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2009年3月29日 (日)

エレミヤ25-28章『勝ち負けを超えた生き方』

                                               2009年3月29日

  『負けるが勝ち』というのは人生の大切な知恵ですが、そこには、「損して得取れ」という冷徹な計算や、「あんな奴は戦うに値しない」という軽蔑が込められている場合があります。しかし、聖書は私たちの主を、キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます」(Ⅱコリント13:3、4)として描きます。イエスが十字架にかけられたのは、人間的には『弱さ』としか見えませんが、そこには人間的な勝ち負けを超えた「神にある強さ」が見られます。ところが、しばしば、信仰という名の下に、「必勝の信念」のような積極思考と混同されることがあります。確かに、気弱になっていれば得られるはずの勝利さえ失ってしまいますが、信念がひとり歩きすれば、無謀な戦いを正当化し、集団全体を悲劇に追いやることになりかねません。預言者エレミヤは、「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよと言い続けました。それは当時の人々には不信仰な言葉としか思えなかったことでしょう。しかし、十字架の敗北に神の勝利を見るというのが私たちの信仰です。そこには、人間的な勝ち負けの基準を超えた真の自由な生き方があります。

1.「この憤りのぶどう酒の杯を・・・飲ませよ」

「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年、すなわち、バビロンの王ネブカデレザルの元年」(25:1)とは、バビロン帝国がエジプト王国をユーフラテス川上流のカルケミッシュで打ち破って中東の覇者となった紀元前605年を指します。エレミヤは、「ユダの王ヨシヤ(31年間の王座)の第十三年」に預言者として召され、そのときから「この二十三年間」、ユダの人々に、「絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった」と、彼らを非難します(25:3)。そればかりか、主(ヤハウェ)は他の預言者をも「早くからたびたび送った」(25:4)ということを彼らに思い起こさせます。

そして預言者たちのメッセージの核心は常に一貫して、「さあ、おのおの、悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返り、主(ヤハウェ)があなたがたと先祖たちに与えた土地で、いつまでも、とこしえに住め。ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたが手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そうでないと、わたしもあなたがたにわざわいを与える」(25:5、6)というものでした。ところが彼らはそれを聞こうとせずに、主の「怒りを引き起こし」(25:7)続けてしまいました。私たちの感覚からしたら、「悪の道から・・・立ち返る」とは、不道徳な行為や自堕落な生き方をやめることを思い浮かべますが、主(ヤハウェ)が求めておられたのは何よりも、他の神々や偶像を作って拝むことをやめ、主が求める礼拝の生活に立ち返ることに他なりませんでした。自分で自分を律することができないからこそ人は神を求めます。そして神は、そのように自分の弱さを認めてすがってくる者を決して軽蔑することなく助けの御手を差し伸べてくださいます。しかし、偶像を拝む者は自分で自分の首を絞めてしまっているのです。

そして今、「万軍の主(ヤハウェ)」は、神の民の敵である「バビロンの王ネブカデレザル」「わたしのしもべ」と呼びながら、彼によってエルサレムを「永遠の廃墟とする」と言われました(25:9)。ただし、「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」(25:11)と言いながら、突然、「七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民・・・を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする」(25:12)とバビロンへの復讐も約束されました。これは紀元前538年にペルシャ王クロスがバビロンを滅ぼしたときに成就します。確かにバビロンの王は、神のしもべとして用いられました。しかし、それは神に愛されていたという意味ではありません。神に用いられることと、神に愛されることはまったく違います。ネブカデネザルは自分の野望のために国々を滅ぼし続けていました。神が彼を用いたとは、現実には、彼にやりたいようにさせたことに過ぎません。しかし、神は、人を人とも思わない彼の傲慢な振る舞いにご自身のときにさばきを下されるのです。そして、その期間が七十年とエレミヤに告げられていました。これは、主がモーセに、「わたしは・・ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」(出エジ20:5)と警告されていたことが実現するという意味でした。一代を二十年とすると、七十年はまさに「三代、四代」です。

なお、主(ヤハウェ)は、「多くの国々と大王たち・・・に、そのしわざに応じ、その手のわざに応じて報いよう」(25:14)と言われましたが、驚くことに、主のさばきの方法は、「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のためである」(25:15、16)と記されます。そしてエレミヤは、「私は主(ヤハウェ)の御手からその杯を取り、主(ヤハウェ)が私を遣わされたすべての国々に飲ませた」(25:17)と言いながら、その杯を飲む国々を、「エルサレムとユダの町々とその王たち」に始まり、「エジプトの王パロ・・・ペリシテ人の地のすべての王たち・・・エドム、モアブ、アモン人に・・・ツロ・・シドン・・・海のかなたにある島の王たち・・・北国のすべての王たち、近い者も遠い者もひとりひとりに、地上のすべての王国に飲ませ、彼らのあとでバビロンの王が飲む」と記します(25:18-26)。そしてさらに主はエレミヤを通して、「イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。飲んで酔い、へどを吐いて倒れよ。起き上がるな。わたしがあなたがたの間に剣を送るからだ・・・・あなたがたは必ず飲まなければならない・・・見よ。わたしの名がつけられているこの町にも、わたしはわざわいを与え始めているからだ。あなたがたが、どんなに罰を免れようとしても、免れることはできない」(25:27-29)と言われました。つまり、主は、ご自身にとっての宝であるエルサレムをさばくことを契機に、すべての国々をさばかれるというのです。しかも、そのさばきとは、意外にも、諸国民が自分たちの飲みたい酒を思う存分に飲むようにさせ、彼らの気持ちを高ぶらせ、互いが互いの剣によって滅ぼしあうままにさせるということだというのです。不思議にも、主のさばきとは、人を自分の肉の思いのままに生きさせ、自滅させるということにあるのです。

私たちのために「主(ヤハウェ)の憤りのぶどう酒の杯」を受け、また民の牧者として「主(ヤハウェ)の燃える怒り」(25:37)をその身に引き受けてくださったのがイエス・キリストでした。主はゲッセマネの園で、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください・・・どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころの通りをなさってください」と三度も祈られました(マタイ26:36-44)。多くの人々は、自分の欲望のままに生きて自滅します。それは自分から主の憤りの杯を飲み干してしまうことです。しかし、イエスはこの憤りの杯の意味を熟知した上で、それを私たちの身代わりに引き受けてくださいました。十字架は、「罪から来る報酬は死です」ということのシンボルですが、同時にそこには、「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と記されています(ローマ6:23)。それは私たちがキリストの死にあずかるバプテスマを受けることによって、主の憤りの杯を飲むことを免れる者とされたからです。

2.「主(ヤハウェ)の御声に聞きなさい。そうすれば、主(ヤハウェ)も・・わざわいを思い直されるでしょう」

 26章の記事は25章と同じ、「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初め」のときのことです。主はエレミヤに、「主(ヤハウェ)の宮の庭に立ち、主(ヤハウェ)の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれないそうすれば、わたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう(26:2,3)と語られました。

そこで、主は、彼らが主のみことばを軽蔑し続けるなら、「わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国ののろいとする(26:6)と警告されました。それに対し、「祭司と預言者とすべての民は・・・エレミヤが語り終えたとき・・・彼を捕らえて」、「あなたは必ず死ななければならない・・・・なぜ、主(ヤハウェ)の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住む者のいない廃墟となると言って預言したのか」と非難しました(26:7-9)。確かに移動式の神の幕屋があったシロは廃墟となりましたが、当時のエルサレム神殿はそこで礼拝をできるだけで心が感動で満たされるようなすばらしい神の奇跡の作品でした。その神殿を否定する言葉が神のことばであるはずはないと彼らには思われました。

それで彼らは、「この者は死刑に当たる」といいますが、エレミヤはなおも、「主(ヤハウェ)が・・・私を遣わされたのです。さあ、今、あなたがたの行いとわざを改め、あなたがたの神、主(ヤハウェ)の御声に聞き(従い)なさい。そうすれば、主(ヤハウェ)も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されるでしょう」と悔い改めを迫ります(26:11-13)。そればかりか、エレミヤは、「もし・・私を殺すなら、あなたがた自身が罪のない者の血の報いを、自分たちと、この町と、その住民とに及ぼすのだということを、はっきり知っていてください。なぜなら、ほんとうに主(ヤハウェ)が・・・あなたがたの耳にこれらすべてのことばを語らせたのですから」(26:15)と、自分の命乞いではなく、主のさばきを大胆に語り続けました。

 この警告に恐れを抱いた「首長たちとすべての民」は、「この人は死刑に当たらない。私たちの神、主(ヤハウェ)の名によって・・私たちに語ったのだから」と態度を変えます(26:16)。それは、かつて預言者ミカが「エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる」と言ったときに、「ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人」は、「主(ヤハウェ)を恐れ、主に願ったので、主(ヤハウェ)も彼らに語ったわざわいを思い直されたからです(26:18、19)。当時の人々にとって、アッシリヤ帝国の攻撃からエルサレムを守ったヒゼキヤ王はダビデに次ぐ偉大な王でした。そのヒゼキヤがエルサレム滅亡の警告を真剣に受け止めたということは、大きな意味を持っていました。しかし、彼らはエレミヤのことばを信じたというよりは、彼のことばが神からのものであった場合の保険をかけたに過ぎなかったと思われます。事実、「キルヤテ・エアリムの出のシェマヤの子ウリヤ」も、「エレミヤのことばと全く同じような預言をしていた」のですが(26:20)、エホヤキム王から命を狙われ、逃亡先のエジプトから王の前に連れ出され、剣で打ち殺され、共同墓地に捨てられました(26:23)。エレミヤが殺されなかったのは、シャファンの子アヒカムがかばったからにすぎません(26:24)、これは彼らが主のことばを真剣に受け止めていなかったことの何よりの証拠です。26章では、主が「わざわいを思い直す」と三度繰り返されますが、これは「悔いる」とも訳される言葉です。人が自分の過ちを真実に「悔いる」とき、主は応答してくださるのです。

  残念ながら、地獄があったときのための保険程度に神への信仰を考えていない人はいつの時代にもいます。私たちの場合も、その場限りの信仰の姿勢があるかもしれません。神はしばしば、私たちの感覚には受け入れがたいことを言われますが、それは、聖書の神が人間の期待から生まれた存在ではないことの何よりのしるしです。信仰共同体が健全かどうかは、人々の期待に反することばをどれだけ真剣に受け止めているかで測られます。しかし、神のみことばに応答するのに遅すぎることはありません。神は最後まで「わざわいを思い直す」と約束しておられるのですから。

3.「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ」

27章の預言は、エホヤキムの二代後の後継者「ゼデキヤ」に向けてのことばです。ヘブル語の最も信頼できる写本は新改訳のように「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初め」(27:1)と確かに記されていますが、それは26章1節と混同して写し間違えたのだろうと多くの学者が一致しています。それゆえ、多くの聖書翻訳者はこの箇所を「ユダの王ゼデキヤ」と敢えて訳しています。そしてこれは、第二次バビロン捕囚の四年後、紀元前594年頃だと思われます。

主はエレミヤに「あなたはなわとかせとを作り、それをあなたの首につけよ・・・今、わたしは、これらすべての国をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカデネザルの手に与え、野の獣も彼に与えて仕えさせる」(27:6)と言われます。ただし同時に、彼も最終的には敗北することを、「時が来ると、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷とする(27:7)と保障されました。それは、この地の支配者が人間ではなく、イスラエルの神、主(ヤハウェ)であることを知らせるためでした。

それでも主はこのとき、ご自身のご計画のためにネブカデネザルを王として立てていますから、彼に逆らう者は神に逆らうことを意味しました。それで、主はバビロンの王への服従を命じ、「バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し・・・彼らを彼の手で皆殺しにする」(27:8)と警告され、偽りの預言をしている者たちには、「わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びるようにする」(27:10)と断言されます。そして同時に、主は、「バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせると約束されました(27:11)。そればかりか「ユダの王ゼデキヤ」にも、「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ」と語られました(27:12)。

しばしば、「信仰」という名の下に、現実を無視した無謀な計画が正当化されることがあります。強気であることが信仰的であると見られ、慎重な意見は「不信仰!」と退けられることがあります。しかし、主は異教徒の王をも支配しておられる方です。すなおに敗北を認め、異教徒の権力者の前にひざまずくことが主のみこころという時もあるのです。それによって無用な権力闘争が止み、戦争で血が流されずに済みます。使徒パウロは、残虐なローマ皇帝ネロの時代に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます」(ローマ13:1,2)と語りました。このときパウロの心にはこのエレミヤの預言が響いていたことでしょう。

私たちは、目の前にある「くびきに首を差し出す」ことを避けようとして、かえってきつい「くびき」を負ってしまうことがあります。たとえば、厳しい人の指導に従う代わりに、手軽にサラ金に頼って首が回らなくなるように・・・。イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」に向かって、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」と言われました(マタイ11:28,29)。「くびき」を避けることより、選ぶことのほうが大切なのです。私たちは自分のうちに蓄積した怒りや恨み、不合理な不安という「自我のくびき」に苦しんでいる場合もあります。それに対して、「イエスのくびきを負う」とは、天地万物を創造主の子としての柔軟でしなやかで自由な生き方を意味します。

そして最後に、「『見よ。主(ヤハウェ)の宮の器は、今すみやかにバビロンから持ち帰られる』と言って、あなたがたに預言しているあなたがたの預言者のことばに聞いてはならない。彼らはあなたがたに、偽りを預言している」(27:16)と言いながら、バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この町が廃墟となってよかろうか」(27:17)と勧めました。この約四年前に、バビロンの王ネブカデネザルがユダの王エホヤキンとともに主だった貴族を連行したばかりかエルサレム神殿の宝物をバビロンに運び去っていました。このような暗黒の時代に、偽預言者たちは、主はそれを戻してくださると勇ましく預言しました。しかし、その偽りの希望は、バビロンによる徹底的なエルサレム破壊を招くきっかけになりました。

それで主はさらに、「もし彼らが預言者であり、もし彼らに主(ヤハウェ)のことばがあるのなら、彼らは、主(ヤハウェ)の宮や、ユダの王の家や、エルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の主(ヤハウェ)にとりなしの祈りをするはずだ」(27:18)と言いました。それは、真の預言者であれば、既に起こった悲劇を主のさばきとして受け入れ、より大きな悲劇が起こらないように祈るはずだという意味です。そればかりか「万軍の主(ヤハウェ)」は、それら残された神の宮の器を守り通す事ができるという意味を込めて、「それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある・・そうして、わたしは、それらを携え上り、この所に帰らせる」(27:22)と約束されました。

私たちは誰も時間を元に戻す事はできません。「あのことのせいで・・・」と後悔しても、決して過去を変える事はできません。苦しいときに求められる行動は、現実をあるがままに受け止め、さらなる悲劇が起きないように祈り続け、あらゆる手段を講じることです。しばしば、人は、この世の不条理を正そうとして、さらに大きな不条理を作り出してしまいます。しかし、神は敵の手を用いてご自分のものを守ることができます。エズラ記1章では、バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ王クロスがエルサレム神殿の再建を命じ、バビロンに保管されていたエルサレム神殿の宝物を捕囚の民とともにエルサレムに戻させたということが記されています。主は異教徒の権力者をご自身のご計画のために用いられたのでした。

