« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月26日 (日)

エレミヤ29~31章「人の思いを超えた主の救いのご計画」

                                              2009426

  シンガポールのショッピングセンターを歩いているとき、「エレミヤ29:11」という名の雑貨屋さんのような店がありました。それほどにこのみことばは世界中の人々から愛されています。ある教団の重責を担い続けてこられた先生が65歳の定年を機に、牧会と執筆に専念しようとしておられました。私たちは夫婦でスイスでのセミナーに参加させていただきましたが、この先生ご夫妻は、老年に向かってますます夫婦としての交わりを豊かにしようと誓い合っておられました。しかし、その五ヶ月後に、癌のために天に召されました。私たちは、「主よ、なぜなのですか・・・」と問わざるを得ませんでしたが、奥様は夫とともに、主が、「わたしは知っている・・」と力強く言っておられることばにすがり、牧会の働きを続けておられます。私たちの目には「不条理!」としか思えないことをも、主のご支配のもとのあると信じることができるとき、「今、ここで」問われている責任を担う勇気が沸いてきます。

1.「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」

29章には、預言者エレミヤが、バビロンに引かれて行った捕囚の民、長老たち、祭司や預言者たちに向けてエルサレムから書いた手紙のことが記されています。すでにバビロンには、「エコヌヤ王と王母と宦官たち、ユダとエルサレムの貴族たち、職人と鍛冶屋たち」(29:2)が住んでいました。エレミヤは、「イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)」からのことばを伝えますが、主は、「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」と呼びかけ、バビロン捕囚が主のみわざであることを強調します。そして彼らに早期の帰国を望む代わりに、「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み・・・そこでふえよ。減ってはならない・・・その町の繁栄を求め、そのために主(ヤハウェ)に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」(29:5-7)と告げます。不本意に異郷の地に連行された人々には受け入れがたい言葉だったことでしょう。

そして主は、「あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな」(29:8)と言います。偽りの預言者たちは、人々の期待するような言葉を伝えますが、それは主から与えられた言葉ではありませんでした。私たちも自分の期待に反した地に住み、期待に反する働きをせざるを得ないことがあるかも知れません。そのようなとき、都合の良いことばに耳を傾ける代わりに、今置かれている場の祝福とその寄留の地の繁栄を望むことが大切ではないでしょうか。

  そのような中で主は、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」(29:10)という具体的な希望を告げられます。あなたが今、悲惨な状況の中に置かれているなら、どのように感じるでしょう。「それでは遅すぎます!」と言いたくなるのではないでしょうか。そんな絶望感を味わう人に向かって主は、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」(29:11)と言われます。ここで主は、「わたし」ということばを強調しながら、「わたしは知っている」、また、「わたしが立てている計画」と語りながら、ご自身がすべてのことを支配しておられるということを確信させようとしておられます。しかも、そのことばは、天地万物の創造主であられる「主(ヤハウェ)」ご自身による「御告げ」であると記され、「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と解説されます。ユダの民にとって、バビロン捕囚は「わざわい」としか思えませんでしたが、それは「平安(シャローム、平和)」を与える計画であり、彼らに「将来と希望を与える」ためのものであるというのです。イスラエルの民は経済的な繁栄の中で、それらすべてを与えてくださった神のみわざを忘れました。それで主は、彼らに苦しみを与えることによってすべてが神の恵みであることを心から悟ることができるようにと導かれたのです。

 人々は主が御顔を隠しておられるように感じますが、主が与えてくださる「将来と希望」とは、「わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる」(29:12-14)と、主が彼らの祈りを聞き、見つけられることであると保障しておられます。そればかりか、主は、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集め・・・あなたがたを引いて行った先から・・・帰らせる」(29:14)と、国を失なわせ、また回復させるというわざわいも幸いも、すべて主ご自身の主導によって実現するということを強調しています。

  そればかりか、当時、エルサレムに残った人の方にこそ「将来と希望がある」と思えましたが、主は「見よ。わたしは彼らの中に、剣とききんと疫病を送り、彼らを悪くて食べられない割れたいちじくのようにする」(29:17)と、バビロンに引っ張られなかった人々こそがはるかに大きな苦しみを味わうと断言します。つまり、不幸になると思われた人が幸せになり、自分の幸せを夢見ていた人が不幸になるというのです。もし今、あなたが、「夢も希望も消えてしまった・・」と落ち込んでおられるなら、そのときこそ、主の圧倒的な救いのみわざを見る機会かもしれません。

  その上で主は、バビロンで偽の希望を語っている預言者「コラヤの子アハブと、マアセヤの子ゼデキヤ」がバビロンの王によって殺され、その名がのろいの象徴とされるようになるというさばきを宣告されます(29:21,22)。そればかりか、バビロンに住む「ネヘラム人シェマヤ」が、エルサレムの宗教指導者にエレミヤの捕縛を願ったことに対して、「見よ。わたしはネヘラム人シェマヤと、その子孫とを罰する」(29:32)と警告されます。いつの世でも、安易な希望を語る人が好まれますが、彼らは「主(ヤハウェ)に対する反逆をそそのかした」者として厳しくさばかれます。神の民にとっての敵としか思えなかったバビロンに対する勝利を告げている者が、主に対する反逆者であるというのは何という皮肉でしょう。人は誰しも、苦しみを忍ぶべきときがあります。しかし、偽教師は苦しみから逃れることばかりを教え、苦しみに人を成長させ、作り変える力があることを忘れさせます。苦しみを避けることより、苦しみを正面から受け止め、それを成長の機会とされるように祈ることの方が、はるかに大切なのではないでしょうか。

2.「その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにする」

 その上で主は、「見よ。その日が来る・・その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、主(ヤハウェ)は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する」(30:3)という希望を述べられます。「その日」とは、七十年後の救いを超えた「終わりの日」のことを指します。そして主は、「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない・・・なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか」(30:5、6)と問いながら、これを、喜びをもたらす産みの苦しみにたとえながら、「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる(30:7)と、主の最終的なさばきと同時に、イスラエルの民の救いを告げ知らせます。

 しかも主は、「その日になると・・わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。彼らは彼らの神、主(ヤハウェ)と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう」(30:8、9)と言われます。これはダビデ王国再興の希望です。そして主は、「わたしは、あなたを散らした先のすべての国々を滅ぼし尽くす・・しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが」(30:11)と言われます。「公義」とは、神の公平なご支配の原則で、しばしば「さばき」とも訳されることばです。神はご自身の命令を軽蔑する者に対して「あなたはのろわれる・・」(申命記28:15以降等)と警告しておられました。それで、神は「公義」によって彼らを、「懲らしめ」「罰せ」ざるを得ないのですが、それでもアブラハムの子孫である彼らを「滅びし尽くすことはない」というのです。

