自分で自分のいのちを断つことは、いのちを与えてくださった神への反抗です。それはもっとも恐ろしい罪です。しかし、信仰のゆえに自分のいのちを奪われることは、いのちの喜びを永遠に味わうことの始まりになります。どちらにしても、私たちのいのちは、神からの使命を果たすために与えられているものです。

3.「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられたイエス

イエスはヨルダン川沿いを南下し、エリコを経てエルサレムのある山に向かって歩もうとしていました。そこで「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをして」いましたが、彼は「群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ね」ると、「ナザレのイエスがお通りになるのだ」という知らせを聞き、大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでくださいと叫び続けました(18:35-38)。それは、「彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめ」る必要があったほど激しい叫びだったと思われます。

しかし、たしなめられるほど、「盲人は、ますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください』」と叫び立てました(18:39)。そこに彼の必死さが現れています。彼は目が見えなくて、物乞いをしなければ生きて行けないような苦しい人生から救われたかったのです。しかも、ここにはイエスを、「ダビデの子」と認める信仰がありました。それはまだ見たこともないイエスを、人の話しを聞いただけで、「救い主」であると認めていたことを表します。

すると「イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられ」ますが、彼が近寄って来たときに、不思議にも、「わたしに何をしてほしいのか」と敢えて尋ねられました(18:41)。イエスは、彼の気持ちを分かっていながら、彼との対話を望まれたのではないでしょうか。彼は、「私をあわれんでください」と叫びながらも、具体的な願いを言い表してはいませんでした。そこに彼の控えめさが見られますが、イエスは彼の心の願いを敢えて聞きだすことによって、彼に自分の願いを大胆に表現する自由を与えられたのではないでしょうか。

彼はそれまで、自分の気持ちを具体的に表現するたびに、「お前は何て、ずうずうしいのだ!」と、抑えられ続けてきたのではないでしょうか。自分の願いを表現できるというのは、自分の人生を生きるということの始まりです。

彼は、ここで、「主よ。目が見えるようになることです」と自分の切なる願いを表現する自由が与えられました。するとイエスは、すぐに、「見えるようになれ。」と応答してくださいました。ここでは、盲人の、「アナブレフォー」(見えるようになる)ということばにすぐに対応して、「アナブレフォン」(見えるようになれ)という」ということばが引き出されたかのように記され、彼の願いが即座にかなえられたということが強調されています。

そればかりかイエスは、「あなたの信仰があなたを直したのです」と、彼に言ってくださいました。これは神の民にとっては最高の賞賛のことばです。彼は、それまで、神にのろわれた者として自分を卑下しながら、自分の言いたいことも言えずに生きてきました。それが、地上における神の代理である「ダビデの子」から、その信仰を全面的に肯定していただけたのです。

私たちがいつも、「こんなこと感じてはいけない・・」「こんなこと疑問に思ってはいけない・・」「こんなこと願ってはいけない・・・」などと自分の気持ちを抑えながら生きてしまうことがあります。そのときに、自分の感覚が、疑問が、願望が、ひとつひとつそのまま肯定してもらえるというのは、本当に生きる力を与えられることです。

4.「あなたの信仰があなたを直したのです」と賞賛された信仰とは?

それにしても、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続けることのどこに、イエスが誉められるような信仰があるのでしょう。イエスはかつてパリサイ人に、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とは、どういう意味か、行って学んできなさい」と言われました(マタイ9:10-13)。それはイエスが取税人や罪人たちといっしょに食事をしている様子を見て、彼らがそれを非難したときのイエスの応答です。

そのときイエスは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにきたのです」ということばに挟まれるようにして、このことばを言われました。

パリサイ人たちは、人々から尊敬され、豊かな生活を享受していましたが、それは自分の信仰深さや敬虔な生活に対する神からの報酬だと自負していました。彼らは何かがうまく行くと、神のあわれみではなく、自分たちの功績だと自負しました。彼らが神にいけにえをささげるとき、彼らは自分の敬虔さを人々に誇るとともに、まるで神からの賞賛と報いを期待するような心がありました。

