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2008年11月30日 (日)

伝道者3章16節~5章7節「神のかたちとして生きる」

伝道者の書 316節~57節  私訳

さらに私は日の下で見た。さばきの場、そこに悪があり、正義の場、そこに悪があるのを。  (3:16)

私はこの心に語りかけた。「正しい者も悪人も、神がさばかれる。すべての営みとすべての    

みわざには時があるからだ。」(3:17)

私はこの心に語りかけた。「人の子らについては、神は彼らを試練に会わせ、自分たちが獣に過ぎ

ないことを見るようにされた。人の子に起こる出来事と獣に起こる出来事、その出来事はひとつ。 (3:1819)

これも死ねば、あれも死ぬ。すべてのものの霊()はひとつ。人は獣にまさりはしない。すべては

空しい。すべてはひとつの場所に行く。すべては塵から成った。すべては塵に帰る。(3:20)               

人の子らの霊、それが上に上り、獣の霊、それが地の下に降りてゆくなどと、誰が分かろうか。」 (3:21)

そして、私は見た。人はその働きの中で喜ぶ以上に善いことがない。それこそ人の受ける分だから。

その後に何があるかを、誰が見られるようにできるというのか。(3:22)

そして改めて、私は、日の下で行われているすべての虐げを見た。 (4:1) 

虐げられている者の涙を見よ。彼らには慰める者がいない。

力は虐げる者の側にある。しかし、彼らには慰める者がいない。

私は、まだいのちのある生きている人よりは、既に死んだ死人を称賛しよう。 (4:2) 

この両者よりさらに善いのは、まだ存在しなかった者だ。  (4:3)

日の下でなされる悪い働きを見ないでいられるのだから。

また私は、すべての労苦を見て、すべての働きの才能には隣人へのねたみがあることを見た。(4:4) 

それもまた空しく、風を追うようなものだ。

 愚か者は手をこまねいて、自分の身を食い尽くす。   (4:5)

片手に憩いを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うよりも善い。 (4:6)

そして改めて、私は日の下の空しさを見た。  (4:7)

 ひとりの人がいて、相棒もなく、息子も兄弟もいない。 (4:8)

そのすべての労苦には終わりがなく、その目は富に満足することがない。

「誰のために私は労苦し、たましいの満足をも犠牲にしているのか?」

これもまた空しく、つらい労苦だ。

ふたりはひとりよりも善い。彼らには労苦において善い報いがあるから。 (4:9) 

もし彼らは倒れても、ひとりがその仲間を起こす。   (4:10)

惨めなのは、倒れても起こしてくれる相棒がいないひとりの人。

また、もし二人が寝れば暖かいが、ひとりならどうして暖まれよう。 (4:11)

しかも、もしひとりの強い人がいても、二人なら立ち向かえる。 (4:12)

さらに三つよりの糸は簡単には切れない。             

貧しくても知恵のある若者は、年をとっても教えられることを知らない愚かな王よりは善い。 (4:13)

確かに、彼(若者)は、王国の中で貧しく生まれながらも、獄屋から出て王となったのだから。 (4:14)

私は見た。日の下に歩いている生き物のすべてが、王の下に立つこの第二の若者の側につき、(4:15)

彼がその先頭に立つすべての民には終わりがないほどだった。 (4:16)      

しかし、その後に来る人は、彼を喜ばなかった。

これもまた空しく風を追うようなものだった。

神の家に行くときには、あなたの足に気をつけなさい。聴くために近づくことは、愚か者が  (5:1)

いけにえをささげることにまさる。彼らは、自分たちが悪を行っていることを知らない。

 あせって口を開き、心せいて、神の前にことばを出すな。神は天におられ、あなたは地の上に (5:2)

いるのだから、ことばを少なくせよ。仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚か者の声となる。  (5:3)

神への誓願を立てるとき、それを果たすのを遅らせてはならない。主は愚か者を喜ばれない。 (5:4)  

誓ったことは果たしなさい。誓って果たさないよりは、誓わないほうが善い。  (5:5)

あなたの口があなた自身を罪に定めないようにしなさい。使者の前で、「あれは間違いでした」 (5:6) 

などと言ってはならない。神があなたの声に怒り、あなたの手のわざを滅ぼさないだろうか。  

夢が多いこと、それは空しい。またことば数が多いことも。それゆえ神を恐れよ。 (5:7)

                                                20081130

  サイモンとガーファンクルの最後の名曲『明日に架ける橋』は今も多くの人々に「友情」の価値を訴えかけていますが、そこでは、「君が疲れ果て、自分をちっぽけに感じ、涙が止まらないようなとき、僕がその涙を拭き、君のそばにいるよ・・・逆巻く流れに架かる橋のように、僕は自分を差し出そう」という崇高な歌詞が歌われています。それは1970年に世界的なヒット曲になりましたが、これを最後に音楽に対する方向性の違いから解散しました。この曲の録音のときふたりの間には大きな葛藤がありました。しかし、そのような中だからこそ、理想の友情への憧れが美しく歌われたのだとも言えましょう。人間関係で苦しむとき、自分の理想によって人をさばいてしまうか、それとも、必ず和解できることを信じながら、その関係を保とうとするのか、それが問われています。私は、「Love is not our duty, but our destiny(愛は義務ではなく目的地である)」ということばが大好きです。私たちは愛の交わりを完成に導いてくださる神を信じるのです。そのとき、理想とはほど遠いながらも、ここに交わりがあるということ自体を喜ぶことができます。エーリッヒ・フロムは、「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのである」と語っています。神と人とを愛し続けることは非常に困難なことです。しかし、それができなければ、私たちは獣と同じになります。なぜなら、神のかたちとは、愛する生き方だからです。

1.人はその働きの中で喜ぶ以上に善いことがない。それこそ人の受ける分だから

「さらに私は日の下で見た。さばきの場、そこに悪があり、正義の場、そこに悪があるのを」(3:16)とは、この世の不正を正すべき裁判制度や、神への礼拝を導く指導者たちの中に「悪がある」という不条理です。これでは社会が堕落して行くばかりです。そのような中で、著者は自分の心に、「正しい者も悪人も、神がさばかれる。すべての営みとすべてのみわざには時があるからだ」と語りかけます(3:17)。これは、先に、「天の下のすべての営みには時がある・・・人は、神のなさるみわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」3:1,11)と言っていたことを思い起こさせる表現です。目に見える世界の不条理を、神が治める「天の下」という視点から見るとき、すべての「時」が神のご支配のもとにあり、神が「正しい者」には豊かな報酬を、この世で横暴に振舞っている「悪人」には厳しいさばきが下されるということがわかります。それでこそ、私たちは自分の「心」を慰めることができます。

そればかりか、著者は、「私はこの心に語りかけた」と言いながら、「人の子らについては、神は彼らを試練に会わせ、自分たちが獣に過ぎないことを見るようにされた。人の子に起こる出来事と獣に起こる出来事、その出来事はひとつ。これも死ねば、あれも死ぬ。すべてのものの霊()はひとつ。人は獣にまさりはしない。すべては空しい。すべてはひとつの場所に行く。すべてはちりから成った。すべてはちりに帰る。人の子らの霊、それが上に上り、獣の霊、それが地の下に降りてゆくなどと、誰が分かろうか」(3:18-21)と記します。これは人間の尊厳をあまりに軽く見るような表現とさえ思えます。ここで、神は人の子らを試練に合わせ、自分が獣と変わりはしないということを思い知らせるとありますが、人はしばしば、飢えの中では、食べることしか考えられなくなると言われます。また、生死の境目では、ただ生き延びることしか考えられなくなるでしょう。それは動物的な本能のようなものです。たとえば、極度の飢えの中で、母親が自分の子供を食べてしまったという記事は、世界中にあります。それは敵に包囲された神の都エルサレムの中でも起こったということが何度も記されています(哀歌2:20,4:10)

私たちは、「人は神のかたちに創造された」という意味を、拡大解釈して、人と獣がまったく異なった存在であるかのように理解することがありますが、詩篇104:29,30は、この地のすべての生き物に対する神のみわざに関して、「あなたが・・彼らの息()を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。あなたが御霊(あなたの霊)を送られると、彼らは造られます」と記します。旧約聖書では、「霊」「息」も同じことばが使われていますから、人も獣も、「神の霊」によって生かされているという点では何の区別もありません。しかも、その素材は、「ちり」とありますが、これは風で吹き飛ぶような土地の表面の粒子を指します。素材に関する限り、人は無生物とも同じなのです。この宇宙は、「ビックバン」というひとつの瞬間から始まったという見方が宇宙物理学では一般的になりつつありますが、コリンズ氏は「人間の体内の原子のほとんどは、古代の超新星の核融合炉の中で作られたもので、あなたは文字通り星のくずからできているのだ」と記しています(フランシス・コリンズ「ゲノムと聖書」中村昇、佐知訳NTT出版2008P68)。創世記2章7節では、「神である主(ヤハウェ)は土地からちりの人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(2:7私訳)と記されますが、この「生きもの」ということばは、すべての生物を指す言葉と同じです(1:2021,24)。つまり、「ちり」「神の息」という構成要素からすると獣と人間は何の区別もありません。ですから、この著者の問いかけ、人の子らの霊と獣の霊の行き先の違いは誰も説明できないということです。詩篇49篇では、「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい」(20)と言われます。

最近、人体の膨大な遺伝子情報が解明されました。それによって改めて発見されたことは、ヒトとねずみは、たんぱく質に関する指示が含まれている遺伝子配列の99%が同じで、チンパンジーとは100%同じだというのです。これがあるからこそ、人体の医学に関する実験をマウスで行うことができるのでしょう。また人体には23組の染色体がるのに対して、チンパンジーには24組の染色体がありますが、その違いは、人の二番染色体がチンパンジーでは二組に分かれているだけで、他の22組の染色体はまったく同じだというのです(フランシス・コリンズ「ゲノムと聖書」PP120-132)。つまり、生物学的に見ると、人も猿もねずみも大差はないということが明らかになっているのです。そして何よりの共通性とは、すべての生物は「死」に向かっているということです。そこから「人の子に起こる出来事と獣に起こる出来事、その出来事はひとつ」という、すべての生物に見られる共通性と、無生物との決定的な差が見えてきます。機械なら故障したとき、しばらく放置しても、部品を入れ替えるなら元と同じように動き出します。しかし、生命はひととひとつがユニークで、逆戻りできない取り替えようのない微妙なバランスを保ちながら常に変化し動いているのです。福岡伸一氏は「生物と無生物のあいだ」という著書の中で、「機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことができない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことができない時間というものがない。生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに従って折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある」と記しています(講談社現代新書2007P271)

