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2010年6月27日 (日)

イザヤ45章15節~46章13節「胎内にいるときから担われている私」

                                               2010627日 

  私たち福音派の教会では、イエスを救い主と告白したときから、神の子とされ、新しい人生が始まったという意味で、「救いの証し」を分かち合います。その中で、つい、昔の自分や、生まれ育った家庭環境を悪く描きすぎる傾向があるかもしれません。私もつい最近まで、自分の幼児期を過度に暗く描いてきたような気がします。しかし、「母の胎内にいた時から、あなたは、私の神です」(詩篇22:10)というみことばが心の底に落ちてきたとき、自分の幼児期も、両親も、ずっと優しい目で見られるようになりました。すると、ずっと苛まれていた自己嫌悪感からもしだいに自由になって来られた気がします。何しろ、まるで昔の相撲取りのように、ハングリー精神をばねに頑張ってきたような面がありますから・・・しかし、そんな生き方は疲れます。周りをも疲れさせます。それでは、「キリストの品格」を身につけることはできないことでしょう。今日の箇所で、聖書の神は、イスラエルの民に向かって、「胎内にいる時から担われており、腹の中にいる時から運ばれた者よ・・・しらがになっても、わたしは、背負う。わたしは、そうしてきた。なお、わたしは、運ぼう。わたしが、背負って、解放しよう」語っておられます。私たちの信仰が、私を神の子としたというより、神ご自身の側から、ご自身の「正義」と「救い」を近づけてくださったのです。

                 

1.「隠れた所でわたしは語らなかった」

イザヤ書の核心は、「まことに、あなたはご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(45:15)というイザヤの告白にあると思われます。先日も、マツダの広島工場で、無差別殺人を意図した事件がありました。亡くなられた方の悲惨を思うと、「そのとき神は、何をしておられたのか・・」と思いたくもなります。しかし、そのようなときこそ、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神」というイザヤの告白が迫ってきます。預言者イザヤ自身も、ヒゼキヤ王のもとでアッシリヤの攻撃に対する主の勝利を語り続け、エルサレムは奇跡的に独立を保ちましたが、その後、後継者の王マナセのもとで悲惨な殉教の死を遂げたと言われます。そして、エルサレム自身も、没落に向かってゆきます。

  そのような中で、人々の目は、大国アッシリヤやバビロンの神々に目が向かいます。それらの神々は、目に見える神々でした。金や銀で飾られ、力と繁栄を約束しているように思えました。しかし、それらの目に見える神々こそが、人々の心のうちにある欲望や快楽への憧れを刺激し、力と力の対決を生み出します。今、歴史上の偉大な大国を生み出した国々の現実を見ると、そのはかなさが身にしみてはこないでしょうか。あの偉大なギリシャの末裔は、国家が破産しようとしています。ローマ帝国で栄えたイタリヤの混乱、モンゴル帝国の末裔はどのような悲惨の中に置かれているでしょう。まさに平家物語の冒頭に、「奢れる者久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には亡びぬ。偏に風の前の塵に同じ」と述べられるとおりです。そのことを、イザヤは、みなが、恥を見、はずかしめを受ける」(45:16)とショックを与えるように断言し、その上で、「偶像を細工する者どもは、ともに恥の中に行く」と解説します。力と富を神とする者の空しさは、日本の古典でも繰り返し語られているのに、それでも私たちの心は、目の前の豊かさに惑わされてしまい、人の成功を見ると心が騒いでしまいます。

それに対比するように、ご自身を隠す神を礼拝する民への祝福が、「イスラエルは主(ヤハウェ)によって救われる。その救いは永遠のもの」(45:17)と語られ、その上で、二人称の動詞形で、「あなたがたは恥を見ることも、はずかしめを受けることもない。いついつまでも」と大胆な保障がなされています。このみことばは、聖書の神に信頼するすべての私たちへの約束です。これを前提に使徒パウロは、「彼(イエス)に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ10:11)と言っていますが、これは文語訳の、「すべて彼を信じる者は辱められじ」のほうが原文に忠実だと思われます。神は、目に見える神を求める人々のために、ご自身の御子を目に見える人間の姿で遣わしてくださいました。ご自身を隠す神は、キリストにおいてご自身を現してくださったのです。

とにかく、私たちキリストに属する者は、たとい、この世で恥を見、はずかしめを受けることがあっても、それは一時的なことに過ぎません。永遠の観点から見ると、「イエスに信頼する者は、すべて、はずかしめられることがない」ということが実現するのが確かだというのです。この約束に堅く立つときに、私たちは人々の誹謗中傷や辱めに、耐える勇気をいただくことができます。なんと多くの人が、ほんの些細な辱めにキレてしまうことでしょう。

  そして、主は、そのように私たちに保障を与えた方がどのような方であるかを、天地創造の原点に立ち返って、

それは、主(ヤハウェ)がこう仰せられるからだ。―その方は、天を創造された。この方が神。地を形造り、これを仕上げた。この方が、これを堅く立てられ、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかに形造られた」(45:18)とご自身のことを紹介しておられます。なお、「茫漠としたものに創造せず」とは、神はこの地を、人の住めない砂漠のような状態には創造しなかったという意味です。砂漠化は、多くの場合、人間の環境破壊によってもたらされているのではないでしょうか。また、ここで「形造る」ということばが繰り返されていますが、これは陶器師が粘土で偶像を形造るときに用いられることばでもあります。私たちは、目に見えない神を目に見える姿に造ろうとする代わりに、神が形造られたこの地球の不思議と美しさを見ることによって神をあがめるべきなのです。

イエスも、お金に目が奪われる人に向かって、空の鳥を見なさい、野のゆりを観察しなさいとやさしく命じてくださいました。お金にとらわれる自分を責めるのではなく、神が造られた世界の美しさに目を向け、それを肌で感じるとき、私たちの心は様々な誘惑から自由にされるのです。

  その上で、主の語りかけが、「わたしは、主(ヤハウェ)。ほかにはいない。隠れた所でわたしは語らなかった、やみの地の場所では」(45:19)と記されます。これは、目に見える現実の中でご自身を隠しておられる神が、同時に、ご自身のみことばを誰にもわかる形で明らかにされたことを示しています。「隠れた所」「やみの地の場所」とは、神のみことばは異郷の神殿でのように、ある特殊の能力を持つと見られた霊媒者のような人、隠れた暗闇の中で、神のお告げを聞くという人に明かされたものではないという意味です。また、「ヤコブの子らに言ってはいない。茫漠の中にわたしを尋ね求めよとは」とは、人が住むことができないような中で神のみこころを求めるのではなく、日常生活の中に、また、この地に見られる神の美しいみわざの中に神を見出すという意味です。

そして、主はご自身のことを再び、「わたしは、主(ヤハウェ)、正義を語り、公正を告げる者」と紹介されます。神はご自身のことを隠したまま、ご自身への服従を命じているわけではわりません。神から私たちに対するみこころはすでに明らかにされています。そこには、神の「正義」「公正」が啓示されています。モーセはかつて、「隠されていることは、私たちの神、主(ヤハウェ)のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである」(申命記29:37)と言っていました。

