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2010年5月30日 (日)

伝道者の書2:12-3:15 「四苦八苦の人生を神の御手の中で」

1968年に一年間という期間限定つきでプロ活動したフォーク・クルセダーズの名曲「何のために」が、ふと思い浮かびました。その歌詞は次のようなものでした。

「♪風にふるえる オリーブの花 白い壁の教会で ゆれてかたむく十字架のもと ひとりの男がたおれてた 

何のために 何を夢見て 歯を食いしばり 働いて死ぬのか ・・・何のために 何を信じて・・・何のために 

何を求めて 傷つき疲れ 年老いて死ぬのか・・♪」

当時15歳だった私の心の底に、「何のために・・・」という問いかけがあり、その後もずっと残っていました。それは22歳でイエスを主と告白する備えになったのかと思います。これを作詞した北山修は精神科医となり、その後、九州大学教授、日本精神分析学会会長にまでなっていますが、数々のヒット曲の歌詞を作りながら、この問いを仕事として選んだのかとさえ思わされます。私たちは、この社会で、「歯を食いしばり、傷つき疲れ」ながら、そこに何を残すのでしょうか。

「労苦が、わざわいの種になる」

 ソロモンは、「日の下で労苦すること、そのすべての労苦が・・空しく・・益になることは何もなかった(1:3,2:11)と繰り返しましたが、つぎに何と、大切な「知恵」を、「狂気と愚かさ」と同列に扱い、その意味を問います(2:12)

ただし、その分析の前に、「知恵が愚かさにまさる」ということを、「知恵ある者はその目が頭にあるが、愚か者は闇の中を歩く」と、知恵を持つ者が自分の人生の見通しをつけることができるという点で優れていると述べます(2:13,14)。ところが、そこで、「同じ出来事がすべての人に起こることが分かった」と、知恵によって解決できない問題に目が向かいます。そして、自分の心に、「愚か者に起こる出来事が、私にも起こる。それなら、私が知恵あることにどんな益があるのか?」(2:15)と問いかけます。

それは、「知恵ある者も愚か者と同じで・・時が経つとすべてが忘れ去られてしまう。実に、知恵ある者も、愚か者と同じように死んでゆく(2:16)という「忘却」と「死」の現実です。このことのゆえに、人間は「時」とともに成長するのではなく、愚かな過ちを何度も繰り返してしまいます。

そしてこのような現実を前にして、著者は、「私は生きていることを憎んだ(2:17)という恐ろしい表現を用います。それは、「日の下でなされる働きは私にはわざわいにしかならない」と、「働き」が無駄になるばかりか、「わざわい」になるという現実があるからです。

続けて「私は、日の下で私が労した、そのすべての労苦を憎んだ(2:18)と、「労苦」「憎む」という激しい表現を用います。それは、「後継者」のことに思いを向けた結果です。

人間の歴史は、しばしば、偉大な親の子が、親が苦労して築き上げたものをすぐに壊すということの繰り返しです。たとえば、聖書で有名な偉人のギデオンもサムエルもヒゼキヤも、そしてこのソロモンの場合も同じです。

後継者が「知恵ある者か愚か者かを」、誰も知らないまま、彼は親が「日の下で苦労と知恵を傾けたすべての労苦」を受け継ぎ「支配する」ことになってしまいました(2:19)

そして著者は、「私は、日の下で労したすべての労苦を、心で絶望するようになった」(2:20)とさえ述べます。それは、「知恵と知識と才能を尽くして労した人」は、その結果の莫大な遺産を、「何の苦労もしなかった者の受ける分」として「残さなければならない」からですが、それこそ「空しい」ばかりか、子孫にとっても「大きなわざわい」となるからです(2:18)

私たちは、「親から多額の遺産を受け継いだ人は、気楽に暮らせて、幸せだろうな・・・」と思いがちです。しかし、遺産が多いほど、堕落する可能性も高いというのが現実ではないでしょうか。しかも、苦労をせずに莫大な富を手にする人は、苦しみ方、また転んだときの起き上がり方を知りません。そればかりかそのような人は苦労を知らないため、他の人を導くことができません。日本では政治家の二世、三世が権力を握っていますが、これは国家として危険なことかもしれません。

西郷隆盛は、自分の身の安全を優先するような生き方を軽蔑し、人は志のために生きなければならないという思いをこめて、自分の家の家訓として、「児孫のために美田を買わず」と言いました。子供や孫のために富を残してしまえば、彼らがその遺産を守ることばかりに目が向かってしまうからです。人は守るものが多くなればなるほど、志のためにいのちを賭けるということができなくなります。それは自分ばかりか、まわりのひとすべての不幸の原因になります。

「人生の四苦八苦を受け止める」

日本にも、親の世代が、「歯を食いしばり、傷つき疲れ」ながら築き上げた豊かさが、子供たちの世代を幸せにはしていないという現実を見ることができます。実際、心の病は、豊かさに比例して増えています。

スコット・ペックは、「問題と、そこから来る苦しみを回避する傾向こそ、あらゆる精神疾患の一時的な基盤である。われわれの多くは、程度の差こそあれ、このような傾向を持つ。したがって多少なりとも精神的に病んでおり、全く健康というわけではない」と記しています⑦。かなり乱暴に言うなら、必要なものが楽に手に入ることを体験してきた者は、問題に立ち向かい苦しみ続けるという機会を持つことができておらず、その結果、「問題とそれに伴う苦しみを避けて安易な道を見つけようと」して、空周りを起こし、かえって心に大きなストレスを抱えるというのです。

実際、「人生は楽に生きられるはず・・・」という幻想は、人を必ず不幸にします。

ですから仏教の悟りは、人生の「四苦八苦」を受け止めることから始まります。

それは、「生きること」「老いること」、「病むこと」「死ぬこと」の四つの苦しみと、それに加え、

「愛する人と別れなければならない定め」「憎い人と出会わなければならない定め」  

  「求めても得られない定め」「心身の活動が盛んになることによって苦しみが増すという定め」です。

この苦しみから逃げ出そうとすると、かえって苦しみに追いかけられます。仏教は、生に対する執着、つまり、煩悩を絶つ方向へと導きますが、聖書はその思いを創造主である神の御前に祈るようにと導きます。

しかも、「そのすべての日々は悲しみ、その仕事も苛立つことばかりで、夜でさえ心は休まらない。これもまた、空しい」(2:23)と描かれます。仕事の悩みで、夜も心が休まらないという人もいるかと思いますが、残念ながら、それも人生の一部であり、人はその現実から逃げられないというのです。しかし、それを避けられない現実として受け止めるなら、心が少しでも落ち着きます。

「神から離れて・・誰が楽しむことができよう」

そのような中で著者は突然、「神の御手」ということばを用いながら、「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦の中にたましいの満足を見るより他に善いものはない。私は、これもまた、神の御手によるものであるということが見えた」(2:24)と記します。労苦から生まれる結果に期待するのではなく、労苦のただ中に喜びを見出すことこそ神のみわざだというのです。たとえば、受験勉強をするのは合格するためであり、結果が見えないことは苦しいことですが、そのような中でも、「食べたり、飲んだり」できること、また、何かに向かって心を燃やしていること自体の中に「たましいの満足」が生まれます。実際、試験に合格したとたん精神のバランスを崩す人もいるのですから、「今、ここで」の充実感を味わうことが大切といえましょう。これはまた、取れるか取れないか契約を求めて悪戦苦闘するビジネスマンにも適用できる教えです。

そして、「実に、神から離れて、誰が食べ、また誰が楽しむことができようか」(2:25)と続きます。神がいのちを守ってくださるのでなければ、誰も「食べたり」、「楽しんだり」はできないからです。イエスは「愚かな金持ち」のたとえでそれを解説します(ルカ12:15-21)

ある金持ちが、畑が大豊作だった後、大きな倉を建て、自分に向かって、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言います。

しかし、そのとき神は彼に、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われ、イエスはこの結論として、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」と言われました。

著者はそのような真理を予め示されながら、「神は、善人と認めた人に知恵と知識と喜びとを与え、罪人には、ひたすら集め貯えるという仕事を与え、善人と認めた人に渡される」(2:26)と言います。

これは、神の御前での罪人は、あくせく働き財産を蓄えても、それを自分で楽しむことができず、それを神は、善人と認めた人の手に渡されるということです。労苦した人の立場からしたら、「これもまた、空しく、風を追うようなものだ」といわざるを得ません。神が、ご自分にとって「善人」と思われる人に、労苦しなかった富さえ与えることがあるのは、善人はそこで神を喜ぶことができるからです。

使徒パウロは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」(ローマ11:36)と言いましたが、この世界が神の栄光のために存在しているのであれば、神にとっての「善人」とは、富も知恵も、自分で獲得したものではなく、神の恵みであると謙遜に認める人です。

「すべての営みには時がある」

ただしそれは、「日の下」という目に見える世界で完結することではありません。

それで三章からは、著者の目が、「天の下」という目に見えない神のご支配に向けられ、「すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある」と言われます。

2-8節には七つの大枠によって人生全体を包括する神の時が描かれ、それぞれに二対の対比が描かれます。これを見ると、私たちは「都合のよい時」ばかりを選ぶということができないとわかります。光が照ると影ができるように、人生には好ましい時と忌まわしい時とが、創造主からセットで与えられているのです。

神道的な神観では、災いをもたらす神々と、幸いをもたらす神々の区別がありますが、聖書の神は、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:39)と宣言しておられます。

しかも、人の目に災いと見えることも、神からの罰というより、祝福の契機とされることが多くあります。

第一の「天の下の時」では、「生まれる時と死ぬ時」「植える時と抜く時」とあるように、「始まりと終わり」の対比が描かれます(3:2)。この世界では誕生ばかりでは人が多くなりすぎます。残念ながら、同じ程度に死ぬ人がいて初めて均衡が保たれるという現実があります。

第二は、「殺す時と癒す時、崩す時と建てる時」という「破壊と建設の対比」です(3:3)。たとえば、病原菌は殺さなければ癒されません。建物はまず崩さなければ、新しく建てられません。

第三は、「泣く時と笑う時」「嘆く時と踊る時」という「悲しみと喜びの対比」です(8:4)。悲しみを抑えていると喜びまで抑えられます。感情を自分で操作しようとすることは危険です。

第四の「石を放つ」とは攻撃を始めること、「石を集める」とはその準備をすること、また「抱擁する」とは平和協定を結ぶことで、「抱擁をやめる」とは軍事作戦に移ることです(3:5)

人類の歴史は残念ながら戦争の歴史です。かつての第二次大戦の日本のように、準備不足のまま博打(ばくち)的に戦いを始め、「ここまできたら止める」というシナリオもないまま戦うことは悲惨の極みです。

第五は、「求める時と失う時」「保つ時と放つ時」という財産の所有に関することです(3:6)。この世の経済では、誰かが得をする影で、誰かが損をします。ですから、高額所得者が寄付をすることや、他の人に働きの場を開くのは、社会のバランスを保つための義務と言えましょう。

第六の「引き裂く時と縫い合わせる時」は、あきらめるべき時と努力を続けるべき時の対比、「黙ることと話すこと」とは受動と能動の対比と言えましょう(3:7)。仕事も人間関係も、いつも積極的であろうとするのは危険です。妥協ではなく、現実を受け入れる勇気が大切でしょう。

第七は「愛する時と憎む時」「戦う時と平和になる時」(3:8)です。多くの人は「憎むこと」や「戦うこと」は常に悪であるかのように誤解します。

しかし、罪、サタン、神の敵を、憎み、「戦う」責任を果たさなければこの世に悪が広まるばかりです。真理を巡って戦うべき時が必ずあります。それを避けようとすると、隣人が滅びに向かうということがあります。私たちは、「愛」と「平和」を求めるからこそ、悪を憎み、安易な妥協をはかる人と戦うべき時があるのです。

自分にとって忌まわしい時も、「神の時」として見ることができます。ただ、それは自分の気持ちを偽ることとか、すべてを善意に解釈するとか、苦しむこと自体を美化することではありません。

この著者は、労苦自体は空しいと繰り返しているからです。そうではなく、すべての時が、神の支配下にあるのならば、どのような苦しみの中にも、神が与えてくださった恵みを見出し、「今、ここで」、神を喜び、生きていることの喜びを発見することができるという意味です。

「すべてをご自身の時に美しく」

「働く者は、その労苦から何の益を得るのだろう」(3:9)とは、先と同じく13節や211節の繰り返しで、人の希望が幻想と混同されないための現実理解です。

そして、私は見た。神が人の子らに労させようと与えた仕事を(3:10)とは、113節のほとんど同じ繰り返しですが、「つらい」ということばが省かれています。 かつて著者は、自分の「知恵」によって「天の下に起こるすべて」の意味を探り調べようとして苦しんでしまったのですが、今は、すべての「時」が神のご支配のもとにあるという視点から、余裕をもってこの世界を「見た」のです。

今から約八百年前に、曹洞宗の開祖道元禅師は、「解脱を愛し求めれば解脱は遠ざかり、迷いを離れようとすれば、迷いは広がるばかりである。自己の立場から、あれこれと思案して、ものごとの真実を明らかにしようとするのが迷いである。ものごとの真実が自然に明らかになるのが、悟りである」⑧と記していますが、これは人間の心の現実を的確に捉えた分析です。

それと同じようなことがここに記されています。必死に真理を掴み取ろうともがいていた時には苦しみと空しさに支配されていました。しかし、力を抜いて、神のご支配という観点からこの世界を「見た」時、急に世界が美しく見えてきました。同じ世界が、まったく異なって見えてくるということ、これこそ宗教的感動の真髄ではないでしょうか。その真理を著者は、「私は見た・・神が、すべてをご自身の時に美しくしておられるのを、また、彼らの心に永遠を与えておられるのを」3:11)と記します。

このことばは、時代と地域を越え、多くの信仰者たちにとっての深い慰めとなっています。これは、地上のすべての「時」を支配しておられる神が、「ご自身の時」に、「すべて」のことを、「美しい」と言える状態へとあらかじめ備えておられるという意味です。しかも、神は私たちの「心に永遠を与えておられる」ので、今の忌まわしいとしか思えない状況さえ、神の永遠の視点から見ることができるということです。

これは、決して、醜いできごとを「美しい」と思い込むことではありません。そうではなく、今は、醜く忌まわしく悪いことにしか見えないことをも、神がすべての時を支配し、歴史を支配しておられるという観点から受け止め、やがて「美しい!」と言える状況に変えられることを「期待し」、必ずそうなることを「信じて」、今、ここで、「喜ぶ」ことができるという意味です。キリスト者に与えられた確信とは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)という告白です。

しかも、「心に永遠を与えられた」者は、それを神の永遠の時の観点から確信することができるのです。それは、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13)と告白されているとおりです。

ただし、「それでも、人は、神のなさるみわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」3:11)とあるように、「今、この時」を、神の永遠の観点から評価する能力は人にはありません。つまり、分からないことは分からないままに放って置くことが大切なのです。

「神のなさることは永遠に残る」

そのような中で、私は分かった。人には、生きる中で、楽しみ、幸せを味わうこと以上に善いことがなく、また、すべての人は食べたり飲んだりし、すべての労苦の中に幸せを見出すことも神の賜物なのだと(3:12,13)という神によって与えられた「知識」が繰り返されます。これは224,25節とほとんど同じ繰り返しです。

また、それは210節で、著者が未だかつてない大きな贅沢という壮大な実験を通して初めて分かったことでもありました。

なお、この文脈で興味深いのは、原文では310,11節は、「私は見た」という動詞に支配されているひとつの文章であり、312,13節は、「私は分かった」という動詞に支配されているひとつの文章であるということです。

つまり、「私は見た。そして、私は分かった」という心の流れが描かれています。

力を抜いて、この世界を神の観点から見た結果、人の幸せは、何よりも、「今、ここで」味わうべきもの、それこそが神のご計画であるということです。

これに続いて再び、「私は分かった」と言いながら、「神のなさることは永遠に残り、何も付け加えられず、取り去られない」という真実が受け止められます(3:14)。これは、人の労苦の結果が、後継者によって壊されたり、財産を残すことがわざわいにしかならないような現実との対比で記されています。

ですから、私たちは自分の労苦を、「自分のため」にではなく、神から与えられた責任、「神のなさること」として取り組むことが何よりも大切であると言えましょう。

そして、それを通して私たちは、「神は、人々が神を恐れるようにと、それらをなさった」ということが「分かり」ます(3:14)。ここに私たちの幸いがあるからこそ、この書の結論は、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(12:13)と記されています。その上で、ここで、「今あることは既にあった。これからのことも既にあった」と、19-11節のことばが繰り返されます。ただし、その上で、「神は追いやられたものを探し出される」(3:15)という不思議な記述が付け加えられます。「追いやられたもの」とは、今の人間的な基準からしたら、世界から忘れ去られ、無視されていると思われるような物事です。しかし、神は確かにそれをも見ておられ、探し出され、ご自身の時に、「美しい」状態へと回復してくださいます

「労苦は、主にあってむだでない」

私たちはいつも目の前の出来事に追われて生きていますから、ソロモンが「見て」「分かった」というようなことをなかなか理解できません。しかし、私たちはイエス・キリストを知り、信じています。そしてこれらの真理は、すべて、キリストの生涯の中に見ることができます。キリストは、この世界を父なる神とともに創造された創造主ですが、この不条理に満ちた世界を上から見下ろして、上からただ指導ばかりをされるような方ではありませんでした。キリスト(救い主)であるイエスは、この世界の空しさ、不条理を自ら体験するために、私たちと同じ肉体を持つ人間となってくださったお方です。しかも、本来、神は死ぬことができないはずですが、神であるキリストは敢えて、人となることで、死ぬことができる身体となってくださいました。そして、死の原因である罪の力を無力にするために、私たちすべての罪をその身に負って十字架にかかられました。そればかりか、三日目によみがえって、この罪と死の力に打ち勝ってくださいました

使徒パウロは、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」と問いながら、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と解説しつつ、「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と感謝を告白しています。

その上で、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(コリント15:55-58)と告白しました。この確信に立つ者は驚くべき生き方ができます。それはドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の中で書いているような生き方です。

長老ゾシマは主人公アリーシャへの遺言として、「多くの敵を持つことになっても、その敵たちさえ、おまえを愛するようになる。人生は多くの不幸をおまえにもたらすが、それらの不幸によっておまえは幸せになり、人生を祝福し、ほかの人々にも人生を祝福させるようになる。これが何より大事なのです。おまえはそういう人間なのですよ」と語っています⑨。彼はこの未完の長編小説で、そのような人生を描きたかったのではないでしょうか。

 

私はあるとき、「In His time(御手のなかで)という英語の賛美歌を聞きながら⑩、深い感動に満たされました。その原歌詞は先の310,11節をもとに記されています。

In His time, In His time,  He makes all things beautiful in His time 

(主の時に、主の時に、主はご自身のときにすべてのことを美しくしてくださる)

Lord, please show me ev'ry day, as You're teachig me Your way, that You do just what You say, in Your time.

(主よ、日々、あなたの道を私に教えながら、あなたが言われたことをご自身のときに実現してくださることを示してください。

In Your time, In Your time, You make all things beautiful in Your time 

(あなたの時に、あなたの時に、あなたはすべてのことを美しくしてしてくださる)。

  Lord, my life to You I bring, May each song I have to sing  be to You a lovely thing, in Your time.

(主よ。私のいのちをあなたのもとに携え行きます。ですから、私が歌うすべての歌が、あなたの時に、あなたにとってうるわしいものとなりますように

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2010年5月23日 (日)

エペソ4章1-16節「あらゆる点において成長する、とは?」

                                             2010523

信仰に導かれたばかりの頃、人々から尊敬されることが最高の伝道になると思っていました。しかし、より高いレベルの信仰に達したいと願えば願うほど、周りの信仰者や牧師たちを非難したくなってしまいました。残念ながら、人は自分の成長を測りだしたとたん、争いを作り、人の評価が気になりだします。それが分かるのは人から非難されたときです。宗教改革者マルティン・ルターは、良い説教者の条件として、みことばを学ぶ情熱や教える能力、明晰な頭脳、良い声、常に備えができていること、また、話の切り上げ時を知るなどと語った後、最後に、「誰からでもあざけってもらうこと」と、不思議なことを言いました。人の誤解や中傷に耐えることは、キリストに近づくための最も良い訓練になるからです。主イエスは、人々の尊敬も受けられましたが、誰よりも、ののしられ、あざけられました。ただし、それはひたすら我慢することではありません。そこにおいて私たちはキリストと一体とされるという祝福の体験を味わうことができるからです。私たちの肉の祖先のアダムは、自分を神のようにしたいと願うことによって、低くされました。しかし、キリストとともにこの世で低く見られる者を、神はキリストとともに高くしてくださいます。

1.「その召しにふさわしく歩みなさい」

パウロはまずエペソの教会の信者に向かって、「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」(4:1-3)と語ります。これは多くの人々が期待するような勧めではありません。たとえば、私たちなら、「キリストに似た者へと成長できるように頑張りなさい」とか、「サタンの攻撃に臆することなく、大胆にキリストを証ししなさい」とか、「この世に神の平和を実現するために、自分自身をささげなさい」というような、目標を目指して日々成長するような勧めに慣れ親しんでいます。

この勧めはそれと正反対です。まず、パウロは自分を「主の囚人」として紹介します。これは意気消沈させる表現ではないでしょうか。これを前面に出すのは、自分の都合を優先した生き方の代わりに、主のために苦しむことを選択する生き方を勧める思いが背後にあります。「謙遜と柔和の限りを尽くし」というのも、「自分の尊厳を大切にし、堂々と意見を主張する」という世の理想に反します。また、「寛容を示す」も、「人の過ちを正してあげる」という教育的な配慮に欠ける恐れがあります。そして、「互いに忍び合い」という勧めにも、自分を殺すような気遣いばかりが美徳とされる日本社会では、「もう我慢の限界です・・・」とでも言いたくなります。これはすべて、人の積極的、主体的な活力を抑えることばのように思えます。少なくとも、これではこの世の競争に勝ち残ることはできません。残念ながら、多くの信仰者は、これらを、文脈を無視して真正面から受け止めようとして、心に無理な負担をかけています。その結果、もやしのようなクリスチャンが多くなるのかもしれません。実は、「召し」と「御霊」という神秘を抜きにこの勧めを受け取るならば、ニーチェが批判した敗北者の道徳、負け犬の遠吠え信仰になるのです。

「召し」というとき、まずパウロの祈りを思い起こすべきでしょう。彼は、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを・・・知ることができますように」(1:18,19)と祈っています。「心の目」が開かれると、「神の召し」によって始まった信仰生活の先にある「望み」が見えてきます。これは俗に言う「天国に行く」などというよりはるかに豊かな喜びに満ちた世界です。私たちのこの朽ちる身体は、朽ちることのないキリストの栄光の姿と同じ霊のからだに変えられます。そして、「新しい天と新しい地」において、農作業や芸術活動を楽しみ、互いを喜ぶことができます。そこは、平和だけど退屈でもあるという園(Garden)というより、いのちの活力に満ちた喜びの都市(City)です。

そして、ここでの勧めの第一は、「召しにふさわしく歩みなさい」です。これは、召された者としての誇りを大切に、いつでもどこでも、「勝利を約束された者としての余裕」を味わいながら生きることの勧めです。パウロが囚人としての苦難を耐えられた秘訣は、キリストによる「召し」がもたらす「望み」を常に目の当たりに見ていたからです。

