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2009年6月21日 (日)

箴言12,13章 「主は、愛する者を懲らしめる」

                                               2009年6月21日

私の恩師である故古山洋右先生は、「訓練」ということばが大好きでした。ドイツから帰国して間もなくの神学生時代、掃除や片付け、週報の打ち込みや印刷、その他、様々な雑務を私に命じながら、「すべて訓練だから・・」と言われました。ただそのとき私は、牧師としての働きに直結するものは「訓練」と思えましたが、それらの雑務をこなしながら「これが何の訓練になるのだろう・・・」と訝しく思いました。当時の私は、「それは、日本のカルチャーだから・・・」と割り切って受け止めようとしましたが、今になって、それらの大切さが身にしみて分かります。何の働きにおいても、専門的な能力を向上する以前に、その周辺的な働きを、身を持って理解することがチームワークを築く上で何よりも大切だからです。いわゆる、丁稚奉公のようなことにも本当に大きな意味があるのです。

ところで、この関連で、ヘブル書12章5-11節で繰り返されている「懲らしめ」ということばは、「訓練」と訳す方が一般的です。新共同訳では「鍛錬」とか「鍛える」と訳されています。新改訳では、その不快な面が強調されているのですが、それこそ文脈に即しています。簡単に言えば、不快さと訓練とは切り離せない関係にあるのです。

そして、人は、不快な痛みに耐えてこそ、人格の成長が見られるのです。それは、身体に負荷をかけ、痛みを感じさせて初めて筋肉がつくのと同じです。「何でこんなことしなきゃならないんだ・・」と、不快に思うことをこなすことは、主の訓練を受けていることなのです。反対に言うと、自分にとって心地よく、やる気が沸くようなことは、本当の意味では訓練になってはいないのかも知れません。すると逆に、訓練に嫌悪を感じる自分も許せます。

現代は何事もインスタントな解決が求められます。しかし、つい五十年前までは、人はまったく違った環境の中に生きていました。本当に何もかもが不便でした。生きること自体が大変でした。飢えの恐怖がありました。でも、そのような環境だからこそ、自然になされた訓練があります。今、私たちは非常に豊かで便利な社会に住んでいます。だからこそ、敢えて、進んで嫌な働きを引き受ける必要がありましょう。

1.「叱責を憎む者はまぬけ者だ」

「訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ」(12:1)とありますが、「訓戒」とは「訓練」とか「懲らしめ」とも訳されることばです。そして、ここでは「訓練を愛する」ことと、「知識を愛する」ことは並行していると記されます。モーセはかつてイスラエルの民に向かって、「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主(ヤハウェ)があなたを訓練されることを、知らなければならない」(申命記8:5)と言われましたが、その直前には、「主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主(ヤハウェ)の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」(同8:3)と記されています。つまり、主の訓練とは、彼らを「苦しめ、飢えさせる」ということだったのです。これは運動選手が自分の肉体に負荷をかけたり、様々な節制をすることに似ています。

「叱責」というのも、自分にとっては痛みが伴う不快なことです。しかし、人は、自分のことになると、あまりにもすべてを自分の尺度で自分に都合よく考えます。それを修正するのが、人からの「叱責」なのです。それは、どのような運動選手にも、厳しく叱責してくれるコーチが必要なのと似ています。ただし、選手の個性を否定したり、それを生かすことを知らないまま、ただ人を矯正することばかりを考えるのは、ここでいう「叱責」ではありません。私たちも、目先の心地よさを求め、自分の訓練に役立つような叱責を憎む「まぬけ者」にならないようにすべきでしょう。

続けて、「善人は主(ヤハウェ)から恵みをいただき、悪をたくらむ者は罰を受ける。人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない」(12:2、3)と記されますが、この場合の「善人」とか「正しい人」とは、この世的な基準ではなく、主にすがって生きる私たちのことを指します。

人は誰でも、気楽な人生を望み、苦しみを避けたいと思います。しかも、人は、苦しみを通らない限り、自分の生き方を変えようとは思えないものです。良いと分かっていても、それを実行したいと思わないのが人情です。それなのに、あなたが、苦しみに会いながら、それを主からの訓練と受け止め聖書のことばによって自分を見直しておられるとしたら、それこそ、あなたが「善人」で、「正しい人」とされていることの証拠です。確かに自分を振り返りながら、自分は「悪人」「罪人」に過ぎないと思うことでしょうが、そのような自覚を持つことこそ何よりも大切なのです。そして、自分の弱さを自覚し、主にすがる私たちは、「主から恵みをいただき・・・身を堅く立て・・・根はゆるがない」という祝福を体験することができるのです。

2.「人の手の働きはその人に報いを与える」

「正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。悪者のことばは血に飢えている。しかし正しい者の口は彼らを救い出す。悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける(12:5-7)とは、「正しい人」としての私たちが具体的にどのように生きるべきかを指し示したものです。簡単に言うと、目先の利益とか、自分の都合ばかりを優先せずに、主の眼差しを意識しながら生きることの祝福を語ったものです。

「人はその思慮深さによってほめられ、心のねじけた者はさげすまれる。身分の低い人で職を持っている者は、高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける(12:8-11)とは、私たちが日々の生活を「思慮深く、勤勉に、家畜をもあわれみながら生きることの大切さです。多くの人々は昔から、「楽して儲ける」ことに憧れますが、そのような生活が長続きしたという実例があるでしょうか。現代の世界的な不況は、職業モラルを軽蔑した生き方に対する、市場からの報復です。バブルがはじけるということは、金融市場が正常に機能していることのしるしとさえ言えましょう。そこに神の見えざる手の働きがあると言えましょう。そして、人々は、このような懲らしめ」を受けて初めて、堅実な生き方の大切さに目覚めることができるのです。しかし、不思議に、そのような失敗例から学ぶことなく、「自分だけは例外・・」と思い込み、罠にはまり続ける人もいます。

  「悪者は、悪の網を張るのを好み、正しい者の根は、芽を出す。悪人はくちびるでそむきの罪を犯して、わなにかかる。しかし正しい者は苦しみを免れる。人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える」(12:12-14)とは、安易な儲け話で人を罠にかける悪人自身が、罠にかかって苦しむということを記したものです。なお、「正しい者は苦しみを免れる」とは、文脈から明らかなように、「正しい者は苦しみに会わない」というような意味ではなく、「たとい苦しみにあっても、罠にかかることなく、そこから抜け出すことができる」という意味です。また、「悪人のくちびる」と、「正しい者」「口の実」が対比されています。私たちは自分の口から出ることばによって、滅びることもあれば、「良いものに満ち足りる」こともあるのです。そして、「人の手の働き」も、その人の将来に、それに応じた「報い」を与えるというのです。それは神がこの世界を支配し、公正なさばきを下されるという意味でもあります。もちろん、この地上の限られた生涯の中では、「正直者が馬鹿を見る」と思われるような現実がありますが、私たちは、神の報いを、永遠のときの観点から見ることができます。