それに対しイエスは、「すべてが神のあわれみである」と強調されました。そして、この盲人は、自分の側には何も誇れるものがないことを深く自覚していました。彼は自分の信仰が神に喜ばれるものだなどと思ったこともないでしょう。彼は自分がイエスと面と向かって対話をさせていただける資格などないと思っていました。ただ、ただ、一方的に、「あわれみ」を求めただけなのです。しかも、イエスが、待ちに待った「ダビデの子」救い主であることを心から告白していました。何か取引をしようなどというのではなく、ただその方から、あわれみの眼差しが注がれることだけを求めていました。何の条件も出していません。すべてをイエスのみこころに任せていました

ただし、私たちは、イエスが、「あなたの信仰があなたを直した」ということばを、彼の立派な信仰の力によって神のみわざを引き出すことができたかのように、人間のわざとして考えてはなりません。それはパリサイ人の発想です。イエスは、この盲人が、決して、自分の信仰深さをアピールするような人ではないからこそ、このことばを言われたのです。たとえば、私たちが、自分の信仰を自分で計っているようなとき、イエスは決してこのように語ってはくださいません。敢えて言うと、この盲人は、自分のすべてに自信を失い、自分を表現することさえできなくなっていたからこそ、イエスは敢えて彼の気持ちを引き出し、それを肯定してくださったのではないでしょうか。

それは、彼に起こった根本的な変化から判断できます。それは、「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った」(18:43ことです。彼はそれまで、神にすがりはしても、「神をあがめる」ことはできなかったに違いありません。彼は、「道ばたにすわって、物乞いをする」という、社会のアウトサイダーとしてしか生きてきませんでした。しかし、このとき、道の真ん中を歩いて、イエスのあとをついて行くことができました

一番弟子のペテロなどは、「下がれ、サタン」などと厳しく叱責されたのに、彼はイエスからその信仰が認められたものとして、堂々と弟子の仲間入りをすることができました。しかも、「これを見て民はみな神を賛美した」とあるように、人々の目は、この盲人の信仰を評価することではなく、「神を賛美する」という方向に向かっています。

ファニー・クロスビーの詩がアメリカ中に知れ渡り、刑務所の受刑者たちの慰問に行ったとき、一人の受刑者が、「主よ。私の前を通り過ぎないでください」と、切実な思いで祈っている声を聞きました。彼女はその叫びに心を動かされ、「Pass me not, O gentle Saviour」という詩を書きました。それが賛美歌524番のもとになっています。

「私の前を通り過ぎないでください。やさしい主よ。打ちひしがれた私の叫びを聞いてください。

あなたが他の人には微笑んでおられながら、私の前を通り過ぎるということがありませんように。

救い主よ、救い主よ。打ちひしがれた私の叫びをお聞きください。

他の人にあなたが呼びかけているときも、どうか、私の前を通り過ぎることがありませんように・・・」

これはまさに、この盲人の叫びにほかなりません。自分の側にはイエスに目を留めていただける何の功績もありません。イエスが自分の前を通り過ぎたとしても、それは当然のことです。しかし、彼はあわれみを望まざるを得ませんでした。東方教会で大切にされてきた「イエスの御名による祈り」というのがあります。それは『イエス・キリスト神の御子。こんな私をあわれんでください』と、ただただ繰り返すものです。その際、ゆっくりと規則的な呼吸を繰り返しながら、全身全霊がイエス・キリストに向ける思いで「イエス・キリスト(救い主の意味を込めて)、神(父なる創造主)の御子(私たちを父と御子との交わりに招き入れるために遣わされた方)」と唱え、そしてイエスのあわれみに自分が浸され、満たされ、イエスの御名が自分の身体の奥にしみこむような思いを込めて、「こんな私をあわれんでください」と唱えます。イエスの御名には力があり、主のあわれみを求める祈りこそ、祈りの中の祈りです。

その上で、私たちは、「こんな駄目な私」と卑下するのではなく、イエスの御跡の道の真ん中を、堂々とイエスについてゆくのです。イエスが空っぽになったあなたを生かし、あなたを通して働いてくださいます。この盲人に起こった変化、それは道ばたで物乞いをしていたのに、イエスに出会って、道の真ん中を歩いて従ったことです。

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2008年9月 7日 (日)

