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2009年2月15日 (日)

ルカ20章1-19節 「誰のために生きるのか」

   昨年以来、証券会社や投資銀行の評判は悪くなるばかりで、その一員であった私は、何とも複雑な気持ちを味わっています。先日、日本福音自由教会協議会総会で、不本意にも、四人の役員の一人に選ばれました。担当を決める際に、「先生は金融機関に勤めていたから、会計をしてよ・・」などと言われ、さらに嫌な気持ちになりました。同じ金融機関でも、銀行と証券は水と油です。銀行は利ざやで生きていますから、百のうちの一社でも焦げ付けば、すべての利益が吹き飛んでしまいます。しかし、証券業は、百社のうちの一社を見出して人々にリスクをとって投資するように勧めるのが仕事です。敢えて言えば、証券業のロマンとは、銀行から見向きもされないような企業の成長性に期待して、人々にその夢を訴え、そこに危険を覚悟したお金を集めることです。それは、本日の聖書箇所で、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」とあるように、世の専門家たちが見向きもしない石の中から「礎の石」を探し出すことです。銀行は成功している企業の既得権益を守る方向に働きますが、証券はその既得権益を打破する成長企業を支援する方向に働きます。既得権益を守る世的な常識を打破しなければ新しい成長は生まれません。その際、投資の尺度として何よりも尊重されるのは、その企業自身が目先の利益ではなく、消費者の支持を得られる長期的な利益をもたらす真の夢を持っているかということです。銀行は目に見える担保をもとにお金を貸しますが、証券は、企業家の夢を担保にお金を集めます。人々の評価などを気にしないほどに熱い情熱を持っている企業家は魅力的です。同じように、神に向かってまっすぐに生きている人は魅力的です。イエスの時代の宗教指導者たちは、自分たちの既得権益を守ろうとして、イエスを十字架にかけました。しかし、彼らはすぐに歴史から姿を消さざるを得ませんでした。自分の立場を守ることばかりを第一に考え、神から与えられた真のビジョンを忘れる者のいのちははかないものです。それは同時に、現代的な問題です。誰のために、何のために仕事をするかというロマンを忘れた人々によって、現代の世界不況がもたらされたからです。

1.「わたしも・・・あなたがたに話すまい・・・」

「イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、イエスに言った」(1,2節)とは、イエスが十字架にかけられる数日前のエルサレム神殿での出来事を指しています。エルサレムの宗教指導者たちはイエスに、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください」(2節)と迫りました。祭司長は神殿の管理を神から委ねられているはずの立場ですから、イエスが神殿から商売人を追い出したり、民衆を教えたりしていることは、神が立てた権威を侵害していると考えられました。それも当然のことと言えましょう。

たとえば、この教会の礼拝の最中に、見知らぬ人が入ってきて、突然、講壇から何かを教えようとするようなことがあるなら、私にはその人を排除する権威が与えられています。ところが、彼らは民衆がイエスに信頼を寄せている様子を見て、真正面からイエスを排除しようとするなら自分の身が危ないと思い、イエスに罠をしかける質問を投げかけたのです。イエスが「父なる神から・・」と言うなら、彼らはイエスを、目に見える神殿の指導者の権威を否定する偽預言者として告発できると思いました。一方、「神の民である民衆が自分に権威を与えてくれた・・」などと答えるなら、イエスをローマ帝国の支配を覆そうとする革命指導者として訴えることができました。

それに対しイエスは、「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか」と反対に質問を投げかけます(3,4節)。私たちも人から質問を投げかけられたとき、それに馬鹿正直に答える代わりに、質問者の意図を探る必要があります。イエスの場合は、彼らの悪意を瞬時に見抜いていましたから、彼らが罠にかけようとした同じジレンマを引き起こさせました。それで彼らは、「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから」と言って、「互いに論じ合った」というのです(5,6節)。彼らの正直な気持ちとしては、ヨハネのバプテスマは神殿の権威を否定し、民衆を惑わすものであると言いたかったはずです。しかし、ヨハネは当時、ヘロデ・アンテパスの不道徳な結婚を非難して首をはねられた殉教者として人々の尊敬を集めていましたから、正直な意見を述べることは、民衆の怒りを買うだけであることを知っていました。彼らは、人に向かっては命がけで信仰を全うするように勧めていながら、自分の事に関しては、人の目ばかりを意識する臆病者に過ぎませんでした。それで、彼らはイエスの質問に正直に答える代わりに、「どこからか知りません」と答えたのでした(7節)。これによって彼らの偽善が暴き出されました。

これに対してイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われたというのです(8節)。それは、彼らが真実を知ろうとしているのではなく、自己保全しか考えていないということが明確になったからです。聞く耳のない人に語ろうとすることは、「豚に真珠」です。この諺はイエスが、「聖なるものを犬に与えてはなりません。豚の前に、真珠を投げてはいけません」(マタイ7:6)と言われたことに由来します。それはイエスが、彼らを豚のように扱ったという意味ではありません。彼らはイエスとの対話を通して、自分たちが神よりも人を恐れている臆病者に過ぎないということに直面させられました。彼らは自分の惨めさを知ることができたのです。人は誰も、自分の惨めさに直面することがなければ救い主を求めることはできません。イエスは彼らの偽善を真っ向から指摘して追い詰める代わりに、彼らがそれを自分で気づくように導いてくださったのです。私たちもイエスのみことばを聴くことによって、自分の罪を自覚させられるかもしれません。しかし、一見、冷たく感じられるイエスのことばの背後には、常に、私たちをご自身のもとへ招こうとされる熱い思いが込められています