3.「愚か者は自分の道を正しいと思う」

「愚か者は自分の道を正しいと思う(愚か者の道は、彼自身の目にはまっすぐに見える)。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」(12:15)という表現は本当に私たちの目を開いてくれるものです。残念ながら、「聖書を読み、神を信じ、日々、祈っているから、私は正しい判断ができるはず・・・」などと、ナイーブに思っている信仰者がしばしばいますが、それはとても危険なことです。「神を知ること」と、「自分の無知や罪深さを知ること」という二つの知識(Double Knowledge)は、常に共存していなければなりません。キリストのうちにある者は、自分の愚かなプライドを守る必要がないという意味で、周りの人々の忠告や「叱責」にも心を開くことができるはずなのです。

そして、「愚か者は自分の怒りをすぐ現す。利口な者ははずかしめを受けても黙っている」(12:16)とは、愚か者は自分の正義というプライドに囚われているからすぐに「怒り」「利口な者」自分のいのちがすでに神の御手の中に守られていると思うことができるからこそ、辱めに対しても沈黙を守ることができるのです。

「真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる」(12:17)とありますが、「正しいことを告げ」ることが常に良いとは限りません。これは、「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす」(12:18)ということばとセットで理解すべきでしょう。私たちのことばは、あるときには恐ろしいほどに人を傷つけることがあるとともに、たったひと言で、人の心をいやす力もあります。

そして、「真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ」(12:19)とあるように、人を励ましいやすことばが、真実であればそれは永遠に残ります。たとえば、北海道ではたった八ヶ月間しか滞在しなかったクラーク博士がその別れの際に、「青年よ、大志を抱け」と言ったことばが、今も人々の心を励まし続けています。私は、この年になって、改めてこのことばに込められた意味を深く味わっています。日本人は、信仰生活をこの現実世界から距離を置くようなおとなしい内省的な生き方と見がちです。しかし、真にキリストに生かされている者は、失敗を恐れず、また誹謗中傷を恐れず、自分を世界に投げ出し、冒険することができるはずではないでしょうか。イスラエルの民は、荒野に出たからこそ、天からのパンを受けるという恵みを味わうことができたのです。主にある大志を抱き、自分の狭い世界から抜け出して、苦しみながら、訓練を受けることこそ信仰生活の醍醐味です。冒険すると、その中で自分の愚かさに気づかされますが、それを自覚する者は決して「愚か者」ではありません。

4.「いかなる災害も正しい者には降りかからない。」

ところで、「正しい者は何の災害にも会わない。悪者はわざわいで満たされる」(12:21)ということばは事実に反するように思われますが、これは厳密には、「いかなる災害も正しい者には降りかからない。しかし、悪者はわざわいで満たされる」と訳すことができます。つまり、神に信頼する者にとっては、この世的には「災害」としか思えないことさえも、神の愛の御手の中で、私たちの益のために起こった「恵みの機会」とされるからです。それに対して、「神を信じない者」、つまり、聖書の定義による「悪者」にとっては、幸運と思われることさえも「わざわい」の原因になります。それはたとえば、宝くじに当たることによってかえって人生の道を踏み外すようなものです。

イエスは、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:29,30)と言われました。神を愛する者にとっては、どんな「わざわい」さえも、私たちのたましいを害するものにはなり得ないのです。そして、これこそ私たちの信仰の核心です。世の多くの人々は、「わざわいに会う」ことを極度に恐れながら、自分の身を守ることに汲々としています。しかし、キリストのうちにある者は、自分のいのちを失うことさえ恐れる必要がないのです。

  「利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす」(12:23)とは、まさに文字通り味わうべきことばでしょう。また、「勤勉な者の手は支配する。無精者は苦役に服する」(12:24)というのも、気楽な人生を求めようとして自分の身に苦しみを招く多くの人への警告です。

5.「期待が長びくと心は病む」

「心に不安のある人は沈み、親切な(良い)ことばは人を喜ばす」(12:25)というのは極めて当たり前のことが記されているようで、物事の本質を鋭く突いたことばです。不安は人の心を沈ませますが、それは重力の法則のように自然なことです。しかし、それを放っておくと、落ち込んだ心が、次の問題を引き寄せるという悪循環になります。大切なのは沈まないようにすることではなく、浮かび上がらせることです。「良いことば」つまり、親切で慈しみに満ちたことばは、人の心を喜ばせ、活力を与えることができます。それは、たとえば、あなたの隣人が不安で落ち込んでいるとき、「それは心配する必要がないのでは・・・」などと説得することよりも、その人の気持ちに寄り添い、ともに悩み、ともに祈るときに、元気が生まれるというようなことです。大切なのは、不安を消すことよりも、不安を担う力が湧いてくるように、優しくその人の存在価値を肯定するようなことばをかけることです。

「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である」(13:12)とは、私たちの心の現実を的確に言い表したものです。その際、私たちが気をつけなければならないのは、その「期待」がどのような性質のものなのかということです。たとえば、「私は、こんな仕事をするような人間ではない・・・」などと、就職を世話してくれた教授を逆恨みして、殺害にまで及んだ人のことが話題になりましたが、それは不合理な期待に縛られて心が病んでしまったことの悲劇をしまします。私たちは、今、ここで、自分の心の底にある望みがかなっていると認めることができます。仕事があること、住む家があること、家族や友人がいること、それらすべてが、私たちの望みがかなっていることのしるしではないでしょうか。「幸せの青い鳥は、自分の家の中にいた」ことに気づくものは幸いです。

「みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける」(13:13)とは、聖書の教えの核心を思い起こさせる表現です。たとえばモーセは、イスラエルの民への遺言として、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ」(申命記30:19,20)という二者択一を迫りました。しかし、イスラエルの民はこのみことばを軽蔑して自ら滅びを招いてしまいました。しかし、祝福は、今、ここで、選び取ることができるのです。

  「知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる」(13:14)とは、このような神のみことばに基づく知恵が私たちのいのちを生み出す泉となるという意味です。

 「望みがかなえられるのはここちよい。愚かな者は悪から離れることを忌みきらう」(13:19)とは、12節と表裏一体の関係にあります。人のたましいにとっては、「望みがかなえられる」というプロセス自体が心地よいもので、それが自分のものになったとたん、それに飽きてしまうということがあります。そして、「悪」とは、一時的な興奮をもたらしてくれる何らかの刺激と言えましょう。愚か者は、次から次と、新しい刺激の虜になってしまいます。ですから、私たちは常に、神が喜ばれる働きによって「望みがかなえられる」ことを目指すべきでしょう。

