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2008年12月28日 (日)

ルカ2:21-52 「待ち望むということ」

                                                                                              20081228

僕が17歳のとき、宇多田ヒカルの母、藤圭子が歌って大ヒットした曲があります。それは、「十五、十六、十七と、あたしの人生暗かった。過去はどんなに暗くても、夢は夜ひらく」という危ない内容です。夢は、日の光のもとで開かさなければなりません。もし、クリスチャンの「新生の証し」が、自分の過去を必要以上に暗く描きながら、自分ではない自分になろうとするものであるなら、同じように危ない生き方になることでしょう。この歌の始まりは、「赤く咲くのはケシの花、白く咲くのはユリの花、どう咲きゃいいのさ、この私・・」という問いかけから始まっています。人は、みな自分がどのような花を咲かせることができるのかわからずに迷うことがありますが、誰も自分が造られたようにしか生きることはできません。その可能性は多くの人が思うよりはるかに広いものであったにしても、自分の出生や生い立ちを否定して美しく咲くことは無理です。まず、神からすでに与えられている恵みの数々を見直すのでなければあなたらしい咲き方はできないのではないでしょうか。エデンの園での罪の始まりは、神が与えてくださった祝福を軽蔑して、神が与えようとしなかったものに手を伸ばすことにありました。神から与えられた個性を軽蔑して、別の自分になろうともがくことは危険です。僕はかつて、自分の田舎も自分の性格も嫌いでした。明日を夢見ながらも、「今、ここで」の恵みを感謝するのが下手でした。あの頃は、自分で自分の人生を勝手に暗くしていたような気がします。あなたは過去をどのように見ているでしょう。過去を軽蔑も美化することもなく、苦しみとセットに与えられていた数々の恵みを発見できるとき、あなた固有の人生の輝かせ方が発見できるのではないでしょうか。

1. 「律法の下にある者」となられた救い主

  イエスは、誕生の八日後に割礼を受けられ、そのとき正式に命名されました。それから三十三日後、マリヤの出産に伴う血の汚れからのきよめの期間が満ちたとき、つまり誕生から四十日後のことですが、ベツレヘムからエルサレム神殿に上りました。ここには律法が命じるふたつの儀式があります。第一は、「男子の初子を・・主(ヤハウェ)に聖別する」(23)ためです(出エジ13:12,13)。家の跡継ぎは、何よりも神の祝福を受け継ぐために神から与えられた者であることを覚えるためです。なお現在は、これに習って多くの教会では献児式が守られています。

また第二は、それまで「血のきよめのために、こもっていた」(レビ12:4)状態から、礼拝の交わりに復帰するため、「主へのいけにえ」をささげるためです。女性が出産後四十日間は汚れた状態にあると見られていました。それは母体と幼児を守るためであるとともに、すべてを神との交わりの中で行うことを覚えるためでもありました。

なおその際、彼らが鳩二羽をささげたと記されていることは、マリヤとヨセフには、羊を買う余裕がなかったことを示しています。その一羽は全焼のいけにえ、もう一羽は、罪のため(きよめ)のいけにえでした(レビ12:8)。壮麗なエルサレム神殿の中での、救い主の誕生に伴ういけにえは、何と貧しいことでしょう!しかし、マリヤとヨセフは、それを意に介せず、ただ黙々と、律法が命じること実行していたのでした。

このような描写があるのは、この福音書が、律法の知識の乏しい異邦人に向けて記されたからでもあります。彼らは余りに安易に旧約聖書を飛び越えて、新しい知らせの部分ばかりに目を向ける傾向があります。パウロは、「律法は私たちをキリストに導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:24)と言いましたが、養育係を軽蔑する者は真の意味で大人になることはできません。救い主は、生粋のユダヤ人として生まれ、律法に基づく生活習慣の中で育ったのです。それは、主が21世紀に住む生粋の日本人の仲間となられたということに結びつきます。共通するのは、生まれ育った環境や文化を神の賜物として受け止めるという姿勢です。救い主は、抽象的な人類となったのではなく、私たちひとりひとりが様々な制約と限界を抱えながら必死に一日一日を生きるのと同じ具体的な個人となられたのです。聖書には、主が、「私たちの大祭司」として、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」(ヘブル4:15)と記しています。主は敢えて、貧しく、制約に満ちた人生を選び取られました。

聖書は、このことの意味を、「しかし定めのときが来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生れた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」(ガラテヤ4:4,5)と記します。律法は、神からの愛の贈り物でしたが、私たちは「罪の奴隷」であるため、「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くもの」(ローマ7:10)となりました。それは、良い教えを聞けば聞くほど、それを守れない自分も、また人も、赦すことができなくなり、絶望せざるを得ないという矛盾です。しかしイエスは、すべての律法を守り、神に喜ばれる子として生涯を全うされました。

現在、私たちは律法を守ることができなくても、信仰によってイエスに結びつくことで、イエスの義を私たちの義として受け取ることができます。すべての律法を守られたイエスと一体化されるからです。これは貧しい奴隷女が王子に見初められて妻とされ、王子とまったく同じ富と力を与えられることに似ています。バプテスマはこの王なるイエスとの結婚式です。そして、そのイエスが今、あなたのうちに御霊によって住んで、内側から造り変えていてくださいます。あなたは今や、「律法の下にある・・罪の奴隷」状態から解放され「神の子」とされたのです。

2. 「待ち望む」ということ

  マリヤとヨセフが神殿に上ってきたとき、シメオンという人が現れます。その特徴は、「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」(25)と記されます。この「待ち望む」ということばの元の意味は「歓迎する」で、現状への不満と嘆きより、桜のつぼみを見ながら桜の咲くのを期待しているような心の姿勢を表します。彼は神が歴史を支配しておられることを信じ、それが目に見える形で実現するときを「待ち望んでいた」のです。そればかりか、聖霊によって「主のキリストを見るまでは、決して死なない」と告げられていました。そして、「御霊に感じて」(27)宮に入る中で、幼子イエスが両親によって抱かれながら宮に入ってくるのを見て、すぐにこの子こそ救い主キリストであると分かりました。しばしば、自分の利己的な願望に縛られ、現状に不満ばかりを抱いている人は、見るべきものを見ることができません。しかし、「イスラエルの慰められること」という神の救いのご計画に焦点を合わせ、それを心から歓迎するように待ち望んでいたシメオンは、無力で貧しい幼子を見て、「私の目があなたの御救いを見た」(30)と言うことができました。しかも、「御救い」とは、目に見えるイスラエル王国の再興という当時の人々の期待を超えて、「万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光」だというのです。

  しかも、この「啓示の光」とは、「多くの人の心の思いが現われる(「啓示」と同じことば)(35)ようになるためのものです。後にイエスに出会った人は、宗教指導者のようにかえって頑なになって「倒れる」か、悔い改めた取税人や遊女のように「立ち上がる」かに二分されました(34)。それは、表面的な行いの良さではなく、心の中にあるものが「現された」結果でした。それによってイエスは権力者を敵に回してしまいます。それでシメオンは、マリヤに「剣があなたの心さえ刺し貫く」(35)と預言しました。これは、彼女が将来、苦しみに会った際、そこで神のご支配を認め、慰めを体験できる支えとなったでしょう。

シメオンは、神からの光によって、目の前の貧しい幼子が救い主であることを認めることができました。そればかりか、マリヤに将来訪れる悲劇を、神の光によって見られるように預言しました。私たちも聖霊によって神の光を受けて、目の前の現実をこの世の人々の目と違った視点から見ることができるようになります。福音の核心、それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:169ということです。私たちはこの世の不条理を憎み、早く天国に行きたいと願うことがあるかもしれません。しかし、神は、この罪に満ちた世界を「愛された」というのです。それは放蕩息子を見る父の眼差しです。福音の光に照らされたものは、この世界を、軽蔑するのではなく、神の慈しみの眼差しで見ることができます。それが救い主によって「立ち上がる」ということです。

そこにまた、「女預言者のアンナ」(ギリシャ語ではHという子音を入れ「ハンナ」と発音)が登場します(36)。彼女は短い結婚生活の後「やもめ」となり、当時としては高齢の84歳になって、「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えて」いました。彼女も、預言者サムエルを生んだハンナのように、祈りの人でした。神殿の祭司たちが偽善と謀略の中に生きているのを見ながらも、ただ神に望みを抱き、神殿に留まっていました。自分の人生が期待通りにならなければ、人は、「宮を離れ」たくなりますが、彼女は留まり続けました。また人によっては、神殿の腐敗を厳しく批判しながら争いを生み出すかもしれませんが、彼女はただ静かに、「神に仕えて」いました。彼女の周りには、いつも平和があり、彼女は人々から尊敬されていたことでしょう。それゆえ、幼子に神の救いの計画を見出し、「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に」、この救いを語ることができました。

「待ち望む」とは、不条理のただなかに留まり、神のみわざの現れを期待することです。そこには人と人との平和が見られます。しばしば、大きな理想ばかりを掲げる人は、目の前に争いを引き起こし、かえって問題をこじらせてしまいます。エデンの園の外の世界では、ひとつの矛盾の解決は、次の矛盾を生み出すということを決して忘れてはなりません。大切なのは、神の時を待つという受身の姿勢です。もちろん、積極的に改革のために立つべきときがありますが、それは、静かに「神に仕える」という日常生活を基本として起こるべきことです。

しばしば、人は、「こうだったら良かったのに・・・」と、「今ここで」(here and now)の神の恵みを見過ごして、将来に夢ばかりを見ようとします。しかし、シメオンは人知を超えた神の救いのご計画を、目の前のひ弱な幼子の中に認めることができました。また、アンナは日々自分の目の前に神を認め「神に仕えて」いました。

3.  「神と人とに愛された」

  「彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので・・ナザレに帰った・・イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った」(39-41)とは、ヨセフとマリヤが律法を忠実に守る両親であり、まさにイエスが「律法の下にある者」として成長したことを意味します。そして、「イエスが十二歳になられたとき」とは、律法を特別に熱心に学ぶ年齢を意味します。なぜなら、当時の男子は13歳で成人式を迎え、礼拝で律法を朗読するなどの務めを果たすようになったからです(日本の元服も12歳から14歳でした)。なお、過越の祭りは一週間も続き、一族郎党が揃って都に上るので、マリヤとヨセフは帰りの道を一日進むまでイエスが一緒にいないのに気づきませんでした。彼らが、ようやくの思いでイエスを見つけると、「宮で教師たちの真中にすわって、話しを聞いたり質問したりして」(46)おられたというのです。そして、母のマリヤがイエスを心配していた旨を訴えると、イエスは、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」と答えられました。これは微笑ましいと同時に驚きでもあります。イエスは、後にエルサレムの宗教指導者と対立し、神殿の崩壊をも預言しますが、このときは、エルサレム神殿を「わたしの父の家」と呼んで喜び、律法の教師たちとの会話を喜んでおられました。少年イエスは、時間を忘れるほどに、神殿で律法を語り合うことを喜んでおられたのです。

