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2009年7月20日 (月)

ローマ8:15-30「ともにうめく中で生まれる望み」

                                               2009年7月19

  ドイツ語のことわざに、「分かち合った喜びは二倍の喜びに、分かち合った苦しみは半分の苦しみになる」というのがあります。それこそが愛の交わりの中で起きる不思議ではないでしょうか。ともに悲しみながら、またともにうめきながら、そこに何ともいえない希望が生まれているということがあります。

この世は、あらゆる問題に対する解決策を示そうとする「ハウ・ツー」で満ちています。しかし、それは多くの場合、誇大広告です。それが新たな失望の始まりになります。しかも、この世が提供する解決は、しばしば、人との競争に勝つということを示しています。そこでは必ず、敗者が生まれています。ひとつの問題の解決の裏に、他の人の悲劇の始まりがあります。しかも、「こうしたら、解決する・・・」というアドバイスなどは、多くの場合、「それを私ができれば世話がない・・・」というもので、かえって落ち込みの原因にさえなります。この世界に必要なのは、もっと根本的な解決です。それはキリストの再臨によってのみ可能になる解決です。人間的な解決ではなく、神の解決です。人の励ましによって生まれる元気ではなく、神が私たちの心を引き上げてくださることによって生まれる活力です。そして、そのために何よりも必要なのは、問題解決を考える前に、「ともにうめく」ということです。そこに御霊のうめきが生まれます。そして、御霊のうめきは、私たちに、この世の常識を超えた希望を生み出してくださいます。 

1. 「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」

  私たちはみな、「子としてくださる御霊を受け」(15)たとありますが、これは、養子縁組をされることによって、神の御子であるイエスと同じ立場を持つ子供とされたことを意味します。たとえば、ある牧師の家では、三人の実子を持っていながら四人目のお子さんを小さないのちを守る会から、養子として受け入れていますが、親はその四番目のお子さんが特別に可愛くてたまらないほどだと言っていました。というより、どの子も特別に可愛いということのようですが・・・。同じように、イエスが父なる神にとってかけがえのない子どもであると同じように、私たちもかけがえのない神の子どもにしていただいたのです。それを可能にしてくださったのが御霊の働きでした。

そのことが、「もし、子どもであるなら、相続人でもあります」(8:17)と記されています。もし私たちの親が莫大な財産の所有者である場合、ふだん親との関係が疎遠であっても、時が来たら、相続権は決定的な意味を持ちます。またそのような際、親も子供の自律のために、お金の苦労を若いときに敢えてさせるとともに、最終的にも、財産の管理能力があることを確信できるまでは相続を許しはしません。今、私たちも、神の子どもとされている恵みも、すぐにはわからないこともありましょうが、それは、良い親が愛する子どもに敢えて苦労をさせるのと同じようなものです。時が来たら、神の子どもとしての特権のすばらしさを心から味わうことができることでしょう。そのことが、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人でもあります」(8:17)と述べられます。「キリストとの共同相続人」であるとは、私たちがキリストと同じ神の子どもの立場が与えられ、私たちがキリストの弟、妹とされたことを意味します。それは私たちにとっての特権であるとともに、重い責任を自覚することでもあります。私たちは、今から、「キリストとともに」この世界を治めるという誇りある責任を自覚しながら生きるように召されています。それは、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(Ⅰペテロ2:9)とある通りです。

  イエスは、全地に平和を実現する救い主(キリスト)です。主は、そのために私たちひとりひとりを用いようとしておられます。アダムは、この地を治める者として創造されたのに、その責任を放棄し、この地に「のろい」をもたらしました。しかし、私たちは今や、神の子どもの立場が回復され、キリストとともに、この地に神の平和を実現するのです。ただし、それには意外なプロセスがあります。私たちは無意識のうちにアダムの生き方が身についています。それは、「自分を神とする」生き方です。私たちは心のどこかで、「私は正しい!問題の原因は、あなたとこの世界にある」と自分を中心に世界を見ています。私たちも無意識のうちに、「この問題は、こうしたら解決するはずなのに、首相が愚かだから・・・」などとわかったつもりになって議論することがあります。しかし、そのような発想が権力闘争を生み出すのではないでしょうか。そこでは自分の理想を実現するために、反対者を力でねじふせることが正当化されます。しかし、そのように身近な人を、力で圧倒しようとする発想こそが、すべての争いの原因です。その闘争は、家庭から始まり、あらゆる組織に及びます。しかし、私たちの主キリストは、敢えてご自身の力を捨て、仕える者の姿を取り、弟子の足を洗い、最後には私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。それは自分を神としたアダムの生き方を逆転させた生き方でした。そして、それは苦難を力で退ける代わりに、人の苦難までも引き受けようとする生き方です。そのことが、「キリストと苦難をともにする」(17)という生き方です。

17節の後半の文章は、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。それは実に、私たちが、キリストとともに苦しむことによって、ともに栄光を受けることになるからです」と訳することができます。私たちがキリストの弟、妹とされているということは、しばしば、「ともに苦しむ」ということを通して表されます。もし、どこかの家族で、兄だけが粗末な食事に耐え、弟や妹が豪華な食事をするなどということがあったら、それは健全な家族ではありません。家族は、苦しみをともに味わうことによって、喜びをもともに味わうことができるようになるのです。

しかも、私たちの人生は、苦しみで終わるものではありません。「ともに苦しむ」ということは、常に、「ともに相続する」ことと、「ともに栄光を受ける」こととセットにされているのです。私たちに与えられた救いとは、新しい身体を持ってよみがえり、「キリストと、栄光をともに受ける」ことです。そしてそのとき、目に見える平和が実現されます。

ところで、パウロはここで、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(18)と告白していますが、彼が会った苦しみは私たちの想像を超えるものです。彼は、何度も投獄され、五度にもわたって当時許されていた最高限度の39回の鞭打ちの刑を受け、船が難破して一昼夜、海上を漂い、飢え乾き、寒さに凍え、裸でいたこともありました(Ⅱコリント11:23-28)。そればかりか、日々、自分が開拓した様々な教会からの知らせを受けて心を痛め、特に、コリントの教会などからは偽使徒で献金泥棒かのような非難を受けていました。まさに四面楚歌です。しかし、パウロは、その苦しみは、将来の自分に約束されている栄光に比べれば取るに足りないと断言しました。彼が苦しみに耐えることができたのは、「キリストとともに栄光を受ける」ことのすばらしさをいつも心に思い浮かべて生きていたからです。

それにしても、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです」(19)というのは、興味深い表現です。本来、感情を持つことがないはずのこの世界のすべてのもの、大地震や火山噴火、日照りや台風、子羊が狼に食い殺され、子ヤギが豹に、子牛がライオンに食べられとき、パウロは、被造物が切実な思いで神の救いの完成を待ち望んでいるということをイメージしました。これは私たちがペットの死を心から悲しみ、その痛みに共感する気持ちに似ているのではないでしょうか。なお、ここで、「神の子どもたちの現われ」とは、私たちの復活のとき、つまり、救いの完成のときです。それが全被造物の救いにつながるのは、「被造物が虚無に服した」のが、人間が神に服従することをやめ責任を放棄したことに始まっていたからです。そして、被造物を人間に服従させた方は万物の創造主である神であるという意味で、全被造物に「望みがある」というのです(20)

そして、今、神はこの世界を混乱に陥れた人間を造りかえることから全世界を新しくしようと、ご自身の御子を遣わして私たちの罪を赦し、またご自身の御霊を遣わして私たちを心のそこから造り変えようとしてくださいました。その希望のことが、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」21節)と記されています。ここで神の子どもたちの栄光の自由」とは、私たちが名実ともに新しい復活の身体を与えられることを意味し、そのとき全被造物の世界も自然災害や弱肉強食の不条理がなくなるというのです。

私たちはこの世界で様々な苦しみを担うように召されていますが、それはキリストと苦難を共にすることによって、キリストとともに栄光を受けるというプロセスの中で起きていることです。そして、私たちがキリストとの共同相続人であることの恵みは、キリストとともに、すべてが新しくされた世界、「新しい天と新しい地」によみがえらせていただき、その世界をキリストとともに治めるという将来において初めて、心から味わうことができます。私たち自身も、またこの世界も完成に向かっていると信じられるということは何とすばらしいことでしょう。多くの人は、この世の様々な矛盾を見ながら、心を痛め、また怒ったりしますが、この世界が完成に向かっているということを確信できるなら、この世界の矛盾に耐えることができるのではないでしょうか。しかし、身近でありすぎる理想は危険です。ヒットラーだってスターリンだって、人々の心にアピールできる理想を掲げて、結果的に人々を、想像を絶する苦しみに招き入れました。しばしば、性急な問題の解決は、同じような破壊の力を持っているということを忘れてはなりません。

