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2008年10月26日 (日)

伝道者の書1章1節~2章11節 「今、ここで味わうことができる平安」

  伝道者の書(コヘレトの言葉)                        翻訳 高橋秀典

                                               1

エルサレムの王、ダビデの子、説教者のことば                        (1)

「何と空しいことか!」と説教者は語る。「何と空しいことか。すべては空しい!」と。 (2)

日の下で労苦すること、そのすべての労苦が、人に何の益をもたらすというのか?  (3)

ひとつの世代が過ぎ去り、つぎの世代が来る。しかし、地はいつまでもそこにある。 (4)

日は昇り、日は沈み、また昇ってきたところに急いで戻る。                  (5)

風は、南に吹き北に巡り、巡り巡って吹く。風は、巡る道にまた戻る。            (6)

すべての流れは海に注ぐが、海は満ちることがなく、流れ注ぐ所にまた戻ってゆく。   (7)

何もかもが疲れることばかり。誰も 語り尽くすことはできない。              (8)

目は見ても満足することもなく、耳は聞いても満たされることはない。

今まであったことはこれからもあり、今まで起こったことはこれからも起こる。        (9)

日の下に、新しいことは何もない。

「見よ。これは新しい!」と言えるものが、何かあるだろうか?               (10) 

それはすべて、私たちが過ごしてきた、はるか先から既にあったもの。

昔のことは忘れ去られている。そして、これから後のことも。                 (11) 

また、そのずっと後のことでさえ、忘れ去られてしまう。

説教者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。               (12)

天の下に起こるすべてのことを、知恵によって探り調べようと、心を傾けた。       (13)

これは神が、人の子らに労させようと与えたつらい労苦だ。                  

日の下で起こるすべてのわざを見た。すべてが空しく、風を追うようなものだ。      (14)         

ねじ曲がっているものをまっすぐにはできないし、ないものは数えようがない。      (15) 

                       

私は、この心に、「見よ。私は、今までエルサレムにいただれよりも、           (16)

大いなる者となり、知恵を深めた。私の心は多くの知恵と知識を見た」と語りかけた。

そして、実際に、知恵を知り、また、狂気と愚かさをも知ろうと 心を傾けた。       (17) 

それもまた風を追うようなものだと分かった。

実に、知恵が多くなれば苛立つことも多くなり、知識が増せば悲しみも増す。      (18) 

                                                    2

私はこの心に、「さあ、快楽で自分を試し、何が心地よいかを見よう」と語りかけた。  (1) 

しかし、それもまた、空しかった。

私は、「笑いは、ばかげている」と言い、「快楽が、何になろう」と言った。           (2)     

私は身体をぶどう酒で元気づけ、心は知恵で導かれながらも、愚かさに敢えて身を任せ、(3)

人の子らが短い生涯、天の下でどのように過ごすのが善いかを見ようと、自分の心で調べた。

私は大きなことをやってみた。                                   (4)

自分のためにいくつも邸宅を建て、自分のためにいくつものぶどう畑を植え、

自分のためにいくつもの園と庭を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植え、          (5)

自分のためにいくつもの池を造って、木の繁る林に水を引いた。また、            (6)

自分のために何人もの男女の奴隷を、家に生まれた奴隷に加えて、新たに買い、     (7)

自分のために牛や羊を、先にエルサレムにいた誰よりも数多く持った。また、           

自分のために銀も金も、国々の王侯が秘蔵する宝をも蓄え、                  (8)

自分のために男女の歌い手たちと、人の子らの喜びとなる多くのそばめをそろえた。       

私は、先にエルサレムにいた誰よりも、はるかに大いなる者となったが、          (9) 

これらすべてにあって、私の知恵は私のうちに留まっていた。

この目が欲するものは何一つ拒まず、あらゆる快楽にこの心を開いていた。       (10)                        

実に、私の心は、これらすべての労苦の中で喜んでいた。

そして、それこそが、すべての労苦から受ける分だった。

しかし、私が、この手のわざと、労苦の結果のひとつひとつに向き合ったとき、      (11)     

見よ、すべては空しく、風を追うようなもので、日の下に益になることは何もなかった。

伝道者の書11節~211節 「今、ここで味わうことができる平安」

                                               20081026

 二十世紀後半以降の世界文化は、ビートルズを抜きに語ることはできません。その出身地の空港は、そのリーダーの名をつけて、リバプール・ジョン・レノン空港と呼ばれ、彼の銅像も立っています。日本にもジョン・レノン・ミュージアムが埼玉新都心にあります。そこには彼が狂信者の銃弾に倒れるまでの40年の波乱に満ちた人生が描かれています。展示場の最後の部屋には、彼のことばが、「僕のマネしちゃダメだよ。歩けもしないのに、走ろうとしてたんだ。人生って、きついね。食ってかなきゃならないし、気配りもしなきゃならない。人を愛さなきゃならないし、一人前にならなきゃいけない。すごく大変で、ときどきメゲそうになる・・・・」と記されていました。彼は、二度も、同じ親から捨てられたという心の傷を負いながら、悩み、苦しみ、でも最後は、自分の人生をやさしく見られるようになり、「心を開いて、『イエス(はい)』と言ってごらん」と記しています。でも決して、自分のマネをして欲しくないと言っています。人は、それぞれ自分の人生しか生きることができないからです。自分で気づくしかないからです。

1.「日の下に新しいことは何もない」

 この書は伝統的にダビデの子、ソロモン王によって今から三千年近く前に記されたと解釈されています。新共同訳聖書は、この書名を原文そのままを用いて「コヘレトのことば」とつけています。それは、「会衆」「集会」と同じ言葉から派生しており、集会の説教者という意味だと思われます。日本では「伝道の書」または「伝道者の書」という呼び名で親しまれています。ソロモンは、イスラエルの王とされたとき、神から「知恵の心と判断する心」をいただき、シェバの女王がソロモンの名声を聞いて遠くからやってきたとき、「なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる家来たちは」と感心しました(列王記3:1210:8)。そして、私たちはこの書を通して、シェバの女王が感嘆した神がソロモンに与えられた「知恵のことば」を聞くことができるのです。

 この書き出しのことばは、文語訳以来、「空の空・・・すべては空」という名訳が親しまれています。それは、聖書翻訳者がこの書に、仏教の真髄を276文字にまとめた「般若心経」と相通じる思想を見たからかもしれません。ただし、これを書いたのがソロモンであれば、彼は仏教の始祖、釈尊の550年前の人であり、また現在伝わっている般若心経の翻訳者は紀元後七世紀の、孫悟空のお話で有名な玄奘三蔵法師ですから、「空」ということばを定着させたこの有名な仏典が完成した1,600年も前に「伝道者の書」が記されていることになります。私などは、最近のコンピュータ技術の飛躍的な進歩になかなかついてゆくことができず、時代に取り残されるような焦りを覚えることがありますが、この書では、「日の下に新しいことは何もない」(1:9)と、断言されています。しかし、現代の日本では、今から1400年前に記されたこの般若心経が愛読され、その教えがなおも新鮮なものとして理解されており、また、今から三千年前に記されたと思われるこの書に驚くほどに親近感を見出すことができるとき、目に見える科学技術の進歩にも関わらず、人の心は何も進歩していないということを思い知らされるのではないでしょうか。