4.「あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。」

 28章の記述は27章と同じ時のもので(28:1)、「ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオンの出の預言者、アズルの子ハナヌヤが、主(ヤハウェ)の宮で、祭司たちとすべての民の前で」エレミヤのことばと正反対の楽観的な預言のことばを、「イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。二年のうちに、わたしは・・・主(ヤハウェ)の宮のすべての器をこの所に帰らせる。バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる」(28:2-4)と語りました。それに対しエレミヤは、「アーメン。そのとおりに主(ヤハウェ)がしてくださるように・・・」(28:5)と皮肉を込めて言いながら、真の預言者と偽物を区別する方法を、「昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主(ヤハウェ)が遣わされた預言者だ、と知られるのだ」(28:8、9)と述べました。これは申命記18:22に基づいたことばですが、エレミヤの七十年後の回復の預言とハナヌヤの二年後の回復の預言のどちらが正しかったかは歴史が証明しています。しかし、当時の人々にとってはハナヌヤのことばこそが慰めになりました。いつの時代にも、人気のある説教者のことばにはかえって注意が必要かもしれません。そのことばの真実さは時代を経ないとわからないものです。

 

このときエレミヤは主の命令によって自分の首に「なわとかせ」をつけて、「バビロンの王のくびきに首を差し出す」ことが主のみこころであると視覚教材で訴えていましたが(27:2,12)、「預言者ハナヌヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた」(28:10)というのです。そして、ハナヌヤは、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる。『このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く』」(28:11)と力強く断言しました。たぶんこのとき、人々は大きな歓声とともにハナヌヤに拍手を送ったことでしょう。そのような中で、「そこで、預言者エレミヤは立ち去った」というさりげない記述から、エレミヤの孤独と嘆きが伝わってくるように感じられます。

しかし、この後、主はエレミヤにハナヌヤへのことばを託し、「あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。まことに、イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。それで彼らは彼に仕える。野の獣まで、わたしは彼に与えた」(28:13、14)と告げられます。これは偽預言者のことばが、人々をますます悲惨に追いやるということですが、これはしばしば、どこにおいても起きる現実を示しています。私たちがこの世の権力者に真心から仕えようとするなら、その上司の信頼を得て大きな自由裁量とともに仕事を任せてもらうことができますが、反抗的な態度を取るなら、かえって自分の行動があらゆる面から制限され、ますます仕事ができなくなります。ですから使徒ペテロも、「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい」(Ⅰペテロ2:18)と勧めています。これは決して権力者にゴマをすることの勧めではありません。真に良い仕事をしたいと思うなら、上司との無用な摩擦を避け、良いチームワークを築くことは不可欠なプロセスだからです。

そして最後にエレミヤは、「ハナヌヤ。聞きなさい。主(ヤハウェ)はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。それゆえ、主(ヤハウェ)はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主(ヤハウェ)への反逆をそそのかしたからだ』」と伝えます(28:15,16)。異教徒の権力者に勝利できるという楽観的な見通しを語ったことが、主ご自身への反抗をそそのかした罪として断罪されたのです。つまり、独立運動は主への反抗であったというのです。そして、「預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ」(28:17)という主のさばきが記されます。偽預言者を放置することは、主の民全体をさらなる苦しみに陥れることになるからです。

イエス・キリストがロバに乗ってエルサレムに入城したとき、人々はイエスを、新しい王、ダビデの子として歓呼をもって迎えました。しかし、その五日後には、みながそろってイエスを「十字架につけろ!」と叫びました。それはイエスが、ユダヤ人をローマ帝国からの独立を導く救い主ではないことが明らかになったからです。イエスは、「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)と言われ、権力者の命令に身を任せたばかりか、何の抵抗もせずに十字架にかかって息を引き取りました。しかし、その三日後に、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。権力者への服従が、死の力への勝利をもたらしたのです。そして、その後、イエスの弟子たちは、死の脅しに屈することもなく、また権力者に無用に反抗することもなく、社会を内側から作りかえて行きました。反抗することも卑屈になることもなく、真の自由人として生きることができました。私たちも今、勝ち負けを越えた生き方とは何なのかが問われているのではないでしょうか。権威に逆らうことばかりを考えている人も、別の権力の奴隷になっています。だからこそ、革命運動は多くの場合、新たなる独裁政権を生み出してきました。しかし、神のさばきにゆだねるとき、不思議な解決が見られます。イスラエルの民は、エレミヤの預言から七十年後にバビロンから解放されたばかりか、新たな神の民として歩み始めることができました。

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2009年3月24日 (火)

        「主の祈り」 (マタイ6:9ー13)

 

1.ギリシャ語原文対訳

                                                                        

 パテール  ヘモン   ホ     エン  トイス ウーラノイス

  お父様    私たちの (関係代名詞)  中に   諸々の 天の  

 

 ハギアステト    ト オノーマ   スー

 聖とされますように   お名前       あなたの

 

 エルセト     ヘ バシレイア   スー

  来ますように      国(ご支配)     あなたの

 ゲネセト     ト セレーマ   スー          ホス  エン ウーラヌゥー カイ  エピ ゲース    

  行われますように   ご意思       あなたの        のように  中に    天       にも  上に  地の 

 トン アルトン ヘモン トン エピウーシオン  ドス    ヘミン セメロン

   パンを     私たちの  日毎に必要な     与えてください  私たちに  今日も  

カイ アフェース ヘミン  タ オフェレイマタ  ヘモン

そして 赦してください 私たちを   負い目を       私たちの

     ホス カイ ヘーメイス アフェカメン トイス オフェレイタス  ヘモン

     のと同じように   私たちが   赦します    負い目ある人たち      私たちに

カイ  メ  エイセネゲース ヘマース  エイス  ペイラスモン

そして  ないで  陥らせ      私たちを    の中に    誘惑

  アラ リューサイ  ヘマス   アポ  トゥー ポネルー

 かえって 救ってください 私たちを   から    悪い者から 

ホティ  スー エスティン  ヘ バシレイア カイ ヘ ドゥナミス カイ ヘ ドクサ

それは  あなたの ものだから       国        と     力        と   栄光 

エイス トゥース アイオナス  アミン 

至るまで    永遠に           アーメン

(複数)におられる私たちのお父様!

あなたのお名前が聖くされますように。  (私の心の中で、人々の間で)

 あなたのご支配が現われますように。   (私の内に、人々の間に)

 あなたのご意志が行なわれますように。  (私の心の中に、人々の間に)

     天のように地の上にも。        (上の三つすべてにかかるとも考えられる)

 パンを、私たちに必要なものを今日もください。 (一日一日の糧のため)

 赦してください!私たちの負い目を。        (人の罪のこと以前に自分の赦しを願う)

   私たちが自分に負い目ある人を赦すように。  (人を赦すことができるこで、神の赦しを確信できる)

 陥らせないでください!私たちを誘惑に。     (「試み」も「誘惑」も同じ原文、負けないようにとの祈り)

   救ってください!私たちを悪い者から。     (「父よ」で始まる祈りが「サタン」の存在認識で終わる)

 永遠までも、ご支配と御力と御栄えは、あなたのものだからです。アーメン(父なる神こそが真の王)

                                           (私訳)

2.アダムの祈り

ところが、私たちの肉の祖先であるアダムは、たとえば次のような祈りを望んではいないでしょうか。

この世の幸せを私に与える神様! (永遠の世界の話より目の前のことが・・)

 私の名前が大切にされますように(私は誤解され、傷ついています・・・)

 私の権威が認められますように。 (私の立場がないのです・・・)

 私の意志が行なわれますように。 (思い通りにならないことばかりだから・・・)

 私の一生涯の経済的必要が保障されますように。 (一切の経済的不安から自由になれたら・・・)

 私は悪くないと理解されますように。彼らは仕返しをされて当然ですが・・。(私は特別です・・)

 私が誘惑などを恐れずに、悪魔のことなど気にしないでいられますように。(恐れがなくなれば・・・)

  私の影響力、私の能力、私の誉れこそが、人々の幸せの鍵ではないでしょうか」 (私が王なら・・・)

 

 第二のアダム、救い主イエスの祈りは、これとは正反対です。それ肉の思いに反しますから、この祈りを心から祈るためには、御霊の導きが必要です。心を御霊に明け渡し、意味を味わいつつゆっくり祈りましょう。

3.父なる神のための祈り

 人は神に向けて造られました。ですから、私たちの幸いは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」ことにあります。祈りの前半の焦点はそこにあります。

★「天にいます私たちの父よ。

  イエスがゲッセマネの園で「アバ。父よ。」と祈られたように、今、私たちは、この混乱に満ちた世界の中から、目に見えない創造主の子とされた特権を味わいつつ祈ります。

★「御(あなたの)名が あがめられますように

   最初のエデンの園で、人は善悪の知識の木のもとで、神を礼拝する代わりに、みことばを分析し、命令を軽蔑して、この地にのろいを招きました。ですから、世界の救いは、その反対に、神の御名が、私の心の中で、私たちの間で、聖く、栄光に満ちたものと認められるようになる中で初めて、実現されるのです。

「御(あなたの)国(ご支配)が来ます(実現します)ように」

   神は、「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)と呼ばれる美しい世界を創造され、人を祝福に満ちたエデンの園に住まわせてくださいました。ところが、今、それが失われ、この地は、アダムの子孫の罪によって混乱しています。ですから、神のご支配の現実が、教会にとどまらず世界に、目に見える形で実現されるよう祈ります。それは、私たち自身が神の支配に服する忠実なしもべとなることができるように祈ることでもあります。

「み(あなたの)こころ(意思)が行なわれますように、天のように地の上にも」

   神に背いたアダムは、自分の裸を恥じて、主の御顔を避けて身を隠しました。何と、「土の器」にいのちの息を吹き込んでくださった方に背を向けたのです。私たちは、自分の弱さを恥じることなく、マリヤのように、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)とこの身を差し出しつつ、自分自身が小さなイエスとされ、天の平和が、この地にも実現するようにと祈ります。

4.私たちの地上の生活の必要のための祈り

 主の祈りの後半は、私たちの日々の必要を祈るものです。私たちは毎日、神のあわれみに より頼むこと、また自分ばかりではなく兄弟姉妹のために祈ることが求められています。

★「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

  主の祈りは、突然、「パンをください。」という現実的な祈りへと展開されます。神はそのような現実的な叫びをも聞きたいと願っておられます。ただ、エデンの園の外では、「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)という現実が私たちを支配しています。ですから、私たちは、地上の生活に必要な衣食住のすべてを、あり余るようにではなく、日毎に必要な分だけ今日もお与えくださいと謙遜に祈ります(箴言30:8、9)。しかも、これは、自分たちの生活のことばかりではなく、この世界にある飢えと渇きの現実を覚えながら、イエスの御前に五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のように(ヨハネ6:9)されるように願うことでもあります。

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目ある人を赦します。」

 善悪の知識の木の実を取って食べたアダムは、「あなたは・・食べたのか?」と聞かれた時、「この女が・・・」と答え、神の御前で、「赦してください。」とは言えませんでした。しかし、今、私たちはキリストの十字架のゆえに、大胆に神の御前に赦しを願うことができます。そして、その祈りの真実は、私と私に負い目ある人との関係ではかられます。神が私たちの負債を赦し、新しい人とされたのは、この私がキリストの使節とされ(Ⅱコリント5:20)、この私を通して、神の赦しが、私に負い目ある人に伝えられるためでもあることを覚える必要があります。

「私たちを試み(誘惑)に合わせない(陥らせない)で、悪(悪い者)からお救いください。」

  エバは、蛇の語りかけの背後にサタンがいることが見えず、得意げに質問に答えながら、自分の欲望に身を任せてしまいました。また、ペテロは、自分の力を過信して、三度も主を否みました。ですから、私たちは、悪の源であるサタンの手から守られるように、日々祈る必要があります。

ただ、神の救いの計画は、キリストの十字架と復活によってその最終段階にあります。この世界にある痛みには、母親の産みの苦しみ(ローマ8:22)のような希望があります。確かに、世の終わりに臨んで、多くの誘惑が私たちを取り囲んでいますが、キリストの勝利が私たちの勝利とされるように大胆に祈ることができます。

   

「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」というのは原文にはなかった頌栄で、この祈りを要約したようなものです。私たちは、やがて目に目える形で実現する神の国の完成を先取りし、イエスの父なる神こそが全世界の真の支配者であることを「地の塩、世の光」として身をもって証しするのです。

そのとき私たちは、他の聖徒と共に、人となられたイエスと父なる神の愛の交わりとの中に、御霊によって招き入れられていることを喜ぶことができ、本当の意味で神の創造の目的に添った形で、自分らしく生きています。

マタイ6:5ー15 「三位一体の神の愛に包まれた祈り」 

                                                                       2009年3月22日

祈りにはその人の性格が明確に現れます。たとえば、感情の激しい表出が自然な人もいれば、静かにポツリポツリと思いを語るほうが自然な人もいます。また、そのときの気持ちによっても祈りのかたちは変わることでしょう。イエスはここで、祈りに関してふたつのことを避けるように命じています。第一は、人に見せるための祈りです。当時は、みんなの前で、美しい言葉で、長々と祈るということが、その人の日頃の敬虔さをあらわすこととして大変な尊敬を受けました。それに対してイエスは、「隠れたところで見ておられるあなたの父」(6:6)を意識して祈るように命じました。第二は、祈りの熱心さによって神を動かそうとするような態度です。それはかつて、バアルの預言者たちが、自分の身体に鞭を打ち、感情的なことばを繰り返し、必死に踊りながら嘆願したような姿です。

  これに対し、イエスは、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要を知っておられるからです」(6:8)と言われました。祈りは、神ご自身だけとの親密な交わりの時です。それは最愛の人との出会いの時です。最愛の人に向かって、その人の心の声を聞こうともせずに、自分の願望ばかり一方的に語るということがあるでしょうか?ほかの人の目ばかりを気にして、心の伴わないことを言うということがあるでしょうか?そのことをイメージするなら、私たちの祈りの姿勢も変わるのではないでしょうか。 

キリスト教会が正統に属しているかどうかの分かれ目は、三位一体を信じているかどうかにありますが、その説明をすることは困難です。しかし、私たちは祈っているときに、三位一体を体験しているのです。イエスは神のひとり子として、天地万物の創造主に向かって「お父様(アバ)!」と呼びかけていました。そして今、イエスはあなたの傍らにいて、「わたしはあなたの罪をあがなったから、いっしょに『お父様』と呼びかけて良いんだよ・・」と言ってくださいます。そのとき、聖霊ご自身が私たちの心の奥底にあるうめきを聞きながら、ともに「うめき・・とりなして」(ローマ8:26)いてくださっています。このときの私たちの目の前には父なる神が、傍らにはイエスが、背後には聖霊がおられるのです。つまり、祈っているとき私たちは三位一体の神の愛に包まれているのです。

