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2009年1月25日 (日)

伝道者の書 7:1-8:1「そのままにして(Let it be)、神を仰ぐ」

  

 伝道者の書 7章1節から8章1節 翻訳

名声は香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。

喪中の家に行くのは、祝宴の家に行くのにまさる。

そこにはすべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。

苛立つことは笑うことにまさる。暗い顔は心を良くする。

知恵ある者の心は喪中の家にあり、愚か者の心は快楽の家にある。

知恵ある者の叱責を聴くのは、愚か者の歌を聴くのにまさる。 

実に、なべの下のいばらがはじける音のように愚か者は笑っている。これもまた、空しい。

知恵ある者でも、虐げられれば狂い、賄賂によって心を滅ぼす。

事の終わりは、その初めにまさり、気が長いことは気位が高いことにまさる。

気短に苛立ってはならない。苛立ちは愚か者の胸に宿るのだから。 

「昔のほうが今より良かったのはどうしてか?」などと言ってはならない。

このように問うのは、知恵によるのではないから。

知恵は遺産と同じように良いもの。それは日を見る者に益をもたらす。 

金銭が避け所になるように、知恵も避け所になるが、

知識が益になるのは、知恵がその持ち主を生かすことにある。

神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを、誰がまっすぐにできよう。

幸せな時には幸せを味わえ。災いの時には、(神のみわざに)目を留めよ。

これもあれも神のなさること。このため人は後の事を見極めることができない。

 この空しい日々の中で、すべてを見てきた。 

正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。

正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜ自分を滅ぼすのか。

悪すぎてもいけない。愚かであってもならない。なぜその時でもないのに死ぬのか。 

一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者はすべてをくぐり抜ける。

 知恵は知恵ある者を、町の中の十人の権力者よりも強くする。

善いことだけを行って罪を犯すことがないような正しい人間は、この地に誰もいないのだから。

 

人の語るすべての言葉に心を留めようとしてはならない。

あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないで済むために。

あなた自身も他の人々を呪ったことが何度もあることを心で知っているからだ。

 私はこれらすべてを知恵によって試し、「知恵ある者になりたい」と言ってみた。 

しかし、それは私の遠く及ばないことだった。

すべて存在するものは、遠く、非常に深い。誰がそれを見極めることができよう。

私は心を転じて、知恵と悟りとを、知り、探り、求めようとし、

また、悪行の愚かさと愚行の狂気を知ろうとしている。

私は死よりも苦いものを女に見出した。彼女はわな、その心は網、その手はかせとなる。

神に喜ばれる者はそれ逃れるが、罪人は捕らえられる。

「見よ。これが私の見出したこと。」-説教者は語るー「一つ一つから悟りを得ようとして・・」 

私のたましいはまだ求めているが見出さない。 

千人のうちに一人の男を見出しても、そのすべてのうちに一人の女も見出さなかった。

ただし、私が見出したこれに目を留めよ。

「神は人をまっすぐに造られたが、人は(神を離れた)多くの悟りを求めている」

誰が知恵のある者のようだろうか。誰が物の道理を知っているだろうか。

知恵は人の顔を輝かせ、こわばった顔を和らげる。

    

                                          2009年1月25日

 八年余り前、二十台の若さで天に召されたある女性の葬儀を司式させていただいたとき、私は、「彼女の死になんの解釈を加えずに、ただこの現実をそのまま悲しみ、彼女の思い出を宝物にしましょう・・」という趣旨のことを話させていただきました。その後、ご遺体をお花で飾るときに、友人の奏楽者が、教会の礼拝では弾くことのない曲、ビートルズのLet it beを静かに演奏し続けました。その始まりは、「When I find myself in time of trouble Mother Mary comes to me , Speaking words of wisdom, Let it be・・・(困難のただ中にいるとき、母マリヤが僕に現れ、『そのままに』という知恵の言葉をかけてくれた・・・」というものです。私は一瞬、驚きながらも、「これほどこの場にふさわしい曲はない・・」と感動し、今もそれが心に残っています。作者のポール・マッカートニーは十四歳のときマリヤという名の母を亡くしていますが、大きなストレスを抱えていた時、夢の中に彼女が現れ、「Let it be(そのままに)という知恵のことばをささやいてくれた」とのことです。

私たちは、何か大きな困難に直面したとき、すぐに原因を突き止めようとしますが、それがしばしば、怒りや恨みや自己嫌悪を加速させるだけになる場合があります。先日も、見知らぬ他人の過失と思われることで家内が怪我をしたとき、本当に苛立ってしまいました。そのとき、Let it beの奏楽者が、男性用のエプロンをプレゼントしてくれました。それは、家事を楽しむようにとのジョークに満ちた励ましでした。

私たちが困難に直面したとき、問うべきことは、「Why(なぜ)」よりも、「How(どうする)」ではないでしょうか。起こったことの意味は、わかるまで、Let it be(そのまま)にするのが最善です。必要なのは、変えられない過去を受け入れながら、今、このときをどのように生きるかを問い続けることです。そして、私たちはやがて神の前に立つとき、すべての意味を知ることができます。なぜなら、この世界のすべての不条理の原因は、人間の罪であるのですが、それは神にとって制御不能のことではなく、神は人の過ちをも益に変えることがおできになるからです。

1.「苛立つことは笑うことにまさる。暗い顔は心を良くする」

 「名声は香油にまさり」(7:1)とは、香油に象徴される富よりも、人としての高潔さに価値があるという意味で、これは世の常識でもあります。それと同じように、「死の日は生まれる日にまさる」と、著者は人々の常識に逆らうことを言いながら、「喪中の家に行くのは、祝宴の家に行くのにまさる」(7:2)と重ねて言います。それは、「そこにはすべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになる」という理由によります。これは、人々の意表をつくアイロニーと言えましょう。それは、3章18-22節で述べられた真理を思い起こさせる表現でもあります。

「苛立つことは笑うことにまさる。暗い顔は心を良くする」(7:3)というのもアイロニーですが、これは日頃からつぶやくことの多い私には大きな慰めです。あるとき、歯科医でそこの助手さんから、「牧師さんならもっと微笑んでくださらないの・・・」などと言われ、落ち込んでしまったことがあります。しかし、牧師の最大の務めは、人の痛みに寄り添い、この世の不条理に苛立っている人に共感することではないでしょうか。無愛想さのために人を不快にするのは確かによくありませんが、自分の苛立ちや暗い顔をそのままに(Let it be)にしておくとき、神ご自身が私たちのうちに働き、「心を良く」してくださいます。自分の力で取り繕おうとすることは、神のみわざに対して心を閉じることになりかねません。イエスは、このみことばを思いながら、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです・・義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」(マタイ5:4,6)と言われたのではないでしょうか。

「知恵ある者の心は喪中の家にあり、愚か者の心は快楽の家にある」(7:4)とは、この世の楽しさばかりを求めがちな私たちに対する警告です。そしてさらに、「知恵ある者の叱責を聴くのは、愚か者の歌を聴くのにまさる」(7:5)とあるように、耳に心地よいことばを聴くよりも、愛の伴った叱責をこそ私たちは聞くべきでしょう。そして、「愚か者の笑い」が、「なべの下のいばらがはじける音のよう」であると皮肉に描かれます。これらのことを通して、自分を陽気にすることばかりを正当化する文化全体を指して、「これもまた、空しい」と結論付けられます。     

「知恵ある者でも、虐げられれば狂い、賄賂によって心を滅ぼす」(7:7)とは、人の心の脆さを言い表したものです。そして、「事の終わりは、その初めにまさり、気が長いことは気位が高いことにまさる」(7:8)と忍耐の大切さが説かれていますが、「気が長い」とは、「気短に苛立つ」(7:9)ことがない心の状態を指しています。「苛立ちは愚か者の胸に宿る」とは、3節に矛盾するように見えますが、ここでは「苛立ち」が一時的ではなく、永続的に「宿る」ことの愚かさが指摘されています。それも神のみわざに心が閉ざされた状態です。なおここで、「気が長い」「気位が高い」「気短」のすべての「気」ということばは原文で「霊」ということばが用いられています。興味深いのは、「霊」「高い」ことが評価されずに、「長い」ことの方が「良い」とされていることです。イエスはこれをもとに、「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われたのではないでしょうか。「気位が高い」と、心から神にすがるということができなくなり、その場を取り繕うことしかできなくなるからです。私たちの人生は、終わりになるまで評価を下すことはできません。「霊性」「高さ」を意識する代わりに、自分の心の弱さや貧しさを正直に認め、神の霊が、私たちの「霊」を支配することができるように、心を開き続けていることです。              