  「空の空」と文語訳が訳したことばを、ここでは、「何と空しいことか!」と訳させていただきました。これはヘブル語の「ヘベル」の訳ですが、「霧」「息」「風」などと訳されることばです。ただ、このことばはこの書の後のほうでは、「空しい」としか訳しようがありませんし、ここは原文で、「空しさ」の最上級を意味するのがこの表現です。

 そして、ここで言われる「空しさ」の理由は、「日の下で労苦すること」が、「人に何の益」ももたらさないように見える現実があるからです。この書で、「日の下」ということばは、目に見える世界のことを表しています。人間は常に、より住み良い世界を作り出そうと頑張ってきました。しかし、この驚くべき文明の発展が、人の幸せにつながっているのでしょうか。たとえば、インターネットの進歩で、アメリカにお住まいの方が、当教会のホームページを開いて礼拝メッセージを聞くことができ、「高橋先生のなつかしいお声での聖書の解き明かしを聞くことができて嬉しい・・・」などと言ってくださいました。それを聞いて僕も、「時代が変わったな・・・」と妙に感心してしました。しかし、その反面、国際金融や貿易に関わっておられる方は、昼夜を問わずに仕事をせざるを得なくなっています。つまり、技術の進歩が競争を世界的なレベルに広げ、私たちの心の余裕をますます奪っているのです。

 今から1800年前に記された中国の古典の「三国志」の初めには、人は戦いに疲れると平和を求め、見せかけの平和の中で不満を募らせ、また戦いを始める、人間の歴史はその繰り返しだという趣旨のことが記されています。人の愚かさを覚えさせられるばかりです。それが、「ひとつの世代が過ぎ去り、ひとつの世代が来る・・・今まであったことはこれからもあり、今まで起こったことはこれからも起こる」(4,9)ということの意味だと思われます。 

そのような中で、「地はいつまでもそこにある」(4)ということばは印象的です。上沼先生がその著書の中で、赤城山のことを書いておられます。空襲で町が焼けようとも、家族に耐えがたい痛みが起ころうとも、また自分の将来を開こうと必死に勉強をしているときも、この山は、何も変わることなく、夕日に映えた赤い裾野を見せながら、「そこにある」というのです。彼はそこに「存在の恐怖」のようなものを感じました。変わることのない原風景を前に、空っ風に向かいながら必死に自転車をこぎ、聖書の話を聞くために宣教師のもとに通いました。それはその後の人生の縮図のようなものかもしれません。「自分はなぜ生きているのだろう。なぜ、生きなければならないのだろう・・・」と問いかけて生きている中で、赤城山は静かに、変わることなくそびえています。ところで、5-7節には、今から三千年前のソロモンが、太陽の動き、風の動き、水の流れを的確に把握していることに驚くばかりですが、これも、波乱万丈と思える私たちの人生と驚くほど対照的とも見える悠々とした大地の動きを示しています。

このような現実を前に、「何もかもが疲れるばかり」(8)と言わざるを得ません。私は大学生のとき、「僕の人生は空しいことの繰り返しだ・・・。何かを達成しても、喜びは一瞬で終わり、すぐに新しい目標に駆り立てられている。一つの不安が解消したと思っても、すぐに新しい不安が芽生えてくるだけだ・・」と考えたことがあります。まるで疲れるために生きているようなものです。しかも、「誰も語り尽くすことはできない」とあるように、自分のことばの限界を感じるばかりでした。そればかりか、「目は見ても満足することもなく、耳は聞いても満たされることはない」とあるように、人はいつも欲求不満の状態に置かれているかのようです。それなのに私は、「もっと、もっと」と駆り立てられ、静かな時間を過ごすことに罪悪感を抱いていました。しかし、実際は、途方もない時間の無駄使いをしてきました。ふと、振り返ると、「何で、あんな小さなことに熱くなってしまったのだろう。おかげで、まわりの人まで振り回してしまった・・・・あのすばらしい景色と穏やかなときを満喫していたほうが、ずっと自分のためになったのでは・・・」と思わされることがあります。そんな中で、「日の下に新しいことは何もない」(9)と断言してもらえると、かえって、「そんなに人生を急いでどこに行くのか・・」と思い直し、ゆっくり休む勇気をいただくことができます。

しかも、私たちが、「見よ。これは新しい!」(10)などと感動するようなことがあったとしても、少なくとも人生の真理に関する限り、それは大昔から語られていることだと分かります。それが新しく見えるのは、「昔のことは忘れ去られている」(11)とあるように人間の歴史における忘却のゆえです。たとえば多くの日本人はついこの前の第二次世界大戦の悲劇さえ忘れ、「日本がアメリカと戦争したなんて、嘘でしょう!」という若者がいるほどです。

 

2.「天の下に起こるすべてのことを、知恵によって調べ探ろうと、心を傾けた」

  著者は、「説教者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった」(12)と自分を紹介し、「天の下に起こるすべてのことを、知恵によって調べ探ろうと、心を傾けた」と語っています。「天の下」ということばは「日の下」との対比で語られ、目に見える日々の現実の背後にある目に見えない人生の真理を見極めたいという願いを表します。そして、「これは神が、人の子らに労させようと与えたつらい労苦だ」(13)と言われます。つまり、人は、「私は何のために生きているのだろう・・・」「この人生の苦しみに意味があるのだろう・・・」などと思い巡らし続けてきましたが、それは「神が与えた労苦」でもあるというのです。17世紀のフランスの科学者パスカルは、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だがたとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だからわれわれの尊厳のすべては、考えることに中にある」(パンセ347)と言っています。「人間は考える葦である」とは教科書にも載っていることばですが、人が他の被造物に勝っているのは、その能力ではなく、自分の弱さ、人生のはかなさを知ることができることのなかにあるというのです。

  そして、神がそのような「労苦」を与えた結果として、哲学や宗教が生まれます。その代表が、人生が空であることを教えた般若心経でしょう。残念ながら、多くの日本人は、般若心経を死者に向かって唱えますが、これは人間が極めた人生の知恵と言えましょう。その中心は、五蘊と呼ばれる「色、受、想、行、識」のすべてが、「空」であることを悟ることによって、人生の一切の悩み苦しみ克服するということにあります。「色」とは目に見える物のことです。その外からの刺激を感覚で「受け」、それが何だろうかと「想い」、それにしたがって「行動し」、その意味を認め「識る」という一連の感覚のプロセスです。つまり、目に見える現実の世界と、それを理解する人間の心の動きのすべてが、「空」であると把握することによって、人生の苦しみの連鎖から自由になれるというのです。そして、この「空」の意味は、辞書的には、「存在するものには、実体()がないと考える思想」と記されます。ただ、それが自分にどのような意味を持つかを知るためには、座禅をする必要があると言われます。そして、座禅をせずに、「空」の意味を知ろうとするのは、富士山に登らずに山頂の風光を味わうことと同じであるとのことです。ところで、座禅をするのは心を空(から)にするためですが、実際には静まろうとすると、普段忘れているいろんなことがかえって心をいっぱいにします。それに対して、思い浮かぶ「色」といわれる現実、それに「受」動的に反応する感覚のすべてに、「空」というレッテルを貼るばかりか、それを「想い」、それにしたがって「行い」、「識別する」というすべてに「空」と宣言し、思考を止めるとのことです。これによって、人は、自分の心を白紙にしてゆくというのです。

