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2009年5月31日 (日)

エレミヤ39章~43章「神のご支配を忘れた民の悲劇」 

                                               2009531

ある方のブログに、「国家とは、他国からの核攻撃や侵略では決して滅びない。むしろ国は、内側から滅びる」と書いてありましたが、それは多くの歴史家が認めている真理です。ローマ帝国や中国の帝国が内側の腐敗によって滅亡したということはしばしば描かれていますが、人間の目には驚くほど小さな国ですら、滅ぶときは「内側から滅びている」というのが、今回の箇所で明らかになります。それは、すべての共同体、組織に適用できる原則です。それにしても、まわりの人々が、次から次と保身に走るようになるとき、自分も巻き添えになるのではないかと不安になっても当然でしょう。共同体が滅びるとき、もっとも身近な人が敵となってしまいます。しかし、だからこそ、私たちは、イエスが、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものよりも、たましいもからだもともにゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」(マタイ10:28)といわれた言葉を常に覚えたいと思います。詩篇作者も、「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい」(詩篇118:8,9)と語っているとおりです。そして、それぞれが主に信頼するとき、そこに結果的に互いへの信頼関係が生まれます。人の和を作ろうと頑張ると、人に裏切られます。しかし、人はいざとなったら裏切るということを知りながら、主に信頼するときに、人を許すことができ、また互いへの信頼が生まれます。

1.自分の命を守ろうとしゼデキヤ王の悲惨な最期

「ユダの王ゼデキヤの第九年、その第十の月に」とは、紀元前588年1月のことだと思われますが、「バビロンの王ネブカデレザルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲し」ましたが、それから約一年半後の「ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日」つまり、紀元前587年の7月に「町は破られ」ました(39:1,2)。その直前に町の飢饉が激しくなり、親が子供を焼いて食べるというほどの悲惨が起きました(哀歌2:20,4:10)。それは既にモーセによって預言され(申命記28:53)、またエレミヤも預言していたことでした(19:9)。このようになったのは、ゼデキヤが王としての責任を果たさず、ネブカデネザル王の怒りを買うような行動ばかりをとっていたからでした。

ゼデキヤは人の顔色ばかりを見て、一見柔軟に対応しますが、彼がエレミヤに本音を語ったように(38:19)、自分の身を守ることばかりを優先し、エルサレムや神殿の将来のことを微塵も考えていませんでした。実際、町が破られ、バビロンの指導者たちが突入してきたとき、「ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見て逃げ、夜の間に、王の園の道伝いに、二重の城壁の間の門を通って町を出、アラバ(ヨルダン渓谷)への道に出た」(39:4)というのです。彼らには指導者としてエルサレムの住民を守るという意識がなかったことがこれで明らかになります。

  「しかし、カルデヤの軍勢は彼らのあとを追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえて、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカデレザルのもとに連れ上った。そこで、王は彼に宣告を下した」(39:5)とありますが、ゼデキヤはエルサレムから東の方向に山を急いで下りきったのですが、そこで捕らえられ、そこからはるか北に連行され、現在のシリヤの中心部にあるリブラという町にいたネブカデネザル王の前に立たされます。

そこで、「バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの子たちをその目の前で虐殺し、またユダのおもだった人たちもみな虐殺し、ゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンに連れて行った」(39:6、7)というのです。ゼデキヤが最後に見た光景は、自分の息子が殺される場面であり、その後、彼の目がつぶされ、バビロンまで連行されます。これが、神を恐れず、人を恐れてばかりいた自己中心者の最後でした。

そして、「カルデヤ人は、王宮も民の家も火で焼き、エルサレムの城壁を取りこわした」(39:8)と簡潔に記されますが、繁栄を極めた町は廃墟とされたのです。そして、「侍従長ネブザルアダンは、町に残されていた残りの民と、王に降伏した投降者たちと、そのほかの残されていた民を、バビロンへ捕らえ移した」(39:9)とは第三次バビロン捕囚のことを指します。「しかし侍従長ネブザルアダンは、何も持たない貧民の一部をユダの地に残し、その日、彼らにぶどう畑と畑を与えた」(39:10)とあるように、彼らは決して無差別殺人をするような残虐な人間ではありませんでした。そればかりか、「バビロンの王ネブカデレザルは、エレミヤについて、侍従長ネブザルアダンに」、「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ」(39:11、12)という彼ひとりのための命令まで与えます。それは、エレミヤがエルサレムの指導者たちに速やかにバビロンに降伏することを勧めていたということを聞いていたからです。こうしてエレミヤの命は守られましたが、それは、主がエレミヤに、「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い・・助け出す」(15:20)と約束しておられたとおりでした。

 ところで、これに先立って、「エレミヤが監視の庭に閉じ込められているとき」、主はエレミヤの命を守った「クシュ人エベデ・メレク」に対して、「見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる・・・しかしその日、わたしはあなたを救い出す・・・わたしは必ずあなたを助け出す・・・それは、あなたがわたしに信頼したからだ」と言われました(39:15-18)。

 つまり、人の顔色ばかり見て優柔不断だったゼデキヤは悲惨な最期を遂げ、主に信頼し続けたエレミヤもエベデ・メレクも町が廃墟とされる中でも、その命が守られたというのです。

 2.敵国バビロンに見られた信仰と寛大さ  ゲダルヤの油断

 バビロンの侍従長ネブザルアダンは、エルサレムのすぐ北の町ラマにおいてからエレミヤを釈放しましたが、そのとき彼は、「バビロンへ引いて行かれる・・捕囚の民の中で、鎖につながれて」いました(40:1)。その際、侍従長はエレミヤに、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、この所にこのわざわいを下すと語られたが、主(ヤハウェ)はこれを下し、語られたとおりに行われた。あなたがたが主(ヤハウェ)に罪を犯して、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ」(40:2,3)と、バビロンによるエルサレム征服を、自分たちの意思以前に、主(ヤハウェ)のみわざとして認めています。これは驚くべきことで、エレミヤの預言がバビロンにまで知られていたことの証です。

  侍従長は、「もし、私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私はあなたに目をかけよう」と言いながらも、「もしここにとどまるなら」(5節別訳)、「バビロンの王がユダの町々をゆだねたシャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民の中に住みなさいと言いました(40:4,5)。それで「エレミヤは、ミツパ(エルサレムの北方約12km)にいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行って、彼とともに、国に残された民の中に住」ことになりました(40:6)。当時エルサレムは、もう人が住めない廃墟になっていたからです。

 そして、「野にいた将校たちとその部下たちはみな、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその国の総督にし、彼に、バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、国の貧民たちをゆだねたことを聞いた」ので、そこに、「ネタヌヤの子イシュマエル、カレアハの子ヨハナン」などが集まってきました(40:8)。このイシュマエルは王族の一人で後にゲダルヤを暗殺します。またヨハナンはその彼を殺して、残りの民を、主のみこころに反してエジプトに導いた人です。つまり、バビロンへの抵抗運動を続けていたゲリラ兵士がゲダルヤのもとに集まってきたのです。そこで、ゲダルヤは、彼らに誓って、「カルデヤ人に仕えることを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。私も、このように、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデヤ人の前に立とう。あなたがたも、ぶどう酒、夏のくだもの、油を集めて、自分の器に納め、あなたがたの取った町々に住むがよい」(40:9、10)と抵抗運動を諦めるように言いました。これはエレミヤが以前から預言していたのと同じことばです。また、そこには周辺の国々に逃れていたユダヤ人たちは、「ミツパのゲダルヤのもとに行き、ぶどう酒と夏のくだものを非常に多く集めた」という一時的な繁栄が生まれました(40:11、12)。

  ところがそこで、ヨハナンはゲダルヤに、「アモン人の王バアリスがネタヌヤの子イシュマエルを送って、あなたを打ち殺そうとしているのを、いったい、ご存じですか」と尋ねます(40:14)。しかし、ゲダルヤは、それを信じませんでした。ヨハナンはこのことに非常な危機意識を持っていたので、「では、私が行って、ネタヌヤの子イシュマエルを、だれにもわからないように、打ち殺しましょう。どうして、彼があなたを打ち殺し、あなたのもとに集められた全ユダヤ人が散らされ、ユダの残りの者が滅びてよいでしょうか」(40:15)とまで言いました。ところがゲダルヤはヨハナンを差し止めたばかりか、「あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っている」(40:16)と非難しました。

ゲダルヤはあまりにもナイーブだったのではないでしょうか。彼は、バビロンに抵抗運動を続けてきた人たちがすぐにバビロンに服従するなどという甘い期待をどうして持ってしまったのでしょう。しかも、隣国の王の策謀にも無頓着で、自分を支えてくれるはずの人まで退けることになってしまいました。ただバビロンの王はそのようなゲダルヤの性格を知っていたからこそ残りの民をまとめる総督に任じたのでしょう。ただ私たちは、イエスが、弟子たちを派遣するにあたり、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイ10:16)と言われたことを覚えるべきでしょう。人を疑わないのは良いことかもしれませんが、それは決して、聖書的な発想ではありません。エレミヤもかつて、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」(17:9)と記していたように、人の罪深さをよく知った上で、騙される危険をよく認識した上で、なおその人を愛してゆくというのが神のみこころです。

3.互いに傷つけあって滅びに向かうユダの民

ところが「第七の月」に、イシュマエルは十人の部下とともに、ミツパでゲダルヤのもてなしを受けている最中に、ゲダルヤを剣で打ち殺すという暴挙に出ました。彼はゲダルヤを支持するユダヤ人もバビロンの兵士も殺してしまいます。これはエルサレムが滅びた翌年あたりのことかと思われますが、定かではありません。後に、エルサレム神殿が滅ぼされた第五の月と、この第七の月は、断食をして嘆く日と定められましたが(ゼカリヤ7:5)、それほどにユダヤ人全体にとっての悲しみの日になりました。なぜなら、ユダヤの残りの民は、バビロンの王が総督に任じたゲダルヤのもとで、なお約束の地に住むことが許されていたのに、それが閉じられるきっかけになったからです。

それに続いてさらに大きな悲劇が起きます。「ゲダルヤが殺された次の日、まだだれも知らないとき、シェケムや、シロや、サマリヤから八十人の者がやって来た。彼らはみな、ひげをそり、衣を裂き、身に傷をつけ、手に穀物のささげ物や乳香を持って、主(ヤハウェ)の宮に持って行こうとしていた」(41:5)とありますが、彼らは昔の北王国の地に住んでいながらエルサレム神殿の崩壊を嘆き、廃墟となったエルサレムで嘆きつつ礼拝するためにミツパを通過しようとしました。イシュマエルは彼らを歓迎するふりをし、殺して穴の中に投げ入れました。ただそのうちの十人だけが、「小麦、大麦、油、蜜を畑に隠していますから」(41:8)と言って難を逃れることができました。これはイシュマエルが、神への熱心のためにバビロンに反抗していたのではないことを明らかにするとともに、食料に不足していたことを示します。イシュマエルは、ミツパに残っていたすべての民をとりこにして、ヨルダン川東の国のアモン人のところに向かいました(41:10)。つまり、彼は同胞を敵国に売って、自分の身を守ろうとしたのです。

  その後、「カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての将校」は、イシュマエルと戦うために出て行き、ミツパでとりこにされた民は解放されますが、「イシュマエルは、八人の者とともにヨハナンの前をのがれて、アモン人のところへ行った」というのです(41:11-15)。もしヨハナンが、イシュマエルの首をはねてバビロンの王に届けることができたなら、その後のことは違っていたでしょうが、この曖昧な勝利は、残されたユダヤ人たちを不安に陥れました。それで、「ヨハナンと、彼とともにいたすべての将校は」「イシュマエルから取り返したすべての残りの民・・・たちを連れて、エジプトに行こうと計画し、ベツレヘム近郊にまで南下しました(41:17)。彼らは、バビロンの総督とされたゲダルヤが殺された責任を、バビロンの王から問われることを恐れていたからです。