当時の宗教指導者たちは、自分に都合の悪い人を巧妙に排除する方策ばかりを考えて、ものの本質を見ることを忘れていました。今ここで、真に問われていることが何なのかを見ることができない人は、本当に惨めです。

2.ご自分の力を隠しながら、「どうしたものか・・」と葛藤される神

 このような中でイエスは「民衆に」向けて、たとえを用いて宗教指導者たちの危険性を指摘しました。なぜなら、聖書知識があっても、神から委ねられた責任を自覚しない者は教師にふさわしくないからです。イエスはまず、「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た」(8節)と言われますが、この背後にイザヤ5章の記事があります。そこで神は、「エルサレムの住民とユダの人よ・・・わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか」(イザヤ5:3,4)と問いかけておられます。つまり、ぶどう園の主人が、ぶどうの収穫のために必要なすべてのことを備えたので、その収穫の分け前はすべて主人に属するものであり、農夫たちには定められた賃金以上のものを受け取る権利はないということが、このたとえの前提にあるのです。事実、マタイの並行記事では、「ひとりの、家の主人・・は、ぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」(21:33)と、主人の働きが詳しく描写されています。

また、「それを農夫たちに貸した」(9節)とは、父なる神がイスラエルの民に約束の地の管理を任せたこと、「長い旅に出かけた」とは、神がしばらくの間、沈黙していたことを指します。かつて神はイスラエルの民に約束の地の真ん中にエルサレム神殿を与えてくださいましたが、それは神が彼らの真ん中に住んでくださるというしるしでした。ところが、彼らの心はしだいに自分たちの神から離れてしまい、特に宗教指導者たちは、エルサレム神殿を利用して私腹を肥やすようになって行きました。今も、昔も、宗教は金儲けの最も効率的な手段になりえるからです。彼らの心が神から離れたとき、神も彼らから離れて行かれました。彼らが外国の軍隊によって苦しめられたのは、神が無力だったからではなく、主の栄光がエルサレム神殿から離れてしまった結果でした。

ただし、それでも神は、イスラエルの民を見捨てることなく、忍耐をもって多くの預言者を遣わし、イスラエルの民に語り続けました。そのことがここでは、ぶどう園の主人が、「季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした」こととして描かれます(10節)。これは、イスラエルの民とその指導者たちに、主ご自身から委ねられた責任を自覚させるためでした。彼らは、世界に対して、神の栄光とあわれみを証しするために神によって選ばれた神の民だったからです。

人生には喜びよりも苦しみの方がはるかに多いと言われますが、そんな人生を人は、何のために生きる必要があるのでしょう。その答えを使徒パウロは、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません」(ローマ14:7)と言っています。これはすべての人に適用できることばです。人はみな、誰かのために生き、誰かのために死ぬのです。それは、家族のため、共同体のため、国のためかもしれません。現代の日本人はその使命感を忘れてはいないでしょうか。その結果、自殺が広がる一方で、その場限りの快楽を求める刹那的な生き方が生まれます。それはイスラエルでも同じでした。彼らは、ぶどうを主人に渡す代わりに、ぶどう酒を心行くまで飲みたいと願いました。彼らは約束の地という理想的な環境を手にしたとたん、それを可能にしてくださった神を忘れて、自分の快楽のためだけに生きるようになってしまったのです。

昨年、米国の投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻の理由を、「それは強欲の故である」と言い放った人がいます。真のロマンを忘れた仕事は必ず行き詰まります。富は使命を果たすことへの報酬であることを忘れてはなりません。ここでも、「ぶどう園の収穫」は、ぶどう園の主人のものであり、農夫たちはその管理を任されている者に過ぎませんでした。これは、基本的に私たちのすべての仕事に適用できる原則です。私たちは数え切れないほどの恵みによって生かされています。土地も空気も水もすべて神の賜物です。仕事も神によって与えられたものであり、私たちは神に対して説明責任を負っています。そのことが先のローマ人への手紙では、「こういうわけですから、私たちはおのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります」(14:12)と記されています。ところが、多くの人々は、それを忘れて自分のためだけに生きようとして、自分を管理する方を心の中で消し去ろうとします。

それがここでは、「ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した」(10節)と描かれます。これはたとえば、イスラエルの民が最初の預言者エリヤにとった態度です。彼の努力は何の実も結ばないように見えました。ただ彼は、多くの迫害は受けながらも、生きたまま神のみもとに引き上げられました。ところが、その後、状況は悪くなるばかりでした。そのことが、「そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した」(11節)と描かれます。預言者イザヤなどは、エルサレムがアッシリヤの軍隊に包囲されたとき、ヒゼキヤ王に対して決定的な影響力を発揮することができましたが、その後の王マナセのもとで殉教したと言われます。また預言者エレミヤなどは、「嘆きの預言者」と呼ばれるほどに、その生涯は苦しみに満ちていました。ぶどう園の主人は、この段階で農夫たちを追い出してもよかったはずですが、なおも「三人目のしもべ」を遣わします。それに対し、「彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した」(12節)というのです。これは最後の預言者、バプテスマのヨハネを指していると思われます。当時の民衆は彼を預言者として信じていましたから、イエスのこのことばの意味をよく理解できたことでしょう。

不思議にも、ぶどう園の主人は、ご自身の力を隠して、しもべに託した「ことば」だけで彼らを悔い改めさせようとします。そして最後に、「ぶどう園の主人」は、「どうしたものか」と思案したあげく、「よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう」と期待したというのです(13節)。ところが、「農夫たちはその息子を見て、議論しながら」「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ」(14節)と言ったというのです。彼らは、主人が軍隊を送ってこないことを、主人はすでに死んでしまったしるしと解釈しました。そして、相続者のいない土地は、そこに住んでいる者の所有とされるという法律がありましたから、彼らはあと取り息子を殺すことで、ぶどう園を手に入れようと思いました。農夫の姿は、当時の宗教指導者たちがエルサレム神殿を利用して利得を得ていたことを示しています。「そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった」(15節)というのは、彼らがイエスをエルサレムの城壁の外で十字架にかけられて殺されることを示しています。

このたとえはイエスご自身の十字架を早める効果がありました。これを聞いた宗教指導者たちは、イエスが自分を神から遣わされたあと取り息子に例えていることがわかったはずです。彼らにとっては許しがたい神への冒涜と思えたことでしょう。彼らはこれを聞いたことで、イエスへの殺意を正当化できました。しかし同時にこれは、イエスの十字架と復活の後、彼らを悔い改めに導くためのものでもありました。彼らは、自分たちが神から遣わされたひとり子を殺害したことの報いがどれほど大きなさばきになることを思い起こし、神に赦しを請うこともできたはずです。少なくとも、このたとえを聞いた民衆の一部は、この意味を理解して、キリストの弟子となったことでしょう。

この世の不条理がなくならないのは、神が忍耐をもって、みことばによって人々の心を変えようと、さばきを遅らせておられるためです。「主は・・・あなた方に対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むのを望んでおられるのです・・主の忍耐は救いであると考えなさい」(Ⅱペテロ3:9、15)とあるとおりです。しかし、主の忍耐のゆえに、主をあなどってはなりません。主は、時がきたら、私たちひとりひとりが誰のために、誰への説明責任を意識して生きてきたかを問われるからです。

3.「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」

イエスは、ここでこの話を聞いてきた民衆に向かって、「こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう」(15節)と質問します。人々は、「この後、どうなるのだろう・・・」と考えたことでしょう。その上でイエスは、ぶどう園の主人が「戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」(16節)と言いました。それは、この約束の地からイスラエル民が追い出されて、別の民族がその地に住むようになるという意味でした。人々はそれを理解したので、「これを聞いた民衆」は、「そんなことがあってはなりません」と言ったのです。

それに対してイエスは、「彼らを見つめて」、「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった』と書いてあるのは、何のことでしょう」と再び質問しました(17節)。これは詩篇118編からの引用です。そこでは、「私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」(21-23節)と記されています。これは、人間的な利害を超えた主への信頼が報われるという告白です。私たちの前には、「そのような損な役回りは避けたい・・・」と思われるような働きがあるかもしれません。しかも、それを引き受けることによって、かえって、人の誤解や中傷を受けることがあるかもしれません。しかし、主はご自身に信頼する者を決して裏切ることがありません。それどころか、人から裏切られ、見捨てられた者を、ご自身の働きのための「礎の石」として用いてくださいます。イエスが「彼らを見つめた」のは、ご自身こそが、人々から見捨てられながら、神によって「礎の石」として用いられる者であるということを、彼らを招くような目で知らせるためでした。

同時にそこにはイザヤ8章の記事が背景にあります。そこでは、「万軍の主(ヤハウェ)、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ」(13節)と記されていますが、私たちはどの方を「恐れ」とするかが問われています。「そうすれば、この方が聖所となられる」とはイエスご自身が神殿となられるという事を指し示しています。それと同時に、「しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる」(14、15節)と記されています。残念ながら、「人はうわべを見る」(Ⅰサムエル16:7)とあるように、それまでイエスに将来の希望を託していた民衆たちは、数日後、ローマの兵隊に無力に捕らえられている姿を見てつまずき、そろって、「十字架につけろ!」と大合唱してしまいました。イスラエルの民にとって、ローマ帝国の前に無力な救い主などありえなかったからです。しかし、主は、ご自身の力を隠しておられたのです。昨年来のウォール街の悲劇、それは人が見せかけに騙されて、ものの本質を見ることを忘れてしまったことの結果と言えましょう。  

ただし、そこには、イエスを殺そうとする者への神のさばきが警告されていました。マタイによる福音書では、イエスご自身が宗教指導者に向かって、「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」と語ったと記されています(21:43)。これは、神の国がイスラエルから取り去られてイエスの弟子たちの共同体であるキリスト教会に受け継がれることを示唆したものです。

 そのことをイエスは別の角度から、「この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです」(18節)といわれました。これは恐ろしい警告です。イエスに信頼する者は救われるという一方で、ご自身を救い主として認めないものは、自滅するということを語ったものです。なお、これは、聖書の神を知らない多くの人々のことについて語ったことではなく、イエスを殺そうとする者たちへの警告です。それは、このイエスのことばから40年後に、エルサレムはローマ帝国の軍隊によって滅ぼされ、ユダヤ人はその後、約二千年間近くにわたって国を失うという形で実現しました。そこには、目に見える権力者よりも神から遣わされた「礎の石」としてのイエス・キリストをこそ恐れなければならないという意味が込められています。地上のすべての王国は、次から次と滅びてゆきました。しかし、イエス・キリストの王国は、二千年前にパレスチナの片隅で始まり、今も世界中に広がり続けています。あなたの周りに百年以上にわたって活力を保ち、繁栄を続けているような会社があるでしょうか。しかし、イエス・キリストの教会は今も活力を保ち成長を続けています。