6.「むちを控える者はその子を憎む者である。」

 「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける」(13:20)とは、私たちが心の交わりを、主にある兄弟姉妹と築き合うことの勧めです。私たちは目に見えるものにいつも心を誘惑されますから、目に見える信仰の友とともに目に見えない神を礼拝するという交わりが何よりも大切なのです。

「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい者に報いる」(13:21)とは、詩篇23篇6節の「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう」との対比で理解すべきことばです。そこには、神に信頼する者への平安と、神を忘れた生き方の悲劇が対照的に表されています。

  「善良な人は子孫にゆずりの地を残す」(13:22)とありますが、「ゆずりの地」とは、イスラエルの民が代々、神から委ねられた土地を受け継ぐことが至上命令とされていた中でのことばです。ですから、これは私たちにとって何よりも信仰の継承に関わることと言えましょう。これとセットで、「罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる」と記されているのは、神がやがて時が来たら、罪人から、彼に預けた財宝を取り上げ、ご自身のみこころの人に与えるからです。私たちはキリストとともに王とされ、ともに世界を治めると約束されています。私たちは何も持たないように見えても、世界の富をキリストとともに相続する者とされているのです。

  「貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある」(13:23)とは、「貧しい者が土地を真剣に開拓したとしたら、そこには豊かな収穫が期待できるはずである」という期待を表現したものです。これは、与えられた機会を生かさないことによって貧しくなるという現実を指摘したものです。それとセットに、「公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる」とあるのは、目に見える財産が、簡単に失われる可能性を指摘したものです。つまり、あらゆる機会を生かすことが大切であるとともに、今あるものに安住して怠けることがいかに危険であるかが語られているのです。

  「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(13:24)というみことばから、「愛のむち」ということわざが生まれています。これは、特に、五歳から六歳ぐらいまでの間に、子供を厳しくしつけることを意味します。ドイツの家庭などでは、五、六十センチぐらいの固い棒が用意されていて悪いことをした子供のお尻をたたくということが行われます。ただ、同時に、そのあとでしっかりとハグすることが大切だと言われます。もちろん、感情に任せて鞭を打つことは虐待になりますし、ことばできちんと分かる年齢になっても鞭を使うことは、子供の理性の成長を阻害することにほかなりません。ヘブル書では、「もし、あなたがたが、だれでも受けている懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです」(12:8)と、懲らしめを受けることが、子として愛されているしるしであると断言されています。そして、神は、それを長期的な視点に立って、「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」と記されています(12:8,10)。

  最後に、ヘブル書では、旧約聖書に記された「訓練」に関する教えを要約して、「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:5,6)と記しています。「主の懲らしめ」は、「主の愛」の現れであるというのはなかなか理解しがたいことです。そして、続けて、その「懲らしめ」また「訓練」が、私たちの心に一時的にどのように働き、また長期的にどのように作用するかについて、「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練(「グムナゾウー」「エクササイズ」)された人々に平安な義の実を結ばせます(12:11)と分析され、約束されています。ここで、「懲らしめ」(訓練)が、当座は、「悲しく思われる」と断言されているのは、何とも不思議なことです。訓練は楽しくなくて当然だというのです。そして、そのような不快や痛みに耐えることが、「平安な義の実」を結ばせる力となるというのです。私たちは、すべてのわざわいや苦しみを、神が私たちを内側から造り替えようとして訓練をしてくださっているプロセスと受け止めることができます。私たちは自業自得で苦しんでいると思うような中でも、「主はその愛する者を懲らしめる」と告白して安心することができます。苦しみを、神の罰ではなく、神から与えられた訓練と見ることができるなら、私たちの人生観が変わります。失敗を恐れず、明日に向かってチャレンジしながら生きられるようになるからです。

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2009年6月14日 (日)

エレミヤ44-49章「わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにする」

                                                2009614  「あの頃は、本当に楽しかったな・・・」となつかしく思いながら、ふと、「もう、あの喜びはもう過去のことなのだろうか・・」と寂しくなるようなことがないでしょうか。主はイスラエルを、「あなたが繁栄していたときに、わたしはあなたに語りかけたが、『私は聞かない』と言った」22:21)と非難されました。それで主は、彼らの繁栄を奪い、苦しめ謙遜にすることで、ご自身の民として回復されようとなさいました。その上で、この書の後半では、「わたしは・・繁栄を元どおりにする」という約束が繰り返されます(29:1430:3,1831:2332:44,33:7,11,26)。そこに主のアブラハムの子孫への真実が見られます。ところが今回の箇所では、かつて、「アモン人とモアブ人は主(ヤハウェ)の集会に加わってはならない」と言われていたような民に対してさえも、さばきの後に、この同じ約束が繰り返されています。

 主は、ほとんどすべての人に、「幸せなとき」を与えておられます。それは神を知っているかどうかを問いません。それは、主のあわれみの故です。しかし、やがて、彼らはそれを失います。そのとき、人は、うらみに駆られたり、自己嫌悪に陥ったりするかもしれません。しかし、そこで問われているのは、「すべてが主のあわれみであった・・」ということを知ることです。そして、私たちはそこで、繁栄を奪い、また繁栄を回復させてくださる主(ヤハウェ)を知るのです。主の救いの目的は私たちとの愛も交わりを完成に導くことです。一時の苦しみはそのために益になります。

1.「天の女王にいけにえをささげていたとき、しあわせだった」と言う民

バビロンによって総督とされたゲダルヤを、ネタヌヤの子イシュマエルが暗殺し、アモン人のところに逃亡しましたが、彼と戦って残りの民を導いたカレアハの子ヨハナンは、エレミヤに示された主のことばに逆らってエジプトに逃れました。その際、エレミヤもエジプトに連行されてしまいます。そこで、「エジプトの国に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパヌヘス、ノフ、およびパテロス地方に住む者たちについて」、主のことばがエレミヤに語られたと記されます(44:1)。ここで、ミグドルは最もカナンに近いエジプトの前線基地、タフパヌエスはエレミヤが主のことばを受けた地、ノフは別名メンフィスでエジプト北部の中心都市、パテロス地方とはナイル川上流エジプト南部の地方です。つまり、イスラエルの民は、ただでさえ人数が少なくなっているのに、すぐにエジプトに分散して住むようになっていたのです。これは彼らが自分で進んでエジプト人に混ざってしまうことを意味します。

  主は彼らに、「あなたがたは、わたしがエルサレムとユダのすべての町に下したあのすべてのわざわいを見た。見よ。それらはきょう、廃墟となって、そこに住む者もない。それは、彼らが悪を行ってわたしの怒りを引き起こし、彼ら自身も、あなたがたも先祖も知らなかったほかの神々のところに行き、香をたいて仕えたためだ」(44:2、3)とユダ王国滅亡の原因が偶像礼拝にあったことを改めて述べながら、「なぜ・・・寄留しに来たエジプトの国でも、ほかの神々に香をたき、あなたがた自身を断ち滅ぼし、地のすべての国の中で、ののしりとなり、そしりとなろうとするのか」(44:8)と警告を発します。そして主は、「彼らはみな、エジプトの国で、剣とききんに倒れて滅びる・・エジプトの国に来てそこに寄留しているユダの残りの者のうち、のがれて生き残る者、帰って行って住みたいと願っているユダの地へ帰れる者はいない。ただのがれる者だけが帰れよう」(44:12-14)とごく一部の人々以外のすべての残りの民の滅びを宣告しました。