4.人間的な安心を求めて、主のみこころに反抗し、滅びる民

そのような中で、「すべての将校たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザヌヤ、および身分の低い者も高い者もみな、寄って来て、預言者エレミヤに」、「私たちのため、この残った者みなのために、あなたの神、主(ヤハウェ)に、祈ってください。ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。あなたの神、主(ヤハウェ)が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように」と願います(42:1-3)。

預言者エレミヤが、「主(ヤハウェ)があなたがたに答えられることはみな、あなたがたに告げましょう。何事も、あなたがたに隠しません」(42:4)と言ったことに対し、彼らは、「私たちは、すべてあなたの神、主(ヤハウェ)が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行います・・良くても悪くても・・・あなたを遣わされた私たちの神、主(ヤハウェ)の御声に聞き従います。私たちが・・・しあわせを得るためです」(42:4-6)と断言します。

  「十日の後、主(ヤハウェ)のことばがエレミヤにあった」ので、彼は、主のことばをそのまま告げ、「もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな・・・わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを・・救い出すからだ。わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる」と言います(42:8-12)。

 それと同時に、主の警告として、「もし、あなたがたがエジプトに行こうと堅く決心し、そこに行って寄留するなら、  あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの国であなたがたに追いつき・・・心配しているききんが、あのエジプトであなたがたに追いすがり、あなたがたはあそこで死のう・・・わたしの怒りと憤りが、エルサレムの住民の上に注がれたように、あなたがたがエジプトに行くとき、わたしの憤りはあなたがたの上に注がれ、あなたがたは、のろいと、恐怖と、ののしりと、そしりになり、二度とこの所を見ることができない」と言われます(42:16-18)。

ところがそれに対し、「ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに、「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主(ヤハウェ)は『エジプトに行って寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ」(43:2,3)と言って反抗しました。彼らは、少し前に、「良くても悪くても・・・あなたを遣わされた私たちの神、主(ヤハウェ)の御声に聞き従います」と言っていながら、自分たちの期待に反する答えを聞くと、それは主のみこころではないと拒絶しました。これこそ肉なる人間の姿です。その結果、「ヨハナンと、すべての将校は、散らされていた国々からユダの国に住むために帰っていたユダの残りの者すべてを・・・それに、侍従長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクをも連れて、エジプトの国に行った」(43:4-7)というのです。残念なことに、エレミヤも書記のバルクも、残りのユダの民を守るためにこの地に残ったのに、その同胞によってエジプトの地に連行されてしまったのです。「彼らは主(ヤハウェ)の御声に聞き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパヌヘスまで来た」(43:7)とありますが、それはナイル川河口デルタの東の地でエジプトの領地でした。彼らは、これでバビロンの攻撃を恐れる必要がなくなったと安心したことでしょう。

 ところが、タフパヌヘスで、主はエレミヤに、「大きな石を取り、それらを、ユダヤ人たちの目の前で、タフパヌヘスにあるパロの宮殿の入口にある敷石のしっくいの中に隠」させながら、「見よ。わたしは人を送り、わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える」と言われました(43:8-10)。つまり、ユダの民がエジプトに救いを求めても、バビロンの王「エジプトの国を打ち、死に定められた者を死に渡し、とりこに定められた者をとりこにし、剣に定められた者を剣に渡す」というのです(43:11)。これは、主のさばきの御手から誰も逃れることができないという意味です。この当時、世の多くの人々はまだ、バビロンのような新興国よりも伝統あるエジプトに信頼を寄せていました。ところが、主は、バビロンの王が「エジプトの国にある太陽の宮の柱を砕き、エジプトの神々の宮を火で焼こうと言われたのです(43:13)。

  ユダの残りの民は、バビロンへの恐れに圧倒されていました。せっかく主のみこころを求めながら、それを信じることができず、主の御心に反して、人の目に大国と見えたエジプトに助けを求め、そこで死ぬことになります。残念なのは、エレミヤもいっしょに連行されてしまったことです。彼がどのように死んだかはわかりませんが、彼は自ら苦しみの道を選び取りました。そこには、反抗する民に最後まで語りかけようとする神のあわれみがありました。

 自分のことしか考えられなかった臆病者ゼデキヤの悲惨な最期を見るとき、平気でうそをつく人間に対する神のさばきを知ることができます。ゲダルヤはとってもよい人でしたが、人の心を知らないために裏切られ、多くの人を道連れにしました。イシュマエルは救いようのない悪人ですが、彼のような人が混乱期には出てくるのが歴史の常です。ヨハナンも良い人なのですが、アンビバレントな信仰に振り回され、目に見える権力を恐れ、またそれに頼り、自滅します。そして、そのように、神を恐れず、人を恐れる者たちによって、エジプトに下ったユダの民は滅びます。エレミヤは迷える民の中に住むことを選び、報われない最後を迎えますが、主はそのようなエレミヤに豊かな報酬を用意しておられます。あなたはどなたの目を意識して生きているのでしょう?この世の安心を求めたいのは人間の常ですが、それでは生かされている意味がわからなくなります。しかし、神は、そんな私たちのためにご自身の御子を世に遣わし、私たちの罪の身代わりとしてくださいました。主の十字架の陰に隠れる者は、神の怒りを恐れる必要はありません。しかし、人を恐れ、世の人に調子を合わせて生きる者は、神の怒りを受けます。私たちもイエスの十字架がなければ、ゼデキヤやヨハナンのように恐れに圧倒されながら滅びに向かったことでしょう。ただ、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」(Ⅰテモテ1:15)ことのゆえに私たちは救われます。そして、その主の愛に応答しながら生きようとする人の周りには、結果的に、主にある信頼関係が生まれます。

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2009年5月24日 (日)

エレミヤ35-38章 「主のことばを軽蔑する悲劇」

                                                2009年5月24日         

 韓流ドラマなどでは良い人と意地悪な人の対比が驚くほど強調される傾向がありますが、現実の世の中のほとんどはどちらとも言えない人でしょう。今回の箇所には、「忠実な人」、「極悪人」、「気の弱い善人そうな悪人」の三種類が出てきます。この世では、この第三の分類に入る人が多いのではないでしょうか。そこには「信じたいけど、信じたくない」という「アンビバレント」(両面価値感情)な思いが見られます。たとえば、子供は親に、「尊敬しているけど、軽蔑している」などという矛盾した感情を抱きがちです。私たちの心にはいつも矛盾した気持ちが交錯しています。私たちの前には、いつも明確な主のことばがありますが、それを感謝しながら、信頼しきれない自分がいます。しかし、信仰がなければそんな葛藤も生まれないはずですから、その現実を正直に認め、主に祈ってゆくことが必要でしょう。ただし、居直ってはなりません。主のみことばを軽蔑する者には悲劇が待っているからです。                                   

1.レカブ人から学ぶ

 「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代に・・」(35:1)とは、紀元前597年の第二次バビロン捕囚の少し前の話だと思われます。レカブ人はカナンの原住民の子孫ですが、その後イスラエルの民に加わり、北王国でアハブ家を滅ぼしバアル礼拝を廃止した王エフーに協力した「レカブの子ヨナタブ」の子孫となっています(14節、参照Ⅱ列王記10:15)。彼らは紀元前723年の北王国滅亡後も、アッシリヤの民族同化政策に対抗して、主(ヤハウェ)への誠実を守り通していました。このとき、彼らはバビロンの攻撃を避けて、エルサレムに避難してきていました(35:11)。

このとき主はエレミヤに、「レカブ人の家に行って、彼らに語り、彼らを主(ヤハウェ)の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ」(35:2)という不思議な命令を与えます。それに対し彼らは、「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです」(35:6、7)と答えます。聖書には、禁酒も天幕生活も命じられてはいませんが、彼らの先祖ヨナダブは自分たちの立場の弱さや不安定さのゆえに、他民族に隷属しない自由な生き方を全うするためにはこの戒めを子孫に守らせる必要があると判断したのですが、その特殊な戒めが、二百年余りにわたって守られ続けて来たのです。

 そして、これをもとに主は、「ユダの人とエルサレムの住民」に向かって、「レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた・・・ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった・・・ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない。わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住めと言ったのに・・・」(35:14、15)と、レカブ人の従順さと比べて、ユダの民の不従順を責めます。その上で、主は、「わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らが聞かず・・呼びかけたのに・・答えなかったからだ」(35:17)と、さばきを宣告されました。

  一方、主はエレミヤを通して、レカブ人の家の者に、「あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った」と賞賛しつつ、「レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない」という約束を与えてくださいました(35:18,19)。

  昔は、多くの家に家訓のようなものがあり、それに疑問をはさむことは許されませんでした。それに対する反動なのでしょうが、今の時代は、価値観が多様化し、善悪の基準も不明確になっています。しかし、どこかで、「悪いものは悪い、お前がこの家の子である限り、これは守らなければならない・・・」という不動の軸も必要なのではないでしょうか。たとえば、神のみ教えの核心である「十のことば」など、有無を言わさず暗誦し、心に刻むべきでしょう。置かれた状況によって意見が変わる人など、信頼できないのではないでしょうか。忠実さこそ信頼の鍵です。

2.主のことばを記した巻物を燃やしたエホヤキム

「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年」(36:1)とは、紀元前605年から604年にかけての年で、バビロン帝国がユーフラテス河畔のカルケミッシュでエジプト軍を打ち破り、カナンの地に攻め上ってきたときのことです。当時の指導者たちは、百年前のヒゼキヤ王の時代にエルサレムがアッシリヤの攻撃から奇跡的に守られたという不思議がもう一度起こるという夢ばかりを追い求め、ヒゼキヤやヨシヤの時代の主の救いは、人々が、「みことばを読んで、主(ヤハウェ)に立ち返り、自分の行いを改める」ということから始まったという信仰の基本を忘れていました。

そのような中で、主(ヤハウェ)はエレミヤに、「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ」(36:2)と言われました。これは、25章3節に記されていた23年間にわたって主からエレミヤに啓示されたことばを書き留めることでした。その目的を主は、「ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる(36:3)と言われました。主は、ユダの民に災いを下すことを厭い、悔い改めの願っていたのです。

それで、「ネリヤの子バルク」が、「エレミヤの口述に従って・・・主(ヤハウェ)のことばを、ことごとく巻き物に書きしるし」ました(36:4)。このときエレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行くことができなかったので、バルクに、「断食の日に・・主(ヤハウェ)のことばを・・・ユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ」と命じます。そして、「エホヤキムの第五年、第九の月・・・エルサレムに来ているすべての民に、主(ヤハウェ)の前での断食が布告され」ました(36:9)。これは紀元前604年の12月のことだと思われます。バビロン軍はこのとき地中海岸の町アシュケロンを滅ぼしていました。エルサレムの指導者は、主の奇跡的な救いを求めて断食を布告していたのだと思われますが、先祖以来から自分たちに続いている偶像礼拝の罪が主の怒りを引き起こしているということを認めていませんでした

そのような中でバルクは、主(ヤハウェ)の宮の門の入り口の部屋から、「すべての民に聞こえるように、その書物からエレミヤのことばを読んだ」のでした(36:10)。そして、その後、バルクは、「すべての首長たち」、つまり、エルサレムに住む高級官僚たちに呼ばれて、このエレミヤの預言を語って聞かせました。「彼らがそのすべてのことばを聞いたとき、みな互いに恐れ」、バルクに、「私たちは、これらのことばをみな、必ず王に告げなければならない」と告げました(36:16)。そして、彼らは、この巻物が記された経緯を聞いた後、バルクに、「行って、あなたも、エレミヤも身を隠しなさい。だれにも、あなたがたがどこにいるか知られないように」(36:19)と言います。なぜなら、これらのことばは、王の政策に反していたばかりか、王は自分の反対者を容赦しないとわかっていたからです。