ただし、このように心を空(から)にする黙想の基本原則は、般若心経よりはるかに古い、三千年前のダビデの詩篇に既に記されています。たとえば、詩篇62編では、「ただ神に向かって、私のたましいよ。沈黙せよ。この方から 私の望みが来るからだ・・・あなたがたの心を御前に注ぎだせ」5,8節私訳)と記されています。そこに共通するのは、自分から、また『我』から自由になるということです。詩篇のことばは、般若心経に比べるとはるかに単純に見えますが、そこには天と地ほどの決定的な差があります。聖書が勧める沈黙は、天地万物の創造主に向かってなされることですが、般若心経には創造主との対話という概念はありません。私のような凡人は、対話できるお方がいなければ、静まろうとしても、頭がかえって混乱してしまうばかりです。私の場合は、静まりの中で沸き起こる思いのすべてに「空」というレッテルを貼る代わりに、「主よ!」と呼びかけながら、思い煩いや悲しみ、怒りなど、すべての湧き起こる思いを、全能の父なる神にお委ねしてゆきます。私には仏教の体系を批判する資格などまったくありません。私は、たまたま、座禅によって自分から自由になるという道へと導かれたのではなく、イエス様に恋をし、イエス様を慕い、イエス様との対話の中で自分から自由になろうとする道へと導かれただけです。

ところで、どちらの静まりの方法を通しても分かる共通なことは、「日の下で起こるすべてのわざ」「すべてがむなしく、風を追うようなものだ」(14)という真理です。そして、「ねじ曲がっているものをまっすぐにはできないし、ないものは数えようがない」(15)という、人間の努力で解決できものを見分けるということです。「平安の祈り」にあるように、「変えられないこと」と「変えられること」を「見分ける賢さ」を神様からいただき、「変えられないことを受け入れる平静な心(Serenity)」を与えられるなら、人生はもう少しは楽に生きられるのではないでしょうか。

3.「人の子らが短い生涯、天の下でどのように過ごすのが善いかを見ようと、自分の心で調べた」

ところで、日の下での労苦が無意味であるということを突き詰めてしまうなら、生きることの意味がなくなってしまいそうです。般若心経では、「色即是空」と言った後、すぐに、「空即是色」と言われ、その空しい世界のただなかで生きてゆくことの意味が説かれます。私たちには現に、感受し、想い、行い、識別するという能力があるのですから、それを生かして生きるように求められています。般若心経は、死者に向かって唱える教えではなく、「今を大切に生きたい人」への教えであると言われます。しかも、自分は悟りを開いたという自意識を持つことがいかに危険であるかということも強調されます。そして、その基準からすると愚かと思えることが、116節から211節に記されます。聖書には人の失敗談ばかりが記されていますが、これもその一例でしょう。人の成功はほとんど参考になりませんが、失敗例は役に立ちます。なぜなら、そこには人が落ちる共通の落とし穴が見られるからです。

まずソロモン確かに、それまで「エルサレムにいただれよりも、大いなる者となり、知恵を深め・・多くの知恵と知識を見た」(16)というのは事実でしょうが、それはまだ体験を通してのことではありません。それで彼は、そのことを現実の中で、「実際に、知恵を知り、また、狂気と愚かさをも知ろうと 心を傾けた(17)のでした。そして、その結果、「それもまた風を追うようなものだと分かった」というのです。それは、「知恵が多くなれば苛立つことも多くなり、知識が増せば悲しみも増す」(18)からでした。私たちも神のみこころを知れば知るほど、それに反する現実に苛立つことも多くなりますし、知識を増して世界の現実を知れば知るほど、悲しむ対象が増えてゆくからです。私たちは、「知恵や知識が、心の平安をもたらす」というわけにはいかない現実に直面せざるを得ないのです。 

  そのような中で、2章 1節にあるように、彼は、自分の心に、「さあ、快楽で自分を試し、何が心地よいかを見よう」と語りかけ(1節)、それを実際に「試し」てみました。そして、「それもまた、空しかった」ということを体験的に知り、また、「笑い」とか「快楽」自体を目的とすることの空しさを体験的に知ったという結論をまず述べています。

 そして、具体的な実験の内容が、3節以降に、「私は身体をぶどう酒で元気づけ、心は知恵で導かれながらも、愚かさに敢えて身を任せ」と記されます。これは、「快楽で自分を試す」という実験です。そしてその目的は、「人の子らが短い生涯、天の下でどのように過ごすのが善いかを見ようと」、「自分の心」を実験的に「調べる」(3)ことでした。そして、「私は大きなことをやってみた」(4)ということばに始まり、八回に渡って、「自分のために」ということばを用いながら、自分の心がどのように反応するかを実験しました。それは、十三年もかけて驚くほど豪華な宮殿を自分のためばかりか妻として娶ったエジプトの王女のために建て、ぶどう畑や広大な庭園を造り、奴隷や家畜を増やし、金銀や諸国の宝物を集め、音楽家を雇い、そして、何よりも、七百人の妻を娶り、三百人のそばめを置いたということに代表される彼の栄華と贅沢が記されています(Ⅰ列王記7-11)。その上で彼は、「私は、先にエルサレムにいた誰よりも、はるかに大いなる者となったが、これらすべてにあって、私の知恵は私のうちに留まっていた」(9)と述べています。それは彼が自分の心を、一歩、距離を置いて見ていたことを意味します。ただ、その際、「この目が欲するものは何一つ拒まず、どの快楽にも心を開いていた」(10)とあるように、自分の欲望にブレーキをかけずに、自分の心が実際に何を味わうかを調べたのです。それで彼が実際に知ったのが、「実に、私の心は、これらすべての労苦の中で喜んでいた。そして、それこそが、すべての労苦から受ける分だった」ということでした。それは簡単に言うと、豪邸に実際に住んで贅沢三昧をするより、それを計画し、それを実行するというプロセスの中にこそ喜びがあったことです。しかし、実際にそれを手にして、「手のわざと、労苦の結果のひとつひとつに向き合ったとき、見よ、すべては空しく、風を追うようなもので、日の下に益になることは何もなかった」(11)という空しさを体験したというのです。その喜びはあまりにもはかないものでした。しかも、その結果、彼は自分の支配地の住民に重い税金を課し、近隣の国々の人々に強制労働を課し、人々の恨みを買ってしまいました。そればかりか、彼は多くの妻たちの声に耳を貸して、創造主の怒りを買うような偶像礼拝に走ってしまいました。

  私たちは、ソロモンの失敗を軽蔑するのではなく、彼が、人間の心に関しての壮大な実験結果を残してくれたことを感謝すべきでしょう。多くの人々は億万長者になること、また、人々の尊敬を得、またこの世界に影響力を発揮する存在になれることを夢見ていないでしょうか。しかし、それを手にする人は極めて稀です。私たちが学ぶことができるのは、そのようなこの世の成功を手にした人が、どこに幸せを感じることができたかという事実です。

ジョン・レノンはエルビス・プレスリーに憧れてロックンロールにのめりこんでゆきます。ただ、21歳のとき、彼は自分のこと、「僕は何も思い出せない 悲しみは あまりに深すぎて 感じることさえできない」と書いています。彼は17歳を迎えるころ二歳近くも年下のポール・マッカートニーと教会のバザーで出会い、互いに共鳴し合い、多くの曲を生み出すようになります。そして二十歳の頃は、ドイツのハンブルグの酒場でまるで肉体労働のような演奏をこなしながら、世界の舞台に羽ばたくことを夢見ていました。そして彼が24歳のとき、ビートルズは世界の伝説となりました。彼は、富と力と名誉のすべてを手にしました。しかし、ジョンにとって、「ビートルマニアの興奮は、やがて息が詰まるような恐ろしい退屈へと変わって行った」(アンソニー・エリオット「ジョン・レノン魂の軌跡」p36)というのです。

