« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月30日 (日)

ルカ22章24-34節 「一番偉い人は一番下の者のようになりなさい」

ルカ2224-34節 「一番偉い人は一番下の者のようになりなさい」

                                               2009830日    

  ある有名な会社に30年あまり勤め、従業員百人を超える大きな海外現地法人の社長にまでなった方が、こんなことを言っておられました。海外駐在生活の中で、神と教会とに仕える生き方に喜びを見出し始めた40歳の頃、突然、上司から、「君を管理職に、特別に推薦したけれど、無理だったようだ・・・」と言われ、強いショックを受けました。彼は、自分はそんな出世競争とは無縁に生きると思ったのに、いざ、それに直面すると、自分の心には、「サラリーマンとしての競争に勝ち残りたい・・・」という思いがどれほど強いかということに愕然としました。その時、神が、「お前はそんなに肩書きが欲しいのか・・」と問いかけているように感じました。同時に、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)というみことばが心に迫って来て、悔い改め、深い感動を味わいました。しかし、それから意外にも、数日後、通常の順番を越えて、管理職に抜擢するという通知を受けたとのことです。それを通して彼は、「神様は、私を会社で用いようとする前に、自分の動機を正してくださった・・・」と心から感謝できました。彼はこれによって、「この世の肩書きがどうであれ、クリスチャンとして与えられている仕事にベストを尽くすことこそ主が求めているのだと知った・・・」と言っておられます。彼は今、早期退職の後はアメリカでJCFNを始めとする超教派による帰国者ミニストリーを支えていきたいと願っておられます。日本のサラリーマン社会では、同僚との競争を意識しないような者は、「男ではない・・」と言われてきました。競争意識は人間の本能のようなものでしょう。しかし、より大切なのは、誰の目を意識し、どこに向かって生きるかということではないでしょうか。

1.人生のゴールを意識する

  前回7月12日に、ルカ21章から「終わりの日」のことを学びました。そこでイエスは、この世界に混乱が広がり、暗闇が増し加わることを詳しく預言しながら、「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上げなさい。贖いが近づいたのです」(21:28)と言われました。これは私たちの常識に反する驚くべき逆説です。つまり、私たちは、世の闇が深くなればなるほど、希望に満たされることができるというのです。これはなかなか理解しにくいことです。しかし、自分の歩みを振り返ると、「もう駄目だ・・・」、「もう終わりだ・・」と思ったことがあっても、そこから不思議な展開があったということがなかったでしょうか・・・。そして、私たちにとって百パーセント確実な統計、それは私たちの肉体が滅びるということです。しかし、それは私たちにとって、朽ちることのない復活の身体が与えられるということです。「贖いが近づいた」とは、そのような復活の身体が与えられるときが近づいたという意味です。

それは、なかなかピンとこないかもしれませんが、赤ちゃんの身体に触れると感じることができるでしょう。私たちは自分の身体がどんどん不自由になってゆくことに痛みを感じています。しかし、赤ちゃんの身体は、何と柔らかく、弱いようで力に満ちていることでしょうか。そこには成長のエネルギーが満ちています。だからこそ、ご老人は、赤ちゃんとともにいると活力を受けることができると言われます。私たちもそのような身体を、持つことができます。私たちの人生のゴールは、そのようないのちにあふれる世界なのです。信仰の不思議、それは、私たちがどんなときにも「希望を持つ」ことができるということです。そして、それは試練に立ち向かう勇気を与えてくれます。

 ルカ22章1-23節の最後の晩餐の記事は、今年の4月の受難週に学びました。その中心は、「過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません・・今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(22:16,18)という表現でした。これはイエスの断食宣言でも断酒宣言でもなく、神の国での祝宴を主ご自身が準備してくださり、このときの弟子たちと現在の私たちを含め、主に頼るすべての者が食卓にそろうときを、主は待ち焦がれておられるという意味です。

つまり、私たちは、聖餐式において、ふたつのときを思い起こすのです。それはイエスが十字架にかけられる前の夜と、天の御国での祝宴の完成のときです。そして、イエスは私たちのこの地における歩みを守り導き、ご自身のみもとへと招いていておられます。キリストにある者にとって、永遠の祝福の始まりのときは、すぐ目の前にあります。永遠という時は、死後の遠い世界というのではなく、常に、この現在に接点を持っているからです。

2.「この中でだれが一番偉いだろうか・・・」

今回の箇所、「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」(24節)とは、このようにイエスが、この目に見える世界の終わりのことを語り、また最後の晩餐の席で、ご自身の十字架の意味と弟子たちのうちの一人がご自分を裏切るということを、悲しみを込めて語っておられた時のことです。弟子たちはイエスが語られた神の国での自分たちの地位にばかり目が向かい、イエスの心の痛みに無頓着でした。これは、日本の将来を決める選挙戦を戦いながら、自分の大臣の椅子のことばかりが気になっているかもしれない日本の政治家と同じです。イエスの弟子たちは、主のメッセージを直接に三年近くも聞き続けながら、その意味をまったく理解していませんでした。私も、「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」の希望を語りながら、それが通じないことに焦りを感じることがありますが、イエスのお話しでさえ弟子たちにはまったく通じてはいなかったということを思うとき、慰めと励ましを感じます。福音の奥義は、この世のことで忙しくしている人には理解しがたいものなのです。

 イエスは、そのような弟子たちに向かって、「いつになったら君たちは私の話が理解できるのか・・・」「なぜ自分のことしか考えられないのか・・・」「どうして、そう打算的なことばかりを考えるのか・・」などと叱責しても当然だったのに、イエスはなおも、弟子たちの心に寄り添って語ろうとしています。

イエスはまず、「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています」(25節)と言われます。ここで「守護者」とは、昔の日本の大名が「守護」と呼ばれたのと同じ意味だと思われます。彼らは「お殿様」とあがめられますが、本来、その称号は、領民を自分の命をかけて守るという責任に対して与えられているものです。ところが、彼らは、人をひざまずかせる権威として自分の立場を誇るようになりました。

その上で、イエスは弟子たちの「偉くなりたい」「治める人でありたい」という心を軽蔑する代わりに、その気持ちをまず受け止めて、その上で、「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい」(26節)と言われました。

私たちは生きている限り、人との競争意識から自由になることはできません。だいたい、それがなければ、オリンピックだって、ゲームだって何も楽しくなくなります。イエスは別の機会に、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者になりなさい」(マルコ9:35)と言われましたが、イエスは明らかに、「人の先に立ちたい」という気持ちを受け止めてくださった上で、「しんがりとなり・・仕える者になりなさい」と言われました。

イエスはかつて、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(12:48)と言われましたが、これはノブレス・オブリージュ(noblesse obligenoble obligation、貴族の義務)ということばの由来となっています。第一次大戦では英国の貴族の子弟の死亡率が高かったといわれます。それは、貴族の誇りを持って、真っ先に前線に飛び込んだからです。また、平常時、彼らはしばしば孤児院や障害者施設などでボランティア活動をします。昔のローマ貴族は、私財を投じて道路を整備した見返りに自分の名をつけましたが、日本の政治家は、国民の税金を使って道路や橋を作りながら、そこに自分の名がつけられるのを許しています。

ここでイエスは、「自分を偉いと思ってはいけない」と言う代わりに、「一番偉い人は、一番年の若い者のようになりなさい」と言われました。これはたとえば、食事に招かれたら、すぐに下座につき、他の人がたくさん食べるのを待ってから、食事につくような姿勢です。また、「治める人は仕える人のようになりなさい」とは、リーダーは人に命令を下す前に、人が嫌がるような仕事を進んでやりながら、人に模範を示す必要があるという意味です。

そして、「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています」(27節)とは、ヨハネ13章に記されたように、イエスが最後の晩餐にさきがけて弟子たちの足を洗われたような姿勢を指しており、その姿勢に習うようにとの勧めです。

人間の社会は、猿山と同じような面があります。残念ながら、どこにいても序列が生まれ、強者と弱者が生まれます。私たちは、そのような現実を軽蔑する前に、「自分は与えられた立場や富を、何のために用いるのか・・」と問われています。使徒パウロは、自分の貴族としての地位、ローマ市民としての立場を、福音宣教のために存分に生かしていました。避けるべきなのは、何の働きもせずに、自分の地位を誇るという愚かさなのです。たとえば、世の人は、自分の家柄、学歴、社会的地位、家族構成など、何でも誇りの理由にしがちですが、それはすべて神からの一方的な恵みの賜物です。問われているのは、それをどのように生かしているかということです。何よりも恥じるべきは「宝の持ち腐れ」にしてしまうことです。パウロは、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」、人間的には誇りにできるすべてのことを「ちりあくたと思っています」と言っていますが(ピリピ3:8)、同時に、福音を宣べ伝えるためには、自分の地位や経歴を隠そうともせずに、すべてを生かしています。

3.「わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます」

ところで、ここでイエスは不思議に、彼らの身勝手な根性を良くご存知でありながら、「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです」(28節)と言われました。それは、イエスが、彼らの動機がどのようなものであるにせよ、ご自身との交わりの中にあるということ自体を喜んでおられるという意味です。私たちもある意味で、それぞれ自分の都合を優先してイエスについてきている面があります。ただ、それでも、イエスとの交わりの中で、自分の信仰の動機が、あいも変わらず、自分の利益ばかりを優先し、イエスの思いを第二にしているという身勝手さに気づくことができてはいないでしょうか。人は純粋な動機でイエスに従うというより、イエスに従う中で、動機が純粋に変えられるのです。イエスについてゆくというステップを、まず始めてみなければ、何も変わりはしません。ですからイエスは、どんな動機であれ、ついて来る人を喜ばれるのです。

その上でイエスは、「わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます」(29節)と言われます。イエスの父なる神は、イエスに十字架の苦しみをお与えになりましたが、それはイエスをこの世界の支配者、王にするためのプロセスでした。キリスト者の生涯は、イエスの歩みの御跡をたどるものですが、そこには十字架の苦しみと同時に、復活と昇天の希望があります。イエスは、弟子たちが引き続き、御名のために苦しむということをご存知であられるからこそ、ここで、明確な報酬を約束しておられます。残念ながら、私たちは報酬なしに動くことができるほど無私な心になることはできません。それこそ人間の現実でしょう。しばしば、「私は何の報酬も期待せず・・」などと言っている人こそ、名誉という最高の報酬にとらわれてはいないでしょうか。人は、自分の名誉のためなら命を捨てることができます。パリサイ人は、その思いを隠した偽善者でした。

黙示録では、偶像礼拝の誘惑に命をかけて抵抗し続けた信仰者たちについて、「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間王となった・・・この第一の復活にあずかる者は・・・神とキリストとの祭司となり、キリストとともに千年の間王となる」(20:4,6)と約束されています。イエスがここで、「それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」(30節)と言っておられるのは、このことを指すのだと思われます。イエスは、弟子たちに、この地上の生活での名誉のためではなく、神の国で約束されている名誉のために、この地でのどのような苦難にも耐え、ご自分に従うように命じられたのです。

そして、「新しいエルサレム」が実現するときには、「神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である(22:5)と約束されています。そして、私たちに「永遠のいのち」が与えられているということは、この将来的な「王」としての立場が保障されていることを意味します。それは十二弟子ばかりか、イエスに従う者すべてに約束されていることです。私たちも、「王」になると約束されているのです。

そのことを後に使徒ペテロは、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と表現しました。そして、そのような名誉ある立場を約束された者としてのノブレス・オブリージュ(貴族の責任)が、「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と言われています(Ⅰペテロ2:9)。自分をちっぽけに見る人は、人をもちっぽけに扱うことでしょう。また、自分をちっぽけに思う人は、目の前の様々な必要を見ても、「これは私の仕事ではない。誰か他の人がやったらいい・・」と逃げ腰になります。使徒パウロは、経済的な報酬を受けずに福音を述べ伝えることに関して、「私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましです」(Ⅱコリント9:15)と言い、自分の働きの仕方に驚くほどの誇りを持っていました。もちろんそれは、他の人の評価から生まれる誇りではなく、神から任された働きに対する誇りです。ですから、決して、自分の能力や時間を無視して、神から期待されている以上の働きをすることではありません。問われているのは誰の目を意識しているかということです。

4.「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」

ところで、ここで突然イエスは、ペテロの気持ちをくじくようなことを言います。それが、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(31、32節)というおことばでした。つまり、ペテロはまず、サタンの誘惑に負けてイエスを裏切り、イエスの祈りによって初めて信仰を保つことができるというのです。しかし彼は、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(33節)と答えました。彼は他の弟子たちはさておき、自分だけはイエスを裏切ることなど絶対にありえないという確信を抱いていました。しかし、「私は大丈夫!」などと豪語する者ほど危ない人はいません。そのように言う人は、旧約聖書を知っていないことを証明しています。旧約は、どんなに良い教えを受けても、アダムの子孫はそれを実行することができないということを証明するための記述だからです。

 それでイエスは、「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(34節)と言われました。そして、イエスが言われたとおりに、ペテロは失敗します。それはペテロにとっての弟子訓練の最終段階を指しています。彼はこれによって文字通り、「心の貧しい者」とされました。彼は、そこでイエスの祈りなしには、自分の信仰がなくなっていたということを知りました。彼は、それを通して、他の弟子たちの弱さを軽蔑する代わりに、共感できるようになります。そこで、イエスが彼に、「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という命令を実行できるようになりました。彼は、福音を語るたびに、自分の愚かな失敗を証ししたに違いありません。彼の愚かさと、主のあわれみがセットになって、人を慰め励ましたのです。

私たちにとって「誇り」は命より大切ですが、それが肉の思いを正当化する根拠になってしまう恐れがあります。働きや危険の前で尻込みすることも問題ですが、主のみこころを離れて、「私こそ・・」「私でなければ・・」という思いが先行してしまっては本末転倒です。ですから、しばしば、主は、私たちをご自身の働きに生かす前に、私たちの自我を砕くというプロセスをとってくださいます。それは、私たちにとって苦痛に満ちたものとなるかも知れませんが、その後には、「主の御霊に生かされる」という、この世のすべての喜びにまさる平安が約束されています。

キリスト者として生きるとは、聖霊に生かしていただくという歩みです。キリスト者とは聖霊を受けた人です。私たちがしばしば聖霊のみわざを感じることができないのは、自分の空虚さを心から味わうことができていないからです。これはあくまでも逆説ですが、あなたが聖霊のみわざを知ることができないのは、信仰がないからではなく、ありすぎるからかもしれません。私はあるとき、自分の祈りをとてつもなく空虚なものに感じ、「もう、祈るのをやめよう・・」と思ったとき、反対に、自分の中で聖霊様が祈りを起こしてくださっているということが分かりました。ローマ人への手紙8章9-11節は次のように訳すことができます。これを繰り返し、じっくりと味わってみましょう。

「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいます。神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに住んでおられるからです。なぜならキリストの御霊を持たない人は、キリストのものではあり得ないからです。 キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。 

それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」

ある精神科病棟に、黙々とごみ拾いをしているご老人がいました。その謙遜な姿を褒めてくれる人に、彼は、「僕は実は、天皇なのだ。かつての戦争で、多くの人を苦しめてしまったから、このように、人の嫌がる奉仕をして、罪滅ぼしをしているのだ・・・」と答えたとのことです。病院の人々は、彼を「ばた屋天皇」と呼んで、尊敬していたとのことです。私たちは、人が避けたいと思う奉仕、人のためになる奉仕を黙々としながら、自分を天皇と称する人を、「気が違って、可愛そうに・・・」と軽蔑する資格があるでしょうか。威張り散らして、人に不快な思いをさせる人より、彼はずっと健全な心をもっています。私たちも、この世の人々から見たら、「ばた屋天皇」のような存在です。私たちはすでに、「キリストとともに王とされる」ということを信じているから、人から馬鹿にされても、中傷されても耐えることができます。そして、人が避けたいような仕事を、進んですることができます。私たちは最終的に、「あなたは、自分が生きたことによって、より多くの愛がこの世にもたらされたと思いますか。あなたの日々の努力によって、この世を少しでも、暖かく、住み良い場所にすることができたでしょうか。」と問われるのではないでしょうか。

パウロは、「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(Ⅱコリント5:13,14)と告白していますが、聖霊に満たされるとは、キリストの愛に駆り立てられて、一見、この世の計算を度外視した行動をとることができることです。私たちは福音を弁明するときは、正気である者として語る必要があるでしょう。しかし、神を愛し、人を愛する生き方においては、気が違っていると思われるぐらいになる必要があるのではないでしょうか。ロシアの小説家、ドストエーフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」という小説で、アリョーシャという不思議な人物の生涯を描こうとして、その半ばで息を引き取りました。それは、東方教会の中で、聖霊に満たされた者は「キリストにあって愚かになる」と描かれているような生き方です。その人は、一見、この世的な意味での生きる知恵に欠けているように見えます。しかし、その人と接した後は、不思議に心がやすらぎます。そして、その人の後には、不思議な平和が残されて行きます。聖霊に満たされるとは、何かをつかみとろうとする生き方ではなく、すでに自分のうちに聖霊が宿っておられることに信頼して、自分を空っぽにしてゆくことです。それは自分に死ぬことでもありますが、同時に、それこそ自分の個性と賜物を十二分に生かす道でもあります

|

2009年8月25日 (火)

エゼキエル4-7章「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」

                                                2009823

  あなたにとって、「信仰が深まる」とはどのようなイメージをもたらすでしょうか。しばしば、それは、「心が安定する」、「勇気がわく」、「喜びで満たされる」、「希望にあふれる」などと言い換えられるでしょう。しかし、そのような心の変化は、「幸福の科学」のような新興宗教が強調していることと変わりはしません。ヨハネの福音書で、人となる前のキリストが、「ことば」と呼ばれています。それは、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(1:18)とあるように、キリストが聖書の「ことば」を通して神を知らせ、また、人となって神を知らせてくださったということを指しています。人は、「信仰」という名のもとに勝手な神のイメージを作り上げます。それこそ、人類の悲劇です。しかし、信仰とは、まことの神を「知る」ということにほかなりません。しかも、それは頭での知識ではなく、人生という体験を通して「神を知る」ということです。今日の箇所では、「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」ということばが繰り返されます。これは文語訳聖書では、「彼等は我エホバなるを知るにいたるべし」と訳されます。主の御名は、最近のほとんどの学者は、新改訳聖書の「あとがき」にあるように「ヤウェ」と発音するのが正しいということで一致しています。それならば、ここは、「彼らは、わたしがヤウェであることを知ろう」と訳した方が良いのかもしれません。残念ながら、多くの人は、「主(ウェ)という神ご自身のお名前をあまりにも軽くとらえています。その御名にどのような意味が込められているかを知ることこそ、実は、「信仰を深める」ことではないでしょうか。しかもそれは、この時間と空間を始められた方という抽象的なイメージを超え、歴史を導き、今もあなたの人生を具体的に導いておられる「生ける主(ヤハウェ)を知る」ことです。

1.「わたしはエルサレムで、パンのたくわえをなくしてしまおう」

主はエゼキエルに、「一枚の粘土板を取り・・その上にエルサレムの町を彫りつけよ。それから、それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置せよ」(4:1、2)と命じられました。それは、エルサレムがバビロン軍に包囲される姿をリアルに思い浮かべさせるためでした。それは、実際に、約五年後に起こる悲劇を指し示していました。そして、続けて、「一枚の鉄の平なべを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立て」(4:3)るように命じられます。これはパンを焼くためにも使われる大きな鉄板でした。その上で、彼に、「あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ。この町を包囲し、これを攻め囲め。これがイスラエルの家のしるしだ」(4:3)と命じられます。これは、町を包囲するバビロン軍の背後に、主ご自身がおられることを示すとともに、鉄板を仕切りとして、主がご自身の御顔をエルサレムから背けていることを象徴していると思われます。

  そして、「あなたは左わきを下にして横たわる」(4:4)ように命じられます。当地においての左右とは、東の方に向かってという前提で語られますから、左は北王国イスラエルを指します。彼は、「イスラエルの家の咎を自分の身の上に置」きながら、390日間同じ姿勢を取るように命じられました(4:5)。それが終わった後、「右わきを下にして横たわり、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは、あなたのために一年に対して一日とした」(4:6)と命じられます。これらの数字の意味は、諸説あって断定するのは困難ですが、これを合わせると430年になりますから、イスラエルの民のエジプトでの奴隷生活の年限を指すとも解釈できます(出エジ12:40)。これは確かに長い年月ですが、同時に、神の救いが必ず来るということの保障でもあります。

その上で、主は彼に、「あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ(4:7)と命じられます。その際、主は、「あなたになわをかけ・・包囲の期間が終わるまで寝返りができないようにする」(4:8)と言われましたが、この間、まったく身動きのできない姿勢で語り続けるという意味ではありません。主は彼に、最低限の粗末なパンを作り、また少量の水を量って飲むようにと命じられているからです(4:9-11)。これは一日最低限の粗食(雑穀を混ぜた230gのパン)と水(0.6ℓ)で我慢しながら、エルサレム残されている民の飢えと渇きをともに味わいながら、傍観者ではなく、ともに痛みながら語るようにという配慮でした。

 その上で、主は彼に、「あなたの食物は大麦のパン菓子のようにして食べよ。それを彼らの目の前で、人の糞で焼け」(4:12)と衝撃的なことを言われました。人の排泄物は、律法では注意深く隠すように命じられていましたが(申命23:14)、主はイスラエル民が、「汚れたパンを食べなければならない」(4:13)という意味でそれを命じられました。それに対し、エゼキエルは、「ああ、主、ヤウェよ。私はかつて、自分を汚したことはありません・・・」と、それを避けたいと主に懇願しました。それで主は、「では、人の糞の代わりに牛の糞でやらせよう。あなたはその上で自分のパンを焼け」(4:15)と言われます。家畜の糞を燃料とすることは汚れたことではありませんでした。

そして主は、「わたしはエルサレムで、パンのたくわえをなくしてしまおう。それで彼らはこわごわパンを量って食べ、おびえながら水を量って飲むであろう。それはパンと水が乏しくなるからだ。彼らは自分たちの咎のために、みなやせ衰え、朽ち果てよう(4:16、17)と、エルサレムの飢饉は、彼らの咎に対する「さばき」であると語ります。

 私たちは悲惨な目に会うとき、それをこの世的な次元で、原因を突き止め、それに対処しようとします。しかし、すべては主の御手の中で起こっていることです。このような悲惨について、かつて預言者イザヤは、「見よ。主(ヤハウェ)の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:1,2)と語っています。私たちもイスラエルの民のように、自業自得で苦しむことがありますが、そのようなときに、まず必要なのは、示された罪を主に大胆に告白するとともに、主のあわれみにすがることです。私たちの時代はイザヤのときとは異なります。私たちの主イエス・キリストが私たちすべての罪を負って、十字架にかかられたからです。ですから、私たちは恐れることなく大胆に主のあわれみの御座に近づくことができます。私たちを襲う様々な悲惨は、この世界の真の支配者である神に向かって祈ることへの招き、祈りへの招きなのですから。

2.「わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する」

 主はエゼキエルに引き続き、「人の子よ。あなたは鋭い剣を取り、それを床屋のかみそりのように使って、あなたの頭と、ひげをそり」(5:1)と命じますが、主はかつてアッシリヤを「かみそり」にたとえて、北王国イスラエルに対するさばきを、「頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす」と表現していました(イザヤ7:20)。つまり、彼が頭とひげをそるとは、主がエルサレムをさばくことの象徴でした。そして、「その毛をはかりで量って等分せよ。その三分の一を、包囲の期間の終わるとき、町の中で焼き、またほかの三分の一を取り、町の回りでそれを剣で打ち、残りの三分の一を、風に吹き散らせ。わたしは剣を抜いて彼らのあとを追う」(5:2)と言われます。彼はまず、自分の毛髪の三分の一を粘土板の上に書いた町の上で焼くのですが、それは町の住民の三分の一がエルサレム城内で滅ぼされることを意味しました。そして、残りの三分の一ずつを含めて、12節では、「三分の一はあなたのうちで疫病で死ぬか、あるいは、ききんで滅び、三分の一はあなたの回りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う」と解説されます。彼らを待っているのは、三種類の苦難でした。そして主は彼に、「あなたはそこから少しの毛を取り、それをあなたの衣のすそで包み、そのうちからいくらかを取って、火の中にくべ、それを火で焼け。火がその中から出て、イスラエルの全家に燃え移ろう」(5:3、4)と言われますが、それは、この主によるこの三分の一ずつのさばきを免れる者は誰もいないということを意味していると思われます。

  そして主はエゼキエルに、「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真ん中に置き、その回りを国々で取り囲ませた」(5:5)と言いますが、それはこのエルサレムが異教の国々から包囲されるのは、主ご自身の働きであることを明らかにするためでした。そして、主のさばきの理由が、「エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった」(5:6)と言われます。本来、イスラエルの民は、「このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう」(申命4:8)と、主の律法を持っていることのゆえにまわりの国々から尊敬を得ることができるはずでした。ところが今は、みおしえを持っていない周りの国々よりも堕落しているというのです。そのことを主は、「あなたがたは、あなたがたの回りの諸国の民よりも狂暴で、わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを行わず、それどころか、あなたがたの回りの諸国の民の定めさえ行わなかった」(5:7)と嘆かれます。なお、「諸国の民の定め」とは、他国と結んだ条約を軽視したことを指すと思われます。事実、エルサレムは、バビロン帝国との約束を破ったために、バビロンから滅ぼされようとしています。神の民が、この世の民よりもずっと不誠実だったというのです。

 そして、主は、彼らの想像を超えた堕落に対し、想像を超えたさばきを下すという意味で、主は、「あなたのしたすべての忌みきらうべきことのために、今までしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたのうちで行う」(5:9)と言われながら、何と、「あなたのうちの父たちは自分の子どもを食べ、子どもたちは、自分の父を食べるようになる」(5:10)という獣でさえ行わない残虐を行うままにさせると言います。これは、直接に神が人間をそのように動かすという意味ではありません。神のさばきは、「その心の欲望のままに」生きるようにさせることだからです(ローマ1:24)。その上で、主は、「わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をすべて四方に散らすと言われ、彼らは国を失うことになります。そして、主が何よりも怒っておられる原因が、「あなたはあなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚した(5:11)ことにあると言っておられます。

ただし、その後、「わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する」(5:13)と言われます。「満足する」とは、「悔いる」とか「慰められる」とも訳されることばで、主の怒りや憤りが、「あわれみ」に変わるみこころの変化を示しています。イスラエルの民は、自分たちに対する神のさばきが全うされたとき、神のあわれみを期待できました。聖書を信じるイスラエルの民の不思議の秘訣がここにあります。彼らは、苦難に会えば会うほど、それを主の怒り、主の懲らしめと理解し、その後に、主のあわれみが注がれることを期待することができたからです。そのことを、主は引き続き、「わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主(ヤハウェ)であるわたしが熱心に語ったことを知ろう」と言われます。これは、「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう、わたしが憤りを全うするとき、わたしがねたみを持って語っていたことを」と訳すことができます。これは、神の怒りは、神の愛と表裏一体の「ねたみ」から生まれていることを指しています。多くの人々は、神の「愛」と「怒り」を対立関係で捉えますが、それは誤りです。神の怒りは、ご自身の民をご自身のもとに立ち返らせようとする熱い情熱の現われであって、愛の表現でもあるのです。それは、子供に対する親の怒りが、愛と表裏一体なのと同じです。

後に使徒ヨハネは、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためのなだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:10)と述べましたが、「なだめの供え物」とは、「主の怒りが全うされ・・憤りを静めて満足する」ために主ご自身が用意された供え物です。神は、ご自身の怒りを、十字架の御子イエスに対して燃やすことによって、私たちに対する怒りを静めてくださったのです。

5章14節から17節まで、イスラエルの民に臨む悲劇が記されます。当時の人々は、それをイスラエルの神ヤハウェの無力さのしるしと誤解する可能性がありました。しかし、神の民に起こるわざわいは、主こそが全世界の支配者であることのしるしなのです。そのことが、17節の最後では、「わたしはあなたに剣を臨ませる。わたしは主(ヤハウェ)、わたしがこれを告げる」と記されます。聖書を繰り返し味わう者は、様々な苦しみに会いながら、主の存在を疑う代わりに、ますます主を恐れることを学びます。そこで、「どうして、こんなことになるのか・・・」と問う代わりに、「私は今、この悲惨の中で、主からどのように行動することを期待されているのか・・・」と問うようになります。

私たちにも、ときに、逃げようのない悲惨が迫ってくることがあるかもしれません。そのとき、下手に逃げようとあせることはより大きな悲惨を招くことになります。主がもたらした苦しみは、主にすがって道を開いていただくしかありません。人間的な解決をはかろうとあせる前に、主にすがることが必要です。私たち新約の時代の恵みをパウロは、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(Ⅰコリント10:13)と語っています。大切なのは、人間ではなく、主ご自身が備えてくださった「脱出の道」が示されるのを、忍耐を持って待ち続けることです。

3.「あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう」

6章1-7節では、イスラエルの山々が、偶像礼拝の場、「高き所」で満ちていることに対し、主ご自身が彼らの祭壇を打ちこわすばかりか、「わたしは、イスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、あなたがたの骨をあなたがたの祭壇の回りにまき散らす」(6:5)と言われます。これは、偶像礼拝に対する神の激しい怒りの現われであり、彼らに偶像礼拝の愚かしさを、身を持って体験させるための、神の懲らしめでした。そのことが、「刺し殺された者があなたがたのうちに横たわるとき、あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(6:7)とまとめられます。つまり、偶像礼拝に対する主のさばきは、ご自身こそが、唯一の神、世界の唯一の創造主、すべての存在の根源、世界のすべてを成り立たせているヤウェ、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジ3:14)という方を神の民に知らせるためのしるしであったのです。実際、この苦難の中を生き残ることができたイスラエルの民は、その後、いかなる偶像礼拝も行わないということにいのちをかける民として、世界中に知られるようになります。

 そのことが、「しかし、わたしは、あなたがたのある者を残しておく。わたしがあなたがたを国々に追い散らすとき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる。あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう(6:8、9)と記されます。彼らは、バビロン捕囚を通して、「主を思い出す」ようになったのです。そして、彼らが偶像礼拝の愚かさを心から悟り、「自分たちのあらゆる忌みきらうべきことをしたその悪をみずからいとうようになるとき」、つまり、それに嫌悪感を持つようになる時、「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう」と記されます(6:9、10)。

  そして、主はエゼキエルに、「あなたは、手をたたき、足を踏み鳴らして、剣とききんと疫病とによって倒れるイスラエルの家の忌みきらうべきすべての悪に対して、『ああ』と叫べ」(6:11)と命じられます。これは、同情の嘆きというよりは、彼らの悪の愚かさを、手をたたき、足を踏み鳴らし、「あざけって喜ぶ」(25:6)という意味がありました。それは人々が自分たちの愚かさに気づくようになるための動作によるメッセージでした。そして、これらの悲劇を通して、再び、「彼らへのわたしの憤りは全うされる」(6:12)、また、「あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(6:13)と記されます。ここにもさばきの背後に、希望が隠されています。そして、それをもう一度まとめるように、主は、「わたしが彼らの上に手を伸ばし、すべて彼らの住む所、荒野(南端)からリブラ(北端)まで、その地を荒れ果てさせて荒廃した地とするとき、彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(6:14)と言われます。

  子供にとっての親は、しばしば、身近にいるときには、「うざったい」と思え、遠くにいると、「愛おしい」と思えます。それは、人間にとって、ちょうど良い関係は、空気のようなもので、存在のありがたさが実感できないからです。神の存在を、実感できないということは、実は、今の生活が順調であることのしるしです。しかし、それは常に、退屈に変わり、そこから刺激を求めた偶像礼拝が始まる恐れが常にあります。そのとき神は、私たちに敢えて、苦しみを与えることによって、すべてが神の恵みであることを思い起こさせようとしてくださいます。親を失う前に親の存在に感謝できることが幸福なように、苦しみを受ける前に、神の恵みを感謝できる者とさせていただきましょう。

4.「銀も金も、主(ヤハウェ)の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない」

引き続き主は、イスラエルに対するさばきを、「もう終わりだ。この国の四隅にまで終わりが来た。今、あなたに終わりが来た」(7:2,3)と、「終わり」ということばを三度も繰り返しながら知らせます。それは、神の公正なさばきの基準によってなされるものですが(7:3)、ここで主は、「わたしがあなたの行いに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(7:3、4)と言われます。これは、彼らが自分たちを襲う悲惨を通して、レビ記26章に繰り返されていた七倍の懲らしめや申命記28章で警告されていた「のろい」がイスラエルの民に降りかかるというものです。神は忍耐に忍耐を重ねてご自身のさばきを先延ばししておられましたが、これ以上延ばすことは、かえってみことばを無に帰させると思われたのでしょう。

そして再び、主のさばきが避けがたいことが、「わざわいが、ただわざわいが来る。終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い」(7:5-7)と、「来る」ということばを六度も繰り返しながら強調されます。そして、そのことが再び、「今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする」(7:8)と表現され、また、「あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう。わたしがあなたがたを打っていることを」(7:9私訳)と記されます。

  そして主は、「見よ。その日だ。その日が来る。あなたの終局がやって来ている」(7:10)と言いながら、それを、「杖が花を咲かせ、高慢がつぼみを出した」と表現します。「杖が花を咲かせ」とは、アロンの杖が逆らう者どもへの戒めのためにアーモンドの花をつけたことを指すのかと思われますが(民数17:8-10)、それと同じように、彼らの隠れていた高慢が芽を出しあらわになった事に対する主のさばきが下されるという意味だと思われます。イスラエルの民は、主のあわれみを受けながら、それを忘れ、自分たちの力で豊かになったと思い込んでしまいました。

それに対して、主は、彼らの相続地をたちどころに奪うことによって、すべてが主の一方的なあわれみであったことを思い知らせようとしておられます。そのことが、「その時が来た。その日が近づいた。買う者も喜ぶな。売る者も嘆くな。燃える怒りがそのすべての群集にふりかかるから。売る者は、生きながらえても、売った物を取り返せない。幻がそのすべての群集にあっても・・・」(7:12、13)と言われます。ここで、「燃える怒り」と、「幻」ということばは並行して用いられていますから、この最後の文章は、新共同訳の「すべての群集に対する審判の幻が撤回されないからだ。罪ゆえにだれひとり命を保つことはできない」という訳の方が意味をよく伝えているでしょう。

なお7章17節では、神の「燃える怒り」による恐るべきわざわいの中を生き残った人々も、「みな気力を失い・・ひざもみな震える」と言われます。生き残った人々が恐怖に圧倒される様子は、レビ記26章36,37節で、「彼らの心の中におくびょうを送り込む・・吹き散らされる木の葉の音にさえ・・追い立てられる」と預言されていた通りです。

また金や銀が、「主の日」には何の役にも立たない様子が、「銀も金も、主(ヤハウェ)の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない」(7:19)と記されます。そして、「それらは彼らの飢えを飽き足らせることも、彼らの腹を満たすこともできない。それらが彼らを不義に引き込んだからだ」とは、金銀で本来は食料を買うことができるはずなのに、彼らがそれらで偶像を作って主の怒りを買ってしまったので、かえって悲惨を招いたという皮肉です。これは、現代にもそのまま適用できるものでしょう。主のさばきの前では、お金は何の助けにもならないばかりか、お金こそが、私たちを悪に誘惑し、滅ぼす原因になったことが思い知らされます。今も、私たちは、死の病に襲われる時、お金の無力さを知ることができます。私たちのいのちはすべて、「わたしは、『わたしはある』という者である」と言われる方の御手の中に置かれています。神以外の誰も私たちに永遠のいのちを与えることはできません。

そればかりか、主がご自身の宮を、異教徒を用いて破壊すること予告し、「わたしは彼らから顔をそむけ、わたしの聖なる所を汚させる。強盗はそこに入り込み、そこを汚そう・・・わたしは異邦の民の中で最も悪い者どもを来させて、彼らの家々を占領させ、有力者たちの高ぶりをくじき、彼らの聖所を汚させよう」(7:22、24)と言われます。これはソロモンが宮を建てたときに、主ご自身が既に警告しておられたことばでした(Ⅰ列王記9:6-8)。

そればかりか、「彼らは平和を求めるが、それはない。災難の上に災難が来、うわさがうわさを生み、彼らは預言者に幻を求めるようになる。祭司は律法を失い、長老はさとしを失う」(7:25、26)と記されます。彼らはこの時に至っても、自分に都合の良い「幻」を求めます。しかし、預言者も祭司も長老も、神のみことばを受けることができません(参照ミカ3:5-7)。そして、最後に主は再び、「わたしが彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(7:27)と言われます。彼らは自分たちの幻想が破られ、昔からの預言の通りのさばきが起こっていることを知ることによって初めて、「わたしが主(ヤハウェ)であることを知る」ようになるのです。彼らは何度も警告を受けながら、それを真剣に受け止めませんでした。

 エルサレムの悲劇的な滅亡は、モーセの時代から繰り返し警告されていることでした。エルサレム神殿の滅亡さえも、神殿が完成したときに既に警告されていました。彼らは、神のみことばを繰り返し聞いていながら、それを聞き流し、「のろい」の計画を自分で導き出してしまったのです。しかし、神は、「のろい」のあとに、少数の神の民を残し、そこから「祝福」の計画を始めると繰り返し語っておられました。神の怒りが全うされることは、短期的には滅びでしかありませんが、それはのろいの預言が成就して、祝福の計画が始まることのきっかけでもあるのです。もし、あなたの人生が、「終わり」になってしまったように感じる時、人にとっての終わりは、神の祝福の計画が始まる時でもあるということを常に覚えているべきです。そして、最終的には、この目に見える世界の「終わり」は、「新しい天と新しい地」が始まる時です。ですから、私たちは、自分にとっての「重い」としか思えない「患難」を、「今の時の軽い患難」と言い換えながら、それは、「私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」と言いつつ、「ですから、私たちは勇気を失いません」と告白することができます(Ⅱコリント4:16,17)。

|

2009年8月 9日 (日)

エゼキエル1:1-3:15「主(ヤハウェ)の栄光を拝するときの恐れと望み」

                                                2009年8月9日

  現代の多くの日本人にとって、「父の権威」が感じられない時代になっています。私は父を怖いと感じたことはありません。母はいつでもどこでも私の無条件の応援者でした。しかし、いつでもほめられるということは、反面、どこまでやり遂げても、「それで十分!」という達成感を得られないということにもつながります。父の権威を感じられない時代は、アイデンティティーが不安定になると言われます。聖書の神を、父なる神として恐れるということがなければ、「あなたは、わたしの愛する子」という神の語りかけの有難さが分からなくなります。また、神に父としての力強さを感じることができなければ、不安の中で、神が共にいてくださることが安心感につながりません。

この箇所は、神がどのようなお方かを、最も生き生きと描写したものです。もしあなたが神を、自分の願いを聞いてくれるばかりの優しいお父さんのように思い浮かべるなら、そこには真の平安も希望も生まれません。なぜなら、命を捨てることさえ命じられる父の権威なしには、自分から自由になるという信仰の真髄は分からないからです。

1.「天が開け、私は神々しい幻を見た」

1章1-3節からこの書の背景が明らかになります。著者は、「ブジの子、祭司エゼキエル」です。この時は、第二次バビロン捕囚から五年目の紀元前593年のことです。そして、場所は、「ケバル川のほとり」と記されますが、それはバビロン帝国の首都の近郊から延びるユーフラテス川の水を引いた大運河です。それはバビロン帝国の力のシンボルとも見られたのではないでしょうか。また、3章15節を見ると、そこには「テル・アビブ」という名の捕囚の民の集落がありましたが、それこそ、現在のイスラエルの首都の名の由来です。つまり、現在のイスラエルの民は、この預言が最初に告げられた町を、今も、自分たちにとっての希望の源としていることがわかります。

なお、最初にある「第三十年」とは、エゼキエルの年齢を指すと思われます。なお、これはヨシヤ王の宗教改革から30年目でもあります。彼は短い生涯の中で、ユダ王国の絶頂期から破滅までを見た預言者です。

彼は25歳のとき、当時18歳だったイスラエルの王エホヤキンの一族とともにバビロンに捕囚として強制移住されました。彼は本来なら、30歳のとき、栄光に輝く神殿での礼拝を導くという名誉にあずかることができたはずでした。しかし、このとき、神に背いた罰を受けて捕囚とされたイスラエルの民とともに、打ちひしがれていたのではないでしょうか。しかし、そのような絶望的な状況の中で、彼の上に、「天が開け・・神々しい幻を見た」(1:1)というのです。

私たちも同じように、自業自得の失敗をして、社会的な立場を失い、絶望的な状況に置かれるということがあるかもしれません。しかも、そこでは、繁栄を謳歌している異教徒たちが、「お前の神はどこにいるのか?」と嘲っています。しかし、そのような逆境の中でこそ、私たちの上には「天が開け」神からの幻を受けることができます。

 「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった」(1:4)とありますが、これは神ご自身が遠いエルサレムを離れてユーフラテス川沿いを南下して捕囚の民の真ん中に近づいているというイメージではないでしょうか。イスラエルの民は、かつての荒野の旅路の間、「昼は主(ヤハウェ)の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていた」(出エジプト40:38)とありますが、それは神が彼らのただ中に住んでおられたことのしるしでした。また、モーセが幕屋を建てたときも、ソロモンがエルサレム神殿を建てたときも、その場が「主(ヤハウェ)の栄光」に満たされ、モーセも祭司も近づくことができなかったと記されています。

ユダヤ人たちはそれを「シェキナー」と呼びました。それは、恐ろしくて近づき難くありながら、それは同時に、天地万物の創造主が、汚れた民の真ん中に住んでくださったというしるしでした。そこに恐怖と喜びが同時にありました。後に、エルサレム神殿が廃墟とされる理由が、「主(ヤハウェ)の栄光」が神殿を離れたからと描かれますが(10章)、その「主(ヤハウェ)の栄光」が、今、何と、遠い捕囚の地バビロンに現れたというのです。なお、「火の中央」にあった「青銅の輝き」とは「琥珀金の輝き」(新改訳脚注、共同訳)とも訳されますが、それは、1章27節では、神の腰から上のほうの輝きを表したものです。

2.四つの顔を持つ四つの生きもの

1章5-11節には、「おのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持つ」という「四つの生きもののようなもの」の不思議な幻が記されますが、これは、契約の箱の上の「贖いのふた」を覆っていたケルビムの姿を見せたものだと思われます。律法の書では、ケルビムの顔がどのようなものかは描かれませんでしたが、贖いのふたの両端に置かれた二つのケルビムの顔が向き合い、その翼が贖いのふたを覆っていたと記されていました。ダビデは詩篇18篇では、「主はケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。主はやみを隠れ家として、まわりに置かれた」(10、11節)と描いています。つまり、ケルビムは主ご自身を乗せる存在であるとともに、やみを隠れ家とする主の栄光を目に見えるように現す存在でもあるというのです。ここで、「足の裏は子牛の足の裏のようであり」(1:7)とは、「子牛のように、はねる」(詩篇29:6)という躍動感に満ちた存在であるとの意味が込められていると思われます。

そして、「おのおの」の生きものが持つ「四つの顔」は(1:10)、それぞれの領域の王者を示しています。「獅子」は野の獣の王、「牛」は家畜の王、「鷲」は空を飛ぶ鳥の王です。そして、「人間の顔」こそケルビムの顔の中心をなすものですが、それは、人が神のかたちとして、世界のすべての生き物を治める者として創造されたからです。

なお、黙示録ではこれを少し変えて、全身が目で満ちた四つの生き物が、それぞれ、獅子、雄牛、人、鷲という姿をもって、六つの翼をもって神の御座のまわりを飛びながら、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、神である主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方」と賛美する様子が描かれています(4:6-8)。

「彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた」(1:11)と、「翼」の様子が描かれていますが、これは預言者イザヤが見た「セラフィム」の様子に似ています。その彼らの場合は、「それぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、ふたつで両足をおおい、ふたつで飛んで」いました(イザヤ6:2)。それはエゼキエルの見た生き物とは違いますが、同じく神のそばに仕えるものとして似たような翼の働きを持っていました。ただ、イザヤと黙示録の生き物は、神を賛美する存在として描かれていますがこの生き物の場合は、「翼の下から人間の手が四方に出ていた」(1:8)とあったように、神の御座を運ぶような働きをしていたのかもしれません。そして、「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった」(1:12)とあるように、彼らは向きを変えることなく速やかに移動することができました。その際、「霊が生かせる所に」と、御霊の導きに自由に応答できることが強調されています。

「それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、たいまつのように見え、それが生きものの間を行き来していた。火が輝き、その火から、いなずまが出ていた」(1:13)とありますが、「燃える炭」とは、イザヤ6章6節にもあったように「聖める力」であり、また「たいまつ」も神の栄光の現れです(創世記15:17)。また、「火」「いなずま」も、神の近づきがたい栄光を現すものです。そして、「それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた」(1:14)とありますが、それは人には、恐怖を起すものです。

主(ヤハウェ)がシナイ山に降りてきてイスラエルの民に「十のことば」を告げられたとき、民の長老たちは恐怖に圧倒され、これからはモーセを通して間接的に神の御声を聞くようにしたいと必死に願ったほどです。私たちは、主の「栄光と偉大さ」(申命記5:24)を、軽く見すぎる傾向があるのではないでしょうか。

3.四つの輪と四つの生きもの、主の栄光の御座

 引き続きエゼキエルは神からの幻に圧倒されながら、「私が生きものを見ていると、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつの輪があった・・」(1:15-17)という不思議な情景を記しています。生き物に翼があるなら、「車輪」など必要がないように思えますが、これがあることによって、生き物はこの地に密着しながら、移動することができます。私たちには、地に足をつけた生き方が大切だと言われますが、この生き物に密着する輪があるおかげでそれが可能になるというのです。「一つの輪が他の輪の中にある」(1:16)という表現はわかりにくいものですが、これはふたつの輪が、私たちの想像を超えるような形で直角に交差しているようなものかと思われます。それによって、輪が向きを変えることなく移動ができるということだと思われます。

 「四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった・・・生きものの霊が輪の中にあったからである」(1:18-21)という表現は、この「輪」は生き物を乗せる自動車のような機械ではなく、それ自身に「いのち」があり、その「目がいっぱいついて」いることで、主体的にどの方向にでも、即座に自由に動くことができる生きた存在であるということです。

しかも、「生きものの霊」がそこに宿ることによって、輪と生き物が一体となって動くことができるという意味です。

イエスは、父なる神に向かって、「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです」(ヨハネ17:21)と言われましたが、それは、イエスと父なる神が一体であるように、弟子たちが一つになるようにという祈りでした。神は愛の交わりの中に存在していますから、神に仕える存在も、それぞれ主体性を保ちながら、一体の者として存在しているのです。

 そして、その上で、神の御座の様子が、「生きものの頭の上には、澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、彼らの頭の上のほうへ広がっていた・・・彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった」(1:22、26)と描かれます。これは、「四つの生きもの」の頭のはるか上に、「神の王座」があったことを示しています。

シナイ山で律法を受けたとき、イスラエルの長老七十人が神を仰ぎ見た様子が、「御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通って青空のようであった」(出エジプト24:10)と記されていました。

つまり、神は、ケルビムのはるか上の、澄んだ大空のようなところに、玉座を持ち、人は、その姿をおぼろげに見ながらも、その御顔はまぶしすぎて見ることはできません。私たちはケルビムの翼の音を聞くだけで恐怖に襲われます。そして、恐ろしい音を立てて移動するケルビムですら、神の御声を聞くときには、立ち止まって、その翼を垂れ、恐れをもって主のみことばを聞いていました(1:25)。私たちは、どれだけの恐れをもって、主のみことばを聴こうとしているでしょうか。それにしても、神の御姿が、「人間の姿に似たもの」と表現されているのは興味深いことです。人は神のかたちに、神に似せて創造されました。それゆえ、神は人間に似た姿として逆に描かれるのですが、私たちはしばしば、神のかたちを人間のかたちに引き下げて考えてしまいます。それこそ滅びへの道です。

そして、神の姿が、「その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた」(1:27)とありますが、「青銅のように輝き」という表現は、1章4節にあったように、「琥珀金の輝き」と訳すことができます。つまり、神は人間のように描かれながらも、決して、人間の姿として見られる方ではなく、表現しがたい輝きとともに、「火のような」存在としてしか描くことはできないのです。そして、「その方のまわりにある輝き」は、「雨の日の雲の間にある虹」のような、透き通った美しい輝きでした(1:28)。そこには、まさに、恐怖と感動がありました。

聖書の中で、このエゼキエル1章ほど、詳しく神の栄光を描いた箇所はありません。エゼキエルは、世界の終わりと思える絶望的な状況の中で、この神の栄光を垣間見させていただけました。それは、彼がこれからイスラエルの民のかたくなさにおじることなく、神ののみを恐れて、神のみことばを述べ伝えるためでした。

4.哀歌と、嘆きと、悲しみを書いた巻物は、私の口の中で蜜のように甘かった

 そして、今、その栄光に満ちた主ご自身からのみことばがエゼキエルに示されます。主は彼をまず、「人の子」と呼びかけます。それは、厳密には、「アダムの息子」と記されています。それは、ダニエルが救い主を「人の子のような方」(7:13)と表現したときのヘブル語とは異なり、死すべき者、被造物に過ぎないという意味がこめられています。そして主は、彼に、「立ち上がれ。わたしがあなたに語るから」(2:1)と仰せられました。そして、その方が語られるとともに、その方の「霊」がエゼキエルのうちに入り、彼を「立ち上がらせた」というのです(2:2)。つまり、主は「立ち上がれ」と命じながら、彼を立ち上がらせたのは、彼の力ではなく、主ご自身の霊であったというのです。

そして、主は彼に、「わたしにそむいた反逆の国民に遣わす・・・彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす」(2:3、4)と言われます。つまり、神は、今、聞く耳のない民に彼を遣わすのです。

その際、彼は、「アドナイ(主)、ヤウェはこう仰せられる」と言いながら、「聞いても、聞かなくても」、主ご自身のみことばを語る必要があります。そして、その目的が、「彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない」(2:5)と記されます。たとえば、預言者エレミヤのことばは、誰からもまじめに受け止められませんでしたが、そのとおりのことが起きたときに、人々は、彼が主の預言者だと納得しました。同じように、エゼキエルのことばも、時が来たら分かるというのです。そのとき、預言者があらかじめ語っていなければ、人々の心は、主ではなく自分たちに恩恵を施してくれた目に見える王に向かってしまいます。イスラエルの民は、ペルシャの王クロスを救い主として拝むのではなく、イスラエルの神ヤウェを拝むべきだったのです。

主は引き続き彼に、「人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな・・・あなたがさそりの中に住んでも、恐れるな・・・彼らの顔にひるむな」(2:6)と言われました。エゼキエルが主の栄光を見させてもらえたのは、彼が自分に害を加えそうな人間ではなく、主ご自身を恐れることができるためでした。そして、主は再び彼に、「彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ」(2:7)と言われます。

  そして主は彼に、「人の子よ・・・あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ」(2:8)と言われながら、「一つの巻き物」を差し出しましたが、そこには「その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」というのです。主は預言者エゼキエルに、「この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ」(3:1)と言われました。そして、彼がそれを食べたとき、「すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった」(3:3)というのです。つまり、巻物は、その内容からするならば、口に苦いものであったはずなのに、それは彼の口に「蜜のように甘かった」というのです。それは、イスラエルに対する神のさばきは、彼らを滅ぼすためではなく、彼らを祝福に導くための神のご計画であったからです。それは主が預言者エレミヤに、「わたしはあなたがたのために建てている計画をよく知っているからだ。―主(ヤハウェ)の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:11)と言われたとおりです。

さらに主はエゼキエルに、「わたしはあなたを・・・そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない・・・イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ」(3:5-7)と言われました。これは、ことばの通じない外国人の方が、聞き分けが良いという意味です。イスラエルの家は、「反逆の家」(2:5,7,3:9、26,27等)なので聞く耳がないというのです。

それに対し主は、「見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし・・・あなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする・・・彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな」(3:8、9)と彼を励ましました。そして再び、主のみことばを、「あなたの心に納め、あなたの耳で聞け」と言いながら、「さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる』と彼らに言え」と命じられます(3:10、11)。なお、これまで、「聞いても聞かなくても」という表現が三度も繰り返されています。

 その上で、「それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、「御住まいの【主】の栄光はほむべきかな」という大きなとどろきの音を聞いた。それは、互いに触れ合う生きものたちの翼の音と、そのそばの輪の音で、大きなとどろきの音であった。霊が私を持ち上げ、私を捕らえたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った」(3:12-14)と記されているのは、エゼキエルが不本意な働きに召されたということへの不満とも、また、主のイスラエルに対する怒りを共有したともとれます。「しかし、【主】の御手が強く私の上にのしかかっていた」ので、彼はこの召しを拒絶することはできませんでした。どちらにしても、彼自身、自分の心を整理できなかったに違いありません。そのことが、「そこで、私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたので、私は彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた」(3:15)と記されています。彼はとにかく七日間もの間、呆然とせざるを得なかったのです。

5.わたしに代わって彼らに警告を与えよ・・わたしは彼の血の責任をあなたに問う

そして、「七日目の終わりになって」、主はエゼキエルに、「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした・・・わたしに代わって彼らに警告を与えよ」(3:17)と言われました。これは、彼が神の代理として警告を与える責任を負うということです。しかもその際、「わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う」(3:18)と言われました。これは、彼は、警告を与えなかったことの責任を問われるというのです。私たちも、身近な人々に、主からの召しによって、警告を与えなければならないときがあります。それと反対に、明確な警告を与えた場合は、たとい悪者が悔い改めなくてもあなたの責任にはならないということです(3:19)。私たちの世界では、どれだけ効果的に、人の心に届く話し方ができるかが問われます。しかし、ここでは、主の働きにおいては、召しに従ったかどうかが何よりも問われます。

  また、この原則は、すでに神に従っている人にも適用できます。それは、どんな人も、道を踏み外す危険があるからです。そのことが、「もし、正しい人が・・・不正を行うなら・・彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行った正しい行いも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。しかし、もしあなたが・・・警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば・・・彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる」(3:20、21)と描かれます。

 ところが、その後、不思議な展開が記されます。それは、主がエゼキエルを谷間に出て行かせながら、そこで再び、主の栄光が現され、主は彼に、「行って、あなたの家に閉じこもっていよ。人の子よ。今、あなたに、なわがかけられ、あなたはそれで縛られて、彼らのところに出て行けなくなる」と仰せられます(3:24、25)。そればかりか、主ご自身が彼の口を閉ざすことがあるという意味で、「わたしがあなたの舌を上あごにつかせるので、あなたは話せなくなり、彼らを責めることができなくなる。彼らが反逆の家だからだ」(3:26)と言われます。しかし、同時に、「しかし、わたしは、あなたと語るときあなたの口を開く。あなたは彼らに、『神である主はこう仰せられる』と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らが反逆の家だからだ」(3:27)とも言われます。

 つまり、神はエゼキエルに、イスラエルの民に対する警告を与えなければその責任を彼に問うと言いながら、同時に、彼が警告を与えることができない状況をも作られるというのです。エホバの証人などは、自分たちは、世界の見張り人、ものみの塔であるという理解の、相手の状況にお構いなく、ただ警告を与え続けること自体に意義を見出しています。しかし、私たちは、語るべきときと、語ってはならないときを、神のみこころにしたがって区別するように召されているのです。せっかくの真理のみことばも、タイミングが悪ければまったく通じないどころか、反発だけを受けることになるからです。ただし、主が語るように命じられているとき、相手が聞いても聞かなくても、とにかく、主のみこころを語るべきというときもあるのです。相手の反応ではなく、主ご自身が示されたタイミングということに目を開く必要があります。どちらにしても、共通するのは、相手の拒絶を恐れてはならないということです。