これに対し妻たちの偶像礼拝を知っている男たちと、「大集団をなしてそばに立っているすべての女たち」(44:15)は、私たちは・・・天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽き足り、しあわせでわざわいに会わなかったから。私たちが天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめた時から、私たちは万事に不足し、剣とききんに滅ぼされた(44:17、18)という論理で反論しました。確かに、この四十年近く前、ヨシヤ王がエルサレム神殿から偶像礼拝を排除してから、悪いことが続いたかのように見えます。その十数年後にヨシヤがエジプトの王に不必要な戦いを挑んで戦死し、その後、国が急速に没落したからです。しかし、聖書によると、主のさばきは、その前の最悪王のマナセのときに確定してしまっていたのであり、ヨシヤは主のさばきを遅らせることしかできませんでした(Ⅱ列王記22,23章)。つまり、主がイスラエルの民に対するあわれみのゆえにご自身のさばきを遅らせたことが、彼らには天の女王のさばきと見えてしまったというのです。なぜなら、この「天の女王」と呼ばれるイシュタルは、バビロンで人気のあった豊穣の女神でしたから、バビロンの繁栄は、イスラエルの神が無力でバビロンの神々に力があることの証になってしまったのだと思われます。

なおこの偶像礼拝を主導していたのは女性たちだったので(44:9)、「私たち女が、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、私たちの夫と相談せずにしたことでしょうか」(44:19)と言います。これは責任逃れのことばのようでも現実を現しています。7章18節では、これは家族全体の礼拝行為であり、民の指導者たちの責任だったことが記されています。

それに対して、エレミヤは、「主(ヤハウェ)は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌みきらうべきことのために、もう耐えられず、それであなたがたの国は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖、ののしりとなった」(44:22)と、このようになったのは主が彼らの悪に耐えられなくなったからであると説明しました。

  ところがその後、主は彼らの心が変わらないのをご覧になって、「あなたがたは・・天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ごうと誓った誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を・・必ず実行せよ」(44:25)と彼らに逆説的に命じます。そして、さらに主は、彼らの今後について、「見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。剣をのがれる少数の者だけが、エジプトの国からユダの国に帰る。こうして、エジプトの国に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る(44:27、28)と言います。そして最後に、「エジプトの王パロ・ホフラ」(44:30)の滅亡を予告しますが、この王は紀元前589年から570年に在位した王で、一時、カナンに軍隊を進めゼデキヤを支援しました。しかし、彼は家来の将軍の反乱によって命を落とします。そして、このエジプトの内紛も、主のみわざだというのです。

ところで、南エジプトのナイル川の中にあるエレファンティンという島から紀元前5世紀後半のユダヤ人集落の跡が発掘されました。そこには、彼らがイスラエルの神ヤウェと並行して天の女王を拝んでいたことを思わせる文書が発見されています。彼らはエジプトで混合宗教に陥り、滅びて行ったのだと思われます。これは、バビロンに捕囚とされたユダヤ人たちがその後、主に熱心に立ち返るようになるのと対照的です。

2.エジプトに対するさばきと神の民の救い

46章以降で、主は、当時の国々の滅亡を予告されますが、その第一がエジプトです。 「ユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王パロ・ネコの軍勢について。ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカデレザルはこれを打ち破った」(46:2)とは、紀元前605年のカルケミッシュの戦いです。主はエジプトの敗北の様子を、「何ということか、この有様。彼らはおののき、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去った・・・北のほう、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れた。ナイル川のようにわき上がり、川々のように寄せては返すこの者はだれか。エジプトだ」(46:5-8)と劇的に描きながら、「その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日と、これが主の復讐として述べられ、「北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の神、主に、いけにえがささげられる」エジプト軍の血が主へのいけにえであるとまで記されます(46:10)。

 その上で、将来のことが、バビロンの王ネブカデレザルが来て、エジプトの国を打つことについて、主(ヤハウェ)が預言者エレミヤに語られたみことば」(46:13)という前書きとともに、「ミグドルで聞かせ、ノフとタフパヌヘスで聞かせて言え。『立ち上がって備えをせよ。剣があなたの回りを食い尽くしたからだ』」と、イスラエルの残りの民が後に寄留する地の滅亡が予告されます(46:14)。そればかりか、「なぜ、あなたの雄牛は押し流されたのか・・・主(ヤハウェ)が彼を追い払われたのだ」(46:15)と記されますが、これはエジプトで崇められていた偶像の神が主ご自身によって追い払われたことを意味します。そして主は、「エジプトに住む娘よ。捕虜になる身支度をせよ。ノフは荒れ果て、廃墟となって住む人もなくなるからだ」(46:19)とエジプト北部の中心都市メンフィスがエルサレムのように破壊されると予告します。そのことが、「娘エジプトは、はずかしめられ、北の民の手に渡された」(46:24)と描かれます。

 そして主は、「見よ。わたしは、ノのアモンと、パロとエジプト、その神々と王たち、パロと彼に拠り頼む者たちとを罰する。わたしは彼らを・・バビロンの王ネブカデレザルの手とその家来たちの手に渡す」(46:25,26)と言われますが、「ノ」とはパテロス地方の首都テーベを指し、「アモン」とはそこで礼拝されている神です。当時の人々にとって新興国バビロンがナイル川上流にまで攻め上ってくるということは想像を超えたことでした。人々の目にはエジプト王国は永遠の国と思われていましたが、この国は一度、徹底的な敗北を味わう必要があるというのです。

ただ、主は、「その後、エジプトは、昔の日のように人が住むようになるとも予告されます(46:26)。ここでエジプトの権力者たちの敗北と彼らの偶像の敗北をセットに描かれますが、これは、主(ヤハウェ)こそがエジプトの真の王であることを強調するためです。彼らは敗北を通して謙遜にされ、主(ヤハウェ)を礼拝するように導かれるのです。

その上で主は、「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな・・・見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ・・」(46:27)という希望を語ります。これは30章10,11節のほぼ同じ繰り返しで、主にバビロンに捕囚とされた人々への語りかけだと思われ、エジプトへの希望とセットで敢えて繰り返したのでしょう。主は自業自得で国を失った民に向かって、「わたしのしもべ・・よ。恐れるな・・わたしがあなたとともにいるからだ」と言われながら、彼らを苦しめた国々を「わたしは・・・滅ぼし尽くす」と言われます(46:28)。それと同時に、「わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが」と、イスラエルに対する神の契約は彼らの罪によっても反故にされないことを保証されました。主はイスラエルの民を、「ご自分のひとみ」と呼ばれました(申命記32:10)。また、彼らに対するさばきを、「息子と娘たちへの怒り」(同32:19)として表現されました。主が彼らを懲らしめ、罰せられたのは、彼らが偶像の神々やエジプトの王パロに頼ることを止めさせ、主(ヤハウェ)以外には頼りになる方はいないということを腹の底から悟らせるためだったのです。

後にヘブル人への手紙の著者は、「肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のために、私たちをご自身の聖さにあずからせようとして懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるのですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:10,11)と記します。私たちも人生で様々な痛みを体験しますが、それを通して、主は私たちを謙遜にし、主(ヤハウェ)だけが神であることを知らせようとしておられます。

3.モアブに対するさばき

 48章では、「モアブ」に対する神のさばきが記されます。その中で特に注目されるのは、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く」(48:7)という表現です。ケモシュとは、人間をいけにえとする(Ⅱ列王記3:27)モアブの神で、これがバビロンの虜とされるというのです。また「モアブは若い時から安らかであった」(48:11)とは、地理的な関係から大国の犠牲になることが少なかったという意味ですが、そのような国さえも今、バビロンによって滅ぼされるのです。そのことが、「モアブは、ケモシュのために恥を見る。イスラエルの家が、彼らの拠り頼むベテルのために恥を見たように」(48:13)と描かれます。これは邪教に対する神のさばきを意味します。モアブはケモッシュを礼拝しながら大国の狭間で安逸を貪り、自己満足に浸っていましたが、それがさばかれるのです。

そして、「モアブは荒らされ、その町々は襲われて・・モアブの角は切り落とされ、その腕は砕かれた」(48:15,25)とモアブの全地域の破滅が告げられます。そしてその悲惨の原因が、「主(ヤハウェ)に対して高ぶったからだ・・・イスラエルは、あなたの物笑いではなかったのか」(48:26、27)と、彼らが主(ヤハウェ)と主の民をあざけったことの報いであると記されます。そして、「私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを(48:29)と記されますが、この表現は、イザヤ16章6節とほとんど同じです。ここにモアブがさばかれる根源的な理由が「高慢」にあると記されています。これは現代の私たちにも通じる話です。

ところが、最後に、「モアブは滅ぼされて、民でなくなった。主(ヤハウェ)に対して高ぶったからだ・・・ああ。モアブ。

ケモシュの民は滅びた。あなたの息子はとりこにされ、娘は捕虜になって連れ去られた」(48:42、46)と主のさばきが簡潔に述べられた上で、不思議にも、「しかし終わりの日に、わたしはモアブの繁栄を元どおりにする」(48:47)という希望が述べられます。主はロトの子孫を、謙遜にしたうえで最終的な救いを保証されたのです。

 モアブのような小さな国のことが詳しく描かれているのは不思議なことですが、それはこの国が昔からイスラエルと深い関係にあるからです。彼らはモーセのときにイスラエルの民を女性の力によって偶像礼拝に誘い込みました。その後、モアブの女ルツがイスラエルに移住し、ダビデの祖父を生みます。彼らはその後、ダビデ王国にしばしば服従したり離反したり、繰り返しイスラエルの歴史に登場します。彼らはいつでも小国のままなのですが、神の民を誘惑したり悩ませたりし、最後にはネブカデネザルの手先になってエルサレムを攻撃します(Ⅱ列王24:2)。

ここでは、モアブがさばかれたのは自己満足と高慢の故であると描かれていますが、私たちを日々悩ますのもこのような人々ではないでしょうか。私たちを圧倒するような強さはないのに、いつも強がって、自分の世界に閉じこもりながら、擦り寄って来たり、裏切ったり、様々な誘惑を仕掛けたりと、悩みの種になります。ふと、私たちも、「どうして、あの人は自分のことが見えていないのだろう・・」などと言いたくなります。しかし、主は、そのようなモアブをも苦しめ悩ませ、自分の弱さや醜さを思い知らせ、信仰に導き、その繁栄を回復させてくださるというのです。

4.アモン、エドム、エラムに対するさばき

主は引き続き、モアブの北にある「アモン人」の国に対するさばきを宣告されます(49:1)。アモン人も同じロトの子孫で、ヨルダン川東側に住み、長い間イスラエルとの争いを続けていました。特にここでは、彼らの王が、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれる」(49:3)という表現が注目されます。「彼らの王」ということばは、ヘブル語で「ミルコム」と発音することができます。ですからここでは、アモン人の神モレク(ミルコム)バビロンによって捕囚とされることと理解するほうが、先の48:7のケモシュの捕囚と並行して文脈に即していると思われます。モレクは幼児をいけにえとさせる邪教でイスラエルに大きな影響を及ぼしていました(32:35)。

なお、「裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか」(49:4)とは、彼らがヤボク川近辺の自分たちの土地の肥沃さを誇っていたことを指していると思われます。そして、彼らは、「自分の財宝に拠り頼んで」、「だれが、私のところに来よう」と言いながら安逸をむさぼっていました。それに対し、主は、「見よ。わたしは四方からあなたに恐怖をもたらす」(49:5)というさばきを宣告されます。

ここでも、その悲惨の後に、「わたしはアモン人の繁栄を元どおりにする」(49:6)というモアブと同じ約束が与えられています。主は、「財宝に拠り頼んで」いた小国をも、謙遜にしたうえで、救いに導いてくださるというのです。私たちも周りにも、それほどの大金持ちでもないのに、お金の力に頼ったり、また危ない教えに頼ったりしている人がいることでしょう。しかし、彼らも自分の頼りにしていたもののむなしさを知ったとき、真の信仰に目覚めます。

   

「エドムについて」(49:7)のさばきはオバデヤ書と重なっている部分があります。エドムはヤコブの兄のエサウの子孫で、死海の南からアカバ湾に至る地を支配していました。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか」(49:7)とありますが、テマンはエドム北部の町で、彼らの誇りは自分たちの知恵でした。ヨブ記に登場するヨブの友人「テマン人エリファズ」(ヨブ4,5章)とは、この地の出身者だと思われます。しかし、彼らの「知恵」も、アモン人の財宝と同じように、何の役にも立たなかったことが示されています。

そして、「ぶどうを収穫する者たちが、あなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さない・・・・わたしがエサウを裸にし・・・彼の子孫も兄弟も隣人も踏みにじられてひとりもいなくなる」(49:9、10)とあるのはエドムがバビロンによってそのすべての富を奪われ、とりでや隠れ場が壊され、廃墟とされることを意味します。

そして、「あなたのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生きながらえさせる。あなたのやもめたちは、わたしに拠り頼まなければならない(49:11)とあるのは、世話をできる成人男性が誰もいないほどに国が無力とされることを示しますが、同時に、回復の希望が、みなしごややもめという最下層の民から始まるということを示しているとも言えましょう。なぜなら、彼らは自分たちの弱さを自覚するからこそ、主に拠り頼むことができるからです。

「岩の住みかに住む者、丘の頂を占める者よ。あなたの脅かしが、あなた自身を欺いた。あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす(49:16)とあるのは、エドムの地が山の多い高地で、彼らは天然の要害の中に引きこもって安心していたからです。それに対して主は、エドムの滅亡が、その北に隣接していた、「ソドムとゴモラとその近隣の破滅のように」徹底したものになると記されます(49:18)。そして、主は、「獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう」(49:19)といわれながらも、「わたしは、選ばれた人をそこに置く。なぜなら・・・だれかわたしの前に立つことのできる牧者があろうか」と、主ご自身がひとりの牧者を立ててこの地を治めるという希望が述べられます。

ここでも、主は、彼らの高慢をさばいた後に、ご自身で、「選ばれた人をそこに置く」という救いを約束しておられます。彼らは目に見える権力者たちの力に失望して初めて、主が立てた牧者を受け入れることができるからです。

  そして、主は、「ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて」のさばきを宣告されます(49:34)。エラムとはペルシャ湾の北の国で現在のイランの南西部です。ここは、後にバビロン帝国を滅ぼすペルシャ帝国の中心地になります。現在のイランとイラクの戦いは、歴史の始まりからこの時までもその後も続いています。もし、バビロンにエルサレムへの攻撃をやめさせるとしたら、エラムに背後から攻撃させれば良いわけで、そこにエルサレムの希望がありました。しかし主は、その望みを打ち砕くように、「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く」(49:35)と言われます。そして主は、「わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす」(49:37)と言われますが、これはエラムの背後からという意味よりは、バビロンの剣が彼らを追いかけるという意味だと思われます。

そして主は、「わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす」(49:38)と言われますが、これはネブカデネザルが紀元前595年頃、エラムを支配したことを指すと思われます。

しかしここでも最後に、主(ヤハウェ)は、再び、「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムの繁栄を元どおりにする」(49:39)と言われます。これはモアブとアモンに対する預言と同じです。なお、これは将来的な異邦人の救いを意味するとともに、短期的には、エラムがペルシャ帝国に併合されて繁栄することを指すとも思われます。エラムの首都スサ(シュシャン)はペルシャ帝国の首都ともなるからです。

  使徒ペテロは、様々な試練に会っている人々に慰めの手紙を書きましたが、その結論で、みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:5-7)と記しています。これこそ、聖書のテーマではないでしょうか。私たちは、いろんなことが順調に行っているとき、自分の生き方に問題があるということに気づきません。それどころか、神を信じていようがいまいが、何も変わりはしないなどと思ってしまいがちです。しかも、昔の罪に満ちた生活をなつかしく思うことさえあるかもそれません。しかし、ふと、「だれも自分の痛みをわかってはくれない・・・」と思うような孤独を味わう中で、真に私たちのことを「心配し」、「支え」、また「守り通して下さる方」に目が開かれるのではないでしょうか。私たちが一時的な試練を通らされるのは、自分の無力さを意識し、主に拠り頼むことができるようになるための神の愛による導きなのです。

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2009年6月 7日 (日)

ルカ20:45~21:9「人はうわべを見るが・・・」

                                              20096月7日

 イエスの時代の宗教指導者たちは、一様に、「神の国」の実現を待ち望んでいました。それは目に見えるダビデ王国の再興のときでした。律法学者たちは指導者たちの中でも、特に、目に見えない神のご支配や復活のいのちということに目を向けていました。ただ、その際、主を愛する者に主は「祝福」を与え、主の御声に従わない者には「のろい」が与えられるという趣旨の教えを、あまりにも短絡的にとらえていました。彼らはそれを逆転させ、すべてを因果律で判断するようになった結果、自分たちの生活が安定しているのは、自分たちの信仰のおかげと自分を誇り、反対に、貧しい人は、自分たちの不信仰に対する報いを受けているに過ぎないと解釈していました。

しかも、律法学者たちは、無知な民衆たちを正しい信仰に導き、神の国を復興するという熱い情熱を持っていました。また、民衆の側でも、ギリシャやローマの風習に染まらないユダヤ人の慣習の模範を示してくれる律法学者たちを必要としていました。そして、ローマ帝国の総督やその権力に媚を売るユダヤ人指導者の権力に対抗するため、律法学者たちはいつも民衆の支持を得ることに腐心していました。彼らは互いを必要としていたのです。

1.「律法学者たちには気をつけなさい・・・」

「また、民衆がみな耳を傾けているとき」(20:45)とは、イエスがサドカイ人にもパリサイ人にも、堂々と渡り合って議論に勝利を収めた様子を、民衆が感心していたという状況を指します。この時、イエスはご自分の弟子たちに対して警告を発し「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです」(20:46)と言われました。彼らからすれば、自分たちは敬虔な生活を無知な人々に証しをしていると弁明したことでしょう。また律法の解釈にいのちを賭けている自分たちが尊敬を受けることは、聖書の教えの権威を守ることと不可分であると弁明したことでしょう。

しかし、彼らが見過ごしていたのは、人間にとって名誉また栄誉とは、最高の地上的な財宝であるということです。人は自分の名誉のためなら命を捨てることができます。彼らは人々への証しの生活という名の下に、無意識だったかもしれませんが、自分たちが名誉心の奴隷になっていたということを忘れていました。

そればかりか、それによって、「やもめの家を食いつぶし」(20:47)ていたというのです。当時の律法学者はみことばを教える際に、お金を取ることは禁じられていましたが、感謝のしるしを受け取ることはできました。彼らは、自分たちへの贈り物は神への感謝の表現になり、神が報いてくださるなどと言いながら、貧しいやもめから贈り物を積極的に受け取っていたようです。また揉め事に関与して口利き料や弁護料を取ったりしていたようです。

そして、彼らは、「見えを飾るために長い祈りをします」とあるように、神への祈りという信仰の本質的な部分に名誉心が入り込んでしまっていたというのです。そしてイエスは、「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」と言われました。後に使徒ヤコブは、「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は格別にきびしいさばきを受けるのです」(ヤコブ3:1)と述べましたが、キリスト教会の指導者も格別に厳しいさばきを受ける可能性があります。彼らが神に近いと考えるのは間違いです。反対に、教師たちは非常に危ないところに立たせられているということを、あわれみの眼差しをもって見ていただく必要があります。イエスは、「彼ら(律法学者)があなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれでも彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです」(マタイ23:3)と言われましたが、それが牧師にも当てはまるでしょう。

ドイツでの家庭集会時代の友人が、小生の本やメッセージ原稿を喜んでくださり、それを友人やご家族にも転送して下さっているのですが、最近こんなことを書いてきてくださいました。「高橋さんのメッセージのよさのひとつは、ありのままのご自分を見つめる謙虚な姿勢に支えられていると思います。御本やメッセージが用いられるにつれ、誘惑に陥ることなく、その謙虚さが形式的なものにならず、さらに深い洞察を与えられますように、余計なお世話かもしれませんが、古い友達として、祈っていこうと思っています。」

  一瞬、「僕のことを謙遜にしてくれる人はいつも沢山いますから、ご心配なく・・・」とでも、書きたくなりましたが、「この方は、ほんとうに大切な友だな・・・」と、改めて心から感謝しました。「誘惑に陥ることなく、謙虚さが形式的なものにならず・・・」というのはまさに的を得ています。宗教指導者は、知らず知らずのうちに謙遜な振りをすることを身に着けてしまいます。そして、それによって尊敬を得る方法を身につけて行きがちです。それにしても、イエスは、宗教指導者が陥りやすい罠を、このように弟子たちに告げ、また弟子たちがこれをこのように書き残しているということは驚くべきことではないでしょうか。ここにこそ、聖書の教えの真実さの証しがあります。

  多くの人々は、宗教に偽善の匂いをかぎつけます。確かに偽善に満ちた宗教団体が数多くあります。最近、また、政治の世界に出ようとしている新興宗教などもあるようですが、なぜ、人々は、あの偽善に騙されるのかと不思議に思います。それは人々が見せかけに弱いからでもありましょう。イエスは、ご自分の弟子たちがそのような宗教の罠に陥ったり、また人々をそのような罠に陥らせないように、宗教指導者の危なさを徹底的に知らせました。 

それによって、主は、ひとりひとりが、目に見える指導者を通してではなく、自分ひとりで神の前に立つことができるようにと導こうとしておられます。確かに、聖書の教師を尊敬すべきことは当然のことであり、また聖書は、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです」(ヘブル13:17)と命じていますが、これは指導者が、人に代わって弁明するという意味ではなく、自分の働きを弁明しなければならないという意味です。彼は、一人ひとりを誤った教えから守り、それぞれが自分で聖書を読み、自分で神に向かって祈ることができるように助ける責任を果たしてきたかが問われるのです。たとえば、私の中には、「人から頼りにされたい・・」という思いがあります。人はうわべを見るのが常ですから、そんな牧師が好まれるでしょう。そこに神を抜きにした依存関係が生まれます。しかし、心の中で自分を救い主のとしたいと願うような指導者を神からさばかれます。主はその人の心の動機を見ておらます。

2.「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」

 「さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった(21:1、2)とありますが、マルコは、「イエスが献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた」 (12:41)と記されています。イエスが「目を上げて」とあるのは、イエスがそこに座ったということの現われではないでしょうか。そして、ここでは、「ご覧になった」ということばが二度繰り返されていますが、それはイエスが、多くの金持ちが大金を入れる様子と、ひとりの貧しいやもめの献金との二種類の献金を、それぞれの姿勢を見ておられたという意味です。その献金箱とは13のラッパの形をした金属製に器でしたから、黙っていても、その音からでも、誰がどのくらい入れたかがわかります。そこに次から次と、人々が一日分の労賃に相当するデナリ銀貨などを入れていたことでしょう。そこに最後に、ひっそりと貧しいやもめがレプタ銅貨二枚をささげたというのです。これは二羽の雀が一アサリオンで売っているといわれたアサリオンの8分の一の単位、1デナリの128分の1の単位、二枚でローマの銭湯の一回分の入浴料ぐらいであったと言われます。この貧しいやもめには、もっとも雀さえも買うことができなかったのです。

  これはしばしば献金の勧めとして、自分が持っているすべてをささげることの祝福を教えるために用いられますが、マルコでもルカでも、律法学者たちが「やもめの家を食いつぶしている」という記事とセットに記されています。つまり、これは神の御子イエスが、人のようにうわべをみないで、その心を見ておられるということのしるしとして描かれているのです。それは主が、「わたしは・・人が見るようには見ない。人はうわべを見るが、主(ヤハウェ)は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)と語っておられたとおりです。さきの律法学者たちの見せかけの姿と、金持ちの目立った献金は同じ意味があります。イエスは献金のうわべの姿ではなく、そこに込められた思いをご覧になりました

 そしてイエスはここで弟子たちに向かって、「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです」(21:3、4)と言われました。このイエスの言葉は、明らかに、20章45節からの弟子たちに対する教えの継続です。イエスは、このレプタ銅貨二枚が、このやもめにとってどれほど貴重なものかをすぐに見分けたのです。ここでは、このやもめのささげものが、神にとっては誰よりも高額なささげものになったという面が強調されています。そして、それこそ神のまなざしです。なお当時は、レプタ銅貨をささげる者はできれば二枚以上をささげるようにという言い伝えがあったようです。ですから、彼女は、精一杯、当時の教えに忠実でありたいと思いながら、自分の生活費の全部をささげたのです。それは彼女にとって、神への信頼の証しだったことでしょう。しかし、その証は、イエスとイエスの父なる神以外の誰も知ることができない証しでした。

私たちはふと、「この後、このやもめは、どうやってその日のパンを得たのか・・・」と心配します。しかし、聖書の神は、「みなしごの父、やもめのさばき人」(詩篇68:5)、主の偉大さは、「みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる」(申命記10:18)ことによって現されると記されています。当時の律法学者たちは、貧しさを神のさばきの結果と見ていましたが、聖書は、貧しさを、神のあわれみと偉大さが現される機会として記しています。神は誰よりも、貧しい者の叫びに耳を傾けられる方なのです。

  先日、日本福音同盟という日本の福音派の諸教会の協力団体の総会に出席してきました。そこで日本長老教会の指導的な牧師の村瀬俊夫先生が感動的なメッセージをしてくださいました。彼は二十歳で信仰に導かれ、牧師に召されましたが、記憶力には少なからず自信を持っていたとのことです。そのため人をさばくことが多くなり、また人の失敗がストレスとなり、何度も「牧師をやめたい・・」と悩んだとのことです。ところが、還暦を越え、物忘れが激しくなり、自分に自信がなくなって来るにつれ、毎日が楽しくなりました。それは、自分の弱さや貧しさが身にしみてくるにつれ、イエスに生かされているという実感が強くなったからです。それまでは、「いつも喜んでいなさい・・すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という聖書の基本的な命令を聞いても、会衆には、「これは、努力目標です」などと弁解がましく言っていたそうですが、80歳になるとそれが自然にできるようになったと生き生きと語っておられました。

この貧しいやもめのささげものの記事を読むたびに、人によっては、「私も比率的に、もっとささげなければ」などと思うかもしれません。しかし、金持ちは全財産をささげることはできなくても、やもめは全財産をささげることは比較的容易なのです。それは、自分の力では何もできないということを、心の底から味わっているからです。

ですから、自分のけち臭さや、自分が不安から自由になれないことを悩む必要はありません。それよりも、目を大きく開いて、世界の大きさと自分の小ささに目が開かれるように祈るべきではないでしょうか。すると、自分が神の豊かさから見たら、レプタ銅貨二枚しか持っていない貧しい者と同じであることに気づくことでしょう。しかも、あわてることはありません。神から与えられた使命を果たそうと生きだしたら、否が応でも、自分の弱さを実感せざるをえなくなるのですから・・・。その意味で、「謙遜にしてください・・」と祈るよりも、「使命に生かしてください」と祈るべきでしょう。そして、神は、貧しいあなた自身をご自身へのささげものとして心から喜んでくださいます。

3.「終わりは、すぐには来ません」

 「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった」(21:5)とありますが、当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王がユダヤ人の気を惹くために大修復し大拡張したもので、その規模と美しさは世界の七不思議を上回ると言われます。その敷地面積は有名なアテネのアクロポリス神殿の二倍もあり、周囲の長さは1.55km、今も残るひとつの石の大きさは長さ13.7m、幅3.2m、奥行き4m、重さ570tにも及びます。そして神殿の中心部や飾りには、金がふんだんに使われていました。マルコによる福音書では、やもめのささげ物の記事に続いて、「イエスが宮から出てゆかれるとき、弟子のひとりがイエスに、『先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう』と言った」という記事が記されています(13:1)。弟子たちは、イエスがこれから三日後には十字架にかけられようとしているなどということを何も知らず、ただ目に見える神殿の壮麗さに感動していました。

それに対して、イエスは、「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます」(21:6)と言われました。これはユダヤ人たちが、人間的な意味での目に見える「神の国」の建設を願って、ローマ帝国に反抗してしまうことの結末を予告したものです。それはこれから約40年後に実際に起こりました。ユダヤ人の独立運動に対してローマ帝国は皇帝自らが軍隊を率いて遠征してきて、神殿の跡形もないほどに破壊しつくされました。それは、ユダヤ人たちが、エルサレム神殿を民族の誇りとしてとらえ、ローマ帝国の軍事力を凌駕するような目に見える「神の国」のシンボルと見ていたからです。

 それを聞いた人々は驚きながら、イエスに、「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう」(21:7)と質問しました。それに対し、イエスは、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません(21:8、9)と言われました。

興味深いのは、偽預言者たちは、「時は近づいた」というのに対して、イエスは、「終わりは、すぐには来ません」と語っているということです。つまり、偽預言者の特徴は、「私がそれだ」と自分の権威を主張しながら、世の混乱がすぐに収束するようかのように語ることにあるというのです。いつの世でも、人々はインスタントな解決を求め、偽預言者はそれに答えようとしますが、イエスは、「戦争や暴動」は、神のご支配の中で起こることだと語られたのです。私たちは、目の前の混乱を見て、「神がこの世界の王なら、なぜこのような悲惨が許されるのか・・・」と疑問に思いますが、イエスは、それは驚くべきことではなく、起こるべきして起きていることとして語っているのです。

  世の人々は、辛抱するのが苦手です。そして、神の救いを、インスタントな解決として理解しがちです。しかし、イエスは弟子たちに対して、「あなたがたは、世にあっては患難があります」わざわざ保障した上で、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と、困難の中での勝利を約束してくださったからです。これは別に、クリスチャンになったらいつも目の前に悪いことばかりが起こるのを覚悟しなさいという意味ではありません。それよりは、たといわざわいが起こっても、それに驚きあきれ、「神が私の不信仰に対して罰を与えた」とか、また反対に、「神は無力で信頼するに値しない」などと思う必要がないという意味です。実は、この世の悲惨は、神の偉大さ、神の栄光が現されるための舞台に過ぎないということなのです。適度な苦しみがあるからこそ、神の救いを味わう機会があるのです。私たちは残念ながら、闇のコントラストでしか光を感じることができません。また争いがあるから平和のありがたさがわかり、目の前に不安があるから、神にある平安の意味がわかるからです。

つまり、このことを通しても、イエスは、みせかけに惑わされないようにと、私たちに警告を発しておられるのです。イエスの時代のエルサレム神殿はヘロデ大王が再建したものでしたが、それは外庭を含めた敷地からすればソロモンの神殿をはるかに超えるほどの規模を持ったものでした。しかし、ヘロデはそれを信仰によって建てたわけではありません。彼はユダヤ人ではなく、エサウの子孫であり、ユダヤ人の気を惹くために神殿の拡張再建工事をしたに過ぎません。しかも、その彼は大きな建築をするのが趣味のような人で、ローマ帝国を後ろ盾にしてユダヤ人を暴力で押さえ込んで、重税を課していました。まさに見栄と暴力によって、エルサレム神殿は再建されたのですが、肝心の契約の箱はその中にありませんでした。まさに当時の神殿は、見せかけに過ぎませんでした。

 「人はうわべを見る・・・」というのは、残念ながら、多くの人にとっての真理です。律法学者が見せかけの敬虔さをアピールしたのは、人々がそのような形を期待したからでもあります。そのような中でイエスは、律法学者たちの偽善を暴き、それが見せかけの敬虔さに過ぎないことを非難しながら、弟子たちに、ひとりの貧しいやもめの信仰に目を向けさせます。それは神はみかけではなく心の内側を何よりも見ておられるということを意味しました。

そしてイエスは最後に、みかけはとてつもなく絢爛豪華なエルサレム神殿を指しながら、その完全な崩壊を予告しました。それは外面の壮麗さや豪華さに目を奪われる人への警告でもありました。イエスは、「神の国は、人の目で見られるようにして来るものではありません。『そら、そこにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただなかにあるのです」と言われました(ルカ17:20,21)。これは、私たちがイエスの名によってイエスの父なる神を、「天のお父様!」といつでもどこでも呼びながら、主が遣わされる社会の中に生きている、このただ中に、すでに神の国が実現しているという意味です。ある人は、職場に神の国を実現しようと頑張って、疲れてしまったと証していました。しかし、私たちが、ふと、その仕事の疲れの中で、無力感にさいなまれながら、「お父様!助けてください」と呼びかけているとき、そこに神の国が実現していると言えるのではないでしょうか。神の国とは、目に見えるものではなく、神との交わりのただ中にあるからです。

「いつくしみ深き」という有名な賛美歌の原歌詞では、「O what peace often forfeit, O what needless pain we bear, All because we do not carry Ev’ry-thing to God in prayer」(私たちがしばしば平安を失い、不必要な苦しみに苛まれるのは、すべてのことを神に祈りによって持ってゆこうとしないからなのだ)と歌われています。

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