主はイスラエルの民に、「あなたの傷はいやしにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを弁護する者もなく、はれものに薬をつけて、あなたをいやす者もいない」(30:12、13)と言われますが、これは主の懲らしめを受けるとき、人間的な解決策が何の助けにもならないことを知らせるためです。しかし、それと同時に主は、「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやす」(30:17)と保障されます。ですから、「私は今、主の懲らしめを受けているのか・・」と感じておられる方に何よりも求められていることは、主のふところに飛び込むということです。

そして主は、「見よ。わたしはヤコブの天幕の繁栄を元どおりにし・・・彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは・・彼らを尊くして、軽んじられないようにする・・・」(30:18-20)という祝福の王国を実現する王のことが、「その権力者は、彼らのうちのひとり・・から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか」(30:21)と描かれます。これはキリスト預言であり、その方は神に近づくためにいのちをかけてくださるというのです。そして、主(ヤハウェ)の燃える怒りは、御心の思うところを行って、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう」(30:24)とありますが、今、私たちの主イエスキリストがこの神の怒りを引き受け、私たちに対する神の怒りを去らせて下さったのです。

その神秘をパウロは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから購い出してくださいました・・・このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶため」(ガラテヤ3:13,14)と記しています。イスラエルの民は自業自得によって神ののろいを受けました。しかし、神は彼らを見捨てることなく回復させてくださいました。今のこの時代、既にキリストが異邦人である私たちの身代わりにのろいを受けてくださいました。ですから、私たちは既に、祝福の中に置かれています私たちが受ける苦しみは、決して「のろい」ではなく、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」(ヘブル12:6)とあるように、主に特別に愛され、受け入れられているしるしです。それは、「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自身の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」(同12:10)とあるように、神の子とされていることのしるしです。

3.「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」

 「その時・・わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」(31:1)とは、エレミヤの百年余り前にアッシリヤ帝国によって滅ぼされた北王国イスラエルに対する希望です。彼らは遠い国々へと強制移住をさせられていますが、そこで、「主(ヤハウェ)は遠くから、私に現れた」というパーソナルな出会いを体験し、主ご自身による、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」という語りかけを聞くというのです。「誠実」とはヘブル語の「ヘセッド」の訳で新改訳では多くの場合は「恵み」と訳されていますが、この箇所は、「契約を守り通す愛」というこのことばの意味を端的に表現しています。

 その回復の希望のことを主は、「おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し・・・再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる」(31:4、5)と言われますが、これは、神を侮るものへののろいが、「ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない」(申命記28:30)と預言されていたことと対照的です。ただし、その際、彼らは主(ヤハウェ)に向かって、「主(ヤハウェ)よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者をと叫ぶ必要がありました(31:7)。歴史的には強制移住させられた多くの民は、アッシリヤの民族同化政策に屈服して神の民としてのアイデンティティーを失っていましたが、それでもそこには「残りの者」(レムナント)と呼ばれる信仰を全うしている人々がいました。そして、彼らの帰還のことを主は、「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦も共にいる・・・彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る・・・」(31:8、9)と約束されます。ここで主は、ヨセフの子でサマリヤの地を相続したかつての北王国の中心的な部族「エフライム」を、その後、徹底的に堕落した恩知らずの彼らを、「わたしの長子」と呼んでおられます。今も、神の民としての歩みを始めながら、この世で様々な苦しみを体験し、信仰を捨ててしまったと思えるような人がいます。しかし、その人も、「残りの者」として神の御名を呼び求めるなら、どんなに堕落した状態からでも回復させていただけるのです。

 「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」(31:15)というみことばは、イエスの誕生の際、ヘロデ大王がベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をみな殺したという記事に結び付けて引用されます。イエスの誕生は、神がイスラエルの民の悲しみのただなかに降りてこられたという意味を持っているからです。ラマはエルサレムの北八キロメートルにあるベニヤミン族の中心都市で、そこに後にバビロン捕囚として連行される人々が集められました(40:1)。ラケルはヨセフの母で、彼女からエフライムとマナセという北王国の中心部族が生まれましたから、北王国の悲しみがラケルによって表現されているのだと思われます。ただし、ここでは、「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ・・・あなたの将来には望みがある・・あなたの子らは自分の国に帰って来る」(31:16、17)と告げられます。「あなたの将来には望みがある」という表現は、先に主が、「わたしの計画は・・・あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」(29:11)と言われたことに結びつきます。

イエスの誕生の際の悲劇ばかりかイエスを主と信じることによってかえって家族や共同体に分裂と悲劇が到来すると思えることがあります。しかし、それは力の均衡によって保たれていただけの見せかけの平和が崩されるということです。しばしば、自分の回心によって家族を敵に回したと思われる人が、最終的に全家族の救いの始まりであったということがあります。真の自由と平和をもたらしてくださるのは神です。神にのみ将来と希望があります。

そして主は、今、裏切りの民、エフライムに対するご自身のお気持ちを、「わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(31:20)と描かれます。日本で唯一世界的に有名になった神学者、北森嘉蔵は、「わたしのはらわたは・・わななき」という「異常な言葉を見出して以来、私は昼も夜もこの言葉を考え続けてきた」と記していますが、その黙想から「神の痛みの神学」という名著が生まれました。それは拙著、「哀れみに胸を熱くする神」の出発点となる洞察です。それはご自身に背き続ける者のために、ご自身の御子を十字架にかける神の痛みでもあります。

ですからここでは、それに続いて、主は、「おとめイスラエルよ。帰れ・・・裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか」と彼らの回心を訴えます(31:21)。そのときに起こる不思議が、「主(ヤハウェ)は、この国に、一つの新しい事を創造される。ひとりの女がひとりの男を抱こう(31:22)と預言されます。「強い男が弱い女を抱く」というのが当時の常識ですが、神の力が、弱さの中に表されるとき、この逆転が生まれます。イエスはひ弱な一人のマリヤという女性に抱かれて成長しました。そして、今も、多くの男性の信仰は女性によって守られ支えられています

  そしてエレミヤは、主(ヤハウェ)が再び民の真ん中に住まわれるという希望を、「ユダの国とその町々で」「義の住みか、聖なる山よ。主(ヤハウェ)があなたを祝福される」と喜び合うという夢として見て(31:23)、「ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった」(31:26)と嘆きの預言者が平安に満たされる様子が記されます。