多くの人々が、「私には、主のみこころがわからない・・・」とつぶやきます。しかし、はたしてそうでしょうか。日々の生活の中で、全身全霊であなたの神を愛するということと、あなたの隣人をあなた自身のように愛するという最も大切なことは分かっているのではないでしょうか。神の前に静まるときを聖別せず、また最も身近な人にやさしいことばをかけることもなく、「私にはみこころがわからない・・・」と言うのは、本末転倒もはなはだしいと言わざるを得ません。今、わかっている主のみことばに従うところから、おのずと、主の導きは明らかになるものです。

2.「わたしを仰ぎ見て救われよ。地の果てのすべての者よ。」

20-22節は偶像の神々を拝む世界の異教徒たちに対する神の招きです。最初に、「集まって来い。共に近づけ。諸国からの逃亡者たちよ」という呼びかけがあります。これは、バビロン帝国の安定と繁栄に魅せられて世界の国々から身を寄せてきた人々への招きだと思われます。「彼らは何も知らない。木の偶像を運ぶ者、救えもしない神に祈る者らは」(45:20)とは、彼らが自分の生まれ故郷から木の偶像をお守りとして携えてきたことを指していると思われます。彼らはバビロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされる中で、右往左往するだけで、偶像の神々を拝むことの空しさに圧倒されています。その彼らに向かって主は、「告げよ。近づかせよ。さらに共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前から告げたのか。それは、わたし、主(ヤハウェ)ではなかったか」(45:21)と言われます。それは、主がペルシャの王クロスを用いて、バビロンを滅ぼし、イスラエルの民を約束の地に戻し、エルサレム神殿を再建するという壮大な主のご計画が実現しようとしているということを指しています。

私たちも様々な不条理に出会いながら、「どうして、このようなことに・・・」と失望を味わうことがあります。しかし、神の時が来ると、すべてが神の御手の中にあったということが見えてきます。おことばひとつで世界を創造された方は、同時に、私たちの細胞の隅々にまで目を向け、この世界の歴史を導いておられる全能の神です。そのことを主は、「わたしをおいて、ほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしのほかにはいない」と宣言されます。

その上で、主は世界中の人々に向かって、「わたしを仰ぎ見て救われよ。地の果てのすべての者よ。わたしが神だ。ほかにはいない」(45:22)と招いておられます。今も、多くの人々が、先祖伝来の神々を自分の部族の神として拝み続けています。しかし、聖書の神は、イスラエルを通してご自身を啓示されはしましたが、全宇宙の創造主であり、世界のすべての人々にとっての唯一の神です。これは当時の人々にとって、とうてい理解できないことでした。なぜなら、神はヤコブの神、イスラエルの神とも言われていたからです。今、このように聖書の神が世界中であがめられているのは、使徒パウロがいのちがけで異邦人にイエスこそが神の御子であることを語った結果です。イザヤ書には、このように地の果ての人々に対する福音が告げられています。最近、日本辺境論という本が新書大賞を受けていますが、現代において、イスラエルの地から見た、「地の果て」とは、まさに日本です。この神の招きのことばは、まさに、八百万(やおよろず)の神々を拝んでいるという日本人への招きといえましょう。

その上で、主は、世界の歴史が、主の御口から出ることばによって導かれているということを、「わたしは自分にかけて誓った。正義がこの口から出る。ことば、それは戻ることはない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主(ヤハウェ)にだけ、正義と力がある』と言う」(45:23、24)と表現しました。ここでは、「正義」とは、神のことば自体であるということが宣言されています。私たちは、アダム以来、自分の正義の基準によって神をさばくようなことをしています。しかし、正義とは、神のことば自体なのです。そして、歴史は神のことばの一つ一つが実現する舞台に過ぎません。神を知る者は、世界がどこから来て、どこに向かっているか、私たちが何のために生かされているかがわかるのです。

ところで、このみことばをパウロは引用して、「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです」(ローマ14:10)と言いながら、兄弟を侮ったりさばいたりすることを戒めています。また、ピリピ人への手紙では、「ただ、主(ヤハウェ)にだけ、正義と力がある」ということばをイエス・キリストに当てはめ、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10,11)と語っています。そこで示されたのは、自分の正義を振りかざし、自分の世界の中心に据えて争う代わりに、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・自分を卑しくし・・・十字架の死にまでも従われた」神の御子の姿でした。誰よりもののしられた方が、だれよりも高くされたという神の逆転を語っています。

そのことが続けて、「主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。イスラエルの子孫はみな、主(ヤハウェ)によって義とされ、誇る」(45:25)と記されています。私たちは、自分の正義を振りかざして争う必要はありません。それどころか、主に向かっていきり立つような必要はありません。霊的なイスラエルの子孫である私たちはみな、主によって義とされ、誇ることが決まっているからです。私たちが正義を実現しようとしなくても、神が正義を実現してくださることが明らかだからです。それに信頼する者は、イエスのように、自分を低くして生きることができます。そして、主は、自分を低くするものを、イエスと同じように高くしてくださるのです。

3. 「しらがになっても、わたしは、背負う・・・なお、わたしは、運ぼう。わたしが、背負って、解放しよう」

「ベル」とはヘブル語にするとバアルでバビロンの主神「マルドゥーク」のこと、「ネボ」とは「ナブー」とも呼ばれ告知者という意味があり、神意を人々に解明する神でした。バビロンでは、新年ごとに、このふたつの神を祭る神殿の間を行進行列がなされたと言われます。そして、ここに描かれている状況は、バビロン帝国が滅ぼされて、このふたつの神々が荷台に乗せられて逃亡する様子で、そのことが、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた物たちの重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。その重荷を解放することもできず、彼ら自身もとりことなって行く」(46:1、2)と記されています。そこでは、ベルとネボを現す像が、家畜の荷台に乗せられながら、とりこになってゆく姿が皮肉をもって描かれています。しかも、ベルもネボも、人々にとっての重荷となり、人々をその苦役から解放することはできません

それと対照的なのが、「イスラエルの神、主(ヤハウェ)」です。そのことを主は、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時から担われており、腹の中にいる時から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは、同じだ。しらがになっても、わたしは、背負う。わたしは、そうしてきた。なお、わたしは、運ぼう。わたしが、背負って、解放しよう」(46:3、4)と言われます。聖書の神は私たちを母の胎内にいるときから担い、運び、解放してくださる方です。ここでは、「わたしは」というふだんへブル語では必要のない人称代名詞が敢えて五回も繰り返されています。それは、私たちの信仰心の程度によって神の働きが決まるのではなく、神ご自身が私たちを担い、運び、背負って救い出してくださるということが強調されています。

この箇所から、マーガレットパワーズの美しい詩が生まれています。彼女はあるとき夢を見ます。「私は主とふたりで浜辺を歩いていました。そこで、人生の様々な場面が思い浮かびましたが、そこにはいつも、ふたりの足跡が見えました。しかし、人生の最も厳しかったとき、そこには一組の足跡しか見えませんでした。それで、私は主に疑問を訴えました。私があなたに従うと決心したとき、あなたはいつも私とともにいてくださると約束してくださいました。それなのに、私が最も辛かったとき、そこには一組の足跡しか見えません。私があなたを最も必要としていたとき、なぜ、あなたは私を離れておられたのか、それが分かりません・・と。しかし、主は、そのとき私にささやいてくださいました。「わたしのかけがいのない子よ。わたしはおまえを愛し、決して、決して見捨てたりなどしない。おまえが最も辛かったとき、一組の足跡しか見えないのは、わたしがお前を背負って歩いていたからなのだよ」

私たちは、ほんとうに絶望的な状況に置かれるとき、祈ることすらできなくなります。神が私を忘れるのではなく、私たちが神を忘れてしまうのです。しかし、神は私たちを母の胎にいるときから担い、運び、背負ってくださっています。ここでは、「胎内にいるときから」「腹の中にいるときから」と同義語が用いられています。私の母は未信者でした。でも、私の神は、そのときから私を背負っておられました。まして、あなたの母が信仰者である場合、あなたの母自身が神に運ばれ、背負ってもらっていたというイメージはどれだけ大きな安らぎになることでしょう。あなたが自分の意思で主を信じる前から、主はあなたの神であられるのです。

ところで、「だれにわたしを似せて等しくし、だれにたとえると、わたしたちが似ているのか」(46:5)という表現は、ユダヤ人がかつて自分たちをエジプトから救い出した神を金の子牛で表現したことを思い起こさせます。また、たとえば神はご自身をライオンにたとえて表現することがありましたが、それを、「神はライオンに似ている」と受け取る人がいたのかもしれません。しかし、神は決して、この地の被造物に似せることができるわけでも、また似ているわけでもありません。しかし、高価な金や銀を使って造られた偶像に共通することは、人間に運んでもらわないと移動できないということです。そのことが、「金(きん)を袋から惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずき、さらに拝む。彼らはこれを肩に載せて運び、背負い、下に置くと、これは立っている。その場から動くことはない」(46:6、7)と描かれます。しかも、その偶像は、「さらにこれに叫んでも答えはしない。悩みから救ってもくれない」ものです。

神はかつて、「先のことを思い出すな。昔のことを思い巡らすな。見よ。新しいことをわたしは行う」(43:18,19)と語っておられましたが、ここでは、それと反対に、「このことを思い出せ。しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。先の事を思い出せ。永遠からの事を」(46:8,9)と言っておられます。それは昔の成功体験に酔いしれることで神の新しい救いのみわざが見えなくなることはあるのですが、一方で、神の永遠の創造のみわざには繰り返し目を留めることが必要だという意味です。そのことが、「このわたしが神、ほかにはいない。わたしのような神はいない」(46:8)と述べられますが、世界の古い宗教の中に創造主の概念があるのは聖書だけです。聖書を知ることがなかったすべての古い宗教のどこにも、無から世界を生み出した神の概念は存在しません。日本の神々だって、すべて、生まれ出た神として描かれています。

それと同時に、主はイスラエルの民に、エルサレム神殿を滅ぼしたバビロン帝国以降の歴史のことを、「終わりの事を初めからわたしは告げる。まだなされていない事を、はるか前から。そして、『わたしの計画は立ち、望む事はすべて成し遂げる』と言う。東から猛禽をわたしは呼ぶ。遠い地からわたしの計画の者を。わたしが語ると、すぐにそれを行わせる。わたしが計ると、すぐにそれを成し遂げる」(46:10、11)と告げられます。神はバビロンの東にあるペルシャ帝国を用いて、イスラエルを救うというのです。

その救いのご計画を前提に、主は、「わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。わたしは近づけるわたしの正義を。それは遠くはない。わたしの救いを。それは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与える。イスラエルにわたしの光栄を」(46:12、13)と言われます。神の正義から遠ざかっている民に向かって、「わたしの正義」を神ご自身が近づける、また、強情な民に向かって、神ご自身が神の救いを近づけてくださるというのです。そして、神の一方的な恵みによって、神の側からエルサレム神殿の立っていたシオンの丘に救いを与え、イスラエルの民に神の栄光を与えてくださるというのです。イエスがイスラエルの王として、エルサレム神殿に立ってくださったとき、これらの預言はすべて成就しました。

 私たちはある意味で、自分の信仰によって、神を担いながら生きるような気持ちになることがあります。いつでもどこでも、神のことを心の中心に置くように自分の心に言い聞かせ、いつでもどこでも、神の救いを証しできるように準備し、神に仕えるような気持ちで誠実に仕事に取り組む・・・それらはすべて大切なことです。しかし、そのような気持ちは、偶像礼拝者も持っています。その点では、創価学会や真如苑の信者のほうがしっかりしているかもしれません。しかし、聖書の神は、天地万物の創造主であり、あなた自身の創造主でもあります。

信仰の成長を目指すことは大切ですが、自分が生まれる前から神によって担われ、運ばれ、信仰の目が開かれているという原点を忘れてしまうなら、せっかくの信仰があなたの心の重荷になってしまいます。改めて、神を運ぶ信仰と、神によって運ばれる信仰の違いに目を向けてみたいものです。イザヤ書のテーマは、神を忘れた民を、神の創造と選びの原点に立ち返らせることにあります。そこには安らぎが生まれます。

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2010年6月13日 (日)

イザヤ44:23-45:15 「神の不思議な救いのご計画」

音声メッセージを聞いてくださる方、今回は、録音の手違いでできませんでした。申し訳ありません。来週も外部奉仕で更新できません。心よりお詫び申し上げます。

                                                2010613

アメリカ北部でのことですが、高速道路を走っているある家族の車に鹿が飛び込んできて、車が大破しました。その車に乗っていた7歳の男の子は、「どうして神様は守ってくれなかったの?」と言ったそうです。それに対して、13歳の次女は、「神様が守ってくれたから、誰も怪我をせず、大事故にならずに済んだんだよ!」と答えたとのことです。今日の箇所では、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神」(45:15)というイザヤの告白があります。聖書にご自身を啓示しておられる神は、同時に「ご自身を隠す神」でもあります。その結果、同じ出来事が、7歳の男の子には、神がご自身を隠しているように見え、13歳の少女には、ご自身を啓示しておられるしるしと見えました。

同時に、この違いは、私たちの気分によっても反映されます。宗教改革者マルティン・ルターは躁うつ病とともにパニック障害のような発作に何度も見舞われたそうです。彼はそれを『悪魔の風呂』と呼んでいました。心臓が震えおののき、異常な発汗があり、発作的に叫び、死が近いと確信し、その恐ろしい瞬間には、信仰も義認も感じなかったと言われます。彼はそれまで千数百年続いたカトリック教会の権威を否定しましたが、彼はうつ状態に陥ると、繰り返し、「お前だけが何でも知っているというのか。しかし、お前が間違っているとしたら、そして、人々を誤らせ永遠の呪いへと導いたとしたら、どうするのか・・・」という心の囁きが聞こえたと記しています。

しかし、そのような不安が、彼をますます聖書に向き合わせました。彼は確かに三ヶ月間で新約聖書をギリシャ語からドイツ語に翻訳し、旧約聖書も驚くべき速さでヘブル語からドイツ語に翻訳しましたが、それから二十数年間かけて改訳を続けています。当教会の講壇には、1545年の彼の最終訳のコピーが置かれていますが、千数百年間の伝統を崩す根拠は聖書にしかありませんから、原文をどのように正確に、また、人々が理解できることばで翻訳するかということは、原文と聴衆の反応の中で、何度も何度も見直す必要がありました。まして、神経症の傾向のある彼にとって、中途半端は自分が許せません。そして、結果的に、ルター訳の聖書が、共通ドイツ語を生み出しました。ルターに批判的な人でさえも、ルター訳聖書が現代のドイツ語を作ったと認めざるを得ません。

しかし、すべての始まりは、ルターがうつ状態とパニック発作の中で、真剣に神のみことばを慕い求めたことから始まります。ルターは聖書の教えを理性によって体系化することを極度に嫌いましたが、多くの学者は、彼の神学の中心に、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(45:15)というみことばがあると言います。ルターは、目に見える悲惨な中で、神がご自身を隠しておられるという現実に絶望しながら、みことばをとおして救い主キリストに出会い、慰めを受けました。そのような体験を踏まえて、彼は、「信仰がとらえているキリストは、くらやみの中に座しておいでになる」と言いました。そして、実際、イエスが十字架にかかったとき、多くの人々は、「今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから・・」と嘲りましたが、ローマの百人隊長とその仲間は、「この方は、まことに神の子であった」と告白しました(マタイ27:42,54)。目に見える現実に神の救いを求める人は、十字架にかかるキリストに躓きます。しかし、自分の惨めさに嘆く人は、十字架のキリストによって罪の赦しの確信を受け、「鷲のように翼をかって上って行く」(40:31)という歩みに入れていただけるのです。

1.「主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされる」

「天よ。歓喜せよ。主(ヤハウェ)は行われた。地の底よ。叫べ。山々よ。歓喜の声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちにその栄光を現わされるからだ」(44:23)とは、主の救いのみわざを、天も地も山々も林も、全被造物が喜び歌う姿です。私たちは神の救いのご計画をあまりにも小さくとらえてはいないでしょうか。J.S.バッハはクリマスオラトリオの最初で神の御子の驚くほど貧しい誕生を告げる福音書の朗読の前に、この箇所のみことばを、テインパニ、トランペットなどとともに壮麗な喜びの歌として表現しています。神の御子の貧しさ、地上の私たちの貧しさ、そのすべては、天上に響く喜びの歌声の下で一時的に起こっていることに過ぎません。全世界の創造主の驚くべき偉大な創造とあがないのみわざの中で、このつかの間の私たちの地上の人生を見るということこそが福音の核心です。神の救いは、やがて、誰の目にも明らかなものとされるからです。

 4424節は、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」という書き出しとともに、その方は、あなたを贖い、母の胎内にいる時から形造られたと紹介され、その方のことばが、わたしは、主(ヤハウェ)。万物を造った者。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げたと記されています。

そして、主は、「空しく語る者のしるしを破り、占い師をあざけり、知恵ある者を立ち返らせ、その知識を愚かにする」(44:25)と言われます。「空しく語る者」とは偽預言者を指していると思われます。神は彼らと占い師を同列に扱います。彼らは過去のできごとを調べ、そのときに平行して起こった様々な自然現象などを調べ、同じことが自然の中に見えたら、それを予兆のしるしとして宣伝します。しかし、「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな。見よ。わたしは新しいことを行う」(43:18,19)と言われる主は、それらの体験に基づく「しるしを破り、占い師をあざけ」られるというのです。それと同時に、「知識ある者を立ち返らせ、その知識を愚かにする」という表現は、神がこの世の知者の高慢を砕くことによって彼らを創造主のもとに導くという神の招きとも理解することができます。このみことばをもとに、後にパウロは、「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Ⅰコリント1:27)と言ったのではないでしょうか。

それと同時に、主は、「主のしもべのことばを立たせ、使者たちの計画を全うさせる(44:26)と、ご自身が預言者にことばを授け、それをご自身が成就するという原則を強調されます。主ご自身が、ユダの町々の再建、廃墟の復興を導き、帰還を妨げる「淵」「川々」を支配しておられるのです(26,27)。その上で、この約150年後に現れることになるペルシャの王「クロス」が、第一には、わたしの牧者、わたしの望みをみな全うする(44:28)者として紹介されます。そして、ここで、エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う」とは、主のしもべとしての預言者のことばであると同時に、主が語らせたクロスのことばとしても解釈できます。事実、エズラ記の初めには、エルサレム神殿の再建は、エレミヤ預言の成就であるとともに、ペルシャの王クロスが主(ヤハウェ)のことばでもあることが次のように記されています。ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。『ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた・・・』」(1:1、2)

イザヤは、北王国イスラエルがアッシリヤ帝国に滅ぼされた直後、ユダとエルサレムも国を失う苦しみを通して回復されるという希望を告げますが、不思議にもここに、百五十年後に登場するペルシャ帝国の王の具体的な名が記されます。多くの学者は、これを記したのはイザヤよりずっと後の人物であると言い切りますが、そのような一見合理的な解釈は、この預言を無意味なものにします。しかも、ここには「クロス」という王の名の他は、具体的な救いのプロセスは何も記されていません。後の時代の人なら、もっと別の書き方ができたのではないでしょうか。しかも、現実には、ユダヤ人はエルサレム神殿を失いバビロンに捕囚とされるという絶望を通して神の民として整えられました。それは、彼らが、自分たちを具体的に救ってくれたクロス大王の背後にイスラエルの神、主(ヤハウェ)を認めることができたからです。それは、イザヤの預言があったからこそ可能になったとはいえないでしょうか。

2.「あなたにわたしは力を帯びさせる。あなたはわたしを知りはしないが」

451節では、主(ヤハウェ)は、油そそがれた者クロスにこう仰せられたと記されます。そして、クロスについての説明が、彼の右手をわたしは握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの武装ベルトをほどき、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにすると描かれます。彼はペルシャの王であり、異教徒であり、偶像礼拝者です。その彼を、主ご自身が世界の王としての任職の油を注ぎ、彼を通して世界を支配するというのです。

2節から7節は、(ヤハウェ)ご自身からクロスへの語りかけのことばです。その第一は、わたしが、あなたの前を進む。険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る」と、クロスの進軍の道を開くということです。そして、第二は、秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える」というものです。そうされるのは、それは、あなたが知るためだ。『わたしは、主(ヤハウェ)。あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神である』と」とあるように、主ご自身がクロスの名を呼んで召し出したこと、また主がイスラエルの神であるということを、クロス自身が認識できるようになるためだというのです。つまり、主は、イスラエルを救い出すという目的のために、クロスの名を呼ぶのです。しかも興味深いことに、「あなたはわたしを知りはしないが」45節で繰り返しながら、「あなたに肩書きを与え・・力を帯びさせる」と言われます。つまり、クロスは、最初、自分が誰によって立てられ、誰によって力を与えられているかをまったく知らないままに主の働きのために用いられているというのです。

たとえば、自分の生涯を振り返るとき、私が主を知る前から、主が私の名を呼び、私を導き、私を通してご自身のみわざを進めておられたと思うことがあります。つまり、不信仰な者をさえ、主は用いることができるのです。私たちの信仰とは、その事実に気づくということに他なりません。そこに主のみわざの目的があるということを、主は、それは、日の上るところから沈むところまで人々が知るためだ。わたしのほかには、だれもいないことを。わたしは、主(ヤハウェ)。ほかにはいない」(45:6)と言っておられます。歴史は、主のご計画通りに進んでいます。やがて、全世界が主を認めるようになります。そのとき、私たちは知らずに主のみわざに参画させられていたのか、それとも、主のご計画を心から喜びながら自分自身の心と体を主体的にささげながら主のみわざにあずかっていたのか、それが問われます。大きな主のご計画の中に、自分から主体的に身をあずけることができるのは幸いです。

多くの信仰者は、「私は信仰が弱いから、主は私を用いることができないのでは・・・」と自分を卑下しますが、信仰の出発点とは、バプテスマのヨハネが言ったように、「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」ということを信じることです(マタイ3:9)。自分の信仰に頼るのではなく、力を抜いて主の真実にゆだねること、自分を忘れることこそが出発点です。

また、自分の信仰如何に関わらず、主のみわざが進むということを知るとは、この世界が自分の期待通りには進まないことを受け入れることでもあります。そのことを、主ご自身が、光をわたしは造り出し、やみを創造し、平和をもたらし、わざわいを創造する。わたしは、主(ヤハウェ)、これらすべてを成す者(45:7)と言われます。

興味深いのは、「やみ」「わざわい」に関して、同じく「創造する」ということばが用いられていることです。つまり、私たちの人生が期待通りに進まないのは、私たちの拝む神が無力だからでも、また、私たちの祈りが弱すぎるせいでもないのです。しかし、この神のご支配の現実を受け止めるとき、私たちは、明日の自分に何が起こるかを知らなくても、明日を支配しておられる主ご自身が、この私を高価で尊いものと見てくださるということに信頼することができるので、目の前の「やみ」「わざわい」の中でも、誠実な生き方を全うする勇気を持つことができます。

また、これは同時に、これは私たち自身がイスラエルのように罪深く、自業自得で苦しみに会っているとしても、主は、クロスのような異教徒を用いてさえ、私たちを救い出すことができるということを信じることでもあります。

信仰の有無に関わらず、病気や事故に会う確立は変わらないかもしれません。違いが現れるのは、わざわいに会った後のことです。全能の神に信頼している者は、そのわざわいも神の御手の中にあって起こったことと受け止め、神がすべてを益に変えてくださることに信頼して、そこで自分のなすべきことを、黙々と行うことができます。

3.「まことに、あなたは、ご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」

天よ。上からしたたらせよ。雲よ、正義を降らせよ。地よ、開け、救いを実らせよ。正義も共に芽生えさせよ。わたしは、主(ヤハウェ)、これを創造した(45:8)とは、主ご自身が、天と地に語りかけて、イスラエルのために救いを、そして正義を実現してくださるということです。主ご自身が、この地に正義と平和を実現してくださいます。ですから私はこの世の様々な不条理にいきり立って、不条理を引き起こす人々に怒りを燃やす必要はありません。

ところで、イスラエルの民が期待した「救い」は、ダビデのような王が再び現れ、自由と繁栄を実現してくれることでしたから、主が異教の王を用いてエルサレム神殿を復興するという解釈は受け入れ難いことです。それは、イスラエルがなおも外国の支配に屈するままに置かれることを意味するからです。しかし、そのような不満が起こり得ることを前提として、「わざわいだ。自分を造った方に抗議する者よ」(45:9)と記されます。私たちは陶器師である神の作品としての「陶器」「土の器のひとつ」に過ぎません。創造主の計画に抗議することは、「粘土」「形造る者に」「何を作るのか・・・あなたの作った物には、手がない」と言うのと同じように愚かなこと、また、子供が父や母に、「どうして私を産んだのか・・・」と抗議することと同じく無意味な疑問です(910節)。

私たちも自分の体型や性格を、神の失敗作と見ることがあるかもしれません。しかし、レーナ・マリヤさんは、両手と片足がないまま生まれてきたのに、詩篇13914節をもとに、「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました(I praise you, because I am fearfully and wonderfully made」と心の底から創造主を賛美しています。そして、そのような彼女の信仰は、障害児の誕生を神のみわざとして喜んだ母から受け継いだものです。

この世では、必ず、期待外れのことが起きます。自分だけが無事安泰で、何のわざわいにも会わないことを神に一方的に期待するということ自身が、「わざわいだ!」と非難されることかもしれません。もちろん、ヨブのように激しい苦しみの中で神に向かって、「なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか」(ヨブ10:18)と訴えることも神に受け入れられます。しかし、「こんな不条理を許す神など信じてやるものか・・」というのは傲慢に他なりません。

45章11節では、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。―この方は、イスラエルの聖なる方、これを形造った方―」と説明されながら、主がイスラエルに向かって、「わたしの子らについてこれから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか」と非難しておられます。これは、自分たちの将来のことをあれこれ詮索して、占い師に尋ねるように神の答えを必死に求めることの愚かさを指しています。

神戸ルーテル神学大学の鍋谷教授は、イザヤ書の核心は、6章の「心をかたくなにするメッセージ」にあると言われます。イザヤは、「だれを遣わそう」という主の招きの声に、「ここに、私がおります。私を遣わしてください!」と応答しますが、そこで命じられたのは、民に向かって、「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」という不思議なことばを語り続けることでした。そのことばの意味は、イスラエル王国とエルサレム神殿が滅びて始めて理解できるというものでした。私たちも、キリストの十字架の意味が本当の意味で心に響いてくるのは、自分の惨めさと真正面から向き合ってはじめてと言えましょう。福音は、明瞭な言語で語られる必要があるのですが、しばしば、理性には、「言語明瞭、意味不明」としか響きません。それでその人は、ますますみことばに反するように、自分の従来の生き方を貫こうとするのですが、それが行き詰まったときに、ふと、みことばが心の底に響いて来ます。私たちにはそれがいつ起こるかなどわかりませんから、時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝え続けるのです。

 私たちは、時が来るまでは、神のみこころを知ることができませんが、主はすべてを支配しておられます。そのことを主は、「このわたしが、地を造り、その上に人間を創造した。わたしは、この手で天を引き延べ、その万象に命じた。このわたしが、義によって彼を奮い立たせ、彼の道をみな、平らにする。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、わいろによってでもない」と言われ、最後に、「そのように、万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」と、そのような告げられた神の力を強調されます(45:12、13)。イスラエルは、ただ、主が異教の王のクロスを用いて「捕囚の民を解放する」という期待はずれの救いを受け入れるしかありません。しかも、そこに何らかの裏取引があるわけもなく、すべては主のみこころのままに進んでいるというのです。

4514節では、エジプトやその南のクシュとセバがイスラエルに服従する様子が語られます。これはイスラエルが北からのアッシリヤやバビロンの攻撃に対して、常に、南のエジプトの力に頼ろうとしていたことの愚かさを指摘する意味があります。彼らはそのときエジプトを自分たちの救い主かのように求めたのですが、エジプトの方から反対に、「神はただあなたのところだけにおられ・・・ほかに神々はいない」と告白するようになるというのです。

その上で、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(45:15)という不思議な記述がなされます。エルサレムの再建は、人間の目には、ペルシャ王クロスの働きであって、主の救いとは見られないからです。同じようなことが私たちの日常生活に起きています。主は、ご自身をこの世で起こる様々な出来事の背後に隠しておられます。ですから、人々が「神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのか・・・」と思うのは当然です。そのような中で、人々は偶像礼拝に走りますが、彼らは恥を見ることになります。

なお、「神はただあなたのところだけにおられ」とは、神の存在は、神の民を通してしか認められないという不思議を現すものでもあります。たとえば、ハワイのモロカイ島には、今から百三十年余り前、ハンセン氏病の方が隔離されていましたが、そこにダミアン神父がひとりで入り込み、彼らの世話を始めました。彼はやがて自分自身が感染しますが、それによってかえって、この働きに献身する人々が次から次と起こされました。その島を後にアメリカの小説家スティーブンソンがこの島を訪ねたとき、このような詩を残しました。

「ライの惨ましさを一目見れば、愚かな人々は神の存在を否定しよう。

しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう」

つまり、「ご自身を隠す神」は、カトリックのシスターを通してご自身を現しておられたのです。このとき、神の栄光は、世界から不条理な病や悲惨がなくなるということよりは、自分の利害を超えて人に尽くすことができるという心に現されていました。世界が自分にとって都合良く動いて欲しいと願う中から、際限のない自己主張と争いが生まれますが、まわりの状況に左右されない心の平安からは、この地の平和が始まります。

「まことに、あなたはご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」というみことばは、旧約と新約をつなぐ鍵です。イエスを十字架にかけた人々は、ローマ帝国の支配に不満を覚え、目に見えるダビデ王国の実現を待ち望んでいた人々でした。イエスを支持していたユダヤ人の群集も、イエスが無抵抗にローマ総督のもとに引き出されたこと自体に失望し、それが怒りに代わって、「十字架につけろ!」と大合唱をしました。イエスがダビデの子なら、ローマ帝国からの独立運動を導く勝利者になるはずだと思われたからです。当時の人々が、神は異教徒の国、ペルシャ帝国の大王クロスを用いてエルサレムを復興したということを心から理解していたなら、その後、ローマ帝国に逆らう独立戦争を起こしはしなかったでしょうし、ユダヤ人が二千年間の流浪の民になる必要もありませんでした。人の心の中に生まれる理想は、しばしば、絶え間のない争いの原因になります。宗教戦争も、そこから生まれます。私たちも、今、ここで、期待はずれのままの現実に中に、神の救いを見出すことができるなら、この世界にさらなる争いが起きるのを防ぎ、私たちのまわりに神の平和が広がるのを見ることができるのではないでしょうか。

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2010年6月 6日 (日)

イザヤ43:14-44:22「見よ。新しい事をわたしは行う」

                                          201066

私たちの喜びは、この礼拝のただなかにあります。今、この場が、目に見えない神の恵みに包まれています。

そのように考えることは、現実逃避ではありません。全能の神が働いておられても、人生には厳しい時があるということには変わりがないからです。ここで今、私たちは神の臨在を心から喜ぶことができます。しかも、人生を襲う様々な困難は、神の臨在の現実を失わせるものではありません。人生には、死の影の谷を歩むとき、黒い雲に覆われていると思えるときが必ずやって来ます。しかし、厳しい現実は、私たちの神への信頼を揺るがすことはできません。なぜなら、苦しんでいるそのただ中に、神は私たちとともにおられ、道を開いてくださるからです。そして、その暗闇の中で響いてくる主のみことばが、「見よ。新しい事をわたしは行う」という主の語りかけです。

1.「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」

主は自業自得で国を失い、自己嫌悪に苛まれ、絶望している民に向かって、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4)と言われました。イスラエルは、バビロン帝国とエジプトの間に挟まれ、人の目には、吹けば飛ぶような小国に過ぎませんでしたが、神はこの民を「主(ヤハウェ)の証人」として「かけがえのない」存在、また当時の最も豊かな文化国家エジプトよりもはるかに「重たい」存在であると断言しておられました。

その上で主は、不思議な救いのご計画を分かち合ってくださいます。「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」という表現は、4316節、442節、6節でも用いられますが、そのたびに、その方が、どのような方かが描かれます。

この14節では、まず、「その方は、あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方」と表現されます。主は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放してくださった方、また、この世を超越したという意味で、「聖なる方」と呼ばれます。そして、その救いのみわざが、「あなたがたのために、バビロンに使いを送り、彼らをすべて亡命者として下らせる。カルデヤ人をその歓喜の船から」と描かれます。この書が読まれたとき、イスラエルは国を失った捕囚の民、バビロンの情けでかろうじて生かされている亡命者の立場になっていましたが、その立場が逆転するというのです。カルデヤ人とはバビロンの中心的な民族で、彼らは「歓喜の船」に乗っているような気持ちでいましたが、そこから追い出されるような悲惨な状態に追いやられるというのです。そして、その根拠を、主は、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」(43:15)と述べておられます。

これらの箇所で、イスラエルやヤコブという名前を、自分と置き換え、バビロンやカルデヤ人ということばを、あなたを虐げ迫害している人々に当てはめると、この箇所の意味が、よりパーソナルに響くことでしょう。

  そして、再び、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」(43:16)と宣言されながら、主がかつてエジプトの軍勢を紅海におびき出し、絶滅させたことが、「その方は、海の中に道を、強い流れの中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出された。彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消えた」(43:17)と描かれます。 

その上で、主は、逆説的な意味で「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」(43:18)と言われます。神はイスラエルの民に、繰り返し、出エジプトの事を始めとする過去の偉大な救いのみわざを思い起こすように命じておられましたから、この命令はまったく意外なものです。「柳の下に二匹目のどじょうを探す」というような笑い話だったら良いのですが、彼らは過去の成功に奢り高ぶって国を滅ぼそうとしていました。たとえば、エルサレムがアッシリヤに包囲されたときに、神が包囲軍を混乱させ、奇跡的に撤退させてくださいましたが、彼らは同じことがまた起きると期待して、神のさばきという現実を見ようとしなくなっていました。これは、日本の神風神話と同じです。

しばしば、過去の成功談は偶像化されて、人を失敗に導きます。「失敗は成功のもと」と言われる以上に、「成功は失敗のもと」になることをいつも注意深く現実を見る必要があります。私たちは、常に、神の救いのみわざは、毎回、ユニークなもので、パターンが違うということを覚えなければなりません。それどころか、神がこれからもたらしてくださる救いは、それまでの成功も苦しみも色あせて見えるほどに奇想天外な偉大なものだというのです。

そのことを、主は、「見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか」(43:19)と言われました。私たちは、過去の体験に基づく自分の期待から心が自由にされるとき、日々の生活の中に、常に、何か、新しいことの芽生えを見つけることができます。そして、このとき彼らはバビロンの向こうに、強大なペルシャ帝国の出現の前触れを見ることができました。しかし、彼らは南の大国エジプトの政治情勢にばかり目が向かっていました。イスラエルの民は、エジプトから解放されるときは、海が真っ二つに分かれましたが、このとき彼らはバビロンに捕囚とされており、彼らの帰還を妨げたのは、起伏の激しい、水のない荒野でした。

それを前提に、主は、「確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも。荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ」(43:19、20)と、荒野や荒地の中に、約束の地への帰還の道を開くことを保障してくださいました。なお、「ジャッカル」も「ダチョウ」も忌み嫌われた動物の代名詞のような存在でした。「ジャッカル」は山犬とも訳されますが、少数の群れをなして歩き回り、他の動物が食べ残したものをあさって食べる臆病な動物でした。「ダチョウ」は、自分で産んだ卵を置き去りにし、そのひなは別の孵化しない卵を餌として育つという無慈悲で貪欲な動物の代名詞でした。両者とも廃墟を住処としていました。つまり、そんなのろわれた動物さえも神の救いにあずかるというのですから、神に選ばれた民であるイスラエルが救いにあずかるのはなおさらのことであるというのです。そして、そのことが、「この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」(43:21)と描かれています。

2.「イスラエルよ。あなたはわたしに疲れていた」

ところが、何とも驚くべきことに、「しかしヤコブよ。あなたが呼んだのはわたしではなかった」(43:22)と、彼らが別の神々に救いを求めたことが非難されます。彼らは、周りの国々の神々をも並行して礼拝することで、近隣諸国との融和を目指したのです。これはあらゆる神々のご機嫌を取ることで争いを避けようとする日本人の発想と同じです。しかし、それは、ふたりの女性を同時に愛そうとする愚かな男と同じです。最初は刺激的なのですが、どちらからも不満を述べられ、それがどんどん重荷となってきます。

その様子が、皮肉をこめて、「イスラエルよ。あなたはわたしに疲れていた」と描かれます。これは新共同訳の「あなたはわたしを重荷とした」に近い訳です。「あなたはわたしを疎んじた」の方が分かり易いのですが、同じ言葉を用いながら、主は、「穀物のささげ物のことで、あなたにわたしは苦労をさせてはいない。乳香のことで、あなたを疲れさせてもいない・・・かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの咎で、わたしを疲れさせただけだ」(43:23,24)と言いながら彼らを非難しているからです。イスラエルが主への礼拝が重荷になったのは、決して、主からの要求が厳しかったからではありません。彼らは、別の神々に向かって、「全焼のいけにえの羊」をささげ、その神々の心を満足させようとしていたために、主への礼拝がなおざりになってしまっただけなのです。

イエスも、私たちに向かって、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と警告しつつ、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と断言してくださいました。たとえば、日曜日は、主を礼拝するためにあると心で完全に決め、また、収入の一定額は必ず献金すると決めてしまうと、意外に、礼拝することも献金することも、ほんとうに自然に、楽に行うことができます。しかし、優先順位が定まっていないと、「この時間に、これができていたら・・・」とか、「このお金で、あれが買えたのに・・・」などと心が分かれて、すべてが重荷になってしまいます。そして、主から、「・・・・よ。あなたはわたしに疲れていた」などというご指摘を受けることになります。

しかし、「わかっちゃいるけど、やめられない・・・」というのが人間の現実です。悪循環に陥っているときに正論を言われても、ますます、それがまた、「疲れ」になってしまいます。それに対して、主はご自身が一方的に、彼らを新しくするということが、「わたし、わたしがそれだ、あなたのそむきをわたし自身のために拭い去る者。もうあなたの罪を思い出さない」(43:25)という圧倒的な恵みとして宣言されます。

神は決して、正論を立て続けに述べて私たちを自己嫌悪に陥れ、生きる気力をなくしてしまうような方ではありません。神の民を滅ぼしてしまうことは、神にとって取り返しのつかない損失となります。だからこそ主は、「わたし自身のために」と強調しておられます。私たちの側に、聞く耳があるとか、謙遜にされているとかいう理由があるのではありません。神は、救いに値しないものに格別な恵みを施してくださるのです。

しかし、それは私たちの誇りを傷つけるものです。私たちは、自分の側に救いを受ける正当な理由、「正義」があるということを主張したくなります。それに対し、主は、「わたしに思い出させよ。共にさばきに向き合おう。あなたが宣べてみよ。自分を正義とするために」(43:26)と問いかけます。その上で、本来、正当な原因結果の理屈から言えば、エルサレム神殿が滅びたままにされるのが当然であるということを、「あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの仲介者たちは、わたしにそむいた。それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブを聖絶に、イスラエルが罵られるままにまかせた」(43:27、28)と言われます。

そして、主ご自身の主導によって、私たちを内側から変えてくださるという約束が、慰めに満ちた語りかけとともに、「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。―あなたを造り、母の胎内にいる時から形造ってあなたを助ける方はー『恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。潤いのない地に水をわたしは注ぎ、かわいた地に豊かな流れを起こす。わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福を子孫に注ごう』」(44:1-3)と告げられます。「エシュルン」とは、申命記32:15に最初に出てくるイスラエルの民への愛称です。これは本来、「正しい者」という意味で、不道徳に満ちたカナンの中にあって、主の正しさを証するために選ばれたという思いがこめられています。しかも、ここでは、神が、「わたしの霊をあなたのすえに・・注ごう」と、聖霊降臨の約束まで記されています。私たちの心は、「潤いのない地」で干からびてしまうことがありますが、神の霊を受けた者は、「彼らは青草の間に芽ばえる。それは流れのほとりの柳の木のようだ」(44:4)というみずみずしい状態が保たれるというのです。これらの約束が、今、私たちの上に実現しています。

私たちは親の世代から受け継いでいる様々な生きにくさを抱えています。自分で自分を変えようと頑張ってみては、失望することの繰り返しです。しかし、主ご自身が、私たち一人ひとりを、母の胎内で形造ってくださいました。主は、あなたの弱さ、罪深さをすべてご存知です。私たちはですから、神のさばきを恐れる必要がありません。この「ヤコブ」という名の代わりにあなたの名を、「エシュルン」という呼び名の代わりにあなたの愛称を入れてこれを読み、主の祝福が一方的にあなたに注がれる様子をイメージしてみましょう。

そして、「潤いのない・・かわいた地」のような神の民の心が生き返って、神の民としての喜びと誇りに満たされるということが、「ある者は『私は主(ヤハウェ)のもの』と言い、ある者はヤコブの名で自分を呼ぶ。ある者は手に『主(ヤハウェ)のもの』と記し、イスラエルの名を名のる」(44:5)と描かれます。私たちも自分を「主(ヤハウェ)のもの」と言いながら、神の御子キリストの呼び名を持って、自分をクリスチャンと呼ぶことができるようになっています。

3.「わたしは、初めである。わたしは、終わりである。わたしのほかに神はない。」

  そして、今、私たちに求められる最も大切な行いは、主に対する自分のイメージを変えることです。私たちの主がどのような方かを聖書のみことばから理解し、主の御名を呼び、主にすがることです。あなたにできないことを、主は可能にしてくださいます。そのことは、何よりも、歴史の中で、イザヤの預言はひとつひとつ成就しているということから明らかになります。そのことを覚えながら、以下の主の語りかけを味わってみましょう。

 「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。―イスラエルの王、これを贖う万軍の主(ヤハウェ)はー『わたしは、初めである。わたしは、終わりである。わたしのほかに神はない。だれが、わたしのように呼ばわり、告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。わたしが永遠の民を起こしたときからのことを。未来の事、来たるべき事を彼らに告げさせてみよ。おののくな、恐れるな。もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたは、わたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない』」(44:6-8)

 当時の人々の目には今にも滅びるように見えているイスラエルの民が、「永遠の民」また「わたしの証人」と呼ばれているのは何とも不思議です。これは、現在の私たちひとりひとりに適用できる語りかけのことばです。だからこそ、「おののく」ことも「恐れる」ことも必要ありません。未来を支配する神が、あなたを守り通してくださいます。

その上で、主は、同じく神と呼ばれる別の神々を拝むことの愚かさを、現実に即し、生き生きと表現しています。これはほとんど解説が必要のない描写だと思われます。

「偶像を造る者はみな茫漠としている。彼らの慕うものは何の役にも立たない。それら自身が証人だ。見ることも、知ることもできない。ただ恥を見るだけだ。

だれが、神を造り、偶像を鋳たのだろうか。それは何の役にも立たない。見よ。その仲間たちはみな、恥を見る。細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。

鉄で細工する者は切削具を用い、炭火と金槌で働き、これを形造り、力ある腕で働く。腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れる。

木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に、人間の

美しい姿に造って、神殿に安置する。自分のために杉の木を切り、また、柏や樫の木を選んで、林の木の中で自分のために守る。月桂樹を植えると、大雨が育てる。

それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、さらに、これを燃やしてパンを焼く。また、これ

で神を造って拝み、偶像に仕立て、これにひれ伏す。半分を火に燃やし、この半分で肉を食べる。 あぶり肉をあぶって満腹し、また、暖まって言う。『ああ、暖まった。炎が見えた』と。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って言う。『私を救ってください。あなたは私の神だから』と。

それらは知りもせず、見分けもしない。その目はふさがって見ることもできず、その心もふさがって悟ることもできない。心を振り返ることもなく、知識も英知もないので、こう言うこともない。『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の産物の前にひれ伏すのだろうか』と。灰を飼う者の心は欺かれ、惑わされ、自分のたましいを救うことはできず、言いもしない。『この右手に偽りがないだろうか』と。

そして、主は最後に、「これらを覚えよ。ヤコブ。イスラエルよ。あなたは、わたしのしもべ。あなたをわたしが造り上げた。あなたは、わたしのためのしもべ。イスラエルよ。あなたは忘れられることがない。あなたのそむきを雲のように、罪をかすみのように拭い去った。わたしに帰れ。あなたをわたしが贖ったからだ」 (44:21、22)と語りかけられます。あなたは、主から「忘れられることがないのです。私たちの側から主を忘れることがあっても、主は、私たちを「恩知らず」とさばく代わりに、「わたしに帰れ」と優しく語りかけてくださいます。私たちの信仰は、自分から始まったものではなく、すべて、主のめぐみのみわざなのですから。私たちが自分で自分を罪の奴隷状態から購ったのではなりません。すべてはイエスの十字架のみわざによって成し遂げられたことでした。

ドン・モーエンは、ある夜、妻の母から電話を受けました。妻の妹とその夫が、恐ろしい交通事故に会い、九歳になる長男ジェレミーが命を失い、他の三人の子も重症を負ったとのことでした。彼は無力感に圧倒され、心に浮かぶどんなみことばも慰めにならないと思えました。そのとき、彼らのために祈る中で、神はひとつの歌をお与えくださり、彼はそれを書き留めました。「神は道を造られる。道が何もないように思えるところにも。神は、私たちが見えない方法で働かれる」それこそ、私が妹夫婦に語りたかったことでした。神は、絶望の中に希望を生み出すことができる方です。この歌詞は、イザヤ43:18-21を元にしています。あなたにも、「神は私をお忘れになった!」と思えるようなときが来るかも知れません。しかし、神は私たちを決してお忘れにはなりません。それは、「あなたは、わたしのしもべ・・あなたは忘れられることがない」(44:21)と言われているとおりです。神はあなたを見捨てず、あなたを離れはしません。人生が順調なときには、「これは私が成し遂げた・・」という気持ちになりがちなものです。しかし、「もう道がない・・・」と思えるときこそ、主が道を開いてくださるという恵みが見られるチャンスなのです。

God will make a way, where there seems to be no way.

神は、道を造ってくださる。 道が何もないと見えるようなところにも。

He works in ways we cannot see, He will make a way for me,

神は、私たちが見えない方法で働かれ   私のために道を作ってくださる。

He will be my guide, hold me closely to His side,

神は、私の導き手であり、 私をご自身のふところに抱いて、

with love and strength for each new day,

愛と力を 日々新しく与えてくださり、

He will make a way,   He will make a way,

神は道を造ってくださる。   神は道を造ってくださる。

by the roadway in the wilderness He lead me

神が荒野の道に私を導かれることがあっても、

Rivers in the desert will I see;

私は砂漠の中に川を見ることができる。

Heaven and earth will fade, but His word will still remain,

やがて、この天と地は滅び失せる。しかし、神のみことばは永遠に残る。

He will do something new today.

神は、今日も、何か新しいみわざをなしてくださる。」

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