詩篇131篇 「たましいを和らげ、静める」   

詩篇131

                           都のぼりの歌 ダビデによる

(ヤハウェ)よ。私のこころは驕りません。

 私の目は高ぶりません。

及びもつかない大きなことや不思議なことに立ち入りはしません。

そうではなく、私は自分のたましいを和らげ静めました。

乳離れした子が、母親のもとにいるかのように。

私のたましいは私のうちで、乳離れした子のようです。

イスラエルよ、主(ヤハウェ)を 待ち望め。

このときからとこしえに至るまで

                          (20089月 高橋秀典訳)

詩篇131篇 「たましいを和らげ、静める」                                                                                                                                                     20089月7日

突然の首相の辞任表明・・だれが予測できたでしょう。私たちの周りに日々予測不能なことが起こります。そのたびに、不安になったり、腹が立ったりと、私たちの心の中に嵐が起きます。そんなとき詩篇131篇が心に迫ります。 

1.地上では旅人であり寄留者であることを告白する生き方

詩篇131篇は詩篇120篇から134篇まで続く、15「都上りの歌」の一つです。イエスの時代のエルサレム神殿には、女性の庭からイスラエルの庭に上がる際に15段の階段がありましたが、それはこの15の歌に対応し、レビ人たちはその階段に並んでこれらの15の詩篇を歌ったという言い伝えがあります。どちらにしても、これらの詩篇の中心主題は、エルサレム神殿への巡礼です。

私たちも「聖なる都、新しいエルサレム」(黙示21:2)「自分の故郷」、人生のゴールとして受け止め、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白」するという巡礼の旅の途中にあります(ヘブル11:13-16)。私たちは今、ここでの生活が、旅の途中にあると思えば、少々の居心地の悪さに耐えることができます。また様々の分からないことがあっても、「やがて分かる」という希望の中で待つことができます。

人が目に見えない神を求める最大の動機のひとつに、わざわいや苦しみを遠ざけたいという思いがあります。神道には、罪や穢れを祓い除くことで健康的な生き方ができるという教えがあります。その起源である古事記には、天照大御神が須佐之男の悪行に心を痛め、天の石屋戸に隠れてしまった結果、全世界に暗やみとあらゆるわざわいが広がった。そこで、神々が相集って祭りをし、天宇受売命の神懸りの踊りに笑い声をあげたとき天照大御神が不思議に思って戸を開け、光が全世界に満ちたという話があります。私たちの中にも、この神話と同じ発想が無意識の中に根付いていないでしょうか。それは、私たちの周りにわざわいが生じるのは、神がご自身の御顔を隠された結果なので、きよめの儀式や悪魔祓いの儀式などで自分の罪や穢れをきよめていただくことで、神の愛が私たちに届くようになり、私たちは幸せになれるという考え方です。そこには、人生を明るく豊かなものにできるかどうかの鍵は、神ではなく人間が握っているという発想があります。そして、何よりも、礼拝とは、神の愛を引き出すための私たちが守るべき儀式と見られます。そこに天の石屋戸の祭りと同じような発想が隠されていないでしょうか。礼拝自体が祝福であるというより、それを守らないと神の御顔が隠されると不安に駆り立てられています。

そこでは、幸いをもたらす神とわざわいをもたらす悪魔という区別が無意識の中にあります。残念ながら、新約を読み間違えて、悪霊と聖霊の役割分担があるかのように誤解する方もいます。しかし、Ⅰサムエル記などには、(ヤハウェ)からの悪い霊がサウルを怯えさせ」、ダビデ立琴を演奏したところ「神の霊(悪い霊)はサウルから離れた」などという記事があります(16:14,23)。つまり、悪霊を送るのは神ご自身であるというのです。そのことから、(ヤハウェ)は殺し、また生かし、よみ下し、また上げる。(ヤハウェ)は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするする」(2:6,7)という告白が生まれます。また、主ご自身が、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない(申命記32:39)と言っておられます。

人は、良い行いをしたら良い結果が生まれ、悪いことをしたら悪い結果が生まれると思うからこそ、善い行いに励もうと思います。ところが、神は、善い人にもわざわいをもたらす方であり、その神のみこころは私たちには捉え難いというのです。しかし、そうであれば、「そんなわけのわからない神を信じることの意味が分からない・・」ということになりはしないでしょうか。しかし、人生は生まれたときから死ぬときまで、私たちがどうにもできないことで満ちています。旅人であり寄留者である者は、置かれた場に自分を適用させながら生きるしかありません。人生が本来的に、自分の心がけ次第で楽しく幸せになるはずのものであると思うからこそ、自分の幸せを邪魔するものに腹を立てて生きざるを得ません。しかし、この世界は、本来的に住み心地の良い所ではないということを正面から受け止めると、反対に、毎日の生活の中に、かえって旅人の感動のような喜びを発見することができることでしょう。

2.「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び・・・」

詩篇131篇のテーマは、自分に変えられない現実に関して、たとえば、「どうして自分はこの家に生まれたのか・・・」などと無意味な詮索をやめ、そこに神の愛の御手が働いていたという霊的現実を受け止めるということです。それが、「私は自分のたましいを和らげ静めました」という告白に結びつきます。私の場合、若い頃は自分の出生の環境を、神の恵みとして受け止めることに困難を味わっていました。だからこそ、故郷を離れ、世界に羽ばたくことに憧れを抱き続けたのかと思います。しかし、最近、母が僕の幼児期のことを話しながら、つくづく、「お前のいのちは、神様に守られていたんだね・・・」と言ってくれました。それが不思議に心に響いてきました。

私は19533月に北海道の大雪山のふもとで生まれました。大変な難産で、自宅で僕を産んだ母は、大量の出血を助産師さんに雪で止血してもらいながら、死にかけたとのことです。どうにか命を取り留めた母は、休む間もなく農作業に出ました。ひとり家に置かれた幼児の僕は、泣くばかりでした。

あるとき、声がしないと思ったら、おくるみで鼻と口が塞がり、窒息しかけていました。それで、一歳を過ぎた後の田植えの時期には、父が持ち運びできる小さな屋台を作ってその中に寝せ、あぜ道に置きながら父母は農作業をしていました。ところが、僕は風邪をひいて四十度以上の高熱が続き、喉の奥全体を腫らし、ついには呼吸困難に陥りました。どうにか、30kmあまりも離れた旭川の市立病院にバスを乗り継いで運ばれました。幸いその分野では北海道一と言われる院長先生に診てもらえましたが、「あきらめてください」と言われるほどの重症でした。

しかし、懇願する母の願いで荒療治が行われました。三人の医者と、何人かの看護師の方のもとで、一歳の僕は逆さにされ、喉が何度にも分けて切開されました。そのたびに大量の血が流れ、脈がストップしたとのことです。しかし、そのたびに母が抱くと、心臓が再び鼓動を始めました。それが何度も繰り返され、命を取り留めたとのことです。その後も、何度も、死ぬ寸前の危険に会いました。そのため発育が極端に遅れ、小学校に入った頃は、三月生まれだったことも相まって、運動も勉強でも「落ちこぼれ」という状態でした。

幼児期の苦しみは、心にもマイナスの陰を落します。また、発育の遅れは、強い劣等感の原因になりました。僕の記憶にかすかに残っているのは、ひとり泣きじゃくる自分の姿です。その後も、何をやっても遅れを取る落ちこぼれ意識を培ってきました。どうにか小学校高学年からめきめきと成績が良くなりましたが、幼児期の心の傷は、僕の心に暗い影を落し続けていました。念願の大学に入り、国費の交換留学で、米国で学ぶことができ、不思議な導きでイエス・キリストを主と告白する信仰に導かれました。そのときの私は、自分の内側にある真の問題には気づいてはいませんでした。ただ、その後の信仰生活の中で、徐々に自分の心の奥底に隠されている何ともいえない不安と向き合いながら、自分はこの不安のゆえにイエスのもとに引き寄せられたのだとわかりました。