そのような中で、著者は、「そして、私は見た。人はその働きの中で喜ぶ以上に善いことがない。それこそ人の受ける分だから。その後に何があるかを、誰が見られるようにできるというのか」(3:22)と結論付けます。316節で、「私は見た」と日の下の不条理が描かれ、317,18節で二度に渡って、「私はこの心に語りかけた」ということばで神からの視点が記されます。神が時間を支配しておられる、神は人に「自分たちが獣にすぎないことを見るようにされ」ました。人のすばらしさは、この世の不条理に心を痛めることができるということと、自分のいのちのはかなさを認識できるという点にあるのです。そのような中で著者は、「そして、私は見た」ということばで始めながら、今、生きて働くことができているということ自体が神の恵みであると理解できたのです。

私たちは誰も、明日のことは分かりません。生きていることは当たり前ではないのです。ビクトール・フランクルは、ナチスドイツの強制収容所の中でのことを、「当時、私たちは、食べるとか腹をすかすとか、凍えるとか眠るとか、ミツバチのように働くとか、殴られるといった、人間にふさわしくない問題ではなく、ほんとうに人間らしい苦悩、ほんとうに人間らしい問題、ほんとうに人間らしい葛藤にどれほど恋い焦がれたことでしょう」と記しています(「それでも人生にイエスと言う」山田邦男訳、春秋社1993p71)と記しています。人生に悩みながらも、家族や友人とともに、そのことを分かち合いながら、今、ここで食事をしているということ自体が神の恵みです。それが決して当然のことではなく、人の未来には、「死ぬ」こと以外に確実なことなどないということを知っていることの中に恵みがあります。中世の修道院では、memento mori (死を思い起こしなさい、keep death in your thoughts)と挨拶しあっていたと言われますが、それは、暗くなることではなく、今、ここでの生活を楽しみ喜ぶことにつながることではないでしょうか。

2.「ふたりはひとりよりも善い」

著者はこの世の不条理に再び目を向けながら、「そして改めて、私は、日の下で行われているすべての虐げを見た。虐げられている者の涙を見よ。彼らには慰める者がいない。力は虐げる者の側にある。しかし、彼らには慰める者がいない」(4:1)と、「救い」が見えない現実を前に、「私は、まだいのちのある生きている人よりは、既に死んだ死人を称賛しよう。この両者よりさらに善いのは、まだ存在しなかった者だ。日の下でなされる悪い働きを見ないでいられるのだから」(4:2)という皮肉を述べます。生きることはときに耐え難いほどの苦痛となるからです。

そればかりか、「また私はすべての労苦を見て、すべての働きの才能には隣人へのねたみがあることを見た。それもまた空しく、風を追うようなものだ」(4:4)と述べます。私たちはある人の能力を常に別の人との比較で測ります。そこに、「ねたみ」があるというのです。なお、ヘブル語で「ねたみ」と「熱心」は同じ語源のことばです。私たちの努力の動機は、少しでも人の先を行きたいという熱い動機から生まれます。それは「空しい」ことだと分かっているのですが、世界中がインターネットでつながっているような社会では、誰も傍観者になることはできません。競争に負けた者は居場所を失ってしまいます。それは昔からの変わらない現実でもあります。それがここで、「愚か者は手をこまねいて、自分の身を食い尽くす」と言われます。傍観者は自滅せざるを得ないのです。ただ、すべての事柄に関して、人より先を走ることばかりを考えていては、身が持たなくなります。そのことが、「片手に憩いを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うよりも善い」と描かれます。「両手に労苦を満たす」とは、張り詰めた状態を保ち続けることですが、この世の競争には際限がありませんから、それは「風を追う」ように空しいことです。ですから、「片手に憩いを満たす」とあるように、半分、力を抜いて、今を喜ぶことが大切だというのです。

「そして改めて、私は日の下の空しさを見た」(4:7)という、この世の空しさに目が向けられます。それは「孤独」という問題です。そして、「ひとりの人がいて、相棒もなく、息子も兄弟もいない。そのすべての労苦には終わりがなく、その目は富に満足することがない」(4:8)という状態が描かれます。何かを達成しようと必死に働きながら、ふと何とも言えない寂しさに圧倒されるということが、どの人にもあるのではないでしょうか。

太宰治の「人間失格」を改めて読みながら、人とは何と寂しい生き物なのかと思わされました。太宰は文学者としての成功の影で、恐ろしいほどの孤独感に苛まれていました。野獣と変わりはしない人間の身勝手で凶暴な現実を恐れて生きていました。彼の作品が今も人々から愛読されるのは、彼が人間のたましいの奥底にある不安と孤独を真正面から描いているからでしょう。私たちは、何かを成し遂げることで、心の満足を得られると期待しますが、人の心の渇きは、富によっても成功によっても満たされることはありません

そのような中で、著者は突然、一人称で、「誰のために私は労苦し、たましいの満足をも犠牲にしているのか?」と問いかけます。何かを達成しようとするなら、時間を無駄に使ってはいけないのは当然です。しかし、今ここに与えられている家族や友との交わりや、自分のたましいにとって善いと思えることを犠牲にして、何かを成し遂げたとしても、それが何になるというのでしょう。まさに、「これもまた空しく、つらい労苦だ」と言わざるを得ません。

そのような中で著者は、突然、「ふたりはひとりよりも善い」4:9)という単純な人生の現実を主張します。たとえば、太宰治は、「走れメロス」という短編で、友のために命をかけるという最高の友情の美しさを描きました。私たちはみな、そのような友情に憧れます。しかし、理想が高ければ高いほど、現実の自分にも、友にも、また家族にも失望せざるを得ません。そして、つい口から、「あなたは結局、自分のことしか考えていない!」という非難が出てきます。しかし、私たちはそれでも、常に不満を抱かざるを得ない相手であっても、友を、そして家族を求めるのではないでしょうか。20世紀初頭にドイツで生まれ米国に亡命したユダヤ人の精神分析学者エーリッヒ・フロムは、「人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ」(「愛するということ」鈴木晶訳紀伊国屋書店1991p25と語っていますが、現代の日本社会は、外の世界を消してしまった人の凶暴な犯罪に怯えています。しかも、その恐怖が、より多くの人を、さらなる孤独の牢獄に追いやり、狂気に駆り立てられた事件を生み出すことでしょう。私たちは、どんな友であれ、家族であれ、「ふたりはひとりより善い」というのが人間の現実であることを覚えるべきでしょう。そこから隣人への感謝が生まれてくるのではないでしょうか。

「彼らには労苦において善い報いがあるから」とは、ふたりで何かに取り組むことの最大の報酬です。成し遂げたことを互いに喜び合うことができることにまさるたましいの満足感はないのではないでしょうか。また、「もし彼らは倒れても、ひとりがその仲間を起こす。惨めなのは、倒れても起こしてくれる相棒がいないひとりの人」(4:10)とありますが、私たちは仕事のパートナーと一緒に転ぶようなことがあったとしても、どちらかが先に立ち上がり、手を差し伸べてくれるのではないでしょうか。これは、相手がかなりのエゴイストであったとしても期待できることでしょう。しかし、そのような友がだれもいないことは、人生最大の恐怖になります。それに加えて、「また、もし二人が寝れば暖かいが、ひとりならどうして暖まれよう」と記されていることの基本は、夫婦関係のことではありません。これは夜露に濡れながら野宿をしている羊飼いをイメージさせるようなことばだと思われます。多少、気の合わない相手でも、互いの身体を温め合うことならできます。「しかも、もしひとりの強い人がいても、二人なら立ち向かえる」という現実もあります。互いに考え方の違う人どうしであっても、共通の敵ができたら一致できます。そして、その敵がどれほど強くても、ふたりなら立ち向かうことができます。私たちにはみな、そのような相棒が必要です。

8,10節で「相棒」と訳したことばは、原文では「第二の」という意味の形容詞です(4:15参照)。それは生きて行く中で、自分の隣にいるすべての人に適用し得ることばで、親友から仕事のパートナーまでのすべてを含むことばだと思われます。つまり、どんな相棒であれ、人生には必ずあなたの味方になってくれる人が必要なのです。

そして、それに続いて「さらに三つよりの糸は簡単には切れない」と記されますが、これは基本的には、「ふたりはひとりよりも善い」ことを前提に、「三人いればさらに善い」という単純な事実を述べたものと言えましょう。これは毛利元就が三人の息子たちに、「三本の矢を束ねると容易には折れない。だから三人が力を合わせて生きるように」と諭したことにも似ています。ただ、ここでは、「三つ撚りの糸」となっているように、三本が一本の糸にされている状態を指します。三人の関係は、常に、二対一に分かれる危険をはらんでいます。しかし、イエスを中心の糸としてふたりが結ばれるなら、「三つ撚りの糸」として力を発揮することができることでしょう。

3.「神を恐れよ」

「貧しくても知恵のある若者は、年をとっても教えられることを知らない愚かな王よりは善い」(4:13)とありますが、当時は、豊かであることと年を重ねることは、「知恵」が増し加わることと理解されていました。ですから、ここでは、若者は「貧しい」にも関わらず「知恵のある者」であり、「王」は、「年をとって」いるにも関わらず「教えられることを知らない」という対比が描かれているのです。「王」は、多くの賢い家来を抱えることによって初めて、正しい政治を行うことができるのですから、「教えられることを知らない」というのは王として失格です。ただ、これこそ権力の罠とも言えましょう。人は権力を握れば握るほど、批判的な情報が入らなくなります。ですから、指導的な立場に立つ人は人一倍教えられやすくなるのでなければ、大切な情報が入らなくなるということを肝に命じるべきでしょう。

「確かに、彼(若者)は、王国の中で貧しく生まれながらも、獄屋から出て王となったのだから」とは、彼が「愚かな王」の迫害を受けながら、新しい「王」になったことが描かれます。しかも、彼は王国の中では本来見向きをされないような小さな存在だったというのです。これは、しばしば歴史の中で繰り返されていることではないでしょうか。試練や貧しさは、人を「知恵ある」者へと成長させる契機になります。旧約聖書に登場する最高の王は、ダビデですが、彼は前王サウルからいわれのない迫害を受けることで、かえって人々の心をつかむことができるような王となることができました。その結果、「私は見た。日の下に歩いている生き物のすべてが、王の下に立つこの第二の若者の側につき、彼がその先頭に立つすべての民には終わりがないほどだった」と描かれますが、人々の心が愚かな王を退け、知恵のある若者の王である側につき、彼に従う人々は、数え切れないほどに増えたのです。