なお、このイエスのことばの背景には、ダニエル2章で記されているバビロン帝国の大王であるネブカデネザルが見た夢のことがあります。そこではバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国などの歴代の巨大帝国のことが描かれていますが、最後の帝国には鉄の強さと粘度のもろさとが共存しており、一見、強いように見えてもその実態は、団結力のない国です。それが「一つの石」によって「打ち砕かれ、絶滅する」というのです。これは当時の現実としては、祭司たちとヘロデの勢力の結びつきのようなものです。昔から敵の敵は味方であるというように、彼らは理念を共有しているのではなく、共通の敵であるイエスの前に結びついているに過ぎません。それは現代の日本の政治状況であるとともに、私たちの周りにある現実です。鉄のように強い権力があったとしても、それは粘土と混ざっています。しかし、鉄と粘土が融合することがないように、この地上の権力はすべて、とてつもないもろさを抱えています。キリストによって結びついている共同体に勝つことができる権力は存在しません。かえって、キリストに敵対する権力は、一時的な繁栄を誇っているように見えても、あっけなく消え去ってゆくのです。

  ところで、最後に、「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた」(19節)と記されています。ここで興味深いのは、「やはり民衆を恐れた」という記述です。宗教指導者たちはイエスが自分たちを非難しているということを理解し、怒りに燃やされながらも、民衆を恐れてイエスに手出しをすることができません。彼らは口先では、神への信仰のためならいのちをも捨てるべきだと説いていました。しかし、自分の身に関しては、少しの危険をも避けていたいと願うばかりでした。彼らは人の目ばかりを意識して、真に恐れるべき方から目をそらしていました。

  この世の権力機構などは、鉄と粘土の組み合わせのように、驚くほどに脆いものです。イエスは当時の宗教指導者たちから見捨てられた石です。しかし、それこそが、神の国の「礎の石」でした。それは私たちにも適用できることです。この世の評価や力を恐れて生きる者は、強いように見えても驚くほど脆い存在です。私たちは今、経済的に驚くほど不透明な時代に生きています。しかし、そのようなときこそ、主の目を意識しながら、この世の評価を恐れず、リスクをとることができるキリスト者が輝くことができます。民衆を恐れて自滅したイエスの時代の宗教指導者のようになってはなりません。常に、イエスの眼差しを意識して、与えられた使命に情熱を持って生きましょう。

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2009年2月 1日 (日)

伝道者の書8:2-9:10「成功の意味を知る」 

伝道者の書8章2節~9章10節 翻訳

 私だ。王のことばに注意を払え。これは、神の誓約に基づくのだから。   

あわてて彼の前から立ち去るな。悪事に荷担するな。彼は自分の望むまますべてを行うから。 

王のことばには権威があり、誰も彼に、「あなたは何をなさるのか?」と言えないのだから。    

命令に注意を払う者は悪事を知るようにならない。知恵ある者の心は、時とさばきを知るようになる。 

実に、すべての営みには、時とさばきがある。ただ、人の災いは彼の上に重くのしかかっている。    

しかも、彼は自分に何が起こるかを知らないし、誰も彼に起こることを告げることはできない。  

風を支配し、風を押しとどめることのできる人はいないように、死の日を支配できる人はいない。

戦いの最中に除隊されることがないように、悪はそれを行い続ける者を解放することはない。

このすべてを見て、日の下で行われるすべてのわざに心を傾けた。             

人が人を支配して、災いを及ぼしている時がある。

そこで、私は見た。悪者どもが葬られ、そのままにされながら、働きをした人が聖なる所を去って、町から 

忘れられるのを。これもまた、空しい。                                                                                         

悪い行いに対する宣告がすみやかに行われない時、そのため人の子らの心は悪を行う思いで満たされる。

たとい、罪人が百度悪事を犯しても、長生きをしている。                

それでも、私は知っている。神を恐れる者は、御前で恐れているなかで、しあわせであることを。

しかし、悪者にはしあわせがない。彼は、その生涯を長くすることはできない。それは影のようだ。

それは、彼が、神の御前で恐れることがないからだ。

この地上でなされることには空しいことがある。悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受けることがあり、