そして、「かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう(31:28)と、主がのろいを祝福に変えるという逆転が預言されます。しかも、「その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない」(31:29)と預言されますが、これは当時の人々が「なぜ父の咎の責任を子が担わなければならないのか・・・」という不満を述べていたことへの答えだと思われます。「十のことば」で、主は「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジ20:5)と警告しておられましたが、七十年のバビロン捕囚はそれの成就でした。しかし、新しい時代には、親の失敗の責任を子供が担うというのろいの連鎖は断ち切られるというのです。

 そして、このエレミヤ書に記された最も画期的な福音が、「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」(31:31)と描かれます。これこそ「新約」の由来です。それは、まず第一に、「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった」(31:32)と描かれながら、その上で、「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33)と記されます。

パウロはこの表現を用いながら、福音から離れそうになっているコリントの信徒に向けて、「あなたがたは・・・キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた・・・文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:3,6)と励ましています。律法の核心である「十のことば」「石の板」に記されましたが、イスラエルの民はそれを守ることができず、自らのろいを招いてしまいました。それをパウロは「文字は殺し」と表現しました。それに対し、この新約の時代においては、神が私たちのうちにご自身の「御霊」を与え、私たちの心を内側から作り変えてくださるというのです。もちろん、私たちが自分の心の内面を見るとき、御霊の働きを感じられないことの方が多いかもしれません。しかし、私たちが、「私の心は何と醜く、空っぽなのだろう・・・」と認めていること自体の中に御霊の働きがあるのではないでしょうか。なぜなら、パリサイ人のように、「私は善意に満ちている・・」と思っている心を神は満たすことはできないからです。

そして今、「そのようにして、人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」(31:34)というみことばが実現しつつあります。私たちは、自分の回心の体験を振り返るとき、一方的に新しい知識を教え込まれたという以前に、不思議に、心の中にイエスの救いを慕い求める思いが沸いてきたということがなかったでしょうか。それは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:1)とある通りです。そして主は、そのときに起こることを、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」と言っておられますが、それこそが十字架のみわざです。私たちは御霊の働きを誰の目にも霊的な立派な人に変身できることと考えがちですが、29章11-13節においても「わたしを見つける」ことと記され、この箇所においても「わたしを知る」と記されています。つまり、主との交わりの回復こそ御霊の働きの中心です。御霊は私たちに罪の赦しの福音を確信させるものです。

 そして、天地万物を治める主の全能の力が描かれながら、「もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら・・・イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で一つの民をなすことはできない」(31:36)といわれます。これは、もし主(ヤハウェ)が太陽も月も星もまた海をも支配しておられないとしたら、イスラエルに対する神の計画も成就されることがないと言えようが、実際、神は全宇宙を治めておられるのだから、イスラエルをも新しくすることができるという意味です。しかも主は、「もし、上の天が測られ、下の地の基が探り出されるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべての事のために退けよう」(31:37)と言われます。これは、どれほど人間の知恵が進んでも天や地の基の神秘を知り尽くすことができないのと同じように、神の救いのご計画は人間には計り知れないものであるという意味です。実際、イスラエルの不順順を見るならば、彼らは神から完全に見捨てられ、滅ぼされても当然なのに、神はご自身の民に対して、私たちの想像を超えたご計画をお持ちなのです。

そして最後に、「死体と灰との谷全体、キデロン川と東の方、馬の門の隅までの畑は、みな主(ヤハウェ)に聖別され、もはやとこしえに根こぎにされず、こわされることもない」(31:40)とエルサレム周辺ののろいの場さえも聖なるところとされるという途方もないことが記されています。エレミヤは、かつて7章30-34節で、エルサレムの南のベンヒノムの谷において異教の神モレクへの幼児犠牲礼拝が行われていることへの主のさばきがくだされることを警告していましたが、今、そののろいの谷が神の御前で聖なる場とされるというのです。なお、新約聖書で、永遠のさばきの場が「ゲヘナ」と呼ばれているのは、この「ヒノムの谷」がギリシャ語化されたことばであると言われます。

  「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う」(箴言16:2)とあるように、人は、自分の生き方が行き詰まることがない限り、自分を正当化し続け、「生き方を変えよう・・」とは思うことができません。ユダヤ人は、良きにつけ悪しきにつけ、「聖書の民」としてのアイデンティティーを三千年にわたって保ち続けていますが、彼らが偶像礼拝の恐ろしさを心から悟ることができたのは、バビロン捕囚という七十年の苦しみを通してでした。彼らは国を失うという悲劇を通して、自分たちの存在は神にかかっていると知ることができました。ただ、彼らはそれによって真に謙遜になる代わりに、誤った熱狂主義に陥ってしまいました。残念ながら今も、神を知ることがパリサイ的な律法主義につながってしまう例があります。イエスはそのような中で、「心の貧しい者は幸いです」と語りながら、神が喜ばれる信仰の基本は、自分の無力さと無知とを心の底から味わい、神にすがることにあると言われ、罪人のままの私たちを神の子として受け入れるために十字架にかかってくださいました。そして今、いつも自己正当化に走ってしまう私たちを神の前に謙遜にし、イエスの生き方に習うことができるようにと、創造主ご自身である聖霊が与えられました。イエスは裕福な者がいかに救われがたいかを語ったとき、弟子たちは、「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と問いましたが、イエスは、「人にはできないことが、神にはできるのです」とお答えになりました(ルカ18:24-27)。これこそ旧約と新約の違いです。良い教えを聞いても実行できない私たちの心の中に働きかけてくださる聖霊のみわざこそ、この時代に与えられた神の恵みです。そしてその中心は「神を知ること」に他なりません。

|

2009年4月12日 (日)

ルカ24章36-53節 「現実の生活の延長にある復活のいのち」

                                           2009年4月12日

 人は時に、「早いところこんないなや世界から抜け出したい・・・」という思いになります。またときには、「こんな交わりから離れて生きたい・・・」などと思う人さえいるかもしれません。しかし、それは復活の知らせを聞いた弟子たちにもあった心でした。しかし、イエスはそんな不信仰な弟子たちとともに歩み、「非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」という信仰の喜びへと回復させてくださいました。同じ復活のイエスがあなたの日常生活のただなかにともにいてくださいます。復活のいのちとは、この世を去ったいのちではなく、天国がこの地に下りてくるといういのちです。天国に行くのではなく、天国がここに下りてくる、それが信仰の喜びです。

