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2010年4月25日 (日)

エペソ2章11-22節 「和解による成長」

                                               2010年4月25日

  海外に行くと、日本人であるというだけで安心し、お友達になることができます。これは、反対の面から考えると、言語も慣習も異なる人々がともに暮らすということがいかに困難を伴うかということの現れでもあります。たとえばイスラム教の経典はアラビア語で読まれる必要があります。ですからイスラム教にはアラビアの文化が密接に結びついています。仏教だって、たとえば般若心経を日本語で唱えることなどはまずありません。ところが、新約聖書は、最初から、聖書と無縁のギリシャ語で記されています。そして今も、次々と新しい翻訳が生み出されています。

私たちは自分の心の奥底にある問題に向き合うとき、不思議に、言葉や文化の壁を越えることができます。たとえば、村上春樹の小説などは、極めて日本的な問題を扱い、彼自身の内面にある心の闇と向き合っているようでありながら、世界中に彼の小説の愛読者が広がっています。これは、極めてパーソナル(個人的)なことは同時に、極めてユニバーサル(普遍的)なことになることの良い例です。

そして、その何よりの代表が聖書です。三千年前のイスラエルの王ダビデが味わった心の葛藤から生まれた詩篇には、まさに私の心のことが書いてあります。そして、今、パウロがエペソの教会のために書いた極めてパーソナルな手紙の中に、私たちは全世界のすべての人に通じる福音の核心を見ることができます。実は、自分の心の奥底にある問題に真剣に向き合う人は、ことばが通じる日本人よりも、時代も文化もまったく異なるダビデやパウロの心との共通点をこそ感じることができます。彼らはあなたの最も身近な未信者よりもずっとあなたに身近な存在なのです。そして、私たちキリストのうちにある神の民にとっての共通の土台とは、十字架の福音です。

1.「キリストこそ私たちの平和であり」

ユダヤ人たちは、信仰への熱心さのゆえにイエスを十字架にかけて殺してしまいました。見当違いの方向に熱くなることこそ「罪」の本質です。会社のために命をかける猛烈サラリーマンとイエスを十字架にかけることに正義を感じたユダヤ人には共通点があります。神のみこころを知らずに自分の正義感に従って生きる者こそが、「生まれながら御怒りを受けるべき子」(2:3)と呼ばれます。何かとんでもない悪事を行ったというより、自分の生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指します。そして、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」(2:8)と言われますが、「信仰」とは、神の恵みを受け止める受信機のようなものであり、すべてが神の恵みであることを心の底から味わうようになることこそが信仰の成長です。自分を忘れて神の恵みに心を向け、神の恵みに圧倒されるようになることを私たちは求めるべきでしょう。また、「あなたがたは良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです」(2:10)とありますが、「良い行い」とは、この世の道徳ではなく、神の創造の目的、神のご計画を知ることから始まるものです。私たちの目は常に、神の期待に向けられなければなりません。

その上でパウロは、「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって」(2:11)と、エペソの教会の人々がどのような状態から救い出されたかに目を向けさせます。当時、イスラエルの民と異邦人との間には、決して超えられない深淵が横たわっていると思われていました。パウロは何よりも、そのことを「思い出してください」と強調しています。イスラエル民族はアブラハムの孫、ヤコブ(別名イスラエル)の子孫ですが、神は彼らをご自身の民として受け入れるしるしとして、男子の性器の包皮を切り取る割礼という儀式を行うことを命じられました。神は彼らを用いてご自身のことを世界に知らせようとしておられたのですが、彼らは自分たちの「肉において」の出生を誇ってしまい、異邦人たちを「無割礼の人」と軽蔑をこめて呼んでいました。そして当時のユダヤ人たちの間では、「異邦人は、地獄の火の燃料にするために、神によって造られた」とさえ言われていました。

また、「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」(2:12)とありますが、エゼキエル書などに記されている救い主キリストは、あくまでもイスラエル王国を復興してくださる方として預言されていました。ですから、異邦人がキリストに望みを賭けるということはありませんでしたし、イスラエルの民に再び繁栄を与えるという神の契約も彼らには無関係と見られていました。その意味で、異邦人には神にある望みはないと思われていました。

ところが、ここでは突然、「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(2:13)という不思議な議論の展開が見られます。このエペソ書のキー・ワードは、「キリストにあって」ということばです。キリストは、イスラエルの理想の王ダビデをはるかに上回る方、この世界を父なる神とともに創造された方です。そして具体的に人となって地上に現れてくださったキリスト・イエスは、異邦人をもご自身のみもとに招き、彼らの罪をもご自身の身に背負って十字架にかかってくださいました。その「キリストの血によって」、「遠く離れていた」異邦人も、神に「近い者とされた」というのです。

「キリストこそ私たちの平和であり」(2:14)とは、キリストにある「心の平和」というよりは、より具体的に、ユダヤ人と異邦人という「二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」てくださったという民族の和解です。たとえば初代教会の時代、最初、弟子のリーダであったペテロがローマの百人隊長の家を訪ねた事に関してさえ、「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」という非難が沸き起こったと記されています(使徒11:3)。それに対し、ペテロも事の次第を順序正しく話しました。ペテロ自身も最初、異邦人の家に入ることを、律法に反すること、「きよくない物や汚れた物を食べる」ことと同じにとらえていました(同11:8)。しかし、三回にも渡り、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と、夢の中で言われました(同11:9)。それで初めて、異邦人の家を訪ねることができ、ユダヤ人と異邦人がともに食事をすることが可能になったのでした。

そしてパウロは、それが可能になったのは、キリストご自身が「ご自分の肉において、敵意を廃棄されたからであり、その「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」と解説しています(2:14、15)。たとえば、レビ記には、ユダヤ人が食べることを許されないこと細かな動物のリストがありました。それはたとえば豚とからくだ、うさぎの肉、また、たこやえびです。これらはすべて、食用に禁じられているという以前に、神へのいけにえとして用いることが許されない生き物でした。つまり、ユダヤ人を神の民として受け入れるためのいけにえの規定が、汚れた動物を食べる異邦人に対する「敵意」となっていたのです。しかし、イエスは「ご自分の肉において」、神の神殿を完成し、もはや神殿を事実上、不要なものにしてくださいました。そして、この神殿にかかわる戒めの律法」が不要になったとき、異邦人とユダヤ人がともにイスラエルの神、主を礼拝できるようになりました。

たとえば、当時の神殿には、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭を隔てる厚い壁がありました。そして、どれほど熱心にイスラエルの神を求める人でも、異邦人である限り、いけにえをささげる中庭に入ることは許されませんでした。その隔ての壁には、「いかなる外国人もこれより先に入るなら、死刑に処せられる」と記されていました。当時のユダヤには死刑判決の権威が与えられていませんでしたが、この場だけは治外法権がローマ帝国から許されていました。しかし、キリストが異邦人の罪をもご自身の身に負って十字架にかかってくださったことにより、異邦人とユダヤ人が、手を携えてともにひとつの神の民として、主を礼拝することができるようになったのです。