彼の心は、華々しい成功の中で、深く悶え、助けを求めて、「ヘルプ!」と悲鳴をあげていました。彼の音楽を聴いて、その心のうめきに気づいた人は少なかったことでしょう。彼は徐々に自分の心の闇を音楽で表現するようになります。そのような中で、小野洋子との出会い、彼はますます自分の心を正直に表現するようになります。出会いから五年後の31歳のとき名曲「イマジン」を作ります。その歌詞には洋子の影響力が強く表れています。そこには、「想像してごらん・・・・すべての人々が、今、ここで、このときを生きている・・・すべての人が、仲良く、所有欲なんかを忘れて、平和に生きている」という夢が歌われています。私は、これを聞きながら、神が「新しい天と新しい地」を創造してくださるときのことをイメージすることができます。ただ、皮肉にも、それから二年あまり後に、ふたりの関係は一時的に壊れます。洋子が度重なる流産やジョンの甘えとわがままに耐えられなくなったからだと思われます。ジョンはさみしさに打ちひしがれ、泥酔を繰り返し破滅しそうになりますが、一年三ヵ月後に洋子の許しを得て再びともに暮らすことができるようになり、まもなくふたりに長男ショーンが生まれます。このときジョンは35歳、洋子は42歳でした。そして、なんと、それから五年近くの間、彼は人々の前から姿を消し、洋子が外で活躍できるようにしながら、自分はハウス・ハズバンドとして子育てに励みます。彼は食事を作り、パンを焼くことに驚くべき興奮と喜びを発見します。彼は家族三人で平和に暮らしている中に、人生の最高の喜びを味わいました。イマジンで歌っていた平和を、生活の中で実際に体験しました。そのころ作られた曲、Watching the wheels で、「僕は今、こうして、車輪が回っているのを見て幸せなんだ」と、「今、ここでの生活」に喜びを見出しています。

  私たちは他の人の体験からこの世の成功や繁栄のむなしさを知り、喜びは、「今、ここ」での労苦のただなかにあるということを知ることができます。私たちは、しばし静まりながら、自分の心を動かし、駆り立てているものに気づく必要があるのではないでしょうか。私には、座禅を積んで悟りを開こうなどと願っても、それはできないでしょうし、そのように導かれたこともありません。ただ、私は、自分の中に得体の知れない欲望の塊が住んでいることを知っており、静まりながら、その一つ一つを、「主よ!」といいながら、神に明け渡します。そして、「この方から、私の望みが来る」(詩篇62:5)と告白します。それは自分の願望を貫こうと神にすがるのではなく、それを神に明け渡して、神の「望み」を生きることができるようにするためのプロセスです。私は日々何度もそれをやり直す必要があります。それは、自分に死ぬ過程とも言えましょう。そしてその際、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白するのです。

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2008年10月19日 (日)

エレミヤ10~13章「あなたがたの神、主(ヤハウェ)に、栄光を帰せよ」

エレミヤ10~13章「あなたがたの神、主(ヤハウェ)に、栄光を帰せよ」

                                              2008年10月16日 

  私たちは神を楽しみ喜ぶことができます。しかし、神を自分の目的達成の手段にすることは許されません。そこに偶像礼拝が始まるからです。私たちはこの世のものを「使用する」ことが許されていますが、その延長で、無意識にせよ、神を「使用する」ような発想になってはいないでしょうか。「楽しむ」ことと「使用する」ことの区別が大切です。ウエストミンスター大教理問答の最初では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」という問いに、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と答えるように教えられています。  

1.「人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではない」    

主(ヤハウェ)はイスラエルに向かって、「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな」(10:2)と言われます。昔の人々は、日食や月食、彗星の出現などに恐怖を覚え、そこに特別な意味を見出そうとしましたが、そのようなものに惑わされてはなりません。今は、このようなことはみな科学的に解明されていますが、それでも星占いが廃れることがないというのは何とも不思議なことです。また、異邦人の偶像に関して、「そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ」(10:5)という断言は、様々な偶像を恐れている人の心を落ち着かせる力があります。たしかに私たちも偶像に取り囲まれると何とも不気味な気持ちに襲われるということがあるかもしれません。しかし、それこそ悪霊の働きかもしれません。悪霊は恐れる必要のないものを恐れさせ、もっとも恐れるべき方のことを忘れさせるからです。そんなときこそ、このみことばを心で繰り返すべきではないでしょうか。また、6,7節の始まりと終わりに、「あなたに並ぶ者はありません」と繰り返されていますが、私たちはこの世の権力者も知者も恐れる必要はありません。ここで、主(ヤハウェ)が、「諸国の民の王」(10:7)と呼ばれるのは、当時の世界で、民族ごとにあがめられている神が違うような中で画期的なことです。弱小民族イスラエルの神こそ、全世界の王であるというのですから。

そして、8,9節で再び偶像の神々のむなしさが描かれ、10節で、「しかし、主(ヤハウェ)はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない」と力強く宣言されます。なお、11節だけは不思議にもヘブル語ではなく当時の西アジア全域で通用したアラム語で、「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる』と」と記されます。これはイスラエルの周辺の国々の人々にとって、ことわざのようになることを願っての表現ではないでしょうか。偶像礼拝に満ちている日本においても、これをことわざとして心に刻むべきでしょう。その上で、12,13節では、主(ヤハウェ)が全世界の創造主であるばかりか、すべての自然現象を支配していると語られるとともに、再び偶像のむなしさが告げられ、最後に、「主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主(ヤハウェ)である」(10:16)と述べられます。私たちはこの世で、あまりに弱く、貧しい者かもしれませんが、私たちの父なる神は、圧倒的な「万軍の主(ヤハウェ)」と呼ばれる方であり、私たちはその方の子とされました。日々の生活の中で、ほんの一瞬でも静まり、「主は万物を造る方。私たちは主ご自身の民、子ども。その御名は万軍の主(ヤハウェ)である」と言われる霊的な事実を思い起こすなら、不思議な平安に満たされ、勇気が沸いてくることでしょう。私たちの主にとって難しすぎることはないのですから。

10章17-25節は、内容的には9章17-22節に続くものです。その初めの、「包囲されている女よ。あなたの荷物を地から取り集めよ」という表現は、エルサレムがバビロンに包囲され滅ぼされるばかりか、その住民が捕囚とされ、長い旅に駆り立てられることを預言しています。この警告の繰り返しこそ、エレミヤ書のテーマです。

