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2010年7月25日 (日)

イザヤ47章1節~48章11節「破滅への道と祝福への道」

                                               2010年7月25

 米国滞在中にシリコン・バレーの大手企業に働く当教会員の夫N兄のオフィスを見させていただきました。その企業は20年前に株式が上場されたばかりですが、現在は四万人の従業員を抱え、インターネットシステムのインフラ装置を供給する世界最大の会社です。興味深かったのは、30もの建物が、極めて簡素に、何の特徴もなく同じように建てられていることでした。それは、いつでもオフィスビルを手放し、売却できる備えのためであるというのです。彼らは20年後にも自分の会社が安泰であるなどという幻想は持っていません。そこにアメリカの活力を感じました。今日の箇所には、「楽しみにふけり、安心して住み、『私だけは特別だ・・』と言う者」の破滅が宣告されています。自分の人生の土台が、神の御心しだいで一瞬のうちに崩れ得るということを知ることは、何よりも大切な知恵ではないでしょうか。N兄はリージェント・カレッジで神学を学んだ後、この一見、無関係な仕事に着いていますが、彼は聖書を学んだおかげで、人の顔色を伺うことなく、大胆に自分らしく生きることができるようになったと言っていました。また、どんな過ちを犯しても、そのたびに主に告白し、新たな出発ができるようになったと言っておられました。私たちの人生を導いてくださる神を知ることこそ、明日何が起こるかわからない世界で働く最大の基盤になります。なお、詩篇407節に、「巻き物の書(聖書)私のことが書いてあります」とありますが、私は聖書に私個人の失敗や挫折、そして希望、私に対する神のご期待が書いてあることが分かり、本当に気持ちが楽になりました。それと同時に、何度失敗しても、神との対話のうちにやり直す勇気と力をいただくことができています。

1.「私たちを贖う方、その名は万軍の主(ヤハウェ)、イスラエルの聖なる方」

47章は原文で、「下って、ちりの上にすわれ」という命令から始まっています。それは創造主を忘れて自分の力を誇っているすべての者への語りかけと言えましょう。「バビロンの娘」「カルデヤ人の娘」も、自分たちの栄華を誇っているバビロン帝国の貴族たちを指しています。主は彼らに、「王座のない地にすわれ・・・もうあなたは二度と優しい上品な者とは呼ばれないからだ」と言われます。人は、一時的に没落しても、復活できるという希望に生きていますが、主はバビロンの貴族たちに永遠ののろいを宣告しておられます。

そして、その彼らの永遠の没落のことを、神は当時の人々にわかりやすいように、「ひき臼を取って粉をひけ」と、女奴隷の仕事に落とされることとして描きました。「顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねをだし、川を渡れ(47:2)とは、それまでベールをかぶりロングドレスを着て、台座に載せられて運んでもらっていたときとの対比です。また、「あなたの裸は現れ、その恥もあらわになる」とは女性としての尊厳が奪われる様子を表しています。

これらはすべて、エルサレムを廃墟にしたバビロン帝国へのさばきですが、そのことを主は、「わたしは復讐をする。だれひとり容赦はしない」(47:3)と言われます。ところがそこで突然、「私たちを贖う方、その名は万軍の主(ヤハウェ)、イスラエルの聖なる方」(47:4)と、主への賛美が記されます。当時の世界の人々にとって、エルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされたということは、エルサレムの神が無力な神であるという証拠になりました。しかし、主は、イスラエルを奴隷状態から「贖う」ことができる万軍の主、他に比類のない「聖なる方」であるというのです。

なお、当時の人々にとっての主の「救い」は、何よりも自分を虐げる者に、主が明確な復讐をしてくださることとして表現されました。イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われましたが、これは、「ドア・マットのように踏みつけられるままになりなさい」という弱者の道徳ではなく、神のご支配に信頼して、暴力の連鎖を断ち切ることを勧める勝利への道でした。実際、イエスの時代のユダヤ人過激派はローマ帝国に武力で対抗しようとして、二千年の流浪の民としての悲惨の道を開きました。しかし、ローマ帝国はその数百年後、イエス・キリストの前にひざまずくことになりました。

そして主は再び、475節で、バビロンへのさばきを、「もうあなたは二度と諸王国の女王と呼ばれることはないからだ」と宣告しながら、かつて神の民が彼らに屈服せざるを得なかった理由を、「わたしの民にわたしが怒り、わたしの嗣業をわたしが汚し、彼らをあなたの手にわたしが渡した」と、神の民、神の財産を、神ご自身がさばいた結果だと強調します。しかし、彼らは自分の力を誇り、イスラエルの民に無慈悲に振舞いました。そのことを主は、「あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた」と責めます(47:6)これが、主のさばきであるなら、バビロンにも同じ悲劇がもたらされる可能性があるのに、バビロンの貴族たちは、「『いつまでも私は女王でいよう』と言って、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった」というのです(47:7)

しばしば、日本の神学者は現在のアメリカの繁栄を滅び行く大バビロンにたとえて論じますが、今回、アメリカに少し旅してみて、日本の方がはるかに危ないと思いました。少なくともアメリカの大企業はいつの日か新興企業に追い抜かれる可能性を極めて現実的に見ているのに、日本には今なお、大企業に対する憧れとねたみが満ちています。どんな大企業も20年先はどうなるか分からないということを本当に知っていたとしたら、もっと日本の政治は危機意識を持って政治経済のシステムの改革を行うことができているはずではないでしょうか。いろいろマスコミがパニック的な危機意識をあおってはいますが、それは足の引っ張り合いを生み出す効果しか出ていないような気がします。そして、互いに批判し合いながら、何も改革が進まないというのは国の没落の何よりの兆候です。

どんなに強大な国も、大きな会社も、滅びるのは一瞬です。多くの日本人は、自分たちこそ社会の犠牲者であるかのように思っていますが、世界経済の均一化(グローバライゼーション)の影で、アジアやアフリカの貧困はますます深刻化していることを忘れてはなりません。多くの日本人は自分たちの知恵と力と勤勉さが現在の繁栄を築いたと自負していますが、多くのアジア諸国から見たら、日本は、第二次大戦のときもまたその後も、彼らの犠牲に上に繁栄を築いてきていると見られています。神は、何よりも人々の傲慢に対してさばきを下されます。貧しい国々の痛みを自業自得と軽蔑する者は、同じように、自業自得で滅びに向かいます。私たちは、創造主を忘れた日本のために、また貧しい国々のために、日本に住む者の代表者としてとりなしの祈りをする必要があります。

2.「『私だけだ。他にはいない』と言う者よ・・・わざわいがあなたを襲う」

「だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住み、心の中で、『私だけだ。他にはいない。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう』と言う者よ」(47:8))とありますが、これは455,6,18,21節で繰り返された神ご自身の宣言、「わたしは主(ヤハウェ)。ほかにはいない」ということばを、人間に過ぎない者が自分に当てはめ、自分を神の立場に置くという意味のことばです。それは1412-15節に記されたバビロンの王に対するさばき(サタンのことを示唆しているとしばしば解釈される箇所)に通じる表現です。

創世記によると人間の堕落とは、皮肉にも、高い所から低い所に「落ちる」というよりは、「神のようになり、善悪を知るようになる」ことを意味しました(3:5,22)。私たちは常に、いろんな意味で成長を目指すべきなのは当然なのですが、それが、「私だけは特別だ!」という意識につながるとしたら、それは創造主に逆らうという最も大きな罪を犯すことになります。たとえば、真の科学者や哲学者は、「研究すれば研究するほど、分からないことが増えてくる・・」と言います。真の成長とは、自分の限界を深く自覚することであるはずなのに、中途半端な成長は人を傲慢に導きます。パウロも、「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」と、人間の知識の限界を示しながら、「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」と、神への愛こそが何よりの人生の基礎となることを語っています(Ⅰコリント8:2,3)

神は、安逸をむさぼっているバビロンの女王に、「これら二つのことが一日のうちに、またたくまにあなたを襲う。子を失い、やもめになることが。」と、彼女の人生の土台がいかに脆いものかを指摘します(47:9)。その上で、彼女たちの宗教がそれに対して何の役にも立たないということを、「どんなに多く呪術を行っても、どんなに多く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを襲う」と、皮肉を込めて描かれます(47:9)。なお、バビロン帝国の遺産は、今も身近なところにあります。十二星座を用いての星占いは、この帝国に由来します。今も、「あなたの星座は、牡羊座ですね。今日のあなたの運勢は・・」などということばに耳を傾ける人が身近に数多くいますが、天体の法則を把握したと誇っていたバビロン帝国の中東支配はたった七十年間で終わり、史上稀なほどはかないものでした。

そして、彼らの愚かさが、「あなたは自分の悪の中で安心し、『私を見る者はいない』と言う」(47:10)と指摘されます。人は、誰も、自分が人から見られ、評価されていることを意識しているものです。そして、それが道徳的な制御力になります。日本的に言うと、「恥を知る」ということです。しかし、バビロンの貴族たちは、自分をこの世の価値観から超越したものとしてしまった結果、恥知らずな行動を取りながら、なお「安心して」いました。これはかつて、日本の軍隊の指導部が戦争中に従軍慰安婦などという恥知らずな残虐行為を行いながら、「神国日本は無敵である!」などと豪語していたことに似ています。そして、そのようになった原因を、神は、「あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた」と皮肉を込めて言います。中途半端な「知恵と知識」は、人間を傲慢にしてしまいます。

そして、彼らの傲慢さが再び、「そして、あなたは心の中で言う。『私だけだ。他にはいない』」と描かれます。それに対し先の場合と同じように、「しかし、わざわいがあなたを襲う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたに降りかかるが、避けることはできない。破滅は突然、あなたを襲う。それをあなたは知らない」(47:11)と、彼らの占星術の知識もありとあらゆる「まじない」も、何の役にも立たないということが指摘されます。

その上で、12節から14節において、バビロンの呪術師に対する皮肉が描かれています。神は今、東のペルシャ帝国を用いて、瞬く間にバビロン帝国を滅ぼそうとしておられますが、それを前提に、主は彼らをあざけりながら、「さあ、呪文や呪術の数々をもって立ち上がれ。若い時からそれを労してきたように。あるいは役立つかもしれない・・・さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。見よ。彼らはわらのようになり、火が彼らを焼き尽くす。自分のいのちを炎の手から救い出せない」と宣告されます。これは、今もバビロン由来の占星術を生業としている者に適用できるのではないでしょうか。

なお、「あなたに助言する者が多すぎて」(47:13)とは、多神教に対する最高の皮肉とも言えましょう。多くの神々を持つことと、自分を神とすることは相反するようで、同じことです。それは、自分を世界の中心において、自分に都合の良い教えだけを集め、自分の中で統合しようとする試みです。この世界はそのような勧めで満ちています。

あなたの周りにも、「あの先生はこう言っている、この先生はこう言っていた」などと多くの情報を知っていても、「では、あなたは・・」と聞くと答えに窮する人がいることでしょう。しかし、本当に必要な知識は、二つだけです。それは、「創造主を知ることと、自分を知ること」です。それが聖書に記されています。私が何よりもお分かちしたいと思っているのは、聖書を通して読みながら、そのストーリーの中で自分の人生をとらえなおすということです。いろんな先生の話を聞いても、自分で聖書を読み、自分で考えることをしなければすべては徒労に終わります。

ですから、「さあ・・・あなたを救わせてみよ」(13)という言葉は、この世の知者や哲学者に、「あなたを救わせてみよ・・・」という訴えとして適用することもできます。どんなにこの世を生きる知恵を習得しても、最終的な神のさばきの前では何の役にも立ちません。神の審判の炎は、身を暖める暖炉の火のようなものではないからです。

本当の知者とは、自分の無力さと愚かさを知っている人、イエス・キリスト以外に私たちを救うことができないということを知っている人、また、あなたにイエスご自身を指し示してくれる人です。この世には、いろんな助言者がいますが、神が遣わされる真の助言者とは、イエスがあなた個人の人生に表れてくださったことに気づくことを助け、あなたとイエスとの固有の出会いを深めることを助けてくれる人ではないでしょうか。

3.「今から、新しい事、隠されてきたことをあなたに告げよう」

48章の初めで、主がイスラエルに向けて、「これを聞け」という命令とともに、「あなたは・・・主(ヤハウェ)の御名によって誓い、イスラエルの神を告白するが、誠実をもってせず、また正義を持ってしない」と叱責しておられるのは、彼らが、自分たちが神の民とされていることに安住し、神の愛に応答する責任を忘れていたからです。今も、名前だけのクリスチャンと呼ばれる人々がいますが、そのような人に対する語りかけでもあります。

「先の事は、前からわたしが告げていた・・」(3)とは、イスラエル王国の没落からバビロン捕囚、またそれからの回復のすべてが、すでにレビ記や申命記に記されていたということを示しています。特にイザヤの活躍したダビデ王国の没落の過程では、ユダ王国の民は、アッシリヤ、バビロンやエジプトのような大国のご機嫌を取りながら、それらの大国の偶像にも敬意を払うようなことをしていました。バビロンの支配が広がるとバビロンの神が、ペルシャ帝国が支配権を持つと、ペルシャの神があがめられるというのは当時の世界の常識でした。それを前提に、主は、「あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とか言わせないためだ」(48:4,5)と、ご自分の預言の意味を説明されます。何よりも不思議なことは、イスラエルの民が、自分たちの神殿を破壊された後で、支配者の国々の偶像をあがめる代わりに、それを自分たちの神、主(ヤハウェ)のさばきとして受け止めたことです。それは、彼らが自分たちを襲うあらゆるわざわいが、すでにモーセの時代から警告されていたことの成就だと知ったからです。そして、「あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ」(48:6)とは、その事実を認めるようにとの迫りであり、また、「あなたがたは、告げ知らせないのか」とは、彼らがその後、自分たちの神、主(ヤハウェ)こそ、全世界の支配者、歴史の支配者であることを告げ知らせるべきであるとの勧めです。