そしてその後、「イエスは・・ナザレに帰って、両親に仕えられた」と描かれています。一方、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」というのです(51)。そこに互いの人格を尊敬しあう真の親子関係が見られます。そして、「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」(52)と記されます。「知恵が進み、背たけも大きくなり」とは、不完全なものが完全になるというニュアンスではありません。ルカ以外の誰もイエスの幼児期を描いた人はいませんが、これはイエスが「今ここで」(here and now)の父なる神のご支配を認め、ご自身の幼児期を楽しんでいたという雰囲気を伝えようとする表現に思えます。また、イエスが「神に愛された」というのは当然であるにしても、「人に愛された」というのは興味深いこととも言えましょう。早熟すぎる子は疎んじられることもあるからです。イエスは、赤ちゃんであるときから、神であられました。そのように考えると、イエスは同年代の子供と遊び、大人からも可愛がられるような子供らしさを持っていたということは想像し難いことかもしれません。しかし、人に愛された」ということは、イエスはそれぞれに年に応じた「幼さ」と、「成長」が見られたということを示しています。これは、子供を知性と能力に欠けた存在と見る文化に対する警告とも言えましょう。子供にはそれぞれの年齢に応じた生き方と課題があります。イエスがそれらひとつひとつを通られたということは感動的です。イエスが、それぞれの年齢のときに、どのような遊びをしておられたかを考えても良いのではないでしょうか。

私たちは、自分がアダムの子孫として受け継ぐ様々な心の傷や闇を正直に認めることなしに、救いの意味もわかりませんし、自分の衝動で人を振り回すという現実にも気づくことができません。ただし、私はそれを思うばかり、自分の幼児期を過度に暗くとらえ、そこにあった神の恵みを見過ごしていた面がありました。そして幼児期にあった喜びが封印されていたとき、今の自分をも不自由にし、自由な子供の喜びを味わえなくさせていました。子供の喜びにはいのちの力があふれています。そこには創造性があり、ひとつひとつの喜びが極めてユニークです。

ところが、私は、シメオンのように健全に「待ち望む」のではなく、いつも何かに駆り立てられるように生き、将来の夢ばかりを追い求め、社会や教会への批判ばかりをしていたという面がありました。しかし、幼児期の喜びを再発見できたとき、「今ここで」(here and now)、神のご支配を喜ぶことができるようになったように思えます。

私が田舎を嫌い、自分の性格を嫌ったのは、それなりの理由があります。忘れたい悲しみや苦しみがあったのです。しかし、それにも関わらず、それなりに生きてくることができました。それは、神が、苦しみとともに、それに押しつぶされないだけの生きる力を与えていてくださったからです。そして、それこそが、私に与えられたユニークな力、人の役に立てることができる力でもあります。自分の性格や生き方を歪めている過去の痛みを優しく見直すことも大切ですが、それ以上に、痛みとセットに与えられたいのちの力に私たちは目を留める必要があります。

12歳のイエスが、やがて滅び行くエルサレム神殿を「自分の父の家」と呼び、そこで将来敵となる律法学者たちとの会話を、時間を忘れるほどに喜んでおられ、彼らからも「愛されていた」というのは驚くべき発見です。しばしば、急進的な改革者は、今ある恵みを見過ごして批判精神ばかりを鋭くして、争いを引き起こします。しかしイエスは、律法の下に生きることを喜びながら、それを私たちに押し付けず、その実だけを分けてくださったのです。私たちも、人生のそれぞれの段階において、苦しみとセットで与えられている神の数々の恵みを喜ぶべきでしょう。

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2008年12月25日 (木)

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」

                       20081224

 多くの人は、社会保険庁の腐敗に怒りを発しています。残念ながら、組織はすべて、ときとともに腐敗をしてゆきます。それは、国についても、また個人に関しても言えることでしょう。しかし、私たちの心は、それを自然のこととしては受け止めることができません。「腐ってゆく」というのは何とも嫌なことです。肉体の衰えを防ごうとスポーツクラブに通う人が増えていますが、心が腐ってしまうことに私たちはどのように対処すべきでしょうか。

1.「ことばが人となられたのは、われわれを神とするため」

  「ことばは人となった」とは、クリスマスのメッセージの核心です。多くの人は、天皇誕生日が1223日であるのと同じように、イエス・キリストの誕生日が1225日だと思っています。しかし、キリストはマリヤから生まれる前から世界におられました。ヨハネの福音書はその方を、神の「ことば」として描きながら、「初めに、ことばがあった」と語り、時間と空間の始まる前から、キリストが存在しておられたと説明しています。そればかりか、「ことばは神であった・・・すべてのものはこの方によって造られた」と、この方は、父なる神とともに全宇宙を創造された子なる神、創造主であると語ります。つまり、クリスマスとは、「神が人となった」ことを記念する日なのです。

多くの人は、マリヤが処女のままイエスを産んだことを不思議に思います。しかし、イエスは私たちとまったく同じ人間であるとともに世界の創造主であられるのですから、人間と同じ生まれ方をするはずなどないと言えましょう。神学的には、イエスの誕生は、「受肉」と呼ばれます。これは、神のことばが肉体を受けられたという意味です。

三世紀から四世紀にかけ、キリストが神であることを否定する誤った教えが広がりました。それに対して、正統的な信仰を守るために戦ったのがアタナシウスです。彼の名は、高校の教科書にも出てくるほどです。彼は、「ことばの受肉」という日本語訳で80ページぐらいの文書を記しています。その中で彼は、「ことばが人となられたのは、われわれを神とするためである」という有名な命題を記します。それは聖書が、私たちに与えられた救いを、「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」(Ⅱペテロ1:4)と描いていることを基にしています。

人類の父アダムは、欲に負けて善悪の知識の木の実を取って食べ、滅びる者となりました。その後、「欲によって滅びる」という原理がすべての人を支配しています。事実、神が創造された美しい世界は、人間の欲望によって、救いがたいほどに腐敗してしまいました。その原因は、神のかたちに創造された人間が、神から離れて生きるようになったためですが、人間の腐敗は、「教え」や「悔い改め」では癒しがたいほどに進んでしまいました

それに心を痛められた神は、ご自身の御子をこの世界に遣わしてくださいました。御子は私たちの創造主であられますが、ご自身でこの腐敗してゆく肉体を持つ身体となることによって、腐敗する身体を不滅の身体へと変えようとしてくださいました。すべてのいのちの源である方が、死と腐敗の力を滅ぼすために、敢えて、朽ちて行く身体を持つ人間となられたばかりか、最も惨めな十字架の死を自ら選ばれたのです。そのことを聖書は、「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じようにこれらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14,15)と記しています。

そのことの意味は、キリストの弟子たちに起こった変化によって知ることができます。ローマ帝国は、紀元三百年頃まで、クリスチャンを絶滅しようと必死でした。彼らは皇帝を神として拝む代わりにイエス・キリストを神としてあがめていたからです。ところが殉教者の血が流されるたびに、クリスチャンの数が爆発的に増えてしまったのです。それは、クリスチャンたちの、死の脅しに屈しない姿が、人々に感動を与えたからでした。そこには、真のいのちの輝きが見られました。そして最後の大迫害の後まもなく、ローマ帝国はイエスの前にひざまずきました。

現在の日本に、幸い、そのような大迫害はありません。ただ、たとえば、重度の癌の苦しみに会う人は数多くいます。しかし、イエス・キリストを信じる人は、その死の苦しみの中で不思議なほどの平安に満たされ、いのちを輝かしているのを見ることができます。それは、キリストのいのちが、死の力に打ち勝っているしるしと言えましょう。

イエス・キリストの最初の住まい貧しく汚い飼い葉おけでした。そして、主は今、ご自身の霊によって、貧しく汚れた私たちの身体に住んでくださいます。その恵みの大きさは人生が順調なうちは分からないことが多いかもしれません。しかし、人生には必ず、試練のときがやってきます。そのとき、私たちのうちに住んでおられる創造主ご自身のいのちが、まわりの人にも明らかになるほど輝きを放つことでしょう。

2.「ことばは、私たちの間に住まわれ、神を説き明かされた」

聖書は続けて、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と語り、その目的を、「神を説き明かす」(ヨハネ1:18)ためであると記します。昔から人間は、自分の願いや疑問にすぐに答えを出してくれる神々を求めて偶像礼拝をし、本当の神様がどのような方であるかがわからなくなりました。それで、神がご自身の御子を人の姿で遣わすことによって、ご自身の愛を知らせ、人々を偽りの神から、まことの神へと立ち返らせてくださったのです。

アタナシウスは、キリストがローマ帝国にもたらした変化を、「十字架のしるしによってあらゆる魔術は終わりを迎え、あらゆる魔法も無力にされ、あらゆる偶像礼拝も荒廃させられ、放棄され、非理性的な快楽は終わりを迎え、すべての人は地上から天を見上げている」と証しています。キリストのすばらしさが明らかになるにつれ、人は、自然に、偶像礼拝や魔術に見向きもしなくなって行ったのです。そればかりか偶像礼拝では、「戦いの神」や「快楽の神」が人々を戦いや無軌道な性の快楽に向かわせましたが、当時の人々は、「キリストの教えに帰依するや否や、不思議なことに、心を刺し貫かれたかのように残虐行為を捨て・・・平和と友愛への思い」を持つようになり、また、「貞節とたましいの徳とによって悪魔に打ち勝つ」というように、生き方の変化が見られたというのです。

イエスは世界の価値観を変えました。イエス以外の誰が、社会的弱者や障害者に人間としての尊厳を回復させ、また、結婚の尊さや純潔の尊さを説いたことでしょう。イエスの教えがなければ天皇家が子孫断絶の危険まで冒して一夫一婦制を採用することはなかったことでしょう。主の教えなしには、近代医療の原則や福祉制度は生まれませんでした。現代の日本は、当時のローマ帝国などに比べ、倫理的な価値観からすれば、驚くほどにキリスト教化されています。現代社会で、ローマ帝国時代ほどにクリスチャンの生き方が目立つことがないのは、皮肉にも、イエスの価値観を多くの人がすでに知らされるようになったため、驚きがなくなっただけのこととも言えましょう。

不思議にも今、キリスト教会やクリスチャンの悪口を言う人はいくらでもいますが、イエスご自身のことを悪く言う人はほとんどいません。みな一様に、「イエスは立派だけど、教会は駄目だ・・」と言ってくれます。居直ってはいけないことはわかりますが、それはキリストの教えが広まった証しとさえ言えましょう。クリスチャンは、自分が馬鹿にされても、キリストの御名があがめられることを、いつでもどこでも考えながら生きるべきなのですから、これは喜ぶべきことかもしれません。その意味で、キリストのご支配は確かに、全世界に広がっています。それは神がこの混乱に満ちた世界の歴史を確かに導いておられることのしるしです。私たちは、自分の生き方が変わらないことに絶望することがあるかもしれません。しかし、心配する必要はありません。私たちのうちに住んでおられるキリストの霊は、聖霊と呼ばれるように、私たちを神の聖さにあずからせてくださる方です。汚い飼い葉おけに生まれたイエスは、あなたをご自身に似た者に必ず造り変えると約束しておられるからです。イエスの御名があがめられるところでは、自然に、偶像礼拝や不道徳は力をなくして行きます。不条理や不正と戦うのではなく、キリストが世界に知られるようになることこそが大切なのです。