2. 「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら・・」

「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(22)とあるように、この現在の世界には、様々な不条理と悲しみがあり、うめきが満ちています。そして、キリストはそのうめきをともにするために二千年前にベツレヘムに生まれました。そのとき、その「うめき」は、希望のない嘆きではなく、期待に満ちた「産みの苦しみ」に変えられたのです。私たちがキリストとの共同相続人にされたのは、このキリストの「うめき」を自分のものとするため、またキリストに習い、この混乱に満ちた地に派遣されるためなのです。

  預言された救い主は、意外な姿で現れました。本来なら、「天の雲に乗り」(ダニエル7:13)、天の軍勢を引き連れてこの地に来られると思われていました。しかし、その前に、主は、無名の処女マリヤを通して、ひ弱な赤ちゃんになり、家畜の餌を入れる飼い葉桶を最初の住まいとされました。救い主は、何よりも世界の痛み悲しみのただ中に無力な姿で入り、それをともに味わうものとなってくださったのです。もちろん、聖書の預言は必ず成就しますから、イエス・キリストが、再びこの地に来られるとき、主は天の雲に乗った栄光の姿で現れてくださいます。

  そして、「そればかりでなく、御霊の初穂(初穂としての御霊)をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら」(23)とあるように、「御霊」「初穂」として描かれています。「初穂」喜びの始まりを意味します。私は、母が手作りの初生り(初穂)のいちごを食べさせてくれるのが大きな喜びでした。そこには、トマト、メロン、西瓜、とうもろこしが次々と食べられる期待がありました。パウロは、この世界が新しくされる希望を、「神の子どもたちの現われ」(19)「神の子どもたちの栄光の自由」(21)「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(23)と表現しています。私たちは既に「神の子ども」とされましたが、それは目に見える形になっていません。しかし、私たちは確実に、キリストと同じ朽ちることのない新しい身体を受け、「栄光の自由」を味わいます。その「望み」に満ちた喜びの「初穂」を味わうことを可能にして下さるのが御霊の働きです。

  ところが、御霊を受けると反対に、「心の中でうめく(嘆きのため息)」というのです。しばしば、人は、悲しみに蓋をして自分を保ちます。しかし、心が自由にされると涙が出ます。人によっては、幼い時の悲しみを、中年期を過ぎて初めて心の底から泣けるということもありますが、不思議にそこには、表現できないほどの感謝と喜びが伴います。また、御霊の導きによって、自分が知らずにどれだけ人を傷つけていたかが示され、深くうめくこともあります。しかし、同時に、そこには十字架の愛への圧倒的な感謝の喜びが伴います。つまり、「産みの苦しみ」と同じように、「うめき」「喜び」とは、表裏一体のものとしてあるのです。そして、何よりも、この世界の悲惨は、多くの人が、他の人の痛みや、世界の痛みに自分の目を塞いで、それをいっしょに悲しむことができないところから始まります。マザー・テレサが繰り返し言っていたように、愛の対極にあるのは、憎しみではなくて、無関心なのですから・・。

「私たちは、この望みによって救われているのです」(24)とあるように、御霊は、何よりも、救いの完成の「望み」を私たちの心に芽生えさせます。そして、目に見える現実がどんなに厳しくても、自分のいのちは神の御手に守られているという心の余裕が、人や世界の痛みとともに「うめく」という祈りを可能にします。これは、電車のつり革をつかむときに、足を踏ん張らなくてもよくなることに似ています。そして、世界の痛みに合わせてあなたの心が揺れるところから、真実の愛が生まれ、あなたの行動が変えられ、世界に愛が満たされます。

  そして、「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないことを望んでいるなら、私たちは忍耐を持って待ちます」(24,25)というのは、なかなか期待通りにならない私たちの信仰生活を原点に立ち返らせる美しい表現です。それは、現在の私たちの苦しみを、「産みの苦しみ」と見ることです。そして、その苦しみをともに味わうという交わりの中から愛が生まれます。

私たちはみな基本的に、母親の出産の「うめき」によって生まれてきました。しかし、そのとき、あなたの父親は何をしていたでしょう?私の父は、私の誕生が遅れていたせいもあり、泊りがけで親戚の結婚式にでかけていたということを、いまだに私の母から責められています。最近になって、夫が妻の出産に至る「うめき」をともにすることが、その後の子供の成長にどれだけ大切かが分かってきました。私の心が不安定な理由のひとつは、そこにあるのではないかと思います。多くの男性は、ともに「うめく」よりも、「分析」をしがちだと言われますが、そこに痛みに共感するという心が感じられなければ、そこから「うらみ」が芽生えるということがしばしばあります。

「ともにうめく」交わりから、真の家族愛が成長します。それは神の家族においてもまったく同じです。私たちは、この神の家族の交わりにおいて、互いの苦しみを「産みの苦しみ」としてとらえなおし、何の助けもできないようでも、ともに苦しみ、ともに希望に生きるということを大切にしたいものです。なぜなら、私たちがともに待ち望んでいることは、いかなる人間の努力も超えた神の救いの完成の世界、神のみわざの完成のときです。ともに苦しみに耐え、ともに待ち望むとき、私たちは来るべき栄光の喜びをともに味わうことができます。

  

3. 「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって・・・」

  多くの人々は、どのように祈ったらよいかが分かっていながら、神がどのような結論に導かれるかが分かっていません。しかし、パウロは「どのように祈ったらよいか分からない(26)と言いながら、同時に、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを・・知っています(28)と断言します。多くの人は、「こうしてください」とか、「あの人が変えられますように・・」などと自分の願望を明確にしながら、最終的な「望み」は見えていません。しかも、心に余裕がないからこそ、それを実現しようと必死になり、新たな争いを生み出し、この世界の問題を複雑化してしまいます。たとえば、「人に変わって欲しい」と期待する人は、自分の不幸を他人の責任にし続けています。また、心の寂しさが結婚で解決するはずだと信じている人は、結婚に失望するのではないでしょうか。また、「仕事がうまくさえ行けば、すべて満足できる」と思う人は、仕事に駆りたてられ休むことができなくなることでしょう。

  しかし、御霊による祈りは「うめき」から始まります。それは、まず、寂しさや不安、人への恨みや後悔を、そのまま神の御前で沈黙しつつ、深く味わいながら「うめく」ことです。その時、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによってwith groanings too deep for words(26)とあるように、御霊が、私たち以上に私たちの悲しみを味わい「ことばにできないうめき」によって「私たちのためにとりなし」、父なる神の御手に問題を差し出してくださいます。

しかも、「神様は、私の悩みを軽蔑されず、ともに味わって下さる」という神の愛に対する感動は、私たちのうちに「神を愛する」思いを生み出します。そして、「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という約束の成就を確信させてくれるのです。実際、この「望み」によって、目の前の責任を黙々と果たして行くなら、神が、私たちの思いもつかなかった解決を備えてくださっていたことが、しばしば確認されます。

  ところで、多くの人は、自分が取るべき態度を分かっていながら、そうできない自分を責めて苦しんではいないでしょうか。その際、あまりに早急に解決を示すことは、かえって、悩んでいる人への軽蔑として伝わり、苦しみを倍化させてしまうことがあります。そのようなとき、私たちの責任は、まず「ともにうめく」ことではないでしょうか。

一方、私たちは、「何か解決を示してあげなければ・・・」と思うからこそ、人の悩みを聞けないという面もありますから、第一の務めが「ともにうめく」ことであると納得することは、かえって、人の悩みに耳を傾ける勇気を起こさせるものでもあります。問題の解決は、そこにある御霊ご自身のうめきから生まれるのです。それこそ、現実に、神の愛を分かち合う行為です。このような「うめきのミニストリー」に、私たちはもっと目を開くべきでしょう。

  そして、ここで私たちが決して忘れてはならないことがあります。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ということは、決して、ひとりにとっての「益」ということではなく、神の家族全体、いやそれ以上に、この世界全体にとっての「益」とされることを指します。たとえば、創世記のヨセフ物語は、ヨセフが奴隷として売られ、無実の罪で牢屋に入れられたけれど、夢を解き明かすことでエジプトの総理大臣の地位にまで引き上げられたというサクセスストーリーで終わるではありません。ヨセフは、兄たちに向かって、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした(創世記50:20)と言いました。そこで、「良いことのための計らい」とは、ヨセフが大成功を収めたということではなく、ヤコブ一族をエジプトにおいて生かし、星の数のような大きな民族にまで増やすということを指します。つまり、ヤコブ一族、イスラエル全体の「益」ということがテーマなのです。

  そして、ここでは、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」(29)と続きます。これは、先の、「キリストとともに苦しみ、ともに栄光を受ける」というプロセスの中に招き入れられることを指します。

ヨセフは、奴隷に売られ、無実の罪で牢獄に入れられるということがなければ、決してエジプトの総理大臣に引き上げられるということはなかったのです。私たちも、ですから、何よりも、キリストとともに苦しむという生き方に招かれているということを決して忘れてはなりません。簡単に言うと、私たちは他人の犠牲の上に自分の成功を積み上げるようには召されていないのです。私たちはキリストの兄弟、つまり、イエスの弟、妹となるように「あらかじめ定められ」ました。それは、この地において、キリストの生き方に習うということです。

  「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(30)とは、キリストの受肉、バプテスマ、復活、昇天という歩みの御跡に私たちが従うということを指していると思われます。私たちがキリスト者になるように「あらかじめ定められている」とは、小さなキリストとして生きるべくこの世に誕生したということを指します。そして、私たちが「召された」とは、神のみことばを自分への語りかけとして聴いたということを指します。私たちがバプテスマを受けたとき、私たちはキリストとひとつとされ、天の乳なる神から、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という語りかけを聞きました。そして、「義と認め」とは、私たちの心に復活の希望が芽生えることを指します。私たちは自分の変化の遅さに、また惨めさに「うめき」ますが、そこで、御霊ご自身がともに「うめき」、復活の希望を確信させてくださいます。そして最後に、「栄光をお与えになりました」とは、私たちが文字通り、神のみもとに栄光の身体とされて引き上げられるときを指します。それは、まだ先のことです。それはかなりの確立で、この肉体が滅んだ後に起こる出来事です。しかし、この「あらかじめ定め」「召し」「義と認め」「栄光を与えられる」というのは、神の救いの一連のプロセスを指します。そして、今、ここにいる私たちは、既にバプテスマを受けた者として、「義と認められる」というプロセスの中に置かれています。それは目の前の問題が、全く解決していないと思える中で、「ともにうめき」ながら、それを「産みの苦しみ」のうめきと受け止め、「すべてが益とされる」という確信に満たされているという現実、希望に生かされているという状態を指します。私たちは、今ここで、うめきながら、同時に、喜んでいるのです。それこそ、キリスト者の不思議です。

  あなたの周りの具体的な人を思い浮かべ、経済的不安、仕事の重圧、夫婦の争い、離婚、不治の病、心の病、引きこもり、子育ての悩み、失恋、挫折感、老いの痛み、身体の衰え、愛する人の喪失、将来への不安、敗北感などの「悲しみ」を、まずともに味わってみましょう。またユダヤ人とパレスチナ人の痛み、北朝鮮やイランのような独裁政権下で苦しむ人、内戦で家を失った人の悲しみを、自分の「うめき」としましょう。そして、最後に、あなた自身の心の奥底にある不安や孤独感の叫びにも、蓋をすることなく、耳を傾けましょう。そして、御霊のとりなしを待ち望みましょう。世界が平和に向かう変化は、その「御霊のうめき」から始まるのです。

  世界の悲しみを引き受けようとするとき、一時的に、とっても心が沈むかもしれません。しかし、それは自分の問題ばかりで心がいっぱいになる状況と根本的に異なるものです。私たちは自分の心を軽くしようと、世界の痛みかから目を背けるとき、孤独と倦怠感が生まれます。しかし、世界のうめきに心の目と耳を開いてゆくとき、そこには神と神の世界に対する連帯が生まれ、同時に、神の示す希望に心を躍らせることができることでしょう。 

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イザヤ11章1-10節、65章17-25節「新しい天と新しい地を待ち望む生き方」

                                                                                 2009719日 

昨年、アメリカでオバマ大統領が誕生する頃、45年前のマルティン・ルーサー・キングの有名な演説、「I have a dream」がしばしば引用されました。彼は自分が暗殺されることを意識しながら、次のように「夢」を語りました。

「友よ。私は今日、皆さんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでも私にはなお夢がある・・・・私には夢がある。それはいつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである。

私には夢がある。それは、いつの日か不正義と抑圧の暑さにうだっているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに変えられる事である・・・・私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。

私には夢がある。それは悪意に満ちた民主主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か幼い黒人の男の子と女の子が白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである・・・」、

彼は、白人と黒人との間の平和を、以下のイザヤ116-9節のレトリックを用いて表現したのだと思われます。

「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、

子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。

雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。

   乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。

   わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。

   主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」

 キング牧師が語った「夢」は、アメリカを確かに動かしました。それは聖書に基づいた「夢」だったからです。私は決して、オバマ大統領が理想的な大統領だなどと言っているわけではありません。どちらにしても後しばらくすると、様々なボロを出してくることでしょうから・・・ただ、真実な「夢」には社会を動かす力があるということだけを覚えるべきでしょう。そして、私たちもその原点に立ち返って、イザヤに示されたビジョンを改めて黙想してみましょう。

1.イエス・キリストの救いは全世界の平和を実現する

「狼と小羊」、「ひょうと子やぎ」、「子牛と若獅子」(11:6)とは食べる側と食べられる側の関係ですが、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。

「小さい子供がこれを追う(導く)とは、エデンの園で、人が動物を治めていたという関係が回復されることです。また、人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っており「熊」「獅子」も、「牛」と同じように草を食べることで足りたはずでしたが、アダムの罪によって地がのろわれたものとなってしまいました。しかし、神が遣わしてくださる救い主は、そのような原初の平和(シャローム)を回復してくださるというのです(11:7)

「その子らはともに伏し」とは、その平和は一時的なものではなく、それぞれの子らにも受け継がれることです。

「乳飲み子」「乳離れした子」が、コブラやまむしのような毒蛇と遊ぶことができるとは(11:8)「女の子孫」「蛇の子孫」との間の敵意(創世記3:15)が取り去られ、「蛇」がサタンの手先になる以前の状態に回復することです。

「わたしの聖なる山」(11:9)とは、エルサレム神殿のあったシオンの山を指しますが、そこが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治める中心地になるというのです。そこは、現在、民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれが異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ので、宗教戦争などはなくなります。

そして、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩う所は栄光に輝く」(11:10)とは、このような神の完全な平和シャロームは、イエスが世界中で「全地の王」、「主」としてあがめられることによって実現するという意味です。私たちはすでにそのような世界に一歩足を踏み入れています。

私たちは、神がイエス・キリストにおいてもたらしてくださる救いを、このような動物界をも含めた全世界的な観点から理解しているでしょうか?しかし、この116-9節の夢を実現するために、救い主はこの地に来られたのです。この直前のイザヤ11:1-5はクリスマスのたびごとに読まれるキリスト預言です。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証と見られているのです。私たちは、「救い」を狭く捉えすぎていないでしょうか。

イエスは「エッサイの根」から生まれる「ダビデの子」です。ダビデがもたらしたエルサレムの平和は一時的なものでした。それは武力に依存していたからです。しかし、116節からは第二のダビデが、第一のダビデの成し得なかったような完全な平和を、エルサレムに実現し、エデンの園を再興すると語られます。イザヤは、救い主はすぐにこのような平和を実現してくださると期待していましたが、救い主は二度に分けてこの地に来られることになりました。一度目はひ弱な人間として来られ、私たちの罪の身代わりのいけにえとなってくださいました。それは、力ではなく、愛による平和をもたらすためでした。そして、二度目は、「王の王、主の主」としての栄光を現しながらこの地に来られ、悪の力を砕き、この地に弱肉強食のない真の平和を実現してくださいます。イザヤの預言は既に半分が成就しています。私たちは残り半分の預言が成就することを信じているからこそ、目の前の問題に、平和の使者として向かってゆくことができます。永遠の夢を持つからこそ、この世の悪に屈せずにいられるのです。

 キング牧師は、I have a dream! と、イザヤ書に約束されている平和の「夢」を、白人と黒人の平和という身近な「夢」に置き換えて訴えることによって、アメリカを動かしました。私たちの目の前にも、こじれにこじれて解決が見えないという大きな山が見えるかもしれません。何の希望もないと思えることがあるかもしれません。しかし、私たちの救い主は、神から見捨てられたという罪の暗闇の中を通り過ぎてくださいました。暗闇の中で私たちは十字架のイエスに出会うことができます。そして、十字架のイエスに出会ったものは、復活のイエスにも出会っています。私たちはどんなに弱くても、復活のイエスがともに歩み、力を与え、平和(平安)の完成への道を開いてくださいます。  

2.「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」

 ところで、私たちが神の救いを見えなく感じるとき、慰めになるみことばが63章8-10節に記されています。まず、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」とは、放蕩三昧をして落ちぶれて帰って来た息子を迎える父の気持ちです。そして、「こうして、主は彼らの救い主になられた」という表現と共に、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身(御顔)の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(63:9)という主の「愛とあわれみ」が描かれます。ここで「ご自身の使い」ということばは、原文で、「彼の顔の使い」と記されており、単に、ご自分の代理としての御使いを送ったというのではなく、主がご自身のあわれみの御顔を向けておられるということが強調されています。しかも、主は、私たちの痛みを上から見下ろしておられる方ではなく、ともに「苦しみ」、また、「背負い、抱いて」来られた方だというのです。

  今から約三十年前、フィリップ・ヤンシーという米国のジャーナリストを有名にした本があります。そのタイトルは、「Where is God when it hurts」(痛むとき神はどこにおられるのか)でした。それは誰もが避けたいと願う「痛み」に創造的な価値があるということを解き明かした本として米国で絶賛されました。しかし、それは別に目新しい教えではなく、今から二千七百年前に、神がイザヤを通して語っていたことでした。イスラエルの民は、自分たちの痛みを通して、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」という霊的現実を体験できたのです。神を遠く感じるとき、神は私たちの最も身近におられるという逆説があるのです。

ところがそれにも関わらず、主の民は「逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」ので、「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」(63:10)というのです。これは、イスラエルの民のバビロン捕囚に至るまでの神のさばきの全体を表わしたものだと思われます。その過程で、主は、敢えて異教の国々を動かし、イスラエル攻撃に仕向けられました。約束の地に至る過程では、主はイスラエル側に立たれて外国と戦っておられましたが、約束に地に入ってから、特にダビデ以降の時代は、神は外国の国々を用いてイスラエルを懲らしめられました。それはまるでイスラエルの神、主(ヤハウェ)が外国人の味方となり、イスラエルの敵となられたことを意味します。

3.「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」

そして、このようなさばきの後に、神が新しく実現してくださる世界のことが、イザヤ65章17節以降で、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ」(65:17-19)と描かれます。ここで、「わたしは・・創造する」と三度も繰り返されている神の宣言を何よりも心の底から味わってみるべきでしょう。しかも、「新しい天と新しい地」の創造は、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の最初のことばに対応して記されます。その上で、失われた喜びの園「エデン」を回復するという意思を込めて、「わたしの創造するものを・・楽しみ喜べ」と勧められます。ここに、廃墟とされたエルサレムを主ご自身が新しく創造されるという断固たる意思が見られます。これは、黙示録の「新しいエルサレム」につながります。しかも、ここでは主ご自身が、「わたしの民を楽しむ」と繰り返しておられます。それは、主が天と地を新しくされる前に、私たち自身をも内側から造り変えてくださるからです。

  私たちは自分自身の進歩のなさ、この世の不条理がはびこる現実にしばしば失望を味わいます。しかし、聖書を通して読む事によって、私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことができるように召されています。私たちは、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」の理由を知ることはできません。しかし、「神を愛する人々・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と大胆に告白することができます。この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って、私たち自身を、そして世界を造り変えてくださるのです。

  「そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる」(65:20)とは、申命記28章で、主を憎む者に対する「のろい」が、「あなたの身から生まれる者ものろわれる・・・主(ヤハウェ)は、疫病をあなたの身にまといつかせる」(18,21節)と記されていた事との対比として理解されるべきでしょう。

また、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない」(65:21、22)とは、同じく申命記28章で、「あなたが・・家を建てても住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・・地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう」(30,33節)と記されている「のろい」との対比で理解すべきです。

「わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主(ヤハウェ)に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ」(65:22,23)という「祝福」も、申命記28章で、「これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついにはあなたを根絶やしにする」(45節)と結論されていたすべての「のろい」との対比で理解される必要があります。イスラエルの民が、神を敵としてしまったとき、彼らはあらゆる疫病に悩まされ、畑に種を植えてもいなごが食い尽くし、息子や娘を産んでも奴隷にされてしまい、家族がともに働き続けても苦しみしか待っていないような「のろい」の時代が来ました。

  しかし、今や、キリストの復活によって、申命記28章に記された「のろい」と対照的な「祝福」の時代が私たちに既に実現し始めています。それは、真冬の寒い時に、梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。そして、新しい天と新しい地のつぼみこそ、このキリストの教会です。今既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっています。ですから、パウロは、キリストの復活の説明の結論として、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と語りました。

  ローマ帝国でキリスト教会が成長するきっかけに伝染病への対処の違いがあったという調査があります。紀元165年に天然痘が猛威を振るい、15年間のうちに人口の三分の一ないし四分の一が命を落とし、当時賢帝として名高かった皇帝マルクス・アウレリウスも180年にウィーンで命を落としたと言われます。また紀元251年にも、「はしか」の蔓延によって同じような壊滅的な被害が起こったと言われます。当時の人々は、伝染病にかかった人を家の中からすぐに追い出して隔離し、伝染を恐れて何の手当ても施しませんでした。至る所に半死の病人が捨て置かれていたと言われます。それに対して、キリスト教会では、人々は、伝染の恐れがあるにも関わらず病人の世話をし、日々の必要を満たしていました。彼らは、看病を通して感染しても、それを殉教のひとつの形としてとらえ、これを、神が信者たちを訓練するために与えた試練であると前向きに受け止めました。その結果、不思議に、教会の交わりのなかにある人々の感染による死亡率は、世における死亡率よりも極端に少なくなっていきました。なぜなら、心のこもった手当ては、人のうちにある抵抗力を驚くほど高めたからです。そして、何よりも、世の人々は、「クリスチャンは互いに何と深く愛し合っていることか・・」と感動し、入信者が増えて行ったと言われます。

  今も、私たちの目の前には、様々な不条理や苦しみが広がっており、「新しい天と新しい地」のことが遠い夢物語のように感じられるかもしれません。しかし、イエス・キリストの十字架と復活を見るとき、私たちにとっては既に、「のろい」の時代が過ぎ去ったということがわかります。そのことを使徒パウロは、「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけらる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」と記しています(ガラテヤ3:13)。私たちの前に様々な困難があっても、それは神の罰ではなく、「訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」と約束されている神の愛の訓練の現われと受け止めることができます(ヘブル12:11)。そして、私たちの父なる全能の神が、見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」と断言してくださっていることを心で味わうとき、私たちはそれがすでに実現したかのように、この世で、損得の計算を超えた生き方ができるのです。それをどのような形で、この地で表してゆくのかを考えてみるべきでしょう。私たちは、すでに新しいエルサレムでの市民権が約束されている者として、「地の塩、世の光」として、この世に遣わされています。私たちに与えられた「永遠のいのち」は、もう失われようのないものです。

4.「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます

また、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(65:24)とは、主がご自身の民に対して御顔を隠しておられたという状態がなくなって、ご自身の御顔をいつも向けておられる親密な交わりが回復することを意味します。ここでは、「わたしは答え・・わたしは聞く」という主ご自身の意思が強調されています。私は、長い間、泣く必要のないほどに心が安定することに憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を赦せなくなるだけでした。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。赤ちゃんに向かって「泣くな!」と説教するかのように、自分や人の感情を非難して空周りを起こすことがあります。母親が赤ちゃんを安定させることができるように、神の御前で、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、人生の障害とはなりません

  そして、「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」(65:25)とは、この世界から弱肉強食がなくなることを意味します。これは先の、11章6-9節の言い換えです。これをもとにパウロは、私たちの救いと被造物の救いを結びつけて、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」(ローマ8:21)という希望を告白しました。私たちはこの世界に平和が満たされることを願っています。しかし、捕鯨反対の平和団体が暴力行為を行うとか、平和を守るという団体が、あまりにも自分の主張を絶対化し、一方的に人の意見を裁くのを見ながら心が痛みます。キリストは何よりもあなたの身近な所に平和を実現するようにと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われました。この世界の平和を実現してくださるのは、私たちの想像を超えた神ご自身のみわざであり、それはキリストの再臨によって全うされるものです。政治信条を絶対化するところには、平和ではなく争いが実現するという矛盾があることを忘れてはなりません。

  主は最後に、新しい世界の永遠性について、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように・・・あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と記されます(66:22、23)。これこそ主が喜ばれる礼拝の完成のときです。イエスはサマリヤの女との対話で、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」と言われましたが(ヨハネ4:23)、イエスの救いとは、何よりも、偽善に満ちた人間のわざとしての礼拝を退け、イエスが与える御霊と、「わたしが道であり、真理(まこと)であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われるイエスご自身を通して、イエスの父なる神を礼拝することに表されます。私たちのささげるこの礼拝が、いつでも、「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」を思い起こさせるようなものになるように互いに協力し合いましょう。

しかし、同時に、神の敵に対するさばきが最後に、「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる」(66:24)と警告されます。「神が愛であるならば、地獄は空になるはずだ」などと言う人がいますが、聖書はそのように語ってはいません。神を恐れる者に対する永遠の祝福と、神の敵に対する永遠のさばきはセットとして記されているのです。

  パウロは、「新しい天と新しい地」を目の前に思い浮かべながら、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」と断言しました。しかし、現実を振り返ると、「私の労苦はむだになってしまった・・・どうして、こんなことになってしまうのか・・・」と嘆きたくなることばかりです。そのとき、ふと、「私は目に見える結果より、イエスを見上げなければいけない。私は、イエスがくださる労苦の実としての喜びよりも、イエスご自身を私の喜びとすべきなのだ・・」と思い知らされました。それ以来、「イエスは私の喜び」というドイツの古い賛美歌が私の心の歌になりました。「新しい天と新しい地を待ち望む生き方」とは、「イエスにまみえる」ときを待ち望む生き方に他なりません。しかし、すぐにサタンは、「お前のような偽善者をイエスが歓迎してくれると思うのか・・・」と、心の耳にささやいてきます。そのとき、聖霊は、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません・・・大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:1415)と語りかけてくださいます。私は、聖霊を受けた結果として、自分の罪深さを知り、同時に、「イエスが私の罪のために十字架にかかってくださった」と信じているのです。私は罪人のままで、イエスの父を、「アバ、父」と呼ぶことができます。そこに「新しい創造」がすでに始まっています。目に見える進歩や成果を測るのではなく、イエスご自身を、今ここで、私の喜びとすることこそ、新しい私たちの生き方であるべきでしょう。私の罪のために十字架にかかってくださったイエスは、全世界の創造主であり、この世界を、「新しい天と新しい地」へと造り替えてくださる方です。そして、その「新しい創造」のみわざは、実現の最終段階にあります。

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2009年7月12日 (日)

ルカ21章10-36節「夜はふけて、昼が近づきました」

                                                 2009712

  私たちはときに、イエスを信じても、かえって問題が増えるばかりと失望したり、自分を見ても何も成長していないどころか退歩しているようにしか思えないことがあります。また、「この峠を越えたら、見晴らしのよい風景が待っている・・」と一生懸命に歩いてきたのに、「かえって見通しが悪くなるばかり・・・」と思えるようなことがあるかもしれません。そのようなとき、「夜はふけて、昼が近づきました」(ローマ13:12)というみことばが大きな慰めになります。そこには、暗闇が深くなればなるほど、夜明けに近づいているという希望が込められているからです。初代教会の時代のエルサレムは信仰の中心地であり、現代のカトリック教会におけるローマのような存在でした。しかし、イエスを拒絶したユダヤ人たちがローマ帝国に反抗し、エルサレムが壊滅したとき、クリスチャンたちはすでにその町を後にして、世界中に広がっていました。エルサレムの苦しみが、福音の広がりの契機となったのです。私たちの前にも、目を覆いたくなるような悲劇が起こるかもしれません。しかし、私たちの成長はそこから始まるのです。

1.「どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい」

イエスは、当時のエルサレム神殿の崩壊を預言されました。それはヘロデ大王が多くの年月と財を費やして拡張したもので、その規模と美しさは世界の七不思議を上回ると言われ、敷地面積は有名なアテネのアクロポリス神殿の二倍もありましたから、それが破壊されるということは、当時の人々にとって、世界の終わりを意味しました。

それを聞いた人々は、イエスに、「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう」(21:7)と質問しました。それに対し、イエスは、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません(21:8、9)と言われました。

興味深いのは、偽預言者たちは、「時は近づいた」というのに対して、イエスは、「終わりは、すぐには来ません」と語っているということです。つまり、偽預言者の特徴は、「私がそれだ」と自分の権威を主張しながら、世の混乱がすぐに収束するようかのように語ることにあるというのです。いつの世でも、人々はインスタントな解決を求め、偽預言者はそれに答えようとしますが、イエスは、「戦争や暴動」は、神のご支配の中で起こることだと語られたのです。私たちは、目の前の混乱を見て、「神がこの世界の王なら、なぜこのような悲惨が許されるのか・・・」と疑問に思いますが、イエスは、それは驚くべきことではなく、起こるべきして起きていることとして語っているのです。

それから、イエスはご自身の弟子たちに、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます」(21:10、11)と言われました。つまり、戦争や飢饉や疫病、天変地異などは、世界の終わりではなく、また前兆でもなく、それらとは別に、「天からの前兆」があるというのです。つまり、地上の混乱を見ても、あわてる必要はまったくないというのです。

イエスは、それ以上に、「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう」(21:12)と、これらの世界の悲劇が起きる前に、弟子たちの悲劇が起きると言われました。たとえば、回心前のパウロは、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて・・・この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いてゆく」という権限を受けて次々とキリスト者を捕縛していましたが、それはイエスの預言が成就したことの一部でした。私たちは、そのようなパウロの過ちが、後に、パウロの命をかけた伝道につながっていることを知っています。私たちは、どのようなわざわいに出会っても、それを主の救いのご計画の一部と捉えることができます。

ですからイエスは、「それはあなたがたのあかしをする機会となります」(21:13)とさえ言われました。たとえば、ユダヤ人たちがステパノを石打ちで殺したとき、回心前のパウロはその様子を身近なところで見ていました(使徒7:58-60)。彼は、石を投げつける人々の着物の番をしていたからです。ステパノは、石を投げつけられながら、「主イエスよ。私の霊をお受けください」と、「主を呼び」ました。そして、ひざまずいて、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びながら、眠りにつきました。パウロにとってそれは何より衝撃的な出来事だったことでしょう。ステパノの殉教の場に立ち会ったことが、彼の回心の最大の準備になったことは間違いありません。

「それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい」(21:14)と記されているのは、ステパノの例を見ると明らかです。彼の言葉が、とっさに心の底から出たものだったからこそ、それが人々にとって衝撃的なものになったのです。またこれは同時に、私たちが、将来起こるかもしれない迫害の心配を先取りする必要がないようにという意味でもあります。そんなことを考えるだけで、人は萎縮してしまうからです。私たちが遭遇するすべての危機的な状況は、神の御手の中にあります。ですから私たちにとっての危機は、神のみわざが現される機会となるのです。そのことを主は、「どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます(21:15)と言われました。イエスは、以前、弟子たちに向かって、「人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのとき聖霊が教えてくださるからです」(ルカ12:11,12)と言われました。

なお、これはメッセージや証しの準備をする必要がないという意味ではありません。ペテロは、同じ「弁明」ということばを用いながら、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人々には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(Ⅰペテロ3:15)と勧めました。私たちは日頃から、いろんな機会またはいろんな人との出会いに備えて、いろんな証しのパターンを用意しておくことは極めて有益なことであることは間違いありません。

ただ、イエスはここで、来るかもしれない迫害を事前に想像し過ぎることの危険を語っているのだと思われます。たとえば、私は、信仰に導かれる前に、遠藤周作の「沈黙」を読み、とっても暗い気持ちになりました。しかし、まだ自分の身近に起きてもいない迫害を想定し過ぎては信仰の決心もできないばかりか、今ここでの幸せを味わうこともできなくなることでしょう。ですから、「迫害にあったら、私はそれに耐える自信がないのですが・・・」という問いかけに対しては、「あらかじめ考えないことに、心を定めなさい」というイエスのことばをもって答えるべきでしょう。

2.「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます」

なお、それでもイエスは更に悪いことが起こるかもしれないことを、「しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もありわたしの名のために、みなの者に憎まれます」(21:16、17)と言われました。これは何とも不思議なことです。普通の宗教指導者なら、「私についてきたら、あなたの周りには幸せが広がります」と保障することでしょうが、イエスはまったくの逆を言われました。それは、そのように人間の目にはわざわいとしか見えないことも、人々に、この世の命を超えた希望を示す契機になるからです。

イエスはそのことを、「しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません」(21:18)と言われました。これはもちろん、イエスに忠実に従う者は、毛が薄くなる心配がないという意味ではありません。実際、先日のプロテスタント宣教150周年記念大会の音楽を指揮しておられた心から尊敬する友の頭を見てそれを実感しました。これは、かつてイエスが、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:29,30)と言われたことに通じます。しかも、この少し前では、「中には殺される者もある」と言われているのですから、この意味は、マタイの場合と同様に、「あなたがたの父のお許しなしに・・・」という前提から理解するべきことばです。ですから、「髪の毛一筋も失われない」とは、私たちに与えられた「永遠のいのち」は、決して失われることがないという意味と理解すべきでしょう。

そして、そのことが、「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます」(21:19)と言われています。これも、「私は忍耐心がないから、だめかも・・・」と思わせるために記されていることではありません。私たちの信仰とは、「神が私たちを守り、ご自身のみもとにまで導いてくださる」という将来を信じることです。信仰が自分の意思によるものであるなら、迫害の中で信仰を捨てるということもありえましょうが、信仰は、神が生み出してくださったものであり、神が全うしてくださるものであるのですから、私たちは「忍耐する」ことが神によって可能にされるのであり、また、神によって、「自分のいのちを勝ち取ることができる」のです。失われるかもしれない「いのち」「永遠のいのち」などとは言えないのですから、自分の不安定さを見て一喜一憂する必要などありません。

そればかりか、イエスは、「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです」(21:20-22)と言われました。これは、極めて具体的に当時の人々を救った預言となりました。

このときから約四十年後、エルサレムはローマ軍に包囲されました。そのときは、多くのユダヤ人たちが、天然の要塞といわれるエルサレムの中に逃げ込みました。そのため、町の中では食料がすぐになくなり、軍人は武力を用いて同胞の女性や老人、子供から食料を奪い、多くの人々が飢え死にしました。しかし、キリスト者は、このイエスのおことばに従い、ローマ軍が迫ってきたときに、すぐにエルサレムから逃げ出しました。しかし、イエスのことばを信じなかった人々は、後に逃げ出そうと思っても、城門が堅く閉じられ、逃げることができなくなりました。

イエスは、その悲劇のことを、「その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わる(満ちる)まで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます」(21:23、24)と言われました。イエスは、私たちの罪の身代わりに、罪に対する神の御怒りをご自身で引き受けてくださいました。しかし、イエスの救いを拒絶したものは、罪に対する神の御怒りを自分で引き受けなければならないのです。これは、バビロン捕囚と重なります。なお、この最後の文章は、厳密には、「異邦人の時が満ちるまで・・」と訳すべきでしょうが、これは、かつて主がエレミヤを通して、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」(29:10)と言われたことに通じます。神のさばきの裏には、常に、神の民を悔い改めに導くための神のあわれみが隠されていることを決して忘れてはなりません。また「エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」という「時」も、神が定めた「時が満ちる」というご計画の中で起きたことです。

パウロは、それを前提に、「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなるときまでであり、こうして、イスラエル人はみな救われる、ということです」(ローマ11:25,26)と言ったのではないでしょうか。つまり、「異邦人の完成」「イスラエルはみな救われる」ということが、世界のゴールとして描かれているのです。それは、全地球に対する神の救いのご計画が成就するときを意味します。この世界の歴史を完成に導くのは神のみわざです。私たちに必要なのは、神のご計画が完成するのを待ち続けるという「忍耐」です。そして、私たちは、この聖書に記された神のさばきと救いのストーリを読むことによって、忍耐を養っていただくことができます。

3.「からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」

 「そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです」(21:25、26)とは、明らかにエルサレムの滅亡というよりは目に見える世界の終わりを示す表現です。それは、後にペテロが、「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(Ⅱペテロ3:10)と語っているとおりの世界の終わりの前兆です。

ただ、それは未信者にとっては恐怖の時でも、逆に、私たちにとっては希望の時です。そのことが、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」(21:27、28)と記されています。「贖い」とは、奴隷であった者が代価を支払われて自由にされることですが、ここでは、私たちの朽ちるべき身体が、死の束縛から解放されて、栄光の復活の身体に造り変えられるときをさします。それは、「人の子」が栄光のうちに現れることによって実現するというのですが、「雲に乗って来る」という表現は、ダニエル書で、「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ・・・この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく彼に仕えることになった」(7:13,14)と預言されていたキリストの支配の完成の時をさします。

イエスがユダヤ人議会から死刑判決を受けたのは、イエスが大祭司に向かって、ご自分は神の子キリストであることを認めるとともに、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」と、ご自分がダニエル書に預言された救い主であることを断言したからでした(マタイ26:64)。そして、私たちにとって、それは喜びに満ちた希望であり、だからこそ私たちは、世の終わりの兆候を見ながら、怯えることなく、「からだをまっすぐにし、頭を上に上げる」ということができるのです。

「世の終わり」と言われる「時」は、キリストに信頼する者にとっては、世界の完成の時、この世の苦しみから解放される喜びの時を指します。ですから私たちは、目に見える世界に混乱が増し加わっても、現実を超えた希望を抱き続けることができます。その結果、状況に関わりなく、「今ここで」、喜びながら生きることができるのです。

なお、イエスはたとえを用いながら、「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい」(21:29-31)と言われました。イエスは、自然の営みから夏の到来を見定めるのと同じように、「時のしるし」(マタイ16:3)を見分けるように勧めました。不思議なのは、エルサレムの滅亡から天の万象が揺り動かされるという、悪いことばかりが続くのを見て「これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい」と言われていることです。それは、目には見えない神のご支配が、目に見える形で現されるとき、つまり、「神の国の完成の時」を意味します。

そして、イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」(21:32)と言われましたが、「この時代」とは、闇と光が共存する時代、この世の悪が力を持っているように思える不条理が支配する時代を指します。そして、続くことばは、「この天地は過ぎ去ります。しかし、わたしのことばは決して過ぎ去ることがありません」(21:33)と訳すべきかと思われます。なぜなら、「過ぎ去る」という言葉が三度用いられながら、「この(闇と光)の時代」、この目に見える「天地」「過ぎ去る」ことと、イエスの「ことばが過ぎ去る」ことがなく永遠に残るということが対比されて記されているからです。今の時代は、「初めに、神が天と地を創造された」から始まりましたが、この世界は、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)という時代に向かっているからです。神のみことばが、この世界の歴史を動かしています。ですから、私たちは、この世の流れに惑わされず、いつでもどこでも、神のみことばによって、世の流れを見定める必要があるのです。

  そして最後にイエスは、「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです」(21:34、35)と言われました。キリストの再臨が近づくに連れて、世の混乱が増し加わるということは、私たちの努力が目に見える形では報われないと思える状況が続くことを意味します。そのようなとき、私たちはやる気を失い、「心」「沈み込んで」しまっている可能性があります。それは、自暴自棄に陥って「放蕩や深酒」に走ったり、「この世の煩いのため」に、「心が沈み込んで」しまうことがあるからです。

しかし、イエスは不思議にも、この世が悪くなればなるほど、「からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい」と勧められたのです。それは、キリストの弟子たちが、「やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っている」(21:36)ことができるためです。私たちはいつでも「目を覚まして」祈っている必要があります。肉体や心の休息は大切ですが、私たちの「霊」は、いつでもどこでも、「人の子の前に立つ」ことを意識しながら、キリストのまなざしを意識して生きている必要があります。

 イエスの預言については黙示録で詳しく展開されます。20章には「千年の間」、サタンが縛られてこの地に平和が実現することが書いてありますが、その前の11章から13章には、サタンの勢力による三年半の大迫害のことが、「42ヶ月」、「1,260日」、「ひと時とふた時と半時」という異なった表現で繰り返し記されています。それは将来的な大患難期とも、歴史上に現れた様々な大迫害の時を指すとも解釈できますが、そこで共通して確認できるのは、大迫害の時代は、いつも意外に短い期間であったということです。それは、「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」(Ⅰコリント10:13)とあるように、苦しみの時代を常に短くしてくださるからです。苦しみは束の間で、祝福は永遠に続くという神の支配を覚えたいと思います。 

 たとえば、ローマ皇帝コンスタンチヌスは、紀元313年キリスト教を公認しました。しかし、その直前、皇帝ディオクレチアヌスは最大の信仰迫害者でした。彼の時代の末期の303年から304年、帝国のあらゆる牢獄は、教会の指導者で一杯になっていました。教会堂は破壊され、聖書は焼かれたばかりか、キリスト教徒を保護しようとしただけで、そのような人は厳しい刑罰が下されました。しかし、その後、数年の間に状況は180度変わりました。コンスタンチヌスは、紀元312年に、十字架の旗を掲げて内戦に勝利したからです。まさに、最も暗い時代は、キリスト教会の勝利の前触れでした。ただし、それは国家権力が教会の問題に介入する始まりともなりました。ローマ皇帝までもがキリスト教徒となったとき、キリスト信仰を持つことは、権力を握る上で有利にさえなりました。そして、そこから信仰の堕落が始まりました。ローマ帝国が、4世紀末にキリスト教を国の宗教にしたとき、教会の堕落は決定的なものになっていったのではないでしょうか。神を真実に求める人々は、敢えて荒野に出て隠遁生活の中で神との交わりを深めました。その当時始まったのが修道院制度です。その始まりはきわめて純粋なもので、神との生きた交わりや正統的な信仰は、この荒野の修道院で守られ、高められたといわれます。これを見るとき、世界の終わりと思える時代は、栄光の時代の始まりであり、また、栄光の時代の始まりと思えたときは、堕落の始まりであったということがわかります。まさに、真実の信仰は逆境の中でこそ育まれるものだったのです。しかし、それは、私たちは常に自分から苦しみを選び取らなければならないという意味ではありません。所詮、この世界では、喜びよりも苦しみの方が多いというのが現実です。しかし、私たち信仰者は、すべてが順調な中で、神の恵みを心から喜ぶことができるばかりか、周りが真っ暗と思えるような中でも、なお喜ぶことができるのです。キリストを待ち望むものにとっては、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という勧めは、周りの状況如何にかかわらず実行可能なことなのです。それはキリストの支配を信じているからです。

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2009年7月 5日 (日)

エレミヤ50章~52章 「エルサレムを心に思い浮かべよ」

                                              2009年7月5日

  私は証券会社にいたせいか、「市場経済」を軽蔑するような最近の世論に反発を感じます。つい、この前までは、家庭の主婦までが株や外国為替でお金儲けができると喜んでいたのですから、人の心の変わりやすさを思うばかりです。私たちは、切れ味のよい包丁は、同時に、恐ろしい武器にもなるということを忘れてはなりません。

人は、便利な道具に心を奪われすぎると自分と人を害することになります。エレミヤ書の面白さは、この世の富と権力の象徴であるバビロンと戦う代わりに、心から仕えることを勧めるとともに、時が来たら、そのバビロンから速やかに逃れることを勧めていることにあります。現代的に言うと、たとえば、今勤めている会社に、誠心誠意仕えると同時に、心を会社に売り渡すことなく、いつでも去ることができる心備えをしておくということです。この世の富や力を軽蔑することもなく、同時に、それにたましいを奪われない生き方、それこそが信仰生活の醍醐味です。

