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2010年1月31日 (日)

ルカ22章63節~23章12節「自分の都合によってイエスをさばく人々」

                                                 2010131

 17世紀最高の科学者パスカルは、「あることが私の気に入ったり、気にさわったりする」というのは、何かの理由があるという以前に、「気にさわるからこそ、その理由が見つかるのだ」と言いました(パンセ276)。私たちも聖書を読む上で気をつけなければなりません。イエスの時代の宗教指導者たちは、本当によく聖書を学んでいました。そして、彼らはそれによって、確信を持ってイエスを死刑に定めたのです。私たちは聖書を読むと同時に、自分の「心情」を知る必要があります。何か説明を見出す前に、自分があることを気に入り、あることに不快を感じるという現実を、理由をつけずに、ただ素直に認めるべきでしょう。自分の感情を正当化する前に、それは自分の腹から生まれている感情であることをすなおに認め、その感覚に流されないように気をつけるべきではないでしょうか。

パスカルは続けて、「心情は、理性の知らない、それ自身の理性(理屈)を持っている」と、感情にはそれなりの理屈があると言って、それを尊重することを勧めながら、「神を感じるのは、心情であって、理性ではない」と述べています(パンセ277,278)。ただそれは同時に、人の行動の根本的な動機が、理性よりも感情に依存しているからこそ、私たち自身が感情に流されず、その情緒の部分で、神のお取り扱いを受けることが大切なのです。

罪の基本とは、自分の都合や感覚を絶対化してしまうこと、自分を神の立場に置いてしまうことです。しかし、私たちに求められているのは、不条理に満ちた世界を、神の視点から愛を持って見直すことです。

1.「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう」

ゲッセマネの園での祈りを通して、イエスはご自分の内側にある人間としての恐怖心に打ち勝たれました。そして主は、「押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たち」に驚くほど落ちついて立ち向かいます(52節)。イエスはこのとき、「今はあなたがたの時です。暗やみの力です」(53節)と言われましたが、人間の目には、暗やみの力が、光の子らを圧倒しているように見えるときがあります。しかし、それは神のご支配に中にあるときでもあります。

そして、「彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た」(54節)と記されますが、イエスの一連の行動に表されているように、イエスご自身の方が「時」を支配しておられました。イエスは敢えてご自身の身を差し出され、ユダヤの精神的な最高指導者である大祭司のもとに連れてこられるように仕向けたのです。

  このように敢えて、イエスはご自分からユダヤの宗教指導者にご自身の身を任せましたが、イエスを監視している者たちは、救い主と呼ばれている方の無力さをあざ笑うようなことをしました。その様子が、「さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして。『言い当ててみろ。今たたいたのはだれか』と聞いたりした。また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた」(22:63-65)と描かれます。彼らからしたら、神から遣わされた救い主であるなら、目隠しをされても、誰がたたいたかを言い当てることができるはずだと言いたかったのでしょう。また、「目の見えない人の目を見えるようにしてくださった」という事が本当なら、「このように無力な姿になるはずはない・・・」と思い、「イエスは単なる詐欺師だったのだ」と言いたかったのでしょう。

その彼らの気持ちは、エゼキエル書などを読んで来た者にはよくわかることでしょう。そこで主は、「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる」(34:23)と預言され、その方の支配下で、「彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獣も彼らを食い殺さない。彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない」(34:28)と約束されていました。また、その新しいダビデのもとで、エゼキエル40章以降にある神殿も復興されると理解されていました。ところが、そのようにイスラエルを解放し、ダビデにまさる国を建ててくださるはずの方が、このように無力に、人々からののしられ、あざけられているということは、彼らには理解できないことでした。イエスは単なる詐欺師であるかのように人々が失望したのも無理がありません。

  それで、「夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まり」「イエスを議会に連れ出し」ます(22:66)、この議会とは、ユダヤ人の最高議決機関であるサンヘドリンです。そこには七十人の人々が集まっていたと思われます。彼らはイエスを偽預言者、民の扇動者としてさばきを下そうとして、まず、イエスに直接、「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい」(22:67)と問いただします。それに対してイエスは、「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう」(22:68)と言われます。イエスは、彼らが自分たちの思い込みで心がいっぱいになっていることを指摘しました。彼らには、イエスのあらゆることばに心を閉ざしているばかりか、イエスとのあらゆる対話も拒否しようとしています。

しかし、聖書の「救い主」預言には、いろんなパターンがあります。その代表は、イザヤ53:5などにある、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたというような預言でしょう。彼らは自分たちの思い込みにぴったり合った聖書の箇所は見つけ出せても、彼らの発想を正すはずのみことばには注目しませんでした。聖書は文脈が決定的に大切です。エゼキエル書は、神の民のアイデンティティーを失いそうな捕囚の民に希望を与える書でした。しかし、自分たちのアインデンティーティーを誇っている人たちに必要なのは、偽善的な礼拝の問題をさばいているイザヤ書の預言です。神は、人の常識を超えたみことばを通して語ってくださるのですから。

2.「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます」

しかし、イエスは彼らに聞く耳がないのを見て取って、彼らの期待に沿った、いや彼らの期待以上の答えをします。それが、「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます」(22:69)というものです。これはイエスがかつて、詩篇110篇の「主は私の主に言われた。『わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい』」というみことばを引用しながら、「ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう」と言われたことを思い起こさせます(ルカ20:42-44)。イエスはご自身を、ダビデ以上の者として提示しようとしているのです。これは、エゼキエル書ばかりを読んでいる彼らに、詩篇の預言を読むように勧めたものかもしれません。また、これは同時に、ダニエル7章13,14節のみことばを思い起こさせることばでもあります。そこには、「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく彼に仕えるようになった」と記されています。それは、救い主が、イスラエルの救い主であるばかりか、全世界の王であると宣言する預言です。

マタイによる福音書では、イエスがこの詩篇110篇とダニエル7章のみことばをご自身にあてはめ、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来られるのを見ることになります」と言われたとたん、大祭司が自分の衣を裂いて、「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか」と言って、死刑が確定したと記されています(マタイ26:64)。つまり、イエスは、ある意味で彼らの期待に沿って、死刑判決を引き出しやすいみことばを引用されたかのように見えます。しかし、イエスは、はるかに大きなことをここで言われたのです。エゼキエルの預言はイスラエル国家の再興という希望を語っていますが、イエスはご自身が全世界の王であることを宣言して、人々の心の目を世界の救いに向けさせたのです。当時としては、誰にも通じない言葉でしたが、今は全世界の人々にとっての常識となっています。イエスをイスラエルだけの救い主と思っている人が、どこにいるでしょう。

NHK大河ドラマで坂本龍馬の生涯が描かれています。日本国内で、薩摩、長州、土佐などという藩どうしが争っているときに、また、朝廷と徳川幕府の勢力争いをしているときに、世界の中の日本という視点で、犬猿の仲の薩摩と長州を同盟に導き、また、幕府が自主的に政治権力を朝廷に返すという大政奉還への道筋をつけました。坂本龍馬の大きな発想が日本に一致を生み出し、近代化を進めましたが、守旧派に暗殺されました。そのとき彼らまだ31歳に過ぎませんでした。同じように、イエスは、イスラエルの救いしか頭にない人に、ご自身が全世界の救い主であることを語りました。それがどれだけ当時の宗教指導者たちを怒らせたかを想像することさえ、現代人には困難なことではないでしょうか。イエスの救いは、当時の人々には、大きすぎて理解できませんでした。

3.「ではあなたは神の子ですか」

この福音書においては、読者が異邦人であることを配慮して、よりわかりやすい表現でイエスの裁判が描かれます。それが、彼らがみなそろって「ではあなたは神の子ですか」(22:70)と聞きただしたという意味です。この問いの「神の子」には定冠詞がついています。これは、イエスが唯一のユニークな神の子であるかという意味です。これはイエスが、目に見えない神の地上における代理であるかという意味です。また、ローマ帝国のシステムから考えると、イエスはご自分をローマ皇帝に勝る存在であると主張しているのかと問うことでもあります。

それに対しイエスは、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われました。これは、多くの英語では、「You say that I am」と訳されていますが、厳密には、「あなたがたは言っているように、わたしはある」と訳すことができます。これは含蓄の深い言葉で、彼らのことばを肯定しながら、同時に、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14)という神ご自身の紹介に結びつけた表現とも理解できます。これをどのように翻訳するかはいろんな解釈がありますが、これはイエスがご自分の神性を主張したという点では解釈が一致しています。

