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2010年3月28日 (日)

ルカによる福音書23章32-49節 「十字架上で輝くイエスの愛」

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  ルカが描くイエスの十字架の場面は、何と美しいことでしょう。十字架刑という最もおぞましい刑罰が、そのみにくさの描写を最小限に抑えながら、イエスが死に至るまで隣人を愛し、神に信頼し続けた様子が描かれています。十字架は、救い主の悲劇ではなく、愛の勝利として描かれています。イエスはご自分を十字架にかけた人々のためにとりなしのいのりをささげ、そして、隣に十字架にかけられた強盗に、「あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます」と約束され、神のみわざに信頼しながら、ご自身の霊を父なる神に明け渡されました。それは後の聖霊降臨につながるストーリーです。そして、今、イエスを導いたと同じ御霊が私たちに与えられています。私たちがどんなに弱くても、イエスの御霊が、私たちのうちに生き、イエスに習うことを可能にしてくださいます。

1.「そむいた人たちとともに数えられ・・・そむいた人たちのためにとりなしをする」

イエスの十字架刑の様子が、「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に」(23:32、33)と描かれています。十字架刑は当時、最も忌み嫌われた残酷な刑罰でした。両手が広げられ、大きな釘を手首に刺して、木に吊り下げ、息が切れるまで放置されます。そこには想像を絶する肉体的な苦しみがあると同時に、人々のあざけりとののしりを受けるという精神的な苦しみがありました。この刑罰の目的は、何よりも見世物にして、人々にローマ帝国に逆らうことの恐怖を植えつけることにありました。

なお大昔は、犯罪人を剣で殺した上で、木にさらしものにするのが一般的でした。ですから申命記21章22,23節には、「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときには、その死体を次の日まで残しておいてはならない。その日のうちに埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」と記されています。ところが、イエスの時代は、生きたまま木にかけてさらしものにし、全身の血が下に下がり、呼吸困難で死ぬのをただ待つという残酷な刑罰に変わりました。それにしても、「木につるす」ことの最大の意味は、犯罪人に対する「のろい」の宣告であることに変わりはありません。使徒パウロはこれを前提に、十字架の意味を、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)と記しています。聖書は、イエスの苦しみの様子を描写する代わりに、その苦しみの意味を告げようとしています。

しかも、イエスは、最後の晩餐の席で、ご自身のことを、「あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです」(ルカ22:37)と言っておられました。それはイザヤ書52章13節から53章12節まで続く、「主(ヤハウェ)のしもべの歌」の最後のことばからの引用でした。そこでは、「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」と記されています。イエスがふたりの犯罪人(マタイでは「強盗」)の間にはさまれて十字架にかけられたのは、この悲劇が神のご計画の中にあったということの何よりのしるしです。

イエスの十字架は、イエスが罪人たちの仲間になるほどまでに私たちに寄り添ってくださったこと、また、神にのろわれた者の代表者となるほどまでに、罪人たちと一体になってくださったことのしるしです。人によっては、自分のような者は神に愛される資格がないと言うかもしれませんが、イエスはそのような絶望を味わう者の仲間となってくださいました。十字架とは、イエスが、神に見捨てられたと失望する者たちと一体となってくださったしるしです。

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』」(23:34)とは、先にイザヤが、「そむいた人たちのためにとりなしをする」と預言したことの成就でもあります。それにしても、イエスは何とここで、自分を十字架にかけた張本人たちの罪の赦しを請い願っておられます。それは先にイエスが、「彼らが生木にこのようなことをするなら、枯れ木には、いったい、何が起こるのでしょう」(23:31)と言っておられたように、民衆を扇動したユダヤ人の宗教指導者のためのとりなしの祈りだと思われます。

イエスは、彼らを「枯れ木」と呼び、神のさばきが彼らの上に下ることを目の当たりに見ておられたからこそ、彼らの罪の赦しを願ったのです。パリサイ人のような見せかけだけの信仰者に対する神の厳しいさばきがあるということを前提として、イエスのとりなしの祈りがあるということを忘れてはなりません。それにしても、イエスは、彼らの罪の赦しを願うに当たって、「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言っておられます。彼らは神の前に正義を行っているつもりでイエスを十字架にかけるように訴えました。それはかつての日本が太平洋戦争を始めたことに似ています。無自覚の罪こそがより多くの人々を、想像を絶する苦しみに追いやるものです。「わからない」から赦されるというのではありません。彼らは分かろうとしなかったのですが、それにも関わらずイエスは赦しを願っておられるのです。しかも、これはイザヤの預言の成就ですから、イエスのとりなしの祈りは、私たちすべての罪びとに及ぶものです。それは、53章6節で、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。しかし、主(ヤハウェ)は、私たちすべての咎を彼に負わせた」と記されている通りです。

  その上で、「彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた」とありますが、この「彼ら」とはイエスを実際に十字架につけたローマの兵士たちです。彼らにとってイエスが身に着ていた着物は、イエスと無関係な商品になっていました。彼らにとってイエスはもう生きた人間ではありません。彼らの関心は、イエスの着物を後に転売して、お金を儲けることに向かっていました。当時の人々にとって衣類は希少価値があったからです。そして、これも、詩篇22篇18節に「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」と記されていた通りのできごとでした。ちなみに、この詩篇はイエスの千年前のダビデによって記されたものですが、その最初のことばは、「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」というイエスの十字架の叫びそのものでした。

  イエスは、イザヤ書や詩篇に記されているみことばを黙想しながら、それをご自分で生きて行かれました。そして、イエスの十字架には何よりも、私たちすべての苦しみ悩み、そして、罪と咎を担うという意味がありました。

2.「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」

ところが、イエスが聖書に記されている通りの救い主として十字架にかかっていることを理解できない人々は、この世の常識に従って、十字架を偽預言者の証拠と見て、あざけり続けました。その様子が、「民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え』と言った」(23:35-37)と描かれています。興味深いことに、イスラエルの指導者たちも兵士たちも、「救い主なら、自分を救うことができるはず・・・」と言っています。この世は、自分を救うために他人を犠牲にする人々で満ちています。もし、彼らが、イエスは実際に他人を救うことができたということを認めているのなら、どうして、少なくともイエスに同情することができないのでしょう。兵士たちの使命だって、本来は、国を救うために自分の身を犠牲にすることにあるはずなのに、彼らは生活の糧を得るためだけに兵士になっていたような人々だったのでしょう。イエスに向かって、「自分を救え」とののしる人々の発想の貧困さに愕然とするばかりです。そして、残念ながら、今も、他人を救うためにご自分の身を犠牲とするような生き方を軽蔑するような風潮があります。

 そして、十字架のイエスの頭上には、「これはユダヤ人の王」(23:38)と書いた札が掲げてあったというのですが、これこそ、イエスの死の意味を表しています。イエスは、まさに「ユダヤ人の王」として、彼らのすべての罪の身代わりとして十字架にかかっておられたのです。聖書には、神にそむくユダヤ人たちの上に、神の「のろい」が下ると警告され続けていますが、イエスは彼らが負うべき「のろい」を、彼らの王として引き受けておられたのです。聖書には繰り返し、イスラエルの民は、自業自得で神ののろいを受けた後に、神が彼らをあわれみ、彼らのために新しい祝福の時代を始めると約束されていました。そして、イエスを自分たちの王と認めたユダヤ人から新しい神の民が始まり、私たち異邦人もその神の民の根に接木され、仲間に加えられたのです。イエスの十字架は、神のさばきが成就したというしるしです。ですから、イエスにつながる者は、もう神のさばきを恐れる必要はなくなりました

  ところが、「十字架にかけられていた犯罪人のひとりは」、イエスに向かって兵士たちと同じように、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と悪口を言いました(23:39)。彼はこの時に至っても、自分の罪を認めていません。彼こそは、明確な罪のさばきを受けながら、「こんな自分に誰がした。俺は運の悪い犠牲者に過ぎない」と、社会をのろいながら死に行く人々の代表者と言えましょう。「盗人にも三分の理」ということわざがあるように、人は基本的に、自分の罪を認めることができません。それは、人類の父祖、アダム以来の伝統です。

  「ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめ」ながら、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と言いました(23:40、41)。自分が受けている刑罰を、当然の報いと受け止めること自体が、彼の心の真実さを表しています。そればかりか、彼は、「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(23:41)と驚くべきことを述べます。これは群集や兵士たちが、イエスを「自分を救え」と罵ったのとは正反対です。彼は、イエスの苦しみが偽預言者の報いではなく、義人としての苦しみであると認めることができたのです。残念ながら、現在のキリスト教会でさえ、病気にかかった人に向かって、「あなたには何か反省すべきことがあるのではないですか・・・」と言う人がいるほどですから、この犯罪人が、となりの十字架にかかっている人が何の悪いこともしていないと断言できたのは、驚くべきことです。それは、彼が、イエスが十字架にかけられながら、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られた様子に心から感動し、イエスが、神に選ばれ、愛されている者として苦しみに会っているということを確信したからでしょう。聖書のヨブ記にもあるように、苦しみは、神に特別に目にかけられ愛され、期待されていることのしるしでもあるからです。

そして彼は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(23:42)と願いました。これは、厳密には、「あなたの国に来られるときには、私を覚えてください」と訳すべきでしょうが、新改訳は、この犯罪人は、イエスが神の右の座につく救い主であるとわかっていたと解釈して、このような意訳をしているのだと思われます。どちらにしても、彼は、「御国に来られるとき」と言っているのですから、「私を天国にいっしょに連れて行ってください」と言ったわけではありません。この人は、少なくとも、イエスはこの世を去ってゆく方ではなく、ご自身の国をこの地に建てる方であると認めていたと言えるのではないでしょうか。彼は、イエスがたとい十字架で死んでも、再びこの地に来て、エゼキエル37章の預言のように死人をよみがえらせると信じたのかもしれません。彼がどの程度の理解をしていたかは不明だとしても、少なくとも彼は、イエスが確かに救い主であって、この肉体的な死は、人生の終わりではないということを認めていたことは確かです。ただし、それは、彼にとっては、自分が死んで、しばらく経過した後に実現するはずの「神の国」に関することとしか思えなかったことでしょう。

イエスの答えは、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます」(23:43)という驚くべきものでした。この犯罪人は、いつの日か実現する神の国への希望を告白していたのに、イエスは、「きょう」の救いを保障してくださいました。また、「パラダイス」の中心的な意味は「庭園」で、当時は失われたエデンの園を指す言葉としても用いられました(黙示2:7)。それは俗に言う「たましいの終着点」としての「天国」というより、復活して「新しいエルサレム」に入れていただくまでのたましいの休息の場所を意味しました。どちらにしてもイエスの強調点は、今、このときから、あなたはわたしから引き離されることはないと保証することにありました。強盗の罪で十字架にかけられ、何の悔い改めの実を結ぶこともできなかった強盗に向かって、イエスは、「あなたはきょうから、神の国の完成に至るまで、ずっと、わたしとともにいる」と保障してくださったのです。これこそ福音の核心です。この強盗は、自分が罪の当然の報いを受けていると謙遜に認めた上で、ただ、「私のことを忘れないでほしい。覚えていてほしい」と願っただけなのですが、イエスは、はるかに大きな保障をくださいました。死後に地上で行った悪事の清算をしてからというのではなく、きょうから、イエスとともに「喜び(エデン)の園」に住むというのです。

この犯罪人の祈りは、「主よ、私をあわれんでください」と願った盲人の祈りと同じです。彼らは自分が救いに値する人間だと思ったのではありません。私たちは、どこかで、イエスを信じるという自分の信仰の功績によって、天国行きの切符をもらえると思う傲慢なところがあるかもしれません。そして、その裏返しとして、「こんな不信仰では救っていただけない」と自分を卑下して落ち込むことがあります。しかし、イエスに喜ばれる信仰とは、単に、乞食のように、「私をあわれんでください」と謙遜に願い続けることだけなのです。それに対して、イエスは、「あなたは、きょうから、わたしのいるところにともにいる」と約束してくださるのです。救い」は、死後に用意されていることではなく、今ここから始まっていることであり、それは自分の惨めさを理解するすべての人に約束されていることです。

とにかく、イエスの喜ばれる信仰とは、「信念と確信に満ちた良い心がけ」というようなものではありません。信仰とは、自分が救いに値しない者であることを謙遜に認めながら、なお、あきらめずにすがる心です。イエスは、ご自分にすがりついて来る者をすべて受け入れてくださいます。あなたは自分の信仰の弱さに悩むことがあることでしょう。しかし、「私をあわれんでください」と願うことだけはできるのではないでしょうか。それで十分なのです。

3.「父よ。わが霊を御手にゆだねます」

  イエスの十字架の際の様子が、「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた」(23:44)と描かれます。これは、雲がかかったというのではなく、太陽自身に変調が起きたことを示しています。アモス8章9節では、神はご自身のさばきを下すとき、「わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くする」と預言されています。つまり、イエスの十字架は、この世に対する神のさばきが実現したというしるしだったのです。そして、神のさばきが成就することは、祝福の時代が始まるしるしでもあります。

そして、続けて、「また、神殿の幕は真っ二つに裂けた」と不思議なことが描かれています。これは神殿の中の聖所と至聖所を隔てる幕で、大祭司が年に一度、民全体の罪のきよめのために入るときに開けられる幕でした。イエスの十字架の苦しみのときに、この幕が真っ二つに裂けたということは、イエスの十字架は、すべての民の罪の贖いとなったということのしるしです。ヘブル人の手紙は、「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」(ヘブル10:19,20)と記されています。

  そして、イエスの死の様子が、「イエスは大声で叫んで」、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言われ、その上で、「息を引き取られた」と描かれます(23:46)。これは、詩篇31篇5節で、ダビデが自分の敵に囲まれた絶望的な状況の中で、「私の霊を御手にゆだねます」と祈っていたその祈りのことばそのものです。なお、これは、しばしば、生きることをあきらめることばかのように理解されますが、これは本来的に、神の救いのみわざへの大胆な信頼の叫びです。事実、詩篇31篇では、これとセットで、「真実の神、主(ヤハウェ)よ。あなたは私を贖いだしてくださいました」と記され、少し飛んで、「主(ヤハウェ)よ。私はあなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』 私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から救い出してください」(同14,15節)という祈りにつながります。ですから、この祈りには、「わが神、わが神、どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と同じように、ご自身が死の滅びから救い出されることを願うという意味が込められています

そして、イエスの復活は、この祈りが答えられたというしるしです。イエスは、死を超えたいのちを目の前に見て、祈っておられました。多くの日本人は、「ゆだねる」ことを、「あきらめる」ことと混同しますが、それは正反対の意味です。しかも、イエスの祈りは、ダビデと異なり、「父よ」という親密な信頼のことばから始まっています。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」という祈りは、今ここでの、いのちの輝きを求めるすべての人にとっての模範です。

しかも、続く、「息を引き取られた」ということばは、原文では、「わが霊を委ねますと言って、霊を出されたと記されています。これは通常の死の描写ではありません。イエスの死は、確かに、ご自分の霊を父になる神に明け渡されたという瞬間でもありました。この福音書では、イエスの公生涯が、ヨハネからバプテスマを受けたときに、「天が開け、聖霊が、鳩のような形をして・・・下った」という記述から始まり、「聖霊に満ちたイエスは・・・御霊に導かれて・・・御霊の力を帯びて」と記述とともに描かれ始めます。そして、その続編である使徒の働きは、弟子たちの上に御霊が炎のようにくだったことから始まります。イエスが御父にゆだねた「御霊」は、主の昇天後、弟子たちの上に下りました。そして、今、イエスの生涯を導いたと同じ神の御霊が、私たちに与えられているのです。

  イエスの死は、新しい世界の始まりを意味しました。そのしるしが、「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった』と言った」(23:47)と描かれています。百人隊長はそれまで何人もの死の様子を見てきました。しばしば、「人は生きてきたのと同じように死んでゆく」また「人の生き様は、死に様に表される」と言われますが、百人隊長は、イエスの死の姿の気高さ、崇高さに圧倒されたのではないでしょうか。それで、彼は、イエスの死は、まさに神に愛され、期待された主のしもべとしての姿であることを告白したのです。

「また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った」(23:48)とは、イエスの死の姿を見て、人々からあざけりの声が消えたことを示しています。

「しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた」(23:49)と記されているのは不思議です。使徒をはじめとする男の弟子たちのことは描かれていません。彼らは臆病にも、逃げ去っていたからです。一方、イエスに従った女の弟子たちは、目をそむけることもなく、イエスの死の様子を見続けていました。そして、彼女たちこそがイエスの復活の最初の証人となります。