2.「これもあれも神のなさること」

私たちは、どの時代においても過去を懐かしみながら、「昔のほうが今より良かったのはどうしてか?」(7:10)などと問いかけることがありますが。著者は、「このように問うのは、知恵によるのではない」と、そのような問いの愚かさを指摘します。だいたい、「私の人生は順調に行くはず・・・」と思うこと自体が、大きな誤解であり、世間を恨みながら生きることの最大の原因ではないでしょうか。米国のオバマ大統領の就任式の祈りを導いたリック・ウォレン師は、「見えるもの見えないもののすべては、ただあなたによってのみ存在し・・あなたに属し、あなたの栄光のために存在しています。歴史(History)は、あなたの物語り(story)です・・・私たちは、キング牧師が、この日を天国で喜んでいるのを知っています・・・」と感動的な祈りをささげていましたが、私たちはそれぞれ何らかの使命を果たすために生かされています。そして、働きの実を見ることができるのは天国に行ってからということも多いのが現実です。それでもリック・ウォレン師が、その祈りの最後に、「どうか私たちのだれもが、いつの日か、あなたの前に立ち、責任を問われるということを忘れることがありませんように」と閉じていましたが、それこそ常に、私たちが覚えるべきことです。その観点から言うと、人生の困難は、神からの期待の大きさのしるしとさえ言えましょう。

「知恵は遺産と同じように良いもの。それは日を見る者に益をもたらす」(7:11)と記されている「知恵」の基本とは、このような神のご支配を知ることにあります。また「金銭が避け所になるように、知恵も避け所になるが」(7:12)と記されているのは、「金銭」には私たちを飢えや苦しみから守る力があるというこの世の常識以上に、「知恵」こそが私たちを守ることができるということを覚えることが大切だからです。しかも、「金銭」はしばしば、私たちの心を窒息させるように働くのに対して、「知識」「知恵」の場合は、その持ち主を生かす」ように働くことができます。

そして、「知恵に生かされる」生き方の基本とは、「神のみわざに目を留めよ」(7:13)という勧めに要約されます。その上で、「神が曲げたものを、誰がまっすぐにできよう」と不思議なことが記されます。これは、神が私たちの人生に試練を与えようとしておられるときに、それを避けることは誰にもできないという意味です。そして、「幸せな時には幸せを味わえ」(7:14)とは、どちらにしても人生には、必ず苦しみの時が来るのが明らかだからこそ、束の間の幸せを心から享受するように勧められます。なぜなら、命をかけてヒトラーと戦って殉教したディートリッヒ・ボンヘッファーが、「力の源は、感謝に満ちた思い出である」(ザビーネ・ボンヘッファー著「ボンヘッファー家のクリスマス」1993年新教出版社ロコバンド・靖子訳P10)と言っているように、幸せを味わうことは、この世の困難に直面する最大のエネルギーになるからです。もちろん、その際、神を忘れて傲慢になってしまうことの危険を忘れてはなりません。

なお、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」(新改訳)という訳では、「反省せよ」という言葉の意味が、「なぜこのような災いにあったのかを反省せよ」という意味に誤解されがちです。しかし、それは創造主を認めない因果応報の考え方と混同されかねません。ある方は、苦しみのただ中で、この新改訳のことばを、文脈を無視して投げかけられ、傷口に塩を塗られるような気持ちを味わったとのことです。私たちはみな、そのようなとき、どうしても物事を必要以上に悪く見る傾向があることを知るべきでしょう。原文では、「災いの時には目を留めよ」と記されており、これは先の「神のみわざに目を留めよ」ということばを、省略して繰り返したものです。しかも、文脈から明らかなように、「災い」はあくまでも、「神のみわざ」によるもの、また「神が曲げた」結果と記されているからです。

そのことを前提に、「これもあれも神のなさること」(7:14)と記されます。哀歌の著者はこれを、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(3:38)と語っています。そして、ここでは続けて、「このため人は後の事を見極めることができない」と記されます。これは、起こるすべてのことは、私たちの思いを超えた神のみこころによるということを受け止め、未来を自分で掌握しようとする努力をあきらめることの大切さを語ったものです。新約聖書においては使徒ヤコブが、「あなたがたには、あすのことはわからないのです」(ヤコブ4:14)と断言しています。自分で自分の未来を切り開くという責任感を持つのは大切ですが、それよりもはるかに大切なのは、私たちの未来を支配しておられる方、「すべてのことを働かせて益とする」ことがおできになる方に信頼することです。天地万物の創造主にとって、制御不能(out of control)なことはありません。イエスは、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることがありません。また、あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれたものです」(10:29-31)と言われました。私たちが雀に勝っているのは、何よりも、自分の弱さを自覚し、神に向かって祈ることができることにあります。

なお、このイエスのことばは、その前に、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどのことを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい(10:28)と記されています。私たちの人生には、順境の日と逆境の日の繰り返しが必ずあります。そのときに、「なぜ」という意味での「反省」をするのではなく、「これもあれも神のなさること」と、現実をそのまま(Let it be)に受け止め、そこで神から問われていること、つまり、今、対処すべきことに心を集中すべきでしょう。しかも、そのように見てくると、どのような災いの中にも、神がそれに合わせて数多くの恵みを与えていてくださることがわかります。神は私たちが試練に耐えることができるように、「試練とともに脱出の道も備えて」いてくださいます(Ⅰコリント10:13)。

3.「正しすぎてはならない・・悪すぎてもいけない」

 そして著者は、「この空しい日々の中で、すべてを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある」(7:15)というこの世の不条理に目を留めます。これはこの書で繰り返されているテーマでもありますが、ここでは、「正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜ自分を滅ぼすのか」(7:16)という不思議な展開になります。聖書には、「主の御教えを守るなら、あなたは幸せになる」という趣旨のことが繰り返し書いてあります。これは本来、主を愛していること自体の中に幸せがあるという意味ですが、「私たちの側に正義があれば、幸せになる」という因果応報の考え方と混同されがちです。人は、どんな悪人でも、自分の正当性を主張します。20世紀初頭の米国暗黒街の帝王アル・カポネは逮捕された時、「俺は働き盛りの大半を、世のため人のために尽くしてきたのに・・・」と、自分の慈善事業が認められなかったかのように嘆いたとのことです。

そこにあるのは、自分の正当性を主張することで、自分の人生を把握していたいという思いではないでしょうか。しかしそれは、神ではなく自分を善悪の基準とした最初の人間アダムの罪そのものです。アダムは、神から、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問われただけで、「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」と、神と女とを非難しました(創世記3:11、12)。残念ながら、今も、同じ夫婦喧嘩がどの家でも同じパターンで続いています。「私は正しい。あなたは悪い」と徹底的に主張し合うなら、結婚関係は必ず破綻します。そして、家族を失ったとき、自分は何を得ようとして自分の正当性をあそこまで主張していたのかと反省したとしても遅すぎます。夫婦喧嘩のたびに、「正しすぎてはならない」ということばを自分に言い聞かせるべきでしょう。

また、「知恵がありすぎる」というのも大きな落とし穴です。ソロモン王は、この世の誰よりも知恵がありましたが、妻をたくさん持ちすぎて、妻たちの偶像礼拝に付き合い、神からの警告にも耳を傾けなくなってしまいました。自分こそ知者だと思う人は、神にも人にも聞くことができなくなります。ですから、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも、神と人のありがたさを忘れさせるきっかけになってしまい、人に滅びをもたらすのです。