それを聞いた人々も、イエスはご自分を神に等しくしていると理解しました。それで、これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから」と言います(22:71)。これによって、イエスの死刑が確定したと言えましょう。なぜなら、イエスはご自分をローマ皇帝以上の存在としたと理解されるからです。

しかし、当時のユダヤ人には、人を死刑にする権限が与えられていませんでした。それで彼らはイエスをローマ総督ピラトのもとに引き連れてきて、ピラトに死刑を宣告させる必要がありました。それが、「そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。『この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました』」(23:1、2)という訴えです。彼らはピラトが死刑判決を下すことができるように、彼が理解できることばで訴えました。

ただし、イエスはカイザルに税金を納めることを禁じるかわりに、「カイザルのものはカイザルに・・神のものは神に返しなさい」と言われらのですが(20:25)、その意味を理解できなかった彼らは、イエスがローマ帝国に反旗を翻す革命指導者であることを印象付けようとして、このような濡れ衣を着せました。なお、それはまったくの嘘でもありません。なぜなら、彼らがエゼキエルの預言を学んだ結果として想像できた救い主とは、イスラエルを強国の支配から救い出すダビデのような存在に他ならなかったからです。それ以外の救いは期待できませんでした。

4.ヘロデとピラトの思惑

それで、ピラトもイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねます(23:3)。これに対するイエスの答えも、厳密には「あなたはそう言います」と言うもので、積極的な肯定というより、ピラトのことばを否定しないという意味合いのほうが強いと思われます。ピラトはイエスの表情とその語り方から、イエスはローマ帝国の定義における独立運動指導者には当たらないことを見て取って、これが極めて、ユダヤ人の信仰にかかわることに気づきました。それで、「ピラトは祭司長たちや群衆に、『この人には何の罪も見つからない』と言った」というのです(23:4)。

それに対し、彼らはあくまでも、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです」と訴えながら、イエスの罪はローマ帝国への反逆罪に相当すると強く主張します(23:5)。そして、「それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである」(23:6、7)というのです。このヘロデとは、ヘロデ大王の息子、ガリラヤ地方の国主、ヘロデ・アンテパスのことです(3:1参照)。ピラトは、このようなユダヤ人の宗教的なことにはかかわりたくなかったので、イエスがガリラヤ出身であるとわかると安心して、そのさばきを、イエスの出身地の支配者に任せます。なぜなら、国主ヘロデはこのとき、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに上ってきていたからです。なお、彼は、バプテスマのヨハネの首を、酒宴の余興ではねさせたほどに、臆病でずるい人間です。イエスもヘロデがご自分のいのちを狙っていると聞いた時、彼のことを、「あのきつね」と呼ばれたほどです(13:32)。

  そしてここで、彼の態度が、「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである」と描かれます(23:8)。彼には国に正義をもたらそうという思いなどはまったくありませんでした。彼は暇をもてあましている無責任な指導者に過ぎませんでした。その様子が、「それで、いろいろと質問したが・・」と描かれています。しかし、イエスには、その彼の遊びに付き合おうなどというお気持ちはありませんでした。そのことが、「彼に何もお答えにならなかった」と描かれます(23:9)。イエスはご自分を一切弁護する必要を感じておられません。イエスは、ご自分がすべての人々の罪を負って十字架にかかることが神のみこころであるとわかっておられたからです。イエスは、救いを求める人には、誰にも驚くほど優しい方でしたが、聞く耳のない人にはそっけなく対応しておられます。

  そのイエスの沈黙の中で、「祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴え」続けます(23:10)。彼らはヘロデのことを軽蔑していましたが、目的のためには手段を選ばないという気持ちで、ヘロデに取り入って、死刑判決を出させようと必死でした。しかし、「ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した」(23:11)というのです。ヘロデは臆病な人間ですから、ふたたびバプテスマのヨハネのような民衆に人気のある人を、自分の責任で殺すことはどうしても避けたかったのでしょう。たぶん、彼はローマ総督ピラトにへつらうようなことばを書き連ねて、ピラトこそこのような問題をさばくのにふさわしい人であると伝えたのではないでしょうか。ピラトがこの責任を引き受けてくれたなら、ヘロデは民衆の反発を受けずにすみます。同時に、ピラトはヘロデからの尊敬の言葉を聞いてうれしかったに違いありません。

「この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである」(23:12)というのは、何とも言えない皮肉です。彼らはイエスの判決という面倒な問題に巻き込まれていることで互いの立場に共感しあうことができました。二人ともユダヤ人の指導者には手を焼いていました。残念ながら、「敵の敵は味方」というのが、人と人とを結びつけるもっとも強力な動機になります。それは、真理以前に、自分の都合を優先する人間の常です。

 ここには、ユダヤ人の宗教指導者、イエスを監視しながらあざけった人々、ピラト、ヘロデなどの姿が見えてきます。彼らはみな、自分たちの都合や思い込みでイエスを見ていました。それに対し、イエスは最後まで、彼らに、聖書の示す救い主の姿を示そうとしておられます。イエスのことばをよく見ると、ご自分の立場を守ろうとする以前に、ご自分のことばがそこにいるひとりひとりの心に残り、後になって、そのことばの意味がわかるような言い方をしておられることがわかります。そして、イエスはご自身の沈黙をもコミュニケーションとして豊かに用いておられます。イエスのことばも沈黙も、一つとして無駄なものはなく、私たちに神のみこころを知らせようとしておられます。それは、神がどのような救いを私たちにもたらそうとしておられるかという真理です。私たちも、あまりにも自分の都合や自分の感覚でイエスの救いをとらえようとしていないでしょうか。イエスは、人の感覚ではとうてい理解できないほどの、壮大な神のご計画を実現する救い主として、この世に降りてきてくださったのです。イエスは真実に、全世界の王です。ダビデを上回るイスラエルの王です。私たちに真の平和を実現するために、十字架にかかってくださった方です。私たちは日々、いろんなことで思い悩みます。しかし、神の壮大な救いのご計画に思いをはせるとき、その目の前の問題が、まったく別の観点から見えるようになるというのが、神の救いではないでしょうか・・・

  私たちがよく唱和する平安の祈りを吟味してみましょう。そこでは、「神様。私にお与えください/変えられないことを 受け入れる平静な心を/変えられることは 変えて行く勇気を/そしてふたつのものを 見分ける賢さを」と祈った後、「一日一日を生き、今このときを楽しみながら/困難を平和への道として受け入れ/この罪深い世を、私の願うようにではなく、あるがままに、主が、受けとめられたように受けとめさせてください」と祈るように展開しています。この不条理と問題に満ちた罪深い世を、主の視点から見るようになるというのが、私たちのうちに始まる神の救いです。「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら・・・」(ローマ8:23)とあるように、御霊を受けた者は、世界の痛みを自分の痛みとしながら「うめくと記されているからです。残念ながら、目の前の問題をたちどころに解決できる妙案がわかったという人は、ほぼ例外なく、嘘つきか愚か者ではないでしょうか。

聖書は、この世界の問題は、救い主が十字架にかかるという奇想天外な道を経なければ解決できないほどに解決困難な状態にあると言っています。人の知恵で問題が解決するぐらいなら十字架など必要ありません。そして、この祈りは、「もし私が、主の望まれることを望むなら/主がすべてのことを益に変えてくださると信頼し/この世のいのちにおいては、適度に幸せに/来たるべき世界においては 永遠に主とともに住み/最高に幸せになることができますように」と閉じられます。私たちはこの地で適度なしあわせしか望めません。釈迦が説いたように、人生は、四苦八苦です。それを受け止められないから問題がこじれます。この地上の問題を解決できるのは、イエスの再臨のみです。それを期待しながら、今、ここで何をすべきかを、主の視点から見る者とさせていただきましょう。

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2010年1月24日 (日)