しかし、そこで「信仰によって不安を克服しよう!」などと思っても、どうにも変わりようのない自分の不信仰に悩むという空回りが起きて来ました。ところが、自分の人生を「神の選び」の観点から、優しく見直すことができるに連れ、気が楽になってきました。先の市立病院の先生にはその後も助けていただきましたが、「ほんとうによく助かったね・・」と感心されたそうです。私たちは誰しも、生かされて、生きています。その過程で命の危険に何度も遭遇します。僕を生かすために、心臓が止まるほどの乱暴な治療が必要でした。しかし、「哀れみに胸を熱くする母」の愛が、僕の心臓を動かしました。そして、今、そのときの母の背後に、「哀れみに胸を熱くする神」がいてくださったことが分かります(ホセア11:8)私は、神の燃えるような愛によって、目的をもって生かされています。そこでは、私にとってマイナスとしか思えなかった体験も、益として用いられるということが分かってきました

私たちは多くの場合、幼児期に何らかの心の傷を負います。そこから自分を被害者に仕立てる人生の物語を描くことは簡単です。しかし、私たちは、人生の物語をまったく別の観点から、信仰を持つこともできない幼児期から描き直すことができます。それはひとりひとりに創造主が期待しておられる人生の物語です(詩篇139:17,18「心を生かす祈り」参照)。ただしそれは、私たちの主体性が失われ、決められた一本のレールの上を走るということではありません。私の両親は、「私を生かす」ことを第一に考え、先祖が命をかけて北海道に開拓した水田を受け継がせなければならないとは考えませんでした。同じように、神は、私たちの主体性を重んじながら、ご自身を隠すようにして、私たちの人生を導いておられます。ただそのため、神を身近に感じることができず、自業自得の苦しみに会うこともあります。しかし、それは私たちを束縛しようとはされない神の愛の表れなのです。そしてしばしば、神の選びは、苦しみを通して初めて見えてくるという面があります。それは、自分の出生の環境自体を「神の選び」の観点から見直すことです。それをパウロは、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神はみむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによって、ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1:4,5)と表現しました。

今、私にはっきりと分かっていることは、自分が神によって選ばれ、生かされ、固有の使命を与えられているということです。それ以外のことは分からないことだらけです。私たちの周りには、「なぜ」と問いかけたくなることばかりがあります。しかし、確かに私は生きています。それは神に生かされているからです。私は、「イエスは私の主です」と告白しています。それは私が創造主なる神によって選ばれたからです。そして、今、目の前に、締め切りのある仕事ばかりか、毎日、いろんな課題が押し寄せてきます。それは、神が私に期待をしておられるしるしです。

3.「及びもつかない大きなことや不思議なことに立ち入りはしません。」

この世の不条理に関し、ヨブ記は不思議な視点を指し示します。ヨブは、神ご自身が、「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」(1:8)と評価するほどの義人でした。ところが不思議にも、サタンは、主から、ヨブのすべてのものを奪う許可を与えられ、彼は一日のうちに自分の七人の息子も三人の娘も七千頭の羊も三千頭のらくだも、たちどころに失ってしまいます。そればかりか、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれ、土器のかけらで自分の身体をかくほどに苦しみました。そのとき、彼の妻は、「それでもなお、あなたは自分の誠実を固く保つのですか。神をのろって死になさい」(2:9)と言います。あなたの身近な人も、「教会に行っても何の良いこともないじゃない・・・」と言うかもしれません。しかしヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない」(2:10)と答え、神をのろうようなことはしませんでした。

ところがヨブの三人の友人は、ヨブがこのような苦しみに合ったのは、ヨブの側に何か神を怒らせる理由があったはずだと断定し、神の御前にへりくだり、罪を認めて神の赦しを得るようにと勧めました。ところがヨブは、自分の側には神のさばきを受ける理由が見当たらないと必死に自分を弁護し、神のことを、「私の権利を取り去った神、私のたましいを苦しめた全能者」(27:2)と表現し、あくまでもわざわいの原因は、自分の側にではなく、神のみこころにあると言い張り、「私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい」(23:4)とまで言います。

そして、主はヨブと三人の友人との会話を十分に聞いた後で、「主(ヤハウェ)はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか・・・わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか・・・あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか・・・」38:2,440:8)と言いながら、ただご自身の創造のみわざを思い起こさせます。ただ、主の側からは、このような悲惨の原因となったサタンとの会話のことはお話しになりませんでした。