ただし、同時に、「悪すぎてもいけない。愚かであってもならない。なぜその時でもないのに死ぬのか」(7:17)とも言われます。これは、悪や愚かさに居直ることの危険です。「どうせ、私は生まれが悪いから・・・」などと居直って成長する努力をあきらめることは、自分で自分を死に追いやることです。神のかたちに造られたすべての人には、良心があり、悪いことをしたら心が痛みます。しかし、悪いことをしすぎると、その良心の呵責という痛みも感じなくなります。それは私たちが生ける屍になった状態です。また「愚かであってもならない」とは、私たちはだれでも、創造主からの贈り物としての固有の才能が与えられており、それを生かし成長させる責任が与えられているからです。私たちの人生は自転車に似ているのかも知れません。適度に走っていて初めてバランスがとれます。成長をあきらめたとき、生きる気力もなくなります。そのとき、私たちはまっすぐに歩くこともままならなくなるでしょう。        

「一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者はすべてをくぐり抜ける」(7:18)とは、「・・・すぎてはいけない」というこのふたつの真理を同時に大切にすることの勧めです。私たちは自分の罪深さや愚かさを自覚することと同時に、自分が「神のかたち」に創造された「高価で尊い」存在であるということの両方をいつも忘れてはなりません。この両方を覚えることが、「神を恐れる」ことです。そして、神を恐れる者の人生を神は守り通してくださいます。そして、「知恵は知恵ある者を、町の中の十人の権力者よりも強くする。善いことだけを行って罪を犯すことがないような正しい人間は、この地に誰もいないのだから」(7:19、20)と描かれるのは、知恵の本質が何よりも、自分の限界を認識することにあるからだと思われます。実際、自分の弱さと尊厳の両方を知っている人は、人との協力関係をうまく築くことができます。なぜなら、「神を恐れる」人は、他の人に向かって自分の正当性を必死に主張する必要を感じませんし、相手の置かれている状況や弱さを優しい眼差しで見ることができるからです。 

4.「神は人をまっすぐに造られたが、人は(神を離れた)多くの悟りを求めている」

そして、「人の語るすべての言葉に心を留めようとしてはならない。あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないで済むために。あなた自身も他の人々を呪ったことが何度もあることを心で知っているからだ」(7:21、22)というのも人間関係を築く上での大切な知恵です。人は誰でも、困難に直面したとき、それを他人のせいにして、人を責めたくなるものです。そうしないでは自分が成り立たないような気持ちに追い込まれている結果として、人を呪うようなことまでするのですから、そのようなことばを真正面から受けて自分を責める必要などはありません。

 ところで著者は、このような人生の真理を、「知恵によって試し」ながら、さらに「知恵ある者になりたい」と願ったのですが、「それは私の遠く及ばないこと」であったと分かり、「すべて存在するものは」、自分の理解の範囲から「遠く、非常に深い」もので、「誰がそれを見極めることができよう」と言わざるを得ないものでした(7:23、24)。ところがそれでも、著者の好奇心はその限界に留まることができず「知恵と悟りとを、知り、探り、求めよう」としたばかりか、「悪行の愚かさと愚行の狂気」についてさえも、実際の体験によって「知ろう」としてしまいました(7:25)。そこで彼は、「死よりも苦いものを女に見出し」ました。そして、「彼女はわな、その心は網、その手はかせとなる」ということがわかりました(7:26)。男性にとって、女性の誘惑は抵抗しがたいものになります。ただ、それは制する必要があります。そのことが、「神に喜ばれる者はそれ逃れるが、罪人は捕らえられる」と記されます。

そして、彼は自分自身の体験から、「見よ。これが私の見出したこと」と語りますが、それは「一つ一つから悟りを得ようとし」ながら、「私のたましいはまだ求めているが見出さない」という自分の限界でした(7:28)。そして彼は、「見出す」ということばを繰り返しながら、自分が評価できるような「知恵」を持っている人を見出そうとしても、「千人のうちに一人の男を見出す」ということがあっても、「一人の女も見出さなかった」(7:27)という現実を体験しました。これは、女性蔑視のことばのように誤解されがちですが、著者自身の当時の体験を語っているに過ぎません。

今も昔も、女性は霊感が鋭いと言われます。そして、霊媒や占いの働きも女性が主流でした。異教の神殿にはどこにも売春婦を兼ねたような「巫女」がいました。著者は、ここにおいて、何よりも知恵の探求における落とし穴を強調しているのだと思われます。ソロモン自身が、あれほどの豊かな知恵を与えられていながら、国を傾けてしまったのは、女性の誘惑に負けたからです。昔から多くの英雄が、道を誤ってしまうのは、「知恵」を霊感の鋭い女性に求めてしまったからです。「知恵」はあくまでも、神との交わりの中に求めるべきものなのです。

 著者はここで最後に、「私が見出したこれに目を留めよ」と言いながら、「神は人をまっすぐに造られたが、人は(神を離れた)多くの悟りを求めている」という結論を述べます(7:29)。それは、神が人を、失敗を犯さない者としてとして造られたというようなことではなく、神が人をご自身に向けて創造されたのに、人は自分を神のようにして、自分に都合のよい「悟り」を求めるようになったという意味です。人は、自分を正当化する事に関しては天才的です。しかし、何よりも大切な知恵は、「誰が知恵のある者のようだろうか。誰が物の道理を知っているだろうか」(8:1)とあるように、人間の限界を謙虚に認めて、何よりも、「神を恐れる」という知恵を大切にすることです。そして、そのような「知恵」は、「人の顔を輝かせ、こわばった顔を和らげる」ことができるというのです。

  私たちは自分で自分を元気づけたり、自分の知恵によって他の人を圧倒することによって、自分の世界を安定させようとします。しかし、世界は自分の期待通りには動きません。いつも第一に求めるべきなのは、自分が状況を把握しようとする前に、すべてのことを把握しておられる神に信頼することです。目の前におきることを敢えて自分の視点から解釈しようとするのではなく、そのままに(Let it be)して、それらすべてを支配しておられる神を見上げることこそ、私たちが求めるべき知恵です。私の中には、いつも、世界を解釈する枠を自分で持っていたいという強い欲求があります。しかし、枠が強すぎると神のみわざが見えなくなるということがわかってきました。

イエス・キリストが与えてくださった救いは、奇想天外なものです。私たちが自分を正当化しなくて済むように、まず、罪の赦しを、ご自分の血によって提供してくださいました。しかも、それによって、究極の敵である死の力を滅ぼし、私たちを死の恐れから解放してくださいました。人生にはいつも数々の障害物が横たわっていますが、それをそのまま(Let it be)にしてイエスを仰ぎ見るなら、それらすべてがまったく違ったものに見えてくるでしょう。「こんなはずではなかった・・」というつぶやきを止めて、今、このときをキリストとともに歩ませていただきましょう。

 伝道者の書 7章1節から8章1節 翻訳

名声は香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。

喪中の家に行くのは、祝宴の家に行くのにまさる。

そこにはすべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。

苛立つことは笑うことにまさる。暗い顔は心を良くする。

知恵ある者の心は喪中の家にあり、愚か者の心は快楽の家にある。

知恵ある者の叱責を聴くのは、愚か者の歌を聴くのにまさる。 

実に、なべの下のいばらがはじける音のように愚か者は笑っている。これもまた、空しい。

知恵ある者でも、虐げられれば狂い、賄賂によって心を滅ぼす。

事の終わりは、その初めにまさり、気が長いことは気位が高いことにまさる。

気短に苛立ってはならない。苛立ちは愚か者の胸に宿るのだから。 

「昔のほうが今より良かったのはどうしてか?」などと言ってはならない。

このように問うのは、知恵によるのではないから。

知恵は遺産と同じように良いもの。それは日を見る者に益をもたらす。 

金銭が避け所になるように、知恵も避け所になるが、

知識が益になるのは、知恵がその持ち主を生かすことにある。

神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを、誰がまっすぐにできよう。

幸せな時には幸せを味わえ。災いの時には、(神のみわざに)目を留めよ。

これもあれも神のなさること。このため人は後の事を見極めることができない。

 この空しい日々の中で、すべてを見てきた。 

正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。

正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜ自分を滅ぼすのか。

悪すぎてもいけない。愚かであってもならない。なぜその時でもないのに死ぬのか。 

一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者はすべてをくぐり抜ける。

 知恵は知恵ある者を、町の中の十人の権力者よりも強くする。

善いことだけを行って罪を犯すことがないような正しい人間は、この地に誰もいないのだから。

 

人の語るすべての言葉に心を留めようとしてはならない。

あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないで済むために。

あなた自身も他の人々を呪ったことが何度もあることを心で知っているからだ。

 私はこれらすべてを知恵によって試し、「知恵ある者になりたい」と言ってみた。 

しかし、それは私の遠く及ばないことだった。

すべて存在するものは、遠く、非常に深い。誰がそれを見極めることができよう。

私は心を転じて、知恵と悟りとを、知り、探り、求めようとし、

また、悪行の愚かさと愚行の狂気を知ろうとしている。

私は死よりも苦いものを女に見出した。彼女はわな、その心は網、その手はかせとなる。

神に喜ばれる者はそれ逃れるが、罪人は捕らえられる。

「見よ。これが私の見出したこと。」-説教者は語るー「一つ一つから悟りを得ようとして・・」 

私のたましいはまだ求めているが見出さない。 

千人のうちに一人の男を見出しても、そのすべてのうちに一人の女も見出さなかった。

ただし、私が見出したこれに目を留めよ。

「神は人をまっすぐに造られたが、人は(神を離れた)多くの悟りを求めている」

誰が知恵のある者のようだろうか。誰が物の道理を知っているだろうか。

知恵は人の顔を輝かせ、こわばった顔を和らげる。

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2009年1月11日 (日)

エレミヤ21~24章「主のみことばを聴く群れとして」

                                                                                                                                                    2009年1月11日

  アルコール依存症で明らかに人生が破綻している人のほとんどが、「まだ、自分は大丈夫だ・・」と思っているとのことです。その家族は疲労困憊しながら助けを求めているのに、当人は自分が病気であることを認めようとはしません。なぜなら、その病いの根本は、自分の弱さを正直に認められないことだからです。そして、自分の人生がうまく行かないのは、まわりが悪いからだということを恐ろしいほどの説得力をもって話すことができます。まわりの人は、「このまま放っておくと死んでしまう・・・」とやきもきし、一生懸命になって治療を受けるように説得するのに、当人にはその切迫感がまったくありません。ある方は、「自分がお酒のコントロールができないと認めると、今までの自分が全部ダメで、自分がなくなってしまうような気がした」と記しています。私たちにも同じような面がないでしょうか。どこかで自分を強がって、知ったかぶりをし、「私はわかりません」と言うことを躊躇します。

ところで、依存症の人は、自分の問題は認められなくても、同じような問題を抱えている人の生き方の愚かさは、驚くほどよく見えています。そのため、他の人の失敗の証しを聞くことが極めて大切で、それによって自分の弱さを認め、問題に直面する勇気が沸いてきます。これもすべての人にうちにある傾向ではないでしょうか。聖書は人間の心の醜さを、驚くほどに正直に描きます。私はそれを読みながら、ほっとすると同時に、自分の弱さや愚かさを正直に認める勇気がわいてきます。そこには、まことの神を知っているはずなのに、自分の依存症的な生き方の問題にまったく気づいていない王が出てきます。依存症の治療には、自分の破滅的な状況を認めさせることが何よりもまず大切であると言われます。そのため、優しい人はかえって害になる場合があります。今日の箇所には、神の厳しいことばが満ち満ちています。しかし、その背後に、神の燃えるような愛を見られる人は幸いです。

1.「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く」

  21章に登場する「ゼデキヤ王」とはユダ王国最後の王です。彼はバビロンの王ネブカデネザルの攻撃を受け、絶体絶命の危機の中で、エレミヤを通して主(ヤハウェ)に尋ねようとします。それはエレミヤがバビロンによる攻撃を語り続けていたからです。ただその際、王は、「主(ヤハウェ)がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼(ネブカデネザル)を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから」(21:2)と言いますが、これはその約百年前に、エルサレムが中東全域を支配したアッシリヤ帝国に包囲されたとき、主ご自身が夜のうちに御使いを遣わして185,000人を打ち殺したことを指しています(Ⅱ列王19:30)。しかし、そのときはヒゼキヤ王が、人々の心を主に立ち返らせ、「彼はイスラエルの神、主(ヤハウェ)に信頼していた・・ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」(同18:5)と評されるほど、主との親密な関係が築かれている中で起きたことでした。ところがゼデキヤはいつも人の顔色ばかりを見て、主に対する誠実さのかけらも見られないような王でした。

 エレミヤは、「イスラエルの神、主(ヤハウェ)」ご自身から既に示されていた驚くべきことばを即座にゼデキヤに告げ、「あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲んでいるバビロンの王とカルデヤ人とに向かって戦っているが・・・わたし自身が、伸ばした手と強い腕と、怒りと、憤りと、激怒とをもって、あなたがたと戦い、この町に住むものは、人間も獣も打ち、彼らはひどい疫病で死ぬ」(21:4-6)と伝えました。つまり、彼らはバビロンと戦っているつもりでも、実際、エルサレムを攻めているのは主ご自身であるというのです。そのあとで、主は、「ユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの、敵の、いのちをねらう者たちのに渡す」(21:7)と言われます。つまり、主はネブカデネザルと戦うどころか、ゼデキヤと生き残りの民を、残忍な「敵の手」に引き渡すというのです。

そして、主はエルサレムの住民に対し、申命記30章15,19節でのモーセが用いた表現を使いながら、「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く」と言われますが、その「いのちと死」の選択は意外にも、「この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる」という投降の勧めでした(21:8,9)。モーセの時には「いのち」を選ぶとは、「あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがる(申命記30:20)ことでしたが、ここではまるで、「バビロンの王にすがる者は生きる」と言われているかのようです。これは容易に納得しがたいことです。

私たちの目には、「主にすがる」ことと、「人にすがる」ことは矛盾するように思えますが、両者に共通するのは、「へりくだる」ということではないでしょうか。「万軍の主(ヤハウェ)が私の味方だ!」という信仰が愚かなプライドを守る口実になり、人に心から頭を下げることを妨げるとしたら、それは主のみこころではありません。主は多くの場合、天から火を下す代わりに、人を用いて問題を解決するか、または、信仰者に試練を与えられるからです。媚びへつらうことと、自分の無力さを認めて頭を下げることとはまったく別のことです。

ところでこのとき主は、「わたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむける」(21:10)と言っておられます。それは、彼らの先祖がモーセから、「これを守れば、あなたはしあわせになり、この地で長生きできる」という趣旨のわかりやすい教えを受けていながら(申命記4:40、エペソ6:4参照)、それを退けて、自分で「わざわい」を選び取ってしまったことの報いでした。主はここで、ご自身を退けた者たちに敢えて「わざわい」を与えながら、彼らに反省を促し、「いのち」を選び取るようにと迫っているのではないでしょうか。かつてモーセは、「いのちと幸い」、「死とわざわい」をそれぞれセットに提示していましたが(申命記30:15)、ここでは、「わざわい」を通して「生きる」という方向が指し示されます。人は、「そんな苦しみや屈辱に耐えるぐらいなら、死んだほうがまし・・・」と思えることがあったとしても、主にある「いのち」が残されている限り、希望を持つことができます。なぜなら、「わざわい」も主の御手の中にあって起こっているからです。人は、しばしば、過去の栄光や豊かさに捕らわれるあまり、「生き延びる」ためには何でもするという勇気がもてなくなります。しかし、ダイヤモンドを抱えたまま海に沈むような人になってはなりません。しかし、主との交わりという信仰こそ、私たちに与えられた最高の宝物です。すべてを失っても、イエス・キリストとの交わりを持っているなら、やがて、すべての必要は満たされます。

2.「そのとき、彼は幸福だった」という王と、誰からもその死を悼まれることのない王

22章13-19節までは、ゼデキヤの二代前の王のエホヤキムのことが描かれます。彼の父ヨシヤは滅亡後の北王国の領土を回復したユダ王国の最も偉大な王でした。そして、エホヤキムは三ヶ月でエジプトに捉えられて失脚したシャルムの兄弟で、エジプトの傀儡政権として誕生しました。彼はヨシヤの息子でありながら、父とはまったく正反対の生き方をしました。彼は、11年間王の座にありましたが、王宮の建設をめぐって「不義」と「不正」を働きました。その様子がここで、「隣人をただで働かせて報酬も払わず、『私は自分のために、広い家、ゆったりした高殿を建て、それに窓を取りつけ、杉の板でおおい、朱を塗ろう』と言う者」と非難されます(22:13、14)。

そして、そのようなエホヤキムの自己中心な行いが父ヨシヤと比較されながら、「あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福だった。彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった・・・しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行うだけだ」(22:15-17)と非難されます。興味深いのは、ヨシヤが神を恐れ、貧しい人をあわれむ政治を行っていたとき、「そのとき、彼は幸福だった」と繰り返されていることです。

一方、エホヤキムは自分の利益を優先し、神を忘れ、隣人を虐げることによって、悲劇に向かってゆくというのです。彼は最も嫌われた王でした。彼は最初エジプトに屈服し、その後バビロンの王ネブカデネザルに屈服しますが、裏切って青銅の足かせにつながれてバビロンに連行され(Ⅱ歴代36:6)、最後は、エルサレムで息を引き取ったのだと思われますが、そのとき、だれ一人として、彼の死をいたむ者はなく、エルサレムの城門の外に引きずり出され、ろばのように埋められるというのです(22:18,19)。これは王としての最大の恥辱です。

  人は、すべて、何らかの使命を果たすために生かされています。ヨシヤ王は公義と正義を行い、貧しい人々の訴えに耳を傾けていたとき、「そのとき、彼は幸福だった」と描かれています。しかし、エホヤキムは、隣人をただで働かせて、贅沢な家に住み、自分の幸福ばかりを追い求めましたが、彼ほど不幸な王はいませんでした。

 

3.「いったいだれが、主(ヤハウェ)の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか」

23章9節から22節までは、偽預言者の罪が記されています。特に16節では、「万軍の主(ヤハウェ)」はイスラエルの民に向かって、「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主(ヤハウェ)の口からではなく、自分の心の幻を語っている」(23:16)と言われます。残念ながらいつの時代にも、「自分の心の幻」を主のことばと取り替える説教者がいます。彼らは、聴衆の耳に心地よいことばかりを語り、主を「侮る者に向かって」さばきを宣告すべきところを、その代わりに、「主(ヤハウェ)はあなたがたに平安があると告げられた」などと耳障りのよいことを言うのです(23:17)。そればかりか、「かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって」、「あなたがたにはわざわいが来ない」などと、主のさばきを否定するようなことばを言い続けているというのです。しかし、人々が心のそこで聞きたいと願っていることだけを語る預言者にどんな存在意味があるというのでしょう。預言者は、民の罪を指摘し、民を神のもとに戻すようなことばを語らなければなりません

 その上で、「いったいだれが、主(ヤハウェ)の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか」(23:18)という問いかけがありますが、真の預言者は、主がなぜこのように語っておられるのか、その背景までをも知る必要があります。私たちは聖書を通して、主のさばきの背後に、「哀れみに胸を熱くする」という神の葛藤を見ることができます。主は、何の痛みも感じずにエルサレムを滅ぼそうとしているわけではありません。それにしても、ここでは、主の燃える怒りが、「見よ。主(ヤハウェ)の暴風、─憤り。─うずを巻く暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。主(ヤハウェ)の怒りは、御心の思うところを行って、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟ろう」(23:19、20)と描かれます。「万軍の主(ヤハウェ)の熱心」(Ⅱ列王19:31)ということばがあるように、主は、情熱に満ち溢れておられます。それは主にへりくだる者への燃える愛として表されるとともに、主の愛を軽蔑するものへの激しい怒りとして表されます。十字架こそは、罪に対する神の燃える怒りとともに、罪人に対する燃える愛の表現です。

ところで主の燃える怒りは、誰よりも偽預言者たちに向けられます。主は彼らに向かって、「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに・・・彼らは預言している」(23:21)と怒っておられます。そして、最後に再び、「もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行いから立ち返らせたであろうに」(23:22)と真の預言者の働きが述べられます。

なお、主は、当時の偽預言者の習慣を指摘しながら、「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言ったのを、わたしは聞いた」(23:25)と言われます。偶像の神々に仕える宗教指導者たちは常に夢を重んじていましたが、イスラエルの預言者たちもその影響を受けていました。そして主は、彼らの心の奥底に隠されている思いを、「彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか」と描きながら、彼らの罪をさばくことを前提に、「夢を見る預言者は夢を述べるがよい」)と突き放します(23:25-28)。そして最後に、「しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか」と近隣の宗教的慣習と明確に距離を置くことを命じられます。

  ところで、「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか」(23:29)とは、主のことばが、この世のことばと決定的に異なる創造的な力を持っていることを述べたものです。そして、主は、「わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる・・わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる・・わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となると三度同じような表現を用いながら、偽預言者たちへのさばきを宣告します。そして再び彼らのやり方を、「偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている」(23:32)と非難しています。残念ながら、これは現代の教会でも起こりえる問題ではないでしょうか。

パウロは、ベレヤの信徒たちのことを賞賛して、「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った」(使徒17:10-12)と描いています。意外にも、彼らの何よりのすばらしさはパウロのことばを鵜呑みにしなかったことにあるというのです。彼らは、自分で聖書を調べ、自分で心から納得して、その結果、まわりの人々に聖書のことばを分かち合うことができました。これを読むときに、偽預言者を見分ける責任は信者自身にあるということがわかります。私たちはすべてのキリスト者のうちに聖霊が宿っていると信じます。

4.「主の宣告」と言いながら、「生ける神、万軍の主(ヤハウェ)、私たちの神のことばを曲げる」

  23章33節から40節のキーワードは、「マッサー」というヘブル語で、「宣告」とも「重荷」とも訳すことができます。新共同訳では33節を「もし、この民が・・・あなたに、『主の託宣(マッサ)とは何か』と問うならば、彼らに『お前たちこそ重荷(マッサ)だ』。わたしはお前たちを投げ捨てる」と訳し、その後の36節のことばは、新改訳で「人の重荷」と訳していることばを「人の宣告」と訳していますが、その方が、意味はわかりやすいと思われます。

つまり、主はエレミヤに、「この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主(ヤハウェ)の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら」、すなおにその問いに答える代わりに、主ご自身が、「あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる』と言え」と、敢えて意地悪に、衝撃的な答えをするように命じておられます(23:33)。それは、彼らがエレミヤをからかうような調子で、「主(ヤハウェ)の宣告」ということばを使っていることへの応答でした。そして、エレミヤは、彼らが主の「重荷」となっている理由を、彼らが自分の「ことば」を、「宣告」として、「生ける神、万軍の主(ヤハウェ)、私たちの神のことばを曲げるからだ」と説明します(23:36)。

預言者はただ、「主(ヤハウェ)は何と答えられたか。主(ヤハウェ)は何と語られたか」(23:37)と言うべきであって、自分のことばを、「主(ヤハウェ)の宣告」などとして言う者に対して、主は、「見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える」(23:39、40)というさばきが宣告されます。

今も、一部の過激な教会では、「預言者」という立場の人がいて、礼拝中に、「万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる」と、聖書に書いていないことを告げるというようなことがあると言われます。しかし、大上段に構えて、主の御名の権威を借りて人間のことばを主のことばに置き換えるようなことをする者に、主は誰よりも厳しいさばきを下されます。昔から、そのようなさばきにあった霊的指導者が常にいます。そのような人が出てしまうのは、多くの人々が、自分の頭で考え、悩むということを嫌って、断定口調のことばに魅力を感じるからです。しかし、聖書には、一見、矛盾することが書いてあります。「神は、世を愛された」(ヨハネ3:16)と記した同じ人が、「世を愛してはなりません」(Ⅰヨハネ2:15)と記しています。「私は恐れない」と告白する詩篇作者が、至るところで自分の恐怖心を大胆に表現しています。ことばの意味を決めるのは文脈です。そして、私たちは何よりも、主の熱い思いを知る必要があります。イスラエルへのさばきを宣告している神は、同時に、哀れみで胸を熱くしておられるからです。

5.「良いいちじくと悪いいちじく」

  「バビロンの王ネブカデレザルが、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのつかさたちや、職人や、鍛冶屋をエルサレムから捕らえ移し、バビロンに連れて行って後」とはゼデキヤ即位のときで、主(ヤハウェ)はエレミヤに、主の宮の前の、二かごのいちじくを見せられましたが、「一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないもの」でした(24:1、2)。

主は、彼に、捕囚の民に関して、「この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない(24:5、6)と、苦しみの後の祝福を約束してくださいました。その際、主ご自身が彼らの心を造りかえるという意味で、「また、わたしは彼らに、わたしが主(ヤハウェ)であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである」(24:7)と約束してくださいました。これはイエスが私たちに聖霊を遣わしてくださることを指しています。

 しかし、一方で、主は、「ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国に住みついている者とエルサレムに残る者」を、「悪くて食べられないあの悪いいちじくのようにする」というさばきを宣告されます(24:8)。そればかりか、「わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす」(24:9、10)とまで言われます。これは、先に、エレミヤがゼデキヤに、「いのちの道と死の道」(21:8)を示されたのに対応します。

主は、エルサレムの残りの者が、バビロンの王の前にへりくだり、いのちを保つことを願っていたのです。しかし、彼らは後に、バビロンを裏切り、エジプトに逃れて滅びてしまいます。主が明確に語っておられることを軽蔑して、人間的な判断に頼ってしまったからです。同じことが、現代の私たちにも問われています。主との交わりよりもこの世のことに心を向ける方が短期的には得に思えることがあります。主と主の教会の交わりを第一にしても、仕事が思うように進まない、家族もまとまらないと思えるようなことがあるかもしれませんが、それに失望してはなりません。

  主は、バビロン帝国に頭を下げることを求めておられました。主は決して、バビロン帝国もネブカデネザルをも評価しているわけではなりません。彼らも神にさばかれるべき傲慢な悪の帝国でした。しかし、彼らは確かに強い国でした。それに比べて、イスラエルは、どうしようもなく弱い国でありながら、その弱さを認めようとはしていません。彼らにとっての信仰とは、神と人の前にへりくだるということではなく、神と人とを自分の願うように動かす方法に過ぎませんでした。またあるいは、自分の弱さを忘れさせる麻薬のようなもの、現実逃避の道でした。

  私たちはみな、神のかたちに創造された高価で尊い存在で、神が創造された世界を治めるための驚くほど豊かな知恵と力が与えられています。しかし同時に、私たちは、みな羊のように、弱く、愚かな者です。私たちはこの両面を常に見る必要があります。そうするとき、私たちは真の意味で、人との協力関係を築くことができます。

  聖書に記される神の救いのご計画は、私たちの思いをはるかに超えています。一見、目を背けたくなるような神の厳しいことばの背後に、私たちを謙遜にしてみもとに招こうとする神の燃えるような愛を見ることができます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」というみことばに続いて、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」、また、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」と記されています(ヨハネ3:18,36)。つまり、イエスご自身も罪人に対する神のさばきを明確に語りながら、ご自身の十字架に信頼する者はさばきを受けることがないとの形で救いを示しておられるということを忘れてはなりません。

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2009年1月 4日 (日)

エレミヤ17:19-20:18「陶器師の御手の中で」

                                                200914

  人間の苦悩の源泉は、「災害と退屈」であると言われます(ショーペンハウアー「孤独と人生」P43)。「災害」は創造主なる神が支配しておられますが、「退屈」は私たち自身が向き合うべき問題です。イスラエルの民は約束の地に入って生活が安定したとたん、カナンの刺激的な宗教に走りました。そして、最終的に神の怒りを買って、国が滅びます。それがエレミヤ書のテーマです。それは現代の私たちの課題でもあります。退屈(倦怠感)から逃げ出そうとして、やってはならない刺激的な誘惑に手を出し、自分で苦しみを招いてしまうということがないでしょうか。

4世紀末の砂漠の師父エウアグリオスは、退屈(倦怠感)を、「真昼の悪魔」(詩篇91:6「真昼に荒らす滅び」)と呼び、「あらゆる悪魔のうちでも最も重くのしかかる」として警戒を訴えました。たとえば、ひとりで日中静かな仕事をしていると、一日が五十時間もあるように感じられ、間断なくよそ見をし、「早く夕食にならないか・・」とため息をつき、自分の仕事がむなしく感じられるということがあるかもしれません。私も、ふとビートルズがエリナ・リグビーという名曲で、「マッケンジー神父は、誰も聞こうともしない説教のことばを書いている。誰も近づいては来ない・・彼はエリナ・リグビーをただひとりで葬った・・誰も救われることはなかった。この孤独な人々を見よ・・」と歌っているのが思い浮び、「聖書をこんなに丁寧に調べ時間をかけたって、何になるのか・・」という囁きが聞こえることがあります。

人によっては、このようなとき、そのような倦怠感の中で、「もうこんなところで、こんな風に生きているのはいやになった・・・まわりは愛のない人々ばかりだ。誰も私を慰めてはくれない」などと思いながら、人から言われた嫌なことばが頭の中をぐるぐるまわるなどということがあるかもしれません。エウアグリオスは、このような悪魔の攻撃にあったら、自分のたましいを二つに分け、一方を慰めるほうにし、他方を慰められる側にして、詩篇42:11のみことばを用い、「私のたましいよ。なぜ、うちしおれているのか?なぜ、私の前でうめいているのか?神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を。」(私訳「心を生かす祈り」p210)と祈るように勧めています。倦怠感に身を任せてしまうことは悪魔の計略に落ちることです。私たちは主にあって倦怠感と戦う必要があります。

1.「安息日をきよく保ち、この日に何の仕事もしないなら・・・・」

17章初めでは、主(ヤハウェ)に信頼する者への祝福の約束が、「水のほとりに植わった木」にたとえられて美しく表現されていました。19節以降で主はエレミヤに、主に信頼することの具体的な現われとして、安息日を守ることを改めて命じます。「十のことば」の核心は、安息日の教えにあることは明らかです。エレミヤは主のことばとして、「あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな・・・何の仕事もするな。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て。しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって聞こうとせず、懲らしめを受けなかった」(17:21-23)と非難します。今から二千六百年前に、安息日の教えは途方もない贅沢に思えたことでしょう。少しでも生活を楽にするために、寸暇を惜しんで働くのが当然と思えたに違いありません。

ところが、主は、安息日をきよく保ち、この日に何の仕事もしないなら、主ご自身が強大な国々に挟まれた小国の「ダビデの王座」を守り、近隣の支配者たちがエルサレムの城門を行き交うようになり、近隣の人々が、ささげものを携えてエルサレム神殿に集まり、主の宮は経済的繁栄のシンボルになると約束されます(17:24-26)。つまり、一週間に一日、完全に仕事を休むことで、短期的には損をするように見えても、長期的には、主の豊かな祝福を受けて国が繁栄するというのです。同時に、主は、「しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日をきよく保たずに、安息日に荷物を運んでエルサレムの門のうちに入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くして、消えることがないであろう」(17:27)と警告されます。つまり、エルサレムが廃墟とされたのは、強大な国々との外交政策に失敗したからではなく、主の前に不誠実であったためであるというのです。

イエスの時代には、この反動の窮屈な律法主義が広がり、安息日に困っている人を助けるというようなことまでも、聖書が禁じる労働に相当するというような解釈が一般的になっていました。宗教指導者たちは、このエレミヤやイザヤの預言などをもとに、安息日を守ることによって、神がイスラエルをあわれみ、王国が復興されると説きながら、人々が安息日に労働をしないように厳しく監視していました。その結果、安息日は「喜びの日」ではなく、「苦しみの日」になってしまいました。それに対しイエスは、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です」と言われながら、安息日にあえて、緊急性のない「片手のなえた人」などを癒しながら、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と問われました(マルコ2:27-3:4)。

エレミヤとイエスのことばは決して矛盾しません。私たちはその両面を見ながら、安息日をどのように守るかを自分で考えるべきでしょう。日本でも、「俺は仕事で忙しいんだ・・・」と、家庭を無視していた男性が反省を迫られるようになっていますが、同じように、主の日よりも仕事を優先するような心の姿勢は正されるべきです。この世において、時間とお金は、かけがえのない宝物です。だからこそ、一週間のうちの一日を世の仕事から離れて主に聖別することと、収入の十分の一を主に聖別することを、改めて問い直すべきでしょう。ただし、それは現在、「守らなければのろいを受ける・・」という戒めではありません。私たちはすでにキリストにある祝福の時代に生かされているからです。私たちは、すべてを主への愛の故に行うように召されています。時間とお金の聖別は、分かりやすい目標です。長い目で見ると、それを守って後悔する人など、どこにもいないことがわかることでしょう。主を第一とした生活があらゆる祝福の源となっていることは、多くの人によって証されています。目先の欲や都合に振り回されることがあらゆる不幸の原因です。主は、「こうしてわたしをためしてみよ・・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」(マラキ3:10)と言っておられます。

それにしても、私たちの幸福は、主観と客観というふたつの要素からなっており、そこでは主観的なものの方がはるかに本質的です。ショーペンハウアーは、「おそらく健康な乞食のほうが病める王よりもより幸福であろう」と言っています(「孤独と人生」p13)が、あらゆる豊かさを手にしながら、それを味わうことができないまま暮らしている人は、現在も驚くほど多くいるのではないでしょうか。安息日の基本は、仕事の手を休めて、主にある幸せを「味わう」ための日です。主(ヤハウェ)ご自身がこの世界を六日間で創造され、七日目に休まれました。私たちは安息日に自分の労働の実を喜び、それを隣人と分けあって楽しむように命じられています。主は、休息を取ることを命じることによって、幸せを味わうことを体験させようとしておられるのです。また収入の十分の一を聖別している人は、不思議に、お金のかからない数々の楽しみ方を身に着けることができるようになって行きます。詩篇作者は、主に向かって、「あなたこそ私の主(アドナイ)、あなたに反して、私の幸いはありません」(16:2私訳)と告白しています。

2.わたしは・・わざわいを思い直す・・・しあわせを思い直す

陶器師と陶器のたとえは聖書で繰り返し用いられますが、この18章はその代表的なものです。主はエレミヤに陶器師の家にわざわざ行かせ、その仕事を見させます。そのとき、「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」ところでしたが、それをもとに、「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか・・・見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にあると言われます(18:4-6)。ただ、そこには陶器師の事前の計画と同時に、素材である粘土との対話があります。良い陶器師は、目の前の粘土の特徴をよく見ながら自分の計画を変えることができます。主ご自身も、「一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼす」という計画を表明しておられながら、「その民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直すと言われる一方、「一つの国、一つの王国について、建て直し、植える」という計画を表明しておられながら、「もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直すと言われます(18:7-10)。ここで主は、救いとさばきの正反対の意味で、「思い直す」と言われます。このことばは、「悔いる」とも訳されることばです。神は以前、サウルをイスラエルの王として立てたことを「悔やまれた」と記されていますが、その直前に、「イスラエルの栄光である方は・・人間ではないので、悔いることがない」という不思議な表現がありました(Ⅰサムエル15:29,35)。この「思い直す」または「悔いる」という言葉は、拙著「哀れみに胸を熱くする神」のもととなっているホセア11章8節の「あわれみ」という言葉と同じです。つまり、神は、「わざわい」または「しあわせ」のご計画を表明しながら、それに対する民の反応を見て哀れみ、「わざわいを思い直される」か、または「しあわせ」を約束しておられても、神ご自身がそれを悔いて、「思い直される」というのです。

なお、「その民が、悔い改めるなら・・」という条件が記されますが、「悔い改める」とは、「悔いる」とはまったく異なった言葉で、中心的な意味は「立ち返る」ことです。神は、放蕩息子の父が、息子の帰りを待つように、哀れみに胸を熱くしながら、民がご自分のもとに帰ってくるのを待っておられるのです。「正しい生活ができるようになったら、思い直す」というのではなく、「立ち返ってくる」姿を認めるだけで、すぐに「赦してくださる」というのです。

ところが、主がエルサレムに向かって、「見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行いとわざとを改めよ」と語りかけても、彼らは、「だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行うのだから」と答えているというのです(18:11,12)。ここで、主は、「見よ。わたしは・・」ということばを強調しておられます。しかも、「わざわいを考え」「考え」という言葉は、「陶器師」と同じ語根のことばです。つまり、主は、「見よ。わたしこそ、計画を柔軟に変えられる陶器師である」と語りかけておられるのです。ところが、彼らはその優しい招きに対して、「だめだ」と一言で答えたというのです。それは「もう無駄だ」とも訳される、神のみわざに心を閉ざす言葉です。彼らは主の計画に対して、「自分の計画」ということばを用いながら、自分のやりたいようにやると答えているのです。

それに対して、主は、エルサレムの愚かさを、約束の地に見られる不思議との比較で語ります。14節は翻訳困難な文章ですが、約束の地を潤すガリラヤ湖とヨルダン川の源流となる「冷たい水」は、ヘルモン山ばかりか遠い北の三千メートルを越えるレバノン山の雪どけ水が合わさっています。それこそ大自然の上に表された神の配慮ですが、イスラエルの民はそれを忘れ、役にも立たない偶像に香をたいているのです。それに対し、神は、バビロン帝国を、約束の地を乾燥させる熱い「東風」(18:17、4:11参照)にたとえ、エルサレムへのさばきを警告します。

残念ながら、人は、自分の必要が満たされると、倦怠感に襲われ、神がすでに与えてくださっている恵みを忘れて、何か別の刺激を求めようとします。そして、しばしば、恵みは失ってみて初めて分かるというようなものではないでしょうか。つい先日まで、仕事の苦しさをつぶやいてばかりいた人が、失業者が巷にあふれる時代になると、毎日、働きに行く場があり、また帰る家があるということがどれだけ大きな恵みかが分かります。同じように、約束の地は狭いところに神の不思議が満ちている場所です。ところが彼らは、その地を与えてくださった神を忘れ、バビロンやエジプトという大国の文化や富にばかり目を向けてしまったのです。何という恩知らずでしょう。しかし、神はそのような彼らに、「わたしに立ち返れ・・・わざわいを思い直すから・・・」と招き続けておられるのです。

3.「なぜ、私は労苦と苦悩に会うために生まれたのか」

18章18節から20章の終わりにかけて、エレミヤの揺れる心が描かれています。人々は、主のさばきばかりを宣告するエレミヤのことばに耳を傾けようとはしませんでした。彼らの百年前、巨大なアッシリヤ帝国が攻めて来たとき、ヒゼキヤ王のもとでエルサレムは奇跡的に独立を保つことができました。彼らはただ奇跡的な勝利の結果だけを見て、ヒゼキヤ王とそれとともにいた人々が、どれだけ神の御前に謙ったかを見ようとはしませんでした。それは太平洋戦争の破滅に一丸となって突き進んだ日本と似ています。日露戦争の勝利によって、日本は奢り高ぶってしまいました。その前に、どれだけ日本が国際社会で謙遜に振る舞い、戦争を避けるあらゆる努力をしていたかを忘れてしまいました。ロシヤとの外交に命を賭けていた西徳二郎元外務大臣のことなど、みな忘れています。