その後、王は、エレミヤの預言を聞くことになりますが、そこで恐ろしいことが起きます。「王は冬の家の座に着いて・・彼の前には暖炉の火が燃えていました」(36:22)が、「エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした」(36:23)というのです。エホヤキムは主のみことばを暖炉に燃やした極悪人として歴史に名を残すことになりました。彼は、何よりも自分の外交政策が批判されたと思って怒り心頭に達したのでしょう。しかも、一部の首長たちは、「巻き物を焼かないように、王に願ったが、王は聞き入れ」ませんでした(36:25)。エレミヤのことばは、この少し前の偉大な王ヨシヤの政策とは基本的に矛盾していませんでした。冷静に聞く人はそれがわかるはずでした。ところが、王は、「書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるよう命じ」ました。しかし、「主(ヤハアェ)はふたりを隠された」というのです(36:26)。

なおこのとき、エホヤキムはこの巻き物を焼きながら、「あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの国を滅ぼし、ここから人間も家畜も絶やすと書いたのか」と、その内容を批判したのですが、それに対し主は、「彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる」(36:30)と、彼の悲惨な死が予告されます。なお、これはエレミヤの預言に既に記されていたことであり(22:18-19)、王はそのことばに何よりも腹を立てたのでしょうが、警告を侮った者は、かえって警告どおりの悲惨を招くことになると言うのです。同時に、主は、「わたしは・・・彼らとエルサレムの住民とユダの人々に、彼らが聞かなかったが、わたしが彼らに告げたあのすべてのわざわいをもたらす」と言われます(36:31)。エホヤキムが巻物を燃やしたので、人々は主のことばを聞くことができなくなりましたが、主のさばきは、みことばを聞かなかった人にも及ぶというのです。つまり、彼は、そのかたくなさのゆえに、自分ばかりか、彼の周りの人、その後の世代の人をも道連れにしてしまうというのです。彼はエルサレムを最終的な滅亡に導いた張本人です。彼は自分の生活の安定ばかりを求め、自分を批判するものには容赦のない罰を加えた悪王の代名詞のような存在です。そして、神にとっての極悪人とは、彼のように、反省能力のない人間を指します

 その後、書記バルクは、「エレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書きしる・・さらにこれと同じような多くのことばもそれに書き加えた」(36:32)というのですが、これが現在のエレミヤ書につながっています。神のみことばは、この後も、何度も迫害の火を潜り抜けて残されてゆきます。それにしても、人々からみことばを読む機会を奪うような者は、最悪の神の敵となってしまうことを忘れてはなりません。

3.主のみことばを求めながら、語られたことばに耳を傾けないゼデキヤ

 「ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコヌヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカデレザルが彼をユダの国の王にしたのである」(37:1)とは、紀元前597年のことです。36章に記されたエホヤキムが死に、その子のエコヌヤが18歳で王に即位しましたが、三ヵ月後にバビロンに捕囚とされ、彼の叔父のゼデキヤがネブカデネザルの傀儡政権の王として立てられます。ところが、その後10年間近くの間にわたって、「彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた主(ヤハウェ)のことばに聞き従わなかった」(37:2)という状態が続きます。エレミヤはバビロンへの服従を説き続けていましたが、彼らは反抗の機会を狙い続けていました

そのような中でエジプトの勢力回復の兆しが見えます。これは34章の記事と同じときです。ゼデキヤ王は使者を預言者エレミヤのもとに遣わし、「どうか、私たちのために、私たちの神、主(ヤハウェ)に、祈ってください」(37:3)と願います。それは、「パロの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデヤ人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから退却したときであった」(37:5)とあるように、バビロンのくびきから脱するよい機会と思えたからです。ところが主は、それは一時的な気休めに過ぎず、主の計画は変わらないという意味を込めて、「見よ。あなたがたを助けに出て来たパロの軍勢は、自分たちの国エジプトへ帰り、カルデヤ人が引き返して来て、この町を攻め取り、これを火で焼く」(37:7、8)と言います。そして主(ヤハウェ)は、彼らの幻想を打ち砕くために、「あなたがたは、カルデヤ人は必ず私たちから去る、と言って、みずから欺くな。彼らは去ることはないからだ」(37:9)と言われたばかりか、「たとい、あなたがたが・・・カルデヤの全軍勢を打ち、その中に重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らが・・・この町を火で焼くようになる」(36:10)と、エルサレムの滅亡は避けがたいと言われます。

ゼデキヤはエホヤキムとは違った柔軟性と用心深さがあり、主のみことばに心を開こうという姿勢がありました。現代的には、ふだん聖書をあまり開かなくても、何か人生の危機や大きな岐路に立たされたとき、急に、「主のみこころを知りたい・・・」と言うようになったり、「先生、祈ってください」と教会に来たくなるということに似ています。あわれみ深い主は、「困ったときの神頼み」のような姿勢にも優しくお答えくださることでしょうが、しばしば、そこでは、「それは昔、聞きました。何か明るい目新しい教えはないのですか・・」と応答したくなるかもしれません。

  ところで、一時的に、「カルデヤの軍勢が・・エルサレムから退却した」ときに、「エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行」こうとします(37:11,12)。これは32章の出来事と結びついていると思われますが、詳細は不明です。ただ、この行動が、「カルデヤ人のところへ落ちのびる」ことと誤解され、「首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、書記ヨナタンの家にある牢屋に入れ」、「エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこに」いることになってしまいました(37:14-16)。

  そのような中で、不思議に、「ゼデキヤ王は人をやって彼を召し寄せ」、「主(ヤハウェ)から、みことばがあったか」と尋ねます(37:17)。それは、ゼデキヤが不安のあまり、主からエレミヤに今までとは別のみこころが示されることを期待したためと思われますが、これは正月に神社に行って、大吉が出るまでおみくじを引きたくなる心理と似ています。それに対し、エレミヤは、「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と、それまでと同じことを宣言します。ゼデキヤは、神に意図的に反抗しようとする人間ではありません。しかし、彼は、主のみこころを求めると言いながら、自分にとって都合の良いことを聞きたいだけなのです。私たちの中にも同じような心理がないでしょうか。

そしてエレミヤはゼデキヤ王に、「あなたや、あなたの家来たちや、この民に、私が何の罪を犯したというので、私を獄屋に入れたのですか。あなたがたに『バビロンの王は、あなたがたと、この国とを攻めに来ない』と言って預言した、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか」(37:18、19)と問いかけます。このときまで、二度にわたってエルサレムはバビロン軍に包囲され、王侯貴族は捕囚とされ、神殿の宝物も略奪されていたからです。この時点で、それまで勇ましいことを預言していた偽預言者の多くは、主の裁きを受けて死んでいました。私たちの周りに、耳障りの良い楽観的なことを断言する人がいたとしても、その末路を冷静に見る必要がありましょう。

その上でエレミヤは、自分を丸天井の地下牢から解放することを願います。王は、彼の願いを一部聞き入れ、「エレミヤを監視の庭に入れさせ、町からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から、毎日パン一個を彼に与えさせる」という配慮を見せます(37:20)。そして、32章の記事はこの直後のことだと思われます。ゼデキヤは自分の意図に反することを告げられても、エホヤキムのように預言者を殺すなどということはしませんでした。これは一時的に信仰から離れる決心をしながらも、聖書だけは大切に保管しようとする心理に似ていることでしょう。

4.家臣と民衆の顔色を見ながら真実に耳を傾けないゼデキヤ

 38章の出来事は、37章と同じ時期のことだと思われます。一部はそれを別の角度から述べ、また新たなことも記されています。ここでは、まず、エレミヤのメッセージを聞いた首長たちは王に、「どうぞ、あの男を殺してください。彼は・・・この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです」(38:4)と迫ります。災いを避けるために言っていることが、災いを招く預言者と非難されてしまいました。これに対してゼデキヤ王は、「今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない」(38:5)と責任逃れのようなことを言います。彼はバビロンのネブカデネザルによって王とされましたから、家臣に対しても権威を発揮はできませんでした。ただ、それにしても、彼はエレミヤを偽預言者とは思っていなかったことだけは確かですから、真に主を恐れる気持ちがあるなら、このような卑怯な言い方をするはずはなかったことでしょう。彼は、神よりも人を恐れていたのです。その結果、「彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ・・・穴の中には水がなくて泥があったので、エレミヤは泥の中に沈んだ」(38:6)という絶体絶命の状態にエレミヤは追いやられました。

 そこで、「王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは」、王にエレミヤの助命を嘆願し、「王さま。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの方を穴に投げ込みました。もう町にパンはありませんので、あの方は、下で、飢え死にするでしょう」(38:7-9)と言います。何と外国人、しかも、宦官が、エレミヤを助けるために立ち上がります。これに心を動かされたのか、王は、この人に命じて、「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい」と言います(38:10)。ゼデキヤにはそれなりの優しさと反省能力がありました。愛に満ちた人の意見には、愛で応答する姿勢が見られます。

それを受けて、「エベデ・メレクは人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着ふるした着物やぼろ切れを取り、それらを綱で穴の中のエレミヤのところに降ろし・・・エレミヤを綱で穴から引き上げ」ます。その結果、「こうして、エレミヤは監視の庭にすわっていた」という安全な状況の中に置かれます(38:11-13)。

  その後、再び、「ゼデキヤ王は人をやって、預言者エレミヤを・・召し寄せ」、「私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない」と言います(38:14)。それに対しエレミヤは、「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞きません」(38:15)と、今までの彼の態度を責めます。それに対し、「ゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓って」、「私たちのこのいのちを造られた主(ヤハウェ)は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちをねらうあの人々の手に、あなたを渡すことも絶対にしない」と言います(38:16)。ゼデキヤのことばが何とも空々しく響きますが、このことばによって、少なくとも彼は自分を誠実な人間だと思っていたことが明らかになります。

  するとエレミヤはゼデキヤに対する主のことばを、「もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない」(38:17、18)と述べますが、これは、今までに何度も述べられたことばです。エレミヤはこのことのゆえに殺されそうになっているのですが、彼は決してメッセージを変えようとはしません

  それに対し、ゼデキヤ王は、誰も聞いていないからということで、エレミヤに自分の本音を、「私は、カルデヤ人に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない」(38:19)と告げます。皮肉にも、ゼデキヤが恐れていたのは、敵であるカルデヤ人ではなく、味方であるはずのユダヤ人からの攻撃でした。これは、どこの国においても戦争末期に起こることかもしれません。民衆は指導者に早期に戦いを止めて欲しいのですが、指導者は徹底抗戦を叫ぶことによって、自分の地位を守ろうとします。民衆は、敵ではなく、後ろにいる自分の指導者からの攻撃を恐れて、何も言えなくなりますが、心のうちでは、自分たちの指導者に対する憎しみを増幅させています。それにしても、ゼデキヤのような人は、部下や民衆には命がけで戦うことを命じながら、自分は自分の命のことばかりを考えています。しばしば、勇ましいことを言う指導者は、恐怖心の虜になっている場合があります。私たちはそれを冷静に見分ける必要があります。ただ、それにしても、私たちもしばしば、自分が本当は何を恐れているのか、問い直する必要があるのではないでしょうか。