その上で、イスラエルの民を代表してのエレミヤの祈りが、「主(ヤハウェ)よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。主(ヤハウェ)よ。御怒りによらず、ただ公義によって、私を懲らしてください」(10:23,24)と記されます。これは、現代の裁判でも被告の責任能力の有無によって情状酌量の余地が生まれるように、イスラエルの民が生まれながら正しい道を歩む能力を持ち合わせていないと訴えながら、神のあわれみにすがることばではないでしょうか。そして、「そうでないと、私は無に帰してしまうでしょう」とは、主のあわれみがなければ生きてゆけないという嘆願です。なお、これは人には責任能力がないという居直りではなく、「ただ公義によって、私を懲らしてください」という祈りです。それは、人が、神の導きなしには自分の「歩みを確かにする」ことができないことを謙遜に認めながら、神の懲らしめによって民が自分の無力を悟り、神にすがる歩みへと戻ることができるようにという祈りです。ここでエレミヤは、目の前の苦しみを越えた、より大きな神の救いのご計画に信頼しようとしているのです。人によっては、「私は信仰が弱いから、いつも道がぐらつくばかりで・・・」と言うかもしれません。しかし、どこに生まれながらの信仰者がいることでしょう。旧約聖書の物語のすべては、生まれながらの人間は、目に見えない神を信じ続けることはできないということを証ししているようなものです。でも、そこに居直ってはなりません。自分の土台の不安定さをしっかりと見据え、自分には神の助けが必要なことを認めながら、「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)と告白すべきでしょう。これは不思議な祈りです。自分の中には神に喜ばれるような信仰がないことを正直に認めながら、神にすがるしかない自分の気持ちに従って「信じます」と告白しつつ、不信仰な自分が「助けられる」ことを願っているのです。

2.「この契約のことばを聞かない者は、のろわれよ」

  11、12章は、10章より少し前の時代の預言だと思われます。ヨシヤ王の時代の紀元前622年頃、主(ヤハウェ)の宮で律法の巻物が発見されましたが、それを前提に記されています。申命記27,28章には、「主(ヤハウェ)の契約」を守らない者に対する「のろい」が警告されていました。それを要約したのが、「イスラエルの神、主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれよ」(11:3)です。一方、祝福に関して、主(ヤハウェ)は、出エジプトの際、「わたしの声に聞き(従い)、すべてわたしがあなたがたに命ずるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言われました(11:4、7:23参照)。なお、ここでは何よりも、「聞く」ということばが強調されています(新改訳の「聞き従い」は意訳)。私たちは行動を考える前に何よりも、主の命令の趣旨を心から理解することが求められているのではないでしょうか。ただじっと「聞く」というプロセスを飛び越えて身体を動かそうとするから、あとで心がついてゆかなくなり、実行できなくなるのではないかと思われます。

そして主はご自身の約束に従ってイスラエルの民を、「乳と蜜の流れる地」(11:5)に導きいれてくださいました。それはこの地において、今述べられたようなエデンの園にあった神と人との親密な交わりを回復させるためでした。エレミヤはその律法の要約を聞きながら、「主(ヤハウェ)よ。アーメン」と応答しました。それに応じて、主は彼に「ユダの町々と、エルサレムのちまたで」、『この契約のことばを聞いて、これを行え』と叫ぶように命じられました(11:6)。

契約に対する「のろい」「祝福」は、当時の契約の鍵であり、契約を軽蔑した者に「のろい」は実現させなければならないことでした。ですから、ここでは「のろい」の必然性が強調されています。ところが、主はそれを敢えて遅らせながら、エルサレムに警告を発し続けます。それは、彼らがわざわいに会ったときに、それがイスラエルの神、主(ヤハウェ)の無力さのゆえではなく、のろいの契約」の成就であることを知り、主(ヤハウェ)に立ち返ることができるためでした。それが11章9-13節のことばの意味です。そこで衝撃的なのは、主が、「彼らはわたしに叫ぶだろうが、わたしは彼らに聞かない(11:11)と語ると同時に、「彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない」(11:12)と繰り返されていることです。彼らの心はあまりにも頑なになっているために、自分がなぜこのような悲惨に会うかの意味を理解できないまま、場当たり的な対応しかしません。それでまず彼らに自分たちの過去の選択の過ちを思い知らせる必要があるということなのです。

  私たちは、聖書の教えは、因果応報の教えを超えており、「罰が当たった!」というような言い方はしてはならないと教わります。しかし、一方で、わざわいの中には、原因と結果の関係が明確なものが数多くあります。そのとき、自分の過去の誤った行動が現在の悲惨を招いていると率直に反省できる人には希望があります。残念ながら、何度も同じ過ちを繰り返す人は、多くの場合、自分の悲惨を人や環境のせいにばかりして、自分の側に問題があったことを認められていません。そのような反省能力の欠けた人は、最後の最後まで、神でも人でも、自分の意のままに動かそうと、脅しでも泣き落としでもあらゆる手段を尽くし、結果的に神と人とを敵に回してゆきます。

  それで主はエレミヤに、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいに会ってわたしを呼ぶときにも、わたしは聞かないからだ」(11:14)と語ります。彼らは助けられる前に、自分自身の過ちと向き合う必要があるからです。しかし、彼らの心は主(ヤハウェ)から遠く離れながら、見せかけの礼拝をしているだけでした。しかし、神の目から、私たちの心の中を隠し通すことはできません。

そして今、「良い実をみのらせる美しい緑のオリーブの木」(11:16)と呼ばれた民は、バビロンの攻撃による「大きな騒ぎの声」とともに、火で焼かれようとしています。そのことが、「あなたを植えた万軍の主(ヤハウェ)が、あなたにわざわいを言い渡す。これはイスラエルの家とユダの家が、悪を行い、バアルにいけにえをささげて、わたしの怒りを引き起こしたからである」(11:17)と言われます。当時の彼らの礼拝は、まるで、影で浮気を続けたまま、夫婦の関係を修復したいと口先で言い、贈り物で怒りをなだめようとするようなものでした。人は切羽詰ると、ありとあらゆる人や神々にすがりたい思いになります。しかし、主は、何よりも、浮気を嫌われるということを常に心に留めるべきです。主の助けを求める者は、その前に、他の偶像の神々にすがることを断固としてやめなければならないのです。

3.「主(ヤハウェ)よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます」

11章18節から突然、エレミヤに対するユダヤ人の陰謀を、主ご自身が知らせてくださったことが記されます。そのときエレミヤ自身は、「ほふり場に引かれて行くおとなしい子羊のよう」でした。彼らが、「木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」と計画していました。これはエレミヤを彼の子孫ができる前に殺すことを意味します。しかし、反対にエレミヤを滅ぼそうとする者たちが、主によって滅ぼされるのを、彼が見ることができるようになるというのです。そのことが、「正しいさばきをし、思いと心をためされる万軍の主(ヤハウェ)よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見ることでしょう」(11:20)という告白です。

アナトテは祭司の町でしたが、そこの祭司たちは、エレミヤがヨシヤ王に受け入れられているのに対してねたみを覚え、「主(ヤハウェ)の名によって預言するな。われわれの手にかかってあなたが死なないように」と脅していたのだと思われます。それに対し、主ご自身が復讐をしてくださるというのです。エレミヤを預言者として召し出された主は、彼のいのちを守ることができる方です。そして、主のしもべに敵対する者は、主に敵対することになるのです。それは、主がアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3)と言っておられた通りです。この約束は、私たちにもそのまま実現しています。私たちは人に助けてもらいながら恩返しができなくても心配ありません。主が代わってその人を祝福してくださるからです。反対に、人から意地悪されても仕返しをする必要はありません。主が代わって仕返しをしてくださるからです。