この書で、主は、「わたしがあなたがたを引いて行ったその町(バビロンの中)の繁栄を求め、そのため主(ヤハウェ)に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」(29:7)と言いながら、最終的には「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ・・・遠くから主(ヤハウェ)を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ」(50:8、51:50)と言っておられます。パウロも、「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)と言っていますが、それはこの世の生活を軽蔑することではなく、思いを地上だけに向けて自分の欲望を神とするような生き方をすることなく、やがて実現する「新しいエルサレム」を待ち望みながら、今ここで課せられている責任を地道に果たすことの勧めでした。

1.「わたしが残す者の罪を、わたしが赦す」

  エレミヤは、当時の偽預言者たちが「主はバビロンの王のくびきを打ち砕く」(28:4)などと預言していた中にあって、ひとり、「あなたがたはバビロン王のくびきを首に差し出し、彼とその民に仕えて生きよ」(27:12)と言いながら、バビロンへの服従を勧めていました。人々は、エレミヤをバビロン王の手先かのように誤解していましたが、50、51章では、彼は、バビロンに対する主のさばきを驚くほど詳しく、また、多くのことばをもって語ります。この預言は、バビロン帝国がエルサレムを陥落させて間のなくの頃、向かうところ敵なしの絶頂期になされたものだと思われます。そこではまだ、ペルシャ帝国がバビロンの脅威になるなどと誰も想像はしておらず、これらの箇所にも後にペルシャに吸収される「メディヤ人の王たち」(51:11,28)という固有名詞が出てくる程度です。これは、今から五年前に、米国の証券会社や投資銀行の破滅を予言すること以上に、はるかに奇想天外なことだったでしょう。

「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ」(50:2)とあるのは、バビロンの滅亡が、圧制に耐えているすべての国々の希望になるからです。「ベルははずかしめられ、メロダクは砕かれた。その像ははずかしめられ、その偶像は砕かれた」とありますが、「ベル」とはバアルとも訳される神々のタイトル、「メロダク」とは。「マルドゥーク」とも訳される固有名詞であり、それが「バビロンは捕らえられた」という象徴とされます。国と偶像は一体だからです。

「なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたから」(50:3)とは、エルサレム陥落の約50年後の紀元前539年に、バビロンがその西に生まれたペルシャ帝国によって滅ぼされることが既に起こったかのように描くもので、「北」からとあるのは、イスラエルからの通商路の地理感覚のことばで、バビロンの向こうにある国からの攻撃を示しているからです。当時、それがペルシャを指すとはエレミヤにも知らされてはいませんでした。それは、具体的な国名よりも、それを動かしておられる主(ヤハウェ)のみわざを覚えさせるためでもあります。

「その日、その時・・イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、主(ヤハウェ)を、尋ね求める。彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、主(ヤハウェ)に連なろう』と言う」(50:4、5)とは、イスラエルの民が約束の地に帰還し、神殿を再建することを示唆するものです。それはモーセの時代から預言されていました。モーセは、かつて、主に背く民に「のろい」が下されると語るとともに、その後、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主(ヤハウェ)がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集めると預言していました(申命記30:3)

その上で、「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ」(50:8)と勧められているのは、それが預言の成就だからです。聖書は、出エジプトとともに、出バビロンを描いています。また、「群れの先頭に立つやぎのようになれ」とあるのは、やぎは囲いの門を開くとすぐにそこから走り出るからですが、このように勧められているのは、イスラエルの民は、そのときバビロンで安定した生活をし、移住を望まなくなっている可能性があるからでしょう。

そして、当時の歴史を振り返るように、「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。『見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する』」(50:17、18)と記されます。これは、北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤを滅亡させたのは、バビロンである以前に主ご自身であり、主は同じように、神の民の骨までしゃぶりつくした残虐なバビロンを罰するという意味です。王国の興亡の歴史を支配するのは主ご自身であり、主は何よりも、その王国の傲慢さにさばきを下します。

しかも、イスラエルの滅亡が、神のみわざであるならば、その回復も神のみわざになるという意味で、「わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる」(50:19)と彼らの繁栄が約束されます。興味深いのは、「バシャン」とか「ギルアデ」のようにヨルダン川の東側にある肥沃な地までが回復されるという約束です。神の祝福は、人々の期待を超えたものになります。

そして、「その日、その時、─主(ヤハウェ)の御告げ─イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ」(50:20)とあるのは、神がご自身の主導で神の民の残りの者のすべての罪を赦してくださるという途方もない約束ですが、これは私たちの主イエス・キリストにおいて実現したことです。神がご自身の民を苦しめるのは、目に見える力や偶像の神々により頼むことの愚かさを教え、私たちが真心から神に救いを求めるようになるためです。多くの人々は「罪」という言葉の意味を誤解しています。それは人を害するような悪事を働くという以前に、「神を神としてあがめず、感謝もせず・・・不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまう」(ローマ1:21,23)ことです。そして、「罪の赦し」とは、罪人が、創造主に真心から信頼できるようになるという関係の変化への第一歩です。

2.「バビロンは主(ヤハウェ)の御手にある金の杯」

バビロンの滅亡の理由が、「万国を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか」(50:23)と問われますが、最終的にひとことで、おまえが主(ヤハウェ)に争いをしかけたからだ」(50:24)と答えられます。彼らはイスラエルの神を侮り、その宮を廃墟にしました。それによって、彼らは、天地万物の創造主と戦ってしまったということを知りませんでした。そして、「聞け。バビロンの国からのがれて来た者が、シオンで、私たちの神、主(ヤハウェ)の、復讐のこと、その宮の復讐のことを告げ知らせている」(50:28)と、エルサレム神殿を破壊したことへの復讐の知らせが、バビロンから逃れて来た者たちによって告げ知らされているというのです。そして、そのような厳しいさばきを受ける理由が、「主(ヤハウェ)に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ」(50:29)と描かれます。

 そして、高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを攻める。─万軍の神、主の御告げ─あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ」(50:31)とは、私たちにとってサタンとそれに従う者たちへの宣告としても理解できます。イザヤは、バビロンの王に対して、「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか・・」(14:12)とその高ぶりに対するさばきが宣告されていましたが、それは、しばしば、サタンに対するさばきとしても解釈されることがあります。そして、これはすべて、自分を神として高ぶる者たちへのさばきとして適用できます。

  なお、「見よ。ひとつの民が北から来る・・残忍であわれみがない・・彼らのうわさを聞いて気力を失い、産婦のような苦痛に捕らえられる」(50:41-43)とは、6章22-24節でのエルサレムに対するさばきの表現と同じです。また、「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう・・・だれかわたしの前に立つことのできる牧者があろうか」(50:44)とは、エドムへのさばきとほとんど同じです(49:19)。それは、神のさばきの理由も、また方法にも、共通した原則が見られるということでしょう。

「バビロンは主(ヤハウェ)の御手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた(51:7)とありますが、「金の杯」は、バビロンの豊かさを現すとともに、それは同時に「主の憤りの杯」で、エルサレムの滅亡は、この杯を飲んですっかり酔ってしまい、同士討ちで滅んでしまったことでした(13:13,14)。

聖書の最後の黙示録では、サタンの惑わしとそれに負ける者たちの姿が、「すべての淫婦と憎むべきものとの母、大バビロン」と呼ばれる「大淫婦」が、「自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持って」それを人々に飲ませ、「地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得た」と描かれます(17:4,5,18:3)。そして、この金の杯の中身が、「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒」(同14:8)と記されています。

明らかに、黙示録での「大バビロン」は、旧約の「バビロン」の延長として描かれています。つまり、私たちが聖書の神の代わりに、この世の富と権力に頼ろうとすることは、「主の憤りの杯」を飲むことに他ならないことであり、それは自滅への道であるというのです。ウォール街での富と権力のぶどう酒に酔いしれた人々は、次から次と自滅してしまいました。まだ神から与えられた良心の機能が働いていた人々は、それを少し飲んだだけで、これは「主の憤りの杯」でもあるということに気づいたでしょうが、良心の麻痺した人は、酔いつぶれてしまったと言えましょう。

そして今、神のさばきを現す器であったバビロン自身のことが、「たちまち、バビロンは倒れて砕かれた」(51:8)と宣言されます。黙示録でも、それに呼応するように、「倒れた。大バビロンが倒れた」(18:2)と御使いが宣言する様子が記されています。そして、私たちも栄華を極めた会社の破綻に、富と力のむなしさを思います。

そして、「その痛みのために乳香を取れ。あるいはいやされるかもしれない」(51:8)とあるのは、ギルアデの乳香がイスラエルの民のいやしのために用いられる可能性があったこととの比較で用いられています(8:22)。そして、「私たちは、バビロンをいやそうとしたのに、それはいやされなかった」(51:9)とは、すでに神のさばきを体験したイスラエルの民のことばかと思われます。もしバビロンが、イスラエルの苦しみから学ぶことができていたとしたら、彼らはいやされたはずでしょう。しかし、罪人は、他の人の痛みや苦しみを軽蔑することしかできません。