ところが、ヨブは、苦しみの理由が分からない中でも、主からの直接の語りかけがあったこと自体に満足し、主に対して、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて摂理を覆い隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を」42:2,3)と応答します。その後、主は、ヨブの三人の友人が神について誤ったことを主張したことを責め、ヨブにとりなしの祈りを願うように命じます。そして、ヨブが自分を責めた三人の友人のために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされ、所有物を先の二倍に増やされました。これらすべてを通して、ヨブは最後まで、自分がなぜこのような苦しみに会ったのか、また、自分の財産がなぜ再び二倍に増やされたのかの理由を知ってはいません。彼がやったことは、自分の苦しみをただ主に訴え続けたことと、友人のために祈ったことでした。

ここで、主はヨブに、「摂理を暗くするこの者はだれか」と問われましたが、ヨブは自分こそが、「知識もなくて摂理を覆い隠す者」であることを認めました。この「摂理」とは、「はかりごと」(Ⅱサムエル17:14)とも訳されることばで、神がヨブに関してサタンとの会話をした内容がこれに相当します。多くの人は、ヨブが神にもてあそばれているように感じます。しかし、この背景を、ヨブは知る必要がなかったのです。彼は、神ご自身が彼に目を留めておられるということを知り、自分の苦しみの原因が自分の落ち度にあるわけではないということが分かるだけで十分だったのです。しかも、サタンが主(ヤハウェ)に問いかけたことは、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」(1:9)ということであり、主がサタンにわざわいを許したのは、ヨブは目に見える祝福を奪われたとしてもなお主を恐れるということをサタンに示すためでした。つまり、主は、ヨブというひとりの信仰者を通して、サタンに勝利の宣言をされたのです。そして、主がこのご計画をヨブにあらかじめ知らせてしまっては、サタンへの勝利にはなりません。なぜなら、ヨブは、自分の都合や利害を超えて、主ご自身を愛し、恐れているということを主は示したかったからです。

ダビデがこの詩篇で、「主(ヤハウェ)よ。私のこころは驕りません。私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや不思議なことに立ち入りはしません」と告白した背景には、このヨブ記があるのではないでしょうか。人間の罪の始まりは、「神のようになり、善悪を知るようになる」ことを願ったことでした(創世記3:5)。そして、ヨブを世界の中心に置いて見るとき、彼は神とサタンの駆け引きの駒のようにされているかのようです。しかし、この主人公は、神ご自身であり、主はヨブを信頼し、彼に期待することで、ヨブに主をのろわせようとしたサタンに勝利したのです。それはアダムがサタンの使いの蛇に負けたことを逆転させることでした。実際、ヨブ記は世界中の神の民にとって、サタンに対する勝利の歌となりました。事実、福音は、不思議にも、信仰者がわざわいに会えば会うほど広がってきました。それは、目に見えるわざわいを超えた、神との交わりから生まれる平安が、またいのちの喜びが、人々に感動を与えたからです。人はわざわいを恐れますが、しかし、心の底で望んでいることは、愛といのちの交わりではないでしょうか。そのことをパウロは、「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も・・・どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38,39)と言い切りました。

4.私のたましいは私のうちで、その乳離れした子のようです

ダビデは、「そうではなく、私は自分のたましいを和らげ静めました。それは乳離れした子が、母親のもとにいるかのようです。私のたましいは私のうちで、その乳離れした子のようです」と告白します。「乳離れした子」が、「平安」の象徴として描かれますが、昔は乳離れの時期が非常に遅かったようで、聖書外典Ⅱマカバイ7:27には、母親が息子に、彼のいのちは神の御手にあり、死刑執行人を恐れる必要などないということを勧めながら、「私はお前を九ヶ月も胎に宿し、三年間乳を含ませ、養い」と言っています。またハンナはサムエルが乳離れするとすぐに祭司のもとに渡しましたが、そのとき彼が三歳ぐらいになっていなければ、祭司にとんでもない面倒をかけるだけになったことでしょう。「アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した」(創世記21:8)という記事があるように、それは子どもの成長を喜ぶ機会でした。とにかく、この時期には子どもはひとり遊びができます。多少お腹を空かせても、母親が目の前にいることで安心し、我慢して待つことさえできるでしょう。ただし、それは一朝一夕でできたことではありませんでした。母親は、幼児が泣くたびに、子どもの必要にすぐ答え、乳を飲ませ、安心させて来ました。その積み重ねの結果として、しだいに子どもは、泣いて叫ばなくても、母親が自分を守ってくれるということを感じることができるようになります。つまり、母親の愛情が、子どもの心を安心させてきたのです。