一方、12章では、そのようになっていない現実を前に、エレミヤは主に正直な疑問を投げかけ、「さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか」と問いかけます(12:1)。それは、「あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結び」とあるように、主が悪者をのさばらせているように見えるからです(12:2)。

そこでエレミヤは彼らの偽善を、「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます」と訴えます。それは、彼らが口先で神をたたえながら、こころが主から遠く離れている現実を指します。ところがその一方で彼は、不当な非難を受けている中でも、「主(ヤハウェ)よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます」(12:3)と自分の心の中のすべてが主に知られていることに安心し、「どうか彼らを、ほふられる羊のように引きずり出して、虐殺の日のために取り分けてください」と神のさばきにゆだねています。神のさばきを祈ることは、自分で復讐をしなくて済むようになるための前提です。多くの人は、主のさばきを信じられない結果として、自分で攻撃をしかけ、争いを増幅させてしまいます。その上で、エレミヤは、「いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています」と(12:4)、イスラエルの民が、「乳と蜜の流れる」と言われた地を損なっていることを悲しんでいます。

それに対して主は、「あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう」(12:5)と言われます。これはエレミヤが他の偽預言者との戦いや平穏なアナトテの地での苦労を言っていることに対し、バビロンの馬の攻撃や獣の住む密林での生活というさらなる苦しみが待っていることを示したものです。そして、主は彼に、身近な人の裏切りさえも覚悟して生きるようにと語ります(12:6)。私たちは、「この苦しみはすぐに終わる・・・」と淡い期待を抱くことによって、かえって目の前の困難への姿勢が逃げ腰になり、問題を長引かせることがあります。しかし、「この問題は、そうは簡単に解決しない」と腹をくくって対処するなら、反対にそこで神からの不思議な力を受けることができます。

 ただし、その上で、主は(ヤハウェ)は、「わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた相続地を侵す悪い隣国の民について。見よ、わたしは彼らをその土地から引き抜き、ユダの家も彼らの中から引き抜く」(12:14)と言われますが、それは主が、この悲劇の後で、バビロンをこの土地から引き抜くとともに、ユダの民をバビロンの中から引き抜き、「わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう」(12:15)と、苦しみをくぐりぬけた民を約束の地に戻すという約束が語られます。そして、「彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『主(ヤハウェ)は生きておられる』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう」(12:16)と、彼らがバアル礼拝をしたことを反省し、神の民としての礼拝をするなら彼らに回復の希望があることを描きながら、同時に、「彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう」(12:17)と、悔い改めない場合にはすべての希望が失われることが警告されます。

  私たちにとっても、「主は生きておられる」という信仰告白こそ、人生が祝福されるための鍵です。主が私たちにしばしば苦しみを与えられるのは、主(ヤハウェ)以外の誰も頼りにはならないことを思い知らせるためです。それは空気がなくなって初めて空気のありがたさが分かるのに似ています。主は、いつでもどこでも生きて働いておられますが、それは人生の暗闇の中でこそ発見できるものです。「主は生きておられる」のなら、主にすがる者の人生が暗闇のまま終わることはあり得ません。私たちは常に、光に満ちた世界に歩んでいることを忘れてはなりません。

4.「彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるため」

  13章1-11節では、主がエレミヤに亜麻布の帯を用いての「実演によるたとえ」を命じます。主はまず、「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ・・・」と言われます。亜麻布は祭司の服装に用いられましたが(レビ16:4)、これは彼に神の民としての「誇り」を思い起こさせたことでしょう。ところがすぐに主は、「その帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ」(13:4)と不思議なことを命じました。そして、「多くの日を経て」、主は彼に「あの帯を取り出せ」と命じますが、「その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた」というのです(13:6,7)。そして、このたとえの説明が主からなされます。それは、主が、「ユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる・・・この悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる」(13:9、10)ということでした。帯は、主がイスラエルの民をご自身に「結びつけた」ことの象徴です。そして主は、「彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるため」に必要な教えを与えたのに、「彼らがわたしに聞き従わなかった」とご自身の悲しみを表現されます。

  主は私たちひとりひとりに、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(Ⅰペテロ2:9)と語りかけておられます。私たちはそのしるしとしての亜麻布の帯を腰に締め、心と身体を引き締めて、主から召された働きにつくのです。主のみことばは私たちに何よりも真の「誇り」を思い起こさせるものです。パウロは悪霊に対する戦いとして、「腰には真理の帯を締める」ように命じています(エペソ6:14)。悪霊の働きは、何よりも、私たちの心の目を神の約束からそらせ、私たちの「誇り」を奪い取ろうとすることにあります。

  12-14節は酒つぼのたとえです。主は、「すべてのつぼには酒が満たされる」と言われますが、それは宴会の備えとして当然のことでした。それは、イスラエルの民自身が望むことだったことでしょう。しかし、主の目的は、「この国の全住民、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民をすっかり酔わせ、彼らを互いにぶつけ合わせて砕くということにあるというのです。そして、主は、「わたしは容赦せず、惜しまず、あわれまないで、彼らを滅ぼしてしまおう」と言われます。これは彼らが、「主(ヤハウェ)の手から、憤りの杯を飲む」(イザヤ51:17)ことの象徴でしたが、彼らにはそのような意識はなかったことでしょう。パウロは後に主のさばきを、「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され(ローマ1:24)と描きましたが、人にとっては自分の欲望のままに生きることは望ましいことのように思えますが、それこそ人と人とが互いに滅ぼし合い、自滅してゆく道です。神の愛とは気ままな行動を抑えることであり、神のさばきは、気ままな生き方を、酒を飲ませて励ますことだというのです。

 15-17節の警告は、「耳を傾けて聞け。高ぶるな・・・あなたがたの神、主(ヤハウェ)に、栄光を帰せよ」という単純明快なものですが、それこそが神との交わりの核心ではないでしょうか。私たちは知らないうちに、神を自分の願望を達成する手段に貶めてしまう傾向があります。それは自滅への道です。それは先のたとえにも明確です。主は傲慢になった人に、「やみを送り」ます。それは神のさばきであるとともに、私たちの愚かさを教える神の愛の現れです。

  「主(ヤハウェ)は生きておられる」とは旧約聖書の歴史のテーマです。それを知った人は祝福され、それを忘れた人はのろわれました。いつでもどこでも、今、生きて働いておられる主との交わりに生きましょう。私たちはどのような状況でも、主を喜び楽しむことができます。幸せは、今、ここにある主との交わりのなかにあります。そしてそれこそ、天国の前味です。今ここでそれを味わうなら、目に見える交わりの現実の中にも天国をもたらすことができます。

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ルカ19:1-27 「持っている者は、さらに与えられ・・・」