エゼキエル40章~47章12節「生ける水の川が流れ出る」

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エゼキエル40章以降をどう解釈するかは、今後の世界の歴史を見る上での鍵となります。ここには、世界中からイスラエルの民が集められ、エルサレムに理想的な神殿と礼拝が実現することが記されています。ユダヤ人ばかりか多くの保守的なクリスチャンも近い将来これが文字通り実現することを待ち望んでいます。そのような解釈は百年余り前からアメリカを中心に生まれましたが、彼らは現代のイスラエルの建国を預言の成就と受け止め、エルサレムにイスラム教のモスクの代わりに、エゼキエルが預言した神殿が建てられることを切望しています。そのような神学はアラブ世界との対立を後戻りのできないものにしているように思えます。聖書は一点一画まで霊感されていますが、様々な解釈の可能性も開かれています。その際、真に伝統的な解釈に立ち返ることが大切でしょう。

私自身もこの箇所の解釈には思い悩んでいました。今回、当初の予定を変えて、40章から47章までをまとめて調べた結果、驚くべきことが見えてきました。イエスの時代のエルサレム神殿は、ヘロデ大王が46年もかけて増築した壮麗なものでしたが、外面的には、その設計に最も大きな影響を与えているのがこの箇所の預言でした。事実、ヘロデの神殿は、エゼキエルの二倍の敷地面積がありました。また当時の宗教指導者たちは、この預言に従った礼拝生活を守ることを熱心に求めていました。しかし、彼らこそが、イエスを十字架にかけた張本人でした。つまり、エゼキエル預言を表面的に解釈した人たちこそが、イエスの説教に誰よりも困惑したとも言えるのです。

ただし、イエスはそれを予知しながら、「この神殿をこわして見なさい。わたしは、三日でそれを建てよう」と言われましたが、そこには、「イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである」という解説が記されています(ヨハネ2:19-21)。伝統的には、イエスの十字架と復活こそが、エゼキエルの神殿預言を成就させたと解釈されます。そして、それを信じる人の心の奥底からは、戦いではなく、周りの人々に生きる喜びを与える生ける水の川が流れ出るというのです。それは、私たちひとりひとりが、聖霊の宮とされるからです。私たちは、ここに記されたことの外面的な設計図ではなく、これを記させ、またイエスを遣わされた神のみこころの真意に迫る必要があります。

1.「聖なるものと俗なるものとを区別していた」

エルサレム陥落から丁度、14年が経過した日に、主はエゼキエルに新しいエルサレムの姿を見せてくださいました(40:1)。御使いは彼を新しいエルサレム神殿の中に招き入れ、そのサイズを中心に示してゆきます。その際、御使いのはかるサイズは、「普通の一キュビトに一手幅を足した長さ」で、それは約52㎝です。また、測りざおの長さは6キュビトで約3.11mに相当します。神殿には、「外側を巡って取り囲んでいる壁があった」のですが、「その外壁の厚さを測ると、一さおであり(約3m余り)、その高さも一さおであった」というのです(40:5)。これはまるで、中国の万里の長城に匹敵するような分厚い壁です。そして、東向きの門の構造が詳しく記されていますが、両側にそれぞれ三つもの控え室を持つ壮大なもので、「入口の門の前から内側の門の玄関の間の前までは五十キュビト(約26m)もありました(40:15)。この長い門を過ぎると、そこには「外庭」が広がっていましたが、その中にまた「内庭」が仕切られてあり、そこにも同じ大きさと構造の門がありました。この外庭の門から、内庭に入る門までの距離は百キュビト(約52メートル)ありました。そして、内庭は約25mもの幅の門と部屋などに仕切られて、いけにえの祭壇が置かれた礼拝のための内庭がありました。興味深いことに、外庭の門が、東、北、南、同じように描かれ、また、内庭の門も三箇所それぞれ、「門の長さは50キュビト、幅は25キュビトであった」と六回も繰り返されています。

40章48節からいよいよ神殿内部へと入りますが、その前にまず玄関の間について描かれます。「そこへ上るのに階段があり」とありますが、それは10段の階段であったと七十訳に残されています。なお、外庭の門に入るのには7段、内庭の門に入るのには8段の階段がありましたから、段数がしだいに多くなるとともに、敷地の外から見たら神殿は25段も高くなっていたことになります。そして、本堂は、長さが40キュビト(約20m)、幅が20キュビト(10m)で、その奥の「至聖所」は長さ幅とも二十キュビト(約10m)の正方形でした。これに至る三つの入り口の幅が、14キュビト、10キュビト、6キュビトと徐々に狭くなる様子が描かれています。なお、この神殿本体の大きさも構造も、ソロモンが建てた神殿とほとんど同じです。ただ、ソロモンの神殿ではその内部の調度品の豪華さが強調されていましたが、ここでは「神殿の内側にも外側にも、これを囲むすべての壁の内側にも外側にも彫刻がしてあり、ケルビムと、なつめやしの木とが彫刻してあった」と記されているに過ぎません(41:17、18)。神殿内部の調度は、「主(ヤハウェ)の前にある机」が描かれているだけでした。そして、「本堂と至聖所にそれぞれ二つのとびらがあり、それらのとびらにはそれぞれ二つの戸が折りたたむようになっていた」(41:23、24)と、入り口の様子ばかりが描かれます。

イエスは、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます」(ヨハネ10:9)と言われ、ご自身が十字架で息を引き取られたとき、至聖所の幕が上から下に裂け、父なる神への自由な道が開かれました。エゼキエルが神の宮の門と至聖所への道の困難さを描いたことは、イエスが開いた救いの道の貴さを際立たせます。

  42章1-9節には巨大な祭司用の部屋が描かれます。それは祭司が主に聖別された働きにつくということを明確にするためです。イスラエルの堕落は、祭司がこの世のことに忙しくなり、主への礼拝のためにその身も時間も場所も聖別されるということが不明確になったことから起きました。それは現代の牧師職への警告でもあります。

  その上で、42:15-20節には、神殿の外壁で区切られた敷地の全体の広さが、「その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた」(42:20)と記されます。多くの翻訳はこれを他のサイズとの関係で「五百キュビト」と解釈します。つまり、神殿の敷地は、四方が約250mあまりの広大なものです。そして、「聖」「俗」との「区別」こそが、神殿描写の目的でした。そのために、外庭と内庭への入り口の門についての描写や、神殿本体への入り口の描写が詳しくされ、同時に、祭司たちの部屋のことまでが詳しく記されていたのです。

なお、興味深いことに、神殿の建物本体は、ソロモンの神殿と基本的にまったく同じですが、ソロモンの神殿には、外庭と中庭の区別もなく、いけにえをささげる庭がどのように仕切られていたかの記述もありませんでした。ソロモンの神殿のその後の悲劇は、神殿と政治の区別がなく、王が祭司としての働きをしてみたり、神殿の敷地の中に様々な偶像礼拝の設備が混入されたりしたことでした。それに対し、エゼキエルの神殿では、区別が明確にされ、神殿礼拝の中に世の論理が入り込まないように注意深い配慮がなされていたということでしょう。

なお、イエスの時代のエルサレム神殿は、ヘロデ大王が大拡張工事を行ったもので、その敷地面積は、南北が450m、東西が300mというエゼキエルの神殿の二倍の広さを持ち、その中も、異邦人の庭、婦人の庭、イスラエルの庭と三重に仕切られていました。ヘロデは自分を預言されたイスラエルの救世主に位置づけようとして、エゼキエルの神殿よりも壮大なものを造ろうとしたのだと思われます。しかし、彼の心は救い主とは対極の醜いものでした。また、神殿の敷地として区切られた庭も、商売の場所とされていました。イエスが、「宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒され・・・『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」(マタイ21:12,13)と言われたのは、このような預言を意識してのことだったと思われます。主の宮は、主への礼拝のために聖別されるべきなのです。

2.「もし彼らが、自分たちの行ったあらゆることを恥じるなら・・」

エルサレムが陥落する五年前、エゼキエルは、「主(ヤハウェ)の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまり・・宮の東の門の入り口」から出て「町の東にある山の上に留まる」のを見ました(10:18,19,11:23)。エルサレム神殿が破壊されたのは、主の栄光がそこを立ち去って、それが空き家になってしまっていたことの結果でした。それに対し、ここではその逆のことが起きます。その様子が、「イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた・・・それで、私はひれ伏した。主(ヤハウェ)の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た」(43:2)と描かれます。そして彼は、「なんと、主(ヤハウェ)の栄光は神殿に満ちていた」(43:5)という圧倒的な主の臨在に感動を覚えます。エゼキエルが見た主の宮の簡素な様子は、主の栄光が戻ってくるときに、何の人間的な装飾も意味をなさないことのしるしだったのではないでしょうか。

  主はそこで彼に、イスラエルのかつての罪を指摘しながら、もし彼らが、自分たちの行ったあらゆることを恥じるなら、あなたは彼らに神殿の構造とその模型・・・すべての律法を示し、彼らの目の前でそれを書きしるせ。彼らが、そのすべての構造と定めとを守って、これを造るためである」(43:11)と言われます。つまり、エゼキエルに示された神殿は、世の終わりに天から降りてくるものではなく、イスラエルの民が捕囚の地からから約束の地に帰ったときに建てるべき神殿の設計図だったのです。だからこそそれを前提に、後のヘロデ大王はエルサレム神殿を建てたのではないでしょうか。しかし、彼らは、自分たちの間から汚れを取り除くことが先決でした(43:8,9)。

その上で、主は、いけにえの焼くために用いる「祭壇」の設計図を渡します(43:13-17)。祭壇は、下から上までを合わせると10キュビトで、高さはソロモンの神殿と同じでした。その上で、祭壇を聖別するためのいけにえのことを主は、「七日間にわたって祭壇の贖いをし、それをきよめて使い始めなければならない・・・その後は、祭司たちが祭壇の上で・・・全焼のいけにえ・・・をささげ・・・そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる」(43:26、27)と言われます。つまり、祭壇がきよめられて初めて、人々のささげるいけにえが主によって受け入れられるというのです。私たちはどこかで、あまりにも安易に、主に受け入れていただけるかのように誤解していないでしょうか。

ヘブル書では、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。ですから、天にかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし、天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません」(9:22,23)と記されています。ですから、エゼキエルに記されているいけにえはあくまでも、天にかたどった地上の神殿をきよめるものキリスト以前に適用されるものであることが明らかになります。神の御子が流された血は、いかなる動物のいけにえにもまさり、それによって天の神殿が完成したのです。それは、「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」(同9:26)と記されている通りです。私たちは、エゼキエルのいけにえを見ることで、イエス・キリストによる救いが、エゼキエルに示されたビジョンをもはるかに超えたすばらしいものであったことを知ることができます。

   44章には、「聖所の東向きの外の門」が「閉じられたままに」されるべきことが命じられています(1,2節)。今も、エルサレムの町の東の城壁は、黄金の門と呼ばれ、閉じられたままにされています。それは、主が入られる門と人が入る門を明確に区別するという意味があります。ここでエゼキエルが、「なんと、主(ヤハウェ)の栄光が主(ヤハウェ)の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した」(44:4)と恐れていますが、イエスがエルサレム神殿に入ってきたことは、まさに主(ヤハウェ)の栄光が神殿に入って、ご自身のみこころを私たちに明らかに示したということを意味します。ですから、私たちは、以下の礼拝規定を、キリストのみわざの視点から再解釈する必要があります。

主はまず、「宮に入れる者と、聖所に入れないすべての者を心に留めよ・・・心にも肉体にも割礼を受けていない外国人は・・・入ってはならない・・・」(44:5,9)と言われます。これは、主を恐れることを知らない外国人と、肉における形だけのレビ人は、主の前に出ることはできないという意味です。パウロも、「心の割礼こそ割礼です」(ローマ2:29)と語っています。その上で、祭司の衣服や髪の毛のことなどが細かく指示されながら(44:19-21)、その規定の目的を、「彼らは、わたしの民に、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を教えなければならない(44:23)と説明されます。そして、レビ人に関して、「イスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。わたしが彼らの所有地である。彼らの食物は、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえである。イスラエルのうちのすべての献納物は彼らのものである」(44:28、29)とレビ人たちが、主への奉仕によって、その必要が満たされるべきことが強調されます。そればかりか、「君主の土地」(45:7)のことが記されます。それは、モーセを通して律法が与えられたとき、イスラエルにはまだ王がいなかったからです。彼らが近隣の諸国と同じような王政を求めた結果として律法による土地配分の根幹が崩れてしまいました。それで、新しい約束の地に彼らが入れられたとき、王がいるのを前提とした土地配分のことが改めて示されたということです。

  その上で主は、「わたしの民を重税で追い立てることをやめよ」(45:9)と言われながら、王への税金を、麦に関しては六十分の一に、油の場合は百分の一、また、羊に関しては、「二百頭ごとに一頭を・・贖いとせよ」と言われます(45:13-15)。これは、王が民の代表としてささげるいけにえの量を指定したものです。ソロモンの時代から見たら、民衆の税金負担は見違えるほどに軽くなったことでしょう。イスラエルの王は全民衆の代表として、主にいけにえをささげることが求められるのです。王はあくまでも礼拝者の代表として位置づけられるのです。

  46章には、この神殿における礼拝の仕方が記されています。まず、「君主は・・・門の戸口の柱のそばに立っていなければならない。祭司たちは彼の全焼のいけにえ・・・をささげ」(46:2)とあるのは、王ですら神殿の中庭には足を踏み入れることはできないという意味です。ソロモンを含め、イスラエルの王はしばしば、祭司の務めを自分でしたり、また祭司たちを自分の手下として動かしたりしましたが、王には神殿を支配する権利はありません。なお、その際、「一般の人々も・・・その門の入口で、主(ヤハウェ)の前に礼拝をしなければならない」(46:3)とあるように、王は内庭の門の敷居までは入りますが、一般の人々は、約25mもある長い門の外側から、内庭で行われている礼拝の様子をほとんど見ることができないまま、なお、その外庭に立ち続ける必要がありました。

私たちは、みな、自分の都合に合わせて礼拝を考える傾向があります。また、神のみことばでさえ、自分の都合に合わせて解釈する傾向があります。しかし、エゼキエルの記事はその発想を逆転させるものです。私たちは、主の祈りで、「あなたの御名が聖とされますように。あなたの御国が来ますように。あなたのみこころが行われますように。天のように地の上でも」と祈るように命じられています。私たちは自分の必要に心が向かいますが、何よりも大切なのは、主の必要が第一とされることなのです。たとえば、あなたに心から愛する人がいたとき、あなたは、その方に向かって自分の必要を訴える前に、その方が、何を大切に思っているかを必死に探り、その方のペースに自分を合わせるのではないでしょうか。主のみこころを自分たちの生活のレベルに引き下げてはなりません。

この講壇から語られるみことばの解き明かしが、あなたの日々の必要とはかけはなれたものと聞こえることがあるかもしれません。しかし、聖なる教えは、日常生活を超えたものとして扱われる必要があります。その際、求められているのは、聖書の語る救いのストーリーの中に自分をおいて、自分の視点からではなく、主の視点から現実を見直すことができるようになることです。礼拝に来るたびに、生き方の具体的な指針が与えられるというのは決して健全とは言えないかもしれません。聖書の教えは、この世の発想とは異なるものだからです。聖書は、聖書の文脈から解き明かす必要があります。自分の問題を横において、まず聖書の世界に心を浸してみることが大切です。そのとき結果的に、自分の問題が別の角度から見ることができるようになっているかもしれません。

3.「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き・・・」

40章から続いた新しい神殿の話の結論として、世の終わりに起こる驚くべきことが記されます。「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた・・」(47:1)とは、エルサレム神殿がエデンの園のようになるということです。神が世界を創造したとき、ユーフラテス川の源流はエデンの園にありました。今、エゼキエルは肉体的にはユーフラテス下流のバビロンの支配地に捕囚とされています。しかし、終わりの時代には、エルサレムこそが世界の中心、そこの神殿こそが、世界の祝福の源となるというのです。詩篇46編でも、「川が、いと高き神の聖所から沸き出で、その流れは神の都を喜ばせる」(4節私訳)と記されています。

御使いはエゼキエルを外庭の東の門の外に連れ出し、そこから流れ出る川の深さを測らせますが、一千キュビト(約500m)ごとに流れは深くなり、四千キュビト(約2km)下ったところで、「水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった」(47:5)というのです。これは、まさにエルサレム神殿がユーフラテスのような大河の源になったことを意味します。そして、「川の両岸に非常に多くの木があった」(47:7)と描かれます。しかも、「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる」(47:8)というのです。これは、この川がヨルダン渓谷に流れ込み、死海の水を、魚が住めるような水に変えるということです。

  エルサレムの東にはオリーブ山が立ちはだかってますが、ゼカリヤ14章では、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる・・・その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に・・に流れ、夏にも冬にも、それは流れる」(4,8節)と描かれます。まさに、山が移って、エルサレムからの水の流れる道が作られるのです。 

 しかも、「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる・・・そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる」(47:9、10)と、死海がどの海より豊かな魚の宝庫になると描かれます。ただし、死海には、その塩のゆえに癒しの力もありますが、その貴重な沢と沼の部分はそのまま残されます(47:11)。そして、「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる」(47:12)というエデンの園の祝福が描かれます。聖所から流れ出た水によって育った木の葉には、いやしの力さえ備わっているのです。黙示録はこの表現を用いながら、新しいエルサレムの姿を、「水晶のように光るいのちの水の川・・・は神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした」(22:1,2)と描いています。

 

  私たちは、このような祝福を、今から味わうことができます。イエスは、仮庵の祭りの終わりの大いなる日に、神殿の外庭の中に立って、大声で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37,38)と言われました。この祭りの時、祭司たちはイザヤ12章の「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む」(3節)とのみことばを繰り返しながら、七日間に渡って、エルサレムの南の端にあるシロアムの池から水を汲んで1kmぐらいの道を上り、神殿の祭壇に水を注ぎました。これは、終わりの日に、神殿から水が流れ出ることを期待しての儀式でした。イエスは、その一連の儀式が終わった翌日に、ご自身に信頼する者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るという途方もないことを言われたのです。これは、イエスを信じるすべての者に、聖霊が与えられ、その人の身体が神の宮とされ、その人自身が、まわりの人々を祝福する泉とされるということを意味します。

  イエスは、「聖書が言っているとおりに」と言われましたが、それはどの箇所を指すのでしょう?主はイザヤを通して、「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」(44:3)と、地を潤す水と、人を生かす霊を並行して描かれました。また、主は同じく、「あなたは、潤された園のようになり、水のかれないみなもとのようになる」(58:11)と、人の内側にエデンの園が生まれると約束しておられます。つまり、新しいエルサレム神殿から生ける水の川が流れ出るという約束は、聖霊によって、まず私たち一人一人のうちに霊的に実現することです。そして、それが可能になるのは、私たちがイエスご自身に信頼することです。私たちの中で、イエスが真に救い主、癒し主、あがない主として認められるときに、イエスが私たちを通して働かれ、私たちの周りに生ける水の川を流れさせてくださるというのです。自分の可能性を自分で閉じてはいけません。主があなたを世界の祝福の泉としてくださると約束しておられるのです。

  エゼキエルを通して、私たちは目先の問題の解決を考える前に、主のために時間と財と心と身体を聖別することを優先しなければならないということが示されます。そうするとき、主が私たちを通して働かれるのですから。

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2010年1月17日 (日)

エゼキエル36章16節~39章「神のみわざに心を開く幸い」

                            2010117日         

旧約聖書を初めて通読した頃、私はいつも自分の不信仰に悩んでいました。しかし、エゼキエル3626節の、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」というみことばに深く感動しました。しかし、その後、信仰生活を続けながら、「新しい霊」を授けていただいたという実感がなかなか味わうことができなくて空しさを覚えました。しかし、「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ・・」という渇きを覚えている中で、37章には、神の救いのみわざは「干からびた骨」「いのち」を与えることにあると分かり安心しました。救いは今、既に始まっており、世の終わりに完成するという息の長い神のご計画が見えてきたからです。しかし、それでも、この世の悪の勢力がいつまでも活発で、キリストの支配が見えないことがありました。しかし、38,39章に記されているゴグによる最終戦争の様子を見ながら、悪の勢力の断末魔の叫びのようなものが見えて、気が楽になりました。

私たちのまわりには、いつもいろんな期待外れのことが起きます。しかし、神ご自身がこの世界の歴史を、そして、私たちの人生の歴史を導いておられます。その中で、私たちに求められていることは、自分で自分の可能性を閉じる代わりに、神のみわざに心を開き、神から与えられた使命のためにいのちを燃やすことです。

1.「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」

主は、まずイスラエル王国を滅ぼされた理由を、「イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行いとわざとによって、その地を汚した」(36:17)と説明されます。彼らは、主が聖別された土地を汚してしまったのです。それで、主は「彼らを諸国の民の間に散らし」(36:19)ましたが、「彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した」(36:20)というのです。つまり、イスラエルは、主(ヤハウェ)の土地と、主(ヤハウェ)の御名の両方を汚してしまいました。目に見えない神は、目に見える人間を通してご自身を現されますが、神の民が世界中で嘲りを受けてしまうなら、同時に、ご自分の民を救うことができない無力な神として、ご自身の御名も嘲りの対象になってしまいます。主は、罪に応じて彼らをさばかなければならないのですが、そうすることによって、今度は、主ご自身の御名が世界中で嘲られてしまいます。主はそのようなご自身の葛藤を、「わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ」(36:21)と言われます。主は彼らの悔い改めを確認した上で祝福を与えたいと願っておられたことでしょうが、彼らの悔い改めを待つ間に、ご自身の御名が世界中で汚されることになってしまいます。それで、主は、イスラエルに祝福を回復して下さる理由を、「わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである」(36:22)と言われます。つまり、主がイスラエルの民のために国を回復してくださるのは、イスラエルの民が謙遜になったからではなく、ご自身の「偉大な名の聖なることを示す」(36:23)ためであられたのです。

私たちの場合も、敬虔さへの報酬として神のあわれみを受けたのではありません。主はご自身のあわれみと御名の栄光を現すために、不思議にも、「不敬虔な者を義と認めてくださった」と記されています(ローマ4:5)。そのことをパウロは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)と述べています。

主は不敬虔なイスラエルを敢えて救ってくださいます。そのことが、「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」(36:24)と説明されます。その際、彼らが再び神が聖別された土地を汚すことがないために、それに先立って彼らの身体と心をきよめてくださいます。「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」(36:25)とは、自分の身を汚してしまった人が宿営に入るためのきよめの儀式です。これは現代の洗礼式に結びつきます。

その上で、多くの翻訳では、26節から新しい文章が始まります。そこで、主ご自身が、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と断言しておられます。ここで、「新しい心」に関しては、「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」(36:27)と説明され、「新しい霊」に関しては、わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」と説明されます。イスラエルの民は、モーセとその後継者の預言者たちを通して、神のみこころを聞き続けてきました。それは約束の地にエデンの園のようなすばらしい国を建てることができるためでした。ところが、彼らは、そのせっかくの尊い教えに感動することも、それを守ることもできませんでした。それで主は、彼らに肉のような柔軟な「心」を与え、また、主の御教えを実行できるようにご自身の「霊」を授けてくださるというのです。聖霊は創造主ご自身です。主は私たちを上から指導する代わりに、何と私たちの内側に住んでくださるのです。

そして主が約束の地を回復させ、その真ん中に神が住まれるということが、「あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(36:28)と約束されます。そして、彼らは、神がその地を祝福してくださる中で、「あなたがたは、自分たちの悪い行いと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる」(36:31)というのです。つまり、悔い改めの結果として祝福を受けるのではなく、祝福を受けた結果として悔い改めるようになるというのです。

  そして、「このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』と・・・・このとき、彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(36:35、38)と神の救いが描かれています。つまり、イスラエルに対する神の救いのご計画とは、約束の地をエデン園のような楽園にし、それによって、人々が、主(ヤハウェ)をあがめるようになるということなのです。まさに、歴史の究極とは、エデンの園にあった神と人との関係が回復されることにあるのです。

2.「干からびた骨よ・・・わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」

37章には、干からびた骨に神の息が吹きかけられて、生き返るという興味深い不思議が描かれます。主は、まずエゼキエルをご自身の霊によって連れ出し、「谷間の真ん中に置かれ」ましたが、「そこには骨が満ち」、しかも、「その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた」というのです(37:1,2)。そして、主は彼に、「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」(37:3)と尋ねました。彼は、「主、ヤウェよ。あなたがご存じです」と答え、主は、「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主(ヤハウェ)のことばを聞け・・見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(37:4-7)と言われます。彼が預言していると、「音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった・・・その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった」というのです(37:8)。「しかし、その中に息はなかった」ので、主は、「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」(37:9)と言われます。すると何と、「彼らは生き返り、自分の足で立ち上が」りましたが、それは「非常に多くの集団」でした(37:10)。

  主は、「これらの骨はイスラエルの全家である」と解説しつつ、彼らは「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる」と絶望していると描きます。しかし、主はその状況を決定的に変えてくださるというのです(37:11)。主は、彼らを「墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く」(37:12)、そして、「わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる」と保障してくださいました(37:14)。神はご自身の民に聖霊を与え、約束の地をエデンの園のようにしてくださいます。そして、彼らは、「主(ヤハウェ)であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを」心から知るようになります。

  パウロは、これを前提にしながら、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言いました(Ⅰコリント15:20)。私たちは自分で自分の心を閉ざして、「もう何をやってもだめだ・・・私の望みは消えうせた・・・」と言ってしまうことがあるかもしれません。しかし、キルケゴールが、「絶望は死に至る病である・・それは永遠に死を体験することである・・・絶望は罪である・・・罪それ自身が善からの離脱である。しかし、罪についての絶望は再度の離脱である。当然のことながら、これは・・・恩寵と呼ばれる一切のものを単に空虚で無意味なものと見なすばかりでなく、自分の敵と見なし・・・強力に抵抗しなければならないと考えるに至るのである」と述べているように、私たちは、絶望によって、神の恩寵を敵視し、抵抗するということがあり得ます。しばしば、自殺が最大の罪であると呼ばれるのは、それが不可能を可能にしてくださる神の恩寵を軽蔑することにつながるからです。

神は、干からびた骨をつなげ、筋をつけ、肉をつけ、最後に、ご自身の息を与えて生き返らせてくださいます。そして、それが既に始まっています。そのことをパウロは、キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(ローマ8:10,11私訳)と言っています。「永遠のいのち」とは、来るべき復活のいのちが、今、ここから始まっていることを意味します。私たちのうちに宿っておられる聖霊は、創造主ご自身であられます。あなたがどれほど罪深く、心が暗闇に満ちていても、また、あなたがどれほど干からびた骨のような者であっても、創造主なる御霊は、あなたを一瞬一瞬生かしてくださいます。神に絶望してはなりません。ただし、主に向かって、「私のたましいは・・打ちしおれています(絶望しています)」(詩篇42:6)と告白することは、祈りの始まりになります。絶望感を味わうのは罪ではありません。それどころか、絶望できるということは、神のかたちに創造された人間であることの証しとも言えましょう。ただ、それを自分で抱え込んで、神に心を閉ざしてしまうことが罪なのです。神に向かって、自分の絶望感を告白しましょう。そのとき、キリストを死者の中からよみがえられた方の御霊が、あなたの中に働き始めます。

3.「ゴグ・・・を使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し・・」

37章15節から28節までは、主が、北王国イスラエルと南王国ユダに分かれ、滅びてしまった国を、新しいダビデによって統一し、約束の地において回復してくださるという預言です。イエスは、ダビデの子としてこの地に現れ、イスラエル全土を巡り歩き、新しい神の国がご自身によって始まっていることを宣言されました。そのメッセージの中心は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)というものでした。そのときイエスは、ご自身こそがこのエゼキエルが預言した新しいイスラエルの王であることを宣言しておられたのです。

しかし、イスラエルの民は、この方を十字架にかけて殺しました。それによってこの預言は無に帰したかのように思えました。しかし、そこから神の新しい救いのご計画が始まりました。なぜなら、イエスはイスラエルの王として十字架において肉のイスラエルの歴史を終わらせ、新しい霊のイスラエルの歴史を始めてくださったのです。クリスチャンこそが新しいイスラエルの民です。そしてイエスは、イスラエルの王であるばかりか、全世界の王として死者の中からよみがえられました。そして、新しい「神の国」は、地上のイスラエルの領土ではなく、全世界に広がっています。私たちは、新しいダビデのもとで、「新しい天と新しい地」が実現するのを待ち望んでいるのです。

  なお、エゼキエル38,39章には、ゴグとマゴグという不思議な勢力による新しいイスラエル王国への攻撃が起きながら、それが神によって簡単に押しとどめられるという様子が描かれています。黙示録では、「新しい天と新しい地」の実現に先立って、キリストとキリストに従う者たちによる千年間の平和の国の実現が約束されています(20章)。これは、短い三年半の大患難の時代に対比する長い地上の平和の時代を象徴的に描いたものです。そして、この千年の平和の後に起きる戦いのことがエゼキエル書を背景に、サタンは牢から解き放たれ、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴクを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。彼らの数は海辺の砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ」と絶体絶命の危機のように描かれますが、その結末は、「すると、天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」という驚くほどあっけないものでした(黙示20:7-10)。

 主はエゼキエルに、「メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、言え」と述べられますが(38:2)、マゴグは地名で、ゴグとは人名です。そして、ゴグは、「メシェクとトバルの大首長」と言われ、その支配地がイスラエルの北、現在のトルコ中央部に及んでいることが明らかにされます。そして、ここではサタンではなく主ご自身が彼らを動かす様子が、わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる」(38:4)と描かれます。その際、彼らの軍勢は、「ペルシヤとクシュ(エチオピア)とプテ(リビア)(38:5)からも集められ、それに、「ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる」(38:6)と言われますが、これらは黒海南部、現在のトルコ北東部、イラク北部、イラン西北部に広がる地域を指すと思われます。そして、「多くの日が過ぎて・・終わりの年」(38:8)に、ゴグに引き連れられた諸国の大軍は、新しいダビデのもとで繁栄を謳歌している新しいイスラエル王国に攻め上ります。その際、「あなた(ゴグ)につく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる」(38:9)とその勢力の大きさが強調されます。しかし、主は、「ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ」(38:16)と言われます。ゴグに導かれた軍隊の圧倒的な力は、主ご自身が地上のいかなる軍隊よりも強いことを示す契機となるのです。そして、大軍が「イスラエルの地を攻めるその日」に(38:18)、「彼らは剣で同士打ちをするようになる。わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる」(38:21、22)と、主ご自身がイスラエルの敵を滅ぼし、ご自分の民を守ると約束されています。

そして、この最終戦争を通して、主は、「わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。諸国の民は、わたしが主(ヤハウェ)であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう」(39:7)と言われます。そして、イスラエルの敵が残して行く武器は、七年間分の燃料になるほどに達すると言われます(39:9,10)。そしてゴグに従った人々を埋葬するのに七ヶ月もかかると言われます(39:12)。武器が燃やされ、敵の死体が丁寧に葬られるというのは、戦いが二度と起きないというしるしです。預言者イザヤも、「終わりの日に、主(ヤハウェ)家の山は、山々の頂に堅く立ち・・・主は国々の間をさばき・・・彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(2:2,4)と記しています。世界の人々は、この最終戦争の後に、主の前に何の武力も無意味であることを心から悟ることができるのです。

  そして最後に、主は本日の箇所のまとめとして、「今わたしはヤコブの繁栄を元どおりにし、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による・・・わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さずわたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ(39:25-29)と言われます。イスラエルの民の回復は、決して、彼らの悔い改めの実ではなく、「主の聖なる名のための熱心による」のです。私たちは一見、不条理に満ちた歴史に中に、万軍の主の熱心の証しをいたるところに見ることができるのです。そして、主は、この歴史を、ご自身の平和(シャローム)の完成へと導いておられます。私たちは、ときが来たら、世界の歴史の中に、また私たちの人生の歴史の中に、主の一方的なあわれみによる救いの歴史を見出すことができます。

  多くの人々が、自分の信仰に後ろめたさを感じながら生きていますが、私たちの信仰は、自分で得たものではなく、神が「新しい霊」を授けてくださった結果です。どれほど成長が遅く、退歩しているように感じられることがあっても、神の息、神の霊は、干からびた骨にいのちを与えることができます。干からびた骨に肉がつき、神の息が吹き込まれ生き返るというイメージを日々思い巡らしてみましょう。ただ、それでも、私たちの周りにある悪の勢力は、雲のようにこの世を覆っているように感じられることがあります。しかし、キリストはすでに「王の王、主の主」として、この地を支配しておられます。ハレルヤコーラスは既に天に響いています。神の支配は、この世の終わりと思えるような中でこそ明らかにされます。パウロも、様々な失望を味わいながらも、「今のときの軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:17、18)と断言しています。私たちは既に、神の救いのプロセスの中に招き入れられています。それに抵抗しながら生きるのではなく、それに身を任せながら、いつでもどこでも神にある自由と希望を体験させていただきましょう。

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2010年1月 3日 (日)

箴言16,17章「あなたのしようとすることを主(ヤハウェ)にゆだねよ」

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あなたにとって「ゆだねる」とは何を意味するでしょうか。ある人にとっては、それは「あきらめる」こと、つまり、自分で努力するのをやめること、またある人にとっては、いろんなことを事前に考えるのを止めて、大胆な計画にでも身を任せるせることかもしれません。しかし、そのどちらにも問題があるのは明白ではないでしょうか。聖書が勧める「ゆだねる」とは、何をするにもすべてを祈ることから始めることです。それはたとえば長距離ドライブをする前にまず神に祈るようなことです。運転は自分がするのですが、その運転する自分が注意散漫にならないように祈るのです。また、ゆだねるとは、恐怖心に打ち勝って大胆に生きるという以前に、自分の思い悩みを神に正直に打ち明けることでもあります。ゆだねるとは、自分の創造主に自分の心も身体も用いていただくという、真の自分らしさが生かされる歩み方です。そして、神にゆだねた生き方とは、何よりも一日一日を大切に生きることです。

1.「人の歩みを確かなものにするのは主である」

「人は心に計画を持つ。主(ヤハウェ)はその舌に答えを下さる」(16:1)とありますが、「計画」とは、「準備」とも訳すことができることば、「答えを下さる」とは、「答えは主(ヤハウェ)から来る」とも訳すことができます。ここでは、「計画」「人」に属する一方で、「答え」「主(ヤハウェ)」に属するという対比が強調されています。これは、私たちが心の中で将来への様々な思い巡らしをするときに、それを実行に移すという「答え」が与えられ、また、それが他の人に伝わる「舌」のことばとして明確化してくださるのは主ご自身のみわざであるということです。

そして、このみことばは、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(16:9)とほとんど同じ意味を持っていると思われます。私たちは何をやるにしても、人との協力が不可欠です。私たちのことばがなかなか他の人に伝わらないのは、主の導きがないことのしるしなのかもしれません。ですから、人に何かを分かち合う前に、何よりも優先して、主に向かって十分に祈るときが必要だと言えましょう。

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」(16:2)とありますが、「行い」とは、「道」「歩み」とも訳され、「たましい」とは厳密には「霊」と訳され、心の奥底に隠された「動機」を主が測られるという意味だと思われます。つまり、この箇所の意味は、人は、誰も、自分が正しい道を歩んでいると思い込んでいるのは常だとしても、主は心の奥底にある動機を見ておられるというのです。

これは、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(16:25)ということばと結びつきます。自分はまっすぐに歩んでいると思う人に限って、地獄への道を歩んでいるということがあるからです。たとえば、日本を戦争に駆り立てた指導者、バブル破綻の前に、土地は値上がりするという前提で会社経営や融資を考えた人々は、自分たちの方向は正しいと思いながら、人々を地獄の苦しみへと導いてしまいました。 

ですから、同じ「道」ということばを使いながら、「直ぐな者の大路は悪から離れている。自分のいのちを守る者は自分の道を監視する」(16:17)と言われるように、「自分の道」を注意深く監視するという必要があるのです。

とにかく、「私は見えている」「私はわかっている」と思うことの危なさをこれらのみことばから教えられます。「無知の知」という哲学用語があるように、何よりも、自分の限界を知ることこそ、最も必要な知識です。パウロも、「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」と言っていますが、それに先立って彼は、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の特を高めます」と、「知識」よりも、「神を愛する」ことを優先するように勧めました(Ⅰコリント8:1-3)。心の底に神への愛が見られない計画は空しいものです。

そして、これらすべてをまとめるように、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(16:3)と語られます。「ゆだねる」という原語の基本的な意味は「ころがす」で、「働き」を自分の手から主の手に明け渡すことを意味します。具体的に言うと、たとえば、何かの働きに着手するときに、「主よ、この働きの責任を担ってください。私はあなたの手足として動きますから・・・」と祈ることではないでしょうか。

  16章4節は、「主(ヤハウェ)はすべてのものを、ご自分の目的のために造られた」で一呼吸置いて、「悪者さえもわざわいの日のために」と続けて読むべきでしょう。これは、自分に害を加えようとする悪者のことで悩んでいる人に向けて、主が最終的なさばきを下さしてくださるという安心感を与えるために記されたものです。しかも、その悪者も、神のご支配の中で、私たちを鍛え、成長させるために用いられます。ですから、私たちに求められるのは、私たちに危害を加えようとする人に注意を払う以前に、常に、主の計り知れない遠大なご計画に思いを馳せ、今、主から課せられた課題を一歩一歩着実に成し遂げてゆくことです。

  「主(ヤハウェ)はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。恵みとまことによって、咎は贖われる。主(ヤハウェ)を恐れることによって、人は悪を離れる」(16:5、6)とはひとつのまとまりで理解すべきみことばです。私たちを苦しめる「悪」に関しての勝手な推測をする前に、主の「恵みとまこと」に信頼し、主の最終的なさばきにも思いを向けながら、今を大切に生きることこそが、主のみこころです。

そして、そのことを励ますように、「主(ヤハウェ)は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる」(16:7)と言われます。大切なのは、常に、主に喜ばれるような行いを心がけることです。そのとき、かつて、兄たちの手によって奴隷に売られたヨセフが兄たちと和解ができたように、主がどのような不当な苦しみをも益に変えてくださいます。そして、「正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる」(16:8)とあるように、目先の損得勘定を越えて、主のみこころを第一に生きることが何よりも大切なのです。

主は、あなたのこの地上における働きに深い関心を持っておられます。あなたのすべての働きは、お金のためにあるのではなく、「神の国」をこの地に広げるという、より大きな働きの一部です。あなたは主から召されて、この世の仕事や家庭の仕事に着いているのです。ですから、大胆に、その働きを主にゆだねて行きましょう。たとい、あなたの働きを邪魔する悪者がいたとしても、それも主の御手の中で起こっていることに過ぎません。そのような邪魔者が、あなたを謙遜にしてくれます。それと同時に、あなたが自分の仕事の中で神の御名をあがめているとき、主は、あなたの敵をもあなたと和解させ、主があなたに託した計画を実現するために用いてくださいます。

2.「自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(16:18)というみことばは、人生の真理を端的に言い表したみことばです。それは、平家物語の冒頭に、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」とある通りです。そして、これとセットで、「へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる」(16:19)と描かれます。人の心の奥底には、「強者に対する愛と無力者に対する憎悪」のようなものが巣食っていると言われます。しかし、そこに生まれるのは、無限の競争と恐怖です。それよりは、自分の弱さを自覚している人々とともにいる方がずっと心が安らぎます。キリスト者の交わりとは。「心(霊)の貧しい者は幸いです」と言われるような、自分の心の貧しさを自覚した者たちの交わりです。そこでは、強がりを捨てることができます。同時に、そこでは決して、自分を信仰深く見せる必要もありません。信仰は神の賜物だからです。

これは、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(17:1)という有名なみことばとセットにして味わうことができます。このみことばは、この世的な豊かさを追い求める人への何よりも警告のことばです。実際、いつもお金に困っているような家庭が、狭い家で肩を寄せ合いながら幸せいっぱいに生きていて、反対に、人もうらやむような豪邸に住み、床暖房で温まり、おいしい食事をしながら、互いの心の冷たさが感じられ、心が寒くてたまらないということがありえます。残念ながら、この世では、豊かさと平和が両立するのは本当に難しいものです。なぜなら、富は、多くの場合、人を高慢にしてしまうからです。お金を払えばあなたに頭を下げてくれる人はこの世にいくらでもいるからです。しかし、そのような高慢な気持ちで家族や友人に接するなら、そこには争いが生まれます。しかし、そうは言っても、「ごちそうと争い」ではなく、「ごちそう」と「平和」がセットになるような家庭を望みたいのが人情です。そのために何よりも必要なのは、強がりを捨て、自分の心の貧しさを謙虚に認めることです。この世の生活での人間のストレスのほとんどは、人間関係から生まれます。「貧しさ」よりも、「争い」こそがストレスになります。ですから、「心の貧しい者」どうしの「平和」を何よりも求めるべきなのです。

「働く者は食欲のために働く。その口が彼を駆り立てるからだ」(16:26)とは、何とも空しい表現です。伝道者の書でも、「人のすべての労苦は、その口のためにある。しかし、その心は決して、満ち足りることはない」(6:7私訳)とあるばかりか、「風のために労苦して、それが何の益となろうか。しかも、一生の間、闇の中で食べる。苛立ち、病、怒りは尽きない」(5:16,17訳)とあるように、糧を得るために働きながら、そこにいつも、苦しみが伴っている空しさが描かれています。ただし、その結論は、「日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ」(9:9私訳)と記されています。つまり、動物的本能に駆り立てられ、豊かさを追い求めて必死に働くよりも、日々の労苦の中で、愛する人との食事の交わりを楽しむことの方がずっと、人生を豊かにできるのです。拙著の伝道者の書の解説でも記させていただきましたが、音楽家として最高の成功を収めたジョン・レノンにとって、富と名声は精神的なストレスにしかなりませんでした。彼にとってのしあわせは、愛するヨーコとの静かな生活にありました。それを思いながら、自分も洋子との生活を大切にしなくてはいけないと思いました。今、おひとりで暮らしておられる方も、愛する友との落ち着いた交わりこそが、人生最高の喜びであるということは変わりません。つまり、豊かさよりも、目に見える人との平和をこそ、私たちは第一に求めるべきです。

そして、その際、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」(16:32)というみことばこそ、人と人との平和の鍵です。私たちは、「怒り」の感情に振り回されることによって友を失います。どんなに強い「勇士」でも、一人では何もできません。私たちの生活には、いつも、怒りの連鎖があります。会社で大きなストレスを受けたため、心が不安と怒りに満たされ、それが妻にぶつけられ、妻が子供に怒りをぶつけ、子供は学校で弱いものいじめをしてしまうというようなことはあってはなりません。

私たちは、何にも増して、「自分の心を治める」ことが求められています。それは、「町を攻め取る」ほどの大勝利にまさって私たちが目指すべきことです。そのために、「怒り」は、人に対してではなく、主にまず告白すべきでしょう。そのためには、何よりも、詩篇の祈りが役だちます。自分の味わっているストレスを主に向かって、主のみことばを用いて告白できるとき、そこに御霊の助けが与えられます。私たちは自分で自分の心を治めることはできません。しかし、主の御霊が、私たちに力を与え、自分の心を治めることができるように助けてくださるのです。

聖書は、決して、清貧ばかりを教えはしません。豊かさは、神の祝福の現われとして多くの場合描かれています。しかし、豊かでありながら、謙遜であり続けることは非常に難しいことです。ですから、私たちは、いつでもどこでも、「自分の心を治める」ことを第一に求め、自分の心の王座を常に主に明け渡すことが大切なのです。

3.「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者」

「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者」 (17:9)において、「おおう」とは、「隠す」とも訳すことができ、そむきの罪をあらわにすることとの対比です。また、「同じことを繰り返して言う者は、親しい友を離れさせる」とありますが、これは人の過失を責め続けたり、相手の欠点を指摘し、矯正してあげようなどという余計なおせっかいをすることで、友を離れさせてしまうということです。ただ、それは相手の過ちを見て何も言わないということではありません。「悟りのある者を一度責めることは、愚かな者を百度むち打つよりもききめがある」(17:10)とあるように、聞く耳のある人には、一言で責めるだけでわかってもらえます。一言でわからない人は、何度言っても通じません。

  「ただ逆らうことだけを求める悪人には、残忍な使者が送られる」(17:11)とは、忠告に耳を傾けようとしないときに起きる危険です。残念ながら、人は痛い目にあって初めて自分の悪い習慣をやめることができるという面があるからです。この関連で、「愚かさにふけっている愚かな者に会うよりは、子を奪われた雌熊に会うほうがましだ」(17:12)と言われます。子を奪われた目熊は、恐ろしいほどに獰猛になりますが、それよりも、愚か者の仲間になるほうがはるかに危険なことだと言われます。すべての人は、神の最終的なさばきの座に立たされることになるからです。「善に代えて悪を返すなら、その家から悪が離れない」(17:13)とは、悪には大きな伝染力があるからです。

  「争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ」(17:14)とは、水が大きく噴出してしまってからは止めようがなくなるのと同じように、争いは起こる前に、それを未然に防ぐ努力が大切だというのです。私たちはストレスがたまりすぎると、それがどこかで爆発します。しかし、それは、「売り言葉に買い言葉という」相手のさらなる攻撃を招くことになる場合がほとんどです。大切なのは、人の過ちを真っ向から指摘する代わりに、「あなたの言動は、私の心にはこのように響いてしまう・・」と、あくまでも、自分自身の心の過敏さ、自分の心の不安定さが問題であるかのように、相手に知らせてあげることです。すると、相手も、自分の正義を必死に主張しようとする代わりに、相手を傷つけないような言動を心がけようと思うことでしょう。争いを起こさないための秘訣は、正義を主張する代わりに、「愛が目覚めたいと思う」(雅歌3:5)ように助けることにあります。

そして、「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう」(17:15)とありますが、イエスの十字架は一見、悪者を義(正しい)とするために正しい者に罪を負わせたように思えます。しかし、イエスは私たちを罪の力から解放するためにご自身で私たちの罪を負われたのでした。十字架を法廷の概念のみで説明しようとするとき、そこに矛盾が生まれます。私たちが人の罪をおおうのは、何が正しくて何が悪いかをうやむやにすることではありません。イエスの十字架は、私たちの罪をご自身で負うことによって、私たちを罪の負い目から解放し、私たちが新たな気持ちで、自分に関する限り、神の前に正しくあろうとすることです。

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」(17:17)とありますが、私たちの人間関係の基本は、相互援助(ギブアンドテイク)関係がベースになりがちです。しかし、それ以前に、私たちはともに生きる、寄り添い合うという関係自体こそが人間関係の基本であることを覚えるべきでしょう。ただそばにいてくれるだけで心が休まるという関係は何にも変えがたい宝物です。

そして、「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」(17:22)とは友情と密接に結びついています。ドイツのことわざに、「分かち合った喜びは二倍の喜び、分かち合った苦しみは半分の苦しみ」というのがあります。私たちはそのような人間関係を持っているときに、陽気でいられる時間が長くなり、陰気な時間が短くなり、結果的に身体の健康をも保つことができます。陰気を受け入れあうことで陽気になれるという道を目指したいものです。

「自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者」(17:27)とありますが、真に知識に富む者は、自分の自慢話も、また人の同情を求めることばも必要としません。それは心(霊)の冷静さと結びつきます。その関連で、「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」(17:28)といわれますが、残念ながら、愚か者は、自分の愚かさを隠すために、いろんな知識をひけらかしますが、それは結果的に、愚かさを宣伝することにしかなりません。反対に、口を閉じていれば、たとえ愚かであっても、知恵のある者、悟りのある者と思われると記されますが、これは私たちの心を楽にする教えでしょう。それは、自分を賢く見せようとして墓穴を掘るという空回りから私たちを救い出してくれます。私たちに何よりも必要なのは、人に向かって口を開く前に、私たち自身の「心」を創造主に向かって開くことではないでしょうか。

私たちはこの世界で生きる中で、さまざまな不条理に直面します。そのような中で、私たちはキリストの御跡に従うように召されています。それは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Ⅰペテロ2:22、23)というものでした。その生き方は、悪に無抵抗を貫くという以前に、「正しくさばかれる方にお任せする(ゆだねる、明け渡す)という神に信頼する積極的な生き方でもありました。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(同2:24)とありますが、私たちが求めるべき「いやし」とは、何よりもイエスの十字架により、神との関係が回復されることにほかなりません。そのことが、「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(同2:25)と述べられます。私たちは自分が羊のように弱くおろかであることを正直に認めて、すべての働きを、私たちのたましいの牧者であり監督者である創造主との関係ですすめる必要があります。

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