3.「キリストは・・・のろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出し」

最後にアタナシスは、ことばが人となられたのは、私たちにふりかかるすべての「のろい」をご自身で引き受け、担うためであったと強調します。「のろい」とは不気味ですが、働いても生活が楽にならないばかりか、ある日突然、職場を追い出されてしまうという社会の構造は、確かに、「のろい」のもとにあると言えましょう。そして、その始まりは、アダムが善悪の知識の木から取って食べた時、神が彼に「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)と言われたことにあります。

イエスの十字架の意味を聖書は、「キリストは、私たちのために、のろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)と語っています。イエスは私たちの創造主であり、王ですから、私たちすべてののろいをご自身で引き受けることができたのです。

アタナシウスは、「主の死は、すべての者のための身代金であり、この死によって『隔ての壁』が取り壊され、異邦人の招きが実現し、イエスは一方の手で旧約の民を、もう一方の手で異邦人からなる民を引き寄せ・・われわれのために天への道を開いてくださった」と語っています。「隔ての壁」とは、神と私たちを隔てる壁、人と人とを隔てる壁の両方です。イエスは十字架でご自身の手を広げながら、私たちをご自身の中に招いておられます。ただ、それは不思議にも、私たちすべてをまずご自身の死とのろいの中に招きいれることから始まります。そのしるしがバプテスマ(洗礼)で、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られましたと言われます。ところがそれによって、「死んでしまった者は、罪から解放されている」という死と罪の支配からの解放がもたらされました(ローマ6:4,7)。将来の肉体の死は、私たちの霊的ないのちを損なうことはできません。

今、私たちはキリストとともに死んだことによって、キリストとともによみがえる者とされています。バプテスマは、キリストにあるいのちをその身に着ることの象徴です。私たちはすでに、「死からいのちへ」「のろいから祝福へ」と移しかえられているのです。サタンは、私たちの罪や汚れを指摘しながら、「お前のようなものが神の祝福のもとに入れられたなどというのは嘘だ。実際、お前はずっと昔の失敗を引きずって生きているだろうが・・・」などとささやきながら、キリストによる救いの現実を否定しようとします。サタンは今も、私たちがのろいを受け、天への道が閉じられているように見せ、「どんなに頑張っても、頭の上には暗雲がただよっている・・・」と思わせようとしています。

しかし、イエスは十字架に上り、空中で死ぬことによって、天への上昇路を開いてくださいました。十字架を見上げるとき、私たちはもう、すべての労苦が無駄になる「のろい」の下にはないことを知ることができます。そのことを聖書は、「ですから、愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記しています。

「ことばが人となられた」のは、私たちが神の愛とあわれみを知ることができるようになるためでした。そして、私たちは「ことばの受肉」を信じることによって、腐敗から不滅へ、のろいから祝福へ、死からいのちへと移されるのです。二千年前に、私たちの創造主が、滅び行く人間となってくださいました。それは、「私たちがみな、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられてゆく」(Ⅱコリント3:18)ための第一歩でした。「太陽の創造主がひ弱な赤ちゃんとなって飼い葉おけの中に眠る」というのは、想像を超えた神秘です。そのことを知らせたのは、天からの御使いであり、また天の星であり、またユダヤ人の常識の外にいる東方の博士たちでした。私たちは、自分の知恵ではなく、天からの導きによって、貧しい飼い葉おけに眠る方を、「私たちの王」として拝むことができるのです。

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2008年12月21日 (日)

ルカ1章57~2章14節「人々の期待を超えた救い」

                                                                                          20081221日                                 

 経済が予測不能な動きを見せています。たとえば原油先物取引価格ですが、一昨年末には50ドルだったものが今年の7月初めには147ドルの値を付け、その後半年間で四分の一の値に暴落し、先週はついに36ドル以下になっています。情報が瞬時に世界中で共有される時代になって集団心理的な動きが世界規模で加速されているのかも知れません。このような激動の時代には、常識と思われてきたことが問い直されるとともに、人の心の闇もあらわにされます。しかし、キリストの誕生の出来事に比べたら、すべては驚くに価しません。人は、基本的に、自分の経験を頼りに生きようとしますが、それが通じなくなるときこそ、神のご支配が見えてくるのではないでしょうか。

ルカによる福音書では、イエスの誕生に先立って、バプテスマのヨハネの誕生の経緯を、神殿での礼拝から始めながら詳しく描かれます。実は、旧約聖書を知っている人にとって、バプテスマのヨハネの誕生の様子こそが、期待された救い主、ダビデの子にふさわしい誕生でした。それに比べてイエスの誕生は、人々のあらゆる期待を裏切る惨めな誕生です。しかし、それこそ、イエスが全世界の救い主、もっとも貧しい人の救い主になるために必要なことでした。多くの人にとって、神の救いが分かりにくいのは、それが人々の期待を超えたものだからです。

 私たちも、神のみわざを、自分たちの期待の範囲でとらえてしまいがちです。それは、仕事の成功や、結婚の導きであったり、人間関係の改善であったりします。しかし、神は、「見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」(イザヤ43:19)と言われます。しばしば、神の恵みとあわれみが見えないのは、大流星群の到来を聞きながら、別の方向の空を見上げて、「私は何も見えなかった!」と失望しているようなことと似ているのではないでしょうか。

1.エリサベツの妊娠とマリヤの妊娠

バプテスマのヨハネの父ザカリヤは祭司でした。彼は妻エリサベツとともに「神の御前に正しい」(1:6)と評される人でしたが、「エリサベツは不妊の女」(1:7)で、彼らには子がありませんでした。そのような中でザカリヤは神殿に入って香をたくという名誉は働きに選ばれました。そのような中で、御使いが彼に現れ、年をとった不妊の女に男の子が生まれると言われたばかりか、その名をヨハネとつけなさいという名前までが示されます。不妊の女と神殿での祈りから、ダビデを王に任じた預言者サムエルの誕生と似ていることがわかります。またナジル人サムソンの誕生とも似ています。また生まれる前から名前が与えられていたという点ではイサクの誕生にも似ています。とにかく、ヨハネの誕生は、神に選ばれた偉人たちすべての誕生の不思議を合わせたような神の奇跡でした。

主は、旧約の最後の預言者マラキ以来、沈黙を続けておられましたが、このときザカリヤに現れ、生涯神に仕えるナジル人の誕生を告げます。その子は「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」(1:15)という選びの器で、エリヤの霊と力で主の前ぶれを」(1:17)すると言われますが、これは旧約最後のことば、「わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤを遣わす。彼は父の心を子に向けさせ・・」(マラキ4:5,6)に基づきます。その際マラキではさばきが強調されていましたが、ここでは主の救いに備えるという面が強調されます。

  ただ、ザカリヤはそのことばを素直に信じられませんでした。それで御使いは、「これらのことが起こる日まで」という限定期間付きで、彼が「おしになって、ものが言えなくなる」(1:20)と告げます。そこにさばきとともに神のあわれみが隠されています。彼は、「その時が来る」まで、聖書を注意深く読み、神の救いのご計画に思いを馳せることができました。しばしば、このように、苦しみの時期は、真の意味で神の救いのご計画を思い巡らすための機会として用いられます。そして、妻のエリザベツもみごもって「五ヶ月の間引きこもり」ます(1:24)。夫はおしのままですから、彼女はひとりで主の御前に静まり、身に起こったことに思いを巡らしたことでしょう。彼女は、自分をサムエルの母ハンナに、その子の使命をサムエルに重ね合わせることができたに違いありません。

そしてこの直後に、同じ御使いのガブリエルがナザレのマリヤに現れ、イエスの誕生を告げます。ここに不思議な対照が見られます。エリサベツの場合は、彼女自身が祭司アロンの家系であるということと、その敬虔な生き方が描かれていましたが、マリヤは「ひとりの処女」で、「ダビデの家系のヨセフのいいなずけ」としか描かれません。まるで彼女の血筋も教養も生き方も、何のテーマにはならないかのようです。彼女はどこにでもいそうな結婚適齢期を迎える少女に過ぎませんでした。ただ、マリヤの場合は、処女のまま、聖霊によって妊娠するというのです。ヨハネの場合は、母の胎内にあるときから聖霊に満たされてはいたのでしたが、その誕生は生物学的には自然なものでした。しかし、マリヤから生まれる子は父のヨセフとは何の血のつながりもなく、まさに神のひとり子がマリヤを通して人となるという奇想天外な奇跡です。残念ながら、世の人々は、イエス・キリストを模範的な宗教指導者としてしか見ない人がほとんどです。しかし、それはバプテスマのヨハネにこそ適用できることです。彼の両親こそ、偉大な指導者を育てるにふさわしい人々で、神ご自身がその誕生を導いておられました。

  御使いは、マリヤに処女のまま男の子を産むという不思議を説明するために、彼女の親類のエリサベツも高齢になり、しかも、「不妊の女といわれていた人」なのに、妊娠六か月になるという例を出しながら、「神にとって不可能なことはありません」と言います(1:36,37)。これは、マリヤの妊娠が、人の想像を超えた神の奇跡になることを示すものです。それにしてもエリサベツの場合、生まれ育った家系、また夫とともに主に仕えてきたという体験から、待ちに待った偉大な預言者を育てる資格がそれなりにあったことでしょうが、マリヤの場合には、神の都から遠く離れた片田舎の処女であるとしか記されていません。それは神の御子を産み育てるということが前人未到の働きになるので、下手な教育や経験などがないほうが良いという面もあるのかもしれません。そして、マリヤもこの途方もない招きに対して、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言って応答しました(1:38)。これは、全能の主に自分の身を一切投げ出すという、大胆な祈りです。

たとえばマザー・テレサもある時、イエスが、「最も貧しい人々の中に、わたしを運びなさい。来て、わたしの光となりなさい・・・あなたが無能で、弱く、罪深いからこそ、あなたを私の栄光のために用いたいのだ」と語りかけるのを聞き、あの働きへと一歩を踏み出しました。神は新しい働きのためには、何の先入観もなく、人間的な常識を超えた未熟な人を敢えて選ばれます。実は、神のみわざの最大の障害は、人間が自分の知識や経験を誇って、神に心を閉じることにあります。現代社会も、今までの知識や経験が役に立たないような前人未踏の分野に足を踏み入れています。そのような中で、何よりも大切なのは、神のみわざに自分自身を差し出すことです。

 

2.マリヤの賛歌とザカリヤの賛歌

 それにしても処女のまま妊娠をしてしまったマリヤは、いろんな誤解や中傷にさらされることになります。そのような中で、彼女は、遠く離れたエリサベツの家を訪ねます。そこでマリヤは、聖霊に満たされたエリサベツによって「主の母」と呼ばれ(1:43)、大きな励ましを受けます。それに応答するようにマリヤの口からは、神への賛美が生まれてきました。その核心は、「主がこの卑しいはしために目を留めてくださった・・・今から後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」(1:48)と、神のみわざが自分から世界に広がってゆくことを期待することにありました。そして、主のみわざが、「心の思いの高ぶっている者を追い散らし・・・低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ちたらせる」という神の逆転でした(1:51-53)。彼女の賛美は極めてパーソナルなものです。彼女はまさに卑しく貧しい人々のひとりでした。ひょっとしたら彼女の幼馴染は、ローマへの税金が払えなくて奴隷として売られてしまったかもしれません。それでも彼女には、恨みやねたみの思いに苛まれて心が歪んでしまう代わりに、ただ神の救いをあきらめずに求め続けるという信仰がありました。「あのような劣悪の環境の中で、なぜあれほど心が素直に育ったのでしょう!」と言われるのがマリヤだったことでしょう。それこそが神の賜物でした。