ルカ11:1では、この祈りの別の背景が、「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちのひとりが・・・『私たちにも祈りを教えてください』」と言った」と記されていますが、それはヨハネが弟子たちに教えたのと同じように、イエスが私たちと同じ人間として天の父に祈られた一端を見せてくださるものでした。そこでイエスは、私たちの「兄」として、「祈るときには、こう言いなさい」(11:2)と教えてくださいました。

神は、この世界を美しく創造してくださったのに、アダムの罪によって、この世界は矛盾と混乱に満ちたものとなりました。しかし、イエスは、第二のアダムとして、私たちと同じ葛藤を味わう人間となって、私たちの救いのために祈ってくださいました。本来、罪のないイエスが「負い目を赦してください」と祈る必要はありませんが、彼は私たちのすべての罪を負い私たちの負い目」と言ってくださったのです。私たちは、この祈りを自分の祈りとすることによって、イエスの弟子として、このままの姿で「地の塩、世の光」とされ、この世界の再創造に関わる名誉ある働きに加えていただけます。主の祈りこそこの世の奇跡であり、奇跡を生み出す祈りです。

1。アダムの祈りと主の祈り

  主の祈りは、私たちの心の底から生まれる願いではありません。私たちの肉の祖先であるアダムは、たとえば、次のような祈りを望んではいないでしょうか。それは私たちの心のある自己中心の願望です。

この世の幸せを私に与える神様! (永遠の世界の話より目の前のことが・・)

 私の名前が大切にされますように(私は誤解され、傷ついています・・・)

 私の権威が認められますように。 (私の立場がないのです・・・)

 私の意志が行なわれますように。 (思い通りにならないことばかりだから・・・)

 私の一生涯の経済的必要が保障されますように。 (一切の経済的不安から自由になれたら・・・)

 私は悪くないと理解されますように。彼らは仕返しをされて当然ですが・・。(私は特別です・・)

 私が誘惑などを恐れずに、悪魔のことなど気にしないでいられますように。(恐れがなくなれば・・・)

  私の影響力、私の能力、私の誉れこそが、人々の幸せの鍵ではないでしょうか」 (私が王なら・・・)

  しかし、第二のアダム、私たちの救い主イエスの祈りは、それとは全く反対のものです。それは以下のように訳すことができます(原文からの私訳)。ただし、これは肉の思いに反しますから、この祈りを心から祈るためには、御霊の導きがどうしても必要です。ゆっくりと、こころを御霊に明け渡して、意味をかみしめて祈りましょう!

(複数)におられる私たちのお父様!

 あなたのお名前が聖くされますように。  (私の心の中で、人々の間で)

 あなたのご支配が現われますように。    (私の内に、人々の間に)

 あなたのご意志が行なわれますように。  (私の心の中に、人々の間に)

     天のように地の上にも。        (上の三つすべてにかかるとも考えられる)

 

パンを、私たちに必要なものを今日もください。 (一日一日の糧のため)

 赦してください!私たちの負い目を。        (人の罪のこと以前に自分の赦しを願う)

   私たちが自分に負い目ある人を赦すように。  (人を赦すことができるこで、神の赦しを確信できる)

 陥らせないでください!私たちを誘惑に。     (「試み」も「誘惑」も同じ原文、負けないようにとの祈り)

   救ってください!私たちを悪い者から。      (「父よ」で始まる祈りが「サタン」の存在認識で終わる)

 

永遠までも、ご支配と御力と御栄えは、あなたのものだからです。アーメン」 (父なる神こそが真の王)

2。父なる神のための祈り

 人は神に向けて造られました。ですから、私たちの「幸い」は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」ことにあります。祈りの前半の焦点はそこにあります。

★「天にいます私たちの父よ。

  イエスがゲッセマネの園で「アバ。父よ。」と祈られたように、今、私たちは、この混乱に満ちた世界の中から、目に見えない創造主の子とされた特権を味わいつつ祈ります。シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭に生きたユダヤ系フランス人の哲学者は、キリストとの深い出会いを体験した後、「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空()にです。」と言ったそうです。彼女はギリシャ語で「主の祈り」の初めのことばを暗唱している中で不思議な感動に包まれました。その類まれな美しさに胸を打たれ、数日の間、それを繰り返さずにはいられませんでした。それは「お父様!」という呼びかけから始まり、その方が私たちのお父様」であり、また「天(複数)におられる」と続きます。彼女はそれを繰り返しながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動、またその支配者である方が自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わい、「私の思いは私の肉体を離れ、眺望も視点も存在しない、空間の外側のある場所へと運び去られます・・・同時に、このいわく言いがたい無限のあらゆる静寂が存在するのです。それは単に音が欠落しているというのではありません。音の感覚よりもはるかにはっきりした、明確な感覚の対象である静寂が存在するのです・・・ときにはこうして主の祈りを暗誦している間に、いえ、ほかの瞬間にも、キリストご自身が親しく私とともにいてくださることがあります。しかも、そのキリストの臨在の実感は、彼が私を彼自身のものとしてくださった最初のときよりもいっそう現実的で、切実で、明澄なのです」と言っています。

 私は大地に根ざした生き方を大切に思ってきましたが、それ以上に大切なのは、この私自身が諸々の天の主であられる神のご支配によって守られ、支えられているということをいつも覚えることです。この私は天に根を張って、この地に一時的に置かれ、荒野に咲く花のように、短いいのちをこの地で輝かせるように召されています。そして、樹木が天から引っ張られるようにして地中から水を吸いながら、そのために大地に根ざすように、天を出発点とした考え方は大地に根ざす生き方と矛盾するものではありません。つまり、神の創造のみわざを喜ぶことと、この地に置かれた自分の存在を喜ぶことは切り離せない関係にあるのです。

 

★「御(あなたの)名が あがめられますように

  最初のエデンの園で、人は善悪の知識の木のもとで神を礼拝するべきだったのに、その代わりにみことばを分析し、命令を軽蔑し、この地にのろいを招きました。ですから、世界の救いはその反対に、神の御名が、私の心の中で、私たちの間で、聖く、栄光に満ちたものと認められるようになる中で初めて、実現されるのです。

そして、私たちの心の中で、主の御名が聖なるものとされ、御名があがめられるとき初めて、私たち自身も、いのちの喜びに満たされます。この心が、主の創造のみわざをたたえる賛美に導かれるとき、そこに真の自由が生まれます。私たちはしばしば、「主の御名をあがめる」ということの意味を抽象的に考えてしまいがちかもしれません。しかし、そうする前に、ただ詩篇8篇、19篇、96篇、136篇などの創造賛歌を、心から味わい、それを口に出して、主を賛美すべきではないでしょうか。しかも、それをひとりでするとともに、信仰者の交わりの中で、この詩篇にある並行法の形式を生かしながら賛美すべきではないでしょうか。聖霊が詩篇作者を通して与えてくださった形にしたがって主を賛美することの中に、思っても見なかった祝福が体験できるかもしれません。

「御(あなたの)国(ご支配)が来ます(実現します)ように」

  神は、「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)と呼ばれる美しい世界を創造され、人を祝福に満ちたエデンの園に住まわせてくださいました。ところが今、それが失われ、この地はアダムの子孫の罪によって混乱しています。ですから、神のご支配の現実が、教会にとどまらず世界に、目に見える形で実現されるよう祈るのです。それは、私たち自身が神の支配に服する忠実なしもべとなることができるように祈ることでもあります。

様々な試練に会い、深い孤独を感じるようなとき、それは、私たちにとっての祈りの学校ではないでしょうか。敢えて言えば、孤独から逃げ出すことを考えるのではなく、「孤独を深める」ことが必要なのかもしれません。それは神との交わりを深めるという意味においてですが・・・。私自身、孤独を味わう中で詩篇69篇や詩篇22篇の意味が深く心に迫ってきました。そこにおいてイエスが私の悲しみや孤独感を軽蔑なさらないばかりか、それをはるかに深く味わってくださった方であるということがわかりました。イエスはその孤独と悲しみのただ中で、父なる神のご支配の真実を体験して行かれたのです。私たちは、自分がいかに無力であるかを痛感することによって初めて、神のご支配に身を委ねることができるようになります。それを通して、神のご支配が私たちのうちに実現し、神は欠けだらけの私たちひとりひとりを、ご自身のご支配をこの地に広げるために用いてくださいます。

「み(あなたの)こころ(意思)が行なわれますように、天のように地の上にも」

 神に背いたアダムは、自分の裸を恥じて、主の御顔を避けて身を隠しました。何と、「土の器」(Ⅱコリント4:7)に過ぎない者に「いのちの息」を吹き込んでくださった方に背を向けたのです。しかし、私たちは、自分の弱さを恥じることなく、マリヤのように、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)とこの身を差し出しつつ、自分自身が小さなイエスとされ、天の平和が、この地にも実現するようにと祈るように招かれています。私たちはしばしば、絶望と思える状況を通り過ぎるただ中で、私たちの肉の意思が砕かれ、私たちのうちに神の意思が生きるようにされます。そして、神の意思とは何よりも、私たちが自分の惨めさを認め、イエスにすがり、イエスとの交わりを第一にして生きることです。キルケゴールは、「絶望は死に至る病である」と言いながらも、同時に「絶望できるとは、無限の長所である」と言っています。

最近、普通の家で育った若者が簡単に犯罪に走りますが、それは「悩みを抱えられなくて、すぐにキレてしまう」からだと言われます。もし、世界の矛盾に目を開き、人の痛みの声に耳を傾け、自分の心の闇を直視するなら、絶望せずにはいられないとも言えます。しかし、キルケゴールは、「けれども、絶望しているということは、最大の不幸であり悲惨であるにとどまらない、それどころか、それは破滅なのである」と言っています。つまり、絶望できることは良いことでも、それに留まり続けることは破滅だというのです。そして彼は、「人間の最大の悲惨は、罪よりもいっそう大きい悲惨は、キリストにつまずいて、そのつまずきのうちにとどまっていることである」と述べています。「死に至る病」とは、キリストに絶望することに他なりません。しかし、私たちはどのような絶望的な状況の中にも、イエスの御跡を認め、絶望の中に希望を見いだすことができます。そして、私たちがこのお方にすがる限り、神の御子に赦すことの不可能な罪はありません。聖書が語る「罪」とは、人間の道徳に反すること以前に、この赦しを拒絶するという不信仰なのです。自分で自分を義と認めようとするのではなく、イエスの義にすがることこそ神のみこころです。私は十年間、野村證券に働き、主に営業畑を歩んできました。その後、神様の導きを感じて牧師への道を歩み出しましたが、教会の働きは営業のようには行きません。なかなか成果が見えないばかりか、自分のこだわりがかえって問題を複雑化してしまう現実に遭遇し、「神の働きを阻害しているのは、私自身だ・・」とさえ思えてきました。そのような中で導かれたのが、ただ主の御前に静まるという祈りです。それは「掴(つかみ)み取る」という生き方から、「既に与えらている恵みを感謝する」ことへの転換、また、自分の必要をただ訴えることから、「主の願い」を「私の願い」とすることを目指すという発想の転換でした。

3。私たちの地上の生活の必要のための祈り

主の祈りの後半は、私たちの日々の必要を祈るものです。私たちは毎日、神のあわれみに より頼むこと、また自分ばかりではなく兄弟姉妹のために祈ることが求められています。

★「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

 主の祈りは、突然、「パンをください。」という現実的な祈りへと展開されます。神はそのような現実的な叫びをも聞きたいと願っておられます。ただ、エデンの園の外では、「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)という現実が私たちを支配しています。ですから、私たちは、地上の生活に必要な衣食住のすべてを、あり余るようにではなく、「日毎に必要な分だけ、今日もお与えください」と謙遜に祈ります。それは、箴言で微笑ましいレトリックとともに、「貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主(ヤハウェ)とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」(30:8、9)と祈られているのと同じです。

しかも、これは、自分たちの生活のことばかりではなく、この世界にある飢えと渇きの現実を覚えながら、イエスの御前に五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のように(ヨハネ6:9)されるように願うことでもあります。

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目ある人を赦します。」

 善悪の知識の木の実を取って食べたアダムは、「あなたは・・食べたのか?」と聞かれた時、「この女が・・」と答え、神の御前で、「赦してください!」とは言えませんでした。しかし、今、私たちはキリストの十字架のゆえに、大胆に神の御前に赦しを願うことができます。そして、その祈りの真実は、私と私に負い目ある人との関係ではかられます。神が私たちの負債を赦し、新しい人とされたのは、この私が「キリストの使節」とされ(Ⅱコリント5:20)、この私を通して、神の赦しが、私に負い目ある人に伝えられるためでもあることを覚える必要があります。

なお、14,15節では、「人の罪を赦す」ということと、「天の父の赦し」を受けることがセットして記されています。

多くの人はこの警告に怯え、「どうか、人の罪を赦すことができますように・・・」と祈りだしますが、それは本末転倒どころか、自分を神とする傲慢な祈りにもなりえます。罪を裁いたり赦したりするのは、神の権威です。あなたが赦そうと赦すまいと、それに関係なく、神はその人を赦したり、裁いたりしておられるという面もあるのです。

また、それ以上に、「赦させてください・・」などと祈れば祈るほど、いつまでたっても、人の罪を赦せない「自分のこと」ばかりが見えてきて、赦すことが必要以上に難しくなります。自意識過剰はあらゆる空回りの原点です。イエスは、「私たちの負い目をお赦しください」と祈るように教えてくださったのですから、まず自分の罪深さに思いを馳せながら、心からそのように祈る必要があります。その上で、「私たちも私たちに負い目にある人を赦します」とただ告白するのです。すると不思議に、心がその人の方向に向かいます。これは私たち自身が、恨みから解放されるための祈りでもあります。人を恨んでいる人は、顔が暗くなります。喜びが消えます。そして、やることなすことがうまく行かなくなります。人を赦すのは、何よりも自分の精神の健康のために必要なことです。

  昔から、罪の赦しを与えるための様々な儀式があります。水子供養などもそのひとつです。またカトリックでは罪の赦しを確信させるための免罪符などという悪習もありました。しかし主は、私たちが人と関わり人を赦すという行為を通して、神からの罪の赦しを確信するようにと私たちを導いてくださったのです。私たちは、赦せない人を赦したという体験の中で、14節のみことばに基づき、自分の罪が赦されていることを確信できるのです。

「私たちを試み(誘惑)に合わせない(陥らせない)で、悪(悪い者)からお救いください。」

  人類の母であるエバは、蛇の語りかけの背後にサタンがいることが見えず、得意げに質問に答えながら、自分の欲望に身を任せてしまいました。また、ペテロは、自分の力を過信して、三度も主を否みました。ですから、私たちは、悪の源であるサタンの手から守られるように、日々祈る必要があるのです。

ただし、神の救いの計画は、キリストの十字架と復活によってその最終段階にあります。この世界にある痛みには、母親の産みの苦しみ(ローマ8:22)のような希望があります。確かに、世の終わりに臨んで、多くの誘惑が私たちを取り囲んでいますが、キリストの勝利が私たちの勝利とされるように大胆に祈ることができます。