正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた空しいことだと言おう。         

それで私は、快楽をたたえる。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。

これこそが、日の下で、神が与える一生の日々の労苦に添えられるものなのだ。

私が、知恵を知り、地上で行われる仕事を見ようと、昼も夜も眠ることなく心を傾けたとき、

すべては神のみわざであることがわかった。日の下で行われるみわざを人は見出すことはできない。 

人が労苦し、求めても、見出せない。知恵ある者が「分かった」と言おうとも、見出してはいない。

実に、私はこのすべてに心を傾けた。正しい人も、知恵ある者も、彼らの働きも、このすべては神の御手の 

中にあることを確かめた。愛も憎しみも、これからのすべてを、人は分かってはいない。                  

すべての人に待っているすべてのことは同じ出来事。正しい人にも、悪者にも、善人にも、 

きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも。

善人と罪人も同じで、誓う者と誓うのを恐れる者にも同じことが待っている。                                                                                                                            

これこそが、日の下で起こるすべての中で最も悪い。実に、すべての人に同じ出来事が待っている。

それで、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心に狂気があり、その後は死人となる。          

実に、すべて生きている者の中に選ばれている者には希望がある。

生きている野良犬は死んだライオンにまさるのだから。                          

生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死人は何も知らない。 

彼らにはもう、何の報いもなく、彼らの記憶は忘れ去られる。

彼らの愛も憎しみも、ねたみも、すでに消えうせてしまい、 

彼らには、日の下で起こるすべての中に、もはや永遠に受ける分はない。

  さあ、喜んであなたのパンを食べ、幸せな心でぶどう酒を飲め。

神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから。

いつも、真っ白な衣を着て、頭には香油を絶やすな。      

日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ。あなたの空しい日々に・・・

これこそが、あなたが日の下で労したあなたの人生と労苦からの受ける分なのだから。

  手もとに見出したことはすべて、あなたの力で行え。   

あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないのだから。                                 

 埼玉のジョン・レノン・ミュージアムに行って何よりも教えられたことは、二十世紀後半の文化に最も大きな影響力を発揮したビートルズのリーダーにとっての最高の幸せは、小野洋子との静かな生活のただ中にあったということです。そのとき私も、「僕の最高の幸せも、洋子との今ここでの生活にある」と心で感じられました。それは本日の箇所の結論、「日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ・・・これこそが、あなたが日の下で労したあなたの人生と労苦からの受ける分なのだから」(9:9)に記されている通りです。なお、ジョン・レノンが凶弾に倒れる数ヶ月前にリリースされた「ウーマン」という曲があります。そこで彼は、「女性よ。僕は君に永遠の負い目がある。この気持ちと感謝をどう表現できよう。君は僕に、成功の意味を教えてくれた(for showing me a meaning of success)」と歌っています。彼は五年間近くも家事と子育てに専念しながら、人生で最高の宝が、何かを達成することよりも、今ここでの生活にあると分かったのでしょう。しかも彼は女性の素晴らしさを、「男性の内側にある幼子の心をよく理解している」ことにあると歌っています。彼はそこに、たましいの安らぎを感じることができました。私は、ジョンとは異なった信仰的な立場に立っていますが、かつて何かに駆り立てられるように忙しく生きていながら、人生で目指すべき成功が最も身近なところにあることを気づかずにいました。しかし、私たちの心の底にある「成功への憧れ」は、今ここでの、神との交わり、また、神が与えてくださった最も身近な人との交わりの中で満たされるものなのです。

1.「知恵ある者の心は、時とさばきを知るようになる」

8章2節の原文は、「私だ。王のことばに注意を払え」という不思議な書き出しです。最初に「私」ということばが、何の述語もなく出てくるので、多くの翻訳者は何らかのことばを加えて意味を明確にしようとします。しかし、著者は自分のことを最初に、「エルサレムの王、ダビデの子」と紹介していますから、読者の注意をそこに向けさせようとしたのだと思われます。「これは、神の誓約に基づくのだから」とは、神が、ダビデの世継ぎの子に向かって、「わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサムエル7:13)と約束されたことを指していると思われます。神はダビデの世継ぎの王座を守ることによってイスラエルという国の安定を実現しようとされました。それは、神のあわれみに満ちたご計画でした。人は、神の約束に基づく秩序を大切にすることによって、この世の生活を安定させることができます

しかも、当時の王は、絶対権力者で、その口から出ることばには、人の生死を決めるほどの権威がありました。それをもとに、「あわてて彼の前から立ち去るな。悪事に荷担するな。彼は自分の望むまますべてを行うから。王のことばには権威があり、誰も彼に、『あなたは何をなさるのか?』と言えないのだから」(8:3、4)と記されます。著者はここで、目に見える王を恐れることとの類比で、目に見えない神を恐れることの意味を教えようとしています。多くの人は、「世界にこんな不条理を許している神など信頼できない・・・」と言うことがありますが、人が目に見える王を恐れるのは、王の命令を納得するからという以前に、それに逆らうと自分の身の滅ぼすからではないでしょうか。それと同じように、神のことばが納得できないように感じられるからと言って、それを軽んじるなら自分の身に滅びを招きます。

最初の人アダムは、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)という神のことばを軽んじて、死ぬ者となってしまいました。現在も、多くの日本人にとって、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない・・・・自分のために偶像を、造ってはならない・・拝んではならない・・・安息日を覚えて聖なる日とせよ・・・七日目には・・・どんな仕事もしてはならない」という「十のことば」の核心は納得しがたいものです。しかし、それは今から三千年前のイスラエルの民にとっても納得し難いことでした。彼らはこの明確な教えを軽んじることによって、紀元前586年に国を滅ぼしました。それ以来、彼らは基本的に、約束の地で平安に暮らすということはできなくなりました。信仰の本質は、完全には納得できないまま、それでも信じるということにあります。それは、子供と親の関係に似ています。幼児期は、みな、親のことばを理解できないまま、ただそれに従うことが求められています。それは成長に必ず必要なプロセスです。そのことが、「命令に注意を払う者は悪事を知るようにならない」(8:5)と記されます。「知る」とは「体験する」という意味が込められていますが、これは、親から善悪の基準をしつけられている子が、悪事への自制心が常に働くようになることに似ています。

それと並行して、「知恵ある者の心は、時とさばきを知るようになる」(8:5)という生きた知識のことが記されます。私たちはそれでも、盲目的に信じることを強要されているわけではありません。「実に、すべての営みには、時とさばきがある」(8:6)と繰り返されるように、私たちは聖書にある膨大な記録を通して、神が、ご自身のときに、さばきを下されるということを知ることができます。確かに目の前の人生の現実は、「人の災いは彼の上に重くのしかかっている。しかも、彼は自分に何が起こるかを知らないし、誰も彼に起こることを告げることはできない」(8:6、7)とあるように、暗闇の中を手探りで進むような面があります。しかしそれでも、聖書によって、世界がどのように始まり、どこに向かっているのかという歴史の全体像を知ることができます。これこそ哲学者たちにとっての憧れの知識でした。その意味で私たちは既に、「知恵ある者」とされ、「時とさばきを知る」者です。聖書を知る者は「成功の意味を知る」者なのです。

