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2010年8月29日 (日)

エペソ5章1-20節「キリストにある者の歩み方」

                                                      2010829

先日、とっても頑張りやさんで、未信者の僕の妹が、突然、こんなメールをくれました。「この世の中努力しない人間が楽に生きられる世の中で、物事を考える人間には生きずらい世の中です。病気に逃げたり、努力しないで他の人のせいにしたり、自分が甘えているのに気が付かないふりをして正当化する。出来ないと言えばかばってくれて、病気だと言えば優しくしてもらえて・・自分に甘い人間が守られるのはおかしいよ・・!努力する人はそれ以上に求められて、努力しない人はあきらめられるのか、受け入れられる・・大体、神様って、楽する人の味方にされているんじゃないの?!平和ボケしている日本で、牧師だったら、もっとみんなの目を覚まさせるようなことを言わなくちゃいけないよ。口で優しいことばかりを言って、人の気を引こうとしている・・・ずるいよ、兄貴は!!」 

後で、電話で妹から、その置かれている状況を改めて聞き、これを引用することの承諾も得ましたが、ふと、「わが妹ながら、私たちが警戒すべき落とし穴を見抜いている・・・」と思いました。そして、それはパウロが当時の人々から受けていた非難でもあったようです。それはペテロの手紙第二の最後の部分から推測できます。そこでは、キリストの福音を自分に都合よく解釈する人が、自分の無節操な生き方を正当化するという危険が指摘されているからです。パウロは本日の箇所で、それを意識しつつ、キリストにある日々の歩み方を具体的に示しています。

1.「愛されている子どもらしく歩みなさい」

 パウロは、「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(5:1)と勧めますが、ここでは「ですから」という前提が何よりも大切です。それは、自分で自分の気持ちを変えようとするのではなく、神がキリストにおいてなしてくださったみわざの原点に立ち返ることこそが、すべての出発点でなければならないという意味です。

神の救いのすばらしさは、特に2章4-6節において、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです─キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(2:4-6)と記されていました。そこでは、「救い」が三つの観点から描かれていました。第一は、「私たちをキリストとともに生かし」です。これは「死んでいた者」「キリストとともに生きた者にする」という神の一方的なみわざです。「救い」とは、目の前の問題がなくなるとか、苦しみから解放されること以前に、「キリストとともに生きる者になる」ことを指しているのです。しかも、このキリストにある「救い」のことが、第二、第三として「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言い換えられます。これは世界が完成するときの「復活」と「昇天」をさします。これはまだ起こっていない未来を保障する表現です。

多くの福音的な教会では、イエスを救い主として信じた人のことを、「救われた」という完了形で表現しますが、しばらくすると、「何も変わっていないではないか・・・」という気持ちになる人が続出します。しかし、救いには、「すでにAllready」という面と、「まだ(not yet)」との両面があるということを決して忘れてはなりません。目に見える現実からすると、まだ「救われてはいない」のですが、救いが確定したという意味で、「救われた」と言われるのです。

私たちの救いとは、何よりも、キリストと結び付けられたということを指しています。キリストはすでに復活に、天の父なる神の右の座におられますが、私たちはキリストとすでに一体となっているからこそ「ともによみがえり、ともに天の所に座っている」と言われるのです。しかし、それはこの地で試練や誘惑がなくなることを意味はしません。   

パウロは続けて、「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」(5:2)と記しますが、最初の「また」ということばは、「そして」と訳すほうが良いかと思われます。これは、「神にならう」ことが具体的にどのような生き方かを指し示すものだからです。それは、「愛のうちに歩むこと」、また、それはキリストの生き方に習うことです。それこそが「香ばしいかおり」をはなつ生き方です。それと対極にあるのが、「不品行、汚れ、むさぼり」で、原文では、そのことばが先頭に記されながら、「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者─これが偶像礼拝者です─こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません(5:3-5)と記されています。これは、自分自身をささげるキリストに習う生き方と、自分の身体を喜ばせることを最優先する生き方との対比です。「不品行」「汚れ」も、基本的に性的に無軌道な生き方を指しています。「むさぼり」とは、人の持っているものを自分も持ってみたいと切望することです。ただ、それにしても私たちは、いろんな意味で、キリストに習う生き方よりも、自分の身体の欲望を優先する生き方をしてはいないでしょうか。ここで、良心の敏感な方は、そこで、「自分のような者は、御国を相続することはできない・・・」と失望してしまうことでしょう。

  キリストに出会う前と同じような無節操な生き方を続けている者が、「神の国を相続することはできない」という表現は、Ⅰコリント6章9,10節、あるいはガラテヤ5章19-21節では、もっと具体的に、もっと強烈に記されています。私も、そのような箇所を読みながら、「僕は、自分の肉の思いをまだ十字架にかけて殺してはいない・・・私は神の国を相続できないのか・・・」と落ち込むことがよくありました。しかし、そんなとき、イエスは私に、「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」と語りかけてくださいました。また、パリサイ人と取税人のたとえが慰めになりました。そこでイエスは、「自分を義人だと自認する」パリサイを非難した上で、「目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『こんな罪人の私をあわれんでください』と言った」取税人が、神の前に義と認められたと言われました。そこでは、みことばを読みながら、自分は御国を相続できないかもしれないと不安に思う人は大丈夫で、自分は大丈夫だと自負している人は危ないという逆説が描かれているのです。

それにしても、自分は必ず神の国に入れていただけると確信することは傲慢なのでしょうか・・・。しかし、文脈から明らかなように、この手紙の前半では、「あなたがたはキリストにあってすでに新しい人とされている、もう心配はない・・・」という趣旨のことが繰り返し語られているのです。しかし、それが、神の一方的な恵みであることを忘れ、それが当然の権利であるかのように思う人には、それが怠惰の理由になります。それはちょうど、国の社会保障制度が充実してくると、生活保護制度を食い物にする輩が必ず生まれることに似ています。そのことをパウロは、「むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです」(5:6)と言っています。むなしいことばとは、「もう自分は天国人となっている。どんな罪もすでに許されている。この肉体においてどんなことをしても、それが自分の霊を汚すことはできない」という解釈だと思われます。しかし、「救い」とは、何よりも、キリストとともに生きる者とされたという意味ですから、汚れから離れるべきなのは当然なのです。

  ここでもう一度、救いの原点、「すでに」と「まだ」に立ち返る必要があります。私たちはすでに、「見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)という祝福の中に招き入れられています。しかし、キリストに似た者となるという意味での「救い」は完成していません。今も繰り返し、肉的な生き方をしてしまいます。その意味で、私たちは「まだ」救われてはいません。しかし、既に決定的な変化は起こっています。私たちは「御国を受け継ぐことの保障」としての「御霊」を受けています(1:14)。そして、御霊は私たちのうちに罪を指摘しながら、私たちを内側から作り変えていてくださいます。みことばを読んで、自分の足りなさを自覚し、御霊の働きに頼ろうとする者は、すでに救いの完成への確実な道を歩んでいるという意味で、「すでに救われている」のです。なぜなら、御霊は全能の神であられるからです。しかし、自堕落さに安住し、成長をあきらめている者は、御霊の働きを自分で拒否しています。神の怒りがそのような人間に下るのは当然です。私たちは、神の救いを、平面的ではなく立体的に、また三次元的ではなく四次元的に考える必要があるのかもしれません。私たちは今、「不信仰な者に信仰を与え、完成に導くことができる神」を信じています。パウロはそのことを、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)と言っています。

  パウロはここで、「愛されている子供らしく、神にならう者となりなさい」と、一見、途方もないことを言いました。しかし、イエスご自身も、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5:48)と言われました。それは、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる」(同5:45)という神の包容力にならうことの勧めでした。それは、「天の父」と呼ぶことができる神の子供としての誇りのうちに歩むことの勧めでもありました。とにかく、私たちは、常に、そのような「完全」を目指すように教えられています。人は、成長をあきらめたとたん、神のかたちとしての人の美しさを失ってしまいます。いつも最高を目指して生きているスポーツ選手や芸術家が輝いているのと同じように、私たちは「完全」を目指して生きるのです。その際、その「完全」は、当然ながら、人間の力では達成できないことは明らかです。神の完全を達成させてくださるのは、同じように完全な神である聖霊のみわざなのです。そして、全能の聖霊はそれを可能にしてくださいます

2.「光の子供らしく歩みなさい」

  そして、パウロは5章1節と同じことばを用いながら、そのように罪に居直る人を指して、「ですから、彼らの仲間になってはいけません」(5:7)と言いながら、それをもっと積極的に、「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」(5:8)と勧めます。ここでは、先に、「愛されている子供らしく・・・愛のうちに歩みなさい」と言われたことが、「光の子供らしく歩みなさい」と命じられています。

そしてその前提として、キリスト者は、「キリストにあって」すでに「暗やみ」から「光」になっていると言っています。イエスは、「わたしは、世の光です」(ヨハネ8:12)と言われましたが、私たちはキリストのうちにあるとき、同時に、すでに、「光となりました」と言うことができるのです。「光になりなさい」ではなく、すでに「光となっている」のだから、「光の子ども」としての誇りを持って「歩みなさい」と言われているのです。そして、その上で、「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」(5:9)と言いながら、光としての実を結ぶ生き方をするように命じられています。

「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」(5:10)とは、ひとりひとりが誰かに命じられるままにではなく、主体的に、何が主に喜ばれることかを、主のみことばに照らして見分けるようにという勧めです。その上で、「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」(5:11)とは、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)という勧めと同じ趣旨だと思われます。

なお、「それを明るみに出しなさい」とは、隠されている悪を明らかにする、また、悪に同意していないことを明らかにするという意味があります。それは、積極的に、自分の属する組織の悪を密告するとか、次から次と人の過ちを指摘してあげるというようなことではなく、自分が同意できないということを、自分の身が危険にさらされることを厭うことなく明確にするということです。子供の世界では、「ある子がいじめにあっているとき、いじめる側に仲間入りをしなければ、自分がいじめの対象にされてしまう」という恐れの中でいじめが加速されることがあります。同じことが大人の世界にもあります。なぜ、かつての日本では、あれほど無謀な戦争をやめられなかったのでしょう。なぜ朝鮮半島や中国の人に対する迫害が加速されたのでしょう。それはみんな、心の中では、悪いことだと分かっていながら、それを口に出すと自分が血祭りにあげられるかもしれないからと恐れていたからではないでしょうか。

「なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」(5:12-14)とは、私たちが「世の光」として生きることが世界の変革につながるという希望です。私たちがまわりの人々の悪に同意せずに、その問題を明らかにすることは、そのような恥ずべきことを行っている人々を軽蔑し、またさばくためではなく、私たちがともに、世界に救いをもたらして下さる方を必要とするということを明らかにするということです。それはたとえば、恥ずべき行為を行っている人に向かって、「私の中にも、あなたと同じ弱さや葛藤があります。でも、それをそのままにしておくと、滅びに至るということがわかりました。でも、自分で自分の問題を解決する力は私にはありません。それで、イエス様にすがっているのです・・・」と、同じ目線に立って、救い主を指し示すことです。

イエスは、「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)と言われました。福音の初めとは、何よりも、私たちすべてが何らかの意味で病んでおり、自分を持て余している者であって、救い主を必要とするということを認めることにあります。世の人々は、「弱みを見せたら付け込まれる・・・」という恐れの中に生きていますから、キリストにある者こそが、自分の弱さや愚かさを、「明るみに引き出し、光によって明らかにする」ということの導入にならなければなりません。私たちが互いに、神の一方的な救いを必要としているということを明らかにすることこそ、「世の光」としての生き方です。

その上で、パウロはイザヤ書の様々な箇所をからの引用をひとまとめにするようにしながら、「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」(5:14)と記します。これは、自分の罪を自覚し、自分が死に向かっているアダムの子孫であることに認め、救いを求め始めるときに、神の救いであるキリストが、私を照らすという意味です。シャイン・ジーザス・シャインという賛美はこのみことばをもとに作られています。キリストがあなたを照らし、あなたは、キリストにあって「光」となっています

それは、あなた自身に人を救うことができる力があるというのではなく、傷ついた癒し人として、自分の傷を明らかにしながら、同じ傷を持つ人に、救い主がもたらしてくださる癒しの希望を分かち合うということです。

3.「賢い人のように歩みなさい」

 15節は、原文では、「そういうわけですから、よくよく注意しなさい、どのように歩んでいるかを。賢くない人にようにではなく、賢い人のようにしているかを」と記されています。つまり、「キリストにあって光となってる」という自覚のもとに、「賢い人として歩みなさい」と励ましているのです。

そして、そのように生きることの具体的な意味は、「時」をどのように見るかにあります。「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」(5:16)とありますが、原文では、「時を贖いなさい。この日々は悪いから・・・」と書いてあります。「時を贖う」とは、時間に追われるとか、この世の時間に支配されるというのではなく、一日一日の時間を神の贈り物として受け止めるということです。私たちはどのように時間を使うかの責任を、時間の創造主である神から問われています。伝道者の書には、「時と機会はすべての人に巡ってくる」(9:11)と記されています。ビクトール・フランクルは、「私の生きる使命が分かりさえしたら・・」と疑問を感じる人に、「使命があなたを探している」と言いました。私たちは、「今ここで」、自分に問われていることを誠実に成し遂げることの連続から、生かされている目的を知ることができるようになります。「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」(5:17)とは、そのような一瞬一瞬、一日一日の積み重ねの中で問われていることです。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」(5:18)とは、飲酒の禁止であるよりは、酩酊してはならないという警告です。酩酊から放縦な生活が生まれます。そして、ここでは不思議にも、酩酊することと御霊に満たされることに共通点を見出しています。初代教会のペンテコステの日、御霊に満たされた弟子たちの様子を見た人々は、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」とあざけったと記されています(使徒2:13)。酩酊は、しばしばこの世の秩序を越えさせますが、聖霊に満たされるときも、私たちはこの世の人の評価や人の自由を抑圧するようなしきたりから解放されることができます。両方とも、それは人の心を自由にしますが、酩酊は放蕩を生み、聖霊は聖い生き方を生み出します。なお、この勧めの背後には、当時のエペソにおけるディオニソスというぶどう酒の神への礼拝の様子が意識されていたのかもしれません。酒を飲み、歌い踊りながらデイオニソスをたたえますが、そこには恍惚状態とともに性的な無軌道が生まれていました。

ところで、「御霊に満たされる」ことの意味には、いろんな側面があり、ある人にとっては御使いの異言を話すこと、不思議なわざを行うこと、また、恍惚状態の味わうことかもしれませんが、ここでは御霊に満たされることの四つの側面が記されています。

その第一は、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語る」(5:19)ことです。賛美の基本は、歌うこと以前に、「互いに語る」ことです。それは何よりも、詩篇の交読が基本です。賛美とは信仰告白としての賛美歌のようなもの、「霊の歌」というのは、パーソナルな証しの歌を指すのかもしれません。これは、公の礼拝のすべての部分に関わってくることでしょう。個人の証とは、まさに、賛美であり霊の歌でもあります。

そして、第二に、「主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」とは「歌う」ことや楽器で主を賛美することを含めます。これは礼拝音楽すべてにかかわることだと思われます。

そして、第三は、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(5:20)です。つまり、御霊に満たされるとは、自己満足に浸ることではなく、神がイエス・キリストにおいてなしてくださったすべてのことに対しての「感謝」が生まれることなのです。

そして最後の第四は、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(5:21)という勧めです。御霊に満たされることは、互いを尊敬する、互いに従うという人間関係の中に現されるというのです。それが具体的には、続けて、夫婦関係として表されます。つまり、御霊に満たされるとは、何よりも、夫と妻の関係に表されるというのです。

 信仰生活は極めて個人的であるとともに共同体的な現実です。それはまた毎日の生活に現れます。「御霊に満たされる」とは、現実逃避的な恍惚状態を求めることではありません。それは、日々の生活の中で出会う様々な人々とどのように協力関係を築くか、また、様々なタイプの人が集う教会で、どのように主を礼拝し賛美するかということに表されます。私たちは不条理に満ちた世の中で、人々の罪からの救いのためにご自身の御子を十字架にかけてくださった神の愛にならうように召されています。それを可能にしてくださるのは創造主である聖霊です。

十字架には、罪に満ちた世界に対する神の厳しいさばきと同時に、被害者意識と怠惰に流れる罪人に徹底的に寄り添う神の驚くべきあわれみが表されています。神のさばきと神の赦しは十字架で交叉しています

そして、十字架の愛を心から味わう者は、この世の悪を離れ神の聖さを求め、キリストに習って、矛盾と混乱に満ちた世界に派遣される勇気をいただくことができるのです。

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2010年8月22日 (日)

イザヤ49章14節~50章11節「私の耳を開いてくださる方」

                                                2010822

私たちは心の中に様々な「駆り立て」の言葉を聞き過ぎ、今、ここでの神の語りかけに耳を傾けることができなくなってしまいがちです。多くの人の心には、常に、「急ぎなさい」「もっと努力しなさい」「強くありなさい」「完全でありなさい」「人を喜ばせなさい」という五つの言葉のどれかが響いていると言われます。人によっては、これが「存在するな」という自己否定の言葉と結びついて、「人を喜ばせている限りは生きていて良い・・そうでなければ、生きている資格がない」というささやきを聞き続けるということになります。そして、人は自分の心に聞いている声を人に向かって語ります。人に意地悪な言葉が出てしまうのは、自分を責める言葉ばかりを聞いている結果です。そのような人は、「疲れた者をことばで励ます」(50:4)代わりに、落ち込ませてしまいます。そのような心は、恐れて敏感なようでも、信仰的には眠っているのではないでしょうか。私たちはこの世の価値観から生まれている語りかけと、神からの語りかけとを区別する必要があります。そのために聖霊によって、この心が目覚めさせられる必要があります。

  

1.「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」

498-13節では、主がイスラエルを祝福し、繁栄を回復させてくださるばかりか、全被造物が主を賛美する様子が描かれていました。しかし、このイザヤの預言が聞かれるようになった「シオン」と呼ばれるエルサレムの置かれる現実は、「主(ヤハウェ)は私を見捨てた。主は私を忘れた」と言わざるを得ない絶望的な状況です(14)

そのような中で、主はイスラエルに対するご自身の思いを、「女が自分の乳飲み子を忘れようか・・・」と言いながら、さらに、「たとい、女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」ご自身の断固とした意思を強調します。最近、母に見捨てられて飢え死にした子供の悲惨が話題になっていましたが、その女性だけが特別に鬼のような心を持っていたというわけではありません。バビロン帝国の軍隊に包囲されたエルサレムでは、「あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子供を煮て、自分たちの食物とした」(哀歌4:10)という悲惨が起きたと記されています。それほど、人の心は脆いものです。いざとなったら、母親でさえ何をしでかすかわからないという現実があるということを前提とした上で、主はご自身の愛が、母親の愛にまさるということを強調しておられます(15)

自分の母親の愛情を疑う必要のない方は、それだけで幸せとも言えましょう。「母ちゃん!」と心の中で呼びかけるだけで、あったかい気持ちが湧きあがる方は、「神様!」とか「天のお父様!」と呼び求めるとき、自分の中にどのような気持ちが湧きあがってくるかを確かめてみてはいかがでしょう。神は、ここで、ご自身の愛は、母の愛にまさるということを断固として強調しておられます。それを心の底から味わうことこそ、私たちの信仰の基本です。

そればかりか、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」と記されます(16)。文語訳は、「われ掌(たなごころ)になんぢを彫刻(きざ)めり」です。それは人が、恋人の名を手のひらに刻んだのと同じように、主は私たちを心から恋い慕っておられるという意味です。主は、私たちを忘れないどころか、いつでもどこでもご自身の手のひらに刻むようにして私を覚えておられるというのです。主は、おひとりおひとりに、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4)と語りかけておられるのです。

「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」とは、目に見えるエルサレムの城壁が崩れ去っている中で、なお神ご自身が目に見えない私たちの城壁となっておられるという意味です。霊の目が開かれるとは、敵に取り囲まれた預言者エリシャを「火の馬と戦車が取り巻いている」(Ⅱ列王6:16,17)という現実が見えることです。詩篇34:7には、「主(ヤハウェ)の御使いが陣を張り、主を恐れる者を囲んで助け出してくださる」と記されています。

ところで、主に逆らい、主ののろいを受けたときの悲惨が、申命記2832節では、あなたの息子と娘があなたの見ているうちに他国の人に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない」と描かれていますが、まさにイスラエルはそのような悲惨を体験することになりました。今も、貧しい国では、子供を奴隷に売らざるを得なくなるような悲劇が起こります。私たちもそこまでひどくなくても、かけがえのない人を失い、自分の世界が音をたてて崩されるような絶望感を味わうことがあるかもしれません。残念ながら、「主があなたを愛しておられるなら、あなたは苦しむことがない・・・」というのは、幻想であって、信仰ではありません。しかし、私たちは苦しみに会うけれども、それはごく短期間のことであり、神の永遠のときの視点から見るなら、私たちは神の圧倒的な力によって守り通されているということは確かです。そのことが、1718節では、「あなたの子どもたちは急いで来る。あなたを滅ぼし廃墟とした者は、あなたのところから出て行く」という、失ったと思われた子供の回復と、あなたを滅ぼした敵の退散が約束され、また、それを印象付けるように、子供たちの帰還のことが、「みなが集められ、あなたのところに来る・・みなを飾り物のように身につけ、花嫁のように結び付ける」と描かれます。

マルティン・ルター作詞作曲の「Ein feste Burg is unser Gott(神はわれらが堅き砦)」の終わりの歌詞では、サタンに向かって、「わが命も、わが妻、子も、とらばとりね。神の国は、なおわれらにあり」と言い放つ歌詞が記されます。これに違和感を覚える方がおられ、賛美歌267番では、「わが命も、わが宝も取らばとりね。神の国はなお我にあり」などと衝撃の少ない個人的な歌詞に訳されていますが、それは作者の意図に反することです。ルターは、みことばの奉仕のために、自分の家族が犠牲にならざるを得ないという心の痛みを感じながらも、サタンに屈せずに神に仕え続けることの大切さを歌っています。そこでは、神の永遠の視点からは、神ご自身が、私たちのかけがえのない家族を守り通してくださるという信頼のもとに、「神の国は、なおわれにあり」と歌われているのです。

多くの人は自己嫌悪に陥る中で、「わたしは手のひらにあなたを刻んだ」という、主の親密な愛の語りかけに安らぎを発見します。私たちはこの地では様々な不条理に直面せざるを得ません。しかも、しばしば、その一部は、サタンの攻撃というよりも、自分が蒔いた種です。しかし、自業自得の苦しみ、自分の責任で大切なものを失ってしまったような絶望感の中で、なお、主が失ったものを取り返してくださるという恵みが約束されているのです。

2.「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」

そして、1920節では、主の祝福の様子が、散らされていた家族が集められ、家族が爆発的に増加することとして表現されます。なお、20節は、さらに、あなたの耳に、子を失ったときの子らが言おうと訳することができます。今日の箇所では、「耳」がテーマです。これは先に失われたと思っていた子らが集められた結果として、その子らが、かつて子を失ったと嘆いていた親の耳にささやきかけるように、「この場所は、私には狭すぎる。住めるように取り計らってくださいと願うほどになるというのです。そればかりか、その様子を見る者は、私は、子を失った、子を生めない女、捕囚のさすらい者であったのに・・・」(21)と過去の苦しみを振り返りながら、「だれがこの者たちを私に生んでくれたのだろう」と言いながら、主の祝福の大きさを喜ぶようになるというのです。

そして、22節では、「主であるヤハウェ」が、見よ。国々に向かってわたしは手を上げ、国々の民に向かってしるしを揚げる」と、国々の民はイスラエルの息子や娘たちをふところに抱いたり肩に負いながら運んでくると約束され、その際、「王たちはあなたの守役(もりやく)となり、王妃たちはあなたのうばとなる。彼らは顔を地につけて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる」(49:23)という完全な立場の逆転が生き生きと描かれます。

 「そして、あなたは知るようになる。わたしは、主(ヤハウェ)、わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」と、神の民が真心から主に信頼するようになる様子が描かれています。なお、ここでは、主の民を踏みつけていた王や王妃たちが「恥を見る」ようになることとの対比で、「主を待ち望む者は恥を見ることがない」と描かれています。これこそ、聖書に繰り返し記されている救いのパターンです。多くの人々は、この地で「恥を見る」ようになることを恐れ、みんなから遅れを取ることがないようにと競争しています。しかし、主を待ち望む者は、最終的に勝利者となることが約束されています。この約束も、一時的な視点ではなく、神の永遠のときの観点から見るべき約束です。

そして、24,25節では、敵の「勇士の・・とりこ」とされた者や略奪された宝物が、主ご自身によって「奪い返される」と描かれるばかりか、主は、「あなたの争う者とこのわたしが争い、あなたの子らをこのわたしが救うと、ご自身で私たちの敵に復讐をしてくださると約束しておられます。それは私たちの「救い」の時でもあります。このように主のさばきを信頼する者は、自分で敵と戦う必要がありません。

その神の復讐のことが、「あなたをしいたげる者に、自分の肉をわたしは食らわせる。彼らはぶどう酒のように自分の血に酔う」(49:26)と、彼らが自滅する様子が描かれます。その結果、「すべての肉なる者が知るようになる。わたしは主(ヤハウェ)、あなたの救い主、贖い主、ヤコブの力強き者であることを」と告白することになります。ここでは、神のさばきが、「自分の肉を食らわせる」と描かれながら、その同じ、「肉」ということばが使われながら、すべての生まれたままの罪に支配された「すべての肉なる者」が、主の救いを知るようになると約束されます。かつて、「あなたは知るようになる」と約束されましたが、ここでは全世界の民が、主を知るようになると約束されます。

  私たちは、一時的な辱めに屈することが何と多いことでしょう。しかし、「主に信頼する者は、恥を見ることがない」というのは、永遠のときの観点から断定できることです。イエスご自身も、十字架上で、この世の誰よりも辱めをうけました。しかし、このみことばに信頼して、その辱めに耐えることができました。そして、いまや、すべての肉なる者が、イエスの高貴さを何らかのかたちで認めざるを得なくなっています。あなたのまわりの人々も、最終的に、「あなたの神こそが、全世界の支配者であったのに、私はそれを認めなかった」と恥じるようになります

 

3.「主であるヤハウェは・・・朝ごとに私を呼びさまし、私の耳を開かせ(呼びさまし)・・」

エルサレムはバビロン帝国によって滅ぼされますが、それを前提に、501節では、エルサレムを、「あなたがたの母親」と呼びながら、あなたがたの母親を追い出したというわたしの離婚状は、いったいどこにあるのか」と問いかけられます。そこには、主とエルサレムの関係は切れていないという主の宣言が込められています。

また、わたしがあなたがたを売ったというわたしに債権を持つ者はだれなのかということばで、主の民の所有者は主ご自身であられるので、その民が完全に売り渡されてしまうことはないという保証がなされます。もし、主に負い目があって彼らが売られたのなら、主は何もできませんが、彼らはその咎のために一時的に売られ、追い出されているに過ぎず、回復の希望があるというのです。そのことが、見よ。自分の咎のためにあなたがたは売られ、あなたがたのそむきのためにその母親は追い出された(エルサレムは滅んだ)のだ」と言われます。