1.焼いた魚を召し上がった復活のイエス

「これらのことを話している間に」(36節)とは、「週の初めの日」(24:1)と呼ばれる復活の日曜日に起こったできごとをイエスの弟子たちが話していたことを指します。イエスに従っていた三人の女たちが、イエスの葬られた墓に香料をもって出かけたところ、墓は空っぽになっており、イエスのみからだはどこにも見当たりませんでした。そこにふたりの御使いが現れ、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか・・・」と言いながら、イエスがエルサレムにのぼって来る前のガリラヤにいたときご自分の十字架と復活のことを語っておられたということを思い起こさせました(24:5-7)。ところがその報告を聞いた使徒たちは「女たちを信用しなかった」(24:11)というのです。そればかりか、その話を聞いていたクレオパともうひとりの弟子は、エルサレムに集まっていた弟子たちの集団から離れ、11キロメートル離れたエマオという村に向かっていました。たぶんこのふたりはイエスがイスラエル王国を復興するダビデの子であるという期待が、十字架によって完全に裏切られたと思い、失望のあげく弟子の集団からの離脱を決意して自分たちの家に戻ろうとしていたのだと思われます。復活したイエスはご自身を隠しながらそんな不信仰なふたりとともに歩み、彼らに聖書を解き明かししてくださいました。それは彼らを弟子の交わりに復帰させるためだったと思われます。それで彼らは、自分たちに語りかけた方がイエスご自身であることがわかったとき、御姿が見えなくなるやいなや、夜になっていたにも関わらず、急いでエルサレムの弟子たちのもとに戻りました。このような最初の日曜日の出来事を弟子たちが語り合っている中に、突然、「イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた」(36節)というのです。使徒ヨハネは、「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが」(20:19)と、戸が閉められているにも関わらず、イエスはそのような隔ての壁を越えて、突然、真ん中に現れたと強調されています。

そのとき、「彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った」(37節)とのことです。「霊」とは「御霊」と訳される言葉から定冠詞を除いたものですが、ここでは「幽霊」とか「亡霊」に近い意味が込められているのかも知れません。ただ、イエスが夜中に湖の上を歩いたとき、「弟子たちは・・・『あれは幽霊だ』と言って、おびえた」(マタイ14:26)というときの「幽霊」という言葉とは異なります。しかも日本の幽霊は、「恨めしや・・・」と出てくるので怖がられますが、弟子たちがそのように恐れたというわけではありません。それは、自滅直前のサウル王が霊媒師によって預言者サムエルを呼び出したときの現象を連想させたのではないでしょうか。とにかく、今、ここに至っても弟子たちは、預言者サムエルが死んだようにイエスも死んで、サムエルが霊媒で現れたようにイエスも現れたとしか思えなかったのでしょう。

「すると、イエスは」「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか」(38節)と彼らを叱責しました。それは弟子たちがこの世の常識にあまりにも縛られ、どれだけみことばと証しを聞いても、自分の聞きたいようにしか聞くことができなかったからです。ただイエスはそのように言われながらも、彼らが疑いから自由になれるように、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです」(39節)と言われました。ここでイエスは、「わたしの手」「わたしの足」と、十字架の生々しい釘の跡を見せたことでしょう。その上で、「わたしはそれです」と言いながら、復活の姿がその前のご自分の身体との連続性があるということを強調されました。そればかりか主は、「わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」(39節)と言われました。単に見るだけではなく、「さわって・・・」と言われたとは、何と感動的なことでしょう。「霊ならこんな骨や肉はありません」という表現に、イエスの復活の身体が、目に見える「骨や肉」からなっていることを明らかにしておられます。

ところが、「それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっている」という様子を見て、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と、復活のからだの特徴を理解させるために問いかけました。それに対して、弟子たちが、「焼いた魚を一切れ差し上げる」と、「イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった」というのです(42、43節)。復活の初日にイエスは弟子たちが差し出した焼き魚を食べたというのは何と感動的なことでしょう。

多くの人々は、「食べる」とか「飲む」ということを俗的なことととらえますが、復活のイエスはなおも食事を楽しむことができたというのです。私たちは新しいエルサレムでの祝宴に招かれています。そこでは、「神を仰ぎ見る」という霊的なことと、魚を食べるという肉的なこととが何の矛盾もなく共存していました。

霊的な生き方とは、この世離れした生き方を指すわけではありません。旬の食材を選びながら、こだわりを持って料理をし、それを家族や友人と楽しみながら食べるという生活こそが神の恵みを喜ぶ霊的な生活と言えましょう。ですから伝道者の書ではさあ、喜んであなたのパンを食べ、幸せな心でぶどう酒を飲め。神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから」(伝道者9:7私訳)と勧められています。食べることへのこだわりや喜びがないのは、霊的なことではなく、神が与えてくださった生活のリズムが狂いだしているしるしではなのかもしれません。私は、せっかく野菜や果物作りの好きな母に育てられながら、田舎から出ることばかりにあこがれていました。今になって、自分が目の前の恵みに何と無頓着であったかということを反省させられています。                         

パウロはこの肉の身体と復活の身体の対比をⅠコリント15:42節から44節で「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」と描いています。パウロは、「血肉の」に対しての「霊の」ということばを強調していますが、イエスは、ご自分は「霊」ではないと言われながら、焼いた魚を食べたというのですから、血肉のからだ」「御霊のからだ」の間には、基本的な連続性があることがわかります。

そして、「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20)とあるように、キリストの復活の姿は、私たちの復活の姿と同じ本質を持っています。つまり、私たちも、「まさしく私です」と言える手と足を持ちながら復活し、天の御国における食事を喜ぶことができます。そのときの身体は、もう朽ちるものではありませんから、生きるために食べるのではなく、太る心配もなく、ただ楽しむために食べることができるのです。

2.「モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」

その上でイエスは彼らの聖書の読み方を正そうとされます。それはキリストの復活を、聖書全体のストーリーから解釈するということです。たとえば私は聖書を読み始めたころ、様々な奇跡の物語を読みながら、感動するどころか、かえって「そんなことが実際に起こるわけがない・・・ご利益宗教と同じではないか・・・」と疑いの心がかえって強くなってしまいました。しかし、聖書全体から見るときに、ひとつひとつの奇跡に意味があり、それらに一貫したテーマがあり、また個々の不思議出来事またその必然性があったということが分かり、深い感動を覚えるようになりました。

「そこでイエス」はまず、「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした」(44節)と言われました。つまり、旧約聖書の全体には、救い主の待望のことが書いてあるのです。たとえば私はモーセ五書の結論はルカ15章の放蕩息子の記事につながるということを、最初の拙著『主があなたがたを恋い慕って・・』で記させていただき、多くの人々が心から納得してくださいました。預言者の書にキリスト預言が満ちているのは誰もが知っていることです。今も、ユダヤ人は何よりもイザヤ53章を読みながらイエスを救い主と認めることができるようになっていると言われます。また詩篇には私たちがこの社会で味わう様々な人間関係の苦しみが書いてありますが、救い主はそれをご自身で味わう者となってくださったのです。イエスの十字架のことば、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、ダビデがその千年前に記した詩篇22篇の祈りそのものです。