なお、「知恵ある者」は、何よりも、知るべきことと知りえないことの区別ができる人です。多くの人は、自分の将来を把握したいと願いますが「風を支配し、風を押しとどめることのできる人はいないように、死の日を支配できる人はいない」(8:8)とあるように、それは不可能なのです。この単純な真理をもっと大胆に宣言するなら、少なくとも、占いや偽りの宗教の被害から人々を守ることができるかもしれません。それにしても、「戦いの最中に除隊されることがないように、悪はそれを行い続ける者を解放することはない」とあるように、あなたの身近な人が、偽りの教えや悪い行いに夢中になっているとき、何を言っても無駄です。私たちは何よりも、自分の限界を知っていなければなりません。

2.「神を恐れる者は、御前で恐れているなかで、しあわせである」

著者はそれで、「このすべてを見て、日の下で行われるすべてのわざに心を傾けた」と言いながら、目に見える世界の不条理を、「人が人を支配して、災いを及ぼしている時がある。そこで、私は見た。悪者どもが葬られ、そのままにされながら、働きをした人が聖なる所を去って、町から忘れられるのを。これもまた、空しい」と描きます(8:9、10)。これは、創造主を忘れて生きた人が神の都エルサレムの一等地の墓に葬られる一方で、神を恐れ誠実に神殿に仕えてきた人が、エルサレムから遠くはなれて死に、その働きも忘れられているということがあるということです。

しかも、「悪い行いに対する宣告がすみやかに行われない時、そのため人の子らの心は悪を行う思いで満たされる。たとい、罪人が百度悪事を犯しても、長生きをしている」(8:11、12)という現実が見られれば見られるほど、悪行に対する歯止めがなくなります。残念ながら、「正直者がバカを見る」と言われるような現実が歴史には常にありました。

ところが、著者はここで、「それでも、私は知っている。神を恐れる者は、御前で恐れているなかで、しあわせであることを」(8:12)と語ります。つまり、「神を恐れる」生き方を全うしている人は、それによって富も長寿をも受けられず、非業の死を遂げるようなことがあったとしても、その生き方自体の中に「しあわせ」があるというのです。

ダビデはそのことを、「主(ヤハウェ)こそ、私の割り当ての地、また私の杯」(詩篇16:5)と告白し、私たちの「喜び」は、主から与えられる土地や財産以前に、主ご自身との交わり自体にあると告白しています。それはたとえば、恋愛をしている人や仕事に夢中になっている人は、それ自体の中で幸福感を味わうことができているのと同じです。

ただし、恋愛は失恋に終わり、仕事も失敗に終わることがありますが、神との交わりは失われることがありません。神は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と約束しておられるからです。しかも、たとい一時的な貧しさを味わったとしても、全世界の富の真の所有者が、ご自身のときに私たちの必要を満たしてくださることを知っているなら、その確信の中で、心を豊かに保つことができます。

それと対照的に、「悪者にはしあわせがない。彼は、その生涯を長くすることはできない。それは影のようだ。それは、彼が、神の御前で恐れることがないからだ」(8:13)と言われます。聖書の用語で「悪者」とは「神を恐れない人」を指し、それは、「創造主を忘れて生きる人」を意味します。人は、自分の創造主を忘れるとき、自分が何者であるかというアイデンティティーを知ることができません。そこに生まれるのは、人との比較で自分をはかり、優越感に浸ったり、また劣等感に苛まれたりという空しい生き方です。たとい、人との比較を忘れるほどに何かに夢中になることができたとしても、その努力を生かしてくださる方を知っていなければ、目に見える結果に一喜一憂することになりかねません。つまり、創造主を忘れた生き方は、「いのち」の実体がない「影」のようなものになるというのです。

その上で著者は、この世の不条理を再び、「この地上でなされることには空しいことがある。悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受けることがあり、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた空しいことだ」(8:14)と言います。つまり、「しあわせ」を、目に見える現実ばかりで判断すると、悪人が幸せになり、善人が不幸になっているように見えることがあり、その不条理に私たちの心は揺り動かされるというのです。

その現実を前提に彼は、「それで私は、快楽をたたえる。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これこそが、日の下で、神が与える一生の日々の労苦に添えられるものなのだ」(8:15)と言います。これは、世界の不条理を正そうとする前に、今、ここで、神が許してくださった「快楽」を味わうことが人生の何よりの知恵だという意味です。共産主義思想の創始者マルクスは、「宗教は、悩める者のため息・・・人民のアヘンである。人民の幻想的な幸せとしての宗教を廃棄することは、人民の現実的な幸せを要求することである」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判に寄せて」序論、土屋保男編訳、青木文庫1964年)と言いましたがそれは大きな誤解です。たとえば、箴言の著者は、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(17:1)と記していますが、神を恐れている人は、どんなに貧しい食事でも、それをともに喜ぶことができる一方で、互いに争いながら、人を恐て生きている人は、食事の交わりを楽しむことさえできないという現実は歴然としているのではないでしょうか。信仰は死後の望みばかりか、現実的な幸せの保証でもあります。つまり、神は、この地で私たちを幻想で生かそうとしておられるのではなく、目に見える些細な喜びから、来るべき世界の喜びを期待できるようにと導いておられるのです。

実際、現実への不満を抱いてばかりいる人は、人と人との関係を平和に保つことができません。その結果、現状を正そうと仲間を集めて立ち上がったはずが、仲間同士で争い、組織的な締め付けをやって、なお悲惨な現実を作り出します。ジョンも「Revolution(革命)」という曲で、「憎しみの心で」抑圧からの解放運動に走る人に向かって、「まず自分たちの心を解放すべきではないのか・・・」と歌っています。憎しみの心の中には、成功の希望はありません

