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2009年12月27日 (日)

エゼキエル33章1節~36章15節 「目に見える救いの約束」

                                              20091227

2006年のトリノ・オリンピックでも歌われたジョン・レノンの不朽の名曲、「イマジン」の初めでは、「想像してごらん。天国なんてないって・・・やってみたら簡単なことだよ。私たちの下に地獄もない。上には、空があるだけさ。想像してごらん。みんなが今日を生きているんだ」と歌われます。この歌詞は、天国を皮肉り、死後のさばきを否定するという反聖書的なものに見えます。しかし、ジョンがこのように歌ったのは、当時のキリスト教道徳が、天国への「夢」を説いてこの世への不満を沈黙させ、地獄への「脅し」で人々の自由を抑圧しているように思えたからです。

日本語の「天国」または、英語の「heaven」は、聖書では「パラダイス」と呼ばれますが、それは信仰者のたましいが復活を待つ一時的な休息の場に過ぎません。最終目的地は「新しいエルサレム」に朽ちない身体を与えられてよみがえることです。その世界は、初めの天地創造との比較で「新しい天と新しい地」と呼ばれます。そこにはもはや危険な海もなく、日照りをもたらす太陽もなく、神の平和(平安)が世界を満たしています。「永遠のいのち」とは、その喜びの世界の「いのち」が、今、この時から始まっていることを意味します。私たちは、「良い行いをしたら天国に入れてもらえる。でも悪いことをすると地獄に落とされる」という世の道徳の教えの枠を超えて、今、このときから「新しいエルサレム」の市民として、今、このときを喜びながら生きることができるのです。しかも、その「いのち」は失われることがないからこそ、権力者を恐れず、正義を優しく主張する勇気が湧いて来るのです。

1.「わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる』と言っても・・・」

 33章10節から20節は、18章21-29節と基本的に同じ内容が記されますが、ここでは見張り人の働きとセットになり、主ご自身が攻撃を仕掛けながら、最後の最後まで、民の悔い改めを待っておられるという面が強調されます。主ご自身が、わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」(33:11)というみことばを私たちは心の底から味わうべきでしょう。これと対照的なのが、「わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、彼は自分の行った不正によって死ななければならない」(33:13)という記述です。不思議なのは、主ご自身が「生きる」と保障された人が、滅びてしまうことがあるということです。このことをパウロは、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリント10:12)と言っています。聖書には、私たちの救いは、神の一方的な恵みによる「選び」に基づくと繰り返されています。しかし、それは、人の運命があらかじめ、私たちの意志と無関係に決められているという意味ではありません。私たちは一瞬一瞬、主により頼みながら生きる必要があります。

主は、自分の不信仰に悩む者には、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)と言ってくださいます。ただ、「選び」には必ず「使命」が結びついています。そして、「使命」は目の前の課題に取り組むことから生まれてきます。たとえば、子供の分級室の息苦しさを見ながら自分には何ができるかと考えることや、また、寂しそうにしている人に声をかけようとすること、また地球温暖化の話を聞きながら自分に何ができるかを考えることなど、自分の心の中に湧き上がってきた思いに身を任せることから使命感が生まれます。そして、私たちはそれらすべてイエスへの奉仕として行うのです。そのことを忘れて、受けることばかり求める者は、「神の御子を踏みつけ」(ヘブル10:29)などと言われるかもしれません。信仰とは、自分の救いに安住することなく、一瞬一瞬、主の御前にへりくだり、主に応答を続けることです。

  ところで、人々は、エゼキエルの預言が成就したことを見て、群れをなして彼を訪ね、彼のことばを聞こうとします。しかし、それに対し主は、「彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない」(33:32)と非難されます。これは私たちへの警告でもありましょう。今の時代も、人々は、耳障りの良い話ばかりを求め、主のみことばを実行しようとはしないという傾向があるのではないでしょうか。しかし、主は、私たちの行動が変えられることを望んでおられます。イエスの弟子のヤコブも、「みことばを実行する者になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)と警告しています。

2.「彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」

  その上で主は、イスラエルの指導者たちの罪を生々しく指摘して、「ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さずかえって力ずくと暴力で彼らを支配した(34:2-4)と言われます。これは、牧師の罪を指摘する最も効果的なみことばとして用いられますが、これは教会全体への警告でもあります。

残念ながら、しばしば、カルト化する宗教団体がどこにでもあります。そこに共通するのは、目に見える大きな目標をかかげながら同時に危機意識を高め、信者どうしの競争意識をあおるような組織運営です。そして、弱い人は、信仰の脱落者として排除されます。キリスト教会でも同じようなことが起きることがあります。なぜなら、人は、基本的に、強力なリーダー、この世の成功者を求めるからです。ナチス・ドイツは、人の心の底に眠るサド・マゾヒズムの心理を刺激して人を操作したと思われます。それは、「強者に対する愛と無力者に対する憎悪」です(エーリッヒフロム「自由からの逃走」p253)。これはそのまま、日本の軍国主義にも適用できることでしょう。

共同体の良し悪しは、「弱った羊」、「病気のもの」、「傷ついたもの」、「迷い出たもの」、「失われた者」がどのように見られているかによって判断されることでしょう。主が嘆かれるのは、そのような存在が排除され、「牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」(34:5)という状態になることです。

そのとき、神である主は、「わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる・・・わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない」(34:10)と言われます。プロテスタントの教会の指導者は「牧師」と呼ばれますが、それは彼らの使命が、何よりも、主のみことばをもって、主からあずかった羊を養うことだからです。そして、私を含めて、すべての牧師と呼ばれる者が、何よりも恐れるのは、このようなさばきを主から受けることと言えましょう。

先日の牧師研修会で、「牧師は、どんなに忙しくても、信徒の前では、暇そうな雰囲気を見せなければならない・・・。そうでないと信徒は安心して相談できなくなる・・・」と言われて、どきっとしてしまいました。本当に、その点では、自分はその逆をやっているように思います。ただ、同時に、おひとりおひとりに、本当にご理解いただきたいのは、私がどれほど忙しく見えたとしても、ここに集っておられる方の信仰上の悩みを後回しにするようなことは決してしたくないと思っていることです。また、何よりも悲しいのは、信仰上の相談を受けられなくなる状態が生まれることです。「彼らに羊を飼うのをやめさせる」と、主から言われるような牧師にだけは絶対になりたくないからです。

  

3.「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす」

  34章11節以降で、主はご自身を理想的な「牧者」にたとえながら驚くべき約束をされます。主はかつてご自身でエルサレムをさばき、ご自身の民を周辺諸国に散らされました。その第一の責任はイスラエルの指導者たちの不信仰に由来します。そして、国の滅亡の過程では、社会的弱者が誰よりも苦しむことになり、それぞれが遠い国に追いやられてしまいました。しかし、主はここで、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し・・・イスラエルの山々や谷川のほとり・・・で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い・・」(34:12-14)と約束されます。つまり、主がイスラエルを滅ぼし、その民を散らしたのは、彼らを悪い牧者から解放し、ご自身で直接彼らの世話をするためだったのです。

そのことを主は、「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる」(34:15)と力強く宣言されます。そして、改めてご自身のみわざを、先の「イスラエルの牧者たち」との比較で、「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける」(34:16)と言われます。ただ、それと同時に、主は、「わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」と言われます。それは、主のみわざが、イスラエルの民を巨大な帝国から救い出すという以前に、「わたしは、羊と羊、雄羊と雄やぎとの間をさばく」(34:17)とあるように、同じ民族の支配者の手から社会的な弱者を救い出すという道でもあったからです。残念ながら、いつの時代にも、民を最も残酷に苦しめるのは同じ民族の支配者です。たとえば、日本が朝鮮半島を支配していたとき、朝鮮人を苦しめる先頭に立ったのは朝鮮人自身であったと言われますが、それはどの植民地においてもまったく同じでした。ナチスの強制収容所でさえ、ユダヤ人がユダヤ人を迫害していました。

それを前提に、主は、イスラエルの支配者たちの振る舞いを、「あなたがたは、良い牧場で草を食べて、それで足りないのか。その牧場の残った分を足で踏みにじり、澄んだ水を飲んで、その残りを足で濁すとは」(34:18)と非難しています。彼らには分かち合いの心が見られないばかりか、弱者を苦しめて喜んでいたというのです。

それに対して、主は、「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主(ヤハウェ)であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる」(34:23、24)と約束されました。これがイエス・キリストにおいて成就しました。イエスは、このみことばを背景に、「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10:11,14)と言われながら、「わたしは、わたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています・・・わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」(ヨハネ10:14,15)と約束してくださいました。イエスの十字架は、神の民の「君主」としての愛の現われでした。たとえば、太平洋戦争の後、日本は米国のマッカーサー元帥の支配下に置かれましたが、昭和天皇は彼の執務室を自分から訪ね、「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、あなたに会いに来ました」と言ったとのことです。それなら天皇はもっと早く戦争を止めることができなかったのか・・・とも思いますが、とにかくマッカーサーはこのことばに非常に深い感銘を受け、その後の、日本支配の方向が変えられたといわれています。

イエスは、「良い牧者」としてのあり方を世に示してくださいました。それが世の人々にも、指導者のあるべき姿として共有されたからこそ、マッカーサー元帥が、昭和天皇のことばに感銘を受けたのでしょう。しかし、エルサレムの最後の王ゼデキヤは、最後まで自分の身を守ることばかりを考え、民を捨てて逃亡しました。そして、自分をネブカデネザルの再来と位置づけたイラクのフセイン大統領は、自分の身を守ろうとして、国を混乱に陥れました。指導者の生き様が、国民が互いに助け合いながら生きるかどうかの方向を示していると言えないでしょうか。

このみことばをもとに、イエスは人々から「ダビデの子」と呼ばれました。そして救い主がもたらす国の平和が、「彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獣も彼らを食い殺さない。彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない。わたしは、彼らのためにりっぱな植物を生やす。彼らは、二度とその国でききんに会うこともなく、二度と諸国の民の侮辱を受けることもない」(34:28、29)と描かれます。イエスはイスラエルをこのような国に導く王として来られました。ところが、ユダヤ人たちはイエスを十字架にかけて殺し、このような国を建てる道を自分でふさぎました。そのことをペテロは、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒2:37)と、ユダヤ人たちに悔い改めを迫りました。そして、今、このイスラエルに対する預言は、全世界の神を恐れる人々への預言となっています。イエスが死者の中から復活し、天に昇られたのは、このような平和の国を実現するために再び来られることの前提です。それが「新しい天と新しい地」と呼ばれます。

私たちの人生のゴールは、たましいが肉体から解放されて天国に憩うということにとどまりません。私たちはこの目に見える世界の矛盾がなくなる平和の完成を待ち望んでいるのです。それはすべての環境問題の解決、弱肉強食がなくなる被造物の喜びの世界でもあります。預言者イザヤも救い主預言とともに、「狼は子羊とともに宿り・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れる」という平和の実現を約束しています(イザヤ11:6-8)。

イエスは、そのような神の国の完成の前提として、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)と約束されました。イエスの十字架と復活は、サタンと死の力への勝利宣言でした。イエスが復活したように、私たちも復活します。そして、私たちは復活の身体をもって、新しい天と新しい地に住むようになるのです。イエスはそのときに至るまで、私たちのいのちを守り通してくださいます。私の信仰(真実)が神に喜ばれるというのではありません。羊には自分の飼い主を選ぶ力はありません。牧者であるイエスの真実(信仰)が私を守り通してくださるのです。

 そして、目に見える牧者の責任、それは何よりも、ひとりひとりを唯一の「牧者」であるイエス・キリストに向けることです。目に見える牧者に頼るものは必ずつまずくことでしょう。ひとりひとりが自分で聖書から学び、ひとりひとりが自分で神のみこころを知り、自分で唯一の教師を見上げることができます(イザヤ30:20)。

4.イスラエルの山々の救い

  36章8節以降では、主は、将来的なイスラエルの繁栄を、「おまえたち、イスラエルの山々よ」と、山々を擬人化しながら、「おまえたちは耕され、種が蒔かれる。わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる」(36:8-11)と約束されます。そればかりか主は、イスラエルの山々に警告するかのように、「それゆえ、おまえは二度と人間を食らわず、二度とおまえの国民の子どもを失わせてはならない・・わたしは、二度と諸国の民の侮辱をおまえに聞こえさせない。おまえは国々の民のそしりを二度と受けてはならない。おまえの国民をもうつまずかせてはならない」(36:14、15)と言われます。かつてこの地を偵察したイスラエルのスパイは、「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ」(民数記13:32)と悪く言いふらしました。それは、土地が豊かであるがゆえにかえって、多くの民族がその支配権を巡って殺し合ってしまうという意味でした。

今も、遺産相続を巡って子供どうしが争うということがよくあります。また同時に、イスラエルの山々の天候は不安定で、主が、「季節にかなって雨を降らせ」(34:26)てくださらなければたちまち、大飢饉に襲われました。しかも、彼らはそのような旱魃を恐れ、高き所で偶像の神々にいけにえをささげ、幼児をいけにえにすることさえありました。つまり、イスラエルの山々は、豊かな産物を生じればその地に戦いが生まれ、飢饉がくれば人々は偶像礼拝に走り、自分の子供さえ犠牲にしてしまうという意味で、「住民を食い尽くす地」と見られていたのです。主は、そのような状態を終わらせ、豊かさと平和を同時に実現してくださると約束しておられます。

  かつて主は、イスラエルの民が主の命令に背くなら、「あなたがたの力は無駄に費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう」(レビ26:20)と警告しておられました。また、彼らが七年間に一度、土地を完全に休ませるということをしなかったことへのさばきとして、主はイスラエルの民をその地から追い出し、「その地は休み、その安息の年を取り返す・・・その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない」(レビ26:34,43)と警告されていました。つまり、レビ記では、約束の地が安息の年を取り返すという土地の救いが約束されており、エゼキエルが預言するイスラエルの山々の救いは、そのテーマに沿った救いのストーリーなのです。

  ユダヤ人たちは今も、基本的に、「イスラエルの山々」への預言を、文字通りに信じています。しかし、エルサレム神殿の完成に関する預言をイエス・キリストが十字架と復活で成就してくださったと同じように、土地に対する預言も文字通り成就すると考える必要はないと思われます。異邦人とユダヤ人は、すでにキリストにおいてひとつの民とされています。そして、私たちが待ち望むのは、目に見えるエルサレム神殿の完成ではなく、天から下ってくる「新しいエルサレム」であり(黙示21:2)、また、「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」という世界です(Ⅱペテロ3:13)。土地も偶像になりえます。大切なのは、真の意味で土地を支配しておられる方に目を向けることです。イスラエルの土地は神殿と同じように、天にあるものの模型です。

ただし、私たちはこのイスラエルの山々に対する預言を通して、神が現実の目に見える日々の生活に目を向けておられ、そこに救いをもたらそうとしておられることがわかります。神の救いを、たましいの平安という二元論的なものに縮めてはなりません。神は、あなたのこの地での生活に祝福をもたらそうとしておられます。そこでは、豊かさが、もう罠となることがありません。土地や富を巡って争うことのない、互いにすべてを喜んで分かち合うことができる世界、それこそが神の救いのゴールです。私たちもそのような世界を先取りする者として、日々、兄弟たちと富を自主的に分かち合うような生活をしたいものです。

初代教会の祝福の姿は、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」(使徒4:32)と描かれていますが、それこそ聖霊のみわざの現れでした。

イマジンの中心メッセージは、「君は僕を夢見る人と言うかもしれない。でもその夢を持つのは僕だけじゃないよ。君もいつの日か、僕たちの仲間になってくれることを願ってるからね。すると、世界はひとつになって行くよ。」という部分にあります。彼は、このような夢を互いに共有することによって、平和が実現できると歌い、それが多くの人々の心を動かしています。私たちも聖書が語る「新天新地」の夢を共有するときに、何の強制力もない一致を喜ぶことができます。教会では、終末論の見解の違いによって争いが起きてきました。しかし、最終的な平和を神が実現してくださるというゴールを見上げるなら、みなが一致できます。

そして最後に、「想像してごらん。所有なんてないって・・・君もそうできるかな。貪欲になったり、飢えたりする必要もない。人が兄弟愛で結ばれる。想像してごらん。みんなで世界を分かち合っているって・・・」と歌われます。これこそ、初代教会において人々が聖霊に満たされていたときに実現し始めたことでした。これは共産主義のように社会システムとして実現された世界ではありません。そこには無言の強制力が働いてしまいます。

しかし、「聖霊に満たされる」とき、私たちは喜びながら、進んで所有意識を捨てられるのです。「イマジン」には、多くの人々の夢を歌ったものです。それがこれほどポピュラーになったことを考えるとき、新天新地の教えも、実は人々にとっても身近なもので、現在の生き方に直結するということがわかります。

私たちはこの教会でどのような夢を共有できるでしょうか。「夢」、または「ビジョン」を共有できることは本当に大切なことです。その基本は、「神の国の大使館」としての働きです。自前の会堂を持つことは、そのための手段に過ぎませんが、それにしても、それが私たちを駆り立てるような目標ではなく、希望に満ちた「夢」である必要があります。そして、共有された夢には、私たちを動かす力があります。共有された夢を、主ご自身が実現してくださいます。救いは、天国に行くまで見えないようなものではありません。私たちの交わりのうちに実現してゆくものです。

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2009年12月25日 (金)

 「正しすぎてはならない」-Let it be -

2009年クリスマス・イヴ・メッセージ

待ちに待った、小生の伝道者の書の翻訳と解説が出来上がり、本日、手元に届きました。題は「正しすぎてはならない」-Let it be –としました。原稿を印刷に回す直前になって、イエスが「let it be・・」と言われた箇所を発見しました。ヨハネがヨルダン川で人々にバプテスマを施している時、イエスも彼からバプテスマを受けようと近づいて来られました。ヨハネはその方が救い主であることに気づき、そのような恐れ多いことはできないと言います。

躊躇する彼に行動を促すイエスのことばを、多くの英語訳は、「Let it be so now」(今は、そのままに・・)と記しています(マタイ三・一五参照)。ヨハネは自分がすることの意味を理解できないままイエスの求めに応じました。それこそlet it be の心です。

私たちのまわりにも納得できないようなことが日々いろいろと起きます。しかし、必要なのは、目の前に、主から示され続けている課題を、ひとつひとつ着実に成し遂げてゆくことではないでしょうか。自分を振り返ってみても、感情に振り回されて、自己弁護に走ったり、人を攻撃したり、問題を一気に解決しようとしてかえって事態をこじらせてしまったことがあったことを反省せざるを得ません。Let it be とは、目の前の本当に必要なことに取り組むための神からの知恵のことばです。

ところで、伝道者の書で、目を開かれるみことばとして以下のようなものがあります。これは私訳ですのでお聞きください。

神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを、誰がまっすぐにできよう。 7:13

幸せな時には幸せを味わえ。災いの時には、(神のみわざに)目を留めよ。 7:14

これもあれも神のなさること。このため人は後の事を見極めることができない。

 この空しい日々の中で、すべてを見てきた。             7:15

正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。

正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜ自分を滅ぼすのか。7:16

悪すぎてもいけない。愚かであってもならない。なぜ、その時でもないのに死ぬのか。7:17

一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。     7:18

神を恐れる者は、すべてをくぐり抜ける。

アフリカのウガンダでは10年くらい前に、リバイバルが起こり、福音が国の隅々まで届き、エイズも次々と癒され、世界初のエイズ患者減少国となったとのことです。しかし、そこで最近、国会に反同性愛法案が提出され、同性愛者やその協力者に、場合によっては死刑を含める厳しい罰則を課す法律が通されようとしているとのことです。しかも、それは米国の保守的なクリスチャン指導者の影響によると報道されています。その関わりを取りざたされたリック・ウォレン師をはじめとする有名なキリスト教指導者は、そのような過激な動きが出てきたことに心を痛め、神の正義を振りかざすことで、より大きな不正義をもたらすことになると同法案への反対を必死に表明し始めました。

私たちの場合も、同性愛は神の創造の秩序に反する罪であると言わざるを得ませんが、それを法律で処罰することによって抑えようという動きには決して賛成はできません。

昔、アメリカではキリスト教保守派の圧力で禁酒法が施工されたことがありましたが、その結果、反対にマフィアの勢力が急拡大したということがあります。この世に広がる不道徳を、力で解決しようとするとき、かえって力による抵抗を受け、人々の中から愛が冷めてゆきます。

私たちの周りに、正論を展開しながら、そこに愛が感じられないということがないでしょうか。そのようなとき、伝道者の書のことば、「正しすぎてはならない」ということばが心に響いてきます。

クリスマスは、確かにイエスの誕生を祝う祭りですが、聖書的には、全世界の創造主であられる方が、ユダヤ人の娘マリヤの胎内で人となり、ひ弱な赤ちゃんとしてご自身を現されたことを記念する日です。

当時のユダヤの人々は、救い主が来たら、自分たちをローマ帝国の圧制からたちどころに解放してくれると期待していました。しかし、実際に現れた救い主は、時のローマ皇帝アウグストと戦う代わりに、その命令に振り回されるひ弱な家庭から誕生することを選ばれました。マリヤとヨセフは、人口登録のため遠くまで旅をせざるを得ませんでした。しかも、宿屋にも泊めてもらえず、町外れの暗い洞窟の飼い葉おけにお生まれになりました。そればかりか、人間的には、イエスはマリヤの子ではありましたが、ヨセフとは血のつながりがありません。いわば私生児の立場でお生まれになりました。以来、イエスの出生には、いろんな悪評が立てられ続けています。しかし、神の御子は、あえて、この世の最下層の人の仲間になるために、そのような誕生を選ばれたのです。ただ、それこそが福音の不思議です。

つまり、創造主が人となったとは、この世の不条理を正す代わりに、この世の不条理のただなかに生きる者となられたということです。それは、力で正義を実現する代わりに、人々の心の中に、愛の火をともすためでした。たとえば、先の同性愛の問題にしても、彼らの心の痛みをいっしょに味わおうとする姿勢がなければ、決して、彼らに真の神の愛を知らせることはできないでしょう。

「きよしこの夜」の作詞者、ヨセフ・モールは下級兵士と貧しいお針子との間に生まれましたが、その父親はすぐに行方知れずとなり、私生児として育ちました。そのため、才能があるのにも関わらず一生、正式なカトリック司祭となることはできませんでした。彼はイエスの誕生と、自分の惨めな誕生を重ね合わせながら、6番まであるドイツ語の歌詞を書いたのではないでしょうか。しかも、これに美しいメロディーがついたのは、クリスマス・イヴの前日、パイプオルガンがネズミに穴を開けられ、音が出なくなったため、教会のオルガニストが急遽、ギターで演奏できる曲を作曲する必要に迫られたからです。

ところで、先ほどの伝道者の書では、「わざわいの時には、神のみわざに目を留めよ」と記されています。新改訳聖書では、「順境の時には喜び、逆境の日には反省せよ」と訳されていますが、それは誤解を与える翻訳のように思えます。「反省せよ」と訳されたことばと713節初めの、「目を留めよ」と訳された原語は同じだからです。私たちの災いは、神の御手の中にあるのです。

しかも、マリヤとヨセフは、イエスの誕生を前に、「神様、安心して出産できる場所をお与えください」、「信頼できる助産師をお与え下さい」などと、必死にお祈りしたことでしょう。しかし、それらの祈りは、何ひとつ聞き入れられなかったとも思えたかもしれません。ふたりは、それらすべてを、Let it be に受け止め、ただ、黙々と、自分ができること続けました。神は、このとき、マリヤとヨセフのために戦う代わりに、その悲惨な条件を甘んじて受け入れるように導いておられたのです。

しかし、神は、その只中で、生きて働いておられました。天の軍勢が貧しい羊飼いたちに現れ、すばらしい天使の賛美を聞かせてくれました。マリヤもヨセフも、それを聴くことはできませんでしたが、羊飼いの訪問を受け、この世の悲惨な現実の中に、神の力強い愛のみ手が働いていたことを知ることができました。

また、後には東方の三人の博士たちも訪ねてきて、高価な宝物を送り届けてくれました。マリヤが自分の正義を主張しなくても、羊飼いが、また東方の博士たちが、イエスが神の御子であることを証してくれたのです。そして、これらすべてのイエスの誕生にまとわる不条理のシンボルが「飼い葉おけ」です。

 もちろん、これらは私たちが正義を求めたり、知恵を求めたりすることを否定する教えではありません。問題は、「正し過ぎる」「知恵がありすぎる」ことの問題です。知らないうちに、自分の正義、自分の知恵を振りかざして、私たちの思いを超えた「神のみわざに目を留める」ことができなくなることへの警告です。

ですから、それと同時に、「悪すぎてもいけない」「おろかであってもいけない」と警告されています。人は成長をあきらめたとたん、わがままなモンスターになりえます。

そして、何よりも大切なのは、「正しすぎ」ることもなく、「悪すぎることもない」という両者を同時につかんでいることです。それこそが、「神を恐れる」という生き方です。そして、そのように神のご支配に信頼する者を、神は最終的に、あらゆるわざわいから守り通してくださいます。

マリヤとヨセフが、あたふたとしていたかもしれないとき、また神の御子が汚く冷たい飼い葉おけに寝かせられたとき、神の愛のまなざしは確かにそこに注がれていました。その悲惨を上から見下ろしていたのではなく、イエスと心をひとつにしておられた神は、ご自身で、人々の愛のない仕打ちに心を痛めておられました。しかし、愛のない人に、「あなたには愛がない」と説教したことで、何の変化が生まれるでしょう。神の御子はご自分の正義を主張する代わりに、この世の不条理を自ら味わってくださいました。それは、私たちひとりひとりの冷たい心に寄り添うためでした。 

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2009年12月20日 (日)

ローマ8:1-17「罪深い肉と同じような形で」

                                            20091220

  今年は有名女優の薬物依存が大きな話題となりました。依存症は「否認の病」と呼ばれます。依存症の人は、自分が自分を制御できないということを認めることができないからこそ、何度も同じ過ちを繰り返し、その度に自己嫌悪をつのらせ、「今度こそ」という泥沼にはまって行きます。しかし、パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です」(7:24)と告白することで、驚くほど豊かに、神に用いられました。「罪を憎んで、人を憎まず」ということばがありますが、同じように、「罪を憎んで、自分を憎まず」ということばも必要でしょう。私たちの身体は、神の御子が同じかたちの肉体となられたほどに高価で尊いものです。ただ、この肉の身体を、罪が支配しています。その極端な現われが薬物依存です。その癒しとは、薬物を肉体から引き離すことです。同じように、キリストはこの肉体を罪の力から解放するために、この罪に無力な弱い肉体を引き受けてくださいました。私たちの身体には今なお、強力な罪の力が働いています。しかし、神はそんな汚れた身体に住むことができるために、ご自身の御子を世に遣わしてくださったのです。今、あなたの身体をキリストご自身が支配する道が開かれているのです。

1. 「神は・・肉において罪を処罰されました」

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(1節)とは、何という大胆な宣言でしょう。私たちが自分を、「心で何を考えているか?」「愛の原則に従ったか?」という基準ではかるなら、罪に定められるようなことばかりが目に付くことでしょう。しかし、人が自分の努力によって神の基準に達することができるなら、キリストが世に来られる必要はありませんでした。旧約聖書は、生まれながらの人間は、どれほどよい教えを聞いても、罪の誘惑に打ち勝つことはできなかったということを語っています。だからこそ、キリストは私たちをご自身の者として引き受けてくださいました。ですから、私たちは自分を何よりも、「キリスト・イエスにある者」として見る必要があります。そして、その者は、もうさばきを恐れる必要はないのです。

そして、82節は、「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法(御教え)が、罪と死の律法(御教え)から、あなたを解放したからです」と訳すことができます。新改訳で「原理」と訳されていることばは、原文では「律法」と同じで、ここだけ別に訳すのは不自然だと思われます。この意味は、私たちが古いアダムの性質に縛られていたときに、「律法」は本来「聖なるもの」なのに、かえって「罪を引き起こし、死をもたらした」(7:8-13)という意味で「罪と死の律法」(2)になったということです。しかし、キリストはご自身の十字架と復活によって、「罪と死」の力に打ち勝ち、「律法」「罪と死」の力から解放し、それを「いのちの御霊の律法(御教え)に変えてくださいました7章でパウロはアダムの子孫としての「私」ということばで、自分自身の証しというより、すべての人を支配する罪と死の現実を語り、今度は、私たちに与えられた救いを「あなた」と個人的に語りかけようとしています。この「私」「あなた」ということばで、パウロはすべてのキリスト者を含めようとしています。

たとえば、私にとって、聖書の最初の五つの書、つまり、モーセ五書は無味乾燥なばかりか自分を落ち込ませるだけの教えでした。しかし、今、それは、「主が私を恋い慕って」おられるという愛の教えに変わりました。同じ教えなのに、その意味が自分にとって百八十度変わったのです。同じことがあなたにも起きていることでしょう。私たちは、今、御霊に導かれることによって、神の律法を喜び、それを行い、生きる者とされたのです。714節で、「律法が霊的なもの」とありましたが、それゆえ律法は神の霊によってしか全うすることができないのです。それは、旧約聖書で繰り返し預言されていたことでした(申命記30:6、エレミヤ31:32,33、エゼキエル36:26,27)。その意味で、今や、古い律法が、「キリスト・イエスにある、いのちの(いのちをもたらす)御霊の律法」として意味を変えました。ですから、「いのちの御霊の律法が、罪と死の律法から、あなたを解放した」と言われるのです。

ところで、律法の核心は、本来、人を束縛するような堅苦しい戒律のようなものではなく、神と人を愛するという単純なものです。それは、イエスが「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という二つの戒めに要約された通りです(マタイ22:37-40)

ところが、「肉」に囚われ、自分のことで心が一杯になっているアダムの子孫は、これをさえ守ることができませんでした。それで、神は、上から指導する代わりに、神はまずご自身のほうから私たちに近づいてくださいました。それが、ご自分の御子を「罪深い肉と同じような形でお遣わしになり」(3)ということです。

しかも、それは「罪のために」とあるように、御子を「罪のためのいけにえ」とするためでした。キリストは、父なる神と、罪に束縛された私たちとを隔てている仕切りをなくすためでした。預言者イザヤは、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない・・あなたがたの咎が、あなたがたと・・神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:1,2)と述べていますが、神はご自身と私たちとを隔てる「仕切り」となっている「罪」を、キリストの「肉において処罰」してくださったのです(3)

「神は・・罪を処罰した」とは、神は、罪を犯す人間を処罰するのではなく、原文では、「罪」「罪に定めた」と記されています。これはたとえば、酒井法子を罪に定める代わりに、覚せい剤の常用という行為を「罪に定める」ということかもしれません。そこから出てくる結末は、酒井法子を徹底的に責める代わりに、彼女を覚せい剤から切り離すという方向です。彼女は暴力団の父から生まれ、覚せい剤に溺れる者を夫としてしまいました。そこで彼女を裁くことが、彼女を暴力団の交わりに追いやることになっては本末転倒です。裁判官は、彼女の肉体が覚せい剤と縁を切ることができる方向に進むようにさばきを下したのではないでしょうか。国民的なアイドルが国民の敵と言われるにふさわしい罪を犯したときに、多くの人々が、彼女への評価を一転させ、偽善者、悪女のレッテルを貼ろうとしてはいなかったでしょうか。しかし、ひとつの失敗で、彼女のそれまでの功績を全面的に否定することになってよいのでしょうか。そこから生まれる神の救いとは、ご自身の御子を十字架にかけることによって、覚せい剤依存という行為を罪に定め、それを用いて「神の敵」となった人を救い出すということでした。そのことをパウロは先に、「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた」(5:10)と言っています。

イエスが十字架で息を引きとられたときに最初に起きたことは、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という不思議です(マタイ27:51)。それは、神がご自身の御子の「肉」において「罪を処罰」してくださったので、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができる」(ヘブル10:19)という意味です。

このローマ人への手紙の中心点は、「神は・・・(御子の)肉において罪を処罰された」ということです。それによって、神は私たちの真ん中に住むことができるようになります。神は、私たちの罪をさばく代わりに、罪の根元にある不安や孤独、渇きなどをともに味わう所まで降りてくださいました。愛は、愛によってしか生まれないからこそ、神はご自身の愛を私たちに溢れるばかりに注ぎ、私たちの内側に神と人への愛を生まれさせて下さったのです。私たちに今、求められていることは、何よりも、この神の恵みのみわざを思い起こすことです。

2. 「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」

  「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む・・(4-8)という教えは、「自分の肉の欲求と戦い、それを殺さなければ・・」という戒めとして読まれがちです。しかし、それは、「むさぼってはならない」という戒めが、「私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」とあるのと同じような空回りを起こさせます(7:7,8)自分のうちに残っている「肉の思い」に心が囚われ、神のかたちに造られた自分を、自分の基準で評価するというアダムの生き方に戻ってしまうからです。人の心は不思議にも、外からのことばに対し、逆の反応をしてしまいがちです。たとえば、「不安を感じるな」と言われ、かえって不安の虜になることがあります。それは、不安を感じるという自分の心の状態から目が離せなくなってしまうからです。それに対し、「御霊による思い」とは、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白させ、私たちのうちに神のみわざへの感謝と、神への愛を起こさせるものです。それに対し、「肉の思い」とは、心の目を自分に向けさせ、欠乏感を刺激するものです。「聖さ」への渇望感と、富や名誉や快楽への渇望感は、「空虚な自分を満たしたい」という自我の欲求という点では同じものになる可能性があります。

それは、自分と人の醜さに悩み、聖さを求めながら40歳で自殺した太宰治の例などをみると明らかではないでしょうか。彼は、自叙伝とも言える「人間失格」で次のように語っています。

「自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の咎を受けるために、うなだれて審判の台に向かうことのような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。」

彼は人間イエスの孤独に深い共感を覚えたようですが、イエスを、「救い主」としてあがめ、「恋い慕う」ということはできませんでした。聖書を必死に読んではいても、父なる神とイエスとの愛の交わりという神秘、神がイエスを通して私たちを恋い慕っておられるという不思議を知ることはできませんでした。ある意味で、自分の感情をもてあまし、自分のことで心が一杯になっていたためでしょう。しかし、このように自分や人の醜さに圧倒されながら自分を見て絶望する前に、神が人となってくださったという面からイエスを見上げることができていたら・・・と思います。そこに、イエスを自分の救い主としてあがめる愛の告白を歌うことこそが御霊に満たされた歩みです。

ですから、何よりも大切なのは、何度も同じ過ちを繰り返す自分を責める代わりに、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡す」ことで「私たちの味方」になってくださった神のみわざに目を向けることです(8:32)。パリサイ人たちは、神に向かって、自分たちがどれだけの良い行いに励んだかをアピールしましたが、それはかえって神を悲しませました(ルカ18:9-14参照)。私たちの同じように自分を神と人とにアピールしていないでしょうか。それを基にパウロは、「肉にある者は神を喜ばせることはできません」(8:8)と言ったのではないでしょうか。

しかし、彼はすぐに読者を励ますように、「あなたがたは肉の中ではなく、御霊の中にいます」と断定しています。私たちは普通、「御霊がこの心の中に住んでおられる」という言い方をしますが、ここでは逆に、私たちが御霊の中にあるというのです。これは、最初に、「キリスト・イエスにある」と言われたのと同じように、「御霊の中に」と言っているものと思われます。なお、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)ということばは、厳密には、「聖霊にある」と記されていますが、私たちは自分で聖霊を心に招き入れた結果として、イエスを主と告白したのではなく、聖霊にとらえられた結果として、イエスを主と告白しているのです。私が聖霊を自由に操るかのように感じると、かえって不信仰な自分に絶望せざるを得ません。

先日の男性の交わりの中で、「自分たちが江戸時代のような迫害にあったら、自分の信仰を全うできるだろうか・・・」という趣旨ことが話題になりました。そこで、「僕は大丈夫!」という人は、ペテロと同様につまずく可能性があります。また反対に、「私は絶対に耐えられません」と言い切ることは霊的な自殺をすることと同じです。しかし、私たちの信仰とは、「私の創造主は、私の信仰を守り通すことができる」ということを信じることです。信仰は神のみわざ、聖霊のみわざです。ですからパウロは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)と記しているとおりです。これがわかると、私たちの信仰生活は、ずっとずっと、余裕のある歩みになることでしょう。

なお、9-11節に「もし・・」が続きますが、日本語では「あり得ないことを仮定する」という意味があるため、「もし、あなたが御霊を受けられたとしたなら・・」と読まれることがあります。しかし、この原文は「・・であれば・・である」という事実関係を述べているだけなのです。ここは、敢えてパウロの本来の意図を明確にするなら、次ぎのように訳すことができます。拙著、「心を生かす祈り」のP360に以下の別訳を記しています。

「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいます。神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに住んでおられるからです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません(ローマ8:9)

キリストの御霊を持ってないクリスチャンなどはあり得ないからです。私たちは「クリスチャンになる!」などと、信仰を自分の働きかのように表現しますが、聖書は、私たちの状態を「御霊の中にいる」と表現しています。

その上で、パウロは私たちの新しいいのちを感動的に次のように記します。「キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます(ローマ8:1011私訳)。かつて、神がイスラエルの民の真ん中に住んでくださったとき、彼らはカナンのあらゆる敵に勝利することができました。そして、ソロモンが神殿を完成したとき、栄光の雲が宮に満ちました。これをシェキナーと呼びますが、その主の栄光は、今、私たちのただ中に住み、私たちの朽ち行く身体を内側から生かしてくださいます。そして、父なる神がイエスを死者の中からよみがえらせたのと同じように、あなたに復活の身体を与えてくださいます。「永遠のいのち」とは、復活のいのちが今、すでに始まっていることを意味します。キリストに起こったのと同じことが私たちにも実現します。私たちの目に見える肉体は滅びに向かっていたとしても、私たちの内側には、すでに新しい御霊のいのちが始まっています。私たちはもう、自分に失望する必要はありません。すでに始まった新しいことに、この身を委ねさえすれば良いのです。

 

3. 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対しては負ってはいません」(12)とは、自分の肉の問題を自分で解決するという「責任」から人を解放するものです。過剰な責任意識は、一見、真面目なようで、「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです(13)と宣告された道です。ハンズ・ビュルキ先生は、「地獄への道は、良い決断で舗装されている」とよく言われました。実際、何と多くの人が、これから心を入れ替えますと言いながら失敗し、自己嫌悪に陥り、自暴自棄になり、あげくに勝手に神に失望して滅びに向かっていることでしょう!

それに対し、「御霊によって、からだの行ないを殺す」(13)とは、自分の内側の肉的な欲求を殺すというよりは、「自分の力で生きる!」という、身体に染み込んだ発想を、「御霊によって・・殺す」という生き方です。それは、具体的には、「主よ。こんな私をあわれんでください」と祈りつつ、すべての問題を神にお委ねし、神の解決を待つということです。これは、水の中に浮かぶことに似ているかもしれません。泳ぎの下手な人は、余計な力が働いて身体が堅くなり、浮こうとすればするほど沈んでしまいます。しかし、力を抜いて沈むのに任せるとき、かえって沈むことができなくなります。なお、それは、自分を怠けさせることではなく、神の語りかけに心を開いて、自分の願いではなく、神が望まれることを、結果を恐れず、黙々と行なうという地道な生き方でもあります。

  それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです」(15)とあるように、神のさばきを恐れながら善行に励むことではありません。つまり、神のからの「愛の鞭?」を恐れ、自分を責めながら生きるのではなく、「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」とあるように、キリストの御霊を受けた私たちも、御子イエスが御父を「アバ」と呼び、御父の愛と善意に信頼して歩まれたのと同じ「愛されている子」の立場にされたという誇りを感じながら堂々と生きることです。

またそれは、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です」(17)と言いかえられます。これは、神が実現する「新しい天と新しい地」において、私たちが「キリストとともに王とされ」、この地を治める立場に引き上げられることの保障です。それを、C.S.ルイスは、ナルニヤ物語というファンタジーで、四人の平凡な子供たちが、アスランによって「王」にされることとして描きました。ですから、何が起ころうと心配する必要はありません。御霊の働きは、このように、私たちの目を、自分ではなく、イエスとイエスの父なる神に向け続けさせるものです。

  多くの人々は、三位一体の神秘を説明はできなくても、祈りの中で体験しています。父なる神と御子なる神の間には、すべてを分かち合う、親密な永遠の愛の交わりがあります。イエスの願いは即座に父なる神に届き、父なる神は無力な赤ちゃんとなられたイエスの命をヘロデ大王から守っておられました。イエスが貧しい「飼い葉おけ」に生まれられたことも、人の罪がもたらした悲劇以前に、父なる神ご自身の御手にあったことでした。私たちが神の子供とされるとは、この御父と御子との愛の交わりの中に招き入れられることです。あなたはそのままでイエスの弟、妹とされています。あなたの傍らにイエスがいて、その祈りを父なる神に執り成してくださいます。聖霊なる神はあなたの内側にいて、あなたの祈りを導いておられます。あなたは三位一体の神の愛に包まれて生かされています。目に見える現実を超えた、神の愛のみわざに思いを向けることこそ信仰の本質です。

  聖書が語るクリスマスの「しるし」とは、クリスマスツリーでもろうそくでもイルミネーションでもなく、「飼い葉おけ」です(ルカ2:12)。ですから、ルターに始まるドイツの賛美歌は基本的に「飼い葉おけ」をテーマとします。その原型は、ルターが子供たちのために作った「天より来たりて」(心を生かす祈りP348)です。そこでは、幼子イエスが、私たちの神、創造主であることが何よりも強調されます。私たちはしばしば、クリスマスストーリーで、その貧しい誕生を悲劇的に描きますが、ルターは、どのような豪華な宮殿のベッドも神の御子を入れるには小さすぎると歌いながら、神の御子は人の目にもっとも貧しい場所を神の国にしてくださったということを強調しています。つまり、神はご自身の御子を、あえて、もっとも暗い場所に誕生させることによって、ご自身の栄光を現そうとしておられるのです。そして、ルターは、私たちの心も、この「飼い葉おけ」にしていただけると歌っています。私たちの心がどれほど暗く、汚れていても、神はそこをご自身の住まいとしながら、内側から作り変えてくださいます。自分から必死に神に近づこうとするのではなく、神が私たちに近づいてくださったことを覚えることこそクリスマスの意味です。「神は、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形でお遣わし」くださいました。それは、私たちの「罪のために」、御子の「肉において罪を処罰」するためした。それは、神は、私たち自身を罪に定める代わりに、私たちを誘惑する罪の力に、また、私たちと神とを隔てる罪に対してさばきを下してくださったという意味です。

自分の欠点を認識し、克服するという生き方は、傷口に絆創膏を張るような応急処置に過ぎません。御霊は、私たちの心を救い主イエスに結びつけます。そのとき、自覚しなくても、主が喜ばれることを行なえます。神の聖なる教えでさえ、人を生かす代わりに殺すという作用を生んだのですから、人間的な教えで自分を生かそうなどというのは土台無理な話しです。それよりは、御霊によって、イエスへの愛の歌を歌い続けましょう!

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2009年12月13日 (日)

ローマ人への手紙7:7-25 「私は本当に惨めな人間です?」

                                           20091213

  約25年ほど前、ドイツが東と西に分かれていた頃、私は車で西ドイツの国境を抜け東ドイツに入りました。国境を越えてすぐの東ドイツの道路は広くまっすぐでした。でもすぐに警察に止められ、速度違反で罰金を払わされました。スピードを出しても安全な道路に、ほとんど見えないほどの速度制限の標識をつけながら、彼らは外貨を稼いでいました。それと同時に、自由に慣れた西側の人間を萎縮させ、従順にさせようとしたのでしょう。

同じような解釈を神の律法に当てはめる人がいないでしょうか。神は最初から守ることができない命令を与え、罰によって人間を萎縮させ、従順にさせようとしている、「神は意地悪な方であると・・・」と誤解している人々がいます。私はかつて旧約聖書に対して同じような矛盾した気持ちを抱いていました。

たとえば、創世記2,3章の記事を読んで最初に疑問に感じたのは、「なぜ神は、明らかに人が食べたくなるような善悪の知識の木の実を園の中央に置いて、人をつまずかせたのだろう・・・」、「それとも神は、これによって人間を脅し、萎縮させようとしているのだろうか・・・。それにしても、神はなぜ、そのように、すぐに罪を犯したくなるような人間を造ったのだろう・・・神は人を欠陥品として造ったのだろうか・・」というような一連のことでした。

実は、それは私だけの疑問ではないようです。パウロがローマ人への手紙77節から25節を記した背景には、彼に投げかけられた二つの疑問があったと思われます。その第一は、「律法は罪なのでしょうか?」(7:7)というものであり、第二は、「人間は、生まれながら善ではなく悪ばかりを望んでいるのだろうか・・・」(7:18,19)というものです。つまり、「教えが悪いのか、人間が悪いのか」という疑問ですが、パウロはその両者を否定しています。

1.律法は罪なのでしょうか?

  キリストは私たちを律法の束縛から解放してくださいました(7:6)。しかし、そのように言われると、「律法」は何か悪いもののように聞こえます。それでパウロは、「律法は罪なのでしょうか?」と問いかけた後で、すぐに、「絶対にそんなことはありません」と強く否定し、律法を擁護します(7:7)。その上で、「私」ということばを敢えて用いながら、アダム以来の人間に共通する傾向を、読者への批判にならないように優しく語ります。

律法の核心は、十戒ですが、その第十番目は、「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」とまとめることができます。それがここでは、「むさぼってはならない・・」と記されています。しかし、彼は、「罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」(7:8)と不思議なことを言っています。

これは、「善悪の知識の木」の実の場合を考えると良く分かります。神は、「園のどの木からでも思いのまま食べてよいと豊かな祝福を与えながら、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と、ひとつの例外を設けることで、かえって、神の恵みを意識させようとされました。これは、空気がなくなるということを前提にして初めて、空気のありがたさが分るようなもので、この限界設定は、神のことばに従う中での自由と喜びを教える意味がありました。しかし、そこで「蛇」は、「この戒めによって機会をとらえ」て女を誘惑し、女の心に、その木の実を欲しくてたまらないという「むさぼりを引き起こし」たのでした。

 そのことが、「罪が私を欺き、戒めによって私を殺した」7:11)と言われます。蛇は、神が「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われた聖なる「戒め」を逆手に取って、人を「死の力」に服させてしまったのです。

同じことがイスラエルの歴史の中で起こりました。神はイスラエルを周りの国々の罪に染まらない理想的な国に育てようとし、そのために愛に満ちた「御教え」としての「律法」を、モーセを通して授けました。そして、最後にモーセは、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と、分り易い二者択一を迫りました。ところが、身近な異教の女たちはイスラエルの男たちを次々に堕落させ、ダビデの子ソロモンまで堕落させました。つまり、アダムもイスラエルも誘惑に負けて、死を選び取ってしまったのです。

パウロは、改めて、「この良いものが、私に死をもたらしたのですか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって極度に罪深いものになりました」(7:13)という論理を展開します。それは、「神の御教え」、つまり「律法」が人間に死をもたらしたのではなく、罪が人間に死をもたらしたということを敢えて強調するためです。

私はモーセ五書、つまり、律法の解説の書のタイトルを、「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って」としました。それは申命記77節のみことばであり、律法の要約は、主がイスラエルを恋い慕って与えた愛の教えであるという意味です。しかし、それと同時に、神はかつて弟アベルに嫉妬しているカインに向って、罪は戸口であなたを待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(4:7)と言われました。

つまり、神が私たちを恋い慕っておられることが明らかになればなるほど、罪が私たちを恋い慕って、私たちを殺そうとする力が働くというのです。しばしば、「私たちが新しい地に教会を建てると、必ずサタンも隣に悪霊の基地を建てる」と言われます。「光」は常に「闇」を浮かび上がらせる力があるように、模範的な親のもとでかえって不良が育つという現実さえあるのです。それを子育ての失敗と呼ぶ人は、「闇」の力を知らない人です。

2.「それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」

その上でパウロは、「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言います。つまり、律法が悪いのではなく、人間にその力がないのです(7:14)

それでは次に出てくる疑問が、神がイスラエルに律法を与えたのは、「豚に真珠」というような無駄なことだったのだろうか・・ということです。それではイスラエルが悪いのではなく、選んだ神が悪いということになるからです。

しかし、イスラエルは豚のように、最初から「律法」を軽蔑したのではなく、神の「愛のことば」として喜んでいました。その現実をパウロは、「イスラエル」と「私」を重ね合わせて、「律法を良いものであることを認め」ながら、「私のうちに住みついている罪」が、私を、「したくない悪を行なう」ように駆り立てていると分析しています(7:16-19)。

たとえばあなたは、ある時には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と聞いて良い気持ちになり、次の時には、「あなたの罪がイエスを十字架にかけたのです」と言われて落ち込むということがないでしょうか。それは、聖書のメッセージが矛盾しているのではなく、あなたの心の中にある相矛盾する気持ちが反応を起こすのです。

私は昔、仕事が思い通りにならなくて自己嫌悪に陥ると、ホテルのスカイラウンジなどに上ってちょっと贅沢な食事をしたくなりました。そこで束の間、世界が自分を中心に回っているような気持ちに浸りたかったのです。それは、「僕って、何て駄目なんだろう」という自分を卑下する気持ちと向き合うのが厭だったからでしょう。

しかし、パウロはここで驚くほど冷静に、アダムの子孫としての「私」の現実に向き合っており、自分を救いがたい人間だと卑下しているわけではありません。人によっては、「お前は生きている価値がない・・」という声を心の中に聴き続け、それを誤魔化すために幻想的な成功の夢へと駆り立てられ、失敗し、さらにひどく落ち込むということを繰り返す人がいます。自分を強がって見せる人は、内側に自己嫌悪の思いを隠しているものです。そのような人は、自分ばかりか周りの人を傷つけてしまいます。自己卑下や自己嫌悪は健全な信仰と相容れないものです。

たとえば、36歳で自殺した芥川龍之介は、24歳のとき、「周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目の当たりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまま生きることを強いられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は憎むべき嘲弄だ」と語っています。それにも関わらず、彼は神を求め続け、彼の最後の枕許には聖書がおいてありました。本当に悲しいことですが、彼にとってはイエスの十字架を仰ぎ見るだけで救われるという福音はあまりにも安易に思えたのではないでしょうか。それは、旧約聖書全体から、イスラエルの不従順にたいする神の痛み、神の葛藤という視点から十字架を見ることができなかったからだと思われます。

何か大きな失敗をしたとき、自分を責める代わりに、自分がアダムから受け継いでいる固有の罪の性質は何なのかを、距離を置いて分析してみると良いのではないでしょうか。ある人にとって簡単に自制できることが、あなたにはできないということがあるでしょう。また反対に、ある人にはとてもできない愛の小さな行為を、あなたはごく自然にできるかもしれません。あなたの中には、少なくとも聖書の教えを喜ぶ心が宿っています。しかし、あなたの中には同時に自分でどんなに頑張っても克服できない罪の性質が宿っているのです。あなたが悪いというより、アダム以来の罪の蓄積があなたのうちにあるのです。ダビデは、家来ウリヤの妻バテシェバを奪い取り、ウリヤを殺した罪に真正面から向き合いながらも、「たしかに、私は生まれたときから咎の中にあり、母が私をみごもったときから罪の中にありました」(詩篇51:5私訳)と自分を支配する罪の力の根深さに思いを向けています。

なお、パウロは、律法は「聖なるもの・・・霊的なもの」(7:12,14)であると言いながら、「罪の律法のとりこ」(7:23)などと、別の律法があるかのような表現を用いています。それは、良い教えがかえってその人の絶望感を深めることにしか作用しないという逆説があるからです。あなたも人から正論を言われて、かえって落ち込むということがないでしょうか。教えが正しければ正しいほど、あなたの絶望感が深くなるということがあります。また、聖書を読むたびにかえって自分が責められているような感じがして、聖書を開けなくなるという人もいます。そして、絶望感はかえって、あなたを「罪のとりこ」にします。その意味で、「聖なる律法」が同時に「罪の律法」となっているというのです。それはすべての人に適用できる原則でもあります。あなた自身が愛されるに価しないのではなく、あなたのうちに住んでいる「罪」が悪いのだと納得することがすべての始まりになります。そして、それがアダム以来から積もっている罪の性質であるならば、人間の力によって勝つことができないのはあまりにも明らかなことです。

今、静まりながら、「もし私が自分でしたくないことを行なっているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住み着く罪です(7:20)というみことばを心から味わって見ましょう。そこにあるのは、自分の責任を否定する思いではありません。また自分は救いがたい愚か者だという自己卑下や敗北主義でもありません。それは祈りの始まりです。自分で罪に勝つことができないからこそ、神の助けを求め、神にすがるのです。

実際、パウロはこの箇所の結論として、「私はほんとうにみじめな人間です」と言いつつ、アダムの子孫である私たちはすべて、自分の力で自分を罪の支配から解放することができないということを認めた上で、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と、キリストにある救いを喜び賛美しています(7:24,25)

3. 新しい律法という預言の成就

 714節で、「律法が霊的なものと記されていました。そして、霊的な教えは肉的な努力によっては守ることはできません。ただ、霊的な教えは、神の霊によってしか全うすることができないということを認める必要があります。ですから、申命記30:6、エレミヤ31:32,33、エゼキエル36:26,27などを代表に、旧約の至るところで、神はイスラエルが失敗した後で、神ご自身が彼らを内側から造りかえてくださると約束しておられます。7章最後でパウロは、「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」と記していますが、私たちを内側から動かす肉の束縛から解放するために、キリストは私たちと同じ肉をとってくださいました。自分で自分を変えようと空回りを起こしている私たちを救うために、神ご自身のほうから私たちに近づいてくださったのです。

たとえば、タバコを吸う人で、それが自分の身体に悪いということを知らない人はいないでしょう。しかし、どんなにわかっていても、自分の肉体がそれを欲し、意思を動かしてしまうということがあるのではないでしょうか。つまり、問題は知識が足りないのではなく、肉が意思を動かしてしまうという現実をどうするかということなのです。そのとき、「あなたはなぜタバコをやめられないの・・・そんな意志薄弱な人は信頼できません」などと説教したところで、何の効果もないばかりか、かえってその人のプライドを傷つけ、自己嫌悪を加速させて自分を変えようという気力を失わせるばかりか、そのような侮蔑的なことばを発する人への憎しみが増し加わるだけではないでしょうか。

そのようなときに、神は、上から指導する代わりに、ご自分の御子を「罪深い肉と同じような形でお遣わし」(8:3)くださいました。それは、創造主ご自身が、私たちの罪を一挙にさばく代わりに、罪の根元にある不安や孤独、渇きなどをともに味わう所まで降りてくださったばかりか、心の内側から造り替えようとしてくださったということです。

そして、エレミヤ書に記された最も画期的な福音が、「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」(31:31)と描かれます。これこそ「新約」の由来です。それは、まず第一に、「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった」(31:32)と描かれながら、その上で、「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33)と記されます。

パウロはこの表現を用いながら、福音から離れそうになっているコリントの信徒に向けて、「あなたがたは・・・キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた・・・文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:3,6)と励ましています。律法の核心である「十のことば」「石の板」に記されましたが、イスラエルの民はそれを守ることができず、自分自身で「のろい」を招いてしまいました。それをパウロは「文字は殺し」と表現しました。それに対し、この新約の時代においては、神が私たちのうちにご自身の「御霊」を与え、私たちの心を内側から作り変えてくださるというのです。もちろん、私たちが自分の心の内面を見るとき、御霊の働きを感じられないことの方が多いかもしれません。しかし、私たちが、「私の心は何と醜く、空っぽなのだろう・・・」と認めていること自体の中に御霊の働きがあるのではないでしょうか。なぜなら、パリサイ人のように、「私は善意に満ちている・・」と思っている人の「心」を、神は満たすことはできないからです。

そして今、「そのようにして、人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」(エレミヤ31:34)という預言が実現しつつあります。私たちは、自分の回心の体験を振り返るとき、一方的に新しい知識を教え込まれたという以前に、不思議な力が働いて、心の中にイエスの救いを慕い求める思いが沸いてきたのではないでしょうか。それは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:1)とある通りです。そして主は、そのときに起こることを、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」と言っておられますが、それこそが十字架のみわざです。私たちは、御霊の働きを、誰の目にも霊的な立派な人に変身させることと考えがちですが、救いの目的は、「わたしを知る」と記されています。つまり、主との交わりの回復こそ御霊の働きの中心です。

たとえば、私にとって、聖書の最初の五つの書、つまり、モーセ五書は無味乾燥なばかりか自分を落ち込ませるだけの教えでした。しかし、今、それは、「主が私を恋い慕って」おられるという愛の教えに変わりました。同じ教えなのに、その意味が自分にとって百八十度変わったのです。同じことがあなたにも起きていることでしょう。

それは、神が私たちに御霊を遣わし、私たちを内側から造り変えてくださったからです。私たちは、今、御霊に導かれることによって、神の律法を喜び、律法を実行し、それによって生きる者とされたのです。

私たちはアダム以来の肉の力に縛られて生きています。せっかくの良い教えを聞いても、それを実行することができませんでした。それは、罪が肉に住み着いているからです。ところが、神はご自身の御子を女から生まれさせて私たちと同じ肉を引き受けさせたばかりか、私たちすべての罪を御子に負わせ、「肉において罪を処罰され」、私たちを「罪の奴隷」状態から解放してくださいました。愛は、愛によってしか生まれないからこそ、神はご自身の愛を私たちに溢れるばかりに注ぎ、私たちの内側に、神と人への愛を生まれさせて下さったのです。私たちに今、求められていることは、何よりも、この神の恵みのみわざを思い起こすことです。私たちの目に見える肉体は滅びに向かっていたとしても、私たちの内側には、すでに新しい御霊のいのちが始まっています。私たちはもう、自分に失望する必要はありません。すでに始まった新しいことに、この身を委ねて歩みさえすれば良いのです。

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2009年12月 6日 (日)

創世記3:13-24 「世界のうめきを聞き、救いを待ち望む」

救い主は二千年前にこの地に降りてこられました。しかし、この地は、今も救いを待ち望んでいます。アダムが、神が禁じた「善悪の知識の木」から「その実を取って食べ」てしまってから(創世記2:17,3:6)、その結果として起きた世界の矛盾は今も基本的に変わらずに残っています。そこに被造物全体の「うめき」があります。ただ、キリストの降誕以来、それは希望に満ちた「産みの苦しみ」に変えられています。私たちは、世界のうめきと希望の両方を見る必要があります。

クリスチャン精神科医のトゥルニエは、スイスの教会の現状を、「過半数は生気がなく、もの悲しげで疲れた心の持ち主によって占められている。信心深いと思われる人々の中に、人間として成熟した人格を持っている人はごくわずかしかいない・・・」と嘆いていました。彼らはしばしば、「アダムは戒めを守るのに失敗して罰を受けたから、私たちは今度こそは失敗してはいけない・・・」という、神の罰を恐れる神経症的な読み方しかできません。しかし、堕落の記事に際立っているのは、神の権威に挑戦した人が一転して「私こそ犠牲者だ!」と訴える幼児的な姿ではないでしょうか。彼らは大人として造られたのに、子供になってしまいました。善悪の知識の木は、神への主体的な愛の告白の場となり得たはずでした。しかし、彼らはそれを神の意地悪と受けとめ、次々と自分の責任を回避し続けました。それこそが悲劇の始まりでした。

1. さばきとともに与えられた希望  

神であるが、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と、事実を問われた時、人は、自分の過ちを認める代わりに、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので・・」と答えました(3:11,12)。神は、敢えてそれ以上問い詰めずに、女に、「あなたは、いったい何ということをしたのか」と問いました。女は、男と同じように責任転嫁をし、「蛇が私を惑わしたので・・」と答えます。彼らは、自分たちの責任能力を否定しています。神のようになりたいと思った人が、自分を野の獣以下におとしめたのです。今も、多くの人が、自分のあやまちを、親や環境のせいにしています。しかし、それは、「私は人間であることをやめます」と宣言するのにも等しいことではないでしょうか。「責任」は、英語でResponsibilityと表現されますが、これはResponse(応答)するability(能力)を意味します。これこそ、「神のかたち」の基本です。ところが、人は、神の問いかけに正面から答える代わりに、自分を「無力な被害者」に仕立て上げてしまいました。神は、過ちを犯すことも自分の弱さも恥じる必要もない方ですが、皮肉にも、神のようになった人間は、それによって自分の過ちも弱さも認めることができなくなったのです。

もし、アダムやエバが、正直に、「私は罪を犯しました。赦してください」と言うことができたとしたら、歴史は変わっていたことでしょう。しかし、そのように自分の弱さを認めることができなくなるということが、彼らが自分を神のようにした当然の帰結でした。そして、今、彼らの子孫も、自分を犠牲者だと言い張って、自分をおとしめてしまいます。

「神のようになり、善悪を知るようになる」とは、自分を世界の中心、善悪の基準にして、まわりを非難する生き方の始まりでした。そこにおいて、最初に創造された男と女は、エデンの園における、「神のかたち」として調和を、自分から失ってしまいました。私は最初、この箇所を読んだとき、善悪の知識の木の実自体に何かを起こす力があったのかと誤解しました。しかし、神は、エデンの園に毒りんごを植えるような方ではありません。「善悪の知識の木」から取って食べるという行為自体が、人を害してしまったのです。それは神の競争者になるという意思の表明に他ならなかったからです。

その上で、神はまず諸悪の根源となった蛇に対しさばきを下されます。蛇は最も賢い野の獣でしたが、今や、最ものろわれた獣となり、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べざるを得なくなりました。その際、蛇に直接語りかけはしません。それは、神は、神のかたちに創造された人間とは対話をされても、野の獣とは対話をなさらないからです。それにしても、蛇にさばきがあるなら、さばきの対象となり得ないほどに責任能力のない人間はいないということが断言できます。

ところで、神はさばきの前に、ひとつの希望を語ります。15節はしばしば原始福音と呼ばれます。まず、蛇の子孫と女の子孫との間に敵意が置かれることで、人はさらなる蛇の誘惑から守られます。そして、これはまた、女の子孫として生まれる救い主が、かかとを噛み付かれるような傷を負いながら、蛇の背後にいたサタンの頭を踏み砕くことと理解されます。イエス・キリストは非業の死を遂げたようでも、それはかかとの傷のようなものに過ぎません。なぜなら、主は三日目に死人の中からよみがえられたからです。一方、これによってサタンの敗北は決定的なものとされました。イエスにつながっている者は、すでに「死からいのちに移って」いますから、サタンはもう、死の力で人間を脅すことはできなくなりました。

そして、女へのさばきは、エデンの園の外にいる私たちすべてを支配している現実です。その第一はみごもりの苦しみが大いに増し加わることです。それはエバに由来します。ある方は、出産の激しい苦しみの中で、ふと、これは自分の身体の問題以前に、エバの責任なのだと示され、気が楽になりました。なお出産は女性に与えられた最大の喜びですが、神はそこに痛みを伴わせました。ですから、私たちは、苦しみを避けて喜びだけを味わうことができなくなりました

また、第二は、妻は夫を恋い慕いつつも、夫の権威の下に置かれるということです。「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」とは、愛を求めながら、そこに力関係が働くことですが、これは互いが自分を神としたことの当然の帰結と言えましょう。そして、これは交わりを求めながら、交わりによって傷つけられるというすべての関係の原点でもあります。ですから、夫婦関係は、順調に行かないのが当たり前です。うまく行かないのは、あなたの伴侶が悪いからではなく、アダムとエバが神の競争者になろうとしたことにあります。私たちは、だれしも、人との親密な関係にあこがれながら、そこに支配関係が入り込むことを悩んでいます。そして、今や、互いの主体性を尊重する夫婦関係なら、そこに争いが生まれるのは避けがたいこととさえ言えましょう。人生は、矛盾と皮肉に満ちています。しかし、希望があります。神の御子ご自身が女のからだから生まれ、女の子孫としての人生を生き、解決を備えてくださったからです。

神の御子キリストは、死に至るまで神に従順に生き、また、弟子たちの足を洗うほどに仕える生き方を示されました。そして、男にも女にも、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」と命じながら、特に妻に対しては、「主に従うように自分の夫に従いなさい」と言われました(エペソ5:21,22)。これは妻に、従うことにおいて主導権をとらせるということです。夫は威張りたがるものです。それをたしなめる代わりに、従順の模範を示すことで、夫は自分の愚かさに気づくのです。

  

2. 一生、苦しんで食を得る

  土から造られた人()に対しては、その源である「土地があなたのゆえにのろわれてしまった」ことで、「一生苦しんで食を得・・顔に汗を流して糧を得、ついには土に帰る」と宣告されました(3:17-19)。アダムに対するさばきの宣言において、神は、「あなたが、妻の声に聞き従い・・・」(17)と、彼が自分の責任能力を否定したことを問題にしました。神の命令を聞いたのは、妻ではなく彼自身だったからです。アダムは、土地(アダマー)を管理する責任が委ねられていましたが、自分の責任を放棄したとき、土地はのろわれたものとなりました。これこそ、すべての環境破壊の原点です。

「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」とは、すべてのアダムの子孫が、この地に生きる限り避けられない現実です。私たちはみな、仕事がうまく行かないと、上司を、会社を、また政治を非難します。しかし、第一に非難されるべきなのはアダムなのです。そこでは、豊かな土地を作ろうとしても、かえっていばらやあざみが生えて、労力が無駄になります。実際、人間を楽にするはずのコンピューターの発達が、かえって情け容赦のない、機械的な時間に追われる職場環境を作り出しました。私たちは、文明の発達が労働を楽にするということが幻想に過ぎないことを実感しています。この世界では、ひとつの問題の解決が、必ず、新しい問題の原因となるからです。そして、歴史の発展に関わらず、決して変わり得ないこと、それは、人は、この地上生涯の最後には、たったひとり裸で葬られて土に帰るという現実です。

私たちは、本来、神のかたちとして、仕事を喜ぶことができたはずでしたが、仕事に苦しみと空しさが入ってきたのは、アダムが自分を神のようにした結果だったのです。そして、今、自分を神として生きようとするすべての人は、一見、たくましく生き生きと仕事をしているようであっても、それによって心の渇きが増し加わるだけで、真の喜びを体験することができなくなります。しばしば、真面目な信仰者にかぎって、仕事を楽しむことができないのは、自分の信仰が未熟なせいではないかと自分を責めますが、それはかえってせっかくの信仰生活に無用な葛藤を生み出すだけではないでしょうか。仏教の教えが、人生の四苦八苦を理解することから始まるように、苦しみを正面から受け止め、仕事の中でうめきながら、主に祈ることが何よりも大切です。主のみこころは、仕事を喜ぶということ以前に、強がりを捨てて主にすがることです。神の助けなしに仕事を正しく行うことができないと認めることです。そして、仕事において、主のあわれみを体験する中で、徐々に、その仕事は主から与えられたものであり、主はそこでご自身の栄光をあらわしてくださるということがわかります。それらの結果として、仕事を誠実に行うことが主に仕えることに他ならないということが見えてきます。

ペテロは、横暴な主人に仕えること、また、善を行いながら不当な苦しみを受け、それを耐え忍ぶことが、何よりも、キリストの御跡に従うことだと言いました(Ⅰペテロ2:18-20)。そして、キリストは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(2:23)。私たちに求められているのは、成果を出すこと以前に、目の前の課題に誠実に向き合うことです。私たちの労苦の実を横取りする人がいたとしても、それは大昔から常に起こっていた不条理であり、人の知らないようなものではありません。しかし、主は必ず、ご自身の時に、すべてを正してくださいます。それが、「正しくさばかれる方に任せる」ということです。これは決して、泣き寝入りすることの勧めではありません。涙を流しながら、この世の不条理を必死に主に訴え、さばきを求めることこそ主のみこころです。そのとき、主は、目の前の問題を一挙になくす代わりに、一歩一歩、道を開いてくださるということが見えてくることでしょう。

3.逃亡を続ける者に皮の衣を与えてくださった神のあわれみ

  ところで、アダムは、これらのさばきの宣告を聞きながら、人は、「必ず死ぬ」との神のさばきに対抗するようなことをします。「人は、妻の名をエバと呼んだ(3:20)とあるのは、彼が妻を支配する者となったということの象徴です。それは、人がすべての生き物に名をつけたのと同じ行為だからです。しかも、エバとは「生きている」を語源としますが、これは、「必ず死ぬ」という宣告への反抗です。彼は、それに、「すべて生きているものの母」という意味付けをしましたが、それ以来、人は、「ちりに帰る」という現実を直視する代わりに、自分のいのちの証しを、家の存続や子孫の繁栄に見出し、そこから慰めを得ようとします。アダムは、ここにいたってもなお、神の御前から逃亡を続けながら自分の幸せをつかもうとしています。それは、女に対する支配権の主張とともに、新しい命を生み出して死を乗り越えようとする意思の表明です。

  私たちは、「もっと能力があったら・・・もっと職場環境がよくなったら・・・」などと期待します。たしかに、安易に現状に甘んじることは避けるべきですが、エデンの園の外における改善には終わりがないという現実も、しっかりと受けとめる必要があります。安息日を犠牲にしてまで、また、家族や人との交わりを犠牲にしてまで、働き続けることは本末転倒です。肉体はちりに帰りますが、神との交わりは、永遠に続くものです。今、このとき、神は、この地の矛盾を指し示すことによって、人々を神のみもとに招いておられます。神を離れて、人はだれも幸せにはなれないからです。

それにも関わらず、(ヤハウェ)は、その反抗に、愛をもって答え、彼らが恥じて逃亡しないようにと「皮の衣を作り、彼らに着せて」くださいました(3:21)。それは、彼らが立ち止まって、主ご自身に向き合うことができるようになるためでした。アダムは、「私は裸なので・・・」と言って、神の御前から逃亡を重ねていたからです。神は、彼らの首根っこをつかみ、「おまえたちのやったことの結果を思い知らせてやる!」などと力で屈服させようとはなさいませんでした。かえって、裸を恥じ、恐れている気持ちに寄り添って「いちじくの葉」の代わりに「皮の衣」をくださったのです。それは、神ご自身が彼らの弱さを覆ってくださるのとの招きでした。「皮の衣」の背後には、動物の犠牲がありました。神は、人がご自身の前から逃亡しようとすることを優しく引きとめるために、動物の犠牲の血を流すことまでやってくださったのです。

それは、自分を神のようにした結果として生まれた恥の感覚を大切にさせようとの主のあわれみでもあります。私たちは、恥の痛みにおいて、自分の本質的に孤独で頼りない者であることを意識し、自分が根源において、神から引き離された存在であることを覚えることができます。人は、痛みを感じなければ、救いを求めることもないのが現実だからです。

痛みの感覚は、とっても不快なものでもありますが、同時に神が与えてくださった賜物でもあります。ですから、私たちに与えられた救いは、痛みを感じなくてすむことではなく、痛みにまさる喜びが与えられることです。恥の痛みと良心の呵責は、人を神の前に導くための神から与えられた受信機のようなものです。それを感度のよい状態に保つのが私たちの責任です。ですから、信仰の成長は、悲しみや痛みがなくなることでは決してありません。悩むことのない人間になってはいけません。悩みながら、迷いながら、主の導きを求めることこそ、主のみこころと言えないでしょうか。

 

4.閉ざされたいのちの木への道とキリストによって開かれる道

22節は、「人は、われわれのようになった」とは記されていません。人は、御父、御子、御霊が永遠の愛の交わりに生きておられるようになったのではなく、ただ、自分を神の「ひとり」のような立場にしたからです。人は、被造物としての立場を超え、神と人とをさばく者になっていました。ひとりひとりが、神に代わって自分の正義を主張するなら何が起こるでしょう。先日、自分のペットが殺されたことを恨んで、厚生省の役人を殺害した人の裁判が行われました。被告人は不思議な論理を展開しながら、堂々と自分の正義を主張していました。人間は、見知らぬ人を殺害することさえ正当化できるのです。私たちだって振り返ってみると、身勝手な論理を展開しながら自分の過ちを正当化した記憶がないでしょうか。それを思うとき、自分を神のひとりのようにすることが、どれだけ社会に混乱と争いを起こすことになるかがわかります。

なお、主は、神のひとりのようになった人間が、「今・・手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と言われながら、「人をエデンの園から追い出され」ましたが、「いのちの木」が必要になるのは、人が善悪の知識の木から取って食べ、死ぬべき者となってしまったからに他なりません。そして、自分を神とした人間は、神の設定された限界を無視し、いのちの木から取って食べることによって神のさばきから逃れようとするのは明白です。しかし、それは、人がサタンになることに他なりません。神はそれを防ごうと思われたからこそ、人を追放して、いのちの木への道を、ケルビム(神のかたわらでさばきを執行する最高の天的存在)と輪を描いて回る炎の剣によってふさぎました(3:24)

ただ、同時に、それはすべての人が楽園を失い、苦しみながら死に向かってゆくという空しい生活の始まりでした。それは、本来の神の創造の意図ではありませんでした。(ヤハウェ)は、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言っておられたのに、人はそのことばを軽蔑して自分から死を選び取ってしまいました。今、エデンの園の外に住むすべての私たちは、「必ず死ぬ」ように定められています。死の問題は、決して、人間の力では解決できない現実です。それをパウロは「罪によって死が入り、こうして、死が全人類に広がった」(ローマ5:12)と語っています。

もし、アダムが、すぐに悔い改めたなら、いのちの木への道が開かれたかもしれません。しかし、アダムは神の前から逃亡を重ねました。ですから、神は、わざわざ、皮の衣によって、彼の逃亡をやさしく食い止めるとともに、みこころを痛めながら、彼らをエデンの園の外に追い出されました。神のようになった人間は、神の前に謙遜になることができなくなりました。神が今、人に苦しみを与えておられるのは、ひとりひとりが自分の弱さに向き合い、自分の創造主を慕い求めるようにさせるためです。神は、今、人がエデンの園の空しい人生の中で、自分の過ちに気づき、神のもとに立ち返ってくるようになるのを待っておられます。救いへの道は、きよい生活をすること以前に、神に立ち返ることから始まります。

しかも、だれも自分の努力によって永遠のいのちを得ることはできません。ただ、人が神に立ち返ると同時に、神である方ご自身が、いのちの木への道を開いてくださるのでなければいのちを得ることができません。そして、その道を開いてくださったのがイエス・キリストです。そして、イエスは終わりの日に、「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう」(黙示録2:7)と約束してくださいました。私たちは、もうエデンの園に戻ることはできませんが、神は、キリストによって、それにまさる、新しい都エルサレムを用意してくださいました。そこにはいのちの水の川が流れており、川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができるのです(黙示22:2)。

ですから私たちは、イエスにつながることなしに救いを得ることはできません。もし、私たちが自分こそがアダムの子孫であることを認め、自分の努力では自分を救うことができないとイエスにすがるときに、イエスは、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と安心させてくださいます。アダム以来の恥の感覚は、今はしばしば、「見捨てられ不安」とも表現されることがありますが、イエスにつながる者は、見捨てられる心配はないのです。

私たちと同じ人間になり、十字架にかけられ死んで、復活されたイエスは、私たちに、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と約束してくださいました。ですから、もう死の力が、私たちと神との交わりを引き裂くことはできません。それこそが、キリスト者に与えられた「永遠のいのち」の意味です。

神は過ちを犯すことがありません。しかし、自分の意思で過ちを繰り返してしまう人間が、神のようになるとき、それは、自分の責任と過ちを認められないかたくなさ、神の御前からの逃亡になりました。しかし、イエスは、私たちが自分の罪を認めることができる前に、一方的な赦しを宣言してくださいました。私たちは、悔い改めた結果として神の赦しを得るのではなく、神の赦しを知った結果として、大胆に悔い改めることができるようになったのです。なぜなら、「罪にさだめようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)と記されているからです。そして、私たちは、もう自分を強がることなく、自分のうちに働くキリストの力によって「私が弱いときこそ、私は強い(Ⅱコリント12:10)と告白しつつ、失敗を恐れることも、神のさばきも恐れることなく、自由に大胆に自分に与えられた使命を全うすることができます。

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2009年12月 1日 (火)

エゼキエル29-32章「伝統的権威の罠」

                                               20091129

  古代エジプトと日本には共通点があります。それは、すべての異国の文化を飲み込み、自国化するということです。古代エジプト文明は約三千年続いたと言われますが、最後の三百年間はアレキサンダー大王の後継者によるギリシャ人が支配する王国でした。しかし、最後の女王クレオパトラの例にも見られるように、彼らはエジプトの太陽神、またその文明の後継者となることによって国を治めていました。日本の歴史は1500年ぐらいのものですが、天皇家が独特の権威を保ち続けております。今の日本人にとっても天皇から勲章を受けることを最高の名誉となってはいないでしょうか。そのような中で、日本のキリスト教会も、知らないうちに日本文化の中に飲み込まれる恐れがあります。別に、天皇の権威を否定したら、日本化から自由になるというのではありません。知らないうちにキリスト者が日本人的な発想に飲み込まれ、日本の教会を無力化してはいないでしょうか。ある宣教師が、日本の多くの教会は日本のどの共同体よりも日本的になっているような気がすると書いておられました。日本人の心の中にも無意識のうちに太陽神である天照大神(アマテラスオオミカミ)の神話が生きているのかもしれませんが、ヨハネの福音書1章には、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた・・・この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハネ1:9,12,13)と記されています。私たちは血筋や人間の能力という基準から自由に生きられるように新しく生まれていることを忘れてはなりません。

1.「川は私のもの。私がこれを造った」という者にたいする神のさばき

「第十年の第十の月の十二日」(29:1)とは、エルサレムがバビロン軍によって包囲されている最中、城壁が破られる半年前のことです。エルサレムのゼデキヤ王を初めとする指導者たちは、南のエジプトが救援に駆けつけてくれることに一抹の望みをかけていました。そのような中で、今、バビロンに捕囚とされている預言者エゼキエルは、エジプトが神ご自身によってさばかれることを預言しながら、人々の心を主に向けさせるように召されています。

そこで、主は、「エジプトの王パロ」を、「自分の川の中に横たわる大きなわに」にたとえます(29:3)。「大きなわに」とは創世記1:21の「海の巨獣」と同じことばで、多くの英語訳では、「ドラゴン(竜)」と訳されています(新改訳脚注)。そして、「竜」は黙示録では「サタン」の象徴です。とにかく、この中心点は、パロが自分をナイル川の創造主であるかのように振舞って「川は私のもの。私がこれを造った」(29:3,9)と言っていることを非難したものです。

古代エジプト文明は紀元前2900年から紀元前340年頃まで30もの異なった王朝が支配していましたが、不思議に、それまでと全く異なった地域の者が支配権を握っても、エジプトの王パロとしての宗教的権威は受け継がれているかのように見えます。つまり、王家としての連続性はまったくないにも関わらず、文化的にはひとつの国が三千年近く続いているように見えました。エゼキエルの時代のエジプトは第26王朝、ナイル川下流のデルタ地帯の西側から生まれたサイス朝で、アッシリヤの勢力を追い返し、パレスチナに支配権を広げていました。パロ・ネコは紀元前609年にユダの王ヨシヤをメギドで破りましたが、その後は新興国のバビロン帝国の勢力に圧倒され続けていました。そして、このときのパロはユダヤ人の反乱を援助することによってバビロンに対抗するという政策を続けていました。ちなみに、紀元前525年からはエジプトはペルシャ帝国の支配下に入りますから、この第26王朝がほとんど最後の独立王朝と言えます。簡単に言うと、このときのエジプトは、力が二流なのにプライドだけは一流という状況で、その伝統的な宗教的権威に多くの人が惑わされていたと言えましょう。

 それに対して主は、エジプトに対する厳しいさばきを宣告されますが(29:4-6)、それはナイル川の創造主、また所有者はパロではなく、主(ヤハウェ)であるということが明らかにするためです。エジプト文明の母はナイル川ですが、その真の支配者は「イスラエルの神、主(ヤハウェ)」であるというのです。

そして、主は、そのさばきの理由を、「彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかったからだ。彼らがあなたの手をつかむと、あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。彼らがあなたに寄りかかると、あなたは折れ、彼らのすべての腰をいためた」(29:6、7)と言われます。エジプトの葦は日本のものよりはるかに大きく、それで小舟を作ることもでき、丈夫な茎は測りざおとして使われました。しかし、同時にそれは折れやすいものなので、「葦の杖」とは期待を裏切るものの代名詞ともなっています。

かつて、アッシリヤの王は、エルサレムの独立を守ったヒゼキヤ王に向かって、「おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ」(イザヤ36:6)と言いましたが、それは事実を含んでいます。ヒゼキヤは主に拠り頼みましたが、このときのエルサレムの王ゼデキヤはエジプトという見せかけの権威に騙されて、国を滅亡させようとしていました。ここで、主は、そのような淡い期待を抱かせるエジプトの責任を問うています。

そして、主は、「わたしは、あなたにもあなたの川にも立ち向かい、エジプトの地を、ミグドル(ナイルデルタ東の要塞地)からセベネ(エジプト最南端の町)、さらにクシュ(エチオピア)の国境に至るまで、荒れ果てさせて廃墟にする。人の足もそこを通らず、獣の足もそこを通らず、四十年の間だれも住まなくなる」(29:10と宣告されました。ここで40年とは、長い期間を指す象徴的な意味があるのだと思われます。ただし、主は、「四十年の終わりになって、わたしはエジプト人を、散らされていた国々の民の中から集め、エジプトの繁栄を元どおりにする(29:13、14)とも約束されております。しかし、これは彼らの昔の栄光を取り戻せるという意味ではないことを示すために、「彼らをその出身地パテロスの地に帰らせる。彼らはそこで、取るに足りない王国となる。どの王国にも劣り、二度と諸国の民の上にぬきんでることはない。彼らが諸国の民を支配しないように、わたしは彼らを小さくする(29:14、15)とも言われます。「パテロス」とは、「テーベ」(新改訳「ノ」)を中心としたナイル上流の貧しい地ですから、これは北から起こったサイス朝に代わって北からの勢力が届きにくい南を中心とした小さな王国として存続を許されるという意味です。主は、「わたしは彼らを小さくする」と言っておられますが、イエスご自身も何度も、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と言われました(ルカ18:14、マタイ23:12)。

そして、主が何よりもエジプトを小さくする目的は、「イスラエルの家は・・もう、これを頼みとしなくなる」(29:16)という状況を作るためです。私たちのまわりにも、伝統や見せかけの権威が多く存在します。彼らも自分たちの力を誤解していますし、私たちも時に、そのような誤解を持ってしまいます。しかし、世界のどの王家が何千年もの権威を保っていることでしょう。日本の天皇家などは例外的な存在と見えますが、それも1,500年程度の歴史で、政治的な権力を持っていたのはごく短期間に過ぎません。しかも、源義経、新田義貞、明智光秀など、かつての天皇家の権威に信頼した者たちはことごとく非業の死を遂げてきたというのが現実ではないでしょうか。

2. わたしはバビロンの王の腕を強くし・・・パロ(伝統的権威)の腕を砕く。

 「第二十七年の第一の月の一日」(29:17)とは、紀元前570年のことで、エルサレムが滅亡し、ユダの残りの民がエジプトを頼って逃亡した後のことです。「バビロンの王ネブカデレザル」は、エルサレムを滅ぼした後、ツロを13年間包囲しながら、陥落させることができず、兵士に報酬を与えることができませんでしたが、それに対し、主はエジプトの「富」を彼らへの報酬として与えるというのです(29:18、19)。不思議にも、主は、エルサレムを滅ぼし、ツロを攻撃したバビロン軍について、「彼らがわたしのために働いたからだ」(29:20)と言っておられます。

  神は、伝統的権威の化けの皮をはがすために、新興勢力を用いられます。源頼朝にしても、足利尊氏にしても、織田信長にしても、日本の伝統的権威の無力さを顕にした人たちではないでしょうか。現代の日本も閉塞感に満ちていると言われますが、神は伝統的な権威から自由なあなたを用いることがおできになります。

  30章1-10節では、主がネブカデネザルを用いて、エチオピアからリビヤ、トルコ、アラビアなどエジプトの同盟国をエジプトとともに滅ぼすかの印象を与えますが、彼はエジプトを軍事的に占領することはできませんでした。ネブカデネザルという名は、神の器の代表者として描かれていると解釈すべきでしょう。実際には、その後、ペルシャ帝国がエジプトを占領し、また、その後はアレキサンダー大王に導かれたギリシャが中東からエジプト全域を占領し、最後は、ローマ帝国によってエジプト最後の女王クレオパトラが滅ぼされます。この中心点は、主ご自身がすべての歴史を支配しておられ、「わたしはナイル川を干上がった地とし、その国を悪人どもの手に売り、他国人の手によって、その国とそこにあるすべての物を荒れ果てさせる」(30:12)と言っておられることにあります。その際、主は、「わたしは偶像を打ちこわし、ノフ(ナイルデルタの南、別名メンフィス、ピラミッドの多い地域)から偽りの神々を取り除く。エジプトの国には、もう君主が立たなくなる」(30:13)と語っておられます。

 「第十一年の第一の月の七日」(30:20)とは、紀元前586年4月、エルサレム陥落の数ヶ月前のことだと思われます。そのとき主は改めて、「わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしの剣を彼の手に渡し、パロの腕を砕く。彼は刺された者がうめくようにバビロンの王の前でうめく」(30:24)と、エルサレムの民に向かって、エジプトに望みをかけることをやめさせ、バビロンにへりくだることを勧めています。エジプトは二千年以上も続いている権威ある王国で、富と力と技術力において世界最高の国と思われました。それに対して、バビロンの王ネブカデネザルは軍事力だけを頼りにのし上がってきた新興国です。通常の人間は、そんな成り上がり者の前に頭を下げることを厭います。しかし、彼こそは神が遣わした器でした。あなたの前にも、伝統的権威を持つエジプトと、力だけを頼りにのし上がってきたバビロンがあるかも知れません。その際、人間的な教養に囚われすぎると判断を誤ります。

  三千年続いたエジプト王国も、最後の千年間、国の内部は腐りきっていました。王族たちは互いに足を引っ張り合い裏切りや陰謀が日常茶飯事でした。伝統的権威は腐敗した内部をカムフラージュするために用いられていました。今も昔も、実質的な力のない者が権威を主張するほど滑稽なことはありません。「錦の御旗」などの例にもあるように、伝統的権威は、力がある者が自分の権力の正当性を主張するために用いるものに過ぎません。

冷静に見ると、この世界では、伝統的権威よりも、知恵と力のある者が勝利を収めていますが、宗教は基本的にそれに目を背けさせる方向に働きます。マルクスは、「宗教は人民のアヘンである」と言いましたが、確かに宗教は、現実を直視させることを妨げ、時代の新しい変化に盲目にする方向に作用してきました。ですから、キリスト教会が、日本のどこよりも日本的であるということがあり得るのです。しかし、真の福音は、常に、見せかけの権威や、世の偽善を顕にし、人間に最も大切なものを提示し、世界の変革をリードする力に満ちたものであるはずです。

私たちの信仰は、負け犬の遠吠えのようなものではありません。パウロも想像を絶する困難の中にありながら、決して被害者意識に囚われることなく、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と言いました。神は、伝統的権威を主張するエジプトを退け、新興国バビロンと折り合いをつけて生きるように命じられました。神は、あなたの傍らに、そのような世界を変える力を置いておられます。

3.その心がおごり高ぶったから、わたしは、これを諸国の民のうちの力ある者の手に渡した

 「第十一年の第三の月の一日」(31:1)とは、エルサレムが陥落する約40日前です(エレミヤ52:6参照)。主はエゼキエルに、「エジプトの王パロと彼の大軍」に向かって、「あなたの偉大さは何に比べられよう」と言いながら(31:2)、それをバビロンによって滅ぼされたアッシリヤ帝国に比較します。そして、「見よ。アッシリヤはレバノンの杉。美しい枝、茂った木陰、そのたけは高く、そのこずえは雲の中にある・・・その小枝には空のあらゆる鳥が巣を作り、大枝の下では野のすべての獣が子を産み、その木陰には多くの国々がみな住んだ」(31:3、6)と、その栄光が描かれます。しかも、主ご自身が、その美しさを、「神の園にあるどの木も、その美しさにはかなわない。わたしが、その枝を茂らせ、美しく仕立てたので、神の園にあるエデンのすべての木々は、これをうらやんだ」(31:8、9)と言っておられます。主は、「わたしが・・・美しく仕立てた」と、それがご自身の働きであることを強調しておられます。

ところが、主は、アッシリヤに対し、「その心がおごり高ぶったから、わたしは、これを諸国の民のうちの力ある者の手に渡した。彼はこれをひどく罰し、わたしも、その悪行に応じてこれを追い出した」(31:10、11)と言われます。これはバビロン帝国がアッシリヤ帝国を滅亡させたことを指します。そして、この悲劇の意味が、「このことは、水のほとりのどんな木も、そのたけが高くならないためであり、そのこずえが雲の中にそびえないようにするためであり、すべて、水に潤う木が高ぶってそびえ立たないためである。これらはみな、死ぬべき人間と、穴に下る者たちとともに、地下の国、死に渡された」(31:14)と記されます。ここには、自分を高くしようとするものは、皮肉にも、「地下の国、死」に自分を近づけているだけだというのです。

 神は、人の目には小さい者をご自分の働きのために大きく用いてくださいますが、しばしば、そのようなこの世的な成り上がり者は、すぐに高ぶって、自滅します。その背後に、神の力があります。それは、パウロも、「誇る者は主を誇れ」と言っているとおりです(Ⅰコリント1:31)。私たちは伝統的権威のむなしさを知ると同時に、この世で「成り上がり者」と軽蔑されるような者になってはいけません。いつでも、どこでも、口癖のように、同時に心から、「主の哀れみと恵みで」と、主の御名をあがめるべきでしょう。あなたを美しくしてくださるのは主ご自身のみわざです。しかし、それを自分で勝ち取ったと思ったとたん、あなたは醜い者に逆戻りしています。

4.「あなたはだれよりもすぐれているのか。下って行って、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ」

32章ではまず最初に、エジプトの滅亡を全被造物がともに悲しむ姿が描かれます。そのことを主は、「あなたが滅び去るとき、わたしは空をおおい、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない。わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地をやみでおおう」(32:7、8)と言われます。これはエルサレム陥落から一年半後ぐらいのときの預言だと思われますが(32:1)、神がエルサレムをさばかれたことは、エジプトに対するさばきが実現することの前触れでした。これを通して、世界の人々は、神を自称したエジプトの王パロがいかに無力かを知り、イスラエルの神、主(ヤハウェ)をあがめるようになりました(32:15)。

実際、紀元前30年にエジプト王国が永遠に地上から姿を消してまもなく、救い主イエス・キリストがユダヤの地にひそかに誕生しました。その後、キリストの支配は人から人へと広がり、三百年経って、強大なローマ帝国の隅々に渡り、皇帝の代わりに、イスラエルの神、主(ヤハウェ)が全世界の支配者としてあがめられることになります。

 その後、主は、主はエゼキエルに、「人の子よ。エジプトの群集のために嘆け」(32:18)と言われながら、自分を誇るエジプト人たちに、「あなたはだれよりもすぐれているのか。(穴に)下って行って、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ」(32:19)と宣告されます。彼らは、他の割礼を受けていない民と何も変わりはしないのです。

   そして、昔からいた「勇敢な勇士たち」「よみの中から」、エジプトとその同盟者たちに、「降りて来て、剣で刺し殺された者、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ」と語りかけるというのです(32:21)。そして、「その墓の回りには、アッシリヤとその全集団がいる」(32:22)と言われ、特に、「彼らの墓は穴の奥のほうにあり、その集団はその墓の回りにいる」(32:23)と描かれます。つまり、自分を最も高くしたものが、もっとも深い穴に落とされているというのです。そして彼らは、「かつて生ける者の地で恐怖を巻き起こした者たちである」と解説されます。

  続いて、バビロンの東の「エラム」、現在のトルコにある「メシェクとトバル」、イスラエルの南の「エドム」、イスラエルの北の貿易都市「シドン」へのさばきの様子が描かれます。興味深いのは、彼らの滅亡がすべて、「地下の国に下る」(32:18、24)、「穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負う」(32:25,30)と記されていることです。そして、彼らに共通しているのは、「割礼を受けていない者たち」ということです。これは神のあわれみを受けていない人たちとも言い換えることができます。彼らはこの地上で、どれほど自分たちの富や力を誇っていたとしても、すべてパラダイスと対極にある「地下の国」に落ちざるを得ません。そして最後に、「パロは彼らを見、剣で刺し殺された自分の群集、パロとその全軍勢のことで慰められる」(32:31)と不思議なことが記されます。それは彼らが、自分たちと同じ運命をたどっていることを見るからです。エジプトはピラミッドのようなものを作ることに熱心で、いつも死後のいのちに心を配っていましたが、ここでは、それは何にも役に立たなかったという皮肉が述べられているのではないでしょうか。エジプトとその同盟国のさばきが、すべて「穴に下る」と描かれているのは何とも不思議なことです。

  日本でもエジプトと同じように、死者の遺体を尊重することがひとつの文化となっています。多くの人々が、伝統に沿った弔いに驚くほどの時間と財を注ぎます。しかし、死者の国では、それらは何の効力もありません。反対に、この地で我が物顔に人々を虐げていた人こそが、もっとも深い穴に落ちされるだけだというのです。

 

  イスラエルの民は、エジプトという伝統的権威と、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマという新興勢力との狭間で揺れていました。彼らはその中で、すべての権威と力の源であられる主(ヤハウェ)を忘れてしまったのです。しかも、エジプトが力を失った後は、今度は、ユダヤ人の宗教指導者たち自身が、伝統的権威を主張して、人々を主との生きた個人的交わりから遠ざけてしまいました。現代の日本の教会でも、宗教的権威が力を振るう可能性があります。そこでは通常、「しきたり」ということばが幅を利かせています。しかし、私たちは、いつでもどこでも、主ご自身との個人的な生きた交わりの中で、力を受け、この世に影響力を行使することができるのです。私は日本の教会が、どこかで、いつも被害意識と自己憐憫という日本の文化に浸ってしまっているような気がしてなりません。この世界に起こっている新しい動きを傍観者的に批判的にばかり見て、世界の動きから取り残され、今も生きて働いておられる主の力を体験することができない「宗教お宅」にならないように気をつけたいものです。

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