 これに対しエレミヤは、王の身勝手さを責める代わりに、「彼らはあなたを渡しません。どうぞ、主(ヤハウェ)の声、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたのいのちは助かるのです」(38:20)と優しく語ります。これは、手術を恐れる癌患者に、医者が、「今、手術を受けるなら直ります」と優しく説得することに似ています。ただ同時に、これに従わないときに起きる悲劇を、「しかし、もしあなたが降伏するのを拒むなら・・・ユダの王の家に残された女たちはみな、バビロンの王の首長たちのところに引き出される」ばかりか、彼女たちもゼデキヤに対して、彼が家臣たちの言葉に振り回されて判断を誤り、自滅したということを、「あなたの親友たちが、あなたをそそのかし、あなたに勝った。彼らはあなたの足を泥の中に沈ませ、背を向けてしまった」と歌うと告げます(38:21、22)。そればかりか、エレミヤは王に、今までと同じように、一時的な痛みを避けようとすることが、彼と家族とエルサレム全体にどれほど大きな災いを招くかと厳しく警告します(38:23)。

それに対し、ゼデキヤはエレミヤに「だれにも、これらのことを知らせてはならない。そうすれば、あなたは殺されることはない」と不当な沈黙を命じます。そればかりか、首長たちが彼と王との話の内容を尋ねても、「私をヨナタンの家に返してそこで私が死ぬことがないようにしてくださいと、王の前に嘆願していた」と答えるようにとまで命じます(38:24-26)。これは確かに、37章20節にあったように、エレミヤが王に願ったことばですが、物事の本質を徹底的に歪めて知らせ、「臭い物には蓋をする」という姿勢です。これは、手術を勧められた患者が、それを聞かなかったことにしようと心で決め、癌のことなど忘れていたら、癌細胞も自分のことを忘れてくれると信じるようなものです。しかし、問題の先送りということは、日本国中どこにでも見られることかもしれません。

そして、「首長たちがみなエレミヤのところに来て・・尋ねたとき、彼は、王が命じたことばのとおりに・・告げた」(38:27)とありますが、それは首長たちに真実に耳を傾ける気持ちがなかったからです。そして、「エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。彼はエルサレムが攻め取られたときも、そこにいた」(38:28)と記されます。まさに、彼らは主のことばに対して耳を閉ざすことによって、自滅に向かって行ったのです。

  エホヤキムは家臣の助言を無視して、主のことばが記された巻物を燃やしました。ゼデキヤは家臣のことばに押されてエレミヤの命を危険にさらしますが、同時に、主のみことばを求めようとします。一見、対照的なふたりですが、真心から主を恐れ、主のことばを聞こうとはしていなかったという点で共通しています。そして、両者とも、主のことばを軽蔑したことによって自滅しました。それにしても、ゼデキヤのように、一見、優しく柔軟な人のようでありながら、今までの行動の変化を促すような悔い改めのことばには心を閉ざすという人は意外に多いのではないでしょうか。それは、「信じたい。でも、信じるのが怖い・・・」という思いです。人は残念ながら、とことん行き詰まるまで自分の行動を変えたくないものです。だから問題を先送りしようとします。しかし、それでも、聖書を読み、また信仰者たちの証しを聞きながら、「信じたい」という思いが強くなってくることがあることでしょう。そのとき私たちは、「信じます。不信仰な私を助けてください(マルコ9:24)と祈ることができます。私たちの心は、ゼデキヤのように揺れますが、どこかで決断しなければなりません。そのとき、自分の恐れや不信仰を否定するのではなく、その弱い心を支え導かれるようにと祈るべきです。主は、あなたの心を作り変えるために、聖霊を遣わしてくださるからです。

  ところで、主は、決してエルサレムやダビデの子孫を捨てたわけではありませんでした。主は、エレミヤに、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)と語っておられました。信仰があってもないような私たちを救うために神の御子は人となってくださいました。そして、十字架にかかり復活されたイエスは、私たちの心を内側から作り変えるために聖霊をお遣わしくださいました。私たちの中にもゼデキヤの心が住んでいます。それを認め、その揺れ動く心を、主にささげましょう。主が私たちを作り変えてくださるのですから。 

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2009年5月17日 (日)

詩篇32篇「赦したいと願われる神」

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  子供はしばしば、親に叱られて大泣きした後、まるでそれを忘れたかのように身体全体で喜びを表現するということがあります。その笑顔を見ている親も、「この子は本当に反省しているのかな・・」と疑う前に、何とも可愛くてたまらないという気持ちになります。ダビデにも同じような子供の心がありました。神の前に自分の罪を深く悲しんだと思ったら、その直後に、心からの喜びを表します。そんな彼を、神は喜んでおられたのではないでしょうか。 

この詩篇でダビデは、罪を隠していたときの苦しみをリアルに表現しています。彼は神の恵みで平和と繁栄を享受できるようになったとたん、傲慢になり、家来を戦争に出しながら悠然と惰眠を貪り、自分の欲望のまま人妻を奪い、挙げ句の果てにその夫を計略にかけて殺してしまいました。そして、その上、彼は預言者ナタンに罪を指摘されるまで約一年間近く、罪を隠し通していました(Ⅱサムエル11,12章)。このように極悪非道の人間が、なぜ世界中の人々の尊敬を集めているのでしょう。私たちの救い主も、「ダビデの子」と呼ばれているほどです。

人は、どこかでとんでもない失敗をします。その人の価値を決めるのは、その失敗よりも、それをどのように反省し、またそれが人々にどのような益をもたらしたかということではないでしょうか。ダビデの罪は今、世界中の人に知られていますが、それを通して人は、罪を赦したいと願って近づいてくださる神に出会うことができるからです。

                     

1.「黙っていたとき、私の骨々は疲れ果てました」

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主(ヤハウェ)が、咎をお認めにならない人」(1、2節)とありますが、ダビデにとっての何よりの「幸い」とは、自分の「そむき」「罪」「とが」の問題を神ご自身が解決してくださり、神との関係が回復されたことでした。ここには罪に関する三つの類語が記されます。第一の、「そむき(ペシャー)」とは、支配者に対する反抗、つまり、神の教えに背くことです。第二の、「罪(ハター)」とは、的を外すこと、つまり、神の教えを達成できないことです。第三に、「とが(アボン)」とは、ねじまげること、つまり、神の教えから逸脱することです。またこれは「とがめ」とも訳され、誤った行為への処罰の意味を含みます。これらはすべて神の教え」との関係で定義されるもので、この世の罪の概念とは異なります。この世で罪人として裁かれながら、神の赦しを体験していることがあります。反対に、この世で「罪」でなくても、神の目に「罪」となることがあります。

ところで、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)とあるように、ダビデの罪は、その後の彼の家庭に大きな影を落としました。彼の息子のアムノンが腹違いの自分の妹を強姦し、彼女の実兄のアブシャロムがアムノンを殺し、アブシャロムは父ダビデに対してクーデターを起こし、それが一時的に成功し、ダビデは都落ちをせざるを得なくなりました。しかし、このような悲劇の中にあっても、神はいつもダビデとともに歩んでくださいました。そして、試練を通れば通るほど、神ご自身がダビデの家を堅く建ててくださるということが明らかになってゆきます。私たちの人生にも、自業自得での苦しみや試練があることでしょう。「後悔してもしきれない・・・」などということがあるかもしれません。しかし、神から罪の赦しを受けた者は、どのような困難にも立ち向かって行きながら、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と言うことができます

なお、ダビデは「幸いなことよ」と言いながら、「その霊に欺きのない人は」と付け加えています。それは、自分の過ちや心の醜さを正直に認める心の状態を指します。パウロは、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません」(Ⅰコリント11:31)と言いましたが、パリサイ人は自分を義人であると自任することで罪あるものとされ、取税人は「こんな罪びとの私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈ることによって、神の前に義とされたということを忘れてはなりません。自分で自分を義とする者は、自分を偽っています。自分の「霊を欺いている」のです。

 ところで、ダビデは、神の前に自分の罪を認めていなかったときの痛みを、「黙っていたとき、私の骨々は疲れ果てました。一日中、私がうめいていたためです。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の潤いは、夏のひでりで枯れ果てたからです」(3,4節)と告白しています。当時のイスラエル地方での最も恐ろしい災害は日照りでした。それで、地獄の苦しみは、炎の中で自分の身体中の水分がすべてなくなってしまう状態で表されます。イエスは金持ちとラザロのたとえで、金持ちはハデスで苦しみながら、「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」と訴える様子を描いておられます(ルカ16:24)。つまり、ダビデが自分の罪を隠していたときに味わった苦しみは、神の来るべきさばきを事前に心に知らせる機能だったのです。

ダビデは同じような苦しみを詩篇38篇で、「御怒りのため、私の肉には健全なところがありません。私の罪のため、骨にもやすらぎがありません。私の咎が、この頭を圧倒し、重すぎる重荷のようになっています。私の傷は、うみただれ、悪臭を放ちました・・・私はうなだれ、ひどく打ちのめされ、一日中嘆いて歩いています。腰は焼けるような痛みに満ち、私の肉には健全なところがありません」(3-7節私訳)と描いています。これは当時、感情の坐が腰にあると理解されていたからでもあります。

このような反応が起こるのは、私たちの心の中に、神の怒りを感じさせる受信機のような機能があるからです。それは「良心の呵責」と呼ばれます。英語のconscienceはラテン語に由来しますが、語源的には「共に知る」ことを意味し、自分の中にいるもうひとりの自分が自分を非難しているような状態を指します。

なお、仏典の涅槃経に阿闍世王の父親殺しの記事があります。彼は性格が邪悪で殺生をするのが好きで、好き勝手ができる王に一日も早くなりたいと思い、釈迦の友であった善良な父親を幽閉し、餓死させてしまいます。彼はその後、心に後悔の焔が燃え上がり、何も楽しむことができなくなったばかりか、身体中にできものができ、人を寄せ付けないほどの悪臭を放ちました。彼は「私は今すでに、この身で報いを受けた。地獄の報いも間近いのだろう」と夜も眠られないほどに悩み苦しみました。家臣たちは王に向かって、「地獄などは、人間の作り話に過ぎない。善悪も罪もない」という趣旨の説明をして慰めようとします。それを現代文で要約すると、「宇宙の存在はすべて自然の理に従って動いている。蜘蛛は蝿を平然と捕らえ、ライオンは鹿を平然と殺す。自然界に悪や罪は存在しない。人間だけが殺生に関し罪ということばを振りかざして騒ぎ立てる。罪とは客観的な実在ではなく、人間の偏見の産物に過ぎない。ゆえに、現世にも罪は存在しない」ということだと言われます。

それに対し、釈迦の弟子は、王が慙愧(ざんき)の念に苦しんでいること自体を評価して、「慙とは人間に対して恥じること、愧とは他人に向かって恥を表すこと、慙とは人間に対して恥じること、愧とは神に対して恥じることである。これをまとめて慙愧という。慙愧のないものは人と呼ばれず、畜生と呼ばれる。慙愧あるがゆえに父母や年長者を敬う気持ちが生じるのである」と言っています。そして、この慙愧の念が、阿闍世王を釈迦のもとに導き、救いを得たという物語ができています。浄土真宗の開祖親鸞は、この極悪非道の王が釈迦に救われたという物語に深い慰めを得ます。興味深いのは、創造主をもたない仏教の教えにおいてさえも、罪責感のゆえの苦しみというのが救いの大きなテーマとなっていることです。それは、人がみな「神のかたち」に作られていることの証拠です。

  