2.「敵意は十字架によって葬り去られました」

  そして、この民族の和解をもたらす画期的な神秘のことが、「このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」(2:15、16)と描かれています。14節では「敵意を廃棄された」とあり、ここでは、「敵意は葬り去られた」と記され、十字架が、律法を廃棄するものではなく、敵意を廃棄し、葬り去るためのものであることが強調されています。どの宗教にも、それぞれの礼拝規定があります。それは人間が神に近づくことができるために、神の側から定められたルールであると見られていました。しかし、その礼拝規定が人と人との敵意を生み出してしまっています。それがすべての宗教戦争の原点と言えましょう。

  私たちはそれぞれ、自分なりの理想があります。そして、自分の理想と、人の理想がぶつかるときに、宗教戦争が起きます。では、理想も正義もなくなれば平和になるかといえば、そこにはかえって無秩序な無法地帯が生まれます。ですから、問題は、私たちが何を理想として生きるかということなのです。十字架は神のあわれみのシンボルです。それは「愛」とも言い換えられます。パウロは、「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(Ⅰコリント13:3)と言いましたが、それは、どれほど偉大な自己犠牲をともなった善行でも、愛なしに行うことができるということです。

人は自分のプライドを守るためには命さえ捨てることができる不思議な存在です。しかし、十字架こそは私たちの人間的なプライドを葬り去るものです。十字架は、人が自分の知恵と力によって神に近づこうとしていたときに、神ご自身の側から私たちに和解の手を差し伸べてくださったというしるしです。しかも、イエスの十字架を自分の罪のためであったと信じるすべての人は、神の目にはすでに「きよい者」とされているのです。そして、神はペテロに語ったように、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と私たちに対しても言われます。

  パウロは安息日律法や食物律法の解釈で争っていたローマ教会の信徒に向かって、「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心しだいです。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです」(ローマ14:4)と語りかけています。つまり、それぞれ、十字架を自分の救いと信じる限りにおいて、どれほど慣習や文化の違いがあったとしても、私たちは互いに「新しいひとりの人に造り上げられ・・・・一つのからだ」とされたと受け止めるように召されているのです。これは結婚に用いられると同じ概念です。結婚した者どうしは互いの生まれ育った環境を尊重しながらも、どちらかが一方的にどちらかに合わせるのではなく、互いに歩み寄って、「新しいひとつのからだ」としての文化を築くように召されています。私たちは十字架を中心に、新しい神の家族としての文化を築き上げるように召されています。

十字架は、神が私たちを受け入れてくださったシンボルです。しかし、それは同時に、人と人とを隔てる敵意が廃棄されたことのシンボルでもあります。私たちがなぜ、互いの正義を主張して、争ってしまうのでしょう。それは十字架を忘れているためです。たしかに、十字架をかかげて他国を侵略した十字軍などという忌まわしい記録があります。しかし、それこそサタンの計略です。サタンは、私たちにとってもっとも大切な平和のシンボルさえ、争いのシンボルに見せようとします。しかし、十字架とは、「(神の)敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた」(ローマ5:10)ということのシンボルです。十字架は、神の敵であった私たちひとりひとりが受けるべき刑罰であった、それなのに神の御子は私たちの身代わりに十字架にかかってくださいました。十字架にかかっているイエスと自分をだぶらせて見るときに、私たちは互いを受け入れることができます。それは、かつてクリスチャンを迫害するために命をかけていたパウロが、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きていられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白したとおりです。

  多くの日本人は、クリスチャンとして生きることを、聖人君子を目指す生き方、誰からも尊敬される人になることかのように誤解しています。しかし、クリスチャンとは何よりも、自分はイエスの十字架なしには神の御前にたつことができない罪人であることを自覚した者です。そして、自分も十字架にかけられるにふさわしい罪人であると心から自覚した人は、人の欠点をそう簡単には指摘できなくなります。ですから、真に十字架の意味を知れば知るほど、私たちは互いに寛容になり、互いを赦すことができるようになります。もちろん、人によって性格の違いはあります。人への批判がすぐに口から出てしまうタイプの人は確かにいます。私自身がそのようなタイプの一人です。しかし、これでも信仰の歩みとともに、人を批判することをかなり躊躇するようになることができました。なぜなら、年を経れば経るほど、自分の足りなさ、自分の心の醜さを自覚するとともに、自分を変えようとどんなに頑張っても、変わりようのない自分のかたくなさに気づいてきているからです。十字架は、私たちを謙遜にする神の神秘のシンボルです。これはことばや理屈では説明できません。十字架の神秘を知ることにおいての成長をともに目指しましょう。

「敵意は十字架によって葬り去られました」とあるように、その結果として、人と人との和解が生まれてきます。人間的な和解を目指すのではなく、ひとりひとりがイエスの十字架に向き合う結果として和解が生まれるのです。

3.「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は・・・神の家族なのです」

  「それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました」(2:17)とは不思議な表現です。「遠くにいたあなたがた」とはエペソに住むギリシャ人ですが、彼らに平和の福音を述べ伝えたのはパウロ自身です。しかし、彼はここで、十字架にかかり、よみがえってくださったキリストご自身がエペソまで来て和解の福音を伝えてくださったと言っています。それはパウロがすでにキリストのうちにある者とされ、また彼のうちにキリストご自身が住んでおられるからです。パウロは自分の宣教の働きを、「私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい(Ⅱコリント5:20)と表現しています。それはまるで、キリストご自身がパウロを通して、神の和解を受け入れるように懇願しているかのようです。イエスは十字架でご自身の手を広げておられます。それは私たちすべてを神の民として受け入れようとする招きの手でもあります。

そして、「近くにいた人たち」とはユダヤ人を指します。彼らは救い主を待ち望んでいたからです。その上で、異邦人とユダヤ人がキリストにあってひとつとされ、同じ父なる神に近づくということが、「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(2:18)と述べられます。

「ひとつの御霊において」とありますが、異邦人が神の民として受け入れられるための決定的なしるしとなったことが、「異邦人にも聖霊の賜物が注がれた」(使徒10:45)のを見たからでした。それを前提にペテロは、「神が私たちにくださったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができるでしょう」(同11:17)と言っています。私たちは、みな、同じ御霊の働きによって神の民とされました。神が受け入れ、ご自身の御霊を授けてくださった人を、私たちは拒絶することはできません。

  「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」(2:19)というみことばは、エペソの教会に集っているギリシャ人がエルサレムの使徒たちと同じ神の民とされたという意味があります。ドイツ語の「外国人」には何かしら侮蔑的な響きがありますが、私はドイツの福音自由教会の入会申請書の最初にこれが記されているのを見て、自分が名実ともに神の家族の一員にしていただけるという不思議な感動が生まれました。たとえばドイツ語には家族や友人の間では互いを Du で呼び合い、仕事の関係では Sie で呼び合うという使い分けがあります。これはしばしば、「君」と「あなた」の区別と誤解されますが、上下関係で使い分けるのではなく、仲間うちか、仕事上の付き合いかという区別です。ですから、神に向かっての祈りは必ず Du という呼びかけで始まります。これは家族とされたことのしるしです。そして、自分たちが新生したクリスチャンであるとの自覚を持った人どうしの間では、互いを兄弟姉妹と呼び、初対面の人でも Du で呼び合うことができます。しかし、職場では、親しい同僚は例外として、毎日顔を合わせている人どうしでも、また直属の部下に対してでも Sie と呼びかけます。残念ながら、日本ではこの関係は逆になりがちです。職場では、「俺、お前」で呼び合いながら、教会に来ると互いに遠慮しあって丁寧な言葉遣いになりがちです。しかし、私たちクリスチャンは神の家族の一員とされたのですから、もっと親しみを込めて呼び合っても良いのではないでしょうか。日本ではしばしば、職場の関係こそが遠慮のない家族のようになりがちですが、それは仕事に滅私奉公を求めるカルチャーの現われかもしれません。「神の家族」を実感できる関係を教会でこそ目指すべきでしょう。