                                              20081012

 あなたは、教会で自分の信仰に劣等感を感じたことがないでしょうか。私は、「あの高額の所得を惜しみもせずに・・・」などと言われたことがありますが、実際には、神学校に入ったとき、感動的な献身の証しを聞きながら、「こんな不信仰な者が牧師になろうとして良いのか・・・」と深く悩んでいました。しかし、「神のみことばに感動し、それを語ることが嬉しくてたまらない・・・」ということは紛れもない事実でした。そこに私は、神の選びと使命を感じました。私たちは知らないうちに、神の恵みへの感動を語る代わりに、自分の信仰を量ってはいないでしょうか。J.I.Packerは、「Knowing God」という名著において、「心理学的には、信仰はわれわれの側の行為ですが、神学的には、それはわれわれの内における神のわざです」と記しています。世の人は信仰を心理学的に見ますから、私たちもその影響を受けて自分の信仰を、神のわざとして見ることを忘れてしまいがちです。「せっかく神様に目をかけていただきながら、いつまでたっても人と自分を比べてばかり・・・」という現実がないでしょうか。心理学的には、信仰と最も近いのは、恋愛感情かもしれません。そのとき人は、愛する人のことばかりを思い浮かべ、何をしたらその人に喜んでもらえるかを考えます。つまり、自分のものを守ろうとばかりするような内向きな生き方から無意識のうちに自由になっているのです。そのことを、嫌われ者の取税人ザアカイの生涯から考えて見ましょう。

1.ザアカイを捜し救ってくださったイエス

「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった」(1節)とありますが、これはイエスが十字架にかかるためにエルサレムに向かう途中のことです。そこに、「ザアカイという人」が登場します。彼は、「取税人のかしらで、金持ち」でした(2節)。そして、理由はわかりませんが、「イエスがどんな方か見よう」という思いが強烈にありました。ただ、「背が低かったので」、「見ることができなかった」と記されます(3節)。その職業からしても、彼が嫌われ者であったことは確かです。当然、誰からも席を譲ってもらえません。それで、「前方に走り出て、いちじく桑の木に登った」ということまでしてイエスを見ようとしました(4節)。ここに、彼の熱心な求道の思いを読み取る方もいるかもしれませんが、それならば、「ちょうど・・そこを通り過ぎようとして」おられたイエスを上から見下ろす場に自分を置くような失礼なことはしなかったのではないでしょうか。彼を支配していたのは好奇心かもしれません。これは、彼の人生を象徴しているような行為とも言えます。彼は、「ちびのザアカイ・・」などと馬鹿にされながら育ったのではないでしょうか。社会から暖かく迎えられている人であったなら、取税人になどなろうとはしなかったはずです。彼は悔しさをばねにしてのし上がり、お金と権力を手にしました。そして、ここでも自分の居場所を確保するために、いちじく桑の木によじのぼりました。どちらも、人を見下げる立場に立ったということで共通しています。

ところが、「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて、『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから』」(5節)と言われました。イエスは多くの人々に取り囲まれていましたが、その中で一番失礼な態度をとっている人の名を呼ばれました。なぜザアカイの名を知っていたのでしょう。しかも、イエスは、厳密には、わたしにはあなたの家に泊まる必要があるとご自分の側の事情を言っておられます。まるで彼の家がご自身と弟子たちが休む上で最高の場であるかのような言い方です。しかし、実際は、イエスが上から見下ろしているザアカイの気配から、その深い孤独感ばかりか全生涯の痛みを瞬時に感じ取られ、そのまま通り過ぎることができなくなられたのではないでしょうか。イエスはそれを感じられながら、「あなたは闇の中に住んでいる・・・」などと彼の問題を指摘する代わりに、ただ、ご自身の必要として、彼の広い家に泊まりたい旨を伝えられたのです。これは、ザアカイには、想像だにしなかった名誉なことでした。

それで、「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎え」ました。ただ、これを見た人々は、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言って、「つぶやいた」というのです(6,7節)。人々の目には、これはイエスがザアカイの罪深さを見抜くことができていないしるしでしかなかったことでしょう。

 しかし、ザアカイは、イエスが自分のすべてを知りながら受け入れてくださったということが分かり、その熱い愛によって氷のように冷たい心が溶かされ、イエスにもっと喜ばれる人間になりたいとすぐに決断し、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(8節)と約束しました。つまり、自分のためだけに生き、人よりも上に立つことばかりを考えていた人が、貧しい人の痛みを担う者となろうと、方向転換をしたのです。それを聞いたイエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」と、彼の思いを全面的に評価し、喜んでくださいました。

その上でイエスは、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(10節)と言われました。ザアカイは自分の信仰によって救いを獲得したのではなく、イエスご自身が、失われたザアカイを探し出し、その名を呼び、彼の客となることによって、彼に人生の方向転換をさせたのです。救いの主導権は徹底的にイエスの側にありました。これは私たちすべてに当てはまる真理です。救いの主導権は、私たちの信仰以前に、イエスにあります。

しかも、「救いがこの家に来た」という「この家」は、「取税人のかしら」「家」であり、税金を徴収し、計算する働きの現場、彼の手下たちが指示を受けている現場ではないでしょうか。ローマ帝国が世界に平和な秩序を保つためには、支配地から税金を集めるのは不可欠でした。それはユダヤ人にとっては汚れた仕事だったとしても、神の目には必要な仕事と見られたのではないでしょうか。必要なことは、この仕事をなくすことではなく、この働きが公平に正しく行われることでした。これは推測に過ぎませんが、ザアカイはこれからも取税人としての仕事をしたのではないでしょうか。ただ、それまでと異なり、イエスの眼差しを意識しながら誠実に行ったことでしょう。

2.「王位を受けて帰るため」とは?

  そして、不思議なことに、「人々がこれらのことに耳を傾けているとき」、「イエスは、続けて一つのたとえを話された」というのです(11節)。つまり、ザアカイの話と、これからのたとえには深い関連があります。そこには、「イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていた」という誤解を正すという目的がありますが、その際、イエスがこの話をされたのは、ザアカイの家であるという場面設定が極めて大きな意味を持っています。当時の人々にとって、「神の国が・・・現れる」とは、ユダヤ人がローマ帝国からの独立を果たしてダビデ王国を再現することを意味しました。イエスの弟子たちは、イエスが「ダビデの子」である「王」として即位し、自分たちが大臣になり権威を発揮できることを期待していたことでしょう。しかし、イエスは、今、ローマ帝国の支配の手先である取税人の家でもてなしを受けているのです。彼らには到底理解できないことでした。

 その中でイエスのたとえは、当時の政治状況を反映していました。ヘロデ大王の死後の紀元前四年頃、彼の二人の息子アルケラオスとアンテパスがローマに上って、それぞれ自分をヘロデ大王の後継の王にしてくれるように皇帝に訴えるということがありました。その際、アルケラオスの方が優位に立っていました。ですから、イエスが、「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった」(12節)と言われたとき、聴衆の心の中には、そのような具体的なイメージが沸きました。イエスはこのような生々しいたとえを用いながら、ご自分はエルサレムに上ってすぐに王として即位するのではなく、一度、天の父なる神のもとに行き、そこで名実共に王として即位し、栄光のうちにこの地に再び戻ってくるということを理解させようとしました。ヘロデ大王の息子たちにとってのローマ皇帝が、イエスにとっては天の父なる神なのですが、当面は、王権を発揮することができないという点では共通します。どちらにしても、目に見える神の国は、弟子たちの期待通りには実現することがなく、その間、弟子たちは矛盾に満ちたこの世界に取り残され、イエスから与えられた課題を行うことが期待されているのです。