   

主の祈りの後半部のまとめとして、ルカ福音書に記されたイエスの不思議な説教を思い起こしましょう。主はこの世の幸福の概念をひっくり返されました。それは決して、共産主義者たちが嫌悪した「天国を夢見ながら、この世の不条理を奴隷のように耐える」という勧めではありません。ここには、イエスが「今、ここで」、私たちに真の「幸い」を与えることができるという確信に満ちた約束が込められています。この世の幸いがイエスとの交わりの障害となり、この世の不幸がイエスとの交わりを豊かにする上で用いられるという現実があるからです。

ルカ6章20-26節 「平地の説教」

イエスは 目を上げて 弟子たちを見つめながら、話しだされた。

「貧しい者は        幸いです。   神の国はあなたがたのものだから。

いま 飢えている者は 幸いです。   やがてあなたがたは満ち足りるから。

いま 泣く者は       幸いです    やがてあなたがたは笑うから。

人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、

あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、

あなたがたは  幸いです   その日には 喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。

天では あなたがたの報いは大きいから。

彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

しかし、あなたがた富む者は       哀れです。  慰めをすでに受けているから。

いま 食べ飽きているあなたがたは  哀れです   やがて飢えるようになるから。

いま 笑うあなたがたは            哀れです   やがて悲しみ泣くようになるから。

みなの人が ほめるとき、

あなたがたは 哀れです   彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに

同じことをしたのです。

私たちは不安定な中に生きるように召されています。主は私たちを、日々の糧を、罪の赦しを、誘惑からの守りを、祈らざるを得ない中に敢えておかれ、この祈りを祈るように導いておられます。すべてに満足しいる人は哀れであり、欠乏している人は主にある満たしを体験できるからです。私たちは神の御守りなしには一瞬たりとも生きることができないということを忘れないように、世界の痛みを自分で味わいながら主の祈りを祈るのです。

私たちは、主の祈りの前半で心からの賛美へと導かれ、後半では、自分と兄弟姉妹の貧しさを覚えて、主の御前に謙遜に導かれます。そして最後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」と賛美します。これは、この祈りを要約したようなものです。私たちは、やがて目に目える形で実現する「神の国」の完成を先取りして、「地の塩、世の光」として、イエスの父なる神こそが全世界の真の支配者であることを、身をもって証しするのです。主の祈りを心から祈る者は、三位一体の神の愛に包まれた喜びを味わっています。それは、私たちが他の聖徒と共に、人となられたイエスと父なる神の愛の交わりとの中に、御霊によって招き入れられている喜びです。その時私たちは、神の創造の目的に添った形で、自分らしく生きているのです。

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2009年3月15日 (日)

マタイ5章1-12節「主にすがる者の幸い」

    マタイ福音書での 「山上の説教」と「終わりの日の説教」の対比 

<モーセの最後の説教>「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い死とわざわいを置く・・・私は、いのち祝福のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい・・あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ・・」                                                                                   (申命記30:15,1920)

<山上の説教の前提>  イエスは宣教を開始して、言われた。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 (マタイ4:17)

イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロ・・と・・アンデレをご覧になった・・イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい・・・」

彼らはすぐに網を捨てて従った。・・・イエスは・・ヤコブと・・ヨハネ・・をご覧になり、ふたりをお呼びになった。 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った

 イエスはガリラヤ全土を巡って・・・あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された・・・大ぜいの群集がイエスにつき従った。この群集を見て、イエスは山に上り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた。(マタイ4:18-5:2)

<終わりの日の説教の始まり> そのときイエスは群集と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども彼らの行ないをまねてはいけません。

彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしません・・・人から先生(ラビ)と言われたりするのが好きです。しかし、あなたがたは先生(ラビ)と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。

あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師(指導者)と呼ばれてはいけません。あなたがたの師(指導者)はただひとり、キリストだからです。

  あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:1-12) 

<九回の「幸い」(5:3-12)と、七回の「わざわいだ・・」(23:13-36)との対比>

.  ()の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。

(23:13。続く14節は古代の写本にはなく、マルコ、ルカからの引用だと思われます。新改訳脚注参照)

2.  悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです(15)

3.  柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから

 

 わざわいだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。「だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったのなら、その誓いを果たさなければならない。」(16節、自分が責められることなく、自分を正当化できるための様々な言い訳)

愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と黄金を聖いものにする神殿と、どちらが大切なのか・・・目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖くする祭壇と、どちらが大切なのか・・・

神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです」(17-22)

4.  義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミン(それぞれ些細な薬味または香辛料の種類) などの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです・・

目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだ(律法で食べてはならないと命じられている汚れた動物) のみこんでいます。(23,24)

5.  あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦で一杯です。目の見えぬパリサイ人たち。まず杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。(25,26)

6.  心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側偽善と不法でいっぱいです。(27,28)

7.  平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

                                                                                                                            

 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、「私たちが先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろうと」と言います。こうして、預言者を殺した者たちの子たち(「神の子」との対比) だと、自分で証言しています。あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。(29-32節。この表現はご自身の命を狙っている彼らに、先祖に従って血を流すことを勧めた皮肉)  

8.  義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちはゲヘナの刑罰(「天においての報い」との対比) をどうしてのがれることができよう。だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです(「迫害される者」との対比)(3334) 

9.  わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは 幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。  (5:11,12)

それは義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るからです。

まことにあなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。(3536)

 「杖にすがるとも、人にすがるな」ということわざがあります。そして、「すがる」ということばをネットで調べたら、「誰かにすがるしかできない・・」とタイトルで、「ひとりでいることが辛くて睡眠薬を大量に飲んでリストカットして気を失った・・・」などという女性の痛々しい記事がすぐに出てきました。「すがる」というのは依存症的な生き方の象徴的なことばなのかも知れません。しかし、聖書では、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)にすがらなければならない、そのとき、「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる」と記されています(ヨシュア23:8,10)。人が人にすがろうとすることは、ときに破滅への道となります。しかし、人が主(ヤハウェ)にすがるとき、千人をも圧倒する力を持つことができます。ところで、この世では、自分の生き方を変えるための様々な知恵が提供されます。先のリストカットの女の子の日記にも、多くのもっともなアドバイスが書き込まれていました。しかし、私はこの年になってつくづくと思いますが、自分も人も、本当は心の底では、変わりたいとは願っていないのではないでしょうか。ですから、どんなによいアドバイスを聞いても、それはほとんど役に立ちません。「すがる」という心理には、自分が「変わりたい」と願いなどはないように思います。ところが、人が主(ヤハウェ)にすがるとき、不思議にも、変わり始めることができるのです。それは、ちょうど、愛する人から、「そのままのあなたが好き!」と言われるときに、かえってその人を喜ばせるような行動をとりたくなるのと同じです。私たちは、「変わりたいと思わなければ・・」などと自問しているとき、心の目は自分に向かっています。しかし、そこにはしばしば、空回りしか起きません。私たちが主(ヤハウェ)にすがり、心の目が主(ヤハウェ)に焦点を合わせられるとき、私たちは初めて変わり始めることができるのです。

1.「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています」 

モーセが五つの書を記したように、マタイはイエスの五つの説教を残しています。そして、その最初は「山上の説教」、最後は「終わりの日の説教」と呼ばれます。前者の始まりでは九回の「幸い」が描かれ、後者の始まりでは七回の「わざわいだ」というさばきが描かれています。しかも、モーセは、最後の説教で、「見よ。私は確かにきょう、あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く・・・あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:15,19)という選択を迫りましたが、イエスもマタイにおける説教で、「律法学者やパリサイ人の義」(5:20)に従って滅びるか、イエスご自身に従って永遠の祝福を受けるかの選択を迫っておられるのではないでしょうか。

先に続く申命記30:20では、「いのちを選ぶ」という生き方が、「あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き、主にすがることとして言い換えられています。「すがる」ということばは、創世記225節では「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い」というときの「結び合う」と同じことばです。私たちは常に、関係の中に生きています。そしてそこには優先順位があります。幸せな結婚をしたければ、父母を「離れる」ということと妻と「結び合う」ということが同時に起こらなければなりません。父母に精神的に「すがる」代わりに、伴侶に「すがる」ということでしょうか・・・でも、そのように言うと、妻から、「私はあなたのお母さんじゃないのよ・・」と言われてしまいます。そのような不満が出るのは、たいてい、夫が妻を愛し、妻の声に十分に耳を傾けてはいないからではないでしょうか。神との関係でも、「主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き」ということと「主にすがる」ということはセットになっています。それは、自分の願いがかなえられることばかりを求める関係は、必ず破綻するからです。私たちにとって、イエスにすがるということと、イエスを愛し、イエスの痛みを知るということは必ずセットになっていなければなりません。

ただし、どちらにしても、「いのちを選ぶ」という生き方は、この世のむなしい約束に「すがる」代わりに、「主(ヤハウェ)にすがる」という生き方に他なりません。自分の信仰を証することとは、「教会に行っているおかげで、こんなに強く生きられるようになった・・・」などと自慢することではなくて、「私はひとりになると何をしでかすかわからないような弱い者なので、イエス様なしには生きて行けないのです・・・」と謙遜に言うことではないでしょうか。

  

ところで、イエスが宣教の初めにいわれたことばは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」です。「悔い改める」ということばの中心的な意味は、「心の方向を変える」ということを意味します。それは、「主を愛し、主に聞き、主にすがる」という生き方に立ち返ることを意味しました。そして、「天の御国が近づいた」というのも、目に見えない神の哀れみに満ちたご支配が目の前に来ている」という意味です。「天の御国」とは、天国と呼ばれるようなこの世と離れた時間や空間のことではなく、「今ここで」、イエスを救い主として信じ、イエスの父なる神にすがって生きるという「関係」の中にあります。そして、それはイエスご自身の主導権によって始まりました。

イエスご自身がガリラヤ湖のほとりを歩いて、漁をしているペテロやヨハネの傍らに行って、彼らを召し出し、彼らを弟子としてくださったのです。彼らの側に立派な信仰があったというのではなく、彼らはイエスの権威と魅力にとらえられたに過ぎません。そればかりか、人々がイエスを探す以前に、「イエスは(ご自身の側から)ガリラヤ全土を巡って・・民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(4:23)と記されています。

これと対照的なのが、「律法学者やパリサイ人は、モーセの座を占めている」(23:2)という姿勢です。彼らは自分のほうから人々に近づこうとしていたのではなく、いつも上から愚かな民衆を指導するという態度をとっていました。しかも、「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしません」(23:4)というような人々を突き放したような教え方ばかりをしていました。その方が、面倒を抱え込まなくて済むからです。

彼らは人々に自分たちの知識や敬虔さを見せびらかし「人から先生(ラビ)呼ばれるのが好き(23:7)でした。しかし、イエスは、大ぜいの群集がつき従ったのを見た」上で・・「山に上り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで」(4:25,5:1)全く新しい教えとして、ご自身に従う者の「幸い」を九つに分けて語ってくださったのです。それは、あくまでもイエスに従うことを既に決意している弟子たちに向けてのことばです。つまり、これは、「幸せに生きるための教科書」のような教えではありません。反対に、多くの人々が憧れるような、自立した人間としての立派な生き方なら、イエスからではなく、パリサイ人や律法学者から聞くことができたのです。

彼らは、自分の努力で幸せをつかむ方法を教えましたが、イエスは、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇いている者」、そして、ご自身のために「迫害されている者」という、この世で苦しみ損をしている人への「幸い」を保証されました。これらはすべてイエスなしには決して実現できないものです。ところが彼らは、自分たちが「教師」、「父」、「指導者」になり、人々がイエスに直接につながるのを邪魔しました。イエスが彼らに対して驚くほど攻撃的なのは、彼らが人々に、イエスと父なる神に「すがる」ことを邪魔したからです(8-10)。それは、海で溺れている人に差し出された救命ボートを取り去って、泳ぎ方を大声で教えるようなものです。

2. 「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者」が「幸い」であるとは?

  イエスは、マタイ2313節からの「終わりの日の説教」で、七回にわたって「わざわいだ・・・」という厳しいことばを律法学者やパリサイ人に向けて投げかけます。それは、彼らの「偽善」のゆえです。彼らがイエスの働きの敵となっているのは、「人々から天の御国をさえぎっている」(23:13)という点にあります。彼らは文化の中心エルサレムに住み、聖書を徹底的に学び、誰よりも自分たちこそが天の御国に近い存在と自負していました。そして、上から見下ろすように苦しんでいる人々指導しますが、その結果、人々は、「私は天の御国からはほど遠い・・」と自暴自棄に陥ります。イエスのまわりに集った人々はそのような落ちこぼれ意識を味わっていました。

そのような人に向かって、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」と言われました。イエスは宣教の初めには、「天の御国は近づいた」と言っておられましたが、ここでは何と、「天の御国は(既に)その人のものだから」と断言しておられます。つまり、「自分は大丈夫だ」と思っている人は「天の御国」に入っていないのですが、「自分は何と惨めな人間なのだろう・・・」嘆きながら、「自分はイエスにすがることしかできない」と自分の無力さに打ちひしがれている人は、すでに「天の御国」に入っているというのです。

米国大統領就任式の祈祷を導いたリック・ウォレン師は、アルコールや薬物その他の様々な依存症の方々の自助グループを教会の中で導き、Celebrate Recoveryというプログラムを開発しています。その第一は、「心の貧しい者は幸い・・」の意味を心から理解することから始まります。そのテキストⅠのタイトルは、Stepping out of Denial into God’s Grace「否認から抜け出て神の恵みの中に足を踏み入れる」です。依存症は「否認の病」と言われ、たとえば、自分にアルコールや薬物をコントロールする力がないということを認められなくて、どんどん深みにはまり、問題の原因を自分の周りのせいにするからです。彼らは人を振り回すようなすがり方はしますが、本当の意味で自分の無力さを認めてはいません。私たちもみな、心の奥底で同じような問題を抱えています。しかし、自分の弱さや汚れを正直に認めることこそが、神のみわざが心のうちに始められる第一歩なのです。そして、その人は、その問題を抱えたままの状態で、今、既に、「天の御国」(神の国)に入れられているのです。

「悲しむ者は幸いです」「悲しむ」とは、他の人には慰めようもないほどに深く嘆いている状態の人を指します。その人が「幸い」であるはずはないのですが、「慈愛の父、すべての慰めの神」(Ⅱコリント1:3)と呼ばれる方が、やがて慰めてくださるという保障があるからこそ「幸い」なのです。一方、パリサイ人たちは、「海と陸とを飛び回る」ほどに、疲れ知らずに働きながら、「改宗者を自分よりも倍も悪いゲヘナの子」にするというのです(23:15)。彼らは、神を信じているというより、「自分の信念」を生きているのです。それは、ギャンブル依存症の人が、「今に必ず大儲けできる!」と信じて同じ過ちを繰り返し、自分の周りの人々を不幸に引きずって行くのと同じです。このような人は、周りの世界を恨み、怒ってはいても、本当の意味で自分の惨めさを嘆いてはいません。深い悲しみを押し殺しているだけなのかもしれませんが・・・。しかし、本当に自分に絶望しながら、神に向かって嘆くとき、「人のすべての考えにまさる神の平安」(ピリピ4:7)を体験できるのです。これこそ信仰の神秘の世界です。

「柔和な者は幸いです」「柔和」とは、自分の正当性を訴えて争う生き方と対照的です。パリサイ人たちは議論の天才でした。彼らは自分の聖書の知識を利用して、たとえ自分の誓った通り実行できなくても自分を正当化できる逃げ道を作りました(23:16,18)。しかし、イエスは、知識を誇る彼らこそ、「目の見えぬ人」だと繰り返されました。彼らは天を指して誓ったあげく、言い逃れをしますが、その結果、地を受け継ぐことさえできないばかりか、人々を滅びに導いている教師だというのです。確かに短期的に見ると、効果的に争うことができる人こそが、得をしているようにも見えます。ただし、伝道者の書に、「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない」(7:16)とあるように、一見「強い人」は、人の反感を買い、争いを広げることによって自滅してしまうということがあります。それどころか、イエスは、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われました。それは報復の連鎖を断ち切る教えであるとともに、神がこの地を支配しておられるとの前提で語られたことです。それをもとに、イエスは、「柔和な者」こそが「地を受け継ぐ」と言われたのです。そこで問われているのは、自分の力に頼って争うか、神の力にすがって「柔和」に生きるかの選択です。

3. 「義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者」の幸いとは?