  「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」(Ⅱコリント4:6)とパウロは述べましたが、神は、旧約における近づき難い、恐怖を引き起こす主の栄光とともに、イエスの御顔という愛に満ちた栄光を示してくださいました。しかし、イエスが十字架にかかる前に、父なる神に向かって、「父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」(ヨハネ17:5)と祈られましたが、その栄光とは、十字架の苦しみでした。そのように見ると、旧約の栄光は近づき難くて、新約の栄光は近づきやすいという誤解は解けます。どちらにしても、「主の栄光」とは、私たちには近づき難い恐怖なのです。しかし、世界を一瞬で創造し、また滅ぼすことができる方が、私たちを救うために、ご自身の側から近づいてくださったというのが、旧、新約を通じる神の救いのストーリーです。神があなたの罪を贖い、神の子として招いてくださいました。それは私たちをエゼキエルと同じようなご自身の代理としてこの世で用いるためです。そして、私たちは、主の栄光を拝する時に、この世の人々の反応を恐れることから自由にされ、また、自分の身を第一としたいという誘惑からも自由になれます。

|

2009年8月 2日 (日)

箴言14,15章 「謙遜は栄誉に先立つ」

箴言14,15章 「謙遜は栄誉に先立つ」                                                                                                                                                      2009年8月2日

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる平家物語の冒頭では、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」ということばとともに、中国や日本での権力者の滅亡の有様が、「楽しみを極め、人の諫言も心に留めて聞き入れることもなく、天下の乱れることも悟らないで、民衆の嘆き憂いを顧なかったので、末長く栄華を続ける事なしに滅びてしまった」と説明されます。これは、今もそのまま適用できる原則ですが、これが記された二千年も前に、ソロモンは同じ趣旨のことを語っています。しかし、ソロモンはそれを悟ってはいましたが、実行することはできませんでした。何が欠けていたのでしょう。

ところで、十字架の福音はきわめて逆説的です。自分の罪深さを認めないものの心には決して響かないからです。しかし、「あなたは罪人です」といわれる言葉をどうして私たちは受け入れることができたのでしょう。最近ベストセラーになっている村上春樹の小説の中で、ある宗教指導者のことばが次のように書いてありました。

「ほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する・・・多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている」 

つまり、すべての宗教は、人が自分の正気を保つために幻想的なセルフイメージを求めるところに始まるというのです。これは本当に鋭い視点でしょう。しかし、聖書の福音は、そのような宗教の枠を超えたものです。福音は、私たちを、神の御子を十字架に架けたほどの罪人と宣言しながら、同時に、御子を犠牲にするほどに価値ある存在と定義しているからです。私たちの罪深い言動を断罪しながら、存在を尊ぶという逆説こそ、福音の神秘です。

1.「家を建てる者、家を壊す者」

「知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす」(14:1)とありますが、これが特に女性に当てはめられているのは、31章で「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い」(10節)と記されていることと同じような趣旨で理解すべきでしょう。多くの男性は、女性に何よりも外面的な美を求めますが、何よりも大切なのは、彼女の「知恵」であるというのです。

ダビデ王家の没落は、ソロモンが女性の美を追求したことに始まっていますが、この部分の著者がソロモン自身であると記されているのは何とも皮肉な事です。所詮、人間は、理性に従っては行動できない者なのでしょうか。それにしても、ここで「知恵」「愚かさ」との対比が、「建てる」ことと「壊す」こととして記されているのは興味深い事です。残念ながら、いつの世にも、自分で築き上げてきたものを、激情に振り回されて一瞬に壊してしまう人がいるものです。パウロはこのことをさらに進め、「知識は人を高ぶらせ(puffs up)、愛は人の徳を建てます(builds up)」(Ⅰコリント8:1)と記しています。ここでも、愛の交わりを「壊す」ことと「建てる」こととの対比が記されています。

この世では、短時間で問題を解決する能力とか、批判能力や分析能力とかが尊重されますが、神は何よりも、「建て上げる」という能力を伸ばすことを求めておられます。たとえば、私は昔、「日本の教会はこれだからだめなんだ・・・」などと批判ばかりしていた時期がありました。しかし、今振り返ると、自分は何と無知で高慢であったかと恥じ入るばかりです。神から与えられた真の知恵は、神の家を批判することではなく、神の家を建て上げることに現されるはずであると今は心から思わされています。しばしば、瞬時に問題を解決できると思い込む人こそ、瞬時に壊してしまう人です。何よりも大切なのは、どんなに時間がかかっても、建て上げ続けるという忍耐力です。

そして、それを別の観点から述べたのが、「まっすぐに歩む者は、主(ヤハウェ)を恐れ、曲がって歩む者は、主をさげすむ。愚か者の口には誇りの若枝がある。知恵のある者のくちびるは身を守る」(14:2、3)という表現でしょう。「主を恐れる」とは、自分の無知と無力さを認めて主に信頼する人です。そのような人は「まっすぐ歩む」ことができます。反対に、「愚か者」は、このような話を聞いても、「これをあの人に聞かせてやりたい・・・」などと思うばかりで、自分のうちにある破壊性に気づきません。「自分は大丈夫・・・」と思う人の内側には、「誇りの若枝がある」ということを忘れてはなりません。ただ、このような話を謙遜に聞こうとするあなたは、「愚か者」ではありません。そして、「知恵のある者」は、自分の知恵を吹聴することなく、また人々を批判もしないので、「身を守る」ことができます。

2.「牛がいなければ飼い葉おけはきれいだ」

 「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」(14:4)という表現は、驚くほど示唆に富んだ表現です。昔、私の家には、農耕用の馬がいました。馬の餌をやるのが私の小さな勤めだったことがあります。しかし、馬小屋には馬糞がたまります。それを処理するのは父の役割でしたが、それは稲を育てるための効果的で安全な肥料になりました。現在はどの農家でも、手のかかる馬の代わりに高価な機械で昔よりはるかに広大な農地を効率的に用いることができるようになっていますが、農耕に手がかからない代わりに、借金にうめいている農家が数多くあり、その借金を返すために安い賃金で手稼ぎに出る必要が新たに生まれています。また化学肥料や農薬の害が新たな心配となっています。つまり、ひとつの便利さの影に、思わぬ苦しみが付随するというのがこの世の現実です。とにかく、今から三千年前に、農耕用の牛を持つことができたときに、生産力は格段に飛躍しました。しかし、それに伴い、飼い葉おけその他の、牛の世話にも多くの労力が必要になってきました。

私たちが何か大きな働きを成し遂げようとするとき、チームワークが何よりも大切になります。しかし、それを保つためには、本来の働きとは別の数多くの配慮が必要になります。それは時に、耐え難いほどのストレスになることがあります。多くの宣教師の方々に、「発展途上国での宣教の働きで、何が大変ですか・・・」と聞くとき、私たちは、「電気や水道もない生活が大変です・・・」という答えを期待しがちですが、しばしば最も正直な答えは、「宣教師どうしの人間関係や、宣教団体との関係でのストレスです」というものです。しかし、そのようなストレスの原因ともなる大きなチームワークがなければ、危険を伴う宣教地に宣教師を派遣することはできません。つまり、目的とする働きを効果的に成し遂げるためには、面倒な人間関係を円滑に保つための数多くの日常的な気配りが必要になってくるのです。牛がいなければ収穫を多くする事は出来ません。しかし、牛を飼えば、飼い葉おけはいつもよごれます。馬がいなければ北海道での農作業は成り立ちませんでした。しかし、馬を飼えば馬糞を処理しなければなりません。私たちにとって、人と人との関係はいつも大変です。しかし、人と人との面倒な付き合いを避けて、目的に沿った協力だけに集中することなどできないのです。これは、教会にも適用できます。子どもがいなければ教会は静かになるかもしれません。しかし、子どもがいなければ教会の未来はないばかりか、現在の活力も生まれないことでしょう。この世的には、足手まといがいなければ組織は有効に機能するという見方があります。しかし、枠にはまらない人がいなければ、どんな組織は息苦しくなってしまうものです。私たちの生きている世界では、自分にとって都合の良いものだけを選んで、面倒なことを避けるということは自殺行為にしかならないのです。

そして、何よりも、「建て上げる」という働きのためには、「飼い葉おけをきれいに保つ」という面倒な働きが不可欠です。自分にとっての心の満足ばかりを極めようとする生き方は、働きを壊すことにしかなりません。

3.「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」

「利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く」(14:8)とは、目の前の危険に気づくことです。たとえば、登山をしていると、晴天の時と雨天のときの落差に驚きます。晴れている時、半袖でも暑いと感じる場が、一日違いでどんな防寒具も役に立たないほど寒くなります。そのとき、「愚かな者」は、雨は降らないと自分に言い聞かせます。私も、日帰りで大雪山に登りながら、「晴れるはず・・」と自分を欺いて、難儀したことがあります。しかし、「利口な者」は、あらゆる状況に対処できる備えをしています。先日、大雪山で9人もの命が失われましたが、残念ながら、装備ばかりか時間でも、危険への備えが不足していたことは明らかです。