2.「わたしのそむきを主(ヤハウェ)に告白しよう。」

  ダビデは、「私は、罪を、あなたに知らせ、咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきを主(ヤハウェ)に告白しよう」と。すると、あなたは 私の罪のとがめを赦されました」(5節)と記していますが、バテ・シェバを奪いウリヤを殺した事件の際、彼は、罪を自分から告白したわけではありませんでした。彼の罪の告白は、神が預言者ナタンを遣わし、それを指摘した後のことでした。それにしても、私たちは自分の罪を指摘されても素直に謝ることはまずできません。精神科医のポール・トゥルニエは、「人間の裁きはまったく逆に、自分を正しいとする断固たるメカニズムを働かせる」と言いましたが、まさにそのとおりです。人類の父祖アダムは、神から罪を指摘されたとき、女と、女を造った神を非難するばかりで、自分の罪を認めることはできませんでした。ですから、私たちが、他の人にその罪を認めさせたいと思うとき、何よりも、その罪を赦そうとする愛を伝えている必要があります。「謝ったら、赦してあげる!」というのではなく、「あなたを心の中で赦したい。だから謝って・・・」という気持ちが必要です。

イエスの十字架は、何よりも、神の側から罪人との和解を望まれたということの現われです。そのことをパウロは、「ちょうど、神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:20)と記しています。

預言者ナタンは、権力者の横暴に関してある例話を語りました。ダビデは自分のことが語られているとは全く気づかず、「主(ヤハウェ)は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」(Ⅰサムエル12:5)と反応しました。人は自分が責められていると感じないときには問題の本質を見る余裕ができます。このナタンの知恵によって、ダビデは自分の罪を自分でさばく余裕が生まれたのです。主(ヤハウェ)はご自身の側からダビデとの交わりを回復したいと思われ、預言者ナタンを遣わし、罪を指摘されました。主は、ダビデを赦したいと願われたからこそ、そうされたのです。

しかも、ダビデがナタンの指摘を素直に受け入れることができたのは、彼自身が自分の罪を隠していることの苦しさに耐えられなくなっていたからでした。5節にあるように、ダビデが主体的に自分の罪を告白できたと記される背景には、神ご自身の側から彼をあわれんでくださったことと、神が彼の心の中に良心の呵責という苦しみを与えられたことの両方が作用しています。ここでも、ダビデは「罪」「とが」「そむき」という三つの類語を用いながら、自分がウリヤを殺したことは、何よりも、神に対する罪であることを明確にしています。残念ながら、世の人々は良心の呵責のゆえに、「・・・を供養しなければ」などという偶像礼拝に走ります。しかし、善悪の基準を作っておられるのは神であり、同時に、だからこそ、罪の赦しは、創造主のみができるということが明らかになっています。

先の仏典では、阿闍世王が釈迦を訪ねたとき、釈迦が彼に与えたのは、罪の赦しではなく、発想の転換の教えでした。それは、彼を苦しめていた善悪の価値観が無常であり、実体のないものであるという不思議な説明でした。それに対して、釈迦よりはるか昔に生きていたダビデは、「わたしのそむきを主(ヤハウェ)に告白しよう」と言って、その結果、「すると、あなたは、私の罪のとがめを赦されました」と告白することができたのです。罪責感に悩むとき、その感情を分析し、「見方を変えよう」とすることは、神から与えられた受信機の機能を否定することになります。何よりも大切なのは、罪を赦す権威をお持ちの方に罪を告白し、赦しを受けるということなのです。

  神の赦しを受けたダビデは、「それゆえ、聖徒は、みな、お会いできる間に、あなたに祈りましょう。大水があふれるときも 聖徒に及ぶことはありません。あなたこそが私の隠れ場。苦難から私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」(6、7節)と告白します。不思議なのは、これほど恐ろしい罪を犯したダビデが自分のことを「聖徒」と呼んでいることです。神の変わることのない、裏切ることのない誠実な愛は、ヘセッド(恵み、慈愛)と呼ばれますが、ここでの「聖徒」ということばの語源も同じです。ダビデは人間的には不誠実極まりないことをしましたが、それでも、決して別の神々に浮気をすることもなく、ひたすら神のさばきを恐れ、神の赦しを願い、神にすがり続けたという意味で、神に対して誠実な人、つまり、「聖徒」となることができました。

しかも、「お会いできる間に」とありますが、私たちは罪に居直り続けると、良心の働きが正常に機能できなくなります。聖書には、「良心が麻痺する」(Ⅰテモテ4:2)、「良心が汚れる」(テトス1:15)などという表現がありますが、良心の声を無視し続けると、神の怒りさえ感じられなくなるのです。皮肉にも、地獄は、地獄を感じない人のために存在しているという面があるのではないでしょうか。その意味で、自分の心に地獄を感じる人は幸いです。

そして、「聖徒」には、「大水があふれるときも、聖徒に及ぶことがありません」とあるような恵みが施されます。それは、夏の間枯れている川が、冬の雨季になると予想もつかない鉄砲水になって人や家畜を飲み込む、そのような悲劇から守られるという意味です。そのように、主はご自分の聖徒を破局から守ることができるのです。それが、「あなたこそが私の隠れ家」と言う告白に結びつきます。しかも、そのように主は、私たちを「苦難から守る」ばかりか、反対に積極的に、「救いの歓声で、私を取り囲む」という最終的な喜びを保障してくださいました。これは戦いの勝利を祝う勝ち鬨で囲まれているイメージです。神に従う者に対して、パウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(Ⅱコリント5:14)と言いましたが、それこそ、罪の赦しの確信が与えられていることの意味です。

  ダビデの誠実さとは、叱られても、さばきを宣告されても、子供が父親のふところに飛び込むように、神から目をそむけず、神のふところに飛び込み続けたということです。この世的に有能で信頼できる人は数多くいます。しかし、神が求めておられるのは、そのような正しさである前に、何があっても神にすがり、神との関係を第一にしようとする姿勢です。そして、罪の赦しとは、何よりも、そのような神との交わりの回復にあります。私たちは自分を見ると、「これでは神に愛される資格がない・・」などと思います。しかし、しばしば、親にとっては不出来な子供ほど可愛いということもあります。叱られても、叱られても、親にすがりついてくる子供を、親は決して憎むことはできません。叱りながらも、「なんて可愛い子なんだろう・・・」と思うことでしょう。神も同じではないでしょうか。

3.馬や騾馬のように悟りのない者であってはならない。

   「わたしは、あなたを賢くし、行くべき道を教えよう。わたしの目をあなたの上に置き、助言を与えよう。馬や騾馬のように悟りのない者であってはならない。それらは、くつわや手綱で押さえなければ、あなたに近づかない」(8、9節)とは、神の側からの語りかけです。「わたしの目をあなたの上に置き」とは、神が私たちをご自身の愛の眼差しで導かれるような様子を指しています。それは、権力者が自分の眼差しで部下をおびえさせるようなものではありません。神は、脅しをかけたり、力ずくで人を動かす代わりに、私たちが主体的に神の愛に応答するのを待っておられます。それと対照的なのが、馬や騾馬です。特に騾馬は雄ロバと雌馬の交配によってできた中間種で、強健で耐久力が強く、粗食に耐えるため珍重されましたが、感受性に乏しい動物でした。アブシャロムは騾馬に乗って逃げているとき、頭が木に引っかかりました。しかし、彼を乗せた騾馬はそのまま走り去ってゆきました。馬も騾馬も、くつわやたずなで頭を動かされないと方向を変えることができません。そうなってはならないのです。

  神との交わりが深くなった者は、心が敏感にされます。感受性が豊かにされます。それは神が私たちを力ずくで動かさないようになるための前提です。ダビデは良心の呵責で、身体全体が熱を発するほどの苦しみを味わいましたが、それは彼の良心がきちんと機能していたことのしるしです。悪いことをしても悪いと感じなくなった人は、救いようがなくなります。そのような人は、神を求めようとする自分の心を麻痺させてしまっているからです。

「悪者には苦痛が多い。しかし、慈愛(ヘセッド)は、主(ヤハウェ)に信頼する者を、取り囲む。主(ヤハウェ)にあって楽しめ。喜び踊れ。正しい者たちよ。喜びの声をあげよ。すべて心の直ぐな人たちよ」(10、11節)とありますが、まず「悪者」は、「主(ヤハウェ)に信頼する者」との対比で用いられています。「信頼する」とは、幼児が母の胸に抱かれて安心している姿であり、「悪者」とは、何よりも神に信頼できない姿を指しています。字義的には「悪者」の反対語は、「正しい者」ですが、ここでの「悪者」は、この世の基準と違い、自分が正しいと思い込んでいる人、また自分には神の赦しとあわれみなど必要がないと思い込んでいる人と言えましょう。なぜなら、「主(ヤハウェ)にあって楽しめ、喜び踊れ」と勧められている「正しい者」とは、文脈から明らかなように、悪を行わなかった人のことではなく「そのそむきを赦され、罪をおおわれた」人、また、自分の「罪を神に告白し、咎を隠さなかった」人を指しているからです。

 この詩で用いられている罪の三つの類語、「そむき」「罪」「咎」はすべて、神の赦しとあわれみの対象となっています。しかし、「霊に欺きのある人」はあわれみの対象ではありません。その人は、神にも人にも自分を偽っています。イエスが誰よりも厳しく立ち向かったのは、パリサイ人の偽善です。ですから、この詩は、「喜びの声をあげよ。すべて心の直ぐな人たちよ」で締めくくられます。「心の直ぐな人」とは、心が神に対してまっすぐに開かれていることを意味します。それは神のみ教えにすなおに反応する心です。それはまた、たとえば、子供が、親の愛を疑うことなく、親に心を開き、自分の気持ちを正直に訴えるとともに、その話しを真剣に聞きような心の状態です。

そして、「悪者には、苦痛が多い」と記されているのは、悪者の心は、「悟りのない馬や騾馬」のようであるからです。競馬などで、たたかれながら必死に走っている姿が痛々しく見えることはないでしょうか。頑固な人は、いつも、神からの愛の鞭を受けないと、生き方を変えることができません。そればかりか、幸いを与えようとする神のみ教えを軽蔑して、自分の欲望のままに生きて、進んで落とし穴に落ちたり、人との争いを作ったりします。放蕩息子は苦しみの中で父の愛に立ち返ることができましたが、そのようにできない人は自滅するしかありません。

神に心を閉ざしながら生きる人は、外科手術を怖がって、痛みを抱えたまま、病状が悪化するのにまかせて生きるようなものです。しかし、主(ヤハウェ)に信頼して、自分の罪をいつでもどこでもすなおに告白する人に対しては、「主の慈愛(ヘセッド)が(その人を)取り囲む」というのです。そして、この詩は、「楽しめ」「喜び踊れ」「喜びの声を上げよ」という勧めが最後に記されていますが、これは自分の罪を悲しむことと矛盾することではありません。それは、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)とあるとおりです。主にあって悲しむ者は、主にあって楽しみ、喜び踊ることができるのです。

私は昔、とんでもない罪を犯しながら、「神は私を赦してくださった・・・」などと図々しく言っている人を見ながら、「簡単に罪が赦されては、神の正義が成り立たない。何よりも本人が自分の罪の重大さを認識し、心から悔い改めるのでなければ同じ失敗を繰り返すだけだ。神の赦しは、人の悔い改めに対する応答としての神からの恵みなのだから・・」と考えたことがあります。しかし、ある方が開いてくださったみことばが私の誤解を正してくれました。

そこには、「主(ヤハウェ)はあなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主(ヤハウェ)は正義の神であるからだ」(イザヤ30:18)と記されていました。「神の正義」とは、神のさばきではなく、救いに値しないような者にご自分の方から近づき、恵み、あわれもうとすることに他なりません。この最初の文はNIV訳では、「Yet the LORD longs to be gracious to you(主はあなたにあわれみ深くありたいと切望している)と訳されています。神の正義とは、罪人を赦すことに現されているというのです。これは、何という慰めでしょうか。

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2009年5月10日 (日)