しかし、それにも関わらず、「その後に来る人は、彼を喜ばなかった」と描かれます。それは、この賢い王も、権力を握ってしばらくすると、後継者から世代交代を迫られることになるというのです。ダビデも、権力の絶頂期に、とんでもない過ちを犯し、それを契機に、家族関係が壊れ、やがて自分の息子によってエルサレムから追い出されることにまでなってしまいました。まさに「これもまた空しく風を追うようなもの」です。なぜなら、どれほど賢い王であっても、やがて後継者から疎まれるのだとしたら、それまでの苦労は何だったのかと思えるからです。

このような権力者の交代は、猿の社会ではいつも起こっています。私はあるとき動物園のサル山をじっと見ていながら、この世の人間社会と同じではないかと思わされました。ボス猿のまわりに取り巻きがいて、そのすぐ下に、落ち着いた親子猿の社会ができ、それを取り囲む若い猿が歯向かっては抑えられ、そのさらに外側に、群れから排除された満身創痍の何匹かの疲れきった猿がいます。まさに人は何も獣にまさってはいないと思わされました。

「神の家に行くときには、あなたの足に気をつけなさい。聴くために近づくことは、愚か者がいけにえをささげることにまさる。彼らは、自分たちが悪を行っていることを知らない」(5:1)とは、神に向かって自分の敬虔さをアピールすることが、実は神を悲しませる「悪」になっていることを知らない現実を指します。イエスを十字架にかけることで主導権をとったのは、当時の神殿に多くのささげものをしている宗教指導者たちでした。彼らは正しいことをやっているつもりで、神が遣わした救い主を殺してしまったのです。神が求めておられることは何よりも、私たちがへりくだって神のみことばを聴くことです。私たちが「神のかたちに創造された」ことの基本は、私たちは神になってはならないこと、すべての点で神に聴きながら、神に任された働きを神のご意思に従って行うということです。

 「あせって口を開き、心せいて、神の前にことばを出すな。神は天におられ、あなたは地の上にいるのだから、ことばを少なくせよ。仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚か者の声となる」(5:2,3)とは、自分の「夢」に突き動かされるように、そのために神に必死に祈るような姿勢の愚かさです。「神は天におられる」のですから、この地上の私たちの価値観にしたがって神を動かすような発想は危険です。地上にいる自分の「ことば」を少なくして、天の視点からこの世界を見ることができるようにされること、それこそ神との交わりの基本です。この書では、日の下での不条理と、天の下での神のご支配のことが対照的に記されています。日の下の視点からのみこの世界を見るとき、私たちは不条理に圧倒され、生きる気力さえなくなってしまうのではないでしょうか。

「神への誓願を立てるとき、それを果たすのを遅らせてはならない。主は愚か者を喜ばれない。誓ったことは果たしなさい。誓って果たさないよりは、誓わないほうが善い」5:4,5)とは、自分の大切な「夢」を神に訴えながら、その際、神への献身の表現として、自分の大切なものを神に差し出すという祈り方の際の注意です。「誓願を立てる」こと自体は、聖書に記された大切な礼拝方法の一つですが、それが、神との取り引きになる恐れがあります。そうなると、誓願とは神を動かす手段となります。しかし、誓願の真の意味を知るなら、軽々しく、神に誓うなどということはできなくなるはずです。その上で、「あなたの口があなた自身を罪に定めないようにしなさい。使者の前で、『あれは間違いでした』などと言ってはならない。神があなたの声に怒り、あなたの手のわざを滅ぼさないだろうか。夢が多いこと、それは空しい。またことば数が多いことも」(5:6,7)とありますが、これも、人が自分の夢に駆り立てられ、また「ことば数を多く」しながら、自己アピールをすることの危険を指しています。神はこの世界の創造主であり、またすべての善悪の基準であられます。そして、これらの結論として、「それゆえ神を恐れよ」と命じられます。これこそ、私たちが日々心がけるべきことです。太宰治の「人間失格」において、「悪の反対語は善であるが、罪の反対語は何か・・・」という問いかけがありました。それは難問です。いろんな答えが思い浮かぶかもしれませんが、聖書全体のストーリーを見るとき、罪の反対語は「神を恐れること」ではないかと思います。

人は、「神のかたち」に創造されています。それは人間が動物にまさった能力を持っているという意味ではありません。それが能力を意味するなら、サタンこそ最高の「神のかたち」になります。「神のかたち」とは、神と人、人と人、人と世界という関係をあらわす言葉です。そして、「神のかたち」は何よりも、イエスの生涯の中に見られるものです。イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12)と言われました。それにしても、「イエスの愛に自分の意思で習うことができるぐらいなら世話がない、十字架も必要なくなってしまう・・・」というのが現実でしょう。しかし聖書は、私たちの心が、獣と同じような「霊」ではなく、「イエスの御霊」に導かれると教えます。私たちは人の醜さばかりか、自分の醜さに唖然とすることがあり、そのような嫌悪感から自由になることもできません。しかし、そんな私たちを罪の支配から解放するためにイエスは十字架にかかり、罪と死の力に勝利を収め、ご自身の霊を授けてくださいました。私たちは生物学的には猿とほとんど変りません。しかし、神の御子ご自身が私たちと同じ肉体をとってくださったのです。それは私たちが人生で味わうすべての苦しみをご自身で体験し、その上ですべての罪を負って十字架にかかり、三日目に死人の中からよみがえって私たちにご自身の霊を授けてくださるためでした。そこに「希望」があります。しかも、イエスの御霊は天地万物の創造主である三位一体の神の第三位格の聖霊なる神です。創造主なる神が私たちのうちに宿ってくださるのですから、不可能はありません。私たちのうちに完全な愛への憧れを与えた方は、同時に、ご自身の創造の御力によって、愛が完成する世界を再創造してくださいます。それがあなたにすでに始まっているのです。

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2008年11月23日 (日)

ルカ19章28-48節 「勝利への道」

                                           2008年11月23日

  福音自由の交わりでは政治見解を超えた一致を大切にしますから、これは政治の話ではありませんが、黒人を自称するオバマ氏がアメリカの大統領に選ばれたということは、マルティン・ルーサー・キング牧師が1963828日のワシントン市のリンカーン記念堂において、「I have a dream」という有名な演説を行った、その「夢」の実現として見ることができるのではないでしょうか。そのとき彼は、「狼は子羊とともに宿り」というイザヤ11章のレトリックを用いて、「いつの日か、・・かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルに着く・・・いつの日か、私の幼い四人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになる。私には夢がある。それは悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か、幼い黒人の男の子と女の子が、白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになる」という人種間の和解の夢を語りました。その際のワシントン大行進では、白人と黒人が手を携え、We shall overcome(私たちは必ず打ち勝つ)と歌っていました。キングは、何よりも「黒人が団結して白人に打ち勝つ」という方向に向かわないように注意を傾け、人々の目を、(ウェ)の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る(イザヤ40:5)というみことばに象徴される全能の主のみわざに向けました。そして、「これが私の希望なのである・・・こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることができる」と語っています。彼は、主によって、人種差別や憎しみの連鎖という悪に打ち勝つことを訴えたのです。パウロは「悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい(Do not be overcome by evil, but overcome evil with good(ローマ12:21)と訴えました。

1.イエスのエルサレム入城 「祝福あれ。主の御名によって来られる王に」という賛美

「これらのことを話して後」(28節)とは、イエスが、エリコのザアカイの家で、神の国は人々の期待するようには実現はしないという趣旨の話を語った後を指します。その後、「イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれ」ました。そして、「オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき」とありますが、オリーブ山はエルサレムのすぐ東にある標高817mの山で、このふたつの村はその南から東麓にあった村です。ここからエルサレムは目と鼻の先で、イエスはご自分のエルサレム入城を、預言の成就として、劇的に演出されました。ゼカリヤ9章では、「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(9節)と記されています。軍馬ではなく、戦いを止めさせることの象徴として、ろばの子に乗って、人々の歓呼の中を入城するというのです。

それでイエスはふたりの弟子に、「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい」(30節)と命じられました。まるでイエスには透視能力があるかのようです。そればかりか、「もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです』」(31節)と、そこでの会話まで予知しておられます。そして、「ふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった」(32節)というのです。これは、イエスの神としての超能力という以前に、彼が預言者のことばを心から深く味わい、それを実現することにご自分の使命を確信し、それに従って父なる神に祈られ、その答えをいただくことができたことの結果と言えましょう。ここに、父なる神と御子イエスとの共同演出の成果が見られます。

  そして、実際、「彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、『なぜ、このろばの子をほどくのか』と彼らに言った。弟子たちは、『主がお入用なのです』と言った」(33、34節)という展開が見られます。村人たちもイエスのことを既に知っており、その権威に服すというのです。この描写は驚くほど簡潔ですが、それによって、イエスの「王としての権威」が強調されます。イスラエルの栄光の王ダビデが自分の部下を用いてこれを行ったとしたら、誰も驚きはしません。「ダビデ王がお入用なのです」と言われて断ることができる国民などはいないからです。今、イエスは、待ちに待ったダビデの子としてエレサレムに入城するのです。これぐらいのことが起こるのは当然のことと言えましょう。

そして、続けて、「そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた」(35,36)と描かれますが、これはまさに、人々がイエスを待望の王「ダビデの子」として認めたというしるしです。Ⅱ列王記9章13節では、アハブの家を滅ぼすために神がエフーを王として立てたということを認めた者たちは、「大急ぎで、みな自分の上着を脱ぎ、入り口の階段の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、『エフーは王である』と言った」と記されています。新しい王を迎えるとき、家来たちは我先にと自分の上着を敷物として差し出して臣従を誓うのが慣わしでした。

そればかりか、「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。『祝福あれ。主の御名によって来られる王に天には平和。栄光は、いと高き所に』」(37,38節)と描かれます。これは、イエスの御降誕のときの御使いの軍勢の賛美を思い起こさせます。そのときは、「栄光はいと高き所の神に、地には平和が」という賛美でした。それは神の平和が地に降りてくるという意味でしたが、ここでは、預言が今、成就するということを強調するために、「天には平和」と言われているのだと思われます。そして、事実、彼らは、詩篇118篇26節の、「主(ヤハウェ)の御名によって来る人に祝福があるように」というみことばを用いていました。それは、イエスを期待された救い主として認めたという意味です。

 しかも、「するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、『先生。お弟子たちをしかってください』」(39節)と言ったというのですが、パリサイ人たちから見たら、人々は神の代わりに人間をあがめていると思われたからであり、それを注意するのは当然でした。世の人々は、イエスを最高の道徳教師であるかのように見ていますが、もしそれが事実なら、パリサイ人の言うとおり、イエスはこのような賛美を止めさせるべきでした。ところがイエスはここで、「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(40節)と答えました。イエスはご自分こそが、「主の御名によって来られる王」であると主張されたのです。イエスは、決して、謙遜な道徳教師の枠に納まる方ではありません。イエスはここで、ご自身の身をもって、聖書の預言を成就しようとされたのです。