そして、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い」という自分を抑えた歩みができるのも、神ご自身が、あなたの兄弟姉妹をあなたと同じように、キリストの栄光の姿にまで変えてくださるという保障があるからです。何よりも避けなければならないのは、パリサイ人のように、周りの人に劣等感を感じさせたり、正論をまくし立てて意気消沈させるような生き方です。特に、「愛」を勧めるときには、愛がキリストご自身から生まれ、完成に向かっているということを常に思い起こすべきでしょう。愛は、義務ではなく、目的地だからです(Love is not our duty, but our destiny )。互いの愛の欠けが見えるのは、理想的な愛のイメージが既に示されているからです。それは神から生まれています。そして、神は、そのような愛をご自身の御霊をとおして完成してくださる方です。

「御霊」の働きに関しては、パウロは先の祈りの続きで、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」「知る」ことができるようにと祈っていましたが(1:19)、私たちは既にこの地上の生涯において、「神の全能の力」の、私たちのうちへの「働き(エネルゲイヤ)」を知ることができます。それは、キリストを死者の中からよみがえらせ、神の右の座に引き上げてくださった「神の力」の現れです。「御霊」は、キリストに起こったと同じことが私たちにも実現するということの「保障」(1:14)です。すべてのキリスト者は、この御霊を受けています。ただ、この御霊の働きを自覚していない方が多くいるのも事実です。残念ながらそのような方にとっての信仰生活は、義務と道徳の教えになってしまい、生きる活力のない意気消沈したものになる傾向があります。

2.御霊の一致を熱心に保ちなさい」

3節は、厳密には、「平和のきずなによって御霊の一致を保つことに熱心でありなさい」と記されています。少なくとも、「結ばれて」という動詞もなければ「一致を作りましょう!」という勧めも記されていません。この中心は、裁き合いの原因となるような人間的な努力目標を捨てて、既に与えられた恵みを「保つことに熱心」になることの勧めです。先に、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において敵意を廃棄された方です」(2:14,15)とあったように、求められているのは、「結ばれるように頑張る・・」ことではなく、キリストの十字架を仰ぎ見続けることです。そして、「御霊の一致」とは、先に、「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(2:18)と記されていたように、異邦人とユダヤ人がキリストにおいてひとつとされているという恵みの大きさを覚えながら生きるということです。

パウロはその上で、ここで、御霊によって実現されている一致を、七回にわたる「ひとつ」ということばで表現します。それが、「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです」(4:4-6)という不思議な真理です。

「からだはひとつ」とは、人間的な組織を超えたキリストのからだなる教会が実際に存在するという告白です。それは特に、異邦人とユダヤ人が一つになることができたということに現されています。たとえば、韓国人と日本人の間には悲しい歴史がありますが、私たちはこの教会でごく自然に、互いを喜ぶことができています。「御霊は一つ・・望みは一つ」とは、それぞれ異なった言語や習慣を持つ者同士が、みな「新しいエルサレム」の市民とされていることを覚え、愛の交わりの完成を待ち望みつつ歩むことに現れています。今は互いに理解できなくても、そこではすべてを納得できるようになります。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」という告白のゆえに、私たちは生涯一度かぎりしかバプテスマを受けません。他の教会でのバプテスマを尊重するのはこの告白の故です。そして、最後に、「すべてのものの父なる神は一つ」とは、私たちはみな、同じ方を「父」と呼んでいることの意味を思い起こすことの大切さです。英語では、続く言葉は、「who is over all and through all and in all」と簡潔に表現されます。私たちが「天のお父様!」とお呼びする方は、まさにこの世のすべてを支配しておられる方なのです。

残念ながら、人は、共通の敵を持つことによって初めて一致できるという傾向があります。ですから、しばしば、福音的な教会でも、カトリックを批判し、日本基督教団を批判し、カリスマ運動を批判することによって一致を保つなどということがあります。しかし、「御霊の一致を保つことに熱心でありなさい」というのは、教会組織の違いを超えた一致を人間的に作り出すことではなく、御霊がひとりひとりのキリスト者になしてくださったみわざに目を留め、それをともに喜ぶことにおいて「熱心になる」ことの勧めです。たとえば私自身は、ルターばかりか、カトリック教徒のマザー・テレサ、ロシア正教徒のドストエーフスキー、異言で祈るゴードン・フィー、英国国教会のN.T.Wright、ブラザレンのジム・フーストンなどから本当に多くのことを学んできています。ある特定の教会組織において人を区別するのではなく、ひとりひとりになされている神のみわざに目を向けるときに、私たちはそれぞれの背景を超えて、御霊のみわざの一致を見ることができます。残念ながら、人が自分の能力で達成したもの、努力で勝ち取ったものばかりに目を向けるとき、競争やねたみが生まれる傾向があります。既に与えられている恵み、キリストがご自身の十字架で実現し、また、御霊がひとりひとりのうちになしてくださったみわざに目が向かうときに、私たちは、「一致を生み出そう!」などと意識しなくても、「既に一つである」ことを互いに喜ぶことができるようになります。

3.「聖徒たちを、キリストのからだを建て上げるための、奉仕の働きのために、整える」

  7節では、「ひとりひとり」例外なく「キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられましたという事実が述べられます。また、8節では、キリストの戦勝行列が思い起こされます。キリストは復活によってサタンに勝利されたからです。私たちは、目の前の出来事で心が揺れます。しかし、キリストは私たちを戦勝行列に加わっている者として、必要な知恵と力と助け人を送ってくださいます。勝利はすでに確定しています。しかも、主は、一度、天から「地の低いところに下られた」(9)ことによって「もろもろの天より高く上られた」(10)というのです。つまり、私たちに与えられた賜物は、自分を誇るためではなく、自分を低くして、人に仕えるために与えられた恵みなのです。

このキリストが、「すべてのものを満たす(10)方であるとは、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(1:23)という表現を思い起こさせます。キリストのみからである教会に満ちているのは、この世の支配原理ではなく、互いに自分を人よりも下において、互いに仕え合うというキリストの原理です。そのような原理で動く教会こそが、最終的に、この世界すべてを治める働きをすることができるのです。私たちはキリストの教会に約束されている崇高な使命を決して忘れてはなりません。

  ところで、キリストの恵みは、ひとりひとりの奉仕のための賜物ばかりではありません。11節には、「キリストご自身が・・・お立てになった」という具体的な教会指導者の働きのことが記されています。「使徒」「預言者」に関しては、パウロは「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており(2:20)と言っていたように、私たちにとっては聖書を意味すると思われます。「伝道者」という働きは、使徒を補佐する者として選ばれた七人のひとりのピリポ(使徒20:28)や、パウロの代理として様々な教会に赴いたテモテ(Ⅱテモテ4:5)がそのように呼ばれています。これはたとえば日本に最初に福音を伝え、教会の基礎を築くような大きな責任を担っていた宣教師に相当するかもしれません。「牧師」の働きに関しては、パウロがエペソの長老たちへの遺言として、「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」(使徒20:28)と言っていますが、それに相当すると思われます。なお、「牧師また教師」とあるように、教師と牧師に間に、働きの明確な区別はなかったのかと思われます。

なお、11節の「お立てになったとは、7節の「恵みを与えられたと同じ動詞です。聖書が完結し、教会の基礎が築かれている現代においては、使徒も預言者も伝道者もその使命を終えているかもしれません。そして、今や、キリストから教会への最大の恵みの賜物は、地域教会に仕える牧師また教師です。彼らの務めは、「聖徒たちを、キリストのからだを建て上げるための、奉仕の働きのために、整える」(12)ことです。キリストのからだを建て上げるという働きを主体的にするのは、牧師ではなく、教会に集っておられるおひとりおひとりなのです。新改訳では「働きをさせと牧師のリーダーシップが強調されている印象がありますが、原文では、「整える」ことが強調されています。それは、「聖書は・・・教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」とあるように、みことばを教えることを意味します(Ⅱテモテ3:16,17)。ですから、牧師の責任は、奉仕を指導するというより、みことばを教えることなのです。

  そして、ここで教えることの目的が、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達するため」(13)と記されています。興味深いことに、先には、既に与えられている「御霊の一致を保つことが求められていましたが、ここでは、「信仰と神の御子に関する知識」「一致に達する」という目標になっています。残念ながら、今も昔も、様々な聖書解釈があります。そのような中で、牧師または教師に求められているのは、何かの目新しい聖書解釈を教えることではなく、すべてのキリスト者に共通して適用できる教え、また時代を超えて守られてきた教えに聖徒たちの目を向けることです。つまり、パウロが先に、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」(3:19)と祈ったように、「知る」ことに関しては、「一致に達する」ための不断の努力が、聖書教師たちに求められているのです。その際、他の人の聖書解釈を聞こうとしない独り善がりの教師ほど危ない存在はありません。

先日、ある鹿児島の若い牧師からメールをいただき、本当に恐縮すると同時に頭が下がりました。その先生は、最近、毎週のようにインターネットを通しての小生のメッセージをダウンロードして車の運転などをしながら三度も聞いておられるというのです。それは、牧会経験10年を経て、説教の聞き手となる経験の乏しさを感じられたからとのことです。私もはっとさせられました。カウンセリングをする人は、カウンセリングを自分自身で受けないといけないと言われるように、メッセージを語る者にとって何よりも大切なのは、自分自身がメッセージを聞いて養われるということです。私も以前、教会の行きかえりの三十分の時間、先ほど紹介した先生のメッセージを聞き続けていましたが、それを再開しなければと思わされました。私たちはひとりひとり、いろんな信仰者の先輩方とつながりながら、生きた現実として、自分が全世界的な普遍的な教会の一部とされていることを味わうことができます。

また、そのような「牧師」が教会にとって大切なのは、「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすること」14節)がしばしば現実にあるからです。多くの善意に満ちた信仰者が、知らずに、誤った教えを広めてきました。牧師の責任は、聖書全体の知識や過去の異端の教えの知識を生かして、信徒をサタンの巧妙な計略から守ることです。その意味で何よりも大切なのは、ひとりひとりが、聖書解釈や聖書の教えの適用に関して、積極的に牧師に質問するということです。聖書を読み進むと、疑問を感じないわけはありません。聖書は、聖なる書物ですから、原文から厳密に訳すことが何よりも求められています。それは分かり難い翻訳にならざるを得ません。分かり易い訳には、翻訳者の自由な解釈が必ず入っています。ですから、真面目に聖書を読もうとするなら、必ず導き手が必要になるはずなのです。牧師の働きは、何かの事業の推進者あるいは悩める人のカウンセラーである前に、聖書教師であるということをご理解いただければ幸いです。

  日本の多くの教会は、礼拝出席五十名がひとつの壁になっています。それは、ひとりの牧師が世話できる信徒の限界だからです。そのため、多くの教会は、経済的に牧師を支えるだけで一杯です。しかし、このみことばに従うなら、余裕が生まれ、福音宣教も進みます。それぞれが、もっと自分で聖書を読み、その感動を人に伝え、神の愛の感動によって仕え合うことができたらと思います。そのため牧師を本来の働きのために用いましょう。

4. 組み合わされ、結び合わされ、成長する

  その上で、みことばによって「整えられる」ことの目標が、ふたつのほとんど同じ表現で繰り返されます。それは、「完全なおとなになって、キリストの満ち満ちたみたけに達する」(13)と、「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」(15)ことです。15節の初めの「愛をもって真理を語り」(新改訳)は、「愛によって真実とする」と訳した方が良いかもしれません。しばしば、「語る」という部分が独り歩きし、「あなたのために真実を言ってあげているのよ・・・」となどと言いながら、人の希望をくじくようなことがあるからです。たとえば、「まじめに奉仕をしなければ神から裁かれる」とか、「神を第一とした生活をしていないと、のろわれる」などというのは、旧約を誤解した律法主義的な教えです。私たちはキリストにあって、死からいのちへ、のろいから祝福へと移し変えられました。それを保障するために御霊が与えられたのです。この福音を忘れた良い行いの勧めは危険です。ここで何よりも強調されているのは、「愛」によって、キリストの教えが彼らにとって真実なものとされてゆくというプロセスです。