さて、マリヤの記事をはさんで、エリサベツの出産の様子が、「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ」(1:57,58)と記されます。それは極めて恵まれた環境での出産であったことが明らかです。しかも、名前をつけるにあたって、これが神から与えられた名であることが、まわりの人にも明らかになりました。なぜなら、ザカリヤがその子に、「ヨハネ」という名をつけるとともに、「彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」(1:64)からです。この名はヘブル語で「ヨハナン」(主は恵み深い)で、珍しい名ではありませんが、神が直接に名を与えてくださるという不思議は、サムソンでも、サムエルの場合でもなかったことでしたから、人々は、「いったいこの子は何になるのでしょう」(1:66)と言い、この子を通して、新しい時代が開かれると期待したことでしょう。

68節から79節までの「ザカリヤの賛歌」の中心テーマは、「イスラエルの・・・贖い」(1:68)です。それは彼らが、かつてエジプトやバビロンから解放されたように、ローマ帝国の奴隷状態からの解放されることを意味しました。そのために、ダビデの家系から力強いリーダーが現れ、「すべてわれらを憎む者の手からの救い(1:71)を実現すると期待されていました。その上で、「主は・・アブラハムに誓われた誓いを覚えて」と「誓い」ということばを重ねながら神の救いを語りますが、これこそ聖書のテーマであり、それをもたらすのは「主のあわれみ」です(1:72,73)

ところで、サムエルがいなければダビデが王になることはできませんでしたが、同じように、エルサレム神殿での礼拝から生まれたヨハネの働きがなければ、人々がその出生も明らかではないイエスの話に耳を傾けることはなかったことでしょう。そして、ヨハネは、「主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を教える(1:76,77)とその使命が記されますが、「罪の赦しによる救い」は、私たちの功績以前に、「神の深いあわれみ」(1:78)によるものです。ところでヨハネはその後、父が仕えたエルサレム神殿ではなく、「イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野に」(1:80)いました。エルサレムにおいては、神殿を中心に権力構造ができていました。「罪の力」は、「最も聖なるもの」を「争いの原因」とすることにあります。しかし、不思議な逆説ですが、豪華絢爛たる神殿での祈りから生まれたヨハネは、人々の目を荒野へと向けさせたのです。そして彼は、人々の心を神に立ち返らせるために、神殿でのいけにえを用いる代わりに、ヨルダン川でバプテスマを施しました。それは、神殿の本質である「神の深いあわれみ」に立ち返らせる働きでした。私たちの目も、目に見える富や力のシンボルから、神ご自身に向けられる必要があります。大きな変動の時代は、人々の心が誤った常識から解放される機会になります。マリヤの賛歌は、極めてパーソナルな救いの喜びが、ザカリヤの賛歌においては、イスラエルの歴史に焦点が当てられています。そこに共通するのは、「神のあわれみ」です。私たちは、この世から生まれ、この世に生きています。しかし、そのすべての背後に、神のあわれみに満ちた「選び」がありました。この世の営みを否定するのではなく、矛盾に満ちた世のただ中で、神のあわれみのご支配の現実に目を向けることが必要です。

3. イエスの誕生の貧しさと、主の栄光の現れ

  救い主の誕生の様子が2章から記されますが、このような章の区切りは後の時代につけられたもので、この記事はザカリヤの賛歌と切り離せない関係にあります。その終わりでは、「日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の影にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」(1:78,79)と歌われていますが、これは2章14節の「天の軍勢」の賛美に直接につながることです。そして、それをはさむようにイエスの誕生の様子が描かれます。それまでバプテスマのヨハネの誕生の様子を読んできた人は、この落差に唖然とさせられることでしょう。

  最初に出てくる、「ローマ皇帝アウグスト」という人は、戦いに明け暮れた古代ヨーロッパ、中東、アフリカに渡る地に四百年間もの平和の基礎を築いた、歴史上最も偉大な政治指導者のひとりです。その皇帝の命令によって、「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行」(3節)かざるを得なくなり、ヨセフも臨月を迎えるマリヤを伴って、イスラエルの北部の町ナザレから南部の町ベツレヘムまで、三日間あまりもの距離を、しかも、高低さが千二百メートルもある険しい道を、ただ、「登録するため」(5節)だけのために歩かなければなりませんでした。まさに、彼らこそ、権力者の気まぐれに振り回される「暗黒と死の影に座る者」の代表者です。

  その上で、イエスの誕生という重大なことが、驚くほど簡潔に、「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(2:6,7)と記されます。救い主の誕生の様子は、たったこれだけしか描かれていません。「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて・・」とは、彼らがベツレヘムに既に一定の期間滞在していながら、誰からも助けてもらえなかったことを示唆します。しかも、「布にくるんで飼い葉おけに寝かせた」(7節)のはマリヤ自身であるかのようで、助産師さんの助けも得られなかったのです。ヨセフはこんなときの男の常として、ただおろおろしていたのかも知れません。また、「飼い葉おけ」が、「家畜小屋」の中にあったとも記されていません。実は、何よりもここで強調されているのは、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」という一点なのです。当時の宿屋は極めて粗末、危険で、豊かな人々は親類や紹介された家に泊めてもらうのが普通でしたが、ヨセフは、ダビデの家系だというのに、誰の紹介も受けられませんでした。つまり、彼らは、「貧しい人が泊まる宿屋にさえ、居場所がなかった」と言われているのです。しかも、マリヤは誰の目にも出産間近と見えたはずなのに、誰の助けも得られませんでした。住民登録で町が異常に混雑していたなかで、人は自分の身を守るので精一杯だったのでしょう。

暖かい宮殿で、多くの人にかしずかれながら出された皇帝の命令が、マリヤをこのような惨めな出産に追いやりました。しかし、それを導いておられたのは、天の王である神様でした。それは、イエスが、世界の創造主で、すべてを支配しておられる方なのに、「いる場所がない」という人の仲間になってくださったということを意味します。

現代も、何と多くの方々が、孤独感に苛まれ、「誰も私に注意を向けてくれない。心の痛みを聞いてくれない」と悩んでいることでしょう。多くの人々は、自分の居場所を作ろうと、他人の顔色ばかりを伺いながら生きています。しかし、救い主は、敢えて、「居場所のない人の友」となるために、飼い葉桶に生れ落ちてくださったのです。

  そのとき、そこから離れた野原で、何と、羊飼いを恐れさせるほどの、「主(ヤハウェ)の栄光が回りを照らした」というのです(2:9)。当時の人々は、ローマ帝国の支配のもとで苦しみながら、この「主の栄光」が戻って来るときを待ち焦がれていました。ところが、それは、信仰の中心のエルサレム神殿ではなく、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っている、貧しい日雇い労務者のような羊飼いに現れたのです。そして、御使いは、彼らにこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た」(2:10)と、彼らを民全体の代表者として選んでメッセージを託すと言いました。しかも、この羊飼いたちに示された、救い主の「しるし」とは、まばゆい光ではなく、何と、「布にくるまって飼い葉おけに寝ている」(2:12)という貧しさそのものでした。そして原文では、「飼い葉おけ」ということばに続いて、「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて・・」(2:13)と、地の貧しさと対照的な、天の栄光が垣間見られます。これは、どんな偉大な預言者も聞けなかったような天の軍勢による最高の賛美でした。「いと高き所に、栄光が、神にあるように」とは、多くのクリスマスキャロルの原型です。また、続けて、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と歌われましたが、「御心にかなう人々」とは、エルサレム神殿の宗教指導者ではなく、毎日の糧をやっとの思いで手に入れている社会の最下層の人々、羊飼いたちのことでした。これは、「御心が向けられた人」とも訳され、神があわれみをかけてご自身のまなざしを向けてくださった人を意味します。

イエスは、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」(6:21)と不思議なことをおっしゃいましたが、しばしば、人は、徹底的に自分の弱さ、頼りなさを味わうということがなければ、自分に神の御心が向けられ、自分が神の愛に包まれ、支えられてきたのだということを、知ることもできないものです。その意味で、人間的な苦しみや貧しさの中にこそ、神のあわれみに満ちたご支配を認めることができるのではないでしょうか。

それにしても、イエスが実現した「救い」とは何でしょう?多くの人々は、イエスを、旧約の律法に代わる新しい教えを広めて当時の宗教指導者の反発を買って非業の死を遂げた人と見ます。しかし、それに相当するのは、バプテスマのヨハネでした。彼こそ、人々の心を聖書の教えの原点に立ち返らせようとした最後の預言者でした。そして、彼はそのような偉大な指導者としてふさわしい誕生の仕方をしています。聖書は、彼の誕生とイエスの誕生をセットに描くことで、イエスはあらゆる人間の枠を超えた存在であることを示しています。

ヨハネは、人々に悔い改めを説きました。それは残念ながら、一時的に罪を抑制することしかできません。私たちは、何度も、「今度こそ、心を入れかえます・・・」などと言いながら、また同じことを繰り返してはいないでしょうか。ヨハネは、人々に厳しく迫りながら、人間の心の限界を指し示し、人にはできないことを、神の御子であるイエスがなしてくださることを示そうとしていたのです。預言者イザヤは、救い主が、「私たちの病を負い、私たちの悲しみを担った」と記し、同時に、「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」と記しています(イザヤ53:4,6)。そして、イエスが処女マリヤを通して生まれたということは、創造主である神が私たちの同じ血と肉を持つ人となったということを意味しますが、それは私たちの心と身体に巣食っているすべての腐敗をご自身で引き受けるためでした。すべての罪や穢れから無縁な方が、すべての腐敗を引き受けるため人となってくださいました

飼い葉おけに横たわっている赤ちゃんは、この世界の創造主であり、この世界を保ち支えておられる方、この世界の支配者でした。これは人知を超えた神秘ですが、これこそ正統的なキリスト教会の告白です。そして、今、イエスはご自身の御霊によって、あなたの内側に住み、同時にこの世界のすべてを支え、支配しておられます。 

また、多くの人は臆病さと不安のゆえに、自分の身を守ろうとして、人を傷つけます。しかし、私たちはもう死の脅しに屈する必要はありません。聖書は、神の御子が人となった理由を、「そこで子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14,15)と記しています。「死」は私たちの敵です。しかし、神の御子は、死ぬことができる身体となって、私たちを、死の支配から自由にしてくださったのです。イエスが処女マリヤから生まれたとは、神が人となってくださったことを意味します。そしてイエスが十字架にかかった悲劇は、イエスが三日目に墓を空にして新しいからだをもってよみがえり、死の力に打ち勝たれたという勝利の始まりでした。今、私たちには、死の力に勝利した方の御霊が宿っています。また、私たちと同じ弱い肉体と心を持ちながら、罪の誘惑に勝利し続けた方の御霊が宿っています。

