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2009年10月18日 (日)

エゼキエル16-19章 「生きよ!」

                                             20091018

  「どうせ私なんて・・・やるだけ無駄だ・・」という自己嫌悪と絶望感は、多くの人の心の底に巣食っています。ですから、大切な試験の最中でも、多くの人は、ふと無気力になることがあります。これは自分に負けることとも言えるでしょう。また、生命の危険が伴う激しい痛みの中で、人は、ふと、「もう、死んでしまいたい」と願うことがあります。また、「私の願いは、もう叶うことがない・・」と思うとき、ふと、自暴自棄になり、破滅的な誘惑に身を任せてしまうということさえあります。これも、霊的な死の始まりです。しかし、その一歩手前で、「生きよ!」という主からの声が心の奥底に聞こえ、教会に立ち寄ったという人もいます。主は、滅び行く罪人に、「生きよ!」と語りかけられます。

1.「あなたは、自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を行い・・」

エルサレムはまもなくバビロンによって滅ぼされようとしていますが、そこの住民は、自分たちが置かれている危機的状況を直視しようとせずに、自分たちの町に「平安(シャローム)」が続くと信じていました。彼らは、神の栄光が神殿を去ったことも知らずに、神の都は神が守ってくださるはずという幻想の元に、自分たちの町を誇っていました。それに対し、主はエゼキエルを通して、エルサレムの出生の卑しさを、「あなたの起こりと、あなたの生まれはカナン人の地である。あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった。あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく・・・だれもあなたを惜しまず・・・あなたにあわれみをかけようともしなかった。あなたの生まれた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた(16:3-5)と描いています。当時の人々は自分たちの血筋を大切にし、それを誇っていましたが、主は、エルサレムははるか昔、当時のイスラエルの民が軽蔑していた異邦人の町であって、誰からも惜しまれることのない、惨めな捨てられた町であったと語ります。

  そして、主ご自身が今にも滅びそうなエルサレムに目を留められた様子を、「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った」(16:6)と記します。昔から、どの国にも、貧しい娘が、王子に目を止められて、一夜にして王女になるという物語があります。ここでも、主ご自身が、人知れず生まれ、人々から見捨てられていたエルサレムに目を留め、「生きよ」と語ってくださったという一方的なあわれみを思い起こさせようとしておられます。童話の白雪姫にしても、シンデレラにしても、彼女たちにもともと備わっていた美しさが発見され、彼女たちが幸せになるというストーリーですが、ここでは、誰の目にも醜い者に、主が目を留めた結果として、彼女が美しく成長するという物語が描かれています。昔から、自己嫌悪の思いに苛まれた多くの人々が、このみことばによって慰めを受け、新しい歩みを始めることができました。それは、神の愛が、愛されるにふさわしくない人を、愛されるにふさわしい人に成長させてくださるところに表されるからです。つまり、すべては、目を留めてくださった方のあわれみから始まっています。そのことを主は、わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。あなたは成長して、大きくなり、十分に円熟して、乳房はふくらみ、髪も伸びた」(16:7)と、ご自身が彼女を美しく成長させたと言われ、同時に、「しかし、あなたはまる裸であった」と、傷つきやすさと保護者の必要性を示します。

  そして、主がしばらく離れていた後に、再び彼女に目を留めた様子が、「わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。─神である主の御告げ─そして、あなたはわたしのものとなった」(16:8)と描かれます。「衣のすそをあなたの上に広げ」とは、ルツ記3章9節にも記されるプロポーズの印であり、「あなたに誓って・・契りを結んだ」とは結婚の誓約に相当します。その際、夫は妻に、生きている限り、彼女に誠実を尽くすと誓い、妻は、決して他の男を求めないと誓うことになります。

そして、夫が妻に誠実を尽くす様子が、「それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った・・・こうして、あなたは金や銀で飾られ、あなたは亜麻布や絹やあや織り物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた。こうして、あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた」(16:9-13)と描かれます。つまり、彼女を美しくし、栄誉を与えたのは、主の一方的な恵み、彼女への誠実の表れであったというのです。

 そして、「その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ」(16:14)とは、主が、ダビデとソロモンの時代に、エルサレムを世界の奇跡と言われるほどに繁栄させ、シェバの女王を初めとする世界中の人々がそれに憧れたことを指します。「ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を行い、通りかかる人があれば、だれにでも身を任せて姦淫をした」(16:15)と非難されることになります。エルサレムの繁栄とともに世界中の人々が集まり、様々な国々の宗教が入り込んできました。それらは、聖書のような高い道徳基準を持たず、その場限りの享楽や刺激や恍惚体験を約束していました。私たちが世界中の様々な料理に興味を持つのと同じように、エルサレムの住民は、主から受けた富を用いて、様々なこの世の享楽と結びついた偶像礼拝に貢いで行きました。

そればかりか、主は、「あなたはまた、わたしのために産んだ自分の息子や娘たちを取り、その像にいけにえとしてささげて食べさせた。あなたの姦淫はささいなことだろうか・・」(16:20、21)と彼らを責めます。これは、モレク礼拝と呼ばれ、エルサレムの南西にあるベン・ヒノムの谷で、雄牛の頭を持った青銅の像の突き出した手の上に子供を載せ、下から火をたいていけにえとし、祭司たちは太鼓をたたき続けて子供の叫び声を消したと言われます(Ⅱ列王21:6、エレミヤ7:31等参照)。残念ながら、そのような残酷さの中に身をおいて、恍惚状態を味わうことができるという歪んだ性向を持った人間は数多くいるといわれます。それは、ローマ帝国の繁栄の中で、市民たちが剣闘士の殺し合いに熱狂したことに似ています。それに宗教が絡むと恐ろしいことになります。

そして、主は、「あなたは、あらゆる忌みきらうべきことや姦淫をしているとき、かつて自分がまる裸のまま、血の中でもがいていた若かった時のことを思い出さなかった」(16:22)とありますが、残念ながら人間は、目の前の苦しみが過ぎ去ると、何ともいえない倦怠感に苛まれて、刺激を求めてしまうという傾向があります。ショーペン・ハウエルが言ったこと、「あらゆる人間の生活は、苦痛と退屈の間を行ったり来たり、揺れ動くだけ」というのは永遠の真理のように思えてきます。古来、人心を掴むのに長けた為政者とは、民衆のパンとサーカスの必要を満たすことができた人かもしれません。それこそが罪人の心の現実なのでしょう。残念ながら人は、苦しみすぎても肉体的な死を望み、また、退屈になりすぎても、放蕩に身を任せるという霊的な死を望んでしまうのでしょうか。

2.「だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え」

 ソロモン以来、エルサレムの東にあるオリーブ山は、偶像の神々の礼拝の場で満ちてしまったようです(Ⅰ列王記11:7,8)。そこにはエジプトの神々、ペリシテ人神々などがありましたが、彼らは、「それでもまだ飽き足らず、アッシリヤ人と姦通し」(16:28)ました。事実、アッシリヤが北王国イスラエルを滅ぼす直前、エルサレムの王アハズは主の宮から金銀を持ち出してアッシリヤの王に大量に貢ぎながら、同時に、主の宮の祭司に命じて、偶像のための祭壇を築き、偶像にいけにえをささげました。そればかりか、アッシリヤの攻撃を奇跡的に退けることができた模範的な信仰者のヒゼキヤ王でさえ、「商業の地カルデヤとますます姦淫を重ねる」(16:29)という過ちの道を開いてしまいました(Ⅱ列王記20:12-19)。その子のマナセは、ヒゼキヤが蓄えた富を用いて、アッシリヤとの宥和政策を取り、主の宮の庭にバアルの祭壇を築き、ベン・ヒノムの谷では幼児をいけにえとするモレク礼拝を行いました。

彼らは、夫からもらった生活費を、よその男性に貢ぐ浮気女のように、主から与えられた富を偶像に貢ぎました。その愚かさを、主は皮肉を込めて、「あなたの心は、あえいでいることよ・・・あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした」と描かれます(16:30-33)。一般的に遊女は、他の男性から求められ、それに応えることで報酬をもらいます。しかし、エルサレムは、誰からも相手にされなくなった結果、報酬を支払ってまでも、姦淫の相手を求めたというのです。

それに対して、主は、「わたしは、姦通した女と殺人をした女に下す罰であなたをさばき、ねたみと憤りの血をあなたに注ぐ」(16:38)と言われます。その際、主は、エルサレムが姦淫を犯した相手の国々を用いて、エルサレムを「まる裸にし」、報酬を払えなくすることによって「淫行をやめさせる」と言っておられます(16:39-41)。

その上で、主は、アッシリヤによって滅ぼされたサマリヤをエルサレムの姉と呼び、悪徳の町の代名詞ともいえるソドムを妹と呼びながら、ソドムの罪はエルサレムよりはるかに軽く、また、「サマリヤもまた、あなたの罪の半分ほども罪を犯さなかった」(16:51)と言いました。そして、主は、「ソドムとその娘たちの繁栄、サマリヤとその娘たちの繁栄、また彼女たちの中にいるあなたの繁栄を元どおりにする。それは、あなたが、あなた自身の恥を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべての事によって、あなたが恥じるためである」(16:53、54)という不思議なご計画を明かされます。それは、エルサレムの住民たちが軽蔑しているソドムとサマリヤを姉妹と呼び、彼女たちの昔の繁栄をエルサレムに先駆けて回復させることによって、エルサレムの面目を失わせるということです。

その上で主は、「わたしはあなたがしたとおりの事をあなたに返す。あなたは誓いをさげすんで、契約を破った」(16:59)とエルサレムを責めます。これはエルサレムが主をさげすんだので、エルサレムもさげすまれるということをさしています。しかし、その上で、「だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる」(16:60)と言われます。これこそ、神の恵み、真実の愛(ヘセッド)の表れです。それは、イスラエルの民が主との契約を破っているにもかかわらず、主は民との契約を守り通すという真実です。このヘセッドこそが、聖書を貫く神の救いのストーリーの核心です。そのことをパウロは、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13)と記しています。主は、アブラハムの子孫を守り通し、祝福すると言われたご自身のことばを否むことができないのです。

ただ、その際、彼らの側には、そのような恵みを受ける何の理由もないということを明らかにするために、「わたしが、あなたの姉と妹とを選び取り、あなたとの契約には含まれていないが、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の行いを思い出し、恥じることになろう」(16:61)と記されます。エルサレムは契約の外にあるサマリヤとソドムの救いを見ながら、自分たちの不誠実を恥じ、同時に、主がこの世のいかなる契約相手と異なることを覚えて、主に感謝をするというのです。そのことが、「わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう。それは、わたしが、あなたの行ったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである」(16:62、63)と記されます。「契約を新たにする」とは、まさに、私たち新約の時代に実現し始めていることです。私たちは、主の一方的な恵みによってすべての罪を許され、神の子供とされながら、自分がそれを受ける価値がないということを恥じます。そして、そのような心の状態になるとき、私たちは他の人々に対しても寛容になることができます。

3.「契約を破って罰を免れるだろうか。わたしは生きている」

17章には二羽の大鷲のたとえが記されます。第一の大鷲はバビロン帝国のネブカデネザル、第二の大鷲はエジプトの王です。ネブカデネザルは、エルサレムの王エホヤキンをバビロンに連行し、ゼデキヤを新しい王として立て、彼に忠誠を誓わせました。ここで、「たけは低いが、よくはびこるぶどうの木」(17:6、13,14)とはエルサレム最後の王ゼデキヤを指します。ところが、「見よ。このぶどうの木は、潤いを得るために、根を、その鷲のほうに向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっている所から、その鷲のほうに伸ばした」(17:7)というのです。それはゼデキヤが、さらなる繁栄を願って、エジプトからも援助を受けようとする裏切り行為を指します。

しかし、「このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、水の豊かな良い地に植えつけられていた」(17:8)とあるように、ゼデキヤはネブカデネザルの保護のもとで繁栄できるはずでした。それはバビロンがエルサレムをエジプトに支配権を広げるための前線基地にしようと計画していたからです。

17章9節の主のみことばは、多くの翻訳では、「それは栄えるだろうか。彼(ネブカデネザル)は、その根を抜き取り、その実を摘み取り、芽のついた若枝をことごとく枯らしてしまわないだろうか。それは枯れる」と訳されています。つまり、バビロン王の保護を受けながら、それを裏切る不誠実は、必ず厳しい処罰を受けるというのです。

それが具体的に、「彼はバビロンの王に反逆し、使者をエジプトに送り、馬と多くの軍勢を得ようとした。そんなことをして彼は成功するだろうか・・・契約を破って罰を免れるだろうか」(17:15)と描かれます。その上で、主は、バビロンとの契約を蔑むことは、主との契約を蔑むことと同じだということを明確にするため、「わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう・・・わたしは彼をバビロンへ連れて行き、わたしに逆らった不信の罪についてそこで彼をさばく」(17:19)と言われます。

 ゼデキヤの周りには、エルサレムの独立を目指すことは主のみこころであり、そのためにバビロンとの契約を破ることは正しいと主張する人々がいました。しかし、それは詭弁に過ぎません。「主は、生きておられる」とは、人を一時的に騙すことができても、主は、その心の動機を知っておられ、裏切りに報復するという意味でもあります。

ですから最後に、この世の損得勘定を越えて、すべてを支配する主に信頼することの大切さが、「主(ヤハウェ)であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させる・・」(17:24)と改めて記されます。私たちが栄えるか滅びるかは、主の御心しだいであり、主を恐れることこそ、繁栄の基なのです。

4.「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか・・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」

ところで、主は、「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか」(18:2)と彼らを責めます。彼らは、自分たちの先祖が、主を怒らせてしまった責任を子供の世代が負うというのは、不公平だと言いたかったのでしょう。これは、主が十のことばで、「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」(出エジ20:5)と言われたことの誤解から生まれています。その際、主は、主の命令を守る者への祝福を千代にまで及ぼすという祝福との対比を強調しておられ、父が犯した罪の責任を、その子に問うというのは本来の趣旨ではありません。

  そのことを主は、「その子が父の行ったすべての罪を見て反省し・・・イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず・・だれをもしいたげず・・・わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる」(18:14-17)と約束されました。そして主は改めて、「子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない」(18:20)と言われます。「親の因果が子に報い・・」という悪循環を主は断ち切ってくださいます。

人によっては、「私は取り返しのつかない過ちを犯した。神も人も、自分を見捨てて当然だ・・・」と思うほどに絶望することがあるかもしれませんが、主は、「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。─神である主の御告げ─彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」(18:21-23)と言われます。これは途方もない福音です。詩篇の中には、悪者の滅亡を願うような祈りが満ちているようにさえ思えます。しかし、それは、人間の正直な願望に過ぎません。ところが、主は、悪者の死を喜ぶどころか、彼が悔い改めて生きることを喜ぶというのです。しかも、罪は忘れてもらえます。ですから、どんな人にも、やり直しの機会があるのです。

 ところが、「それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない』と言っている」と、主は二回にわたって彼らの不当な非難に嘆きながら、「さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか」と、同じように二回にわたって彼らを責めます(18:25,29)。人は、自分を犠牲者に祭り上げる天才です。たとえば、自分の怠慢さや不誠実を責められても、「私は人間不信にならざるを得ないような環境で育った。その気持ちが、あなたにわかるはずはない・・・」などと居直り、たしなめた人を反対に非難するような人がどこにもいます。人は、自分の愚かさを、生まれ育った環境のせいにして、神と人とを責めることができます。しかし、そこに眠っている思いは、自分の行動に責任を負うことへの恐れ、また、新しい歩みに踏み出すことへの恐れではないでしょうか。人は、自分を被害者にしておくことができる限り、責任を取らずにすむからです。

 それに対して、主は、「わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく・・・悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ」(18:30、31)と言われます。主は、ひとりひとりに、徹底的に、自己責任を問われます。神のかたちに創造された者は、原則、誰も、「責任能力がない・・」などということはないのです。たとえば、どれほどの、知的障害がある人でも、不思議なほどに、人を操作したり、反対に、感謝することを知っています。居直りと被害者意識こそ信仰の敵です。主は、「新しい心と新しい霊を得よ」と招いておられます。たとえば、やる気が湧かなければ、「私のやる気を湧かせてください」と祈ることだってできるのです。ある方は、昔、「愛する主よ」と祈っていたのに、そう祈ると、自分が偽善者になっている気がするので、「あわれみ深い主よ」と祈るようになったと言っておられました。「新しい霊」とは、まさに、聖霊のみわざであり、聖霊は私たちの心のうちに、愛の足りなさを示すとともに、神への愛を起こしてくださるお方です。イエスは、「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう」(ルカ11:13)と言われました。

  その上で、主は、「イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。─神である主の御告げ─だから、悔い改めて、生きよ(18:32)と語りかけられます。私たちは知らないうちに、感覚が麻痺することがあります。しかし、それこそ、死の始まりです。エルサレムは、自分たちがどれだけ危険な状態にあるかということに目をつむって、互いに、「平安だ」と言い合うことによって、滅びようとしています。それに対し、主は、「なぜ、死のうとするのか」と、まず、彼らの目を覚まさせることばをかけておられます。

 

  信仰とは、自分の信念の力ではありません。自己憐憫と被害者意識、無気力と倦怠感、自己嫌悪と自暴自棄に流れがちな私たちの心を作り変えてくださるという主の約束に対する信仰です。自分で自分を変えるのではなく、主が変えてくださることに信頼することです。それは、「主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔の覆いを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられてゆきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:17,18別訳)とあるとおりです。私たちは自分の不真実を恥じるしかありません。しかし、主の真実が私たちを造り変えてくださるのです。

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2009年10月11日 (日)

ルカ22:35-53「傷ついたいやし人」

                                              20091011

二十世紀を代表するユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスは、ヒトラーによるユダヤ人絶滅計画を奇跡的に生き延びましたが、意外にも、「ヒトラー経験は多くのユダヤ人にとって、個人としてのキリスト教徒たちとの友愛のふれあいの経験でもあった・・それらのキリスト教徒たちは、ユダヤ人に対してその真心を示し、ユダヤ人のためにそのすべてを危険にさらしてくれた・・・」と語っています。彼はまた、第三世界の飢餓の問題の解決の鍵は、何よりも、神から与えられた、「他者の飢えによって苦しむという能力の贈り物」にかかっているとも述べます。つまり、他者の苦しみを自分の苦しみとし、他者のために自分を危険にさらしたり、不利益を忍ぶというひとりひとりの主体的な隣人愛こそが、神から与えられる救いであるというのです。そして、「救い主」を待ち望むとは、何よりも、「万人の苦しみをわが身に引き受けることができる能力」を求めることに他ならないという趣旨のことを語っています。

この世の多くの人々は、目の前の問題をたちどころに解決できるような能力を求めていますが、それこそが、すべての争いの原因になっていないでしょうか。それは、たとえば、「ダムの工事を止めるべきか、続けるべきか・・」という意見の対立として表されます。しかし、残念ながら、人類の歴史を見るとき、ひとつの問題の解決は、必ず、もうひとつの問題を生み出す原因になってきました。そのような中で、私たちがキリストにあって求めるべき「救い」とは、目の前にはいつも問題があるという現実を前提として、その中で、どのように、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」ことができるかということにかかってはいないでしょうか。そして、しばしば、自分自身に大きな傷を抱えながら生きる人は、その傷の痛みが、神と人とを愛する泉の源となっているのではないでしょうか。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:5)とあるように、イエスは「傷ついた癒し人」となって、私たちを癒してくださいました。

1.「しかし、今は・・・剣のない者は着物を売って剣を買いなさい」

イエスは、ペテロが三度ご自身のことを否認すると言われた後、不思議なことを弟子たちに向けて語られます。イエスはまず彼らに、「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか」と聞きましたが、それに対し弟子たちは、「いいえ。何もありませんでした」と答えます(35節)。そこでイエスは、「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい」と言われました(36節)。かつては、弟子たちは伝道旅行に際し、神がイエスに与えた悪霊を制する権威を預けられ、イエスの代理として村々の家々を訪ね、悪霊を追い出し、様々な病を癒すことができ、その結果として、人々から感謝され、旅の必要も満たされました。しかし、これからイエスは、エルサレムの宗教指導者から偽預言者として断罪され、人々からも憎まれるようになります。そのことをイエスは、「あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します」(37節)と言われたのです。イエスは、民衆の救世主から、ユダヤ人の信仰の敵となるというのです。

そのときイエスの弟子たちも、同じように人々から憎まれる、人々から衣食住の支援を受けられないばかりか、不当な攻撃を受けることがあります。そのような中で、イエスは、「着物を売って剣を買いなさいと言われました。これは、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)との教えと矛盾するように思えます。しかし、考えてみたら当然ながら、弟子の集団には女性も子供もおり、イエスが異端者として裁かれたとき、弟子たちの集団もこの世の権威による当然の保護を受けることができなくなります。そのとき、屈強な男性の弟子たちが、女性や子供たちの盾となって、彼らを守る必要があります。自分に関する限り、無抵抗を貫くことは信仰の当然の表現となりえますが、自分の信仰の家族が不当な攻撃を受けているときに無抵抗を装うのは、卑怯者の振る舞いです。自分の妻や子供が暴力を受けているときに、最低限の自衛の武器を取って戦うのは、神から当然許されていることではないでしょうか。またそれこそが隣人愛の表現にならないでしょうか。なお、これは特に、護身用の短い剣を指す言葉であると言われます。ですから、弟子たちが、「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります」と答えたとき、イエスは彼らに、「それで十分」と言われたのです(38節)。これは弟子たちに自分の家族や隣人を守るという自衛のための最低限の武器を持つことをイエスが認めたということを意味するのではないでしょうか。

ところで、これは教会の歴史の中で、中世のローマ教皇が「二振りの剣」の権威を主張する際の理論的根拠として用いられました。それは、イエスが使徒ペテロに二振りの剣の保有を認めたと解釈するもので、一振りの剣は、教会の霊的な権威、もう一振は、国家による俗的な権威ですが、その両方とも、ペテロの後継者であるローマ教皇にゆだねられているというものです。それを象徴するのが、ローマ教皇グレゴリウス七世はドイツ皇帝ハインリッヒ四世を破門したところ、ドイツ皇帝は、1076年北イタリアのカノッサの門外で、三日三晩裸足で立って赦免を願ったということがありました。それは、当時、教皇とヨーロッパの国王との間での権力闘争があったからです。私たちプロテスタントの流れは、そのようなカトリックの権力志向に、信仰の腐敗の原因があったと解釈します。

しかし、この箇所は、イエスが最後の晩餐に集っていた使徒たちすべてに「剣のない者は、剣を買いなさい」と言い、彼らがそれを文字通り受け止め、ここには二振りの剣がある、または、二振りしかないという不足を訴えたときに、それで十分であるとイエスが答えたという構造になっています。つまり、文字通り、剣のない者すべてに、着物を売って剣を買うように勧めたわけではないことが明らかです。ただし、同時に、イエスは弟子たちが見せた二振りの剣を、捨て去るように命じてもいないことも明らかです。ですから、イエスの意図は、何より、弟子たちの集団が、この世の法律の保護の外に置かれる可能性があるという危機意識を喚起することにあったと思われます。

ところで、49-51節を見ると、イエスが捕らえられようとするとき、弟子のひとりが(ヨハネ18:10ではペテロであると記されている)、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とします。しかし、イエスは、「やめなさい。それまで」と言われ、「耳にさわって彼をいやされた」と記されています。つまり、イエスはペテロが剣をすぐに持ち出したことを非難したばかりか、攻撃してきた者の側にすぐに助けの手を伸ばされたのでした。マタイは、このときイエスは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びますと言ったと記録します(マタイ26:52)。つまり、イエスは、ここで明らかに、武力を問題解決の手段にすることを戒めているのです。後に、スイスの宗教改革者ツィングリがカトリック勢力との戦いを剣で解決しようとして、1531年のカッペルの戦いで命を落としたのを聞いた時、宗教改革者マルティン・ルターは、「ツィングリは剣を取ったので、その報いを受けてしまった。なぜならキリストは、『剣を取る者は、剣で滅びる』と言われたのだから」と、彼が信仰の問題を剣で解決しようとしたと非難しました。

イエスは明らかに、武力によって問題を解決するという発想を戒めておられます。しかし、同時に、剣を保有すること自体を禁止しなかったことも明らかです。つまり、イエスは、国や警察があらゆる武力を持ってはならないという非武装の理想論を言われたのでもなく、また、争いを力で解決するという人間的な現実主義を肯定したわけでもありません。イエスの教えは、ほとんどの場合、人間的な黒白の基準を超えたものになっています。私たちも浮世離れした理想論を主張するのでもなく、この世的な発想に迎合するわけでもない生き方が求められます。

2.「イエスは、苦しみもだえ・・・汗が血のしずくのように地に落ちた」

 「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、『誘惑に陥らないように祈っていなさい』と言われた」(39、40節)とありますが、他の福音記者がゲッセマネの園と呼ぶ場所は、イエスが常日頃、祈りの場として用いておられたところでした。そして、イエスはここで、孤独のあまり弟子たちに祈りの支援を求めたのではなく、弟子たち自身が誘惑に負けることがないように目を覚まして祈るように命じられたのです。そしてイエスは、「弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて」、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました(41、42節)。イエスは、最初から、「みこころのままに」と祈ったのではなく、「この杯をわたしから取りのけてください」というご自分の願いをまず率直に祈っています。その時の様子が、「すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(43、44節)と描かれます。これは、イエスの心に、目の前の苦しみから逃れたいという人間としての思いと、御父のみこころのままに十字架の苦しみを主体的に受け止めようとする思いとの葛藤があったということだと思われます。そして、イエスですら、その葛藤の中で、御使いの励ましを必要とされたというのです。ですから、私たちも、祈りにおいて、自分の葛藤を父なる神に正直に訴えることが大切です。

  ただし、イエスの苦しみは、あらゆる人間的な苦しみの次元を超えています。イエスは、「この杯」と言われましたが、これは主(ヤハウェ)がエルサレムの住民を殺し、廃墟とすることを指して、「エルサレム。あなたは主(ヤハウェ)の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」(イザヤ51:17)、また、「あなたは酔いと悲しみに満たされる、恐怖と荒廃の杯・・あなたはこれを飲む」(エゼキエル23:33、34)と言われたことを思い起こさせる表現です。

つまり、イエスの十字架は、まず何よりも、神の都エルサレムが神の憤りをうけて滅ぼされるというような激しい苦しみを、たったひとりで引き受けることだったのです。そればかりか、それは私たちにとって、全人類が受けるべき神の憤りを全世界の代表者、王として引き受けることでした。ですから、ここではイエスの苦しみの様子が、「苦しみもだえ・・・汗が血のしずくのように地に落ちた」と描かれます。「苦しみもだえ」という言葉は英語で in Agony と記されますが、これはギリシャ語のアゴニアに由来する言葉で、ギリシャ語聖書にはここにしか出てこない言葉です。つまり、このイエスの苦しみは他に比類のないもので、すべての苦しみの代名詞のようなものなのです。また、続く言葉は、「汗が血のしずくのようになって、地に落ちた」と訳すことができます。これは苦しみのあまり、汗の中に血が混じったような状態になって、それが地に落ちたということを描いているのではないかと思われます。

この姿をヘブル書の著者は、「キリストは人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(5:7)と描きます。この、「聞きいれられました」とは、イエスの人間としての願いどおり、十字架の苦しみを避けることができたという意味ではないことは明らかです。これはまず何よりも、苦しみに耐える力が与えられたということです。それが御使いの励ましとして描かれています。そして、後には、復活として表されます。そしてそれは、私たちにも当てはまることです。私たちも、祈りにおいて受けることができる勝利とは、自分の願いどおりに物事が進むということではなく、苦しみに耐える力が与えられ、最終的な肉体の復活という勝利が与えられるということです。

紀元200年頃、テルトゥリアヌスは、キリスト者を迫害するものに対して、「いかにあなた方の残酷さがより手の込んだものになったとしても、それはすべて何の役にも立たない。それはむしろわれわれの宗教の魅力となっているのだ。あなたがたがわれわれを刈り取れば、その都度、われわれの信者は倍加するのである。キリスト教徒の血は、種子なのである」と言いました。ソクラテスが、「悪法も法なり」と言いつつ、毒杯を雄々しく飲み干したように、多くの哲学者たちは、苦痛や死に耐えることを美徳としていましたが、それを実践できる人は稀でした。しかし、無学なキリスト者が、脅しに屈することなく、神と隣人愛に献身している様子は、人々の心に深い感動を与えました。

イエスは、ゲッセマネの園で、十字架の死を先取りして、苦しみもだえました。それは十字架の苦しみの予行演習のような意味があるのかもしれません。しかし、イエスは、父なる神に、ご自分の気持ちを正直に訴えることによって、この恐怖に勝利し、十字架に向かって雄々しく進むことができました。イエスのいのちが十字架上で輝くことができたのは、それ以前に、このゲッセマネの祈りにおいて十分苦しみ、それに勝利を収めたことの結果でした。

3.「起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい・・・今は・・暗やみの力です」

  一方、この間、ペテロを初めとする三人の弟子たちは、「悲しみの果てに、眠り込んでしまって」いました(45節)。イエスは、それで彼らに、「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい」(46節)と言われました。ペテロは、目を覚まして祈るべきときに、眠っていた結果として、肝心のときに、イエスのことを三度知らないと否定してしまったのでした。ペテロは自分の内側にあった恐怖心に蓋をしていました。それが居眠りの原因かもしれません。しかし、いざとなったら、それが芽を吹き出し、その恐怖心に圧倒されて、誘惑に負けてしまいました。自分の内側にある恐れの心に蓋をする者は、恐れに敗北します。たとえば、詩篇55篇でダビデは、「私の心は奥底から悶え、死の恐怖に襲われています。恐れとおののきにとらわれ、戦慄に包まれました」(4,5節私訳)と自分の内側の恐怖心をそのまま主に告白しています。しかし、彼はその恐れをまず正直に受け止め、主にあってそれに勝利したその結果として、圧倒的な敵の前でも、恐れ退くことなく、前進し続けることができたのです。

  ところで、イエスが捕らえられる直前の様子が、「イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた」(47節)と描かれます。ユダヤ人の指導者たちは、イエスが多くの民衆から支持されていることから、昼間にイエスを捕らえようとすると暴動になるのではないかと恐れ、夜陰にまみれてイエスだけを一気に捕らえ、無力になったイエスを民衆に見せて、彼らの幻想を打ち砕こうと計算しました。そのため、確実にイエスを捕らえるための内通者を求めていたのです。そして、弟子たちの会計係をしていたユダが、進んでその役を申し出ていました。なぜ、ユダが裏切ったのかは大きななぞです。しかし、イエスがご自分の十字架の死を繰り返し予告するようになったことに、ユダが大きな失望を味わったのが原因ではないかとも推測できます。どちらにしても、イエスは、彼の心の動きを見抜いておられました。それで、彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか」(48節)と言われました。

そして先に述べたように、イエスの回りにいた者たちは、「主よ。剣で撃ちましょうか」と問いかけるやいなや、弟子の中で最も気が早いペテロが、「大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした」のでした(49,50節)。これは、イエスのみこころに明らかに反する行動で、イエスはすぐに、その人の耳を癒してくださいました。これは、大祭司のしもべに対する愛であるとともに、ペテロを犯罪者にしないための配慮とも言えましょう。ペテロは、瞬時に、剣を抜いて打ってかかりましたが、それは決して勇気の現われではなく、恐怖心に駆られた行動ということもできましょう。このようなときに、じっと黙って立ち続けることこそ、最大の勇気の現われです。

そしてイエスは、「押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たち」に落ちついて立ち向かいます(52節)。ヨハネは、イエスを捕らえるためにやってきた人々のほうが、イエスの威厳に圧倒され、「あとずさりし、そして、地に倒れた」と描きます(18:6)。そして、イエスは、彼らをまったく恐れることもなく、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です」(52,53節)と、彼らの卑怯な計画を非難します。

ここでイエスが、「今はあなたがたの時です。暗やみの力です」と言われたのは、イエスが最後の晩餐の終わりに、「しかし、今は、財布のあるものは財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい」と言われた、「暗やみの力」が支配する「今」のときを指します。これは、人間の目には、暗やみの力が、光の子らを圧倒しているように見えるときのことを指します。暗やみの子らは、自分たちの力を勝ち誇っています。そして、私たちの目の前にも、日々、暗やみの力が光の子らを圧倒しているように思える現実が広がっています。

これこそ、すべてのキリスト者を襲う、「霊的な戦い」の現実です。その際、私たちは、人間的な力と方法によっては決して、暗やみの力には対抗できないということをわきまえる必要があります。使徒パウロは、エペソ人への手紙に6章10-18節において、「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と命じています。私たちの敵は、悪魔ですから、その策略に対して立ち向かうことができるために、「神のすべての武具を身に着ける」必要があります。そのほとんどは身を守る防具ばかりで、唯一の攻撃の道具は「剣」です。それは、「御霊の与える剣」としての「神のことば」です。そして、暗やみの力との戦いの戦略は、何よりも、「どんなときにも御霊によって祈る」ことです。その模範は、何よりも、詩篇の中に見られます。いつでも、どこでも、御霊の導きを求めつつ、詩篇を用いて自分の心を注ぎだすことが勝利の秘訣です。人間的な解決ではなく、御霊にある解決方法が求められます。

ユダヤ教のタルムードに次のような話があります。三世紀の有名なラビが偶然エリヤに出会い、「救い主はいつおいでになるのですか?」と尋ねます。不思議にも、エリヤは、「行って、救い主ご自身に尋ねなさい」と答えます。それに対し、ラビは、「あの方はどこにおられるのですか」と尋ねると、エリヤは、「あの方はローマの門に・・・全身傷だらけの乞食たちの間におられます」と答えます。ラビはそこに出かけますが、その中に救い主を見つけるのはたやすいことでした。不幸な人々は包帯でくるまれていましたが、その中で一人だけ、傷の手当をするためにすべての包帯を一度にはがすようなことをせず、どんなときにも呼ばれればすぐに応えられるように、包帯を傷口ひとつごとにはがし、手当てが終わった傷口に包帯をし終わるまで、次の包帯は解かずにいました。包帯を巻くだけのいとまでさえも、助けを求める人のもとへの到着が遅れてはならないと心備えをしていたからです。ラビが彼に、「あなたはいつおいでになるのですか」と尋ねると、彼は、「今日にでも」と答えます。そのときラビは、すぐにはその意味が理解できませんでした。しかし、「きょう、もし御声を聞くなら・・・あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(詩篇94:7,8)とのみことばを思い起こし、自分自身が今、無力さを抱えたままで、「救い主」の手足となり、行動する必要があると示されました。世の悲惨を見て、傍観者的な議論をする者に、主の救いは見えないのです。

救い主は最終的にこの世界に来られて、世界の問題を解決してくださいます。しかし、それまでは、私たちは、常に自分の傷を抱え、それを治療しつつ、日々、主の呼びかけに応答する責任があります。復活のイエスは、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と言われました。私たちは矛盾と混乱に満ちた世に、イエスの代理として、救い主の代理として、日々、遣わされています。そこで問われているのは、何よりも、世界の痛みを自分の痛みとして感じることができる感性です。パウロは、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだのあがなわれることを待ち望んでいます」(ローマ8:23)と語りました。御霊を受けた者は「うめく」というのです。私たちは、まわりに起きている様々な悲劇を聞きながら、その関係者をさばいたり、また、評論家のような議論をしてばかりで、真の意味で、「心の中でうめく」という謙遜さが足りないのではないでしょうか。神は誰より、謙遜な者を、みわざに用いられます。

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