当教会の入会申請書の表紙のことばは、ドイツの福音自由教会を真似たものです。私たちは教会員になる申請をしたとき、これからはあらゆる背景の違いを超えて、互いを家族の一員として見るという約束をします。そして、それこそ聖書では、キリストにあるバプテスマを受けたときに確認したこととされています。私たちはどのような国籍、どのような出生の経緯があるにしても、イエスをキリスト(救い主)と信じることによって、「アブラハムの子孫」(ガラテヤ3:7)とされているのです。そこでは、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、ひとつだからです」(ガラテヤ3:28)と言われます。

そのことが、また、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」と告白されています(2:20)。私たちは、ひとりひとり確かに、神によって永遠のご計画の中で、神の民とされるように選ばれたのですが、それは決して、ひとりひとりが互いとまったく無関係に天国に入れられるというような概念ではありません。異邦人はそれぞれ、肉の上でのアブラハムの子孫である群れに接木された存在なのです(ローマ11:17)。簡単に言うと、旧約の歴史を軽蔑したクリスチャンというのはありえないのです。イエスはあくまでも旧約聖書に預言された救い主であり、旧約を飛び越えて救い主がどのようなお方かを理解することはできません。残念ながら、今も昔も、「旧約は律法の時代、新約は恵みの時代」という区分けをする方々が多くいますが、そのように単純に分けることはできません。異邦人にとってもアブラハムは信仰の父なのです。

  「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」(2:21、22)というのはキリストのみからだである教会の成長のことが記されています。多くの人々は、クリスチャンとしての信仰の成長をあまりにも個人的な次元で考えています。しかし、ここでの成長とは、人と人とが「ともに組み合わされ・・・ともに建てられる」ことを指しています。それは時間のかかる面倒なプロセスです。人によっては、家族関係の中で深い心の傷を負ってきたという場合もあるのですから、親しみを求めるからと言って、すぐに相手の心の中に土足で入り込むようなことをしてはなりません。しかし、同時に、いつまでたっても他人行儀な関係というのは、真の家族としては未成熟です。私たちは、互いの感性や互いの距離感を尊重しながらも、家族としての親密さをともに求めるべきでしょう。

とにかく、「聖人になりすぎて、孤立してしいがち・・・」というのは聖書が語る成長ではありません。クリスチャンに何よりも大切なのはチームワークです。イエスがマリヤからお生まれになった頃、ヘロデ大王は、大理石を組み合わせた壮麗な神殿を築き上げていました。その神殿は、「神の家」と呼ばれ、神がこの地において住まわれる家と見られていました。しかし、パウロはここで、全世界のキリスト者の交わりこそが「神の御住まいであると言ったのです。それはひとつひとつの独立した教会組織の集合体ではなく、全世界の信仰者によって構成される唯一の目に見えない公堂の教会です。私たちは、地上の教会組織にばかり目を向けてはなりません。組織を超えたキリスト者のつながりを決して忘れてはなりません。使徒信条では、「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白されますが、「公同」とはラテン語でカトリックと呼ばれます。それは本来、固有名詞ではなく、普遍性を表現することばです。自分たちの教会の都合ばかりを優先するような発想は、このみことばに反することです。

  異なった言語、異なった慣習の人々が、ともに同じ主を礼拝できるというのは福音の力の最大の証です。初代教会の成長の原動力は、まさに民族の和解、敵対する階級間の和解、男女の和解にありました。それは今もここで起こっています。その鍵はキリストの十字架です。人が十字架を信じることができるのは、同じ御霊の働きがひとりひとりの中に現されているからです。和解こそ、福音の実です。そして、教会は和解によって成長してきました。私たちは知らないうちに、教会の成長を、あまりにもこの世的な枠で計るようになってはいないでしょうか・・・

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2010年4月18日 (日)

イザヤ40章「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」

                                              2010年4月18日      

私たちは基本的に自分の力を、他の人との比較で計ります。そのため人の心の中には、以下の詩にあるような醜い思いがあるのではないでしょうか。「もし私の隣人が 私より強いならば、私はその人を怖れる。/ もしその人が 私より弱ければ、私はその人を軽蔑する。/ もし私とその人とが 同じであれば、私は詭計に訴える。/ 私がどのような動機をもっていたら、その人に服従することができ、/ 私にどのような理由があったら、その人を愛することができるのだろうか」(ジャン・ド・ルージュモン) しかし、私たちの基準をキリストにおくとき、徹底的に自分の弱さを受け入れると共に、必要ならばどんな苦しみをも引き受ける勇気をいただくことができるのではないでしょうか。

1.「そのすべての罪に代わり、二倍のものを主(ヤハウェ)の手から受けた」

イザヤ39章はバビロン捕囚の預言で終わり、それを前提として、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、「あなたがたの神が仰せられる」(1)と記されます。これからヘンデル作「メサイア」の冒頭の歌が生まれますが、自業自得の罪で神のさばきを受けている人々を、神は「わたしの民」と呼ばれ、またご自身のことが「あなたがたの神」と紹介され、「慰めよ。慰めよ」というメッセージが告げられます。これこそイザヤ40章以降の中心テーマです。

「慰める」には本来、「深く呼吸する」という意味があり、それは「哀しみ」「あわれみ」とも訳され、「同情」というより「励まし」の意味が込められています。神の「深い息」から生まれる「慰め」には、人の呼吸を助け、新たな活力を生み出す力が込められています。しかも、続けてエルサレムの心に語り、彼女に呼びかけよ」(2節)という不思議な表現があります。神の「慰め」は、打ちひしがれた心の奥底に届き、生きる力を生み出すことができるのです。

 「その苦役は終わり」とは、戦争捕虜としての「苦役」の期間が満了したという意味があり、そのことが「咎は償われた」とも言い換えられます。バビロン捕囚は、申命記28章などで、主ご自身が警告しておられた「のろい」が成就したもので、そのような「咎が償われて」初めて、神の「慰め」の計画がスタートされると預言されていました。そして、「そのすべての罪に代わり、二倍のものを主(ヤハウェ)の手から受けた」(2)とは、借金証書が返済完了の印に二つ折りに壁に鋲で留められると同時に、借金と同額が贈り物として与えられるという奇想天外な恵みです。