「良い教えを聞いて、心を入れ変えます」という次元では解決できないのが、私たちの問題です。それを内側から、根本から癒すために、神の御子は人となってくださいました。飼い葉おけに宿ったイエスは、あなたの心と身体に住まいを得て、あなたを内側から造り変えるとともに、あなたをご自身と手とし足として用いることができます。イエスの救いは、今ここから始まり、全世界が新しくされ、平和に満たされることにまで及びます。この世には暴力やリストラの脅しが絶えませんが、私たちは問題のただなかで、主にある勝利を確信して喜ぶことができます。

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2008年12月14日 (日)

ルカ1:26-56 「悲惨の中に見られる神の国」

                                          20081214

私たちはクリスマスのたびごとに、「人々は苦しみの中で長い間、救い主を待ち続けていた。そして、イエスはこの世界を救う方として二千年前にベツレヘムにお生まれになった。」と語り合います。しかし、一体何が変わったのでしょう?世界は今も貧困と争いが続いています。サタンは「キリストは、暦の数え方以外の何も変えなかった」とささやき続けてはいないでしょうか。

私たちは、何かの問題を解決したり、何かを達成できたときに喜びます。しかし、クリスマスの喜びは、その正反対に、神が私たちのために貧しくなってくださったことを覚える機会です。このとき、苦しみや病いや死と無縁なはずの創造主が、この地の混乱のただなかに降りてきてくださいました。ですから、私は個人的にはクリスマスの賛美歌は、静かで単純なものが好きです。ドイツでクリスマスになると町中に響いている賛美歌は、マルティン・ルターが自分の子供たちへのクリスマス・プレゼントとして作ったという「天より来たりて」です。

これは真夜中に、天使が天から下ってきて、野宿で夜番をしていた貧しい羊飼いに救い主の誕生を告げてくださったことをモチーフとしています。2番の歌詞は、「処女のマリヤに生まれし御子こそまことの神なり」と歌われます。マリヤの胸に抱かれているひ弱な赤ちゃんが、まことの神であるというのは奇想天外な告白です。そして、五番では神の御子のしるしは、栄光の光ではなく、「飼い葉桶」という貧しさであり、そこに横たわっているのは、「天地の造り主」であると歌われます。七番の歌詞では、「心の目」をもって、飼い葉桶を見るなら、そこに主(ヤハウェ)の栄光」が見えると記されます。10,11番では、この世の豪華さが御子の住まいにふさわしいのではなく、御子ご自身が貧しい干し草に宿るとき、そこが天国になると歌われます。つまり、神はあなたが住んでいる矛盾と混乱に満ちた世界を天国に変えるためにマリヤから生まれてくださったのです。そして13番では、飼い葉桶に宿られたイエスが私たちの心に宿り、神がご自身のみわざを私たちを通して成してくださるようにと祈ります。

  

1. 「神にとって不可能なことはありません。」

  あるとき御使いガブリエルが処女マリヤに現われ、「おめでとう、恵まれた方」と言います。ここからアベ・マリヤというラテン語の賛美歌が生まれます。しかし、人間的に考えると、これはまったくおめでたい話とは思えません。とまどうマリヤに、「こわがることはない・・あなたはみごもって、男の子を産みます」(3031)と告げます。これを恐がらないでいられましょうか?彼女はヨセフと婚約していましたから、妊娠は、石打の刑に相当する罪を犯した結果と見られます。ところが彼女は、ただ御使いが語る言葉にじっと耳を傾け続けます。神から離れた人の特徴は、みことばを聴くことができなくなることですが、マリヤは奇想天外な話に耳を傾け続けます。

すると御使いは、生まれる子は、待ち望まれた救い主としてダビデ王国を再興して下さる方だと言いました。しかも、「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」(33)と、その国がこの地上の王国のレベルを超えるものであることを示唆します。たぶん、マリヤにその意味は不可解だったことでしょう。

ただしマリヤは、自分たちの国の現状に心を痛めていました。外国の支配下で暴力と不正がまかり通り、人々は貧困にあえいでいました。ですから彼女は当然ながら、救い主が来られるのを待ち望んでいました。その待ち望む気持ちが強かったからこそ、御使いのことばを真剣に聞いたのでしょう。しかし、その救い主が、自分の身を通して生まれるということになるなら、「どうか別の人を選んで下さい」と言ったとしても当然かも知れません。

しかし、マリヤは、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」(34)と答えました。これは、拒絶でも不信仰でもなく、「どのように」という疑問です。彼女の関心は、自分の身の安全を守ろうとすることではなく、まだ処女である自分から、どのようにして子供が生まれることが可能になるかという点にありました。私たちも、主のみこころに拒絶でも不信仰でもなく、「心を開く」ということが求められています。

  御使いは聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(35)と答えました。つまり、全能の神の霊、聖霊が彼女の上に下ることによって、彼女は、何と、処女のまま子供を生むことになるというのです。処女降誕は多くの人にとってつまずきですが、これこそ聖書の教えの核心です。これを文字通りに受け止めない解釈は、力のない道徳に過ぎなくなります。この神秘的な誕生を前提として、「それゆえ生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれ」ます。つまり、生まれる子の本当の父は、人ではなく、神ご自身なのです。

 そして、彼女の信仰の応答を引き出した決定的なことばこそ、「神にとって不可能なことは一つもありません(For nothing is impossible with God)(37)です。もし、真実に、このことばを腹の底で受けとめるなら、私たちの人生は決定的に変わるのではないでしょうか。多くの人々は、自分の身の安全を優先するあまり、神のご計画に対して自分の心を閉ざしてしまいます。ただ、神は、人をロボットのようには造られませんでしたから、まず私たちが自分の心を開かなければ、私たちを通してみわざをなそうとはなさいません。問題は、神が無力なのではなく、あなた自身が、神のみわざを小さくする方向に心を狭めていることにあるのです。

多くの人々が誤解していますが、イエス・キリストはマリヤから生まれる前から、存在しておられた方です。それどころか、この方は、父なる神とともにこの世界を創造された神の御子です。福音記者ヨハネは、この方を「ことば」として描きながら、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった・・・すべてのものはこの方によって造られた・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:1,3,14)と言っています。それにしても、パウロは、「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」(Ⅰテモテ6:15,16)と言っていますが、今、そのようにすべてを超越した神が、マリヤを通して人となろうとしているのです。神は、人の苦しみを上から見下ろして、上から指導する代わりに、ご自分で不自由な死ぬべき人間の身体、痛み苦しみ飢え渇き、その弱さのゆえに罪を犯す可能性のある身体をとろうとしておられます

つまり、死ぬことのない神が、死ぬことができる身体となるために、処女マリヤを通して人となるのです。私たちは、「不可能が可能になる」ということを、人の尊敬を勝ち得る何か大きなことをすることかのようにばかり思いがちですが、これはその反対方向のことで、とてつもなく小さく、弱く、不自由で惨めな姿になるという意味です。私たちは、「私はそんな貧しい生活に耐えられません。そんな汚いところには住めません。そんなわけのわからない人の友達にはなれません・・・」ということがあると思いますが、それが可能になるということなのです。

社会が便利になるに連れて、人がどんどんひ弱になっていると言われます。非行少年少女のカウンセラーが、その子たちのことを、「悩みを抱えられない少年たち」と呼んでいますが、そのような現実が案外身近にあるのではないでしょうか。思い通りにならないことがあるとすぐに、キレてしまったり、短絡的な行動に走ったりする人がいますが、マリヤは、悩みを抱える力を与えられていた少女でした。そして、今、誰も体験したことのない悩みを抱えようとするにあたって、「神にとって不可能なことは一つもありません」と励ましを受けているのです。神はその全能の力のゆえに、苦しむことができます。そして、私たちも苦しむ力、悩む力を神から受けるのです。

2. 「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

  マリヤの応答の最初は、「ほんとうに、私は主のはしため(奴隷)です(38)でした。私たちは、自分の願望をかなえてくれる神を求めてしまいがちですが、それは神を自分の思い通りに動かそうとする傲慢になる危険があります。それでは神の真実の愛を体験することはできません。ただ、それは、決して、自分の願いを訴えてはならないという意味ではありません。神に、問題の解決の方法を指定するのではなく、自分が味わっている不安や孤独という感情を、そのまま正直に打ち明け、へりくだって助けを求める姿勢こそが大切です。

どちらにしても、私たちに求められている生き方は、自分を主人とする代わりに、神を自分の主人とし、自分を神のしもべに置く生き方であるということは忘れてはなりません。私たちはすべて自分のためにではなく、使命のために生かされているからです。それは、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ14:7,8)と記されている通りです。

  そして、マリヤが述べた、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」こそ、私たちにとって究極の祈りの模範です。これは、単なる受け身ではなく、自分自身を差し出すという大胆な能動的姿勢です。

  主の祈りでは、「みこころが行なわれますように」と祈られますが、これは三人称単数の受動命令形という特殊な形で、「私に、みこころを行なわせて下さい」という願いでも、「あなたが、みこころを行なって下さい」という願いでもありません。つまり、「私が、私が」という能動態でも、「あなたまかせ」の受動態でもありません。「私が・・」という思いに囚われると、常に何かの働きに駆り立てて休むことができず、また周りの人をも振り回します。反対に、「あなたがなさってくださらなければ・・」という姿勢に流れすぎる人は、怠惰に逃げ込み、神のかたちに造られた自分をさげすむ結果になります。この祈りの形は、能動性と受動性を包括するもので、能動的な受動性を表わし、その意味は、「神のみこころが、私たちの心のうちに、世界中に行なわれるように」という願いです。

たとえば、あなたがまわりの「うめき」(ローマ8:22)の声に、心の耳を開きます。そして、福音書にあるイエスの姿を黙想します。すると「イエスは、今、私のからだを用いてご自身のみわざをなしたいと願っておられる・・」と、心に迫ってくるかも知れません。それに身を委ねるとき、感謝されたいという思いに動かされるのでも、「私なんか何もできない」という思いに縛られるのでもなく、神のみこころに動かされた、神の愛のわざがなされるのではないでしょうか。それこそ、私たちのあらゆる能力と個性がフルに生かされる生き方です。

マリヤは自分の身を何の条件もつけずに差し出しました。それは大胆な能動的な一歩を踏むことであると同時に、徹底的に受身になることでした。神の御子は、このような祈りの応答を通して、人となることができました。

そして、ここでエリサベツは、マリヤを、「私の主の母」(43)と呼んでいます。つまりマリヤは、自分を「主のはしためとして差し出した結果、主の母となったのです。私たちも自分を「主のしもべ、はしため」として差し出すなら、神は、私たちを通して、私たちの思いを超えた働きをなしてくださるのです。