ルカ20章19-44節「理想と現実のギャップを超えた神の支配」

                                                2009年5月10日     

  この世の中には、理想主義者と現実主義者の意見の対立が常にあります。私が神学校で学んだとき、同じ神学生仲間に、理想主義者的なひ弱さを感じました。しかし、現実の牧会の働きのなかで、教会の現実的な成長が見られない中で、大きな焦りを感じました。しかし、聖書を読めば読むほど、神はご自身の理想を常に守りながら、罪にまみれた現実の人間社会を、驚くほどの忍耐を持って導いておられることに感動を覚えました。その中で、「神の国」というのは本当に不思議な概念です。それは、平和が世界に満ちるという究極の理想の表現であるとともに、罪人の集まりに過ぎない教会という共同体に既に実現しているものでもあるからです。教会にはとてつもなく面倒な罪人の交わりという現実がありますが、同時に、そこにはやがて愛の交わりとして完成するものの「つぼみ」を見ることもできます。使徒信条にも、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを・・信ず」と告白されているように、聖霊への信仰告白と教会への信仰告白は切り離せない関係にあります。主のことばが語られている教会は、どんなに矛盾と問題を抱えていたとしても、「キリストのからだ」であり、「聖霊の宮」なのです。信仰とは、目に見える現実を超えた姿を見させてくれるものです。それは、この面倒な現実の社会にも当てはまります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)とあるように、この世はキリストがいのちをかけてくださった愛の対象なのです。この世の矛盾や醜さのゆえにこの世を軽蔑する者は、神のみわざを軽蔑する者です。この社会が、神の愛が注がれている世界だと認めるなら、私たちはこの世の中で、生きていることの喜びを味わうこともできます。私たちの神は、この世を確かに、支配し、完成に導いておられるからです。

1.「カイザルのものはカイザルに・・神のものは神に返しなさい」

「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた」(19節)とありますが、これはイエスが「ぶどう園のたとえ」を用いて、彼らが神から管理を任された神殿を自分の私利私欲を見たす場に変えてしまっていることを非難したことへの反応です。彼らはイエスに対して怒りを燃やしながらも、民衆の顔色を見て何もできませんでした。そのような中で、「さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者(スパイ)を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った」(20節)というのです。当時の宗教指導者たちにとってローマ総督は敵でしかなかったはずですが、彼らはイエスを排除するためには敵の権力をも利用しつくそうとしたのです。

  イエスにとっても、当時の宗教指導者にとっても、「主(ヤハウェ)は王である」(詩篇96:10)という告白こそが信仰告白の核心でした。ところが、彼らの時代は、「ローマ皇帝こそが王である」と言わなければ生きられませんでした。その象徴が税金を払うということでした。イエスを「ダビデの子にホサナ」と叫んで迎えたエルサレムの群集も、この支配から解放されることを望んでいました。そのような中でその間者(スパイ)たちは、イエスを尊敬しているふりをして、「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」と言います(21節)が、皮肉にも、彼らこそが人を「分け隔て」し、「真理に基づく」代わりに、民衆を恐れて、イエスを罠にかけることばかりを考えていたのでした。

間者(スパイ)たちはイエスに、「私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」(22節)と尋ねましたが、これはどちらに答えてもイエスが窮地に追いやられる質問でした。もし、イエスが、「税金を納めることは、律法にかなっていると答えるなら、宗教指導者たちはイエスをローマ帝国の支配にへつらう偽指導者として、群集に紹介できます。すると人々はイエスに失望したことでしょう。しかし、反対に、「律法にかなっていないといえば、イエスをローマ帝国への反乱を扇動する革命家としてローマ総督に訴えることができます。彼らは、今までのイエスの言動から、イエスをローマ帝国の敵として訴えることができると思い、そのような答えを引き出すためにイエスを持ち上げるようなことを最初に言ったのだと思われます。

ところが、「イエスはそのたくらみを見抜いて」「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と彼らに反対に質問しました(23,24節)。このとき彼らは、自分たちが嫌悪するものを持ち歩き、それに頼っていることを認めざるを得なくなりました。そこには、「神の子のカイザル」という記述とともに彼の肖像が刻まれていました。それはまさに偶像のようなものでした。しかし、それは必需品でもありました。神殿に献げる時だけは、両替人を用いてその銀貨を両替しましたが、それで商業取引はできません。しかも、彼らの多くは、ローマの軍隊が守る通商路の恩恵を受けていました。この銀貨は、生活を保証するシンボルのように見えました。

彼らはしぶしぶ、「カイザルのです」と答えざるを得ませんでした。それに対しイエスは、「税金を納める」という表現を避けながら、「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました(24,25節)。イエスが、「カイザルのものはカイザルに」(21)と言った時、税金を納めることを正当化しているようでいて、同時に、銀貨はカイザルの国の領域における便宜的な手段に過ぎないということを言っておられます。しかも、彼らはそれに依存して生きているのですから、税金を拒む権利はないと言えましょう。しかも同時に、イエスは、「そして神のものは神に返しなさい」と言うことによって、彼らのこころのあり方を問い直させました。それはこの国の真の支配者はカイザルである前に、神であられることを告白するようにという勧めです。彼らは口先では神をあがめていましたが、心の中では自分を神のようにして、自分の都合を優先して生きていました。

彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった」(26節)とありますが、イエスはしばしば、「あれかこれか」の選択を迫る質問に、まったく別の角度からの答えを示されます。今も、さまざまな生き難さを抱えられた方は、多くの場合、「白か黒か」という二者択一の考え方の中でにっちもさっちも行かなくなっています。しかし、それこそサタンの罠ではないでしょうか。どちらの選択にも問題が見えるときは、一呼吸おいて神の前に静まることが大切です。そして、問題を別の角度から見るという知恵を求めることです。

イエスの当時、ローマ皇帝の支配から独立さえできればみんな幸せになれると思われていましたが、イスラエルはその百七十年ほど前に独立国家を形成しながら、内部の権力争いで自滅したばかりでした。当時の政治状況では、ローマ帝国を否定してしまっては、かえって社会全体が不安定になり、より大きな悪が生まれる可能性がありました。ですからパウロも横暴な皇帝ネロの支配下にありながら、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです・・・彼は無意味に剣をおびてはいないからです」(ローマ13:1,4)と剣による支配にさえ理解を示しています。

イエスの教えは、現在の経済制度にも適用することができます。たとえば、自由主義経済は、必ず勝者と敗者が生まれる弱肉強食の世界です。過当競争のために生産すれば生産するほど赤字になるような互いに互いの首を絞めあっているようにしか思えないときもあります。しかし、自由競争を完全に否定したら、少し前の中国や現在の北朝鮮のように、権力者が資源の配分から消費までをコントロールせざるを得ません。それは権力者の横暴と賄賂を生み出すシステムに他なりません。すべての物に、自由な市場システムによって値段がつけられるというのは、今考えられる最も効率的な経済システムです。ただ、そこでは、お金がすべてのバロメーターとして正当化されます。儲かることが正義になり、お金は偶像になってしまいます。単に、資源配分の効率化のための手段に過ぎなかったものに、たましいを売るような人が現れてしまいます。昨年以来の金融危機から生まれている大不況は、市場経済システムの落とし穴を示しています。しかし、そのシステムを否定してはより大きな問題が生まれます。

残念ながら現在の日本は、資源の配分を政治家と官僚の手に戻そうとする動きが強くなっていますが、本来、拝金主義にブレーキをかけるのは政治家の役割以前に、宗教指導者の責任でした。かつての日本でも、それなりの職業倫理が社会的に確立してきたと言われますが、それが通用しなくなりつつあるのが心配です。アメリカの教会ではお金の管理に関する講座を教会が開き、多くの人々がそこで立ち直っていると聞きます。聖書には驚くほど多くのお金の話が出てきます。それはお金の大切さを認めるとともに、その限界と危険を教えるためです。この世界を支配しているのは、市場経済のシステムである前に、聖書の神です。イエスは、お金の大切さを認めながらも、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません・・・神にも仕え、また富にも仕えるということはできません・・だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:2433)と言われました。あなたの心の中で、神との交わりが常に第一とされ、神が神としてあがめられているでしょうか?イエスは、お金を「カイザルのもの」と呼びました。私たちにとってのお金は、「日本政府のもの」です。それは、社会のシステムを機能させるための道具であり、私たちはそれに頼りながら日々の生活をしています。道具が良いか悪いかを論じる以前に、使いこなす知恵が大切です。その第一は、あなたの主人は誰なのか、あなたはどなたに仕えようとしているのかを問うことです。

2.「神は・・生きている者の神です・・・神に対しては、みなが生きている」

「ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して・・・」(27節)とありますが、1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスは、「サドカイ人は、魂は肉体とともに消滅するという教義を信奉している。彼らは書かれた律法以外の何ものにも従うことを認めない。この教義を知っている人は少数で、それは高位の人たちである・・彼らは無作法であり、乱暴であった」と記しています。確かに旧約には、新約のように明確なかたちで死人の復活を保証している箇所はないように思えます。

 サドカイ人はイエスに、「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』 ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。あとで、その女も死にました。すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが」(28-33)と尋ねました。

これは申命記25:5-10の解釈に関することです。そこでは、子を残さずに死んだ夫の妻が、彼の兄弟との再婚によって夫の血筋を絶やさないことが義務とされていました。それは、神から委ねられた土地を、責任を持って管理し続けるためでした。しかも、当時の人々は、旧約外典トビト書に記されたサラを尊敬していました。彼女はアッシリアの首都ニネベ捕囚とされたナフタリ族の者で、七人の男に嫁ぎながら初夜の前に先立たれ、八人目の男性トビトの子トビアとの間で初めて子孫を残し、異郷の地で先祖の血筋を守り通しました。ですからこのたとえは身近なものでした。その場合、復活の後、彼女は誰の妻なのかという疑問が出るのも無理からぬことです。つまり、再婚が義務として命じられているということは、復活がないということの何よりの証拠だと彼らは主張したのです。

 それに対してイエスは、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです(34-36)と語りました。御使いは土地を所有せず、神との交わり自体を喜んでいます。同じように復活後の世界では子孫を残す必要がないので、「復活の子」たちには結婚が不必要になるというのです。イエスがこのように話されたのは、当時の人々が結婚を、子孫を残す手段と見ていたからですが、それはイエスが結婚をそのように手段として軽く扱ったという意味ではありません。復活の後の新しい世界においては、私たちが神の家族として完成します。そこでは、私たちの愛の交わりが、すべて最愛の伴侶の関係以上の水準にまで引き上げられるのです。この地上でさえ、肉の兄弟姉妹は結婚することはありません。まして神の家族が完成するところに結婚は必要がないのです。

しかも当時は再婚に際してさえ、妻は最初の夫に縛られ続けていました。しかし、主はこのことばによって、伴侶に先立たれた人に、新しい人生を始めさせる完全な自由を保障したのです。

その上でイエスは、死人の復活を証明するために、出エジプト記の有名な記事を引用しながら、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、このことを示しました」(37節)と言われます。そこで主(ヤハウェ)は、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民に、ご自身のことを、わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジ3:6以降)と紹介されました。これが「死人がよみがえる」ことの証明に用いられるのは不思議です。それは、三人とも約束の地を与えるとの神の約束を聞きながら、旅人、寄留者として、地上の生涯を終えたからです。もし、彼らが「死んだ者」であるならば、神の約束は、果たせぬ夢だったことになります。それで、イエスは、「神は・・・生きている者の神です」と言って、彼らが今も神のみもとで生きており、その約束も生きていると語ったのです。それをまとめてイエスは、神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです」(38節)と言われました。これは、「すべての人が生きる」または、「救われる」という意味ではなく、神に向かって生きている者は、みな生きている、または、神との交わりは永遠に生きたものとして続くという意味です。ですから、私たちも、自分に与えられた救いを、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、今、私の神となられたと表現できるのです。