ところで、多くの日本の知識人は、「多神教の方が一神教よりも平和的だ・・・」などと言っていますが、何が正しくて何が間違っているかの基準となられる創造主なる神がおられなければ、「目的のためには手段を選ばない」ということが正当化されるのではないでしょうか。しかも、残念ながらいつの時代にも、不条理のない世界などはありませんでした。ですから、この世界の支配者である神を忘れて、「結果さえ良ければ・・・」という発想に生きるなら、人の心はありもしない未来への夢に駆り立てるばかりで、「今ここでの幸せ」を味わうという「成功」を見ることができません。

3.「それで、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心に狂気があり・・」

著者は、「私が、知恵を知り、地上で行われる仕事を見ようと、昼も夜も眠ることなく心を傾けたとき、すべては神のみわざであることがわかった。日の下で行われるみわざを人は見出すことはできない。人が労苦し、求めても、見出せない。知恵ある者が『分かった』と言おうとも、見出してはいない」(8:16)と、三度も、「見出せない」ということばを繰り返しながら、人間の知恵の限界を強調しています。これは、8章7,8節と同じような意味が込められています。

その上で、「実に、私はこのすべてに心を傾けた。正しい人も、知恵ある者も、彼らの働きも、このすべては神の御手の中にあることを確かめた。愛も憎しみも、これからのすべてを、人は分かってはいない」(9:1)と記されます。私たちは、自分の正義や知恵によって、神と人から認められようともがきますが、私たちには、「もらったものでないもの」は何もありません(Ⅰコリント4:7)。そればかりか、「愛も憎しみも・・・人はわかっていない」とあるように、心の中では愛と憎しみは複雑に絡み合っています。それは夫婦喧嘩に現れるようなものです。しばしば、「かわいさ余って憎さが百倍」ということわざがあるように、自分で自分の心の揺れが分からないようなところがあるのではないでしょうか。

しかし、そのような中で、一つだけ明白な現実があります。それは、人は必ず「死ぬ」ということです。そのことがここで、「すべての人に待っているすべてのことは同じ出来事。正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも。善人と罪人も同じで、誓う者と誓うのを恐れる者にも同じことが待っている(9:2)と描かれます。しかも、著者は、それを自然として受け止める代わりに、「これこそが、日の下で起こるすべての中で最も悪いと評価し、その結果として、「それで、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心に狂気があり、その後は死人となる」説明します(9:3)。死とは、愛する人と別れるとき、すべての富を失うとき、この肉体が灰になってしまうとき、地上の働きが無に帰するとき、人々から忘れ去られるときです。「死」とは、私たちが心の底で恐れているすべてのことの象徴ではないでしょうか。また、死がすべての終わりだとしたら、「どうせ死ぬのだ・・・」という自暴自棄につながらないでしょうか。死がすべての終わりなら、正しく生きようとすることに何の意味も見出すことができなくなり、刹那的なその場限りの快楽を正当化することになるだけです(Ⅰコリント15:32)。 

  しばしば、宗教は「死」を美化し、受け入れやすくするように作用します。それこそアヘンであり、現実の問題を見えなくしてしまう幻想の教えです。私が、ジョン・レノンの曲に魅力を感じるようになったのは、「ジェラス・ガイ」という曲を聴いたのがきっかけでした。そこで彼は、『僕は自分を制することができなくなっていた。決して君を傷つけるつもりはなかったのに、君を泣かせてしまった。僕はただの嫉妬深い男なんだ。僕はとっても不安だったんだ。君がもう愛してくれないのではないかと。僕は内側で、震えていたんだ・・・僕はその痛みを呑み込んでいた』と歌っていました。

彼はここで自分の強がりや攻撃性の背後に、自分の「見捨てられ不安」があったということを正直に認めています。実際、ジョンは、「洋子が自分の人生を救い出してくれた」と言っています。彼は、ビートルズ時代に、「俺たちは今や、イエスよりも有名になった・・」などと豪語しましたが、それは孤独と不安の裏返しの気持ちでした。しかし、洋子と出会ってから、「僕がどこにも居場所がなかったとき、彼女がいてくれた」と言っています(ジョン・レノン魂の軌跡p127)。ジョンは、洋子の愛を受けることによって、自分の心の内側にある闇をすなおに認めることができるようになったばかりか、自分の心の弱さや醜さに居直ることもなく、そのあるがままを歌にして全世界に知らせました。そのとき多くの人は、彼と同じような気持ちが自分の中にあることを認め、その音楽に慰めを受けることができたのではないでしょうか。

私たちは、自分の不安の原因が、まわりの人にあると思うときに、他の人を攻撃します。しかし、怒りたくなる原因は、まわりの人ではなく、自分の内側の不安にあります。そして、不安は、死の不条理から来ます。そして、私たちは自分をそのままで愛してくれる人を知ったときに、その不条理に直面する勇気が生まれます。しかし、小野洋子は神ではありませんでした。七歳年上の洋子も、彼の母になることに疲れたのかもしれません。六年間の蜜月生活の後、彼らは十五ヶ月間の別居生活をせざるを得なくなります。そして、このとき、ジョンは酒と麻薬で自分を破滅させる一歩手前までの狂気に陥ってしまいました。それは洋子に精神的な依存をしすぎたことの反動かもしれません。