そして、「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない」(14:10)とは、人の苦しみも喜びも、それぞれの固有のものであり、だれも、「そんなことで苦しむなんて、軟弱すぎるのでは・・・」などと、その人の気持ちを軽蔑することはできないという意味です。また、「悪者の家は滅ぼされ、正しい者の天幕は栄える」(14:11)とは、この世で完結するような真理では決してありません。来たるべき世のいのちを前提として初めて断言できることです。私たちはしばしば、あまりにも自分の狭い尺度で、人生を評価しようとしています。

  「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(14:12)とは、一見、成功が約束されていると思える道こそが滅びに向かっているという逆説です。そのことをイエスは、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13、14)と言われました。そして、「死の道」を歩む者に関して、「笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる」(14:13)と言われます。自分の人生のゴールが「新しいエルサレム」にあると信じられるかどうかは、現在の「笑い」にまで影響を及ぼすというのです。

「わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる」(14:15)とありますが、「わきまえのない者」の直訳は「単純な者」であり、「利口」は、「蛇が一番狡猾であった」(創世記3:1)と訳されているのと同じことばです。イエスは、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイ10:16)と言われましたが、「私は単純だから、何でもすぐ信じられる・・・」ということは、聖書が勧める「信仰」とは異なります。

それが別の観点から、「知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い」(14:16)と述べられます。「用心深い」とは厳密には、「恐れている」と訳され、「自信が強い」とは、「安心している」とも訳されることばです。つまり、多くの人々の常識に反し、「知恵のある者は恐れることを知っており、愚かな者は根拠もなく安心している」というのです。多くの人は、心の平安を求めていますが、聖書によると、「神を恐れる」こと、つまり、神の守りがなればすべてが不安であり、神の怒りを受ける者は、どんな努力も無に帰するということを受け入れること、つまり、「不安を認めて、神により頼む」ことが「平安への道」であると語っていることを忘れてはなりません。

4.「力強い信頼は主(ヤハウェ)を恐れることにあり・・・主(ヤハウェ)を恐れることはいのちの泉」

 「力強い信頼は主(ヤハウェ)を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主(ヤハウェ)を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる」(14:26、27)とは、私たちが暗誦すべき聖書の真理の表現でしょう。「主を恐れる」ことの中には、「おびえ」ではなく、「力強い信頼」が生まれます。また、「主を恐れる」とは、見捨てられ、滅ぼされるかもしれないという恐怖ではなく、「いのち」を湧き出させる「泉」を私たちの内側に与えられることです。

イエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と言われましたが、しばしば、「神を恐れる」ことは、「人を恐れる」こととの対比で明らかにされます。人の目を恐れて生きる人には「いのちの輝き」が生まれないことは明らかではないでしょうか。また、人にすがっても、最終的には拒絶されるだけです。ですから、私たちは、「主を恐れよ」ということばを、「人ではなく、神を恐れよ」と言い換えたほうがわかりやすい場合があります。なお、イエスは、それに続けて、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから、恐れることはありません。あなたがたはたくさんの雀よりもすぐれた者です」(同10:29-39)と言われました。まさに、そこでは、「主を恐れることの中に力強い信頼があり、主を恐れることはいのちの泉である」という真理が、生き生きと表現されています。

また、「穏やかな心はからだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ」(14:30)とは、人の健康状態が心の穏やかさや激しさに左右されるという現実を指しますが、穏やかな心」を持つことができるための秘訣は、「主のさばきを信じる」ことから始まります。そして、「主のさばきを信じる」ことからは、人をさばく心ではなく、愛が生まれます。そのことをパウロは、「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい(ローマ12:19)と表現しましたが、そこには、自分が悪人を裁こうとしなくても、神がさばいてくださることに信頼して、心を穏やかに保って「敵が飢えたら食べさせ、渇いたなら飲ませる」という隣人愛を実践することの勧めが伴っていました。

そして、「主を恐れる」ことは、同時に、隣人との関係に並行して現れるということが、「寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う(14:31)と描かれます。

また、「悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある」(14:32)と描かれますが、イエスは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言われました。私たちは死の中にも希望を見出すことができます。そして、「知恵は悟りのある者の心にいこう。愚かな者の間でもそれは知られている」(14:33)とありますが、聞く耳を持つことの幸いを語るものですが、「愚か者」でさえ、神を信頼する者のうちにある希望を、最終的には認めざるを得なくなるという現実を示します。

5.「悪者のいけにえは主(ヤハウェ)に忌みきらわれる」

 「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす」(15:1)とは私たちが人との会話の際に心に留めるべき大切な知恵です。何と多くの会話が、「売り言葉に、買い言葉」というような悪循環に陥ってしまうことでしょう。私たちは、相手が怒っていればいるほど、柔らかなことばで応答しなければなりません。そして、そのように自分の口を制することの大切さが、「知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。主(ヤハウェ)の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅(15:2-4)と描かれます。自分の舌を制することには、私たちのいのちがかかっているというのです。

なお、使徒ヤコブは、「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコブ3:8)と不思議な、同時に絶望的な言い切りをしています。だからこそ、私たちは、その現実を謙虚に認め、主のあわれみにすがるしかありません。そして、「主を恐れる」とは、そのように自分の弱さを謙虚に認め、「主にすがる」ことです。聖書では、「主を恐れる」ことと、「主にすがる」こととは同義的な意味を持っています(申命記10:20参照)。これはたとえば、あなたの特別に目をかけてくれている上司がいるときに、別の上司に自分の相談を持ちかけることが、どれだけ心証を害することになるかということを考えみれば明らかでしょう。

そしてそのことが別の観点から、「知恵のある者のくちびるは知識を広める。愚かな者の心はそうではない。悪者のいけにえは主(ヤハウェ)に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。主(ヤハウェ)は悪者の行いを忌みきらい、義を追い求める者を愛する」(15:7-9)と描かれます。ここで、「知恵のある者」「正しい者」「義を追い求める者」というのはすべて基本的に、「主を恐れる者」ということばに含まれる同義語です。私たちにとって大切なのは、自分を神の前で正当化できることではなく、自分の罪深さを認め、イエスの十字架にすがることです。神はイエスの贖いのみわざに信頼する者を「義と認めて」くださいます。ですから、私たちは人を助けたり、主にいけにえをささげたりする前に、主の前にへりくだることが必要です。それは、ダビデも、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)と告白している通りです。

6.「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る」

  「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ」(15:13)とは、自分で自分の心を元気付けることではなく、自分の悩みや思い煩いを主に打ち明けることから生まれる喜びを求めるようにとの勧めです。

   「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である」(15:15)というのも、主との関係で生まれる心です。癌にかかって絶望していた人が、このみことばに出会って元気が出たという話を聞きましたが、私たちの心の楽しみは、自分の健康や環境以前に、主との関係から生まれるからです。

  「密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する」(15:22)で、「密議」ということばは原文で悪い意味で用いられているわけではありません。それは信頼できる人との親密な会話を意味します。私たちは、不特定多数の参加者がいる会議に諮る前に、少数者による事前協議が不可欠です。公の会議での多数決というのは、主の導きに関しての見解が分かれたときの最後の手段に過ぎません。様々な情報を共有しながら、そのことに大きな責任意識を持っている人の中で計画が練られてこそ、計画は成功に導かれます。

そして、「主(ヤハウェ)は高ぶる者の家を打ちこわし、やもめの地境を決められる。悪人の計画は主(ヤハウェ)に忌みきらわれる。親切なことばは、きよい。利得をむさぼる者は自分の家族を煩わし、まいないを憎む者は生きながらえる」(15:25-27)というのも、この世の損得を越えて、主を恐れる者への幸いを約束することが趣旨です。私たちは自分の心の弱さに居直ってはなりません。主は、最終的に、私たちのすべての行いの良し悪しを問われます。イエスの十字架の赦しを信じるとは、同時に、イエスの御霊の助けによって善い行いに励むことでもあるのです。

正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。主(ヤハウェ)は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる」(15:28、29)とは、日々の生活で、「思い巡らす」ことと「祈り」とを何よりも優先すべきであることを示します。その際、自分が「正しい者」であるかを問うよりも、何を優先しているかを問うべきでしょう。

  「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。主(ヤハウェ)を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」(15:31-33)において、謙遜とは何よりも、叱責を受け入れる心として表現されます。しばしば、偉くなりすぎると、批判の声が耳に入らなくなります。多くの指導者の失敗は、常にそこから始まります。裸の王様になることは、周りの人をすべて不幸に陥れるきっかけになります。「知恵のある者の間に宿る」ことが何よりも大切です。

 パウロは、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが・・・神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです・・・キリストは私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、あがないとになりました」(Ⅰコリント1:22,23,25,30)と記していますが、私たちにとっての最高の知恵とは、イエスの十字架です。そしてパウロは、割礼という肉のしるしを誇りとしようとするユダヤ人に対し、「しかし私には、私たちの主イエス・キリスト以外に決して誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)と語りました。

 しかし、ソロモンは、「神を恐れる」ということの大切さをわかっていながら、神の怒りを買うような誘惑に負けてしまいました。それは、彼が賢くなりすぎて、「知恵のある者の中に宿る」ということができなくなったからかもしれません。しかし、それは同時に、最高の知恵を与えられても、人の叱責や訓戒を必要としないほどの知恵者はいないということを示しています。そして何よりも、ソロモンは、神の御子の十字架の神秘を知らされていませんでした。私たちはそれを知らされているのですから。いつでもどこでも、主の十字架の前にへりくだる必要があります。そのとき、「謙遜は栄誉に先立つ」とあるように、神があなたを高くしてくださいます。祝福の鍵は、主の前での「謙遜」です。

|

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »