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2009年9月27日 (日)

エゼキエル12-15章(朗読13:8-16)「平安がないのに『平安』と言う者へのさばき」 

                                                                                               2009年9月27日

  フィリピンを初めて訪問して、正直なところ、その騒音と汚さと治安の悪さに閉口しました。私は決して、あの国には住めない人間だと思い、妙に、ドイツの生活をなつかしく感じました。でも、その地に住むクリスチャンの姿、教会のあり方には深い感動を覚えました。本当に彼らが好きになりました。主の平安が彼らの交わりの中に見られたからです。一方、日本は静かで清潔でとっても住みよい国です。しかし、何かに怯えているような人が何と多いことでしょう。一見したところ、日本は平安な国です。しかし、その内側は、あの物騒なフィリピンよりもずっと病んでいる面があるかもしれません。しばしば、主は、見せかけの平安を壊すことによって、人の心を主に向けさせようとされます

1.「わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する」

主はエゼキエルに、捕囚の民が、「反逆の家」であり、「見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない」という状態にあることを指摘しながら、「あなたは捕囚のための荷物を整え、彼らの見ている前で、昼のうちに移れ・・・あなたは壁に穴をあけ、そこから出て行け。彼らの見ている前で、あなたは荷物を肩に負い、暗いうちに出て行き、顔をおおって地を見るな。わたしがあなたをイスラエルの家のためにしるしとしたから」と、敢えて夜陰にまみれ、壁に穴をあけながらこそこそと慌てて抜け出す姿を見させせるように命じます(12:2、5,6)。

その上で主は、「彼らのうちにいる君主は、暗いうちに荷物を背負って出て行く。出て行けるように壁に穴があけられる。彼は顔をおおうであろう。彼は自分の目でその地をもう見ないからである」と描きます。実際、最後の王ゼデキヤは、そのように夜陰にまみれて町から逃げ出し、エルサレムに戻ることができなくなります(12:10-12)。そればかりか、主は彼について、わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をカルデヤ人の地のバビロンへ連れて行く。しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう」(12:13)と言われます。これは彼が目をつぶされ、青銅の足かせにつながれてバビロンに連行されることを預言したものです(Ⅱ列王記25:7)。また、主はゼデキヤを守っていた軍隊に関しても、わたしはまた、彼の回りにいて彼を助ける者たちや、彼の軍隊をみな、四方に追い散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う(12:14)と言われます。つまり、王国はバビロンによって滅ぼされたのではなく、主ご自身によって滅ぼされたというのです。そのことが、「わたしが彼らを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろうと説明されます(12:15)。

また、同時に、「彼らが行く先の諸国の民の中で、自分たちの、忌みきらうべきわざをことごとく知らせるために、わたしが彼らのうちのわずかな者を、剣やききんや疫病から免れさせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう(12:16)と、主は、残された民が反省すること通して、ご自身を知らせようともしておられるというのです。

そして、主はエルサレムを指し、「彼らは自分たちのパンをこわごわ食べ、自分たちの水をおびえながら飲むようになる。その地が、そこに住むすべての者の暴虐のために、やせ衰えるからである。人の住んでいた町々が廃墟となり、その地が荒れ果てるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう(12:19、20)と言われます。

これらの箇所で、主はご自身のさばきの目的を、三度にわたって、「わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」と語っておられます(12:15,16,20)。私たちは、歴史が自分たちにとって都合のよいようにではなく、主(ヤハウェ)の栄光を現すために展開しているということを忘れてはなりません。私たちの目には、「なぜ・・」と思えるような悲惨を通して、主はご自身の力を現しておられるのです。マニラ近郊の想像を絶する悲惨な地域で最貧の人々の牧会に励んでおられる牧師が、「主よ、なぜこうなのですか・・」といつも嘆きながら祈っていると言っておられました。そのひとつの家庭集会を開いている家は、台風が来るとすぐに崩れそうな海の上に竹で部屋が組み立てられ、八畳ぐらいの場所に三家族15人が住んでいる、寝るときには交代で寝ています。しかし、その彼の働きの姿を垣間見せていただいた私たちは、彼の中にイエス・キリストの姿を見ることができました。薬物依存のリハビリ施設の中の教会、スラムで家庭集会を展開している教会、虐待された子供のシェルターとなっている教会、貧しい人々への教育に力を入れる教会、スラムの子供への幼児教育を展開している教会、どれもが、初代教会を思わせるように輝いていました。そして、私は、「主よ。どうして、彼らはこれほどに困難な働きに献身できるのでしょう・・・」と問いたくなりました。

  一方、エルサレム滅亡のとき、民が飢えていることに何の関心も示さず、自分の身の安全ばかりを考え、民を見捨てて逃げたゼデキヤは、目の前で息子を殺されたあげく、目をつぶされ、バビロンに連行されて死にました。パウロは、罪の赦しを当然のことにように思い込む人に対し、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」(ガラテヤ6:7-9)と警告し、また励ましました。

2.「彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし・・・」

  そして、主は、エゼキエルに、「人の子よ。あなたがたがイスラエルの地について、『日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。』と言っているあのことわざは、どういうことなのか」(12:22)と問われます。これは、イスラエルの民が、国の滅亡を説くエレミヤやエゼキエルの預言は成就しないと言っていることを非難したものです。それに対して、主は、「わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する」とエゼキエルに言うように命じます(12:23)。

今も、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか、父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造のままではないか」(Ⅱペテロ3:4)と言う人がいます。それに対しペテロは、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主はある人が遅いと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。かえって、あなた方に対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むのを望んでおられるのです」(同3:8,9)と語っています。キリストは再び来られます。その時、この目に見える天も地も焼き尽くされます。それはキリストの救いを軽蔑する者たちへの恐ろしい裁きの日になることを忘れてはなりません。

そして主は、「もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する」(12:24、25)と言われます。つまり、主はご自身が預言者を通して語られたことを文字通りに成就することによってご自身の栄光を表されるというのです。このエゼキエルの預言の約30年前、ヨシヤ王のもとで神殿の中から律法の書が発見され、エルサレムでは徹底的な悔い改めの祈りがささげられたと記されています。それは申命記28章などに記されている神の「のろい」の預言を見たからだと思われます。ところが、彼らはすぐにそれを忘れ、他の神々を拝むようになってしまいました。悔い改めがあまりにも一時的なものにとどまったことに主は心を痛め、今、ご自身のことばが必ず実現するということを示そうとしておられるのです。

 そのような中で、主は、「イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ」(13:4)と言われます。「狐」「ジャッカル」と訳されることもありますが、それは狐やジャッカルが廃墟を住まいとするように、預言者自身がエルサレムの廃墟とされることを望んでいるという皮肉です。そして主は、彼らの姿勢について、「あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる」(13:5、6)と非難しておられます。「むなしい幻」「まやかしの占い」とは、エルサレムは滅ぼされることはないという人々に耳障りのよいことばですが、彼らはそのような楽観論を言い広めることによって、民の悔い改めを妨害し、主のさばきの預言が成就することを待ち望む形になっているというのです。

 そして主は、「わたしは、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す」と言われながら、それを通して、「このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう」と、さばきを通してご自身の栄光を現されると宣言されます(13:9)。そして、彼らの過ちを、「実に、彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう」(13:10)と指摘します。これは現代にも通じることでしょう。自分の属する会社や組織に危機が迫っているときに、「平安」を言いふらし、目に見える裂け目をしっくいで上塗りするように、目先の対処療法しか考えない者こそ、最も忌まわしい指導者です。

 それに対して主は、「しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる』」(13:11)と言われます。そればかりか主は、「わたしは、憤って激しい風を吹きつけ、怒って大雨を降り注がせ、憤って雹を降らせて、こわしてしまう。あなたがたがしっくいで上塗りした壁を、わたしが打ちこわし、地に倒してしまうので、その土台までもあばかれてしまう」(13:13、14)と言われます。そして、このさばきを通して再び、「それが倒れ落ちて、あなたがたがその中で滅びるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろうと説明されます(13:14)。

  その上で主は、「平安がないのに平安の幻を見ていたイスラエルの預言者どもよ」(13:16)と呼びかけながら、彼らを、「自分の心のままに預言するあなたの民の娘たち」とも言い換えながら、彼女たちの働きを、「あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行ない、死んではならない者たちを死なせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した」と非難しました(13:17、19)。人は、自分の願望を肯定してくれることばを真実と受け止めたいという心理がありますから、偽預言者たちは、自分の生活の糧を得るという目的のために、耳障りのよい言葉を伝え、それによって真実を述べ伝える預言者を死なせ、また、民を滅亡に導く指導者を生かしてしまうのでした。

  そして、主は、偽預言者の行いを、「あなたがたは、わたしが悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませ、悪者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きるようにしなかった」(13:22)と非難しながら、彼らの対するさばきを、「それゆえ、あなたがたは、もう、むなしい幻も見ることができず、占いもできなくなる。わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」(13:23)というさばきを宣言されます。神は誰よりも、神のみことばを変えるものを憎まれるのです。

  日本の国にも様々なうめきがあります。そのような中に主の教会が置かれています。私たちが自分たちの都合や心地よさばかりを優先し、この社会のうめきから耳を閉ざし、平安がないのに平安の幻を見ているようであるなら,主に責任を問われます。教会が数的に成長し、大きな会堂が建てられるのは決して悪いことではありません。しかし、教会が自己増殖を目的にするときにメッセージは歪められます。世の人々に受け入れられやすいことを語るようになるからです。しかし、そのとき、その教会は、主の大使館としての使命を捨てていることになります。

私たちは、託された主のみことばをまっすぐに伝えるのでなければ、主の大使としての地位を失うことになるということを決して忘れてはなりません。使徒パウロは、「もし、だれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです」(ガラテヤ1:9)と警告しています。日本の教会は、牧師に様々なことを期待しすぎると言われます。私たちが訪ねたセブ市のスラムに接する元気のいい教会は数年前から無牧です。それでも毎週20箇所の貧しい家で家庭集会を開き、学校に行けない子供の世話をし、五人の少年に住まいを提供していました。でも、日曜ごとに、みことばをとりつぐ牧師は与えられています。つまり、礼拝説教以外はすべて、信徒が行っているのです。もちろん、教会には様々な成長段階がありますから安易な比較は避けるべきでしょう。しかし、みことばの宣教という土台があれば、教会の働きは信徒によって無限に広がり得るのです。

3.「彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけ」

「イスラエルの長老たちの幾人かが来て」(14:1)、エゼキエルに主のみこころを尋ねに来ました。その際、主は彼に、「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか・・・主であるわたしが、その多くの偶像に応じて答えよう」(14:3、4)と言われます。これは、長老たちが、ひそかに異教の偶像を拝みながら、どちらの神々が自分たちに幸いをもたらしてくれるかを比較するような心の姿勢を持っていたからです。それはまるで、「どっちの神々が力があるかを見比べよう・・・」という傲慢な姿勢です。それに対して主は、ご自分が偶像の神々に勝るということを示す代わりに、彼らの心が偶像の神々に傾いているということ自体をさばきの理由とすると言っておられます。

そして、主はそのさばきの目的を、「偶像のために、みなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心をわたしがとらえるためである」(14:5)と言われます。神は、モーセの時代、エジプトのパロを圧倒することによって、また、サムエルの時代、契約の箱の前でダゴンの偶像を地にうつぶせに倒すことによってご自身が世界の支配者であることを示してこられました(Ⅰサムエル5章)。それに応答して、イスラエルの民は何度も、もう決して偶像を拝むことはしないと約束してきました。それなのに彼らはなおも、「どっちの神がご利益をもたらしてくれるか・・・」いう態度をとっています。それに対し、主は、彼らを徹底的に懲らしめることによってご自身こそが天地万物の創造主であることを示そうとしておられます。「主を試みてはならない」(申命記6:16、マタイ4:7)とあるように、心の中で主をあがめようとしない者は、主のさばきを受けることによって、イスラエルの神、主(ヤハウェ)の栄光を見ることになるというのです。

  「人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ」(14:13、14)と記されますが、ノアとヨブはイスラエルという国ができる前の信仰の勇者です。なおダニエルがエゼキエルと同時代にバビロンの王宮で生きていた者と同一人物なのかは不明です。多くの学者は、ヘブル語の綴りの違いやヨブなどとの比較から、ウガリット神話に名が出てくる伝説的な義人ダニエルであろうと解釈します。どちらにしても、ここの趣旨は、どのような立派な人間が町にいても、主のさばきは差し止められることがなく、彼らは自分のいのちを救うのがやっとであるという意味です。そのことが再び、「もし、その地にわたしが悪い獣を行き巡らせ、その地を不毛にし、荒れ果てさせ、獣のために通り過ぎる者もなくなるとき、たとい、その地にこれら三人の者がいても・・・彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出され、その地は荒れ果てる」(14:15、16)と描かれます。そして、それと基本的に同じ表現が、剣と疫病によるさばきにおいても記され、三人の義人がいても、彼らは自分以外の者を誰も救うことができないということが三度繰り返されます(14:17-20)。

日本の仏教では、死者のためにお経を唱えることで死者が成仏できるかのように理解されていますが、浄土真宗の開祖、親鸞は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらわず」と、自分の念仏という善行によって死んだ親を救うなどということはできないと言い放ちました。それこそ、人間の善行の限界を見通した知恵でしょう。まして私たち真の福音を知る者は、救いはすべて神の一方的なあわれみによるということを知っているのですから、まず、何よりも、各人が神の前に心からへりくだる必要があります。私たちはみな、ひとりで神の前に立たされます。そのとき、あなたの親や兄弟、友人が、どれほど敬虔な信仰者であり、あなたのために祈っていても、あなたが神の前にへりくだっていないなら、最終的なさばきから逃れることはできません。

4.「このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう」

そして、「見よ、そこに、のがれた者が残っていて、息子や娘たちを連れ出し、あなたがたのところにやって来よう。あなたがたは彼らの行ないとわざとを見るとき、わたしがエルサレムにもたらしたわざわいと、わたしがそこにもたらしたすべての事について、慰められよう。あなたがたは、彼らの行ないとわざとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう」(14:22、23)と不思議な記述があります。「慰められる」とは、「哀しみ」「哀れみ」とも訳されることばで、もともと「深く呼吸をする」という意味があります。彼らは、生き残った者たちの悲惨さを見て、深く哀しみ、同時に、すべてが神のみわざであることを心から悟るようになるというのです。当時は、ある民の敗北は、その民が礼拝している神の敗北と同一視されました。しかし、イスラエルの場合は、自分たちの敗北を通して、自分たちを打ち破ったバビロンの神々を拝む代わりに、このさばきをもたらしたイスラエルの神を拝むようになったのです。

15章ではイスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられます。ぶどうの木は、豊かなぶどうの実をならせることができますが、それ以外では何の役にも立ちません。それで家を建てることもできないばかりか、小さな器具を作ることさえできません。せいぜい、たきぎとして用いられることもありますが、イスラエルは「その中ほども焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか」(15:4)と言われるような状態になっています。それは彼らがすでに、二度にわたるバビロン捕囚によって、その中心を失っていることを示しています。それで、主は、「わたしはエルサレムの住民を・・・森の木立ちの間のぶどうの木のように、火に投げ入れてしまう・・・彼らが火からのがれても、火は彼らを焼き尽くしてしまう」(15:6、7)と言われます。そして、その結論として、「わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」(15:7)と再び記されます。イエスも、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くのみを結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言いつつ、同時に、だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」と警告しています(ヨハネ15:5,6)。

 

イスラエルは神の栄光を現すために召された民です。しかし、バビロンによって滅ぼされたとき、イスラエルは自分たちがさばかれることによって、主の栄光を現してしまいました。主は、さばきを通して、「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」と繰り返しておられます。私たちは、主のさばきを受けることによってではなく、主のあわれみを受けることによって、主の栄光を現すものでありたいものです。そのために何よりも大切なことは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)とあるように、いつでもどこでも、どんな状況の中でも、「心の中でキリストを主としてあがめる」(Ⅰペテロ3:15)ことが求められています。そのとき、私たちは何もしていないようでも、「地の塩」「世界の光」とされています。力を抜いて、イエスにつながり続けましょう。

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2009年9月13日 (日)

エゼキエル8-11章「失ってみて初めてわかる恵みの大きさ」

                                              2009913

  「かわいい子には旅をさせよ」ということわざがあります。放蕩息子のたとえでは、弟息子は、父の身近にいたとき、その恵みの大きさがまったくわかりませんでした。しかし、父の家を飛び出し、無一文になったとき、父の家にどれだけ大きな恵みが満ちていたかを思い出し、家に帰りたいと願いました。今日のところで、栄光の神が汚れた民の間を離れ、その結果、民が想像を絶する苦しみを体験し、その上で、主の救いにあずかるという過程(プロセス)が記されています。私たちの前には、苦しむことによって初めて見えてくる恵みの世界があります。事実、私たちはみなどこかで、かけがえのない宝物を失った体験がないでしょうか。それは健康、家族、仕事、友人、失った機会、その他様々なもので、喪失の痛みは今も生々しく残っていることでしょう。しかし、それを通して、改めて、人の優しさに触れ、また人の痛みに優しくなることができたかもしれません。そこに愛の交わりが生まれました。神からの最高の贈り物を失ったことによって、神をかえって身近に感じられるようになるというのが信仰の神秘です。

1.イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしている

「第六年の第六の月の五日」(8:1)とは、1章2節にあったのと同じように、エホヤキン王の捕囚から数えて第六年目、つまり、紀元前592年の9月のことだと思われます。そこで、「私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見える所から下のほうは火で、その腰から上のほうは青銅(琥珀金)の輝きのように輝いて見えた・・・」(8:2)とありますが、これは主の栄光が、主の宮から遠く離れたバビロンの地に住むエゼキエルの上に現れ、そして、主は彼を不思議な方法でエルサレム神殿に運び、そこで行われている偶像礼拝の様子を見させたということです。

そこで、主は彼に四種類の偶像礼拝の姿を見させます。第一は、「北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像(8:5)です。それはアシュラの彫像だと思われます。その際、主は、「イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしている」(8:6)と、彼らが主から離れようとしている罪を責めます。第二は、エゼキエルに神殿の「庭の入口」の壁の向こうの暗闇で、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた」(8:10)中での礼拝です。そこで彼らは、「主は私たちを見ておられない。主(ヤハウェ)はこの国を見捨てられた」(8:12)と言っていました。そして、第三は、タンムズ礼拝です。これはバビロニア神話に登場する美しい牧神への礼拝で、その死を悲しむことで、その神が復活し繁栄が回復されるという儀式でした。そして、第四は、太陽礼拝です。彼らは、主の救いを受けたとき、主との固い約束を結んだのに、それをことごとく反故にしてしまいました。それに対して主は、「彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている・・・だから、わたしも憤って事を行う。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない」(8:17、18)というさばきを宣言されます。

  「十のことば」で安息日律法と合わせて強調されていることばは、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主(ヤハウェ)であるわたしは、ねたむ神わたしはヤハウェ、あなたの神、ねたむ神)、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」(出エジ20:4-6)という命令とさばきの警告と祝福の約束です。イスラエルの民は、主のねたみを引き起こすようなことばかりを隠れて行っていました。それに対するさばきが、いよいよ主ご自身から下されるというのです。

この警告は、現代の私たちにも適用できる部分があります。私たちも神との約束を忘れ、みこころに反する方向へと突き進んでしまうことがあるかもしれません。そのような人に向け、ヘブル書6章には、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです」(4-6節)という厳しいことばが記されています。ただし、アメイジング・グレイスの作者ジョン・ニュートンは、大暴風雨の中、沈没しそうな船の中で、このみことばがこころに迫り、このままでは自分が地獄に行くしかないと思い、生まれて初めて心から真剣に神に祈りました。しかし、その結果として、許しがたい罪人を救ってくださる驚くべき恵みがわかったといわれます。つまり、しばしば私たちを恐怖に陥れるみことばこそ、私たちを真剣な祈りへと導き、救いに預からせてくれるのです。

2.「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ・・・まずわたしの聖所から始めよ

  主は、これらの偶像礼拝を罰するために、「六人の男」を遣わします。彼らは、「おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来」ます(9:1)。それとそこに、「もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にい」ました(9:2)。「そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向か」い、その人を呼び寄せ、「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ」と言われました(9:3、4)。「しるし」ということばは原文で、ヘブル語の最後の文字「タウ」と記され、最終的な「救い」の保障を意味します。これは新訳聖書の言語であるギリシャ語では、Xに相当し、ギリシャ語のキリストの最初の文字、また十字架のしるしでもあります。黙示録では、神が終わりの日にもたらす様々なわざわいから額に小羊の名が記されている144,000人(全ての民を包含する象徴数)が守られ、救われると約束されています(7:2,9:4,14:1)。

 そして、主は、「ほかの者たち」「六人」に、「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよと言われました(9:5、6)。

後に使徒ペテロは、このみことばをもとに、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう」(Ⅰペテロ4:17)と警告していました。それは、自分をキリスト者と自称しながら、「初めの愛から離れてしまった」者たちに対する神のさばきと言えないでしょうか(黙示録2:2-5)。イエスも、ご自身の教会に、「毒麦」が育ってしまうことを警告しながら、それを抜き取るのは私たちの使命ではなく、終わりの日に、まず神ご自身がご自身のしもべを通して行うことであるということを警告しておられます(マタイ13:24-30)。そして、残念ながら、世の終わりに近づくにつれ、毒麦が大きく成長してしまい、教会に混乱が生まれます。しかし、そのとき私たちに問われるのは、毒麦を選別することではなく、そこに起こっている「すべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しむ」(9:4)ということです。さばきを下すのは、主の責任です。私たちの責任は、「初めの愛に立ち返る」ことです。私たちはイエスに出会ったとき、「こんな罪深い私のためにイエスは十字架にかかってくださった・・・」ということを純粋に感動しました。しかし、時を経るにしたがって、自分が救われることを当然のことと受け止め、他の人をさばくようになってしまいます。イエスの時代のパリサイ人と同じように、自分が救いがたい存在であることを忘れた者は、主ご自身から厳しく責められます

ただしそのとき、主が最も怒りを発せられる罪とは、「主(ヤハウェ)はこの国を見捨てられた。主(ヤハウェ)は見ておられない」と言い張って、主のご支配を否定し、主にある希望を否定することにあります(9:9)。私たちは、どれほど罪深くても、主の救いのみわざを否定しない限りにおいて救われます。「私は大丈夫・・」と言う者ではなく、自分の罪や周囲の罪に涙を流す者の額に、救いのしるし、「X」が記されているのです。

3.「庭は主(ヤハウェ)の栄光の輝きで満たされた」

  「私が見ていると、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのような何か王座に似たものがあって、それが、ケルビムの上に現れた」(10:1)とは、1章26節にあった表現とほとんど同じで、今、主ご自身がさばきを下そうとしておられることを示しています。主は、「亜麻布の衣を着た者」に命じますが、この人は、他の六人のような破壊の武器を持つ御使いではなく、信者を守るためのしるしをつけた御使いです。ところが、主は守護天使のような彼に、「ケルブの下にある車輪の間に入り、ケルビムの間の炭火をあなたの両手に満たし、それを町の上にまき散らせ」(10:2)と言われました。これは明らかに、「火」をもって汚れた町を「聖める」という意味がありました。

そして、そこに、「その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の右側に立っていて、雲がその内庭を満たしていた。主(ヤハウェ)の栄光がケルブの上から上り、神殿の敷居に向かうと、神殿は雲で満たされ、また、庭は主(ヤハウェ)の栄光の輝きで満たされた(10:3,4)という、輝かしい主の栄光の臨在のしるし(シェキナー)が現れます。これはエルサレム神殿を覆った最後のシェキナー、主が神殿を滅ぼす前に最後に見せてくださった栄光きです。

その上で、9-14節には、1章で描かれていたと同じ情景が描かれます。先には、ケルビム(単数はケルブ)という名が記されていませんでしたが、ここでは明記されます。なお、1章10節では「牛の顔」と記されていたのが、ここでは。「ケルブの顔」と記されていますが、これは写し間違いかも知れません。黙示録4章7節でも「雄牛」と記されているからです。そして、エゼキエルは、「そのとき、ケルビムが飛び立ったが、それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった」(10:15)と、これが1章と同じ生き物であることを強調しています。

「主(ヤハウェ)の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。彼らが主(ヤハウェ)の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった」(10:18,19)とは、「主(ヤハウェ)の栄光」が、今、まさに神殿から出てゆこうとする様子を描いたものです。まず、主の栄光がケルビムの上にとどまったのは、これからケルビムに乗って移動するというしるしです。そして、ケルビムが一時的に「東の門の入り口で立ち止まった」のは、神殿に別れを告げるしるしではないでしょうか。今、主の栄光は東の門から出ようとしています。

神殿は、聖なる神が汚れた民の間に住むことを可能にするために、神ご自身が備えてくださった恵みの場でした。イスラエルの民が神の御心に沿った礼拝をささげているとき、主は彼らの只中に住むことができました。しかし、人間が、神の神殿自体を汚してしまったとき、神はその場にとどまることができなくなったのです。聖なる方は、汚れの中に住むことはできないからです。しかし、この終わりの時代に、神の御子は、何と、アダムとエバの子孫であるマリヤの胎において私たちと同じ肉体をまとわれました。そのことを使徒ヨハネは、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と描きます。これは、イエス・キリストにおいて、「主(ヤハウェ)の栄光」が汚れた人々の間に住むことが再び可能になったことを意味します。この時代の神の「シェキナー」こそ、イエス・キリストです。イエスが、ロバにのってエルサレム神殿に入場したことは、主の栄光が神殿に再び戻ってきてくれたしるしでした。この私たちの時代、主の栄光はイエスを通して現されています。それは、汚れた私たちを恐怖に陥れる栄光ではなく、私たち自身を神の聖さにあずからせるための主の栄光でした。そして、ケルビムから取り出された炭火は、私たちにとって、イエス・キリストが十字架で流してくださったご自身の血です。イエスは、ご自分の血で、私たちの罪を聖めることによって、聖なる神と汚れた私たちを隔てる壁を取り去ってくださいました。

4.「こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」

   その上で、主はエゼキエルに、エルサレムに残された指導者たちの姿を見せます(11:1)。彼らは、「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ」(11:2)と言っていました。それは、バビロンが攻撃してくるのにはまだ間があり、エルサレムが鉄のなべのように堅く守られ、そこに残されている民は、なべの中の肉のように貴重な存在として扱われるという楽観論です。

 そのような中で、主はエルサレムの残りの者たちをさばくという意味で、「わたしは、あなたがたをその中から取り出そう。あなたがたは剣を恐れるが、わたしはあなたがたの上に剣をもたらす・・・わたしはあなたがたを町から連れ出して、他国人の手に渡し、あなたがたにさばきを下す」(11:7、8)と言われます。そして、このようにエゼキエルが預言しているとき、「ベナヤの子ペラテヤが死んだ」というのです(11:13)。これは、主が終わりの日のさばきを事前に見せてくださったしるしとして理解されました。それでエゼキエルは、「ひれ伏し、大声で叫んで」、「ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか」と主に尋ねました(11:13)。

  そのとき、主は彼に、「あなたの兄弟、あなたの同胞、あなたの身近な親類の者たち、またイスラエルの全家のすべての者に対して」(11:14)の慰めのことばを語ってくださいました。エルサレムの住民は、すでに捕らえ移された人々のことについて、「主(ヤハウェ)から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ」(11:15)と、彼らを軽蔑し、自分たちがエルサレムを受け継ぐかのように言っていましたが、主ご自身は、「わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた」(11:16)と、ご自身が遠い異教の地で彼らとともにいてくださると約束しておられました。

 そして、主は、その後のご計画について、「わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える」(11:17)と、彼らをイスラエルの地に連れ戻してくださると約束してくださいました。そして、その際、「すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう」(11:18)と、主ご自身が、イスラエルの地からすべての偶像の神々を取り除くと言われます。しかも、主は、「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである」(11:19、20)と、イスラエルの民の心を内側から造り替え、彼らが自分から主の御教えを喜んで実行することを可能にしてくださると約束してくださいました。なお、これは私たちにとって、聖霊が与えられるという約束であり、それが私たちのうちに成就しています。パウロは自分に反抗するコリントのクリスチャンたちのことを、「あなたがたは・・・キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた」(Ⅱコリント3:3)と、彼らのうちに既に聖霊が宿っていること、そして、自分たちの心のうちでささやく御霊の導きに心を開くことを勧めました。私たちは、強制力の伴う外からの命令によってではなく、内側から沸き起こってくる思いによって、真心から主の教えを全うすることができます。大切なのは、様々な不安や欲望に囚われたこの心を、神の御霊の働きに明け渡すことです。

「こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(11:20)という表現は、主がモーセに、イスラエルの民をエジプトから救い出すことの意味を、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(出エジ6:7)と説明しておられたことに通じます。また、黙示録ではやがて実現する新しいエルサレムの姿が、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(21:3,4)と記されていました。神が私たちを救ってくださる目的は、ご自身との親密な愛の交わりを建て上げることにあるのです。天の御国は、苦しみも無い代わりに退屈が支配するようなところではありません。そこは、神と人との愛の交わりが完成する場所なのです。

  ところで、最後に、「ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。主(ヤハウェ)の栄光はその町の真ん中から上って、町の東にある山の上にとどまった」(11:22、23)と描かれます。これは極めて簡潔な記述ながらも、エルサレムが廃墟に向かう決定的な転換点です。これは、主(ヤハウェ)がエルサレム神殿から立ち去ってしまわれたということを指します。「東にある山」とは、オリーブ山のことですが、それは旅人がエルサレムを見下ろしながら別れを告げる場所です。主は、オリーブ山からエルサレムを見下ろしながら、この町に訪れる戦争や飢饉で苦しむ人々の姿を、悲しんでおられたのではないでしょうか。

 エルサレムはもはや、神の御住まいではなくなりました。そして、「霊が私を引き上げ、神の霊によって幻のうちに私をカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行った。そして、私が見たその幻は、私から去って上って行った。そこで私は、主(ヤハウェ)が私に示されたことをことごとく捕囚の民に告げた」(11:24、25)とは、主ご自身がエゼキエルの霊とともに、捕囚の地に来られ、そこから去って行き、彼がその地に住む民に主のみことばを述べ伝えたということをあらわします。主の栄光は、主のさばきを恐れ、また悲しむ者の「霊」とともにあるからです。

  エルサレム神殿は神の臨在のしるしでした。しかし、イスラエルの民は、その神殿を失うという痛みを通して、神が自分たちの苦しみをともに担い、いつでもどこでも、神が私たちとともにおられる(インマヌエル)という真理を知るようになりました。また、神はエルサレムを聖めるために、まずエルサレムを滅ぼし、廃墟とする必要がありました。同じように、私たちが聖霊に満たされるためには、自分が空っぽになって行くというプロセスが必要です。私たちはイエスの召しに従って行こうとするときに、自分の罪深さ、身勝手さが嫌になるほど示されることでしょう。それは自分だけの世界に引き篭っていたときには見えない現実でした。しかし、そこから恵みの世界が始まるのです。以下のマザーテレサの詩をともに覚えてみましょう。これこそ、御霊に満たされ生かされる道ではないでしょうか。

   

「からっぽ」                           マザー・テレサ

神は いっぱいのものを  満たすことはできません。

神は 空っぽのものだけを 満たすことができるのです。

本当の貧しさを、   神は 満たすことができるのです。

イエスの呼びかけに 「はい」と 答えることは、

空っぽであること、あるいは 空っぽになることの 始まりです。

与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが 問題なのです。

そうすることで、私たちは人生において 十分に受け取ることができ、

私たちの中で イエスがご自分の人生を 生きられるようになるのです。

今日イエスは、あなたを通して 御父への完全な従順を もう一度生きたいのです。

そうさせてあげてください。

あなたがどう感じるかではなく、あなたの中で イエスがどう感じているかが 問題なのです。

自我から目を離し、あなたが 何も持っていないことを 喜びなさい。

あなたが何者でもないことを、そして 何もできないことを 喜びなさい。

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