彼はその後、洋子に甘える代わりに、洋子を生かすという方向へ変わります。洋子が42歳でショーンを出産したとき、彼は公の音楽活動を止めて、約五年間、主夫として生きるようになります。その間、洋子は彼らの財産を二倍に増やすことができたという噂もあります。そして何よりも、この時期、ジョンは本当の意味での幸せを味わうことができました。そして、彼らがふたりでそろって、音楽活動を再開した数ヵ月後、ジョンは狂信者の凶弾に倒れました。彼は、ほんとうの成功を手にできたと喜んだ矢先に、息を引き取りました。それこそがこの世の人生の不条理、限界です。

その悲劇の意味を解釈しようとすることは傲慢です。私たちはただ、不条理の中を生きるように求められています。

 4.さあ、喜んであなたのパンを食べ・・・愛する妻との生活を楽しめ

 「実に、すべて生きている者の中に選ばれている者には希望がある。生きている野良犬は死んだライオンにまさるのだから。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死人は何も知らない」(9:4、5)とありますが、私たちが「生きている」のは、神に生きるように「選ばれている」からです。私たちはみな、生かされて生きているのです。そして、人は生きている限り、成長し、自分への理解を深めることができます。しかし、人は誰も、死んでしまってから自分の人生をやり直すことはできません。仏教的な風習では、死んだ方に向かってお経が唱えられますが、その内容は明らかに生きている人が知るべき人生の真理です。生きているときに忙しすぎて学ぶことができなかったことを学んでいただいているという意味があるのかも知れませんが、聖書は、人はこの地上の生涯を終えた後、成長の機会もやり直しの機会もないということを強調します。神は、今、どのように生きているかによって、死後のさばきを下されます。

  なお、著者は、9章6節では「彼らにはもう、何の報いもなく、彼らの記憶は忘れ去られる。彼らの愛も憎しみも、ねたみも、すでに消えうせてしまい、彼らには、日の下で起こるすべての中に、もはや永遠に受ける分はない」と述べ、10節では、「あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないのだから」と、人には死後に何の希望もないかのように言っています。ただし、「よみ」とは厳密には、「死者が終末のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所」(新改訳聖書あとがき参照)と定義されます。多くの人々は、この死者のたましいが眠っている世界がどのようになっているかに大きな関心を持ちますが、聖書は、それよりも、神のさばきが行われた後に実現する、「新しい天と新しい地」に私たちの目を向けようとします。なお、私たち信仰者のたましいがそこに置かれるのだとしても、それは一時的なことに過ぎません。それは、ダビデが、詩篇16篇で、「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず(10節)と記している通りです。ペテロは、イエスの十字架の後、この詩篇を引用しながら、キリストの復活が聖書の預言の成就であることを論証し、「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が、死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒2:24)と宣言しました。私たちも同じ勝利を約束されているのです。

多くの人々は、「死」を受け入れるべき現実として見ますが、聖書は、「死」を究極の「敵」として描きます(Ⅰコリント15:26)。私たちの信仰の核心は、「キリストは私たちの罪のために死なれ・・・三日目によみがえられた」(同15:3,4)という、キリストの十字架と復活にありますが、そこには、キリストが私たちを、「一生涯、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放」するという意味がありました(ヘブル2:15)。つまり、キリスト者として生きるとは、死の力に打ち勝つ者として生きるということなのです。イエスは、ご自身を救い主として信じる者は、すべての罪を赦され、「永遠のいのちを持ち、さばきに会うことばなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)と断言してくださいました。

なおここでは、私たちすべてが肉体的な死を迎えなければならないという現実に直面するからこそ、今、神によって生かされていることを心から感謝するように勧める意味で、「さあ、喜んであなたのパンを食べ、幸せな心でぶどう酒を飲め。神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから。いつも、真っ白な衣を着て、頭には香油を絶やすな」(9:8、7)と記されます。これは刹那的な生き方の勧めではなく、神に生かされていることの恵みを心から喜び味わうようにとの勧めです。そこには、私たちは神に信頼することによってのみ、死の力に打ち勝つことができるという信仰告白が込められています。そして、続けてこの箇所の結論として、「日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ。あなたの空しい日々に・・・」(9:9)と記されます。それは、この世の人生の空しさを見据えるからこそ、今、与えられている最も身近な人との交わりを喜ぶ必要があるということです。これこそ天国の前味です。神が備えていてくださる「新しい天と新しい地」は、そのような愛の交わりの完成するところです。そして、「これこそが、あなたが日の下で労したあなたの人生と労苦からの受ける分なのだから。手もとに見出したことはすべて、あなたの力で行え」とあるのは、この地上での「食うために働かなければならない」という「空しい」現実をそのまま受け入れ、働く事とその報酬を楽しみ喜ぶ事という生活のリズムを、神の恵みとして受け入れることとの勧めです。  

     

イエスの救いのみわざを知る者は、自分の人生のゴールが、喜びと平安に満ちた世界であることを「知るように」していただいています。確かに目の前には、常に、様々な悩みがありますが、全知全能の神は、人生の嵐のただ中でさえ、愛する人との食事の交わりを喜ぶことを可能にしてくださいます。それこそ天国の前味です。また私たちは生きている限り、一瞬一瞬、何らかの決断を迫られます。そのとき問われているのは、今ここで、自分の損得を超えて、明確な神のことばに従いながら、同時に、与えられた知性を生かして、将来が見えないまま右か左かの選択をするということです。私たちは、いつも決断に迷いますが、神を恐れて生きる者は、今、ここで、神の御手に包まれている「しあわせ」を味わうことができます。それこそ、私たちがこの地で味わうべき人生の成功の意味ではないでしょうか。

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