「義に飢え渇く」とは、この世の不条理に心を痛めながら、「神の正義」がこの地の実現することを強く憧れながら生きることです。たとえばパリサイ人たちは、盲目に生まれた人や障害者を、神にのろわれた人と見ていました。彼らは、どんな些細なものの十分の一を献げることに几帳面ですが、人を人とも思わない傲慢な姿勢で、人を簡単にさばいていました。イエスは、それを、律法の核心である「正義もあわれみも誠実もおろそかにする」ことだと指摘されました。それは、ぶよのような小さな虫をこして除くことに熱心でありながら、らくだのように大きな、律法で食用に適さないと言われている動物を飲み込むことと同じだというのです(23,24)。彼らは、真の意味で、「義に飢え渇いて」はいません。それゆえ、神によって「満ち足りる」ことを味わうこともないというのです。

「あわれみ深い」とは、隣人の痛みや悲しみに、心の奥底が共鳴して震えるような状態です。私たちは人の痛みにいちいち自分の心が反応しないほうがこの世では楽に生きられます。パリサイ人たちは、貧しい人を心の底では軽蔑しながら、頻繁に「施し」を実践しましたが、心の底では人の尊敬を得ることばかりを願っていました。イエスは名誉に貪欲な彼らを、「あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦で一杯です」と非難しました。私自身も自分が人の痛みを聞くことに慣れすぎて、心が反応しなくなりはしないかと反省させられることがあります。あなたも人の悲しみを聞きながら、「優しい人に見られたい」という気持ちに動かされている場合がないでしょうか。それは、「あわれみ深い」のではなく、人の賞賛ばかりを求めるパリサイ人の心です。

ここでは、「義に飢え渇く者は・・・満ち足りる」「あわれみ深い者は・・・あわれみを受ける」と、神の報いがまっすぐに約束されています。ただしそれは、自分でコントロールできる世界ではありません。自分の心は単に、この世の不条理に痛み、また人の苦しみに合わせて心がふるえているだけなのです。その際、電車のつり革につかまると自由に揺れることができるように、神にすがる者は、自分の心を、一時的に渇いたままに、また、震えるままに開いておくことができます。そして、そのとき、神ご自身がその心を満たし、あわれみを注いでくださいます。

「心のきよい」とは、心の中が神の聖さで満たされているという意味ではなく、自分の醜さを認める正直さです。英語ではしばしば、「pure in heart」(心の中が純粋)と訳されます。先のセレブレイトリカバリーでも、この部分に最も多くのページが割かれ、自分の過ちを正直に神に告白することと同時に、信頼できる人に告白するようにと勧められています。イエスはパリサイ人を「白く塗った墓」(23:27,28)と呼びました。それは、「その外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱい」になっており、外側の美しさは、内側の汚れを隠す手段に過ぎないからです。しかも、外から見える姿を整えることに精神を集中すればするほど、自分の心の中が見えなくなってしまいます。「心のきよい」とは何よりも、「透明さ」を指すことばです。自分の心を透明に見ることができることと「神を見る」ことは切り離せない関係にあるのです。なお、「神を見る」とは、何かの恍惚体験であるよりは、パウロがエペソ人の手紙の中で、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものなのか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(1:18,19)と祈ったことが実現してゆくというプロセスではないでしょうか。要するに、自分の心の闇が明らかにされればされるほど、神のめぐみの偉大さも明らかにされてくるというのです。

4. 「平和をつくる者、義のために迫害されている、ありもしないことで悪口を浴びる者は幸い」

  しばしば、真理のために命を賭ける人は、争いを作ります。パウロもパリサイ人だった時、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」(使徒9:1)いました。「私たちが先祖の時代に生きていたら・・・」(23:30)という人も、そのように、「私は他の人のように愚かではない」と思う心自体が、争いの姿勢を正当化していると言えます。それに対してイエスは、「平和をつくる者」こそが「幸い」であり、その人こそが「神の子どもと呼ばれる」と語りました。ここにある九つの「幸い」の中で唯一の積極的な行動が、「平和を作る」という教えです。私たちは自分を被害者に仕立てる天才ですが、「平和の祈り」にあるように、「憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに和解を、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信頼を、誤りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす」ような積極的な生き方を求めるべきなのです。そしてそのように生きる者は、「神の子」と呼ばれるのですが、このことばはイエスを、「神の子」と呼ぶときと同じことばです。私たちは、平和を作る者」として生きるとき、名実ともに、小さなイエス、イエスの弟、妹とされ、イエスに結び合って(すがって)いる者とされています。ただ、その際、私たちの行動が決して押し付けにならないように注意しなければなりません。イエスは「叫ばず、声をあげず・・くすぶる燈心を消すこともない」方でした(イザヤ42:2,3)

 

 「義のために迫害されている者は幸いです」(5:10)と、イエスはご自分の弟子たちに不思議なことを言われましたが、一方で、「終わりの日の説教」では、律法学者やパリサイ人こそが、イエスとイエスの弟子たちを、「町から町へと迫害して行く」ような者であると非難しました(23:34)。彼らは、質素でしたが生活に困りはせず、社会的な尊敬を受けており、その既得権益を守る思いから、イエスの「天の御国」の教えを迫害する側になったのでした。それに対して、イエスは、「天の御国は」迫害されている者たちの側にあると断言してくださったのです。

そればかりか、イエスは、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、またありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」(5:11,12)と約束してくださいました。なぜなら、それは人々があなたをイエスに結び合わされた者と見たことの最大の証だからです。私たちが心から目指すべき目標とは、イエスと一体とされることではないでしょうか。迫害者はそれを手助けしてくれているのです。なおこれは、厳密には、「死んだ後、天国で慰めを受ける」という意味ばかりではありません。マタイは、「天」を、「目に見えない神のご支配の現実」という意味で用いています。ですから、イエスはここで、当時の宗教指導者へのさばきが「この時代の上に」目前に迫っている(23:3536)ことと、イエスの弟子への「報い」が、今から永遠に続くことを対比しているのです。イエスに従う者は、今、ここで、命を落すような迫害のただなかでも「喜びおどる」ことができるのです。しかも、それは永遠の喜びの始まりです。

  ルターが、超真面目人間の友人メランヒトンに宛てた有名な言葉があります。それは多くの誤解を生み出した危険なことばでもありますが、そこにはこの世の道徳とは決定的に異なる福音の本質が隠されています。

「こしらえ物ではなく、本当の恵みを語れ・・神は架空の罪を犯した者を赦し給うのではない。罪人であれ、そして大胆に罪を犯せ。しかし、罪と死に勝利したキリストをさらに大胆に信じ、喜べ

我々が我々である限り、罪は犯されるに違いない。この生は義の住家ではなく、「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいる」(Ⅱペテロ3:13)のだから。世の罪を除く小羊を神の栄光の富によって知ったことで十分なのだ。たとい千回、一日に千回、姦淫と殺人の罪を犯そうとも、罪は主から我々を引き離しはしない。

考えても見よ。我々の罪のためにこんなに大きな小羊によってなされた賠償額が、そんなに小さなものであろうか。雄々しく祈れ、君は断固たる罪人なのだから」

 私たちに求められていることは、誰からも非難されることがないような立派な人間になることではなく、イエスに従い続けることなのです。その中で、あなたは結果的に造り変えられて行きます。そして、それは神がなしてくださることです。「そのままの姿で、留まる」ことと、「そのままの姿で、従う」ことには天と地の差があるのです。

神のみこころは、私たちが自分の弱さを正直に認めて、神にすがり続けることです。信仰と道徳とは真っ向から反する面があります。自分で自分を律することができると思う人は、自分の心から神を締め出しているのではないでしょうか。そのような人は、ある意味で、イデオロギーを信じているのであって、「神にすがっている」のではありません。それは私たちのうちにも起こり得る誤りではないでしょうか。「主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き、主にすがる者」は、「いのちを選んでいる」のですが、パリサイ人のように自分の力による自律的な生き方をしている人は、イエスから「わざわいだ」と言われ、「死」「のろい」を選び取っています。一見立派な人が信仰者なのではなく、「イエス様なしには生きられない!」と、「主にすがっている人」こそが、神に喜ばれる信仰者なのです。そして、そのような人は、イエスが約束してくださった不思議な九つの「幸い」を今から味わうことができます。

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2009年3月 8日 (日)

伝道者11,12章「元気のあるうちにあなたの創造者を覚えよ」

                                                         

 伝道者11,12章 翻訳

あなたのパンを水の上に流せ。多くの日々がたってから、あなたはそれを見いだすのだから。

受ける分を七つか八つに分けておけ。        

地の上にどのような災いが起こるかを、あなたは知らないのだから。

雲が雨で満ちるなら、それは地に向けて空(から)になる。 

木が南に、または北に倒れようとも、木は倒れた場所にそのままになる。

 風を見守っている者は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。

あなたは、風(霊)の道がどのようなものかも知らず、また、妊婦の胎内での骨々がどのように成長する

かを知らないのと同じように、すべてを成し遂げられる神のみわざを知ることはできない。

  朝、あなたの種を蒔け、夕方も手を休めてはならない。  

あなたはどれが成功するのかを知らないからだ。

あれか、これか、または両方が同じように成功するもしれない。

光は心地良い。日を見ることは、目に良い。                                            

実に、もし人が長生きするなら、暗い日々が多くあるかもしれないことを覚えていながら、

すべてにあって楽しむのがよい。

すべて起こることは空しいから。                      

若者よ。あなたの若さを楽しめ。若い日にあなたの心を幸せにせよ。  

あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め。

ただ、神は、それらすべてにおいて、さばきを下されることも知っておけ。

あなたの心から苛立ちを去らせ、肉体から災いを取り去れ。若さも、青春も空しいから。 

あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に。        

災いの日々が来て、「私には何の喜びもない。」と言う年が近づく、その前に。

太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雲が戻って来る、その前に。    

その日には、家を守る者は震え(手が震え)、力ある男も身を屈め(足がたわみ)  

粉ひきは減って止まり(歯が抜け)、窓から眺める女は暗くなり(目はかすみ)

通りに面した扉は閉じられ(引きこもり)、粉ひく音は低くなり(食欲が細り)、       

鳥の声にさえ起き上がり(眠りが浅くなり)、歌う娘たちもみなうなだれる(耳が遠くなる)

さらに彼らは高い所を恐れ、道には恐怖があり、       

アーモンドの花は咲き(白髪になり)、ばったは重荷を負い(よろめき歩き)、気力が衰える。

それは、人が永遠の家へと歩み、嘆く者たちが通りを巡るから(葬式の準備がされる)

こうして、銀のくさり(美しいいのち)が切れ、金の器(かけがえのない身体)が砕かれ、    

水がめが泉の傍らで割れ(心臓が止まり)、井戸車が井戸で砕かれ(循環機能が止まり)

ちりはもとの地に帰り、霊(息)はそれを下さった神に帰る、その前に。      

(そのようになる前に、あなたの創造者を覚えよ。)

「何と空しいことか!」と説教者は語る。「すべては空しい!」と。      

  そしてさらに、説教者は知恵ある者で、民に知識を教え、         

思索し、探求し、多くの格言をまとめた。

説教者は、ふさわしいことばを見出そうと捜し、しかも、真理のことばをまっすぐに記した。 

知恵ある者のことばは、(家畜を動かす)突き棒のようなもの、      

その編集されたものは、よく打ちつけられた釘のようだ。   

それらは唯一の羊飼いである方から与えられた。

  これに加えて、わが子よ。注意せよ。       

多くの本を作るのには、限りがない。多くの研究をしても、身体が疲れるだけだ。  

  これらすべてを聴いてきたことの結論とは、      

「神を恐れ。その命令を守れ」。これこそが人間にとってすべてである。

神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての行いにさばきを下される。

                                                                                                                  2009年3月8日

  私が大学の交換プログラムでアメリカに留学したのは1974年のことでした。その頃、カーペンターズの歌がいたるところで聞かれましたが、あるとき「Sing」という曲がスーッと心に響き、急に英語がわかるような気持ちになって世界がどんどん広がり始めました。その歌詞は、「Sing, sing a song, sing out loud, sing out strong. Sing of good things not bad, sing of happy not sad・・・」(歌おう。大きな声で力強く、悪いことではなく良いことを、悲しいことではなく嬉しいことを)というものでした。当時、私は、表面的な強がりの影に、何とも説明しがたい神経症な不安を抱えていました。それを忘れるため、良いこと嬉しいことばかりを歌っていたいと思っていました。これを歌ったカレン・カーペンターも同じような葛藤を味わっていたようです。彼女は日本語でもこの曲を、「Sing,歌おう。声を合わせ、悲しいこと忘れるため・・」と歌っていましたが、それが痛々しく感じられます。それから約十年後、32歳の若さで、拒食症による衰弱のため息を引き取ったからです。彼女は自分が太る体質であることを脅迫的に恐れ、食べた物が自分の肉にならないようにと身体を痛めつけ続けていました。ありのままの自分を受け入れることができずに必死に頑張り、ついに力が尽きてしまったのです。この悲劇を通して摂食障害という病が社会的に認知されるようになりましたが、何とも痛ましいことです。私たちの心も身体も自分の思うようにはならないということを受け入れることは最も大切な知恵でしょう。この心も身体は、私たちの創造者だけが、本当の意味で生かし用いることができます。私は幸い、留学中の若かったときに、私自身の創造者と出会うことができました。ただ、その頃、自分の心の闇を、信仰によって克服するというような発想でしかありませんでした。それにやさしく向き合うことができるようになったのは、信仰に導かれてから十年余りも経ってからのことでした。いろんなことが順調に進んでいると思われる元気なうちにあなたの創造者を覚えることができるなら、様々な試練の中でも、自分を優しく受け入れられるようになることでしょう。