 同じように、私たちは自分の心の中の叫びに、母親のように優しく耳を傾けながら、自分のたましいを和らげ、静めることができます。「和らげる」とは、イエスがガリラヤ湖の嵐をしずめ、大なぎにしたような状態(マルコ4:39)です。また、「静める」とは、「安んじる」とも訳せることばで、目の前に人生の嵐が吹き荒れ、「神よ。どうして!」と叫びたくなるような中ででも、天地万物の創造主がともにいてくださるという霊的事実を信じて、待っていられるような状態です。私たちは自分のたましいの中に沸き起こる嵐や不安の思いに蓋をして、それを押さえ込むのではありません。母親は子どもが泣くときに、たたいて黙らせるようなことはしません。かえって優しく抱擁し、乳を含ませることでおとなしくさせることができます。私たちも、自分のたましいの叫びに、そのように対応する必要があります。

 その結果、自分のたましいが、私の中で、乳離れした子のように落ち着いてきます。目の前に多くの問題が山積し、解決の目処が立たないままで、今、このときから、とこしえまで、主(ヤハウェ)を待ち望むことです。この詩篇は、最初と最後に、「主(ヤハウェ)ということばが記され、乳離れした子が母親のふところにいるように、ヤハウェのふところに包まれているという感じが、今から、永遠に続くという構造になっています。ヤハウェという御名は、主がご自身のことを、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジ3:14)と紹介されたことばに由来します。それは、主こそが、この世界のすべてのことを御手の中に治めておられるという意味です。その方が、あなたを御子イエスに対すると同じように、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と語りかけてくださるのです。全能の主があなたの側に立ち、あなたを守り通してくださるのですから、サタンの脅しに怯える必要などありません。「主(ヤハウェ)を待ち望む」とあるのは、すべての問題は、神のときが来たら解決することが明らかだからです。

この社会には様々な矛盾があります。それに対して、怒りの気持ちをもつのは当然ですが、私たちの行動が怒りに駆り立てられたものになるとき、それは決して、愛の交わりを生み出す働きにはなりません。この世に様々な矛盾があるのは、神が私たちを愛の器として生かす場を残しておられるというしるしなのかもしれません。分かっていることと分からなくてもよいことの区別をつけながら、日々、主から与えられた課題を生きる者でありましょう。

エミー・カーマイケルというイギリスの宣教師が、今から百年ほど前、インドの南端のドノバーという町に住み、はからずも、ヒンズー教の寺院で少女売春をさせられている少女を助ける施設を始めました。それは彼女が、31歳のとき、ひとりの少女を保護したのがきっかけでした。やがてそれは様々な虐待を受けた少女たちを保護し、自立を助ける施設として成長します。彼女は、「なぜ、このようなひどいことが・・・」という現実に直面し、また地元の人からの迫害受け続けました。しかも、63歳のときには転んで足を骨折し、その後二十年間、自分の部屋から出ることができなくなりました。そのような中で、彼女は詩篇131篇から慰めを受け、次のような詩を記しています。

 父なる神さま 私の心にかなうように みこころを 変えてください と祈りましょうか

いいえ 主よ けっして そのようなことが あってはなりません

むしろ わたしの心が あなたのみこころと ひとつになりますように

はやる思い 切なる願いを 静めてください

痛いほど 激しい思いを やわらげてください

ごらんください わたしの心の 深いところで さまざまな思いがひしめきあっているのを

それらを戒めてください 主よ  それらを清めてください たとえ火をもってでも

わたしのうちに働いて みこころを行なう志を 立てさせてください

わたしのうちなる すべてのものが 愛する御方のみこころを 静かに待ち望むことが できますように

そして ついに 満ち足りて 乳離れした児のように あなたを 仰ぐことができますように

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