ところで、正統的な教会は、451年に作られたカルケドン信条を受け入れています。そこでマリヤは、「神の母」と呼ばれますが、それはこのエリザベツの告白に由来します。新約聖書ではしばしば、「主」ということばに旧約の「ヤウェ」の意味が込められていますから、「主」を「神」と読み替えるのは聖書的です。そこで意図されているのは、マリヤが「神の母」として礼拝の対象となるという意味では決してなく、イエスはマリヤの胎内にいたときから神であるという意味です。すべてを超越している神が、マリヤの胎内の羊水の中に浮かぶ胎児となられたというのです。「太陽の創造主が胎児となられた」などというのは、いかなる理性的判断をも超えた神秘です。

私たちは自分がたったひとりで暗闇の中に住み、何にもできない、神から遠く離れた存在だと自分を小さく見ることがあるかもしれませんが、神はひとりの少女のお腹に宿る胎児になるまでに小さく弱い存在となってくださったのです。この世では、「何ができる」という能力で人の価値が測られますが、創造主が胎児となってくださったことを覚えるとき、胎児がどれだけ神から重たい存在と見られているかが分かります。「小さないのちを守る会」の働きの中心は、胎児のいのちを守ることにありますが、初代教会時代からそれは常に教会の働きでした。

この世の混乱は神が無力であるとのしるしではありません。それは人間が強くなることや偉くなることばかりを求め、権力闘争をしていることの結果に過ぎません。それで、その問題を解決するために、神はとことん下に下ってくださいました。世の多くの人から、まだ人間とも見られていない胎児にまでなってくださったのです。

あなたの弱さ、あなたの無能さ、あなたの小ささ、あなたの罪深さは神のみわざの妨げにはなりません。神のみわざの妨げになるのは、あなたの強がり、あなたの自己正当化、あなたの頑固さです。マリヤは、何にもできない無力な少女でした。貧しい育ちで、どれだけ読み書きができたかさえも分かりません。ただ、彼女には自分自身を神のみわざのために差し出すという信仰がありました。それによって、彼女は、「神の母」となったのです。そして、そのとき、太陽の創造主は、まだ目も見えず、呼吸もできない無力な胎児となることができました

 光の創造主が、まったく無力な胎児となられ、光の届かない胎内に住まわれたというのは何という神秘でしょう。ですから、あなたの世界がどれだけ暗く見えたとしても、それは神がいないことのしるしではありません。

3. すべてを逆転させる神の力

  46-55節は、マグニフィカートと呼ばれる賛美の模範です。マリヤは、「わがたましいは・・」(46)「わが霊は・・」(47)と、全身全霊で神をあがめます。自分が救い主の母になるという気負いではなく、神を、わが救い主として、「喜んで」いるのです。彼女は、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」(48)という点にのみ自分の心を向けます。そして、その後の人生に起こり得る様々な困難を覚悟しながらも、最終的な祝福を信じ、「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」という希望を告白します。

マリヤはこのとき、人間的に見ると不幸のどん底だったかもしれません。彼女はひとりで自分の家のあるナザレから遠く離れたエルサレム近郊のエリザベツの家を訪問中でしたが、これは当時としては珍しいことです。彼女の心にそうせざるを得ない切羽詰った必要があったのではないでしょうか。彼女は未婚のままお腹が大きくなるという中で、人々から白い目で見られ孤独を味わっていたかもしれません。御使いが知らせてくれたエリザベツ以外に、この一連のことを理解できる人はいなかったからこそ、ほれほど遠くまで来たのではないでしょうか。

しかし、マリヤは、「これ()から後」という今から始まっている将来に目を向けます。それは人々がイエスを救い主として認めるようになったときばかりか、これから許婚のヨセフや彼女の家族がマリヤの胎に宿っている子が救い主であることを認め、その輪がどんどん広がってゆくという方向を見てのことです。私たちにとって何よりも大切なのは、今このときがどこに向かっているかを知ることです。私たちの信仰とは、常に、今が苦しく辛くても、私たちの明日は神によって必ず開かれているという希望の中に生きることです。

その根拠は何よりも、「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」(49)という点にあります。私たちの信仰は、「神が私に目を留めてくださった」という一点から始まります。自分の信仰や自分の能力、自分の性格を見る前に、神の眼差しに心を向けるのです。神があなたに目を留め、あなたひとりに語りかけ、あなたのうちに、神への愛、イエスへの信頼を起こして下さいました。それこそ、神の再創造のわざでした。既に神の奇跡が始まったのです。それによって、彼女に目に見える形で起こったことは、未婚のままお腹がどんどん大きくなるということですが、彼女は、「力ある方が・・大きなことをしてくださった」という神のご計画に目を向けます。

私たちの場合も同じように、目に見える現実は何も変わらず、いやかえって悪くなっているように見えても、力ある神のみわざが始まっているという点にこそ目を向ける必要があります。あなたの内には既に、全能の神の御霊が宿っておられます。その際、あなたの弱さは何の障害にもなりません。かえって弱さを自覚することこそが神のみわざの出発点です。主は、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」(Ⅱコリント12:9)と言われます。

このマリヤの賛歌も、「主の力」、「主の聖さ」、「主のあわれみ」に目を向けつつ(49,50)「主は・・高ぶっている者を追い散らし・・低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富むものを・・追い返され」と、神にある逆転を歌っています。パウロは自分たちの能力や霊性を誇っているコリントの教会に向けて、「神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです・・・これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(Ⅰコリント1:27,29)と説きました。聖書のあらゆる知識に通じていたパウロは、この真理を無学なマリヤの賛歌から学んだのではないでしょうか。信仰は知識ではないことのしるしです。私たちもマリヤに習って、その神の全能のみわざに身を差し出せば良いのです。私たちに問われるのは、神が私たちを通して事をなすことができるように自分を差し出すかどうかなのです。

そして、マリヤは、「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで(思い起こしながら)、そのしもべイスラエルをお助けになりました」と歌います。「あわれみ」ということばはこの歌のキーワードです。それは50節にもあることばですが、それ以前に、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」ということばにも通じます。

マリヤは自分に神のまなざしが注がれていることを、イスラエルに対する神のあわれみの観点から見ています。しばしば、貧しい人は自分のことしか考えられなくなりますが、マリヤは自分に起こっていることを、神がアブラハムに約束されたことばという観点から見ています。彼女の視野は何と広いことでしょう。彼女は、ここで聖書のメッセージの本質を把握しています。それは神がアブラハムへの約束を、民の不従順にも関わらず守り通されるという意味です。それは神の真実として描かれます。信仰とは、神のあわれみと真実を信頼し続けることにほかなりません。多くの人は、「信仰によって自分を変えよう・・・」などと思いますが、信仰とは何よりも、神が罪びとの私たちをあわれみ、私たちを内側から作り変えてくださることを信じることです。つまり、神のあわれみと真実に信頼し、神が私たちを作り変えてくださることを信じることの結果として、私たちは変えられてゆくのです。信仰は、自分の心を律する道ではありません。神が自分や世界をあわれみ作り変えてくださることへの信頼です。

今から150年近く前、ハワイのモロカイ島にハンセン氏病患者が「らい病人」として社会から見捨てられるように隔離されていました。そこでダミアンという神父が単身で働き始めました。彼は自分がらいに感染したとき、自分も彼らの仲間になれたと喜んだほどでした。それに感化され多くのシスターがそこで働き出しましたが、そこを訪ねた米国の小説家スティーブンソンは次のような詩を記しました。これこそ、この世に神の国を見ることです。

「ライのいたましさを一目見れば、愚かな人々は神の存在を否定しよう。

しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう」

イエスの救いは、キリスト者を通して世に現わされます。イエスが惨めな飼い葉桶を最初の住まいとされたように、イエスは、汚れたあなたの心の中に住み、あなたの手と足を用いてくださいます。それこそが神の奇跡です。その始まりが、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」というマリヤの祈りをささげることです。

マリヤの賛歌をもとに多くの賛美歌が生まれています。賛美歌95番もそのひとつです。マリヤの気持ちになってこれらの賛美を主に向かってささげることから私たちの変化が始まります。神の救いのみわざは、しばしば、目に見える現実を劇的に変えてくださることとしては表されません。それは何よりも、神が混乱と苦しみのただ中に降りてきて、この世の地獄と思われる所に住む人の心を内側から造り変えてくださるということを通して表されます。神が天から降りてきてくださったということは、まず私たちの心の中で受け止められるべき信仰の真実です。

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2008年12月 7日 (日)

伝道者の書5:8-6:12「満ち足りた生活とは」

伝道者の書58節から612節 翻訳

もし、貧しい者が虐げられ、さばきと正義が奪い取られているのを、

ある地域に見たとしても、そのことに驚いてはならない。

それは、より身分の高い者が、その身分の高い者を見張っており、                   

また彼らより、さらに身分の高い者たちもいるのだから。

何よりも地に益となるのは、耕されるべき土地のための王である。 

金銭を愛する者は、金銭に満足することがない。豊かさを愛する者もその収益に・・・。   

これもまた空しい。

財産が増えると、それを消費する人も増える。持ち主はそれを目で見る以外、何の得もない。

働く者の眠りは、少し食べても多く食べても、心地良い。                       

しかし、富む者は満腹しても、眠りを妨げられる。                          

痛ましい悪が日の下にあるのを私は見た。 蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす。                                 

その富は不幸な仕事によって失われ、息子が生まれても、その手に何もない。         

人は、母の胎から出てきたように、裸で来て、裸で去って行く。                       

自分の労苦の実を、何ひとつ、手に携えて行くことはできない。

そしてこれも痛ましい悪だ。来たときとまったく同じように去って行く。               

風のために労苦して、それが何の益になろうか。

しかも、一生の間、闇の中で食べる。苛立ち、病い、怒りは尽きない。              

それゆえ私は見た。善いこと、美しいこととは、神が与えた短いいのちの日々を、     

食べたり飲んだり、日の下で労するその労苦の中に幸せを見出すこと。それが人の受ける分だから。

さらに、人がすべて、神から富と財宝が与えられ、それを享受し、受ける分を受け、    

労苦の中で楽しむことができるように許されているとき、それこそが神の賜物。

その人は、自分のいのちの日々のことをあまり思い返すこともない。                         

それは神が、その心を喜びで満たされるから。

私は日の下に悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。          

神が富と財宝と誉れを与え、心の望むものに何ひとつ欠けたものがない人がいる。

しかし、神は彼にそれを享受できるように許されなかったので、よそ者がそれを享受した。 

これもまた空しく、痛ましい悪だ。

もし、人が百人の子供を持ち、多くの年月を生きたとしても、その年がどれほど      

多くなっても、その幸せに満足することもなく、葬られることもなかったなら、              

死産の子の方が彼より幸せだと言おう。

その子は、空しく生まれて、闇の中に去り、その名は闇の中に隠されている。        

日を見ることもなく、何も知らないが、その子の方が彼よりも安らかである。          

彼が千年の倍も生きても、幸せを見ることがないなら・・・・                  

すべてのものはひとつの所に行くのではないか。

人のすべての労苦は、その口のためにある。しかし、その心は、決して満ち足りることがない。 

知恵ある者が、愚か者に、何がまさっているというのだろうか。                      

貧しい者が、人々の前での振る舞い方を知っていることが、何になろうか。

目で見ることは、心がさまようよりは善い。これもまた空しく、風を追うようなものだ。          

存在するものはすべて、すでに名がつけられ、人がどうなるかも知られている。          

自分より力ある方と争うことはできない。

多く語れば、それだけ空しさが増す。それが人に何の益となろう。                    

空しく短いいのちの日々を影のように過ごす人間にとって、何がしあわせなのかを、誰が    

知っているだろう。その一生の後で、日の下で何が起こるかを、誰が人に告げられるのだろう。

                                              2008126

  今から33年前、私は一年近い米国オレゴン州での留学中にイエスを救い主として信じるようになりましたが、帰国直前、米国横断の一人旅をし、ニューヨークを訪れました。そこでふたつの大きな思い出があります。たまたまマディソン・スクエアー・ガーデンでローリング・ストーンズのコンサートがあり、それを「見る」ことができました。何ともワイルドというか下品な演出もありましたが、魂の奥底を揺り動かすような演奏でした。ただ、その後、ひとりで地下鉄に乗りながらとても怖い思いをしました。その翌日の日曜日の朝、ウォールストリートに近い古い聖公会の礼拝に出席しました。礼拝の最初から最後まで、伝統的な礼拝式の音楽と聖書のことばを、ひとりで静かに味わうことができました。イエスの愛が個人的に迫ってくる何ともいえない感動を味わい、涙が止まらないほどでした。