1.「あなたのパンを水の上に流せ」

「あなたのパンを水の上に流せ。多くの日々がたってから、あなたはそれを見いだすのだから」(11:1)とは、自分の財がなくなるかもしれない危険を覚悟しながら、長期的な投資に賭けることの勧めだと思われます。たとえば、ソロモンは海上貿易で巨大な富を築きましたが(Ⅰ列王記10:22)、そこに大きなリスクが伴いました。それと同時に、これは貧しい人への「施し」とも解釈できます。それは、差し当たりは損なこととしか思えませんが、「寄るべのない者に施しをするのは、主(ヤハウェ)に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」(箴言19:17)と、この無私であるはずの行為でさえ、主に対する投資のように説明されています。財産を自分の手元に安全に守ろうとばかりすると、お金の流れが止まり、それは結果的に経済を収縮させることになります。その原則は、三千年前も今も同じです。

これはまた、主のことばを伝えるという働きにも適用できることです。紀元前700年頃、預言者イザヤは、聞く耳のなかった当時のイスラエルの民に神のみことばを語り続けるように命じられましたが、その際、主は、「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしくわたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる(55:10,11)と約束しておられます。事実、イスラエルの民が、イザヤの預言に耳を傾け始めるようになったのは、それから約150年後のことだと思われます。ただ、イザヤの預言は、今も、ユダヤ人を改心させ続け、また私たちに、神の救いのご計画を知らせ続けています。       

「受ける分を七つか八つに分けておけ。地の上にどのような災いが起こるかを、あなたは知らないのだから」(11:2)とは、分散投資の勧めと理解できます。しばしば、「信仰」を、「自分の期待が実現することを心で念じ続けるなら、それが成就すること」かのように誤解する人がいますが、「人は自分に何が起こるかを知らない」(10:14)とあるように、主は私たちに未来を隠しておられます。経済の見通しが立たない以上、たとえば自分の財産を、不動産、預金、証券などに分散することは当然のリスク対策です。ただ、そのような中で、何よりも優先すべきことは、私たちの未来を支配する神との関係ではないでしょうか。献金は神への最大の信頼の表現になりますし、それは報われることです。それは、使徒パウロも、「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅰコリント9:6)と語っている通りです。私たちはよく、「見返りを期待しないで・・・」と言いますが、多くの場合、自分で自分を慰めたり、褒めたりしてはいないでしょうか。そこには既に見返りが存在するばかりか、心の目が自分に向かっています。それよりはすべての行為を、創造主である神との対話のうちにするというのが聖書の語る信仰です。

「雲が雨で満ちるなら、それは地に向けて空(から)になる。木が南に、または北に倒れようとも、木は倒れた場所にそのままになる」(11:3)とは、自然現象は人の手が及ばないところにあるという意味です。最近は天気予報の精度が上がってはいますが、それでもこれらすべてが人には制御できない現実であることに変わりはありません。

 「風を見守っている者は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」(11:4)とは、最高の収益を得るタイミングばかりを計りすぎるなら、かえって時期を逸してしまうというアイロニーです。人は誰も、無駄な労力や無駄な投資は避けたいと思うものですが、それが怠惰や臆病の言い訳になってしまっては本末転倒です。

 「あなたは、風(霊)の道がどのようなものかも知らず、また、妊婦の胎内での骨々がどのように成長するかを知らないのと同じように、すべてを成し遂げられる神のみわざを知ることはできない」(11:5)とは、人は自然現象や人間の誕生という生活の基本に関わる知識さえ知ってはいないという知恵の限界を述べたものです。なお、「風」ということばは「霊」とも訳すことができますが、イエスはこのことばを意識しながら、「風は思いのまま吹に吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこに行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハネ3:8)と言われたのではないでしょうか。人がなぜイエスを主と告白し、キリスト者としての歩みを始めるようになるのか、これは人の誕生と同じように神秘的なことです。それを人間的な努力の成果の尺度で測ってはなりません。

  「朝、あなたの種を蒔け、夕方も手を休めてはならない。あなたはどれが成功するのかを知らないからだ。あれか、これか、または両方が同じように成功するもしれない」(11:6)とは、「成功」は人間の努力を超えた神の御手の中にあるということを謙遜に受け止めるとともに、今、何もしなければ、何の結果も期待できないという現実を示しています。これは私たちの日々の働きすべてに適用できる真理です。この地に起きるすべてのことは神のみわざです。しかし、それは私たちの努力を軽蔑するものでは決してありません。人の側での「種を蒔く」という地道な働きがなければ、それを成長させ、成功させてくださるという神のみわざを体験することはできないのだからです。

ただ、それと同時に、「光は心地良い。日を見ることは、目に良い。実に、もし人が長生きするなら、暗い日々が多くあるかもしれないことを覚えていながら、すべてにあって楽しむのがよい。すべて起こることは空しいから」(11:7、8)と、日々の生活を楽しむことが同時に勧められています。それは「楽しむ」という余裕もないほどに働きすぎてはならないという教えです。聖書の教えで何よりもユニークなのは、週に一日の安息日を初めとし、労働してはならないと言われる日、休みが義務とされている日が驚くほど多いということです。それはすべてが主の恵みであることを覚え、労働の実を家族や隣人と分かち合って喜び楽しむための日です。多くの日本人のサラリーマンは、知力や体力がもっとも充実したときをすべて仕事にささげ、退職が近くなるころには、何をしてよいかわからないというような状態になることがあまりにも多いように思われます。「休み」は、貯金できるようなものではありません。

                      

2.「あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に」

 「若者よ。あなたの若さを楽しめ。若い日にあなたの心を幸せにせよ。あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め」 (11:9)は、信仰が道徳主義に流れることを修正させる大切な教えです。ポール・トゥルニエというスイスの精神科医は、戦後まもなくスイスの教会に意気消沈している若者が多く集っていることに心を痛め、教会が「いのち」よりも「道徳」を教える場になってはいないかと警告を発しました。彼は、聖書には道徳とはかけ離れたような人々が満ちていることをあげながら、「宗教とは、神とその恩恵を情熱的に追求することを意味します。これに反して、道徳主義とは自分自身を追及することを意味し・・・善悪を自分の力で識別し、あらゆる過ちから自分で自分の身を守ることを自分に要求するということです。こういう人間は、自分はまちがっていないだろうかと始終びくびくしながら、真面目一点張りに、あらゆる楽しみを断念します。この態度が極端になると、しまいには神も必要ないし、神の恩恵もいらないということになるのです」と語っています(「人生の四季」1970年、ヨルダン社、三浦安子訳P74)神の前に正しく生きようとすることが、皮肉にも、神を不要にする生き方につながり得るというのです。

ここで、「若者」ということばは、文脈から明らかなように、行動が体力や気力から制限されてくる老年期との対比で用いられ、非常に幅の広い期間を指します。「若さを楽しめ」とは、「今、このとき」を神の恵みとして「楽しむ」ことです。しばしば、若い人は、社会的な影響力を発揮できる中年期に憧れ、中年の人は元気だった若い頃を懐かしみますが、そのどちらも現在に不満を抱くということで同じです。しかし、若さを楽しむことができる人は、結果的に、老年期をも楽しむことができることでしょう。それにしても、「若い日」だからこそ、「心を幸せに」できるという機会があります。それは、感激する心であったり、恋愛をしたり、心に湧き上がって夢に賭けるような情熱ではないでしょうか。北海道大学のキャンパスには、建学の基礎となったクラーク博士の銅像が飾られ、そこに彼の別れのことばが、「Boys, be ambitious(青年よ、大志を抱け)」と記されています。それはもちろん、品のない野心のことではなく、自分の小さな殻に閉じこもることなく、神の広い恵みの世界にはばたいて、神と人とのために生きることを意味します。

 その際、「あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め」とあるように、歩むべき方向性は、何か外から与えられるようなものではなく、自分の心と目に聞くことから始まります。たとえば、「この理想の実現のため・・・」とか、「このような生き方を・・・」と、いろいろな良い話を聞きながら、「何か自分の心にしっくり来ない」とか、「どうも自分の目に迫ってこない・・・」ということがなかったでしょうか。それと反対に、「人が何と言おうとも、これをやってみたい」と前向きになれたことがなかったでしょうか。その思いに正直に生きるとき、私たちの心身は驚くほどの力を発揮し始め、結果的に夢を実現することができます。使徒パウロはこのみことばを前提に、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2:13)と言ったのではないでしょうか。

ただし、「ただ、神は、それらすべてにおいて、さばきを下されることも知っておけ」(11:9)と警告されるように、明らかに神のみ教えに反することに情熱を燃やしてはなりません。それでも、もし、「神は私にどんな働きを期待しておられるのでしょう・・・神のみこころがわかりません」と疑問を持つようなときには、神の明確なみこころに反するものでない限り、自分のうちに沸いてきた思いに身を任せるので良いのではないでしょうか。そうするとき、心と身体に活力がみなぎります。「あなたの心から苛立ちを去らせ、肉体から災いを取り去れ。若さも、青春も空しいから」(11:10)とは、それを前提とした勧めだと思われます。「若さも、青春も」たちまちのうちに去って行くような「空しい」ものであるからこそ、今、このときを精一杯生きることが大切なのです。どちらにしても、人は、老年になるに連れて、自分の思うように心も身体も動かなくなるのですから、若いときから老人のように生きる必要はありません。          

「あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に」(12:1)という有名な勧めは、その後に続く、三回の「その前に」ということばとセットになっています。第一は、「災いの日々が来て、『私には何の喜びもない。』と言う年が近づく、その前に」ということで、人生を謳歌しているような若いうちに「あなたの創造主を覚えよ」という意味です。そして、第二は、「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雲が戻って来る、その前に」(12:2)ですが、これは神がこの世界をさばかれる日という「主の日」が来る前に(イザヤ13:9,10)という意味にも理解できますが、それ以前に、繁栄に満ちた時代が過ぎ去り、奴隷のように虐げられながら生きざるを得なくなる苦しみの時が来る前に(エゼキエル32:7,8)「あなたの創造主を覚えよ」という勧めとしても理解できます。人は、中年期には、自分の年齢に応じた影響力を発揮することもできますが、老年になると、年とともに影響力を失い、ついには自分よりもはるかに若い人の命令に従って生きざるを得なくなります。自分の青春時代を謳歌できなかった人にかぎって、それを屈辱と感じることでしょう。しかし、自分の力を発揮でき続けた人は、若い者の振る舞いを、余裕を持って見ることができることでしょう。

そしてその老年の痛みが、詩的に表現されているのが12章3-5だと思われます。括弧の中のことばは原文にはありませんが、著者はそのような意味をこめながら、人の老年を、「その日には、家を守る者は震え(手が震え)、力ある男も身を屈め(足がたわみ)、粉ひきは減って止まり(歯が抜け)、窓から眺める女は暗くなり(目はかすみ)、通りに面した扉は閉じられ(引きこもり)、粉ひく音は低くなり(食欲が細り)、鳥の声にさえ起き上がり(眠りが浅くなり)、歌う娘たちもみなうなだれる(耳が遠くなる)。さらに彼らは高い所を恐れ、道には恐怖があり、アーモンドの花は咲き(白髪になり)、ばったは重荷を負い(よろめき歩き)、気力が衰える。それは、人が永遠の家へと歩み、嘆く者たちが通りを巡る(葬式の準備がされる)から」と描いたのだと思われます。

ここで、「私の創造者」ということばを、「私の手の、足の、歯の、目の、耳の創造者」と言い換えて見ると良いでしょう。自分の身体と五感のすべてを神からの賜物として受け止め、それが機能するうちに思う存分それを生かし、その感覚を優しく受け止め、「今、ここで」の感覚を大切にして生きるということです。大阪大学の鷲田清一教授は、若い女性に多く見られる摂食障害について、「観念が身体をガチガチにしている。スリムでなければいけない、という思い込みで身体が金縛りになり、生理の根っこまでダメージを受けている。身体は本来、限界を超えないために眠気とか、痛みを危険信号として発するはずなのに、それが機能しなくなっている」と語っていますが(明念倫子「強迫神経症の世界を生きて」2009年、白揚社、P167)、その人たちはある意味で若いうちから老人のように生きてしまっているといえないでしょうか。そして、これは私自身の問題でもありました。四十代後半になって、私も、「観念が身体をガチガチにしている」という自分の問題に気づいてスポーツクラブに通い始めました。身体全体を生かすということを実践しだすと、頭痛に悩むことも減り、食事もおいしくなり、五感で世界を喜ぶことができるようになってきました。

そして、第三の「その前に」ということばが、原文では12章6節の初めに記されます。そして6,7節は、人間の死を詩的に表現したものと思われます。解説を加えると、「こうして、銀のくさり(美しいいのち)が切れ、金の器(かけがえのない身体)が砕かれ、水がめが泉の傍らで割れ(心臓が止まり)、井戸車が井戸で砕かれ(循環機能が止まり)、ちりはもとの地に帰り、霊(息)はそれを下さった神に帰る、その前に」と訳すことができます。人は、死という現実を、どうにか美化して受け入れやすくしようともがきますが、それでも、死とは人間が無生物の「ちり」と同じ状態になることに他なりません。著者はかつて、死の状態においては人間も獣の何の違いもないということを強調していました(3:18-21)。つまり、獣と同じようになる死を迎える前に、「あなたの創造者を覚えよ」と強調されているのです。

  なお、私たちが、私たちの創造者との親しい交わりのうちに生きるときに、神に向かって、「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません」(詩篇16:10)と告白することができます。つまり、人は創造主との交わりの中で、初めて、死を乗り越えることができるのです。

  つまり、「あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に」とは、生きているうちに、気力が充実した元気なうちに、物事が順調に進んでいるうちに、あなたの身体も個性もすべてをパーソナルに創造してくださった神を覚えなさいという意味です。「あなたの創造者」ということばには、私たちの様々な欠点や弱さや障害のすべてをご存知で、私たちをこのままの姿で受け入れてくださる方という意味がこめられています。そして、私たちが自分の力で世界を開くことができるかのような好い気になっているそのようなときこそ、創造者を覚えることが大切だというのです。実際、老年になってしまうと、なかなか自分の生き方や発想を切り替えることができません。そして、自分を中心にしか世界を見られない人は、年を重ねるとともに、恨みや不満を募らせながら生きるということになりかねません。

3.「神を恐れ。その命令を守れ」

「『何と空しいことか!』と説教者は語る。『すべては空しい!』と」(12:8)という表現は、この書の始まりに私たちの心を立ち返らせます。それは、目に見える世界の空しさを思い起こさせることばで、この書のテーマです。