なお、「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか」(50:2)とは、神が遣わした預言者の声を神の民イスラエルが無視し続けたことを表します。そして、わたしの手が短過ぎて、贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか(50:3)とは、彼らが神にすがろうとしなかったことこそが、このような悲惨の真の原因であると語ったものです。人間関係では忙しい人の手を煩わすことは悪いことかもしれませんが、神に対して遠慮することは信頼の欠如として非難されます。申命記では、「主にすがる」ということばは、「主を愛する」と並行して記されますが(11:2230:20)、主にすがろうとしないことこそが罪なのです。見よ。わたしの叱責によって・・・わたしは天をやみでおおい・・(50:2,3)とは、出エジプトの際に海を二つに分けたことから、目に見える世界をさばくことに至る神のみわざを指します。神に不可能はありません。

5049節は、第三の「主のしもべの歌」です。その最初は、主であるヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを知るようにさせです。「疲れた者をことばで励ます」とは、「頑張って!」などという言葉ではありません。それは、「我を張る」から転じた言葉で自分の力を前面に出すことだからです。しかし、疲れた者に力が回復されるのは、人間の努力ではなく、神のみわざです。それは、「主(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ってゆく」(40:31)とある通りです。その主への信頼を「励ます」ことができるのも、人間の知恵ではなく、主ご自身が「知るようにさせ」てくださることによります。そのために、主は、朝ごとに、私を呼びさまし、この耳を呼びさまし、弟子のように聞くようにされるというのです。主は先に、「わたしが呼んだのに、だれも答えなかった」と嘆いておられましたが、ここでは主ご自身が私の耳を開(50:5)いてくださるのです。

なお、「それでこの私は、逆らわず、うしろに退きもせず」とは、主のことばに逆らうことも、また臆することもないという意味です。そして、「打つ者にこの背中をまかせ」(50:6)とは、不当な鞭打ちを甘んじて受けること、「ひげを抜く者にこの頬をまかせ」とは、侮辱のしるしとしてひげを抜こうとする者に抵抗しないことです。イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい」(マタイ5:39)と言われましたが、それは侮辱のしるしとしての手の裏で打つ者に対して、刃向かわないようにとの教えでした。そのことが、「侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」という生き方として表現されます。そして、そのように無抵抗でいられるのは、「主であるヤハウェは、私を助ける」(50:7)という保障があるからです。

そして、その主の助けを前提として、それゆえ、私は侮辱されなかった。それで、この顔を火打石のようにしたと記され、その理由がまた、「私は恥を見ることがないと知っているから」50:7)と説明されます。これは、侮辱を感じないように心を麻痺させることではなく、主が私を助け、辱めから救い出してくださることに望みを置いて、苦しみに耐えるという意味です。そのことがまた、「私を義とされる方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、共に立ってみよ。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来い。(50:8)と記されます。

これはたとえば、まわりの人が私に侮辱を加え、罪に定めるような中で、神ご自身が私に、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と語りかけてくださることに、「耳を開く」ということです。私たちが『神の子』とされたという意味は、父なる神からイエスへの愛の語りかけが、罪びとである私への語りかけとなったということです。しかも、そのような声に耳を開くことができるのも、主のみわざに他なりません。ただし、人の声を聞かない者は、神の御声を聞くこともできなくなりますから、私たちが求めるべきことは心を麻痺させることではなく、人からの嫌なことばにも耳を傾けながら、それ以上に、神からの愛の語りかけに耳を傾けることではないでしょうか。

そして、それと同じような意味で、見よ。主であるヤハウェが、私を助ける。だれがいったい私を罪に定めるのか・・」50:9)と言われます。私に敵対する者に対する神のさばきを知っているからこそ、敵のあざけりや迫害に耐えることができるのです。その反対に、主のさばきを信じないからこそ、自分で反撃する必要を感じるのです。

イエスは、ローマ総督ピラトのもとで裁判を受けたとき、祭司長、長老たちからの不利な証言が次々となされたときの様子が、「それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた」(マタイ27:14)と描かれています。イエスはこのとき、このイザヤ50章の主のしもべの歌を、心に思い巡らしていたのではないでしょうか。イエスは、嘘の証言をする者に対する神のさばきを知っておられ、また、神ご自身がイエスを義としておられることを知っていました。また、ユダヤ人の反乱を恐れて不当な判決を下す総督ピラトの臆病さをもよく知っておられました。イエスの沈黙は、神がご自身の傍らにおられることの余裕から生まれています

4.「だれが・・・主(ヤハウェ)を恐れ、そのしもべの声に聞くだろうか」

だれが、あなたがたのうちで主(ヤハウェ)を恐れ、そのしもべの声に聞くだろうか(50:10)とは、私たちすべてに対する問いかけです。先の歌が「主のしもべの歌」と呼ばれるのは、このことばに由来します。私たちもこの主のしもべの生き方に習うように召されているということです。その上で、暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主(ヤハウェ)の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」と勧められます。これは、たとい、「暗やみの中を歩き、光を持たない者」も、イエスを見上げるときに、「主の御名に信頼し、自分の神により頼む」ことができるという意味です。

それと対照的な生き方が、見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。歩いてみよ。自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持ちながら・・・」(50:11)と描かれますが、これは自分の力により頼むものが自滅への道を歩んでいるというアイロニーです。神のさばきは、人に自分の望むままを行わせ、自滅へと導くということだからです。しかし、私たちはイエスの復活を見るときに、この悪循環から救い出されます。そこでは、主が私たちの信頼に答えてくださることを知り、どのような苦しみにも出口があり、どのようなやみも光に変わると信じられます。自分の知恵や力ではなく、主に信頼する者こそが、「恥を見ることがない」からです。

イエスはこのイザヤ書504-9節のみことばを思い巡らしながら、人々からの罵詈雑言に黙って耐えておられました。私たちもその模範に習うように召されています。それは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」(Ⅰペテロ2:22-24)という生き方です。そこにはイエスの沈黙と積極的ないやしのみわざが記されています。イエスはご自分が苦しみを担うことで人を生かしてくださいました。私たちは自分を生かそうとして、人を押しのけ、人を非難してはいないでしょうか。それは自分で頑張ろうと焦って、自分の内側で、自分を非難し、軽蔑するようなことばばかりを聞いていることの結果です。「主であるヤハウェは・・・朝ごとに、私を呼び覚まし・・耳を開かせ」「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4)と語りかけてくださいます。そのことばに耳を開きながら、同じことばを隣人に語りかけたいものです。

自己嫌悪と傲慢は、同じコインの裏表です。私たちは自己嫌悪に陥った反動として、自分は愛されるに値する人間だということを証明しようとして、この世の空しい名誉や富や権力に憧れるようになるのではないでしょうか。

「主であるヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを知るようにさせ」(50:4)という約束をイエスの御霊があなたのうちに成就してくださいます。そしてそれはあなたの耳が朝ごとに呼び覚まされることから始まります。私たちはこの世から受けている価値観と、神の救いのご計画を見分ける必要があります。主を最も悲しませる罪とは、何かとんでもない過ちをしでかすということ以前に、神の愛を忘れることです。主があなたになしてくださった救いのみわざを、また主の期待を忘れることこそが最大の罪です。あなたの前には、新しいエルサレムの祝宴が待っています。世界は喜びの完成に向かっています。イエスを救い主として喜び迎える声は、今も世界中で聞こえています。霊の耳を開いて、それに耳を傾けましょう。イエスはすでに世界の歴史を変えてくださいました。私たちはすでに新しい世界に足を一歩踏み入れています。父なる神は、あなたをイエスの弟、妹と見て、あなたに向かって、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語っておられます。

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2010年8月15日 (日)

ローマ人への手紙11章25-36節 「神の選びがもたらす和解」

                                              2010815

英語で8月はAugust と呼ばれますが、それは皇帝アウグストがこの月にローマ帝国に平和をもたらしたことを

記念したためです。それは、後に、さらに大きな平和をもたらしたキリスト降誕後の年の中で記念される月となりました。私たちもこの8月を過去の過ちを反省し、主にあって平和を祈念する月とすべきではないでしょうか。

ところで、日本人とユダヤ人には意外にも多くの共通点があります。その最も大きなことは、両者ともイエス・キリ

ストの福音に心を閉ざしているということかも知れません。日本のクリスチャン人口は約1パーセント、イスラエルにおけるクリスチャン人口は約0.25パーセント、ちなみにイスラエルの人口は約600万人、アメリカに住むユダヤ人は650万人とされていますが、そのうちのたったの3.7パーセントがクリスチャンであると言われます。

  このような低い比率は迫害の激しいイスラム教国においても見られないほどです。イラン、イラク、エジプトなどのイスラム教国には意外に、どこにおいてもローマ・カトリックよりも古いキリスト教会の流れがあります。迫害がなくなったらクリスチャン人口が爆発的に増えることは間違いありません。つまり、信教の自由が認められている国で最も宣教の困難なのは日本人とユダヤ人なのです。そこに共通するのは民族的な伝統意識です。それはほとんど無意識のうちに根付いています。アメリカでもフィリピンでも、国歌や国旗が驚くほど大切にされますが、日本でもイスラエルでも、それらが必要ないほどに伝統に基づいた常識感覚が根付いているのではないでしょうか。たとえば多くの日本人は、異口同音に、「一神教は排他的である。私たちのように多神教を信じる者は、寛容の心を養っている」などと言います。これを中国や朝鮮半島の方々に、そのまま言ったら、唖然とされることでしょう。

この815日は、日本人の常識感覚が、相撲界の非常識と同じように、世界では通じなかったことを改めて反省すべき日ではないでしょうか。大東亜共栄圏という美名の下に、何という野蛮が正当化されたことか・・・

  聖書ではイスラエルの民のかたくなさがテーマとされています。それは、日本の民にも適用して考えることができるように思われます。ただ、まずは聖書の文脈に立ち返って、イスラエルの救いということを考え、最後に、それぞれの方々が、日本の文脈にそれを置き換えて考えてみると良いのではないでしょうか。

1.新しいエルサレムこそ

宗教改革者マルティン・ルターは私にとってかけがえのない教師ですが、一つ残念に思うことがあります。

ルターは、宗教改革の初めの頃はユダヤ人に対して極めて同情的で、「イエスは生まれつきのユダヤ人であった。」という文書をしたためたほどです。そして彼は、ローマ・カトリックはユダヤ人を犬のように扱い、福音を語ってこなかったから、ユダヤ人は回心できなかった、と主張しました。

ところが、当時のユダヤ人は、宗教改革運動に乗じてキリスト者に働きかけ、ユダヤ伝承を持ち出して土曜安息を守るように教えたり、割礼の儀式を復活させたりして、ルターの改革運動の最も恐ろしい敵対者になってしまいました。

それで彼は、態度を180度転換させ、国の指導者に対してユダヤ人の会堂を焼き払い、彼らの家を壊し、商取引から締め出す法律を作るように促しました。彼の最後の説教は、ユダヤ人の国外退去令をドイツの領主に勧めることでした。残念ながらそれは、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の根拠とされてしまいました。

第二次世界大戦が終わった二十世紀後半からは、その反動もあって、アラブ人に大きな犠牲を強いてでもユダヤ人を守ろうという動きが強くなります。そればかりか、エルサレム神殿の文字通りの復興が必要との見方さえ出てきます。

その際によく引用されるみことばが、「こうして、イスラエルはみな救われる」(ローマ1126)です。そのように理解する人々は、イスラエルの民には異邦人とは別の救いの計画があると主張します。そして、その一プロセスとして、1948年のイスラエル建国があったと解釈します。結果、「現在のイスラエル国家をアラブ諸国の攻撃から守ることこそキリスト教国アメリカの使命である」などの主張も生まれるのです。

しかし果たして、エルサレムのイスラム寺院を壊してエゼキエル預言の神殿を建てる必要があるのでしょうか。と言うより、イエスの時代のヘロデの神殿は、外庭、内庭、聖所という分離の構造を見る限り、エゼキエルの設計図を参考にして作られていたと解釈できるのではないでしょうか。

つまり当時の人々は、救い主が、ヘロデの建てた不完全な神殿をエゼキエルの預言通りのものに完成してくれると期待していたのです。しかしイエスは、ご自身の十字架と復活でそれを成し遂げてくださいました。(ヨハネ2・19参照)これを本当に理解するなら、目に見えるエルサレムの支配を巡ってアラブ人と対立する必要はありません。私たちの希望は、新しいエルサレムが天から下ってくることなのですから。

ところで、ユダヤ人は福音の敵となっているという見解と、神はユダヤ人を愛し、特別な計画をお持ちであるという見解は、互いに相容れないものなのでしょうか。不思議にもパウロは、その両面を受け入れるように、「彼ら(ユダヤ人)は、福音によれば……神に敵対している者ですが……選びによれば……愛されている者なのです」と言いながら、「神の賜物と召命は変わることがありません」と論じています(ローマ112829)。そしてこれは、ローマ人への手紙全体に流れる思想とも言えます。彼らは神の敵であり、同時に神に愛されている者です。

これは、あなたの身近な家族にもそのまま適用できる表現ではないでしょうか。あなたの大切な方は、神に敵対している者かもしれませんが、同時に、あなたがたの家族であるということのゆえに、神に特別に愛されている方々なのです(Ⅰコリント7:14参照)

2.聖霊によって救われる

手紙を読むというのは、電話の会話の一方だけを聞いて全体を想像するようなものです。この手紙の解釈は、その背景をどのように理解するかによって変わってきます。

この手紙を受けた当時のローマ教会は、たぶん70人から80人程度の信徒が集う歴史の浅い教会でした。紀元49年頃、皇帝クラウオデオの勅命でユダヤ人がローマから追い出されており(使徒18・2)、教会では聖書のヘブル語を理解する人は非常に少なかったことでしょう。

ところが皇帝が変わると、ユダヤ人のローマへの帰還が許され、この教会にもユダヤ人が急増します。その中で、ユダヤ人キリスト者に対する批判が大きくなり、このような手紙を書く必要が生じました。つまりこの手紙は、ユダヤ人とユダヤ人を通して与えられた旧約聖書を異邦人に受け入れさせることを第一の目的にしているのです。

そのことは特に、14章1節の「信仰の弱い人を受け入れなさい」という勧めに表されています。それは、食物律法(コーシェル)や古来の祭りの習慣を守り続けるユダヤ人キリスト者を受け入れることの勧めです。そこでパウロは、クリスチャンにはそれらを守る義務はないことを明確にしつつも、ユダヤ人の慣習を尊重するように勧めます。それは、ユダヤ人と異邦人が共に暮らして行けるための具体的な指針になりました。

それと同時に、それは旧約聖書の中心的な教え(律法)をどのようにクリスチャンが受け止めたらよいかを考えさせる契機にもなりました。

そしてパウロは、その話をする前に、律法が与えられたモーセの時代からはるかにさかのぼって、神がアブラハムを召してくださった原点にまで立ち返って、福音を再確認しようとしています。

昔から、ローマ書の中心テーマは1章17節の「福音のうちには、神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」というみことばにあると言われてきました。

それは、聖書に記された「神の義」、すなわち「ご自身の契約に対する正しさ、真実さ」が、私たちに信仰を生み出し、信仰を完成に導くという意味です。それはアブラハムの物語に明らかです。神は不信仰なアブラハムに信仰を与え、その信仰を成長させてくださいました。

そのことはまた、4章5節で「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」と記されます。私たちは、不信心な者にご自身の真実を示して、信仰を芽生えさせてくださる方を信じるのです。私たちのうちに与えられた信仰こそ、神の真実の最高の証です。

  私は神経症の傾向があるせいか、「信仰によって救われる」と言われると、「では、どの程度の信仰があれば救われるのですか…」と問いたくなったことがありました。そればかりか、神学校に入ったとき、すばらしいお証しを聞きながら、「自分のような不信仰な者が牧師になってよいのだろうか…」と落ち込みました。

そこでその悩みを校長先生に相談しました。するとその先生は、「あなたはみことばを聞いて、感動したことがありますか?」と聞いてくれました。僕は、「もちろんです。だからこそ、ここで学びたいと思ったのです」と答えました。先生は、「それで十分ではないですか。あなたは神にとらえられて、ここにいるのですよ」と語ってくださいました。

神のみわざは、不信心な者に信仰を生み出し、その信仰を義と認めてくださることに現されています。それこそ聖霊のみわざです。

その上でパウロは、7章で律法を弁護しながら、「律法は聖なるもの……律法が霊的なものである」1214)と語っています。だからこそ、律法は、アダムの子孫のままでは全うすることができず、「キリストの霊」、「聖霊」によって初めて全うできると言うのです。

そして8章9節では、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と、キリストの霊を持たないクリスチャンなど存在し得ないと言います。つまり、人は自分の信仰心によってではなく、創造主である御霊の働きによって救われるのです。

聖書によれば、私たちはみな、神の霊を宿している者、キリストの霊を宿している者なのです。そこでは、人種や国籍、性別の違いなどは、大きな問題にはなりません。

私は自分を、「創造主である聖霊を宿している者」として見直すことができたとき、深い感動を覚えました。人の目から自由になれる気がしました。そこでは、一人ひとりの個性が神に豊かに用いられて行きます。

3.「イスラエルはみな」の意味

 そしてパウロは、9章から11章で、「神の選び」について議論を展開していくのですが、それに先立ち、「肉による同国人」の救いのためになら、「のろわれた者となることさえ願いたい」とまで言います(9・2、3)

 にもかかわらず、同国人が救われないことを見て、「事は人間の願いや努力によることではなく、あわれんでくださる神による」(9・16)と悟ります。これは、パウロの情熱に反してユダヤ人の心がますます「かたくなになっている」という現実を見て生まれた告白です。

なお、彼は、神がイスラエルの人々の心をかたくなにした理由を、それによって異邦人に救いがもたらされるためであったと言います。同時に、異邦人の救いによって、「イスラエルにねたみを起こさせ」(1111)、彼らを回心させると説明します。

たとえば、ギリシャ人のような異邦人が旧約聖書を喜んでいるなら、それを見たユダヤ人は、ギリシャ人がユダヤ人以上に聖書の教えの真意を理解していることにあわて、「ねたみ」を覚えることでしょう。そのような健全な「ねたみ」は、ユダヤ人をなお一層、旧約聖書に向かわせます。事実、ユダヤ人は今も、イザヤ書53章などの主のしもべの歌に真剣に向き合うことで、イエスこそ救い主であると気づきます。

その上でパウロは、異邦人がユダヤ人に向かって高ぶることがないようにと戒めています。私たちはユダヤ人の歴史があって初めて、神の救いのご計画がわかるからです。そのような説明の後に、パウロは、神のご計画の「奥義」「イスラエル人の一部がかたくなになったのは、異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる(112526)と明かします。

文脈から見て「こうして」とは、まずユダヤ人の心をかたくなにし、異邦人に救いをもたらし、ユダヤ人に「ねたみを起こさせる」という神の不思議な救いのプロセスを指しています。また、「イスラエルはみな」とは、すべての肉のイスラエルの子孫を指すとは限りません。そのことをパウロは、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく」(9・6)と言っています。神の選びによる、真の意味でのイスラエルのみが救われるのです。

これは、基本的に、「主(イエス)の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです」(1013)の言い換えに過ぎません。ここでの「だれでも」とは、ギリシャ語では「すべて」と書いています。つまりここでは、すべてのイスラエルが、イエスを主と告白することによってのみ救われるという当然の告白が記されているのです。

なお興味深いのは、パウロがその論拠として引用したのはイザヤ書5920節のみことばですが、パウロはそれを、キリストの救いの観点から大胆に言い変えています。それは、イエスこそ主であり、またヤハウェであるという福音がエルサレムから全世界にもたらされ、その結果として、ユダヤ人の不敬虔を取り払うというプロセスです。

続く引用もエレミヤ書313234節につながりますが、そこでは、「新しい契約」のことが記され、石に刻んだ律法ではなく、聖霊によって律法が心に刻まれ、彼らが心から主を知ることになると記されています。つまり、パウロが引用した「彼らの不敬虔を取り払い……彼らの罪が取り除かれる」112627)という救いは、イエスと聖霊によって成就するのです。

ですから、聖霊によってイエスこそ主であると告白して救われるというのは、異邦人ばかりか、すべてのユダヤ人に本来予定されていた救いなのです。その意味で、ユダヤ人と異邦人の救いの方法は何も変わりがありません。ただ同時に、神ご自身が、異邦人に救いをもたらすために、一時的に、ユダヤ人の心をあえてかたくなにしたという意味で、逆説的にユダヤ人は神に特別に覚えられているのです。

4.和解の福音

パウロは、ユダヤ人の心がかたくなにされているのは異邦人の世界に福音が広められるためであると強調します。確かに、ユダヤ人が自分たちの律法解釈を持ち出して食べ物のことや日の守り方などを指導するなら、多くの異邦人は、イエス・キリストに出会う前に聖書の教えに拒絶反応を示してしまうことでしょう。

しかし、救いはユダヤ人から始まっており、キリストの十字架の奥義は、何よりも異邦人とユダヤ人が和解できるということにありました。それをパウロは別の手紙で、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、様々な規定から成り立っている戒めの律法なのです。」と言いつつ、それによってキリストは異邦人とユダヤ人を「新しいひとりの人に造り上げる」と記します(エペソ2・1415)。これは現代的には、日本人と韓国人、黒人と白人がキリストにあって「ひとりの人に造り上げられる」こととして適用できます。

「神の選び」は、私たちを謙遜にする教えです。そのことをパウロは1132節で、「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じこめられたからです。」と言っています。

私たちは、自分の知恵で真理を掴み取ったのではありません。なぜなら、私たちは生まれながら神に不従順だからです。私など、信仰の決心ができたのは、二十歳の頃の米国留学中にクリスチャンの女性に恋をしたことが最大の契機になっています。神は、理屈好きの私を謙遜にするためにそうされたのです。

パウロはこれらの最後に1136節で、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」と閉じます。信仰は、神から出て、神によって保たれ、神に向かいます。私たちのうちに芽生えた信仰こそ、神のみわざの現れです。

そして、私たちが心の底から、すべてを神の恵みと受け止めるなら、人と人との和解が生まれます。

パウロはユダヤ人と異邦人の和解のためにいのちをかけました。この手紙を書いた後、彼は異邦人から集めた献金を携えてエルサレムに上り、ユダヤ人キリスト者を助けようとしましたが、それによってイエスを信じないユダヤ人から命を狙われ、牢に閉じ込められました。しかし神は、そのわざわいを益に変えてくださいました。彼は、裁判を待つ囚人としてローマに護送され、この手紙で願っていた通りに、ローマの信徒たちに会うことができました。

私たちはパウロによる「神の選び」の教えを彼の情熱とセットで解釈する必要があります。彼は異邦人に伝道しながら、いつも、ユダヤ人に「ねたみを起こさせ」(1114)、彼らが福音に心を開くようになることを切に願っていました。しかし彼は、異邦人とユダヤ人の和解をもたらすプロジェクトを全うしようとして反対に投獄されてしまいました。それは、彼がユダヤ人の「ねたみ」をその身に引き受けたからです。

私たちも同じように、人と人との和解のために、自分の身を差し出すことが求められているのではないでしょうか。自分の正義を主張して戦ってはなりません。そのことが伝道者の書7章16節では、「正しすぎてはならない」と記されています。神の選びの教えこそ、私たちを真の意味で謙遜にし、人と人との和解を導くものなのです。

「イスラエルはみな救われる」とは、決して「外見上のユダヤ人」(2・28)がみな、終わりの日に自動的に救われるという教えではありません。と言うより、旧約の民にとっての「救い」とは「約束の地」を平和のうちに占領できることを意味しました。それができなかったのは、彼らの「罪」のためでした。しかし、イエスはイスラエルの王としてその罪を担い十字架にかかってくださいました。それによって彼らは、あの狭いパレスチナの地ばかりか、「全世界」を、異邦人と一体の「キリストとの共同相続人」(:17)として、相続することになりました。

全地は新しい神の民の前に開けています。イエスに出会ったユダヤ人は、争いに満ちた中東世界に平和をもたらす民となることでしょう。なぜなら、彼らは「キリストとの共同相続人」として、目に見える約束の地の相続という視点から自由にされるからです。そればかりか、彼らはユダヤ人から全世界に神の民が広がったことに健全な誇りを抱き、狭い民族主義から自由になることができます。

日本人はかつて、血筋による民族の誇りを正当化してアジアの覇者になろうと戦争を引き起しました。ユダヤ人も、自分たちの血筋でパレスチナの地の占領を正当化するなら、同じ悲劇が待っていると言えないでしょうか。

旧約聖書はイスラエルに対する最高の「賜物」であり、彼らへの「召命」の書ですが、そこには彼らが「世界の光」として、神の一方的なあわれみを謙遜に分かちあうという使命が記されています。そこには本来、アラブ人との和解が生まれるべきはずなのです。そして、イエスこそは、真のイスラエルの王として、民族の和解を生み出して下さる方です。

私たち異邦人も、ユダヤ人から「ねたみ」を感じられるぐらいに、真剣に旧約聖書に向き合う必要があるのではないでしょうか。そして、異邦人クリスチャンが謙遜に、本来イスラエルの民に向けて記されていた旧約聖書を心からの感謝をもって受け止めるとき、その読み方も変わってくるのではないでしょうか。

神の救いのゴールは、「新しい天と新しい地の創造」です。そこでは、神の平和(シャローム)が全世界に満ちます。それこそ旧約聖書に記されたユダヤ人の夢であり、私たちの希望です。ユダヤ人も異邦人もすべて、神の一方的なあわれみと選びによって神の民とされました。そこには常に、神の平和を世界に広げるという使命がセットになっているのです。神はあなたを平和の使者にするために、日本人の中から選び出してくださったのです。

イエスは、ローマ帝国への独立運動に燃えているユダヤ人たちに驚くべきメッセージを語りました。彼らは当時、圧倒的なローマ軍に向かって、イスラエルの山々に身を隠しながら、現代のアラブのテロリストがやるように、いのちがけで剣を振り回していました。それに対してイエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたに一マイル行けと強いるような者とは、いっしょに二マイル行きなさい」(マタイ5:39-41)という途方もないことを言われました。これは、力に力で対抗するという復讐の連鎖によって、争いがエスカレートする状態を避けるための知恵でもありますが、それ以上に、ここには、神ご自身がこの世界の王として支配しておられるという認識がありました。

そのことをパウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:31,32)と言いました。私たちには、御子といっしょにこの地のすべてのものを受けるという約束が与えられているのです。これは、たとえば、たとい一千万円を騙し取られても、百億円の相続財産が約束されているというようなことを意味します。

これは非現実的な教えではありません。今から二千年前のユダヤ人はこの教えを非現実的とあざ笑って、ローマ帝国に武力で対抗した結果、国を失い、二千年間の流浪の民となりました。しかし、もし彼らがイエスの教えに耳を傾けていたとしたら、彼らは世界中のキリスト者の兄のような存在として、富と名誉にあずかり、平和に暮らすことができたはずなのです。

しかも、残念なことに、今も、イスラエルという国は、アラブのテロリストと、目には目を、歯には歯をどころか、ひとりのユダヤ人のいのちには百人のアラブ人のいのちを奪うという報復によって約束の地を支配しようとしています。しかも、多くのアメリカの保守的な信仰者が、聖書の読み方を誤って、そのようなイスラエルを支援し続けています。それに対し、戦争の悲惨さを誰よりも知る日本のクリスチャンこそ、聖書の正しい読み方をまわりの人々のやさしく分かち合ってゆくべきではないでしょうか。

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2010年8月 1日 (日)

イザヤ48:12-49:13 「あなたの平安は川のようになったであろうに」

                                            20108月1日

 多くの人々は、天国の祝福よりも、地上の歩みにおける平安を求めています。そして、不思議にも、旧約聖書では、死後の希望に関してはほとんど記されていません。そこには、地上的な、苦しみと「平安」のことが書いてあります。そして、それは実は、新約にも一貫していることでもあります。聖書はこの世の人に向けての書なのです。

最近、現実の生活でのストレスに関して考えさせられたことがあります。私たちの人生にはストレスの種が満ちています。しかし、たとえばナチスの強制収容所という想像を絶するストレスを体験したユダヤ人女性の29%が、更年期になっても何の情緒的な障害にも陥らず健康を保ち続けたという統計があります(普通の女性では51%が更年期でも健康を保つ)。つまり、激しいストレスが病気を生み出さない確率も極めて高いというのです。また、たとえば、抑うつ傾向のある人はそうでない人に比べ癌になる確率が二倍も高いという統計がありますが、それでもその癌死亡率は7.1%で、抑うつと定義された人の93%弱はストレスが癌を生むというわけではありません。

最近の風潮は、ストレスの種を避けることやストレスを発散することへと人々の目を向けますが、もっとストレスを受け止めることができる人間の生き方の方に目を向けた方が良いのではないでしょうか。確かに、感受性の豊かな人は、ストレスに弱いという場合があるかもしれませんが、鈍感な人はまわりにストレスを与えている可能性がたかいのですから、心が鈍くなることを求めてはなりません。最近の研究によると、ストレスに対処する力というのは、その人が、自分の人生を基本的にどのようなものとして見ているかによって決まると言われます。その点からすると、創造主との自由な交わりのうちに生きられる人は、すばらしい特権を持っています。人には明日のことはわかりませんが、私は明日を支配する神を知っています。私たちはどんなに弱くても、私の神には不可能がありません。私たちの人生には、「何で私ばかりがこんなひどい目に・・・」と思うようなこともありますが、私の神は、それらすべてを益に変えてくださるという確信を持つことができます。私たちの目の前からは、ストレスの種になることは尽きることがありません。しかし、私たちは神の不思議なみわざを、多くの場合、困難の中でこそ感動し、感謝できます。聖書では、天国への憧れというよりは、私たちの人生のゴールのことが記されています。それが祝福に満ちているということを確信できる者には、人生の様々なストレス要因は、冒険の機会とさえ映り得るのではないでしょうか。

「あなたの平安は川のようになる」という約束は、この地上で体験することができる祝福なのです。

1.「わたしが、このわたしが、語り、そして彼を呼んだのだ」

神はイスラエルの背きの罪に対して激しい苦難を与えましたが、それは彼らを反省させ、神に立ち返らせるためでした。しかし、それは、「イスラエルの神は、自分の民を守ることができない・・・」と誤解される可能性も秘めていました。また、神の民でさえ、目に見えない神の代わりに、ペルシャの王クロスをあがめる可能性がありました。

それに対して主は、わたしに聞け。ヤコブよ。 わたしが呼び出したイスラエルよ。 わたしがそれだI am He。 わたしは、初めであり、また、わたしは、終わりである」(48:12)と言われます。これは、4310節、446節を合わせたみことばで、(ヤハウェ)こそが歴史の支配者であることを改めて強調する表現です。それに先立ち、主はまず、まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした。わたしが、それらに呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる」(48:13)と、ご自身がこの世界を自由に動かすことのできると強調します。私たちはこの目に見える世界が、神のひとことの呼びかけで簡単に動くということをどれだけわきまえているでしょうか。

その上で主は、「みなともに集まり、そして、聞け。だれがこれらの事を告げたのか」(48:14)と言いながら、ご自身の奇想天外な救いのみわざを語られます。それは、「主(ヤハウェ)は彼を愛された。彼が主のみこころをバビロンに行う。主の御腕はカルデヤ人に向かう」(48:14)というものです。それは、主がペルシャ王クロスを用いてバビロンを滅ぼすことを意味します。そして、主は、わたしが、このわたしが、語り、そして彼を呼んだのだ。彼をわたしが来させた。彼はその道で成功を収める」(48:15)と、主ご自身がクロスに勝利を与えると言われます。

 そして、主は、「わたしに近づいて、これを聞け。初めから、隠れた所で語ってはいない。それが起こった時から、わたしはそこにいた」(48:16)と、クロスの勝利は、神がご自分のみわざを預言したことの成就であると言われます。歴史は神の預言が成就する過程なのです。預言者はかつて、「まことに、あなたはご自身を隠す神」と告白していましたが(45:15)、その神がクロスを立てるのはご自身であることを、これが起こる前から告げておられたというのです。それは預言者によって明らかにされました。それでイザヤは、「今、主、ヤハウェは私と御霊を遣わされた」と敢えて、これがご自身を隠す神による特別の啓示であることを強調しています。なお、『私』をイエスに当てはめると、父なる神が御子と御霊を遣わされたという三位一体の神秘を表しているとも解釈できます。

.「わたしの命令に耳を傾けさえすれば・・・」

そして17節の初めは、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」と記され、十のことばの初めのことばと同じで、天地万物の創造主があなたにとってのパーソナルな神となってくださったことを意味します。「あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道に導く」とは、私たちが右か左の選択に悩むときに、どちらが良いかが示されるというよりは、日々の生活において何を優先するかという導きです。そして、「わたしの命令に耳を傾けさえするならば・・」とありますが、それは、何かの具体的な義務を果たすというより、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛する」(申命記6:5)という心のあり方を指しています。それは戒律で自分を窮屈にするということではなく、それぞれの自由にゆだねられた極めて創造的な、いのちの喜びが満ち溢れるような生き方です。

そして、そのように生きるときの祝福の生活のことが、「あなたの平安は川のように、あなたの正義は海の波のようになったであろうに・・・」と約束されています。「平安」とは原語でシャロームと記され、平和ということ以上に繁栄とか「しあわせ」とも訳すことができ、すべての必要が満たされている完全な状態を指します。また、「正義は海の波のようになったであろうに」とは、誰にも屈する必要のない力を現わします。神はかつて、「義は平和をつくり出し・・」(32:17)と言っておられましたが、正義と平安は切り離せない関係にあるのです。

そして、その祝福がより具体的に、あなたの子孫は砂のように、あなたの中から出る者は真砂のようになったであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに」(48:19)と描かれます。これは、神が一人子のイサクを惜しまなかったアブラハムに、「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう・・・あなたがわたしの声に聞き従ったからである」と記されています(創世33:17,18)。聖書が語る「祝福」とは、極めて現実的な身近なことを意味しました。

3.「彼らは渇くことがなかった」

その上で、「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。歓喜の声をあげて、これを告げ、聞かせよ。地の果てにまで届かせて、言え。『主(ヤハウェ)が、そのしもべヤコブを贖われた』20節)という訴えは、神がクロスを通してイスラエルをバビロン帝国のくびきから解放することに対して、喜びをもって応答するようにとの勧めです。聖書が示す第一の救いは、出エジプトのできごとです。そして、バビロン帝国からの解放は第二の出エジプトです。

第一の「出エジプト」のときは、彼らはモーセに率いられてまとまって約束の地に向かいましたが、この「出バビロン」の際は、それぞれの自主的な判断に任されていました。「住めば都」と言われるように、彼らはバビロンにおいて生活の基盤を作っていましたし、ペルシャ帝国による少数民族保護政策によってかなりの自由が与えられたからです。彼らの居住地はアブラハムの出身地にウルに極めて近い所です。主は、アブラハムに語りかけたように、イスラエルの残りの民に向かって、心地よい住まいを離れて、約束の地に向かって旅をすることを勧めています。

そして、第一の出エジプトのことが、彼らは渇くことがなかった。主がかわいた地を通らせたときも、彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた」(48:21)と思い起こされ、その時と同じように今度も、神は約束の地への旅を祝福すると保障されます。これは従ってみて初めて体験できる「祝福」です。

そして、最後に、「『悪者には平安(シャローム)がない』と主(ヤハウェ)は仰せられる」(22)と記されますが、これは先の、「あなたの平安は川のようになるであろうに(48:18)との対比で記されています。これは、48章全体のまとめのことばと言えましょう。私たちは主の友と呼ばれたアブラハムの原点に立ち返るように常に召されているのです。

4.「私の神は、私の力となられた」

491-6節は、421-9節に続く、第二の「主(ヤハウェ)のしもべの歌」です。これはキリスト預言として読むことができますが、それ以前に、イザヤをはじめ主の働きに召されたすべての「主のしもべ」に適用できます。

この書き出しは、原文で、「聞きなさい、島々よ。私に。耳を傾けなさい、遠い国々の民よ」となっています。全世界に向かって、「私に聞け・・」という書き出しは極めて異例です。その根拠としての主の一方的な選びのことが、主(ヤハウェ)は、胎内にいるときから私を呼び、母の中にいる時から私の名を覚えておられた」(49:1)と描かれます。そして、選びは常に使命と結びついていますが、そのことが、「主は私の口を鋭い剣のようにして御手の陰に退かせ、私をとぎすました矢として矢筒の中に隠した」(49:2)と描かれます。彼は、世の人々が決して耳を傾けたいと思わないメッセージを取り次ぐという厳しい仕事に召されていましたが、彼は主にいつでも必要に応じて用いていただけるように、主の武具として待機しているというのです。そして、主はこの人をイスラエルの代表と見た上で、「あなたはわたしのしもべ」と呼びかけ、「イスラエル。あなたのうちにわたしの光栄を現す(49:3)と語りかけます。

しかし、それに対して、彼は、「私はむだな骨折りをして、不毛に、むなしく力を使い果たした」(4節)と、自分の気持ちを正直に表現します。それは、人々が自分の話に耳を傾けないどころか、不当な仕打ちで応答してくるということがあるからです。これは、イエスご自身が体験された葛藤です。ただ、その直後、「それでも、私のさばきは、主(ヤハウェ)とともにあり、報酬は私の神とともにある」と、主への信頼を告白します。主に向かって正直な気持ちを告白した直後、主への信頼のことばが発せられるというのは詩篇の祈りの基本的なパターンです。

「今、主(ヤハウェ)は仰せられる」とは、この「私」という「主のしもべ」に託された働きのことです。そして、この方は、私を胎内にいる時にご自分のしもべとして造られ」たというのです。彼に課せられた働き、それはモーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したように、主は彼を用いて地の果てに散らされたイスラエルを「ご自分のもとに帰らせ・・ご自分のもとに集める」(49:5)ということです。クロスはイスラエルの民をバビロンから解放し約束の地に戻しましたが、主のしもべは、イスラエルの民を主のもとに立ち返らせるという真の信仰の回復をもたらすのです。その働きを全うすることができたのは、主ご自身の導きであったということが、(ヤハウェ)の目に私は尊ばれ、私の神は私の力となられた」(49:5)と記されます。これは私たちへの語りかけでもあります。なぜなら、この表現は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」(43:4)と基本は同じだからです。

そして、その働きのことが、まず、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせることは、まだ小さいことに過ぎない」と述べられます。これはモーセの働きに匹敵しますが、主のしもべは、それよりはるかに大きな働きをするというのです。そのことが、「わたしはあなたを諸国の光とし、地の果てまでのわたしの救いとしよう」(596)という世界全体を主(ヤハウェ)のもとに立ち返らせることにまで及ぶと描かれます。イエスご自身が、「ここに私の使命が記されている・・」と確信して十字架への道を歩まれたと言えましょう。イスラエルの民は、「世界の光」として召されながら、それに失敗しました。それで主は、ひとりの「しもべ」を立たせ、彼をイスラエルの代表者とし、彼のうちにご自身の「光栄」を現したばかりか(3)、彼によってイスラエルの残りの民をご自身のもとに回復し、そして、彼を用いて、世界をご自身のもとに回復させるというのです。

この第二の「主のしもべの歌」は、その最初と最後に、世界のことが記され、このしもべをイスラエルの代表者としている点で、これほど力強いキリスト預言はないと言えましょう。私たちはイエスが、イスラエルの王であるとともに世界全体の救い主であることを告白していますが、そのことがここに記されています。イエスご自身がこの歌の不思議を何度も味わいながら、ご自身に対する主のみこころを確信したのではないでしょうか。

そして、この「主のしもべ」は、キリストの弟子である私たちすべてに適用できることでもあります。イエスは復活の後、弟子たちに現れ、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われながら、「聖霊を受けなさい」と、聖霊を授けてくださったからです(ヨハネ20:21,22)

5.「地を復興し、荒れてしまったゆずりの地を継がせよう」

497節は原文で、まず、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」と記され、その方が「イスラエルを贖う方、その聖なる方」と紹介され、その方が語りかける対象が、「人にさげすまれているたましい、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってとして紹介されます。これは、「主(ヤハウェ)のしもべ」、つまり、預言された救い主の姿に他なりません。それは、後に、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(53:3)と描かれる主のしもべの姿です。そして、イエスご自身も、取税人、罪人、遊女の仲間と呼ばれました。

ただ、その直後に、「王たちは見て立ち上がり(尊敬の起立)、首長たちもひれ伏す。それは、真実なる主(ヤハウェ)のゆえであり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだから」という不思議な展開が見られます。これは、人々からさげすまれ、忌みきらわれている「主(ヤハウェ)のしもべ」が、主(ヤハウェ)の真実によって、この地の王たちを従える者とされるという意味です。そして、イエスは今、「王たちの王、主たちの主(黙示19:16)と呼ばれています。

8節からも主(ヤハウェ)が、そのしもべに向けて語ることばで、「恵みの時に、あなたに答え、救いの日にあなたを助けた。あなたを見守り、民の契約とし、地を復興し、荒れてしまったゆずりの地を継がせよう」という約束です。イエス・キリストは「民の契約」として十字架にかかり、神と民との関係を真の意味で回復してくださいました。

そして、主がかつてダビデのもとにイスラエルの民をまとめたように、主ご自身がこの「主(ヤハウェ)のしもべ」のもとに、「地の復興」「荒れてしまったゆずりの地の所有」という回復をもたらしてくださいますが、それと並んで、主は、彼を通して、「捕らわれ人の解放」「やみの中にいる者の回復」という救いをもたらしてくださるというのです。そのことが、捕らわれ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者に『姿を現せ』と言う」(49:9)と描かれます。これらは、レビ記25章に記されているヨベルの年、五十年毎のすべての神の民に対する解放の宣言に相当します。この年に、イスラエルの土地は休耕されて地の復興が計られ、すべての民がそれぞれの主から与えられた所有地に戻り、奴隷は解放され、姿を隠していた人が借金を免除されて堂々と人々の前に現れることができました。

多くの人々は、親から受け継いだ様々な負の遺産を受け継いで、様々なハンディを背負いながら、グローバライゼーションという世界一律の市場競争に駆り立てられています。そこでは、豊かな人はますます豊かに、貧しい人はますます貧しくならざるを得ないという現実が見受けられます。人間は決して、平等ではありません。しかし、そのような現実の中で、ヨベルの年の教えは、五十年ごとに、人々を、主が最初に与えてくださった土地の分配という原点に立ち返らせてくれるものでした。戦後の日本の経済成長の影に、マッカーサー元帥の強力な指導による農地解放、財閥解体がありました。小作人はただ同然で農地を所有することができ、中小企業も財閥の金融支配から解放されることができました。これはすべての政策の背景に、このヨベルの年の精神がありました。

イエスがもたらしてくださった罪の赦しとは、あらゆる負債の免除を告げるこのヨベルの年をもたらすものです。神の前での負い目がすべて取り消され、神がひとりひとりをご自身の子として、神の国の富を保障してくださいました。神に祈り求めるなら、神はあなたの必要の一切を満たしてくださいます。使徒ヤコブは、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」(ヤコブ4:3)と言いました。またパウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と言いました。あなたには、創造主である神の御霊が宿っています。あなたの目の前には、様々な障害が満ちています。邪魔をしてくれる人も後を絶ちません。しかし、この世界すべてを支配しておられる方が、あなたに徹底的に寄り添ってくださるのです。

そして499節cから12節の表現は、「主(ヤハウェ)のしもべ」が治める新しい神の国に向かって世界中から集められる様子が描かれています。そのとき、民は、敵を恐れることもなく家畜を放牧しながら、裸の丘すべてが牧場となるのを見ながら、飢えることも渇くこともなく熱射病になることもなく約束に地に向かいます。それは「彼らをあわれむ者」である主(ヤハウェ)ご自身が、「彼らを導き、水のわく所に連れて行く」からです(10)。しかも、その際、民の帰還を阻む山々もなくなります。12節には、神の民が東、北、西、南から集められる様子が描かれています。

私たちもこの地上では天の故郷に憧れる旅人であり寄留者です。しかし、主がともにいてくださるという確信に満たされるなら、困難も成長の糧、祝福のみなもとと見えてきます。その旅の途上は楽しい旅路となります。たとえばグランドキャニオンは、水のない渇いた荒野ではありますが、人々はその美しさに感動することができます。私たちの人生の旅路も、不安の連続と取るのか、刺激に満ちた冒険の連続と取るのか、それが問われています。

天よ。歓喜せよ。地よ。喜べ。山々よ。歓喜の声をあげよ。主(ヤハウェ)がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ」(49:13)という呼びかけは、「主(ヤハウェ)がご自分の民を慰め・・・あわれまれる」というイスラエルの救いをもとに、全被造物が主を賛美する様子を描いたものです。神の救いは、決して、人間だけに対しての福音ではありません。あらゆる動物も植物も、全被造物が神の救いを喜ぶようになるというのです。

 「あなたの平安は川のようになったであろうに」とは、私たちに反省を促す言葉です。しかし、私たちがどんなに神の前に正しく生きようとしても、目の前にはいつも、問題を引き起こしてくれる邪魔者がいます。せっかくの善意を悪意に取る人がいます。この世には残念ながら、正直者が馬鹿を見る、弱肉強食の現実があります。そのような中で、ふと、私たちは、「むだな骨折りをして、不毛に、むなしく力を使い果たした」と思えるような失望のときが必ず来ます。しかし、それは、イエス・キリストご自身がすでに味わってくださった歩みです。神は、そのようにむだに労したと思えるような人を用いて、新しい祝福の世界を開いてくださいました。あなたの苦しみにも同じような意味があります。神はあなたの労苦を決して無駄にはなさいません。神はそれを、この世界を完成に導くための一里塚にしてくださいます。天と地の歓喜の世界に私たちは向かっているということをいつでも心に留めましょう。

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