  ところでローリング・ストーンズのSatisfactionを、VH1という米国のメディア機関は今年、過去百曲のロックンロール中のナンバーワンにリストしています。I can’t get no satisfaction・・・I try and I try・・but, I can’t get no・・(これじゃ何の満足も得られやしない)と繰り返される1965年に生まれた曲が、今も多くの人の共感を得ています。そこではこの世のコマーシャルが提供するものの空しさが訴えられています。私たちはこの世界のどこに心の満足、satisfactionを味わうことができるでしょう。彼らのコンサートは高価である上に危険も伴うことがあり、その興奮も一時的です。しかし、こころの満足をイエス・キリストとの交わりに求めることは、お金もかからず安全で、しかも、今、ここで体験できることです。しかも、その交わりは霊的な訓練によってますます深めることもできます。そして、その結果は、今、ここでの日常生活や仕事を、イエスの視点から見ることができるようにと変えられることなのです。

1.「貧しい者が虐げられ・・・ているのを・・見たとしても、そのことに驚いてはならない」

「もし、貧しい者が虐げられ、さばきと正義が奪い取られているのを、ある地域に見たとしても、そのことに驚いてはならない」(5:8)とは、社会の不正を冷静な目で見ることの勧めだと思われます。日本で水戸黄門の物語が今でも流行るのは、悪代官のような私腹を肥やす権力者が常にいることの証しでもありましょう。ただし、「それは、より身分の高い者が、その身分の高い者を見張っており、また彼らより、さらに身分の高い者たちもいるのだから」(5:8)という地域に密着した権力を監視する上の権力があって初めて国としての統一が保たれるというシステム全体の中で考えるべき課題です。国全体が腐敗していたとしても、強盗や殺人を放置する国は存続できなくなります。ですから国の秩序の要として、「何よりも地に益となるのは、耕されるべき土地のための王である」(5:9)と記されます。当時は王政が現実的でした。現在は三権分立による法の支配です。権力機構の安定がなければ農民は安心して土地を耕すことはできません。ルターは、「本当に、悪い暴君は、悪い戦争よりは、なお忍びやすい」(Stand des Soldaten:Luther Taschenaufgabe5:Evangelischer Verlag 1982P166) と言っていますが、独裁国家を打倒して無政府状態を作り出すことはより大きな害悪をもたらします。実際、世界中の飢餓のほとんどは、天候の問題ではなく政治が不安定であることから生まれているのではないでしょうか。

使徒パウロは、「人は、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです」(ローマ13:1)と語っていますが、これが記されたのは、暴君ネロの時代だったと思われます。神によって立てられた権力者なら良い政治を行うはずだと誤解するかもしれませんが、人はすべて罪人であり、理想的な王でさえとんでもない過ちを犯すというのはダビデの例を見ても明らかです。しばしば、歴史は、悪い王を廃そうとしてより悪い暴君を招くことになったということの繰り返しです。政治は様々な利害を調整するシステムであり、微妙なバランスの上に成り立っています。ただし、それを治めているのは天地万物の創造主ご自身です。自分の価値観を絶対化してシステムを機能不全に陥れてしまっては、かえってより大きな悪を招くことになります。私たちに何よりも求められていることは、自分に与えられた責任を、人の目ではなく神の目を意識して誠実に行うことです。ただし、現在の民主主義システムにおいては、政治に関わることも神からの召命であることも忘れてはなりません。

この世の不条理は、神のご支配が存在しないことのしるしではありません。それは旧約のイスラエル王国の歴史を読めばすぐにわかることです。神は、全世界の王として、今ここで生きて働いておられます。それこそ聖書の核心で、それを前提として、「そのことに驚いてはならない」と命じられているのです。

2.人は、母の胎から出てきたように、裸で来て、裸で去って行く。

「金銭を愛する者は、金銭に満足することがない。豊かさを愛する者もその収益に・・・これもまた空しい」(5:10)とは多くの人の葛藤の原因を指摘した名言です。聖書は、お金や富を決して軽蔑はしていません。それどころか、神から祝福されることは、財産が増えることとして描かれます。ただし、お金は大切だからこそ、偶像になってしまう危険があります。確かにお金さえあれば、日頃の憧れの多くを実行に移すことができますが、何かの事業に着手したとたん夢はどんどん膨らみます。しかも、お金の威力を体験すればするほど、お金が足りないように思えてきます。しかし、「I can‘t get no satisfaction」(それじゃまったく満足を得られない!)と言わざるを得ません。

「財産が増えると、それを消費する人も増える。持ち主はそれを目で見る以外、何の得もない」(5:11)とありますが、財産が増えると、それに応じてそれに群がってくる人も多くなります。所有者はその様子を見て、一時的な優越感に浸ることもできますが、目の前には常に、自分より勝った人がいます。最高の地位に立ったとしても、いつ追い落とされるかわかりません。そこにはいつも不安が同居せざるを得ず、たましいの平安がありません。

それをもとに、「働く者の眠りは、少し食べても多く食べても、心地良い。しかし、富む者は満腹しても、眠りを妨げられる」(5:12)と記されます。人は労働で身体を動かすことによって、満腹感がなくても安眠できます。しかし、富む者は、日々の労働を人に任せた結果、身体を動かさないため、満腹しても、眠りが浅くなります。

その上で著者は、「痛ましい悪が日の下にあるのを私は見た。蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす。その富は不幸な仕事によって失われ、息子が生まれても、その手に何もない」(5:1314)と記しますが、昔から何かの事業や投資の失敗によって破産する人が後を絶ちません。最初からお金がなければ大きなリスクを犯しようもないのですが、「蓄えられた富」自体が投資先を求めるように所有者を動かし、破産するのです。すると、せっかく「息子が生まれても」、その子に何も残せないどころか、ときには絶望感ばかりを受け継がせることになります。

そればかりか、たとい事業の失敗がないとしても、「人は、母の胎から出てきたように、裸で来て、裸で去って行く。自分の労苦の実を、何ひとつ、手に携えて行くことはできない」(5:15)ということが、すべての人に共通して起きます。私たちはまったく無力な者として、裸で母の胎から出てきます。その後、いろんな能力や知識や富を身につけ、多くの友や家族を手にします。しかし、死ぬときは、それらを何も携えて行くことはできません。どんなに派手な葬儀をしても、人々の前にひとり裸をさらしながら、この世で何の働きもしなかった人と同じ姿で葬られるだけです。その現実を直視するとき、「そしてこれも痛ましい悪だ。来たときとまったく同じように去って行く。風のために労苦して、それが何の益になろうか」(5:16)と言わざるを得ません。死ぬときの姿が、何の働きもない赤ちゃんと同じであるなら、人の一生の苦労は何のためなのでしょう。そればかりか、「しかも、一生の間、闇の中で食べる。苛立ち、病い、怒りは尽きない」(5:17)とあるように、人の一生は苦しみに満ちています。これはエデンの園から追い出されたすべての人に共通します。神は、ご自身に背いたアダムに向かって、「土地はあなたのためにのろわれてしまった。あなたは、一生苦しんで食を得なければならない・・・あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにあなたは土に帰る」(創世記3:17,19)と言われましたが、それ以来、私たちの仕事には苦しみが付き物になってしまいました。気楽に仕事をして収益を上げるということは無理だというのです。それはまるで、「闇の中で食べる」ような生活とも言えます。多くの人は、「もっと違った仕事についたら・・」「もっと違った家庭だったら・・・」などと思いますが、私たちがこの世で生きる限り、「苛立ち、病い、怒りは尽きない」という現実から自由になることはできません。

3.「それは神が、その心を喜びで満たされるから」

そして、「それゆえ私は見た」(5:18)という悟りが、「善いこと、美しいこととは、神が与えた短いいのちの日々を、食べたり飲んだり、日の下で労するその労苦の中に幸せを見出すこと。それが人の受ける分だから」と記されます。それは「労苦のなかに幸せを見出すこと」、それこそが人生にとっての「善いこと」「美しいこと」であるという真理でした(3:13参照)。そして、それを言い換えるようにして、「さらに、人がすべて、神から富と財宝が与えられ、それを享受し、受ける分を受け、労苦の中で楽しむことができるように許されているとき、それこそが神の賜物」(5:19)と述べられます。ここで興味深いのは、「神の賜物」とは、「富と財産」である以前に、「幸せを自分のものとして味わうことができる」という機会が与えられていることであるというのです。

よく言われるように、幸せは、持つものではなく、感じるものです。パウロは、イエスを救い主と信じた人に向かって、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)と言いましたが、クリスチャンになったからといって、急に頭の回転がよくなったり、気質や性格が変わるわけではありません。神経質な人は神経質なまま、浮き沈みのある人は同じような浮き沈みがあり、内向的な人は内向的なままでしょう。しかし、キリストにある者は、それをまったく違った視点から見ることができます。たとえば、私は、「僕は偉い!」と自分を誇る一方で、「僕は何て駄目なんだろう・・」と自己嫌悪に陥るということがありました。しかし、徐々に、自分自身を欠点を含めた全体として見るように示され、神によってユニークに創造された者と見ることができるようになってきました。すると世界が変わって見え始めました。

「その人は、自分のいのちの日々のことをあまり思い返すこともない。それは神が、その心を喜びで満たされるから」(5:20)とありますが、これこそが、信仰の喜びです。17世紀にブラザー・ローレンスという貧しい修道士の書き残したものが、多くの人の慰めになっています。彼は中年になって、黙想を大切にするカルメル修道会に入り、一番苦手な台所の仕事を与えられましたが、そこですべてを神への愛のために行うことを学び、皿洗いの時間も祈りの時間も、同じように神との交わりを喜ぶ機会とされるようになったとのことです。彼は、次のように書いています。「私はこの世に神と私以外の誰もいないかのように生き始めました。すると時に自分を神のさばきの前に立つ哀れな罪人のように感じました。しかし、やがて、自分の心で神を、『私の父、私の神』と見ることができました。私はできる限り、私の心を神の聖なる臨在に向け、心がさ迷ってもいつもそこに戻るようにしました」と記しています(the Practice of the presence of God by Brother Lawrence of the Resurrection Trs. John J .Dellaney Doubleday1977,P87)。これは教会の伝統に流れている黙想の生活の核心でもあります。キリスト教会がこの世でも力を持つようになるに連れ、信仰の堕落も見られるようになりましたが、そのような中で敢えて荒野に逃れて神との交わりを大切にする修道生活が生まれましたが、その指導者のひとりのアロニオスという人は、「人は、心のうちで、『この世にはわたしひとりと神だけがいる』と言わなければ、安らぎを得ることはできないないだろう」と語ったと言われます(水垣渉『初期キリスト教とその霊性』日本キリスト改革派教会西部中会文書委員会2008P114)。私たちは、仕事も家庭も教会も友人関係も、目の前の不条理や苦難をも、神によって与えられたものと見ることができるのです。すると、問題が満ち満ちていると思われる現実の中に、愛に満ちた神の臨在を発見し希望を持つことができます。

4.死産の子の方が彼よりしあわせだ

「私は日の下に悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。神が富と財宝と誉れを与え、心の望むものに何ひとつ欠けたものがない人がいる。しかし、神は彼にそれを享受できるように許されなかったので、よそ者がそれを享受した。これもまた空しく、痛ましい悪だ」(6:12)とありますが、これは519節との対比で記されているものです。多くの人は、「富と財宝と誉れ」自体の中に『幸せ』や「心の満足」が得られると誤解しますが、そこでも人は、「I can’t get no satisfaction(それじゃまったく満足を得られない)ということが起こりえるというのです。それはイエスの愚かな金持ちのたとえにもあったとおり、富を手にしたとたん、命が尽きて、それが他人のものになるという苦しみがあり得るということですが、そればかりか、望むものを全部手に入れると、人はしばしば途方もない倦怠感を味わうというたましいの現実もあります。それは19世紀はじめのドイツの哲学者ショーペンハウワーが、「すべての欲望の根底は・・・不足、欠乏、そして苦痛である・・・欲望の対象がなくなってしまうと、今度は恐るべき空虚さとたいくつに襲われる・・・このように生は、まるで振り子のように・・・苦痛とたいくつの間を行き来するのだ」(『存在と苦悩』白水社1995年、金森誠也訳P39)と言っている通りでもあります。すなわち、「それこそが神の賜物と言われるものは、富でも財宝でも誉れでもなく、「それを享受し・・楽しむことができるように許される」ことの中にあるのです。実際、この世の基準からすると非常に貧しいと思われる生活の中でも、驚くべき満足を味わうことができます。私たちは、「満ち足りる心を伴う敬虔」(Ⅰテモテ6:6)をこそ常に求めるべきでしょう。

そのことが引き続き、「もし、人が百人の子供を持ち、多くの年月を生きたとしても、その年がどれほど多くなっても、その幸せに満足することもなく、葬られることもなかったなら、死産の子の方が彼よりしあわせだと言おう」(6:3)と記されます。多くの子供を持ち、長寿を全うできるというのは、当時は「祝福に満ちた人生」の代名詞のようなものでしたが、それでも「死産の子」よりも不幸であり得るというのです。そして、「その子は、空しく生まれて、闇の中に去り、その名は闇の中に隠されている。日を見ることもなく、何も知らないが、その子の方が彼よりも安らかである」(6:45)と記されます。これは、たとえば、森のような庭を持つ豪邸に住み、宴会場のようなところで豪華な食事を大家族でしながら、誰とも心が通じていないばかりか、死んでも葬儀をしてもらえないほどに皆から嫌われているということもあり得るのです。富と権力を持ちながら、誰からも愛されなければ、「彼が千年の倍も生きても、幸せを見ることがないなら・・・すべてのものはひとつの所に行くのではないか(6:6)という空しさに圧倒されます。これは、「すべてはひとつの所に行く。すべては塵から成った。すべては塵に帰る」(3:20)ということばを思い起こさせる表現です。つまり、私たちは「幸せを見る」ために生かされているはずなのに、それが体験できないとしたら、生まれてこない方が良かったということになるのです。

後にイエスは、イスカリオテのユダがご自分のことを裏切る覚悟を決めたのを知って、「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかった方がよかったのです」(マタイ26:24)と言われました。ユダはイエスを目の前にしながら、自分の願望に縛られていたため、イエスにすべての幸いがあることに気づくことができませんでした。幸せは、今、目の前にあるものです。それを見られない人は生きている甲斐がないというのです。

5.「空しく短いいのちの日々を影のように過ごす人間にとって、何がしあわせなのか・・」

「人のすべての労苦は、その口のためにある。しかし、その心は、決して満ち足りることがない」(6:7)とは、神がアダムに、「あなたは、一生苦しんで食を得なければならない」と言われたことばを思い起こさせるものです。そして、「知恵ある者が、愚か者に、何がまさっているというのだろうか」(6:8)というのも、「すべては塵に帰る」という現実を前にしてのことです。また、「貧しい者が、人々の前での振る舞い方を知っていることが、何になろうか」とは、たとえば、豪華な祝宴に招かれる当てもないのに、テーブル・マナーを習っても空しいだけというような意味かと思われます。つまり、「知恵ある者」がその知恵を自分の人生に生かすことができないならすべてが空しいということなのです。「目で見ることは、心がさまようよりは善い」6:9)とは、私たちの心が過剰な不安に駆られたり、不可能な幻想に憧れたりすることを思いながら、それよりは「目で見る」ことに心が向かっている方が善いという現実を指します。しかし、「これもまた空しく、風を追うようなものだ」と言われるのは、それでも私たちの心が、「目で見る」ことの範囲にとどまっているなら、目に見えない祝福を体験することもできなくなるからです。

 「存在するものはすべて、すでに名がつけられ、人がどうなるかも知られている」(6:10)とありますが、「名をつける」とは、それに対する支配権を表すことですから、これは神がすべてのことを支配し、知っておられるということを意味します。そして、「自分より力ある方と争うことはできない。多く語れば、それだけ空しさが増す。それが人に何の益となろう(6:10,11)とは、自分の出生や、今のまわりの環境に対する不平不満を神に訴えることの空しさを指すのだと思われます。私たちは、変えようもないことを変えようとして、もがき苦しみますが、それは受け入れるしかないものです。しかも、それがすべて自分を愛しておられる神の御手の中にあるということが分かるとき、受け入れることができるようになります。一方、私たちが目を向けるべきなのは、「変えられること」を見極めて、そのことに誠実に向かってゆくということです。神は、私たちに与えられた能力を生かす機会を残してくださっています。

「空しく短いいのちの日々を影のように過ごす人間にとって、何がしあわせなのかを、誰が知っているだろう。その一生の後で、日の下で何が起こるかを、誰が人に告げられるのだろう」(6:12)というのも、創造主である神を忘れて、今ここでの幸せを味わったり、また、死後の希望のことを語ることができないという真実に私たちの思いを向けさせることばです。私たちはある意味で、今、『影の国』に生かされているということを受け止める必要があります。百年ほどまえの英国の作家G.K.チェスタトンは自分が、この世界を、神が備えておられる永遠の喜びの世界から見ることができるようになった感動を、「現代の思想家が耳にタコができるほど繰り返しているところでは、私はまさにいるべき場所にいるという話であったが、しかし、その話を鵜呑みにしても、私はやっぱり心が少しも晴れやかにはならないでいた。ところが、今や私は、お前はいるべきでない場所にいるのだと聞かされた。すると私の魂は、春の小鳥のように嬉々として歌いだしたのである」(「正統とは何か」安西徹雄訳 チェスタトン著作集Ⅰ1973年春秋社p140)と記しています。この世界でのいのちを「影」のようなものとして見ることは、厭世的になることではなく、今ここでの生活を、春の小鳥のように嬉々として歌いながら生きることと表裏一体なのです。

今年の321日、当教会の内装工事を企画してくださったT兄の胃に驚くほど大きな癌細胞が発見されました。その日は、イエスが十字架にかかったことを記念する金曜日でしたが、彼は癌の宣告を受けた後、たまたま当教会の受苦日礼拝に参加されました。その礼拝の中で、「イエス様は私ひとりを生かすために十字架で苦しんでくださった」という不思議な感動に満たされました。その後の検査で、それは進行性の胃がんでリンパ節にも転移しているということがわかりました。これまで企業戦士として様々な修羅場を潜り抜けてきた彼も、「もうお任せするしかない」と観念せざるを得ませんでした。でもそのとたん、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)というみことばが迫ってきて、不思議な平安に満たされました。自分の病が神の御手の中にあるということが本当によくわかったのというのです。胃の全摘手術の前に抗がん剤治療を受けることになりましたが、なかなかベットが空かない中で、「今は、胃の癌を治療する前に、心の癌を癒すことだと気付きました」と書いておられます。
 彼は徹夜も厭わずに仕事に没入し、ご自分の所属する教会でも積極的に奉仕を続けて来られました。彼は、何かを達成することに喜びを求めていましたが、今、ここでの生活の中に、幸いを見出すということが足りなかったと気づかされたのです。そして、今の療養期間を、「仕事をせずに給与がもらえる贅沢を味わう時期」と見ることができました。その頃、
彼は、悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である』(箴言15:15)とのみことばが示されたと書いてくださいました。そして、そのような平安に包まれていた結果だと思われますが、抗がん剤治療が驚くほどの効果を挙げることができました。そして、この10月から仕事に復帰することができました。彼は今、「これからはDoingよりもBeing、達成感よりも存在感を大切にしたい。自分ひとりで突っ走るのではなく、周りの人がどのようにしたら仕事がし易くなるかを考えるようになった・・・」と言っておられます。

私たちはこの世界において、様々な困難に直面します。しかし、それが全能の神の愛の御手の中にあるということを受けとめるなら、今、ここでの生活の中に、満足(satisfaction)を見出すことができます。私たちの幸せは、環境の変化以前に、イエス・キリストとの交わりから生まれます。今から四百年前近く前に作られ、三百年ほど前にJ.S.バッハによって編曲された『主よ、人の望みの喜びよ』という曲が、今も驚くほど多くの人に親しまれています。そこには、以下のような歌詞がついています。私たちの心の満足がどこから来るかを常に覚えましょう。

Ⅰ イエスを持つこの私は何と幸せか!何と固く彼を抱きしめることでしょう。彼は私の心を活かしてくださる。 病のときも、悲しみのときにも、イエスご自身が私のうちにおられる!

    いのちを賭けてこの私を愛された方が。ああ、だから私にイエスを忘れさせないでください。たといこの心が破れることがあっても

Ⅱ イエスはどんなときにも私の喜び、この心の慰め、生命のみなもと。

     イエスは全ての苦しみの中での守り手。

     彼こそが私に生きる力を与える。彼は私の目の太陽、また楽しみ、

      このたましいの宝、無上の喜び。

      ああ、だから私に、いつもイエスを、こころの目の前から離れさせないでください。  

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