  私たちにも、はるか前の祖先の世代から受け継がれた「のろい」の連鎖のようなものがあります。たとえば、虐待されて育った子供は、その辛さを分かっていながらも、親になると子供を虐待します。様々な依存症の問題も、形を変えながら親から子へと受け継がれます。残念ながら、頭でどれだけ知識を得ても、何千年前からも受け継がれている罪の性質が私たちの身体に深く染み込み、ひとりひとりをそのような「のろい」の連鎖に閉じ込められています。この世のすべての人はその意味でバビロン捕囚の「苦役」の中に未だなお置かれていると言えましょう。

しかし、私たちキリストにつながる者は、この「のろい」の連鎖から救い出されました。それは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)と記されているとおりです。ただし、現実には、自分が先祖の世代から受け継いできた悪い習慣は、クリスチャンになったからといってすぐに断ち切られることはありません。何百世代も積み上げられてきた罪の性質は、クリスチャンホームが何代も続く中で初めて「きよめられてゆく」ものであるとも言えましょう。ところが、その途中で、「教会に熱心に通ったけど、何も変わらなかった」と絶望してしまう方々が後を絶ちません。私たちの「救い」には常に、「すでに実現している」alreadyという部分と、「まだ実現していない」not yet という両面があります。私たちは何よりも、「望みによって救われている」(8:24)ということを忘れてはなりません。決定的なのは、「歩む方向」の問題なのです。キリストから離れている者は、知らないうちに『やみ』に向かって歩んでいる一方、キリストにある者は『光』に向かって歩んでいるのです。私たち自身が罪の性質から完全に解放されるのは、「新しいエルサレム」に入れられるときです。そして、この「慰めよ。慰めよ」という語りかけは、歩みの途中で疲れ失望しているすべての信仰者に対するメッセージなのです。

長い間、借金の返済に追い立てられていた方が、ゼロになるということがどれだけ希望に満ちているかということを語っておられました。「すべての罪に代わり、二倍のものを受けた」とは、先祖から受け継いだ不の遺産がなくなったばかりか、新しい事業を立ち上げるための資金が無条件に与えられるようなものです。しかし、現実には不の遺産が強く残っているように見えます。では、どのような意味で新しい「慰め」がもたらされたのでしょう。

2.三重の福音

  それで、「二倍のものを主(ヤハウェ)から受けた」という、すでに現された「慰め」のことが、「呼ばわる者の声」(3)「呼ばわれと言う者の声」(6)「シオンに良い知らせを伝える者」(9)という三重の福音として語られます。

第一の「呼ばわる者の声」は、「荒野に主(ヤハウェ)の道を整えよ。荒地で私たちの神のために大路を平らにせよ・・」(3節)と語りかけます。これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することです。そのことが具体的に、「すべての谷は高くされ、すべての山や丘は低くなれ。起伏のある地は平地に、険しい地は平野とされよ」(4節)と描かれます。そして、新約ではバプテスマのヨハネが、「荒野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)としてその預言を成就したと紹介されます。なお、イザヤの原文では、整えられるべき道の状態が、「荒野・・荒地」と強調されています。ヨハネの働きは、王であるキリストを迎える道の状態を平らにすることにありました。

私たちの心は荒野の状態で、主が入ってこられるのを妨げる様々な障害があります。預言者たちはまず、それを整えるようにと呼びかけています。あなたの心には、主をお迎えする道が備えられているでしょうか?自己満足にひたり、心の渇きの声に耳をふさいでいるなら、どんなに福音が分かりやすく語られても理解することはできません。ですからイエスは山上の説教の初めで、「心()の貧しい者は幸いです」と言われました。そして、バプテスマのヨハネは私たちの高慢や自己義認を指摘する者として遣わされました(ルカ3:4-8)。私たちの周りにもいつも心の貧しさを思い知らせてくれる預言者のような人々がいます。それは身近な家族であったり、職場の同僚であったり仕事仲間であったりします。その人々は、様々な欠点を指摘し、私たちが神のあわれみと慰めなしには生きてゆけない存在であることを思い知らせてくれます。しかし、そこに主を迎える「大路」が開かれているのです。

「そして、主(ヤハウェ)の栄光が現され、すべての肉なる者が共に見る」(5節)と言われますが、イエス・キリストこそ約束された「主(ヤハウェ)の栄光」の現れでした。それは、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と記されているとおりです。そして、イエスは、まず誰よりも、社会の最下層にいる「心の貧しい者」「悲しむ者」に、ご自身による「主(ヤハウェ)の栄光」「現して」くださいました。そして、イエスこそそのように、主(ヤハウェ)の御口が語られた」ことの成就でした。 

  第二の、「呼ばわれ」という者の声に対し、イザヤは「何と呼ばわりましょう」と答えます。これはイザヤ6章のイザヤの召命につながる表現であり、続くメッセージこそ、荒野のような世界に住む私たちへの最大のメッセージです。そこではまず、すべての肉なる者は草、その誠実(ヘセド)は、みな野の花のようだ」(6節)と語られます。「その栄光」と新改訳第三版で訳されていることばの原文は「ヘセッド」で、脚注にある「誠実」の方がふさわしい訳だと思われます。私たちは様々な場面で人の「不誠実」に怒りを覚えますが、私たち自身の内側にも同じような醜い心が巣食っています。心に余裕があるとき「私は結構、誠実な人間だ」と思っていても、それらは「野の花」のようにはかないものです。そのことが、「草は枯れ、花はしぼむ。主(ヤハウェ)のいぶきがその上に吹くから」(7節)と記されます。主はご自身のいぶき「霊」によって愚かな誇りを砕かれ、私たちがちりにすぎないことを悟らせてくださいます。それは非常に辛い現実ですが、詩篇などには、人と自分に失望する赤裸々な告白が満ちています。

しかし、人の「誠実」のはかなさを語った後ですぐに、「まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(8節)と記されています。明日何が起こるかを予想することは、株価予想のように当てになりませんが、この世界が「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)に向かっていることを確信できるなら、自分の労苦が無に帰するように見える中でも、堅く立ち続けることができます。その新しい世界では、私たちの愛の交わりが完成すると約束されています。今は、つぶやかざるを得ないことがあったとしても、新しい世界においては、すべての誤解が解け、互いを心から喜ぶことができるようになります。私たちはそれぞれ、キリストにつながっている限り、そのような愛の完成の世界に入れられることが約束されているのです。

 第三に、「良い知らせ」の声は、高い山に登れ。シオンに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ」(9節)と繰り返され、その上で、「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え」と言われながら、「見よ」ということばが三回繰り返されます。その第一は。見よ。あなたがたの神を」という呼びかけです。イエスは、「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」というピリポに対して、「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われました(ヨハネ14:8,9)。そして、イザヤはここで引き続き、見よ。主、ヤハウェは力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは御もとにあり、その報酬は御前にある」(10節)と告げられます。「のろい」の世界では、労苦が実を結びませんでしたが、キリストを信じる私たちはすでに「祝福」の時代に入れられています。そのことを使徒パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記しています。            

  それと同時に、主は羊飼いのように群れを飼い」と表現されつつ、「主の御腕」は、力強さとともに優しさの象徴とされ、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませている雌羊を優しく導く(11)と描かれます。それこそが新約で強調される「主(ヤハウェ)の栄光」で、罪人、取税人、遊女の仲間と呼ばれたイエスの姿に現されています。旧約の民は、外国の軍隊を打ち破ることができるような力に満ちた「御腕」ばかりを求めていました。しかし、主がもたらされた「二倍のもの」とは、まさに、主の御前に立つことがとうていできないような者を、あわれみをもって招き、内側から作り変えてくださるというあわれみに満ちた「愛」の「御腕」のことでした。

  私たちはすでに、旧約の民が恋い慕っていた憧れの救い主キリスト・イエスに出会うことができました。そして、私たちの「いのち」はすでにキリストによって守られ、すべての労苦が無駄にならないという祝福の時代に移されています。ですから、私たちはもう、目の前の問題を恐れる必要はありません。すべての問題は、時が来たらキリストにあって解決することが保障されています。その確信を抱くとき、私たちはどんな中でも勇気に満たされます。

3.「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」

12節からは「だれ・・」という問いが繰り返されますが(12,13,14,18,25,26)、ここでは、「水」「天」「地のちり」「山」という対比に目を向けさせながら、だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで、丘をはかりで量ったのか」と、量りえないものが精巧に設計され創造されている様子が描かれています。そして、13,14節では、主は人間とは異なり、誰からも教えられることなく「悟りを得」、また「知識」と「英知」を持っておられるということが、だれが、主(ヤハウェ)の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。主はだれと相談して悟りを得られたのか。さばきの道筋を、だれが主に教え、知識を授け、英知の道を知らせたのか」と描かれます。たとえば、「神が愛なら、なぜこのような悲惨が起こっているのか?」という問いがしばしばあります。しかし、そのように問うとき、人は、自分が思い描く「愛」の基準で神を査定しているのです。しかし、愛への渇きを起こしているのは主ご自身であられることを忘れています。また、たとえば、「こんな神など、信じるに値しない」というとき、人は自分の理性の枠組みで神を査定してはいないでしょうか。しかし、その理性は誰によって与えられたものでしょう。人は無意識のうちに、神よりも自分の理想を絶対化して、その枠で神を計ってしまいます。     

  15節では、「見よ」との繰り返しの中で、主の目には、「国々」「島々」もちっぽけなものでしかないことが、国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる」と描かれます。そして、16節では、豊富なレバノンの木が、主の目には、たきぎにも不十分であるということが、レバノンも、たきぎにするには、足りない」、また、その地に生きる数多くの獣も、「全焼のいけにえにするには、足りない」と描かれます。私たちは主のお役に立ちたいと願いますが、主の必要を満たすことは誰にもできません。自分が主のあわれみによって生かされているという自覚を欠いたすべての「良い行い」はむなしいものです。          

17節では、どんなに強い国々も主の前では無いに等しく、主には、むなしく茫漠とみなされると描かれます。当時のユダヤはアッシリヤ帝国とエジプトの狭間でかろうじて生き残っていましたが、「主にとっては」それらの巨大な帝国も「むなしく茫漠」に見えるというのです。これは、現代のアメリカ合衆国のコンピューターを駆使した大軍事力が、主の目には、太平洋に浮かぶ小島トンガ王国の王宮警備隊にまさりはしないというようなものです。

  18-20節では、偶像礼拝のむなしさが描かれます。まず、お前たちは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に比べようとするのか」と記されますが、人は、神に「なぞらえ(似せて)(18)「神のかたち」として、「高価で尊い」者として創造されました。しかし、人は、傲慢にも、自分の創造主を、「人のかたち」におとしめて刻んでしまったのです。その上で、「偶像」に焦点が当てられ、それが作られる様子が、「鋳物師が鋳て造り、細工人は金をかぶせ、銀の鎖を作る。貧しい者は、奉納物として朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜し、動かない偶像を据える」と描かれます。どんなに美しい仏像も、人の作品であることは誰の目にも明らかです。それは、人の心の中から生まれた理想を表してはいますが、宇宙の創造主は、人の知性では決して推し量ることのできない方です。

  お前たちは、知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の始まりのことを悟らなかったのか(21)とは、人間的な知恵を横に置き、「創世記」の原点に立ち返る勧めです。多くの人々は、この世界は永遠に存在するかのような誤解をしていますが、「地」には「始まり」があるということは明らかです。それは自然に始まったのでしょうか?たとえば、人々は、「宇宙のはじまり」に思いを向けますが、いかなる科学も、それに関して仮説は立てられても、実証することは不可能です。しばしば、人がアミーバーからの自然淘汰による進化の歴史の頂点に立つという大胆な仮説が、科学的事実であるかのように教えられますが、それが事実なら、優秀な遺伝子を持つ者が支配権を握ってより多くの子孫を残す社会システムが正当化されはしないでしょうか。

しかし、「主は地をおおう天蓋の上に住まわれ」(22)とあるように、神は全宇宙を超越しておられる方です。地の住民はいなごのようだ」とありますが、創造主の目には、人が知性や美貌で優劣を競い合っている姿は、「いなご」の競争のようなものにすぎません。しかし、主は、天を薄絹のように延べ、住まう天幕のように広げ、君主たちを無に帰し、地のさばきつかさを茫漠のようにされる」(23節)とあるように、神の偉大さは、人の想像をはるかに超えています。17,23節で「茫漠」ということばが用いられますが、これは神がこの世界に光を創造し、動植物を生まれさせる前の原初のこの地の状態を指す表現です。ひとことで世界を創造された方は、国々の栄華やこの世の権力者を一瞬のうちに消し去ることができるという意味で、それは主の前に「茫漠」と見られているのです。

今、ここで、イエス・キリストこそが、「王たちの王。主たちの主」(黙示17:14)として全地を支配しておられます。そして、その方はご自身を無力さの象徴の「小羊」として紹介しながら、人が自分の力を誇る姿を笑っておられます。そして、神の前における人の力の頼りなさが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主が風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす」(24節)と描かれます。主のあわれみがなければ、私たちの労苦の果実は一瞬のうちに消え去ってしまいます。

また25節で、主は「だれに、わたしをなぞらえ、比べようとするのか」と問われ、その方が「聖なる方」と紹介されますが、それは神の超越性を表すことばです。私たちの信仰は、その方がご自身を啓示してくださらない限り生まれ得ないものでした。そして、それを前提に、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26)と呼びかけられます。これは大宇宙に目を向けることの勧めです。しかも、宇宙の創造主は、万象を呼び出して数え、一つ一つその名をもって呼ばれる方」と描かれます。人は誰も天に輝く星の数を計算することはできませんが、神はすべてを数え、一つ一つの星を区別してそれに名をつけておられます。それと同時に、神はどんなにちっぽけなものをも区別しておられるということが、精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはないと描かれます。ですから神は「いなご」に等しい私たち一人一人をも「その名をもって、呼ばれる方」であられます。私は何をしても良い結果が出ないと落ち込んでいたとき、このみことばを友人から贈られて深い感動を覚えたことがあります。

4.「鷲のように翼をかって」

  なぜ、ヤコブよ、言うのか。イスラエルよ。言い張るのか(27)とは、「神の民」がこの地であまりにも惨めで、私の道は主(ヤハウェ)に隠れ、さばきの訴えは私の神に見過ごしにされている」と嘆かざるを得ない現実が目の前にあるからです。敬虔な信仰者にとっても、肝心のときに神を遠く感じざるをえないというのは、避けがたい現実でもあります。私たちはそんなとき、心が萎え気力を失います。しかし、私たちの主イエスもそのような神の不在を体験されましたしかし、その主の御苦しみによって全世界の罪が贖われました。その不思議に思いをめぐらすことの大切さが、私たちへの問いかけとして、知ってはいないのか。聞いてはいないのか。主(ヤハウェ)は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない」(28節)と描かれています

ここでイザヤは、人の目を創造の原点に導き戻しますが、新約の時代に生きる私たちは、神を遠く感じるたびに、神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったという復活の力の原点に立ち帰ることができます。なお、「主は・・疲れることなく、弱ることなく」という表現は、「若者も疲れ、弱り」(30)と対比されるとともに、主を待ち望む者は「走っても弱らず、歩いても疲れない」(31)というクライマックスに結びつきます。「弱る(たゆむ)」とは、気力が湧かなくなる状態です。それは肉体の自然な反応ですが、主は「疲れた者には力を与える」と同時に、心が弱った者、「精力のない者には活気をつける」ことのできる方です。私たちに求められていることは、外からの刺激に反応しながら時間を惜しむように動き回る代わりに、「主(ヤハウェ)を待ち望む」ことです。それは、すべての働きを、主のみ前で静まるということから始め、まず何よりも、主からの力を受け、その上で動き出すということです。

しかも、「主(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得る」とは、食べて寝て元気を回復するという生物学的な力ではなく、鷲の翼が生え変わってより高く舞い上がるような、内側からの変化です。これは英語で、Changeではなく、Transformationとして表現される「新しさ」です。それが肉体の現実を超えた変化だからこそ、鷲のように翼をかって上って行く」(31節)と表現されているのです。なお原文では、「できる」ということばは入っていません。それは、主を待ち望む者に起こる必然的な変化だからです。これは主の約束です。私たちは常に、何かをできている自分の方に目が向かいますが、「待ち望む」ことの中心は、自分の徹底的な無力さを認めながら、ただ主の救いを必死に待ち望むことです。「できる」とか「できない」とかの人間的な枠を超えて、神のみわざに期待することです。それは一瞬一瞬問われている心の状態です。私たちはいつでもどこでも「疲れて、弱り」ます。しかし、そこで主を待ち望むやいなや、主の御霊の働きが私たちのうちに始まり、「走っても弱らず、歩いても疲れない」という超自然的な変化が生まれるのです。私たちがこの主のみわざを体験できないのは、自分が強すぎるからかもしれません。

今、「主を待ち望む者」の心のうちに、「主(ヤハウェ)ご自身が入って来てくださいました。私たちのうちにはすでに、死に打ち勝った「キリストの力」が働いています。そして、キリストこそ私たちにとっての「栄光の望み」です(コロサイ1:27,29)。私たちは自分を「いなご」のようにちっぽけに感じることがあるかもしれませんが、主は「地をおおう天蓋の上に住んで」おられると同時に私たちの内に住んでおられます。ですから私たちは、今、天におられる主のみもとに向かって、「鷲のように翼をかって上ってゆく」その途上にあるのです。そして私たちは、「主を待ち望む」ことによって、疲れることも、弱ることもない栄光の主の姿に似せられてゆく途上にあるというのです。

私たちは自分の弱さに直面させられる中で初めて、主が私に目を留めてくださったことの恵みが分かります。「地をおおう天蓋の上に住まわれる主」が、「いなご」のような私たちひとりひとりに「力を与え、活気をつけ」てくださいます。それは何よりも、「目を高くあげて、だれがこれらを創造したかを見よ」という呼びかけに応答することから始まります。私たちは知らないうちに、人間的な常識の枠の中に神のみわざを閉じ込めてはいないでしょうか。そして、このように私たちが自分の弱さと同時に、主にある強さを体験できるとき、私たちは傲慢になることも自分を卑下することもなく、主から与えられたそれぞれの固有の使命のために生きることができるのです。

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2010年4月 4日 (日)

ルカ福音書23章50節-24章12節 「キリストの復活を今ここで体験する」

                                        201044日 イースター

  キリストの復活のしるしは何よりも弟子たちの変化に見られます。イエスの弟子たちは私たちと何も変わらない平凡な人々でした。しかし、その彼らが、死をも恐れず、イエスの復活を証する大伝道者になっています。何しろ、イエスの伝道の生涯はたったの三年間に過ぎません。これは仏陀やマホメットなどとは大違いの短さです。ですから、現在の世界に広がるキリスト教会の基礎を作ったのは、人間的に見れば、あの無教養でひ弱な弟子たちであることに間違いはありません。遠藤周作のように文字通りのキリストの復活を素直に信じようとしない人も、この弟子たちの変化を何よりの不思議と思い、様々な人間的な説明を試みます。彼は、「復活を歴史的な事実として肯定する」ことが最も素直な解釈であると認めながら、それ以上に、あり得ないような仮説を立てざるを得なくなります。とにかく、キリストの復活の最大の証明は、弟子たちの「心の変化」にあることは間違いありません。そして、それは、私たちも今、あの軟弱で不信仰な弟子たちと同じように、生き方を変えていただけるということの最大の希望の基礎なのです。キリストの復活は二千年前の歴史的事実であるとともに、今、ここで、体験できる現実です。

1. 「彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた」

 イエスが息を引き取られた後、十字架の前にはどの福音書にも登場せず、十字架後にすべての福音書に描かれる人物が登場します。ルカは、さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた」(23:50、51)と記します。マタイは、彼を「アリマタヤの金持ちで・・・イエスの弟子になっていた」(27:57)と記します。一方、ヨハネは、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」(19:38)と記します。つまり、ルカは、このヨセフがイエスの弟子であったということを、「神の国を待ち望んでいた」という表現で描いています。彼は、イエスがイスラエルに神の国をもたらしてくれる救世主、キリストであることを待ち望んでいました。彼の心は、イエスが十字架にかかる姿を遠くから見つめながら、そこに現された威厳に不思議な感動を覚えていたことでしょう。同時に、今まで自分の立場を明確にして来なかったことを恥じていたのではないでしょうか。

ルカは、ヨセフがユダヤの最高議会(サンヘドリン)で他の議員たちには同意をしていなかったと描きますが、マルコでは、イエスが裁判の席で、ご自身がダニエル7章13,14節に預言された救い主であると宣言されたとき、「彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた」(マルコ14:64)と記録しています。そのとき、隠れながらイエスの弟子となっていたニコデモとヨセフは、議員の席から意図的に離れていたのかと思われます。

ヨハネは、以前、ニコデモが最高議会の席で、イエスを偽預言者と定めようとする動きに対し、「私たちの律法では、まず、その人から直接聞き、その人が何をしているのかを知った上でなければ、判決を下さないのではないか」と、裁判のプロセスに異議を挟んだことを記しています(7:51)。このヨセフも、裁判のプロセス自体に異議を唱えていたのでしょう。しかし、イエスが最後の裁判の席で、ダニエル預言を引用しながら、ご自分が「力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのをあなたがたは見る」(マルコ14:62)と宣言されたのを聞いたとき、ヨセフはその意味を理解できず、イエスに疑いを持ち、弁明を止めたのかもしれません。しかし、イエスの十字架の姿を見ながら、イエスへの愛を掻き立てられ、自分を恥じたことでしょう。イエスの復活までを信じることができなかったとしても、その御姿に心を揺すぶられ、それまでの疑問と恐れから解放されました。そして、彼は、これから何が起こるかを理解できないまま、「今、ここで」なすべきと示されたことを誠実に行おうという勇気を持って立ち上がりました。

そして、「この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った」(23:52)とあるのは、自分の立場を不鮮明にしていたヨセフとしては、驚くべき決断でした。なにしろ、イエスの弟子たちはみな、自分たちがイエスの弟子であることを隠さなければ自分の身が危ないと恐怖に駆り立てられていたときのことですから。ただ、もしヨセフが事前に自分の信仰的立場を公表していたとしたら、このような願いはピラトに聞き入れてもらうことはできなかったことでしょう。神は、私たちの失敗をさえ、ご自身の目的のために用いることができることの良い例です。

そして、引き続き彼の行動が、「それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた」(23:53)と描かれます。ユダヤ人は葬式を非常に大切にしていました。ですから、ヨセフが、自分のために用意していたと思われる新しい墓を、イエスのために用いようとしたことは極めて自然な動きでした(マタイ27:60)。ヨハネは、このとき、同じ議員仲間であったニコデモも、「没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た」(19:39)と描いています。これは、イエスを王として丁重に葬るということを意味します。神は隠れキリシタンのような彼らをこのときに用いてくださいました。

これらのことを通して、イザヤが、「彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた。それは、彼が暴虐を行わず、その口に欺きはなかったから」(53:9私訳)と預言したことが成就しました。当時、十字架にかけられた者の死体は、共同墓地に投げ込まれました。しかし、イエスの遺体は、サンヘドリンの議員のために用意された地域の、真新しい墓に、「富む者」の仲間として、葬られました。それは、神が義人を守り通してくださるということのしるしでした。そして、神は、このときヨセフを用いて、イエスの復活のための舞台を用意してくださったのです。共同墓地に投げ込まれた遺体がなくなっても、誰も気にも留めません。しかし、真新しい墓に葬られた遺体がなくなったとしたら、人々は、みな、何かが起こったはずだと不思議に思わざるを得ないからです。

私たちもヨセフのように、いろいろ迷いながら行動しながら、後で、自分の行動を恥じることもあることでしょう。しかし、先が見えないながらも、手探りのような状態で、「今、ここで」、自分にできることを大胆に行う勇気が、結果的に、期待をはるかに越えた明日を開く原動力になります。ヨセフは自分の行動が何をもたらすかを知りはしませんでしたが、イエスの復活の後に、自分がイザヤの預言を成就させる者として神によって用いられたことを心から感謝できたことでしょう。ヨセフの墓に葬られたイエスの御霊が、彼の心のうち既に宿っておられたかのようです。

2. 「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」

  イエスに従ってきた男性の弟子たちはどこかに隠れていましたが、ヨセフがイエスを葬ったときのことが、「この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた」(23:54、55)と描かれています。「安息日」は、金曜日の日没から始まります。ですから、女たちは、墓の場所だけを確認して、安息日の後で、もう一度イエスを丁重に葬りたいと思ったことでしょう。彼女たちは、ただ、イエスの遺体が腐敗して悪臭を放つなどということなどを想像したくないと必死に願いながら、とにかく、今自分たちができる最大限のことをしようとしました。合理的に考えると、遺体の腐敗は決して避けられませんが、神は、そのような彼女たちの人間としての情を用いてくださいます。そのことが、「そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだが、週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた」(23:56、24:1)と描かれています。彼女たちは、安息日にイエスの遺体に香料と香油を塗ることができなかったことを本当に歯がゆく思ったことでしょう。それで、彼女たちは、「朝早くまだ暗いうちに」(ヨハネ20:1)、墓に向かって動き出していました。そして、神は、そのような彼女たちの切ない痛々しい思いを用いて、彼女たちを最初の復活の証人としようとしておられます。安息日の土曜日に、彼女たちはどうしても急いで行いたい思いながら、休まざるを得ませんでした。それが益とされたのです。

  ところで、マタイは、ユダヤ人の宗教指導者たちが安息日に総督ピラトに願い出て、ローマ軍の兵士を番兵に出してもらっていたと記しています。それは、イエスを偽預言者とした彼らの方が、イエスがご自分で三日目によみがえると言っておられたということばを思い出したからでした。イエスの復活預言は、敵対者の間にさえ広がっていたのに、弟子たちはそれをすっかり忘れていたというのです。弟子たちの信仰はそれほど頼りないものでした。とにかく、このときの墓の状態は、「彼ら(番兵たち)は行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした」(マタイ27:66)という状態になっていました。そして、この週の初めの日の日曜日の早朝、女たちは墓に向かいながら、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と、「みなで話し合っていた」というのです(マルコ16:3)。

しかし、彼女たちが墓に着くと、「見ると、石が墓からわきにころがしてあった」(24:2)と予想もしないことが起きていました。私たちはしばしば、先のことが見えないまま、どうしても動かざるを得ないことがあります。神は、そのようなとき、先回りするかのように、すべてのことを備えていてくださいます。かつてイエスも、それを前提に、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ6:34)と言っておられたとおりです。

  ただし、「はいって見ると、主イエスのからだはなかった」(24:3)という事態は、彼女たちにとって、喜びであるどころか、恐怖に満ちたとまどいでしかありません。たぶん、彼女たちはとっさに、ユダヤ人の指導者たちによってイエスの遺体が運び出され、どこかにまた、「さらしもの」にされているとでも思ったことでしょう。そのことが、「そのため女たちが途方にくれていると」(24:4)と記されています。しかし、たたずんでいる間に、「見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た」(24:4)というのです。神は、彼女たちのために、ふたりの御使いを遣わしてくださいました。ただ、それにも彼女たちの気は動転しました。予想だにしなかったことだからです。そればかりか、その姿は、あまりにもまぶしかったため、彼女たちは、「恐ろしくなって、地面に顔を伏せ」ました。

しかし、「その人たちは」、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と問いかけました(24:5)。これほど示唆に飛んだことばがあるでしょうか。今も、「生きている方を死人の中で捜す」ように、イエスを昔の宗教的な偉人、悲劇の主人公としかみない人々が多くいます。彼らはイエスをマホメッドや仏陀などと同じように新しい宗教の開祖と見ています。しかし、どの宗教指導者が、これほど無残な死を遂げたでしょう。それは常識人にとっては、イエスが説いた神は、架空の願望にしか過ぎなかったことのしるしになります。神が生きて働いておられる方なら、決して、あのような死を許すはずはないからです。つまり、イエスの復活を文字通りの歴史的な事実として認めることのないすべての人は、聖書の教えを、単なるファンタジーのひとつにしているのです。

御使いたちは女たちに、「ここにはおられません。よみがえられたのです」と告げました(24:5)。マルコは、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」と語順を逆に記します(16:6)。私がイスラエルを旅行し、イエスの墓をイメージさせる園の墓の中に立った時、そこには、空の墓とともに、「He is risen. He is not here」と書いた小さな看板が掲げられていました。そこで、私は、電流が身体を走るように、イエスの復活を、心で実感することができました。実はその少し前、カトリックとギリシャ正教が共同で管理する聖墳墓教会を見学しました。長い列を作って、金色に飾られた墓の中を見て、そこから出てその裏に回ったところ、ギリシャ正教の僧侶が、僕の手をとって、「この石は、イエスが横たわっていた頭の先にある石に通じる・・これに触れるとご利益がある」ということを示していました。僕はその手をとっさに、やさしく振りのけましたが、彼の足元には献金箱が置いてありました。何とも情けない思いになったその後に、このシンプルな園の墓を訪ねて、先のような深い感動を味わうことができたのです。

イエスは、エルサレムの墓の中にいるわけではありません。また、天にも届くような荘厳なカトリック教会の中にいるわけでもありません。イエスは、今、私たちの交わりのただなかにおられます。それは、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)とイエスが言われたとおりです。

御使いたちは引き続き、女たちに、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」(24:6、7)と告げました。すると、このときになって初めて、「女たちはイエスのみことばを思い出した」(24:8)というのです。みことばが彼女たちを納得させたのです。私たちは復活のイエスに出会うために、遠くエルサレムに旅行する必要はありません。「今、ここで」、みことばをともに読む中で、イエスの臨在を体験できるのです。

3. 「心の復活」

その後、女たちは、「墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した」(24:9)とありますが、私たちも今、彼女たちの報告を、時空を超えて聞いています。彼女たちは、実際に、ガリラヤからイエスに付き従っていた信頼できる人たちで、その名が、「この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった」(24:10)と描かれます。そればかりか、そこには、「彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した」とあるように、名が記されていない他の証人たちもいました。

当時は徹底的な男性社会でした。そして、女性たちのことばは信頼されていませんでしたから、裁判の際の証人としても認められていませんでした。イエスの弟子たちもこのとき同じような態度を取ったことが、「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」(24:11)と描かれます。

  ただ、例外もいました。そのことが、「しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った」(24:12)と描かれます。ペテロは、空の墓を見て、当惑しました。彼も当然、イエスの遺体が盗まれ、さらしものにされている可能性を思ったことでしょう。しかし同時に、墓の中に、「亜麻布だけがあった」ということは、女たちの話が本当であることの力強い証になります。遺体が盗まれるなら、亜麻布がそのままに残されるはずはありません。使徒ヨハネは、このときペテロに同行していました。そして、その様子を、「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た」(ヨハネ20:7)と描いています。つまり、イエスの身体は、くるんでいた布からすっぽりと抜けたように消えていたというのです。この亜麻布自体が、何よりもイエスの復活の証拠となっています。

 しかし、ヨハネは同時に、ペテロとヨハネがその場をすぐに立ち去った理由を、「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」(ヨハネ20:9)と記しています。

  つまり、弟子たちがどれほどの証を聞いても、また証拠を見ても、それを信じることができなかったのは、イエスのみことばを理解できていなかったからだというのです。御使いは女たちに、イエスのみことばを思い起こさせました。そして、彼女たちはすぐにそれを思い出すことができました。しかし、男の弟子たちは、この世的な常識にずっと強く支配されており、別の思い起こさせ方が必要でした。それで、この後、エマオ途上のふたりの弟子たちに、みことばを解き明かしたイエスの話が、続けて描かれています。彼らは、女性たちの証を聞きながら、それを確かめもせず、勝手に失望して、弟子たちの交わりから立ち去って行った救いがたい不信仰者たちです。イエスは、彼らからご自身の姿を隠しながら、旧約聖書全体から、救い主の受難と復活を解き明かしました。

  たとえば私は、昔、マタイやマルコに記録されているイエスの唯一の十字架のことばを読んで、それにつまずきを覚えました。そこには、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、恨みがましいように聞こえる叫びが記されていました。しかも、そこにはヘブル語、またはアラム語まで記され、イエスがそのことばをそのまま叫ばれたということが強調されています。しかし、私は、それが詩篇22編の冒頭のことばそのものであることがわかり、また、詩篇22編の意味を理解するにつれ、そのことばに深い感動を覚えるようになりました。

  詩篇22編の冒頭のことばは、神の沈黙に耐えながら、なお、「私の神、私の神よ」と訴えているものであり、また、それは「見捨てられてしまった」という恨みではなく、「遠く離れないでください・・急いで私を助けてください・・・私のたましいを救い出してください」という訴えの表現のひとつであることがわかります。そして、それは21節の終わりで、「あなたは私に答えてくださいます」という大転換を迎え、「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを求めたとき、聞いてくださった」(24節)という正反対の告白につながります。そして、ヘブル書は、この22節の、「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しましょう」というみことばを引用しながら、「主は彼ら(聖とされる私たち)を兄弟と呼ぶことを恥としない」と記しています(ヘブル2:11)。つまり、イエスの十字架と復活には、神の不在に悩む私たちの先駆けになってくださったという意味があるのです。私たちの身体はまだ復活していません。しかし、私たちは今、ここに生きながら、イエスの復活という事実を受け止め、私たちの「心が復活してゆく」ことを実際に体験することができます。

先日、クリスチャン新聞に、『心の復活』というテーマでメッセージを記させていただきました。そこにジェームス・フーストン氏のことばを、「復活を法的に証明できれば、それは有益な本になります。でも、それは本にすぎません。イエスの復活の本当の『証明』は、イエスが心の中に住むことによって変えられた人生、生まれ変わった人生です」と引用しました。そして、その結論を、「自分の変化を自分ではかるとナルシズムの世界になります。しかし、茫然自失の状態で、神の御前で、うめき、ため息をついていることは、『心の復活』の始まりです。自分の無力さに圧倒されるような時こそ、自分の願望が死んで、『イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊』が『死ぬべきからだ』の中に働くことを体験する(ローマ8:11)チャンスなのですから」と記しました。私たちは、ときに、自分の力では何ともできないという絶望的な状況に追い込まれます。そこでは、「ため息」しか出てきません。しかし、それを、主の前での「ため息」とするとき、そこから、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」の働きが始まります。

キリストの復活は、歴史上の事実であるとともに、私たちが日々の生活の中で体験できる現実でもあります。私たちはしばしば、先が見えないまま、目の前の働きに専念せざるを得ません。しかし、主は、そこに思ってもみなかった不思議な道を開いてくださいます。それは人生の復活です。また、私たちはともに集まってみことばを開いている中で、復活の主の臨在を体験することができます。キリストの教会こそ、キリストの復活の生きた証です。そして最後に、私たちは自分の力の限界を超える絶望的な状況に置かれることで、キリストの復活の力が自分の内側に働くのを、身をもって体験できます。それが『心の復活』です。それがわかるとき、自分の身を必死に守ろうとする自己防衛的な行動から自由にされます。私たちは自分で自分の身を守ろうとする必要はありません。主に向かってこの心と身体を開き、それをささげてゆくときに、主ご自身が私たちを守ってくださるということがわかります。そして、そこに真の隣人愛が生まれます。

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