  イエスとともに十字架にかけられた犯罪人ほどに、世界中の人々に慰めと希望を与える人がいるでしょうか。ある意味で、彼こそ最高の伝道者です。私たちはいつも自分の価値を、この世界で何を達成したかによってはかろうとします。しかし、彼は、何もできなかったからこそ、そこでイエスの愛の奇跡を誰よりも証する人になりました。フランスのテゼー共同体は、十字架の強盗の祈りをそのまま歌にしています。Jesus remember me, when You come into Your Kingdom私たちも強盗と同じ気持ちになってイエスにこのように祈って見ましょう。それに対して、イエスは、「きょうから、世の終わりまで、わたしはあなたとともにいる」と約束してくださいます。そして、イエスはご自身の御霊を私たちに与え、私たちがイエスに習って隣人を愛し、神を愛し続けるのを可能にしてくださいます。

  自分で自分を救うことができると信じていた人々は、イエスをあざけりました。しかし、イエスにすがることしか自分の希望はないと悟った十字架上の犯罪人は、結果的に、史上最高の伝道者とされています。私たちも本当の意味で、「生きたい!」と願うなら、「イエス様、私を覚えてください。あわれんでください」と祈るしかないのです。

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2010年3月21日 (日)

エペソ2章1-10節「あなたは、どこから、何のために救われたのか」

                                           2010321

  「天は自ら助くるものを助く」(God helps those who help themselves)ということばは、古代ギリシャの有名な格言ですが、それがキリスト教会の中でも広まっています。これは、確かに一面の真理を表しています。私の妹は、結婚に失敗し、シングル・マザーとしてふたりの子供を育てました。新聞配達から木の枝の籠細工、洋裁、スキーのインストラクター、社交ダンスのインストラクターなど、いつも忙しくしています。今年はじめに私が帰郷し、スキーを一緒にしたとき、政府の生活保護政策は、怠惰な人間をますます怠惰にし、世の中をますます悪くしている・・・と熱く語っていました。彼女からしたら、キリスト教会も、めぐみばかりを強調し、人間を怠惰にする教えに思えるのかもしれません。しかし、そうは言っても、「自分で自分を助けよう」としても、それさえできないどん底の状況に追い込まれている人もいます。また、精神的に生きる気力さえ失っている人もいます。そんな人にとっては、「天は自ら助くるものを助く」というのは、強者の論理に聞こえることでしょう。そんな矛盾に、本日の箇所は、すべてが神の一方的な恵みであると徹底的に強調した後に、「私たちは神の作品であって・・・神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」(2:10)と語っています。聖書は、自助努力を否定する教えではありません。かえって、私たちのうちに、神の視点から見た「良い行いをする力」を生み出すものなのです。

1.「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」

 最初の文章の中心は、あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・(それらの中にあって)歩んでいました」(2:1)と記されています。これは、「死んでいたのに・・歩んでいた」ということ、つまり、「あなたがたは、生けるしかばねだった」という意味になります。しばしば福音的な教会では、「救われた」ということばが多く用いられます。しかし、「どのような状態から救われた」かを、未信者の方にわかるように伝えられるでしょうか?

  先日も大学時代の国際交流のサークルの同窓会に参加してきました。彼らの多くは、いわゆる一流商社や金融機関で忙しく働いてきながら、第一線からは外れつつあり、人生のむなしさを切々と感じています。そして、私の生きがいに満ちた様子を見て、その働きを評価してくれながらも、「俺ももっと落ちぶれたら、お前のところにやっかいになろうか・・・」などと言ってくれます。約30名集まった人々の中で、七割の人々が、私の本を買ってくれましたが、敢えて、「今回の本は、みんなに読んでもらいたいと思って書きました・・」と熱く語ったところ、一部の先輩から冷ややかな視線を感じました。幸い、自分の弱さを自覚しているひとりの千葉在住の方は、今度、ぜひ訪ねて来たいと言ってくれましたが、教会は、落ちぶれた人々の集まる所と思っている人が少なからずいるのかもしれません。そして、自分が切羽詰った思いになって初めて聖書の教えを知りたいと思いますが、それ以前に、あまりにも熱く語られると、まるで自分が馬鹿にされたように感じるという人は、少なからずいるのかもしれません。

  「罪過と罪の中に死んでいた」というのは不思議な表現です。ある方は、アメリカ留学中に、自分のステレオタイプなクリスチャン像がことごとく砕かれ、クリスチャンの友人の自由な生き様に非常に魅力を感じたとのことです。ただ、同時に、「罪とは何だろう・・、頼んでもいないのにイエスが十字架にかからなければならないほどの罪を自分は犯しているのだろうか・・・」と疑問に思いました。ただ、そこで、聖書が語る「罪」とは、何かとんでもない悪いことをしたという以前に、的外れな生き方をしていることを指していると教えられ、納得できました。それまで、彼女の心には、「自分はどこから来て、自分は何者で、どこに行こうとしているのか・・」という問いかけがいつも、心に響いていたからです。確かに「罪」の語源の第一義的な意味は「的を外す」という意味があり、また、「罪過」には「立っているべきところから落ちた状態」という意味があります。つまり、これは見当違いの方向で必死に生きている人々、また、見当違いの確信に立っている人々を指しており、神を知らずに生きている人々すべてに当てはまることばです。実は、「神の救いを求めなければならないほどには自分は落ちぶれてはいない・・・」などと強がって生きているすべての人が、神の目からは「罪過と罪の中に死んでいる」人々なのです。

  今の日本の現実を見るにつけ、心が痛みます。多くのサラリーマンは、会社が存続できるかどうかという恐怖の中で、残業代を請求できないのはもちろん、仕事への徹底的な献身を求められています。残業代なしに働かされられるなどというのは、ドイツなどでは決して想像できないことです。もし、収益が上がらない中で仕事量が増えるなら、互いの賃金を減らしてでも、ワークシェアリングで雇用を増やそうという動きが出てきます。過労死などということばが国際語になってしまうというのは、かつて、「兵隊は鉄砲よりも安い」と言った日本軍の発想と同じです。これほど、個人の尊厳を軽視する先進国があるのでしょうか。「罪」とは、まさに、そのように、神が示しておられる目標を忘れて、人間的な目標を絶対化して、個人をその目標達成の手段としている価値観に他なりません。

旧約聖書では、「救い」ということですぐに思い起こされるのは、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主(ヤハウェ)である」(出エジ20:2)という表現です。これは、いわゆる「モーセの十戒」と呼ばれる教えにおいて最も大切なことばです。彼らは自分たちがエジプトでの奴隷状態から解放されたことを繰り返し思い起こすように命じられていました。日本のサラリーマンも、エジプトで奴隷であったイスラエルの民と似ているかもしれません。彼らは会社の奴隷のような状態に置かれていないでしょうか。しかし、私たちは神の子とされ、自由人とされました。私たちには、想像を絶する輝かしい未来が保証されています。多くの信仰者は、それを深く味わうことを忘れ、この世の期待に答えることで安心を得ようとしていないでしょうか。既に約束された救いを忘れて、目の前の不安に駆り立てられることは不信仰です。見当違いの方向に熱くなることこそ「罪」の本質です

イスラエルの民は、かつて、誤った正義感に駆り立てられ、信仰への熱心さのゆえにイエスを十字架にかけて殺してしまいました。それは、パウロも、ユダヤ人の信仰に関して、「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」(ローマ10:2,3)と語っているとおりです。彼らは、神のみこころを真剣に聞く前に、自分の正義の基準にいのちをかけました。会社のために命をかける猛烈サラリーマンとイエスを十字架にかけることに正義を感じたユダヤ人には共通点があります。それは、神のみこころを知ろうとして静まる前に、世間の常識を鵜呑みにして、神の期待よりも、世間の期待に答えるために身を粉にして働いているということです。一生懸命になればなるほど、互いの首を互いに絞めあっているなどという矛盾がないでしょうか・・・

2.「生まれながら御怒りを受けるべき子」とは?

 そのころは・・・この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」(2:2)とありますが、「この世の流れに従い」という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従っているという意味を示します。「空中の権威」とは、御使いの領域である「天」と、人間の領域である「地」との間という意味だと思われます。つまり、サタンは神と人との間に入り込んで、その関係を壊すことに生きがいを感じているのです。ただし、キリストは「いっさいのものの上に立つかしら」(1:22)ですから、サタンは、神とキリストが許容した範囲でしか活躍はできないということを意味します。そして、サタンは、神を信じようとしない「不従順の子らの中に働いている霊」として、この世に悪を広めています。ここで、「働いている」ということばは、「神のすぐれた力が私たち信じるものに働いている」(1:19)ということばと対比されて用いられています。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

ところで、サタンに従って歩んでいるとは、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い」(2:3)とあるように、悪霊に取り付かれ、それに心と身体をコントロールされているというよりは、自分の生きたいように自由に生きるということにほかなりません。最初の人間であるアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けた後に、善悪の知識の木を見たとき、「その木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」ものとして映り、その結果として食べたと記されています(創世記3:6)。つまり、「肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い」とは、酒やドラッグや性的誘惑に身を任せてしまうということ以前に、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するということに他なりません。そして、神を知らずに自分の狭い正義感に従って生きることが、「生まれながら御怒りを受けるべき子」として描かれています。つまり、「御怒りを受けるべき子」とは、何かとんでもない悪を行った者というよりは、自分の生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指すのです。

3.「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」

 そのように生まれながら、アダムの生き方に習い、自分が神の怒りを受けるべき子であるとの自覚もない人々、神に救いを求めようともしない人々にもたらされた一方的な救いのことが、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです─キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(2:4-6)と描かれています。ここで再び、私たちが、「罪過の中に死んでいた」状態にあったことが指摘されます。「死んでいた」とは、自分の力で生き返ることができない人ですから、その救いは、「あわれみにおいて豊か」な、「その大きな愛」を通して、一方的に「私たちを愛する」という神の主導権によるものでなければなりません。その上で神のみわざが、三つの観点から描かれます。

第一は、「私たちをキリストとともに生かし」ということです。これは「死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」という神の一方的なみわざです。これこそが「救い」の本質です。そしてこのことが、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」と言い換えられます。多くの信仰者は、「救い」を、何か目の前の問題がなくなるとか、苦しみから解放されることとはとらえても、「キリストとともに生きた者になる」こととしては捉えてはいないのではないでしょうか?しかも、これが、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言い換えられます。これは復活と昇天をさします。これはまだ起こっていない未来を保障する表現です。

多くの福音的な教会では、イエスを救い主として信じた人のことを、「救われた」という完了形で表現します。ところが、人によっては、しばらくすると、「何も変わっていないではないか・・・」という気持ちになってきます。しかし、「救われた」という完了形は、まだ起きていない私たちの復活と昇天が保証されたという意味に他なりません。これは合格と入学、内定と入社の関係に似ているかもしれません。現実には、まだ、「救われてはいない」のですが、救いが確定したという意味で、「救われた」と言われるのです。それは、私たちの救いとは、何よりも、キリストと結び付けられたということを指すからです。キリストはすでに復活に、天の父なる神の右の座におられますが、私たちはキリストとすでに一体となっているからこそ「ともによみがえり、ともに天の所に座っている」と言われるのです。救いには、「すでにAllready」という面と、「まだ(not yet)」との両面があるということを決して忘れてはなりません。

 そして、続いて、私たちのために用意された恵みのすばらしさのことが、 「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした」(2:7)と記されています。「慈愛」ということばは、「いつくしみ」とか「親切」などとも訳され、ローマ人への手紙11章22節では、「神のいつくしみときびしさ」とあるように、厳しさと対比されることばです。私たちにとって、キリストは「優しさ」の代名詞のような方です。私たちに保証された「望み」とは、キリストとともにあるすべての豊かさ、喜び、平安、ありとあらゆる良いものが、実現するということに他なりません。しかも、「あとに来る世々において」とは、先の「この世の流れに従い」という表現と対比されます。私たちはすでにキリストとともに天のところにすわらされている者としての自覚を持って、つまり、日本人や韓国人であるという以前に、天国人としての自覚を持って、この世の人々とは異なった価値で生きるようにされたのです。価値観の変化こそが、「救い」の核心部分です。

パウロは、「私たちは、この望みによって救われているのです」(ローマ8:23)と語っていますが、多くの人の行動は、「望み」が変わることによって初めて、劇的に変わるという面があります。なぜ、人々は、ますますけち臭くなるのでしょう。それは望みがないから、たくわえをすることによって安心を得ようとするからではないでしょうか。また、多くの人は、死後の希望がないからこそ、死を忘れるような刹那的な生き方をしてしまいます。

たとえば、私は、長い間、自分の体形も性格も好きにはなりませんでした。しかし、自分が今、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に姿を変えられて行きます」(Ⅱコリント3:18)と保障された人生の途上にあるということがわかったとき、本当に気が楽になりました。また、この肉体が暗闇に向かうようにどんどん不自由になっても、すでに光に満ちた世界に向かっているということがわかったとき、当面の損得勘定を越えた生き方をしてみたいという気持ちが強くなってきました。多くの人々が、ほんとうに余裕のない生き方をしています。しかし、「あとに来る世々に」用意されている「すぐれて豊かな御恵み」「明らかに示される」とき、ひとりひとりの行動は変わってくることでしょう。

そして、この不思議な救いがどのように実現したかについて、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(2:8、9)と記されます。私たちプロテスタント教会は、マルティン・ルターの宗教改革から始まっていますが、彼は、行いではなく、信仰によって救われるということを何よりも強調しました。しかし、そのうちに、自分たちの信仰を誇る熱狂主義者の運動に悩まされるようになりました。ここでは、「行いによるのではない」ということの説明として、「だれも誇ることのないためです」と記されていますが、自分たちの「信仰」を誇るような者の信仰は、聖書が語る信仰ではなく、「行い」の一部にされています。反対に、自分の信仰を卑下することは、優越感とコインの裏表の関係にある劣等感のようなもので、聖書の語る信仰ではありません。ここで明らかなように、「信仰」とは、あくまでも、神の恵みを受け止める受信機のようなものに過ぎません。すべてが神の恵みであることを心のそこから味わうようになるということが、信仰の成長に他なりません。自意識過剰な信仰ほど危険なものはありません。自分を忘れて神の恵みに心を向け、神の恵みに圧倒されるようになることを私たちは求めるべきでしょう。

4.「良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた・・・良い行いをもあらかじめ備えてくださった」

その上で、パウロは、私たちが恵みに甘んじて怠惰な生活に居直ることがないようにと決定的なみことばを加えます。それが、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(2:10)という表現です。パウロは先に、キリストを知らないときの「歩み」を、「死んだ者としての歩み」また、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行う」という「歩み」として描きましたが、ここでは、「救い」の結果を、「良い行いに歩む」者となることとして描いています。そして、その前提として、「私たちは神の作品であって」と記されています。多くの人々は、自分を卑下することと謙遜になることを混同しています。自分を卑下することは、神への冒涜です。スウェーデンのゴスペル歌手のレーナ・マリヤさんは、生まれつき両手と片足がありませんが、自分は、障害者ではなく、神の最高傑作であると言っています。事実、彼女は片足で、ピアノを弾き、料理をし、美しい字を書くことができます。それは、生まれたときから、自分に足りないものではなく、与えられているものに目を向け続けた結果です。

私の場合は、自分の神経質な性格が嫌いでした。しかし、あるとき、「神経質を喜ぶことができる」という発想になったとき、気が楽になりました。そして、神経質な性格を生かすことによって、本が書けるようになりました。

ただし、このように自分に与えられている能力を生かすということは、誰でも言うことで、聖書を読まなければわからないような、目新しいことではありません。しかし、パウロはここで、「良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた・・・良い行いをもあらかじめ備えてくださった」と記されています。それは、「良い行い」という概念が、人との比較から生まれることではなく、神の創造の目的、神のご計画を知ることから始まるという意味です。

先に述べたように、この世は、とにもかくにも、忙しい人で満ちています。忙しさ自体が、その人が人々から期待され、感謝されているしるしかのように見られています。確かに、仕事や奉仕の依頼が舞い込んでくることはうれしいことです。しかし、私たちの目標は常に、神の期待に向けられなければなりません。世の人々が期待する「良い行い」ではなく、神が期待し、神が備えてくださった「良い行い」とは何かを常に考える必要があります。

そのことからしたら、神の前に静まる時間を忘れるほどに「良い行い」に励むことは、神が求める「良い行い」では決してありません。聖書の教えの最もユニークな点は、あらゆる生産活動から離れて、「休む」ということが、もっとも大切な戒めとされているということです。十戒の構成からしたら、最大の罪とは、安息日律法を破ること、つまり、「休み」を取らないことなのです。休みもなく働くことこそ、聖書が示す「罪」なのです。これは、別に、好きで滅私奉公をしているわけではないサラリーマンにつらいことばです。自分が休むと、現実に、困る同僚が出てくるような中で、そんなことは言ってはいられないような気がします。しかし、人は、長期的な目で見ると、確かに、自分にとって本当に大切なことのためには時間を割く知恵をもっているものです。最も大切なのは、天国人の自覚を持って、この世が期待する「良い行い」と、神が期待する「良い行い」の区別をつけることではないでしょうか。

しかも、「良い行い」は、神と人との好意を勝ち取るためにすることではありません。それは、神の恵みを心の底から味わった結果として生まれるものです。恵みを忘れた「良い行い」は、どこかで、押し付けの親切になります。独善的な熱心になりえます。また、「私って何て良い人なんでしょう・・」などという自意識過剰な行いになります。そのような「良い行い」は決して、あなたの隣人にとって恵みにはなりません。しばしば、人の自立を阻害するような「良い行い」こそが、様々な依存症の最大の温床となっています。それは、過保護が子供をだめにすることに似ています。真の意味で、人を愛するとは、その人の自主性や自律心を刺激するようなものでなければなりません。

神はいつくしみに満ちた方であると同時に、厳しいお方です。そして、神は、何よりも、神の恵みを忘れる生き方、つまり、私たちの不信仰に対して厳しいお方です。そして、信仰とは、何よりも、神の恵みとあわれみを思い起こすために、時間を聖別すること、神のみこころを聞くために時間を聖別することに始まります。そして、主のみこころとは、神の国の完成です。私たちは世界のゴールに思いを向けながら、今の働きを評価する必要があります。 

そして、何よりも、すべては、神の恵みです。そして、その神の恵みを思い起こすために時間を聖別することから、神に喜ばれる良い行いが生まれることでしょう。ある牧師が、「私は休みを取ると、罪悪感を感じる・・」と正直に言っていました。それは、教会の信徒の方々が、日頃は夜遅くまで仕事をし、週末は教会奉仕に忙しくしている姿を見て、心の痛みを感じておられたからです。その気持ちは痛いほどわかりますが、それでもやはり、主は、私たちに何よりも、安息を命じておられるのではないでしょうか。なぜなら、見当違いの熱心さではなく、主の前に静まり、主の恵みに思いを浸すことから始まる行動こそが、真に神に喜ばれる「良い行い」になるからです。

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2010年3月14日 (日)

エペソ1:15-23「教会はキリストのからだ」

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 私たちの救いとは、三位一体の神の家族の一員として招き入れられることにほかなりません。それはつまり、御父と御子との愛の交わりの中に聖霊に招き入れられ、イエスの父なる神を、「アバ、父」と呼ぶことができること、私たちが養子縁組によって、神の実子であるイエスの弟、妹とされるということを指します。ただ、そこで問題が生まれます。あなたの他にも、数多くの人々が同じように神の家族に迎え入れられます。多くの人々は、家族関係で傷つき、病んできました。ただでさえ家族は悩みの種なのに、そのような悩みのもととなる交わりの中に入るというのは、なんとも面倒なことです。私たちはこの面倒な家族関係にどのように向き合えばよいのでしょう。

1.「神を知る」ことにおいての成長のために互いに祈る

パウロは、エペソ教会の人々に向けて、まず、「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています」(1:15、16)と言います。この文章の中心動詞は、「絶えず」ということばの背後にある、「やめることはありません」です。そこでは何よりも、「主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いている」ということを根拠に、「私は・・・あなたがたのために感謝をささげることと、祈りにおいて覚えることを、やめることはありませんと強調しているのです。私たちはどのような信仰の仲間に対しても、「その人のうちにあるイエスに対する信仰と、兄弟姉妹への愛」とを、多かれ少なかれ評価できるのではないでしょうか。目に見えない神を愛し、また同じ信仰に立つということだけで交わりが生まれるというのは、この世的には不思議なことだからです。

そして、私たちが人のことを大切に思うとは、その人のことに関しての「感謝」とその人のことを「祈りの中で覚え続ける」ということを「やめない」ということに現されます。人によっては、ある人に対する恨みや怒りを「やめない」などということがあるかもしれません。しかし、それはそうする人自身にとって極めて不幸なことです。そのようなとき、「どうか、私の心からあの人への恨みを取り去ってください」などと祈ると、かえって、「あの人は恨まれて当然です!」などという思いが沸いてくるかもしれません。そうではなく、私たちは他の人のことに感謝して、何らかの感謝なことと、その人が大切に思っていることに関して祈りの中で覚え続けることができるのではないでしょうか。

ただし、私たちが他の人のために祈るべき最大の課題とは、その人の信仰の成長です。ただ、そのとき、「あの人の信仰が成長しますように」などと漠然と祈ると、その祈りの中で、「あの人はまだ信仰のレベルが幼いから、あのような言動をやめることができない・・・」などという信仰のレベルをはかり、その人の不信仰をさばくというようなことになりかねません。しかし、パウロの祈りは極めて具体的であり、また三位一体的です。

まず、第一に、父なる神のことが、「私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父」と呼ばれます。私たちはイエスを主と告白することによって、御父と御子との愛の交わりの中に招き入れられ、イエスの父なる神に向かって、「わたしの神」「わたしの父」と呼ぶことが許されています(ヨハネ20:17参照)。

そして、具体的な祈りの課題として、「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」(1:17)と記されます。つまり、私たちの信仰の成長とは、何よりも、真実の意味で、「神を知る」ということなのですが、それは、人間的な探求心の結果である以前に、神からの恵みとして与えられる「知恵と啓示の御霊」の働きによります。旧約聖書の記述の目的は何よりも、神を知らせるということにあったのですが、ユダヤ人たちはそれを、神の愛の啓示の代わりに、神から与えられた戒めや戒律かのように受け止めてしまったからです。

多くの人々は、新約の時代に生きていながら、旧約の民のように自分の知恵と力によって神の教えを全うしようとしています。旧約の物語は、生まれながらの人間は、どれだけ教えられても、真の意味で「神を知る」ことができず、神の怒りを買うようなことをしてしまったことを証しています。しかし、新約の恵みとは、神の霊が私たちの内側に住み、「神を知る」ことができるようにしてくださったということにあるのです(エレミヤ31:31、33,34参照)。

2.「私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」を「知る」

 その上で、「神を知る」ということがもっと具体的に。「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・知ることができますように」(1:18、19)と祈られています。これこそ、この文章の核心です。先の「神を知る」とは自分の側から理解するという面が強調されているのに対して、ここでの「知る」とは、「人と知り合う」というようなときに使われることばで、「自ずと明らかになってくる」という面が強調されていると思われます。

そして、ここでは自ずと明らかにされてゆく三つの霊的な事実のことが記されます。第一は、「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか」ということですが、私たちの「心の目」が開かれると、何よりも、「神の召し」によって始まった信仰生活が、私たちをどのようなすばらしい世界に導きいれるかという「望み」が自ずと明らかにされます。そして、その「望み」の内容が、第二に、「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」が自ずと明らかにされるということとして表現されます。これは俗に言う「天国に行く」などということよりはるかに豊かな喜びに満ちたことです。私たちのこの朽ちる身体は、朽ちることのないキリストの栄光の姿と同じ霊のからだに変えられます。そして、新しいエルサレムの市民権が与えられ、新しい天と新しい地において、農作業や芸術活動を楽しみ、互いを喜ぶことができます。そこは、この地上で憧れている真の幸せを体験することができる場です。

そして、第三は、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」「知る」ということです。私たちはすでにこの地上の生涯において、「神の全能の力」の、私たちのうちへの「働き(エネルゲイヤ)」を知ることができます。私たちは、神を知性によって把握する以上に、私たちのうちに「働く」神の力を体験的に知ることができるのです。それは、私たちの信仰生活の中で自ずと明らかになって行く霊的な現実です。

私たちが神のみわざに自分のからだを開きさえするなら、私たちは自分の肉の限界を超えたような働きをすることができます。そのことをたとえばマザーテレサは大胆に証しています。彼女は、私たちは、自分が「からっぽ」であることを意識することから神のみわざが始まるという意味で次のように語りました。

「神は いっぱいのものを  満たすことはできません。

神は 空っぽのものだけを 満たすことができるのです。

本当の貧しさを、   神は 満たすことができるのです。

イエスの呼びかけに 「はい」と 答えることは、空っぽであること、あるいは 空っぽになることの 始まりです。

与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが 問題なのです。

そうすることで、私たちは人生において 十分に受け取ることができ、

私たちの中で イエスがご自分の人生を 生きられるようになるのです。

今日イエスは、あなたを通して 御父への完全な従順を もう一度生きたいのです。

そうさせてあげてください。

あなたがどう感じるかではなく、あなたの中で イエスがどう感じているかが 問題なのです。

自我から目を離し、あなたが 何も持っていないことを 喜びなさい。

あなたが何者でもないことを、そして 何もできないことを 喜びなさい。」

3.「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ・・・」

そして、私たちは、神のみわざを何よりもキリストの復活のうちに見ることができます。そのことが、神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ・・・」(1:20)と描かれます。つまり、神の全能の力は、何よりもキリストの復活の中に現されているというのです。キリストの復活を信じられない人は、神の最も偉大な力を認めることができないことを意味します。それに対し、キリストの復活を信じる者は、自分のうちにキリストを死者の中からよみがえられた神の力が働いていることを信じることができます。パウロは、ローマ教会に宛てた手紙において、「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」(ローマ8:11)と大胆に語っています。

  続けて神は、復活のキリストを、「ご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」(1:21)とも記されていますが、これはダニエル書と深い結びつきがあります。イエスがユダヤの最高議会で死刑判決を受けたもっとも直接的な理由は、大祭司からの「あなたは神の子キリストなのか。どうか、その答えを言いなさい」という問いに対して、「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」と答えたことにありました(マタイ26:63,64)。イエスはこのときご自身がダニエル7章13,14節に記された救い主であることを証ししたのです。

ダニエルはかつて、「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」という幻を見ました(7:13,14)。そして、パウロも同じような表現を用いながら、キリストこそが父なる神から全世界の支配権をゆだねられていると言ったのです。パウロはイエスがダニエル書を引用されたことを思い起こしながら、これを記しているのです。

なお、大祭司は、イエスがそのようにご自身の権威を主張されたとき、それを聞いて、自分の衣を引き裂きながら、「神への冒涜だ。これでもまだ証人が必要でしょうか。あなたがたは今、神をけがすことばを聞いたのです」と言いました。キリストの発言は、まさに神への冒涜か、それとも真実であるかのどちらかでしかありません。

 私たちの信仰とは、私たちのためにご自身のいのちまで捨ててくださった方が、いまや、「王の王、主の主」として、全世界の支配権を父なる神からゆだねられていることを信じることにあります。多くの人々にとってイエスは、愛の模範、また忍耐の模範であるかもしれませんが、イエスこそが今すでに、全世界を支配しておられるということを忘れがちではないでしょうか。イエスは、無力な捕らわれ人の姿をしながら、ご自身こそが父なる神からこの世界の支配を委ねられた「王」であると証ししたのです。クリスチャンとは、それを信じる人のことです。

私はあるとき、「何で、こんな嫌なことばかりが続くのか・・・」と嘆きながら、ヘンデル作の「メサイヤ」を聞きに行きました。そして、ハレルヤ・コーラスを聴きながら、一見、この地に暗闇が支配しているように思えても、すでに、天においては、イエスを「王の王、主の主」と賛美する声が響いているという霊的な事実が迫ってきて、身体が感動で震えたことがあります。イエスは、「すべての支配、権威、権力、主権の上に」おられる「王の王」なのです。

4.教会はキリストのからだ

パウロは引き続き、「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ・・」(1:22)と記しています。このみことばは、ダビデによる詩篇8篇を前提に記されています。そこで、ダビデは、神の創造のみわざを思い起こしながら、全能の神は、無力な人間をこの地においてご自身の代理として立てておられることを感謝しています。神が人をご自身のかたちに創造されたのは、「地を従えよ・・・すべての生き物を支配せよ」という命令を実行させるためでした。最初の人アダムが、神に従い続けていたとしたら、人はこの期待に応えることができていたはずでしたが、人が神にそむいた結果、この地にあらゆるわざわいが起こりました。それで、キリストは第二のアダムとして、神への従順の生涯を貫き、万物を彼の足の下に従わせるという約束を成就してくださいました。キリストこそ、私たちの模範であられます。私たちはアダムの子孫から、キリストにつながる者へと、立場を変えられました。

続く、「いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを教会にお与えになりました」いう文での、「教会」とは、キリスト者の群れ、聖徒の集まりのことです。日本語の「教会」には「教えを受ける場」というニュアンスがありますが、ギリシャ語は「エクレシア」で、当時は、「市民権を持った者たちの会合」を意味しました。そこではひとりひとりが平等な議決権を行使し、自由都市(ポリス)の方針が決められました。ですから、聖書的な意味での「教会(エクレシア)」では、誰一人として、受身的な聴衆、また、指示に従うだけの主体性のない人はいないはずなのです。すべての人が、神ご自身によって招かれ、かけがえのない、主体的な意思を持つ存在として集められています。

「神は・・・キリストを、教会にお与えになった」とは、キリストがひとりひとりのためにご自身のいのちを与えてくださったことを指します。そして、「教会はキリストのからだであり」とは、パウロが問題に満ちたコリントの信徒たちに向かって、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(Ⅰコリント12:27)と言ったことと同じです。つまり、「教会」とは、私たち自身であり、私たちがキリストのからだの一部の器官として、かしらであるキリストの意思を実行するのです。それは、ちょうど、頭の中でパソコンのキーボードを打つということをイメージするだけで、指が自動的に動き出すことに似ています。私たちがキリストの命令を受けて、動きだすというよりも、キリストご自身が私たちひとりひとりのうちに生きて、私たちをご自身の働きのために用いてくださるのです。私たちは意志を否定された奴隷としてではなく、キリストの意思を主体的に生きる者として集められているのです。

残念ながら、クリスチャンでありながら、「教会は・・・自分に何をしてくれるのか」とか、「教会に利用されたくない・・」などと思っている方がいるかもしれません。そのように思うに至った苦い痛みがあるのでしょうが、それでも、その人は、自分の家族を持ちながら、自分が家族の一部であることを否定しているのと同じです。そのような感覚で生きるなら、けっして、キリスト者としての醍醐味を、真の喜びをこの地で体験はできないことでしょう。

「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは、キリストご自身が、すべてのものの支配者としてご自身のからだに起こった問題や欠けを、ご自身の身体の一部を持って満たすということです。これはESV訳では、「the church・・ is his body, the fullness of him who fills all in all」と訳されています。これはたとえば、私たちの身体の中に何らかの問題や欠けが生じたとき、身体全体がそれをカバーするために動くというような作用をさします。そして、「教会」が、そのように「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」とは、私たちの集まりのただなかにキリストが満ち満ちておられるという意味です。

私たちはキリストを直接にこの目で見ることはできませんが、教会という聖徒の交わりにおいて、キリストご自身のみわざを見ることができるのです。つまり、教会につながることなくして、キリストのみわざを見ることはできないのです。キリスト者として生きるとは、キリストが自分のうちに生きておられることを認識しながら生きる人のことです。

「教会はキリストのからだ」です。キリスト者として生きるとは、教会の一器官として生きることです。ただ、それは決して、組織のひとつの歯車とされるという意味ではありません。しかも、この「教会(エクレシア)」ということばは、単数形です。私たちは目に見える組織ではなく、目に見えない全世界的なキリスト者の集合体の一部とされているのです。アメリカのクリスチャンもフィリピンのクリスチャンも、あなたの属するからだの一部なのです。

ですから、私たちは国籍を超え互いを兄弟姉妹として助け合うという枠を持って生きるべきでしょう。アメリカのクリスチャンと日本のクリスチャンが共同してフィリピンのクリスチャンを助け、フィリピンのクリスチャンがミャンマーのクリスチャンに研修の場を提供しているというようなことが身近なところで起きています。私たちは常に、世界的なキリスト教会の一部であるという広い視点を忘れてはなりません。

ところで、ダニエルの預言では、しばらくの患難の後に実現する世界のことが、「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た・・・国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」(ダニエル7:22,27)と描かれています。つまり、キリストに起こることが、同じように、私たちにも起こるというのです。そのことがヨハネの黙示録では、キリストに従い続けた者たちへの希望に関して、「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間王となった・・・彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに千年の間王となる(20:4,6)と描かれています。そればかりか、新しいエルサレムにおける私たちの希望に関して、「神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である(22:5)と記されています。神がキリストを死者の中からよみがえらせ、ご自分の右に引き上げ、すべてのものを支配する権威を与えたという神の全能の力は、今、私たちの内側にも働いています

キリストにおいて起こったことが、私たちの上にも実現します。信仰者として生きることの特権と幸いは、この約束のうちにあります。つまり、キリストは私たちにとっての主であり神であるとともに、私たち自身の一部でもあるのです。キリストは私たちにとっての「All in All」、「すべてにおいてすべてなお方」なのです。

私たちはすでにキリストのからだの一部とされています。そして、教会こそ、キリストのからだです。ただ、その教会は、組織ではなく、聖徒の集まりです。確かに、地上の教会にある程度の組織化は必要で、それがないとなかなか協力関係がスムーズに進みません。礼拝をしようとしても、ある程度の役割分担がないと一部の人にばかり負担がかかるからです。しかし、基本はひとりひとりの主体性にかかっています。自分をお客さんの立場に置くと、一時的には楽なようでも、そのような立場をいつまでも続けると、生けるキリストの力を身近に体験できなくなります。確かに、休みが必要な場合があります。しかし、それを続けすぎると、自分で自分の心を閉ざし、信仰の醍醐味を捨ててしまうことになりかねません。「教会はキリストのからだ」です。私たちの交わりのただ中にキリストの圧倒的な御力が働いています。それを見たいなら、キリストにある交わりの中に身を置くしかないのです。確かにそこで、様々な面倒なことに直面することでしょう。しかし、面倒がなければ祝福も体験できません。私たちは自分のからだの不思議さや精巧さを、特に、病気になったときに何よりも体験できます。同じように、地上の教会も、様々な困難を通して、「キリストを死者の中からよみがえらせた方の全能の力の働き(エネルゲイヤ)」を体験できるのです。とにかく、「教会はキリストのからだ」です。神のみわざは、その身体の中に身を置いてこそ体験できます。

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2010年3月 7日 (日)

エペソ1:1-14 「三位一体の神の愛に包まれたいのち」

                                                201037

 三位一体ということばは、この世でも用いられていますが、その意味となるとなかなか説明ができません。私は、昔、水も氷も水蒸気もそれぞれ異なった姿でありながら同じH2Oという本質を持つという説明を聞いて、深く納得しました。しかし、そのように神の神秘を概念で説明できたからと言って、それが私の人生に何の関わりがあるのでしょう。しかし、三位一体は、今ここで体験している霊的現実であると聞いて、本当に心が楽になりました。

私たちは今、イエス・キリストの弟、妹として、その傍らに置いていただき、イエスの父なる神に向かって、「アバ、父」と呼びかけることが許されています。しかも、そのような祈りを起こしてくださるのは、私たちのうちに住んでくださっている「聖霊」ご自身です。私たちは三位一体の神の愛に包まれて生きているのです。

 確かに神は唯一です。しかし、私たちは、その唯一の神の好意を得ようと自分の行いや信仰をアピールする必要はありません。神ご自身が、ご自身の御子と御霊によって、私たちを捉えてくださったからです。神はご自身の両腕を伸ばすようにして、私たちを包んでいてくださいます。それこそ三位一体の神秘です。

1.「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が・・・」

パウロはまず自分を、「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」(1:1)と位置づけます。これは自分の使命が自分の意思からではなく、神の「意思(みこころ)」によって与えられたものであるとの宣言でもあります。そして、この手紙の受取人を、「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」と描きます。「聖徒」とは、幕屋礼拝における祭司の務めに相当する立場で、その人が高潔な人格者であるなどというのではなく、神に近づくことを許されている者、聖なる神の領域に招かれた者という意味があります。「忠実」というのも、キリスト・イエスを信じている者という意味です。もしパウロが私たちに手紙を書いたとしたら、「キリスト・イエスにある忠実な東京の聖徒たちへ」と書いたことでしょう。キリスト者はみな、聖徒であり忠実な者と、神の目から見ていただけるのです。

また、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」(1:2)ということばに三位一体の神秘が隠されています。まず、万物の源であられる創造主であられる神が、「私たちの父」と呼ばれ、イエス・キリストは、私たちにとっての「主」であると告白されています。神の御名を呼ぶとき、「父なる神」「主イエス」のお二方を思い浮かべ、その方から特別な恩恵を施していただいていること、また、御父と御子との愛の交わりの中に招かれているという圧倒的な「平和(平安)」をいただけるということを受け止めるべきでしょう。

  パウロの祈りの第一は、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」(1:3)というものでした。ここでも、「私たちの主・・の父」という神の呼び名に注目すべきでしょう。なお、この「ほめたたえる」とは、その方に関しての良いことを語るという意味で、それは次に続く「祝福」と同じ語源のことばです。

そして、その上で、「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と、神がすでに私たちそれぞれにお与えくださった恵みのことが語られます。「霊的」とは「御霊に属する」という意味で、「天にあるすべての霊的祝福をもって祝福する」とは、神が私たちのために用意してくださったこの地上の枠を超えた、創造主なる御霊に属する人知を超えた「祝福」を意味し、その内容が続いて説明されます。

2.「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び」

  「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」(1:4)というのは、途方もない宣言です。しばしば人は、「こんな親のもとに生まれたせいで・・」とか、「こんなど田舎に生まれたせいで・・」などと自分の出生を恨んだり恥じたりしながら生きています。大雪山のふもとで育った僕にとって、小学生の頃は、「東京の人」というだけで、何かまぶしい存在に思えたものです。しかし、今は、自分は神の不思議なご計画の中で、あのど田舎の貧しい農家の長男として誕生するように選ばれていたのだと思うことができます。すると、田舎がとってもいとおしく、美しく見えてきました。また父親を受け入れるに連れ、父に似た自分の性格や体形や歩き方まで、受け入れることができるようになりました。そして、そのように自分を受け入れることができたすべての基本は、自分をキリストのうちにある者として見ることができたということにあります。

そして、キリストのうちにある者は、神の御前で「聖く、傷のない者」へと変えられることが保障されているのです。つまり、私たちひとりひとりの出生以前から死後のいのちまでのすべてが、キリストのうちにあるというのです。

「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(1:5)とは、救いの核心のみことばです。「ご自分の子にしようと」とは、ひとつの単語で、神が私たちを養子縁組によってご自分の一人子イエスと同じ「立場に置く」という意味です。ある牧師家庭で三人の実子の後に、ひとりの養子を受け入れていますが、養子と実子に本当に何の違いも感じないとごく自然に言っておられました。神は私たちをまるでご自身の御子イエスと同じように高価で尊い者として見てくださるのです。そして、それはすべて、私たちの努力ではなく、神の計り知れない御心によります。

それは、「愛をもってあらかじめ定めておられました」とあるように、神の一方的な愛から始まっています。クリスチャン生活とは、自分の罪を嘆く以前に、天地万物の創造主のかけがえのない子とされたという自覚と誇りをもって生きるということです。そのとき私たちは世の人々の歓心を得ようとして卑屈になったり、世の流れに巻き込まれてしまうことがありません。罪の自覚は、その神の愛に応答できていないという反省から生まれるものです。その順番が逆になると内省と自己吟味ばかりが先行する神経症的な信仰になってしまいます。しかも、神の子の立場は、自分の努力で勝ち取ったものではなく、神の永遠のご計画の中で一方的な恵みによって与えられた立場ですから、決して失う心配もありません。私たちは、神が私たちの信仰を守り、全うしてくださることを信じるのです。

パウロが「世界の基の置かれる前から・・・」と言ったとき、そこには、「お前の運命は、何億年も昔から定められていた」という冷たい雰囲気は一切ありません。このことばは、私たちの人生が、海に浮かぶ小船のように、そのときそのときの、まわりの環境によって徹底的に左右されるもののように感じられる現実の中で、それ超えた霊的な現実を示すものです。既に与えられた「永遠のいのち」は、時間も空間も越えた神の御手の中に包まれ守られています。この世のいかなる力も、このいのちを奪うことはできません(ローマ8:38,39)。

3.「神は・・・みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました」

そして、私たちの救いが、永遠の中で予定されていたことの意味が、「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」(1:6)と説明されます。そこにこそ世界の存在の意味、また私たちの人生の目的があります。17世紀の英国の改革派諸教会の合意としてまとめられたウエストミンスター大教理問答の第一では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」との問いに、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と答えるように導かれています。

ここで、それまでの「キリストにあって」という表現が、「その愛する方にあって」と言いなおされていますが、ここには、御父にとっての何よりの「愛する方」である御子キリストと同じ立場の「愛する者」に私たちがされているというニュアンスが含まれています。イエスがバプテスマを受けたとき、天が開け、天から、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声が聞こえました(ルカ3:22)。私たちがキリストに結びつくバプテスマを受けるとは、この御父のことばが、私たちに対するかたりかけになることを意味します。

そして、世界中の人々が、このような神の恵みの栄光をほめたたえるようになるとき、世界に完全な神の平和(シャローム)が実現します。この世界は神の平和の完成に向かって動いているのです。クリスチャンとして生きるとは、そのような神の壮大な救いのご計画にいつも心を向けながら、神がこの不条理に満ちた世界をご自身のみこころのときに完成してくださることを信じながら、今ここで、神を喜びながら日々の課題に取り組むことです。

  しかも、続けて、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」(1:7)と記されていますが、「贖い」とは何よりも代価が支払われて奴隷状態から解放されることを意味します。そして、「罪の赦し」とは、何よりも私たちがイエス・キリストの父なる神を、「アバ、父」と呼ぶことができる自由への入り口です。そして、父の愛を信頼している自由な子供は、遠慮することなく自分の不安も願いも葛藤も、父に打ち明けることができます。

その上でパウロは、「これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです」(1:8-10)と記しています。

「みこころの奥義」とは、この世の常識でははかり知ることができない、不思議な神の救いのご計画を意味しますが、その「奥義」が、「私たちに知らされた」というのです。そして、それは、「神があらかじめお立てになった」ご計画が、「時が満ちて、実現する」ということです。これは特にイスラエルの歴史において明らかに示されています。神はモーセを通して、彼らに対する「祝福とのろい」の選択を迫りましたが、愚かにも彼らは「のろい」を選び取り、国を失ってしまいます。しかし、彼らが捕囚とされ、散らされた国々で神に立ち返るとき、神は彼らをあわれみ、彼らを再びひとつに集め、繁栄を回復してくださると約束されていました(申命記30:1-6)。

それはまたより大きな枠で、神に逆らってエデンの園から追い出されたアダムとエバの子孫であるすべての人間に適用できることでもあります。私たちも自業自得の罪で、放蕩息子のような苦しみを味わい、そこでまことの神に立ち返るということがあります。神はそのような放蕩息子や娘たちをあわれみによって集め、新しいエルサレムに招き入れてくださいます。なお、「天にあるもの地にあるものがこの方にあって、ひとつに集められる」とは、キリストの再臨によってもたらされる「新しい天と新しい地」を指す表現でもあります。

4.「私たちはあらかじめこのように定められていた」

そしてパウロは、「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました」(1:11)と記しますが、これは私たちが既に「新しいエルサレム」の市民権を与えられ、また、「聖く、傷のない」「朽ちることもない」栄光の身体に復活して「新しい天と新しい地」に招き入れられることが保障されているという意味です。それは、私たちが勝ち得た功績ではなく、一方的な恵みであることが、「みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです」(1:11)と記されます。ここで、「あらかじめ・・定められていた」ということばは5節に続いて繰り返され、これこそ神のご計画の核心であることがわかります。それはしばしば、神学用語で、「神の予定」と呼ばれます。そして、その予定から、信仰者の交わりの中に選ばれるということが起きます。

私の尊敬する神学者が、聖書の一貫した真理を、「神が唯一の支配者である」ということと、「神の選び」であると言っていました。多くの人は、「選び」の概念を不公平ととらえ、「選ばれなかった人はどうなるのか・・・」という疑問を投げかけます。しかし、ヤコブとその子孫の歩みを見るとき、神の選びがなければ信仰の家族が生まれ得ないということが本当によくわかります。私自身も自分の不信仰に悩み続けてきました。信仰によって救われるというなら、自分のような不信仰な者は救われえないし、神の選びがなければとても牧師の働きなど、恐ろしくてできません。選びの教理の核心とは、選ばれるに値しない人を神は選び、ご自身の働きのために召してくださるということです。自分で神を発見したのではなく、神が私に目をかけ、信仰を与えてくださったのです。これこそ、私たちを謙遜にさせると同時に、私たちが神の働きのために堂々と自分を差し出すことができるための鍵です。選びがわからない人は、結局は、いつまでも、自分の力により頼む信仰にならざるを得ないのではないでしょうか。

しかも、神の予定を知るということは、しばしば誤解されるように、神があらかじめ決めてくださったレールの上を、自分の意思を殺して歩むというようなものではありません。たとえば、私は自分の意志で、大学に入り、留学し、野村證券という不思議な会社に就職しました。神は私たちに常に選択の自由を与えておられます。あなたの人生にはあらゆる可能性があり、右に進もうと左に進もうと、神はそれをすべて良しとして認め、そこにおいてあなたをご自身の働きのために用いてくださいます。「予定」とは、あくまでも、あなたが置かれている場で、神を見上げることができるという信仰にかかっている概念です。また、私たちが自分で選ぶことができなかった出生の問題にかかわることです。肉の誕生も、霊的な誕生も、神の予定と選びから始まります。それが本当にわかるとき、私たちは自分で選びようもなかった一つ一つの歩みの中に、神のあわれみに満ちたご計画を認めることができ、安心することができます。この神の予定がわかるとき、私たちは自分に与えられているすべてのものを、神の恵みとして受け止めなおすことができます。予定がわかるとき、変えられないものを受け入れる平静なこころが養われます。

そしてパウロは、この神の予定の目的を、「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです」(1:12)と記しています。パウロはユダヤ人として、旧約聖書に記されている救い主の預言が成就することを待ち望んでいました。そして、復活のキリストが彼にご自身をあらわしてくださったとき、すべてが神の一方的な恵みであることを認め、神の栄光をほめたたえることができたのです。

5.「聖霊は・・御国を受け継ぐことの保障」

そして、パウロは、異邦人クリスチャンが多数を占めるエペソの教会に向けて、「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました」(1:13)と語りかけています。ユダヤ人でもない彼らに神の選びが適用できると言うことは、当時として奇想天外なことでした。ユダヤ人からみたら、異邦人は滅びに選ばれている存在でした。しかし、彼らにも聖霊のみわざが示されたとき、ユダヤ人クリスチャンも、異邦人に対する神の選びの計画を認めざるを得なくなりました。

「約束の聖霊をもって証印を押された」とは、聖霊ご自身が、私たちが神の民とされたことを証明してくださるという意味です。「約束の聖霊」と記されているのは、預言者イザヤもエレミヤもエゼキエルも、イスラエルの民に聖霊が与えられ、彼らが真心から神の教えを喜び、唯一の神だけを礼拝するようになるという日の来ることが約束されていたからです。そして、それがユダヤ人ばかりか異邦人にまで及んだのでした。「聖霊」は、「神の国」に入れていただくための身分証明書のようなものです。そして、私たちが自分の罪を認め、十字架にかけられた方を、自分の人生の主であると告白している中に、神の民とされたことの証明がみられるのです。

また、続けて、聖霊は、「御国を受け継ぐことの保障」(1:14)であると記されています。「保障」とは、「頭金」とも訳されることばです。たとえば私たちが自動車を買ったとき、頭金を支払った段階で、どれほどのローンが残っていても、その車を自分の所有物として自由に使うことができます。それと同じように、私たちの命は、この世になお縛られているように見えても、すでに神のものとされています。それが、「神の民の贖いのため(贖いに至るまで」ということばの意味です。私たちの身体はまだ完全には神のものとされていないように見えます。ちょうど車のローンが残っているように、私たちはこの世の様々なしがらみになお縛られています。また、私たちの身体は自分の欲望に駆り立てられて様々な罪を犯します。しかし、すでに、「聖霊」が「保障(頭金)」となっているので、私たちはこの世に属しながら、同時に既に、私たちの人生は神が自由に使ってくださるものとされています。

ですから、聖霊を受けている私たちは、「新しい天と新しい地」のいのちが既に今から始まっているかのように、生きることができます。それこそが「永遠のいのち」です。そして、その「永遠のいのち」は、聖霊が頭金になってくださったことによって、既に私たちのものとなっているのです。

 

  私たちは誰も自分の誕生を自分で決めることはできませんでした。同じように、私たちが神の家族の中に養子として迎え入れられるのも、私たちの選択ではありませんでした。私たちは、自分の意志によってではなく、御霊によって新しく生まれるのです。イエス・キリストの血による贖いと、聖霊による保証が、私たちを神の子にしてくださったのです。信仰生活の中心とは、神に対して何かをする以前に、神が私たちにためにしてくださったことを繰り返し味わい、それを感謝することです。私たちは生まれる前から三位一体の神の愛に包まれていました。そして、このいのちを誰も奪うことができません。このことが心の底から理解できるとき、私たちはこの世で大胆に生きることができます。もう自分で自分を守ろうとする必要はありません。失うことを恐れる必要はありません。かえって自由に自分自身を神のご計画に差し出すことができます。この世の中は、自分の身を守ることに戦々恐々としている人々で満ちています。その中で、私たちは「永遠のいのち」を持つことの自由を証しすることができます。

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