その上で、著者は、この書を記した動機と経緯を最後に、12章9-11節で記します。「そしてさらに、説教者は知恵ある者で、民に知識を教え、思索し、探求し、多くの格言をまとめた。説教者は、ふさわしいことばを見出そうと捜し、しかも、真理のことばをまっすぐに記した」(12:9、10)とは、著者がこれをまとめるにあたって、どれだけの思索を重ね、また、ことばをどれだけ注意深く選んできたかとを思い起こさせるためです。しかも、それは自己満足のためではなく、神から授かった「知恵」を用いて、「民に知識を教える」という愛に満ちた指導者の自覚から生まれたものです。そして、「知恵ある者のことばは、(家畜を動かす)突き棒のようなもの、その編集されたものは、よく打ちつけられた釘のようだ。それらは唯一の羊飼いである方から与えられた」(12:11)と記されます。大きな動物が小さな「突き棒」によって、その歩む方向が変えられるのと同じように、この書のことばには人の歩みを変える力があるというのです。それはこのことばが、「唯一の羊飼いである」神ご自身から与えられたからです。しかも、この書には様々な格言が脈絡なく集められているかのように見えますが、それは慎重に編集されたもので、ひとつひとつのことばが、「よく打ちつけられた釘」のように抜くことができない、はずすことのできないものであるというのです。

 「これに加えて、わが子よ。注意せよ。多くの本を作るのには、限りがない。多くの研究をしても、身体が疲れるだけだ」(12:12)と著者は記します。たとえば、私たちの周りには、数え切れないほどの先人たちの格言がありますが、それらすべてを調べたり、またそのことを記したりしても無益であるとも語ります。なぜなら、人が知るべき知恵、真理は、簡潔なひとつのことばにまとめることができるからです。そのことばが、「これらすべてを聴いてきたことの結論とは、「神を恐れ。その命令を守れ」。これこそが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての行いにさばきを下される」(12:13、14)とまとめられています。

  最近、スピリチュアリティー(霊性)ということばが、様々な意味で用いられていますが、聖書はそれを、「神を恐れよ」というひとことで表現しているように思われます。ただし、それは、神のさばきをびくびくと恐れながら生きるという意味ではなく、毎日の生活を、また家族や友との交わりを喜びながら生きるということにつながります。食べたり飲んだり楽しむことと、「神を恐れる」ことは、コインの裏表のようなものだからです。神を恐れ、神の命令に注目し、守る中に、生きることの喜びが生まれます。なぜなら、「神」は、私たち自身の「創造者」であられるからです。

 また、「善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての行いをさばかれる」というのも、神が私たちの地上の働きに公正な評価を下してくださるという希望と慰めのことばとして理解できます。なぜなら、私たちは何よりも、自分の働きがこの世では正当に公平には評価されないことに傷ついているからです。

キリストを信じる者にとっての老年とは、暗いものではなく、光に向かっての歩みです。それをパウロは、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16)と表現しています。つまり、肉体の衰えと霊的な成長とは反比例して進むというのです。そのように生きるための秘訣が、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」(同4:18,5:1)と記されます。

  この伝道者の書の最後では、肉体の死を詩的に表現していますが、それをパウロも、「地上の幕屋がこわれる」という一時的な通過点と描き、「神の下さる建物」「天にある永遠の家」に思いを馳せるようにと勧めています。私たちはイエス・キリストに結びつくことによって、今このときから、死を乗り越えたいのちの中に生きることができます。たといこの肉体が滅んでも、私たちは新しい霊の身体を受けて、永遠の喜びの中に生きることが保障されています。そこで私たちは朽ちることのない新しい身体となって、太る心配もなく食事を楽しみ、すべての人と最愛の伴侶と同じように心を通い合わせ、あらゆる芸術を喜び、神を賛美することができます。つまり、この書で勧められている人生を楽しみ喜ぶことは、「新しい天と新しい地」における生活を、この地で前味として喜ぶことに他ならないのです。

 そして、私たちを待っている神のさばきについて、使徒パウロは、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」(同5:10)と記します。つまり、「神のさばき」が、「キリストのさばき」へと変えられているのです。そして私たちはキリストのさばきを恐れる必要がありません。なぜなら、キリストは私たちのすべての罪をその身に負って、この罪人のままの私たちを神の子供として受け入れるために、死んでよみがえってくださった方だからです。パウロは、この世的な打算や恐れを超越した情熱的な生き方の秘訣を、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(同5:14)と語っています。私たちもキリストの愛に取り囲まれながら生きることができます。そして、私たちがキリストの前で問われるのは、犯してしまった罪や失敗の数々ではありません。なぜなら、キリストはそれを赦すために十字架にかかってくださったからです。私たちが問われるのは、どれだけ、あなた自身の創造者を覚え、感謝し、喜び、自分に与えられた身体と心と五感のすべてを生かして、キリストの愛にどれだけ応答して生きてきたかということです。失敗をしながらも、キリストのために働いたこと、結果が出なくても努力したことの報いをいただくことができます。もう自分の失敗を恥じたり隠したりすることなく、「ですから私たちは勇気を失いません」と言いながら、明日に向かって生きることができます。  

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2009年3月 1日 (日)

伝道者9章11節~10章20節 「時と機会を待ち望む生き方」

 

 伝道者9章11節~10章20節 翻訳

改めて私は、日の下を見た。足が早いからといって競争に勝つわけでも、強いからといって戦いに 

勝つわけでも、知恵があるからといってパンにありつくわけでも、賢いからといって豊かになるわけでも、

知識があるからといって好意を得られるわけではない。

ただし、時と機会はすべての人に巡ってくる。

ところが、人は自分の時を知らない。                                     

魚が災いの網にかかるように、鳥がわなにかかるように、

人の子らも、災いの時が突然襲ってくると、わなにかかってしまう。

私はまた、日の下で知恵について次のようなことを見たが、それは私にとって大きなことだった。 

わずかな人々が住む小さな町があった。                                    

そこに強大な王が攻めて来て、それを包囲し、大きなとりでを築いた。

ところが、そこにひとりの貧しい知恵ある者がいて、その彼がその知恵で町を救った。      

しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。

それで、私は、「知恵は力にまさる」と言った。                              

ただし、貧しい者の知恵はさげすまれ、彼のことばは聞かれない。

静まった中で聞かれる知恵ある者のことばは、愚か者に囲まれた支配者の叫びにまさる。 

知恵は戦争の装備にまさる。                                        

しかし、罪人はひとりでも、多くの善いものを滅ぼす。                 

死んだはえが、香料作りの香油を腐らせ、臭くするように、                      

わずかな愚かさは、知恵や栄誉よりも影響力がある。

知恵の心は右に向くが、愚かな心は左に向く。                             

愚か者は道を歩くときでさえ思慮に欠け、自分の愚かさを言いふらしている。           

たとい支配者があなたに向かって気まぐれを起こしたとしても、自分の持ち場を離れてはならない。

健やかな心は大きな罪を抑えるのだから。

  私は日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す誤り。                 

愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席についている。                  

何と私は、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。             

  穴を掘る者はそれに落ち込むかもしれず、石垣をくずす者は蛇にかまれるかもしれず、     

石を切り出す者はそれで傷つくかもしれず、木を割る者はそれで危険にさらされるかもしれない。 

斧が鈍くなっているのに、その刃を研がなければ、力をさらに込めなければならなくなる。     

それゆえ成功をもたらすのに益となるのは知恵である。

ただし、まじないをかける先に蛇がかみつくなら、蛇使いの舌は何の益ともならない。        

知恵ある者の口から出ることばは恵み。しかし、愚か者のくちびるはその身を滅ぼす。      

その口のことばの始まりは愚かで、その口の終わりも忌まわしい狂気。                 

愚か者はことばを多くする。                                          

人は自分に何が起こるかを知らない。

自分がいなくなったとき何が起こるかを、だれが告げることができようか。

愚か者たちの労苦は、自分を疲れさせるだけ。彼は町に行く道さえ知らないのだから。       

惨めなことよ、王が未熟で、重臣たちが朝から宴会をする国は。                   

幸いなことよ、王が気高い子で、重臣たちがふさわしいときに、                      

品位を保って、深酔いすることなく、食事をする国は。

怠けていると家が傾き、手をこまねいていると雨漏りがする。                      

食事を作るのは笑うため。また、ぶどう酒は人生を楽しくする。                      

そして、金銭こそはそのすべての必要に応える。                                

思いの中でさえ王をのろってはならない。寝室の中でさえ、富む者をのろってはならない。   

なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。

1970年にシャンソン歌手として有名な岸洋子が歌って大ヒットした「希望」という歌があります。そこでは、「希望という名の あなたをたずねて 遠い国へと また汽車に乗る あなたは昔の わたしの思い出・・・けれどわたしが 大人になった日に 黙ってどこかへ 立ち去ったあなた・・・」と歌われます。残念ながら、大人になると多くの人は「希望」ということばを忘れてしまうからです。しかし、「悲しみだけが わたしのみちづれ」という現実に圧倒されるようなときこそ、「希望」が生きる力となります。岸洋子は東京芸大を卒業する22歳のとき「立ちくらみ・だるさ・微熱・食欲不振などの症状」に悩まされ、「心臓神経症」と診断され、医者から歌うことを諦めるように勧められますが、やがてシャンソンを歌う喜びによって病から立ち直ります。そして35歳のときこの「希望」という歌に出会い、それが大ヒットします。ただそのとき彼女の病はますます悪化し、膠原病と診断され、入退院を余儀なくされます。しかし、彼女はその中でも歌い続けます。その気持ちが、「となりの席に あなたがいれば 涙ぐむとき そのとき聞こえる 希望という名の あなたのあの歌」という歌詞に歌われているように思えます。日本レコード大賞の選考の日に入院中だった彼女は大賞を逃しますが、歌唱賞を授与されます。そして彼女の歌うこの歌は翌年の甲子園での選抜高校野球大会の入場行進曲に選ばれます。「希望」があるとき、人は困難に立ち向かうことができるというしるしでしょう。すべての人に「時と機会が巡ってくる」と言われますが、心の底に「希望」があれば、機会を生かすことができます。しかし、根拠のない淡い希望は、問題解決の先送りの原因にもなります。あなたの希望は何でしょう?

1.「時と機会はすべての人に巡ってくる」「人は自分の時を知らない」

私たちはこの地で、「より速く、より強く、より賢く」なるようにと幼いときから訓練を受け続けています。それは古今東西、どこにも共通する教育の目標の一つでしょう。ところが著者は、ここで、「改めて私は、日の下を見た。足が早いからといって競争に勝つわけでも、強いからといって戦いに勝つわけでも、知恵があるからといってパンにありつくわけでも、賢いからといって豊かになるわけでも、知識があるからといって好意を得られるわけではない」(9:11)という現実があることを思い起こさせます。ここには五つの能力が記されていますが、特に「知恵」「賢さ」「知識」は、この書全体で重んじられているものですから、それを軽く見るというのがここの趣旨ではありません。そうではなく、人は、自分の能力を高め、磨くことと同時に、その限界をも常に自覚する必要があるということです。

たとえば、ベトナム戦争で米国があのような敗北を喫すると誰が予想できたでしょう。それに懲りずに米国は再びイラクやアフガニスタンで泥沼にはまりつつあります。ハイテク兵器を駆使して、戦いを短期間で終えると計画したブッシュ政権は世界の信頼を失いました。根本的な誤解は、彼らが「状況を把握できる」(under controlに置ける)と思い込んでしまったことです。ブッシュ前大統領は、第二次大戦後の日本やドイツにおける米国の占領政策が成功したことを例にあげていましたが、両国の成り立ちと歴史が現代のアラブ諸国と根本的に異なるばかりか、少なくとも当時の米国は、過剰なほどに、両国の占領の難しさと自国の限界を意識していたのではないでしょうか。これは私たち自身にも適用できることです。自分の能力を伸ばすことを常に心がけるべきことは当然です。しかし、自分の能力を過信し、自分の限界を忘れるとしたら、せっかくの能力は仇となります。ですから神は、私たちを謙遜にするために、あえて、能力が生かされない状況をも備えておられると解釈すべきではないでしょうか。聖書の最初の創世記には、人間の罪の根源は、自分を「神のようにしたい・・」と願ったことにあったと記されています。

「ただし、時と機会はすべての人に巡ってくる」とは、古来から、勝利の要因として、人間の能力以上に、「天の時」「地の利」「人の和」が大切であると言われることに似ています。そしてこの書でも、「すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある」(3:1)と、すべての時が天の神の御手の中にあると強調されています。「がむしゃらに前に突き進む」ことで問題がこじれると思えるようなとき、神の時を待つ忍耐が何よりも大切でしょう。

それと同時に、私たちは生きている限り、「時と機会は・・巡ってくることを期待し、希望を持つことができます。たとえば、ナチス・ドイツの強制収容所から生還した精神科医のヴィクトール・フランクルは、「私は人生にまだ何を期待できるか」と問う代わりに、「人生は私に何を期待しているか」を問うという発想の転換を勧めます。彼は好んで次のような実話を話します。あるとき、マルセイユの港から、無期懲役の判決を受けたひとりの黒人が、レビヤタン(ヨブ記41:1などに記されている海の巨獣)という名の船で囚人島に移送されました。その船が沖に出たとき火災が発生しましたが、その非常時にこの黒人は、手錠を解かれ、救助作業に加わり、十人もの命を救うことができました。そして、その働きに免じて後に恩赦に浴することができ、釈放されたのです。彼は、囚人船に乗る前は、「生きる意味などはない」と考えていたでしょうが、この船の火災の後は、人生の期待に答えることから生きる意味が生まれるということを実感できたことでしょう。船の名のとおり、海の巨獣のレビヤタンも神の御手の中にありました。

フランクルはこの話を「それでも、人生にイエスと言う」という書に載せていますが、もともとその本のタイトルは強制収容所の囚人たちが、「私たちはそれでも人生にイエスと言おう Wir wollen trotzdem Ja zum Leben sagen」と歌って励ましあっていたことに由来します。私たちは誰も、「時を支配する」ことはできませんが、与えられた時と機会を生かすことはできます。そして、自分の人生の意味は、その連続のなかで自ずと明らかになってくるのです。使徒パウロも、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」(エペソ5:16)と勧めています。

なお、著者は引き続き、「ところが、人は自分の時を知らない。魚が災いの網にかかるように、鳥がわなにかかるように、人の子らも、災いの時が突然襲ってくると、わなにかかってしまう」(9:12)と記しています。先に著者は、多くの男性が悪女の誘惑に負けて人生を破滅させるという「わな」「網」のことを記していましたが(7:26)、私たちは「機会を生かす」ことと同時に、自分を破滅させる「時」への警戒心を持つ必要があります。私たちは自分の自制心を過信してはなりません。聖書には、ダビデ王を初めとする多くの信仰の偉人たちの失敗談が赤裸々に記されています。まして凡人の私たちは、誘惑の時と場所からは、身を遠ざけることこそが最高の知恵と言えましょう。