太平洋戦争の前夜になると、人々は二二六事件の後遺症の恐怖から、知識人は軍部に反対する勇気を失っていました。そして、一方で、国際情勢をよく知る立場にあった東條英機首相などは、「戦争が終わるということは・・われわれが勝つということだ・・天皇陛下は神であって、天皇陛下に帰一していれば、国体の輝くこの国は負けるわけがない。戦っていまだかつて負けたことのない国なのだから」(保阪正康:新潮新書「あの戦争は何だったのか」P149,150)などと豪語していました。不思議なのは、彼は天皇に命をかけて忠誠を誓うと言いながら、天皇のお気持ちを聞くのではなく、自分の望むことばを天皇から引き出すことばかりに神経を使っていたということです。当時のエルサレムも同じような感じでした。当時の「祭司」、「知恵ある者」、「預言者」たちはそろって、神の都エルサレムの勝利を、神のみこころとして語っていました(18:18)。一方、エルサレムの敗北を告げるエレミヤのことばは、偽りの預言として退けられ、彼を倒す計画が話し合われていました。まさに歴史は繰り返されています。

18章19節から23節までは、エレミヤが、自分の命を狙っている人々の対しての主のさばきを願ったことばです。これは彼が、まるで小さな子供が父親に訴えているような気持ちで語った言葉です。彼の「怒り」の背後には、彼の「恐れ」がありました。彼は、19章に記されているような主のさばきを伝えなければならなかったからです。主は、「見よ。わたしはこの所にわざわいをもたらす。だれでも、そのことを聞く者は、耳鳴りがする」(19:3)と言いながら、「その日には、この所はもはや、トフェテとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる」(19:6)と、エルサレム近郊の偶像礼拝の場が、死体で埋め尽くされると宣告されます。これは、すでに7:30-33で言われていたことの繰り返しですが、ここではさらに衝撃的に、主ご自身が、「わたしは、包囲と、彼らの敵、いのちをねらう者がもたらす窮乏のために、彼らに自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いにその友の肉を食べ合う」(19:9)と語っておられます。これは、はるか昔に、レビ記26:29、申命記28:53-57などで預言されていたことで、哀歌2:20,4:10ではそれが文字通り成就したと記されています。エレミヤはこれらのことばを、偶像礼拝の中心地、ベン・ヒノムの谷のトフェテで語る必要がありましたが(19:2,13)、今度は、当時の人々が主にある勝利と希望を語るはずの「主(ヤハウェ)の宮の庭に立ち、すべての民に」(19:14)に向かってこれを告げる必要がありました。

  その様子を見て、「主(ヤハウェ)の宮のつかさ、監督者であるイメルの子パシュフル」(20:1)は、エレミヤを「主(ヤハウェ)の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ」のでした。「翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき」、エレミヤは彼に、「主(ヤハウェ)はあなたの名をパシュフルではなくて、『恐れが回りにある』と呼ばれる」と語り、彼の一族が彼の目の前で敵の剣に倒れることを預言します。そして、また、「パシュフルよ。あなたとあなたの家に住むすべての者は、とりことなって、バビロンに行き、そこで死に、そこで葬られる。あなたも、あなたが偽りの預言をした相手の、あなたの愛するすべての人も」(20:6)と宣告されますが、パシュフルは、「剣やききんがこの国に起こらない」(14:15)などという楽観的なことを言い続けていたのだと思われます。

 ところがエレミヤはその後、主(ヤハウェ)に向かって不思議にも、あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました・・・私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります」(20:7)などと訴えます。これは、エレミヤの預言のようにエルサレムがすぐには敵の手に落ちることなく、人々は偽りの希望に慰めを見出し、エレミヤを非難し続けたからです。そのような中で彼は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」(20:9)と思うほどに追い詰められます。ところが、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり」(20:9)、語らずにはいられなくなったというのです。そればかりかエレミヤは、周りの人々の計略を耳にしながら、 主(ヤハウェ)は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません」(20:11)と告白できました。同じようにキリストの弟子たちも、みことばが心の中で燃え盛る火のようになると同時に、主がともにおられるという励ましを受けることができました。エレミヤは先に、「あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました」(20:7)と、主に嘆きましたが、それは主に用いられる幸いの始まりでもあったのです。

そして、エレミヤは、「主(ヤハウェ)に向かって歌い、主(ヤハウェ)をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ」(20:13)と自分の勝利を歌います。ところが、その直後、一転して彼は、「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな」(20:14)と、自分が生まれたばかりにこのような間尺に合わない使命を与えられたと嘆きます。これは、不条理な苦しみに会ったヨブの告白とほとんど同じです(ヨブ3:1-12)。そして、エレミヤは、「なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか」(20:18)と嘆きます。彼はこのような嘆きの故に、「悲しみの預言者」と呼ばれています。

「主に従えば、幸福になれる・・」などという一見、わかりやすい表現は注意が必要です。そのような誤解のために、多くの人は、「私がこのような苦しみにあうのは、主のさばきを受けているからなのか・・・」などと、人生が思うように展開しない中で、空周りを起こすことがあります。また、「私なりに主を第一として生きてきたのに、どうして、すべてがこのようになってしまうのか・・」と嘆きながら、他の信仰者に相談し、「逆境の日には反省しなさい」などと、文脈を無視したみことばを投げつけられ、かえって落ち込むという人もいます。しかし、たとえば、アナニヤは、後の使徒パウロになる迫害者サウロにバプテスマを授けるように命じられ、躊躇しますが、復活の主は、「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫に前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」(使徒9:15,16)と言われました。私たちは、主から選ばれ、期待され、使命を授けられたものとして「苦しむ」ということがあるのです。

パウロは、コロサイの信徒に向けて、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:24)と言いました。そこには、キリストのために苦しみことの誇りがあります。

私たちが心の底で求めているのは、そのような真の生きがいではないでしょうか。生まれてこなければ良かったというほどの苦しみに会うことがあったとしても、それを補って余りある誇りと喜びを主は与えてくださいます。エレミヤは、主にある勝利を歌ったり、このような恨みにも似たことを言ったりと、心が異常なほどに揺れていますが、それは感受性の豊かな人に起こる常でもあります。ショーペンハウアーは、「偉大な精神の持ち主は神経の働きがあまりにも活発なため、それがいかなる形を取るにせよ苦痛に対する感受性は異常に高い」(同書p43)と言っていますが、それはダビデの詩篇の祈りの例からしても事実といえましょう。そして、多くの信仰者は、このような苦しみの直後に名状しがたい喜びを味わうことができています。私たちが避けるべきなのは、「苦痛と退屈の間を振り子のように行き来する人生」(ショーペンハウアー「存在と苦痛」P39)ではないでしょうか。それに対して、「悲しみと喜びが交差する人生」こそ、神に召された者の生き方ではないでしょうか。先の砂漠の師父エウアグリオスは、「真昼の悪魔」との戦いの後には、「ある平和な状態」と「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」(Ⅰペテロ1:8)という状態がたましいを支配すると語っています。それこそ倦怠感に耐える者への報酬です。

エレミヤは、主からの使命に生きる中で、「なぜ、私は労苦と苦悩に会うために、胎を出たのか」と嘆きました。それを思うときに、「私は幸せになるために生まれた。私は自分を幸せにしてくれる神を求める」などという発想の愚かさに気づかされます。主は、「見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように・・・あなたがたも、わたしの手の中にある」(18:6)と言われます。また、イザヤは、「陶器が陶器師に『彼はわからずやだ』と言えようか」(29:16)と言いながら、「しかし、主(ヤハウェ)よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られた者です」(64:8)と告白しています。私たちはそれぞれ、思いはかることのできない主のご計画の中で、創造され、生かされています。私たちは、その神のみこころに沿って生きるとき、真のいのちを輝かせることができます。アリストテレスは、「人の幸福はそのすぐれた能力をなにものにも妨げられず自由に発揮することである」と言ったそうですが(ショーペンハウアー「孤独と人生」p33)、それは、主の御前にへりくだり、「私は粘土で、主は陶器師です」と告白するときに可能になることでもあります。自分の幸せのために、主を求めるというのではなく、主の命令に従って、時間と財を聖別する中で、結果的に、この世の基準とは異なった「しあわせを味わう」ことができます。エレミヤのように主に自分の悲しみを訴えながらも、主のみこころに従った働きをするときに、この世の倦怠感を超越した、悲しみとセットにある「名状しがたい喜び」を味わうことができます。ですから、私たちが第一に求めるべきことは、「自分の幸せ」ではなく、「主のみこころに従う」ということです。

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