そのような前提で、「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った」(13、14節)と描かれます。ヘロデの息子のアルケラオスは自分の不在中のことをその家臣たちに委ねてローマに行きました。ただ、その間、実際に、ユダヤ人たちは皇帝に使いを送って、アルケラオスを王として認めないように嘆願していました。なぜなら、彼はエルサレムで三千人のユダヤ人を虐殺するという残虐行為を行っていたからです。つまり、留守中のことを任された「十人のしもべ」は王とのある意味での信頼関係があったように思われますが、「国民たち」はこの人を王とは認めないというのです。この点でも、イエスとアルケラオスとには共通点があります。イエスも、まったく異なった理由であるにせよ人々から拒絶されます。そして、イエスの弟子たちは、イエスを王として認めない人々の間で、イエスから任された働きをするように委ねられます。少なくともこの話を聞いていたザアカイとその仲間には、イエスのたとえは極めて現実的な意味を持っていたことでしょう。取税人は、ローマ皇帝によって立てられたユダヤの王(またはローマ総督)から任された仕事を行っていました。しかし、彼らが仕えるその王(または総督)は、ユダヤ人からは憎まれていました。人々から憎まれている王の手下として働くことは心地の良いことではありません。

私たちの場合、私たちが主と仰ぐイエスは、人々から憎まれてはいないにしても、この世界の王であるとは認められていません。「私は、王であるイエスのために働きます・・・」ということを理解してもらえない人々の間で、イエスの眼差しを意識して、イエスから任された働きをするように私たちは召されているのです。

3.報酬とさばき

 イエスのたとえでは、この高貴な人は、アルケラオスとは異なり、きちんと王位を受けて帰国しました。その上で、「さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました』」(15,16節)と話が展開されます。一ミナというのは新改訳の脚注にあるように、当時の労働者や兵士の「百日分の労賃」に相当します。ですからたとえば、五十万円の元手で五百万円儲けたというようなことです。これは、かなりリスクを伴う投資を、知恵を使って行い、見事に成功したということでしょう。しかも、このしもべは、謙遜にも、この元本も儲けも、王のものであると認め、すべてを差し出しています。それに対して、主人は、『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい』(17節)と言われました。驚くべき報酬です。その後、二番目の者が来て、『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました』と、先ほどよりは少ないにしても、五倍もの儲けを得たということを、同じように主人のものであると謙遜に申し出ましたが、それに対しても主人は同じように、『あなたも五つの町を治めなさい。』という報酬を与えました(18,19節)。

ところが、「もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから』」と、先のふたりとは正反対の態度を取った人が登場します(20,21節)。彼は失敗を恐れてリスクの伴う投資ができなかったというのです。それは、主人が決して失敗を許さないばかりか、不当な要求を課す横暴な者であるかのように見ていたからです。これは、この主人を、アルケラオスと同じ種類の人間として見ていたということを意味します。

それに対し、主人は彼に、『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか』(22節)と言います。これは、主人が実際にそのような人間であるという意味ではなく、そのしもべが、主人を、そのように評価していたということを非難したものです。その上で、主人は、『だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』と言います。なお、ここで「銀行」というのは意訳で、厳密には、「(両替人や金貸し業者の)テーブル」と記されています。当時はまだ銀行などは存在しません。ただBankということばは、この「テーブル」または「ベンチ」に由来します。ここには、このしもべが主人を、高利貸しと同じ種類の人間と見ていることに対して、それなら同類の高利貸しにでも預けておけば良かったという皮肉を言ったものです。イエスのたとえに Bank の語源が出てくるのは本当に興味深いことです。

 その上で、主人は、「そばに立っていた者たち」に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい』と言いました(24節)。これは彼が、そのしもべが見ていたと同じきびしい主人として振舞うことを意味します。イエスはマルコ4:24,25節で、十二弟子に向かって、「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます」と言われました。つまり、彼が持っている一ミナまで取り上げられたのは、彼が主人をそのように見ていた、その同じ量りが自分に適用されたという意味です。もし、彼が主人を寛大な人と見ていたとしたら、彼自身も寛大に取り扱ってもらうことができたのです。

 ですから、ここでも、この様子を見ている人々が、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています』と言ったことに対し、主人は、『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです』と答えていますが、それは、主人への「信頼」を持っている者、私たちの場合は「イエスへの信仰」を「持っている者は、さらに与えられ」ということの一方で、この主人への「信頼」を持っていない者、つまり、「イエスへの信仰」を「持たない者」は、終わりの日には「持っているものまで取り上げられる」というのです。私たちがイエスをどのように見ているか、そのはかりで、私たちが終わりの日にはかられるのです。

 このたとえと似たものが、マタイ福音書25章14-30節で、タラントのたとえとして出てきます。その結論は、ほとんど同じです。ただ、そこでは、「おのおのその能力に応じて」と記されています。しかも、そこに出てくる「タラント」は労働者15年分の給与に相当し、五タラント任された人は75年分の給与と言う途方もない金額でした(タレントということばはこれに由来します)。ここではそれぞれに百日分の給与に相当する一ミナだけが同じように任されています。ただタラントのたとえの場合は、金額を二倍にしただけなのに対し、ここでは十倍、五倍というはるかに高い収益が上げられます。どちらにしても、共通しているのは、任された資産を積極的に運用することが求められていたということです。このたとえで明らかなように、イエスは商売や投資でお金を増やすことを喜んでおられます。

  しかも、このたとえの最後では、「ただ、私が王になることを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の前で殺してしまえ」(27節)というきびしいさばきが記されます。それは、イエスを十字架にかけようとしているユダヤ人に対する神のさばきを預言することばでもあります。これから四十年後のエルサレムに、この警告がそのまま実現しました。イエスを拒絶したユダヤ人は、神殿も国もすべてを失ってしまったのです。ですから、イエスの厳しい警告には、ご自身を憎む者たちへの愛が込められているのです。イエスのことばを信じた人々は、エルサレムが滅びる前に逃れることができました。世の終わりにも同じことが起こります。そのときになって後悔しても、イエスを信じなかった者は、救われようがないのです。

ところで、アルケラオスの場合は、ユダヤを平和に治めることができたら正式な王とするという条件つきでローマ皇帝からユダヤの支配を九年間任されましたが、彼は自分に反対したユダヤ人に復讐を果たしてしまい、その結果、ローマ皇帝の信頼を失い、幽閉され、失意のうちに死にました。アルケラオスの場合は、国の支配を一時的に任されながら、「持っている物までも取り上げられ」ました。それは彼が、神と人との信頼関係を築くという神の賜物としての「信仰」を持っていなかったからです。私たちはみな、非常に危ういところに立っています。最終的に、どのような栄華のうちにあったとしても、創造主である神との信頼関係を築くことができなかった者は、すべてを失います。しかし、何も持っていないようでも、イエスとの生きた関係を「持っている者は、さらに与えられ」ます。

ここに登場する王が十人のしもべに等しく一ミナずつ預けたように、イエスは私たちにはひとりひとりに、まったく同じ神の霊、聖霊を与えてくださいました。その際、「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:19)という命令を聞きます。御霊は私たちに五倍、十倍の実を結ばせてくださいます。御霊は、それぞれの心の内側に、王なるイエスへの信頼を与え、失敗を恐れず、大胆にイエスの父なる神が支配する国のために生きるように励ましてくれます。それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:15)と記されている通りです。ただ、そのとき、御霊をふろしきに包むようなことをしてしまうなら、すべてが悪循環になります。そこには神への不信が生まれます。そして、神の怒りを買うような行いをかえって行うことになりかねません。私たちは、預けられた「御霊を消す」ことなく、御霊によって生きるように召されています。それは人間的な尺度を越えた、神のみわざの中に生きることです。

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