 また、「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」、「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり・・・」(46節)と言われましたが、実際に、そのように書いてある記事を見つけることはできません。しかし、キリストの原型となるすべての聖書の物語の主人公たちは「苦しみを受け」、その苦しみの中に一定期間閉じ込められ、それから救い出され、人々を導くという歩みをたどっています。イスラエル民族の父ヤコブは、無一文でカナンを逃れ、ハランの伯父ラバンに騙されながら多くの家族と財産を手にしました。その子のヨセフは兄たちによって奴隷として売られながらエジプトの総理大臣とされ、家族をエジプトに呼び寄せました。モーセは、エジプト王家で育てられながら、そこを追われ、四十年間も羊飼いとして生き、その後に召しだされてイスラエルの出エジプトを導きました。ダビデもまたサウルに追われて何度も死ぬ目に会いながらイスラエルの王になりますが、その後、息子と家来に裏切られ、再び復帰して王国の基礎を築くことができました。これらすべての主人公たちは、苦しみを受け、社会的には死人と同様の所に一定期間(「三日目」はその象徴表現)閉じ込められ、その後、神によって救い出され、人々を導く者とされています。それからするなら、救い主が苦しみを経ずに人々を救いに導くということはあり得ないことと言えましょう。ところが当時の人々は、救い主はイスラエルをローマ帝国からの独立に導く、連戦連勝の将軍かのように期待していたのです。そのような期待は、聖書の解釈から生まれるものではなく、この世的な常識の結果に過ぎません。イエスは確かにダビデ王国を再建する王として誕生しました。それは、御使いガブリエルが、処女マリヤに、聖霊によってみごもると伝えた際に、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主(ヤハウェ)は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」(1:32,33)と言ったことからも明らかです。旧約の偉人たちは苦しみを通して謙遜にされ、人々に祝福をもたらすことができました。イエスはすべての人の最後の敵である死の力に一時的に服することによって、死の力を打ち破り、人々を死の支配から救い出すことができました。イエスが十字架の死に服することがなければ、永遠のいのちが支配する王国を建てることができなかったのです。

 イエスは続けて、「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です」(47、48節)と言われました。これは、神がモーセを通してイスラエルに律法を与える際に、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジ19:5,6)と言われたことを思い起こさせます。つまり、イスラエルの民が神によって選ばれたのは、彼らを特権階級にするためではなく、全世界の民と創造主なる神との和解を実現する「祭司の王国」としての使命を果たすためだったのです。ところが彼らはその使命を忘れたばかりか、異邦人を軽蔑してしまいました。それでイエスが新しいイスラエルの民を創造する救い主として立てられ、キリストの弟子たちが新しいイスラエルとして使命を果たしてゆくということが語られているのです。

また、「罪の赦しを得させる悔い改め」とは、全世界の民を神のみもとに招き、神の子供として受け入れるという壮大な福音です。使徒パウロは自分の使命を、異邦人中心のコリント教会に向けて、「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」と語っています(Ⅱコリント5:19,20)。

神はたったひとりのアブラハムから神の民を創造し、小さな民族に過ぎないイスラエルの歴史を通してご自身の栄光を世界に証しをされました。神の眼差しは常に、社会的には吹けば飛ぶような小さな存在に向けられています。そして、神はひとりひとりの人生を変えるということを通して、またひとりひとりを具体的に和解に導くということを通して、ご自身の救いを全世界に広げようとしておられます。神にとって小さすぎる人は誰もいないのです。旧約聖書のひとりひとりがキリストの原型であるとともに、私たちひとりひとりがキリストの大使とされています。

3.「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」

 イエスはひとりひとりを「証人」とするために、「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)と言われました。これは聖霊が与えられるという預言です。イスラエルの民が神からの使命を果たすことができなかったのは、彼らがアダムの子孫に過ぎなかったからです。彼らは自分の欲望の奴隷であったため、どんなに良い教えを受けてもそれを無駄にしてしまいました。それに対して神は、既にモーセの時代から、彼らが神ののろいを受けて地の果てにまで散らされ、異邦人の奴隷とされて苦しんだ後、神ご自身が彼らを集め、彼らの心を造りかえるということを、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、それであなたが生きるようにされる(申命記30:6)と言っておられます。

また、彼らが主の警告されたとおり異教徒の奴隷とされた後の希望に関して、主は、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(エゼキエル36:26,27)と約束しておられました。旧約には聖霊預言が満ちています。そして、新約とはそれが成就するということです。神はご自身の霊を私たちひとりひとりに与え、私たちを内側から造り変えてくださるのです。

 「それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた」(50、51節)とありますが、多くの古い写本には、「そして、天に上げられた」ということばが追加されています。新改訳は注で記しますが、新共同訳を初め多くの英語の翻訳もそれを本文に入れています。「使徒の働き」では、この福音書の記述は、「天にあげられた日のことにまで及びました」と解説されていますから(使徒1:2)、この記事は、イースターから四十日後のことを指していることは明らかです(使徒1:3,9)。その間、マタイやマルコの記事を見ると、弟子たちはガリラヤに一度戻り、そこで再びイエスと出会い、信仰の歩みをやり直したということがわかります。ただ、ルカの福音書は、異邦人に向けて記されているため、同じカナンの地におけるガリラヤとエルサレムの往復のことなどの記事を省き、「いと高き所から力を着せられるまで、都に留まっていなさい」という点に注目されるようにしているのだと思われます。なお、ここでイエスが「天にあげられた」場所が、「ベタニヤ」となっていますが、これはオリーブ山のふもとですから、オリーブ山からの昇天を描く使徒の働きの記事とは矛盾しません。

ここで興味深いのは、イエスが天に昇り、再び彼らの前に姿を現さないということがわかっていながら、「彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」(52,53節)と記されている点です。エルサレムはイエスが殺された場所であり、宮はイエスを実質的に十字架にかけた宗教指導者たちが支配する場世です。彼らはそこに向かって、「非常な喜びを抱いて」帰って行きました。かつて、イエスの復活の知らせを聞きながらも、ユダヤ人を恐れ、戸を閉めて隠れていた弟子たちが、喜び勇んで危険な所に戻り、「いつも宮にいて神をほめたたえていた」というのです。これこそ、復活のイエスに実際に出会ったことの実です。私たちの目の前にも、常に様々な不安があり、様々な問題があります。しかし、心の中で復活のイエスに出会った人は、そのただ中で喜ぶことができるのです。そして、聖霊のみわざとは、この復活のイエスが、時間と空間を越えて、あなたの傍らに、またあなたの内側に、いつでもどこでもともにいてくださることを確信させてくれることにあります。私たちが日頃、そのようなイエスの臨在を味わうことがないのは、まだ自分が強すぎるからではないでしょうか。しばしば、「もう私の力ではお手上げです・・・」と思った瞬間に、「わたしは、あなたとともにいる」というイエスの約束が心に響くことでしょう。