2.「静まった中で聞かれる知恵ある者のことばは、愚か者に囲まれた支配者の叫びにまさる」

このように著者は、力や知恵の限界を語った上で、今度は知恵の大切さを、「私はまた、日の下で知恵について次のようなことを見たが、それは私にとって大きなことだった。わずかな人々が住む小さな町があった。そこに強大な王が攻めて来て、それを包囲し、大きなとりでを築いた。ところが、そこにひとりの貧しい知恵ある者がいて、その彼がその知恵で町を救った」(9:13-15)という具体例で記します。「とりで」とは、原文で、先の「網」ということばと同じで、強大な王に包囲されて網にかかった魚のようになった小さな町が、ひとりの貧しい人の「知恵」によって解放された記録です。Ⅱサムエル記20章には、ダビデ王国を分裂させようとしたシェバがマアカという小さな町に逃げ込んだときのことが記されています。その際、ダビデの将軍ヨアブがこの町を包囲したのですが、「ひとりの知恵のある女」がヨアブと交渉して町を救いました。ただ、この女の名はどこにも記されていません。著者はそれを思い起こしながら、「しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった」と記しているのだと思われます。ただしそのように人の評価は空しいという現実があるにしても、「知恵は力にまさる」というのは永遠の真理なのです(9:16)。                                     

その上で、「ただし、貧しい者の知恵はさげすまれ、彼のことばは聞かれない。静まった中で聞かれる知恵ある者のことばは、愚か者に囲まれた支配者の叫びにまさる」(9:17)と記されます。この世の人々は、「愚か者に囲まれた支配者の叫び」にばかり注意を向け、「貧しい者の知恵」をさげすむという現実があるにしても、それでも、最終的にこの世界を動かすのは、「静まった中で聞かれる知恵ある者のことば」だというのです。これらの結論として、「知恵は戦争の装備にまさる」(9:18)と断言されます。たとえば、イエス・キリストは多くのユダヤ人たちがローマ帝国に対する独立戦争を叫んでいるただ中で、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と静かに語りました。また弟子のペテロが剣を抜いてイエスを守ろうとしたときも、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(同6:52)と言われました。その後ユダヤ人の独立運動はローマ帝国に鎮圧され、エルサレムは破壊され、ユダヤ人は流浪の民とされました。しかし、イエスの教えはローマ帝国の中に広がり続け、やがてこの強大な帝国はイエスの前にひざまずくことになります。

預言者イザヤは、救い主の働きを、「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声も聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」(42:2,3)と、そのことばの静けさを強調します。現れた救い主の姿は、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3)と描かれるような「貧しい者」で、「彼のことばは聞かれない」ように当時は思われましたが、それは、「静まった中で聞かれる知恵ある者のことば」そのものでした。そして今も、イエスのことばは世界の歴史を変え続けています。残念ながら「キリスト教は嫌い!」という人が数多くいます。それは、真理を、高飛車に独善的に説得しようとする姿勢への嫌悪感ではないでしょうか。私たちはイエスの静かで謙遜な語り方に立ち返る必要があります

ところで、「しかし、罪人はひとりでも、多くの善いものを滅ぼす。死んだはえが、香料作りの香油を腐らせ、臭くするように、わずかな愚かさは、知恵や栄誉よりも影響力がある」(9:18、10:1)とあるように、短期的に見ると、「知恵」よりも、「ひとりの罪人」「わずかな愚かさ」の方が「影響力がある」ように見えます。実際、イエスが十字架にかけられたのはそのためでしょう。群集心理は「不安」や「憎しみ」や「欲望」を駆り立てる断言調のことばに動かされるからです。しかし、「知恵の心は右に向くが、愚かな心は左に向く。愚か者は道を歩くときでさえ思慮に欠け、自分の愚かさを言いふらしている」(10:2、3)とあるように、長期的には「知恵」「愚かさ」の差は歴然としてきます。

それを前提に、「たとい支配者があなたに向かって気まぐれを起こしたとしても、自分の持ち場を離れてはならない。健やかな心は大きな罪を抑えるのだから」(10:4)と勧められます。「健やかな心」ということばは、新改訳では「冷静」と訳されていますが、本来は「いやし」を意味することばで、英語のSerenity(平安、平静)の意味が込められていると思われます。私たちは、「神様、私にお与えください。自分に変えられないことを受け入れるSerenity(平静な心)を。変えられることは変えてゆく勇気を。そして、ふたつのものを見分ける賢さを・・・」と祈る必要があります。世界は不条理に満ち、私たちに権威を振るう人の心も「気まぐれ」のような怒りをぶつけることがありますが、そのような中で、目の前の働きを投げ出すことなく、落ち着いて成し遂げなければならないからです。その際、「健やかな心」を持つことができるための鍵は、何よりもこの世界をどのように見るかの「知恵」にかかっています。

ソロモンはその箴言で、「知恵」を擬人化して、神が世界を創造されたときのことを、「わたしは神のかたわらで、これを組み立てるものであった」(8:30)と描いています。聖書はキリストを、世界の初めから存在し、父なる神とともに世界を創造された「神の知恵」として紹介します(Ⅰコリント1:24,30参照)私たちはキリストを知ることによって、世界がどのように始まり、どのように保たれ、どのように終わるかのすべてを知ることができますが、それこそが私たちに必要な「知恵」です。たとえばこの聖書を実際に記した昔の人々は、太陽が地球の周りを回っていると思っていたことでしょう。それは現代人の目からは「無知」と称されるかもしれません。しかし、地球が太陽の周りを回っているということを悟ったことが、その人の人生にどのような影響を及ぼしているというのでしょう。地球の法則を知るよりも、自分の感情に振り回されることなく、隣人を愛してゆくことの方が、はるかに大切なことではないでしょうか。

しかも、そこでは、「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ(箴言8:30,31)と、「神の知恵」であるキリストが、この世界と私たちの存在を喜んでおられたと記されています。それと対照的なのがギリシャ神話です。そこではゼウスが人間を懲らしめるためにひとつの箱をパンドラに与え、彼女が好奇心に負けてその蓋を開けるとありとあらゆる災いが世界に広がりました。最後に箱の底に「希望」だけが残り、それだけは手元に残りました。それ以来、人間は、諸悪に満ちた世界にありながら希望のみを頼りに生きていると記されます。希望が人にとっての最後に守るべき宝であるというのは、聖書に通じる話ではありますが、世界の背後に神の悪意を見るのか善意を見るのかということは人生の構えを決定的に変えるものです。

聖書によるとこの世界の悲惨は、人が自分を神のようにして、自分を中心に善悪を判断するようになった結果です。しかし、人々の忘恩の罪にも関わらず、神は人を愛し続け、ご自身の御子を送って罪の悪循環を断ち切り、世界を平和に満ちた歓喜に向って導いておられます。このように、世界の始まりと終わりが喜びに満ちているということは、私たちの悲しみは永遠のものではなく束の間の間奏曲にすぎないということを指し示しています。

3.「それゆえ成功をもたらすのに益となるのは知恵である」

著者は続けて「私は日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す誤り。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席についている。何と私は、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た」(10:5-7)と描きますが、これは権力者がこの世の秩序を自分で壊しているという不条理を述べたものです。当時は現代人には想像できないほど身分の差が歴然としていましたが、それによって社会の秩序が守られ平和が実現していたという面があります。しかし、その頂点に立つ権力者自らがそれを否定しては、社会は混乱するしかなくなります。その意味で、それは「悪」であり、「誤り」だというのです。そればかりか、権力者は、自分に媚を売るような「愚か者」「高い地位」につけることによって混乱を加速させることがあります。事実、ソロモン王の息子のレハブアムは、長老たちの助言を退け、愚か者の助言を聞くことによって国を分裂させてしまいました。

  これと同じように、「穴を掘る者はそれに落ち込むかもしれず、石垣をくずす者は蛇にかまれるかもしれず、石を切り出す者はそれで傷つくかもしれず、木を割る者はそれで危険にさらされるかもしれない」(10:8、9)とは、人が何かを成し遂げようとして、墓穴を掘り、かえって自分を傷つけることになるということの例です。「穴を掘る者」「それに落ち込む」とは、わなをかけた者が、自分のかけたわなにかかるというようなことです(箴言26:27)。「石垣を崩す」というのも、城を攻撃することに関わります。「石を切り出す」とは、家を建てるための最初の働きですが、これは希望に燃えた働きがその最初でつまずくことを指します。「木を割る」とは、たきぎの準備に関わることです。そして、その際の道具の「斧」のことが、「斧が鈍くなっているのに、その刃を研がなければ、力をさらに込めなければならなくなる」(10:10)と記されます。これは闇雲に力任せに働くことの愚かさを指摘するものです。「その刃を研ぐ」というほんの少しの回り道をすることで、ずっと楽に、また安全に仕事を成し遂げられるようになります。

そして、これらのことを踏まえて、「それゆえ成功をもたらすのに益となるのは知恵である」(10:10)と描かれます。これは、先の「知恵は力にまさる」ということばにもつながります。たとえば、日本でも少し前までは、スポーツにおいて何よりも「根性」というようなひたむきさがばかりが尊重されましたが、最近は、練習方法に様々な科学的な知恵が生かされるようになっています。無理をしすぎて身体を壊しては元も子もないからです。

「ただし、まじないをかける先に蛇がかみつくなら、蛇使いの舌は何の益ともならない」(10:11)とは、タイミングがずれることの悲劇です。蛇使いは、蛇が衝動的に動く前に蛇の気持ちをコントロールする必要があります。つまり、斧を研ぐことを厭うほどに急ぎすぎても、またタイミングが遅くなりすぎても働きを全うはできないというのです。

その上で、「知恵ある者の口から出ることばは恵み。しかし、愚か者のくちびるはその身を滅ぼす。その口のことばの始まりは愚かで、その口の終わりも忌まわしい狂気。愚か者はことばを多くする」(10:12-14)とは、愚か者の特徴は、自分がわかってもいないことをさもわかっているかのように話すという現実が古今東西どこにもあるということを描いたものです。知恵ある者は、少ない言葉で、人に恵みをもたらすことができます。しかし、愚か者は機関銃のようにしゃべり続け、人を疲れさせるばかりで、後で何を言おうとしていたかも分からなくなります。                                   

「人は自分に何が起こるかを知らない。自分がいなくなったとき何が起こるかを、だれが告げることができようか」(10:14)とは、7章14節、8章7節などで繰り返されていたことと同じです。真の知恵とは、何よりも、分かることと分からないことの区別が明確にされていることではないでしょうか。それに比べて、「愚か者たちの労苦は、自分を疲れさせるだけ。彼は町に行く道さえ知らないのだから」(10:15)と述べられますが、「愚か者」は、忙しく動き回りながら、目先のことさえ見えていないというのです。これは当時からは想像もできないほどに進歩した日本や米国で、金融機関が土地の値上がりという幻想をもとに、返済の目処も定かでない借金を企業にも個人にも促しながら、バブルがはじけたという愚かさに似ています。人は、みんな同じ方向に動いていること自体に安心を覚え、行き先がどこかが見えなくなるということが往々にしてあります。しかし、知恵ある者は、自分の人生のゴールがどこにあるかを知っています。彼は身近な町への道を知っているばかりか、天の都への道をも知っているからです。

イエス・キリストは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われました。かつて私はこのことばに独善性を感じました。しかし、このように言われたイエスが、ご自分のいのちを私たちの罪を赦すための犠牲としてささげ、天の父なる神への道を開いてくださったということが分かったとき、このことばが何ともいえない慰めになりました。また私自身が自分の愚かさや罪深さを、人生を重ねるごとに自覚させられるにつれ、このイエスのことばが自分の人生の支えになってきています。この世的な成功を保証してくれる「知恵」をイエスから求めるというのではなく、イエスご自身を知り、イエスとの交わりを深めることこそが最高の「知恵」となるのです。

「惨めなことよ、王が未熟で、重臣たちが朝から宴会をする国は。幸いなことよ、王が気高い子で、重臣たちがふさわしいときに、品位を保って、深酔いすることなく、食事をする国は。怠けていると家が傾き、手をこまねいていると雨漏りがする」(10:16-18)とは、日々の生活を大切に生きることの勧めですが、ここで、「気高い子」とは原文で、「貴族の子」または「自由人の子」と記されています。真の自由人とは、酒に溺れたり、快楽の誘惑に負けずに、「品位を保つ」ことができる人です。真の「知恵」は、私たちをそのような真の自由に導くことができます。

ただし、それは禁欲生活の勧めではありません。そのことが、「食事を作るのは笑うため。また、ぶどう酒は人生を楽しくする。そして、金銭こそはそのすべての必要に応える」(10:19)と記されます。この書では、食事やぶどう酒が肯定的に記されていますが、ここの意味は、日本の昔の歌で、「小原庄助さん、何で身上つぶした。朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした」と歌われることに似ています。目先の「笑い」「楽しみ」ばかりを求めていると、かえって「笑い」も「楽しみ」もない悲惨な生活になってしまうという警告です。                                

「思いの中でさえ王をのろってはならない。寝室の中でさえ、富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ」(10:20)とは、権力者や富む者に恨みやねたみの思いを抱きながら生きることの危うさを説くものです。私たちは、何よりも、与えられている生活に喜びを見出し、日々、自分に問われている働きを忠実になし続けることが大切なのです。権力者や金持ちへの憧れが、彼らへの怒りのもとになっている場合が多くあります。しかし、金や権力は、決して幸せを保証するものではありません。

 私たちの憲法では、ひとりひとりが幸せを追求する権利が尊重されるべきことが保証されています。不思議に、幸せになる権利ではなく、幸福を「追求する」権利と記されます。そこには、人が常に、幸せに憧れながら、渇きを覚え続けるという地上の現実が前提とされているのではないでしょうか。だからこそ個人の自由が保障され、自分の意思で自分なりの幸福を追求することが尊重されるべきなのです。そして、それこそ、こころの世界です。それに対し聖書は単純明快な答えを提示します。それは、知恵を愛することイエスを愛することによるというのです。

私たちは何の根拠もない淡い希望を抱いてこの世の苦しみを生きるのではありません。既に天上には御使いたちの歓喜の歌声が響き渡っています。キリストの復活こそ、そのことの保証です。そして私たちはそれを霊の耳で聴きながらこの地上の生涯を送ります。まさに、キリストを見いだす者は、いのちの喜びを見いだすのです。

  バッハの名曲、「主よ、人の望みの喜びよ」という日本語タイトルは、ロバート・ブリッジスの英訳から生まれています。そこにはもとのドイツ語の歌詞とは違った深い味わいがあり、イエスこそが私たちの「希望」の本質であると歌われます。イエスは人が渇望している「喜び」そのものであり、私たちの人生はイエスの王座に向かって羽ばたいてゆくものです。しかも、その出会いに憧れながら生きるその中に、この地上での日々の喜びをも見出されるのです。

             

Jesu, joy of man’s desiring          イエスよ、人の望みの喜びよ

Holy wisdom, Love most bright      聖なる知恵、最高に輝く愛よ     

Drawn by Thee, our soul aspiring     あなたに惹かれ、私たちの魂は切望する

Soar to uncreated Light          創造されたことのない光へと はばたくことを 

Word of God, our fresh that fashioned  神のことばが、私たちの肉を身にまとわれた

With the fire of Life impassioned      いのちを燃やすほどの情熱をもって

                       

Striving still to truth unknown  (それゆえ私たちは)まだ知らない真理を追い求めつつ

Soaring, dying round Thy throne     あなたの王座を切に憧れ、はばたいて行く。    

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