サドカイ人は目に見えるものに固執し、この世の成功を神の祝福、反対に、不幸を神のさばきと見ていました。しかし、本当の幸せは、目に見えるようなものや所有できるものではなく、愛の交わりという「関係」の中に存在するのではないでしょうか。そして、この地での結婚とは、愛を学ぶ学校です。愛することの難しさを体験し、天で完成する愛の交わりへの望みを育む関係です。サドカイ人たちの教えは地上の神殿と共に滅びました。復活を信じない者の末路はあわれです。損得を越えた愛の永遠性を信じないで、どこにいのちの喜びがあるでしょう

3.キリストはダビデの子であると同時に、ダビデの主であられる

「律法学者のうちのある者たちが答えて、『先生。りっぱなお答えです』と言った。彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった」(39、40節)とありますが、この律法学者とは先のサドカイ人と対立関係にあるパリサイ人であったと思われます。そして質問できなくなったのはサドカイ人だと思われます。マタイでは、「パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人を黙らせたと聞いて、いっしょに集まった」(22:34)と記されています。この二派は対照的でした。ヨセフスは「パリサイ人は、簡素な生活を営み・・数々の戒めを守ることに重点を置き・・・もし律法のために死ぬ必要があれば、喜んで死ぬような者にこそ神は復活を許し、より良い生を与えると信じている」と記しています。

イエスは続いてパリサイ人である律法学者に積極的に語りかけます。当時の人々は、自分たちを外国の支配から解放してくれる救い主(ギリシャ語では「キリスト」)を待ち望んでいました。そして、たとえばイエスに救いを求めた盲人は、主を「ダビデの子」と呼び、またエルサレムに迎えた群衆も、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいました。そのような中でイエスは、それを認めない律法学者に向かって「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか」(41)と不思議な質問をします。彼らも、キリストを、現実的な王国を立ててくれる「ダビデの子」と呼んでいたからです。それに対してイエスは、ダビデが記した詩篇110篇で、キリストを「私の主」と呼んでいることを指摘し、キリストはダビデの主でもあると語りました。この詩篇は新約聖書に最も多く引用されている詩篇です。ダビデはそこで、主は私の主に言われた。『わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい」と述べています(42,43節)。これは、父なる神である主(ヤハウェ)が、「ダビデの主」キリストに向かって、主(ヤハウェ)がキリストの敵を、完全にキリストの支配下に服従させるまで、主(ヤハウェ)の「右の座」、つまり宰相の地位にとどまっていなさいと言われたというもので、神の救いのご計画の想像を絶する広がりを示すものです。

それによって、イエスは彼らのキリスト理解がいかに人間的で、浅薄なものかを示されたのです。彼らは、イスラエルがローマ帝国から独立し、ダビデ王国が復興され、神の救いが完成すると信じていました。しかし、それは歴史が証明するように、別の民族紛争の始まりでしかありません。しかし、世界の完成とは、キリストが神の右の座、つまり宰相の地位について、すべての敵が、キリストの足の下に従わせられるときです(43)。その時、「最後の敵である死も滅ぼされる」(Ⅰコリント15:2526)のです。つまり、イエスは、キリストはダビデが果たすことができなかった全世界的な神の王国を立てる方であると言われたのです。それを理解させるためにイエスは、こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう」(44節)と問いかけられました。

彼らは、神の救いを、カイザルに税金を納めなくて済む独立国家を建てる程度にしか理解せず、その枠でイエスはキリストではありえないと主張していました。それに対し、イエスは、ご自分が今もたらそうとしている神の国が、地上のダビデ王国の概念を超えたものであることをこの詩篇110篇によって彼らに理解させようとしたのです。

キリストは、ダビデの子として、目に見える神の国を実現してくださいました。それは現在、キリスト教会として全世界に広がっています。しかし、イエスは同時に、ダビデの主として、ダビデが果たすことができなかった、全世界的な真の平和(シャローム)を実現してくださいます。パウロは、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、暗やみの世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)と記していますが、キリストは、この戦いに対する勝利を、ご自身の復活によって確定して下さいました。それによって私たちはすでに「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)とされており、自分のいのちを守るためにこの世の権力者と戦う必要がありません。目標は、地上的な問題の解決ではなく、世界の完成、愛の交わりの完成です。エデンの園にあった、祝福に満ちた、神と人、人と人、人と被造物の交わりが、さらに拡大された形で、新しいエルサレムにおいて実現するのです。今、私たちのうちには、復活のキリストの御霊が宿っています。ですから、私たちは今ここから、「復活の子」としての歩みを始めることができます。神と人とを真の意味で愛することは、生まれたままの人間には不可能です。しかし、キリストの御霊は、あなたの中に、ご自身の愛を注ぎ、また神と人とを愛する力を生み出してくださいます。   

  評論家はこの世の矛盾をするどく指摘し、あるべき理想の状態を提示することができます。しかし、評論家がそのようにできるのは、この世の現実と距離を置いているからに過ぎません。私たちが現実の中に自分の身を置いて生きるなら、そこには次から次と予想外のことが起こり、その場その場で、瞬時の判断を求められます。キリストに見られる神の支配は、何とも不思議です。取税人や遊女という理想から程遠い社会の底辺に生きる人々に寄り添いながら、そこに誰も作ることができなかった愛の共同体を創造してくださいました。神の国は、今、すでに、ここに始まっています。問題の只中にいると、それが見えません。しかし、それは確かに、完成に向かっているのです。泥水の中に咲く蓮の花を見るように、暗い現実の中に、神の国の完成の「つぼみ」を見て行きたいものです。 

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2009年5月 3日 (日)

エレミヤ32章~34章「私たちは真実でなくても、主は常に真実である」

                                               2009年4月28日

 私は昔、証券会社にいたとき、経済見通しが週ごとのように変わることに対し、何とも言えない空しさを感じていました。そのような中で、決して変わることのない聖書のことばに、心がますます惹かれるようになりました。宗教改革者マルティン・ルターは、「神の愛はその愛する相手を見いだすのではなく、創造するのである。人間の愛はその愛する相手によって成りたつ」と言いました。それこそ聖書の一貫したテーマではないでしょうか。私たちは自分の心の内側を見るときに、自分が愛されるに値しない存在であるかのように見えてきます。しかし、福音とは、そのような者を名実ともに愛するに値する者へと造りかえることにあると見えてくるとき、心が楽になります。しかも、その際、自分がどれだけ変えられたかなどと見直してばかりいてはなりません。「信仰」という言葉は「真実」とも訳すことができます。私は、「信仰によって救われる」ということばを聞きながら、「こんな不信仰では救われないのでは・・・」と不安になることがありました。しかし、信仰とは、キリストの真実から生まれるということが分かったとき、心が楽になりました。不真実で不信仰な者を真実な信仰者へと造り替えてくださる神の真実に目を向けたいと思います。

1.「彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」

「ユダの王ゼデキヤの第十年、すなわち、ネブカデレザルの第十八年」(32:1)とは、エレサレムがバビロンによって陥落する前の年で、紀元前588年から587年にかけてのときを指します。「そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、預言者エレミヤは、ユダの王の家にある監視の庭に監禁されていた」(32:2)とありますが、それはエレミヤが、「ユダの王ゼデキヤは・・必ずバビロンの王の手に渡され・・・バビロンへ連れて行かれる・・・あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない」(32:4、5)と語り続けていたからです。エルサレムはこのときまで二度にわたってバビロンに屈服し(紀元前605年、597年)、王も貴族も神殿の宝物もバビロンに移されていましたが、それにも関わらず、なお、それが神のさばきによるものと認めず、エジプトに支援を求めていました。また、偽預言者たちは神が最後に奇跡的な救いを与えてくださるという根拠のない夢を語り続けていました。

 一方、エレミヤは、イスラエルの民はバビロンに七十年間捕囚とされた後になって解放されるという気の長い預言をしていました。主はそれが夢物語ではないことを示そうと、監禁されていたエレミヤに「おじの子ハナムエル」を遣わし、「ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください」土地取引を提案させました。エレミヤは、「それが主(ヤハウェ)のことばであると知った」(32:8)ので、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った」ばかりか、当時の公式な手続きに従って証人たちの署名をもらい「監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し」(32:12)ながら、その証書を「土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ(32:14)と命じます。その際、「イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)」ご自身が、「再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになる」(32:15)と保障しておられることを明らかにします。

その後エレミヤの祈りが記され、32章17-19節では、主がどのように偉大な方であるかを賛美しながら、現在の危機が、神の全能の御手の中で起こっているとの信仰が告白されます。特に、「先祖の咎を・・・報いる方」(18節)、「すべてに報いをされ」(19節)という表現に、これはイスラエル自身が招いたさばきであるとの告白が見られます。

その上で、続けて、出エジプト以来の歴史を簡潔に振り返りながら、「この町は・・・カルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました」と、これが当然の神の報いであると語りながら(32:24)、同時に今、自分が抱いている疑問を、「主、ヤウェよ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑 買い、証人を立てよ』と仰せられます」(32:25)と率直に訴えます。

 それに対して主は、バビロン帝国を用いてエルサレムを滅ぼす理由を、四回に渡って、イスラエルの民が「わたしの怒りを引き起こした」(32:29,30,31,32)からと表現します。ただ、その後の希望に関して、「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(32:37、38)と約束します。それと同時に、主ご自身が彼らに対して再び怒りを燃やさなくてすむように、その心を内側から作り変えるという約束を、「わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える(32:39、40)と言われます。これは「彼らがみな・・わたしを知るからだ」(31:34)と言われたことばの言い替えです。興味深いのは、「神を恐れる心」自体を、神ご自身が人々の心の中に起こしてくださると約束されていることと、その目的が、「彼らを幸福にするため」と記されていることです。

しばしば、教会の歴史の中では、地獄の炎の恐ろしさを強調することによって人為的に神への恐れを沸き立たせようとしたり、また、神を恐れるという教えが人を幸せにするどころか、萎縮させる方向に働く場合がありました。しかし、たとえばジョン・ニュートンは、Amazing Graceの二番目の歌詞で、「’Twas grace that taught my heart to fear, and grace my fear relieved」(恵みこそ、私の心に恐れることを教え、また恵みによって私の恐れは和らいだ)と歌っていますが、私たちは福音のすばらしさを知れば知るほど神への恐れが沸くとともに、この世への恐れから解放され、心が自由を得ることができます。この世の権力を恐れるのは、真に恐れるべき方を忘れることの結果なのです。ですからイエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる方のことを恐れなさい(10:28)と言われました。そしてイエスは、その神のさばきを私たちの身代わりに、十字架において引き受けてくださいました。しかし、私たちが十字架のみわざを罪の消しゴムのように軽く見るなら、それは恵みを軽蔑するという罪を犯すことになります。

 そして主は最後に、主は、「わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす・・・この国で、再び畑が買われるようになる・・・山地の町々でも、低地の町々でも、ネゲブの町々でも、銀で畑が買われ、証書に署名し、封印し、証人を立てるようになる。それは、わたしが彼らの繁栄を元どおりにするからだ」(32:42-44)と言われます。土地の売買が活発になることが神の祝福の現われとして表現されるのは何とも奇妙に思われます。しかし、当時、「畑を買う」というのは自分たちが労苦を注ぐ場を増やすということを意味しました。それは、「自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っている」(15:58)という信仰告白を意味しました。主ご自身が私たちの労苦がむだにならないように守り通してくださいます。その希望を持つ時、いつでもどこでも目の前の働きを誠実に行おうという勇気が生まれます。