この福音書はエルサレム神殿での礼拝から始まり、神殿での礼拝で終わります。それは、イスラエルの神、主(ヤハウェ)を創造主と告白し、その方を「私の父」と呼ぶという福音が、全世界に広がってゆくということの出発点だからです。エルサレムから去っていた神の栄光はイエスにおいてエルサレム神殿に戻りました。そして、イエスの十字架と復活こそ、神殿を完成に導くわざでした。そして今、エルサレムから福音が全世界に広がってゆくのです。

 盲目の詩人ファニー・クロスビーは名曲、Blessed assurance(賛美歌529)を記しました。彼女は盲目であるが故にかえって、いつも目の前に復活の主を置くことができました。彼女は、神の国の完成に憧れ、それが霊的にはすでに実現したかのように生きていました。いわゆる「天国の前味」という言葉こそ、復活の主を信頼する私たちの歩みのキーワードでしょう。それは、今、不条理に満ちたこの世界のただ中に、神のご支配を認め、愛する人との食事を楽しみ、神を賛美する生き方です。この歌では、「This is my story, this is my song, Praising my savior all the day long(これは私の物語です。これは私の歌です。私は一日中、私の救い主をたたえています)と歌われていますが、旧約聖書に出てくる人々の物語と私の人生の物語は、多くの共通点が見られます。それは、すべて、苦しみを通して栄光にいられるということです。ですから、たとい目の前に、「なぜこんなことが・・・」と思えることがあっても、心配は要りません。あなたを襲っている試練こそ、あなたが聖書に記された神に選ばれた人々の仲間とされているしるしかもしれません。キリストを信じるすべての人生の物語は、神の愛の御手の中にあるのですから。

| | コメント (0)

2009年4月 5日 (日)

ルカ22:1-23「新しい契約としての聖餐式」

                                             2009年4月5日

 「旧約と新約の違いは何ですか?」と聞かれたらどのように答えるでしょう。残念ながら、人によっては、「旧約はユダヤ教で、新約はキリスト教です」とか、「カトリックは律法主義で旧約を大切にし、プロテスタントは福音主義で新約を重んじる」などと答えるかもしれません。それからすると、旧約の解き明かしばかりをする当教会などはプロテスタントの異端児になるのでしょうか?しかし、そのような答え方は、福音の理解を根本から誤っています。旧約と新約の教えの内容は基本的に同じだというのが聖書を神の言葉と信じる私たちの立場です。使徒パウロは、その違いを、「文字は殺し、御霊は生かす」と簡潔に説明しました(Ⅱコリント3:6)。旧約の基本は、神が良い教えを人間に与えることによって人を変えようとしたという点にあり、新約の基本は、良い教えを実行できない人にそれを行う力を与えるという点にあります。私たちは小さいころから、「こうしたらいいよ・・・」という教えを数限りなく受けてきています。それは本当に私たちに役立ちます。しかし、徐々に、「あなたは何度言ったらわかるの!まるで鶏と同じじゃない・・・」と言われるようになります。イエスはそんな社会の落ちこぼれをご自分の弟子の中心に据えました。なぜなら新約とは、良い教えを実行できない者を内側から作り変えることにあるからです。イエスは最後の晩餐で、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われました。まさに聖餐式こそは「新しい契約」、新約の始まりです。あなたはそれを理解しながら聖餐式にあずかっておられるでしょうか。

1.ユダの裏切りを予知しながら過越の食事の準備を導かれたイエス

「さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた」(1節)とありますが、これはユダヤ人にとっての一年で最も大切な祭りであり、エルサレムは巡礼者で一杯になりました。その直前の日曜日、イエスはロバに乗ってエルサレムに入城し、人々は「ダビデの子にホサナ!」と歌いながら喜びをもって迎えました。そこで、「祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである」(2節)と記されます。昼の間、イエスが群集とともにいるときに捕らえるのは危険ですから、彼らはイエスをひそかに捕らえて辱め、イエスが無力な人間に過ぎないことを人々に顕にすることによって、群集に失望と幻滅を与えようと計画しました。そのため、彼らはイエスの周りに人々がいない瞬間を探し出す必要がありました。

そのような中で、「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った」(3節)と記されます。古来、人々は、ユダの裏切りの原因に関して様々な推測をしますが、ここでは、人間的な心理描写を飛び越えて、たったひとこと「サタンが入った」と記されます。イスカリオテとはユダヤの地名だと思われます。彼は、会計係を任されているほど重用されていました。福音記者ヨハネは不思議にも、これは詩篇41篇9節のダビデの告白、「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとをあげた」ということの成就であると記します(13:18)。そして、ダビデの詩篇には、そのような親しい友の裏切りを嘆く祈りが何度も出てきます(55:20など)。そればかりか、ダビデ自身も自分を信頼していたウリヤを裏切り、騙し討ちにしています。つまり、信頼している人から裏切られるというのは、残念ながら、誰にでも起こりえることであり、また自分もそのような行動をとりかねないということなのです。私たちは、ユダの裏切りの理由を考える以前に、神の御子は人が体験する最悪の痛みをすべて体験してくださったということを受け止めるべきでしょう。信頼していた人に裏切られるようなことがあるとき、裏切られた自分の側に甘さがあったとか、人を見る目がなかったなどと反省することも必要かもしれませんが、それ以前に、それはイエスご自身も体験された苦しみであるということの方に目を向けるべきです。聖書はユダの裏切りの原因を分析しないことによって、これが誰にでも起こりえることであると示唆しているのではないでしょうか。

そして、「ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した」(4節)というのです。つまり、ユダは、誘惑に負けたというより、自分から積極的にイエスを売るために行動していたのです。そして、「彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をし」(5節)ました。そして、「ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた(6節)とあるように、ユダ自身がイエスをひそかに敵の手に渡すタイミングを計ることに夢中になりました。人は、一度心に決めたことを翻すのは大変です。多くの人は、ユダが神のご計画実現のために何よりの大きな貢献をしたかのように解釈しますが、それは神を悪の創始者にする不敬虔です。そうではなく、イエスのご計画は、ユダの裏切りによっても変えられることはなかったばかりか、その悪さえも、ご自身の計画の実現のために用いることができたというように解釈すべきでしょう。