そして、主はバビロンに向かって、「大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た」(51:13)と言われ、彼らの富が何の役にも立たないと示されます。彼らの神々が偶像に過ぎないのに対して、「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される」(51:15、16)という主の全能の力が強調されます。そして、再びバビロンの偶像は「むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる」と言いながら、ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主(ヤハウェ)である」と描かれます(51:18、19)。私たちはこの世でどれほど貧しく見えても、世界のすべての富の源である方を、「私の父」と呼べるのですから心配ありません。

その上で主は、「あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたを使って国々を砕き、あなたを使って諸王国を滅ぼす。あなたを使って馬も騎手も砕き・・・あなたを使って総督や長官たちも砕く」(51:20-23)と言われますが、これはバビロンを指すとともに、将来にバビロンを滅ぼす当時まだ名の知られていなかったペルシャ帝国を指す表現だとも思われます。それによって、主は「わたしはバビロンとカルデヤの全住民に、彼らがシオンで行ったすべての悪のために、あなたがたの目の前で報復する」(51:24)と語ったのだと思われます。道具に過ぎない者が、その主人を忘れて、自分を王とするとき、力強い道具であるほど、さばきも厳しいものになります。

3.「わたしの民よ。その中から出よ。主(ヤハウェ)の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え」

 「この地に旗を掲げ、国々の中に角笛を鳴らせ。国々を整えてこれを攻めよ。アララテ、ミニ、アシュケナズの王国を召集してこれを攻めよ」(51:27)とありますが、これらの国々はチグリス川北方の山岳地帯アルメニア地方にあり、「ひとりの長を立ててこれを攻めよ」とは、後に、ペルシャ王クロスの下でこれらの辺境にある国々もバビロン帝国を滅ぼすために一致することを指すと思われます。「国々を整え」と繰り返されることばは(51:27,28)、厳密には、「聖別せよ」という言葉で、主は、バビロンへの復讐のために、周辺の国々のすべてを「聖別する」というのです。

 その上で、主はイスラエルの民に、「わたしの民よ。その中から出よ。主(ヤハウェ)の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え(51:45)と言われます。これは、黙示録で、御使いが、「わが民よ。この女(大バビロン)から離れなさい。その罪にあずからないため、またその災害を受けないためです」(18:4)と言うことと同じです。私たちは、この世の組織の中で誠心誠意、与えられた務めを果たすことが求められているのですが、それと心中するようなことになってはいけません。組織が滅亡に向かうとき、人々はその中で、最後の富と権力にすがり、ますます自己中心的になります。私たちは、そのような富と権力の奴隷になる人々から一線を画す必要があります。

51章46節の始まりは、「あなたがたの心を弱らせず、この国に聞こえるうわさに恐れるな」と訳すことができます。それは、「うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める」とあるように、バビロンの政権の中での混乱が起きることになる中で、冷静さを保つことの勧めです。なぜなら、そのような自滅に向かう混乱も、神の御手の中で起こっていることだからです。バビロン帝国は短命でしたが、それは内部の権力争いが激化したためです。イエスも、弟子たちに、惑わされないように気をつけなさい・・・戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです」(ルカ21:8,9)と言われました。目の前に混乱が広がるとき、大切なのは、主の救いのご計画の全体像に目を向けることです。

 そのことが、「バビロンは、イスラエルの刺し殺された者たちのために、倒れなければならない。バビロンによって、全地の刺し殺された者たちが倒れたように」と描かれながら、「剣からのがれた者よ。行け。立ち止まるな。遠くから主(ヤハウェ)を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ」と命じられます(51:49、50)。彼らは、神の住まいから遠く離れているように感じていますが、そこから「主(ヤハウェ)を思い出し」また、神の神殿の立っていた「エルサレムを心に思い浮かべ」続けることが命じられています。彼らはバビロンやペルシャ帝国の生活に同化してはならないのです。私たちの場合も、神が「新しいエルサレム」をもたらしてくださることを期待しながら(黙示21:2)、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白する」(ヘブル11:13)ように召されています。

  そして、最後にエレミヤは、「バビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるし」、セラヤにそれをバビロンで読み上げるように命じます(51:60-62)。そればかりか、「この書物を読み終わったら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる』と言いなさい」と命じられます(51:60-64)。エルサレムの人々にバビロンへの服従を勧めていた預言者は、同時に、バビロンに行った人々に対して、バビロンの滅亡を告げました。

これは、彼らの目を、この地上の王国から、神の支配に向けさせるためでした。地上の王国は、次から次と変わります。しかし、神のご支配は永遠に続きます。私たちは常に、その神のご支配に目を向ける必要があるのです。そして、51章の終わりでは、「ここまでが、エレミヤのことばである」で閉じられます。

4.「エホヤキンは・・一生の間、いつも王の前で食事をした」

 52章の記事は、すでに、エレミヤ39章とⅡ列王記24,25章に記されていることがほとんどです。これが追加されている目的は、その後の歴史がすべて、エレミヤの預言のとおりであったことを示すためです。紀元前586年8月のことだと思われますが、バビロン軍は、「エルサレムに来て、主(ヤハウェ)の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼」(52:12、13)きました。ユダヤ人は、この日を断食の日としています。

そして、カルデヤ人は、「これらすべての器具の青銅の重さは、量りきれなかった」(52:20)というほどの神殿の器具を運び去ります。そして、バビロンに最後まで抵抗した者たちを殺します(52:24-27)。

そして、52章28~30節にはバビロンに捕囚とされた人数が記されますが、これはこの書独自の情報です。「ネブカデレザルが捕らえ移した民の数は次のとおり。第7年には、3023人のユダヤ人」とあるのは、紀元前597年ユダの王エホヤキンが捕囚とされゼデキヤ王が即位した年です。列王記では、10,000人、8,000人という数が記されていますが、それとの整合性は不明です。「ネブカデレザルの第18年には、エルサレムから832人」とは、紀元前586年のエルサレム陥落のときです。このときには大部分の人が、飢え死にか戦死したのではないでしょうか。そして「ネブカデレザルの第23年には、侍従長ネブザルアダンが、745人のユダヤ人を捕らえ移し」とは、紀元前582年で、これは最後の総督ゲダルヤが暗殺された後のことだと思われます。そして、最後に、「その合計は4600人であった」とバビロン捕囚の人数が述べられます(52:27-30)。少なくともここには紀元前605年にダニエルたちが連行されたときのことは記されていません。この人数はあまりにも少なすぎるようにも思えますが、何よりも強調されているのは、このようにごく少数の残りの民から、神は次の新しいイスラエルの歴史を始めたということでしょう。

そして最後に、「ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて37年目・・・バビロンの王エビル・メロダクは・・・エホヤキンを釈放し、獄屋から出し・・彼は・・一生の間、いつも王の前で食事をした。彼の生活費は、・・・一生の間・・バビロンの王から支給されていた」(52:31-34)と記されますが、これはダビデ王家が捕囚とされたエホヤキンを通して続いたことを示します。彼の名は「エコニヤ」としてマタイによる福音書の最初の系図に登場します(1:11,12)。

主は、かつて、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:10、11)と言われました。主のさばきは、救いのご計画の一部です。

  バビロンに捕囚とされたごく少数のユダヤ人たちは、そこにおいて生活しながらも、いつも、「エルサレムを心に思い浮かべ」ていたのではないでしょうか。彼らはバビロンの偶像礼拝とは一線を画しながら、そこで増え広がります。その際、彼らは、モーセの時代から残されている様々な文書を、聖書としてまとめる作業をしたのだと思われます。そして、彼らはやがて約束の地に帰還し、神殿を再建し、神の民としてのアイデンティティーを回復します。そして、イエス・キリストはユダヤ人の王として生まれ、彼らの神、主を世界中のすべての民の王としてくださいました。私たち異邦人はすべて、バビロンで神の民として生き抜いたユダヤ人に負債があります。

主は、残されたたった4,600人から世界の歴史を変えました。私たちも、この日本においては驚くほどちっぽけな存在に見えるかもしれません。しかし、ローマ帝国の中でイエス・キリストの福音が宣べ伝えられて最初の二百年間、キリスト者の数は帝国の全人口の1%に満たなかったという調査もあります。しかし、その少数者の信仰がその後の50年間の大迫害の時代に爆発的に広がり、その後のローマ帝国の文化を変えました。

日本では、聖書が翻訳されて人々に読まれるようになったことを記念する、プロテスタント宣教150周年を迎えます。私たちにも文化を変える力が与えられています。人数や豊かさで影響力を測るのは、バビロンの文化です。神は、富と権力を誇るバビロンを裁かれました。そして、終わりの日には、この世の経済力や軍事力を誇る「大バビロン」をさばかれます。私たちも、この地で生きながら、この地の文化に妥協することなく、やがて実現する「新しいエルサレムを心に思い浮かべ」て生きるべきでしょう。

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