ルターは、「たとえ明日、世界が滅亡すると分かっていても、それでも今日、私はリンゴの木を植えよう」Wenn ich wüßte, daß die Welt morgen untergeht, würde ich dennoch heute einen Apfelbaum pflanzen と言いましたが、それこそ私たちが心がけるべきことでしょう。なお、興味深いことに、映画「感染列島」ではこのことばが何度も繰り返されます。それは、最後の瞬間まで諦めることなく、目の前の課題に取り組む勇気として、このことばが語られた背景を無視して引用されていました。しかし、私たちは、神のご支配を知っているからこそ、今を精一杯生きる勇気が生まれるのです。

2.「昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約」

  「エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき」(33:1)のことですが、主は彼に「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(33:3)と言われます。その上で、「ユダの王たちの家々」が、「カルデヤ人と戦おうとして出て行くが、彼らはわたしの怒りと憤りによって打ち殺されたしかばねをその家々に満たす」(33:5)と言われます。つまり、彼らはカルデヤ人と戦おうとしているように見えて、実は主ご自身と戦っているというのです。しかし、それが彼らの悪に対する主のさばきであると理解できるなら、それが完了したときに、主がのろいに代えて祝福をもたらしてくださると信じ、希望を持つことができます。そのことを主は、廃墟とされるエルサレムが、「世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる・・・」(33:9)と約束することで示されます。それは黙示録21,22章に記される「新しいエルサレム」として完成します。なおここではまた、そのときに実現する繁栄が、「主(ヤハウェ)の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が再び聞こえる」(33:11)と描かれますが、来るべき「新しいエルサレム」では、復活のキリストご自身が神殿となってくださり、「人々は諸国の民の栄光と誉れとをそこに携えて来る」(黙示21:26)ようになるのです。

そして、この33章14-16節で、「その日」(複数)ということばを原文では三回繰り返しながら、主は、「その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽ばえさせる・・」と言われますが、これは救い主が「ダビデの子」として誕生することを指します。また、「エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主(ヤハウェ)は私たちの正義』と名づけられる」(33:16)とありますが、ここで「正義」ということばは神がダビデに対するご自身の約束を守り通してくださるということを指していると思われます。これはかつて、ダビデが主に対して、神の住まいである神殿を立てたいと申し出たときに、反対に、主ご自身がダビデの家を確立するという意味を込めて、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまで堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16)と約束されたからです。

  そしてそのことが、「ダビデには、イスラエルの家の王座に着く人が絶えることはない。またレビ人の祭司たちにも・・いつもいけにえをささげる人が絶えることはない」(33:17、18)と記されます。マタイ福音書の最初に、アブラハムに始まり、ダビデを経てバビロン捕囚にいたる王家の系図ばかりか、歴史に残っていないバビロン捕囚以降の王家の系図が記されているのは、このダビデ契約が成就したという意味を示すためです。そして今、私たちはキリストの祭司とされレビ人として、日々、「賛美のいけにえ」(ヘブル13:15)を絶えずささげる者とされています。

  主はこの契約の確かさを保障するために、不思議にも、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう」(33:20、21)と表現されました。昼と夜との契約とは、大洪水の後に、主がノアに向かって、「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」(創世記8:22)と約束されたことを意味します。私たちは毎朝目覚めるとき、既に日が昇っていることを当たり前だと思っています。「それは地球の自転による・・・」などとわかったように言ったところで、なぜ、この神秘の惑星が丁度よい速度で回転し続けることができるのか、また、季節が丁度よく巡って来るように、なぜ地軸が適度に傾いているのかに関して、誰も明確に答えることはできないのではないでしょうか。宇宙の不思議を見れば見るほど、「それは偶然の産物だ・・・」と言うよりも、「すべては創造主のみわざです!」と告白することの方が、合理的に思えるのではないでしょうか。そして、神がこの世界を美しく保っておられることの中に神の真実を見出し、その神の真実こそが、ダビデに対する契約を守らせ、神の国を完成に導く最大の原因であるということが明らかにされてきます。

  そればかりか、ここでは、「天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」(33:22)と言われますが、キリストの弟子となった私たちこそ、神に仕える新しいレビ人です。ところで、主はここで、「あなたは、この民が、『主(ヤハウェ)は選んだ二つの部族を退けた』と言って話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民をもはや一つの民ではないとみなして侮っている」(33:24)と言っておられますが、「ふたつの部族」ということばは、北王国イスラエルと南王国ユダを指し、主がこの百年余り前に北王国を滅ぼし、また今、ユダ王国を滅ぼそうとしておられることを人々が非難していることへの答えです。主は、北と南をひとつのダビデ王国として見ておられます。そして再び、主が、「昼と夜とに契約を結び」「天と地との諸法則を・・定め」ておられるという表現が使われながら(33:25)、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデに対する神の約束は守り通され、彼らの子孫は繁栄すると保証されます。そして、私たち異邦人も、信仰によってアブラハムの子孫にされていますから、この神の約束はキリスト教会において成就されているのです。

  Ⅱ賛美歌191番の二番目の日本語の歌詞は名訳で、「春も秋も夏冬も、月も星もすべては、主のまこととあわれみとつきぬ愛を現す」と歌われています。そして繰り返しの部分は、原歌詞では、「あなたの真実は偉大です。朝ごとに私は新しい慈しみを見ます。私に必要なものをすべて、あなたは備えていてくださいます。主よ、あなたの私に対する真実は偉大です」と歌われています。私たちは、天に示された神の真実を覚えながら、その神が、この私に対しても真実を尽くしてくださるということを確信するようにと導かれているのです。

3.「わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを・・・」

  「バビロンの王ネブカデレザルと・・彼の支配下にある地のすべての王国・・が、エルサレムとそのすべての町々を攻めていたとき」(34:1)、主はエレミヤを通して、「ユダの王ゼデキヤ」に、「あなたはバビロンへ行く」と言いながら、同時に、「あなたは剣で死ぬことはない。あなたは安らかに死んで、人々は・・・あなたのためにも香をたき、ああ主君よと言ってあなたをいたむと言われました(34:3-5)。つまり、ゼデキヤはネブカデネザルに頭を下げるなら、寿命を全うするこができ、人々から悼み悲しんでもらえるというのです。

 このとき、バビロンの軍勢はエルサレムの南西にある二つの城壁のある町「ラキシュとアゼカ」を攻めていました。近年、ラキッシュの廃墟跡の土器から21通の当時の手紙が発見されました。その第四の手紙には、エルサレム防衛の前線基地のひとつからラキシュの防衛司令官に宛てた文書がありました。そこには、「私たちはもうアゼカを見ることができないので、貴官がラキッシュから送ってくださるあらゆるしるしに注目しているということをお知りおきください」と記されていました。そこには、アゼカが既に滅ぼされ、アキシュの状況にエルサレムの前線基地が固唾を呑んで見守っている緊張感が感じられます。そのような中で、ゼデキヤは、主のあわれみにすがるような気持ちで、「エルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言し」(34:8)たというのです。

その内容は、「同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約で・・・二度と彼らを奴隷にしないことに同意し・・彼らを去らせた」(34:9、10)という画期的なもので、律法の原点に立ち返った行為でした。ところが何と、彼らは、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した」(34:11)というのです。この心変わりの背景は、21,22節、また37章11節の記事から推察できます。ゼデキヤたちは、エジプト軍が南から救援にやってくるという噂を耳にし、カルデヤの軍隊が一時退却したのに安心し、必死に主のあわれみを求めて主にすがるという必要を感じなくなったのだと思われます。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがありますが、ゼデキヤの信仰は、「苦しいときの神頼み」程度の一貫性のないものであったことがこの変節によって明らかになりました。そのようなご都合主義的な信仰に、主は怒りを発せられました。

 そこで、「イスラエルの神、主(ヤハウェ)」は、「わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない・・・しかし、あなたがたの先祖は・・耳を傾けなかった」(34:14)と、彼らが主の契約を軽んじたという歴史を振り返ります。その上で、主は、「しかし、あなたがたは、きょう悔い改め、各自、隣人の解放を告げてわたしが正しいと見ることを行い、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ(34:15)と、彼らの悔い改めを喜んでいたということを伝えます。ところが、それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し・・」(34:16)と、彼らの心変わりに激しい怒りを表現します。これは、生き方を百八十度変えたと思ったら、そこから再度百八十度心を変えて、もとに戻ってしまったことを意味します。これでは、一度人々に希望を与え、その後、それを裏切るのですから、何もしなかったよりもはるかに悪いことをしたことになります。

主は彼らの変節を激しく怒られ、「あなたがたは・・・自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので・・・見よ、わたしはあなたがたに・・剣と疫病とききん(に向けて)の解放を宣言する」と皮肉を込めて言われます(34:17)。

そして主は彼らに、「わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする」(34:18)と仰せられます。当時の契約では、契約を結んだ両者は、二つに断ち切られた動物の間を通りながら、「私がこの契約を破るなら、同じように真っ二つにされることを覚悟します」と宣言しあうことになっていました。創世記15章にある記事では、アブラハムはこの動物の間を通らずに、主ご自身だけが通って、ご自身の契約の確かさを保障してくださいましたが、ここでは、当時の契約の習慣に従って、彼らを契約不履行者として処罰すると警告されているのです。これは、主がもう彼らの不従順を見過ごすことができなくなったということを意味します。

そして、「二つに分けた子牛の間を通った者は、ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった」(34:19)と記されますが、これは、彼らがバビロン軍によって虐殺されたことを指します。そして、主は、前言を翻したゼデキヤに対し、同じようにご自身の前言を翻され、「わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを・・・あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す・・・わたしは・・・彼らをこの町に引き返させ・・・ユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする」(34:21、22)と宣言されます。34章の最初にあったように、彼らがバビロンに服従し続けていたら、いのちは守られたはずでした。しかし、その後、彼らはエジプトの救援を当てにして主とバビロンの両者に対して高ぶった態度を取り、それに対し主ご自身もバビロン帝国も、当初の予定よりも厳しいさばきを下すようになりました。残念ながら、人は心変わりをするたびに、元に戻るのではなく、より悪い状態を招くことになります。これはもがけばもがくほど深みにはまる底なし沼のようなものです。主は、はるか前から、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)と語っておられました。しかし、彼らは人間的な解決ばかりを求め、そのたびに心変わりを繰り返し、最終的に壊滅的な滅びを招いてしまったのです。

私たちも目の前の状況が変わるたびに自分の意見を変えてしまいたい誘惑に駆られることがあります。また、無意識に、自分の意見を変えてしまっていることがあります。しかし、神は私たちの心の真実を何よりも求めておられるということを忘れてはなりません。それはパウロが弟子のテモテに向けて、「もし私たちが、彼(キリスト)とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだら、彼もまた私たちを否まれる私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:11-13)と書いているとおりです。私たちが保ち続けるべき真実とは、自分の不真実を正直に認めて、いつでもどこでも、主の御名を呼び求め、主にすがり続けるという一貫性です。ルターの最後の言葉は、「われわれは乞食である。それはまことである」というものでした。私たちの言動は常に、ある出来事への反応として生まれます。そのため、状況が変われば、以前とまったく異なった言動を取っているように見られたり、また、そのように反省せざるを得ないということは常にあります。しかし、何が起ころうとも、常に一貫しているべきことがあります。それは私たちの心の方向です。北斗七星は、時間や季節によって、さかさまに見えたり、立っているように見えたり、見え方が変わってきます。しかし、常に、ひとつの場所に留まる北極星を指し示すということでは一貫しています。同じように、私たちのも、逆立ちをしていようと、寝ていようと、まっすぐ立っていようとも、常に、その心が、「主の真実」に向かっているという点では一貫している必要があります。乞食に過ぎない私たちが評価されるのではなく、何の取り柄もない者に恵みを注ぎ続けてくださる主人があがめられる必要があります。

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