そして、主は、「今から、新しい事、秘め事を聞かせよう。それらをあなたは知らない」(6)と言われます。これは、異教徒であるペルシャの王クロスによって救いをもたらすという不思議です。申命記304節などには、「たとい、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主(ヤハウェ)は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す」と記され、レビ記26章の終わりでも同じ事が示唆されていました。しかし、主がペルシャ帝国の王を動かしてそれを成し遂げられるなどとは、誰も予想もできないことでした。そのことが、「それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』と言わせないためだ」(48:7)と描かれます。なぜなら、そのような不思議な救いが意味あることばとしてイスラエルの耳に届く前に、彼らがエルサレムの滅亡を、イスラエルの神によるさばきであると心の底から反省することが必要だからです。私たちは過去を反省しながらも、未来については、先入観を持たずに神のみわざを期待する必要があります。

残念ながら、今も、「先の事」「新しい事」の区別がついていない人が多くおられます。私たちが歴史を通して学ぶことができるのは、失敗には共通の法則があるということです。しかし、過去の成功例を前提に将来のことを決めようとすると、時代錯誤な決断をして失敗をします。イスラエルの民が、神の救いのみわざが、日々新しいということを心から知っていたとしたら、イエスを十字架にかけることもなかったはずですし、ローマ帝国に無謀な戦いを挑んで、二千年間の流浪の民になることもありませんでした。それは、日本の第二次大戦の悲劇が、日露戦争に勝利したことに酔いしれたことから始まっているのに似ています。失敗の法則はすべての人に共通していても、成功の法則は、日々新しいということを忘れてはなりません。既成概念にとらわれている人は、時代の流れから取り残されてしまいます。今は特にそれが加速されています。それは、主が、「先の事を思い出すな。昔のことを思い巡らすな。見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている」(43:1819)と言われた通りです。

ただし、イスラエルの失敗は、主にとって想定外のことではありませんでした。そのことが、「あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった」との対比しながら、「確かにわたしは知っていた。あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを」と描かれます(48:8)。たとえば、人は何かの失敗をしたとき、「私としたことが・・・」とか、「やはりあの人は・・」などと失望しますが、私たちの反抗は神にとって意外なものではなく、それによって神のご計画が無に帰することはありません。

しかも、神は、神の民に向かって、「わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のためにこれを押さえ、あなたを断ち滅ぼさなかった」(9)と言われます。それは、彼らの存在を無くしてしまうなら、世界の人々は神を知ることができなくなるからです。同じように、主は今も、キリストの名をもって呼ばれる私たちのことを、守り通してくださいます。神は私たちをご自身に立ち返らせるために、ときに応じて適度な試練を与えます。人は、自分で痛い目に会うまで、生き方を変えようとは思わないのが常だからです。しかし、恐れる必要はありません。私たちが主にすがっている限り、主はご自身の栄誉のために私たちを守り、助けてくださるからです。

そして、主は、「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う」(48:10)と言われます。銀の場合は溶けますが、主は私たちをそこまでは溶かしません。そのことが、「わたしは悩みの炉であなたを試みた。わたしのために、わたしのためにこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を他の者に与えはしない」(10,11)と記されますが、神はイスラエルが苦難を通して神に立ち返り、それによって神の栄光が全世界であがめられることを願っておられました。なお、神の救いのご計画は、私たち自身のしあわせというより、神ご自身の栄光のためにあるということは、なかなか理解しにくいことです。しかし、それこそ、私たちが自分自身から自由にされる道、神の平和が世界に広がる道なのです。自分の幸せばかり求めている人には神が見えなくなります。なぜなら、目の前には不条理が消えることがないからです。しかも、私たちの信仰の程度に応じて、神は幸せを与えてくださるはずだなどと思い込んでいると、まじめに自分を振り返る人ほど息が詰まってしまうことでしょう。しかし、神が、私たちの状況に無関係に、ご自身の理由で私たちを守りとおしてくださるなら、希望を持つことができます。

 主の祈りの第一は、「あなたの御名があがめられ(聖とされ)ますように」というものです。私たちが神のあわれみなしに生きて行けると思うことこそ、もっとも神を侮辱することです。自分を神のようにして、心の中で、「私だけだ。他にはいない」と言っていたバビロンはまたたくまに滅びました。バビロンで発達した占星術は何の役にも立ちませんでした。それは、明日のことは誰にもわからないということの何よりの証拠になっています。一方、私たちの犯す様々な罪や、失敗は、私たちの創造主にとっては何の意外なことでもありません。私たちが自分の愚かさや弱さを認め、主の前に謙遜になることこそ、主の御名が私たちの心の中で聖とされることの始まりです。その意味で、私たちは自分の人生が順調と思うときこそ、危ない所に立っていると言えましょう。彼らは神を求めなくなるからです。しかし、主は、心の中で主の御名があがめられている者の生涯を、守り通し、祝福してくださいます。

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2010年7月 4日 (日)

エペソ4章11-32節「愛のうちに建てられる交わり」

                                                20107月4日

相撲界の野球賭博が話題になっていますが、張本人の親方が、淡々と事実を語っているのに驚かれた方も多いことでしょう。あの親方は明らかなギャンブル依存症だと思われます。自分でブレーキをかけることができなくなっていたので、外側から追い詰められることで意外に心が座ってきたのかもしれません。私たちはこのように自分で自分を律することができなくなっている人に、ありとあらゆる警告や脅しをかけることによって、その人の行動を改めさせようとしますが、それが効果を発揮することは、まずあり得ません。かえって、その人の自己嫌悪感を増幅させ、ギャンブルの勝利で得られる全能感を求めさせるようになることでしょう。エペソ書417節以降は、その意味で読み方を、気をつけなければなりません。文脈を飛び越えてある特定の聖句だけを教えて差し上げようとすると、その人は、「自分のような信仰の弱い人間は結局、変わりようがないのか・・・」という落ちこぼれ意識を増幅させることになります。それどころか、この箇所を読みながら、人によっては、自分の悩みを打ち明けたとたん、「それでも、あなたはクリスチャンなの・・・神のさばきを恐れなさい!」と言われた悪夢がよみがえってしまうというような人もいるかもしれません。

しかし、パウロはこの書で、繰り返し、神ご自身がご自身の御霊の働きによって私たちを内側から造り変えてくださるという希望を語っています。自分で自分を変えようとしながら、何度も失望を味わった人に向けて、また、教会での人間関係などに疲れを覚えているような人に向けて、この手紙は確固とした希望を与えるために記されています。

1.「キリストによって・・・愛のうちに建てられる」

11節の「お立てになったとは、7節の「恵みを与えられたと同じ動詞です。聖書が完結し、教会の基礎が築かれている現代においては、使徒も預言者も伝道者もその使命を終えているかもしれません。そして、今や、キリストから教会への最大の恵みの賜物は、地域教会に仕える牧師また教師です。彼らの務めは、「聖徒たちを、キリストのからだを建て上げるための、奉仕の働きのために、整える(12節私訳)ことです。キリストのからだを建て上げるという働きを主体的にするのは、牧師ではなく、教会に集っておられるおひとりおひとりであることは言うまでもありません。

そして、ここで教えることの目的が、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達するため」(13)と記されます。興味深いことに、先には、既に与えられている「御霊の一致を保つことが求められていましたが、ここでは、「信仰と神の御子に関する知識」「一致に達する」という目標になっています。つまり、パウロが先に、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」(3:19)と祈ったように、「知る」ことに関しては、「一致に達する」ための不断の努力が、聖書教師たちに求められているのです。そのような「牧師」が教会に必要なのは、「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすること」14節)がしばしば現実にあるからです。多くの善意に満ちた信仰者が、知らずに、誤った教えを広めてきました。牧師の責任は、聖書全体の知識や過去の異端の教えの知識を生かして、信徒をサタンの巧妙な計略から守ることです。聖書は、聖なる書物ですから、原文から厳密に訳すことが何よりも求められています。それは分かり難い翻訳にならざるを得ません。牧師の働きは、何かの事業の推進者あるいは悩める人のカウンセラーである前に、聖書教師であると記されているのです。

  その上で、みことばによって「整えられる」ことの目標が、ふたつのほとんど同じ表現で繰り返されます。それは、「完全なおとなになって、キリストの満ち満ちたみたけに達する」(13)と、「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」(15)ことです。なお、その際、15節の初めの「愛をもって真理を語り」(新改訳)に関しては、「愛によって真実とする」と訳した方が良いかもしれません。しばしば、「語る」という部分が独り歩きし、「あなたのために真実を言ってあげているのよ・・・」となどと言いながら、人の希望をくじくようなことがあるからです。たとえば、「まじめに奉仕をしなければ神から裁かれる」とか、「神を第一とした生活をしていないと、のろわれる」などというのは、旧約を誤解した律法主義的な教えです。私たちはキリストにあって、死からいのちへ、のろいから祝福へと移し変えられました。それを保障するために御霊が与えられたのです。この福音を忘れた良い行いの勧めは危険です。ここで何よりも強調されているのは、「愛」によって、キリストの教えが彼らにとって真実なものとされてゆくというプロセスです。

しかも、15節での成長」とは、ひとりひとりが尊敬される人格者になるというより、キリストのからだとして「組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる(16)という意味です。ある人が、キリストの似姿に向かって成長しているなら、そこには、愛の交わりの成長も伴っているはずです。個人の成長と、教会としての成長は並行して進むからです。そればかりか、16節の中心は、「キリストによって・・愛のうちに建てられる」とです。キリストのみわざは、人間的な組織作りや上からの指導によってではなく、「一つ一つの部分」である各人が、主体的に自ら進んで、与えられた賜物にしたがい「その力量にふさわしく働く」ことで達成されます。それがこの世の組織と異なるところです。私たちはひとりひとりがユニークな者として作られていますから、人が集まれば自然のうちに「分業」について考えます。

しかし、ここでは、ひとりの指導者が、それぞれの賜物を見極めて適材適所の配置を考えるというようなことは勧められていません。備えられたあらゆる結び目によってとあるように、ひとりひとりには、すでに結び目が備えられています。愛の交わりは、ひとりひとりの主体性をもとに喜びのうちに生み出されます。組織的には極めて未熟に見えながら、不思議にひとりひとりが、その教会の中での欠けたところに目が向かい、無意識のうちに満たされるという共同体こそ、キリストのみからだである教会の神秘でしょう。ある程度の組織化は必要でしょうが、教会が機能しないのはシステムの問題だと考えることは、ひとりひとりを主体的に動かしてくださる聖霊のみわざを軽んじることになりかねません。

それどころか、自分にとっての決定的な弱点と思える部分が、人との結び目としてもっとも良く機能するということがあります。だれでも皆、キリストと出会った時、自分の弱さを自覚しています。そこにおいて私たちは真剣に神との交わりを求め、また人との交わりを求めます。そのとき、身近な人の存在自体が感謝に思えてきました。しかも、しばしば、教会が目に見える形で成長していないと思われるとき、キリストご自身が、私たちの愛の交わりを、見えないところで整えていて下さいます。人は、多くの場合、順境の時よりは、逆境を通して、キリストとの交わりを深めているからです。

目に見える現実に翻弄されないように注意したいものです。教会は「からだ」として「成長」してゆきます。その際、幼い子供が不完全な人間とは呼ばれないように、問題を抱えたひ弱な教会もキリストのからだとして、聖霊の宮としての美しさに満ちているということを忘れてはなりません。欠点を見る前に主のみわざを見上げましょう!

2.「古い人を脱ぎ捨て・・・新しい人を着た」

 パウロはその上でクリスチャンとしての生き方に関して、「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません」(4:17)と勧めます。彼は4章1節で、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」と記していました。それは、召された者としての誇りを大切に、いつでもどこでも、「勝利を約束された者としての余裕」を味わいながら生きることの勧めでしたす。パウロが囚人としての苦難を耐えられた秘訣は、キリストによる「召し」がもたらす「望み」を常に目の当たりに見ていたからです。

その対比で、ここでは「異邦人はむなしい心で歩んでいる」と記されます。「むなしい心(思い)で」とは、「思考が空っぽな状態で歩んでいる」という意味で、人生の意味も目的も考えることのない状態で、ただまわりの刺激に反応しながら歩むような生き方です。「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています」(4:18)とは、創造主について考えもせず、偶像を拝み、人間存在の核心にある「心」が神の語りかけに反応しなくなっているような状態です。そして、「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています」(4:19)とは、感覚を麻痺させてしまって、倫理的な歯止めがなくなって、汚れた行いを恋い慕うような状態を指します。ローマ人への手紙では「恥ずべき情欲」ということで同性愛のことが描かれますが(1:26-27)、それは、神から与えられた秘儀からあらゆる聖さが失われた状態です。

  そして、パウロは彼らを信仰の原点に立ち返らせるように、「しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから」(4:20、21)と記します。なお、「ただし、ほんとうに・・・ならば」という部分は、事実、あなたがたはキリストに聞き、キリストにあって教えられているのですからと訳すことができます。ギリシャ語の仮定法の翻訳は様々な可能性がありますが、エペソ教会はその始まりの時期に、パウロが特に心血を注いだ教会です。しかし、その後、様々な誤った教えも入って来たので、最初の福音に立ち返るようにと彼はここで勧めているのです。

  その上で、パウロは、「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(4:22-24)と描いています。なおここでも、「その教えとは・・・べきこと・・べきこと」という何か新しい義務を負ったかのようなニュアンスを与えますが、原文に少なくともこのようなことばはありません。パウロは、キリストに従おうとした原点に立ち返るように勧めているのです。

ここでの中心は、「古い人を脱ぎ捨て・・・新しい人を着た」という、既に起こった立場の変化です。それは古いアダムの生き方を捨て、キリストをその身に着たということです。そして、バプテスマはそれを象徴する儀式でした。そこでは、「古い人がキリストとともに十字架につけられ・・・罪のからだが滅び・・・(復活の)キリストとともに生きる」(ローマ6:6-8)ということを、水の中に沈められ、再び起き上がってくるという形で表現しました。そのことがガラテヤ3章27節では「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たので」と記されています。

パウロは当時の人々に、回心を、衣服を着替えることにたとえて表現しました。これは、たとえば、奴隷の衣服を脱ぎ捨て、王家の衣服を身に着けたようなことです。罪の奴隷から解放されて、神の子供とされたという立場の変化に応じて、衣服もすでに着替えているのですが、奴隷根性から自由になることができません。そのときに必要なのは、「おまえの心は、まだ奴隷根性に支配されている!」と非難することではなく、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)という決定的な神との関係の変化が既に起こっていることを思い起こさせることです。その変化のきっかけは、「心(思い)霊において新しくされた」ということです。これは、先に、「むなしい心(思い)と言われた状態から変えられたことによります。

  人は、自分の肉の意思で、新しい人、キリストを身に着けるのではありません。創造主である御霊が、その変化を起こしてくださいました。ところが私たちは、神が起こしてくださった変化を忘れ、古い生き方に逆戻りしそうになります。心がその変化について行かないからです。そこで必要なのは、私たちが既にバプテスマを受け、キリストをその身に着け、死の中からよみがえって、新しい歩みに入っているという霊的な変化の事実を繰り返し思い起こすことです。

  たとえば、証券営業ほど私に向いていない仕事もなかったと思います。人は、自分に不向きな仕事をさせられるのは辛いものです。野村證券札幌支店で働いていた三年間、激しい葛藤と重圧に耐えていました。幸いそれなりの結果を出すことができてドイツ留学への道が開かれ、仕事の内容が劇的に変えられはしましたが、それでも昔のストレスは簡単に消えることなく、十年余りも夢に現れ続けました。しかも、その営業的発想が、牧師になってからも私の心を支配しました。証券営業ではそれなりの結果を出せたのに、牧師になったら、全然、結果が出てくれない・・・という焦りです。もちろん、理性では、教会の成長は数で測ることはできないし、牧師の働きは、目に見える結果などを求めてはならないということは知っているはずなのに、古い時代の発想は心の奥底に染み付いていました。そのとき示されたのは、自分で獲得した成果ではなく、キリストご自身が私のうちに起こしてくださった変化に目を向けるということでした。私は自分で信じたのではなく、キリストによって捕らえられ、信じさせていただけたのです。古いアダムの生き方は根強く残っていますが、私はすでに奴隷の衣服を脱ぎ捨て、キリストをその身に着ているという立場の変化が起きています。既に、「真理に基づく義と聖をもって神に形作られた新しい人を」着させていただいているのです(4:24)。

  私の心を支配した感情は、ギャンブル依存症の人のものと基本は同じ、自己嫌悪と全能感の繰り返しです。何かあるたびに、「馬鹿にされてたまるか・・・」という男の意地のようなものが自分を駆り立てます。そして、多くの人々の行動は、そのような空しい感情に支配されています。私たちは、自分の行動を動かす感情の力を謙虚に認める必要があります。ところが、多くの人々は、それを認めずに、「私は正しい動機で行動している!」と、屁理屈で自分を正当化します。しかし、自分を弁護する必要を感じているということ自体が、その人の心が人の評価に左右されていることの最大のしるしです。そこで、大切なのは、自分のうちに沸きあがってくる愚かな感情、昔ながらのアダムの感情を正直に認め、それがあることを神に告白しながら、神が私たちのうちに起こしてくださった変化に、感情がついて来るように待つことです。感情は、時と共に、意思と行動によって変えられてくるものです。心が神の救いのみわざに向けられ、神と隣人を愛するという具体的な行動に自分の意思を向けて行くときに、必然的に、神の平安がついてきます

3. 「私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのもの」

 その上で、パウロは、「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです」(4:25)と勧めますが、「真理を語る」とは、文字通り、「何が真理であるかをことばにする」と記され、15節の「愛をもって真理を語る」とは異なった表現です。しかも、それは、互いにキリストのからだの一部とされているという意識から生まれる必要があります。ですから、この「真理」とは相手をへこませるような真理ではなく、希望を与えるもの、つまり、神がキリストにあってなしてくださった救いのみわざの真理を語ることです。少なくとも、自分の信仰や行いを誇るような発言は、この真理に反するものです。私たちの交わりから、自分を強がって見せることばや行いがなくなり、キリストにある希望を互いに語り合うことができたらと切に願います。

  「怒っても、罪を犯してはなりません」(26節)とは、「怒りなさい。しかし、罪を犯してはなりません。Be angry and do not sin)」と訳すことができます。「怒る」ことが真正面から肯定されています。これは、感情と行動を区別する大切な知恵です。また、「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」も、日没前に怒りを静めることが命じられているのではなく、「あなたがたが憤っている状態の上に、日を沈ませてはならないdo not let the sun go down on your anger)」とも訳すことができます。当時は現在のような照明がありませんでしたから、日が沈むと気持ちも暗くなったのではないでしょうか。これは、明らかにパウロのジョークだと思われます。これらの勧めの核心は、悪魔に機会を与えないようにしなさい」(27節)という部分にあります。怒りの感情ほど恐ろしいものはありません。悪魔はそれを利用し、人の尊厳を否定することばを吐かせ、殺人をさえ起こさせます。しかし、「怒り」は、神から与えられた聖なる感情でもあります。罪や不正に対する怒りは、神ご自身がもっておられる感情でもあります。聖なる怒りの感情がなくなれば、この世の堕落に歯止めがかからなくなります。ですから、ここでは、「怒っても、罪を犯してはなりません」と言われながら、同時に、怒りを増幅させることがないように、「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」と言われるのです。詩篇の祈りには、怒りを神に向かって表現する知恵が満ちています。霊感されたみことばを用いて、自分の心の底に沈殿しそうな怒りの感情を表出することで、「憤ったままで」気持ちをさらに暗くさせる環境を迎えることを避けることができます。私たちが自分の怒りの感情を受け止めながら、それに振り回されなくなったら、愛の交わりは確実に成長できます。

「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」(28節)とは、初代教会の交わりの中には奴隷が多く、彼らには盗みをそれほど悪と思っていなかった人がいるという現実があったことを示していますが、ここで興味深いのは、「困っている人に施しをするため」という盗みとはまったく逆の方向に生きるために、労働に励むように勧められていることです。

  「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(29節)も同じような行動の逆転を勧めるものです。人は常に何かの言葉を発せずにはいられませんが、自分の口から意地悪を出す代わりに、「人の徳を養うのに役立つことばを話す」ように心がけるべきなのです。ここは厳密には、「建てあげるために何か役立つことば」と記されています。これは16節の、「愛のうちに建てられる」を思い起こさせます。口から出ることばが、交わりを壊すものか、建てあげるものか、それが問われています。私たちは正義を主張することよりも、自分のことばが交わりを建てあげるものかどうかを、吟味し続ける必要があります。

 そしてパウロは、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(30節)という不思議な表現を用います。聖霊は、何かの力である前に、パーソン(人格)であられます。神の聖霊は、あなたの古いアダムのままに居直った生き方に「悲しみ」の気持ちを抱いておられます。そして、聖霊のみわざに恩知らずになってはいけないという意味で、「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」と記されます。「贖いの日」とは、私たちの身体が復活し、新しいエルサレムに入れられる日を指しています。私たちはその保証(頭金)」としての聖霊を受けているのです(1:14参照)。私たちはやがて、キリストの栄光の姿にまで変えられるのですが、それはすべて聖霊のみわざです。

 そして、「聖霊を悲しませて」しまう罪のリストが、「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」(31節)として記されています。これはすべて交わりを破壊する罪です。「憤り、怒り、叫び」は、「激怒、激高、わめき」とも訳せることばで、感情が制御できていない状態を指しています。そして、それと反対に、「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(4:32)という行動は、聖霊に導かれた行動です。私たちの行動の原点は、常に、「神がキリストにおいてあながたを赦してくださったように」ということから始まる必要があります。自分で自分の気持ちを変えようとするのではなく、神がキリストにおいてなしてくださったみわざの原点に立ち返ることこそが、すべての出発点でなければなりません。

  パウロは、この手紙で、最初から最後まで、神の圧倒的な、人知をはるかに超えた救いのみわざに目を留めさせようとしています。それが、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・神の全能の力によって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(1:18,19)という祈りに現されています。旧約聖書には、「イスラエルの民は、どれほどすばらしい神の教えを受けても、心を入れ替えても、いつも三日坊主だった・・・」という趣旨のことが記されています。それに対し、新約では、キリストと聖霊が私たちを内側から変えてくださるということが記されています。あなたのうちに既に働いている神の力に目覚めましょう!

私のメッセージを聞く人が、よく、「このままで良い・・・ということがわかり、安心しました」と言ってくれます。また、反対に、「先生は、いつも、人は変わらないというけど、もっと励ましも必要なのでは・・・」とも言ってくれます。どちらにも誤解があるような気がします。私が強調しているのは、「いつでも、そのままの姿でイエスを礼拝し、イエスについて行きましょう。そのとき、イエスがご自身の御霊に私たちを造り変えてくださいます。それは、期待通りの変化ではないかもしれないけれど、そこでキリストにある愛の交わりが成長しているなら、神の望む変化が起きているのではないですか・・・」という趣旨のことです。私たちは、自分の愚かさを自覚する程度によって、人の愚かさを許容できるようになります。私たちの人格的な個人としてよりも、キリストのからだというレベルで考えるべきではないでしょうか。

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