しかも、15節での成長」とは、ひとりひとりが尊敬される人格者になるというより、キリストのからだとして「組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる(16)という意味です。ある人が、キリストの似姿に向かって成長しているなら、そこには、愛の交わりの成長も伴っているはずです。個人の成長と、教会としての成長は並行して進むからです。そればかりか、16節の中心は、「キリストによって・・建てられる」とです。キリストのみわざは、人間的な組織作りや上からの指導によってではなく、「一つ一つの部分」である各人が、主体的に自ら進んで、与えられた賜物にしたがい「その力量にふさわしく働く」ことで達成されます。それがこの世の組織と異なるところです。私たちはひとりひとりがユニークな者として作られていますから、人が集まれば自然のうちに「分業」について考えます。それぞれの役割と責任が明らかになっているときにチームワークがうまく機能するからです。

しかし、ここでは、ひとりの指導者が、それぞれの賜物を見極めて適材適所の配置を考えるというようなことは勧められていません。備えられたあらゆる結び目によってとあるように、ひとりひとりには、すでに結び目が備えられています。愛の交わりは、外から指導や強制によってではなく、ひとりひとりのユニークさが生かされる形で、ひとりひとりの主体性をもとに喜びのうちに生み出されます。組織的には極めて未熟に見えながら、不思議にひとりひとりが、その教会の中での欠けたところに目が向かい、無意識のうちに満たされるという共同体こそ、キリストのみからだである教会の神秘でしょう。ある程度の組織化は必要でしょうが、教会が機能しないのはシステムの問題だと考えることは、ひとりひとりを主体的に動かしてくださる聖霊のみわざを軽んじることになりかねません。ひとりひとりの人との距離感、働き方、テンポなどが尊重されなければ、教会奉仕は息苦しいものになってしまうことでしょう。それどころか、自分にとっての決定的な弱点と思える部分が、人との結び目としてもっとも良く機能するということがあります。だれでも皆、キリストと出会った時、自分の弱さを自覚しています。そこにおいて私たちは真剣に神との交わりを求め、また人との交わりを求めます。そのとき、身近な人の存在自体が感謝に思えてきます。

  しばしば、教会が目に見える形で成長していないと思われるとき、キリストご自身が、私たちの愛の交わりを、見えないところで整えていて下さいます。問われているのは、ひとりひとりが、キリストと真実に出会い続けているかということです。しかも、人は、多くの場合、順境の時よりは、逆境を通して、キリストとの交わりを深めているのです。目に見える現実に翻弄されないように注意したいものです。教会は「からだ」として「成長」してゆきます。その際、幼い子供が不完全な人間とは呼ばれないように、問題を抱えたひ弱な教会もキリストのからだとして、聖霊の宮としての美しさに満ちているということを忘れてはなりません。欠点を見る前に主のみわざを見上げましょう!

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2010年5月16日 (日)

イザヤ42章10節~43章13節「わたしの目には、あなたは高価で尊い」

                                              2010516

  私たちの周りには、確かに、平気で嘘をついたり、平気で人を裏切ったりする人がいます。しかし、そのような人の歴史をみると、しばしば、彼ら自身が、あまりにも軽く扱われてきたということがわかることでしょう。キリスト教は、罪を指摘し、罪からの救いを教える宗教と言われますが、旧約の流れから見ると、神がどのようなことに最も厳しく怒っておられるかが見えてきます。それは、ちょうど、「こんなに私はお前を大切に思っているのに、どうして、この気持ちをわかってくれないのか・・」と言うような、親が子供に対して抱く感情に似ています。ひとりひとりが自分の尊厳に気づいた結果として、自分の罪が見えてくるという心理的なプロセスを私たちは知るべきでしょう。多くの人が自分の罪を本当の意味で認めることができないのは、神の愛を実感していないからではないでしょうか。もっと私たちは、自分に対し、また周りの人に対し、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」という神の語りかけを繰り返すべきではないでしょうか。これを心の底から味わうとき、人は成長できます。

1.「だれが・・・主(ヤハウェ)のしもべほどに盲目であろうか」

 4210節は、主(ヤハウェ)に歌え」から始まり、歌う内容が、「新しい歌を」、「その栄誉を」と勧められます。それは、先の42章1-9節の「主のしもべの歌」にあったような「救い」がもたらされたからです。主はご自身が遣わす救い主に関して、「わたし、主(ヤハウェ)は義をもって、あなたを呼び、その手を握り、あなたを見守り、民の契約とし、国々の光とする」(42:6)と言われました。イエスご自身が、新しい契約をもたらし、イスラエルばかりか全世界にとっての「光」となってくださいました。そして、主は、同じようにイエスの弟子たちを召し、彼らを「国々の光」として遣わしてくださいました。その結果、地の果てのまだ向こうの日本にまで福音が届けられました。そのことを覚えて、「地の果てから。海に下る者、それを満たすもの、島々とそこに住む者」のすべてが、主の救いの「新しい歌」「主の栄誉」を、みなそろって、「主に歌う」べきなのです。今から2700年前の預言者に、「新しい歌」と勧められてもピンと来ないかもしれません。聖徳太子よりも二倍も古い時代の歌など、人の想像を超えています。しかし、神がご自身の救い主イエスによってもたらされた「救い」ほどに、私たちにとって新しいものはありません。そして今、たとえば、42章6節の主のみことばは、ここにいるひとりひとりを「新しく」動かす主からの語りかけとなっています。

  そして、その賛美への訴えが、「声を上げよ」 (42:11)、また、「主(ヤハウェ)に栄光を帰せよ」(42:12)と繰り返されます。しかし、イスラエルの民は、主をたたえようにも、主のみわざが見えなくなっていたのです。それで、主はイスラエルの現実を、驚くほど生々しく責めながら、「耳の聞こえない者たちよ、聴け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。だれがわたしのしもべほどに盲目であろうか。わたしの送る使者ほどに耳が聞こえないだろうか。だれがわたしに買い取られた者ほどに盲目であろうか、主(ヤハウェ)のしもべほどに盲目であろうか。多くを見ながら、注目してはいない。耳を開きながら、聴いてはいない」(42:18-20)と言われます。ここでは、「だれが・・ほどに盲目であろうか」と繰り返されます。そして、本来、最も主のみわざを見ているべき「主のしもべ」「主に買い取られた者」が、誰よりも主のみわざを見ていないという現実、また、誰よりも主のみことばを聞いているべき「主の使者」が、聴いていないという現実に、主は心を痛めておられます。彼らは、主のすばらしいみわざを見ながら、まるでそれを見飽きているかのようになり、また主のみことばを聞きながら、「また、あの話か・・・」などと聞き飽きたような姿勢でいました。私は昔、礼拝中、居眠りばかりしていたような自分の姿勢を、今頃になって深く恥じています。

一方、今は、主のメッセージを取り次がせていただきながら、会衆の皆さんに対し、ときに、「どうして、この神のみわざに感動してくれないのか・・・目の前の問題にどのように対処するかなどという表面的な知恵ばかりを求め、心の目も心の耳も閉じたままにしているのだろうか・・・」と苛立ちを覚えることがないわけではありません。私たちが本当に、心から反省すべきことは、自分の愚かな行動や愛のない態度のこと以前に、主のみわざに対して、心の目や耳があまりにも鈍感になっているということではないでしょうか。子供が親の愛情に鈍感になっているように、イスラエルの民は主のみわざに鈍感になっていました。主は、何よりもそれに対して怒っておられたのです。

イエスは、盲目に生まれついた人の目をあけましたが、パリサイ人たちは癒された盲人の証には決して耳を傾けようとせず、イエスを偽預言者と断定し続けていました。それでイエスは彼らに向かって、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(ヨハネ9:41)と言われました。見えていると思う人こそ、危ないのです。

2.「この方に、私たちは罪を犯し・・・そのおしえを聞かなかった」

「だれが、お前たちのうち、これに耳を傾け、後々のために注意して聴くだろうか」(42:23)という問いかけは不思議な響きを持っています。イスラエルは主の偉大さを証しする民であったはずなのに、現実の彼らはあまりにも惨めな状態に置かれています(21,22節)。そのような中で彼らがますます自分の耳を閉ざすようになっているのは極めて自然なことと思えるからです。多くの人々は、自分の人生が願ったとおりにならないことに失望し、「神を信じたって何も良いことはなかった・・・もう主のみ教えを聞くことはやめた・・・」とあきらめます。しかし、そのような人に向かって、預言者イザヤはなおも、「だれが」ということばを用いながら、「だれが、ヤコブを略奪者に渡したのか、イスラエルを、かすめ奪う者に。それは、主(ヤハウェ)ではないか」(42:24)と言われます。イスラエルの民の悲惨の背後に、彼らの心の目と耳を開かせようとする主の熱い思いが隠されているというのです。それは、聞く耳のない者に、苦しみを与えることによって、彼らの目や耳を開かせるという主のご計画です。たとえば、大地震を経験した人は、私たちの人生の土台がいかに不安定なものかを肌で感じることができるかもしれません。病気にあった人は、この身体のバランスが保たれていること自体の不思議に目が開かれるかもしれません。

そのようなことを前提に、預言者イザヤは、苦難にあった人々に期待される悔い改めの告白を、「この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聴かなかった」(42:24)とあらかじめ記しています。つまり、イスラエルの悲惨は、主の無力さの現われではなく、彼らが、主の「おしえに聴かなかった」ことの結果であるというのです。多くは、「聞き従わなかった」と訳しますが、厳密には「聴かなかった」とのみ記されています。

私たちの場合も、最も身近な人が、自分の話を聞いているようで聴いていないということに何よりも腹が立ちます。そんなとき、「もっとよく聞いていてくれたら、私の望んでいることが何なのかがわかって、別の行動が取れたはずなのに・・・」と言いたくなります。今も昔も、「俺は家族を養うために身を削って働いているのに・・・」という夫に対して、「私が望んでいるのは、そんなのじゃない・・・」と悲しんでいる妻が多くいます。同じようなことが神との関係で起きます。「私はこんなすばらしいことができた」と誇る人に、神は、「動き出す前に、わたしの話に耳を傾けてほしい・・・見当違いの方向に熱くなってもらっては困る・・・」と言われることがあります。たとえば、ナチス・ドイツでユダヤ人虐殺の実務的な責任者だったアドルフ・アヒマンは、極めて平凡で神経質で家庭的な官僚であったと言われます。彼は、与えられた職務をただ誠実にこなすことによって、何百万人ものユダヤ人をガス室で殺すことに貢献しました。彼は、裁判の席で、「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」と言ったとのことです。彼には生きた人間が見えていませんでした。同じように、神ご自身との生きた対話がない人が多くいます。

そして、ご自身のみことばを聞こうとしない人に対して、「そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた」(42:25)というのです。しかし、「それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった」という悲劇が続きます。怒りを発したことが逆効果になったとき、主は不思議なことをなさいます。

3.「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」

主は、燃える怒りを向けていたイスラエルの民に向かって一転して、「だが、今、主(ヤハウェ)はこう仰せられる。ヤコブよ。あなたを創造された方が、イスラエルよ。あなたを形造った方が」(43:1)と優しく呼びかけつつ、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」と言われます。「贖う」とは、たとえば、借金が返せなくなって、自分の身を奴隷に売らざるを得なくなってしまった場合に、兄弟が彼を「買い戻」し、再び自由人に復帰できるというような救いを意味します(レビ25:48)。イスラエルの民は、自業自得で神の「のろい」の下に置かれました。そこでは働いた労苦の実を自分で享受できないばかりか、ありとあらゆる災いに襲われ、怯えながら生きていました。それは奴隷以下の悲惨でした。そのことを主は、「燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた」(42:25)と言っておられましたが、そのような状態から、生きることを喜ぶことができる自由人の状態へ回復されるという約束のことを、主は、「わたしがあなたを贖った」と預言されます。それは、「のろい」から「祝福」へという百八十度の立場の変化です。

それがなされたのは、イスラエルの民が悔い改めたからという以前に、父祖ヤコブに由来する民が、神ご自身によって「創造され」「形造られた」という神の選びに基づきます。ヤコブはそれに値する人間ではなく、父や兄を騙すようなことをしたにも関わらず、主ご自身が、彼の生まれる前から彼を兄のエサウの上に立つ者と一方的に計画されたのです。また、神は、ヤコブの母の故郷への旅行を守り、豊かな財産を与え、約束の地カナンに戻る途中のヤボクの渡しで、彼にご自身を現し、イスラエルという新しい名前を与えてくださいました。

そして、主がイスラエルを贖ったということが「わたしはあなたの名を呼んだ」と言い換えられます。そして、主は彼らに優しく、また断固として、あなたは、わたしのもの」と語りかけられます。そして、主に贖われた結果の祝福に満ちた歩みのことが、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:2)と描かれます。海も山も川も火山も創造された全能の神が、「わたしは」と強調しつつ、「あなたとともにいる」と保障してくださっています。

そして、この選びによる創造は、ダビデが「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」(詩篇22:10)と告白したように、私たちすべてにとっての霊的な現実です。そして、私たちキリスト者はすべて、キリストの十字架の血潮によってサタンの奴隷状態から贖い出されました。ですから、この「ヤコブよ、イスラエルよ」という部分を自分の名前に置き換えて朗読しながら、神の絶対的な守りを私たちは味わうことができます。確かに、私たちはこの地で様々な災いに会います。しかし、その災いは決して、私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なう力にはなりません。そのことをパウロは、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます」(コロサイ3:3,4)と断言しました。与えられた「永遠のいのち」のすばらしさは、時とともに明らかにされてゆきます。信仰生活はその恵みの豊かさをより深く味わうプロセスです。

そして、主はイスラエルに対する保障を、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主だから」(43:3)と言われます。これも一言一言、心の底で味わうべき全能の神からの語りかけです。「イスラエルの聖なる者」とは、イスラエルにとって主は、いかなる比較も超えた、人のいかなる想像も及ばない圧倒的な神であるということを表します。ですから、彼らは、地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。そのことが、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」と言われます。「クシュとセバ」はナイル川上流のエジプトの南の地域を指します。これは、ペルシャ帝国がナイル川全域を支配するために、その前線基地としてのイスラエルに特別な恩恵を施すという政治状況を示唆したものと思われます。エルサレム神殿の建設が許されたのは、ペルシャがイスラエルの民の好意を得て、エジプト支配を容易にするためでした。これは、エジプトの犠牲の上にイスラエルの繁栄が築かれるという意味です。しかし、この背後に、神のあわれみのご計画がありました。人の目にはちっぽけなイスラエルが、神の目にはあの大国エジプトよりも重い存在だったからです。

主は、それを前提に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(43:4)と言われます。「高価」とは、かけがえのない価値とか希少価値を意味します。たとえばアブラハムにとってイサクは、かけがえのないひとり子であり、イエスは、神にとってかけがえのないひとり子でした。また、「尊い」とは、「重くされている」という意味で、「栄光」と同じ語源のことばが用いられています。これは、神が私たちひとりひとりを救うためにご自身の御子を犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表します。その上で、主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と言っておられます。全宇宙の創造主である方が、イスラエルに向かってそのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。そして、その具体的な意味を、主は、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする」と言われます。これは、イスラエルに繁栄をもたらすために、あの大国エジプトを犠牲にするのも厭わないという神の断固とした意思の現われです。

このように、人との比較で自分の価値が計られるのは、あまり上品な表現には聞こえないかも知れませんが、当時の政治状況を考えれば、神の意図は明確です。当時のイスラエルは、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的にとってきました。これはたとえば、会社の上司の間に対立関係がある場合、そのふたりの陰に身を隠しながら、その対立を利用して自分の立場を守ろうとするような生き方です。それに対して、主は、人と人との信頼関係を軽蔑するような、姑息で卑怯な生き方ではなく、堂々と自分の立場を明確にするように命じられたのです。あなたが頼りにしようとしている権力者はすぐに消えてしまうはかない存在であるばかりか、神の目には、その権力者よりもあなたの方が重く、「尊い」と見られているのです。それを覚えて、人の奴隷にならずに、自分が神にとってどれほど「高価」で、かけがえのない存在かを意識して生きるように勧められています。

ところで、多くの人は、自分が人と異なった感性を持っていることを恥じてしまいがちですが、私たちが他の人とまったく同じなら、あなたの代わりはいくらでもいることになります。あなたが他の人と違った感性を持っているからこそ、あなたは神にとって「高価」でかけがえのない、「尊い」、重い存在となるということを忘れてはなりません。

4.「あなたがたは、わたしの証人」

そして、この世の大帝国や権力者たちを恐れる人々に対し、「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」(43:5)と言われました。そこでは、「わたし」と言われる方の存在の大きさを味わうような語りかけがなされています。そして主は、「東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。北に向かっては、引き渡せ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う」(43:5、6)と言われます。これは、主が四方の国に散らされたイスラエルの民を、もう一度約束の地に集めてくださるという約束です。そして、主は、43章1節のことばを繰り返しながら、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、これを創造し、形造った」(43:7)と言われ、すべてをまとめるように、「確かに、わたしがこれを成した」と、すべてが主ご自身のみわざであることが強調されます。

そして、主は再び、イスラエルの民を、「目があっても盲目の民を、耳があっても聞こえない者たちを」と呼びながら、国々に向かって、「連れ出せ」と命じられます(43:8)。そればかりか、「すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ」と、世界中の人々を集めさせ、「だれが、彼らの中でこれを告げ、先の事を私たちに聞かせられようか。証人を立てて、正義を示し、聞く者に、それは真実だ、と言わせられようか」と問いかけられます(43:9)。それは、イスラエルの民がいかに盲目で、耳が聞こえないものであっても、彼ら以外に主のみわざの意味を証できる者たちはいないからです。神は、イスラエルの歴史を通して、ご自身の「正義」「真実」を証ししようとしておられます。そして、今は、主は、私たちキリスト者を通してご自身の「正義」「真実」を証しされようとしています。

 それを前提に、主は、「あなたがた」ということばを強調しながら、「あなたがたは、わたしの証人、─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしが選んだわたしのしもべ」(43:10)と言われます。文語訳聖書によれば、私たちこそ、神がどのような方かを証するために立てられている「エホバの証人」、原文に忠実に言えば「ヤウェの証人」なのです。

ただ、私たちはその責任の大きさの割には神を知っていないと卑下するかもしれませんが、そのような懸念を払うように、「これは、あなたがたが知って、わたしを信頼し、わたしがその者であることを悟るためだ」と言われます。私たちは自分たちの人生の体験を通して、主を深く知り、より深く信頼し、主がどのような方であるかを悟るのです。なお、ここでは、「その者」というあいまいな表現があえて用いられながら、それを説明するように、「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない」と、ご自身が他の神々と比べようのない方、ただひとりの創造主であることを証しています。そして、主は、あえて「わたし」ということばを二回重ねながら、「わたし、わたしが主(ヤハウェ)」(43:11)とご自身の名を紹介しておられます。そして、「あなたがたのうちに、他はいなかった。あなたがたは、わたしの証人」(43:12)と、10節のことばを繰り返しながら、「主(ヤハウェ)の御告げ─わたしは神だ」と断言されます。そして、未来に目を向けさせながら、「これから後もわたしがそれだ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(43:13)と、ただ主だけに信頼するように訴えておられます。

 私たちはひとりひとりが、神の目に「高価で尊い」存在です。それは、同時に、(ヤハウェ)の証人としての使命を果たすためでもあります。そのことをペテロは、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(Ⅰペテロ2:9)と言っています。私たちはそれぞれ、キリストにある光の中に招き入れられた存在です。私たちがこのままの姿で、イエスの招きに応じるとき、主は、私達の弱さや葛藤をさえ用いて、ご自身の栄光を現してくださいます。人から尊敬されるクリスチャンになろうとする前に、この世的には取るに足りない人を生かし用いてくださる神のみわざを私たちは常に覚えるべきです。そのとき、私達がそれぞれ小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、主にある逆転の大きさが証されるという神秘が生まれます。大切なのは、人の目に見える自分を意識する代わりに、ただイエスだけを見ながら生きることです。そして、イエスにあって私達に注がれている神の愛を心から味わうことです。いつでもどこでも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」という神の語りかけを、心の底で味わいながら生きて行きましょう。

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2010年5月 9日 (日)

エペソ3:1-21 「キリストの奥義に生かされる」

                                              20105月9日

生きるって、大変なことですよね。時々、めげそうになります。ときどき、「もう、やっていけない・・」と思うことがあるかもしれません。そして、ふと、「できたら、もっと気楽に生きてゆきたいな・・・」と思うことがあります。そんな中で、こんなことばが響いてきました。・・・・君たちは、「できたら・・」を望んでいる。それにしても、「苦しみを無くそう・・」などというほど愚かな、「できたら・・」はあり得ない。私たちはそれに対して、「いまだかってないほどに、それを激しく、酷く持ちたい!」と思う。君たちが理解する「無事安泰」、それは目標ではなく、終わりではないだろうか。それは、人間を嘲笑すべき、また軽蔑すべきものにする状態だ。それは人間の没落を望むことに他ならない。苦しみの訓練、しかも、偉大な苦しみの・・・君たちは分からないのか。この訓練のみが、今まで、人を高みに上げることを創り出してきたということを・・・(善悪の彼岸225章私訳)。これは最近見直されているニーチェのことばです。

しかし、彼は苦しみすぎて気が狂ったのかもしれません。彼は牧師の息子として生まれながら、五歳で父親が死に、その後、キリスト教会と牧師を何よりも憎む者となりました。でも、人間イエスには深い尊敬の念を抱いていました。彼は、「キリスト教徒はただ一人しかいなかった。そして、その人は十字架につけられて死んだのだ」(アンチクリスト39)と書いています。彼はある意味で、彼流の理解で、イエスに習おうとした孤高の哲学者です。何が問題なのでしょう。それは何よりも、三位一体の神秘を否定し、イエスの神聖を認めず、聖霊なる神を知らなかったことにあるとも言えましょう。今も、同じように、イエスに憧れながら、この世の苦しみに真剣に向き合いながら、途中で息切れしてしまう人が後を絶ちません。クリスチャン生活の「奥義」を、パウロの証しと祈りから学んで見ましょう。

1.奥義とは・・・キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり・・

3章は、「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロ」(1節)という表現から始まります。パウロは、自分が異邦人の救いのために、ローマで囚人となっているという事実に読者の目を向けさせます。パウロはかつてエペソ教会の長老たちに向かって、「いま私は、心を(御霊に)縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:22-24)と語っていました。それは決して自分の苦労を自慢するためではなく、キリストの福音が、いのちをかけるほどにすばらしいものであるということを証しするためです。

当時、ユダヤ人とギリシャ人が、いっしょに食事を楽しむなどということはあり得ませんでした。また、ギリシャ人やローマ人がユダヤ人といっしょに「神の国」に入れていただけるなどという考えは、多くのユダヤ人にとって、神のみことばに反する冒涜と思われました。ですから、敬虔なユダヤ人たちは、異邦人に向かって聖書の福音を説いているパウロを許すことのできない異端者と見、彼を殺すことこそ正義だと思い込んでいました。今、私たちが当たり前に思っていることが、当時は、奇想天外なことでした。しかし、パウロはその価値観を変えるために、いのちを賭け、牢獄にまで入れられたという犠牲と労苦が実を結んだ結果として、ユダヤからは地の果てのまだ向こうの日本にまで福音が届いているのです。ただ、その際、「だからパウロは偉いですね・・・」というのではなく、パウロをそこまで熱くさせることができた福音のすばらしさに私たちの目が向けられることこそ、彼の望みでしょう。

続けてパウロは、「あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです」(3:2-4)と書いていますが、彼にとって、「キリストの奥義」という普遍的な知恵と、「神の恵みによる私の務め」という個人的な使命感は、切り離すことができない関係にありました。エペソの人々は、キリストの奥義のすばらしさを、パウロ自身の生き様を通して理解するように導かれています。この「奥義」は、異邦人の救いのために、パウロがあずかったものであり、それは、いのちをかけて伝えるのに値する真理として伝わってきました。それは強いられた義務ではなく、「神の恵みによる私の務め」と呼ばれます。「啓示された奥義」自体に、彼の生き方を180度変えるほどの力が秘められていました。私たちにとっても同じです。「キリストの奥義」には、自己保身に向かわせる恐れ」から人を解放する力があります。

 その上でパウロは、「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした」(3:5)と解説します。簡単に言うと、旧約聖書には確かに、異邦人の救いということは示唆されてはいても、疑いの余地のないほど明確には書いていなかったということです。なぜなら、旧約の預言は、何よりも、肉によるアブラハムの子孫であるイスラエルの民に向かって神にある希望を語ったものだからです。その中心テーマは、バビロン帝国によって破壊されたエルサレムの残りの民に、神の民としての希望を教えることでした。しかし、新約の時代には、旧約聖書の教えはすべて、この世で様々な苦しみにあっているすべての異邦人のための希望でもあると知られるようになりました。その特別な啓示を受けたのが、パウロを含めた使徒と預言者たちでした。そして、それは「御霊によって」のことでした。

続く6節では「奥義」の内容が、「異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となる」と解説され、そこでは、「ともに」ということばが三回も繰り返されています。ユダヤ人の最高議会でイエスが死刑判決を受けた最大の理由は、彼が大祭司に向かって、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」(マタイ26:64)と言いながら、ご自身こそがダニエル7章13,14節に預言された救い主であることを明かされたことにあります。そこでは引き続き、神の民に対する試練の後に来る希望が、「いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐときがきた・・・国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる(同7:22,27)と描かれます。これを当時のユダヤ人たちは、イスラエル王国の復興の約束と理解しましたが、新約の時代に啓示された「奥義」によれば、この約束の中に異邦人もともに加えられるというのです。私たちは神の国がこの世界に完成する日を待ち望んでいます。そのときに何よりも目に見える形で実現することが、国語や民族や習慣の違いを超えて、神の民がひとつになり、この世のすべての豊かさを平和のうちに分かち合うことができるという世界です。

ジョン・レノンがイマジンという曲の中で、「もう国の区別なんかないって想像してごらん。そんなに難しいことじゃないよ。もう、国のためにと言って殺しあったり死んだりする必要なんてないんだ・・・もう所有なんてないって想像してごらん。それができるかな。そのとき、人はもう、欲張ったり、飢えたりする必要なんてないんだ。みなが兄弟なって、この世界を分かち合っているんだ」と歌っていましたが、それは聖書が語る「新しい天と新しい地」のイメージから生まれています。ジョンは、この曲の初めで、キリスト教会の教えにチャレンジするような気持ちで「天国も地獄もないと想像してごらん」と歌い始めていますが、聖書が本当に意味で語っている「天国」とは、彼が期待した平和が完成する世界だったのです。キリストの奥義が実現する世界を「イマジン」しながら生きること、それこそクリスチャン生活の基本です。「新しい天と新しい地」は、私たちが憧れている愛の交わりの完成の世界です。

2.万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにする

パウロは引き続き、キリストの奥義と自分の務めの関係を説明しながら、「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです」(3:7-9)と語っています。彼は何よりもまず、自分が「福音に仕える者」となったのは、自分の意思や能力から生まれたことではなく「神の力の働き(エネルゲイヤ)」によって神が自分に与えてくださった「神の恵みの賜物」によるものであると語っています。

また、彼が自分を「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と言っているのは、人と自分を比べて自分を卑下しているというようなことではなく、何よりも、自分がかつてクリスチャンたちを迫害することにいのちをかけていた者であるという過去の過ちを心から悔いていることの結果です。パウロは決して、真理を求めて格闘しながら自分の知恵で福音を信じたという人ではありません。彼は聖徒を迫害する旅行の途中で、天からのキリストの声に捉えられて回心したのです。人によっては、パウロのように天からの声を明確に聞くことができるような劇的な体験に憧れるかもしれませんが、彼のこの特別な選びは、彼が誰よりも福音のために苦しむということとセットになっていました。簡単にいうと、福音のために牢獄に入れられたり、鞭打たれ、ついには殉教の死を遂げることの代償として、彼に特別な恵みが与えられているのです。どの世界でも、身勝手な良いとこ取りの要求は許されません。それにしても、私たちは様々な方法と段階で、「キリストの測りがたい富」の豊かさを理解できるように成長させていただけます。私たちは、その豊かさを知れば知るほど、自分から自由になることができます。私たちが真の意味で神と人を愛することができないのは、キリストにある富の豊かさが見えていないことの結果です。「もっと恐れから自由になろう!」と軍隊式に自分を叱咤激励する前に「心の目がはっきり見えるようになる」(1:18)ことをこそ祈るべきです。

また「万物を創造された神のうちに隠されていた奥義」という表現で、パウロは人々の目を、異邦人も含めたすべての人間の創造のときという原点に立ち返らせます。簡単に言うと、神は私たちの父祖のアダムとエバをその罪のゆえにエデンの園から追い出しましたが、今、キリストによって「新しいエルサレム」への道が開かれたのです。すべての人々の心のそこに失われた楽園への憧れがあります。それは中国では桃源郷などと呼ばれましたが、聖書のストーリーは、エデンの園で始まって、新しいエルサレムの完成で終わるということを決して忘れてはなりません。この世の人々がイメージするような天国ではなく、聖書の語る初めと終わりに目を向けましょう。そして、世々に隠されていた「奥義」を啓示したものの代表が黙示録です。それは隠された書ではなく啓示の書です。

パウロは先に、「キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝える」と言っていましたが、それを発展させるように、「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです」(3:10、11)と語ります。「天にある支配と権威」とは、御使いたちとサタンの支配の両方を指すと理解できますが、ここでは何と、御使いや悪霊たちに対し、教会を通して神の救いのご計画が知らされるというのです。なぜなら、パウロに啓示された「奥義」とは、御使いを通して与えられたものではなく、御使いばかりか悪霊をも圧倒する全能の神の御霊ご自身によって直接に与えられたものであり(3:5)、また、私たち弱く無知な者の集まりである「教会(エクレシア)」は、「キリストのからだ」そのものであるからです。私たちの集いは、悪霊を怯えさせたキリストご自身に直接に結びついているのです。パウロはコリント人への手紙で、自分たちの争いを異教徒の法廷に訴え出るような人に対して、「私たちは御使いをもさばくべき者だ」という誇りをもって物事に対処するようにと訴えています(Ⅰコリント6:3)。

そしてまたパウロは、「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです」(3:12、13)と述べますが、パウロの励ましの何よりの根拠は、先の文にあった「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画」というキリストのみわざです。人によっては、「キリストを信じる信仰によって」という訳を見ながら、自分は不信仰だからいつも怯えてばかりいると自分の信仰を卑下します。しかし、このことばは、「キリストの真実」とも訳すことができます。パウロが最初から強調しているのは、私たちの信仰は、神ご自身のみわざであるということです。しかも、ここで「できるのです」という言葉も原文にはありません。そうではなくて、私たちはキリストのうちにあるときに、自動的に「大胆な確信を持って神に近づく」という歩みに入れられているのです。そして、すべてがこのような愛に満ちた神のみわざによるのだからこそ、パウロの受けている苦しみを見て、「せっかくキリストを信じたって、悪いことばかりが起きる・・・」などと落胆する必要がないという意味です。いやそれどころか、パウロは、自分の苦しみの背後に、異邦人に救いをもたらそうと願うキリストご自身の熱い思いがあることに気づくようにと諭しています。

キリストは異邦人に「光栄」をもたらすためにこそ、一時的に、パウロを用いておられるからです。この世にはなお悪の力が満ちています。ですから、キリストがご自身の働きのために私たちを用いようとするとき、悪霊たちは必死に私たちの信仰を揺るがそうと攻撃をしかけてきます。私たちが様々な試練に会うとき、自分たちが悪霊にさえ恐れられている存在であると言う誇りを持つ必要があります。悪霊は、箸にも棒にもかからないようなどうでもよい人間を攻撃はしません。自分の信仰を恥じる前に、悪霊をも脅かしている自分に誇りを持ちましょう。

3.父なる神への祈りーあなたがたの内なる人が強くされるように

 その上で、パウロの有名な祈りが記されます。その始まりは、「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります」(3:14、15)というものです。14節は原文で、「こういうわけで私は父の前に私のひざをかがめます」と記されています。先にパウロは、「大胆に確信を持って神に近づく」と告白しましたが、その表れとして、天地万物の創造主に向かって、「父よ」と呼びかけながらひざまずくことができるというのです。そして彼は、その父を、厳密には、「その方によって、天上と地上のすべての家族が名をつけられる」と描きます。「家族」ということばは、「部族」「民族」とも訳すことができますから、ここにはユダヤ人も異邦人も、同じ父なる神のもとにあるということが何よりも意図されています。ただ同時に、「天上」とも記されているように、そこには御使いたちも含まれます。つまり、私たちの天の「父」は、すべての被造物にとっての「父」でもあるということが意図されているのです。当時は、どの家族においても父親の権威が絶対的でした。父親がすべての子供に名をつけましたが、それは子供に対する父の権威の現れでした。それは同時に、家族ひとりひとりを、自分のいのちを捨てる覚悟で守り通すという意思の表れでもありました。同じように、天の父なる神は、天と地のすべての家族に対する支配権を主張すると同時に、すべての家族を守り通すという強い意志を持っておられます。

  そして、祈りの第一の内容は、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」(3:16)というものでした。先に、パウロは「神の力の働きにより・・・福音に仕える者とされた」と告白しましたが、その同じ神の力によって、「あなたがたの内なる人が強くされるように」と祈りました。しかも、そこに「御霊によって」とありますが、私たちの心の奥底には霊の領域があります。そこに御霊の働きがなされ、私たちの人格を成り立たせている根本が神によって強くされるようにという祈りです。

  そして、このことが、「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」と言い換えられます。御霊が住んでくださるということは、キリストご自身が住んでくださることに他ならないからです。また、ここで「あなたがたの信仰によって」というのも、何事にも動じない自分の内側から沸き起こる確信のようなものではなく、キリストのみわざにこころを開くという柔らかな心を指すといえましょう。

それがさらに展開されるように、「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(3:17-19)と祈られます。「愛に根ざし、愛に基礎を置いて」とは、厳密には、「愛のうちに根ざし、基礎を置いて」と訳すことができます。これは明らかに、キリストの愛に浸され支えられ守られているということを意味します。

そして、続く祈りは、16節にある「父の栄光の豊かさ」以降の神の愛のみわざすべてを指しながら、「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するように・・」という願いだと思われます。そして、そのことが、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ること」として言い換えられます。そして、このように神の愛の広さ、深さ、高さ、深さを理解し、キリストの愛を心の底から確信することによって、「神ご自身の満ち満ちたさまにまで・・・満たされる」というのです。最初のアダムは神の競争者になろうとしてエデンの園から追い出されました。しかし、私たちはキリストの愛を心から知る結果として、愛と哀れみに満ちた神のご性質に似た者にさせていただけるのです。

そして祈りの最後は、「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン」(3:20、21)という頌栄でまとめられます。なお、「豊かに施す」とは、「成し遂げることができる」と訳すべきかと思われます。なぜなら、ここでは、神は天から超自然的な贈り物を降らせてくださるというのでも、私たちを越えて何かをするのではなく、「私たちのうちに働く力によって」、「私たちの願うところ、思うところのすべてを超えた」大きな働きをしてくださるという意味だからです。つまり、神は私たちの内側に働くことによって、私たちが自分に可能だと思うことをはるかに超えた大きな働きをすることができるのです。パウロはそのことをピリピ4章13節で、「私は、私を強くしてくださることによって、どんなことでもできるのです」と告白しています。

パウロにとって、キリストの奥義に動かされた働きというのは極めて具体的なことでした。彼はこの手紙をローマの獄中で書いたと思われますが、本来、彼の初期の予定は、ギリシャ伝道の後、ローマ市民の立場を生かして当時の世界の中心のローマで伝道し、そこの教会を励まし、彼らに送られてスペインにまで行くことでした。

しかし、彼はエルサレムの貧しい聖徒たちを助けるために、ギリシャの諸教会から献金を集めて、自らエルサレムに戻ることが神のみこころであることを「御霊によって示され」ました(使徒19:21)。それは、ユダヤ人に憎まれている彼にとっては、いのちの危険が伴うことであり、回りの人々からは、無謀なこととして反対されました。

そればかりか、彼が献金の訴えをあまりにも大胆にしたためか、コリントの教会の人々からは、「悪賢く・・だましとった」(Ⅱ12:16)などという侮辱を受けました。彼はしかし、それでも、「異邦人は霊的なことでは、エルサレムの人々からもらいものをしたのですから、物質的なことで奉仕すべきです」(ローマ15:27)と、この行為が、異邦人とユダヤ人の一致を生み出すために何よりも大切なことと信じ、エルサレムで殺されることを覚悟で行きました。

この世的な効率性の観点からは、これほど愚かな行為はありません。しかし、主イエス・キリストは、異邦人とユダヤ人の一致という「奥義」を、パウロに示すとともに、彼を動かして、目に見える形での一致を作り上げてくださいました。このように、パウロが、誰の理解も得られないような行為を、いのちがけで行うことができたのは、彼自身がキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」に圧倒され、御霊によって、彼の「内なる人が強く」されていたからです。

そして、彼は結局、皇帝の裁判を受けるため、囚われの身として、ローマに移送されることになり、意外な形で彼の望みがかないました。パウロは、キリストと御霊にとらえられて、父なる神のご計画のためにいのちをかけることができました。そして、その結果として、今、福音が私たちのところに届いています。使命にために苦しむ力を、神は与えてくださいます。人はだれも自分の力でクリスチャン生活を全うはできないということを忘れてはなりません。聖書の教えは、道徳ではありません。そこには私たちの心を燃やし動かす、愛と力の「奥義」が啓示されています。「キリストの奥義」は、「知恵」であるとともに、私たちの心を動かす「神の力の働き(エネルゲイヤ)」でもあります。

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2010年5月 2日 (日)

イザヤ41章1節―42章9節 「たじろぐな。わたしがあなたの神だから」

                                             201052

  私たちはみな、様々な恐れに囚われて生きています。しかし、私は長い間、自分の心の中にある漠然として「恐れ」を無視して生きてきました。確かに、傍から見ると、私は自分で自分の道を次々と切り開いてきた人のように見られることでしょう。自分でも「僕は臆病ではない!」と言い張りたい気持ちがあります。しかし、実際は、恐れの気持ちに駆り立てられながら頑張ってきました。「落ちこぼれになりたくない・・」と思うからこそ一生懸命に勉強をし、仕事もしてきました。私は他の人より優位な立場に立つことによって、自分で自分の人生を把握できるようになりたいと思っていました。神学校に入ってさえ、神学議論によって周りの人を打ち負かすことに喜びを感じていました。その矛先は、しばしば、教師にさえ及びました。しかし、それらはすべて、自分の中にある恐怖心が元になっていました。それが顕になるのは、ひとりで静まろうとしたときでした。ですから私は静まることが嫌いでした。 

振り返ってみると、いつも漠然とした不安に駆り立てられるように忙しくしてきました。一方、見ていてくれる人がいないと、やるべきとわかっていることでも行動に移すのをためらいました。失敗することや、人から拒絶されることが怖かったからです。自分の内側には、怖がり、たじろいでばかりいるもうひとりの自分がいるのです。

人の目から明らかに臆病と見られる人ばかりか、とっても強く見える人も、自分の内側にとてつもない恐怖心を抱えながら生きています。そして、その恐怖心が、人をしばしば攻撃に駆り立て、また反対に、愛の行いをすることを躊躇させます。私たちが神と人とを真の意味で愛することができないのは、恐れにとらわれているからです。しかし、そんな私たちひとりひとりに、天地万物の創造主である神が、「たじろぐな。わたしがあなたの神だから・・」と語りかけてくださいます。あなたを召してくださった神は、あなたが想像もできないほどに、力強いお方です。

1.「あなたは、わたしのしもべ。わたしは、あなたを選んで捨てなかった」

神は、イスラエルの人々の目を全世界へと向けさせるようにしながら、「島々よ・・諸国の民よ・・・島々は・・地の果ては・・」(41:1,5)と語りかけています。「諸国」「地の果て」が、「島々(海辺)と呼ばれるのは、地中海を意識しているためと思われます。ソロモンは海上貿易で大きな富を得ましたが、エジプトやメソポタミヤの国々(アッシリヤ、バビロン、ペルシャなど)より遠い国々は、「島々」、また「地の果て」としてひとくくりで呼ばれたのでしょう。

  だれが、人を東から起こし・・・(41:2)とある「人」とは、アブラハムとか、後に登場するペルシャ王クロスを指すという説がありますが、主は、敢えてその名を記さないことによって、偉大な王よりも、ご自身こそが歴史の支配者であることを示しておられます。新改訳は、「彼の行く先々で勝利を収めさせる」と訳しますが、「正義が彼をその足元に呼ぶ」の方が原文に忠実な訳です。これは「神の義」が彼に勝利を与えているということです。

それにしても、このメッセージは自業自得で国を失ったイスラエルの民に向けて語られています。確かにこれは、神がペルシャ帝国を用いてバビロン帝国を滅ぼし、イスラエルを解放することを預言していると解釈できます。ペルシャ王クロスは、この預言の約160年後、王たちを従わせる力によってエルサレムのための「正義」をもたらします。イスラエルの民の名が歴史から消え去ると思われたとき、神が彼らのための救いをもたらしてくださるのです。

私たちが何かのことで切羽詰った状況に追い込まれることがあるかもしれません。そのとき目に見える人が助けの手を差し伸べてくれたとしても、その背後におられるのは神ご自身です。それは相手が信者か未信者かなどというのは関係ありません。イスラエルを解放したペルシャの王クロスは異教徒に過ぎなかったのですから。

そのことが、だれが、これを成し、行なったのか」(41:4)と言い換えられ、わたしが主(ヤハウェ)。初めであり、終わりとともにある。わたしがそれだという宣言としてまとめられます。そして、この歴史を動かす神のみわざを覚えることこそ、最初のわたしの前で静まれ。島々よ。諸国の民よ。力を新たにせよ」(41:1)というよびかけです。全世界の創造主の御前に静まることこそ、「力を新たに」させていただくための何よりの秘訣です。              

  5-7節では、2-4節に述べられた偉大な王の出現が、島々や地の果ての人々を、更なる偶像礼拝に駆り立てるという皮肉が表現されています。それらの偶像は、力への恐れと互いの弱さの反映でしかありません。たとえば日本で奈良の大仏を発願したのは聖武天皇ですが、彼は底知れぬ不安の虜となっていた天皇であると言われます。彼は藤原氏の支配の強い奈良から何度も遷都をしたあげく、飢饉や疫病、天変地異が続く中で、民衆の恐怖心に訴えかけながら民衆の協力を取り付け、国家財政ではとうてい賄いきれないほどの一大事業を成し遂げました。彼らは、6節にあるように、「互いに仲間を助け合い、兄弟に『強くあれ』と言いながら」、途方もなく巨大な仏像を作り上げました。しかし、それから三十年余りで、都は京都に移されることになりました。

  8-20節では、無力なイスラエルに対する慰めが語られています。8節の始まりには、「お前」という神からの呼びかけが記され、それが転換点になっています。そして主は彼らを、「わたしのしもべ」「わたしが選んだ」「わたしの愛するアブラハムのすえ」と繰り返し呼びかけています。そこには、全世界の創造主である方がイスラエルをかけがえのないご自分の宝物と見て、世の権力者たちの手から守るという、主の熱い思いが込められています。彼らは「地の果て(41:9)に追い散らされていても、神が彼らをとらえ、約束の地に連れ戻してくださいます。そのことが、「わたしはあなたを選んで捨てなかった」といわれています。それは神がこれまでひとりのアブラハムからイスラエルという奇跡の民を造り出して下さったという歴史に現されています。このような神の一方的な愛を前提として、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(41:10)と語られます。

今から18年余り前のことですが、あるご高齢の方に洗礼を授けさせていただきました。彼はこの10節のみことばを暗誦し、ただこのみことばひとつによって心の底から神と出会っているように思えました。ただ、最初は、正直、イエス・キリストの贖いのみわざをどれだけご理解いただけたか不安でした。教科書的に、「あなたの罪が、イエスを十字架にかけたのです」と納得させてさしあげようとしたら、「私はこれまで誠実一筋に生きてきたつもりです・・・」と切々と訴えて来られました。これは、教科書的には、「あなたには罪の自覚が足りない」と言われることになるかもしれません。しかし、私などよりずっと、ご自分の弱さや頼りなさを自覚しておられました。私たちは神の救いを、ある神学的な枠組におさめようとする傾向があります。しかし、この10節のみことばが心の奥底に響いていることこそ、神の救いがこの方に及んでいるしるしであると、聖書を読めば読むほどわかるようになりました。

人間的な誇りにより頼む人は、「わたしのしもべ」と呼ばれること自体に喜びを感じることができません。しかし、神のしもべと呼ばれることに喜びを見出す者に対し、神は、わたしはあなたを強め、助け、義の右の手で、あなたを守る」と言われます。「義の右の手」というのは先の「正義が彼を足元に呼ぶ」ということばに通じます。私たちが神の救いにあずかることができるのは、私たちの側に罪の自覚があるからでも、また反対に、正義があるからでもありません。一方的に、神の義の右の手が差し伸べられたことから救いが始まるのです。罪の自覚や本当の意味での自分の弱さの自覚は、救いを受けた結果として生まれるものです。救いの主導権は、私たちではなく、神の側にあります。そのことが先の「わたしはあなたを選んで、捨てなかった」という語りかけになっているのです。

2.「恐れるな。わたしが、あなたを助ける」

そして、「見よ。あなたに対していきりたつ者はみな恥を見、はずかしめられ、争う者たちは、無いもののようになって滅びる」(41:11)とは、神がイスラエルの味方になってくださるという意味で、彼らの父アブラハムへの約束に基づきます(創世記12:3)。パウロも、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と言っています。その上で、主は、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神。あなたの右の手を堅く握り、そして言う、『恐れるな。わたしが、あなたを助ける恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々よ。わたしが、あなたを助ける』」(41:13、14)と言われます。愚かなプライドに囚われている人は、「恐れるな。虫けらのヤコブ」(41:14)と言われて気分を害するばかりで、「わたしが、あなたを助ける」という繰り返しに励ましを見出すことはできません。イスラエルは当時の世界から見たら「虫けら」のようにちっぽけな存在でした。しかし、主が彼らを選び彼らの味方となってくださいました。ここではその主の主導権を明確にするため、「わたしが」ということばが強調されています。

その上で、主ご自身が彼らをしっかりととらえていてくださるので、彼らは周囲の大国をも圧倒することができるということが比喩的に15,16節で述べられます。「鋭い・・・打穀機」とは、神の民が敵を圧倒する様子を描いたものですが、これは大国から踏みつけられている弱小民族にとっては身近な表現でした。そして、8節の「お前」という呼びかけから始まった神の慰めのことばが、「あなたは、主(ヤハウェ)によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る」41:16)と締めくくられます。これは、自分の無力さに絶望している民にとっての何よりの希望です。

そして、主は、「水を求め」、「渇き」に苦しむ者に、「わたし、主(ヤハウェ)が、彼らに答える。イスラエルの神は、彼らを見捨てない」と断言してくださり(41:17)、また、裸の丘に川を開き・・・乾いた地を水の源とする」(41:18)と言いつつ、19節にあるように「荒野」「荒地」を、七種類の様々な木々で満たすと約束してくださいました。

その上で、それは、彼らがこれを見て、主(ヤハウェ)の手がこれを成し、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを知り、心に留めて、共に悟るためである(41:20)とまとめられます。神の創造のみわざは、創世記1章にあるように、「茫漠として何もなかった」という地に、光が創造され、海と陸が区別され、ありとあらゆる種類の植物が地の上に芽生えるということとして描かれます。神の創造のみわざは、今もこの地で繰り返されている現実です。

21-24節は、偶像の神々に、自分たちが神であることを証明してみよと迫っていることばです。22節は、神ご自身または神の民が偶像の神々に向かって、(証拠を)持って来て、起ころうとする事を告げよ。先の事は何であったのかを告げよ。そうすればわたしたちもそれを心に留め、後のことを知ることができようと皮肉をこめて語りかけたものです。私たちは、過去を本当の意味で知ることができるなら、未来を知ることができるようになります。

ある方が、「イスラエル人は、昔の時を自分の『前にある』現実として見る・・それはちょうどボートの漕ぎ手のようなもので、未来の方へ背を向けて・・・前に見えるもの(過去)によって方向を取りながら目標に到達する」と記しています。私たちも、これまでの歩みを、主がどのように導いてくださったかを覚えることによって、未来の方向が決められるのです。決断は私たちの記憶を基礎になされます。その記憶が神の光に照らされる必要があります。

私たちは自分の人生を振り返ったとき、そのときそのときに、不思議な神の助けがあったことに気づくことができます。今まで助けてくださった神は、これからも私を助けてくださると信じることができるなら、明日に向かい、神のみこころに従って生きる勇気が沸いてきます。詩篇の作者も、落ち込めば落ち込むほど、イスラエルの歴史のうちに働いてきた神を見上げました(詩篇77編等)。それは彼らにとっては何よりも出エジプトの記憶でした。

ところで、偶像に向かって、実際、善でも悪でもしてみよ(41:23)と言っているのは興味深い表現です。多くの人々が偶像を拝むのは、それらが、何かの良いことか、または、わざわいをもたらす力があると信じられているからです。しかし、それらは何もできない「無に等しい」(41:24)存在に過ぎません。その働きはむなしい。お前たちを選ぶ者は忌まわしい」という結論は、偶像を選ぶ者の働きのむなしさと同時に「忌まわしさ」を強調したものです。

このような偶像のむなしさの対比として、2節の預言を発展させるように、北から人を起こすと、彼は進んで来る。         日の出る所から、彼はわたしの名を呼ぶ(41:25)と言われます。東で起こされた王は、イスラエルの北から迫ってきますが、その異教の王が主の名を呼ぶというのです。エズラ記の最初には、このイザヤのときから約百六十年後の事として、「主(ヤハウェ)はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせた」その結果として、彼が、「天の神、主(ヤハウェ)は、地のすべての王国をわたしに賜った」と、主の御名を呼びながら、「この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることをゆだねられた」と述べたと記されています。異教の王クロスが主の御名を呼びながらエルサレム神殿の再建を命じたというのは何という不思議でしょう。まさに、主(ヤハウェ)がこの世界を支配しておられるということは、イザヤの預言がひとつひとつ成就していることに表されているのです。

そして、「だれか、初めから告げてわたしたちが知るようにさせただろうか。あらかじめ、『それは正義だ』とわたしたちに言うようにさせただろうか。告げた者はひとりもなく、聞かせた者もひとりもなく、お前たちが言うのを聞いた者もひとりもなかった」(41:26)とは、これらすべてが神ご自身のはかりしれないみこころから発しているということです。私たちはしばしば、自分の「正義」の観点から、神のみわざを評価しますが、それこそ本末転倒です。

私たちの正義の期待に合うように神が歴史を動かしておられるのではなく、神の「正義」こそが、2節にもあったように、ペルシャの王クロスを足元に従えさせたのです。私たちのまわりには理解できないこと納得できないことが山のようにあります。しかし、それらをひとつひとつ判断するよりはLet it be とあるがままに受け止め、神がご自身のときにすべてを納得できるように変えてくださることを信頼しながら、今ここで、神が示してくださった正義の基準に従って歩むのです。過去と他人は変えられませんが、私たちは目の前の右か左を選ぶ自由があります。

3.「見よ。わたしのしもべを」

27節は、初めてシオンに、『見よ。これを見よ』と、エルサレムに良い知らせを伝える者をわたしが置く」と記されますが、これはエルサレムに対する希望の「よい知らせ」を伝える人を主ご自身が備えてくださるということです。しかし、現実は、「見回しても、だれもいない。彼らの中には、問いかけても返事のできる助言者はいない。見よ。彼らはみな偽りだ。その働きはむなしい。その鋳た像は風のようで茫漠としている」(41:28,29)とあるように、現実の人を見るときには、そのような主のよい知らせを伝えてくれる人はいなかったというのです。神は茫漠の中に「いのち」を生み出す創造主ですが、偶像の神々は、いのちのない「茫漠」の状態に置かれたままです。そして、このことが、42章の「主のしもべの歌」への導入のことばとなります。救いは、神ご自身の主導権で始まるからです。

421-9節は、イザヤが記す四つの「主(ヤハウェ)のしもべの歌」(この他は49:1-9,50:4-952:13-53:12)の最初です。これは当然ながらキリスト預言でありますが、同時に、主のしもべとしてのイスラエルに、また私たちキリスト者に求められる生き方でもあります。そして、何よりも、人としてのイエスご自身がこれらの主のしもべの歌を心の底から味わい、そのみことばを実践されたということを忘れてはなりません。マタイ12:15-21では、この主のしもべの歌の前半の部分が引用されますが、そこでイエスが人々を次々といやしながらも、「ご自身のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた」(同12:16)理由が、このみことばを成就するためであったと記されています。

ところで、イエスがバプテスマを受けたとき、「神の御霊が鳩のようにくだって・・天から・・これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声がしたと記されますが(マタイ3:16,17)、その背後に421節の見よ。わたしのしもべ、わたしがささえる者を。わたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者を。彼の上にわたしの霊を授け」という預言が成就したという意味があります。しかも、私たちがキリストの弟子となるとき、このみことばは私たちへの語りかけになっています。私たちの上に、イエスを導いたのと同じ御霊が宿ってくださったとは何という驚きでしょう。

ところで、続く、「彼は国々にさばきをもたらす」という約束は、この方こそが、この世の不条理を最終的に正してくださる方、この世に神の正義を実現してくださる方であるという意味です。しかし、その方に関して、「彼は叫ばず、大声をあげず」と描かれているのは不思議です。ここでは、救い主の姿は、イエスの時代に期待されていた独立革命軍の指導者のようなものではないと既に記されているのです。また、「傷んだ葦を折ることもなく」とは役に立たないものを生かすという意味です。アッシリヤの王はエジプトを、「いたんだ葦の杖」と呼びました(36:6)。傷んだ葦は捨てるしかないものでしたが、主のしもべは、社会の役に立たないと思われる人にもやさしく対応してくださるというのです。また「くすぶる(衰え行く)燈芯」も早く取り替えたほうが良いようなものですが、救い主はそれさえも大切にして消すことがないというのです。イエス・キリストの不思議は、その強さ以前に、「優しさ」にありました。

そのことが、彼はまことをもってさばきをもたらす」42:3)と記されます。これは社会的弱者を守るという意味での正義が実現されるという意味です。イエスが当時の最下層の人々、取税人や遊女、罪人の友となられたのはこの預言の成就でした。続けて「傷む」「衰える」ということばが敢えて繰り返されながら、「彼は衰えることも、傷つき果てることもない」(42:4)と描かれます。これは、「主(ヤハウェ)のしもべ」が、「傷んだ葦、衰え行く燈芯」と同じように見えながら、そこに驚くほどの強さが秘められていたという神秘を示しています。イエスはゲッセマネの園で、「苦しみもだえ・・・汗が血のしずくのように地に落ちる(ルカ22:44)ような祈りをささげた後、無抵抗で権力者に捕らえられ、不当な裁判でも何の弁明もされずに十字架にかけられました。その姿は人々の目には「弱さ」でも、そこには自分の身を守る必要を感じないという真の強さがありました。それを前提に、パウロは、「キリストは・・・確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます」(Ⅱコリント13:3,4)と語っています。

5節は、「神である主(ヤハウェ)は仰せられる」と記された後、その方は、天を創造して引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けられた」と説明され、その語りかけとして、わたし、主(ヤハウェ)は義をもってあなたを呼び、その手を握り、あなたを見守り、民の契約とし、国々の光とする(42:6)と記されます。ここに、(ヤハウェ)ご自身の主導権が強調されています。これは私たちにもそのまま適用されることばです。「正義が彼をその足元に呼ぶ」「義の右の手で、あなたを守る」と言われた方が、ここでは、「義をもってあなたを呼ぶ」と言われます。私たちはみな、神の義によって神の働きのために召し出された者です。私たちは「国々の光」とされるために召されています。私たちの人生は、使命を忘れたとたん、不満と退屈に苛まれます。

そして、その具体的な働きが、それは、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から自由にするため(42:7)と描かれます。イエスの贖いのみわざは何よりも私たちをサタンの支配から自由にすることにありました。サタンは私たちを盲目にし、この世の成功しか見えなくさえ、死の力によって脅し、私たちの心を束縛します。しかし、イエス・キリストを信じる者の勝利は確定しました。私たちはその恵みを伝えることができます。

最後に、「わたしは主(ヤハウェ)、それがわたしの名」(42:)とは、この名の由来、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:13)を指すと思われます。それは主が、この世界のすべてのみなもとであり、その栄光も栄誉も、この地上のものによって言い表すことができるようなものではないからです。また、「先の事は、見よ。すでに起こった」(42:9)とは、主がアッシリヤを用いて北王国イスラエルを滅ぼし、またバビロン帝国を用いて南王国ユダを滅ぼしたことを指すと思われます。それらはイスラエルの神の無力を示すものではなく、はるか昔に記されたレビ記や申命記の預言が成就したことを意味します。その上で、新しい事を、わたしは、告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせようと言われます。これはペルシャ帝国を用いてイスラエルの民を約束の地に戻すことであり、また、最終的には、ここに記された「主のしもべ」によって世界を救うことを意味します。

「わたし、主は、義をもってあなたを呼び、その手を握り、あなたを見守り、民の契約とし、国々の光とする」という預言はイエスキリストにおいて成就し、同時に、イエスの御霊を受けた私たちの上に成就しました。私たちはこの世にあっては虫けらのようにちっぽけな存在かもしれませんが、天地万物の創造主である神が、ご自身の右の手で私たちを守ってくださいます。私たちは、なすべき正しいことがわかっていながら、ひるんだり、たじろいだりしてしまいます。しかし、世界の歴史を導いておられるのは、主ご自身です。イザヤの預言のひとつひとつが成就しました。ですから、私たちへの約束も必ず成就します。この世の基準で自分の可能性を狭くしてはいけません。アウシュビッツを生き残ったビクトール・フランクルは、「私の使命は何でしょう・・」と尋ねる人に、「あなたが使命を探すのではなく、使命があなたを探している」と言いました。本日の箇所のキーワードは、「正義」または「義」です。神がその義をもって私たちを選び、日々、新たな課題を与えてくださいます。今ここでなすべき良いことがわかっていながら「たじろいで」しまってはなりません。神の全能のみわざを見る機会を自分で閉じてはなりません。

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