  預言書を概観するなら、これがどれだけ画期的な意味を持つかが分かります。かつてソロモンが建てたエルサレム神殿は神の栄光に包まれていました。その神殿がバビロン軍によって廃墟とされたのは、神の栄光がそこを去ってしまったからでした。イエスの時代の神殿は、外形は驚くほど見事でしたが、その中には神の臨在のしるしの契約の箱もなく、神の栄光は一度も見られませんでした。今、イエスがエルサレムに預言された王として入城するとは、この「神の栄光」がエルサレムに戻ってくることを意味しました。これこそ旧約の預言者たちが待ち焦がれていた喜びの時でした。今もこの意味の重大性を理解できない学者が多くいますが、これこそ新しい時代の幕開けだったのです。

2.「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いた」

ところが、「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣かれ」(41節)ました。それは、救い主を拒むエルサレムが自滅に突き進むことを知っておられたからです。その際、「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている」(42節)と言われました。人々は、ダビデの子が導くローマ帝国からの独立戦争の後に平和が実現すると期待していました。しかし、イエスは自分の身を犠牲にして、ローマ帝国による支配の原理、剣という暴力支配を覆そうとしていたのです。主の十字架には、「その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放(ヘブル2:14,15)するという死の力からの奴隷解放の意味がありました。これを信じる者は、死の脅しに屈することなく、また暴力革命によって敵を打ち倒すのでもなく、愛によって支配する神の国を目指すことができました。

たとえば、マルティン・ルーサー・キングは、暴力は暴力しかもたらさないと主張し、非暴力によって黒人の権利を勝ち取って行くように人々を励ましました。今から40年前、彼は暗殺される前日の1968年4月3日に、「私は山の上にいた」という演説で、自分の死を予感しながら、三千数百年前にモーセがネボ山の頂上(標高802m)に導かれて、そこから海抜マイナス400mの深いヨルダン渓谷の向こうに広がる約束の地を見渡すことが許されたことを思い起こしながら、「過去何年もの間、人々は戦争と平和について語ってきた。だがもはや、ただそれを語っているだけでは済まされない。それはもはや、この世での暴力か、非暴力かの選択の問題ではなく、非暴力か、非存在かの問題なのである・・・早急に手を打たなければ世界は破滅する・・・この挑戦の時代に、アメリカを本来あるべき国にするために前進しようではないか・・・私だって、ほかの人と同じように長生きはしたいと思う。長寿もそれなりの意味があるから。しかし、神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地を見た。私はみなさんと一緒にその地に到達することができないかもしれない。しかし、今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちはひとつの民として、その約束の地に至ることができるということを・・・。だから、私は今夜、幸せだ。もう不安なことはない。私はだれをも恐れていない。この目で、主が来られる栄光を見たのだから」という希望を語りました。

そのとき誰が40年後のアメリカに黒人の大統領が誕生すると予期したことでしょう。私は、オバマ氏の大統領としての資質や人格に関してはほとんど何も知りません。ただ、キング牧師が約束の地を征服overcome)するビジョンを見たことが、実際に、人々の心を動かし続けたということ自体に感動を覚えます。おひとりおひとりの目の前に様々な問題があることでしょう。しかし、私たちはキリストにあって、それらの問題を必ず乗り越える(we shall overcome)のです。

イエスの時代の人々の目からは、「平和(シャローム)のことが隠されていました。しかし、私たちはキリストにあって、今、神の平和の実現が保障され、新しいエルサレム、新しい天と新しい地として目の前にあることを知っています。

ところで、イエスは続けて、ご自身がエルサレムのために泣く理由を、やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」(42-44節)と言われました。これはイエスの十字架と復活から40年後に起こる悲劇の予告でした。当時の人々は、イエスのエルサレム入城を、「神の訪れのとき」と見ることはできませんでした。それどころか、当時のユダヤ人たちは、武力闘争によるローマ帝国からの独立運動を激化させ、武力が武力を招き、ついに、ローマ皇帝自身による攻撃を招いてしまい、エルサレムは廃墟とされたのです。つまり、イエスは、このときイエスを預言された救い主として認めない人々が、武力闘争によって自滅することを見通されたからこそ、「涙を流された」のです。

 当時のエルサレム神殿は、外側は黄金の輝きに満ちていましたが、神殿の中に神はおられませんでした。神殿はイエスを迎え入れることによって初めて、真の意味での神の神殿になるはずでした。しかし、当時のエルサレムは神の平和ではなく、富と力を誇る場となっていました。同じように私たちも自分たちの肩書きや経歴、能力を誇って、イエスの救いを退けるなら、自滅せざるを得ません。すべての人の前に滅びか救いかの選択があります。イエスは今も、ご自身の招きを拒絶する者の将来的な滅びを見ながら、涙を流しておられます。しかし一方で、キング牧師のように、主の栄光の現われを霊の目で見ながら、「自分たちは無力でも、キリストによって勝利することができる」と確信する者に、最終的な勝利を約束しておられます。イエスは弟子たちに、「あなたがたは世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのですI have overcome the world)」と言われました(ヨハネ16:33)。キリストにある平和のビジョンを掲げる者は、キリストとともにこの世の困難を乗り越える(overcome)ことができるのです。

3.『わたしの家は、祈りの家でなければならない』

ところでイエスは、エルサレム神殿に入られたとき、「商売人たちを追い出し始め」(45節)という実力行使に出られ、「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした」と宗教指導者を非難しました。これは、神の家の中における経済活動を全面禁止したというよりは、イザヤ56章の預言の成就でした。そこでは、外国人と並んで男性機能を失った宦官に対してまでも、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(9節)と預言されていました。しかし、当時のエルサレム神殿は、外国人に対しては極めて冷酷で、彼らは、たとえイスラエルの神を慕うようになって遠方から旅をしてきても、神殿の外庭にしか入れてもらうことができませんでしたが、そこでは両替人やいけにえを売る商売人の声の喧騒に満ちており、静まることなどできませんでした。使徒の働きに8章に登場するエチオピアの女王に仕える高官の宦官も、せっかく礼拝に行っても満たされない思いのまま国に帰ったことでしょう。そこに主の使いによってピリポが遣わされ、彼はイエスを救い主と信じることができました。

つまり、イエスの「宮きよめ」の目的は、社会的弱者や差別されている人々を、神の民として受け入れる第一歩だったのです。その後、「イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである」(47,48節)と描かれていますが、イエスのこのような一連の行為は、当時の宗教指導者の猛烈な反感を招きました。しかし、イエスはそのとき、イザヤ書56章のみことばを成就するためにご自身の身をささげておられたのです。

  「宮きよめ」は私たちの身体に求められていることでもあります。パウロは自分の身体をきよく保つことに苦労しているふしだらなコリント教会の人々に向かって、あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分のものではないことを知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6:19、20)と励ましました。

パウロは、敬虔な人に向かって、「あなたのからだは聖霊の宮である」と言ったのではありません。私たちはみな、イエスを主と告白した時点で、昔の罪の性質をひきずったまま、そのからだが「聖霊の宮」と呼ばれるのです。私たちの内側にはすでに「キリストの心」(Ⅰコリント2:16)と呼ばれる聖霊が宿っておられます。ですから、私たちに求められるのは、自分の心の中にある肉の性質、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」(ガラテヤ5:20,21)などの心があるのをすなおに認め、それをイエスに差し出すことです。私たちの「内なる宮」をきよめる主導権はイエスご自身にあります。イエスが神殿の中から「商売人たちを追い出した」ことによってはじめて「民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾ける」ことができるようになりました。自分を強がったり、美しく見せて神と取引するような「商売人」の心を「キリストとともに十字架につける」(ローマ6:6)とき、あなたの弱い部分がイエスのことばによって癒されるのです。

しかも、「罪はあなたがたを支配することがない・・・律法の下にはなく、恵みの下にあるから」(ローマ6:14)とあるように、キリストにつながっている者には、もはや「罪の奴隷」ではありません(同6:6)。ところがあなたは昔の習慣を引きずり、「私は何度決意しても同じ過ちを繰り返すばかりで、変わりようがない・・・」などと奴隷根性に縛られているかもしれません。キング牧師の働きは、何よりも、黒人たちを奴隷根性から解放し、自分たちの状況を改善するために立ち上がることを励ますことから始まりました。私たちのうちには既に、創造主であり神である聖霊ご自身が住んでおられます。あなたは自分で自分を変えられなくても、神はあなたを変えることができます。自己嫌悪に陥りがちの人は、私たちは既に神に目を留められており、キリストに似た者に変えられる途上にあるということをいつも覚えるべきでしょう。

  イエスのエルサレム入城は、主が人々の気まぐれに振り回されている悲劇を描いたものではありません。それはゼカリヤ9章に基づく主ご自身の演出です。「宮きよめ」もイザヤ56章の預言の成就です。イエスの十字架への歩みは、悲劇ではなく、預言をひとつひとつ成就するという積極的な生き方でした。多くの人が誤解したように、イエスの教えは、「この世で不当な苦しみにあっても、天国では幸せになれる。だからひたすら耐えなさい」という奴隷制を固定化するものではありません。イエスは、人々が武力革命を叫んでいるときに、「右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着をもやりなさい。あなたに一ミリオン(1.5km)行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」(マタイ5:39-41)と言われました。これは権力者に踏みつけられるままになる(ドアマットになる)ことの勧めではありません。これは悪の力に対する勝利の方法なのです。

イエスは、要求に屈することではなく、それ以上のことを積極的に行うことによって、敵を味方に変えることを教えられたのです。私たちがそのように動くとき、神ご自身が、私たちに敵対する者の心を変えてくださるのです。私たちは、「善をもって悪に打ち勝つ」のです。それは40年後のことかもしれません。しかし、キング牧師が主の栄光の現われを霊の目で見ながら、その実現を確信して平安を味わうことができたように、私たちも最終的な勝利を確信して、今ここで平安を味わいながら、確信を持って、神の平和(シャローム)は必ず実現すると歌うことができます。しかも、その平和は、まず私たちの内側から始まります。自分で自分を叱咤激励したり非難する必要はありません。私たちはすべて、神の御前で、「あなたの罪は赦された。大丈夫だよ。You are all right!」と言われるのですから。「We shall overcome」 は本来、何かに抗議するための歌として生まれたのではなく、私たちの揺ぎない希望の告白の賛美なのです。

We shall overcomeOh,Lord!, We shall overcome , (Oh,Lord! We shall overcome some day(いつの日か、私たちは勝利する),Oh deep in my heart(I know that) I do believe(心の底から私は信じる), we shall overcome someday.

We shall live in peace (Oh,Lord!, We shall live in peace(Oh,Lord!, We shall live in peace some day(私たちはいつの日か平和に暮らすことになる), Oh deep in my heart(I know that) I do believe, We shall overcome some day

  We shall be all right (Oh,Lord!, We shall be all right (Oh,Lord!, We shall be all right some day(私たちはいつの日か大丈夫になる), Oh deep in my heart(I know that) I do believe, We shall overcome some day

  We are not afraid, (Oh,Lord!We are not afraid, (Oh,Lord!We are not afraid today(私たちは今日、もう恐れてはいない) Oh deep in my heart(I know that) I do believe, We shall overcome some day

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2008年11月16日 (日)

伝道者の書2章12節~3章15節 「神の御手の中で」 

伝道者の書212節~315節 「神の御手の中で」 

                                              20081116

1968年に一年間という期間限定つきでプロ活動したフォーク・クルセダーズの名曲「何のために」がこの箇所を読みながら思い浮かびました。その歌詞は、「風にふるえる オリーブの花 白い壁の教会で ゆれてかたむく十字架のもと ひとりの男がたおれてた 何のために 何を夢見て 歯を食いしばり 働いて死ぬのか ・・・何のために 何を信じて・・・何のために 何を求めて 傷つき疲れ 年老いて死ぬのか・・」というものでした。当時15歳だった私の心の底に、「何のために・・・」という問いかけが残っていました。それは私が22歳でイエスを主と告白する備えになったのかとさえ思います。これを作詞した北山修は精神科医となり、現在は九州大学教授、日本精神分析学会会長にまでなっていますが、数々のヒット曲の歌詞を作りながら、この問いを仕事として選んだのかとさえ思わされます。私たちは、この社会で、「歯を食いしばり、傷つき疲れ」ながら、そこに何を残すのでしょうか。

1.「私は生きていることを憎んだ・・・そのすべての労苦を憎んだ」

 ソロモンは1章の始まりと211節で、「日の下で、どんなに労苦しても・・・すべてはむなしい・・・益になることは何もなかった」と繰り返しています。そして、彼はつぎに何と、何よりも大切な「知恵」を、「狂気と愚かさ」と同列に扱って、その意味を問います(2:12)。ただ、その後、「王の後を継ぐ者」も、「同じことを繰り返す」と言いながらも、「知恵ある者はその目が頭にあるが、愚か者は闇の中を歩くのを見ていた」(2:14)と、知恵を持つ者が自分の人生の見通しをつけることができるという点において、「知恵が愚かさにまさる」という事実もまず認めます。ところが、そこで、「同じ出来事がすべての人に起こることが分かった」と、知恵によって解決できない問題に目が向かったのです。そして、自分の心に、「愚か者に起こる出来事が、私にも起こる。それなら、私が知恵あることにどんな益があるのか?」(2:15)と問いかけます。それは、「知恵ある者も愚か者と同じで・・ときが経つとすべてが忘れ去られてしまう。実に、知恵ある者も、愚か者と同じように死んでゆく」(2:16)という「忘却」「死」の現実です。このことのゆえに、人間は「時」とともに成長するのではなく、愚かな過ちを何度も繰り返してしまいます

そしてこのような現実を前にして、著者は、「私は生きていることを憎んだ(2:17)という恐ろしい表現を用います。それは、「日の下でなされる働きは私にはわざわいにしかならない」と、「働き」が無駄になるばかりか、「わざわい」になることを述べています。そして次に、「私は、日の下で私が労した、そのすべての労苦を憎んだ(2:18)と、再び、「労苦」「憎む」という激しい表現を用います。それは、「後継者」のことに思いを向けた結果の故です。人間の歴史は、しばしば偉大な親の子供が、親が苦労して築き上げたものをすぐに壊してしまうということの繰り返しです。たとえば、聖書で有名な偉人のギデオンも、サムエルも、ヒゼキヤも、そして、ダビデ、ソロモンも、その子供は親の努力を無にしてしまっています。残念ながら、親が偉大であればあるほど、子供が堕落しているという現実が見ると、「労苦」を「憎む」ということばの意味もわかります。後継者が、「知恵ある者か愚か者かを」、誰も知らないまま、親が、「日の下で苦労と知恵を傾けたすべての労苦」を受け継ぎ、「支配する」ことになるからです(2:19)

そして、著者は、「私は、日の下で労したすべての労苦を、心で絶望するようになった」(2:20)とさえ述べます。それは、「知恵と知識と才能を尽くして労した人」は、その結果の莫大な遺産を、何の「苦労しなかった者の受ける分」として「残さなければならない」からですが、それこそ「空しく、大きなわざわい」です(2:21)。私たちは、ふと、「親から多額の遺産を受け継いだ人は、気楽に暮らせて、幸せだろうな・・・」などと思いがちですが、ほんとうにそうでしょうか。残念ながら、親から受け継いだ遺産が多ければ多いほど、その子供が堕落する可能性は高くなるというのが現実ではないでしょうか。苦労をせずに莫大な富を手にする人は、苦しみ方、また転んだときの起き上がり方を知りません。そればかりか、そのような人は、苦労を知らないため、他の人を導くことができません。日本では、政治家の二世、三世が権力を握っていますが、これは国家として極めて危険なことかもしれません。

しかも、日本の現実を見るときに、親の世代が、「歯を食いしばり、傷つき疲れ」ながら築き上げた豊かさが、子供たちの世代を幸せにはしていないということを見ることができます。実際、心の病は、豊かさに比例して増えています。スコット・ペックは、「問題と、そこから来る苦しみを回避する傾向こそ、あらゆる精神疾患の一時的な基盤である。われわれの多くは、程度の差こそあれ、このような傾向を持つ。したがって多少なりとも精神的に病んでおり、全く健康というわけではない」と記しています(「愛と心理療法」p9)。かなり乱暴に言うなら、必要なものが楽に手に入ることを体験してきた者は、問題に立ち向かい苦しみ続けるという機会を持つことができておらず、その結果、「問題とそれに伴う苦しみを避けて安易な道を見つけようと」して、空周りを起こし、精神的な病になる可能性が高くなるというのです。実際、「人生は楽に生きられるはず・・・」という幻想は、人を必ず不幸にします

ですから仏教の悟りは、人生の「四苦八苦」を受け止めることから始まります。それは、「生きること」「老いること」、「病むこと」「死ぬこと」の四つの苦しみと、それに加え、「愛する人と別れなければならない定め」「憎い人と出会わなければならない定め」「求めても得られない定め」「心身の活動が盛んになることによって苦しみが増すという定め」です。この苦しみから逃げ出そうとすると、かえって苦しみに追いかけられます。仏教は、生に対する執着、つまり、煩悩を絶つ方向へと導きますが、聖書はその思いを創造主である神の御前に祈るようにと導きます。

それにしても、この著者は、神への祈りを語る前に、再び、「実に、日の下で労したすべての労苦と心の葛藤は、何になろう」(2:22)と語ります。つまり、苦しみは避けられないばかりか、苦しみことや心の葛藤を抱くこと自体にも、意味はないというのです。人は、苦しみに意味があると思うことで、苦しみに耐える力がわきます。しかし、労苦自体が無意味であるというのです。これでは、「私は生きていることを憎んだ・・・そのすべての労苦を憎んだ」という気持ちになるのも分かります。そして続けて、私たちの人生が、「そのすべての日々は悲しみ、その仕事も苛立つことばかりで、夜でさえ心は休まらない。これもまた、空しい」(2:23)と描かれます。仕事の悩みで、夜も心が休まらないという人もいるかと思いますが、残念ながら、それも人生の一部なのです。しかも、その苦しみも無意味だというのでは、まさに生きる夢も希望も捨てざるを得ませんが、私たちはその現実から逃げることはできないのです。

2.「神から離れて、誰が食べ、また誰が楽しむことができようか」

そのような中で著者は突然、「神の御手」ということばを用いながら、「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦の中にたましいの満足を見るより他に善いものはない。私は、これもまた、神の御手によるものであるということが見えた」(2:24)と記します。それは、労苦から生まれる結果に期待するのではなく、労苦のただ中に喜びを見出すことです。たとえば、受験勉強をするのは試験に合格するためであり、結果が見えないということは確かに苦しみでしかないのですが、そのような中で、「食べたり、飲んだり」できることを喜び、また、何かに向かって心を燃やしていること自体に「たましいの満足」があるというのです。実際、試験に合格したとたん精神のバランスを崩す人だっているのですから、いまこのときに「たましいの満足」という充実感を味わうことが大切といえましょう。これはまた、取れるか取れないか契約を求めて悪戦苦闘するビジネスマンにも適用できる教えです。

そして、「実に、神から離れて、誰が食べ、また誰が楽しむことができようか」(2:25)と続きます。明日のことは誰も分かりません。神がいのちを守ってくださるのでなければ、誰も「食べたり」、「楽しんだり」はできないのです。イエスは「愚かな金持ち」のたとえでそれを解説します(ルカ12:15-21)。ある金持ちが、畑が大豊作だった後、大きな倉を建て、自分のたましいに向かって、「たましいよ。これから先何年分もいっぱいものがためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言います。しかし、そのとき神は彼に、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われました。イエスはこの結論として、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」と言われました。

ソロモンはそのようなことを予め示されながら、「神は、善人と認めた人に知恵と知識と喜びとを与え、罪人には、ひたすら集め貯えるという仕事を与え、善人と認めた人に渡される」(2:26)と言います。これは、神の御前での罪人は、あくせく働き財産を蓄えても、それを自分で楽しむことができず、それが神が善人と認めた人の手に渡されるということです。労苦した人の立場からしたら、「これもまた、空しく、風を追うようなものだ」といわざるを得ません。つまり、神は、ご自分にとって「善人」と思われる人に、労苦しなかった富さえ与えることがあるというのです。それは、善人が、そこで神を喜ぶことが分かっているからです。なお、キリストにとながっている者は、「神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:17)とあるように、「神が善人と認めた」人です。パウロは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」(ローマ11:36)と言いましたが、この世界が神の栄光のために存在しているのであれば、神は、最終的に、神を賛美することを知っている善人にこそ、この世界の富を任せてくださるのです。それがキリスト者に実現します。

ただしそれは、「日の下」という、この目に見える世界で完結することではありません。それで3章からは、著者の目が、「天の下」という目に見えない神のご支配という現実に向けられ、「すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある」(3:1)と言われます。「天」の視点からは、神がこの世界の時間を支配していることが分かります。2-7節には七つの大枠によって人生全体を包括する神の時が描かれ、それぞれに二対の対比が描かれます。これを見ると、私たちは「都合のよい時」ばかりを選ぶということができないとわかります。光が照ると影ができるように、人生には好ましい時と忌まわしい時とが、創造主からセットで与えられているのです。神道的な神観では、災いをもたらす神々と、幸いをもたらす神々の区別がありますが、聖書の神は、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:39)と宣言しておられます。しかも、人の目に災いと見えることも、神からの罰というより祝福の契機とされます

第一の対比は、「生まれる時と死ぬ時」「植える時と抜く時」とあるように、「始まりと終わり」の対比が描かれます(3:2)。残念ながらこの世界では誕生ばかりでは人が多くなりすぎますから、同じ程度に死ぬ人が必要なのです。

第二は、「殺す時と癒す時、崩す時と建てる時」という「破壊と建設の対比」です(3:3)。たとえば、病原菌は殺さなければ癒されません。建物はまず崩さなければ、新しく建てられません。

第三は、「泣く時と笑う時」「嘆く時と踊る時」という「悲しみと喜びの対比」です(8:4)。悲しみを抑えていると喜びまで抑えられます。感情を自分で操作しようとすることは危険です。

第四の「石を放つ」とはミサイルを飛ばすことと同じで「石を集める」とはその準備段階、「抱擁する」とは同盟を結んだり平和協定を結ぶことで、「抱擁をやめる」とは軍事作戦に移ることです(3:5)人類の歴史は残念ながら戦争の歴史です。かつての日本のように、「ここまできたら止める」というシナリオのない戦いは悲惨の極みです。

第五は、「求める時と失う時」「保つ時と放つ時」という財産の所有に関することです(3:6)。この世の経済では、誰かが得をする影で、誰かが損をしています。富を求め保つことばかりを目指しては社会が成り立ちません。高額所得者が寄付をすることや、他の人に働きの場を開くのは、社会的義務と言えましょう。

第六の「引き裂く時と縫い合わせる時」は、あきらめるべきときと努力を続けることの対比、「黙ることと話すこと」とは受動と能動の対比と言えましょう(3:7)。仕事も人間関係も、いつも積極的であろうとするのは危険です。

第七は「愛する時と憎む時」「戦う時と平和になる時」(3:8)です。多くの人は「憎むこと」や「戦うこと」は常に悪であるかのように誤解します。しかし、罪、サタン、神の敵を憎み、「戦う」責任を果たさなければこの世に悪が広まるばかりです。真理を巡って戦うべき時が必ずあります。それを避けようとすると、隣人が滅びに向かうということがあります。私たちは、「愛」と「平和」を求めるからこそ、悪を憎み、安易な妥協をはかる人と戦う必要があるのです。

このように見てくると、私たちは自分にとって忌まわしいと思われるすべてのときを、「神の時」として見ることができます。ただ、それは自分の感情を偽り、すべてを善意に解釈するとか、苦しむこと自体を美化したり、そこになんらかの意味をこじつけようとするということではありません。この著者は、労苦自体は空しいと繰り返しているからです。そうではなく、すべてのときが、神の支配下にあるのならば、どのような苦しみの中にも、神が与えてくださった恵みを見出し、「今、ここで」、神を喜び、生きていることの喜びを発見することができるという意味です。

3.「神はすべてをご自身の時に美しくしておられる」

「働く者は、その労苦から何の益を得るのだろう」(3:9)とは、13節や211節の繰り返しで、人の希望が幻想と混同されないための現実理解です。そして、「神が人の子らに労させようと与えた仕事を私は見た」(3:10)とは、113節のほとんど同じ繰り返しですが、「つらい」ということばが省かれています。かつて著者は、自分の「知恵」によって「天の下に起こるすべて」の意味を探り調べようとして苦しんでしまったのですが、今は、すべての「時」が神のご支配のもとにあるという視点から、余裕をもってこの世界を「見た」のです。

今から約800年前に、曹洞宗の開祖道元禅師は正法眼蔵の最初で、「解脱を愛し求めれば解脱は遠ざかり、迷いを離れようとすれば、迷いは広がるばかりである。自己の立場から、あれこれと思案して、ものごとの真実を明らかにしようとするのが迷いである。ものごとの真実が自然に明らかになるのが、悟りである」と語っていますが、これは人間の心の現実を的確に捉えた分析と言えましょう。それと同じようなことが今から三千年前に記されています。つまり、必死に真理を掴み取ろうともがいていたときには苦しみと空しさに支配されていたのですが、力を抜いて、神のご支配という観点からこの世界を見たとき、急に世界が美しく見えてきたというのです。同じ世界が、まったく異なって見えてくる、これこそ宗教的感動の真髄です。

そして、著者は、「神は、すべてをご自身の時に美しくしておられ、また、彼らの心に永遠を与えておられると見えた」3:11)というのです。これは、地上のすべての「時」を支配しておられる神が、「ご自身の時」に、「すべて」のことを、「美しい」と言える状態へとあらかじめ備えておられるということです。しかも、神は私たちの「心に永遠を与えておられる」ので、今の忌まわしいとしか思えない状況さえ、神の永遠の視点から見ることができるということです。これは、決して、醜いできごとを「美しい」と思い込むことではありません。それは私たちの感性に暴力を振るうことに過ぎません。そうではなく、今は、醜く忌まわしく悪いことにしか見えないけれども、神がすべてのときを支配し、歴史を支配しておられるので、やがて「美しい!」と言える状況に変えられることを「期待し」、必ずそうなることを「信じて」今、ここで、「喜ぶ」ことができるという意味です。キリスト・イエスにとらえられている者の揺るぎない確信とは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)と断言できることにあります。しかも、「心に永遠を与えられた」私たちは、それを神の永遠のときの観点から、そのように言えるのです。それは、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13)とあるとおりです。

ただし、「それでも、人は、神のなさるみわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」とあるように、「今、このとき」を、神の永遠の観点から評価する能力は人にはありません。つまり、分からないことは分からないままに放って置くことが大切なのです。そのような中で、「私は、人には、生きる中で、楽しみ、満足する以上に善いことがなく、また、すべての人は食べたり飲んだりし、すべての労苦の中に満足を見出すことも神の賜物なのだと分かった」(3:1213)という神によって与えられた「知識」が繰り返されます。これは224,25節とほとんど同じ繰り返しです。また、それは210節で、著者が未だかつてない大きな贅沢という試みをして分かったことでもありました。なお、この文脈で興味深いのは、原文では310,11節は、「私は見た」という動詞に支配されているひとつの文章であり、312,13節は、「私は分かった」という動詞に支配されているひとつの文章であるということです。つまり、「私は見た。そして、私は分かった」という流れがあるのです。力を抜いて、この世界を神の観点から見た結果、人の幸せは、何よりも、「今、ここで」味わうべきもの、それこそが神のご計画であるということです。

これに続いて再び、「私は分かった」と言いながら、「神のなさることは永遠に残り、何も付け加えられず、取り去られない」という真実が受け止められます。これは、人の労苦の結果が、後継者によって壊されたり、財産を残すことがわざわいにしかならないような現実との対比で記されています。ですから、私たちは自分の労苦を、「自分のため」にではなく、神から与えられた責任として取り組むことが何よりも大切です。そして、それを通して私たちは、「神は、人々が神を恐れるようにと、それらをなさった」ということが分かります(3:14)。ここに私たちの幸いがあるからこそ、この書の結論は、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(12:13)と記されています。その上で、ここで、「今あることは既にあった。これからのことも既にあった」と、19-11節のことばを繰り返されます。ただし、その上で、「神は追いやられたものを探し出される」(3:15)という不思議なことばが付け加えられます。「追いやられたもの」とは、今ここでの現実からは、世界から忘れ去られ、無視されているという現実を、神は確かに見ておられ、探し出され、ご自身のときに「美しい」状態へと回復してくださるということです。

私たちはいつも目の前の出来事に追われて生きていますから、ソロモンが「見て」「分かった」というようなことをなかなか理解できません。しかし、私たちはイエス・キリストを知り、信じています。そしてこれらの真理は、すべて、キリストの生涯の中に見ることができます。キリストは、この世界を父なる神とともに創造された創造主ですが、この不条理に満ちた世界を上から見下ろして、上からただ指導ばかりをされるような方ではありませんでした。イエスは、この世界のむさしさ、不条理を自ら体験するために、私たちと同じ肉体を持つ人間となってくださいました。神は死ぬことができませんが、キリストは敢えて、人となることで、死ぬことができる身体となってくださいました。そして、死の原因である罪の力を無力にするために、私たちすべての罪をその身に負って十字架にかかってくださいました。そして、三日目によみがえって、この罪と死の力に打ち勝ってくださいました。

パウロは、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」と問いながら、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と解説しつつ、「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」と感謝を告白しています。そしてその上で、私たちに与えられた揺るぎない信仰の確信として、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(コリント15:55-58)と告白しました。この確信に立つ者は驚くべき生き方ができます。それはドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の中で書いているような生き方です。長老ゾシマは主人公アリーシャへの遺言として、「多くの敵を持つことになっても、その敵たちさえ、おまえを愛するようになる。人生は多くの不幸をおまえにもたらすが、それらの不幸によっておまえは幸せになり、人生を祝福し、ほかの人々にも人生を祝福させるようになる。これが何より大事なのです。おまえはそういう人間なのですよ」と語っています。

 「御手のなかで」という賛美の原歌詞を味わって見ましょう。In His time, In His time,  He makes all things beautiful in His time (主の時に、主の時に、主はご自身のときにすべてのことを美しくしてくださる)  Lord, please show me ev'ry day, as You're teachig me Your way, that You do just what You say, in Your time.(主よ、日々、あなたの道を私に教えながら、あなたが言われたことをご自身のときに実現してくださることを示してください。

In Your time, In Your time, You make all things beautiful in Your time (あなたの時に、あなたの時に、あなたはすべてのことを美しくしてしてくださる)。   Lord, my life to You I bring, May each song I have to sing  be to You a lovely thing, in Your time.(主よ。私のいのちをあなたのもとに携え行きます。ですから、私が歌うすべての歌が、あなたの時に、あなたにとってうるわしいものとなりますように)

伝道者の書212節~315節 私訳

                                             2章    

また、私は、知恵と狂気と愚かさとを見ようと、振り返った。                  (12)

王の後を継ぐ者は、いったい何者だというのだろう。同じことを繰り返すだけではないか。

私は、光が闇にまさるように、知恵が愚かさにまさり、                      (13) 

知恵ある者はその目が頭にあるが、愚か者は闇の中を歩くのを見ていた。              (14)

ところが、私は、同じ出来事がすべての人に起こることが分かった。

私は、心で、「愚か者に起こる出来事が、私にも起こる。                    (15)

それなら、私が知恵あることにどんな益があるのか?」と言った。

そして、心で、「これもまた、空しい!」とつぶやいた。                    

なぜなら、知恵ある者も愚か者と同じで、いつまでも記憶されるわけでもなく、          (16)

ときが経つとすべてが忘れ去られてしまう。実に、知恵ある者も、愚か者と同じように死んでゆく。

 私は生きていることを憎んだ。日の下でなされる働きは私にはわざわいにしかならないから。   (17)

すべては空しく、風を追うようなものだ。

 そして、私は、日の下で私が労した、そのすべての労苦を憎んだ。                (18)

それを、私の後を継ぐ者に残すことになるから。

彼が知恵ある者か愚か者かを、誰が知ろう。                           (19)

その者は、私が日の下で苦労と知恵を傾けたすべての労苦を支配する。これもまた、空しい。

 私は、日の下で労したすべての労苦を、心で絶望するようになった。               (20)

知恵と知識と才能を尽くして労した人も、何の苦労もしなかった者の受ける分として         (21)

それを残さなければならない。これもまた空しく、大きなわざわいだ。

 実に、日の下で労したすべての労苦と心の葛藤は、何になろう。                 (22) 

そのすべての日々は悲しみ、その仕事も苛立つことばかりで、夜でさえ心は休まらない。       (23)

これもまた、空しい。

 人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦の中にたましいの満足を見るより他に善いものはない。 (24)

私は、これもまた、神の御手によるものであるということが見えた。

 実に、神から離れて、誰が食べ、また誰が楽しむことができようか。              (25) 

神は、善人と認めた人に知恵と知識と喜びとを与え、罪人には、ひたすら集め貯えるという仕事を与え、 (26)

善人と認めた人に渡される。これもまた、空しく、風を追うようなものだ。

                                              3

すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある。                   (1)

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。   (2)

殺すのに時があり、癒すのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。           (3)  

泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。            (4) 

石を放つのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁を止めるのに時がある。(5)

求めるのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、放つのに時がある。          (6)

引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙るのに時があり、話すのに時がある。     (7)

愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、平和になるのに時がある。       (8)

働く者は、その労苦から何の益を得るのだろう。                        (9)

私は、神が人の子らに労させようと与えた仕事を見て、                     (10)                                 

神は、すべてをご自身の時に美しくしておられ、                        (11

また、彼らの心に永遠を与えておられると見えてきた。 

それでも、人は、神のなさるみわざを、初めから終わりまで見極めることはできない。        

私は、人には、生きる中で、楽しみ、満足する以上に善いことがなく、また、すべての人は、    (12)

食べたり飲んだりし、すべての労苦の中に満足を見出すことも神の賜物なのだと分かった。      (13)   

私は、神のなさることは永遠に残り、何も付け加えられず、取り去られないこと、         (14)             

また神は、人々が神を恐れるようにと、それらをなさったということが、分かった。

今あることは既にあった。これからのことも既にあった。神は追いやられたものを探し出される。   (15)

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エレミヤ14:1-17:18「主に信頼する者への祝福と、主を捨てる者へののろい」

エレミヤ14:1-17:18「主に信頼する者への祝福と、主を捨てる者へののろい」

                                        2008年11月2日

幸福は、「健康、良き配偶者、悔いのない生涯の仕事、確固たる人生観を持つこと」にあるとスイスの哲学者ヒルティが言っています。しかし、この四つを全て手に入れることができるのは、非常にまれではないでしょうか。それこそが、まさに神の恵みです。それは自力でつかみとるものではなく、与えられるものです。だれもそれを誇ることはできません。それは、人間的にいえば、何らかの偶発的“ハプニング”であり、それこそ、“ハッピー”といえるものでしょう。この“ハッピー”、“ハプニング”は、古英語 “ hap ” (ハップ)に由来し、「偶然の出来事」を意味します。そして、それは、聖書的にいえば、偶然ではなくて、神からの必然的な賜物です。それにしても、人生は不公平です。ある人は、この四つの幸福をすべて手にしている一方、ある人は、「私には何もない・・・」と思える時期があるかもしれません。ただ、そこで、「諦め、現状を受け入れる」というのは仏教的な価値観ではないでしょうか。聖書には、神に「食い下がる」ような祈りが満ちています。確かに、現実を受け入れるのは大切なのですが、それは全知全能の神との関係の中で起こるべきことです。本日の箇所に出てくるエレミヤの祈りは、モーセのように大胆で、ダビデのようにパーソナルです。主に信頼するとは、そのような祈りをささげることではないでしょうか。一方、多くの信仰者は、主の前でかっこをつけた祈りをささげようとしながら、身近な人の前でとんでもない悪態をついてしまうということがないでしょうか。主に信頼することと、人に信頼することの対比を私たちは心に刻むべきでしょう。

1.「私たちはあなたの御名をもって呼ばれている・・・契約を覚えて、それを破らないでください」

14章最初には、「日照りのこと」について、エレミヤに主(ヤハウェ)のことばがありました。それは、「ユダは喪に服し・・エルサレムは哀れな叫び声をあげる」というものですが、日照りの激しさが、「その貴人たちは、召使いを、水を汲みにやるが、彼らが水ためのほとりに来ても、水は見つからず、からの器のままで帰る・・・国に秋の大雨が降らず、地面が割れ・・・若草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる」(14:3、5)と描かれます。申命記では、「主(ヤハウェ)を愛し・・主に仕えるなら」、「先の雨と後の雨とを与えよう」と約束される一方で、「ほかの神々に仕え、それを拝む」なら、「主が天を閉ざされ・・雨は降らず、地はその産物を出さず・・・あなたがたは・・その良い地から、すぐに滅び去ってしまおう」(11:13-17)と預言されていましたが、それが今、実現するというのです。

それを聞いたエレミヤは、「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主(ヤハウェ)よ、あなたの御名のために事をなしてください(14:7)と願いながら、「なぜあなたは・・一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか」(14:8)と訴えます。「すげなくされる」とは原文にない解説ですが、旅人が目的地に急いでいるとき、宿を取ることは必要に迫られて仕方なくやっていることで、関心はそこにはないという姿を示したもので、彼はここでこのたとえを用いながら、主の関心がイスラエルの民に十分に向けられていないのではないかという疑いを訴えています。これは、妻が夫に、「あなたは仕事のことばかり考えて、家庭を何だと思っているの!」と非難することに似ています。主に対して何とも失礼なことばですが、そこに自分の民の痛みを思うエレミヤの必死さが現れています。その上で彼は、「主(ヤハウェ)よ。あなたは私たちの真ん中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください」(14:9)と不思議な訴えをします。それは、イスラエルが主(ヤハウェ)の民として呼ばれているのであれば、彼らを捨てることは主(ヤハウェ)の御名が国々の間で汚されることになるという論理で、主に向かって、「イスラエルを捨てるのは、あなたのためになりません」と説得するかのようです。

この祈りは、出エジプトから間もないとき、モーセが40日間もシナイ山に登って留守の間、金の子牛を造って拝んだイスラエルの民を主が滅ぼすと言われたときに、モーセが必死に執り成した祈りに似ています。そのとき彼は、イスラエルを滅ぼすなら、エジプト人は、神は彼ら(イスラエル)を山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意を持って彼らを連れ出した」と言うようになり、主の御名を汚すことになると説得しました(出エジプト32:12)。

ところが、主は、エレミヤが主を「旅人のように」と言ったことに対し、イスラエルの民こそが、「さすらうことを愛し、その足を制することもしない」と非難しました。そればかりか、「この民のために幸いを祈ってはならない」(14:11)とまで言われ、ご自身のさばきはもう避けがたいことを知らされます。

  ところがエレミヤはなおもあきらめず、「あなたはユダを全く退けたのですか・・・なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか。私たちが・・いやしの時を待ち望んでも、なんと、恐怖しかありません」(14:19)と訴えます。そして、民を代表しながら、「主(ヤハウェ)よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています」と主の前にへりくだって祈っています(14:20)。そして今度は、「あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください(14:21)と祈り、「異国のむなしい神々」との比較で、イスラエルの神だけが、雨を降らせることができる方であるということを強調しながら、なお、「私たちはあなたを待ち望みます」(14:22)と告白します。これもモーセの祈りに似ています。彼は、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約を引用しながら、主が、「わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる」と約束されたことを思い起こして欲しいと訴えました。そのとき、「すると、主(ヤハウェ)はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直されたのでした(出エジ32:13,14)。つまり、主はこのとき被造物に過ぎないモーセの訴えを真剣に受け止めてくださったのです。

  エレミヤの祈りとモーセの祈りも、主の御名の栄光のためと、主の契約を思い起こすということで共通点があります。主が私たちの罪を赦し、かたくなな私たちを守り通してくださるのはこの二つの動機の故です。ヒルティの言う「確固たる人生観」を持つとは、この主のみこころをいつも覚えながら生きるということではないでしょうか。私たちも自分が神の子とされていることを世に証しするなら、主ご自身が御名の栄光のために私たちを守り通してくださいます。それと同時に、私たちは特に聖餐式において、主の契約を思い起こさせていただくことができます。主の栄光は私たちの人生の方向を示し、主の契約は矛盾に満ちた世で生きる安心感を与えるものと言えましょう。

  ところがこのとき、主(ヤハウェ)はエレミヤに、「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない」と言われ、彼らに、「死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに」(15:2)という四つのわざわいを宣告されます(15:1、2)。そして主は、ご自身の厳しいさばきを行う理由を、「ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである」と語っています(15:4)。ヒゼキヤはアッシリヤの攻撃に対して必死に主に嘆願して、主の奇跡的な救いを見ることができましたが、マナセは反対に、アッシリヤに媚びへつらい、エルサレムを偶像で満たしました。列王記の記者は、「マナセは彼らを迷わせて、主(ヤハウェ)がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行わせた」(Ⅱ列王21:9)と記していますが、彼は55年間も王座に留まってしまいました。残念ながら、指導者が悪ければ、民全体が腐敗してしまうというのが王政の何よりの矛盾です。

 そして、このとき主は、「エルサレムよ・・・おまえがわたしを捨てたのだ・・・おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに飽いた」(15:5、6)と仰せられます。ここに、主の悲しみと怒りが生々しく描かれています。主は、何度もご自身の民から捨てられながら、忍耐を重ねて来られました。しかし、このときは、なんと、「わたしはあわれむのに飽いた」と言われたのです。

 

2.「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」

  ところでエレミヤは、今度は、自分の使命を嘆き、「私の母が私を産んだので・・・私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている」(15:10)と、「生まれてこなければよかった・・・」という絶望感を表現しています。それに対し主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする」(15:11)と主に従い続ける者への祝福と名誉を保障します。

 エレミヤは引き続き、主のご計画を聞かせていただきながら、14章に記されていたような民の代表としての崇高な祈りとは対照的と言えるほどの、個人的な、自分の心の痛みを正直に訴えながら、「私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。わたしがあなたのためにそしりを受けているのを、知ってください」(15:15)と祈ります。エレミヤを追い詰めているのは同胞の宗教指導者たちですが、彼はここで彼らの上に神の怒りがすみやかに下されることを願っています。これは先の民全体の救いを願う祈りと矛盾しているように思えますが、それこそ感情の現実でしょう。そして、そのような祈りはダビデの詩篇にもたびたび出てきます。その代表はイエスの苦しみを預言的に描いている詩篇69篇です。人の多くの苦しみは最も身近な人間関係から生まれます。イエスを十字架にかけたのはローマ軍である前に、ユダヤ人たちでした。そして、私たちは自分の「怒り」を詩篇によって表現することが許されています。

 その上でエレミヤは、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主(ヤハウェ)よ。私にはあなたの名がつけられているからです」と告白しています(15:16)。エレミヤは、差し迫る神のさばきのみことばを聞いて、深く悲しんでいました。しかし、彼は同時に、神がそれをイスラエルの益とされることを知り、同時に、人々から決して理解されないような働きのために自分が召されたということに、大きな誇りを感じることができたのではないでしょうか。そこにまさに、ヒルティがいう「悔いのない生涯の仕事」を与えられた感動があります。私たちが心のそこで求めているのは、自分の苦しみが無駄にはならず、神のご計画の中で用いられているという誇りではないでしょうか。そして、わたしたちひとりひとりにも、「主の名」がつけられ、「主からの使命」が与えられています。

 一方、16章で主は、先とは別に、この世的な幸せを諦めさすような具体的な命令をエレミヤに授け、「妻をめとるな。またこの所で、息子や娘を持つな」(16:2)と言われます。これは当時の人々にとっては極めて異例の命令です。それは、「この所で生まれる息子や娘」ばかりか、その父も母も、「ひどい病気で死ぬ」ばかりか、「彼らはいたみ悲しまれることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。また、剣とききんで滅ぼされ、しかばねは空の鳥や地の獣のえじきとなる」(16:4)という想像を絶する悲劇が目前に迫っているからです。そのようなときは、家族を持たないほうが幸せとも言えましょう。神はエレミヤにとっての最善を知っておられるのです。

 

3.「彼らは、わたしの名が主(ヤハウェ)であることを知る」

 ところで、主はエレミヤに、「あなたがこのすべてのことばを告げるとき、彼らがあなたに、『なぜ、主(ヤハウェ)は私たちに、この大きなわざわいを語られたのか。私たちの咎とは何か。私たちの神、主(ヤハウェ)に犯したという、私たちの罪とは何か』と尋ねた」(16:10)ならと言いながら、彼にそのときの答えを授けていますが、それは主がモーセの時代から何度も語っておられたことです。イスラエルの民はこの期に及んでも、自分たちがどれだけ主を悲しませ、怒らせてきたかということが分かっていませんでした。人はみな、自分を正当化する名人だということがこの応答に表れています。彼らはまるで主は自分たちを守るためにおられると思っていました。そのような中で、エレミヤの使命は、彼らがこの苦しみに会うのは、主(ヤハウェ)が無力だからではなく、主の裁きであると伝えることでした。

  ただ、これによってイスラエルの民が滅びてしまうわけではありませんでした。主は、この苦しみの後の希望を、「それゆえ、見よ、その日が来る。──主(ヤハウェ)の御告げ──その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主(ヤハウェ)は生きておられる』とは言わないで、ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主(ヤハウェ)は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる」(16:14,15)と仰せられました。つまり、出エジプトに匹敵する主の救いのみわざが、捕囚とされ散らされたイスラエルの民の上に表されるというのです。これは、約束の地に入る前のモーセの時代、申命記30章1-5節ですでに預言されていたことでした。旧約の前半のテーマは出エジプトですが、後半のテーマは「出バビロン」ということができます。そして約束の地への帰還こそ、多くの預言書のテーマになっています。これは私たちにとっては、黙示録21章に描かれている「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」に招き入れられることを指します。どちらにしても強調されているのは、主の一方的なあわれみのみわざです。私たちの責任は、一時的な幸せを約束するサタンの甘い誘いに耳を貸さず、苦しみの中でも主(ヤハウェ)の救いを待ち続けることです。

  その上で、再び、民の回心という希望が歌われます。エレミヤは、「主(ヤハウェ)よ、私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ」(16:19)と告白しますが、それがイスラエルの民ばかりか世界中の民の告白となるというのです。そのとき、偶像を拝んでいた諸国の民は地の果てから来て、「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と言うことになります(16:19,20)。これは、今まさに、日本であなたの上に起こっていることと言えましょう。そして、主ご自身も、「だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主(ヤハウェ)であることを知る」(16:21)と言われます。イスラエルの神の御名、「ヤウェ」には、ご自身が天地万物の創造主であり、世界のすべてを支配しておられるという意味がこめられています。

  

4.「主(ヤハウェ)に信頼し、主(ヤハウェ)を頼みとする者に祝福があるように。」

17章4-8節で、人間に信頼する者と、主に信頼する者との対比が美しく描かれます。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主(ヤハウェ)から離れる者はのろわれよ。そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む」と言われます。ここでは「のろわれる」(祈りではなく、断定形)ということばが強調されていますが、人に信頼すること自体が悪いのではなく、それによって「心が主(ヤハウェ)から離れる」ことが問題とされているのです。これは当時のエルサレムの指導者が、主に信頼することを忘れて、エジプトとバビロンを両天秤にかけて、国際政治の力学で自分の国の独立を保とうとしていたことを非難したものです。しかも、「荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなくというのは興味深い表現です。これは、「荒地のむろの木」とは不恰好な役に立たない状態を示す言葉でしょうが、私たちも神を忘れて生きると、人生で出会う様々な機会を生かすことができず不毛の人生のままに留まるというのです。“ハッピー”の反対は、ミスハップ (mishap)”とも言えましょう。それは、神ある“ hap ” (ハップ)を生かせない悲劇です。

それに対し、「主(ヤハウェ)に信頼し、主(ヤハウェ)を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる」と対照的な平安と祝福が述べられます。この文章は「祝福される」という断定形約束のことばとして訳すべきで、そのような「祝福」が強調されています。これは詩篇1篇を思い起こさせることばです。そこでは暑さや日照りがなくなるというのではなく、根がいつも豊かな水に届いているという幸いです。それこそが、ヒルティが言う「健康」ではないでしょうか。健康さとはこの矛盾に満ちた世界に向かう力を意味します。私たちの人生にも様々な苦しみがありますが、その中で、不思議な主のみことばによる慰めとか不思議な助けが与えられ、苦しみの中にさえ喜びを発見できるようになるというのです。永遠に比べればこの地上の苦しみは、ほんの一瞬のミスハップ (mishap)” に過ぎません。この永遠の幸いの約束こそ、私たちが毎日の生活の中で繰り返すべきみことばです。ここに記されている対比こそ、エレミヤ書の核心、私たちの信仰の核心と言えましょう。

 一方、その後すぐに、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」(17:9)と記されているのは衝撃的です。ただ、「陰険」と訳されていることばは、「欺くもの」とも訳すことができ、イスラエルの始まりである「ヤコブ」の名の由来です。エサウは弟のヤコブから祝福を横取りされたとき、「彼の名がヤコブというのもこのためか。二度までも私を押しのけ(欺いて)しまって・・」(創世記27:36)と言った通りです。しかし、「ヤコブと同じ心が人に宿っている・・」と言われるなら希望を持つこともできます。また「それは直らない」というのも「癒すことができないほどに病んでいる」状態を表すに過ぎません。人にできないことを神がなしてくださいます。

どちらにしても、多くの日本人は、生き難さを抱えた人の問題を指摘してあげて、その人が健全な社会生活を送ることができるように教えてあげるのが愛の行為だと思っていますが、それは無駄な努力だというのです。私たちはそのような人間の現実を知る必要があります。人は、常に自分を正当化してしまい、自分の心の闇を見ようとはしません。しかし、主は、「わたし、主(ヤハウェ)が心を探り、思い(腎臓)を調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる」(17:10)と主ご自身が人の「心を探り」、「思いを調べ」、それぞれの生き方に従い公平にさばき、また報いてくださるというのです。なお、「思い」の原文は「腎臓」、人の最も奥深い器官であり、そこに人間を動かす理解しがたい感情が宿っていると考えられていました。たとえば、「あなたには闇も光のようです。それは、あなたが、私の奥深い部分を作り」(詩篇139:13)(拙著「心を生かす祈り」P47-50解説)とあるように神の作品でもあり、すべて神に知られていることです。それを思うとき、私たち自身が他の人の悪を指摘し、それを正してあげようという余計なおせっかいをする誘惑から自由にされます。しかも、主のさばきが、「しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる」(17:11)と描かれ、主がご自身のときに、けじめをつけてくださると保障されています。

 一方、「私たちの聖所のある所は、初めから高く上げられた栄光の王座である。イスラエルの望みである主(ヤハウェ)よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます」という告白がなされる一方、主の警告が、「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされるいのちの水の泉、主(ヤハウェ)を捨てたからだ」と述べられます(17:12、13)。これこそ、私たちがこの地上の生活の中で、主を忘れそうになったときに繰り返すべき御言葉でしょう。イエスは「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と言われ、また、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:14)と言ってくださいました。私たちはイスラエルの歴史を見るとき、人の心がいかに頑なで、救いがたいものであるかを知ることができます。しかし、私たちの主イエス・キリストは、そんな救いがたい人を救うために十字架にかかられ、死んで葬られ、三日目に死人の中からよみがえって、私たちひとりひとりにご自身の「霊」、神の子とする御霊を与えてくださったのです。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない・・」とは私たちが覚えるべき現実です。しかし、聖霊は、人にはできないことを可能にしてくださいます。旧約のストーリーは救いがたいほどの人の罪深さを描きますが、新約のストーリーは、そのような罪人をイエスが愛し、立ち直らせてくださったことにあります。そして、今、創造主であられる聖霊ご自身が私たちのうちがわに宿っておられます。その結果、私たちの心の中に主への正直な祈りが起こされ、自己中心のかたまりのような人が、他人のためにとりなしの祈りをすることができるように変えられているのです。

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