  「さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た」(7節)とは、イエスが十字架にかけられる前日、木曜日のことです。この日、人々はエルサレム神殿で過越しのいけにえをささげ、その夜に、過越しの食事をすることになっていました。ですから、エルサレムに住んでいない巡礼者にとって、過越しの食事にあずかるための場所の確保は非常に困難だったことでしょう。そのような中でイエスは、ペテロとヨハネを遣わし、「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい」(8節)と言われました。彼らが、「どこに準備しましょうか」と尋ねたのに対してイエスは、「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家にまでついて行きなさい」と言われました(9,10節)。普通、水がめを運ぶのは女の仕事ですから、その人はすぐに見つかったことでしょう。それはイエスが、事前に打ち合わせし、依頼をしていたと考えて良いかと思われます。なぜなら、弟子たちがその家の主人に、「弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる」(11節)と言うときに、「すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます」(12節)と、席の用意が既になされていると述べられているからです。イエスはそれを前提に、「そこで準備をしなさい」と命じ、「彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした」(13節)という展開になりました。

それにしても、イエスはなぜ、「どこどこの家で・・」と直接的に言われなかったのでしょう?私は最初、これはイエスの予知能力を示し、ご自分が十字架への道をすべて支配しておられることを示していると理解していましたが、今は、ここに、イエスの気遣いが見えてきました。イエスが事前に具体的な場所を述べてしまうなら、それはユダを通して宗教指導者たちに知られ、この最後の晩餐の場が襲われたことでしょう。イエスはご自分が翌日には、十字架にかけられるということを知っておられましたが、それにも関わらず、また、それを知っておられるからこそ、この過越しの食事を、弟子たちにとっての最高の思い出のときになるように、あらゆる気配りをしておられたのです。

2.「わたしは・・・この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われたイエス

 「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた」というところで、イエスは、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことかと言われました(14、15節)。「どんなに望んでいたことか」とは原文で、「切望し切望する」という言葉の重複で記され、この食事に対するイエスの思い入れが明らかにされます。それはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたことを祝うための食事でした。最初の過越のとき、イスラエルの民は、家族ごとに子羊一頭をほふり、その血を家の二本の門柱とかもいにつけ、その夜、その肉を火で焼いて家族でそろって食べ、旅の支度をしました。真夜中に、主(ヤハウェ)は、エジプトのすべての初子を打ち殺しましたが、血を塗っている家は過ぎ越されました。それは神の怒りが過ぎ越すという意味がありました。そして今、私たちの前を、神の怒りが過ぎ越します。

その際、「私たちの過越の小羊キリストがすでにほふられた」(Ⅰコリント5:7)とあるように、イエスはご自身のからだをいけにえとしながら、過越の祭りに新しい意味を与えてくださいました。パウロは私たちの救いを、「あなたがたは・・・この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」というサタンの奴隷からの解放、また「私たちもみな、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」という滅びからの解放として描きます(エペソ2:1-3)。つまり、私たちも裏切り者ユダの仲間だったのです。ただ、彼は自分が罪の奴隷であったという自覚はありませんでしたが、私たちは自分の惨めさを知っています。私たちの救いは、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですーキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(エペソ2:5,6)と描かれますが、パウロは人の復活がすでに起こったかのように、将来的な救いを保障しています。

イエスはそこでまず、「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません」(16節)と言われましたが、これは「新しい天と新しい地」、または「新しいエルサレム」での「小羊の婚姻」の祝宴が実現するときを指します(黙示録19,20章)。そして、「イエスは、杯を取り、感謝をささげて後」、「これを取って、互いに分けて飲みなさい」と言われましたが(17節)、これは過越の食事の際に四回にわたって杯を回しのみするうちのひとつです。これは他の福音書には記されていませんが、過越の食事の大切な儀式のひとつです。その際にイエスは再び、先の小羊の婚姻の祝宴への希望を込めて、「あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(18節)と言われました。これは断酒の宣言でも、翌日の十字架での死に方の予告でもなく、イエスが私たちすべての弟子たちを天の御国の祝宴に招き、みながそろうのを待ち焦がれているという気持ちを表したものです。

 その上でイエスは、過越の食事をまったく新しくすることばを述べます。これこそ現在の聖餐式で繰り返されていることばです。まずイエスは、「パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与え」(19節)ますが、この際、主はパンを手で掲げて祝福を祈り、ご自分の手で裂いてひとつひとつ弟子たちに分けてくださったのだと思われます。その意味を後にパウロは、「私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンはひとつですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」(Ⅰコリント10:16,17)と説明しています。そして、イエスはパンを与えながら、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました。

主は何と、目に見えるパンを示しながら、「これはわたしのからだです」と確かに言われました。後の時代の人々はその意味を様々に解釈しました。カトリック教会では、目に見えるパンはキリストの聖なる身体に変化したと解釈し、パンをご聖体と呼び偶像のように扱うようになりました。一方、私たち自由教会の父祖などは反対の極端に走り、パンは単なるシンボルに過ぎないからスーパーで買った食パンをナイフで切って与えても同じであると解釈しました。しかし、私たちの教会では、できるかぎりイエスの最初の聖餐式を思い起こさせるパンを用いながら、イエスのことばに解釈を加えずに、そのまま素朴に味わう形を守りたいと願っています。

しかもイエスは、「これはあなたがたのために与えるわたしのからだ」と言われましたが、これは明らかに、ご自分のからだを私たちのために十字架の死に明け渡してくださることを意味します。私たちはその尊い犠牲とされたキリストの身体をこの汚れた口から入れさせていただくのです。それは、私たちが聖なるキリストと一体とされることを意味します。私たちはパンをいただきながら、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなくキリストが私のうちに生きているのです」(ガラテヤ2:20)と告白することが許されています。

しかも、イエスは、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われましたが、それはこの聖餐式のたびごとに、イエスが私たちの罪をあがなうためにご自身の身をささげてくださったことをリアルに思い起こすことです。

3.「わたしの血による新しい契約」と言われた契約と古い契約の違いは

イエスは、「食事の後、杯も同じようにして・・・」とは、パンと同じように杯を掲げて、「感謝をささげた」いう意味だと思われます。そこで主は、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われました(20節)。文章の基本は、「この杯は、新しい契約です」からなっていますから、杯とともに覚えるべきことは、何よりも「新しい契約」です。しばしば、「あなたがたのために流されるわたしの血による」と説明された部分ばかりが一人歩きし、キリストの犠牲に習う生き方ばかりが強調される場合がありますが、原文では、「契約」の有効性を保障するためにこそキリストの血が描かれています。ですから何よりも、「新しい契約」の意味を思い巡らすことが大切です。それは、イエスが私たちに聖霊を与え、私たちを内側からイエスに似た者になるように造り変え、新しい身体に復活させ、新しいエルサレムの祝宴にあずからせてくださるというすべてのプロセスを指す約束です。つまり、この杯を受けるたびに、信仰を全うさせてくださるのはイエスのみわざであるということを覚えるのです。

 マタイでは、「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」(26:28)と記されていますが、これは、モーセがシナイ山のふもとに作った祭壇で、契約の書を民に読んで聞かせた後、ほふられた雄牛の血をとって民に注ぎかけ、「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主(ヤハウェ)があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト24:8)と言われたことを思い起こさせる表現です。つまり、イエスは、この最後の晩餐で、古い契約(旧約)に対する「新しい契約」をご自身の弟子たちと結んでくださったのです。

私たちは聖餐式のたびに、キリストがご自身の血を流しながら、「古い契約」「新しい契約」に変えてくださったことを思い起こすのです。ヘブル書の著者は、「もし・・雄牛の血・・を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけでキリストは新しい契約の仲介者です」(9:13-15)と記しています。

ドイツ語ではこの「契約」と「遺言」は同じ言葉で表されますが、宗教改革者ルターは、「契約(遺言)とは、それぞれの約束のことではなく、死に行く者の最後の、訂正不能の意志であり、それによって彼の財産が、彼が相続させたい者に委譲される」と語り、主の最後の約束を思い起こすことが聖餐式の中心であるべきだと主張しました。また彼は、イエスがパンと杯の両方を分ける際に、「わたしを覚えて、これを行いなさい」(Ⅰコリント11:24,25)と言われたことの意味を、イエスは私たちに、「人よ、この約束を見なさい。このことばによって、わたしはあなたに、あなたのすべての罪の赦しと永遠のいのちを約束し、分け与える」と言っておられることにあると解説しています。

なお、マタイ福音書では、ルカでは聖餐式の聖定の前の杯の際に言ったことばを、この契約の血の杯に結びつけて、「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(26:29)とイエスが言われたと記します。どちらにしても、このイエスの最後の晩餐は、天の御国における小羊の婚姻の祝宴と直結しているということが明らかです。私たちはこの聖餐式のたびごとに、「新しい契約」の始まりと、「契約の完成」というふたつの時を記念するように招かれているのです。パウロは、ピリピの教会に向けて、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)と言いましたが、私たちはこの聖餐式のたびに、自分の罪に嘆き、信仰の弱さを思い起こしながらも、主ご自身が私たちの信仰を完成してくださるということを堅く信じることができます。イエスは聖餐式を通して、信仰の弱い者の信仰を励ましてくださるのです。

4.「みからだをわきまえないで、飲み食いした」代表者としてのユダ

イエスは、「しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです」(21、22節)と言われましたが、これはユダが最後の晩餐に、イエスを裏切る覚悟を決めたまま陪席していたことを意味します。これはユダに最後の悔い改めを迫る言葉であったことでしょう。「そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた」(23節)とありますが、これはイエスがユダにしかわからないように、このことを言われたということを意味します。つまり、ユダにはまだ悔い改めのチャンスが残されていたのです。

しかし、ユダはイエスを裏切るという決心を固めた上でこの聖餐式にあずかり、イエスの恵みを徹底的に軽蔑し、自滅してしまいました。恵みの機会が滅びの機会となってしまったのです。後にパウロはこのユダの悲劇を思いながら、「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」(Ⅰコリント11:29)と言ったのかもしれません。なおこれは、自分の罪深さに嘆き、良心の呵責に悩む人を退けることばでは決してありません。事実、パウロはこの直後に、「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません」(同11:31)と言っています。これを結びつけると、聖餐式にあずかることができる条件が見えてきます。

聖餐式にあずかる人は、何よりも、このパンと杯が、単なる普通の食事ではなく、キリストがご自身を十字架で犠牲とされたみからだと血をあらわすものであるということを信じている必要があります。それは十字架の福音の核心を受け入れているという意味です。それと同時に、イエスが十字架にかかられたのは、自分の罪のためであると認めている必要があります。多くの人は、自分を一方的な被害者にまつりあげることで天才的であり、「私は悪くはなく、相手が悪い・・」と思い込んでいます。しかし、そのような気持ちのままこの聖餐式にあずかってはなりません。私たちは人の痛みをいつも自分の尺度でばかりはかり、本当の意味で人に共感することができません。しかし、それが行過ぎるとユダの心になります。ですからこの聖餐式にあずかるときは、自分にもユダの心があることを認めながら、同時に、ユダのようにイエスの恵みを軽蔑するなら救われないという恐れをもって臨む必要があります。

私たちが幼児や子供にこの聖餐式にあずかっていただくのをご遠慮いただいているのは、彼らがまだ自分の罪深さを反省する能力が十分に育っていないと思うからです。イエスの十字架による罪の赦しの大きさを感動しつつ、この聖餐式にあずかることができるときを期待するからこそ、その機会を遅らせるのです。それは、聖餐式のありがたさをわきまえるようになってからあずかってほしいという意味です。それからすると、大人の方でも、この聖餐式のありがたさをわきまえておられないなら、それがわかるまで待っていただきたいということになります。

聖餐式こそ初代教会以来の礼拝の中心でした。ただその中で、人々は聖餐式のパン自体に神秘的な力を求め、みことばを軽視するようになりました。宗教改革はみことばの朗読こそ礼拝の中心であるというところから始まっています。しかし、それが行き過ぎて、イエスが聖餐式において言われた「新しい契約」の意味を忘れ、文字と説教による「教え」ばかりが先行する教会が生まれてきたのかもしれません。しかし、「文字は殺し、御霊は生かす」とあるように、外からの文字による教えは私たちの心に自己嫌悪と失望感を引き起こします。それに対し、「それが良いことだとわかってはしても実行できない」と自分に失望する人に、慰めと力を与えるのが新約の福音です。聖餐式においては、イエスご自身が、私たちを生かすためのパンとなり、忘れっぽい私たちのためにご自身の血によって新しい契約を思い起こさせてくださるのです。そして、それを導くのはキリストの御霊の働きです。聖霊は、聖餐式を通してキリストとの出会いを起こし、私たちの内側に住んで神のみこころを実行させてくださいます。

| | コメント (0)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »